2009/07/03/Fri
「平成元年に刊行された「落第生の履歴書」は、主に遠藤周作の幼年時代や学生時代の思い出をエッセイ調におもしろおかしく描いたものであり、そのほかに文学者仲間についての雑感や知人についての愛情こもった逸話によってまとめられた、遠藤の著作のなかでもとくに気楽に読める類の愉快な一冊に分類されるかなって思う。遠藤というと、これはこの作家によく慣れ親しんだ人にとっては意外でもなんでもないかもしれないけど、この人はあんまり学校での勉強が得手じゃなかった人で、大学受験にも‥といっても遠藤の時代は旧制高校のあったころだから、現代でいう大学受験とはほとんど仕組みは異なってるのだよね。乱暴な比較がゆるされるなら、当時の大学はだいたい現在の院生くらいに該当するって思えばいいのかな? 単純な比較ができないだけに、遠藤の話もあるていど懐古的な色彩を伴って思われてきちゃうのは、ある意味しかたないことではあるのかな‥そうとう苦労重ねて浪人の末に入学したって人で、作家としてそれなり立派な栄誉を克ち得てはいるけれど、でもその背景には遠藤という人にはあまり世間には開陳できなかった苦労があったってみていいのじゃないかな。たとえば遠藤のお兄さんはかなり優秀だった人らしく、遠藤は兄に対して劣等感と同時に相応の尊敬に似た羨望ももってたみたいで、その感情はなかなかかんたんでないものがあったのでないかなって気がするし、さらには遠藤にとってたぶん子ども時代もっとも大きな問題であったろうその母との関係性は‥遠藤のお母さんは熱心なキリスト教信者であって、彼女の手引きで遠藤もその宗門に入るのだけど、若かったころの遠藤があまりまじめな信徒でなくて周囲から迷惑がられてたって話は、遠藤のほかの著作からも十分うかがわれることであった‥本書においてはほとんど語られてないけど、でもそれとなく予想される箇所は、だいぶあったのじゃないかなって、私には感じられた。だからそういった観点からも、この書はけっこう興味を惹かせられるものがあるってことは、たしかにいえることじゃないかな。」
「遠藤がそうとう手に負えない子どもだったということは、種々の書籍からも存分に感じられることであり、本書の興趣あふれる点は遠藤がそのことを内実共にあけすけに自分みずから語っている点に求められるのでしょうね。もちろん齢を重ねた遠藤の言葉であるから、その思い出話にもある一定の距離を感じさせる、自分の過去をそこにまつわりつく感情や情緒はそれとして横においてふれることができるという、ある種のゆとりを感じさせられる語り口ではあるけれど、しかしそのさまざまなエピソードの背景にあるだろう記憶には、ほかの諸作品でもふれられた遠藤の直の思いといったものが、ときおりふと思い浮ばられるのだから、本書はなかなかどうして一筋縄では行かないのかもしれないかしらね。ま、遠藤の人となりとその人生語りを緩やかな調子で聞きたいといった者にとって、本書はまさにおあつらえ向きといったところなのでしょう。気軽な筆致に透けて見える遠藤の生き様が、なんともというところよ。」
「遠藤はだれにも理解されないさびしさをもった子どもだったって、自分の過去を回想するに当って述べてるけど、この他者に理解されない人の心の奥底にある暗闇といったものへの遠藤の生涯変わらなかった関心は、もしかしたら彼の幼少時代の体験がその土台として影響を与えてたのかなって、ふと私はそんなことを考えた。というのも、これは遠藤の読者にとってはよく知られた話だろうけど、遠藤の動物への偏愛やちょっと過度ともいうべき傾倒といったのの起源はどこに求められるのかなっていえば、それは友だちも何もなかった小学生のときの遠藤の愛犬との交流があったことは疑えないのであり、そしてそういった犬や鳥のじっと濡れたような瞳が見つめてる世界、そしてそうやって見つめつづけてる犬たち自身に仮託されたある目に見えない巨大な何かといった問題の構図が遠藤の文学世界に発した始原が、つまり遠藤の孤独な子どものときの忘れがたい記憶とそれに根ざす感情にあったことはまちがいないことであって、遠藤の小説の世界を見通してみたいって欲する人にとっては、だから、本書は興味ふかい素材を提供してくれるに異ならないって、そう私は感じたかな。‥遠藤のイエスへの関心は、遠藤がイエスを知る前に付きあってたたった一匹の犬の濡れた瞳の画によって、遠藤の内奥に無意識に刷りこまれてたのかも、もしかしたら知れない。また後年遠藤はその事実にふと思い至って、世のふしぎとめぐり合わせの奇妙さに、自身の文学的課題を照応させることを考えたのかもしれないって、そうも私は考える。そして遠藤のそういった検討の果てに、イエスそれその人への思いがあった。‥その思いがどういった結実を見たかは、種々の作品が示してることではあるよね。人の人生の成行というのは、だからそう考えてくと、奇妙な符号を見出したくなっちゃうものでは、たしかにあるとはいえるのかも。たとえそれが人の恣意的な願望からの人生の作為的な混乱にちがいないとしても、かな。ここはなかなか、むずかしい。」
「遠藤は犬や鳥の率直な世界に真摯に向きあう姿に、ふとイエスの象徴を見たのかしれなかったけど、しかしそれは遠藤がそう見たかったからという、それだけの理由しかなかったからなのかもしれないということかしらね。そしてその意味でいえば、遠藤が人生の大きな変化の運動にある一定の意味性を見出し、それを神と呼びたいと思っても、しかし世の中にはそう遠藤のいうように思うとおりには行かず、不合理そのものともいうべき人生を味わう人が少なくなくいるのだろうから、遠藤のいう神の働きもまた、まやかしと断じられても、致し方ないといった面はまずあることはあるのでしょう。しかし、それでもそうね、遠藤というひとりの男ががむしゃらに生き抜いて人生の意義といったものを酒を片手に笑いながら語る姿は、どこかその背景にどうしようもない寂しさが透けて見えるとしても、何かこう和まずにはいられない力といったものがあるとは、はてさて、いえるのでしょうね。いや、いわねばならないのでしょうね。なぜなら遠藤の語ることへの率直さと不器用さといったものは、一種とてつもないものがあるのでしょうから。」
『私が中学生の時、雨の日に林のなかで首をつった人がいた。警察がくるまで数人の人が騒いでいたが、林の入り口に彼が飼っていた犬がじっと坐っていた。登校の途中、そこを通りかかった私は、前脚に首をのせて、主人の死んだ林を見ていた飼犬の眼を今でも忘れない。犬というのはそのようなものだ。
私が洗礼を受けたのは先にも書いたように自分の意志からではなかったが、その後、私にとってあの林にいた犬の眼が人間をみるイエスの眼に重なることがある。』
遠藤周作「落第生の履歴書」
遠藤周作「落第生の履歴書」
2009/07/02/Thu
「昭和二十九年に刊行された「山の音」は川端康成の多数ある諸作品のうちでもとくに傑作の呼び声高い一作であり、また戦後文学の枠内においてもその日本的感性の文学的なあらわれとしてみた場合、おそらくこの作品に比肩しうるだろうものはほとんど限られてきちゃうのじゃないかなって思われちゃうくらい、この一冊の評価というのはある意味抜きん出たものがあるって考えていいみたい。それというのも本作がその独特な魅力の核心を何に負ってるのかなって考えたとき、それはとりもなおさず作家である川端が日本という国の特色とは何かを考え、そしてその疑問に対して家族のあり方だとし、日本人の生活意識のその根底に根づくだれもが免れないだろう規範のひとつとしていわゆる家族幻想を俎上にあげたということであり、本作がもつおもしろみとまた底知れないくらいふかい暗さと悲しみにもし読者である私たちがなんらかの共感を示すというなら、それは私たちがまちがいなくこの作品に描かれる家族たちのふるまいとおかれた状況とそしてその逼迫感にある一定以上の共感を、要するに日本的家族のすばらしさとその影とを、認識しちゃうからにほかならないのじゃなかったかな。すなわちその意味でいうなら、この作品はまったく日本人が日本の家庭の現況をつぶさにみとめてありのままに平凡な一典型としての家族に起りうるだろう陰惨さと問題状況とをとらえあげたということであり、日々を家族のなかにおいてすごすだろう大方の日本人において‥家族のない人は、根源的な意味において、ありえない‥本作が描くところとなった世界観と物の見方と、そして何より切ない愛情とやさしさへの焦がれるばかりの飢えといった様子は、決して無縁でありえないものだって、そう私はこの作品にふれて感じえたかな。‥この小説ほど暗く思えちゃう作品も、なかなかない。でも本作を暗いなって思っちゃうのは、それは私がこの暗さを知ってるからなのだろうな。家族っていう、そのせまい暗さの本質を。」
