2011/09/24/Sat
「はかせは、そのうち、なのの後継機を作ったりするのかな。なのの後継機ということはなのの妹ができるというわけで、後継機だから当然性能もなのより高くて(なんかすごいねじとか)なのはそれにちょっと嫉妬みたいなあこがれのような感情を感じちゃうんだけど、でもはかせは依然慣れ親しんだなのにべったりなわけで、それで不思議な三角関係が構成されれば‥ああ、これはなんか素敵じゃない、お花畑じゃない‥ということを考えながら、十八世紀関連の研究書を眺め、今日も私は図書館をあとにしたのです。フランスの風は心地いいなと感じながら。」
「なんか考えていることはどこでも一緒なのね。」
「日常はすばらしいよ!」
「はてさて。そうね。」
「‥ところで、日本を発つ前にラノベのB.A.D.ってシリーズに一通り、目を通したんだけど、この作品について少しエントリを記しておこうかなって思う。このシリーズ、雰囲気はとてもいい。言葉をかえていえば、繭墨というキャラクターに端的に凝縮されて示される、美意識と趣味のよさはすばらしい片寄った魅力にあふれている。でも不満がないわけでなくて、各エピソードの構成の仕方、話の展開には違和感を覚える点が多い。もうちょっと言葉を足すと、唐突な展開が多くて、納得がいかない場合が少なくない。たとえば、5巻のラストの描写は残念に感じた。狐は見捨てたほうが筋が通ると私は思う。」
「主人公の青年の、小田桐という人間は、非常になんていうか、いびつな感じね。道徳と善の意識と良心と、そして意識的なエゴイスムと無意識的なエゴイスムに、絶えず、引き裂かれている。非常に不安定なパーソナリティなキャラクターといえ、この人物が作中、もっとも奇異に映る。ま、主人公が一番変というのは、ラノベに限っては、珍しいことではないのだけれど。特異な世界の語り部には、ある種、屈折したパーソナリティが求められるのかしら?」
「小田桐という人はよく読むとおもしろいことが見えてくるキャラかもしれないかな。‥でも私はとくに小田桐という人に興味がないのでこれ以上言及しない。‥というのも、本作の美点は、繭墨という人物に集約されるのであり、繭墨は作者の美意識と理想の賜物だと思う。でもそれゆえに、繭墨をもてあましているかなと感じる点も少なくなくて、というのは、繭墨というキャラクターはその魅力が徹底されればされるほど、何もすることの決してない人間とならざるをえないから。つまり繭墨ならこんなことじゃ絶対に腰を上げないだろうなって思われる事件でも、作劇の必要上、繭墨は動かざるをえない。むしろ、繭墨の性格がそのとおりであるのなら、繭墨の興味を引くに足る事件というのはこの世に存在しないといったっていい。動機では行動しないという理想像が、繭墨であるのだから。」
「人間の見栄なり必要なりを捨て去り、純粋に興味で動く人間だからかしら。しかし繭墨をきちんと理解するなら、彼女はあらゆることに興味を持てなく、退屈だ退屈だといいながら、倦怠に沈み死んでいく人間でしかない。‥そういう非人間的な人間だからこそ、ある種の美と魅力を備えることができるのかしらね。‥はてさて、エピソードには納得のいきかねることがあるけれど、しかし繭墨という人間をよく描くなら、それだけで事足りるという、ある意味、おもしろいシリーズでしょう。それは理想の人間を描くというのは、小説のある普遍的なテーマであるからでしょうね。その辺でいえば、ヴァレリーのテスト氏なんかを思い出してみるのいいかもしれないし。」
綾里けいし「B.A.D.」
2011/06/09/Thu
「今回、小鷹の鈍感さについて、作中、ようやく言及されたわけだけど、あー、彼はただ単にゲイってだけなんじゃないかな。同性愛って珍しくもなんともないし。」
「それいっちゃうと話が全部終ってしまうけどね。」
「だって本当のことだもん! あー、もう! なんで私にばかりそういうこと相談するの! 女が苦手なんです‥って、私にいわれても、私は、あ、そう、としか答えられないってわかりきってるじゃん! なんか近ごろ左手の薬指に指輪はめてくる人多いし、一体、何がどうなってるの! なんで指輪してくるの、見せびらかしたいの!? あれだよね、で、見せびらかされる身としては、それって指輪ですねなんですか恋人でもできたんですか、って聞くべきかどうか微妙で困っちゃうって話! 下手に聞いたらセクハラになるかもだし、聞かないは聞かないで、なんだか無視してる雰囲気になるかもだし、この人間関係の難しさ!」
「なんだか私事全開の愚痴ね。」
「愚痴はここまでにしよう! 私はクールだから! ‥さておき、じゃ、小鷹がゲイかどうかは置いておくとすると、彼は単純に他者にある一定以上の関心を意図して持たないように振舞っている、そしてその理由は何かなって単純に推測すると、友だちの少ない幼少期の体験が原因で、他者に踏み込みすぎるのを怖がっている、あるいは、他者に何も期待することをやめてしまった人間のひねくれた暗さが彼にはあるのかなって、私はそう思うかな。言葉をかえていうと、私には小鷹という人は、けっこうひどい人のように思える。率直にいうと、なんで小鷹にこの作品のヒロインたちが惹かれているのか、正直、ちっともわからない。むしろ人間的な欲望をダイレクトに表現する彼女たちに比べ、小鷹という人間の意匠はきわめて不自然に、非人間的に見える。」
