2008/04/30/Wed
「第7話はケイトがやってくる話。日本文化を教わるケイト。その役目に抜擢された夏海はへんな影響与えまくる先輩たちに翻弄されながら、ケイトのために奔走するのだけど、その当の夏海の日本語がちょっとおかしいってケイトに指摘されて、それでショックな夏海。その様子をみてた空のとった行動は‥というので、うん、やっぱりこのお話はいいな。毛糸は動くとほんとかわいいね。そして何より空のそっけないやさしさ。自分の好きなことにだれよりも素直で、そして彼女が気に入ってる彼女の居場所、美術部に来た新たな仲間のケイトのために、そして友だちの夏海のために。だまって、大切なことは心にしまって、ただ気づかう空の姿は、私はすごくすごく素敵だなって思う。この話はとても好き。ほんとに素敵。」
「けっきょくのところ夏海はケイトに遊ばれているのよね。そこは思いこんだら一直線の夏海らしいというか、まあそういうよろしい関係性なのよね。」
「あはは。ケイトってそんなだよねー。第8話は巫女さん涼風コンビがラジカセ直すエピソードと、みなもと空のちょっとした交流の話。空の気ままな散歩はみてて楽しい。日曜日だからって一味ちがうお茶を淹れる空の真剣な眼差し。彼女がこんなに本気なふうを見せるのはたぶんここくらいかな。みなもの絵を描いちゃう空がまたおもしろくて、やっぱりいいな、この作品。空は素敵な人ってほんとに思う。」
「みなも相手にする空の挙動不審っぷりはおかしいものね。ちょっとオーバーなくらいかしらと思わないでないけれど。」
「そしておまけのピクチャードラマ。今回はなんと温泉の話。まさかスケッチブックでこんなノリのお話見れるなんて思わなかった。夏海が、その、あー‥葉月とのやりとりとか、葉月かわいくて、よかったです‥。鼻血ものとか、いうのかな。」
「鼻血って‥まておい。」
「空の胸が大きくなくてよかった。見た目からしてそだよね。ほんとによかった。」
「まておい! ‥そこまでいくとまたなんともな感想ね。ま、そんな内容ではあったのだけど。」
「夏海はまったく。ほんとにまったく。グッジョブでした! 次回も期待。期待なのだ。浴衣似あう空がとてもとてもよかったです。空はこういう服装に合って、すごくよろしっ。温泉はすばらしいのだ。」
「‥まあ浴衣の似合う人ね、彼女は。しかしなんともはっちゃけた内容だったこと、今回のピクチャードラマは。スケッチブックでこういうことするとは予想だにしなかったかしら。さて次回は何かしら。ま、この調子かどうかはともかく、まずは期待しましょうか。」
「スケッチブック~full color's~」4巻
2008/04/30/Wed
「四十年間哲学教師を務めたアランは、そのかたわらまいにち新聞に哲学的断章を書きつづけた。書きたい日も書きたくない日も、アランはまいにち筆をとって二時間で原稿用紙2ページ分を思索で埋めた。日々変わらず書きつづける。習慣となって定着されたアランの文章は、だから自然なリズムで彼の思想を発揮していて、そのまいにち変わらず書くっていうスタイルは、今のブロガーとも通じるとこあるかななんて思っちゃう。哲学者アランの言葉は新聞上で、まいにち多くの人に読まれ、散文と哲学の最高の和合と呼ばれた。読みやすくて、そしてどこまでもやさしいアランの言葉は、いいようない魅力を湛えてる。」
「ヴェイユなどもアランの教えを受けたというし、その存在は強烈よね。アランは難解な哲学用語は使わず、人々のあいだで日常用いられる言葉を使って、彼の哲学を展開した。そのあり方というのはレトリックに酔いやすい哲学者があふれるなかで、やはり抜きん出た部分があるのでしょうね。」
「アランは、哲学は幸福のためにあるっていう。人を愛し、自分が幸せにならなきゃ哲学なんて意味がないって。アランは幸福についてしか語らない。人生の、世界の、日常的な場面に即してアランはちょっとした思索の力を借りて、悲しみを打ち消す魔法の言葉を広く人にやさしく語る。‥私を愛する人たちにとって、私が幸せであること以上に、彼らに報いる術が果してあるだろうか。アランの言葉。人を幸せにするのが哲学だ。ふかくて大きいこの書の魅力は、どこまでも人々に寄りそってくれて、けして折れることないほんとのつよさを秘めてるとこにあるのかな。とても、素敵な書。」
「幸福をこそ求めるべし、か。人々の幸せを願い、そして幸福のための哲学を説きつづけた哲学者か。偉大ね。偉大な思索の痕跡が、この書には明らかに示されているのでしょう。なんとも身近で、そしてやさしい哲学よ。」
『幸福になるのは、いつだってむずかしいことなのだ。多くの出来事を乗り越えねばならない。大勢の敵と戦わねばならない。負けることだってある。乗り越えることのできない出来事や、ストア派の弟子などの手におえない不幸が絶対ある。しかし力いっぱい戦ったあとでなければ負けたと言うな。これはおそらく至上命令である。幸福になろうと欲しなければ、絶対幸福になれない。』
アラン「幸福論」
アラン「幸福論」
2008/04/29/Tue
「冒頭の由夢さんの態度はよくわからないといえばよくわからない。素直になれないふうというのはわかるけど、でもちょっと意地の張り方が奇妙というか、そこで付きあってもいいよっていわれたなら素直に喜んだほうがぜったいいいのにって思っちゃうというか。うーん、これがツンデレ? わかんないなー。これだとほんとにツンデレってただの様式で、人間味がまったくなくておもしろくない気がするのだけど。ちょっと、さいしょは微妙な感じ。」
「デートできてもあの態度じゃ進展望めないというものかしらね。当の義之が本当にどうてもいいような感じなのがはてさてというか。ま、しかたないのかしら。」
「人形劇はけっこうよかったです。基本に忠実という感じで。サンタの子孫だっていうのはおどろいちゃった。それってセント・ニコラスの子孫ってことだよね? ということはこの劇の舞台ってトルコなのかな? 聖人ニコラスの伝承というものは諸説さまざまで、だからこういう劇の題材にするというのもそんなわるいアイディアでないかなって思う。さすが杏さん。ニコラスの子孫かー。おもしろいといえば、なかなかの着想。」
「劇の終盤はまあお約束といっていい展開だったかしらね。これが作品内劇としてどんなメタファーとして作中機能するかは楽しみだけれど、ま、十中八九、幸せと不幸の悲喜こもごもが描かれるのでしょうね。劇の内容を勘案すると、何か自己犠牲の暗喩なのかしらこれは?」
「どうなるかなー。思わせぶりなこというさくらさんのことだから、きっと何かがすでに起こってるのだろけど。とりあえずは期待かな。‥サンタクロースの偉大さというのは、サンタそれ自体にあるのでなくて、サンタクロースっていう人類のある種普遍的な願望‥サンタの示す精神性にこそあるっていうお話は、たぶん前にもした。そろそろ本編も進展するころかな。何が描かれるか、期待してみる。」
「音姫が何を思っているか、そこらが鍵かしらね。はてさて、ま、次回を待ちましょうか。」
2008/04/29/Tue
Half Moon Diaryさん「好きな作品がアニメ化されると、嬉しいですか?」
『1つは、原作とアニメは、まったく別の作品だということ。
原作とアニメは設定こそ一緒ですが、絵もストーリーも、何もかもが別物です(ストーリーはアウトラインは一緒かも知れませんけど、細かいところは違いますよね)。よく「原作に忠実」というほめ言葉を見かけますが、それは程度の問題でしかありません。
そしてもう1つは、アニメは原作を絶対に超えられないということ。
これは、アニメがエンターテインメントとして原作に劣っているというわけではありません。何かをアニメ化した作品で、すばらしいものはたくさんあります。「涼宮ハルヒの憂鬱」とか「CLANNAD」とか「瀬戸の花嫁」とか。
しかし、原作と同じことをやるなら、原作をやれば(読めば)十分じゃないかとも思います。かといって違うこと、違うストーリーをやってしまったら原作の意味がなくなってしまう。少なくとも「原作のストーリーが好きだからアニメを見る」という行動理由が成り立たなくなるからです。
アニメ(に限らずほかのメディアミックス作品)が原作を超えられないと思うのは、原作が一番純度が高くて、情報量も多いからです。アニメには動きと音声、漫画には絵とコマ割りという武器があり、より豊かな表現が出来るかもしれませんが、そうやって“付け加えられた表現”というのは、原作とはやっぱり別物なんですよね。少なくとも自分はそう思っている。』
「この手の話は人によって見解がそれぞれで、それだけ紛糾する話題ではあるのだけど。とりあえず私の意見をいうなら、一つ目の原作とアニメはまったくべつの作品だっていうのは同意かな。これはそう。当たり前といえば当たり前。次に二つ目のアニメは原作をぜったいに越えられないだけど、これはちょっと微妙。というのも、原作と同じことをやるなら原作をやれば十分じゃないかーってことなのだけど、その原作が何をやりたいかと、アニメが何をやりたいかは、かならずしも一致しなくて、そして一致する必要もないということ。作品をつくるうえでの作家性の発露と解釈という意味で、だからある原作がアニメ化するとこの製作者はこの作品ぜんぜん読めてないなーとか、なんでこの作品でそんなことしちゃうのかなーとか、意見が出てくる原因にもなる。ただ原作とアニメがまったく同じことをやるというのは作家がちがう以上あるていど無理があるのは自然であって、だからこの部分はしかたないものじゃないかなとは思うのだけど。」
「原作のやりたいこととアニメのやりたいことは重ならない場合も多々あり、それもまた当然だということかしらね。これは作家が作品に何を込めるかといった非常に作家論的な話かしら。ようは作品と作家の関係のスタンスの取り方の差異よ。」
『オリジナルという概念がそれだけ曖昧である以上、形の上で「オリジナル」であるか否かはそう大きな問題にはなり得ない。それよりもむしろ、その作品のなかにつくり手の見てきたものや考えてきたことがちゃんと結実して形になっているかどうかの方が、僕にとっては重要だ。つまり、なにをやりたくてやっているのかということが明快であれば、企画のスタートはなんだっていい。逆に、なんだっていいというところから新たなチャンスが生まれてくる。』
押井守「これが僕の回答である。」
「周知のように押井監督って極端にオリジナル作品が少ない人であって、さらに原作つきアニメをつくって原作者ともめたりすることがよくある監督なのだけど、ここで押井監督がいってることはとても本質的なことなんじゃないかなって思う。それはつまり原作とアニメはまったくべつの作品だということで、原作つきアニメだからって私はそのアニメを原作の付属物として見ることはなくて、それをひとつの独立した作品として受け入れることにしてる。原作を知ってる場合、もちろん原作のバイアスというのはあるわけだし、それに対する思いいれというのもあるわけだから、原作つきアニメを独立した作品と見ることはなかなかむずかしいかもだけど、それが原作者が関係してるのでないかぎり、アニメ作品はアニメスタッフの作品としてあるほかないのだから、私はアニメはアニメとして、原作を越えられるのかーとかは考えないで見てるかな。もちろんアニメ化というのはほんとにいろいろな場合があって、原作と連動してお話が展開するなんてこともあるから、一概にいい切っちゃうことはできないのだけど。」
「押井監督の代表作はほとんどが原作ありなのよね。オリジナルはほとんど売れない監督だし。それなのに第一級の映画監督として認知されているのだから、作品において原作つきというのはそれほど評価されるにおいて障害とはならないのでしょうね。」