「舞台設定は戦後すぐの時代であり、本作において主人公として語られるのは信吾という六十を半ば過ぎた男性である。そして信吾の家族には長年連れ添った保子という妻があり、戦争に行った経験のある息子である修一とその妻である菊子が彼の家庭の構成要員としてあった。ま、そのうち嫁いだはずの娘である房子が舞い戻ってきたり、その子どもである二人の幼い幼児が家族の一員に加わったりといろいろあるのだけれど、基本的には物語は老人であるといっていい信吾の視点で進行するのであり、彼の心理を追うことがまずもって読者には要求されることではあるのでしょうね。そして信吾の目線についていく際、問題となるのは嫁に来た菊子であって、菊子というのはなんていうのかしらね、実にかわいらしいやさしげな風情の女性であり、その可憐な風貌に信吾はなかなか好感を抱くのよね。もちろんそれは家族的な愛情からそう逸脱したものとしては本作においては描写されないけど、しかし家族というものほど性的な関係もないとはいえるのだから、この家族間の関係性といったものは複雑なものがあることはまちがいないのでしょうね。そしていうなら、どの家族もこの家族ほどには複雑さを平凡にもっているものではあるとは、果していいうるかしら。なぜならだれもが辛いのでしょうしね。だれもが、性からは免れないのでしょうしね。ま、はてさてといったところなのでしょうけど。」
「信吾には子どものころにあこがれた女性があり、彼はその人をお姉さんと慕ってたのだけど、彼女はとあるこれまた美形の人に嫁に行っちゃう。そしてそのお姉さんの妹がほかならない信吾の妻となる保子であって、姉と比べてそれほど美人でなかった保子は、姉に対して羨望めいた思いを抱き、そして姉の夫である義兄にも心惹かれてる。でもそののちお姉さんは死んじゃって、義兄もまたどこかに消えてしまう。それゆえに結ばれることになったのが信吾と保子であるのだけど、二人の思いにはどちらも美人でこの世でこんなに完璧な組みあわせもまたとなかったろうって思われる姉夫婦の姿が理想像として厳然とあるのであって、信吾は還暦をすぎながらもその記憶を消せない自分に気づいてる。‥また問題を錯雑としてるのは息子である修一の女性関係であって、彼には絹子っていう愛人があり、絹子の存在は若い嫁である菊子を苦しませ、そして美しい菊子がその悩みで憔悴する姿に、ある意味菊子にかつての姉を被らせてる信吾も、心痛める。‥房子がいる。嫁に行ったはずの彼女はしまいに実家に舞い戻り、かつての夫とのあいだにどんないざこざがあったのか知れないけど、この夫婦のよりがもう元に戻らないものであろうことは明らかで、すでに三十を大きく越した房子にもう貰い手がないだろうことも予想せられて、信吾の苦しみは、つまり子どもを幸福にしてやれなかった父親としての苦しみは、いや増すばかりだった。それというのも、房子は不器量で、もっと美しかったならやりようはあったかもだけど、それが不可能な想定なのは自分と保子のわが姿を鑑みればわかる道理であって、そのことに、つまり容色が与える人生への影響というものに、信吾は生半でないこの世界の問題とその残酷さを考えさせられることになる。‥悩み、苦しみは尽きない。不安も尽きない。家族の、この日本の家族の苦しさは、いったいなんで生まれるのだろう。どこにその原因があって、そしてそれを解決できるのだろう。‥信吾はそうまいにちの生活を営みながら、憂鬱げに考えをふかめてく。そしてその様子は、本書を読む人ならだれでも、凡庸な私たち自身の苦しみの反映でしかありえないって、おそらく気づくのでないのだろうかな。なぜなら信吾の悩みというのは、まったく安易な解決なんて究極的に死以外にありえないだろうという、この社会の無邪気な無関心さのもたらす残酷のために、ほかならなかったのであろうから。」
「本作は実に種々な問題と課題を含んでおり、そのどれもが容易に片がつきそうにないという点でまったく暗鬱とさせられる内容であるとはいえるのでしょうけど、ひとつどの場合にもおのずから難事として浮上してくるものとして、性の問題が挙げられることは必至なのでしょうね。たとえばこの作品は、通常人がいいにくい問題の最たるものであろう、容姿の美醜が与える人生への影響というものを真正面から目を逸らさず描いている。もちろん世間は人生の幸福というものは見た目の良し悪しには左右されないものとして通っているけれど、しかし不器量であることがそれ自体ある苦しみであるにちがいないということは、これはまさしく一片の真実にはちがいないとはいえてしまうのでしょうね。そしてそういった容色の問題とは畢竟性の問題でもあるのであり、家族のあいだに暗黙に育まれる性関係の複雑さといったものがもたらす生活の微妙な機微といったものは、はてさて、本当にむずかしいものがあるといわねばならないのでしょう。なぜなら、そうね、家族とはある面苦しいばかりのものにちがいないでしょうからね。そしてその苦しみの根ざすところとは何かといえば、性なのよ。まったく性なのよ。美人不美人という苦しみよ。愛し愛されたいという苦しみよ。私を愛してくださいという叫びよ。‥そうじゃ、果して、ないかしら。はてさてね。」
『修一は醜悪だ。東京の女のところで酔って来て、家の門に倒れかかっている。
もし信吾が門の戸をあけに出たら、信吾は顔をしかめ、修一は酔いがさめただろう。菊子でよかった。修一は菊子の肩につかまって、うちにはいれた。
修一の被害者である菊子が、修一の赦免者でもあるようなわけだ。
二十を出たばかりの菊子が、修一と夫婦暮しで、信吾や保子の年まで来るのには、どれほど夫をゆるさねばならぬことが重なるだろうか。菊子は無限にゆるすだろうか。
またしかし、夫婦というものは、おたがいの悪行を果しなく吸いこんでしまう、不気味な沼のようでもある。絹子の修一に対する愛や、信吾の菊子にたいする愛なども、やがては修一と菊子との夫婦の沼に吸いこまれて、跡形もとどめぬだろうか。
戦後の法律が、親子よりも夫婦を単位にすることに改まったのはもっともだと、信吾は思った。
「つまり、夫婦の沼さ。」とつぶやいた。
「修一を別居させるんだな。」
心に浮ぶことを、うっかりつぶやく癖も、信吾の年のせいだった。
「夫婦の沼さ。」とつぶやいたのは、夫婦二人きりで、おたがいの悪行に堪えて、沼を深めてゆくというほどの意味だった。
妻の自覚とは、夫の悪行に真向うことからだろう。
信吾は眉毛がかゆくなってこすった。』
川端康成「山の音」
川端康成「山の音」
2009/07/01/Wed
「変にいいもわるいもないっていう渓の意見はなかなか的を射てる鋭い言葉かなって思われて少し感心させられたから、今回のスケッチブックのお話に関しては少し個性のことについて考えてみよかなって思う。それというのも渓はみるからに個性的って称するのがおそらく適当だろう美術部の人たちに接して、ああいった場所っていうのは善悪ともかく貴重な場所にはちがいないっていってたけど、それはただ単に変な人がそろった場所が希少だっていう意味あいだけでなくて、スケッチブックにおいて描かれる美術部の空間というのは彼そして彼女たちが少し周りの一般的な感性と異なった価値観を抱いてるけど、でもそのこと自体に彼女たちがそれほど拘泥するわけでもなくて、ありのままの自分を表現した結果としてあの雰囲気があるって点が、その特徴でありまた得がたい魅力であるのでないかなって、そういったことを指摘してるように感じられたから、個性の有様について検討してみるのは、今回のスケッチブックはけっこう最適じゃないかなって気がするかな。‥それにたぶん個性って言葉は、現代において混乱した価値観を付与された言葉のもっとも代表的なひとつであるのじゃないかなって思われるし、さらには個性の尊重とかそういったタームにおいて実に奇妙にこれまで世間一般において語られてきたものにちがいないって思われるけど、でも個性というものを考えてみるとそれはとどのつまりある個人のあり方という意味以上のことがあるはずもない。しかしながらそれなのに個性的という言葉によって多くの人が踊らされてきたことが、つまり「自分さがし」などに代表される混迷した人たちの精神活動として示されてきたという矛盾した事態がこれまで見受けられてきたことが、個性って言葉の奇妙なかく乱があった何よりの証拠に相違なかった。‥でもそれなら、個性的に生きるって、どういうことなのだろう? その問題はかんたんなようでいて、けっこうむずかしい問題のように、私には思えるかな。それはなぜなら、自己自身という個性を自分だけで判断することは、自分の意識そのものの構成を把握しきることにたぶんちがいないのであろうから。」
