まえがき
この短編は本サイト「隠れ蓑」にも掲載されている私の作品のうちのひとつである。今回、ブログにも載せてみるのはより大勢の人の目に触れる可能性があるのでないかと考えたからである。コメントに感想もしやすいであろうという目論見がある。決して新しい記事を書くのが面倒くさいとか、そういう理由でないことは確かなはずだといっておく。
「黙読の灰」
桐嶋マナは恋人である少年のアトリエに来るたびに心に一種の緊張を覚える。彼の部屋はひどく殺風景であり、窓に彩りを添えるカーテンも掛かっていなければ、床に暖かい雰囲気を催すカーペットも敷いていない。剥き出しの灰色の冷たい厳とした壁に囲われた部屋には机とベッド、箪笥や本棚が飾り気なく並べられているだけであって、凡そ人を快適な気分にさせる華がない。それがマナに普段、特に何の制約もない、ゆるんだ精神に彼に会いに訪れるたびに引き締められるような感じを与えるのだろう。
恋人は先程から入ってきたマナに一瞥もくれずに、部屋の中心に置かれたキャンパスに向かっている。挨拶もされないのはいつものことなので、マナ自身も一言も発さず、彼の後ろに木造の椅子を引っ張り、コンテを気ままに振るっている背中を眺め始めた。彼の視線は布地の上とその先にある目標物、即ちテーブルの上に置かれた恋人の右手が自らの縁にある思惑によって新たに生み出し直そうとする根源的行為に曝されている物体を行き来している。それなりに身なりに意識を払ってやって来たマナは溜息も吐かない。これももう十分にこの恋人の態度に慣れた兆候であり、それは少し怖いなとふいに思う。
しかし、慣れはある種の精神の安楽さを生むものであることも、彼女は承知していた。彼がコンテを動かすたびに、神経質に揺れる恋人の細く締まった背中と肩の筋肉の躍動は、シャツ一枚を着ているだけの薄い布地の上に容易に観察できて、それがマナにとってとても楽しみに違いなかった。黙って時を過ごすのは彼女には苦ではない。恋人の芸術的素養に沈黙をもって参加するのは、確かに楽しいことであった。しかし、マナは今日は文庫本を持ってきている。日々の空いた時間に読書をすることが、彼女の大切な趣味の一つであった。こうした恋人と付き合う上で、それはぴたりと当て嵌まった。恋人は今日一日は、ずっと絵の中の住人として謳歌するようなので、マナも今日は活字の世界の人となるだろう。そう彼女は思ったのだが、何気なしに、彼の指先で丁寧に紡いでいるキャンパスの編物の光景、文庫の薄茶色に変色した紙上の印刷字の列の行と行の隙間、その狭間に遠く彼の背中を越えたところにある絵の大地、立体的印象が彼女の脳裏に焼き付いたのだ。
一種の小宇宙的光景であった。こんなことは前にも幾度かあった。彼女の恋人の作る絵は、大抵がひどい代物で、その評価をするという者があれば、作者の前ではおべっかさえも形を失い、嘲笑を思い切ってしてみても、そのひどさの前には空しさを募らせるばかりだといったくらいのものであった。しかし、時折稀に、マナは現在のような天才的直感が惜しげもなく煌めく、恋人の神話的状態を確認するときがあった。そのときの彼は紛れもない一人の錬金術師であり、頭蓋骨を机に飾り、ラテン語の書から古代の悠久都市の幻影を難なく呼び出してしまう、聖なる魔術師であった。マナは、このときの恋人の作る作品は、この地上のどんな名の知れた画家がこれまでに描き出してきたものとは比べようもない、彼岸の世界の造型を見出すのだ。全ての絵画は男と女の雑種混合だと言うが、それではそのときの彼はヘリオガバルスのようにアンドロギュヌスにでも化身しているというのだろうか。
テーブルの上に置かれたオブジェは古びたオルゴールであった。これがさっき、私が体験した宇宙なのかとマナは思った。彼の肩越しにキャンパスを覗くと、黒色のコンテのみによって描き出された脳髄の住人、彼の眼の内に生を持つ、最も苛烈で厳かな人生を過ごしているであろうキャンパスの主は、机上に置かれたオルゴールとは似ても似つかない、ある男の子であった。マナは驚いて、手を止めていた彼に尋ねた。
「これが君の描いていたもの?私はそのオルゴールじゃないとおかしいと思うな。」
「どうして。」
「だって、君はさっきからテーブルの上のものを一生懸命、描いていたんじゃないの。」
「『君』なんて言うなよ。ボクはあなたに『君』なんて呼んで欲しくないな。」
