『ここで話題を変えることをお許しいただきたいが、ごく最近、横浜の中学生が浮浪者に集団で暴行を加え、これを死にいたらしめたというニュースを新聞で読んで、私は「なんという弱く育った連中だろう」と思った。そして、ゆくりなくも映画「E・T」を思い出したのである。
私の意見では、映画「E・T」を見て涙をこぼす中学生と、弱い老人を集団で袋だたきにする中学生とは、まったく同じメンタリティーをあらわしている。両者とも、強さを美徳とする風潮が完全に失われてしまった世の中に育った、あわれな子どもたちの短絡的な反応を示しているといえるからだ。強さへの志向がなければ、弱者に対する思いやりも失われるのだということを、私はここで特に強調しておきたい。
或る新聞に私は映画「E・T」についての感想文を書いたが、その一説を次に引用しておこう。
「E・Tがだんだん弱ってきて、苦しそうなうめき声を発したり、医者に人工呼吸をしてもらったりするようになると、なぜか私には、その顔が人間のおじいさんの顔のように見えてきて仕方がなかった。そういえば、もともとE・Tは、その顔といい手足といい、やはり皺だらけの老人にいちばん近いのではないだろうか。そこで私はこんなことを考えた。すなわち、もしも老人ホームから脱出してきた孤独なおじいさんが、あなたの家にひょっこりあらわれたら、あなたはエリオット少年のように、おじいさんを自分の部屋にかくまってあげますか、と」
「まさかE・Tはかわいいけれども、おじいさんはかわいくないからイヤだなんて、冷たいことをおっしゃるひとはいないでしょうね」
私がこう書いてから一ヶ月ばかりのうちに、浮浪者は「酒くさくて汚いから退治しよう」といって、弱い老人を集団で殴ったり蹴ったりした中学生のグループがあらわれたのである。私の危惧はぴたり的中したようで、なんだか寝ざめがわるいような、へんな気分である。』
澁澤龍彦「狐のだんぶくろ」
「いつものようにこたつに寝転がって、本読んでたのですけど、上記の箇所が気になったので引用してみました。‥でもそもそも上の文は花電車についてのエッセイだったのに、いつのまにか話がてんであさってな方向に逸れてるのは、まあいつもの澁澤かな‥うん、それはいいとして‥」
「上のエッセイは昭和五十七、八年くらいのよね。二十年ばかし前だけど、私たちの社会の現状と見事に地続きなことを教えてくれてるね。」
「私は「E・T」は見てないので、それと関連させては話せないけど‥そもそも私って映画ほとんど見ないのです。なんていうか、うーん、苦手なのかな、よくわかんないけど‥ま、それはまた置いとくとして、強さの美徳が失われたっていうのは、なんだかいろいろ切実に感じる部分があります。いじめとかそういった類の問題をすべて弱さに帰するのはもちろん暴論だけど、ただ弱さが問題の中心にあるのはまちがいなくて、その弱さをむやみに隠蔽したり、へんに正当化するのもやっぱりまちがいじゃないかなと思います。」
「いじめについての弱肉強食のいじめられっ子は弱いから仕方ないんだなんて話とは無関係よね。」
「もちろんだー!」
「ま、当たり前よね。」
「弱さは弱さとしてそれでいいのですけど、ただその弱さを逆に印籠のごとく猛々しく誇示して、孤独な強さをも排斥する動き‥いってみれば強さを貶め、弱さをひとつの価値にまで祭り上げる働き、そんなのあるんじゃないかな。これってルサンチマンじゃないかな。弱い人が強くなろうとがんばるのを妨げて、弱いのをひとつの価値に認めさせて、上昇しようとするのを防ぐ‥。弱いのを弱いままにさせて、それでいて強さを弱さの下に置く。‥ここまで書いて、これってさいきんの格差とか経済的身分を区別しようって風潮とも関係あるかなって思った。」
「強さの美徳の失墜は、欲望の否定というルサンチマンにいきつくってこと? けっこうおもしろいテーマね。」
「三島が太宰にあいつ被害妄想で嫌いっていってたの思い出すね。太宰治が大嫌いで公言していた三島のいうこと、おもしろいです。」
『太宰のもっていた性格的欠点は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。
私には文学でも実生活でも、価値の次元がちがうようには思われぬ。文学でも、強い文体は弱い文体よりも美しい。一体動物の世界で、弱いライオンが強いライオンよりも美しく見えるなどということがあるだろうか。強さは弱さよりも佳く、強固な意志は優柔不断よりも佳く、独立不羈は甘えよりも佳く、征服者は道化よりも佳い。太宰の文学に接するたびに、その不具者のような弱々しい文体に接するたびに、私の感じるのは、強大な世俗的徳目に対してすぐ受難の表情をうかべてみせたこの男の狡猾さである。
この男には、世俗的なものは、芸術家を傷つけるどころか、芸術家などに一顧も与えないものだということが、どうしてもわからなかった。自分で自分の肌に傷をつけて、訴えて出る人間のようなところがあった。被害妄想というものは、敵の強大さに対する想像力を、強めるどころか、却って弱めるのだ。想像力を鼓舞するには直視せねばならない。彼の被害妄想は、目前の岩を化物に見せた。だからそいつに頭をぶつければ消えて失くなるものと思って頭をぶつけ、却って自分の頭を砕いてしまった。』
三島由紀夫「小説家の休暇」
「なんとも実直ね。三島の剛直な感情の矛を間近に見る感じ。」
「治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない、か‥。強さをもたなきゃ、かな。たとえ強くなれなくても、強くあろうとつとめ、そして強くある姿勢、誠実さ‥。想像力を鼓舞するには直視せねばならない、のだ、うん‥」
「物事をありのままに見つめて、受け入れる強さ、姿勢か。かっこよさを忘れていけないってことよね。」
『ここでは堅苦しい議論はなるべく避けたいと思うが、今日の世の中に強さを美徳とする風潮が完全に失われてしまったのは、戦後教育の問題もさることながら、一つには家庭における父のイメージの失墜のためであろうと私は考える。昔のような家庭の基盤がすでに崩壊して、母性原理がマグマのように社会全体に瀰漫しているというのに、それに見合うだけのモラルがないので、暴力が地殻をやぶって噴出してくるといった感じなのだ。中学生が無意味な自殺をするのも、むろん、同じ傾向のあらわれであろう。
せめて生きるための強さぐらいは叩きこんでおかないと、やがて子どもたちが、ことごとく自殺に走るという事態にもなりかねないだろう。やさしだけでは、だめなのである。』
澁澤龍彦「狐のだんぶくろ」
澁澤龍彦「狐のだんぶくろ」(やさしだけではだめ、‥母性原理が圧倒してるの、さいきん、感じます)