2006/06/30/Fri
シェイクスピア四大悲劇の中で私が一番好きなのはマクベスである。きれいはきたない、きたないはきれいの三人の魔女の文句で始まる悲劇はシェイクスピア戯曲中、最も凝集力があるといわれる。確かに同じ四大悲劇のリア王などはあらすじの規模は明らかに違う。しかし少なからず冗長な部分もあるシェイクスピア戯曲のなかで作品として必要なもののみを丹念に彫刻したマクベスは、ただ美しいといえるのである。一種の密室劇であるマクベスの展開は余分なものがなく、骨格としての厳しさがある。
ところで私は幼年のころ、地元の博物館に飾られた骸骨標本にいたく興味を覚えたことを記憶している。その骨はチョークのように白く触れたら崩れそうに見え、こんな寄り木細工のようなものが人体を支えているとはある怖れを帯びた驚きを感じるばかりであった。私は展示室の入り口脇にぽつんと何を考えているかうかがい知れない人体に見たくはないが見てみたい、見たいができれば見たくないといった、実に奇妙な感覚を抱いたものだ。それは確かに親しみの印象を帯びていた。
参考図書(amazon)
マクベス / 福田 恒存、シェイクスピア 他 
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2006/06/29/Thu
ショーペンハウアーの「随感録」を読むが、どうもこの厭世観には気分が滅入る。やはり私は人生どう生くべきかなる書物には興味がとんとないようだ。途中でやめた。
ユイスマンスの「彼方」を読みはじめる。さすがユイスマンス。とてもおもしろい。しかしユイスマンスの作品はこれと「さかしま」のほかに邦訳されているのはないのだろうか?それか原書を探そうか。
amazonから「魔弾の射手」が届く。すばらしい。ウェーバーの魅力は言を俟つまでもない。聞き惚れるのみである。
本屋でドストエフスキーの「悪霊」を購入。まだ読んでなかった。とても楽しみだ。
ライトノベル「吉永さん家のガーゴイル」を読む。アニメ化したようだ。一巻を読んだが、つまらない。同じくライトノベル「セカイのスキマ」を読む。最後まで読んだが、つまらない。ライトノベルの欠点のひとつとして、読み易過ぎるという点がある。イラストは綺麗なものが多いのに、残念だ。

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2006/06/28/Wed
ステッキが欲しい。象牙の握りのついた黒檀のステッキとか欲しい。これにシルクハットやフロックコートを着込めば、まるで十九世紀初頭のダンディである。ロマンチック時代全盛期である。でも日本だと暑くてたまらない。
私の脳裏に浮かぶイメージは十九世紀のフランスで縦横無尽に活躍した殺し屋ラスネールだったりする。左様、私はこの大胆不敵、奇抜な思想家にして名代のダンディズムの体現者、犯罪紳士ピエール・フランソワ・ラスネールが好きなのである。詩人になれなかった早すぎたロマン派のひとりとよばれたりする。監獄に下り、処刑されるまでのラスネールの態度は非常におもしろい。
でも黒檀は値段が高い。

象牙も高い

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異端の肖像 河出文庫 / 澁澤 龍彦
2006/06/27/Tue
100の質問をいろいろと見てまわってみたが、その中で男女の間で友情は成立すると思いますか云々なるものがあった。そういえばこれと似たようなことを以前、知り合いに訊かれたことがあった。はっきりいえば、これほど馬鹿げた質問もなく、これほど下らない質問もまたほかになかろうと思う。というのも、この質問はとどのつまり、異性を見れば誰彼かまわず発情しますか?と訊いているのとまったく同義だからだ。ただ相手が異性というだけで性的興奮を覚える人間がいたなら、その人間はよっぽど変態だということになろう。下劣に倒錯的だ(獣以下という意味において)。また別な言い方をすれば、友情というものにおいて基本的な性愛を抜きにした友情はあるはずもなく、すべての友情はどこかしら性愛的な要素を含んでいるものなのである。
「父子の愛、きょうだいの愛、友愛、共に同性愛であるが、只永い間のしきたりのために抑圧されて、意識に上らない迄の話である。」
稲垣足穂「アフロディテ=ウラニア」
人間の存在にはその前提として性愛が基礎として備わっているのであり、性愛がなければ人は物事を考えたり、生活を機微よく過ごすための感受性を享受することさえ不可能になるだろう。大体、私は人間の本質としては性差は認められないと考える人間であり、というかそもそも区別するのもめんどうくさいと考える人間である。ぶっちゃければ、少女かそれ以外で区別してもかまわないくらい。
参考図書(amazon)
血と薔薇コレクション 1 / 澁澤 龍彦アフロディテ=ウラニア収録

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2006/06/26/Mon
何を書けばいいか、さっぱり思い浮かばなくてかれこれ三十分は困っている。こういうときはどうすればいいか、そうだ、100の質問でもやってみようでないか。そういうわけでやってみます。
Q : お名前はなんですか。(ハンドルネーム可)
A : 石田麦です
No.2
Q : 血液型は。
A : 秘密です
