2006/10/31/Tue
「なのは漫画版の第二話読みました。といってもまだまだ導入の導入ですので、大きな感想はできないな。新しい謎や掲示がぽんぽんと出てきて流石おもしろいです。」
「聖王教会ってなんだろね。管理局と同等の規模の組織みたいだけど。」
「騎士カリム・グラシアなる人が登場しました! うーん、教会で騎士というからには相当強力な人にちがいありません‥きっとアンデルセンみたいに我らは神の代理人とかのたまって凄惨無比な絶滅魔法を駆使する死神のような人でしょう! きゃー! なのは逃げてー!!」
「味方だよ!」
「お姉ちゃん甘い! こーいう未知なる組織は決って内通者がいて、終盤で裏切ったな!的な悲しくも宿命的な展開になる布石なのです。」
「新キャラいきなり疑わないでよ‥。捻くれてるなーって思われるよ。」
「もちろん味方の可能性も否定できません。はやてと友だちだそうなので、はやてちゃんは人を見る目ありそうだもんね。」
「どっちが本音?」
「秘密♪」
「‥」
「でも今回の事件の首謀者は技術者型だそうなので、だったらどこかの組織に所属している、もしくはいた可能性が大きいんじゃないかな、とは思います。プレシアもそうだったしね。」
「あーそういえばそうね。」
「あとなのは一筋な私ですが、ヴィータもやっぱり可愛い。うーん、リインⅡは被虐心がそそられる‥」
「最低ね!」
「あはは。嘘嘘。可愛いリインⅡに手出しする奴は許しません♪ 次回も楽しみです。」
「まったくどうだろ‥」
2006/10/30/Mon
「徒然とプレイしてみていろいろと楽しめた作品であるのはまちがいありませんが、こうしてみるとあるひとつの道徳律を説くための壮大な仕掛けだったのかなと疑いたくなるのも無理ないけれど、うーん、これは軽々と断じにくいです。皆殺し編をやったときはミステリとしての解答から逃げちゃったのかなと感じたのは事実ですし、途中からはリプレイ物とも論じきれないメタゲームの世界に行ってしまった。最終的な感想としては、これは神(羽入)の気紛れな遊びに翻弄された人々の不幸、を描いた物語、なのかな。どうだろう‥」
「ふーん。それはどうして?」
「えっとね、祭囃し編で羽入が転校生として舞台にようやく登場するよね。それは羽入が傍観者を辞めることにより運命に対し勝利するためというよりは、運命に対し勝利するための駒が出揃ったから、という理由のほうがしっくりくる気がするから。」
「俯瞰的にみるとそうかもね。ひぐらしという世界がゲーム盤であることは言及されてるし、じゃあ、そのゲームは誰と誰が戦うのかといえば‥そうなるかな。」
「人の人との世界を描いていた問題編の四作は、傑作でした。人間の明と暗を示し、矛盾や葛藤、信頼や疑惑など相反する感情を抱き、そのために強くもあれば脆く挫折する人間の存在の深さを教えてくれた鬼隠しから目明しは、すばらしい作品でした。
原因はなんにせよ、私たちの生きている世界がどれだけ儚く崩れゆくか、その怖さとそれでも抗う意志を示した鬼隠し編はとても素敵だった。
綿流し編と目明し編で己の信ずる大切なものために、不条理と悪意の連帯に立ち向かい、心をすり減らしてゆく、寂しさと高貴さはとても素敵だった。
祟殺し編で描かれる人生の袋小路と悪徳の惨劇、希望の灯の無情さ、世界の大いなる無関心さはとても素敵だった。
‥そしてそれら物語が神により幾多ある可能性として選別され、排除され、人間を追い詰めていく様が皆殺し編と祭囃し編で描かれた。‥罪滅ぼし編には敢えて触れません♪」
「レナ嫌いなの‥?」
「罪滅ぼし編のレナはいちばん好き♪」
「あ、そう‥」
「相反する矛盾した想いを抱くのが人間だと私は信じています。そういった意味で過去に縛られ、簡単に壊れてしまう硝子細工のような沙都子は大好きです。どの作でもおんなじだしね。まともじゃない役人には二種類しかいない、悪党か正義の味方だの言辞が似つかわしい大石さんも葛藤に満ちていてとても素敵。‥そして苦痛に疼きながらも誇り高く生を戦おうとする鷹野さんも、とても魅力ある格好いい人でした。そんな人たちの想いを自分に有利なように誘導させ、破滅させた祭囃し編は、とんでもないバッドエンドなんだと私は思うのだけど、お姉ちゃんはどう?」
「ぱっと見では幸せだけどね、祭囃し編は。」
「鷹野さんが悪党だというのは確かです。愚かであったのも確かです。でも、幸せとはそんなにいいものかな‥? 私はそこが気に食わないです。」
「佳代も祭具殿とかに勝手に侵入して拷問具見てきゃーきゃー喜びそうだしね。」
「それでオヤシロさまに祟られて死ぬの。うん、魅力的な最期だね。」
2006/10/30/Mon
「クリアしました。もうちょっと期待していただけに、残念な出来でした。うーん、鷹野さんがとても人間的魅力に富んでいただけに、なのかな。圭ちゃん側(露骨に善)がすごくフラットな人格になってしまい、これまでぐちゃぐちゃの見事な心理描写を通じて得てきたキャラクターたちの魅力が、祭囃し編では皆無。おもしろみがない。どこをどう転んでひぐらしがこんな袋小路に迷い込んでしまったのか、うーん、残念です。」
「ハッピーエンドは嫌い?」
「うー。そういうのじゃないってわかってるくせにー。」
「あはは。でも皆、駒になってるのがおもしろいじゃない。神(羽入)が神を打ち破った人間(鷹野)に対する残酷な復讐戦だものね。いじわるな神様のいんちきなゲーム盤の上での大人気ない苛め。物語も人間性もぜんぶが副産物になっちゃって、道徳的教義を語ることがすべてになってる。あはは、おもしろいじゃないこれ。」
「ユーモアがないのー、ユーモアが。もう知らない!」
2006/10/28/Sat

「ほんとにこんなだったから困ります。ひぐらし解というのはミステリの禁じ手を易々と踏みにじっていくことに愉悦を感じろとでもいうような構成で、とてもがっかり‥。もーミステリとして連続殺人が妄想だの勘ちがいだのには、怒りよりも呆然とさせられました‥。しかも超常的存在がこれでもかと物語に直に関わってきていて、そんなので納得しろというのはアンフェアの極み‥。とどめに黒幕は実は今まで影も形もなかった秘密結社だー、猟奇的殺人の手段は未知のウイルスだー。‥プラトンパンチをくらへー! こんな展開滅ぼしてやるー!!」
「ま、それしか言い様がないね‥」
「鬼隠し編の圭ちゃんの過剰な被害妄想の理由が、これまた風土病の進行によるものだそうで、L5とか、もうえーって感じです。クラスメートの女の子が目の色変えて嘘だッ!とか詰問してきて鉈持って追っかけてきて挙句の果てに仲間連れて家まで押しかけてきてるのに、信じろというのは、信じられるかー!」
「皆殺しと罪滅ぼしの仲間を信じなかったから惨劇になったんだって言い分は、ミステリの物語というのはどうしてもメタ次元から見た場合、批判されるものだってことよね。アンフェアだなー。」
