2017/07/18/Tue
今日は書類と論文を進めていたら、時間が過ぎてしまった。バンドリのこころと花音の話も書きたいからほんの少し書く。
音ゲーって今までぜんぜんしたことなかったけど、これは単純作業に特有のあれで、けっこう脳に来るな。ハイになる傾向がある。なるほどと思ったよ。
ネットを見ていたら、
Entretien avec Jorge Luis Borgesというのを見つけた。PDFだよ。
ついでにYou tubeの
Entretien avec Borges. これはFrance Cultureの特集だったらしい。ところで、Borgesってフランス語だとどう読むのかと思ったら、ボルジェスっていっているね。ボルジュかと思ったが、ちがうか。
2017/07/17/Mon
今年の六月に刊行されたということで、この手の一般向けの科学史・科学解説書としては最新のものにおそらく当たるのだろう。実はまだ全部読んでいないので感想を書くわけにはいかないのだけれど、百ページちょっと読んだ印象としては、おもしろい。極めて的確かつ簡潔に記述されている。註も一通りそろっている。で、その上でいうのだけれど、これは本書に対する不満ではまったくないのだが、このところ物理学・科学関連の一般向けの本を読んでいて思うのは、どれか一冊通読すれば、あとは大体内容は同じだな、ということ。もちろん、情報は更新されていくだろうし、その更新を小まめに追うことがまさしく研究なのだが、しかし、一般書としてはそこまで深入りできないし、すべきでもない。つまり、これ以上、この分野に関してしっかり知りたいのであれば、専門の勉強をしなさいよ、ということなのだろう。
で、余談なんだけど、私は高校で物理はやらなかったんだよね。化学はやった。でも化学はなんか超苦手だった。物理をやってみるべきだったのかしらん。いや、そんなこともない? 私のいとこは化学専門なんだけどな。
マルセロ・グライサー、『物理学は世界をどこまで解明できるか―真理を探究する科学全史』
2017/07/14/Fri
先日、急にボルヘスが読みたくなったので図書館から仏訳のものを借りてきた。仏訳の、しかもプレイヤード版があるとは知らなかった。それは私がボルヘスの来歴に詳しくなかったからなんだけど。つまり、ボルヘスはフランスの文壇とは非常に近しかった。ゆえにプレイヤードにボルヘスがあるのもなにをかいわんや。
とりあえず『伝記集』が読みたかったのだ。で、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」に目を通していると、超おもしろい。が、はてさて、世界を変える一冊の本という印象深く忘れがたい一節が現れた。明らかにマラルメ的な…と思うところだけれど、私はマラルメについては門外漢だし、なんとなくマラルメとは異なる気がする、ボルヘスは。というか、フランス文学の潮流とはちがう気がする。どうちがうかは上手く言葉にできないのだが。
「トレーン…」にはこうある。一冊の本は現実を変えるし、過去をも変える。それは事実そうなのだ。なぜなら、かくいう私たち自身が聖書やプラトン対話篇の所産のようなものではないか。
正確な翻訳はやる気がないのでしないけど、大体上記のようなことが、注に書いてあった。現実が変えられるなら、過去も変えられるというのはまさしくそうなのだろうし、また現代のわれわれが歴史的所産であることは疑いえない。が、それは欧米人たちのアイデンティティによるのではないか? 日本人たる私はまたちがうのでないか? しかし、そういう私自身がまさしくボルヘスのいうところが正しいことを証明しているようにも思える。スペイン語の小説をフランス語訳したものを読んで日本語で思索している当の私が。
J'ai écrit ce conte à Adrogué, à l'hôtel Les Délices, d'Adrogué. C'est peut-être le plus ambitieux de mes contes. C'est l'idée de la réalité transformée par un livre. Mais après avoir écrit ce conte je me suis senti très vaniteux. C'est l'idée d'un livre qui transforme la réalité et qui transforme le passé. Je me suis rendu compte que cela se passait toujours ainsi. Parce qu'au fond de nous-mêmes, nous sommes l'œuvre de la Bible et des Dialogues platoniciens.