No.3
Q : 性別は。
A : です
No.4
Q : 趣味は。
A : 読書
No.5
Q : 好きな食べ物は。
A : みかん
No.6
Q :お住まいはどこですか。都道府県ていどで。
A : 教えません
No.7
Q : 性格を一言でいうと。
A : わかりません
No.8
Q : わりとがんばっている方ですか。
A : 何だ、この口の利き方は
No.9
Q : 利き腕は。
A : 右です
No.10
Q : 好きな番組は。
A : ありません
No.11
Q : 最近、どのようなことで笑いましたか。
A : おぼえてません
No.12
Q : 尊敬する人物を教えてください。
A : いません
No.13
Q : 買ってしまったけど、失敗したなーというものは。
A : ありません
No.14
Q : 今までで1番高い買い物は。
A : 知りません
No.15
Q : 自分を動物にたとえると。
A : わかりません
No.16
Q : 春・夏・秋・冬どれが好きですか。
A : 冬かな
No.17
Q : その理由は。
A : とくにありません
No.18
Q : 憧れの職業は。
A : ありません
No.19
Q : 生まれ変わったら、男の子と女の子どちらになりたい。
A : 魔法少女
No.20
Q : その理由は。
A : いうまでもありません
No.21
Q : 旅行したいところはどこですか。
A : とくに旅行したいと思いません
No.22
Q : 口癖はありますか?
A : ないです
No.23
Q : どのようなアルバイトをしたことがありますか。
A : 教えません
No.24
Q : 今日の気分を天気で言うと。
A : おだやか
No.25
Q : いま一番欲しいものは。
A : ステッキ
No.26
Q : 「さぁ、リズム良く♪あ、ワン、あ、ツー、あ、ワンツースリーフォー」の「あ」をどう思いますか?
A : わけがわかりません
No.27
Q : ジャージで町を歩けますか。
A : 問題ありません
No.28
Q : ところで、今何時。
A : 時計がありません
No.29
Q : 髪の毛の色は。
A : 黒だと思います
No.30
Q : 小学校のときに好きだったテレビ番組は。
A : ありません
No.31
Q : 印象に残っている映画は。
A : いろいろ
No.32
Q : お酒は好きですか。
A : 好きです
No.33
Q : ネットをどのように利用していますか。
A : 良いことに
No.34
Q : あなたのサイトのセールスポイントは。
A : とくにありません
No.35
Q : 昨日の夕食に何を食べましたか。
A : 教えません
No.36
Q : 今日の朝ごはんは。
A : 教えません
No.37
Q : 平均の睡眠時間は。
A : 数えたことありません
No.38
Q : 昨日何時に寝ましたか。
A : わすれました
No.39
Q : で、何時に起きましたか。
A : わすれました
No.40
Q : 小学校の給食で好きだったものは。
A : ごはん
No.41
Q : 同じく、嫌いだったものは。
A : あんまりない
No.42
Q : 親友に一言お願いします。
A : とくにありません
No.43
Q : では母親にも。
A : とくにありません
No.44
Q : 小さいころ何をしていましたか。
A : 深い質問です
No.45
Q : 苦手なことは。
A : ボーリング
No.46
Q : 得意なことは。
A : 午後の紅茶をのむこと
No.47
Q : あ、目の前に宇宙人が・・・
A : 質問の意味がわかりかねます
No.48
Q : お化けを見たことがありますか。
A : 残念ながらありません
No.49
Q : 携帯電話はメール派?電話派?
A : 何それ
No.50
Q : ペットはいますか。
A : いません
No.51
Q : アクセサリーは好きですか。
A : しません
No.52
Q : 小学生のとき好きだった教科は。
A : 先生の話
No.53
Q : 今まで経験したことのないことで、やってみたいことは。
A : 拳銃
No.54
Q : 好きな動物は。
A : ありくい
No.55
Q : 2000円札についてどう思いますか。
A : 感慨はありません
No.56
Q : 人以外に変身するなら何になりたい?
A : ありくい
No.57
Q : 好きな言葉はなんですか。
A : とくにありません
No.58
Q : 日本の政治家に一言
A : とくにありません
No.59
Q : メル友はいますか。
A : とくにありません
No.60
Q : ネットオークションに参加していますか。
A : とくにありません
No.61
Q : ストレス解消法は
A : 問題ありません
No.62
Q : 「じゃんけんポン!!」多いもん勝ちでこれを出すと必ず勝つというものがありますか。
A : 何だこの質問
No.63
Q : 「最近この人1番がんばっているな。」と思う人は。
A : いません
No.64
Q : 最近できるようになったことは。
A : とくになし
No.65
Q : 最近はまっていることは。
A : とくに変化ありません
No.66
Q : 長所は。
A : 短所はないです
No.67
Q : ハイ、ポーズ!