「自分は変わるだの性格を変えることができるだのに代表される事柄、ま、有体にいえば自己啓発やそれに類した何かにおいては個性といったものは重大な困難であり、またある一群の人々にとっては個性というものを獲得することこそ人生上の一大問題になっているように見られるのは、冷静になって少し考えてみると、これほど奇妙なこともおそらくまたとないのでしょうね。なぜなら、ま、そもそも個性というものがその本人のある部分や要素の一端だけを指すのでなく、その個人を成り立たせているさまざまな要素の複合的な総体として考えるなら、原理的にいってそういった自分を自覚的に認知するということはまず不可能といっていいのでしょうね。なぜなら自我というものもまた「私」という個性を形成している一要素に過ぎず、その自我のみで私の性格の全体を把握しようということは、はてさて、顕微鏡で星を覗こうというようなものでしょうからね。ま、「私」が変わるということは「私」を認識する「私自身」が変化するということでもあるのだから、個性だの自分探しだのというものは、本来的に不毛な業だとも、さてはいえるのか知れないのでしょう。」
「個性っていうとすぐ性格やある対人関係における態度といったものにおいてあらわされるものって定義づけがもしかしたら可能かもだけど、人の人格というのは何もある特定のひとつに限定されたものじゃなくて、性格はその生来的に可塑的なものにちがいなくて、そのためあるひとりの人間といってもその個人があらわすだろう行動や感情や思考は、多種多様なものがあって当り前ではあるんだよね。だからたとえばある人がある相手にとっては居丈高であってもべつのだれかにあっては弱腰であったりも当然するし‥個々の人間関係におけるポジションとそれに付随する権力関係はおのずから異なるものだから‥ある場面においては親切であるけどほかの瞬間においてはこのうえなく冷酷だったり‥感情や気分といったのは心理的なその日の状態のみでなくて、体調においても当然異なってきちゃうことは疑いなくいえること‥することも、人が多様な要素の総合として存在する複雑なものである限り、個性がある限定されたものでないことは免れることのできないもの、むしろ多様に変化こそしうるものということができるのじゃないかなって、私は思うかな。‥そうすると個性を獲得するって問題は、ただ単に性格って部分だけに注目して理解できるもので当然ないってことになって、なら人が個性化する、個性的に生きるということは、いったいどういったことを意味する事柄なのかなって疑問が湧く。そしてそれに対して私は、個性とは性格において形成され表現されるものでなくして、個人の生き方の反映においてこそ見出されるものにちがいないって答えるかな。‥個性とは、だから、長期的なその個人の生きてきた軌跡においてはじめてあらわれ出るものだって、いうことができるかも。なぜなら短期的、瑣末的な性格の発現だなんて、その人間の本質をまったく代表するものでは、まるでありえないのだろうから。」
「個性というものが長いスパンを得てはじめてうかがわれるものであろうということは、たしかに人の性格や態度が感情や身体的状況によって変化しうるものである以上、まずたしかにいえることではあるのでしょうね。なぜなら人間関係というものは結局は長い目をもってある個人と個人が付きあって行く過程においてのみ実現されるものに相違なく、ならば一時のいざこざやすれ違いというものもあることはあるのでしょうけど、しかしあまりに短絡的な人間でなければ、長期的にある他者に接してこそ、真の交際というものがありえるだろうということは、主張できることであるでしょうからね。であるから個性とは要するに、長期的な人生の蓄積を透かしてはじめてあらわれるものであろうとは指摘できることではある、か。だとすると自分探しというものも、やろうとするならもっと遥かに長い時間を考えて実践せねばならなければいけないものではあるのでしょう。もちろん、そこまで覚悟してやることかどうかは、断言できかねるといったところでしょうけどね。なぜなら本当の自分など、そんな確定的なものは、この浮ついた世の中、そうあるはずもないのでしょうしね。ま、はてさてよ。」
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遠藤周作「ほんとうの私を求めて」
2009/06/30/Tue
「シンコは白雪とミドリにくっついてもらいたいんだね。そういうことしちゃうシンコはなかなかかわいくてよろしなのだけど、でもなんで彼女がそんな気持になってるのかなっていう部分が今回のお話を読んでてまず真っ先に気になる箇所であることもまたまちがいなくて、そしてそれを考えることは本作のこれからの成行を思う場合にもかならず要求される物語において大切な鍵となるのじゃないかなって私は思うから、このエントリはそれを中心に記していきたいかな。というのも、シンコの兄と異世界の姫が二人結びあうことへのこだわりは、いったい彼女自身に秘められたどんな心理の働きによってもたらされたものなのだろうって検討することは、本作において常に一定のドラマの中心の位置されてきた重要な人物であるシンコの偽らないある彼女自身にもどうしようもない本心に駆られた行動であるふうに私には読めるからであり‥それは今回のエピソードのラストのミドリに向けてのちょっとした本音の吐露からも察せられることかな。彼女はミドリのことを思い、そして実際に白雪の気持をも鑑みて、二人がすでに相思相愛といってもいいくらいの間柄にあるだろうことを十分察知してるにちがいないじゃないかなって私は考えるけど、でもその事実を作中キャラクターのだれよりも身近でみてきただろうシンコがどんなふうに受けとめてるのか、兄と白雪の馴れあいにどんな心の動揺を秘してるかは、これはけっこうむずかしく、それゆえ興味ある課題とも私には思えるかな。なぜなら本作で当初からいちばん魅力あるように描かれてきたのはだれかなって問われるなら、私は疑いなくそれはシンコじゃないかなって答える用意があるからであり、シンコの内面を思う作業は、なかなかやりがいのあることにも感じられちゃう‥シンコ自身、ミドリと白雪って二人の彼女にとってもっとも近しい存在に対して、ある意味、どうしようもない気持の矛盾と錯綜した感情を抱えちゃってるのかもって、私には気がしてきたから。‥シンコのふるまいは、おもしろい。それはたぶん彼女が本作においてさいしょから特異な位置にいたことも関係してるのだろかな。だってたぶん、シンコの本心は、だれにもみえてないのだもの。」
「だれかとだれかが恋人同士になってほしいという願いというものは、ま、それ自体が要らぬお世話であることがしばしばであり、一歩まちがえるとシンコが今回画策したような互いに心憎からず思ってる二人の関係を強引に縮めてしまおうという企ては、往々にして厄介ごとをもたらしがちなだけではあるのでしょうね。もちろんそうはいっても、ミドリと白雪がそう浅からない関係であることは十分に皆承知しているのであり、であるからシンコのしたことも他愛ないいたずらとして処理してしまうことは可能なのでしょうけど、そういったことをしてしまったシンコの本当の気持といったものは、もしかしたら彼女自身にもそれほど明瞭じゃないのかもしれないということは、はてさて、おそらく指摘できてしまうことなのでしょうね。なぜならだれにいじめられても顔色ひとつ変えず飄々とやり過してきた彼女は、もっとも親愛を感じているだろうミドリと白雪に関する限りは、彼女の本心に近い部分が露わになっていると見て良いからなのでしょうね。さて、シンコの心理とは、これは意外と難題なのか知れないことよ。」
「シンコってキャラはあんがいむずかしくて、それは単純な人物造詣が適度に施されたキャラクターがだいぶを占める本作においても、彼女のようにシンプルな立ち位置でありながらその実心の奥底で何を思い、そして何を願ってるかが容易に察せない人物は、たぶんシンコを除いてほかにないように思われるから、かな。‥これはこの作品のさいしょからのストーリーの流れを追ってみればわかりやすいのだけど、シンコって子は自身の世界に浸りがちで外界に対して気を配ることをそれほど重要視しない性格のもち主であって‥彼女は幽霊がみえるとかに代表される異能力のためにいじめられてきたって描写がされてあるけど、でもよく考えてみると、ただ幽霊の気配が感じられるというのみでいじめられたりはしないんだよね。というのも、わかるかな、もし幽霊がみえたとしてもそのことを人目憚らず堂々とくり出さねば人間集団のなかで浮いちゃうことはなかっただろうし、またたとえ幽霊がみえるとか他人に口にしても、それを上手に会話の流れでくり出すなら愉快な人としてクラスメイトに認知される可能性も十分に考えられることであるのは、疑いなくいえることではあるのだよね。でもそれをせずして、ただ自分の価値観と倫理を正々堂々と掲げて生きるシンコは、べつに幽霊がみえるとかってこといわなくても学校のなかで特異な立場に立たされちゃうだろうことは明白であり、たとえそういった独立独歩の生き方が魅力的に映えようと、シンコが学校生活のなかであまりに不器用に我を張ってしまっただろうことは、たしかに指摘できることであった‥彼女のそういった生まれもった気質と、そしてその能力のための経験によって形成されただろう性格は、シンコ自身にそれほど楽しい思いを‥学校生活のなかで‥与えてこなかっただろうことは、かんたんに予想できることじゃなかったかな。そしてそれだからこそ、自分と似た境遇である白雪はシンコにとって見過せない大切な他者として映ったのであり‥いわれなき迫害を受けながらも気丈に生きてきた白雪の姿は、シンコには思いのほか新鮮にみえたのかもしれないって、私はそんなことまで思っちゃうかな。シンコが白雪にあそこまで拘泥するのは、だからたぶん単純に白雪の真正直な人間性を気に入ったからというだけでなくて、もっとふかい彼女自身の知らない内面が、白雪を、自分と似た境遇にあったもうひとりの自分というほどまでに、ささやいたかもしれないだろうからということは、もしかしたらいえることじゃないかなって、私は思う‥大切な近親者であるミドリの伴侶として白雪が適切であることは、以上の理由でシンコはおのずと理解したのだって、私は気がするかな。‥もっとも、シンコはたぶんただ単にミドリと白雪が好きというだけで、二人が結ばれることを願ってるわけじゃ、ないよね。それはつまり、白雪はまさしくシンコにとって、「もうひとりの私」であったのであり、そんな白雪がミドリと結ばれるということは‥というの。‥おもしろくなってきた。次回も、楽しみ。」