「彼が自分の変さを自覚していないという点も、またなんというか、ラノベ的ではあるのでしょうね。ラノベの主人公は、どうしてこう、変なのかしら。はてさてね。」
「笑える鈍感はいいけれど、笑えない鈍感は堪らない。鈍感が笑って済ませられるレベルにいるうちはいいけれど、そのうちこの鈍感さは笑えない事態を呼び起す。」
「そのときがこの作品の本当のターニングポイントになるだろう、か。ま、そこまで行かないで平和に終るかもしれないけれど。」
「‥ところで、この巻で一番気になったのは、理科が白衣を脱いじゃうところ。‥なんで、なんで、白衣を取っちゃうかー! ちょっと信じられない。何それ最悪。男にいわれたくらいで白衣をやめちゃうなんて、ちょっと私正直ほんとに理科のことを疑っちゃう。だってそうじゃない! 理科から白衣をとったら何が残るの、眼鏡? 眼鏡が残るっていうの? でも私は眼鏡がそんな好きでない。というかそれはどうでもいいとして、白衣やめちゃったらいけないじゃない!! はかせやオカリンを見習ってよ、彼らなら何があっても白衣を着続けるはず。理科にはその決意がなかった。プラトンパンチでイデア界の果てへ叩き落してやる‥」
「男にもっとお洒落したほうがかわいいよっていわれたから自分のアイデンティティをあっさりと捨ててしまうというのは、なんだかリアルで笑えてしまうけれど、ま、こんなものなのかしらね。はかせやオカリンも同じ状況になったら理科みたいになるかしらと考えると、いや、それはないでしょうと思えるのが、少し安心する点かしら。いや、ま、なんの話よ、これ。はてさてよ。」
平坂読「僕は友達が少ない」6巻
2011/01/27/Thu
「僕は友だちが少ない、あるいはいないことで悩んでる? 大丈夫。そんなことで悩まなくてもよろし。友だちなくても、それなりに生きていけるよ‥という意見は、無責任な第三者の立場だからいえるもんだね。うん、わかってる。中学、高校、だいたい六年間を友だちがゼロで過すのはなかなかしんどい。学校や家庭というものは一種の環境の催眠のようなもので、そこを離れてしまえば、その環境によっていた悩みや苦しみはきれいさっぱり消えるものとアドバイスしたところで、今このとき友だちが欲しいって苦しんでいる人には無体な助言だものね。うんうん、それもよくわかる。‥じゃ、どうするか。有体なアドバイスを一つすると、所属するコミュニティを確保することかなって思う。ほら、学校の自分のクラスで友だちができないなら部活かサークルで探すとか。あるいはほかのコミュニティを覗いてみるというのもありだと思う。もちろんそれで変な世界に片足を突っ込んじゃって戻れなくなるってパターンも往々にしてあるけれど、何、それも人生悪くない。‥ほら、第三者の立場、しかも誰が何いおうと勝手なネットの世界ではいくらでも好きなこといえる。だから私の言葉はいくらでもいい加減に紡がれる。信じるもんじゃない。」
「なんか長い前ふりね。」
「まじめな二次創作を続けて書いたあとは、ばかなことがいいたくなる。」
「あ、そう。」
「さておき。‥本作、『僕は友達が少ない』はよくできたラノベだと思う。私個人としてはとても楽しく読めた。話の筋としては友だちがいない人らが新たなサークルを作って、そのなかでわいわい楽しく過すというもので、クラスで友だちできないならほかのところで友だち作ればいいじゃない!って先の私のアドバイスとも合致すると思う。都合がよろし。」
「ま、こんなに上手く事が運ぶことってないのでしょうけどね。主人公の小鷹は一種のハーレムを作ってしまっているし。もちろん、それはラノベにありがちなことといえば、それほど突っこむ必要もないのでしょうけど。」
「でも小鷹はそんな彼女たちに恋愛的な興味を抱いていないように思う。それはなぜかな?」
「さあ。」
「ホモなのかな。」
「そういうのも多いんでしょうけど。」
「‥ホモかどうかは置いといて。‥私は本作で一番おもしろいのはこのポイントだと思う。つまり、主人公の小鷹はそれなりに格好いいイケメンで、気が回るし、やさしいし、料理は上手いし、親切。ナイスガイ。で、周囲の女の子は彼のことが大好き。表面上はともかく、内心は彼をめぐって相対立、争っている。でも、なぜか、彼、小鷹は周りの少女たちを、そういった価値観で認識していないし、見ようともしていない。それは、なぜか。」
「作為的すぎるほど鈍感‥というのは、これまたラノベの常套的な表現なのでしょうけど、しかし本作に限っては、小鷹という人間にある種の不気味さがうかがわれるのがおもしろい。端的にいって、彼は他者に本質的には興味がないんじゃないか、と、思われてしまうのよね。」
「どこかが欠損してるのかも。‥私には、なんていうのかな、小鷹という人間は、他者に対するある種の感受性を失った、どこか平坦な人間に見えるときがある。彼は、もしかしたら、好きという感情を実は持ち合わせていない人間か、あるいは他者を自分自身の問題から突き放してしまっている、他者と決定的に距離を置く類の、冷たい人間のように思える。‥そして、そういった人間は、ここ最近オタク文化が描いてきたハーレム主人公の、非人間性の、帰結すべき結論の像であるように、私には感じられるかな。」
