Flower isn't God, Money isn't God. #03
2015/07/03/Fri
「昨日、家族会議があって、両親にアイドルを目指すのをあきらめなくていいけれど、でもその代わり大学には行けっていわれて、それで私としてもそのアイドルを断念するってわけじゃないんですけど、ほら、今の時代、アイドルっていろいろな形があるじゃないですか、大学に通いながらアイドルやっている人も少ないし、だったら私としてもそういう方向で行くのもありかなって思って、いや高校卒業してアイドルに全力投球というのも潔くていいかもしれませんけど、でもそれはそれでリスキーっていうか、大卒の資格くらいはほしいかなっていうか、ああでもそういう理由で大学に行くのもちょっと不純な感じして嫌な感じになっちゃうかな、いえそんなわけありませんよね、だって明確に目的を持って進学する人ってきっとそんなに多くないだろうし、みんな流されて生きているって感じなんだろうし、でもそうすると私も流されているってことなのかな、だれもが流されているからって流されることがいいわけじゃないですもんね、ああどうしよう、なんだか気が滅入ってきちゃった、やっぱり私みたいな冴えない人間がアイドルなんてどだい無理だったんです……。……ところで梨子さん、私の話ちゃんと聞いてます?」
「ええ、聞いていますよ」
「……何かいってくれないんですか?」
「そうですね、驚きました」
「何に驚いたんですか?」
「家族会議をされたという点に、です」
「え?」
「私の家族はそういう話し合いなんてぜんぜんしませんでしたから。しっかり話し合う家庭というのはすばらしいと思いますよ。私は比奈さんは周りの意見なんて聞かず突っ走っている人なんじゃないかと疑っていましたから、なおさら。でも比奈さんはちゃんとご家族と相談しているというじゃないですか。だから、驚いたんです」
「……私、別に突っ走ったりしません!」
「初対面の人に枕営業持ちかける人が突っ走っていないというんですか?」
「黒歴史! ああ、黒歴史です! 過去の自分を引っ叩きたい!」
――セミが鳴き始め、燃え盛る太陽がジリジリとアスファルトの道路を焼き始める初夏のころ。私と梨子さんは、私の学校近くの喫茶店で待ち合わせしていた。今まで放課後はアイドルになるためのレッスンに費やしていた私だけれど、さすがに高校三年の夏は、卒業後の進路について真剣に考えなきゃいけない、だからしばらくはアイドル活動を自粛して受験生らしく過ごすことに決めたのだ。
「……比奈さん、なかなかいい高校に通っていますよね」
「そうですか、普通のところだと思いますけど……。夏休みも講習で忙しいし」
「ですから、いい学校なんでしょう」
「お母さんが予備校にも行けっていうんですよ。比奈はアイドルにうつつを抜かしていたから勉強が疎かだったろうって。失礼しちゃいますよね」
「疎かじゃなかったんですか?」
「……いえ、疎かだったですけど」
梨子さんはときどき、こういった刺すような皮肉や嫌味を会話の流れのなかに自然に差し挟んでくる。私は涼しい顔をして熱いコーヒーを口に運んでいる梨子さんに不満の目を向ける(梨子さんは夏でもホット以外飲まないらしい。変なの)。ハリセンが手元にあったら思いっきり彼女の頭を叩いてやりたい。
「……そういう梨子さんは何されているんですか」
「はい?」
「プロデューサーの仕事を辞めてから、何をされているんですかって質問です。なんかいつも暇そうにしているように見えますけど」
「まあ、そうですね、何をしているかというと、フラフラしていますね」
「フラフラ?」
「ブラブラしているといってもいいです」
「……要するに暇なんですね?」
「それを認めるにやぶさかじゃありません」
私はハアとこれ見よがしなため息をつく。しかし、梨子さんは特に何を気にするふうでもなく、近くにいた店員さんに追加の注文をしている。「比奈さんもケーキ食べます? モンブランですよ、モンブラン」と笑顔で私に尋ねてくるから、私としてもこれ以上無益な言い合いを続ける気にもなれなくて、梨子さんの提案にただ頷いた。それに、モンブランは私も食べたい。