「奇妙なこと言うのね。私は随分前から、君のことを君と呼んでいたじゃん。」
「それじゃ、これから改めましょうよ。『君』って形容は、本当は男の子が男の子に使う場合に限られるのです。幾分の恥じらいと恍惚をもってね。」
彼はそう言うと、コンテを放っぽりだして、台所へと向かった。このときの彼は決まっている。お湯を沸かして紅茶を淹れるのだ。彼は何も混ぜずにストレートで飲む。マナには必ずミルクを混ぜる。甘党のマナにそれは迷惑でもなかったが、とりあえずどんなときでもミルクを混ぜたものをマナには差し出す。変な奴だとマナは思う。
「その絵、どう思う。」
「可愛い男の子だね。全身を繊細に、丸みを帯びたところなんかどことなく女の子っぽい。まだ十歳そこらの少年に違いないと私は見る。ペニスまで丁寧に描いてくれちゃってるね。『あなた』が『君』って形容を使うのは、ひょっとしてこの子に対してかな。」
彼は答えなかった。おそらく図星だからであろう。実に見事な人物画だと思って、マナは少年を見て感嘆の息を洩らした。そうなのだ、彼の小宇宙を巧みに表現しきったこの美少年のような作品は、決して数は多くなかったが(マナの知る限りにおいて)、その全てを例外なく彼は燃やしてしまうのだ。彼は恋人に見せたらそれきり満足してしまって、あろうことが蝋燭を用意して、何の躊躇いもなく焼いてしまうのだ。マナは最初、その儀式に居合わせたとき(敢えて儀式と書こう)、正直、恋人の気を疑ったものだ。ここまで自身の才能を現出せしめた作品を、何故、惜し気もなく火に点じてしまうのだろう。読書好きのマナには、この執着の無さがとんと理解できなかった。そういえばカフカも、自分の原稿は全て燃やしてくれと頼んだんだっけ。とりとめもなくそう思った。
「これでこの子は完成なの?それともまだ手を加えるのかな。」
「足りない材料があるんだ。結構、前から取り掛かっていた作品なんだけど、何か組み立てに大切な部分があって、それ何かずっとわからなかったんだけど、つい昨夜、窓から梟の飛ぶのを見たら(この近辺に梟なんていやしない。そう、これは嘘!)、万事、了解したんです。マナが一緒に来てくれるなら、これからでも早速行こうかと、ボクは考えているのです。」
マナの恋人はたっぷりミルクの入った紅茶を手渡して、そう提案した。
「それであなたは何を探しにどこに行くの?」
「ユグドラシルのところに行きましょう。ほら、ボクはマナに大分前に、知り合ったばかりの頃に北欧神話の本を貸してもらいましたよね。ボクはそれを読んで、とても感銘を受けて、自分もいつかその木を眺めてみたいと、こう思っていたのです。」
「でも、ユグドラシルなんてどこにあるかわからない。」
「本にちゃんと書いてありましたよ。それによると沼にあるそうです。どんな外見だかは見るまでわかりませんが、世界樹というくらいだから、リリオデンドロン・チューリップフェルムのように立派な代物でしょうよ。何でも宇宙の軸となっている、世界を支えて根源に繋がるものなんですからね。」
「それがあなたの絵とどういう関係があるの。」
「ボクはそこでマナと一緒に少し涼んでみたい。ほら、暑い時分でしょう。そしたら材料が揃って、ボクの願いも叶います。」
今は冬であった。彼はそそくさとコートを羽織り、マナを連れ出した。マナも付き合わないわけにはいかなかった。裏の雑木林には、歩いてほんの少しで、道端には真珠のような雪が降り積もっていた。霙を踏み締め林道を抜けると、冷たい北風がマナの頬を凍てつけた。何の鳥かはわからないが、甲高い声が静まり返った林の静寂を破ったかと思うと、風にざわめく木々の枝の擦れる音は、硬くなった雪を踏む音と重なって、身体の中の贓物がきしめくようであった。薄ら不気味な雪が湧き出てきて、もうすっかり夜のように見えなくなった。
沼の辺りを彼は色々見て回った。マナも最初のうちは不平も言わずに押し黙って従っていたが、しばらく歩くと疲れたと言って、一本の太い木の根本に座り込んでしまった。
「見つかった?」
「おかしいな。本には『ミーメの沼の岬に、火の神ハイムダルはその金髪をなびかせて、かのユグドラシルをば・・・』書いてあったのをボクは記憶してるんだ。」
「ねえ、一つ訊いていい?あなたがその立派な木を見つけて、そのことがどうして男の子の絵を完成させるのに必要なことなのか、まだ私はよくとわからない。」