「小鷹がこの先、この少女たちのいずれかと恋愛関係になるのかどうか、それがどうも想像できないのよね。というのは、彼を取り巻く少女たちの思いと彼自身の思いとの落差があまりに顕著で、それが露呈したとき、どちらかが失望と嫌悪の底に叩き落されるように予想できるから。‥なんていうか、なんかこわいのよね、この作品。結局、小鷹は誰も好きではないとしか思えないんだから。」
平坂読「僕は友達が少ない」1巻 平坂読「僕は友達が少ない」2巻 平坂読「僕は友達が少ない」3巻 平坂読「僕は友達が少ない」4巻 平坂読「僕は友達が少ない」5巻
2010/11/01/Mon
「お姉ちゃん、はてさてって言い過ぎ。」
「そんなことないでしょう。」
「そんなことあるよ! 毎日、毎回、毎エントリ、いってるじゃない! ふつうの人の100倍はいってる! というか、もうあんまりはてさてなんていう人いないよ!」
「特許とってあるから大丈夫よ。」
「嘘!?」
「嘘だけど。」
「プラトンパンチをくらへー!!」
「ぐふぅっ!?」
「はぁはぁ‥‥!」
「‥‥」
「‥さておき。生徒会の九重の感想をしよう。」
「生徒会シリーズ、何気にけっこう小まめに読んでいるのね。」
「うん。思うところはそれほどないから読んでもエントリをあげる機会は少ないけれど、一通り、目を通すには通してる。それでシリーズのクライマックスも見えた本巻についてなんだけど、これが私が本作に慣れたのか、それとも作者がこなれてきたのか、たぶんその両方が原因かなとは思うんだけど、割とおもしろく読むことができた。個々のエピソードは説教臭さが薄れ、純粋にキャラクターの掛け合いが手慣れてきた感じがし、見ていて安心できる。また会長さんの過去のエピソードは彼女の人格の脆い部分を的確に切り取ったものとして、作者の人間観察の一端がうかがわれる、なかなか興味深い話だったかなって感じ入った。さいごにオチをつけるのも、粋でよろし。」
「本筋のエピソードはこのまま問題なく推移するのでしょうけど、結局、杉崎の理想に対しての返答、つまり彼のハーレム願望であるところの誰も傷つけたくないという多少ねじくれている心理状態に対する答えは、前巻まででけりがついたということなのかしらね。ま、このままいけば、彼以外の生徒会メンバーは離散するわけだから、実際的な問題は起らないのでしょうけど‥」
「ほんとの話、ハーレムとかなんとかいって、多くの女性と付き合うことで真に傷つくのは、杉崎さん自身にほかならないんだよね。‥これは本作で微かに描写されている部分ではあるかなとは思うけど、多数の女性のなかから本命の一人を選び、それ以外を捨てるという選択肢を取ることのできない杉崎さんの態度は、どう見ても問題のあるものだといっていいと思う。でもそこで、じゃ何が問題なのかなって考えると、それは彼が優柔不断な態度をとることによって多数の女性を傷つけるからではなく、優柔不断な態度をとることにより、彼自身がほかの誰よりも傷つくから、その未来が容易に予想できてしまうからにほかならない。ここらへん、あんがい作者は無自覚的であるのかもしれない。」
「それは杉崎が駄目な人間だからではなく、反対に多数の女性を支えることが可能な器量があるから余計に、なのでしょうね。というのも、このことはこれまでのストーリーの細部からもうかがえることだけれど、彼は生来的に自己犠牲の人で、他者を差し置いて自分の欲望を優先することが苦手という側面がある。その意味では彼は自分の孤独を打ち明け、愛によって癒されることを選ばず、むしろその孤独という隙間に、多数の女性を寄りかからせてしまっているのでしょうね。」
「杉崎さんの自覚的な犠牲の上に、依存関係を築いたのが生徒会の女性たちだった。その問題はこの巻に至るまで解決されず、結局さいごのさいごまで、物語は杉崎さんに自己犠牲を強いている。それを眺めていると、彼はもうちょっと自分のために自分を優先させてもいいのでないかなって気が私にはするけど、でもそれは杉崎さんの美学に反するのかな。」
「そのうち疲れちゃうんじゃないかって気がするのよね。そして、そのときが訪れたら、いったい誰が疲れた杉崎を守ってあげられるのかと考えると、ま、そこのところ、はてさてね。」
「‥ところで、私この作品で二次創作をやりたいなってずっと考えてたんだ。実は去年の今ごろから温めているネタがあるんだけど‥」
「あら、初耳。」
「えへへ。こう‥ね、椎名姉妹の愛憎渦巻く恋愛劇がやりたいんだ。」
「そういうの好きね。」
「二次創作って、自分の趣味を丸裸にしてるようなものだものね。」
「本当そうね。もう趣味ばればれでしょうね。」
「それで、その椎名姉妹の話はこういう筋書きを辿る。‥ほら、あの二人ってどちらも杉崎さんのこと好きじゃない? でも姉のほうが杉崎さんには合ってると思うし、実質的な距離も近いと思う。それを見た真冬は自分の恋が叶わないことを知る。一度は姉と杉崎さんのために身を引こうかと考えるけど、次第に、まるで靄が気づかぬうちに街を覆うかのように、ある不安が彼女の心を蝕んでいく。それは杉崎さんへの恋心のあきらめは、同時に姉との別離でもあり、そしてそれは両者が、自分の愛する二人が、自分に対する関心をだんだんと失っていくことを意味するんじゃないかって。‥孤独、不安、それらが日々振り重なった結果、彼女は姉の心を自分につなぎとめておこうとする。‥部屋。誰もいないがらんとした部屋で、彼女は鏡の前に立ち、自分の髪型を姉のそれと類似させる。なぜそんなことをするのか? ‥彼女自身にもそれはわからない。ただ姉と、自分の愛する姉と同じ格好をすることで、そして鏡を前にし、姉に酷似した自分の顔を見つめつづけることで、次第に、彼女は意識が朦朧と溶けていくような感覚を味わう。‥それは性行為に似たような、甘美な感覚。‥彼女は自慰をする。そこに姉が帰宅してくる。妹は姉を迎える。が、もうそこにあるのは姉妹の境界が崩れてしまった人形のような真冬でしかない。真冬は深夏にしだれかかる。彼女は気づいてしまった。自分はただ自己愛のとりこになった、虚ろな人形に過ぎなかった、って。」