「モンブランはMont Blancですね。フランスとイタリアの国境近くにあるアルプス山脈の一峰です。昔、その麓まで足を運んだことがありました」
「え、梨子さん、すごいです」
「いえ、別にすごくはありませんけど」
「プロデューサーをしていたころにですか?」
「いや、もっとずっと前、学生のころです。フランスに留学していた時分ですね」
「へー、なんだか意外といえば意外だけれど、梨子さんならそんなに意外でもないかも。そういえば、私、梨子さんの過去ってぜんぜん知りませんよね」
「私も比奈さんの過去はろくに把握してませんよ?」
梨子さんはそういって肩をすくめて、こう言葉を継ぐ。
「……でも、そうですね、ちょっとフランスに行ってみてもいいかもしれませんね」
「え、何しにですか?」
「フラフラしに」
「……梨子さん、そんなに遊び回って、お金大丈夫なんですか? プロデューサーやっていたころにいっぱい稼がれたのかもしれませんけど」
「いえ、実はもうそんなに貯金ないです。どうしましょう?」
そんなこと私に聞かれてもどうしようもない。私が黙っていると、梨子さんは明後日の方向を向いて、「でも、そうですね、久しぶりにフランスに行くというのはいい考えかもしれません……」とだれにいうでもなく、ぶつぶついっている。……私はそんな梨子さんの様子を見て、この人は放っておいたら永久に私の手の届かないところへ、それこそ風の吹くままに消えてしまうのじゃないかという、ある意味、梨子さんという人となりを知れば知るほど、もっともだとしか思えない考えに行きつき、そして衝動的に、こんなことを口にしていた。
「梨子さん、私たち、奇妙な縁というか成り行きで知り合いましたけれど……」
「枕営業で知り合いましたね」
「それは忘れてください! ……えっと、その、だから変な偶然で知り合いましたけど、私はもっと梨子さんのことを知りたいって思っています。それは信じてください」
「……もちろん、信じますよ。当然じゃないですか」
私の言葉に梨子さんはそう答えて、微笑んだ。……今から考えると、そのときの私の発言はなんだかちょっと奇妙というか、なんていうか愛の告白みたいな気がしないでもなくて……だって、「あなたのことをもっと知りたい」なんて台詞、普通いわないよね?……その夜、私は一人ベッドの上で梨子さんに変な誤解をされたのではないかという不安と焦りと少しばかりの後悔から頭を抱えて唸り声をあげる羽目になった。……けれど、梨子さんのことをもっと知りたいという私の気持ちは、たぶん、偽りないものだった。それはもしかしたら今まで生きてきて私が最も強く感じた、他者への興味だったのかもしれない。……だって、梨子さんって変だよね? 私が知りたいという気持ちはだから変な意味なんてぜんぜんない、純粋なものなんだ。
――それから数日して、梨子さんからメールがあった。「ちょっとフランスに行ってきます」とだけ書かれていた。……なんて人だろう。「ちょっとフランスに行って」くるだなんて。喫茶店で交わしたあんなささいな言葉で刺激されて、実際に行動に移してしまうなんて。大人としてどうかと思う。……私は梨子さんに、けれど、「おみやげ期待しています」とだけ返信した。それ以上のことをいう必要なんてないって思ったから。……なんだか梨子さんがこのままどこかへいなくなってしまうような、吹けば飛ぶような微かな不安に駆られはしたけれど。
もちろん、梨子さんがこんなことで永遠に私の前から姿を消してしまうなんてことはあるはずもない。梨子さんはお金がないからという理由で、一週間もせずに日本に帰るというメールを私にくれた。私は、梨子さんが帰国する日、空港まで迎えに行ってみることにした。なぜかというと……なぜだろう? ……たぶん、それは飛行機が見たかったからだ。そうです、梨子さん、私、けっこう飛行機が好きなんです。だって、あんな鉄の塊が空を飛ぶなんて人類の英知の勝利って気がするじゃないですか? ……いや、ええ、私が飛行機に乗ったのは修学旅行で沖縄に行ったそのときくらいですけど。海外にはまだ行ったことないです。……そりゃ私がもうちょっとアイドルとして売れていたら、海外ロケとかイベントとかで海外に行くチャンスはあったにちがいないですが。……なんだか悲しくなってきた。これ以上このことを考えるのはよそう。
