スコプトフィリアと萌えの話
2008/02/29/Fri
新・アニメ・批評さん「アニメにおける「縦の構図」と「覗き」によって現代のアニメを俯瞰してみる。」
『そして、こういった「縦の構図」の機能は「ギャルゲー」ブームとともに90年代に入って台頭してきた「マルチヒロイズム型アニメ」と密接な関係があります。
と申しますのも、「マルチヒロイズム型アニメ」においては、登場人物たちに「同一化すること」よりもむしろ、登場人物たちの世界を「覗き見ること」を重視して制作するからです。たとえば、そうですね、「空気系マルチヒロイズム型アニメ」の極北である『苺ましまろ』というテレビアニメを思い出してみてください。あるいは、佐藤順一監督の『ARIA』シリーズでもいいかもしれませんね。
これらのアニメについては、個別の作品論において考えるべき重大な問題が多く見出されます。けれども今回のお話に沿って大雑把に言ってしまうと、これらの作品が高く評価される理由のうちのひとつは、徹底的に視聴者の「同一化」への意志を、描写された世界と画面の外側へと「弾き返してしまった」ことにあるのです。つまり、いかなる視聴者もその世界に足を踏み入れることを許されてはいないのです。逆にですね、現在も放送されております『みなみけ』シリーズを『苺ましまろ』や『ARIA』シリーズと比較した場合に、前者が決定的な評価を得ることのできない理由は、そのことと関係があるのではないでしょうか。』
「おもしろいお話。今までひみつにしてきたけど私は実は押井守ファンなので‥最高のアニメ映画は「イノセンス」だって信じてるくらい‥画面のレイアウトや構図に関してそれなり関心ないわけでなかったです。でも今まであんまりそういった方面の話してこなかったのはなんでかなというと、それはやっぱり私が言葉に傾倒してる人だから。絵描けないもん。あんまり興味もないし。だからここでもこのエントリで関心惹かれたのは、覗き見ることの欲望が萌えという概念と結びついてるのでないかという指摘のほう。私はそれはたぶんとてもありうることでないかなって気がする。愛でるということが萌えの本質とするのなら、萌えの対象というのは作られた箱庭の関係性にほかならなくて、そしてそこにはある種の閉塞性が必要なのでないかなって思う。それは人間的なエロティシズムの表現の尖鋭の形。」
「萌えというのがエロティシズムの一表現であることはたしかなのでしょうけど、しかしそれは本能的な性的欲求のみに基づくものとして果していいかしらという問題かしらね。愛でるということと覗き見る欲求ということの二つ。この関係はけっこう興味深いかしら。」
「アンリ・バルビュスの小説「地獄」の主人公は、まいにちホテルの自室で壁に穿った穴から隣室のきわどい光景を眺めて楽しんでる人なのだけど、ある日みてるだけじゃいけないと思って、部屋に娼婦を連れこんでベッドに入るのですけど、その行為は期待してたものよりぜんぜん快楽の大きなものでなかったってエピソードがあります。この話は、人の欲望の働きを考えるうえで、いろいろおもしろいのでないかな。実際の行為より、目で見て愛でてるほうがよほど楽しいし気持いい。人間のエロティシズムなんてしょせんは脳髄作用的なものなのだーなんていいたくもなっちゃうかな。そして萌えというのもバルビュスの小説のようなメカニズムと、それほどちがってないのでないかなって私は思う。スコプトフィリア‥覗見症の快楽が、現代のエロティシズムの特色をよくあらわしてるってモーリヤックはいったけど、その覗見症の快楽が二十一世紀になって萌えという形になって、ここまで一般的な形として根付くことになったというのは、私にはいろいろ考えさせられることかなって気がする。それはスコプトフィリアが異常なものとしてそれほど認識されなくなったということであって‥社会的には萌えという文化はいろいろ色眼鏡はあるものだけど、でもそれはぜったいに糾弾されるべきものとして扱われてるわけでもなくて、あるていどの支持と立場は得てるかなって私は思う‥それはつまりスコプトフィリアが、エロティシズムを文化として発展してきた人類が、当然行き着くべき地点のひとつであったことだって、確証することでないかな。スコプトフィリアは、人類の、当然の進化の形だって。」
「それは何かしら。つまり萌えというのは文化が進めば必然至りつく境地だとでもいうの? はてさて。それはどうかしら。」