「アニ横とひとひらのアニメ化はうれしかった。実際見てみて、どちらもやりたいこととして向いてる方向は原作とそれほど異なってなくて、だから原作とそれほど乖離した印象は受けなかったし、そこはよかったなって思う。スケッチブックについていえば、スケッチブックは原作とアニメがやりたいことが大きくちがってて、原作が小さな瞬間に小さく大切にしてることを、アニメはそれで一話作っちゃったりしてた。これは私はどちらもすごくおもしろかったから、よかったなってこれも思う。‥あとはとらドラについてだけど、とらドラってにぎやかな場面たくさんでアニメ映えする作品ではあるだろなって思うけど、でも微妙な性愛の機微が原作でそこかしこに展開されてて、それがアニメで十分に描かれるかなって思えば、ちょっとむずかしいかもとは思っちゃう。ただ私は、書いてきたとおり、アニメと原作のやりたいこと、向う方向がかならずしも重なる必要はないなって思うから、視聴するまで何かいうのは控えてる。ただそのやりたいことが素敵なもので、作品にきれいに結実することを願うばかり。とらドラは、素敵なアニメ作品に、なるといいな。」
「押井監督の関係でいえば、パトレイバーは作品ごとに作者のやりたいことがちがったからああも膨大な世界観を築きあげることができたのでしょうし、攻殻もまた然りでしょうね。アニメ化というのは何が幸いするかわかったものじゃないのでしょう。はてさて、果してとらドラはどうかしら。その結果がどう転ぶか、まあ楽しみね。期待をかけてみましょうか。」
押井守「これが僕の回答である。」
2008/04/28/Mon
1割「死んだ人は生き返る」福知山市教委が小中学生にアンケート『「赤ちゃん誕生の喜びを感じたことがありますか」の問いには、全体の42・5%が「ない」「わからない」と回答。人(低学年は「動物」も含む)が死んだ時に悲しんだ経験も、28・7%が同様の答えで、市教委では、生死にまつわる感動体験がない子どもが多い、と分析している。 』
「記事自体はネタ風味だけど、と思って読み進めたら「生死にまつわる感動体験がない子どもが多い」って。なんだこれは。ばかじゃないのか。生死にまつわる感動体験って。いったい、何をいってるのか。唖然とした。あー、そか。生死も感動なのか。感動に帰しちゃうのか。そこまで感動が大事なのか。あえていっちゃうけど、ちょっと信じられないくらいの馬鹿さ加減。いったい何をいってるのか。」
「なんでもかでも感動で、そして教育ね。ま、何をいってもしかたないのでしょうけど。」
「人は生きてればかならず生死にぶつかる。ただそれだけのことじゃない。生死の問題なんて、感動するものでない。それはあるべきこととして、いつかすべての人が直面すべき問題で、そしてその事実を知ってるなら、こんな感動体験がないなんて平和ぼけの極みのようなこと、いえるはずがないでないか。人はいつか死ぬ。そこに是非もない。そんななか新しい命も生まれる。そこに是非もない。それは世界のただ起こることであって、それ見て悠長に感動なんて、ただのばかじゃないか。死を、一度も思ったことがないのか。こんなばかなこと、私は、気に入らない。子どもを、生死を、ばかにするでないよ。」
「ゲームだのテレビだのじゃないということかしらね。もっとべつなところに危機意識を感じさせられる記事かしら、これは。生死にまつわる感動体験がない子どもが多い、か。いやはや、すごい文章ね。人間が書いたとは思えない文章よ。」
→
ある過去の風景のなかで→
雑音があるときこえない
2008/04/28/Mon
公式サイト「なえかがなー、という気分。原作を読んだときにも少し思ったことだけど、なえかのわがままがこの作品の起点であって、トラブルメイカーの彼女の存在が生命線でもあるから、なえかのいうことや行動に目をつむれないと、この作品はちょっときついものがあるものなのかも。というのも彼女がけっこう直情的で、あとになってふりかえるとコガラシがいちいちもっともで、でも生理的に許容できないから納得しなくて反論‥みたいな。それがこの作品の文法だけど、なえかは、なんだろ、あんまり私は魅力感じない。それはこれから描かれるのかな?」
「なえかがのび太の位置で、コガラシがドラえもんの立場なのよね、これ。ま、古典的でゆえに安心できる構図なのでしょうけど、なえかは口先だけの面が少し目立つのかしらね。そんなこといってると楽しめない作品なのでしょうけど。」
「楽しめないよねー。コガラシやフブキさんや弟くんはおもしろいけど、なえかはあんまりおもしろくない。でもそのなえかがいないとこの作品は丸く収まっちゃうわけだから、なえかが暴れないとなーとは思って、ジレンマ。原作もぱらぱら読んだだけで終っちゃったのは、そこが原因だったかも。私にはこの作品は向いてないのかなー。」
「どたばたコメディは見てて楽しいのだけれど、はてさてね。のび太のわがままは許容できて、なえかの言動は気に入らない部分があるというのはおもしろいことでしょうけど、ま、どうかしら。少し微妙な印象かしらね。」
2008/04/27/Sun
いつも感想中さん「やろうとしている事/やらないようにしている事」
『他のブログ主の人達はどんな事をやろうとして、どんなことをやらないようにしているのでしょうか。最近興味の出てきた私です。』
「ということで、お答え。といってもそれほど私は主義があるわけでもないかな。そんなこともない? うーん、私自身はそれほどこだわりなくやろかなって思ってるけど、でも結果としてブログに表出してる部分は、私の趣味とこだわりに裏打ちされたものであるだろから、そこから法則性なりなんなりは見いだせうるものかもとは思うかな。ただほんとに私はこれやらないっ!って思ってることはあんまり自覚的でなくて、ただ‥そだな、気分に向かないことはやらないようにしてるかな。趣味のおもむくまま、というか、そういった自分の感性と興味の流されやすさに泰然と身を任してるというのはあるかも。やりたいことをやってるわけで、だからやらないようにしてることはことさら今まで意識してきたことなかったかなって思う。これは私のことながらちょっとおどろきだけど。」
「流されるまま、気の向くまま、ね。ま、それほど大そうなこと話しているわけでもないし、べつにいいのでないかしら。身分相応というか、自分の力加減以上のことを試みると大抵ひどい目に遭うでしょうしね。」
あにたむ亭さん
『つまりブログというのは、その人の内面そのものが表面化したものであるといえるわけです。もちろんその「表面化した内面」というのは「出したくない部分を隠している」というのも含まれているので、見えているものだけがその人の全部ではなくって、表面的に見える部分は「見せたいと思っている部分」に過ぎないというのもあります。』
「ここでむにゅさんがいわれてることは一理あって、自分が知らない一面がブログを通して見えてくるということはあるなって思う。それは書くということが自分の深奥をうかがう技術ってふしぎな一側面を示してるということであって、ブログのようなまいにち書くようなものならなおさら、そこに堆積してくるものは私の歴史性にほかならないのかも。‥だから過去ログというのは厄介かもかなって思うし、あるていど過去ログがないとみえてこないこともあるだろなとも思う。過去と向きあうことが、ブログには常に要求されてるふしがあって、それはいろいろめんどいなって、思っちゃう、な。」
「自分のありのままの行跡がそこにはあらわれているからでしょうね。だからブログというのは本人の限界以上のことはできないのでしょうし、また過去ログの存在のせいで、下手な嘘もつくにつけないのでしょう。過去ログがそのブログの誠実性を保証してるなんてこともいえるのかしら。」
「それはあるよね。それは、ブログの大きな利点なのかも。嘘を文章にしようとしたとき、それは嘘が倫理的にいけないというより以上の危険をはらんでて、たいていのブロガーが消え去る原因のひとつは、自分についた嘘に呑まれちゃったのだと思う。嘘、というのはむずかしいもので、こういうこというとあれれかもだけど、他人に嘘をつくこと自体は、社会を生きるうえでの技術にすぎないから、あんまりどってことない。ただ自分に嘘をついたとき、これはけっこうひどい欺瞞があるなって、私は思う。人はたいがい他者につく嘘ばかり気にしてて、自分に嘘をついてる場合に無自覚的なことがある。だけどその無自覚的な自分に対する嘘は、自分が自分で自分を偽ってることを知ってるのに‥だけどそのことに目をそらしてるから‥微妙な狂気としてその人に内在してくことになる。‥私もぼんやりと生きてるだけだから、こういった自分への嘘はどうすればよいのかあんまりわかんないけど、ただいくら無自覚的な嘘とはいえ、その嘘をついた責というのはあらわれるもので、それは自分の弱さ、小ささ、とるに足らなさとして、現実としてあらわれる。だからここで、自分の力加減以上のことはやんないほうがよいのじゃないかなって、意見が出てくる。私はあんまりブログで、やらないようにしようとしてることは考えない。これをやらない!ってつよく律法みたいに考えたとき、いつかその法が私を縛ることがあるかもなんて思うから。私はぼんやりしてれば、それでいいかな。ネットにそこまで美学もちこむ気も、ないや。」
「その結果、雑然としたブログがネットに表現されるというわけね。ま、そんなものでしょう。下手に気張っても転ぶだけでしょうし、そこらは適度にやるのが吉かしら。無理はしない、嘘はつかない。ま、むずかしいことなのだけれど。それはささやかな理想というものかしら。」
2008/04/27/Sun
「お姉ちゃんお姉ちゃん、ダ・カーポ2ごっこやろーよ! 私音姫さんやるから、お姉ちゃん義之さんやってね。」
「‥はい?」
「私たちは一心同体なんだよね。ひみつを共有するということはそういうことなんだよね。」
「それだけ聞くとなんともな論理展開ねとかいいたくなるものかしら。」
「天もつんざくプラトンパンチだー!」
「危なっ!?」
「あーもー! 避けるなー! そこは約束思いだしたっていって、いちゃいちゃするとこでなかったのかー!?」
「なかったのかー!ってあんたねっ!? ‥ま、何よ、秘密共有して一心同体ということは、つまり裏切れない保証ということで、けっこう命がけの理屈かしらね。ま、そこまで突っこむのもどうかと思うけれど。」
「正義の魔法使いかー。正義とかって審級をもち出しちゃうと、それはどかなって思いはあるかな。たぶん音姫さんってそう単純な人でないのだろけど、正義だどうだっていう人は、私にはあんまりわかんない。それは正義というのが相対的な観念だからっていうのでなくて、もっと自分のすることにそこまで割り切れないというか、またちがう、もっと楽しい選択肢もあったのかなーでもそんなのないよねみたいな、逡巡めいた思いからけっきょく脱しきれない私というか。」
「正義という言葉はほかの価値観を一刀両断にする側面はあるかしらね。ふつうの人はネガティブな感情をネガティブにもってるものよ。そしてその弱々しいネガティブさが、単純に人を正義に向わせることを防いでいる、障害となっている面はあるものなのでしょう。しかし、」
「しかしそういった否定的な感情の補償として、正義の美意識に向っちゃう人もまたありうる‥かな? それもけっこうわかるかも。否定的な感情というのは否定的なものであって、それ自体は疎ましいものとして認識されるけど、ただそれを克服すべきなのかなって思うと、それは傷を深めるだけなのかもっても思う。ポジティブシンキングはただの抑圧で、ネガティブに対抗するように正義や美学をもとうとしても、正義ってけっきょく他者を評定することくらいにしか役立たないから、自分のなかに渦まくネガティブは、消えることはあんまりない。だから正義とかどうとかって、いっちゃうのはどうなのかなって思いが私にはある。たぶん音姫さんはそこらへん複雑なのだろなって思うけど、どんな事情なのか、物語としては純粋にそこが楽しみだから、これからの展開、期待したいです。。うん、楽しみ。」
「さくらも決して自身を正義とは見なしていなかったものだし、そこはどう描かれるかはてさてね。ま、期待しましょうか。正義という言葉は、ある意味、自身のネガティブの反照よ。そこをどう見せてくれるか、楽しみよ。」