(Borges, Œuvres complètes, Paris, Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade, t. I, p. 1565)
2017/07/13/Thu
最近は、私としては非常に珍しいことに物理学関連の本を読んでいる。といっても、専門書に当たる能力も時間もないから、一般向けの解説書しか見ていない。なぜ物理学に興味を持ったのかと聞かれたら、それも私の個人的な文学研究に関連があるのだが、それは、なんていうか、つまり、私はécritureにおける想起や時間意識、意識の流れの問題をここしばらく考えていて、言語学、特にバンヴェニストや、哲学でいえばマクダガートを読んでいて、で、その延長線上で、物理学にも手を出してみたというわけだ。いや、ふだんまったく触れていない分野だったので、かなりおもしろく読んでいるし、何冊か高い本を買い込んでしまった。しかし、現時点での印象をいうと、物理学を勉強しても特に文学研究に役立ちそうなものはなさそう。いや、まだわからない。
フランスにおける自伝研究の古典といっていいPhilippe Lejeuneの『自伝契約』だけれど、Lejeuneは『自伝契約2』なるものも書いている。内容には特に触れないけれど、ルジュヌは自分は長い文章を書くのは苦手で、出版するのは全部、断章の寄せ集め、パッチワークだと述べている。いわれてみればたしかにそのとおりで、『自伝契約』にしてからがそうだ。ここらへん、文筆の才能の型の表れという気がして少しおもしろい。
マリオ・リヴィオ『偉大なる失敗―天才科学者たちはどう間違えたか』 Philippe Lejeune, Signes de vie. Le pacte autobiographique 2.
2017/01/28/Sat
澁澤龍彦は何かのアンケートで、推理小説にはダンディズムが不可欠で、ペダンティックでなければならない、といったことをいっていた。大体、同意する。つまり、気障ったらしくなくてはならないということだろう。ただ、それも加減をまちがえると、ただ単に嫌味たらしいだけになってしまう。だが、嫌味でない名探偵というのは語義矛盾かもしれない。
思考機械ことヴァン・ドゥーゼン教授はその意味では最高にクールだ。個人的には隅の老人と並んで大好きな探偵。シャーロック・ホームズと同時代に生まれた探偵たちをホームズのライバルと称するらしいけれど、隅の老人も思考機械も、安楽椅子探偵の要素を満たす、極めてロジカルな推理を披露する。特に思考機械はそのあだ名の如く、論理に異常なまでに固執する。「必然的な論理が、二プラス二は四であること――ときどきそうなるのでなくて、つねに四であることを教えてくれます」という、作中何度となく繰り返される、思考機械の口癖は、そのまま思考機械のキャラクターと本作の性格を如実に示している。
創元推理文庫では全三巻出ている思考機械ものだけれど、しかし、最も有名な短編「十三号独房の問題」が未収録なのはちょっと残念。これは『世界短編傑作集』に収録されているらしいけれど、それも手に入れなきゃいけないんだろうか。そもそも、思考機械の文庫はどれも絶版らしい。おもしろいのに。図書館か古本を頼るのが吉か。
「今、この部屋で、あなたを殺すこともできます」《思考機械》は落ち着いた口調でつづけた。「そしてそれを知る者は一人もありません。疑われることもないのです。なぜでしょうか? ぼくはミスをおかさないからです」
(ジャック・フットレル『思考機械の事件簿I』)
ジャック・フットレル『思考機械の事件簿I』 ジャック・フットレル『思考機械の事件簿II』 ジャック・フットレル『思考機械の事件簿III』
2017/01/26/Thu