「うん‥。ミステリは一本通行の構成で、それを全体として見通せば必ず失敗や愚かな行動があるものなのです。でもそれをメタ次元から批判することがとてもずるい。それもメタ次元の介入を作中に許しちゃう形で。‥ひぐらしがこんなにアンチミステリとしての機能を発揮するなんて、目明し編までには思いもよらなかったなー‥。ずるいよ、これは‥」
「壮大に肩透かし。」
「もうだめ‥」
2006/10/28/Sat
「えーと、うーん‥あはは、皆殺し編をクリアしましたけど、どういっていいのかなーお姉ちゃん?」
「わ、私に振らないでよ‥」
「ミステリだの実はSFだのということはもーとっくに云々する気も起こらないのだけど、うーん、適当な言葉が思いつきません。左翼メソッドのとんでもゲーム?とかも別にいいませんし、推理がどうのこうのも別に今更いわない‥。でも敢えていっちゃうと、皆殺し編がいちばんつまらなかった。」
「あー‥いっちゃった。」
「もうやだー‥」
「ご愁傷様。」
2006/10/27/Fri
「お姉ちゃんあのね、知り合いのスーパーの店員さんにいきなりお客さんがちょっとあんた何見てんのよ!と詰問してきて、え、別に見てませんが‥嘘よ!あんた私のこと見てたわよ!って騒ぎになって、最終的には店長さんまで出てくる事態になったんだって。たいへんだったみたい。」
「あー、勘ちがいって奴か。そういうのされたほうとしてはえらい迷惑よねー。」
「被害妄想だね。困っちゃうよねー。」
「あはは。」
「あはははは。」
「‥」
「‥」
「寝込みます‥」
「お休み‥」
2006/10/26/Thu
「今日はシュルレアリスムの大家アンドレ・ブルトンについて少し話そうかなと考えてましたが、とてもめんどくさくて仕方がなくなったのでやめます。」
「それじゃいうな!」
「あー。‥じゃ、ライトノベルの文化的価値の有り様について考察しようかな。‥でもめんどくさい。」
「いや、やる気出しなさいよ。」
「うーんと、ラノベ批判をする人はラノベの文化的価値を軽んじていて、ラノベファンはそれが頭にくるから擁護する。‥それだけだよねー。」
「正論ね、それ。」
「あー。」
「やる気出しなさい!」
「‥価値感というのは個人的なものであって、ラノベの価値をひとりでも信じる人がいたなら、ラノベの文化的価値を否定することは誰にもできません。でも私がラノベに対してやりきれない思いを抱いているのは、ラノベの文化的価値を当の出版社が信じてないからです。というのはラノベで人気が出た作品は決ってシリーズ化するから。もちろんさいしょからシリーズとして構想してあるのはいいのだけど、そうでない作品も雪崩のようにシリーズ化していく昨今の現象は、どーかなと思う気持が強いのです。」
「そうね、新人さんの処女作もいきなりシリーズ化だしね‥」
「なんでシリーズ化するのかといえば、これは簡単でそのほうが売れるから。でもそれは作品としての価値を考慮してのことかといえば、うーん‥と考えてしまいます。シリーズ化の末路が悲惨なのは、‥特定の作品名を挙げるまでもないかな。」
「でもそれはラノベだけに限らないんじゃない?」
「悲しいことに。そして憤慨することに‥。十九世紀の作家にグザヴィエ・フォルヌレという人がいまして、この人は作成した本を自分の認めた人のみに譲ったそうです。作家が読者を取捨選択するなんて!と思われる人がいると思いますけど、本というのは、もしかしたらフォルヌレのやり方が正しいのかもしれません。」
「誇り高い貴族の仕事ね。今の時代には到底無理ね。」
「うん。つまんない時代ーって慨嘆しよう♪」
2006/10/25/Wed
「私はTYPE-MOONのFateが大嫌いでして、その悪口をつらつらと話していこうかなと思います。でもFateは何分大作ですので、その悪口も時間をかけてゆっくりしていこうかなと考えてます。まずは主人公の衛宮士郎くんの悪口から♪」
「あーそう。適当にね。」
「さいしょにいっちゃえば、私は何事も好き嫌いで物事を判断しますので、士郎くんに嫌悪を感じてそれから理屈をつけていきますので、この作業は何気に頭を痛めます‥。嫌いなものは嫌いなのー!」
「‥じゃ、このエントリ意味ないんじゃない?」
「そんなのだめー! うーん、士郎くんが嫌いというのはなんというかこの人がキリスト教的価値観を持つ狂信的な禁欲主義者だというのが印象としては決定的に最悪で、さらにいえば理想主義的倫理の信奉者だというのが私の興味を一掃してくれる要素でして‥。そしてこの士郎くんの良い意味でも悪い意味でも強力なパーソナリティがFateという作品を支える骨子になっているというところでもうFateを好意的に解釈する余地がなくなっちゃうというわけでして。つまり士郎くんの悪口は直線的にFateという作品に対する嫌悪表明になるのです。ほんとだよ。」
「ま、その調子でがんばって。」
「士郎くんは正義の味方になりたいって人なのだけど、善悪という価値観自体が社会の構造が人々の内面に植え付けるものであり、徳というものが人々の根底から失われた現代社会において、正義という言葉の空疎さはいうまでもありません。だから士郎くんは必然的に矛盾だらけであって、故に拠る基盤がないすごく不安定な人格を所有しているんだよね。ふつうの人ならこういう状態になるとニヒリズムなんかに転んじゃうのだけど、士郎くんは正義を狂信することにより自分の人格を縛って制御している。これがすごく息苦しくて嫌い。」
「ふーん、特異な性格なのは賛同してもいいけどね。」
「私は理想主義的な倫理というのが大嫌いで、それは人間の自然に反していると考えるから。でも作品全体として見た場合、Fateはそうでもないというところが私の心象を鈍らせます。」
「お、一歩退いた発言ね。」
「正義の見方というよりは士郎くんは隷属的な禁欲者に私には映ったというところです。‥正直にいえば、彼、すごい不真面目に思えるの。お姉ちゃん、どう?」
「ど、どうって‥うーん、どうだろうね‥」
「道徳主義者は決って不道徳的なもの、ルソーのような教育気狂いが頭に浮かぶのは私だけかな‥?」
2006/10/25/Wed
『伐無道、誅暴秦』
史・陳渉世家
「目明し編をクリア‥。やっぱり殺人犯は詩音でしたけど、うん、いってよければ共感できる殺人でした。少なくとも土着的信仰の妄信者が行っている祟り殺しよりは、ずっと共感できる動機‥。詩音は私たちと同じ、近代的合理的思考の持主だから、宗教的な教義を信奉している村の古老連中とはちがい、自分のこと、自分にとって大切なもののために行動する。それは私にとっても大いに理解できる動機でした。沙都子ちゃんの殺しを除けば、道義的にも許されるものだね、これ‥」
「因果って言葉を考えるなー‥」