2008/04/26/Sat
「真に詩的な生き方をしてる人は、詩を書く必要はないっていう。フランスの象徴派詩人マラルメは、「わが船の帆の真白なる悩み」といって、詩人は真っ白な紙のうえに文字を書かなきゃいけないけど、それはあらゆる可能性を秘めた白を汚すことでもあって、書きたいけど書けない、白の清浄と黒の固定の懊悩は、詩人にとってけしてただ事でない問題であった。‥でも詩人は白を踏みにじらなきゃいけない。それは書くために。詩のために。詩的な世界を文字としてこの瞬間に刻みつけるために。でもこういった詩の営為が、詩的な生活として認められるかといえば、それはまたべつの話で、ランボオの紡ぐ言葉の激越さと皮肉と怒りと、そしてその純粋な絶望の咆哮は、そういった詩人の感情を実直に伝えてあまりある。ランボオの嘆きはミューズへのたまらない告解でなかったかなって、私はふと思ったりする。」
「詩を書くということは、白の純潔さを汚すことでもある、か。はてさてね。詩的な人生と、詩を書く詩人は、実は相容れないものであるということかしら。これは極論でしょうけど、しかしそうまちがった意見でもないかしらね。詩を書くということは、非常な苦しみの表明でも、あるのでしょう。」
「澁澤龍彦は晩年、形のない文字でなくて絵描きにでもなってればよかったかななんて、冗談交じりにいってたりする。形のない言葉と、でもその言葉に想いを乗せざるえない詩人の苦しみ。白と黒の、天使と悪魔のささやきの、どうしようもない悩み。ランボオのつよくて、熱くて、そしてありのままの人間性の告白の威力は、何ものにも代えがたい力があるのでないかなって、私は思う。この詩は、毒薬だね。一気にあおると、死んじゃうよ。」
「まさに激しい燭火が一挙に燃え尽きるような詩才を示した天才ランボオ、か。なんともいえない魅力の固まりね、これは。しかしそれゆえに毒と悪も大量に含んでいる。呪われた詩人といって過言でない人物でしょう。」
『また見つかった、
―何が、―永遠が、
海と溶け合う太陽が。』
ランボオ「地獄の季節」
2008/04/26/Sat
インターネットの真の姿とはさん「本当に頭にいい人はWebにアウトプットしないのか?」
『若干話題がそれましたが、要は、忙しくて時間がないことと、特に書く理由もないから書かない(書かないのが習慣)だからかなーと思われます。社会のために力を注いでお金をもらっていくことはいいことだと思いますが、ほんの合間にでも思ったことを書くようなアウトプットの機会があればいいのになあと思う。』
「そこがけっこう微妙なとこで、ほんとに頭いい人がブログを書くためのお金を循環させる仕組みが今のネットにはないのだよね。アフィリとかはあるけれど、けっきょく日本でネットがビジネス的な展開に行くことはないかなって思ってる。でもただ、このほんとに頭いい人がブログ書くわけないじゃないかーって部分が、実はブログに突きつけられてる課題であって、知というもののある意味本質的な部分とブロガーは向きあうことのできる可能性があるっていえるのじゃないかなって思う。それは対価を得るような形でなくて、知と個人が関係性を結べる地平の出現という意味で、ここに私は言論のあらたな相貌を発見したって思ってる。そこの意味は、さいしょに思ったことから今もあまり変わってない(→
ブログについて)。」
「金にならないからこそ、ブログに問われるのは知のある意味裸形の姿であるということかしらね。そしてそれはブログがあくまでパーソナルなメディアであるということも関係しているのでしょう。つまり必然的に自分の専門外の分野とも向きあう場面がブロガーには求められており、そういった世界そのものともいえる広大な可能性と真摯に知をかけて接せねばならないところに、ブログのこれまでにないメディアとしての可能性と、希望と、また絶望があるのでしょう。」
「ブログを書くというのは大きな全体のなかの小さな個人としての「私」が、その全体とどんなふうに係れるのか、どんな意味を蔵せるのか、ということが問われてる部分があって、エントリを書くとき、私はだから全体丸ごとをエントリに籠めようとは思ってない。私ができるのは、ただ私がそのエントリで扱ってる、世界の部分とどんなふうに私が関係しているのか、どんな想いを私が抱いてるのか、直接的な関係性というものを、私は意識している。‥世界というのがあって、その世界が私にどんな意味があるのか、そして私が意味ある世界を受けとめられてるのか、どこまで受けとめるべきなのか。‥ブログが語れるのはそういったとても小さな部分にすぎないだろなって思うし、その小ささが私という個人によって集積されてある世界の反照として機能するとこに、私はブログのもつ知の大切さというのが示されてると思う。私がブログをなんで書くのかなっていえば、そこに私にとっての大切さを見出せているからって、答えるかな。‥飽きたらすぐやめるっていってるのは、ほんとのことだけど、ね。」
「個人が係れる世界というのは実に広大で、そして個人が言及できる世界というのは実に小部分であるのよね。ネットが集積的な知としての可能性を包蔵しているというのはあるのでしょうけど、そうするために越えねばならない壁はまだまだあるのでしょうね。ブログというのは書きつづけるだけで相当たいへんなものなのだし。」
「自滅しないでなんとかつづけられるなら、それだけで幸運かなとは、思うかな。‥あとは、そだな、このブログで読まれるべき、大切なものって思うのは、けっこう文学カテゴリに固めてる。書評は実はそれ自体が意味あるのでなくて、そこから実際に本に当ってもらって、その本から何を感じるかがすべてだろなって私は思ってる。ただネットではほとんど書評や感想みたいなのがなくて‥これ(→
三木清「パスカルにおける人間の研究」)とかこれ(→
ヘーゲル「キリスト教の精神とその運命」)とかこれ(→
ラーゲルクヴィスト「巫女」)とか‥論文とかはあるだろなだけど、ネットで有効に語られてない作品というのは、ほんとたくさんかな。そこに私が寄与できればって思いは実は私にはつよくて、私がブログをやる意義があるとするなら、そこくらいだと思う。‥なんてえらそにいってみるけど、私はそんな使命感あるわけじゃないのだけどね。私は私。好きなことを書けてれば、べつにそれでよろしなのだ。」
「ま、そこははてさてってものよ。ネットにはいろいろな側面があり、使い方も人それぞれである。しかしそこに問われているのは個人の知が世界にどう関係性を結べるか、その一点にほかならない、か。ま、気楽にやりましょう。下手に気張ると、自滅の道程よ。」
→
批評という行為について→
批評という行為についてその二
2008/04/25/Fri
「実家に梅の木があって、春になると屋根のうえに登って青い梅の果実をもいだ。ざるを腰に引っかけて、ふらふらさせながら梅をつんでく。ざるいっぱいになると重くてもてないから、それを提げて梯子で下に降りてくまでがまたたいへんだった。とった梅を水で洗って丸ごとかじる。甘酸っぱくて子どもにはあんまりおいしいものでなくて、私はダンボール箱ぎっしり詰まった梅を見ても、べつにうれしいなんてことなかった。たぶんスーパーで売ってる梅干のほうがおいしいよ。じいちゃんはその梅の大部分を梅酒になんかにしちゃったりして、おまけにその梅酒に砂糖をどばどば入れたりするから、お酒なんて飲めない子どもにも、あれはおしくないだろなーってぜんぜん予想できた。それを飲むのはじいちゃんひとり。毎年の梅もぎは、だから私にとってはほとんど益あることでなかった。ただ屋根から見下ろした近所の風景が残ってる。記憶の遠くに、春の青空と梅の青さが重なってる。ゆれる梅の枝、枝の先からにゅっと這い出たおっきな毛虫は、逃げたくなるほどこわかった。今でも毛虫は、だから苦手。」
「あの梅の木も、不自然なところに根づいていたから、そのうち負担になって枝をばっさり切ったのだったかしらね。もうあの木に梅の実はならないでしょう。そう思うと、少し思うところはあるかしら。」
「そういう木は、きっとたくさんあるんだろね。ただ私はあの木だけをよく知ってた。ごろごろ転がる梅の実は、ぜんぶがとり切れるわけなくて、大部分は屋根を伝って落っこちた。下水にはまってごろごろしてる梅を、しゃがんで屋根のうえから見下ろした。生の梅は、べつにとり立てておいしいわけでもないかなって、着色料のついた梅を食べながらそんなこと思ってみる。ばあちゃんの作る梅漬けは、とてもじゃないけどおいしくなかった。まずくて、スーパーで買ったもののほうがおいしかったなって、今でも思う。砂糖、ぜったい入れすぎなのに。」
「何度いっても聞かないのよね。ま、年寄りというのは頑固なものとはいうのでしょうけど。はてさて、よ。ため息も出ないしょうもない話ね、これは。」
2008/04/25/Fri
女性限定:自分の小さい子どもがアリなどの虫を殺していたらどうしますか?「数年前の記事をふとしたことで見つけられたりすることがネットのおもしろいとこ。旬が過ぎすぎたころに言及するのもあれかなって思わないでないけれど、でもこれも縁だから、ほんの少しだけいってみる。‥この質問をみてはじめに思ったのは、私もずっとむかし、子どものころ、アリをぶちぶち潰してたことがあって、それを見咎めた近所のお兄さんがそういうことしちゃいけないよって私を誡めたことあった。私はあのとき‥何歳だったかな。たぶん五、六歳だったと思うけど、あのときあのお兄さんの注意がへんに記憶の底に残ってて、今でもぜんぜん忘れられない。怒鳴られたとか、そんなことはなかったけど、でもなぜか、あの出来事はおぼえてる。」
「生命の尊さ、か。ま、そういった道徳的な話はどうでもいいのでしょうけど。しかし何かこの質問からは非現実的な印象を受けるかしらね。なんというか、虫や生物と無縁な生活を送っているというような印象が。」
「生き物とそんな身近でない、か。それはあるかもだね。昆虫採集とか、軒下に蜂の巣が下がってるとか、そういったことにふれれば虫を殺してたらどうするのかーなんて質問は出てこないかなって思う。‥蜂がぶんぶんいって知らずにつかんだら手がぱんぱんに腫れたなんてことあった。あれは痛かった。でも蜂はべつにきらいでない。」
「子どもは生命の秘密を知りたがるもの、といったのはボードレールだったかしらね。生き物に対して子どもが示す残酷さは、子どものさいしょの形而上的欲求であるなんて洒落のきいた文句もあるけれど。子どもの残酷さというのは、虫を殺すという単純な一事実だけを引っぱって云々しても意味がないのでしょうね。生命の尊さとかいっても、おそらく子どもには通じないでしょう。いや、通じないでしょうね。」
「家のちかくに蜂の巣できてたら、あぶないから処分する。部屋に蟻が入ってきたらつまんで捨てる。そのことに道徳も何もない。ただ生活の一側面があるだけ。私は何も考えない。」
「ま、そんなものかしらね。命の大切さというのは、何かしらね。考えれば考えるほど命がどう大切かを言葉にすることはむずかしいものがあるものよ。それは率直に、どうもわかりがたい面があるかしら。」
「スケッチブックの栗原先輩とか、こういうときなんていうのだろかな。ちっちゃい生き物とか飼ってみると、たぶんまたちがう答えが出てくるのかなって思うけど。‥あ、お姉ちゃん、今思いだしたのだけどね、じいちゃんがさ、むかしね、飼ってた金魚を焼いて食べちゃったことあったよね。しょうゆかけて食べてた。私はぽかんと見てた。ふつうの魚の、味がした。」
「ああ、またなつかしい話ね。あれはセメントでわざわざでかい水鉢作って飼ってたのよね。そのうち魚は皆死んで、鉢も壊して消えたのだったかしら。」
2008/04/24/Thu
