2007/10/31/Wed
「お姉ちゃんお姉ちゃん! ハロウィンやろうよっ! お菓子くれなきゃいたずらするぞっ。」
「メンズポッキーでも食べてなさいよ。ほら。」
「あーっ!」
「な、何よ‥。ポッキー好きでしょ、甘党でしょ。」
「もう! ポッキーなんかで誤魔化さないでくださいっ! ポッキーなんていつも食べてるじゃないですかっ。そんなでハロウィンなんてばかみたいじゃないですかっ。」
「べつに私たちカトリックじゃないでしょうが‥」
「プラトンパンチをくらへー!」
「ぐがっ‥!? って! ほんとうのことでしょうが!? 浄土真宗でしょうがたしか!」
「そんなこと知ったことじゃないもん! いたずらさせろー!」
「いたずらって何よ、たとえば。」
「裸メイド?」
「メイドで裸って邪道でしょうが‥」
「その突っ込みもどうかと思う。」
「‥正味な話ね。はてさて。」
「お酒でも飲もうか。ね、お姉ちゃん。」
「焼酎しかないけれど。ってか本当、どうよそれ。」
2007/10/30/Tue
「私は澁澤をずっと読んできて、三島もそっちからみることが多いかなって思う。「
三島由紀夫おぼえがき」は澁澤が三島について書いたエッセイを集めたもので、なんだかふだんの澁澤龍彦のエッセイとはちがってる。なんていうか、泣ける。」
「三島由紀夫と澁澤龍彦のさいごの別れが三島自決の三ヶ月前の羽田空港、だったかしらね。それからヨーロッパ旅行に行ったと。」
「澁澤は水割りウイスキーで酔っぱらってたっていうけれど。三島と握手して何がなんだかわかんないうちに別れちゃったって。‥三島の自決とその後の一連の流れを三島現象だなんていっていいかな、三島由紀夫にある種の拒絶と抵抗をおぼえるのはしかたないし、三島がイデオロギーの大きな流れのあるシンボルとして機能するのも正当だと思う。でも私はそういった文脈で三島を読むことがなんだか得意じゃない。これからの生涯で何か愚行を演ずるかもしれないって澁澤との対談でこぼしてた三島と、三島自決の報をきいてとうとうやったかって呟いた澁澤。気がちがっている‥その表現は正しくて、ほんとの狂気は何ものの共感も適わない。三島の自決と、そこに至るまでの狂気の精神の生みだす論理を、何か意味づけしようとすることこそ、私は蒙昧じゃないかなって思う。作家は狂気で語らない。ただ狂気に駆られた肉体そのものである言葉で語る。三島の精神は、だから無数の残された作品のうえに厳然たる秘密としてあらわれてる。私は、ただそれに向えばよろし。何も、おそれることなんて、ないのだ。」
「なぜ死んだか、という問いこそ空しいかしらね。自殺を忖度することほど、偽善である行為はほかにないのかしら。それに答えるのは作品だけ、ね。」
2007/10/30/Tue
「三島由紀夫は少年時代の自分と寝たかった、なんてこといってたりする。それはかんたんにいえばユートピアの問題。行為と認識が完全に一致する領域というのを夢想してて、そしてそんな奇跡の領域というのは実現しないから、ユートピアは必然的に絶望に陥る。行為することと認識することにどうしようもない差異が生じるということは、いうまでなく明らかで、だから奇跡を夢みるかつての少年は、ニヒリズムと手を結ぶ。それは、死のユートピアから吹く風の甘い匂いに陶然とする孤独な男。」
「それが三島の秘密であったのかどうか、かしらね。ただ三島というのは徹底的に意味に満ちていて、その作品は論理にあふれているのよね。その結果、三島の作品は徹頭徹尾観念に支配、満たされることになる。」
「ナンセンスができないんだよね。三島って。そして少年時代の自分に殺されたいって願うロマンチストでもあった。死のユートピアは、華奢で青白い少年の格好をしてて、彼は遠く離れた「私」を壁に穿たれた一点の穴から覗いてる。その視線に耐えるため、三島は筋肉の鎧をつくりあげる。柔い腸と血を覆う、徹底的な自己隠蔽の厚い人工の鎧。これで内部と外部は分たれた。現実と観念は分たれた。ユートピアと孤独な男の慰めと化した現実は分たれた。しかしそのあれほどの努力で鍛えられた鎧も、少年のような日本刀の一閃の前には無意味だった。毀損され、破壊され、その内部は外部に曝け出されなくちゃ、いけなかった。彼が必死に分っていた内部と外部の二元論は、こうして崩れ去った。それが終局の、運命だった。‥運命、だった。でも、三島のは、自殺だったよね。ならそれはほんとに運命‥? 外部と内部を溶け合わせるこの一連の物語は、実は計算だったのじゃ、ないのかな? ‥ちょっとした、三島のミステリー。」
「外部と内部が溶け合う、ね。それはどこか淫蕩ね。」
「死のユートピアから吹いてくる、甘い死の香りと無縁でいられるのは、淫蕩の思想なんだよ。ニヒリズムさえ快楽に供する、涙を知らないロマン主義者。そんな奇跡のような一瞬間のために。」
「栄光か、さては世界の顛倒を、我に与えよ、か。滅亡の夢見る孤独な男は、そして完全に死という鎧をまとったのね。現実と完全に遮断された壁を、ね。はてさてよ。」
2007/10/30/Tue
「女子高生に火をもってませんかってきかれた。もってないよって答えたら、そですかって去ってった。何かなと思って話きいてみたら、交通事故があったみたいで、その同級生だったみたい。線香あげるための火かな、私はタバコとか吸わないからライターもマッチももってないな、手ごろなものでもあったらよかったかなと、ちょっと考える。それから数刻して、跡をみてみると、そこに花束がたくさんまず目につく。暗くて近づいてみてみると、いろいろなものが置いてある。花や‥スポーツジュースみたいな飲料がおかれてるのはいい。好きだったのかなって思う。煙が昇ってて、線香だけじゃなくそこにはタバコの火のついたのがちらほらおかれてる。横には銘柄はわかんないけどタバコがケースでごろごろ積んである。高校生の事故だった、ときいて、酒瓶が弔いにおかれてるのは壮観かな。しばらくみてると向うから喪服の人ががやがや来たので私は去る。私の目には、暗いアスファルトのうえ、くすぶったタバコの赤い火が、やけに目にちらついた。」
「日本で交通事故で一日に亡くなる人が、たしか二十五人だったかしらね。四日で百人。数字のうえでは、それだけね。」
2007/10/29/Mon
「人生をやり直したいと思うのか、という問題。やり直せるなら、やり直したいかな。でもやり直せない。やり直せるわけがない。だから生活という生きてるかぎりつづくものに、人生をやり直せないという絶望は慢性的に根付いて、倦怠と不安と無気力を忍ばせる。チェーホフの「三人姉妹」はそんな日々に希望と夢を見失った人々が、明るい未来はかならず来るはずだって語りあいながら、でもしずかに孤独に今日を終らせてく話。だから、この話はふかく、そして深刻。」
「それを一見して喜劇風に描いているのがなんともいえないかしらね。世紀末のインテリゲンチャは科学と哲学を手に入れたけれど、それらによってやがて来る未来がどういうものだか、はっきりいえた人はだれもいなかった。その滑稽さとどうしようもなさというのは、いう言葉が見つからないかしらね。」