「白雪とシンコの立場が思った以上に似通った部分があるということは、はてさて、たしかにいえてしまうことではあるのでしょうね。つまり片一方は誰彼構わず忌避されつづけてきた薄幸の姫であり、もう片方は世間一般の常識からはよく理解されも歓迎されもしない世界に耽溺しつづけたために、器用に周囲の人間と折りあいをつけることの方法にあまりに不器用になってしまった少女である、か。ま、であるからシンコは似たような暗さを裡に秘めながらも、自身を攻撃する者に対してあくまで果敢に戦おうとする白雪をはじめて見たときは、ある種の衝撃を感じただろうとも創造されるでしょうし、また白雪が身近にいてくれることは彼女の孤独を実際的に癒してくれもしたのでしょうね。そしてそれ故に白雪と、そして彼女にとってかけがえのない大切な人であったろうミドリがいっしょになってくれればいいとシンコが願うことは、シンコの幸福な未来の象徴が、ほかならないこの二人に示されているからなのでしょう。‥なんだかここまで考えると、シンコが少し可哀想にも思えてくるかしらね。そこまで気を回す必要もないのにと思われるし、またシンコ自身の心情を慮っても、なかなか軽くないものが彼女にはあるのは明白に思われるからなのでしょうね。‥はてさて、どう物語が動いていくのかしら。ま、とりあえず、次回に期待でしょう。なかなか先の見えない展開になってきて、これは良いことね。どうなることか、楽しみよ。」
2009/06/29/Mon
「グリードはアルのことを決して生理的苦痛に悩まされることがなくて身体の不調から命を危ぶむこともない、魂だけでこの地上を闊歩することをゆるされる不老不死の能う限りの姿としてはまさに理想のものであることを指摘してたけど、もしかしたらその言い分は正しくて、アルほどハガレンの世界においても完全に近い不死の実現の解答のひとつであるとはいえちゃうことなのかもしれないって思うかな。というのもたぶんこれは情報過多の現代社会に住む人ならだれであろうと、睡眠や食欲などの本能に根ざす欲求やさらには病気や怪我に代表される不測の事態がわが身に及ぼすだろう危険の可能性に、一度ならず悩まされただろうことは疑いなく断言していいことかなって気がするし、それにプラトン的な考え方からいうなら身体とはそれだけで罪ふかい人間に与えられた苦役であるのであり、彼のソクラテスはその個人に備わったできるだけの力と意志でもって肉体的な欲求には逆らって‥西洋の根本的な思想において、身体が自然発生的にもたらす欲望ほど嫌悪すべきものもない‥人は自由に使える時間のすべてを魂の修練に費やすべきとされたのだったことを周知であって、もし古代の賢人がアルの生理的必要にぜんぜん介されないでただ思考のみが彼の自己同一性を支えてるような状況を見たなら、それに対して羨望を抱いちゃうかもしれないってことは、たぶんまずまちがいなことじゃないかな。‥疲れを知らない健康で丈夫な身体にあこがれない人はない。そしてさらに病気に罹ることなくて、またいつまでも若々しい容姿を保ってられるなら、それに対していくらでも対価を支払ってもいいって思う人は、たぶんそんなに少なくないのじゃないかな。なぜなら人とはどれだけ高尚な精神性を説こうと、いみじくもニーチェが指摘したように、あくまでも一個の身体から離れること叶わない存在にちがいないからであって、どこまで行こうと人は自身の身体‥それが美しかろうと醜かろうと。強かろうと弱かろうと‥を伴って、死がもたらす無にまで突き進むほかありえないのだから。それはべつな言葉でいうなら、私は私の身体であるほかその存在をゆるされてない、ということになるのかな。‥だからもしかしたら、グリードのいった言葉は、人間の欲の最たるものであったのかもって、私はそんなこと思うかな。自身の魂だけを相手にできたらいいじゃないかなって考えちゃう人は、だって、たぶん少なくないわけないのだから。」
「身体の世話をするということはとどのつまり現実に生きていることのもっとも基本的な要請を満たすことであり、そしてまた見ようによってはもっとも生産性の伴わない動物的な行いであるかしれないのかしらね。ま、とはいってももちろん、そういった基礎的な身体の欲求が、たとえば衣食住といったそれぞれの文化を著しく発達させる要因にもなったとはいえるのでしょうし、ただ動物が原始的な姿で本能を満足させるのに比べ、人間はそこに知と精神を定着させることを可能にしたのだから、一概に人間の本能に係る文化が、そのほかの精神的行為に比して劣っているわけもないのでしょう。ただしかし、ま、そうね、人間の願望の最たる実現を夢想するならば、やはり身体の伴わない知的活動のあり方といった、どこかSF的な妄想を引き起してしまいがちであることは、それなり認めねばならないことではあるかしら。であるからグリードの存在とその意志するあり方も、なかなか暗示的で人間という存在のもつ願いの一端を具現しているものとはいえるのでしょう。こういう登場人物各々の示す象徴性といった点は、やはりこの作品はさすがね。なかなか見応えがあるかしら。」
「魂だけの存在になれたなら‥SFの文脈で行くと人類がサイボーグになれたなら、かな。これは古典的な人たちの好んだ空想のひとつであるにちがいないし、また昨今の唯脳論みたいにただ人類の不可思議を脳ってブラックボックスに投入することで満足しちゃう安易な精神的傾向からも容易に導き出せる人類の発展の可能性の絵のひとつなのかもしれない‥人は食欲や病気への不安、また性欲という問題‥この性欲というのが最大の鍵なのだろうけど‥に煩わされることがなくなって、人類の歴史上もっとも文明的な人間が誕生することになるのかなって、ちょっと空想する。‥魂だけの、物理的な身体の備わってない人間の形。‥でもこれを考えてくと、果して人間の身体がない人間を、人間といえちゃうのかなっていう定義的な問題がおのずと起ってくることは必至に思えるし、またそしてこれはすごくむずかしいのだけど、私は生理的な欲求を免れた精神がいったいどんなことを考えだすのかっていった部分が、なんだかよく考えられない。というのも、たとえばもし人類に不老不死が実現したならどんななるかなって問題があるとして、もう死ぬことも老いることもない不死の人がどんな生涯を送るのかって想定してみると、彼は死ぬことがないゆえに性を必要とせず‥性とは自身に代る存在を用意する欲求でもあろうから‥性を必要としないために他者を必要とせず‥異性愛にしろ同性愛にしろ、他者を求める心理の起点には性がある‥そして他者を必要としないがために、愛も、ない。‥と考えてくと、私には魂だけの存在に人間がなれたとき、その人間は何かを愛するといったことができなくなっちゃうのじゃないかなって、気がするかな。‥愛と性と死は、するとその意味では、生命の大いなる複雑な機構の言葉による象徴的な解釈であったともいえるのかもしれない。なぜなら私たちは死者に対してさえ愛をもつ。それは死者が他者であり、他者であるために愛しえた存在であるって可能性を信じるがためであり、そして私もまた死により全人類の他者となって、彼らに愛されることを無意識に信じるに違わない心理のためであろうから。」