……ともかく、私は空港の到着ロビーで梨子さんがやって来るのを待った。少し緊張する。空港って人が多くて活気があって、特に具体的な理由はないけど、気分が盛り上がる。わくわくしますよね? ……梨子さんの便はもう到着しているはず。まだかなと待っていると、通路の奥から梨子さんが歩いてくるのが見えた。ロビーの椅子に座ってソワソワしていた私は立ち上がり、梨子さんに向かって手を上げる。梨子さんも気づいて手を振ってくれた……のはいいのだけれど、梨子さんの隣に見知らぬ女性が寄り添っているのが見えた。二人で何か会話している。梨子さんよりはずっと小柄……たぶん私よりも背は低い……髪を金色に染めている、そして、二人のやりとりから、その人が梨子さんのことを「先輩」と呼んでいることに私は気づいた。
「比奈さん、本当に迎えに来てくれたんですね。うれしいです」
「あ、はい。飛行機、好きなんです」
「そうですか。それは少し意外ですね……。お茶漬けでも食べてから行きましょうか? 成田にお茶漬け屋ありましたよね?」
「それはいいんですけど……その」
「はい?」
「隣の方は……?」
私がそう聞くと、梨子さんはようやく思い至ったように、「学生のころの友人です。聞いたらちょうどパリにいるというので、一緒にパリ見物してきました。帰りの便も、まあせっかくですので、一緒のものに変更しました」とその女性を紹介した。……梨子さんの友人。梨子さんよりは二、三、年下に見える。その女性は、「杉崎です」といって、私に手を差し出した。おずおずと、私はその握手に応える。
「先輩から話は聞いています。……佐野さん、ですよね?」
「そ、そうです、よろしくお願いします……」
私はぺこりと頭を下げる。すると、杉崎さんという方はじっと私に視線を注いでから、梨子さんに、
「先輩、女子高生に手を出したらダメですよ」
と、冷たい声でとんでもないことを口にした。
「失敬な。別にそういう気はありません」
「ふーん、ま、いいですけど」
「……含みのある言い方ですね、杉崎さんは忙しいのでしょう? 早く帰ったらどうでしょうか?」
「そりゃ先輩に比べたら忙しいですが。……ま、いいです。それじゃ先輩、例の件はよろしくお願いしますよ。近いうちに顔を出してください」
「わかっています」
梨子さんは杉崎さんからぷいと顔を背ける。なんだか大人気ない。杉崎さんはそんな梨子さんの態度には慣れているのか、私に一礼してから、キャリーケースを引いて、通路を進んでいく。
しかし、まるで言い忘れたことがあったといわんばかりに、彼女は足を止め、梨子さんにこういった。
「先輩は貴重な二十代後半をどう見ても先輩には向いていない仕事に費やしましたからね。そろそろ大人にならなきゃ、ダメですよ」
……私はその言葉の意味をすぐには理解できなかったけれど、徐々に、杉崎さんは梨子さんがプロデューサーという仕事をしていたことを非難しているんだという事実に思い至った。
「……あれはあれで、得難い体験だったと考えていますよ」
「へー、本当ですか? そっか、そうなんだ……。先輩は変わりませんね」
「これでも変わっていますよ。成長かどうかはわかりませんが。……それに、杉崎さんも変わりませんよ」
「嘘。私は変わりましたよ。そんな嘘はつかなくていいです。先輩」
杉崎さんはそういって苦笑して、私と梨子さんの前から去って行った。杉崎さんの背中が小さくなって見えなくなるまで、私たちはその場に立ち尽くしていた。……梨子さんは、「お茶漬け、食べましょうか?」と私に振り向く。……私は、どうしてだろう、そのとき梨子さんの言葉にすぐ反応することができなかった。……だって、梨子さんと杉崎さんの二人がした会話の意味を私はぜんぜん理解できなかったから。蚊帳の外に置かれた気がしたから。ああ、二人はやっぱり大人なんだ、私の知らない世界にいるんだと思わされた気がしたから。少しは仲よくなれた気がしていたけれど、でも梨子さんは私よりずっと大人で、私の知らない関係や体験や現実をいろいろ知っていて、それに疎外感を私は覚えてしまったから。
「私、もう帰ります……」
「比奈さん」