ライトノベル愛読者が理解できない「この手の話題にはぜんぜん関心わかないなって思う。この質問自体はラノベをくさしたいだけだからあんまり意味ないかなって思うし、ラノベを文学として認められない!なんて息巻いている人も、文学なんてほとんどの人には問題にならないマイノリティなものなのだから、そんな気にすることないのでないかなって思っちゃう。‥ただ、そだな、これは教養とは何かなって問題があって、大学生ならこれくらいは読んどくべきだよねーみたいな教養の基準みたいなのがむかしはあったけど、今はだいたい崩壊してるってことも無関係ではないのかも。どんなふうに読書したらよいのかなという問題は、ほんと人それぞれで、敷衍できることではないかなって気がする。」
「読書というのは畢竟孤独な精神の営為であるから、かしらね。ま、なんというか本を読むということはむずかしい側面があるものでしょうね。ときおり速読や読書量を誇る人がいるものだけれど、それは読書でなくただ単に情報を処理してるだけという場合が多いわけだし。そう考えると、本をたくさん読むものでもないなんて主張もできるのかしら。」
「前こんなの(→
私家版十代必読書リスト)作ってみたけど、このあいだある人からなんだかあのリスト洗脳する気満々ですねーとかいわれて、そういわれればそれもそかなって思った。私はぜんぜんそんな気なかったけど、でもああやって集めた本にある種の思想的な偏りが生じるのは当然かもかなとも思って、読書のおすすめとかなんてやっぱりあんまりするものでないかなとか、ちょっといろいろ逡巡。少し考えちゃう。ただ思うのは、どんな本も偏りないなんてことありうるわけなくて、それは自分とまったく同じ人が世界に二人とないということの意味と同じ。だから読書というのはその人が好き勝手に読んでって、あるていどの読書経験を経たうえで、自分なりのスタイルというのをつくってくのがいちばんいいと思う。というか、それ以外に方法はないかなーって思う。本というのは読んでただそれだけで終りというのでないということは、けっこう切実な問題をはらんでるものかもかなとは、思うのだけど、ね。古典はほんとに底知れないなって思う。ほんと、やになっちゃうくらい。」
「そしてだからこそ古典の恩恵というものは限りなく大きい、か。はてさてね。人を救うか、もしくは絶望に叩き落すほとの本というのがあるもので、そういったことは言葉では伝わりにくい部分なのでしょう。そういうことを踏まえたらラノベが理解できないとかいってる場合ではないのでしょうけど。ま、人それぞれよ。ラノベがデメリットばかりでも、べつにいいのでないかしら。」
2008/04/23/Wed
「今回は雛ちゃんたち林間学校。前回先生に恋愛してないからどきどきしないのだよっていわれて、それなら相手見つければいいんだーって単純な思考で雛ちゃんは運命の相手を期待する。男子と接触ある林間学校ってとくべつな時間なら、きっとそういう可能性もあるのじゃないかって。‥雛ちゃんの単純明快で恋愛に対して純粋な好奇心と興味でいろいろ思っちゃう姿はほほ笑ましいのだけど、でも運命の相手、かー。そういうのはなんか、期待しちゃうものかもかな。それは雛ちゃんみたいな子どもに限ったことでなくて、年齢によらずどんな人でも、私にはもっと合う人がいるのでないかなーなんて口に出さないまでも恋人いる人でも思ってたりするのがふつう。よくあること。それで、そういう運命みたいなのがあるのかな、ないのかなっていうと、これは個別の問題で、一般解はない問題であるから一概にどうということはいえないかな。ただどんな恋愛でも、出会いというのは非理性的な形をとるもので、そういったことで恋愛のはじまりは運命的なものがあるっていっていいと思う。それはどんな人との出会いでも、縁という言葉をつかえば運命的って解せる、そのくらいの意味あいでいってるのだけど、ね。」
「出会いそのものは運命である、か。ま、そうなのかしらね。運命というか偶然というか、今この生活を私が送っているということ自体をとってみても、そこには自主的な選択はあろうけれど限られた範囲でしかないでしょうからね。人は無意識の海をたゆたってるようなもの、か。」
「運命とか偶然とかって、それだけとり出してみても意味ない言葉ではあるのだよね。私がここにいて、あなたに出会えたということそれ自体には、ただ偶然の意味以上のことはなくて、それはそうなるべくしてそうなっただけのこと。ただ偶然や運命に、意味づけしたがるのが人の性質みたいなもので、生きてること考えること行動すること、そういった一連の無意識の流れのうちに、意識は知らないまに意味づけしてる、そんな気はちょっとするかな。出会いに意味を求めることは、出会ったあとにすることで、出会いそれ自体に意味はあんまりない。だからふとした出会いが運命的な様相を帯びるのだと思うし、人と人とが関係を結ぶことはふしぎだなっても思う。雛ちゃんにそういうことがあるかどうかは、まただれにもわかんない問題ではあるのだけど、ね。素敵な出会いがあるように。私はちょっと期待してみよかな。」
「期待するだけなら、ま、どうなろうとね、なんとかなることでしょう。ただ明らかに期待過剰だからおそらく次回は幻滅するようなことになるのでしょうけど、さてそこからどうなるかが見所かしら。ま、とりあえず次回を楽しみにしましょうか。」
2008/04/23/Wed
「吉行淳之介の短編集。これはとてもよかったです。短篇の名手たる吉行淳之介にまさにふさわしくて、その短い、けれど暖かくて言葉の端々に感じさせる吉行という人の悠然とした生き方と、あらゆることに対する子どもっぽい関心の抱きよう。もしかしたら長編よりも、これは吉行って作家の息づかいをより繊細に伝えてくれてるかなって思った。うん、すごくおもしろかった。」
「もともと文章を長々と連ねることはしない作家なのだけど、短編だとそのスタイルがより映えるということがあるのかしら。吉行の才能を生かすに当って、短編はもっとも適した形式なのかしれないかしらね。」
「表題作の「目玉」は、眼病をわずらった「私」とそれについての諸々の話。白内障で深刻な病気ではあるのだけど、でもへんに感情的にならなくて、自分の身体も一個のオブジェとして捉えてるような、からりと晴れた語り口が印象的。本書は病気にまつわるエピソードが多いけど、でも感傷的にならなくてからりと晴れた調子で病気を語ってるとこは澁澤龍彦にも似てるかな。どちらも病気がちの作家だったけど、闘病記みたいなのが大きらいで、けして病気でじめじめしちゃうことなんてない人たちだった。それはこの「目玉」が一級のユーモアに満ちてることからもわかると思う。病気を病気それとして、生死さえどこかしかたないかなみたいな調子で思ってる、そんなダンディズムが、この短編からは感じられる。」
「「百聞の喘息」、「葛飾」の二編もまた病気にまつわるエピソードね。吉行自身がいかに病気で苦しんだ晩年を生きたかが、この短編からは読みとれるかしら。その苦しみをこうして卓抜した文章にしてるのだから、本当、すごい文人よ。」
「「いのししの肉」はひょんなことからはじまったやくざの人と吉行との交流を描いた好編。奇妙な関係で、数年に一回くらいしか電話で話さないくらいな関係なのに、でも何かと縁があってその付き合いはなかなか終らない。奇妙で、ちょっと緊張感があって、そしてこんな人間関係もあるのだなって思えるふしぎなお話。これもすごくよかった。なんだかすごくへんな話で。」
「奇妙な関係性よね。よく長続きしたものと思える関係よ。しかしけれど、こういった関係性もありうるものなのかしら。世間というのは、わからないものね。」
「「鳩の糞」は戦争中の思い出をつづったもの。この短編集のなかで、ひとつだけぜったいに読んでおいたがよろしかなって思えるのは、これかな。戦時中を生きぬいた、自分の家も焼かれて、もう少しいるとこまちがえてたら爆弾で木端微塵になってたであろう吉行が、戦争に対する率直な感慨を、この短編で洩らしてる。あのときから遠く離れた今においても、吉行の言葉は、とても印象的な何かを残してる。」
「焼け野原を歩き見て、そこで寝食した吉行自身の感慨、か。そういった言葉はあまり率直な形では残ってないでしょうね。そういう意味でも、この短編は貴重といえるかしら。それは吉行が、まさにぽつりと洩らした何気ない調子での告白という形であるのでしょうから。」
『私はヒトラーを嫌悪しつづけた。『わが闘争』という本は、表紙を見るのも厭だった。そのナチスは崩壊し、遠い思い出になった。体験しないで戦争を見ると、そこから血や汚れや疲労や、さらに別次元のさまざまなものが脱落して、壮大なロマンチックなドラマに見えてくるらしい。危険である。戦後四十年余り経つと、私の場合にはナチスからさまざまなものが脱落してゆき、官能だけが暗く色濃く残る時間に襲われるようになった。それはなかなかに魅力的なのである。困ったものだ。鉤十字の国旗、その他のマークのデザインや、赤と白と黒の配色には、抜群のところがある‥。』
吉行淳之介「鳩の糞」
吉行淳之介「目玉」
2008/04/22/Tue
「夏合宿のつづき。きょーちゃんがどこかに消えちゃって、それを麦ちゃんが追いかける。みつけた先のきょーちゃんはひとり浜辺でうなだれていて、そこできょーちゃんのかつての告白‥麦ちゃんにだけ明かした自分の本音の回想が入る、か。あー‥そか。きょーちゃんってそうだったのか。なんだかいろいろつながった感じ。人といっしょにいるのがこわい‥か。それで麦ちゃんをみて演劇部に入ったの。そういう事情だったのか。なんかよく、よくわかりすぎるほどわかったので、あんまり言葉ない。きょーちゃんって、そだったのだね。」
「少々、離人症っぽいかしらね。他者がこわい。他者にきらわれるのはもっとこわい。しかしひとりでいるのもこわい。だから自分を演じてしまう、か。そういうことね。」
「理屈でいえばそういうこと、かな。麦ちゃんはそんなきょーちゃんの様子を見て、自分と同じで自信がないのだねって思ってるけど、たぶんそれはちょっとちがう。一年前の麦ちゃんは、がんばるということ自体に懐疑的で、自分を必要以上に過小評価しちゃってて、それが麦ちゃんのいろいろな可能性を自縄自縛にしちゃってることに野乃先輩が気づけたから、野乃先輩は麦ちゃんをいじめてでも‥べつにいじめたくていじめてたわけじゃないけど、結果的にそんな感じだったかな。なんていうと怒られるかもだけど‥合宿さいごまでやり遂げるようにって、麦ちゃんにいったんだった。麦ちゃんは他人がこわかったわけでなくて、ただ自分に怯えてた。だから麦ちゃんはやれたわけであって、それは野乃先輩含め研究会のみんなに信をおけたってことが大きかった。‥そういう麦ちゃんと、きょーちゃんの場合はけっこう異なってる。きょーちゃんは何回かすでに挫けてて、そのことにだめだという自覚もあって、そのうえで部活をするって決心まで彼は決めてる。きょーちゃんは、彼自体は一年前の麦ちゃんとちがって、けしてひどく弱くあるわけでない。ただきょーちゃんの抱えてる問題というのは、逃げだして、それで戻って来たのに、それでもまだ笑顔を保てること。仮面をはって他者に向うほかないということ。あの状況でも、演じるしか、ないということ。‥だからきょーちゃんは、けっこう複雑。ここはきっとむずかしい。」
「しんどくても学校にまた通おうと思えるくらいには、彼は十分つよいのよね。その強さというのは、それだけ立派なものなのでしょうけど、しかしきょーちゃんのおかれた精神状態にあっては、その強さが逆に彼を追いつめることになりかねない、か。はてさてね。」