「愛と性と死が人間が生まれ消えて行く過程の端的なシンボルとして機能しているか知れない、か。ま、たしかにその三つのうちのいずれかが欠けても、もう人は人ではなくなってしまう気がするかしらね。そしてそう考えるならば、アルもまた魂だけの状態で長くこの地上に留まっていたら、いつしか人間らしさを欠落させてしまうのでないかという不安も生じてくることになるかしら。それにアルの問題というのは、ま、これはいいにくいことなのでしょうけど、アルのような年齢の際に生理的欲求から乖離されてしまったなら、その人格とはいったいどういったふうになってしまうのかといったことが、まず何よりも懸念されてしまうのでしょうね。なぜならアルのような年代においてこそ、性というものが友愛に変化しうるものであるということ、それら二つが本質的に同じものであることを、身近に身体的に知る機会に何より恵まれるからなのでしょう。ま、願わくは、アルには一刻も早く肉体をとり戻してもらいたいかしらね。精神だけの存在というのは、なぜなら、奇怪でしかありえないとは、悲しくもいえてしまうことではあるのでしょうから。はてさて、ね。」
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東方儚月抄 Cage in Lunatic Runagate. 第六話「愚者の封書」
2009/06/28/Sun
「お話の構成という面に関していうなら本作はすでに破綻しちゃってて、物語全体をまとめるべき最終一話だけじゃその評価が覆るなんてことはまずないかなってことは確定的に明らかだったから、このさいごのエピソードを見終えたあとも私のなかではとくにどうという気持も動かなかった。‥ただ、でも何かな、本作はひとつのアニメ作品としてみるならその評価がきびしいものになっちゃうのはどうしても否定できない脚本の構成だったっていわざるをえないし、また私もそう思うのだけど、でも何かそれだけで本作を済ませえない少し引っかかる部分があって、それは何かなっていうなら、主人公である裕理、その人のわからなさだった。そして彼のわからなさ、つまり主体性のなさと物語に積極的に参与しない、その場の雰囲気に与するだけが彼の性格のように思えちゃうくらいの、個性の薄さともいいかねる、彼の人間性のあいまいさというのは、以前どこかで私は覚えがあったようにも感じられて、それはなんだろうって考えてみると、「乃木坂春香」の綾瀬さんもまた、この作品の裕理のように私にはラストまで人となりがよくつかめなかった人だったって、思いだした(→
乃木坂春香の秘密 第8話「…おに〜さん☆」)。‥この彼ら二人のキャラクターにあらわれてる、その場の状況に流されつづけ‥周囲に自分に好意をもった子が何人かいて、そしてその子たちから好意を受けることを積極的に肯定もしなければ否定もしない‥そしてその状況に自分自身の意見というのがきわめて希薄な‥ましろはアメリになぜ裕理に好きって伝えなかったのか、自分の意志を自分自身で表現しなきゃ何もはじまらないじゃないかって叱咤したけど、でもそれをいう裕理その人こそは、けっきょくさいごのさいごに至るまで自分自身の気持をだれにも示そうって意志の片鱗さえみせない、ある意味アメリ以上に積極的でなかった人であることは疑えない事実なのじゃないかな。ううん、もしかしたら少なくとも裕理が好きって気持だけはもってたアメリに対して、裕理はましろを好きとは一度もはっきりとは言明してない。もちろんこの最終回の内容で結婚を決意してはいるけれど、それといったってアメリに促されてのことだったから、もしアメリが裕理に働けかけなかったなら、彼は何もしなかったかもしれなかったとは、予想できちゃうことじゃないかな‥パーソナリティというものは、いったい何を意味してるのかな。というのも、私には裕理や綾瀬さんといった人の型は、ラノベなどでもたぶんよく見受けられるだろうオタク文化のある共通のスタンダートなような気がする。その原因はいったい何に求められるのだろう。ちょっと、これは興味ふかい課題かも。」
「ひとりの男性が多数の女性に迫られる、ま、いわゆるハーレムものの主人公やアダルトゲームの主役といったものは、視聴者や読者が感情移入しやすいように没個性的に造形されているといわれるけれど、はてさて、それは果して真実なのかどうか疑問に思うかしらね。というのも、幾多の文学作品を紐解いてみればすぐ明瞭になることでしょうけど、世に多くの人の感傷を誘い高く評価されてきた作品の登場人物たちというものは、一概に没個性的なわけではないのよね。それはドラマといったものは人間がその人個人としてかけがえのない人生というたったひとつの道程を歩むために生まれてくるものでこそあれ、決してどこにでもあり、だれでもいいような個性のもとに、真実人間の内奥をうかがうことを可能にするような出会いや出来事といったものは、まず生じるものではないからなのでしょう。そしてその証拠に、裕理や裕人といったキャラはみずから何ものをもつかもうとしないために、作品世界の状況は彼らにことごとく都合のいいように作為される。それは彼らが何も望まないし、そして、ま、何も愛さないからなのでしょうね。いってみれば、つまらない話よ、これは。」
「けっこうお姉ちゃんの言い方は手きびしい。でも的を射てるかなって思えちゃうのは彼らが「何も愛さない」と指摘された部分であって、たぶん、うん、彼らに「好き」って感情がないとはいわないけど、でもそれらは詰まるところ彼らをして何か世界の困難や不条理に自身の愛の実現を嘆き恨むほどの絶望を感じさせ、そしてもしかしたらそういった苦難を踏破せしめるほどの力を与えうる要素ではないのじゃないかなって、そんなこと私は思う。‥もちろん愛というのがだれにあってもそんなふうに激情めいた威力を発揮するものではないかなとは思うけど、でも何かな、もし裕理がほんとにましろのことを愛して、そしてその愛のために魂を揺さぶられていたとしたら、彼はアメリに助言を得る前に、応龍に激励される前に、ましろを抱きしめてやれたのでないかって、私は思っちゃう。‥逆にいうなら、裕理からましろを愛するっていう必死な覚悟といったものがうかがわれないからこそ、彼が永遠にましろをまつなんて決意を語っても、それは言葉が表面を滑るだけであってどことなく滑稽にも感じられちゃうのであり‥愛の言葉は、一見は滑稽なものだものね。でもそれを語るべき真剣さがある場合なら、どれだけ恥ずかしい台詞でも、素敵な魅力は生まれるものじゃないかなって、何か口にすると赤面しちゃうようなことを、私は思ってる‥作品は全体として違和感をしか余韻として残さないのじゃないかなって、私は考えるかな。‥もしほんとに裕理がましろをもっと愛そうとこれまで描写してたなら、さいごましろが死んじゃうことで絶望に打ちひしがれちゃうのもわかるし、それに対してお前もっとしっかりしろー!ってかけがえのない愛のために彼を励ます展開も、ドラマとしては成立する。でもそれが不可能に思えちゃってしかたないのは、たぶん、裕理がだれもほんとは愛したくなかったからでないかな。絶望のようなことだけど、それが私には彼の彼にも無自覚な本心だった気がする。そこまで考えちゃうと、この物語は果てしなく残酷で、やになるかなだけど、ね。‥やになっちゃった。私は。プラトンパンチをくらへー。」
「ましろが現れなければ良かったと、もしかしたら心の底でだれよりも思っていたのは、ましろを愛していた裕理でこそあるかもしれない、か。ま、そこまで行くとちょっと悪い方向に考えすぎという気もしないでないけれど、しかしそんな想念がふと頭をよぎってしまうのは、裕理が徹頭徹尾、ただその場の状況と雰囲気に流されていただけの存在のように見受けられてしまうからなのでしょうね。もちろんそうとはいっても、流されて生きることがかならずしも悪いことでは決してないでしょう。人生とは、ただやみくもに意志をもって切り開けば事態が好転するというものでもないし、ときに流されざるをえない場面といったものは存在している。だが、さて、愛とはまさにそういった運命を甘受し、そして単なる不条理をみずからとみずからを含めた世界全体の全き肯定を可能にするものではないかしら? 裕理とましろの関係は、だから何か物寂しいものが残るように感じられてしかたないのでしょうね。いろいろ心残りのする作品だったかしら。残念ね。」
『愛もまた運命ではないか。運命が必然として自己の力を現すとき、愛も必然に縛られなければならぬ。かような運命から解放されるためには愛は希望と結び附かなければならない。』
三木清「人生論ノート」
2009/06/27/Sat