『われわれのあとでは、人が軽気球で飛行するようになるでしょうし、セビロの型も変るでしょう。もしかすると第六感というやつを発見して、それを発達させるかも知れない。しかし生活は、依然として今のままでしょう。生活ややっぱりむずかしく、謎にみち、しかも幸福でしょう。千年たったところで、人間はやっぱり、「ああ、生きるのは辛い!」と、嘆息するでしょうが―同時にまた、ちょうど今と同じく、死を怖れ、死にたくないと思うでしょう。』
「人間存在は変わらない。進歩主義的価値観というのはあるけれど、チェーホフから一世紀経っても人間のなかの本質はいっかな変わらない。変わる道理がない。千年前も人は生きて生活してて、千年後もまだ人がいたらたぶん生きて生活してる。そこの生きるという部分にこそ、人間を人間足らしめてる精神があって、そこを直視しないかぎり、人は同じく苦しみ、その苦しみはつづいてく。人を変えるかもって思えた思想のゆきついた先が、現在ではあるのかな。」
「それはいうまでもないことだけど、人間は生きる存在よ。死んだらそれは人間じゃないのでしょう。」
「何かな?」
「はてね。夢か現か‥と、誤魔化すしかないようなものよ。」
『どこへ? どこへみんな消えてしまったの‥あれはどこ? たまらない、ああ、たまらない! あたし、みんな忘れた、忘れちまった‥頭のなかが、ごちゃごちゃになってしまった。‥思い出せないわ。イタリア語で窓をなんと言うのか、あの天井はなんと言うのか。‥何もかも忘れて行く、毎日忘れて行く。だのに生活は流れていって、二度ともう返らない。あたしたち、いつになったって決して、モスクワへ行けやしないわ。‥あたし知ってる、行けるもんですか‥』
「生活の絶望というのはどうしようもなかったりする。人は生活しなきゃいけないから、それをなんとかしなきゃなとは思っても、その手段が見あたらない。でも不安と焦燥は消えてなくならないから、絶望だけが気づかぬまに個人を覆ってく。希望や、未来というのがわかんないって、「三人姉妹」はいう。そういうのは、ほんとにみえないから。しかたないことだから。」
「明日を生きる希望、ね。現実は未来を生き抜く希望を与えてはくれないのかしらね。望めば望むほど、蟻地獄よ。」
「‥もしかしたら、未来をあきらめたら、楽になるのかな。」
「その未来というのが何を指すか、ね。釈迦は六年彷徨ったのだったかしら。親を捨て、妻子を捨て、王国を捨てて、人民の希望たる彼自身が消えたのよ。そして山野を彷徨って、その果てに、すべての修行は無意味だと悟って、そしてついに悟りを得た。何か、不思議ね。」
「そんなもの、なのかな。釈迦は何をみたんだろ‥」
「それを聞くことこそ、迷誤のはじまりだとしたら、動けないものよね。曇天の切れ目に何か差すかしら? はてさてね。」
チェーホフ「三人姉妹」
2007/10/28/Sun
「今回は部員探しと風子編への導入。あんまり手堅くまとまってて逆にいうことがない感じ。まだまだ序盤ということでしかたないかな。朋也と渚がいろいろ関係性を広げてくのは見てて楽しいです。地道に仲間が増えてくね。」
「物語の溜めの部分でしょうけど、それだけで十分楽しい出来といえるかしらね。細かいところまで丁寧すぎるくらいよ。」
「うーん‥風子かー。風子のお話ってどんなだったかな。自縛霊で姉思いで不器用で‥そう、不器用というのがひとつのキーワードだった気がする。手先が不器用なのはいうまでないかなだけど、結婚式に招待するのにひとつひとつ手作りの小物作ってる時点で 不器用にもほどがある。それが風子の魅力で、そのために風子はクラナド全篇に影響するキャラクターでもあるけど。みててちょっともどかしいかな。みんないいやつすぎて、クラナドは甘酸っぱい。」
「朋也も世渡り下手だとかだって渚にいってたかしらね。狡知や衒うことが苦手、か。そういうことだけでもない気はするのだけどね。」
「ちょっと他人のこと、考えすぎちゃうっていうのかな。ほとんどどうでもいいような感情の機微も、気になって神経使っちゃう。朋也と父親の関係もそんなで、朋也は感情にふりまわされる部分がとても大きい。感情なんて、ほんとはその人の本質とは無縁なんだけど、わるい感情は強いから、それだけ惑わされちゃう。‥親父なんてきらいだ、と思うのだけど、そのきらいだと思う自分に愛想を尽かしてしまう優しさというのがあって、親父をきらいだと思う自分がきらいだ、になっちゃう。他者を嫌悪する感情というのはつよくて、それがぜんぶじゃないのだけど、惑わされて、はまっちゃうとなんだか悲惨。気楽に構えられればいいのだけど、ひとりきりでうだうだしてると、ますます悪循環。」
「それだから渚がいるのでしょうね。だから渚との出会いから物語がはじまるわけでしょう。」
「うん。二人でいると、少なくともだれかの顔がみえるなら、ぜんぜんだいじょぶじゃないかな。まだまだ、これからなのだ。」
「で、次回は風子のエピソードね。健気な話ね、これは。」
2007/10/27/Sat
アナルオナニー強烈すぎるんだが、、「サドは肛門オナニーの愛好者でした。牢獄に閉じこめられた侯爵にとって、孤独な快楽のひとつがオナニーであることは当然で、サドはよく肛門オナニーしてた。当時の貴族のあいだではちょっとした小物を入れるためのケースが流行ってたみたくて、サドは銅製の細長い円筒形のケースを奥さんのルネ夫人に手紙でよく頼んでます。長さや太さのいろいろなヴァリエーションを指示して、職人に注文させるんだって。それでそのケースをどんなことに使うのかっていうことはみんなわかっちゃうわけで、だからルネ夫人はちょっとした羞恥プレイ。さすがサド侯爵はわかってる。」
「‥ま、男色の気もある侯爵だし。さもありなんだけど。」
「それで痔になっちゃってた節もあるよね。あはは。」
「すごい笑い事だこと。夫人いじめるの好きよね、サドは。」
「サドはいじめっ子なのだ。うーん、でも血も涙もないサディストというより、いじわるでちょっとからかってるだけって感じがするエピソードかな。サドはわがままだし。駄々っ子だし。」
「傲岸で不遜な貴族よね。獄中でもその態度を改めなかったのだから、天晴れなものよ。」
「えへへー。お姉ちゃんもケース入れる? サド侯爵の後塵を拝むのだっ。」
「帰って寝てなさい! ‥しかし、サドもたいがい男好きよね。理論家ほど快楽に忠実というのは、おそらく正解ね。何はともあれ。」
『わたしが容器(ケース)を注文したので、あなた(ルネ夫人)は気に病んでいるというのだね。しかし、もし容器がすでに出来上がっているのなら、あなたは気になりもしようが、まだ作らせるという話しかしていない現在、ただ注文するという行為だけであなたの神経が刺戟され、魂が苦痛の感覚を告知されるとは、わたしの小脳の狭い容積では、とても考えられないのだよ。そんなことをしたら変に思われる、とあなたはいうのだね。どうもそこがわたしには理解できないな。つまり、小さい女が大きな容器を注文したからといって、われわれ無神論的哲学者が理性の座と見なしている松果線に、何らかの混乱が惹き起こされるだろうとは、わたしには到底信じがたいのでね。』