「あはは。でももしかしたらそんなかも。エロティシズムの活動は悪魔的な相を示すものっていったのはバタイユでしたけど、その言葉が正しいのなら正常なエロティシズムというのは本来ありえない。そしてアニメ作品が愛でる対象として構想せられて、小さくてきれいな箱庭的世界を形成するものとしたなら、それを望む視聴者もまた悪魔的な相を示してるにほかならない。押井守は「人・形ノート」で萌えというのはわからないといいながら、萌えに熱中する若い人たちには怖いものがあるかなっていってる。そこを引用して、このエントリはおしまいかな。」
「愛でるということが萌えの本質を成すとしたら、その行為はとても孤独なエロティシズムの現実をあらわしているともいえるのかしら。覗見症は、希望なき孤独のエロティシズムの行き着く果てだったのかしらね。はてさて。ま、そこまでいうとちょっと大げさだけれど。考えさせられる話題であることはたしかかしら。」
『それこそ僕は日本人ってね、二次元に魂が籠もるという工程が好きなんじゃないかって思う。浮世絵から始まって、線と面ということが好きなんだろうということと、あとは基本的に生のものに対する忌避感というものがあるような気がするんですよ。
‥
‥フィギュアがこれだけある種安定な世界を作り出しちゃったというのは、そういうものに対するフェティッシュというのが日本に定着しつつあるのかもしれない。僕らの時代には(キャラクターは)マンガしかなかった。まさに、絵しかなかったんです。でも今は、こんな食玩から始まってさ、五万円のフィギュアなんてゴロゴロあるわけだからさ。なぜこういうものを皆持ちたがるんだろうか、というのが、今の僕の興味の一つ。それは僕が人形に興味を持ったことと、どうも経緯が違う気がする。たぶん、抱いている欲望が違う。僕はこれまでも何度も喋ったけど、ベルメールが扱った人形に興味があった。そこから入っていったから、入り方としては特殊かもしれないけど、自分の人形に対する欲望が何なのか、その正体がわりとはっきりしてたと思うんですよ。でも今の若い子たちは何だかよくわからないままに、ドドーッと入っていくみたい。僕はそこにけっこう、怖さを感じる。
‥
物になぜこれだけ執着できるんだろうか。生でもなければ言葉でもない、それこそアイコンじゃないですか。そのアイコンの世界というのは、僕らのアニメーションの仕事の世界の地平でもあるから、無関係じゃいられないし、無神経ではいられない。興味はあるわけだけどね。』
「人・形ノート」第1号
「人・形ノート」第1号
『そして、こういった「縦の構図」の機能は「ギャルゲー」ブームとともに90年代に入って台頭してきた「マルチヒロイズム型アニメ」と密接な関係があります。
と申しますのも、「マルチヒロイズム型アニメ」においては、登場人物たちに「同一化すること」よりもむしろ、登場人物たちの世界を「覗き見ること」を重視して制作するからです。たとえば、そうですね、「空気系マルチヒロイズム型アニメ」の極北である『苺ましまろ』というテレビアニメを思い出してみてください。あるいは、佐藤順一監督の『ARIA』シリーズでもいいかもしれませんね。
これらのアニメについては、個別の作品論において考えるべき重大な問題が多く見出されます。けれども今回のお話に沿って大雑把に言ってしまうと、これらの作品が高く評価される理由のうちのひとつは、徹底的に視聴者の「同一化」への意志を、描写された世界と画面の外側へと「弾き返してしまった」ことにあるのです。つまり、いかなる視聴者もその世界に足を踏み入れることを許されてはいないのです。逆にですね、現在も放送されております『みなみけ』シリーズを『苺ましまろ』や『ARIA』シリーズと比較した場合に、前者が決定的な評価を得ることのできない理由は、そのことと関係があるのではないでしょうか。』
「おもしろいお話。今までひみつにしてきたけど私は実は押井守ファンなので‥最高のアニメ映画は「イノセンス」だって信じてるくらい‥画面のレイアウトや構図に関してそれなり関心ないわけでなかったです。でも今まであんまりそういった方面の話してこなかったのはなんでかなというと、それはやっぱり私が言葉に傾倒してる人だから。絵描けないもん。あんまり興味もないし。だからここでもこのエントリで関心惹かれたのは、覗き見ることの欲望が萌えという概念と結びついてるのでないかという指摘のほう。私はそれはたぶんとてもありうることでないかなって気がする。愛でるということが萌えの本質とするのなら、萌えの対象というのは作られた箱庭の関係性にほかならなくて、そしてそこにはある種の閉塞性が必要なのでないかなって思う。それは人間的なエロティシズムの表現の尖鋭の形。」