「私は……私、その、梨子さんのこと、もっと知りたいです」
「……はい」
「でも、なんだか悔しいというか苛立つというか、今、梨子さんの側にいたくないので、帰ります。……ごめんなさい」
「……わかりました。気をつけて」
そんな梨子さんの言葉を空しく聞いて、私は歩き出した。……通路を進んで、しばらくして、もしかしたら梨子さんは私を一人で帰らすのがやっぱり嫌で、私を引き留めてくれるかもしれない、私の腕を取ってくれるかもしれないと思ったけれど、現実はそんなことは一切なく、私が振り返ると、そこにもう梨子さんの姿は見えなかった。たぶん一人でお茶漬けを食べに行ったんだろう。
梨子さんのバカ。薄情者。
「ええ、聞いていますよ」
「……何かいってくれないんですか?」
「そうですね、驚きました」
「何に驚いたんですか?」
「家族会議をされたという点に、です」
「え?」
「私の家族はそういう話し合いなんてぜんぜんしませんでしたから。しっかり話し合う家庭というのはすばらしいと思いますよ。私は比奈さんは周りの意見なんて聞かず突っ走っている人なんじゃないかと疑っていましたから、なおさら。でも比奈さんはちゃんとご家族と相談しているというじゃないですか。だから、驚いたんです」
「……私、別に突っ走ったりしません!」
「初対面の人に枕営業持ちかける人が突っ走っていないというんですか?」
「黒歴史! ああ、黒歴史です! 過去の自分を引っ叩きたい!」
――セミが鳴き始め、燃え盛る太陽がジリジリとアスファルトの道路を焼き始める初夏のころ。私と梨子さんは、私の学校近くの喫茶店で待ち合わせしていた。今まで放課後はアイドルになるためのレッスンに費やしていた私だけれど、さすがに高校三年の夏は、卒業後の進路について真剣に考えなきゃいけない、だからしばらくはアイドル活動を自粛して受験生らしく過ごすことに決めたのだ。
「……比奈さん、なかなかいい高校に通っていますよね」
「そうですか、普通のところだと思いますけど……。夏休みも講習で忙しいし」
「ですから、いい学校なんでしょう」
「お母さんが予備校にも行けっていうんですよ。比奈はアイドルにうつつを抜かしていたから勉強が疎かだったろうって。失礼しちゃいますよね」
「疎かじゃなかったんですか?」
「……いえ、疎かだったですけど」
梨子さんはときどき、こういった刺すような皮肉や嫌味を会話の流れのなかに自然に差し挟んでくる。私は涼しい顔をして熱いコーヒーを口に運んでいる梨子さんに不満の目を向ける(梨子さんは夏でもホット以外飲まないらしい。変なの)。ハリセンが手元にあったら思いっきり彼女の頭を叩いてやりたい。
「……そういう梨子さんは何されているんですか」
「はい?」
「プロデューサーの仕事を辞めてから、何をされているんですかって質問です。なんかいつも暇そうにしているように見えますけど」
「まあ、そうですね、何をしているかというと、フラフラしていますね」
「フラフラ?」
「ブラブラしているといってもいいです」
「……要するに暇なんですね?」
「それを認めるにやぶさかじゃありません」
私はハアとこれ見よがしなため息をつく。しかし、梨子さんは特に何を気にするふうでもなく、近くにいた店員さんに追加の注文をしている。「比奈さんもケーキ食べます? モンブランですよ、モンブラン」と笑顔で私に尋ねてくるから、私としてもこれ以上無益な言い合いを続ける気にもなれなくて、梨子さんの提案にただ頷いた。それに、モンブランは私も食べたい。
「モンブランはMont Blancですね。フランスとイタリアの国境近くにあるアルプス山脈の一峰です。昔、その麓まで足を運んだことがありました」
「え、梨子さん、すごいです」
「いえ、別にすごくはありませんけど」
「プロデューサーをしていたころにですか?」
「いや、もっとずっと前、学生のころです。フランスに留学していた時分ですね」
「へー、なんだか意外といえば意外だけれど、梨子さんならそんなに意外でもないかも。そういえば、私、梨子さんの過去ってぜんぜん知りませんよね」
「私も比奈さんの過去はろくに把握してませんよ?」
梨子さんはそういって肩をすくめて、こう言葉を継ぐ。