サド侯爵の書簡(一七八三年十一月)
2007/10/27/Sat
猫を償うに猫をもってせよさん「ボクシングは廃止せよ」
「ボクシング廃止論はむかしからあって、けっきょく頭狙うのが不味いのだよね。頭ばかり殴っちゃうからすぐ障害来たしちゃう。腹ばかり殴ればいいのかー。」
「いや、ま、それならいいのでしょうけど。問題はボクシングの根本的なルールを変更しなければどうしようもないということよね。ボクシングだけが異常に脳障害の確立高いのよねー。」
「うーん、剣道なんてそういう事故ってぜんぜんきかないよね。面とか打つけど防具あるからだいじょぶなのかな。‥ボクシングも兜かぶってやればいいのだよっ!」
「何そのうまいこといったみたいなのは。兜かぶってボクシングね‥。それ皮のグローブじゃやぶれるわね。」
「だからガントレットでも装備するのだ。わー完璧。」
「すごく重量感あるでしょうけど、スピードがまったく出なさそうね。っていうか、実施できる階級もとことん限られてきそうだけど。」
2007/10/27/Sat
「お姉ちゃんさ、ドミートリィがお父さん殺しちゃわなかったのってなんだったのかなって思わない? ラスコーリニコフはあっさり老婆殺しちゃったけど、ミーチャはそんなじゃなかったよね。ミーチャはなんかうまくいかなかった。これって、イヴァンならあっさり殺したのかな?」
「イヴァンなら殺したか‥さてね。ただ思想と観念から離れられないイヴァンやラスコーリニコフと、ミーチャは明らかに差異があるでしょうね。その差異は何かというと、はて、何かしら。」
「ラスコーリニコフはお金なくなってお腹へって強者の論理で殺人した。ミーチャは‥たぶん女とお金。ラスコーリニコフの殺人って、動機がないのじゃないかなって思う。動機って、罪と罰って、描いてないよね。ラスコーリニコフがこんなだったからあんなことしちゃったんだよみたいなのないよね。殺してから、はじまるんだよね。行為にかならず原因があるって考えるのは、もしかしたら危険なことで、イヴァンやラスコーリニコフみたいな人は動機ってものはほとんどないものかもって思ったり。逆にミーチャが殺人できなかったのは、ミーチャの父殺しを押しとどめた力っていうのは、だから神聖さがあって、ラスコーリニコフには神聖さはソーニャとともにすべてが終っちゃってからあらわれたけど、ミーチャにはやっちゃう前に、救いの形としてあらわれた。」
「そしてイヴァンには悪魔があらわれた、ってね。考えると、そのイヴァンにあらわれた悪魔を打ち倒す物語こそがカラマーゾフの続編なのかしらね。神聖さはラスコーリニコフを怪物の深淵から引き出し、ミーチャを父と欲の呪いから救ったけれど、イヴァンには届かなかった。」
「‥イヴァンは裏切られたのだっけ。イヴァンは神は認めるけど、神の創造は認められないって吐いたんだよね。あれを、私ならどういうかな。私は、なんていうのだろな。」
「‥そうやって自分に結びつけて考えようとすることこそ、罠なのじゃないかしらね。一歩引くことも、ときには必要よ。」
「‥だからお姉ちゃん好き。」
「‥ま、いいけどさ。」
2007/10/26/Fri
「さいしょは何から読んでもいいのかもしれない。ドストエフスキーに限らずどんな本でもだけど、読書というのは時間をかけてのんびり付き合ってくもので、だからさいしょに何から入ればいいのかなって問題は、それほど重要じゃないかもって思う。ドストエフスキー全集を一年でぜんぶがんばって読んじゃう必要なんてないし、死ぬまでに数冊読破できればいいのじゃないかな。ドストエフスキーを読破なんてできるのかっていうのは、たぶんまたべつの問題。」
「ま、慌てる必要はまったくないのよね。ただ膨大な体系のなかから、どの本を選べばいいのかというのはなんらかのガイドラインは必要かしらと思うけど。」
「そういうのは勘と運でいいかもかなって。放言だけど。私そんなこと思う。」
「めぐり合う本というのも一個の運命というの? はてさて、それはまたロマンチックね。」
「縁というのはあるのじゃないかな。たとえば私は澁澤読んだからサドに入ってったし、そこからシュルレアリスムの本とかも読むようになった。太宰や漱石は学校の先生が好きだったからで‥。そういうふうに自分のなかに独立した独特の体系をつくってくっていうのが、読書のひとつじゃないかな。私は一個の運命なのだ。」
「ま、それはあるかしらとは思うけれど。読書指南や本の選択とは別問題として、みずからの直感というのはある程度信じていいし、信じるべきでしょうね。経験のうえに、直感は養われるものでもあるし。その意味でも、かしらね。」
2007/10/25/Thu
私はhttp://d.hatena.ne.jp/sunbu/「オタク萌えなオタク」というブログを開いていますが、ネットで検索してもオタクに萌えるという人が見つかりません。
オタクに熱く萌えている方のサイトをご存知ならお教えください。「なんか、おもしろい。こういうのみちゃうと、オタクってファッションみたいなものかもかなって思う。実際そういったベタにオタクという人もいないでないし、見かける機会はけっこうあるかな。ただ本来的な意味での趣味人としてのオタクからすると、そういった記号的なオタクって意味あるのかな、とは思う。オタクってそんなだったかなって。」
「まー言い方がわるいけれど見世物という印象はあるかしらね。すでに個人の個人的な趣味と努力によるディレッタントというのは存立するかしらとも思うし。」
「趣味の個別性‥なんて思うけど、そういうのは他者の理解をぜったいに受けつけない部分は抜きがたくあるように思う。だけどそういった、みんなでわいわいすること適わないようなオタクというのは、あんまり求められないかな。と思ってみたけど、そもそもそういう人はほとんどいなくて、だからオタクだったわけだから、あんまり大勢に影響なし。オタクはそもそもそんなだったです。意味ないね。」
「趣味は他者には理解されない。それはすなわち自己の行為に意味を見出すのは個人性にこそあるということかしらね。それは責任という課題でもあるけれど。それは少し荷厄介なものね。はてさてよ。」
2007/10/25/Thu
世界の八大小説「へー、と思ってちょっと考える。ドストエフスキーっていったい何から入ればいいのかな。カラマーゾフが一等に来るのはしかたないかなだけど、いきなりカラマーゾフから読めーっていうのもどうかなって気はする。そういえばこの前英文学の先生に好きな本なんですかってきく機会があったのだけど、それでカラマーゾフと罪と罰っていわれたときは二の句が継げなくてうーん、みたいな。それくらいドストエフスキーはしかたない。」
「そのしかたないという部分をもっとも実感できるのはカラマーゾフなんでしょうけど。あれは個人的な体験としか読めないのじゃないかしら?」
