二〇〇六年、さよならだ!
2006/12/31/Sun
「あっお姉ちゃんおそばゆでてるー。わー年の暮れゆくって感じするねー。」
「スーパーで特売してた。ほんとはぜんぶ手作りでやりたいんだけどね。そんな手間かけることできなかったし‥」
「お金ないもんね、あはは。」
「誰のせいよ誰の! あんたが欲求のおもむくまま計画なしにお金使うからじゃないの!」
「うー。お姉ちゃんだってラヴクラフト、ニャルラトホテップ降臨しないかなーとか悦んで読んでたくせに。私のせいばかりにしてー。」
「そ、それはあるものは読んじゃうじゃないのよ、仕方ないでしょ‥」
「ツンデレー。」
「誰がツンデレだっ!?」
「‥今年も終りだね。なんだか芭蕉の如く閑居自在な忘年を味わってる気分‥。のんびりと気ままないつもと変わらない夜です‥」
「‥そーね。ま、なんか一年ごとに気合入れるような、そんな性格じゃないしね。」
「うん‥。こんな芭蕉の歌を思い出します。」
『魚鳥の 心はしらず 年わすれ』
「あー‥これは、魚や鳥でないから、自分は魚や鳥の楽しみは知らない。でも自分は自分の生活に、忘年を悠々と楽しんでいる。他人にはこの楽しみはわかるまい‥ってな意味の句ね。」
「芭蕉らしいというか、私のとても好きな歌のひとつです♪ 芭蕉は生粋の趣味人、おたくだなーと、なんだかしみじみと感じ入る歌です。」
「そーね。好き勝手に旅して歌をして、自然を愛した芸術の人、か。功利性やあくせく働く資本的価値とは無縁もいいところよね。」
「あはは。おたくって今では手垢に染まっちゃった感のある言葉だけど、ほんとはもっと素敵に純粋なもの。私はみずからの好きなことに通じて、そこから全き自然へと開かれるこの感性‥芭蕉が悠々と口ずさむ気軽な言葉の端々に浮かぶ、世界そのものといった雰囲気が、大好きなんです。個と全、ひとりとすべて、小と大、実はどれも分かたれるものでなく、あるひとつの大いなる統合‥自然である、マクロやミクロなんてしったこっちゃないよといった芭蕉の自若ぶりが目に浮かぶようで、うれしくなります。」
「極端に独自であるのに、ぜんぶでもあるって感覚。マクロコスモスとミクロコスモス。これは不思議よね。俳句はとくにそれを感じる。」
「俳句ってすごい表現方法。西欧人には俳句の理解はできないっていわれてるけど、その理由は言葉に意味を見出そうとするからなんだって。この短い語句にはいったいどんな意味が込められているのか、どんな象徴や、この語には歴史性が秘められているのか、‥そーいったことを延々と考えちゃうヨーロッパ知識人には俳句は絶望的だとか。‥俳句は意味の凝集でなく、断絶である。俳句にはそのままの顔しかなくて、その奥も真相もない。ただそのままの言葉が、そのまま切られただけ。‥ただ遠くを見ている。俳句は神秘な、ほんとに魔法みたいな芸術なんです。」
「複雑な観念の装置のない、ただの言葉が俳句か。だとすると、もう今の私たちには新しい俳句を生み出すことなんてできないんじゃない?」
「べつにいいんじゃないかな。いつの時代も時代が必要とする詩人より詩人の数は多いものです。」
「あ、いうね。そんなこといっていいのかしら?」
「お姉ちゃんが味方してくれるなら、それでいいよ!」
「それはどうかなー。」
「えー!」
「はい。今年も終了。また来年、ってね。」
「ごまかしたー! お姉ちゃんはー! プラトンパンチをくらへー!」
「はいはい。そば食べて去り行く年を惜しみましょ。」
「さらば二〇〇六年! さよならだー!」
『いざさらば 雪見にころぶ 所迄』
芭蕉
「スーパーで特売してた。ほんとはぜんぶ手作りでやりたいんだけどね。そんな手間かけることできなかったし‥」
「お金ないもんね、あはは。」
「誰のせいよ誰の! あんたが欲求のおもむくまま計画なしにお金使うからじゃないの!」
「うー。お姉ちゃんだってラヴクラフト、ニャルラトホテップ降臨しないかなーとか悦んで読んでたくせに。私のせいばかりにしてー。」
「そ、それはあるものは読んじゃうじゃないのよ、仕方ないでしょ‥」
「ツンデレー。」
「誰がツンデレだっ!?」
「‥今年も終りだね。なんだか芭蕉の如く閑居自在な忘年を味わってる気分‥。のんびりと気ままないつもと変わらない夜です‥」
「‥そーね。ま、なんか一年ごとに気合入れるような、そんな性格じゃないしね。」
「うん‥。こんな芭蕉の歌を思い出します。」
『魚鳥の 心はしらず 年わすれ』
「あー‥これは、魚や鳥でないから、自分は魚や鳥の楽しみは知らない。でも自分は自分の生活に、忘年を悠々と楽しんでいる。他人にはこの楽しみはわかるまい‥ってな意味の句ね。」
「芭蕉らしいというか、私のとても好きな歌のひとつです♪ 芭蕉は生粋の趣味人、おたくだなーと、なんだかしみじみと感じ入る歌です。」
「そーね。好き勝手に旅して歌をして、自然を愛した芸術の人、か。功利性やあくせく働く資本的価値とは無縁もいいところよね。」
「あはは。おたくって今では手垢に染まっちゃった感のある言葉だけど、ほんとはもっと素敵に純粋なもの。私はみずからの好きなことに通じて、そこから全き自然へと開かれるこの感性‥芭蕉が悠々と口ずさむ気軽な言葉の端々に浮かぶ、世界そのものといった雰囲気が、大好きなんです。個と全、ひとりとすべて、小と大、実はどれも分かたれるものでなく、あるひとつの大いなる統合‥自然である、マクロやミクロなんてしったこっちゃないよといった芭蕉の自若ぶりが目に浮かぶようで、うれしくなります。」
「極端に独自であるのに、ぜんぶでもあるって感覚。マクロコスモスとミクロコスモス。これは不思議よね。俳句はとくにそれを感じる。」
「俳句ってすごい表現方法。西欧人には俳句の理解はできないっていわれてるけど、その理由は言葉に意味を見出そうとするからなんだって。この短い語句にはいったいどんな意味が込められているのか、どんな象徴や、この語には歴史性が秘められているのか、‥そーいったことを延々と考えちゃうヨーロッパ知識人には俳句は絶望的だとか。‥俳句は意味の凝集でなく、断絶である。俳句にはそのままの顔しかなくて、その奥も真相もない。ただそのままの言葉が、そのまま切られただけ。‥ただ遠くを見ている。俳句は神秘な、ほんとに魔法みたいな芸術なんです。」
「複雑な観念の装置のない、ただの言葉が俳句か。だとすると、もう今の私たちには新しい俳句を生み出すことなんてできないんじゃない?」
「べつにいいんじゃないかな。いつの時代も時代が必要とする詩人より詩人の数は多いものです。」
「あ、いうね。そんなこといっていいのかしら?」
「お姉ちゃんが味方してくれるなら、それでいいよ!」
「それはどうかなー。」
「えー!」
「はい。今年も終了。また来年、ってね。」
「ごまかしたー! お姉ちゃんはー! プラトンパンチをくらへー!」
「はいはい。そば食べて去り行く年を惜しみましょ。」
「さらば二〇〇六年! さよならだー!」
『いざさらば 雪見にころぶ 所迄』
芭蕉