「詩音が魅力ある人間だったから、余計に。沙都子ちゃん以外の連中は殺人を奨励、扶助していた連中だから、まったく狂気的な胸糞悪くなる人でなし共でしたから―もしそんな奴らに好きな人を殺されたりしたら、私も復讐に乗り出すでしょう‥、社会価値以上に己の価値感を信じて、大切にして己の人生を生きようとするのはとても強い美しい姿―でも沙都子ちゃんを、強い彼女を殺してしまったのはどうしようもない嫉妬心のため。―この殺人が唯一詩音の強さに相応しくなく、弱さに墜してしまった美しくない彼女の弱さ‥。詩音はもっと強く在れた。だから、この弱さを犯して自殺してしまうさいごはとても悲しい‥」
「身につまされるな、ほんとに‥」
『幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。もちろん、他人の幸福について考えねばならぬというのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。』
三木清「人生論ノート」
2006/10/23/Mon
「暇潰し編をクリアしました。うーん、犯人は詩音だ! まちがいない! 逮捕だー! 縄つけて取調室へつれてけー! 自供しろー! 令状? 知るかー!!」
「まておい。」
「なにか。」
「それって論理的に証明できるの?」
「私を誰だと思っているのお姉ちゃん! すごいんだよ!」
「なにがよ‥」
「古代宗教が根強い力を持っている村の有力者の家庭で、双子であるというのはとても重要な意味を持っていると考えられます。魅音と詩音は陽と陰、表向きの党首とそれを支える僕として存在していた。でも度重なる屍食儀式と好き勝手に使われる境遇に恨みが重なり、遂にこんな村知るかー滅ぼしてやるー!となったのです。おそらく犯行における武器は強力な暗示性薬物と催眠術でしょう。初期に薬物を使用し、後に後催眠による支配で(慣らしていけば薬物は不要になる)人間を使役し、次々と惨劇を演出していったのでしょう。暗示発動のキーワードを計画に合わせて用意しておけば、さして難しいことでありません。レナはうまいように使われた人間の最たるものなのでしょう(オヤシロさまに過敏に反応するのはもろにそれを思わせます)。あといろいろ整合性を合わせるのはめんどくさいのでやりません。」
「いや、やりなさいよ。」
「ま、犯人は詩音だよー。絶対にー。」
「っていうか佳代が推理しようとするとは思えないか‥」
「Kと呼んでいいよ。」
「呼ばない。金輪際。」
2006/10/23/Mon
「哲学者の文章を読んでいて久々に感を揺さぶられました。電車の中で読んでいたんだけど、目が熱くなった‥。人間の条件についての項を読んでいたとき、なんでだかよくわからないけど、すごく身に染みるものがあって、それがどうしてそうだかよくわからない‥。不思議な感じです。」
「ハイデガーに師事していたのよね、この人。生きていた時代も決して明るいものでなかった。」
「でも三木清さんの文章はすごく血が通っていて、温かい。ほんとにとてもよい文章。こんな人がいたんだなと、温かく身体的で実感的で、つよい人がいたんだなと思うと、私はとても楽しい気持になります。」
『機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。』
三木清「人生論ノート」
2006/10/22/Sun
「シュークリームを片手に祟り殺し編をプレイ中。‥あーイヴァンだね、これ。カラマーゾフのイヴァンだ。祟り殺し編は主要人物のひとりである沙都子を中心に展開するのですが、その境遇がとても悲惨‥。なんだか目を覆いたくなる話ばかりなんだけどひぐらしって‥」
「ま、ねー‥」
「虐待されているのは明白なのに、どうしようもない世間の無力と、無力そのものの子ども‥。ドストエフスキー最大の傑作「カラマーゾフの兄弟」でイヴァンはこう弾劾します。僕は神を認める。神の救いも認めるし、すばらしいものだと思う。しかし、神の創造は認めない、と。カラマーゾフの兄弟が描いているものはキリスト教的以上のもの―とくにイヴァンとアレクセイの論争、有名な大審問官の箇所はすごくて―人類の問題、人間の在るところの魂の訴えでして、それを思い出した。」
「‥あれ、か。」
『五つになるちっちゃな女の子が、両親に憎まれた話もある。この両親は『名誉ある官吏で、教養ある紳士淑女』なんだ。僕はいま一度はっきりと断言するが、多くの人間には一種特別な性質がある。それは子供の虐待だ、もっとも、子供に限るのだ。ほかの有象無象に対する時は、尤も冷酷な虐待者も、博愛心に充ちたヨーロッパ人でございというような顔をして、慇懃無礼な態度を示すが、そのくせ子供を苛めることが好きで、この意味において子供そのものまでが大好きなのだ。つまり子供の頼りなさがこの種の虐待者の心をそそるのだ。どこといて行く処のない、誰といって頼るもののない小さな子供の、天使のような信じ易い心、―これが虐待者の忌まわしい血潮を沸すのだ。‥(省略)‥で、その五つになる女の子を教養ある両親は、ありとあらゆる拷問にかけるんだ、自分でもなんのためやらわからないで、ただ無性にぶつ、叩く、蹴る、しまいには、いたいけな子供の体が一めん紫腫れになってしまった。が、とうとうそれにも飽きて、巧妙な技巧を弄するようになった。ほかでもない、寒い寒い極寒の時節に、その子を一晩ぢゅう便所の中へ閉じ籠めるのだ。それもただその子が夜中にうんこを知らせなかったから、というだけなんだ(一たい天使のようにすやすやと寝入っている五つやそこいらの子供が、そんなことを知らせるような智慧があると思ってるのかしら)。そうして洩したうんこをその子の顔に塗りつけたり、無理やりに食べさしたりするのだ。しかもこれが現在の母親の仕事なんだからね! この母親は、よる夜なか汚い処へ閉じ籠められた哀れな子供の呻き声を聞きながら、平気で寝ていられるというじゃないか! お前にはわかるかい、まだ自分の身に生じていることを完全に理解することの出来ないちっちゃな子供が、暗い寒い便所の中でいたいけな拳を固めながら、痙攣に引きむしられたような胸を叩いたり、悪げのない素直な涙を流しながら、『神ちゃま』に助けを祈ったりするんだよ、―え、アリョーシャ、お前はこの不合理な話が、説明できるかい、お前は僕の親友だ、神の聴法者だ、一たいなんの必要があってこんな不合理が創り出されたのか、一つ説明してくれないか! この不合理がなくては人間は地上に生活してゆかれない、なんとなれば、善悪を認識することが出来ないから―などと人はいうけれども、こんな価を払ってまで、下らない善悪なんか認識する必要がどこにある? もしそうなら、認識の世界全体を挙げても、この子供が『神ちゃま』に流した涙だけの価もないのだ。僕は大人の苦痛のことはいわない。大人は禁制の木の実を食ったんだから、どうとも勝手にするがいい。みんな悪魔の餌食になったって構やしない、僕がいうのはただ子供だ、子供だけだ! ‥』