「個人的じゃない読書もないけれど、カラマーゾフは‥何かな。どうしても他人と語りあえない根幹的な部分がある。そこらを考えちゃうと、やっぱりカラマーゾフからドストエフスキーに入るのもよろしかなって思っちゃう。‥何から読んでもいいかなだけど、「二重人格」と「白痴」から読みはじめるのは個人的に勧めない。「二重人格」は挫折しちゃう気がする。しかたない意味で。「白痴」は‥私のなかでぜんぜん取っ掛かりがないよな作品って気持がある。あの作品は、なんだかわかんないな。」
「あんがい「罪と罰」あたりが妥当なのかしれないかしらね。推理ものっぽくも読めるし。息つがせぬドラマ性というのが顕著じゃないかしら?」
「それもそかな。うーん、「白夜」なんていいかもかな。あれも素敵。それでそのあと「地下室の手記」読むの。これで陰陽ばっちりなのだ。」
「それは、ま、そうでしょうけど。はてさて、いや、何から読んでもいいとは思うのだけれど。ちょっとわからないかしら。」
2007/10/24/Wed
桃月学園blogさん「さて、愚痴を言わせて貰おうか」
「そんなかな、とは思う。この問題はほんとにむずかしい。ふつうにあるという点でむずかしい。たとえばいっしょに住んでたおじいちゃんがぼけちゃった、ということは世間にありふれたことで、その過程を見るということはどういったことなのか、その意味合いを考えるということは、ほんとにむずかしい。」
「ありふれてる、というのはまったくそうなのよね。ただそれがどこにでもあるからということが、問題をかんたんにはしないのだけれど。」
「今は関わってないけど、むかしは知的障害の子と身近にいて、そのコミュニティにも関わってた。その子を知らない人がふつうに接したら、困るだろな、とは思う。ただそういった障害を身近に見て、ふれて関わることというのは、それ自体固有の意味はもってた。あえていうなら、障害というのがとても自然なことだって思うのに、私はそんな困難じゃなかった。差別や悪意はあるけれど、それらは障害だけじゃなくて、世間一般どこにでも見受けられるもの。そういった意味では、それはあやふやなものだっていうこともできるかな。多様性というのは、ある。個性というのは、ある。障害は自然だって、いえる。そしてその自然を前に、差別はいけないって愛情がどれだけ力をもつか、私は疑問に思う。実際に接したリアリティを前にして、抽象的な愛情が保てるかどうか私は自信ない。愛情というのは人間のなかでそれほど強いものでなくて、愛情はどこか心をずたずたにしてく暴力性を秘めてる。ただそういった愛情が、実際に障害をもった子と接することによって冷めて、それまでとはちがう何か意味ある意識を生みだすかもって思うことは、素敵じゃないかなって、私は思う。」
「いろいろな人間がいる。それはまったくそうなのよね。そしていろいろな人は、けっこうどこにでもいるもの、か。直接的な関係性にふれて、はじめて観念は意味をもつことがある。具体的な形の、ちょっとした変革を、かしらね。」
2007/10/24/Wed
「あー、そっか。ミヤミヤとサヤって似てるのかな。ほんとの自分とかで悩んじゃうミヤミヤとやりたいことわかんないサヤか。ほんとの自分なんて考えないほうがいいかなって思うし、それはけっこうめんどくさい。無意味に人叩くの楽しいっていうのは、あはは、そだね。剣道よろし。今回はおもしろかったです。」
「コジローはけっこうおもしろいこというのよね。なんであんなにがんばれるか、か。」
「あとくされないというのはむずかしいよね。気にしないでいいよといわれても、けっこう欺瞞かなって思っちゃう。自分は他人にどう思われてるかっていう問題。他人は自分をどんなふうに思ってるのかな。あんなことしなきゃよかったかな、とか。でも実際他人は自分のことそれほど気にしてなかったりする。ほんとはそんなに関心なかったりする。関心ない、というのはあれれかもだけど、でもそういうのは大切だったりする。原作とはちがったミヤミヤとサヤの邂逅。おもしろかった。よかったな。」
「言葉ではいくら言い繕っても、か。そこらを気に病んでしまうのはしかたないことよね。ダンくんを撰ぶあたり、ミヤミヤもなかなかかしらね。」
「ダンくん素敵っ。さり気ない気づかいが地味に光るっ。朝から防具着けるのはいやだよねー。髪とかぐしゃぐしゃ。サヤの気持はけっこうわかるかも。面は暑くて、小手はくさいのだ。」
「そこらはもうどうしようもないかしらね。夏は暑くて、冬は寒い。防寒とか役立たないこと甚だしいのはどうしてかしら。」
2007/10/24/Wed
「スケッチブックのOPとEDを買ってきた。こんなに気に入るのはめずらしいなって、ちょっとおかしい。音を小さくして、しずかに何度かきく。スケッチブックを読んでから、ちょっと身の回りの見方が変わったかなって思う。駅まで歩くときとか、木とか陸橋とか、ふだん黙々と通りすぎてた場所を眺めてみる。そしたら、いつのまにか紅葉に染まってて、そのきれいさに胸がしめつけられた。こんなきれいだったのかなって、不思議に思った。」
「ふだん見落としている部分、ね。そこにあることはあるのだけれど、気づかない、気づいてもさして意味のないこと、か。」
「なんだろうね。むかしの私は気づいてたのかな。それとも今より気づいてなかったのかな。ブルトンはシュルレアリスムは何気ない一瞬を大切にすることだって、いってたように思う。私の解釈だけど。でもほんの小さな瞬間。現実は私たちには大きすぎて、ふだんの私たちは現実のすべてを見渡せるわけじゃない。でも少しだけ、現実が、私たちがふつうに生きてる現実が、より豊穣な一瞬の美を煌かせ、あらわれ出ることがある。だから超現実。surréalisme. 夢のような、美しさ。私はそれを、しずかに信じる。」
「気づかない、または気づけない瞬間か。それを大切にしたいってシュルレアリスムの思想は、ほんとうロマンチックよね。純粋で、芸術的な感情がその始まりなのかしら。」
『物いへば唇寒し秋の風』
芭蕉
清浦夏実「風さがし」 牧野由依「スケッチブックを持ったまま」
2007/10/23/Tue
「芥川龍之介の代表作のひとつ、「河童」の悲劇は、河童が実在するのじゃないということでなくて、それが単なる精神病者の妄想ということでもなくて、孤独に閉じこめられた理解されない心の真実を描き出してるところにある。物語は精神病患者の第23号が、自分の身に起こった摩訶不思議な出来事を物語るというもの。彼は登山の最中、遭難してしまって、河童の国にたどり着く。そこで彼は人間社会とは異なった、個性あふれる独自な思想をもった河童社会とふれあいます。そこには痛烈な社会風刺や芸術に対する毒舌が展開される。そういう意味では一種のユートピア小説とも読めるかな。芥川はここでそのニヒリスティックな精神を存分にふるうけど、その苛烈なペシミズムの底には切ない暗さが秘められてる。」