「‥‥」
「どうかな、どうかな、おもしろいよね!」
「本当、好きね、そういうの。」
「うん!!」
「お後がよろしいようで。いや、よろしいのかしら、これ。」
葵せきな「生徒会の九重 碧陽学園生徒会議事録9」
2010/09/15/Wed
「痛々しかった。読んでいてこんなに痛々しかったのは
遠藤周作「わたしが・棄てた・女」以来だった。あまりの痛々しさに久々に私のプラトンパンチが火を吹くところだった。危ない危ない。」
「‥ま、なんていうか、いいにくい作品よね。テーマも構図も文体も成行も、すべてが竹宮ゆゆこのそれであり、まるで「とらドラ!」の頃と調子が変わっていないのには安定感も感じられたけど、しかしこういった題材を選ぶというのは驚きかしらね。もちろん、痛さを覚えるテーマを選別するのも確かな才能の一つと考えれば、本作もまた竹宮ゆゆこのセンスの一端を証するものではあるのでしょうけど。」
「でもそういった表面的な理屈以上に、本作は私の苦手とする領域を描いていたので、正直、苦痛に感じる部分も少なくなかった。それが何かというと、ずばり加賀香子。‥はっきりいおう。こういう人は、確実にいて、そしてこの手のトラブルは‥もちろん本作はだいぶ戯画化して描いているからまだ笑えるのだけれど‥けっこうな人が体験しているものだと思うし、わかる人にはすぐ理解されるだろうトラブルを本作は題材として扱ってる。つまり世間によく出回った言葉でいえば加賀さんはどう見てもストーカーであり、この作品はある一人のストーカーが自分がストーカーであったことを自覚するまでの話であって、主人公はそのストーカーにちょっとしたことで感情移入しちゃうのだけど、でも、これは、主人公が愚かだよと、私は冷たくも考える。むしろ本作でずば抜けた人物は柳澤さんであり、彼のとった態度がいかに勇敢で、そして道徳的に優れたものであったかは、ちょっと筆舌に尽しがたい。柳澤さんほどできた対応は、なかなかとれないんじゃないかな。少なくとも、私には無理だと思うし、実際、無理だったなって思い返す体験もある。柳澤さんはすばらしい。」
「柳澤は自分の妄想を語るばかりで何一つ現実味のない提案を際限なくしてくる加賀に対し、最終的にはきっちりとお前のことが嫌いだと告げるのよね。大切に思うからこそ安易に関係を結ばないのであり、恋人という関係性を重んじるからこそ、自己中心的な感情のみで振舞う加賀の態度が許せない、と。‥実際のところ、相手に対し嫌悪を正しく伝えるということは、えらいことなのでしょう。ほとんどの人がなあなあで、他者の好き嫌いを適当に誤魔化している。そこにあって、何々が好き、何々が嫌いと責任をもって言明できるというのは、これはえらいものというほかないでしょう。それに、なんていうのかしらね、嫌悪されるということは、それほど悪いものでもないともいえるでしょうし。」
「むずかしいところ。‥少し加賀さんについて、悪口をきつくいっちゃったかもだけど、加賀さんのようなタイプはよくわかる。彼女のような人はすべてが自分のなかで完結し、他者というものが自分の心のどこにもない。ただ我があるのみで、他人もまた自分と同じように生き、考え、悩み、そして苦しんでいるという想像がないばかりに、私の思いだけを優先する。というのもそういった人にとっては、苦しんでいるのは私だけという思い込みがあるからで、その思い込みのために、自分が報われることが当然だと錯覚するから。‥やさしさとは想像力のことだといったのは三木清だけれど、想像力の欠落したところに、加賀さんのような悲劇は生れる。そして加賀さんのような人に共通する、私が思うある特徴は、彼女のような人は、人間関係にまつわる成功や失敗をろくに体験したことがないということ。別な言葉でいえば、成功するか失敗するかの瀬戸際までに追い込まれなかった、あるいは逃げ続けてきたということ。だから彼女たちは、自分の思いが挫折するという可能性を想定しない。もしかしたら、死ぬまで、そのことに思い至らない。」
「他者との付き合いについて成功や失敗を重ねれば、少なくとも他者もまた心ある存在であり、その意味では他者は自分にとって超越的な性格がある存在だということには思い至る。が、しかし、そういった成功や失敗を通過しなければ、他者はただ己の利益に奉仕するばかりの存在であり、そこに意志などあろうはずがないという幻想に捕われるまでになってしまう。‥ま、はてさてね。‥ところで、この作品、続くのかしら? 一巻でもう精根尽き果てるような感じだけれど、ここからどうつなぐのかしらね。」
『我々の生活は一般にギヴ・アンド・テイクの原則に従っていると言えばたいていの者がなにほどかは反感を覚えるであろう。そのことは人生において実証的であることが如何に困難であるかを示している。利己主義というものですら、殆どすべてが想像上のものである。しかも利己主義者である要件は、想像力をもたぬということである。
