アイドルマスターの劇場版を見てきました。忌憚ない印象を述べれば、つまらなかった。ただそういって終わりにするのはあまりに味気ないですので、以下に思ったことを雑然と書き留めておこうと思います。
まず本作から受ける印象は単調ということです。物語は特に目新しさがあるわけではありません。活躍している765プロのアイドルたちが冒頭で描かれ、アリーナライブが示され、合宿が描かれ、ミリオンライブの登場人物たちの挫折が描かれ、その復活が描かれ、最終的にライブシーンで幕を閉じるというものです。ストーリー面では驚きというものは感じられません。この点で本作は単調であると指摘することが可能かもしれませんが、もちろんそれだけでは大きな問題とはなりえません。単調であることがただちに欠点だということはありえないのですから。問題とすべきなのは、本作で描かれた内容がすでにアニメ版で扱われているという点に求められるべきでしょう。
ごくおおざっぱにいえば、本作はアニメ版で千早が担った役割を、ミリオンライブの可奈が担当したということです。千早の挫折とその復活が、可奈のそれに変わっただけで、そこに大きな変化は認められません。しかし千早の挫折が家庭問題と歌、春香たちとの絆という背景を有するのに比べて、可奈の挫折が千早以上の豊かさを有していたかというと、それは疑問に思わねばならないでしょう。というのも、可奈の場合、彼女は春香にあこがれてアイドルを目指したという事情が語られるのですが、実際に可奈がどの程度春香に拘泥していたか、また可奈がバックダンサーとして春香たちと邂逅するまでにどのような経歴をたどって来たのか、作中では示されないのですから。私としては可奈のドラマにアニメ版の千早以上の興味を覚えることは困難でした。これは可奈と同期である志保たちの関係性が描写不足であった点も同じく考慮しなければならないでしょう。
可奈と春香のドラマ(こういう言い方が許されるかどうかはわかりませんが、少なくとも本作における中心はまちがいなく可奈と春香でした)を彩るメタファーも私には本作の単調さを助長する要因であったように思われます。合宿が描かれていた舞台は海の近くののどかな民宿(かな?)で、光る海と緑あふれる豊かな自然の風景は、特訓するアイドルたちの希望をよく表現していたと思います。しかし、その後、可奈の挫折が描かれ始めると、一転して、舞台は黒い雲に覆われた無機質な都会に移り、その悲劇性が強調されるに従って雨が降って来る。雨脚の強さが最大に強まった時点において、可奈の挫折と逃走の秘密が明らかになり、春香たちが可奈を救うと雨は止み、晴れ間がのぞくのです。
上記のメタファー群は私にはあまりに凡庸なものに思われます。雨が悲しみを表し、太陽が復活を象徴する。ただ、これは非常に安易な描写ではないかという気がするのです。
春香の問題に移りましょう。春香は本作でまちがいなく中心人物でした。本作のすべては春香を基軸に描かれます。可奈が失踪し、可奈の同僚である志保が、可奈を切り捨てるべきだと主張しますが、春香はそれを肯じません。彼女はあくまで可奈に固執します。その理由は、可奈が自身にあこがれていたことを春香が知っていたこと、アイドルという夢は簡単に捨てられるものじゃないこと、そして春香が信じている仲間という絆のためなのです。
この春香の信念は志保をはじめとしたミリオンライブの面々には理解しがたいものですし、救われる可奈にも決して明瞭なものじゃありません。正直なところ、私にもなかなか飲み込めるものじゃない。しかし、765プロの面々はそんな春香に全面的な信頼を置いており、彼女を疑うということはありません。プロデューサーにしても同様です。問題の解決はすべて春香に委ねられています。これをどう考えるか?