「‥どうなんだろかな。私にはあんまり、きょーちゃんにかけてあがられる言葉というのは、思いつかない。離人症についてあれこれいっても、たぶんここでは、あんまり意味ない。だからここで私がいうことは‥ただみんなから好かれようとするのは、たいへんなことなんじゃないかな、というのだけ。‥それはかんたんな世界の事実で、みんなから好かれる人なんてないし、みんなから好かれようって自分で自分を偽ってもほとんど意味ない。それはまず自分を偽ろうとするって無理があって、そしてけっきょく全員からは好かれないって結果で二重に無理が生まれることで、そうした自分をきらわれないように演じようとすることは関係性のなかで破綻を来して、最終的に、自分の感情を犠牲にするような事態になる。だから私は、みんなから好かれようだなんて思わない。私は私を、生かす生き方をとりたい、模索したいって、思ってる。‥ただ私の場合は、私がひどく他者に興味ないやつだって、部分がけっこう影響してるかもかななんて思うけど。きょーちゃんはそういうのでたぶんないから、きょーちゃんの解決は、またべつな道があるのだと思う。けっきょく、こうした問題はその人のいき方の選択に帰着するのだと思う。だから私は、きょーちゃんをこれから見ていきたいなって、とても思う。」
「個別の生き方の問題に、この手の課題は収斂する、か。ま、そうでしょうね。そうとしかいえないことではあるのかしらね。」
「どかな。私もあんまりわかんない。‥たまちゃん部長はちょっと気張りすぎかな。ひとりでなんでもがんばっちゃう榊部長がへんといえばへんな人だったから、たまちゃん部長はあんまり無理しないで、自分のやり方でいいのだと思う。でもここも、他人がどうこういってもしかたない領域であるのかな。さちえ副部長に、ここはお任せ。私はだまって合宿の成り行きを、さいごまで見届けたい。次回もとても、楽しみです。」
「合宿はいつも波乱ある内容になるけれど、今回は前年と趣の異なったヘビーさがあるかしらね。ちとせもちとせでたいへんでしょうし、まったく予想のむずかしい状況よ。各人の思惑渦まく夏の海、次回はさてどうなるかしら。」
2008/04/22/Tue
「杏さんは飄々としてて見てて楽しいね。と、一言いっといて。今回は音姫さん中心の話。でもそれよりおどろいたことは純一がふつうに登場したこと。純一お隣さんだったんだー。わー、老けたねー。今でも和菓子出せるのだね。それでその能力伝授しちゃったりなんかしちゃって。おだやかな風貌で、もういつもだるそうだった青年のころよりずっと魅力増してるね。よい齢のとり方したのだなーって感心しちゃった。今、何やってるのかな?」
「本当、当然のごとく隣人だったのね、彼。いやはや、何が出てくるかわかったものじゃない作品だこと。」
「音姫さんや由夢さんの思い出の挿話が、今回の肝心なとこなのかな。三人が仲よくなってく過程ときっかけが大切で、それを踏まえたうえで今の家族としてのあり方がある、か。そんなとこかな。でもいちばん目を惹かれたのはそろいもそろってみんな子どものころのほうがずっとかわいいことだったり。とくに義之さんだなんて子どものころがずっと素直だったでないかー。なんで今こんなにやる気なさそなのか、それは彼が現実により適応するためにえらんだ無意識の選択だった‥。う、わー。‥でもそんなものかも。これからどんなふうにお話進むのかなー。とりあえず楽しみにしてみるつもり。」
「正義の味方の魔法つかい、ね。はてさて。きなくさいことはあまりいわないほうがよいのでしょうけど、ま、様子を見ましょうか。何はともあれ次回に期待よ。」
2008/04/21/Mon
「ニコマコス倫理学によせて、なんてのでもないけど。幸福論は種々あるけど、そういった理屈っぽいのはおいといて、私って今しあわせなのかなってお風呂上がって寝るまえまでのぼんやりとした手持ち無沙汰な時間に考えたりすると、ちょっとアンニュイな感じで思いがけなく考えこんじゃったりする。幸福ってこれが幸福なのだーとかある意味理屈づけするものでなくて、私は幸福なのかなってひとりひとりがそのつど考えこむなかで思われる観念のよな気がする。私は幸福なのかな、つまりこの問い自体が空虚に向けての問いかけであって、けっきょく禅問答のような体をなしちゃうのが幸福論の結論であるかなって思う。答えなんて、だれが出すでもないもん。」
「幸福でも不幸でもとりあえず明日を生きる気でなくちゃいけないのが人間というものかしらね。明日があると思わなければ、生きてられないか。明日生きてるという保証もまたないのでしょうけど。」
「でもそうしなきゃ、たぶん気がちがっちゃうよね。幸福‥、アリストテレスは善であることが幸福であるっていってて、そこから善を為すにはロゴスが必要で、ために法律が必要だっていってた。善、というのがむずかしいもので、古代ギリシアの説くとこの善というのは現代の私たちにはちょっと理解しにくい部分がある気がする。社会制度とか、道徳的価値観の差異とかいろいろあるけど、この「善きことを為せ」という文句はくせもので、いったいどんな人が自分をして善だって断言しうるのかなって疑問が、私にはある。たとえば私が私のすることを善だってするときって、それってけっこうあれれなことって多いのじゃない? ミクシィでわるいことした人みつけて一晩中電話するとか。‥これはちょっとあれれだけど。」
「自分を善だと意識している行動が、かならずしも社会的な善には直結しえないということでしょうね。ま、考えれば当たり前よ。善というのはそもそも普遍性をもつ言葉ではないのでしょう。それは人は経験的に知ることよ。」
「善には階層性がある、ということかな。考えればそれもそう。友だち同士のよきこと、家族なかでのよきこと、ご町内でのよきこと、学校その他それ関係の共同体のよきこと、会社でのよきこと、国家でのよきこと、等々。‥あの世でのよきこと、をも規定するのが宗教だけど、とりあえずここでは宗教的なことはおいといて、善というのは階級においてその意味、形、重さを変えるもので、友だちならゆるせることでも、より高いもしくは低い次元においては必然悪の相貌を見せることだってある。だから絶対善というのは仕組み的にありえなくて、みずからをぜったい正義なのだーとか規定しちゃうと、それはテロとかなのだけど、善のためにほかの善の可能性を抹殺しちゃうって構図が生まれる。そしてその構図は善を呑みこむ悪として表現される。だから善というのは悪の裏であって、善も悪も人のなかの愛の表現の問題とふかくふかく結びついてる。そのことに無自覚的であると、ほんとにこわいこと、多いかもかななんて思ったりする。」
「自分は正しいことをしている。そしてその正しさの実現のためには多少の犠牲はやむをえない。ま、そういう思考はありがちね。ありがちだということは、善の自意識が本当に人間の意識にとって避けがたいことなのだということなのでしょう。善を為す。人はどこまで善を為すべきなのかしら?」
「ある意味では、善を為せって、いっていいものなのかも。ただその結果のどこまで責任をもつべきかは、やっぱりその人の限界というのがあって、その限界をはるかに越えた‥つまり普遍的な善なんて信仰されちゃってたら‥たまったものじゃない場合が多々ある。‥東方の霊夢って、問答無用で妖怪倒すようにしてるよね。ああいうのはいいなって思う。自分を正義の味方とかって思ってるのでなくて、巫女だから問答無用で妖怪倒しちゃうって。善とか悪とか、そういった観念と無縁でいるとこいいな。もしかしたらそういった即時的で素直な感性的な生き方が、善と悪にしばられた人の自意識を解く鍵なのかも。そんなことだれにでもできることでないよっていわれたら、それはそかな、なのだけど。」
「快楽主義的な生き方こそが人を善悪二元論から解放するというの? ま、それはそうかしら。澁澤龍彦なんかはそういうこといってたかしらね。ただ、ま、悪というのはね、悪をしたいと思って悪をするのでなく、善がべつの次元では悪そのものだということが悲劇的なのでしょう。もちろん、悲劇といって済ませていいことではないのだけれど。はてさて、むずかしい問題ね。」
2008/04/21/Mon
「中年男性と若い女性の逢瀬。吉行のテーマである男性の性への向き方と、家族への向き方と、そして飽くなきつづく日々の生活への倦怠感と恐怖。短い文章の連続で、長編というほど長くもない。緩慢で、全体的に弛緩してて、読むこと自体はすごくあっさりしてる。ただ吉行の人間観察の視線が、ほんのちょっとした行間からときおり垣間見えて、その感情の機微が読後感をある種異様な気持にさせる。ふしぎな作品かなって、思う。」
「主人公のほうは四十代半ばといったところで、女性のほうは二十二、三歳か。この女性が頑なに処女を守り抜こうとするのは、なんともおもしろい描写かしらね。処女を喪わしめる行為以外はことごとく受け容れながら、しかしそれでも処女だけは守ろうとする。行きずりからの関係の、中年男性とはそこまでの関係に行くのは徹底的に拒絶する。しかし処女以外はどうともよい。ここらはなんとも、むずかしい問題かしらね。」
「処女喪失は大なり小なり、その人にとって人生の看過できない一事件である、かな。‥ただここの、処女にまつわる恋愛の問題ってあまり公的には語られない。処女がどうこうだとか、女性はこうあるべきなのだーとか、そういった感じの瑣末の議論というのはいつの時代でもあるものだけど、でも人と人との関係性においての処女っていう、恋愛と性のからみ合う領域の課題に、真正面からとり組めた人というのは、そういないのでないかな。それは処女というのはいろいろ厄介な問題があるみたいで、そしてその厄介さは無意識のもぞもぞとからまり合う部分が、意識上にのぼることがあんまりないことが関係してるのかなって気がする。フェミニズムも、この手の問題には十分に答えてないようにみえるし、この「夕暮まで」という作品は、まさにそういった処女性の問題に老練な男性が向いあう、そしてそのことに恐怖する小説だっていっていいと思う。‥だからこの作品はひどくざらっとしてる。それを美しい、なんていってもいいのかな。美しい場面がいくつも挿入された小説だけど、その美しさの狭間に吉行の孤独の視線がある。その視線が、私をしてひどく奇妙で、落ちつかない気分にさせる。」
「女性が処女を喪失する場面は、直接的には書かれてないのよね。女性が処女を喪った場面、そしてそれを破った男も、この小説にはつよく登場しない。ただ中年の男性の眼差しがある。その眼差しが、この作品を貫く、女性と性の問題そのものなのでしょうね。」
吉行淳之介「夕暮まで」
2008/04/20/Sun
「幸福論は世に多くて、幸せになるためにはどうすればいいのかーみたいなありがちネタぎみな新書とか、人生啓発セミナーみたいな大仰で扇情的な講演会とか、そんなのべつにしてふつうに何かおもしろいことないかなーってぶらぶらしてる高校生とか。およそ人が生きてくうえで、幸福という問題は多かれ少なかれ関心まったくないという人はあんまりいない。アリストテレスはその事実を鑑みて、万人が求むとこは最高善‥人は幸福をかならず望み、そのためにこそ生きるのだと論をはじめる。幸福とはなんなのか、それは果してどんなものなのかなって、道徳、倫理、快楽、愛、世界とそこにあふれる種々の物事に誠実にていねいに論及しながら、幸福の実体像を浮かび上がらせてく本書は、あらゆる幸福論の出発点で、そして論理的な人間観察の模範であり、万人を幸せにするための法律を模索するための初手となる、政治論への前提だった。‥幸福についてここまで考えぬいた書物も、そうないのでないかな。重厚でどこまでも直截的な幸福の追求の書。私は参っちゃう部分が、少なからずあった。幸福とは何かな、って。それはとても言及するに躊躇する部分が、ある問題な気がする。」
「アリストテレスはこの書で、善とは中庸の謂いであるとも述べている。そこはけっこうおもしろいかしらね。極端に走りすぎず、みずからの性質をよく吟味したうえで、幸福というもの考慮する。そういった理性的な姿勢はまさにアリストテレスといったところかしら。哲学の時代を越えた普遍性というものを実によく示しているものでしょう。現代においてもアリストテレスが提起した問題は、人類に突きつけられた課題であるのでしょうね。」
「そだね。幸福、かー‥。お姉ちゃん、私は今幸福であるのかな?」
「はてね。そんなこと聞かれてもね。」
「‥お姉ちゃんは今、幸せ?」
「さてね。そんなこと聞かれてもね。」
アリストテレス「ニコマコス倫理学」上 アリストテレス「ニコマコス倫理学」下
2008/04/20/Sun