利己主義者が非情に思われるのは、彼に愛情とか同情とかがないためであるよりも、彼に想像力がないためである。そのように想像力は人生にとって根本的なものである。人間は理性によってというよりも想像力によって動物から区別される。愛情ですら、想像力なくして何物であるか。』
三木清「人生論ノート」
竹宮ゆゆこ「ゴールデンタイム1 春にしてブラックアウト」→
true tears雑感 真心の想像力
2010/08/24/Tue
「読んでいる最中はいろいろ思うことはあったはずなんだけど、読み終って、ああ完結したなって一息ついたら、べつに何ごとかぐだぐだ語る必要はないだろうって気分になった。というのも、この作品を私も十年弱追っかけて読んできたわけで、それなりに十年余りの思い入れというものがそこかしこにこびりついている。そういった作品というものは下手に分析的な目でもって語るなんて阿呆らしいし、感傷を抱く前に作品を終らせたことに対する敬意の念が湧く。それらの思いをまとめると、おもしろかったの一言で本作の感想はまとめていいように思う。おもしろかった!」
「付き合いの長い作家なり作品との関係性というものは、単純に好悪の念や完成度が云々といった次元のものではなくなるということでしょうね。だからあまり批評的な言辞を弄したくもないというか、むしろそういうことをする気には到底なれない心境というものが先に来る。本当、長かったものね。ま、といっても十年ちょっとなのだけど。」
「十年くらいでまとまればよろしかな。文芸の世界には平気で一世紀かけちゃうようなものもざらにあるわけだし、その意味ではフルメタはラノベの世界できれいにシリーズをまとめきれた好例のひとつとなりえると思う。今後、またぞろ展開するかは知らないけど。‥それで、あんまりくだくだしく作品の細部に突っこむ気はないのだけど、この最終下巻にあって、私の気にかかったシーンは二つある。一つはレナードの最期、ひとつはカリーニンの最期。そこらだけは、少し話そうかな。」
「レナードはまともになりたかったといって死んでいったわけね。ということは、レナードは自身を異常者だと自覚しており、その克服のために彼の行動はあった。そしてその異常性の根源は、彼の家庭環境にあった。‥そう考えると、なんていうのかしらね、彼の不幸は、こういってはなんでしょうけど、極めてありふれた凡庸な不幸の構図にその原因を求められてしまう。すると、レナードの真の悲劇は‥」
「彼がキレすぎたという一点に集約される、かな。‥レナードの不幸は、彼がウィスパードであり、天才であり、そしてその天才性を自覚的に行使できる早熟さ、狡猾さを備えた性格を身につけてしまったことであり、また自身の才能を利己的に積極的に、何より外交的に用いてしまえる度胸に恵まれたことであり、究極的には、彼がまるでタフでなく、繊細な弱い心根の持ち主だったという点にあった。‥そう考えていくと、レナードはありふれた悲劇の最中に生まれ、その悲劇で傷ついた己を救うに足る天才であったことが悲しかった。‥いや、こういうべきかな。‥レナードは自身の不幸を絵空事で解決しようとし、その絵空事を現実にできるかもしれないという希望を確信できるほどに頭がよかったから、不幸のままだった。不幸であるしかなかった。‥もうちょっとばかでもよかったのにと、戯れにいったら、喜劇かな。いや、ばかをやるべきだったろうにと、どうしても思ってしまう。彼に欠けていたのは、ただひとつ、ユーモアだった。」
「そして彼と並んでカリーニンという不幸な男がいるわけでしょうね。カリーニンという男はこの作品のなかにあって、つくづく良いキャラクターだった。彼の最期も、彼という人間を一貫させるには必要だった描写であるのでしょう。切ないけれど。」
「カリーニンは絶望した人間だ。絶望した人間というのは、自分の心情を、あまり人に語ることがない。だからその文脈で、カリーニンがだれにもいわず、仲間たちを裏切ったのもわかるし、言い訳を一切しなかったことも理解できる。‥ただ悲しいのは、彼は己一人だったら、己一人の絶望を抱えたまま、死ぬまで生きていたろうと思えるところ。彼が自身の絶望以上に優先したものが、家族であり、そして家族というもののために彼が懸けたのが、絵空事のような魔法のような、儚い希望だったというところ。ここに本作最大の悲哀がある。」
「最終的に、本作は、不幸な人間はどう生きればいいのか?といった問題を提出しているともいえるのかしらね。‥しかし、その問題は、わからない。不幸は不幸でしかない。なぜ不幸か? それは世界が不可思議であるように、人生が不条理であるように、答えの出るものではない。ならどうすればいいのか? 答えが出てから生きればいいのか? そういうわけにもいかない。ただ私たちは賭けるほかない。命を賭けなければ、命がないのだから。」
賀東招二「フルメタル・パニック!12 ずっと、スタンド・バイ・ミー(下)」
2010/08/04/Wed
「盛り上がっているのか盛り上がってないのか、微妙な感じ。というのも、第一に最終決戦間近なのだけど、肝心の敵の目的があいまいで放っておいてもべつにいいんじゃない?っていう感じだから、戦闘に対する危機感、そしてそれが演出するだろう悲壮感が薄まっちゃっているから。これについてはまちがいなく作者も自覚的だろうし、その言い訳というか動機付けが本巻の大部分を占めているのだけど、それが成功しているかどうかは、微妙かな。」