「オレンジ色の研究」は、ホームズ役で帰国子女の沙緒子と、ワトソン役で語り手の園子が、女が親友の女をやむなき事情から殺害する事件を、いちゃつきながら解決する過程を経て、仲を深めるという話。男の刑事は出てくるけれど、沙緒子と園子の邪魔はせず、サポートに徹していて、好感度が高い。一方、「四つの題名」は、相変わらず園子と沙緒子がいちゃいちゃしながら、女子高生が女子高生に向ける劣等感と愛情のもつれで起こった事件を解決する話で、この作品は実に徹底していると感心した。しかもこのエピソードでは、園子が事あるごとに、沙緒子に親友と呼ばれてドキッとしただの、「女同士というものは、そういうものなのだろうか」と物思いに沈んだり、沙緒子の言動に鼓動が速くなったりするし、きわめつけは、体育館裏を「あやうい」雰囲気と称して、「今こうして沙緒子とふたりでいるところを誰かに見られたら、私たちも誤解の対象になるのだろうか」というくだりまで出てくる。すばらしい。誤解ってなんなの。なんなの。
階知彦『シャーベット・ゲーム:オレンジ色の研究』 階知彦『シャーベット・ゲーム:四つの題名』
2017/01/26/Thu
さすがに探偵役の黒猫が24歳の大学教授という設定は無茶でなかろうか。半世紀前じゃないんだし。戦前や戦後すぐでは、それくらいの年齢で教員になったって話は聞く。大体、修士を終えたらすぐに就職していたというのだから、すごい。ただ現代では不可能だろう。どんなにすごい業績があったって無理だろう。というか、そんなにすごい業績はその年齢では無理だろう。どんな分野でも専門化と高度化が著しいわけだし。
黒猫の専門としてマラルメとベルクソンが挙げられているけれど、マラルメとベルクソンではなおさら無理だろう。新奇性がない。
新奇性というのは独創性つまりオリジナリティということだ。新奇性はどうやって得られるかというと、これはそんなに面倒くさい話でなく、先行研究を踏まえるという基本を徹底するしかない。先行研究で触れられていない問題を扱えば、それがすなわち新奇性になるだろう。で、先行研究を踏まえるためには、専門の研究書や論文をコツコツ読むほかにない。がんばらなきゃ。
と、ここまでは作品の本筋とは関係ない余談のようなものだ。本作はたぶん日常ミステリに該当するのだろうけれど、謎というほどのものが扱われているわけではない。推理も、精神分析的というか、かなり無茶な論理が使われている。
森晶麿『黒猫の遊歩あるいは美学講義』
2016/08/18/Thu
2014年の冬に、気晴らしで推理小説を読み始めたが、その趣味が今も続いている。最近はよく有栖川有栖を読んでいる。ドラマにもなったらしいけれど、そちらは一秒も見ていない。
さて、有栖川有栖の数多い短篇のひとつに、「悲劇的」というのがある。これは、ミステリというほどのものではない。火村先生の講義の課題に、変なレポートを出してきた学生がいて、そのレポートの内容に焦点が当たる。それは、世のなかには悲劇や不条理が数多くあり、この世界をつくった神様とは一体なんなのか、と問うものだ。まあ、問うという大げさな言い回しはふさわしくないかもしれない。悲痛な叫びといったところか。
このテーマは古典的であり、そして、矛盾した言い方が許されるなら、常に現代的でもある。ヨブ記やハロルド・クシュナーをただちに想起される方もいるだろう。
で、こういった大きな、本質的な問題について、ブログで何かいいたいわけじゃない。ただ、さっき、ソースカツ丼を食べたチェーン店で、研究ノートを見たら、P. Pの作品(これがだれかは教えてあげない。今の私の仕事の中心的な要素のひとつなのです。秘密主義!)のメモをしていた個所の欄外に、「神は形であり、心がない」と書かれてあった。
はてさて、これはなんだ。まちがいなく、書いたのは私だが、この作品から抜き出した文句かどうかわからない。しかし、ふと思いつく類のフレーズでもないような気がする。ただ、この言葉は、「悲劇的」に対する答えのひとつにはなりうるかもしれない。まあ、単純すぎるかな。
有栖川有栖『ペルシャ猫の謎』
2015/02/12/Thu
森博嗣を読んで気になったというか不思議に思ったのは次の三点。
1.素朴な天才論(天才ってタームが絡むと言説が変な方向に行く)
2.女性の趣味・表象(まったく理解できない)
3.心理的な動機・背景への固執(動機を探ることは無意味という主張にこだわりすぎ)
日本の現代作家について何か本格的に論じたり言及したりする機会はおそらく私にはないだろうけれど(せいぜいこんなふうにブログで雑談をするくらいか)、もし森博嗣で何か考えるとしたらこの三要素からだとぼんやりと思う。これら三つは相互に連関していて、たぶん大きなテーマとしてはコミュニケーションの問題があるんだろう、と思う。