「一見して過激だけど、なんだか非常に繊細な作品よね、これ。内面はガラスのように脆い知能が、その悲しさと激しさを吐露してるかのよう。」
「河童は、やっぱりいなかった。それは精神を病んでる彼にしか見えないもので、他者である私たちには知ることもふれることもできない存在だった。‥でも、彼は河童に出会った。彼は河童と語り、河童の言葉を話し、河童の死に涙した。その姿を‥不可解と不気味の二語をもって忌避するのは、果してどうなのかな。陽炎のように私たちには知ることが適わなくて、だけどそこにはたしかにいた。芥川龍之介の河童は、そんなぜったいに理解されない人の心のような、切なさを胸に秘めていた。」
「この小説は、ある意味不可解な自白からはじまり、不可解な願いで幕を閉じるのよね。河童と語らった精神病者にどんな意味があったかは、はてさて、言葉にしにくく、そして苦いものね。それは社会に生きる人間という存在にとって。」
『若し理性に終始するとすれば、我々は当然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴォルテエルの幸福に一生を了ったのは即ち人間の河童よりも進化していないことを示すものである。』
芥川龍之介「河童」
芥川龍之介「河童」
2007/10/23/Tue
「もうスケッチブックDVD貯金をはじめるくらい好き。」
「そんなか。ってか気が早いことね。」
「なんでかな。今までいろいろ四コマ漫画読んできたかなだけど、いちばん好きになっちゃった気がする。性に合ってるのかな。山ネタとか美術部とか。この空気が好き。ちょっと切なくてふかい世界をときおりみせてくれるのが好き。コミクスはいいな。久しぶりに外に出るときメモ帳でももってってみようかな。」
「原作集めるのはめずらしいことよね。アニメで原作みてみるのはよくあることだけど、買うほどはないのじゃない?」
「みんな好きっ! ‥そいえばむかし近所に野良猫いたな。今はもうどこにいっちゃったのかわからないけど、猫じゃらしで遊んだっけ。なんで猫あれ好きなのかな?」
「はてさて。猫のことは猫にききなさいよ。夜中よく喧嘩してる声きこえるし、よかったらいってみたら?」
「噛まれるのやだ。プラトンパンチが炸裂するのだ。」
「いや、猫相手はすぐ逃げるでしょ。連中は昼間はどこに隠れてるのかしらね。」
2007/10/22/Mon
「この小説に描かれたのはシッダールタの迷い惑う姿。そこには悟りを得て、人々に教え崇められる神聖さじゃなくて、ただただ地面に這いつくばって苦しみながらも前に進むしかない、今日を生きてくしかない人間の姿。シッダールタは故郷を捨てて、苦行の日々を送るけど、そこに求めたものはないと感じ、さらには涅槃に達した仏陀と邂逅するけれど、彼からも離れ、ひとり自分の心のまま真理を求めてく。そして遊女カマーラと出会い、愛欲と金銭に乱れる俗世に染まっていき、月日経って、商人として成功したシッダールタの姿があった。かつて苦行でやせ細っていたとは思えないほど肥え太くなった彼だけど、安穏と満足することができなくて、心中は常に疑問と惑いがあった。そして彼は俗世を飛び出す。どこに行くべきか、自分は何をするべきか何もわからなくなったシッダールタは、ついに川へとたどり着く。自然の声そのものである、霊妙な川へとたどり着く。そこはふつうの川で、ふつうの渡し守がそこにいた。渡し守ヴァズディーヴァは学問も事業も何もない、ただ川があるだけの人だったけれど、川の声、自然の本質を知ることができた、ほんとの意味での仙人だった。彼のもとで、シッダールタは時を過ごす。川の声をきき、自然の麓で、シッダールタはこれまでにない体験を重ねた。そして数年後、シッダールタのかつての愛人カマーラの子、彼の実の子である息子があらわれる。子どもを得て、喜びを感じて彼を育てようとするシッダールタだけど、子どもは親たる彼を捨て去って街へと消える。その姿はむかし親を捨てて苦行に赴いた自分自身を回想させて、シッダールタは世界の苦しみを知る。そしてヴァズディーヴァも去り、そこにはひとり、道を知ったシッダールタの姿があった。」
「作品自体は非常に短いのよね。ただその描かれる主題というものは、非常にむずかしい部分があるかしら。」
「わかんないよね。‥西田幾多郎は「善の研究」ですべてのものに統一があるっていってた。調和があるっていってた。ヴァズディーヴァは川にふかい統一がささやかれてるっていう。真理、知識、救い、愛、肉欲、金銭欲。いろいろな欲望に苦しんで、そして子どもにも捨てられたシッダールタがさいごに至った境地は、いったい、なんなのかな。親は子を理解できなくて、子は親を捨てゆくもの。でもシッダールタはさいごに笑ってた。とてもとても笑ってた。彼は、何を捨てたのかな。そして何を得たのかな。この物語は、とても美しかった。すごくすごく美しかったです。」
「我欲を捨てる、とはいうけれど、それがどういう意味合いでいわれてるかは、わからないのよね。捨てることと生きること、か。二つのことは、もしかしたら同じ意味なのかしら。それが美しさの秘密なのかしら。」
『風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな』
西行
ヘッセ「シッダールタ」
2007/10/21/Sun
「今回も素敵な感じ。主題は渚の演劇部。ちょこちょこと周囲の関係性を広げてくのは上手いかな。朋也はいいやつ。いいやつすぎて嫌味なくらい。素行がわるいとか冗談なのだよねー。」
「ま、はてさてね、そこらは。部活推薦で入ったのに挫折して、かといってふつうの学業にも順応できなかっただけ、というのが大きいのかしらね。学校というのに何より求められるのは、空気読めという順応性だったりするし。」
「秩序が大切、というのはあるかもかな。とくに進学校ならなおさら‥。朋也は部活もできなくて、友だちも春原くらいだから‥春原みたいなのいれば十分だろなだけど‥渚でいっしょで楽しいのだろなって思う。それは、想像できる。学校はけっこう暇なのだよね。そしてその暇さが焦燥感とやり場のない憤りも生み出すのは、学校が一言でいえば閉塞的な構造にあるから。それをなんとかする、というのはむずかしくて、楽しいことを見つける努力というのは人によってかんたんでない。楽しければそれでいいじゃないなんていうけれど、楽しいことというのは天啓のように個人に与えられるものだったりする。だから楽しくするための努力にいちばん必要なのは、覚悟だったりする。朋也は渚に付きあうことを決意した。渚は演劇で楽しいお話をしたいって決めた。二人はがんばる。クラナド、楽しくなってきた。」
「次回は仲間探し。ま、順当ね。力を合わせなければ演劇はできない、か。」
「生徒会がうるさいのはしかたないかな。こういうの、きびしいところはすごくきびしくて、話にきくとあれれ。私はそんな苦労あんまりなくてよかったな。」
「規則というものはあるかしらね。はてさて、生徒会はクリアできるかしら?」
2007/10/21/Sun