「萌えというのがエロティシズムの一表現であることはたしかなのでしょうけど、しかしそれは本能的な性的欲求のみに基づくものとして果していいかしらという問題かしらね。愛でるということと覗き見る欲求ということの二つ。この関係はけっこう興味深いかしら。」
「アンリ・バルビュスの小説「地獄」の主人公は、まいにちホテルの自室で壁に穿った穴から隣室のきわどい光景を眺めて楽しんでる人なのだけど、ある日みてるだけじゃいけないと思って、部屋に娼婦を連れこんでベッドに入るのですけど、その行為は期待してたものよりぜんぜん快楽の大きなものでなかったってエピソードがあります。この話は、人の欲望の働きを考えるうえで、いろいろおもしろいのでないかな。実際の行為より、目で見て愛でてるほうがよほど楽しいし気持いい。人間のエロティシズムなんてしょせんは脳髄作用的なものなのだーなんていいたくもなっちゃうかな。そして萌えというのもバルビュスの小説のようなメカニズムと、それほどちがってないのでないかなって私は思う。スコプトフィリア‥覗見症の快楽が、現代のエロティシズムの特色をよくあらわしてるってモーリヤックはいったけど、その覗見症の快楽が二十一世紀になって萌えという形になって、ここまで一般的な形として根付くことになったというのは、私にはいろいろ考えさせられることかなって気がする。それはスコプトフィリアが異常なものとしてそれほど認識されなくなったということであって‥社会的には萌えという文化はいろいろ色眼鏡はあるものだけど、でもそれはぜったいに糾弾されるべきものとして扱われてるわけでもなくて、あるていどの支持と立場は得てるかなって私は思う‥それはつまりスコプトフィリアが、エロティシズムを文化として発展してきた人類が、当然行き着くべき地点のひとつであったことだって、確証することでないかな。スコプトフィリアは、人類の、当然の進化の形だって。」
「それは何かしら。つまり萌えというのは文化が進めば必然至りつく境地だとでもいうの? はてさて。それはどうかしら。」
「あはは。でももしかしたらそんなかも。エロティシズムの活動は悪魔的な相を示すものっていったのはバタイユでしたけど、その言葉が正しいのなら正常なエロティシズムというのは本来ありえない。そしてアニメ作品が愛でる対象として構想せられて、小さくてきれいな箱庭的世界を形成するものとしたなら、それを望む視聴者もまた悪魔的な相を示してるにほかならない。押井守は「人・形ノート」で萌えというのはわからないといいながら、萌えに熱中する若い人たちには怖いものがあるかなっていってる。そこを引用して、このエントリはおしまいかな。」
「愛でるということが萌えの本質を成すとしたら、その行為はとても孤独なエロティシズムの現実をあらわしているともいえるのかしら。覗見症は、希望なき孤独のエロティシズムの行き着く果てだったのかしらね。はてさて。ま、そこまでいうとちょっと大げさだけれど。考えさせられる話題であることはたしかかしら。」
『それこそ僕は日本人ってね、二次元に魂が籠もるという工程が好きなんじゃないかって思う。浮世絵から始まって、線と面ということが好きなんだろうということと、あとは基本的に生のものに対する忌避感というものがあるような気がするんですよ。
‥
‥フィギュアがこれだけある種安定な世界を作り出しちゃったというのは、そういうものに対するフェティッシュというのが日本に定着しつつあるのかもしれない。僕らの時代には(キャラクターは)マンガしかなかった。まさに、絵しかなかったんです。でも今は、こんな食玩から始まってさ、五万円のフィギュアなんてゴロゴロあるわけだからさ。なぜこういうものを皆持ちたがるんだろうか、というのが、今の僕の興味の一つ。それは僕が人形に興味を持ったことと、どうも経緯が違う気がする。たぶん、抱いている欲望が違う。僕はこれまでも何度も喋ったけど、ベルメールが扱った人形に興味があった。そこから入っていったから、入り方としては特殊かもしれないけど、自分の人形に対する欲望が何なのか、その正体がわりとはっきりしてたと思うんですよ。でも今の若い子たちは何だかよくわからないままに、ドドーッと入っていくみたい。僕はそこにけっこう、怖さを感じる。
‥
物になぜこれだけ執着できるんだろうか。生でもなければ言葉でもない、それこそアイコンじゃないですか。そのアイコンの世界というのは、僕らのアニメーションの仕事の世界の地平でもあるから、無関係じゃいられないし、無神経ではいられない。興味はあるわけだけどね。』
「人・形ノート」第1号
「人・形ノート」第1号