難解なアニメ教えれ「難解、というのは意外といろいろな場合があるもので、たとえば一見してむずかしくて何いってるのかわかんないなーとかいうのは、その作品のスキームが見えてないだけということがある。思想書とかもそだけど、きちんと理性的に物事を考える人って、その思索自体は単純にできてるもので、わかんないのは彼のスキームはなんなのかーということ。そこさえつかめればすらすらと‥とは行かないかもだけど、でも作品全体の理解というのはそうむずかしくない。そういう意味ではエヴァもウテナも攻殻も難解ということはぜんぜんないかなって思う。ただこれらの作品って典拠というか、その作品背景になんらかの思想や古典が隠れてるよーということが大きいのであって、そこまで含めて理解するのをたいへんにしてるというのもあるかな。聖書とかサリンジャーとかシュルレアリスムとか。押井守も難解というのはそういう意味で、スキームが見えればどうってことない。」
「作品というのはある種の論理がないと組み立てられないということが大きいかしらね。いくら滅茶苦茶に見えようと、論理がなければ作品は完成しえない。しかもアニメは集団製作なのだから、その論理は文学などに比べても影響はつよいと見るべきかしら。」
「カブトボーグなんかも製作者の意図がわかれば‥というのはあるかな。ただあの作品はアニメにあるていど親しんだ人じゃないと、そのおもしろみはけっこう伝わらないものかもかなって思う。それはカブトボーグがアニメが築いてきた歴史それ自体を逆手にとって演出してるというのがあって、アニメ伝統の文法を駆使しておもしろさを出してるなんていえるかな。ああいうアバンギャルドで一見して支離滅裂な内容は、アニメの伝統そのものによるとこが大だと思う。ものすごくおもしろいアニメではあるのだけど、ね。」
「常識を逆手にとっているというのがカブトボーグという作品の最大の特徴であったかしらね。そういった意味ではビアスの「悪魔の辞典」と同種のユーモアに満ちているともいえるかしら。ただ皮肉や嫌味を払拭しているところに、あの作品のすごさがあるのでしょうけど。」
「あと難解というと、スキームが見えにくいというのはべつの場合で、詩的というかイメージや直感によって書かれてる作品というのは、べつの意味で理解しにくい。これは詩作品とかと同じ意味でなのだけど、つまりイメージ的なその人独自の感性で描かれる作品というのは、その作品に接近できる人はその作者の息づかいや身体的な感覚をわかれる人でないと近づけない、ということはあると思う。詩を解すにはある種の感性が必要であって、その感性にすごく惹かれる人もいれば、とてもきらっちゃう人もいる。だから詩人やその類の著作家には熱烈な読者がつくし、また同じくらい不支持者もいる。‥この手の作品は、そだな、solaなんてそんな作品だったかも。好きな人は好きで、きらいな人はぜんぜんきらい。きっぱりと評価が分かれちゃう作品というのは、読者にその作品の徴す奇妙なイメージへの心理的な接近を必要とするのかも。そこに肯定と離反が生じちゃうのは、考えれば当然のことかもかなって、思う。」
「詩情というものには相性が求められるということは、まあたしかかしらね。それとは逆にスキーマティックな作品というのは、好みじゃないけれど理解はできるといったふうな視聴は十分可能なのでしょう。そう考えると、一概に何が難解な作品かはむずかしいものね。難解の基準が人によって異なるというのは、上述のように複雑な意味あいが含まれているのでしょう。やれやれ、というのよ。」
2008/04/20/Sun
まぬけづらさん
『あるいは「二次元しか愛せない人」への冷静な指摘、となるでしょうか。
「好きなものは好きだからしょうがない」とは言うものの、僕は物悲しさを覚えますね。それは憐れみではなく、心にするりと入って来るような、寒さという意味で。』
「二元しか愛せない、というのはたぶん欺瞞なのでないかなって気がする。たぶんそんな人いないです。私はさいしょからアニメ作品を二次元で、現実世界を三次元とか分けて考える二元論的思考があんまり好きでなくて、私はどちらもそれなり対等に、とくに差別なく考えてる。どちらかが優勢なのかーとか、そういうのあんまり興味ない。どちらに惹かれるか、は、これはきっとめぐり合わせの問題で、ならそれは個人の生き様に収斂される問題でもあるのだから。」
「二次元でも三次元でも、ま、愛にめぐり会えれば幸運というものかしらね。二次元でも三次元でも愛を見出せない人というのはいるものよ。ま、だからどうだという話でもないのでしょうけど。」
「縁があるかないか、かな。ただこういうこというと、それじゃどんな恋愛も縁なのかーなんて反論が来るかもだけど、私はそれってぜんぶ縁の問題なのじゃない?なんて思ってる。出会い語り心に残る。そういった一連の人生の場面って、そのもとをただせばなんらか必然があるなんてことぜったいになくて、そこにはまちがいなく運不運の支配する領域があって、それはだからしかたないのじゃないかなって気がする。二次元しか愛せないと思いこんでた人も、ふと何かの縁で恋に落ちる場合もある。今オタク的な趣味してる人が、私は何がなんでもオタクするのだぜーって、確固たる決意でオタクはじめてるなんてことない。そこにはかならず、なぜか私はこれをしてるって認識、ふしぎなめぐり合わせの事実がある。そしてそれはいつのまにか自分自身という意識を明瞭に認識した、記憶も定かでない幼年時代からの連なりの一瞬の、ある強烈な自己認識の瞬間と似てる。恋愛も、二次元も、だからその意味ではどうでもいい。自分というものを知ってから、これが私なんだって気づいたときから、私の趣味は私そのもので、私の縁もまた私にほかならないことを知るほかなくなる。‥こういうことは個性というのとはあんまり関係なくて、生き方に先例がないということなのだけど、そこはけっこう辛いものあるものかもかな。いわゆるコンプレックスのよるところって、こういったとこと無縁でないと思う。」
「孤独に歩め、というのかしらね。ある種他者なんかどうでもいいというか、それよりもっと強烈な自己認識の場面が訪れる人がいるのでしょう。そういった過程で自分というものは築かれるのでしょうけど、しかし少し恐い部分はあるかしらね。下手をすれば現実認識との衝突で磨耗してしまうのでないかしら。」
「だから狂信とかないほうが、生きやすいんだろね。‥でも、二次元しか愛せないかー。そういうことたまにいう人いるけど、でもどうなんだろ。たとえば吉行淳之介の小説とかって、出てくる登場人物たちって今ふうにいえばモテでリア充だよね。今どき吉行を評価するのなら、たぶんそういった言葉はかならず非難の色あいを帯びて出てくる気がする。‥たしかに吉行は異性と何度もそういった性交を重ねた。でもただ思うのは、吉行という人の思想には、そういった性という暗喩を借りて、人と人とのふれあいで夜中道に迷った子どものように、ひたすらあたりをうかがいながらふるえてるような、怯えがあった。吉行を読んで、その怯えに気づけないなら、非モテやリア充なんて言葉に意味ない。公園でいつまでも遊んでいたかったけど、でもそのうち陽は無情に沈む。私のもっと遊んでたいって気持を、冷酷にすげなく無視する太陽の、あの真っ赤にさす光の線。‥吉行が描いたのは、ほんとにそこだった。人生にさす夕陽の光線を、吉行は病んだ身体をたずさえてぼんやりと見つめてた。その背中は、泣きだしたくなるほど、孤独だった。」
「自分という存在は何を好み、何を愛するか。冷静に考えれば、それさえ自分の自由には任されていないのでしょうね。そして運不運という、予想ないファクターが人の前には常に影響を与えている。なんとも、頼りない自己存在ね。アイデンティティなんて、だから、どうでもいいのでしょう。個性的に生きることを執拗に望むことは、よって自滅への過程なのでしょうね。はてさてとしか、いいようないことよ。」
2008/04/19/Sat
スパロボ公式サイト 参戦作品
劇場版 機動戦士Zガンダム
超重神グラヴィオン
超重神グラヴィオン ツヴァイ
創聖のアクエリオン
交響詩篇エウレカセブン
オーバーマン キングゲイナー
宇宙戦士バルディオス
超時空世紀オーガス
宇宙大帝ゴッドシグマ
機動戦士ガンダム 逆襲のシャア
機動新世紀ガンダムX
∀ガンダム機動戦士ガンダムSEED DESTINY
マジンガーZ
グレートマジンガー
UFOロボ グレンダイザー
ゲッターロボG
戦闘メカ ザブングル
無敵鋼人ダイターン3
無敵超人ザンボット3
THEビッグオー
「スパロボ新作に∀ガンダムがやってきた! きゃーーーーーー素敵ーーーーーー!!!! やったっ。すばらしい! 素敵!! そだよねそだよねーやっぱり∀だよねー。うん、とてもとてもよろしかな。ついに∀がα外伝以来にやってきたの‥。つよくて美しくてかっこよくて、シド・ミードの機能的でスタイリッシュで独創的で、シンプルで人体美に満ち満ちた、最高に繊細で豪壮な、兵器と戦士の美学にあふれた、あの∀ガンダムがスパロボでふたたび立ち上がるのだ。なんて素敵‥。私うれしい‥」
「いやはや‥。なんだかすごい喜びようね。エクスクラメーションマークそんなに連続させるなんていつ以来よ。」
「∀がきた。すばらしいのだっ。いいよねうれしいよねたまらないよね! えへへー。もうほかの機体なんて気にしてられないのだ。∀が出ればそれでいいの。∀とカプルとターンXがいれば、もうあとはいいや‥」
「α外伝でカプルフル改造したのも懐かしい思い出ね。あれはいまだにどうかと思うけど。」
「いいの! 私はカプルも大好きなのっ。でもすごく楽しみー。∀ガンダムがまた見られる。それはとても素敵なことなのだから。‥ところで私エウレカもアクエリオンもSEED DESTINYも途中まで見てつづきぜんぜん見てないや。どしよかな。これを機会にぜんぶ視聴してみるのも一興かもかな。」
「とかいっててもめんどくさがりのあんたが見るのかしら? ま、∀も久々に参戦ということでそれはまあいいことかしらね。はてさて。いつ発売するのかしら。とりあえず気長に待つとしましょうか。」
2008/04/19/Sat
「呪いを受けた道具が呪いを克服しようとするお話の三巻目。今回は呪われた道具はただの人も道具も超越してるのだからそれはすばらしいことなのだーって、呪いを貶下して見るのでなくて、呪いをそのまま肯定する。呪われた道具をその存在になんら意見を加えることなく認めてられる、そういった思想をもつ人が出てきて、フィアさんあたりと呪われて苦しんでるんだからお前らそんなこというなーみたいに剣戟抜刀するのだけど。この呪われた道具を見下すことなく接しようとする態度自体は春亮くんと変わらないのだけど、そこからの姿勢、つまり呪いを肯定的に考えるか否定的にとらえるかのスタンスのちがいかな。それで、ここはもうワースがどんな考えの持ち主なのか、に係ってるのじゃないかなって気がする。呪いで悩んでるのなら解けばいいし、べつなんてことなくて自分を首肯できるっていうなら、解く必要もないのでないかな。そこは住み分けうまくすればよろしとしかいいようないかなって思う。」
「はてさてね。ま、春亮あたりの呪いは解くべきだという姿勢がまちがっているというわけではないのでしょうけど。ピブオーリオも、その狂信的なところを抜きにすれば、思想自体はそう主人公側と変わるところもないかしらとはいえるかしら。ま、狂信的というのがいちばん問題なのでしょうけど。」