A : 質問?
No.68
Q : 幸せですか。
A : とくにありません
No.69
Q : 占いについてどう思いますか。
A : どうも思いません
No.70
Q : ではやくざは。
A : どのやくざ?
No.71
Q : もういっちょ!政治家は。
A : どの政治家?
No.72
Q : 好きな色は。
A : 白と黒
No.73
Q : 好きな花は。
A : たんぽぽ
No.74
Q : さあ、今から何か叫んでください。
A : 叫びません
No.75
Q : もし1週間しかいきられないとすると、何がしたいですか。
A : 鍋
No.76
Q : もし1週間しかいきられないとするとまず何を食べたいですか。
A : 鍋
No.77
Q : 夏といえば。
A : 七月
No.78
Q : では冬といえば。
A : 一月
No.79
Q : 中学生・高校生のときの変な校則は。
A : とくになかった
No.80
Q : 恋していましたか。
A : 秘密です
No.81
Q : 東京ディズニーランドは好きですか。
A : 何の感情もありません
No.82
Q : 遊園地の好きな乗り物は。
A : ぐるぐる回るやつ
No.83
Q : お勧めのホームページは。
A : とくにありません
No.84
Q : 携帯電話に知らない番号からかかってきました。でますか。
A : 状況によります
No.85
Q : メールは1日に何回しますか。
A : 教えません
No.86
Q : 電車ではお年寄りに席を譲りますか。
A : 状況によります
No.87
Q : 今日のお天気は。
A : 問題ありません
No.88
Q : B型についてどう思いますか。
A : 何だこの質問
No.89
Q : A型は。
A : よくわからない
No.90
Q : O型は。
A : だから何それ
No.91
Q : 夏休みの宿題は早く終わらせる方でしたか。
A : ぜんぜん
No.92
Q : 学校の先生は好きでしたか。
A : 場合によります
No.93
Q : 団体行動は好きですか。
A : 状況によります
No.94
Q : ルールや規則は守りますか。
A : ルールによります
No.95
Q : 嫌いな職業ベスト3は
A : ない
No.96
Q : 待ち合わせの時間に間に合っていますか。
A : 状況によります
No.97
Q :警察署の前で1000円札を見つけました。どうしましょう。
A : どうもしません
No.98
Q : コンビニでよく買うものは。
A : イチゴ・オレ
No.99
Q : ここまで読んでくれた、サイトのお客様に一言お願いします。
A : すみません
No.100
Q : お疲れ様です。最後に一言お願いします。
A : 二度とこの質問やりません

よくわからない質問でした
2006/06/25/Sun
耳というものは身体の中で特に変な形をしている。ねこや犬の耳は可愛らしく別に変な印象は受けないのだが、人間の耳はどうも奇妙な形態に思える。何かとってつけたような感じがする。
一九三五年、ニューヨークの近代美術館でゴッホの大展覧会が開かれた。当時はまだゴッホはそれほど有名でなく、作品よりも耳切り事件などによるこの画家の狂気的なエピソードに猟奇的な興味を寄せている人が大勢だった。そんな中で名代のミスティフィカトゥールとしてしられるフュー・トロイという人が、ひとつ人々を驚かしてやろうと古ぼけた革の切れっぱしで人間の耳を作成した。それは干からびて、茶色くなった人間の耳のミイラにそっくりだった。こうして耳のオブジェができあがると、彼はビロード張りの小箱におさめて、天来会場の隅のテーブルの上にそっと置き、そのそばにゴッホの耳という貼札をしたのであった。
まんまと彼のいたずらは成功し、美術館側が事態に気づいたときには小箱の前には人盛りが山とあった。
ゴッホの絵の真価を解せず、いんちきな耳のオブジェに興味を寄せるのはいうまでもなく俗物である。しかし、こういった俗物的精神がなかったらその後のアメリカ・ポップアートが開かなかったのもまた事実である。ゴッホの絵が偉大なのはいうまでもないが、しかし、芸術は刺激を与え挑発しなければ、停滞することもまたまちがいのだろう。過去の芸術作品を茶化すのは、芸術の衛生学として常に必要なように思われる。
耳の形状は私にはおもしろい。何か人体の中で最も合理的に発達した部位という気がする。何か人体のメカニクルな部分を端的に象徴している気がする。ゴッホが敢えて耳を切り落としたのも、私にはおもしろい。耳を削りたいという気持は、そう遠い感情ではないのでなかろうか。絵を見るときにも、耳の部位は私にはある種独特な見方を要求するように思える。

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2006/06/24/Sat