「……でも、そうですね、ちょっとフランスに行ってみてもいいかもしれませんね」
「え、何しにですか?」
「フラフラしに」
「……梨子さん、そんなに遊び回って、お金大丈夫なんですか? プロデューサーやっていたころにいっぱい稼がれたのかもしれませんけど」
「いえ、実はもうそんなに貯金ないです。どうしましょう?」
そんなこと私に聞かれてもどうしようもない。私が黙っていると、梨子さんは明後日の方向を向いて、「でも、そうですね、久しぶりにフランスに行くというのはいい考えかもしれません……」とだれにいうでもなく、ぶつぶついっている。……私はそんな梨子さんの様子を見て、この人は放っておいたら永久に私の手の届かないところへ、それこそ風の吹くままに消えてしまうのじゃないかという、ある意味、梨子さんという人となりを知れば知るほど、もっともだとしか思えない考えに行きつき、そして衝動的に、こんなことを口にしていた。
「梨子さん、私たち、奇妙な縁というか成り行きで知り合いましたけれど……」
「枕営業で知り合いましたね」
「それは忘れてください! ……えっと、その、だから変な偶然で知り合いましたけど、私はもっと梨子さんのことを知りたいって思っています。それは信じてください」
「……もちろん、信じますよ。当然じゃないですか」
私の言葉に梨子さんはそう答えて、微笑んだ。……今から考えると、そのときの私の発言はなんだかちょっと奇妙というか、なんていうか愛の告白みたいな気がしないでもなくて……だって、「あなたのことをもっと知りたい」なんて台詞、普通いわないよね?……その夜、私は一人ベッドの上で梨子さんに変な誤解をされたのではないかという不安と焦りと少しばかりの後悔から頭を抱えて唸り声をあげる羽目になった。……けれど、梨子さんのことをもっと知りたいという私の気持ちは、たぶん、偽りないものだった。それはもしかしたら今まで生きてきて私が最も強く感じた、他者への興味だったのかもしれない。……だって、梨子さんって変だよね? 私が知りたいという気持ちはだから変な意味なんてぜんぜんない、純粋なものなんだ。
――それから数日して、梨子さんからメールがあった。「ちょっとフランスに行ってきます」とだけ書かれていた。……なんて人だろう。「ちょっとフランスに行って」くるだなんて。喫茶店で交わしたあんなささいな言葉で刺激されて、実際に行動に移してしまうなんて。大人としてどうかと思う。……私は梨子さんに、けれど、「おみやげ期待しています」とだけ返信した。それ以上のことをいう必要なんてないって思ったから。……なんだか梨子さんがこのままどこかへいなくなってしまうような、吹けば飛ぶような微かな不安に駆られはしたけれど。
もちろん、梨子さんがこんなことで永遠に私の前から姿を消してしまうなんてことはあるはずもない。梨子さんはお金がないからという理由で、一週間もせずに日本に帰るというメールを私にくれた。私は、梨子さんが帰国する日、空港まで迎えに行ってみることにした。なぜかというと……なぜだろう? ……たぶん、それは飛行機が見たかったからだ。そうです、梨子さん、私、けっこう飛行機が好きなんです。だって、あんな鉄の塊が空を飛ぶなんて人類の英知の勝利って気がするじゃないですか? ……いや、ええ、私が飛行機に乗ったのは修学旅行で沖縄に行ったそのときくらいですけど。海外にはまだ行ったことないです。……そりゃ私がもうちょっとアイドルとして売れていたら、海外ロケとかイベントとかで海外に行くチャンスはあったにちがいないですが。……なんだか悲しくなってきた。これ以上このことを考えるのはよそう。
……ともかく、私は空港の到着ロビーで梨子さんがやって来るのを待った。少し緊張する。空港って人が多くて活気があって、特に具体的な理由はないけど、気分が盛り上がる。わくわくしますよね? ……梨子さんの便はもう到着しているはず。まだかなと待っていると、通路の奥から梨子さんが歩いてくるのが見えた。ロビーの椅子に座ってソワソワしていた私は立ち上がり、梨子さんに向かって手を上げる。梨子さんも気づいて手を振ってくれた……のはいいのだけれど、梨子さんの隣に見知らぬ女性が寄り添っているのが見えた。二人で何か会話している。梨子さんよりはずっと小柄……たぶん私よりも背は低い……髪を金色に染めている、そして、二人のやりとりから、その人が梨子さんのことを「先輩」と呼んでいることに私は気づいた。