「このシリーズはこれまで見事にファンタジー的な要素を現実的な戦闘描写に脚色することに成功していたといっていいのでしょうけど、最後の最後に来て、少々粗雑なSF要素が入ってくるのは残念なところでもあるのかしらね。細部まで丁寧に描こうという姿勢が、ちょっと裏目に出ているような気もするかしら。ま、それはこのシリーズの最大の美点でもあったわけなのだけれど。」
「すごく丁寧だよね。本巻の個々の要素に着目しても、それだけでひとつの長大なエピソードのネタになりそうな要素が、ほんの数行で簡素に終っちゃってる。それは率直にもったいないなとは思うけれど、今さら蛇足を次々と増やしてもしかたないことではあるから、本シリーズがきれいに次でまとまるかどうかは、本巻だけを読んでもなかなかわからない。」
「かなめやレナードがしようとしていることは、単純にいえば、人生をやり直したいという一言に集約されるといえるでしょう。そう考えれば本作のラストは非常に泥臭く、そして感情的な戦いになると予想できるのだけれど、はてさて、それがどれくらいの密度で描写されるかは、ただ期待といったところかしらね。」
「わかりやすいといえば、これほどわかりやすいこともないよね。‥世界をやり直したいという思いは、人生をやり直したいという思いであって、その動機の根本に何があるかなというと、これは満たされない感情、過去への悔恨だと思う。‥たとえば私たちは人生をやり直したいな、あのとき、ああしていればよかったなって何気なく思うかもだけど、そこでやり直したいと思うとき、問題となっているのは過去にまつわる現代の記憶だと思う。あのときのある事件や出来事が原因で、失敗したこと、挫折したこと、恨み、憎しみ、どうにもならなかった世界の偶然への、つまり運命への、憎悪。これら感情が記憶となり、只今の私を苦しめているからこそ、そういった感情をなくす可能性のある別世界へとかなめとレナードは行くことを望んでいる。」
「ま、単純にいえば、それだけの、よくある話なのでしょうね。どうにも上手くいかない人生への恨みが原動力という意味では、かなめもレナードもそれに追従するカリーニンなども、非常に人間くさい人間といえるでしょうし、凡庸といえば凡庸なのでしょう。過去への後悔と、その過去のために苦しむ現在とが、ただ彼らを動かしている。‥どう生きても人生は人生でしょうけど、こういった過去への未練といったものはいかんともしがたいものなのでしょうね。誰であれ。」
「過去はもうどこにもない。五分前の世界は、文字通り、奈落に消えている。その意味では私たちは過去を悔やむという言葉でもって、無を悔やんでいるのかもしれないし、無を悔やむことにより、過去が無でなかったと思い込みたいだけなのかもしれない。‥だから、なんていうのかな、そう考えると、たとえかなめやレナードやカリーニンがどこか別世界に行き、そこで過去の満たされなかった悔恨を埋めたとしても、その悔恨は究極的には癒えないと思う。というのも、なぜなら、それで過去の記憶が消滅するわけではないから。」
「かなめやレナードの最大のミスは、この世界におけるアイデンティティを堅持したまま、自分らの希望する別世界へ行こうとしている点にあるのでしょうね。それじゃ過去は消えないのよ。過去の記憶は、更新されないのよ。‥しかし、そうだといってアイデンティティを更新して赴くと、今度は満たされない過去のルサンチマンを充足するという彼らの目的の大前提が崩れることになるから、ま、最初から彼らの計画は矛盾し破滅するものだということでしょう。なんか、哀れね。かわいそうな、人間らしい、倒錯よ。」
賀東招二「フルメタル・パニック!11 ずっと、スタンド・バイ・ミー(上)」
2010/05/20/Thu
「エピソードの全体的な質はこれまでと変わらずで、とくに感想を書く必要もないかなとは思っていたのだけど、唯一、昔の生徒会の様子を日記を振り返るって記述形式で綴られた一編は、同じような内容が重ねてつづく本作にあって、際立っておもしろく読めた印象があった。だからそのエピソードに関してだけでも何かしら記しておこうかなって思う。もちろん、といっても、小説の内容をあれこれいってもしかたない面はあるから‥というのも、本作はキャラクターの魅力に拠ってる部分が大きいのであって、この巻でおもしろかった過去の生徒会にまつわるドラマも、その魅力の大部分はいってみれば語り手である雪海さんの個性に負っているんだよね。だからお話の読後感として語るべきことは、それほどなかったりする‥このエントリでは、本作全体のテーマともいうべき、作中幾度もくり返し説かれる、楽しい学校はありうるかって側面に注目してみようかなって思うかな。‥学校はもっと楽しくてもいいと思うってこの作品はいうし、それは学校を舞台にしたアニメやラノベの作品が星の数ほどある現状からみても、多くの人が、楽しい学校というものに、ある種のあこがれないし幻影を持っているのだと思う。それで、それに対して、私がどう考えてるかというと、率直に、私は学校は楽しくなくていいと思う。無論、それにはいくつか段階をおって理由を述べなきゃいけないけど。」