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
「‥世界の欺瞞、ひどく悲しい気持になります。けど、ドストエフスキーのカラマーゾフは絶対に読んでほしい。ね、お姉ちゃん、楽しく生きたいよね。」
「ほんとにね‥。でもやだな、こういうの。」
2006/10/21/Sat
「綿流し編の拷問シーンをつらつら思う‥。うーん、詩音が幽閉されている前で沙都子ちゃんや梨香ちゃんを拷問でばらばらにしたのか‥。ちっちゃな沙都子ちゃんや梨香ちゃんを‥、詩音が見てる前で‥。‥そのシチュエーションってすごくそそるものがある気がするんだけど、お姉ちゃんどう思う?」
「‥まておい。」
「なにか。」
「なんでそんなところばかりに注目するかな‥?」
「だって恐怖でどうしようもない密閉空間で、力ずくで友だちを殺す様を見せつけられる双子の妹、泣き狂い助けを乞うも在りし日の姿とはまったく変容した彼女の狂気の光景、阿鼻叫喚が火と風の嵐のように猛り狂う地下室、そして処断、‥どうしよー、すごい気に入っちゃう。」
「なにを言い出すかあんたは! 今まででいちばん物騒な物言いね!」
「‥やってみたいな。」
「まて!!」
「お姉ちゃん‥の、拷問椅子にくくり付けられながら、眼前に立つ私を見てどうしようもなく泣き叫ぶ姿‥きゃー!!」
「この変態! 鬼畜! なにその無茶苦茶な妄想! 滝に打たれて邪念を滅却してきなさい!!」
「大丈夫‥、全力全開のプラトンパンチでねむらせてあげるからね♪」
「全力って‥、ちょ、ちょっとまちなさい‥!」
「こわくないからだいじょぶだよ‥。きっとすごくいいから‥・みんなそういってるよ‥」
「だ、誰がいってるのよ!? あ、いやああ!!」
『猥褻行為が羞恥心の冒瀆的逆転であるように、拷問は憐憫の冒瀆的逆転である』
ティエリ・モーニエ
2006/10/21/Sat
「いちごオレを片手に綿流し編をクリアしました。‥あー、これはおもしろいや。皆がやったほうがいいよーと勧めてくれた理由がわかりました。たしかにここまでプレイしておもしろかった。拷問器具とか今とりくんでいる作業に大きな示唆を与えてくれました。」
「‥それ、何の作業よ‥?」
「あはは。拘束して指に釘を打つ拷問というのはおどろきでした。西洋だとあんまりきかないよね。うーん、やっぱり拷問は深いです。拷問は人間が人間に対して抱く憐憫の情を剥奪する。私たちはそれぞれ私という非連続の存在ですが、拷問はそれを解体する。私たちは拷問によって死の連続性へと開かれるんだね。そういった意味で拷問とエロティックは表裏一体、どちらも私たちの固定した存在をオルガスムという解放に導く肉体のコミュニケーションということ。‥拷問というものは結局私たち人間は、人間であるかぎり、ただ身体的存在であるにとどまるんだよということを象徴しています。肉体と精神をどれだけ区別して考えても、精神の肉体的関心はどこまでいっても肉体的関心にとどまるということを拷問の歴史は教えてくれます。拷問は肉体の責苦により、精神を屈服させること―つまり自己の理性という処女を破ることにその魅力があるのです。‥拷問はいいな、いいよねー‥ってあれ、なんの話だったんだっけ?」
「ひぐらしだよ‥」
「どーして拷問の話題になってるの?」
「私の台詞だ!!」
2006/10/20/Fri
「ひぐらしをプレイ中~。このblogを読んでもらえたらすぐにおわかりのことと思いますが、読書傾向としてミステリやホラー、推理物はふだんぜんぜん読まないのです。でもさいしょに熱心に読んだのはルブランのアルセーヌ・ルパンシリーズなんだよね(あ、やっぱり仏だ)。」
「そういえばそうね。なんでかしらないけどミステリはもうずいぶんご無沙汰ね。」
「うーん、好みは変わるものだから深く考えなくてもいいけど‥ミステリとか今なにがおもしろいのかもさっぱりです。エドガー・ポーは好きでよく繰るけれど、ポーはミステリとは言いがたいものね。」
「そんなだけどひぐらしはおもしろいんじゃない?」
「けっこうおもしろいです。鬼隠し編の私の推理はねー、犯人は熊です。」
「‥なんだって?」
「あの村はとても山奥でとてもとても貴重な生態系が残っているという記述がありました。つまり知性の高い熊がいて(愛読書は宮沢賢治の注文の多い料理店)村民を食べていたのです! 周期的なのは自然の本能のため。行方不明者がいっぱいいるのも骨も残さず平らげたため。オヤシロさま=熊。‥完璧な推理!」
「‥病院に行きなさい。」
「えー。」
「それ推理でもなんでもないじゃない! どうして熊がそんな面倒くさいことしなきゃならないのよ!?」
「それは本人にきいてみないと‥」
「帰れ!」
「熊に出会ったら焦らず眉間にプラトンパンチを叩き込みましょう。たぶん勝てる。」
「勝てるか!!?」
2006/10/19/Thu
「さいきん自殺についていろいろ考えさせられて、一体どういうものなのかなと。まず思いつくのはショーペンハウエルの「自殺について」。」
『一般的に言って、生命の恐怖が死の恐怖にたちまさる段階に到達するや否や、人間はおのが生命に終止符を打つものであることが、見出されるであろう。尤も死の恐怖の抵抗も相当なものである、―死の恐怖はいわば番兵として出口の前に立っている。もしも生命の断末が何かしら純粋に否定的なもの、現存在の突如とした中止のようなものであるとしたら、まだぐずぐずして自分の生命に終止符を打っていないような人間は誰もいなくなることであろう。―ところが生命の断末には何かしら積極的なものが含まれている、即ち肉体の破壊である。この肉体の破壊に脅かされて、ひとびとはしりごみするのである。何故なら、肉体は生きんとする意志の現象にほかならないのだから。』
ショーペンハウエル「自殺について」
「‥でもショーペンハウエルって自殺に対する否定的な偏見を取り除こうとしてこの論文を書いたんでしょ? ちょっと今の問題とちがうなー。」
「うん‥。ユダヤ教から連綿とつづく西欧社会の自殺への理由なき偏見をショーペンハウエルは非難している。自殺も他人に侵されぬ神聖な個人の権利なんだよね。私もそう思うし、自殺は否定すべきものじゃない。‥でもそういう自殺とちがう自殺がある。」
「うーん‥ほら、夏目漱石の「こころ」とかどこか近い気がしない?」
「Kの自殺だね、―真面目さが他者を責めるだけでなく情念的な自責の念に及ぶエゴ。エゴ‥か。うーん、エゴかー。」
「エゴは近い感じ。エゴの圧迫、‥真面目な人ほどエゴに対する解釈が深刻に自分に向けられるのかしら?」