「今月から雑誌が移って純真ミラクルが月刊で読めることになってたのをすっかり忘れちゃってて、思わず読みそびれるとこだったけど、でも無事に購入できて一安心。それでツアーも終って今回から新展開になるのかなって部分で楽しみにしてた今回のお話なのだけど、展開の成行は期待以上に高水準で、これから先の物語の移り変わりがますます楽しみになってくる完成度だったと思う。うん、今回のお話はよろしかな。それというのもまず注目すべきかなって感じられるのは、今回のエピソードであらためて焦点が当てられたモクソンという人のふしぎな温かさのある人となりについてであって‥これは雑誌が変更したためって理由も少なからず関係してるのかも。本作は、モクソンに限らないけど、平凡でどこにでもいそうな一般の社会人を登場人物の属性に起用してるけど、でも彼らは実際に本作を読み進めてくと、奇妙なくらいに心理が読めない、一種困惑を覚えちゃうほどのキャラそれぞれ独特のパーソナリティを備えてることに気づかされるのであり、純真ミラクルのキャラのわかり難さというのは、そのまま現実世界における人間関係のむずかしさに照応してるっていうことも、たぶん可能なのじゃないかなって思うかな。そしてそんなドラマの中心に位置する主人公であるモクソンが、なぜこの複雑な関係性と思惑と、そして目にはっきりとは映らない社会っていう打算の機構の只中において、注目されるべき存在でありうるのか。それに対する答えの一端が、たぶん今回のお話には含まれてるのだと思う‥モクソンのおもしろさ、その魅力が十二分に本エピソードにはあらわれてたかなって気がするかな。‥モクソンのふしぎな存在感。それはいったいなんなのかな。かっこつけの所長さんが彼女をいじめることに生きがいを見出しちゃうくらい、モクソンには見過せない何かがある。それを探求することこそが、もしかしたら本作の主題の大きな核心を担ってるものでさえあるかもしれない。」
「モクソンの他人にはない不可思議な美点とは何かという問題かしらね。ま、モクソンは音楽については一種の天才で、世間的な好評を克ちうるほどの存在であるという設定はあるのだけれど、しかしそういったモクソンの才能面という長所だけが、彼女の魅力を担っているのでは決してない。それはある分野の天才が天才であるという理由だけで人から好かれないのと同様でしょうね。だからモクソンがこの作品でだれからもとくに嫌われることなく、それどころか事務所の中という限定はたとえあっても、よくされそして同僚でありライバルであるオクソンからもある尊敬を受けている理由とは、果してなんであるのか。ま、それを考えることは本作の複雑な人間関係の将来における変化を予想するためにも、是非必要なことではあるのでしょうね。なぜならモクソンが他者に与える影響というものは、そう少なくないものであるはずでしょうから。」
「モクソンのもつ最大の長所とはいったいなんであるのかなって考えたとき、もしかしたらモクソンのいちばんの武器は実は類稀な音楽センスでも容姿のちょっと個性的な魅力でもなくて、彼女自身の生来的でありそしておそらく環境によって奇跡的に陶冶されたその人柄でこそあるのかもしれない。‥これはたぶんほかのあらゆる場合の人間関係についても敷衍できちゃうことなのかもしれないけど、人が他者と付きあううえでもっとも重要視され、要求される要素といったものはなんなのかなって問うた場合、その答えは知識や知力や世間一般に価値のあるとされてる個人的な能力とかではほんとはなくて、人間性っていう獲得することが容易でない、でも個人がひとりの人間としてだれかに相対するとき、まず真っ先に勘案されるだろう一種言葉にしにくい人柄といった力であるってすることが可能なのかも。というのも、技術というのは理論化することがある意味不可能じゃなくてそしてその意味ではだれもが身につけることがむずかしくないのかもだけど、でも人柄っていう、なんていうのかな、その人の生き方の直接的な反映ともいうべき、その人が発する人間性とモラルの結実としての雰囲気は、だれもがそう模倣できることではおそらくぜったいにない。だって、自身の性格というのは、自身にさえどうしようもないものだって思いこみが、まず先入観に免れなくあるものね。‥でも実際これは世間を眺めてたら合点が行くことかしれないけど、個人がとあるだれかと親しくなりたいな、これから先も知りあい同士でいたいなって思うとき、人をそう思わせる決定的な要因は、知識でも能力でも権力でもなく、まちがいなくそのだれかの人柄に惹かれたっていう、その一点の理由でしかないのじゃないかな。‥そしてそこまで考えたとき、人柄ってなんなのかなって問題に私たちは至りつく。人間性って、なんなのだろ。なぜ私たちはある人を好ましく思い、ある人をきらいに思っちゃうのかな。そう思わせられちゃう人の生き方のスタンスとは、どこでどう決定されるものなのだろう。‥たぶん、この問題は、すごくすごくむずかしい。だからがんばって考えなきゃ、いけないね。なぜならこの問いにこそ、人が生きることの核心的な意味性が、含意されてるにちがいないのであろうから。」
「やさしさ、謙虚さ、寛容さ、等々、いろいろな言葉で人の性格をあらわすことは可能でしょうけど、しかしある個人の性格を丸ごと正確に完璧に表現することは、おそらく言葉では不可能なのでしょう。そしてそれだからこそ性格を磨くということも、変な啓蒙書みたいなのは巷に溢れてはいるのでしょうけど、本質的な次元にまで食いこんだものは、はてさて、そう多いはずがないのでしょうね。であるから私たちは、性格というものは自分にとって変えようがなく、また性格のいい人間に出会ったときその個人を驚嘆し感嘆し、あるいはときに妬みさえ抱いてしまうのでしょう。なぜなら良き人柄に遭遇し、その良さを簡単に技術的に模倣することが可能ならば、この世に悪い性格の人なんていないでしょうからね。ま、こういった問題は単純なようでいて果てしなくむずかしいものなのでしょうね。なぜ私たちは、モクソンのように、衒いなく他者を慮ることがなかなかできないのかしら? ‥分らないことよね、まったくに。はてさて、よ。」
2009/06/26/Fri
「全編にわたってしっとりとした哀調が感じられて、今回の内容はこれまで見てきた「けいおん!」のなかでもとくにその総まとめとなるべき本作の魅力が十分に凝結され、またこの作品の世界観を広げるという意味でも、よく練られた実に満足すべき完成度になってたのじゃないかなって思うかな。というのも今回のこの番外編のエピソードは、この作品のそもそものもち味でありそして何よりも高く維持されてきた繊細な画を形成する能力が、ドラマの主題である軽音部の面々の揺れ動きやすい心理の微妙な働きをあらわすのにまったく適合されてたと感じられるからであって、絵と物語性の二つの面が今回のお話ほど相互に高めあいながら発展して結実してたことはなかったのじゃないかなって感じられるから。‥たとえば、そだな、このお話の何がいちばんよかったのかなっていえば、そのひとつに私は今までこの作品が頑なに軽音部っていう閉じた空間のなかの彼女たちだけを描くことに固執してたのに反して‥二回目の合宿のエピソードとかは、閉じた関係性のなかで閉じた人間関係をその閉じたなかにいる人物が語るという構図のものであって、これは見ようによればけっこう受け容れられない人もいたのでないかなって気がするかな。なぜならすでに私たちは唯たちそれぞれの個性と魅力と、そして好意に思うべき彼女たち各々の人間性といったのを理解してたにちがいないのだけど、その今さらくり返すべきでないだろう唯たちの素敵さの紹介を、梓の口を借りてまたくだくだしく述べちゃってるのだから、あのエピソードにこの作品全体的な重要性があったのかなっていえば、私はそれはなかったのじゃないかなって答えざるをえないから‥軽音部っていう閉鎖的な世界の外にいる彼女たちをこそこの番外編は描いており、それはよく見知った登場人物たちの新たな相貌をあらわすと同時に、本作の魅力をいや増すのじゃないかなって、私にはそう感じられたことを挙げると思う。‥軽音部をテーマにした作品で、でも軽音部以外の自分の居場所を見出す彼女たちを描くということ。このことはなかなか原作ではやりづらい、まさに番外編を冠することのできるアニメならではのエピソードだったのじゃないかな。けっこう、その意味で感心しちゃった。」
「バイトに励む紬に、慣れない恋によって動揺した心理に苦しむ律、創作に従事する澪に、ペットを預かるというちょっとした厄介ごとに苦しむ梓、か。ま、それぞれのキャラクターらしい日常の一場面が今回は見事に描かれたと評価して良いのでしょう。もちろんここではなぜ唯がとくにいつもと変わらずに描写されているのかという疑問も生じるかもしれないけれど、唯に関してはすでにクリスマスのエピソードや最終回などでその掘り下げはよく為されていたとも考えられるし、それにそうね、今回の話でいちばん印象的な軽音部の唯を除いた全員が最終的になんらかの形で唯の魅力に引きつけられるという箇所は、唯のけっこう不思議な性格をこそ意味しているというべきであり、唯の扱いについては喝采をこそすれ、文句をいうべき部分は何等ないというべきでしょう。彼女は、なんていうのかしらね、単純なのに底知れなくてなかなかおもしろい子よ。そんなに複雑に物事を考えるような人物にはまるで思えないけど、次に何を仕出かすか容易に予想できない。ま、その意味でも主人公にふさわしいキャラといえばそうはいえるのでしょうね。なかなか深みのある人間とはいえるかしら。」