「比奈さん、本当に迎えに来てくれたんですね。うれしいです」
「あ、はい。飛行機、好きなんです」
「そうですか。それは少し意外ですね……。お茶漬けでも食べてから行きましょうか? 成田にお茶漬け屋ありましたよね?」
「それはいいんですけど……その」
「はい?」
「隣の方は……?」
私がそう聞くと、梨子さんはようやく思い至ったように、「学生のころの友人です。聞いたらちょうどパリにいるというので、一緒にパリ見物してきました。帰りの便も、まあせっかくですので、一緒のものに変更しました」とその女性を紹介した。……梨子さんの友人。梨子さんよりは二、三、年下に見える。その女性は、「杉崎です」といって、私に手を差し出した。おずおずと、私はその握手に応える。
「先輩から話は聞いています。……佐野さん、ですよね?」
「そ、そうです、よろしくお願いします……」
私はぺこりと頭を下げる。すると、杉崎さんという方はじっと私に視線を注いでから、梨子さんに、
「先輩、女子高生に手を出したらダメですよ」
と、冷たい声でとんでもないことを口にした。
「失敬な。別にそういう気はありません」
「ふーん、ま、いいですけど」
「……含みのある言い方ですね、杉崎さんは忙しいのでしょう? 早く帰ったらどうでしょうか?」
「そりゃ先輩に比べたら忙しいですが。……ま、いいです。それじゃ先輩、例の件はよろしくお願いしますよ。近いうちに顔を出してください」
「わかっています」
梨子さんは杉崎さんからぷいと顔を背ける。なんだか大人気ない。杉崎さんはそんな梨子さんの態度には慣れているのか、私に一礼してから、キャリーケースを引いて、通路を進んでいく。
しかし、まるで言い忘れたことがあったといわんばかりに、彼女は足を止め、梨子さんにこういった。
「先輩は貴重な二十代後半をどう見ても先輩には向いていない仕事に費やしましたからね。そろそろ大人にならなきゃ、ダメですよ」
……私はその言葉の意味をすぐには理解できなかったけれど、徐々に、杉崎さんは梨子さんがプロデューサーという仕事をしていたことを非難しているんだという事実に思い至った。
「……あれはあれで、得難い体験だったと考えていますよ」
「へー、本当ですか? そっか、そうなんだ……。先輩は変わりませんね」
「これでも変わっていますよ。成長かどうかはわかりませんが。……それに、杉崎さんも変わりませんよ」
「嘘。私は変わりましたよ。そんな嘘はつかなくていいです。先輩」
杉崎さんはそういって苦笑して、私と梨子さんの前から去って行った。杉崎さんの背中が小さくなって見えなくなるまで、私たちはその場に立ち尽くしていた。……梨子さんは、「お茶漬け、食べましょうか?」と私に振り向く。……私は、どうしてだろう、そのとき梨子さんの言葉にすぐ反応することができなかった。……だって、梨子さんと杉崎さんの二人がした会話の意味を私はぜんぜん理解できなかったから。蚊帳の外に置かれた気がしたから。ああ、二人はやっぱり大人なんだ、私の知らない世界にいるんだと思わされた気がしたから。少しは仲よくなれた気がしていたけれど、でも梨子さんは私よりずっと大人で、私の知らない関係や体験や現実をいろいろ知っていて、それに疎外感を私は覚えてしまったから。
「私、もう帰ります……」
「比奈さん」
「私は……私、その、梨子さんのこと、もっと知りたいです」
「……はい」
「でも、なんだか悔しいというか苛立つというか、今、梨子さんの側にいたくないので、帰ります。……ごめんなさい」
「……わかりました。気をつけて」
そんな梨子さんの言葉を空しく聞いて、私は歩き出した。……通路を進んで、しばらくして、もしかしたら梨子さんは私を一人で帰らすのがやっぱり嫌で、私を引き留めてくれるかもしれない、私の腕を取ってくれるかもしれないと思ったけれど、現実はそんなことは一切なく、私が振り返ると、そこにもう梨子さんの姿は見えなかった。たぶん一人でお茶漬けを食べに行ったんだろう。
梨子さんのバカ。薄情者。