「ふうん。マナにはよくわからないんだ。それはね、ボクはあの少年はきっとユグドラシルと密接に関係しているからだと思うからですよ。」
これはマナに意想外だった。
「ボクはユグドラシルっていうのは、この世界を前進させる時間軸のことだと思っている。X軸が広大な地平線だとしたら、そのY軸は実際に進行する時間のことに違いない。でもこのY軸は普通の数直線とは違って、原点であるOはあっても、負の値になることはおそらくないんだ。しかしこの原点Oには、ユグドラシルが開花したときであろう、原初の末端に繋がっている道理になるんだ。ここでボクの男の子の絵になるんだけど、どうやらこの男の子はボクたちの時代より、大分前か後の生まれらしい。過去にいたのなら、根を遡れば会えるはずだし、未来なら幹を上っていけば、見つかるに違いない。」
「それじゃあなたは会ってどうするの。」
「うん。そこでマナが必要になる。ボクはこの男の子を見つけたら、きっと仲の良い友達同士になれると思うんだ。親交を深める方法は色々あるよ。野球をしたり、釣りをしたり、歌を歌ったり。マナも一緒にやると良いよ。そして終いには、ボクたちは離れることも辛いほどの親友同士になっているよ。そしたら、余りに仲良しだから、きっとお互いにキスをするだろう(自然なことだからね)。ボクと男の子が口付けをして、男の子とマナがして、そしてボクとマナがするのさ(何て理に適っているのだろう)。そしたら、ボクはその粘膜を用いて、キャンパスの男の子の頬を塗る。その後はもっと仲良くなるから、もうお互いの全身を口付けしないではいられないだろう。そしたら、ボクは男の子の汗をもらう。その汗で男の子の髪を染めるのさ。もうそうして最後には、ボクたちは身体の一番深いところで交わることに違いない。まずがボクが男の子を貫くから、その後で男の子がマナを貫くことになろう。そして寸前でボクとマナが代わって、終焉というわけさ。ボクは男の子の精液を丁寧に持ち帰って、彼の瞳を染めるだろう。そう、こうしてボクの絵は完成するんだ。」
マナの恋人はこう語った。マナは深い悲しみの息を吐いて、それからこう言った。
「それで、『君は男の子を燃やしちゃう』のね。」
このとき、彼はぎょっとしたような、今まで見せたことのない表情をした。マナにはそれが可笑しかった。
「君の言いたいことは私、よくわかったよ。だから敢えて言うけど、それは無理じゃないかな。だって、君のやろうとしていることは、ファウスト博士がメフィストフェレスと一緒にやった時間を飛び越えてまでも愛しいヘレナに会いに言ったことと、ほとんど一緒じゃない。ワルプルギスの夜の夢ってね。でも私はメフィストフェレスじゃないし、君もファウスト博士じゃない。だから、君のヘレナに会うことは叶わないに違いないんだよ(男の子はヘレナと呼ぶことにする。だって、そうに違いないんだから)。」
マナは彼の精神の大事な部分を傷つけはしないかと、十分に心配しながらも、そう忠言する他なかった。彼の恋人としての立場として、その過ちは断じて許容できるものではなかったのだ。
彼はマナの言葉にひどく無感動そうであった。彼の黒い瞳は大きく開き、まるで大理石のような滑らかさが窺われるかのようであった。その視線がいたくマナの心を揺さぶった。ために、彼女はもう一度、開きたくない口を動かす以外に手はなかった。
「無理だよ。私はマナっていう君の恋人で、君はファウストじゃなくて、君の名前は、そう君の名前は・・・・・」
彼の恋人であるマナは、そこでぜんまいの切れたオルゴールのあのどうしようもないやるせなさを全面に出して、言葉を詰らせざるを得なかった。永遠に等しい小宇宙の顕現。彼のマナを射抜く宝石のような視線。雪がちらつき始めた沼の辺の名も知れぬ木の梢。枝と枝の無分別な囁き合い。ぎゅっと両手を握って、マナはそこから先の自分の運命が、この彼の心象風景に違いない雑木林の沼に、北風が吹き荒ぶ寂しい夜の奥の、梟の鳴き声がどこか遠くに聞こえる荒野に、転がっている気がした。
「ああ、またキャンパスを燃やさなきゃ。」
彼は押入れを開けた。奥のほうに、これまで書き溜めた傑作一同が眠っている。目当ての一枚を見つけると、彼はいそいそと蝋燭を用意した。
アトリエに火花が散った。コンテで繊細に描かれた、一枚の少女の肖像画は灰となって床に落ちた。
終

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