「人は常に他者の目を気にして生きてるようなもので、それはなぜなら他者が決定的な段階においては何を考えて何を自分に対して思ってるのか、それがまずぜったいに自分は理解できないっていう、自己と他者、その断絶を人は無意識に考えちゃうものだからって思われるけど、でもそういった人の目線が気になる過敏な日常生活において、まったく自然そのまま、本来の自己のありように従って生きてるように感じられる唯は、要らない気遣いに苦しめられる現代人にとって、ひとつの驚異として映るかもしれないから、唯という存在は本作にあってもとくべつな場所を占めてるのかもしれないね。‥この唯ってふしぎな存在は、だから唯と出会った軽音部のそれぞれにもたぶん意識されてることにほかならなくて、というのもそれはみんなが軽音部と関係ない自己の問題にかかずらってるとき、ふとした唯のぜんぜん何かを衒わない純真さにふれて気分を一新させてるって場面からも察知できることでああり‥とくに紬と梓は印象的。紬のように仕事でちょっとミスしちゃうとかは日常的によくあることにちがいないし、その場のショックで焦って冷静にふるまえない際に、だれかの陽気な言葉で理性的になることを可能にする穏やかさを発見するという梓みたいな事態も、そうないわけじゃないのじゃないかな‥唯という人物の描かれ方としては、それゆえ今回のお話は彼女が軽音部って彼女自身がえらんだ空間でどんな位置にいてどんな役割を果してるか、それが端的に示されたまとめとして受けとっていいのだと思う。‥あとは、そだな、本作の締めくくりとして今回のお話を見たときに、みんながみんな、軽音部以外の世界をもってて、そしてそれぞれべつな方向に将来的に歩みだす、そんな彼女たちのこの先っていう未来のヴィジョンが想起される構成だったことが、何よりこのエピソードのよかった点なのだって、私はそう考えるかな。‥彼女たちはこれからたぶんべつべつに生きてく。でもそれでもふとしたときに、たとえば唯のへんなメールを受信したときみたいに、かつてあった、そしてもしかしたら今も可能かもしれない関係性を想起する、そんな瞬間があるかもしれない。それはいえば本作のかもす郷愁感の、ある決定的な終りのメッセージであったのであり、「私とあなたはちがう人間だ。でも、私たちは友だちはなれる。」‥そんな意味あいが、このエピソードからは私にはうかがわれたかな。べつな言葉でいえば、つまりそれは友情というものが人生に与る役割の、本来的な希望という可能性に相違ならなかった。‥おもしろい作品で、よかった。楽しませてくれて、けいおん、ありがと。そして、さよなら。」
「私とあなたは異なる人間同士である、か。ま、いってみれば当り前の事実に過ぎないのでしょうけど、しかしどんな仲の良い楽しい関係性といっても、それが無限につづく道理もなく、いつかは終りが来てしまうものなのだということは、その閉じた関係性の内にいるときは忘れがちであるものでしょう。しかしいずれはまちがいなく別れがあり、そしてその別れのあとには新たな出会いがある。ただもしかしたらその出会いはかつての出会いがもたらしてくれた楽しみほどには魅力的なものではなく、ためにただ現在を憂い過去の愉快をなつかしむだけの、そんな事態に陥ってしまうかも人の人生の成行は分らない。そしてそんなことになってしまった人は、ただむかしの、あの部活をしていたあいだは楽しかった、あれが己の人生のもっとも恵まれていた時期だったと、そんなふうにしか思い出を扱うことしか、もしかしたらできなくなってしまうかもしれない。‥しかし、何かしらね、それでも人は現在を生きるほかなく、そして現在を生きるなら未来を恃むほかない存在だとはいえるのでしょう。それだから本作がさいごのさいごで未来に対する切なさを思わせるエピソードを用意してくれたことは、ありがたいことであったのかもしれないかしらね。ま、なかなか楽しかった作品よ。十分に堪能させてもらって、これで終りという実感が希薄かしらね。いい作品だったことを、ただ今は感謝しましょうか。これでさいごとは名残惜しいことね、本当に。」
2009/06/25/Thu
「儚月抄の感想にかこつけてだいたい二年くらいになるのかな、東方について考えてたこと思ったことを散々吐き出すことができてきたのだけど、さいきんはあんまりいろいろなことをいってきたためか東方については以前よりそれほど考えなくなってきちゃってる自分がいる。それというのももともと私は松倉版の三月精で東方の存在を知って、あのとても儚い線と筆致によって紡がれる幻想郷のユーモラスな物語と、そしておまけについてるZUNさんの何をいってるのか正直よくわからない雑文のふしぎな魅力とによって東方の本家STGにも手を出したっていう、たぶん東方ファンのなかでもそんなに多くないかなって思われる部類の人だから、漫画作品としての東方は私にとっての東方の自然な形態のひとつとして捉えることが可能だったのだけど、でもこの儚月抄はいろいろ途中あったものね、率直な評価がむずかしい一作にはちがいないかなって世の意見に同意して私も思うから。‥でもそれでも、漫画版の最終話にふれたときから私の本作に対する印象は肯定的なものに変わって、今ではもう、総じてみると儚月抄を私は十分楽しめてよかったかなって感じてる。これはほんと、楽しいまんがだったって、そう思う。‥そして問題は今回の小説版になるのだけど、これはまた正直にいっちゃうと、小説のほうの儚月抄は妹紅のエピソードにいたく感心させられたのをさいごに、それほど興味を引かれる内容では個人的にはなくなってきちゃって、この最終回もそんなに本音は期待してはなかったのだけど、でも一読して気持は一転、これは上手にまとめたって思わず手を叩いちゃった。というのも今回のお話にはいくつか重要な点があるのはまちがいないけど、そのなかで何よりこの話で肝心に思われるのはずばり霊夢と輝夜、そして紫と永琳のこの両者それぞれの会話シーンに求められるにちがいなくて、この二つの対話がつまり儚月抄のテーマ性の完全なアンサーとして機能してるって、私はそう考える。なぜなら私はこの答えに接したとき、この作品が何がしたかったのか、何が果していいたかったのかなってことがすんなり了解できて、そのまとめ方の見事さにはさすがかなって言葉をこぼさずにはられなかったから。‥お見事。こうもきれいにまとめられるだなんて思ってなかった。侮りがたし儚月抄、かな。おどろいた。」
「紫はかつて小説版で、藍になぜ勝ち目のない月面戦争を行うのかと問われたとき、永遠亭は人間でも妖怪でもないのに地上の民として暮している。しかし彼女たちが妖怪側に与さない限りは人間の位置にいるにちがいなく、ならば彼女たちからは住民税のようなものをもらう必要があると、たしかそんな旨のことを述べていたのだったかしらね。そして、今回のエピソードではその紫が永琳たちから徴収しようとした税とは何か、つまり地上で生きるために彼女たちが払わねばならない代償とは何かといったことの解答が呈示されているのよね。本作の秀逸な点とは、この解答があまりに見事なものだったという部分に求められるにちがいないでしょう。はてさて、まさか紫がそういうことを画策していたとは、さすがに予想だにできなかったかしら。これはまさに一本とられたというところよ。なんてセンスのある妖怪かしら。」
「紫が永琳に課そうとしたものは‥これはすごいネタばれになっちゃうけど、でもこのブログの感想は一貫してネタばれとか意に介さないでしてきたから、このエントリもそれに則って行うことを、ここで断っておく。ほんとはこのおもしろさは実際にわが目で読んではじめてなるほどって思える類のものかなって気がするけど、でもその核心を突かないと忌憚ない私の感想にはならないものね。そこは、ご容赦を‥地上に生きる者ならだれの身であろうつきまとうだろう、不安、だった。‥これはすごい。この発想はとてもすごい。つまり、いいかな、比肩しうるだろう存在のまるでない巨大な力と威光をもった神であり、そして世界の謎をすべて解き明かすことの可能な優れた頭脳のもち主でもあり、また命尽きることのない永遠の時間を思うがままにできる不老不死の存在である永琳こそは、月の理想とする穢れのない高尚な生命のまさに見本でこそあって、その能力のすばらしさは彼女に対して世の何ものをも恐れる必要を見出さない自負心をこそ保証するものにちがいなかった。そしてそのこと自体はだれも疑うこともない当り前の事実であって、無敵で天才の永琳が道に迷うことなどだれも思わないし、彼女は信頼されまた頼られこそすれ、だれかの手によって守られるべき存在でないことは、だれもが、あの綿月姉妹でさえ、疑問に思うはずもない道理であった。‥でも、それはほんとにそうなのかな? 永琳はたしかにすごくつよいし頭もいいけど、でもそれだけでほんとに生きることが楽になるのかな? ‥答えはちがう。紫はそのことをよく知ってた。生きることは不安そのものだ。未来が何ものにもわからないからこそ、生は未知であり、汚れであり、また幸いでこそあるのだ。‥その確固たる信念に裏打ちされたとき、地上の生活の、ううん、生きることそのものの本質というべき、不安を忘れた神に不安を想起させ、そして真の意味で地上の民とすることを、地上の賢者たる紫は画策したのだった。‥なんてすばらしい答えだろう。これは賢者だ。さすがにそのとおり、生きることは不安を伴う心だ。すばらしい。この作品の結末に、私は賛嘆の辞を惜しまない。お見事! すばらしかった。」