猫を償うに猫をもってせよさん「古典制覇への道」
『さて、ゾラの『居酒屋』を読了。前半の、乱痴気騒ぎの場面がひどく長くて、『金瓶梅』の食事シーンのように感じたが、最後の方は圧巻だった。しかし、父親に虐待されて死んでしまう女の子の話、かわいそう過ぎる。時津風部屋よりひどい。』
「あそこはほんとにそ。「居酒屋」はごはん食べるシーンがとても多いです。お金ためた主人公が腕によりをかけてご馳走つくって、近所の人や友だちをびっくりさせてやるぞーって意気ごんで、延々と食事描写。魚よりお肉がいいだの、この脂身が好きだの、おばあちゃんは皮が好物なのだよねーだの。あそこの延々とつづく場面が物語全体にどういう影響を及ぼしてるのかなって考えると、その後の主人公の没落でろくなものが食べられなくてへんなもの鍋で煮こんで飢えを満たすシーンの陰影を、より濃くしてるとかっていえるかもかな。ちっちゃなじゃがいもとかだっけ。」
「しかし、ま、冗長よね。ひたすら長いもの。ゾラの作品は。」
「あはは。とにかく焼き肉みんな食べてた気がする。あのころのパリってそうだったのかな。でもどんなふうに調理してるとかは微妙かなだけど。」
「庶民生活を赤裸々に描くに当って、食事シーンを手を抜くわけにはいかない、ということかしらね。食事は生活の反映よ。」
「そんなゾラの「居酒屋」は、クライマックスがとにかく凄絶。雪降るパリを飢えてしかたなくて売春さえしようと決心する年老いた女主人公の彷徨は、ただただ美しい。あの場面は、美しかったな。そこまでたどり着くまでたいへんだけど、ラストはほんとに美しいです。人間の死のちっぽけさと、尊厳さ。」
「虐待される女の子も、あっさり死んでしまうのよね。そこに意義や正義を求めたくなるのが人情というものだけど、しかし世界は無関心、ひたすらに無関心なのよね。死して悲しむものもなし、か。」
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ゾラ「居酒屋」
2007/10/18/Thu
「イプセンの名を世界的にしたことで知られる戯曲「人形の家」。物語は銀行の頭取となるヘルメルを夫にもつ女主人公ノラが、むかし夫の命を救うため、やむなくお金を借りるために文書に署名を捏造したことがきっかけで、窮地に立たされるところからはじまります。彼女にお金を貸したのは背徳漢クログスタ。クログスタは仕事で失敗したことから不貞腐れてやけっぱちになっちゃってる人で、ヘルメルの銀行の役職にいました。社会的になんとか立ち直りたいクログスタは頭取ヘルメルに重用されるために、妻ノラの違法行為をだしにノラに強迫します。そしてそのことを知ったヘルメルは、猫かわいがりにかわいがってたノラに激怒する。でもとあるめぐり合わせから回心したクログスタが強迫をとりやめると、ヘルメルはさんざん悪態をついたノラに態度をころっと変えて、また弱い小鳥をあやすようにノラに接する。その様子をみて、ノラは自分が責任のあるひとりの人間として扱われていないことを確信して、自分という人間を探求するために、家庭を去る。というお話。自我に目覚めたひとりの人が、籠のなかから飛び立つ物語、かな。」
「女性解放の象徴と謳われている作品だけど、そのテーマというのは実に明確で現代的ね。ただ甘やかされ、盲目に快楽に耽っていることが果して人間として正しいのか。真に自己を知り、自分の立場を考えることがあってこそ、生きているといえるのでないか。これは女性だけでなく、社会にある人間の普遍的なテーマよね。」
「なんかさいきん似たようなお話あったっけと思ったけど、これってグレンラガンでもあったよね。二部のニアとロージェノム。二人の関係ってそのままノラとヘルメルだよね。お人形として可愛がられてた少女が、自分のレゾンデートルに疑問を抱いて、保護者にはむかう。保護者にとってはわずらわしい言葉を話さなくて、ただ可愛がられればいい存在の人形が自分探しをするなんて、そんなのめんどくさいだけだから少女を押さえつけようとする。でも、世界の広さに気づいた少女は、世界を見ずには済ませない。世界に向わなきゃ、済ませない。私は明日へ向います、って。」
「そういえばそうね。グレンラガンもそんなことだったかしらね。自分探し、端的にいえばそれだけのことだけど、その作業はずっとつづくものかしらね。自分なんてあやふやだもの。」
「たとえ中二病といわれても、かな。自分は自分に定かでない。だから私は私を知るために、今日も明日に向うのだ。それは素敵な世界の、素敵な在り様を知るために。人形の家、読みやすくておもしろかった。そのテーマ性は、まったく古びることがない。意志ある人間の、意志ある限りのひとつの課題の物語。」
「意志をもつことの困難さとすばらしさ、か。自分探しというのは、中二病でも必要なことよね。むしろそれを閑却することこそ、安易なニヒリズムにほかならない、か。」
イプセン「人形の家」
2007/10/17/Wed
「絵が好きだった、と思う。小学校のときかな。そのころはちょくちょくいろいろなもの描いてた気がする。工作もした。積木とか、木板を釘ででたらめに打ったりしてへんな形のもの作ったりしてた。そのころの教室には原稿用紙が決った場所におかれてて、それをいつでも好きなだけ持ち帰っていいよって先生はいってた。私はいつも一枚持ち帰ることにした。帰っていろいろ書くの。作文は楽しかった。今でもまいにち書いてる。ブログを書いてる。ふつうの一人称じゃなくて、こんなふうな対話形式なのは、たぶん作品にしたいって私の気持があるから。ただただ書いてる。そこにはほとんど意味はない。でも、意味のないのを私は気に入ってる。意味のない私を、気に入ってる。」
「作文じゃなくて、絵ばかり描いてたという展開も、はてさてあったかしら。無意味な仮定だけれど。」
「うん。そういうのは、わかんない。‥空はスケッチブックには描けないものもたくさんあって、それでいいのだっていうけれど、言葉にできないものはたくさんあって、それでいいって私も思う。‥私の目に焼きついてるある光景がある。選択美術をとってたとき、ある初夏のころ、油絵を慣れない私はがんばってとりくんでたのだけど、そのとき何気なく見た美術室の窓の奥、一面に広がった青空と白い雲、限りなく注ぐ眩しい初夏の陽光、広い大きい初夏の天地。‥その綺麗で大きくて、焼きつくような印象が、色褪せずに私に残ってる。私の大切な景色として、残ってる。私はときおり思いだす。」
「心象風景というのかしらね。世界があって、その世界のなかにひとりある自分が、世界と一対一で向きあう瞬間というのかしら。言葉にしづらいけど、世界という自然がはっきりと意識されるときというのはあるものよね。ただそれは、限りなく言い難いものかしら。」
2007/10/17/Wed
「すごくどうでもいいことだけど、私は三八をさぶはちじゃなくて、さんぱちって呼んでたな。竹刀の長さのこと。‥わー、すごくどうでもいい話。」