福音書に基づくキリストの教えに従って生きよと説いたトルストイ晩年の思想を端的に示したのが「光あるうち光の中を歩め」である。物語は功名心や利己心が渦巻く世俗的世界に生きるユリウスが、その人生の途上で何度も生活に嫌気がさし、友人パンフィリウスの生きる古代キリスト教の世界におもむこうとするが、そのたびに今までの生活を捨てきれず、舞い戻る。しかし、長い魂の彷徨の果てについにキリストの教えにかえる、といったものである。
この物語があらわしているのは、自分にとって何が大切であるかをじっくりと考えろ、ということでないかと思う。私たちはともすると自分の内面的価値を見誤り、外部に規定されている価値こそ本当なのだととらえてしまう。自分が欲していることは、本当に自分が望んでいることなのであろうか。外的なものに煽られたりした結果なのでなかろうか。自分自身をしっかり吟味することが肝心なのだ。・・パンフィリウスは何度も自分の生活は果して自分にとって良いのかどうかと悩み、苦しむ。その局面ごとに外的な判断によって右往左往させられるのだ。
「自然の欲望は限られています。しかし、偽りの俗見より生じた欲望は何処で思い止まるか、誰もそれを知りません。偽りの欲望は限度を持たないからです。道を行くものには或る終点があります。道を迷い歩くことには限りがありません。ですから、空虚な物事からは遠ざかって、自分の求めるものが(自分自身にとって)自然な欲望を有するか、それとも盲目的な欲望を有するかを知ろうとする時は、それが何処かで止まることが出来るかどうかを考えなさい。長い道を進んでもいつもさらに長い道が先に残っているなら、そのことは自然でないと心得るべきす。」
セネカ「道徳書簡集」
好き勝手に生きたいものだ。しかし、その好き勝手が自分の欲するところかどうかは、自分で考えるほかない。

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2006/06/24/Sat
サルトルに関して何か書こうかと思ったが、暑いのでやめた。気がつけばもう梅雨も過ぎ去ったのであろうか。すっかり夏らしい気候になっている感がする昨日今日である。私は暑いのが好きでないから、もう昼に起きているのが嫌なほどだ。涼しい夜に主に生活していたい。夏の昼間は大嫌いだが、夏の夜は大好きなのである。日中の暑気が和らいで、広大な天空が一面に広がっている。うるさかった蝉もいくらかおとなしくなった気がする。そんな中でゆったりと軽やかに吹く風に身をさらすのはすばらしい。だから、夏の昼は寝て過ごすのが一番である(涼しい部屋で)
・・こんなこと書いているともう真夏のような気分になるが、まさかこれから日本はさらに暑くなるのでなかろうか。いや、絶対暑くなる。だってまだ七月にもなっていないでないか。嗚呼、これからさらにさらに暑くなるのは明らかだ。今でも暑くて困っているというのに、太陽はとどまることをしらず私を熱して苦しめるだろう。厄介だ。実に厄介だ。もう暑さで嫌な思いをするのは嫌だ。逃げ出したい。・・
夏にはポルノグラフィーがふさわしいかもしれない。強烈な小説で熱した頭をもっと刺激するのが最高かもしれない。サドの「悪徳の栄え」とかP・レアージュの「O嬢の物語」とかおすすめ。

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2006/06/23/Fri
氷川へきる先生のぱにぽにについて何か書こうかと考えたが、書くことがあまりないことにさっそく気がついた。これは別に中身がないとかそういうことをいっているわけではなく、あるまんがのおもしろさを言葉で説明するのがどれだけ無粋なことか、また難しいことかということを考えてしまったからだ。
ぱにぽにがどういうまんがかというと、まずいえるのは無数の混沌とした集合である、ということだろう。数多くの登場人物がおり、数多くの複雑な絡み合いがある。そのために一読では誰が誰だかもわからず、話の展開もついていけないことがおおい。これは厄介だ。正直、読んでいて疲れる。だがまあ、読み応えがあるといえば、これほど歯ごたえのあるまんがもほかになかろう。たくさんのキャラがいるのにそれぞれ際立った特徴を備えていて、なおかつ一話一話のストーリーを運行しているのだから、実際、大したものだ。ちなみにアニメ化もしたが、私はどうもこのカオスが映像化されているのを見て、何だか非常に疲れてしまった。最近、アニメ見るのがとても疲れるのだ。齢かしら。
ともあれ、ぱにぽにのようなまんがはほかに探すのは難しいだろう。この厄介さはぱにぽにでしか味わえないものだ。

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2006/06/22/Thu