「どうだろ‥。でもエゴはおもしろい着眼点。もうちょっと考えよ。」
2006/10/18/Wed
「お姉ちゃんのために私、がんばってパスタ作ったの‥食べてくれる?」
「‥いや、それはいいんだけどさ‥。たまにこうして料理してくれるのもうれしいし、悪い気分じゃないんだけど、ね‥」
「やったー。それじゃいっぱい食べてね。残さずね。」
「‥あんたどれだけパスタ茹でたの?」
「家にある分とりあえずぜんぶ。(四、五袋)」
「あーもう! なんでそんなたくさん作るのよ!? パスタって見た目以上に量があるんだからちゃんと考えて準備しなさいよ! こんなにパスタパスタでどうしろっていうの!」
「わーガンバスターだ。」
「きけよ!」
「もー。しっかり十一分数えて茹でたのにー。ちょっと固めがこだわりです。」
「そういうことを問題にしているんじゃないって! 私がいいたいのは一挙にこんなにパスタ作っても食べきれないでしょってことなの‥!」
「理想と現実はちがうものだよね‥」
「あー!! 理想に近づけるように努力すべきでしょうがっ! だいたいあんたって子はいつもいつもいつもいつも極端に走るんだから‥!」
「いいから食べてよっ! 口をあけろー。」
「フォークの先端向けないでよ! ちょ、ちょっと痛っ!‥ってどこに刺してる!?」
「現実に目を向けてよお姉ちゃん! くらへー!」
「きゃ、いやああ!!?」
2006/10/18/Wed
『優れた少年であれば、「徳あるものになりたいか?」と訊ねられれば、皮肉な眼差しをするであろう。―しかし、「お前の仲間より強いものになりたいか?」と訊ねられるときは、両目を見開く。』
ニーチェ「力への意志」
「学校について少し‥。今回に限らず、学校におけるいじめ問題のいちばん厄介なところは公的復讐が学校においては認められていないという点にあると思うのです。たとえば社会においては法律というものがあり、これを使うことによって損害を蒙ったなら誰でもその賠償を求めることができます。法律というものが発明された背景には、弱者でも強者に復讐を可能にするため、つまり万人による万人の闘争というものを許していたら社会が維持できなくなるから、公的機関が代わって復讐してやり秩序を保つという意味合いがあるのです。でも学校ではこれができません。許されてさえいません。大人なら侮辱されたりしたなら、警察に訴えて、公的に復讐することができます。でも子どもにはそれが許されていない。これはほんとにひどいです。私たちの社会では私的復讐は原則として禁じられている(秩序を乱すから)。だから公的復讐(裁判所を介した合法的な復讐)が整備されているのに、子どもにはそのどちらも許されていない。‥つまり子どもには報復ということが構造的に不可能なんです。」
「それは‥黙って耐えろといっているようなものね。」
「黙って死ねってことかな。‥いじめというのは他者に対する攻撃であり、これに報復するのはとても自然なことなんだということをしっかり理解したほうがいいです。‥日本ではとくに感じるけど、攻撃するということがあまりに軽く扱われている気がします。悪口とか、ネットとか。攻撃するということはどんな手段によるにせよ、それは責任が生じるのです。そしてその責任にあまりに無自覚なことが多い気がします。」
「無抵抗はよくない、ってことよね。それは生の放棄だから。」
「私は、抵抗してほしい‥。攻撃されたら、なんとか抵抗して‥。道徳的であってはだめ。とにかく抵抗する。戦って勝てるなら戦って、勝てないなら逃げて。どちらも合理的に考えて、諦めないでほしい。諦めの最後は自殺に至る。無抵抗でいたら、それは生の放棄で、死んでしまう。だから諦めないで、生き延びる可能性の高いほうをえらんでほしい。学校は、反撃することや逃亡することの価値を教えてはくれないから、自分で考えるしかない。」
「いじめはどうやってもなくならないから、自分をとにかく守る政治的能力を身につけるには、自分の意志しかないんだよね‥」
「世の中に理想の教師なんていないし、助けてくれる人もいないし、優しくしてくれる人もいないし、温かい感情もないし、実在の愛なんてどこにもありません。真善美はまず現実には見つからないと思う。真善美は信じないほうがいい。きっといい。たぶん、そうしたら、諦めなかったら真善美よりもっといい楽しいことが自らの裡に託される。」
「理想の教師なんているはずなんていないものね。」
「うん。‥私がサドを好きなのは、こういうことをしっかり教えてくれるから。サドは偽善だらけの嘘で塗り固められた世界に怒りをもって反抗した。誰も傷つけることのない小説という形で。サドはひとりも殺していません。でも世界はサドをたくさん傷つけた。でもサドは諦めない。破壊衝動を、空想という何人にも侵されぬ自由に託して、サドはさいごまで書き続けた。『私』がたったひとつの自由である孤独であるということを信じて。」
『どうか一刻もはやく偏見を投げ打って、
めげず臆せず、何物にも惑わされず、ただただ、
人間らしく、情け深くなって下さい。
あなたの神、あなたの宗教をいますぐお棄てなさい。
そんなものは人類の手に凶器を持たせるほか、
何の益にもならない代物です。
実際、こうした身の毛もよだつような観念が、
宗教という唯一の美名の元に、他の全ての戦争、
全ての天災が束になっても叶わないほどの、
この地上におびただしい血を流してきたのです。
あの世という観念をお棄てなさい。
そんなものはどこにもありやしないのですから。
ただし、(現世で)幸福であることの楽しみ、幸福を
作りだすことの楽しみは棄ててはいけませんよ。
これこそあなたの生活をより豊かに、
あるいはより広くするために、
自然があなたに与えたところの方法なのですから。』
マルキ・ド・サド「司祭と臨終の男の対話」
『鷲は決して群を為して飛ぶことはない。
そうしたことは椋鳥に任せたらいい。
上方へと舞い、爪を持つこと、これこそ
偉大さの運命である。』
ニーチェ「力への意志」
2006/10/16/Mon
「今日はデスノートについて少し話します。デスノートという作品はとても洒落ていて現代的な装いを凝らしたスタイリッシュな作品ですが、そのテーマは善と悪、生と死ととても古典的です。作中では何度も何度も繰り返し何で人はわるいことをするのか、それは許されるのか、人殺しの是非とは、という非常に人間的な問答が展開されます。うーん、深い。」
「それこそ何千年も昔から、人のあるところにはついて回る問題ね。」