私にはこの765プロの結束は、ある面では閉塞のように見えます。春香の行動を疑問に思い、別に行動する人間がいてもよかったように感じます。美希と伊織、そして雪歩がその役割を担っていたとはいえるでしょう。ですが彼女たちは根本的には春香の味方ですので、春香に強く意見し、波乱を起こすという展開にはなりませんでしたし、アニメ版を考慮しますと、そもそもそういう展開にはなりえないのでしょう。その意味で本作では春香の敵というものは存在しないのです。志保は春香の敵を務めるには不十分でした。つまりアニメ版では存在した春香の敵というものは劇場版にはおらず、本作を盛り上げる相手方というものが欠落していたと指摘できるのではないでしょうか。
春香と可奈の物語とは、青春もの部活ものとしては極めてありふれた形だと思います。練習が苦しく、自分には無理だとあきらめるが、しかし先輩にがんばることのすばらしさを教わり、立ち直る。
ここまで書いて思いましたが、アイドル文化というものは日本の部活文化と非常に似ているのかもしれません。その類似点がアイドル文化の人気の要因のひとつなのかもしれません。まあこれは余談です。
アイドルものとして本作を考えると、アニメ版ではあまり描かれなかったファンの側面を、可奈を通して、よく描写されていたと感じます。そこは非常によかったと思います。あこがれの人に会い、あこがれの人を目指す可奈の姿と、またあこがれる側になった春香の姿は、アニメ版では希薄だったように思われるアイドルものとしての要素を十分に満たしていたように思います。
完璧なところにドラマは生まれない。物語は何かしらの欠落から生じると、あるいはいえるかもしれません。それを考えますと、アニメ版を経た765プロはもはやドラマを生む余地を残してはいなかったということが可能ではないでしょうか。ドラマを作るためにミリオンライブの登場人物を導入したと果たしていえるのではないでしょうか。
アニメ版ではドラマの原動力そのものであった千早も、本作ではすっかり落ち着いていました。いや、これはいいことなのかもしれないけれど、私としては千早とはこういう人間だったかなと若干考えてしまいました。あるいは彼女はもともとおとなしい人だったのかもしれない。
美希や伊織といった面々も、無駄に事を荒立てる真似はもうしませんので、ドラマの主役にはなりえなかったといえるでしょうか。二人とも事態の行く末を懸念しつつも、過度に心配してはいなかったのでしょう。特に、「何をそんなに不安がっているのか」云々というセリフは、本作のすべてを表現しているようで、言い過ぎな感じさえあります。そう、本作のテーマとはつまり未来への不安以外の何ものでもないのでしょうから。そしてそういった不安を765プロの面々はもはや抱いていないのです。
プロデューサーの海外研修も、ドラマを用意するための欠落のひとつ、現時点の765プロの安定を壊すための手段のひとつではあったのでしょう。しかし、それは成功しませんでした。プロデューサーの研修が明らかにされたとき、765プロのアイドルたちはひどく混乱しますが(私にはこれも違和感があります。ミリオンライブのバックダンサーたちの問題に対しては終始比較的冷静であった彼女たちとの落差が大きい。もちろんプロデューサーはそれだけ大きな存在なんだといえばそれまでですが)、それも春香の活躍によって沈静化します。これを考えますと、春香という存在の大きさ、その影響力の強さ、重要性が、つまり765プロのアイドルたちが春香に置いている信頼こそが、物語の活力を奪う原因だったのではないでしょうか。
終盤、春香たちが可奈を囲い込むシーンは、私にはなかなか見るにつらいものでした。追い詰められた人間をさらに追い込むことになりはしないかと不安になったのです。というのも、集団で個人を追う場面は、それが善意でなされたものにしろ悪意でなされたものにしろ、ある種の暴力性を帯びざるをえないのですから。
本作のサブタイトルは「輝きの向こう側へ」というものです。「輝き」はトップアイドルを、すなわち現在の春香たちがたどり着いた立場を指しているのでしょう。可奈たちミリオンライブの面々はまだ春香たちから遠い位置にいます。では、「輝きの向こう側」とは一体どこでしょうか。その問題に答えるには、先にアイドルとは何かという問題に答えを出さねばいけないように思われます。そしてアイドルとは何かというテーマに、本作は答えていないように私には感じられるのです。