考えてみると、生まれてこの方、献血をしたことがなかった。これに特に理由はない。ただたんに機会のなかっただけのことであって、別に献血に一家言あるわけでも、身体上の不都合があるわけでもなかった。そんな私が思い立って献血に臨んだのもまったく気まぐれ以外の何ものでもない。そんなもんである。
しかし、いざやってみるとこれがなかなか時間がかかって大変だった。私が必要な書類を書いてバスに向かうと、そこには驚いたことに長蛇の列である。なんだ、血が不足しているというわりには献血に強力してくれる人はたくさんいるじゃないか。しかし職員の人に聞いてみると、こんなに大勢の人が集まってくれるなんて滅多にないことらしい。
「もう本当は今日は帰ってるはずなんですよ。いや、ありがたいことなんですがね。血液は慢性的に不足してますし・・」
「へえ。今日みたいにこんなに混み合うのは珍しいんですか」
「はい。いや、本当にありがたいですよ。・・ああ、初めてですね。これ献血カードです」
そういわれて私ははじめての献血手帳とぬるいアクエリアスと赤十字のバッジをいただいたのである。四十分も時間がかかって少しばかり疲れた。
そしてすっかり夏らしくなった夕暮れの帰路をてくてく歩いているうちに、私は自分の血液が誰かの役に立つイメージは素敵なものだなと思った。私は小学校に通っていたころは、身体が弱く、しょっちゅう病院に世話になっていたものだ。そういえばあのころの私も輸血用の血液には大分、世話になったのだ。今の私はすっかり健康で、献血も何の支障もなく協力できる。私の行いが見ず知らずの人に回っていくというのは、どうも世界の観念をおもしろく想起できる鍵のような、そんな気がする。大宇宙と小宇宙、手近にその象徴はあるものだ。
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2006/06/21/Wed
私がこの作品にふれるそもそものきっかけは何だったであろうか。たぶん、可愛い少女が日本刀を振るうという秀麗なイメージに心惹かれたからにほかなかろう。これで金髪だったら、完璧であったろうと読みはじめた当初は思ったものだ。しかし最近は黒髪もまんざら捨てたものではないと、私の趣味も変化しており、何はともあれ、いとうのいぢ氏の描くイラストは素敵である。
・・こんなことを書くつもりではなかった。私個人の好みはどうでもよろしい。私が書きたかったのは、この作品の主要な設定のひとつである、トーチについてである。このトーチというものの説明がなかなか厄介で、何でもこの作品に出てくる化物は人の存在することの力を食らうのだそうである。そしてトーチというのは、存在の力を食われていなくなってしまった人の代替物のことである。・・何だかさっぱりわからないが、化物に襲われ、殺されてしまうと、殺された人は最初からいなかったことになってしまう。すると世界の因果とか秩序とかがびっくりするので、その驚きを最小限にとどめるために、トーチといういなくなってしまった人の代わりを入れて、徐々にトーチの存在を薄くさせることにより、びっくりを最小限に抑える、ということらしい。
適切な言い方が思いつかないが、ともかくこの作品の化物は存在を奪うのだ。すると、どうか。化物に食われた人間は存在しない。よって、周囲の人間はそのことに気づかない。何故なら存在していたすべてが食われたのだから。友人も、家族も、同僚も、家屋も、空気も何もかも、彼のことは最初からいなかったものとして扱うことになる。つまり、どういうことか。そう、
食われて死んだ人間に気づくことも、いなくなってしまった人間に対する感情さえも、好意も嫌悪も、いなくなってしまったことに対する悲しみさえも、奪われるのだ。「発生する出来事としてみられた死亡が「たんに」経験的な確実性をもつにすぎないということは、死の確実性についてなんら決定的なことではないのである。」
ハイデガー「存在と時間」
この化物に食われた人間は存在しない。よって悲しむこともない。悲しむことすら許さない。悲しむことをも食らいつくす。・・私は、これほど残酷な、悪魔以上に悪魔的な話を、これまでみたことがない。存在しないのである!存在していたのに!そして存在を誤魔化すトーチという、何と傲慢な道具!あまりに残酷すぎて、わたしは心底恐怖し、この虚無にどう立ち向かうのかと思ったものだが、話の主軸はどうやら無害な三角関係に移ってしまったようだ。
「あなたはどれほどおそろしい話を読んでいるか、気づいていないんですよ」
2006/06/21/Wed
静かな深い憂愁がロシア十九世紀文学の特質を成している。ツルゲーネフの作品に関しては、あれこれと身構える必要はない。彼の作品は胸に響く透明なひとつの旋律のようであり、私たちはただ陶然とその心地よい文章に酔えばよいのである。