「キリスト教の根幹たる問題、「主はなぜ人に悪事を行う自由を許したのか」というのだね。悪魔はどうして存在するのか、そして許されているのか。‥そーいえばお姉ちゃん、こんなこと言った人がいてね、「俺は絶対に天国には行きたくない。」いきなりこんなこと言われたらびっくりします。どーしてだと訊くと「俺のお袋は、すごいまじめな人だったんだ。朝早く起きて仕事に行って、夜遅くまでがんばって、その間に家族の面倒もしっかりみる。酒も賭博も、およそ気晴らしとかにはぜんぜん縁がない人で、ひたすら働いてそして死んでったんだ。‥お袋のような人間が天国に行くに相応しい人間だろうし、そしてそういう生き方をしてりゃ天国に行くのが道理ともいうべきだろう。そして天国にはお袋のようなくそまじめな人間ばかりがいるにちがいないってことになる。‥俺はそんなとこに死んでも行きたくない。」‥そうとう酔っぱらっていたようです。でもこの話はけっこう象徴的だと思う。」
「ま、そうだね‥」
「ライトの考えは結局は恐怖政治なんだよね。デスノートによる恐怖が支配の要だもん。道徳主義者は決って不道徳的‥。そしてそういう世界―悪事がイコール死の世界―では悪事を行うことが英雄的行為とみなされるようになるかもです。」
「あ、そうか。禁止の侵犯が美化されるってことね。」
「もしすべての悪行が消えるなら、そこに自由は存在しない。人は支配された存在になる。そんな世界で崇高さを求めるなら、必然的に悪の道へ赴くしかなくなる‥。そしてその世界に本当の意味での善もまた消えてしまっているでしょう。」
「うーん、善と悪の両義性の問題は難しいね。さいごにはどちらがどうともいえなくなるというか‥」
「やっぱり善悪より快楽だね! サドやバタイユの善悪なんて興味ないよというスタイルがいちばん好きです。」
「ま、あんたはそういうところに落ちつくだろうね。‥でもデスノートってすごい人間の見せたくない欲望の具現化したアイテムよね。」
「すごい発想だよねー。」
「使ってみたいと思う?」
「ぜんぜん。手に血のつかない殺しはおもしろくないよ。」
「そう‥ていうか、まておい。」
「あはは。心臓麻痺で死んじゃうのがいいよねー。きっと楽な死に方だよ。これがみんな切腹だーとかだったらすごくたいへん。」
「目立ちすぎよそれ! あーもう。‥佳代は死後の世界って興味ある‥? 死んだらどうなるかっていうのは人間にとって永遠に解決できないけど、なくなりっこない疑問だよね‥」
「あんまりない。神秘主義者の見神体験とかにもぜんぜん関心がないし、興味ないから天国や地獄の論議も考えたことない。でもひとつだけ決めてることがあって‥」
「何?」
「死んだらドストエフスキーに会いにいってサインもらうの。すごく楽しみ♪」
「‥もらえるといいね。」
「うん!」
2006/10/15/Sun
『‥時間とは、もしわれわれにその実体を直観することができるとすれば、一つの幻想である。見かけ上のきのうという日の一瞬と、見かけ上のきょうという日の一瞬との間には何の相違もなく、両者は不可分のものであるという一事だけで、時間を解体するには十分であろう。』
ボルヘス「永遠の歴史」
「ボルヘスのエッセイ集「永遠の歴史」を読了しました。これすごくおもしろい! プラトン的、ニーチェ的な時間の流れそのものを否定するボルヘス独特の時間の観念論的解釈‥、ため息が出るほど美しくこの観念の彫刻はほんと素敵です。それと架空の書物の書評というボルヘスおなじみの手法を用いた「アル・ムウタスィムを求めて」はもー最高に素敵! 感歎しました!」
「ボルヘスの観念論は極端よね。ある意味、独我論。」
「むしろショーペンハウエルの主意説!」
『何ぴとも過去において生きなかったし、また未来において生きぬであろう。現在こそ、あらゆる生の形であり、いかなる災禍も奪い得ぬ一つの所有である。』
ショーペンハウエル
「プラトニズムの幾何学とでもいうべきボルヘスの幻想は、曖昧なものなどひとつもなく、そこにあるのは純粋に徹底された観念の思弁の世界‥。きゃーすごいおもしろい!」
「ボルヘスのエッセイは短篇小説との関係で語られることが多いけど、エッセイそれ自体としてもとてもいいよね。錯綜としたボルヘスの世界ってイメージがあるけど、この人にあるのは「原型とその反映」の幻想だけ‥」
『トレーンの一学派は時間を否定するにいたった。現在は無限である、未来は現在の希望にほかならず、過去は現在の記憶にほかならないというのが、その理由である。また、ある学派は、全時間はすでに起こってしまったものであり、われわれの人生はやり直しのきかない経過の漠然たる記憶、あるいはおぼろげな反映であって、疑いもなく偽のきれぎれの断片なのだと断定している。』
ボルヘス「トレーン、ウクバル、オルビス・テルティウス」
『『不死の人』では、現在に圧縮されたショーペンハウエル的な時間が、永劫回帰という円環構造のサイフォンによって、ふたたび自由に流れ出したかのような印象を受ける。思うに、デジャ・ヴュと似たところがなくもない永劫回帰とは、プラトン主義的思考の歴史への適用でもあろうか。』
澁澤龍彦「サド侯爵 あるいは城と牢獄」
2006/10/14/Sat
若者もイロイロ考えています。さん
『うん。君も僕も何年もこの世界で生きてきたという記憶がある。でも、その記憶も5秒前に世界が出来たときに、つまり僕たちが出来たときに、一緒にその記憶も植えつけられて僕たちが誕生したとしたら、記憶は当てに出来ないよ』
『論理的空間内の事実が世界である。』
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」
『‥論考を最期まで読む者には、大きなどんでん返しが待っている。それまでの頁で書かれていることのすべてがじつは「無意味だ」という断言に出会うからである。その結果、どのような言語表現が意味をもち、どのような言語表現が意味をもたないかを言うこと、そのこと自体が、「無意味」となる。つまり、じつは、言語においてさえ、意味と無意味の両側を見通すような場所はない。このとき残されうる唯一の道は、意味ある言語表現だけを用いること、ウィトゲンシュタインの言い方では、「語りうること」だけを語ることである。」
飯田隆「ウィトゲンシュタイン 言語の限界」
「
若者もイロイロ考えています。さんのエントリがおもしろかったので、少し紹介。「世界がすぐさっき出来たばかりかもしれない」という問いは、率直にいっちゃえば無理ですよね♪」
「簡単に断じちゃったね。」
「これの反証は私には無理に思えるな。人間の同一性っていうのは結局は本人が本人であることを覚えているという記憶にかかっているわけで、記憶がないとなんにもできない。その絶対的な記憶への疑惑を起こさせるこの問いは実はけっこう怖ろしいです。それに世界ができたかどうか、ここでいう世界という言葉のもつ意味は深いものがあります。‥でも、世界が五秒前にできたのだろうが六十億年前にできたのだろうが、もしくは五秒後にできるのだろうが、この問いは言語では証明できないかな‥」