「ピブオーリオの長のアリスさんも、不合理な世界を呪っていた過去をワースによって救われたから‥つまりそこに愛の徴を認めたのだから、そういった主張をするのだろなって理解はできる。でもただその主張が普遍性をもつって頑なになっちゃってて、だれ彼かまわず敷衍しちゃうのはやっぱりちょっと問題。人の立場というのはいろいろで、愛を求めるってこともまた人によってその色彩はあざやかに変わる。求めようとして得られるものが救いでないし、救いを与えようとする心自体にちょっとした嘘が混じてることもある。だから、つまりは、放っておくのがよろしかな、私は私、あなたはあなた、その隔絶がどうしようもない世界の枠の基本であって、人の意識は‥そして自意識を得た道具も、かな‥そういった孤独の様相を本質として受諾してる。でもただ、そういったことだけで割り切れることのできない感情というのがあって、あなたはあなたのままでいいって、呪いをさえ含めて自分を肯定してくれる存在に出会ったときに、その呪いはたぶん解ける。‥どういう方向にこの作品が進むかわかんないけど、楽しみにその行く先を追ってこかな。黒絵さんかわいくてよかったです。意外といちばんおもしろみのある人かも。」
「なんだかんだで登場人物も増えてきたけど、それほどごちゃごちゃになっていないのは役割がきちんと整理されているからかしらね。さて、次はどう展開するかしら。伏線もしっかり張ってあることだし、次もまた期待するとしましょうか。」
水瀬葉月「C3―シーキューブ―Ⅲ」
2008/04/18/Fri
>普通に思ったのですが、サディズムとマゾヒズムって対極にあるものなんですかね。対を成すようにいろんな場面でSだのMだのと使われてますが、個人的にはそうゆう概念だとは思えないのです。
つまり直線状で語れる概念ではなくて、性癖的なカテゴリーの中では枝分かれ的に様々なタイプが存在していて、そのなかの2種がSとMじゃないかなどと考えてしまうのであります。
いかがでしょう
「上記のコメントを受けて、あれれ、サディズムとマゾヒズムの成り立ちってあんまり知られてないことなのかなって思った。でもそういわれれば、それもそっか。学校で教えてくれることでもないものね。ということで、サディズムとマゾヒズムのかんたんな概説。まずサディズムの語源となったのは十八世紀フランス大革命時代の作家ドナティアン=アルフォンス=フランソワ・ド・サド。通称サド侯爵。対してマゾヒズムの語源となったのは十九世紀末オーストリア・ハンガリー帝国の作家レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ。二人は生まれた時代も土地も、小説としてのスタイルも思想も、身分も言語も大きく異なった二人であって、両者を結びつける線というのは一見して見出せない。だけどこの二人を比較して論じた人がいて、それはウィーンの性病理学者であるクラフト=エビング。エビングはその名高い主著「性の精神病理学」で対になる医学上の専門用語として、サディズム、マゾヒズムを提唱した。つまりそもそもが医学用語。それもある個人が恣意的な判断で用いたのがさいしょで、それが世界的に広まっちゃったって話。現在SMの二文字がこんなに有名になっちゃったってことは、サドにもマゾッホにも、そしてたぶんエビングにも、予想できるはずないことなのでした。」
「病名のないところに病気はない、とでもいうことかしらね。エビングの主著があまりに有名になりすぎたために、サディズムとマゾヒズムの言葉がその元となった作家たちよりも有名になっている。そして作家たちの名は本人たちにはまるで無関係な医学用語のしたに隠れてしまった、か。なんともいいようない事実ね。」
「エビングの命名は、作家としてのサドやマゾッホの名を葬り去ったっていっても過言でないもしれない。でもただサディズムマゾヒズムの名がいまだに世界中でつかわれてるからこそ、サドやマゾッホもやっぱり死地にばかりいるわけでなくて、二人の作品は今でも多くの人が愛読してる。そういう事情を考えると、エビングの仕業は一概に作家としてのサドやマゾッホを毀損したともいえなくて、ただ運命の悪戯としかいいようないことなのでないかな。そしてサドの作品とマゾッホの作品に、ある著しい対照があるのは確実であって、そのことにいち早く注目したエビングの碧眼は、やっぱりただ事でないかなとは思う。だからこそサディズムとマゾヒズムはこれだけ世に広まったのだとも思えるし。」
「サディズムとマゾヒズムの対照点ね。さてサディズムとマゾヒズムが反対概念であることは多くの世上の意見と一致することでしょうけど、そのちがいは何か明確に述べられるのかといえば、これは難事ね。そう上手く答えられる人は少ないでしょう。」
「まずさいしょに確認しておきたいことは、マゾヒストは苦痛を快楽に変化させてるわけでないということ。このことはけっこう見落とされがちなことかな。苦痛が快楽に変わるわけじゃなくて、マゾヒストにとって苦痛とは、あくまで性的快感に到達するために必要な催淫効果を生む可能性のある一要素にすぎないということ。苦痛が快楽に変わるわけないよね。小指をタンスの角にぶつけたら、どんな人でも痛がるのが当然で、マゾヒストがそうじゃないなんてことない。喜びは苦痛そのものにあるのじゃなくて、苦痛が生みだす性的衝動にこそある。ここをまず勘ちがいしないこと。マゾッホの小説を読めば一目瞭然で、彼の小説の主人公は自身をひどい目にわざとあわせて、そして本気で苦しんでる。その苦痛が快楽として描かれてるわけでけしてなくて、その苦痛がもたらす性的快感こそが目標なのだ。」
「ま、苦痛と快楽がいかに結びつくかというのは心理学的に見ても一筋縄で行かないものなのよね。だからここは数ある説のひとつと見るべきで、実際以上に複雑なのがマゾヒズムだと考えておくのがよいかしら。ただ苦痛が快楽じゃないというのは、これは確実といっていいでしょうね。苦痛が気持いいというのは、それは神経がおかしいのよ。」
「フロイト、ジャン・ポーラン、ジル・ドゥルーズ、ハヴェロック・エリスにジョルジュ・バタイユ。マゾヒズムの謎にとりくんだ人たちは過去にいくらもいて、その複雑で難解な性の理論の世界は、覗きこめば果てないくらい。それをぜんぶ含めて話すなんて、とても私の役目じゃないし、それにめんどくさいから、私なりにマゾヒズムについての所論を述べるなら、マゾヒズムとは徹頭徹尾観念的な快楽なのじゃないかなって。つまりさっきいったように、マゾヒストは苦痛を快楽に感じてるわけでなくて、苦痛はただ最終的な快楽のための要素にすぎない。ここで最終的な快楽とは何かなといえば、その快楽とは苦痛を受けるマゾヒストが思念して構成した複雑な幻想にほかならなくて、ただ苦痛を望むのは、苦痛が彼の幻想の成就にとって不可欠だからにちがいないのじゃないかな。‥宗教的聖人は、十字架にかけられることで、彼の願いを完遂する。童話世界のお姫さまは、王子さまに助けられるにはかならず何かに苦しんでなくちゃいけない。塔に幽閉されてるとか、いじわるな継母にいじめられてるとか、毒りんご食べちゃって横たわってるとか。マゾヒストの願いとは、そういった幻想による自己陶酔を可能とすることであって、ジル・ドゥルーズがかつて明確に述べたように、「へつらうことで傲慢な者となり、服従することで反抗的な者となる」のが、マゾヒストの真実にほかならない。苦痛を自己自身に引き受けるマゾヒストは、だからサディストと比べてより身体的であって、より根源的に存在しうる。それは華麗な精神世界の住人、美しい幻想による、完全な自己陶酔を必要とするのだから。」
「マゾヒストはその基本としてナルシストでもある、か。ま、そうかしらね。マゾヒズムに比べるとサディズムがいたって単純な心理の表明にほかならないことは、もういうまでもないことかしら。他者を破壊することによって攻撃衝動を満足せしめることは、これは子どもでもやっていることでしょうからね。」
「うん。サディズムはだから機械的で、マゾヒズムに比べると単調なふうになっちゃうのはしかたないことかなって思う。それはサドとマゾッホの作品を読み比べてみればたぶんすぐわかること。どちらがより楽しく読めるかで、あなたの好みは判断できるかな。ただなかにはサディズムもマゾヒズムも、どちらもそれなり気になるのだけど、なんて人がいて、それはあなた、サディストが同時にマゾヒストであり、マゾヒストが同時にサディストであることは、実はきわめてたくさんなのですよって伝えちゃう。このサディストでありながらなおかつマゾヒスト、逆もまた真なりが、サディズムマゾヒズムのさらなる問題で、エロティシズムを複雑にしちゃってることのひとつなのだけど、とりあえずこのエントリはここでおしまい。サディズムマゾヒズムは、思ってるより複雑で、そしてふかい空のように尽き果てぬ興味を抱かせてくれる関心事ということが、少しでも伝わったら幸いかな。エロティシズムは、だからとても、おもしろいね。それは人間の存在の暗闇として、いつまでも知性に突きつけられてる課題なのだから。」
「エロティシズムは人間存在にとって避けえぬ事柄、か。はてさてね。気軽に用いられているSMという言葉だけでも、これだけの歴史性があるのだから、エロティシズム全般の話をしようと思ったらその労力はたいへんなものでしょうね。ま、資料には事欠かない分野でしょうし、多くの人にとって無視できぬ話題であることもまたたしかかしら。それは人間の本質としての暗闇である、か。本当、尽き果てぬ暗闇ね、これは。」
2008/04/17/Thu
りきおの雑記・ブログさん「ブロガーは兼業できるか?…ブログやってて他のこと出来ますか?」
『もし「しっかり兼業できるぜ!!」って人がいれば、兼業のコツみたいなものを教えてもらいたいものですし、1日のタイムテーブルを見せてもらいたいものですけどね。見せてくれませんか?』
「書く速度を上げる、というのは前にもいったかな(→
文章のちょっとしたコツみたいな)。あと意外と何書こかなーって考えてる時間が問題で、だから情報サーチ‥ネタ探しとその整理を最適化する。最適化するというのはどういうことかなというと、マンネリ化すること。ネットではこことここ見てあと終りーって感じ。よけいな情報はいらない。シャットアウト。それだけでだいぶエントリ書くのは楽になる。」
「つまりエントリを書くことを惰性にしろ、といってるようなものね。ま、習慣にしてしまえばあとはそれを反復するだけでしょうから、それもひとつの解とはいえるのかしら。」
「アニメ感想ブログさんが定期的に更新つづけられる理由がそこで、エントリのネタとエントリの本文を吟味する時間がいっしょにできちゃうからなのだよね。それがブログは専門性をもたせたほうがいいよっていわれる理由で、専門性ということはマンネリ化できやすいということ。ただ専門性ばかりにこだわっちゃうと、それはそれで無理が出るから、あるていどの妥協なりなんなりをブロガーはもったほうが潰れないで済むのかも。‥あとは、そだな、その人なりのブログスタイルがあると、ブログというのは長くつづけられるものなのかもしれない。反対にいえば、その人なりのスタイルが見出せなきゃブログというのはつづかない。ただこのスタイルがなんなのかなといえば、それはけっこうむずかしくて、ブログの個性とかいえばそうともいえるかなだけど、個性というよりもっとマンネリズムに接した、惰性の重なりから生まれるその人の雰囲気が、つまりブロガーとしてネットに表出してる部分なのかも。無理しないこと。自分の感性を偽った文章を上げたときから、たぶんブロガーの自滅がはじまる。だから世間の流行やある種のブロガーに追従するような記事は、それが自分との直接的な感情からいえば反対するなら、阿諛するようなエントリは書かないほうがよろしかも。ただ私はそんなこと思わないよーってむやみに非難かまびすしいのもあれれだから、そういうことあったらエントリ書かないことも選択肢のひとつかな。‥さいごにぼそっというと、スタイルというのはその人の身体性ということだよね。文章に色気をもたせられるという人がときたまいて、それはけっこう得がたい才能。文章を身体的に把握できる人というのは、ほんとそんないない。」
「ま、なんというかブログというのは長くつづけられればそれだけで儲けものだということはいえるかしら。マンネリを恐れないというか、マンネリそのものがブログだったりするのよね。となると、マンネリにできない時点でそのブログは何かを誤っているともいえるのかしら。そのまちがいは、ずぱりいって無理をしているということでしょうね。その無理に無自覚的でいると、おそらくブログは崩壊するのでしょう。その過程はけっこう無慈悲よ。」