「オタク作品において学校がこうもモチーフに挙げられるのは、おそらくほぼすべての日本人にとって、共通体験といえるものが高校生活くらいであるからなのでしょうね。逆にいえば、今の人々は高校生活くらいしか共通のステージがないともいえるし、アニメやなんなりで学校が舞台になるということは、学校というものが、もちろん思い出は多々あるのでしょうけど、しかし諸手を挙げてただ単純に楽しかったと言いきれるものでもないという、矛盾した思いが抱かれているからなのでしょうね。」
「学校がもっと楽しくなればいいのにという問題は複雑で、というのもそれは多層的であり、また同時に個別的であり、そして何より学校の基本は教員の労働の場としてあるからであって‥学校は先生たちの職場。塾や予備校なりはそれを講師の人たちが自覚してる向きがあるから、ある面、ふつうの学校より開放感があったりする‥端的にいえば、マクロな次元では、教育の問題はシステムとして考えなきゃいけない。‥それでその方面に関しては、あまりブログで話題にするには不適当かなって思われるから、ここではつまらない野暮をいって済ませたいのだけど、初等教育の段階までは、つまりセンター入試くらいまで?の段階までは、学校がつまらないのは当然なのだから、なら学校はただ単純に利用すればいいだけであり、利用したらあとはもう関係しないようにすればいいのじゃないかな。‥つまり自分の知的関心に従って、勉強なんて、勝手にすればいいのであって、それができるくらいになるようまで学校にいたら、あとは波風立たないように気楽に過せばよろしじゃない、と私は思う。‥私自身、あまりにひどく学校の授業は受けない人だったので、えらそうに何ごとかをいうつもりはさらさらないのだけど、ただ何かな、そこまで学校に拘泥する必要はない気がする。先生が嫌いだったり、不良だったり、そこまで関係するのも不毛に思えるし、学校が楽しいか楽しくないかって問題は、大きな視点から見れば、つまるところ内面の問題に、個々人の環境に集約される気がする。だから学校を楽しくしたいという言説は、私にはふうんとしかいいようない、空疎な言葉に聞こえるばかりだったりする。‥こういう言い方は、あるいはイロニックに響くのかな。そういうつもりも、ないのだけど。」
「生活が楽しいかどうかというのは、結局、身も蓋もない言い方をすれば、自分の周囲の関係性にかかっているのよね。であるからイデオロギーだの信条だの正義だの、ま、そういった偉そうなものは、もしかしたら個々人の幸せにはそれほど影響しないんじゃないかと思うのだけど、どうかしら。そういった思想めいたものよりは、もっと細かな、食事とか睡眠とか趣味とか、一人でいる時間とかのプライベートセクターの充実を図るほうが、よほど日々の幸福感には重要なように思えるのよね。で、学校というものは、プライベートな世界なのかしら? もちろん学校の反対の家庭がプライベートというわけでも、高校生くらいまでは、なかなかそうもいえないのでしょうね。面倒なものだけれど、はてさて、生活していくのは面倒なものよね。まったくに。」
葵せきな「生徒会の火種 碧陽学園生徒会黙示録3」
2009/11/20/Fri
「プラトンパンチをくらへー!!」
「ぐふぅっ!!?」
「いったいいつまで私を放っておくのかー!! お姉ちゃんのばかーっ。」
「‥放置してたの、私の責任なのかしら?」
「‥」
「‥」
「‥こほん。ブログを休んでたあいだに読んでたラノベの一冊、「シーキューブ」の感想でもしとこかな。実は本作の7巻目に当る短編集も一応私は読んであったのだけど、短編集ということでとくにいう点も見つからなかったから言及はあえてしなかった‥短編はある意味露骨に作者の技量があらわれちゃうもので、その点では本作にはこれ以後あまり期待はかけられないかなって、その短編集を読んで思っちゃったっていうことは小声でいっとく‥。なので長編に当るこの8巻目が本シリーズを評価するにはまじめにとりあつかわなくちゃいけない一冊にちがいないのだけど、感想を第一に述べちゃうと、本作もシリーズ化するラノベの弊害を免れなかったって、いわざるをえないかな。ううん、むしろ典型的に本巻はシリーズを無暗に重ねるラノベの欠点の典型的な症状があらわれてる。その意味では、見本としてもいいくらいに。」
「ブログさぼりの復帰一番目のエントリにしては、いきなり辛口の内容なのね。ま、とはいっても、さすがにここまで冗長にやられると少々フォローするのも困難だとは、はてさて、いえてしまうのかしれないけれど。」
「そう。冗長。なんでラノベってこんな一冊にボリュームをつめてくるのかなーっていぶかしげちゃうくらいに、この巻は途中、延々と無意味な‥少なくとも私の感覚としては‥描写が挿入される。もちろんそれが物語の構成上ぬきにしてはならない大切な部分なのだって説得力が感じられれば何もいうことはないのだけど、でもそんなことないだろうことは、本作のドラマの起伏という魅力を欠いた結末部が示してる。‥ラノベって、どうしても変な能力もって戦わなきゃいけない縛りでもあるのかな? ハルヒみたいなの人気あるのだから、そんなことないとも思うのだけど。」
「バトルが一概に悪いわけじゃ無論ないのでしょうけど、しかし本作の赤い服で体力回復させる能力には少し笑ってしまったかしらね。‥なんだかこれだけいうと本当に奇妙に聞こえるかしれないけれど、まったく真実赤い服で回復するのよね。ワースというおもしろい設定がある割に、活かせていない印象があるのは残念かしら。」