「うーん、そうかもね。でも、うーん‥」
「出来事たる一切が世界の構成要素の最小単位であるのなら、世界をつくりだすというのはその最初の出来事であるはず‥? とすると、五秒前に世界ができたと仮定して、現在、私のなかにある記憶の一切の出来事であったものの起源はどこに求めるべきものになるのだろう?」
「それは五秒前の出来事に求めるべきよね。」
「うん。するとその五秒前に起こったことが、今の私の認識する源になるってこと。‥でもその出来事の発端というか、始まり?はどこに設定されるのかな?」
「‥え?」
「揮発点というか出発点というかαというか‥そういうの。」
「‥知らない。」
「プラトンパンチをくらへー!」
「わ、わかんないもんは仕方ないじゃないー!」
『5.6 私の言語の限界とは私の世界の限界を指している。
5.61 論理が世界を埋め尽くしている。すなわち世界の限界は論理の限界でもある。
したがって論理においては、世界内にこれとこれとは存在するが、あれは存在しない、と語ることはできない。
右のごとく語るとすれば、外見上、われわれが何らかの可能性を排除することを前提としていることになろうが、これは決してできることでない。できるとすれば、論理が世界の限界を越え出ていなければなるまいからであり、すなわち、論理が世界の限界を、この限界の外側からも眺めることができる、などということにしなければなるまいからである。
われわれが考えることのできないものを、われわれは考えることができない。それゆえにわれわれは、われわれが考えることのできないものを語ることもできない。』
『5.63 私とは私の世界である。(小宇宙。)』
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」
2006/10/14/Sat
「まんがタイムきららキャラット11月号をなぜか買って読んでいる自分におどろきました‥。ふだんぜんぜん読んでない雑誌なのに今日に限ってどーして‥。‥あー、ひだまりスケッチがアニメ化するんだね。でもどうせ放映している時期はまったく無関心で、終了一年ぐらいしてからレンタルしてきて感想書いているのが想像できてとても複雑な気持になります。」
「なにをいってるの、あんた‥」
「なにか突発的にまんが雑誌を購入するのは精神分析的な要素があるのかも‥」
「誰も知りたくないよ、そんなの。」
「お姉ちゃんいつも冷めてるー。引くー。」
「別に冷めてるわけじゃないけどさ。ってか引くな、おい。」
「こーいうひだまりスケッチに代表されるのは萌え四コマっていうのだっけかな? らき☆すたとかトリコロとか。すごく私的な意見ですがらき☆すたには萌えはあるけど好きはなくて、トリコロにはどちらかというと好きのほうが大きい気がする。ひだまりスケッチはちゃんと読んでないからなんともいえないけど。」
「えらく主観的ね。」
「私はいつでも主観的だよ。」
「ふーん、それはどうだか。」
「あ、お姉ちゃん何それ。その言い方は含みがあるよーな‥」
「別に‥。主観か客観か、はたまた理性か感情かなんてのはどうとでも言えると思ってね。」
「うー。なんかいじわるだー。」
「ま、大したことじゃないって。素直にいられたら、それがいちばんかなってちょっと感じただけ。」
2006/10/13/Fri
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/821350.html#comments『テストの答案用紙が返ってきた。結果はともかく私は1枚の数学のテストに疑問を抱いた。答えはあっているのにペケのついている問題がちらほらあった。何も考えずに私は先生にこう言った。
「先生、この問題、この答えで正解ではないでしょうか」
しかし私の予想とは裏腹にこの解答ではダメだ、と言われてしまった。なぜだろう。理由は教えてもらうことが出来なかった。
私は考えてみた。紛れもなく答えは正解だ。心の中で悔しさがこみ上げた。数日後、先生が私に理由を教えてくれた。
「答えと解法、先生がこのテストで見たかったのはどちらだと思うか。数学で大切なのはプロセスなんだ。答えなんてただの数字でしかない。君の解答は解法の内容が乏しかったんだよ」
私はこの言葉を聞いて大切なことに気付いた。テストの本質は時間内にいかにして自分をアピールできる解答を書くことができるかということなのではないか。
私が中学校生活で受ける定期テストもあと2回となった。これからはきちんとテストの意義を考えながら自分らしい解答を書き上げたいと思う。』
「うーん、この問題は結果がすべてだとか過程が大事だとかいう次元のものではないと思う。数学の途中経過を記さないとだめという話は、つまり思考の運動を書き表すということであって、そこには無意識裡に済ませている本人の未知なる運動を曝すということがあって、これはとても大切です。もちろんこの子は暗算で簡単に解いていると思うし、答えも正解だと思います。でもその簡単に済ませている部分を紙に書くことにより意識することができる。これは思考にとってとても有意義なことなんです。」
「数学も難しくなるとそうしなきゃ解けようもないものね。」
「それももちろんだけど、結果が合致していればよいという意見はうーん‥と考えます。というのも思考するという行為には基本的に終りというものがなく、それはくるくると回転していくようなものだという意識が私にはあって‥。もちろん定期テストレベルでそんな話に及ぶ必要はないけど、でも数学って答えを得るための思考法の訓育という面が大切で、合ってるかどうかというのは実は瑣末なことだったり‥」
「なんか泥沼に入る議論ね、これ。」
浪人生日記(´・ω・)さん
『中学3年でやっと連立方程式だの、因数分解でしょ?w
それぐらいの問題で、なんで先生はプロセスとか言い出すんだろうか?w
プロセスが必要な数学は、高校以降ですよww』
「もちろんその通りなんですけど‥。でも小学校、中学校の数学のプロセスって書き表そうとするとおそろしく難しいんだよね‥。正直、私にはまったく理解できるものでないんです。そもそも数学の理解というのはある種の天才にしかできっこないことであって、それは数学という学問の特殊性を際立たせているんですが‥ニーチェも数学できなかったし‥。‥ていうかもうどーでもいいよー!! 私、数学きらいだもん!!」
「あーぶっちゃけたね。」
「大学の先生がいってたよ! センター数学って運がないとだめだって。」
「危険な発言だこと。」
「私の結論! 数学は時間制限してテスト形式でするものじゃありませんっ! 机にうなだれてだらだらとやるものなのです! アインシュタインもそうして相対性理論を見出したのです!」