「ツルゲーネフの悲哀は、その柔らかみと悲劇性のすがたにおいて、本質的にスラヴ民族の憂愁であり、スラヴ民謡のあの憂愁に、じかにつながっている。・・ゴーゴリの憂愁は、絶望に根ざしている。ドストエフスキーが同じ感情を表白するのは、虐げられた人々、とりわけ大いなる罪びとに対する同情の念が、彼の胸にみなぎる時である。トルストイの憂愁は、宗教的な宿命観にもとづいている。そのなかにあって、ツルゲーネフのみが哲人である。・・彼は人間を愛する。よしんばそれが、あまり感服できぬ人間で、たいして信用のおけぬ場合でも、やはり彼は人間を愛するのだ」
ゲオルグ・ブランデ
偶然が全能の力をもっている。そう語る彼の作品には、単なる美しさではない、いわば宿命がもたらす不気味な美が満ちている。私たちはその切なさに、ただただ魅了されるのである。
2006/06/20/Tue
サルトルやデリダによって魔術的とも評される言語の圧倒的な力を駆使した作家ジャン・ジュネは私の最も敬愛する作家のひとりである。ジュネの書く小説はすべて私小説であり、そのすべてが夢と幽玄の境を脱しない。そして、彼の語るものは美と悪のほかに何もない。
ジュネの独自性とは何であろうか。それは彼が悪として物事を語ったという点に存する。悪について語った小説は星の数ほどあるが、悪として語った作家はジュネをおいてほかに見当たらない。社会の最底辺に生きた泥棒作家、ジュネ。男色や窃盗を生業とし、高らかに悪を礼賛したジュネの文章は読む者をその奔流にさらい、巨大で、繊細なひとつの怪物の前に立たすことになる。私たちはジュネの止まることを知らない心情の、力の、願いの、そして言葉の前に恍惚とさせられるのである。
何故、ジュネの作品はこうも魅惑的なのか。この作家の独創性は、悪の領域の唯一の文章家は。それは彼の存在に起因している。ジュネの悪性はジュネの存在のそもそもに組み込まれている。でなければ、ジュネの作品の危険性は説明しようがない。
「最高の罪―世間の目から見た悪―は命を奪うことであるとすれば、殺人行為が悪を象徴する行為となり、それを前にして人が本能的に尻ごみするのも不思議ではない。だから殺害に踏切るのに私が手助けを必要としたとしても驚くにはあたらない。開戦は私を狂喜させた。時節到来だ。身の危険なしに私は人を殺めることができるのだ、人を殺めるというのはどんな気分か、自分のなかで何が殺され、代りにどんな植物がそこに芽生えるか分るのだ。殺した後は後悔がどういうものかも。危険なしに、つまり社会的制裁の危険なしに、生命を破壊した人間が隔離されることなしに。遂に、私は己れの自由をはっきり打ち出せるのだ。」
ジャン・ジュネ「葬儀」
ジュネの悪をめぐる詩的な試み、「葬儀」という作品が含むあらゆる混沌と生命と振動、そのいかなる留保のない悪と美の賛歌をただ歓喜をもって私は味わうのである。この怪物的作品、純粋な愛の礼賛歌、夢幻劇は危険な人間の混沌の存在証明である。
2006/06/20/Tue
私が高校に通っていたときだったが、ある時期、自動販売機にメロン・オレなる飲物が並んだ時期があった。実を言うと、私はミルクと何かを混ぜた飲物が大好きで、カフェ・オレも好きだし、イチゴ・オレやバナナ・オレ等の乳飲料は毎日のように飲むし、コーヒーや紅茶にもミルクを入れたほうが好ましい。しかし牛乳それ自体はそれほど好きでもなく、カレーに牛乳を入れたりはしない。先日、食ったキーマカレーはどうも具合がよろしくなかった。だがまあそんなことはどうでもよろしい。ともかく、私はメロン・オレを自動販売機の前で見初めたとき、何の躊躇もなく購入し、その甘くしとやかな味わいに惚れ込んだのである。
それからというもの私は学校に来るたびにメロン・オレを楽しんだものである。朝、登校して購入し、休み時間にのどを潤し、昼には間違いなく手元にあり、放課後、帰路につく私のよき道中の慰めとなった。こうして思い返すと、いささか飲みすぎていた気がしないでもないが、まあいい。メロン・オレとはそれほど人を魅惑するものなのだろう。しかし不思議なことに、私以外にメロン・オレを飲んでいる人をまったく見かけなかったのは未だもって不可解である。やはりイチゴ・オレなどよりポピュラーでないためであろうか、そんな先入見は一度、味わってみればたちどころに吹き飛ぶであろうが、しかし確かに人気は高くなかったようだ。そう、私があれほどに愛好していたにかかわらず、あるときぱったりと、売り切れの表示が延々と点灯し、そして次の日には完全にメロン・オレは私の前から姿を消してしまったのである。Ah,mon Dieu!
けちくさい功利主義とはまったく!そのとき以来、私はずっとメロン・オレと再び出会える日を夢見ているのだが、その願いは未だ叶っていない。昔日のメロン・オレこそ私の最も愛する飲料であったことだ!