「設定の隅にはあんまりふれないのがラノベの約束なのかわからないけど、かな。‥最終的に本巻の感想をまとめると、物語全体が間延びしちゃって緊張感に欠ける描写の連続で占められてる本巻は、初期に見た「シーキューブ」の持ち味であった衒学趣味を完全に喪失しちゃってる残念な出来だったというふうになると思う。いたずらに長引かせる意味は作品の完成度という観点からはほとんどないとは思うけど、でもそうも行かないのが事情というものなのだろうかな。そこは私もあまりいわない。いう気もない。」
「初期から全体の構成を考えてあるなら話はべつなのでしょうけどね。ま、ラノベにはほとんどといっていいほど無知な我々なのだから、無用なことはいわないでおくことにしましょうか。‥まだまだ続くのかしら、本作は。はてさてといったところね。」
水瀬葉月「C3―シーキューブ―Ⅷ」
2009/10/09/Fri
「あいもかわらずの内容かな。ただちょっと苦しくなってきたみたい。というのもこの「生徒会」シリーズは気軽な雑談を主な内容とすることをアピールポイントのひとつとしてるように見受けられるけど、でもかんたんに雑談してればいいというシンプルな内容は、実は創作においては非常に高度なレベルを要求するにちがいないハードルであるからであって、それはたとえば少し図書館に行って世界の文学全集なりなんなりを紐解いてみればすぐにわかることと思う。つまりそれはどういうことなのかなっていうと、文学というのは会話なのであり‥読書とは著者と対話することであるって言葉は、三木清をはじめ、多くの賢人が指摘するところ‥そして人がこの世界で生きてくっていうことは、とどのつまり、会話をすることイコール言語の只中を過してゆくことであるからなんだよね。‥戯曲ならなんでもそうだけど、例としてシェイクスピアなどを開いてみるなら、そこに書かれてあるのは延々とした台詞の連なりであることにはだれであれ気づかれるでない。そしてそれが示すことは人間と人間の関係といったものは、ふつうな延々たる地道な会話であるということであるのであり、人が人を理解するということは根気よく会話しつづけることでもある。‥だから会話というのはむずかしい。これをあえてテーマに据えて執筆に挑んでる「生徒会」シリーズは、私にはけっこう果敢な意欲作のようにも映るけど、でもそれに内容面の充実がついてきてるかなって考えると、その評価は微妙になっちゃうのは致し方ないことかな。もちろん、きびしいことではあるのだけど。」
「会話の題材がオタク的なものばかりではそのうち手詰りになるのは目に見えていたのではあったのでしょうけどね。ま、むずかしいのよ。なぜなら会話というものは、その場限りの表面的な類のものをべつにすれば、小手先のテクニックが通じるものではないのであり、いわゆる会話術なんてものは気休め以上のものではないからよ。それは会話が人間そのものの立ち表れであるからであって、会話は個人の感性や知性をありのままに表現するものであるからでもある。‥ま、twitterなど見ていても、長期的に継続して行われる発言の集積は、その個人そのものを照らし出すのよね。これは言語の不思議な特質でもあるとはさていえるかしら。」
「会話が娯楽になるというのも、そういったふうに人間性が言葉のやりとりから感得されるようになってくるからとも、もしかしたらいえるのかもしれないね。‥たとえばプラトンが見事に描いてるとおり、古代ギリシアでは討議は魅力的なエンターテイメントであったのであって、西洋において会話は伝統的に楽しい時間の過し方であったことは理由のないことでなかった。その点日本に行くと、会話の愉悦といったものは残念ながら近代に下るにつれ失われていったようで‥この間の事情を田中先生はおもしろく述べてる(→
田中美知太郎「プラトンに学ぶ 田中美知太郎対話集」)‥純粋な対話の娯楽性といったものを、日本人はなかなか見落しがちじゃないかなって気もしてくるかな。‥本作についていうと、本編内でなされる会話があまりおもしろくないかなって感じられちゃう原因の大部分は、話を上手にふくらませることができてないからかもって、私は感じる。オタクネタなども、ただの一発ネタで終っちゃってるんだよね。それはよろしくない。もっとさまざまに話題を広げていけないものかな。キャラクターは魅力あるのだから、あとは会話の仕方だと思う。本作をさらに映えさせるためには。」
「ひとつのエピソードをなんとなく良い話っぽく締める傾向もはてさてといったところだし、かといってシリアスなドラマのほうが魅力に富むかといえばそれほどでもないし、ま、けっこう限界っぽいのよね、この作品は。しかしとはいっても本巻における椎名姉妹のエピソードなど、キャラの魅力が活かせるドラマならまだまだおもしろさはあるのだから、なんとかならないものかと期待は捨てきれないのよね。とくに真冬なんて実に怠惰で人間らしさがあってなんともいえない魅力があるのだから、雑談の部分でも、そういったキャラクター性がより強くアピールされるようになればいうことなしかしら。‥ま、これ以降どうなることか、ひとつ期待といきましょうか。」
葵せきな「生徒会の月末 碧陽学園生徒会黙示録2」