「生きることは不安である、か。ならば生も死もなくなった月の民こそは、表面上は汚れもない高尚な存在ではあるにちがいないのでしょうけど、実は生きることと死ぬこと、その本来生命には当り前であった真理をいつしか忘却してしまい、ただ空っぽの心を抱えて悠久の時を過しているだけなのか知れないかしらね。それは緋想天で天子が天界を離れたがっていた理由でもあったのでしょうし、もしかしたら、はてさて、ここに来て、儚月抄は東方全体のある重要なメッセージを担うことになったともいいうるのかしらね。それはすなわち、輝夜と霊夢の対話にこそすべてが象徴されている。‥この問答は決定的かしらね。これだから東方はおもしろいのよ。たまらないことね。」
『「月の都って、思ったより原始的ね。建物の構造とか着ている物とかさぁ」
輝夜は笑った。
「そう思うでしょう? だから地上の人間はいつまでも下賤なのよ」
「どういうこと?」
「気温は一定で腐ることのない木の家に住み、自然に恵まれ、一定の仕事をして静かに将棋をさす……、遠い未来、もし人間の技術が進歩したらそういう生活を望むんじゃなくて?」
霊夢はお酒を呑む。
「もっと豪華で派手な暮らしを望むと思う」
「その考えは人間が死ぬうちだけね。これから寿命は確実に伸びるわ。その時はどう考えるのでしょう?」
「寿命を減らす技術が発達するんじゃない? 心が腐っても生き続ける事の無いように」』
ZUN「東方儚月抄 Cage in Lunatic Runagate.」
2009/06/24/Wed
「さいきん人気のある一冊という評判に引かれて読んでみたのだけど、たしかに風のうわさに違わず本作は十分におもしろくて、そして独特の内容のふかさをしずかに読む者の心に問いかけるふしぎな魅力というのが私自身感じられ、これはなかなか感心すべき作品なのじゃないかなって思われた。‥物語のあらすじは、不幸なことがつづいててあんまりさいきん元気のない女子高生の夢が、とある機縁により、宇宙の星々を破壊して回ってるっていう少女、大魔王のモモに出会うというもので、物語はこの二人の心の交流を軸に展開する。というのもモモは地球を破壊しようってもくろみがあるのだけど、ただ生命体がいる惑星の場合、彼女を満足さすことができたならその星は滅亡を免れて救われるっていう決りがあるからで、ふとした偶然からモモと知りあうことになっちゃった夢は人類全体を代表してモモの望みを叶えてあげる立場におかされちゃったのだよね。そしてそういった設定があるからこそ、人たちの敵対者として通常はあるだろう魔王って役割のモモに対して、夢は悪意や憎悪や義憤をもってこれに対処するわけには行かなくて、彼女にはモモが何を考えてるのか何を欲してるのかを明敏に察知してこれを彼女を労るようにして満たさねばならないっていう、ある意味、人と他者とがどのように接して親しさを増してくのか、そんなコミュニケーションにおける思いやりといった根源的なテーマを、本作は上手に物語の導入に設定の説得力を伴って描くことに成功してる。‥人が他者を喜ばせるということは、やさしく接してあげられるということは、いったい何をどうすることを意味するのかな? そんなある場合には恐怖と未知の象徴でもあるだろう自分以外の人間‥つまり他者という扉を通じてあらわれる、私を除いた世界の総体‥と付きあって行かなきゃいけないことの大切さとはどこに求められうるのだろうっていう単純で、そしてこの社会に生きるだれもが胸中に潜ませてるだろう疑問をこそ、この作品は問題としてる。だからこの作品は思った以上に多くの人の心に訴える力を秘めてるのでないかなって、そう私には思われたかな。」
「他者と接することのむずかしさ、かしらね。本作ではモモは幼い少女という形において描かれており、だからモモが本心では何を望んでいるのかという疑問は、現実の子どもや、そして大人以上でもまったくそうであるように、他人の本心といったものは人にはそう分ることのできるものではありえない。そしてそういった理由があればこそ、夢はモモが何を臨んでいるのかということを絶えず考えながら、彼女を喜ばせるために満身の努力を払うことになるわけね。これはなかなかどうして、人が人と交流をすることのまず基本的な課題であり、そして究極的な意味性をも包含する主題というべきなのでしょうね。なぜなら他者との交流というのは畢竟その他者を如何に傷つけないか、そして自分が如何に傷つけられないか、そしてそういった痛みという不安を乗り越え、如何に情を交すかということにこそ、その本意が求められるからなのでしょう。さらに言葉を足すならば、これは人が人を愛するという行為の問題の、積極的な問いかけでもあるのでしょうね。いやまったく、だから本作は非常に興味深いドラマ性と意味性をその内容に含んでいるというしかないかしら。こういった少女漫画が、恋愛というタームにおいてでなく、基本的な人同士の交流という問題において語られているのだから、やはり漫画というのは多様な可能性をもったものというべきなのでしょうね。本当、おもしろい作品よ。」
「やさしさ、というのはむずかしい問題だよね。人にやさしくするっていうことはいったいどういうことなのかなって疑問は、私のなかにももちろん抜きがたくある疑問であり、それが容易に解決されないで悩みの種となるって事実は、要するに私がやさしさとはなんなのかっていうことをよく理解してないからにちがいないからって、そう思う。というのもつまりやさしさとはなんなのかって問いかけ自体に、それじゃお前はやさしいのか、もしお前がやさしいのだとすれば、お前はだれに対してやさしかったのか? ‥そんな問いを暗黙に秘めてるからにたぶんちがいないのだろうって、私は気がするからかな。‥たとえば人にやさしくできない、あるいはやさしくしようとしてもけっきょく結果として相手を傷つけちゃう、そんな場合が人生には往々あるものだけれど、そのときどうして自分はやさしくその人にありたいって願ってたのに、事実はそれに反して相手を泣かせちゃったりしたのかなって考えてみると、それは私がその人のことを誤解してたからって答えが可能になるかもしれない。つまり相手が何考えてるかわからないから、相手の望んでることがわからないから、私はそれに対して躊躇してしまい、その必然の成行として相手の気持を踏みにじっちゃう。‥うん、そういうことはありそう。でも、ここまで考えたときべつの問題が思い浮ぶ。それはすなわち、もしそうというならお前は相手の心が読めたなら、相手の心を労れたのか? ‥そんな疑問が浮んでくる。人の心を読むことと、人の心を理解し労れる能力は、まったく同じものなのか? ‥もちろん、そうでない。私は首をふる。相手の心がわかったとて、相手にやさしくできるとは、限らない。そしてそれに、やさしさというのは相手をただ理解すれば可能というものでもないように、私には気がしてくる。なら、それじゃ、やさしさってなんだろう? ‥私はそんな問題をずっと考えてる。他人にやさしくするって、どうすればいいのだろうって、そんな疑問に単純に囚われてる。‥この問題は解けるのかな。今の私には、わからない。」
「相手をただ理解することが、すなわち相手を思いやったことには、そう単純にイコールにはならないということかしらね。ま、考えてみれば当り前のこと過ぎるのでしょうけど、しかしやさしさとは本質的にはどういったことを意味するのかという問題は、なかなかどうも難解なものにはまずちがいないのでしょう。というのも、そうね、この「やさしさとは何か?」といった問題は、その問いの発端からしてどうもきな臭いというか、ずばり何か罪のある問いかけのように思われてしかたないからなのでしょう。なぜなら「やさしさとは?」と問うとき、その問いをする時点で何かある罪を犯してしまっているように感じられる。おそらくそのように思われる理由は、やさしさを問う者自体が自身がやさしいかどうかを棚上げしてしまっているように察せられるからであり、またやさしい人間はそういった問いかけをまずしないように予想されるからかしらね。ま、しかしそうね、「罪」というのは重要なキーワードでしょうね。もしかしたらやさしさとは、罪と深い関係にあるのかもしれない。それはドストエフスキーの「罪と罰」でソーニャがラスコーリニコフの罪を許したように、そしてこの作品でモモが星を破壊するという罪を背負っているという描写に、さては暗示されていることかもしれないかしらね。ま、はてさて、よ。むずかしい問題では、あるのでしょう。本当にね。」
『愛情は想像力によって量られる。』
三木清「人生論ノート」
酒井まゆ「MOMO」1巻