2006/06/19/Mon
なのはという作品について何事か語ろうと思えば、その比類なき美しさを示す以上に適切な方法はないだろう。しかし美について、あれこれと物言いをすることほど無粋なこともない。なのはの美しさはそういった地平を越えたところにあるのだから。
なのはの物語では理想と現実の差異というものが主要なテーマとなっている。なのは始め登場人物たちはそれぞれ自分の願いを持っており、それを叶えるために奔走する。(主役であるなのはにとっては友情のため、自分の信じる正しさのため。相手役のフェイトにとっては家族のため。理想のため)しかしそれらの希望は現実に起こる障害、ほんの偶然の作用により、達成は阻まれている。困難を乗り越え、みずからの夢を叶えようと努力する様が本編では丁寧に描かれている。私が気に入っているのはそこである。世の中の不条理さに当ったとき、なのはは停滞することなく、立ち向かうことを希求する。そしてその達成のためには障害を打ち砕く強い意志を持っている。すなわち、なのはの美しさとは主体的に生を戦おうとする誇り高き生の輝きにほかならない。(そういった意味で、小説版に詳しく描かれているなのはの過去は興味深い。他人に迷惑をかけることを極度に怖れ、自分を孤独に追い詰めていたという記述はなのはの性格を知る上で非常に示唆的である)なのはの魔法の光は戦士の相貌に相応しい。
「武士の仁愛は他の者の仁愛と、その種類が異なる訳ではない。しかし武士の場合においては、それが漠然とした感情から生まれたものではなく、その心には決して正義を忘れない仁愛があり、それはまた衝動的な発現ではなく、その背後に、相手に対する生殺与奪の権力を有した愛なのである。」 対訳 武士道
他人の感情を敬愛する気持ち、なのはの優しさは心地よい。物語は最終的にフェイトの自立的な行動により、契機を迎える。彼女はみずからの手で決着をつけようとするのだ。ここも私は大好きだ。
思うに、なのはという作品は友愛の力と人間の意志の決して見捨てたものでない強さを信じて作られたという点に、弱さや醜悪さを包含してなお輝く美しさが存するのでなかろうか。人間性の光が少女を象徴して描かれたという点も、私にはおもしろく、また当然であろうと思うのである。
2006/06/19/Mon
吸血鬼は私の最も好きな怪異譚のひとつである。吸血鬼という幻想ほど古来から脈々と人々の夢想を逞しくしてきたものも稀ではなかろうか。吸血鬼信仰のそもそものはじまりは、死者への恐怖にある。つまり死んだ人が生き返ったりしないかしらという素朴な空想が、棺からよみがえり、血を吸う化物を誕生せしめたのだ。この話はいろいろとおもしろい。
「およそ、生に執着し、この世に未練をもち、生命の力を渇望するのは、死すべき人間の悲しい本性なのであろう。人間は、その限りにおいて、死後も亡霊となって生者の世界に帰還する。肉体をとって帰還する死者である吸血鬼もこの「亡霊」という大きなグループに属する死霊であって、本来は、悪魔ではない」
栗原成郎「スラヴ吸血鬼伝説考」
独自の美学に基づいた徹底した演出姿勢。流血と鉄槌の奏でる暗黒への礼賛歌。ヘルシングに対しては、私はユーゴーがボードレールに贈った言葉を思い出す。「あなたは新しい戦慄を発明した!」
2006/06/19/Mon
私個人としては賭け事はほとんどやらない。叔父に競輪の選手をやっていた人はいるが、私には何ら関心がなかったし、係りも希薄なものだった。競馬新聞も読み方がさっぱりわからず、パチンコに至ってはどう遊べばいいのか、皆目、見当がつかない。そういえば予備校の寮生活をしていた時期、一時、寮生の間でパチンコが大流行していたことがあった。私はさっぱりわからなかったが、話に聞いたところによると実に私の住んでいた寮の八割が勤しんでいたらしい。よくもまあ、受験に転ばなかったものだ。いや、数人は転んだか?