もう少し詳しく書くと、一点目の天才論と二点目の女性の表象はいうまでもなく真賀田四季の造形に関係している。西之園萌絵も若干はそうか。ただ私はこの二人を天才だとはまるで思わない。天才をどのように創造するか、描写するかというのは、ある種の芸術上の課題という気もするが、私はあまり興味はない。天才論ということでぱっと思いつくのはヴァレリーやフロイトだろうか。この二人が関心を抱いた対象はいうまでもなくレオナルドダヴィンチだ。
三点目の心理的な動機・背景への固執は、おそらく森作品を考える上での一つの大きな鍵になるだろうとは思う。「なぜ人は行動するのか?」あるいは、「なぜこのような行為が為されたのか?」というような問いかけに、森作品は、「そのような問いかけは無意味だ、なぜなら他者の行為の原因を理解することは不可能だから」と答え、そして「他者の動機を忖度するのはただ単に安心を得たいがためだ」と説明づける。しかし、ここで一つの疑問が生まれる。それは他者の動機を探ることとは対照的にあるいは必然的に提起されるだろう、「なぜ私はこれをしたのか?」や「なぜ私はこれを欲するのか?」というような、他者の動機ではなく、自己の心を対象にする問題だ。より突き進めれば、「なぜ私は生きているのか?」とでもなるだろうか。はてさて、だがこれは少し行き過ぎかもしれない。
他者の動機を理解することは不可能だという問いは、他者の心を知ることは無意味だというある種の諦念に行き着く。そしてそのような諦念の究極の形として天才が創造あるいは想像される。天才と自己の中間の他者として、西之園のような女性が描写される。これら三要素を結びつけるのはコミュニケーションの問題である。ここでいうコミュニケーションとは自己対他者という構図のものばかりではなく、自己のなかにある複数の自己間のコミュニケーションも存在する。そのような問題意識はたとえば犀川の分裂的自我として表象される。
……と、おそらくこんな具合に論を展開することができる。ところで、これもまたいうまでもなく、私は西之園萌絵も真賀田四季も控え目にいって大嫌いだ。
2015/02/09/Mon
去年12月からミステリ勘を養うためにミステリを読んでいる。森博嗣のシリーズに最も目を通している。SMシリーズはけっこう楽しく読んだ。最終巻は納得いっていないが。Vシリーズは一作目を読んだけれど(これはまったく納得いかない)、二作目の序盤が退屈に思えて、そこで放り出してしまった。続きはそのうち読むと思う。四季シリーズは秋だけ読んだ。正直なところ、真賀田四季の話を読む気は起こらない。SMシリーズも四季が登場するところは、『すべてがFになる』を除けば、概して陳腐に思える。これは本シリーズで何回か繰り返し描かれる天才論と天才が抱くであろう世界観の描写が素朴極まるもののためだろう。天才と天才が関係するところの世界観が単調であり、浅いのは、これはおそらく天才という幻想に対する作者のこだわりのためなのだろう。天才が関係しない世界観に関する記述はおもしろい。
それで、Gシリーズを数日前から、気が向いて、読んでいる。ボリュームは少なく、あっさりと読める。このシリーズはすでにミステリの範疇にはないとは思うが、描かれる内容はけっこうおもしろい。何がおもしろいかというと引用がおもしろい。ハイデッガーやウィトゲンシュタインのそれは横に置いておくとしても(アフォリスムとしてのウィトゲンシュタインっていうのはいかがなものか。このシリーズにおいて為されるような引用の仕方だと、アフォリスムとしてしか読めない。しかたないけれど)、ヘルマン・ヘッセの引用が二度も為されている点は非常に印象深い。『シッダールタ』と『クヌルプ』が引かれているのだ。これだけでこのシリーズが何をテーマとしているかが鮮明となる。つまり、生と死、人生と幸福、非常に倫理的な問題が主要な関心事となっていることがわかる。
ハンドアウトの引用を見るだけで、何を発表しようとしているかがわかる、という場合があるけれど、今回の例はそれに近いように感じられる。おもしろい。