「剣道を教えに来てくれる剣道具店のおじさんねー。ま、よくある話ね。」
「木刀抜き身でもってると危ないよ、ミヤミヤ。袋に入れてるならいいのだけど、そのまま裸はいけないのだよね。銃刀法違反になっちゃうのだ。私も一回注意されたし。」
「え。それいつよ。」
「ライト当てられたから逃げた。」
「警察に!? ってか逃げるな!」
「素振り用の重い木刀とかもあるけど、あれってどうなのかな。へんに重いのいじっちゃうと、構えが崩れちゃってよくない気がする。ふつうの木刀をすんなり振れるように練習したほうが初心者はよろしなのかな。力をぬくことがどれだけむずかしいかって、今でもときどき考える‥」
「完全に剣道の話ね。本編の話はどうよ。」
「サヤとミヤミヤもからむとおもしろいよねっ。いろいろな意味で。」
「ずいぶん露骨ね、おい。」
「ダンくんは味があってよろし。ダンくんとミヤミヤがいればこのアニメはよいのだっ。」
「なかなか手堅い構成ではあるかしらね。ま、この原作にないエピソードはどうまとめられるのかしら。次回が楽しみね。」
2007/10/17/Wed
「なのでコミクスをゆっくり集めてる。こういうの好きだな。私、気に入りました。」
「着眼点がおもしろいのよね。虫とか野草とか。山菜ネタは笑えたかしら。アクがつよくて苦いというやつ。」
「苦いよねー。ふきのとうの天ぷらでごはんだよっていわれても困る。でもせっかくとってきたからがんばって食べる。アクぬきしっかりしなきゃいけないです。」
「もう秋だし。山菜の季節よね。さいきん食べてないかしら。」
「スケッチブックいつも持ち歩く空。私も前は外出るとき、メモ帳もってたな。今はあんまり。そういうのないかな。絵心ない私はいろいろ言葉を書いとくのだけど、今では手ぶらのほうがいろいろ見れていいかなって気がしてる。書くのはあとでもいいかなって。」
「絵心ないのはね、あれね。」
「でも絵心ぜんぜんないわけじゃないもん。むかしメダルもらえたもん。」
「それ、小学校以前の話じゃないのよ。ノーカウントよ。」
「うー。いつから私は絵を描かなくなったのかな‥。きらいになったとかじゃないのだけど‥」
「めんどくさくなっただけでしょ。」
「岩をも砕くプラトンパンチだー!」
「ぐはっ‥!?」
「私そんなめんどくさがりじゃないもん! きっと絵以外の何かを見つけたから今の私なんだよっ!」
「‥何見つけたのよ。」
「‥あれれ?」
「‥平和なことね。まったく。」
小箱とたん「スケッチブック」
2007/10/16/Tue
「おもしろかった。すごくよかった。傑作だな、って思った。私はこの本を楽しくそして感動をもって読んだけど、読み終ったら気分が沈んだ。今もちょっと滅入ってる。この小説、すごいなって思う反面、なんだか大きくてふかい底知れない問いがさいごに発せられてる。その問いは、端的にいって、性の問題。そういった意味でこの小説はすごく小説らしい小説といえて、まず小説でも読もかなと思ったら、おすすめしていいかもって作品なのかも。エロから逃げるのは、小説じゃないよ。それは思想でも芸術でもなくて、肝心なのは率直に自分に引きつけて思考することでないかな。だからこの作品はすごく素敵。そしてちょっと気が滅入る。」
「ゴルトムントがナルチスにかけたさいごの問い、ね。そしてそれは他人を愛するというより以上の何ものか、かしら。」
「ヘッセという人は女の人が大好きだったのだなって思う。とてもそういった肉欲の衝動に悩まされた人、というの。そしてその問題に真摯に向きあった人であった。‥快楽というのがあって、それは人間にときならぬ幸福を与えることができるものであるけれど、でもそこには汚辱と堕落に容易につながる側面がある。端的にいえば、だれでもセックスってできるし、そこにふかい霊妙さとか求めなくても気持いいのは気持いいもの、というの。数々の女性を遍歴するゴルトムントだけど、そのさすらいには彼を卑小な存在と化す罠がいくつもあった。欲への沈滞、安逸さへの求めは人を保守的にして、つまらなくさせる。ゴルトムントは幾度もそれを感じると、たちまち逃げだして自分の感性と神秘への探求に突き進んだ。‥彼がそこまで思いを馳せたのは、母の幻影。そして愛の存在。愛はある。母もあって、その母はイヴにほかならなかった。そしてそのイヴは快楽をもって子どもの心臓を握りつぶす存在でもある。そこに愛の真実があった。‥でもうまくいえないかな。私は、あんまりつよくいえない。私は母への思慕というの、気づいてない、かもかな。」
「ま、ここはね。うまく意味合いをつかめないところよ。ただその愛するという意味合いを追求したのがヘッセということなのでしょうけど。知性と愛の攻防。世界はあまりに不完全である、か。」
「調和した世界というの、ほんとにあるのかな。イデアとかっていうけれど、そういうのって、ありうるものなのかな。雑多な世界を、私はみてる。世界と調和は相容れないものじゃないかって、思う。私は、調和というのがわかんない。それは美しさで、ありえるのかな。お姉ちゃん。」
「美を求めたら、美の有様に懊悩する、か。世界に呆れ果てる前にやることはあるでしょうけど。みえることはあるでしょうけど。果して、ちがうかしら?」
「そういうのって、ずるい。でもお姉ちゃんは好き。」
「あら。ありがとう。偏にこの小説の妙味はそこかしらね。静かなるかな、人生よ。」
ヘルマン・ヘッセ「知と愛」
2007/10/15/Mon
亀田大毅選手、1年間のライセンス停止「話題に乗らなきゃ!っていう気はぜんぜんないけど。でも亀田さんの話題も一区切りかな。なので書いとく。この問題、このまま亀田さんたちを処断して終りよかったねという構図になってるのがちょっと気になるかな。とりあえず亀田さんの人間性とか感情的な好ききらいとかはおいといて、反則したりセコンドが親族だったりしたのはたしかだけど、そんな不正がはじまったことはこの試合がさいしょじゃないです。もうずっと一年以上前から、この不正はJBCに事実上黙認されてた。むしろボクシングの話題づくりのために助長していたともいえるのじゃないかな。そこにふれないで、このまま亀田さんたちを処分して終りとしたなら、それは組織としての反省がまったくないってことになる。ただ亀田さんたちをスケープゴートにして、自分たちの責任の所在をあいまいにしてる。それはこの一連の亀田問題の決着としては、あまりに筋の通らないものになるのじゃないかな。反則した亀田さんを擁護してるわけじゃないです。反則はいけない。厳罰するのは当たり前。でもそれを今までしてこなかったのが事実であって、ある意味今回の試合のような結果を招くに至ったのは、組織としての正当性を確保してこなかったからでないかなって思います。ここをうやむやにしたら、何も変わらないのでないかって。亀田さんを追放したところで、また似たような問題が生まれる可能性はなくならないのじゃないかって。」
「処分すべきほどの行状はあったことはたしかなのよね。ただそれに言及することが皆無だった。しかし構図としては、このまま亀田選手を追放して、感情を納得させて終いかしら。少し違和感あるかしら。」