まあ私としても受験には良い思い出がさっぱりないので、あまり言及するのは避けとこう。しかしドストエフスキーがある時期、ルーレット狂であったのは確かである。二十歳近く歳の離れた女性、アポリナーリヤと一九二八年、ドストエフスキーはバーデン・バーデン、ジュネーヴ、ローマ、ナポリ、トリノ、そしてベルリンへと各地で狂ったようにルーレットをやりながら旅行するのだ。その旅行がどれほど悲惨で被虐的なものであったかはこのロシアの文豪がたまたま会ったツルゲーネフに借金したり、時計や指輪を質に入れたり、無一文で街中さまよいながら兄からの送金を待ったり、あげくのはてにベルリンで別れた元恋人のアポリナーリヤにお金もらったりしたことから推し量れるというものだ。ドストエフスキーは延々と賭博に熱中した。
この実体験がもととなったのがドストエフスキー全著作の中でも特異な位置を占める「賭博者」である。あるひとりの将軍家の家庭教師の青年が、賭博の魅力を通して破滅に向かっていく様が執拗に描かれている。彼はそれなりの人格の持ち主であり、善良で高貴な部分も少なからず持ち合わせているのだが、彼は彼の生活力、力、凶暴さ、勇気をことごとく賭け事に投入する。
「あなたは人生や、自分自身の利害や社会的利害、市民として人間としての義務や、友人たちなどを(あなたにもやはり友人はいたんですよ)放棄したばかりでなく、勝負の儲け以外のいかなる目的をも放棄しただけではなく、自分の思い出さえ放棄してしまったんです。わたしは、人生の燃えるような強烈な瞬間のあなたをおぼえていますよ。でも、あなたはあのころの最良の印象なぞすっかり忘れてしまったと、私は確信しています」 ドストエフスキー「賭博者」
ドストエフスキーの中篇「賭博者」には、ドストエフスキーの病的なエッセンスが色濃く表れていると感じる。ドストエフスキーの文学にしかない破滅的生、そして転化する熱烈な聖なるものへの憧憬。ドストエフスキーは言葉にできぬほどおもしろい。
2006/06/18/Sun
サドの作品の中で私が特に好きなのが、父娘愛を描いた悲惨物語である。近親相姦のエロティシズムこそ、特に父と娘の関係性こそ、世の中で最も甘美なものでなかろうか。父と娘の睦まじい親愛の光景こそ、地上に現出する最も鮮やかな幻想でなかろうか。というのも私自身、情愛の行き着く果ての空想の象徴には、必ず悲惨物語のヒロインであるユージェニーの姿が浮かぶからだ。
私には他者と他者の関係性には、必ず性愛的な要素が絡む気がしてならない。人と人との間にはまず間違いなく性的なものが根幹に位置されるのだ。何故なら人の誕生には性的な動機が不可欠だから。存在のそもそもの根拠として、愛という欲求が関与しているのは疑いをえない。これはまったく当たり前であり、生物がいることには性愛が不可欠なのだ。その中で、父娘愛というのは上位に属している。何故なら自分の娘を愛するとは、不毛な営みであるから。つまるところ娘とは自分の分身にほかならず、それでありながら他者の姿をとったものであり、故に幻影であるから。
娘を愛するとは自己愛の究極の形態でなかろうか。それでなかったら、これほど私たち誰もが一度は考えながらも(その可能性を)、社会の一切がこれを認めないということはありえないでないか。私は人形を愛でることと、娘を愛でることの厳密な区分は難しいだろうし、意味もないという気がしてならない。近親相姦のユートピア、これを夢見る人は今の世の中、数多くいることは明らかだ。だが近親相姦は本質として、さらに時代的に、ますますユートピアとしての立場を増している気がするのは、私だけだろうか。
2006/06/18/Sun
予備校の寮で暮らしていた頃、私の机に必ず置いてあったのがアニマル横町であった。前川涼先生がりぼんで連載しているまんがであり、最近はアニメ化、小学館漫画賞受賞と実に喜ばしい展開をみせている。私の愛するものはきっと運命に愛されるのだなと、私は感慨に耽っているものである。
アニ横は私の大好きな作品であり、その魅力を伝えるのはなかなか困難である。それというのも、何か気の利いたことをいおうとしても、すごくおもしろいとしか私には言い様がないからだ。こんなに素敵なまんがほかになかろう。私は自信を持っていえるが、私は間違いなく日本で一番アニ横を熟読した受験生である。机に座ると、必ず手の届く範囲にアニ横があった。アニ横論文を書いたこともある。
キャラクターたち皆がそれぞれ一筋縄でいかない性格をしており、皆がそれぞれたまらない魅力を持っている。この作品の素晴らしさはたくさんあるが、そのひとつは一話一話がすっきりしており、まんがとして非常に品があるという点であろう。アニ横の世界ではキャラクターたちの掛け合いで一定の秩序が生まれ、そして破壊されていく。この終わることないアニ横の輪廻が、ほかの作品にない威力を生むのであろう。
・・ここまで書いて、私の本棚にアニ横五巻だけないのに気づいた。一体、どこにいったのかしら。
2006/06/18/Sun
ブログというものの特質とは何かということをつらつら考えてみると、それは書き手があり、読み手がいるという一対一の簡単な特質が明瞭に示されているということだと思います。ネットという大多数不特定の人たちに対し、自由な表現活動が可能であるということ、これはとても素敵なことに思えます。こんなに束縛のない言論はこれまで歴史上に見当たらないほどであって、その理由は個人で表現活動のすべてが担えるという点に存することはまちがいありません。
表現の自由でなく、自由の表現、もしかしたらこの理念が実現できる方途が見つかるかもしれないでなかろうか。そういった意味で、私はネットを使うことにより、純粋な文学的営為が可能でないかと、そう考えています。
それはとてもおもしろうそうだ。