『‥数学に対する素質はまったく独特のもので、他の能力と平行せず、むしろなんの共通点もないのだから、数学の授業には生徒を特別のクラス編成にするのがよいだろう。たとえば、ほかの学課では選抜クラスに入れられた者も、数学では三年級にとどまってもよく、本人の名誉を傷つけないで、その逆もまた可なりであろう。こうしてはじめて、だれでもこの特殊な学問に対する本人の力相応に、数学についていくらか学びとることができるのである。』
ショーペンハウアー「随感録」
2006/10/13/Fri
http://eg.nttpub.co.jp/news/20061012_24.html『「ああ無情」の邦題で知られるフランスの文豪ビクトル・ユゴー作「レ・ミゼラブル」の中から、主人公ジャン・バルジャンが引き取った少女コゼットに視点を当て、物語を新たな切り口で再構成する。』
「この調子でユゴーだけでなく、ほかの名作もどんどん萌えアニメにしてほしいです。期待できそうなのは、夏目漱石の「坊っちゃん」(清、すごくいいよ‥)ナボコフの「ロリータ」(すごい殺伐としそう!)シェイクスピアの「テンペスト」(妖精に魔法と条件は完璧!)ツルゲーネフの「はつ恋」(波乱万丈、大河的で名作劇場にぴったり)そしてサド侯爵の「悪徳の栄え」を萌えでラブの全開でやって史上最強のアニメを作るのです!」
「いろいろと無理よ、それ‥」
「えー。」
「でもレ・ミゼラブルねぇ、すごくキリスト教的な話になるよね。どんな展開にするのだか。」
「うーん、コゼットが可愛いからとりあえず期待。どんなになるのか楽しみ♪」
2006/10/12/Thu
http://tuch.blog66.fc2.com/blog-entry-472.html「クレヨンしんちゃんは大好きで、ずっと読み続けているまんがのひとつなんですが、たしかに昔と今では雰囲気はだいぶちがうかな。初期のクレしんはユーモアが実にシュールですばらしい出来です。園長先生とのやりとりが大好きでした。」
「でも今もおもしろいよね。毒と倫理がうまく機能しているっていうの?」
「しんちゃんには常に独自の倫理が一貫しているんだよねー。さいきんの
クレしんは聖書をモチーフとした話もたくさんあって、そういう面から読むのもとてもおもしろいです。」
「いきなり剣道はじめる話もあったね。」
「とんでもない話でした。楽しかったな、あれは。」
「映画は傑作揃いだけど、まんがもすごくいいよねクレヨンしんちゃんは。さいきんのコミックスに入ってたむさえの話はいろいろ訓話的で考えさせられた‥」
2006/10/12/Thu
「コンプティークを買ったらうたわれるものの別冊がついていて、わー♪と思って開いたら
うたわれるものらじおのページまであってびっくり。私もけっこうきいているけれど、たしかにおもしろい番組です。おすすめ。‥思うけれど、インターネットラジオというのはすごく画期的だなーと関心してしまいます。ふだんはテレビもラジオもきかないような私ですが、昔、唯一毎週楽しみにしていたラジオ番組にNHK・FMの
FMシアターというのがあって‥」
「ああ、懐かしいねそれ。そういえばもうずっときいてないね。」
「うん。FMシアターというのは毎週毎にいろいろな物語を朗読してくれるラジオドラマでして、幻想的なお話や戦争をテーマにしたもの、ホラーものや青春恋愛ものなど多種多様なドラマを放送してくれて、私はこれがすごく楽しみでした。」
「当時は毎週きいてたなー。さいしょにきいたのが沖縄の話だったっけ?」
「「キジムナーの夏」だね。これは夏休み、親戚の家に遊びに行った少年が沖縄の妖精(かな?)キジムナーと交流する話。とても爽やかな余韻のある作品で私がききはじめるきっかけとなった作品でした。ほかに印象に残っているのではイギリス支配時代のインドの民衆の苦難を描いた「ダンヌダータ」。病床の少女とモラトリアム青年と幽霊親父の交流を通して親愛を描いた「パレードはゆく」‥もう今ではきく方法はないのかな? すごく素敵な作品ばかりで忘れられぬ記憶です。」
「‥なんか郷愁を感じる。部屋の電気消して真っ暗ななかでラジオの声だけ響いてたな。」
「音だけのラジオだから余計にそう感じさせるのかもね。FNシアターはほんとに素敵な番組なので、皆さんにもきいていただけたらすごくうれしいな。」
2006/10/11/Wed
「さいきん読んでいたバタイユの「聖なる陰謀 アセファル資料集」を一通り読み終えました。なんだかけっこう時間が掛かった‥。この本はバタイユが1930年代に創設した秘密結社アセファルに関する書簡や記録書などを集めた資料集なんですが、バタイユらしくとても晦渋でちょっと苦労しました。」
「またマニアックな本ね、それ。バタイユに類するもののなかでも特にじゃない。」
「暗闇のなかの活動を曝す書物だからね、でもおもしろいよ。アセファルのヴィジョンは好きだな、アンドレ・マソンの素描もすごく魅力あるし‥」
「アセファル―無頭人か‥なんだか抉られた頸からこぼれてくる猥褻な思想のにおいがすぐ身近に感じられるような‥」
『私のこの両眼が、利己的あるいは粗忽であったなら、なんにでも耐えることができただろう。そのような眼差しは、耐え難いものや、なにか失敗したものを暴くような、平然とした好奇心をも抱いただろう。私は、すべてを否定的な模糊とした状態へと陥らせるべきだったのだが、私の渇望は、思っていたような、断固たる荒々しい衝動ではなかった。私の渇望は、一匹の犬のそれのようだった。犬の渇望は、一歩ごとに狩人が抱く渇望と、切り離すことはできない。人間の生存全体が、私を戸惑わせた息苦しさの中に現れていた。その生存は無数の眼差しに曝されており、それらの眼差しは、日々の倦怠が糧とするパンくずのようなものの彼方に、獲物を見出そうと渇望している。』
バタイユ「聖なる陰謀 アセファル資料集」
2006/10/10/Tue
「というわけで‥お姉ちゃん、ひぐらしごっこしよー! 私オヤシロさまやるから、お姉ちゃんは悟史くんやってね。はいこれ金属バット。」
「まておい。」
「なにか。」
「まださいしょのさいしょ終らせたばかりじゃないの! それでどうしてそんな混沌としたこと提案するの!? まだ話の全貌ぜんぜん掴めてないじゃないのよ!」
「つまり役をより知ってから臨みたいと‥。お姉ちゃんも遂にやる気になってくれたんだねー!」
「バットを振り回すな! だいたい悟史くんって何よ!? それにあんたのオヤシロさまやるからって台詞、意味不明もいいところじゃないのよ!」
「悟史くんはエースで四番。左投げね。」
「きけよ!」
「転校しろーこのー。えーい!」
「うわっ‥だからバット振り回すなって‥え、ええ!?」
「祟りだーきゃー。」
「ちょ、洒落になって‥佳代‥!」
「嘘だー! あはははははははははははははははははははははははははははははははー。」