「試合についてもちょっとだけ。あんな頑丈な選手みたことなかった。何練習したらあんな丈夫になれるのかな。まんがみたいなタフネスさってはじめてかも。」
「脅威のフィジカルね、あれは。ま、身体いくつあっても保ちそうにないけれど。目とか脳とか怖いことよ。あれだけがむしゃらに打たれてるとね。おどろきよ。」
2007/10/15/Mon
「むかし私が親しくしてた先生が日本人の自殺者の多さに慨嘆してた。たしか三万人くらいだったかな、自殺する人って。それで私は先生の言葉になんともいえなかった。私は経験足りなくて、それに対して言葉をつむぐ術を知らなかった。ただあることを思いだす。自殺したおじさんがいたのだけど、その有様は自滅というのとちがってた。自殺と自滅はあんまりちがう。自滅はひたすら自己完結的だけど、自殺にはどこか他者に呼びかけてるような節がある。自殺した人を前にするとき、その人は私に死を語ってはいなかった。死の意味を問うことは、ときには途方もない生きるためのやさしさを語ることがある。でも私はそれに対して返す言葉がない。私は、他者にそこまで期待しないから。」
「‥期待しても、いいのじゃない?」
「そこは、わかんない。あんまり考えない。だめかな、こういうの。」
「さてね。知らないってば。」
2007/10/14/Sun
自殺サイト―もはや見過ごせない「危ういサイトがある、というのはわかるけど、ならネットがなかったならその女性は自殺しなかったのかな、という問いが生まれる。微妙な問題だけど、もしかしたら自殺しなかったのかもしれない。ネットがなかったら、その人は自殺するきっかけを得ることがなくて、自殺の願望を胸に秘めながら自殺することなく死ぬことができたかもしれない。自殺する、とはいうけれど、でもそれはどこか吐き出す場所があってはじめて可能になることかも。自殺をしないということは、自殺できないほどの絶望が個人を覆ってるから、ということがあったり。でもうまくいえないかな。ただ死の無意味性が厳然とあらわれるとき、人が自殺に赴くのは衝動でなく狂気だったりする、かな。」
「自殺サイトを潰すことが、自殺者を救うことにはならないでしょうね。しかしその孤独を察知するということは、国家にはもちろん不可能事よ。」
「‥ある人の声に耳を傾ける、ということが必要なのかな。その意味でネットはそういった僅少な声を拾える可能性があるのかなっては思うけど、でも実際はネットでも声の大きな人の声がいちばんきこえるというふうになってる。ただ発言することは無意味じゃないし、どこかでそれをきいてくれる人はいるかなって、思う。でもそんな些細な願いがどこに落ちつくかは、わかんないな。ネットも社会も、そういった意味では変わらない。しずかな場所でないと、きこえない音はあるものだから。」
「耳を澄ます、ということはある種の余裕がないとむずかしいのよね。そういった余裕を排斥する何かが、ネットにもあるように思えるけれど。システム的なものかしらとは思えるけれど、はてさて、不明よね。わからないこと。」
2007/10/14/Sun
きぃら~☆「セイントオクトーバー」2巻「セイントオクトーバーコミクス版の2巻目。一応これでセイントオクトーバーもさいご、かな。アニメではいまいち影が薄くて、強くもなくて、とくべつな能力があるわけでもない菜月が、漫画版では活躍して目立ってて、菜月好きな私としてはうれしいな。おもに小十乃への過剰な愛が暴走するので。」
「漫画版は小十乃、菜月、三咲の関係が中心となって描かれてるのよね。まーみんな仲良くてけっこうよ。」
「アニメだと私の菜月を引っかきまわした猟兵の野郎があんまり目立たないのでよかったな。なんだかすごくテンプレな悪役としてクルツさまに処断されちゃった。複雑な過去をもつでもなく、小十乃のお弁当を奪ったりするでもなく、目つき鋭い敵役として散るさいごは、それはそれでそれなりだったかも。ばいばい、猟兵。」
「漫画ではそこまで書く尺がないということね。アニメでは味があるキャラだったけど。」
「もーっ! なんで菜月が猟兵を好きになっちゃうのですかっ! 私そんなの認めないっ!」
「ま、まだ引きずってたの、あんた‥」
「漫画ではみんな仲良くて素敵。小十乃と菜月だけじゃなくて、三咲も入って、小十乃と仲良くする三咲に嫌がらせする菜月は凶悪で素敵。愛は無敵なのだー。」
「‥ま、べつにいいけど。」
「ラストはクルツさまとユアンくんがともに消えて終った。アニメでは蘇ったけど、漫画ではないかな。それがちょっとさみしくもあって、しかたないかなとも思う。力に惑わされて振り回されたのがクルツ社長だったのかなー‥」
「石版の力に固執しすぎたのかしらね。その執着がなかったのなら、もっとべつな未来もあったかしらなんて思うけれど。それは悲しい仮定の話にすぎない、か。」
2007/10/13/Sat
「住吉さまで月に行くのだっ。というわけで、霊夢は住吉三神の力を借りる修行をはじめた。住吉三神は海と航海を司る神さまで、神名にある「つつ」は星のこと。だから住吉大神で月に行こうっていうのは理屈が合いすぎてて逆に不気味かも。でもこんな有名な神さま呼んでくるとは思わなかった。盲点でした。」
「住吉三神で月にねー。住吉神社なんて全国どこにでもあるものだし。そういった意味でその信仰の力は強いといえるかしらね。」
「それで月。月か。月に攻め入るというの、理由なんでだろ。レミリアは好奇心からというのはわかるけど、月にいる吸血鬼なんてシュールすぎてどんなかな。それって月の魔力借りれるのかな。月の都、というのも想像できない。それはたぶん穢れた地上の、つまりは現世の人間にたどり着ける場所ではないのだろなって思う。だから月もまた幻想の所作で、人がふだん見上げてる月は虚偽の月。そんなのが永夜抄のお話でした。」
「竹取物語原典に当れば、おそらく日本の天皇にとっての月とは、唐のことだったのでしょうね。そしてその暗喩は東方世界でいえば、俗世に対しての幻想境であるように、幻想境に対しての月。さらに幻想、夢幻の世界、か。」
「私たちにとっては幻想だけれど、幻想境にある幻想は幻想ではないのだよね。だから幻想境という言い方はあくまで此方からいわれるべき呼称であって、彼方を指す名前でしかない。だから幻想境がみずからを幻想と名乗って存在してるかぎり、それも一種の虚偽なのかも。幻想境にいるものにとって、幻想境は果して幻想そのものなのかな、という問題。そしてそれを解く鍵が、幻想境自身にとっての遠い幻想たる月の都。その意味で、東方儚月抄はすごくおもしろい。煙に巻かれるような幻惑と胡蝶舞う夢の秋。夢か現か、どこに連れてってくれるのか、すごく楽しみです。」
「幻想に真実も虚偽もなし。あるもなしも同じこと、か。常識は通用しないのよね。ただそれは人間の手に余るだけよ。厄介に、美しく。」
『ともすれば月澄む空にあくがるる心のはてを知るよしもがな』
西行