2008/04/17/Thu
「サド侯爵は実はマゾヒストだったのじゃないかな、なんて意見がある。サド侯爵の代表作のひとつの「美徳の不幸」は信仰心あつい生真面目で敬虔な女性ジュスティーヌが、悪人から悪人の手へ引っぱりまわされて、さいごその立派な良心は何も報われることなかったねで終っちゃう話なのだけど、この女主人公ジュスティーヌこそがサド侯爵そのものなのじゃないかーってことが論拠。つまりいろいろ不幸な目にあっちゃうジュスティーヌの姿がサド侯爵の本願だったのでないかって意見で、そういわれるとサド侯爵は十数年間も牢獄のなかで苦汁をなめたのだから、もしかしたらそだったのかも‥なんて一瞬考えちゃう。でもサド侯爵の小説を一度でも読めばわかることで、あくまで機械的で即物的な残酷描写ばかりしちゃう侯爵が、拷問執行者の立場にあるのは明白なのであって、複雑で繊細な精神の機微を楽しむマゾヒズムに侯爵が通じてたなんてことはないだろなって、私は思う。それはマゾヒズムの語源たるマゾッホの作品とサド侯爵のそれを比べてみればわかりやすいのじゃないかな。繊弱で可憐な幻想を描くマゾッホとサドの対照は著しくて、とうてい侯爵がマゾヒズムを解しうるなんてことないかなって納得しちゃう。とかいうとサドはある意味鈍感なのだーっていってるみたいであれれだけど。ここは単純に本人の資質によるものだって思えばよろし。侯爵は生粋のサディスト的性向を備えた人だって考えていいと私は思う。」
「ま、サドは自身に対し苦痛を受けることを憎みこそすれ、それを快楽と捉えることはなかったでしょうね。もちろんマゾヒストが苦痛をすなわち快楽と単純に受けとっているわけではないのでしょうけど。ここらの心理はなかなか厄介よ。」
「自己内罰的、とかいうのかな。マゾヒストというのは自分で自分を罰するということ求めるのであって、そこには一種のナルシシズムの働きがある。自己愛が、マゾヒズムの鍵なのだよね。苦悩に悩む自分に審美的な悦びを感じることがマゾヒズムのメカニズムの肝心なとこで、その悦びは単純に露出症の嗜好と結びつく。苦悩する私を見てみてー、というのかな。自分を悲劇の主人公になぞらえることで、倒錯的な快楽を見出すマゾヒズムの心理は、暗喩とほのめかしに満ちた、複雑な快楽への思念というべきなのかも。だからマゾヒズムというのは芸術的な素材になりやすくて、そういった例はいくつも発見できるのでないかなって気がする。たとえば聖人の殉教図とか、典型的だよね。宗教画は実は画家の性的な象徴に満たされてるっていうのは、よく言及される事柄かも。」
「聖セバスティアンの殉教図なんかは三島由紀夫も惚れこんでいたといわれるものね。宗教的情熱の幾割かが、そういったマゾヒスティックな部分に依拠するのは当然でしょう。それがわるいというわけではまったくないでしょうし。」
「夏目漱石の「こころ」の先生も、けっこうそだよね。あの人がなんで自殺せざるえなかったのかなって思えば、それは自己陶酔が関係してた気がする。遺書を青年の私に郵送しちゃうのもあれだよね。そこに同性愛的な気分があるのはまちがいないかな。孤独な心は、自己愛とかんたんに免れるものでないかなって思うから。‥ね、もしかしたら、ニーチェはそういった自己愛が悪に転じてしまうことを非難してたのかな。悪はたぶん陶酔で、孤独が自己愛を誘因することをたぶんニーチェは知ってた。私も、そういった自己愛とたぶん無縁でない。それはいったい、なんなんだろ。」
「こころの先生は、悪であったというのかしら? あの遺書が主人公の青年にどんな影響を与えたかは知る由もないのでしょうけど、死の責任を幾割か投げ出したというのは正しいのでしょうね。が、それは果して責められることかしら?」
「先生は自分で自分を罰しちゃったんだよね。その先生の罪は、たぶん先生だけが抱えるもので、だから先生はひとりきりで死ぬことえらんだ。でも先生は、けして孤独なだけであったわけじゃなくて、奥さんが、いたじゃない。だから、先生は悪っていって、いうべきで、ないかな。でもその悪は、孤独を好む性質に大きく起因してた。それが、何か、つらいな。愛さえ、悪と無縁でられない。それがいちばん単純な「こころ」の主張だった。悪の力は、人の業そのものだった。」
「だから先生は悪の芳香がある、か。もしかしたら奥さんか主人公の青年かが、あなたには罪はないと一言でも告げていたら、先生は死ななかったのかしれないかしらね。しかし過去の胸中を語る機会を一度でも得なかったのが先生だった。ああ、それが孤独かしらね。孤独が悪とは、だからかしらね。」
2008/04/16/Wed
「呪いを受けた道具が人の形をとって自律するというお話の2巻目。今回出てきた呪われた道具は、このうえなく麗しい愛玩用の人形で、その人形は何よりも愛される存在たるべしという目的でつくられた。でもその人形作家は何を思ったか、その自身のいちばん技巧を凝らした精緻で可憐な人形に、持ち主が愛を遂げる瞬間、みずからを愛した持ち主を死に至らしめる仕組みをつくった。‥愛されるための人形が、愛の成就とともに死をも与えるという人形哲学。この発想は素敵だな。たぶんこのラノベの作家さんはよくわかってる。ピュグマリオンの神話の悲劇の意味を、見事にこの愛玩人形は体現してる。愛が罪で、その罪のために死を享受しなくちゃいけないっていう、道徳的マゾヒズムのことを、とてもうまく表現してる。人形への愛がすなわち密やかな呪われた自己愛の屈折した発露であることを、この話はよく示してる。‥ただラストがきれいにハッピーエンドにまとまっちゃったのは、悲劇性という点ではあれれかな。それはラノベだから、決定的に人形愛を突き詰めることはないのかもだけど。でもちょっと、そこは惜しいかなって気がする。」
「愛の頂点とともに相手を殺す人形、か。なんとも、愛を完璧な形に封印したい人間の欲求するところかしらね。しかもこの人形は両性具有だというじゃない。少し欲ばりすぎな人形とはいえるかしら。」
「人形がアンドロギュヌスだなんて、また卓見なものだよねー。人形そのものは生命でないのだから、性別はべつに必要ない。ただ人が人形を愛するには、そこには性別の有無が必要で、そして愛の理想を究極まで夢みる人にとって、理想のジェンダーとはアンドロギュヌスをおいてほかになかった。それはプラトンが夢想した完全な人間の形であって、天使そのものであって、完全な自分の姿をそこに託す心理にほかならない。それはいちばん麗しい自分の、発露にほかならない。」
「人形との恋愛は、詰まるところ完全な孤独中の愛の実現を願うことにほかならない、か。しかし恋愛は何ものか他者を必要とするものであることはたしかでしょうから、人形愛が屈折した愛の表現であることは本当でしょうね。しかしそれが人間性の純粋な表現であることも、また真なり、か。」
『ベルメールのエロティシズムが、単に皮膚の表面の接触といった通俗的な面に極限されず、その隠れた内部の原因をあばき出そうという、ボードレールのいわゆる「子供の最初の形而上学的傾向」支配されたものであるらしいことは、ここでとくに強調しておく必要があろう。同じくエロティシズムとは言っても、ベルメールのそれは、ピカソのような肉体を謳歌する健康な薔薇色のエロティシズム、異教的な歓喜の表現ではなくて、あくまで死と暴力の認識の上に基礎づけられた、危険な黒いエロティシズムなのである。』
澁澤龍彦「ベルメールの人形哲学」
「人形愛が強烈なナルシシズムの反映であることは、ナルシスが水面に映った自分に恋着したのがすなわち自分の似姿であったことと、意味のうえでは同じかなって思う。つまり愛する人形というのはほかならない自分そのものであって、そこに見出されるセックスは、ただただ人形を愛するその人の快感原則によって忠実に思念された幻想のほかでないのであり、人形は無限に複雑な性の可能性を探求する領野でしかないのだから。人形はただの物体でない。それは理想的に欲望されるべく可能性を植えつけられた、黙す人間、語らない人間、鏡としての人間、つまり極度に盲目的にエロティシズムのイメージを投影される、自分のもうひとつの身体にほかならないのだから。‥だから数あるエロティシズムの技巧のうちで、人形愛は黒いエロティシズムと呼ばれるに足る理由がある。なぜなら人形愛は、その愛の行為の最中に、愛する愛される私とあなたをひとつのイメージに帰せしめるから。溶けあい重なりあう、ただ自分を観念的なエロティシズムに合一させる、危険な働きが、人形の無言の瞳のうえに煌いているのだから。」
「人形愛は人の孤独なエロティシズムの作業うちで、とびきり孤独な場面を展開させる、か。はてさてね。‥しかしこのラノベ、そこまで深刻な話でないでしょ。とりわけ人形を愛することについての含蓄が語られているわけでもないし。ちょっと本論外れているのでないかしら?」
「あはは。そだね。そこまでエロティシズム云々するラノベでないのだーっていわれれば、やっぱりそかも。でも人形愛はいろいろ考えさせられるとこあるから、私ちょっといっちゃった。うーん‥あということは、フィアさん典型的なツンデレで見てて安心だよね、とかかな? そんなこといってもどうだかなだけど、愛と死をもち来す人形のイメージは、よかったです。それだけでこのラノベは読めちゃった。3巻も、たぶん読む。この作者さんは、けっこうおもしろいシンボルを作中に登場させるよね。そこはなかなか気に入っちゃった。」
「ま、その使われ方はごく安全なものなのだけれど。ラノベという様式でやるかぎり、あまり人形愛云々に踏みこむのもあれなのかしらね。ま、次巻もそれなり期待させてもらいましょうか。」
水瀬葉月「C3―シーキューブ―Ⅱ」
2008/04/15/Tue
「この前杏さんが外見的には好みかな、と書いた矢先に杏さん中心の回で、私としてはみててけっこう楽しかった。楽しかった、と保留をつけるのは作品内容の問題で、端的にいえば義之くんの問題。彼って、なんていうのかな、ある意味すごくフラットな性格づけで済まされてるわけだけど、今回すんなり杏さんの内面に踏みこんでく過程を見て‥一期でこのあたりの伏線とかあったのかな。なら話は変わるけど‥彼はこわいやつかもかなって思った。何がこわいのかなというと、彼は自己愛を捨ててる。もしくは捨て去って私は自分のことそんな大切でなくて、欲望とかそういうのもあんまり自覚的でなくて、だから君のこと安全に扱えるし、そのうえ文句いわず親身に付きあえるよーみたいに見せかけてるとこかな。これは自覚的、無自覚的関わらず極悪的なことかなって思うけど、でもあーこの子上手いなって感心しちゃった。関心するとこでないよかもだけど。」
「自己愛、ね。それを捨て去っているということは、つまり自分よりも私のことを優先してくれると相手に思わさせるということで、つまり母親の代理として機能しうる存在だと相手に思わせるということよね。なんていうかけっこう有効な恋愛マニュアルかしらね、これ。ずばり好きな子に好かれるには、その子に自分はお前のお母さんのごとくふるまえると思わせること。ま、表立っていうにはあまりに極悪な恋愛アドバイスでしょうけど。」
「こわいよね。これはこわいかなってほんとに思う。知的なことでも感情のことでもなくて、身体のフォローをするというのが肝。それでだから風邪で弱っちゃってる杏さんの看病するというのはまさにベストな状況。身体のフォローをするというのは、つまりその人にあなたは孤独じゃないよということを、弁解的にいやにならずくり返すことと同義であって、彼女の何から何まで連れ添う感覚‥もしくはその予感を与えることなのだよね。それで、そんなことできるかなっていえば、たいていの場合は自己愛が障壁となって働く。私がなんでそこまでめんどうみなきゃいけないのだーってなる。だいたいの恋人の愚痴のよるとこはここかな。つまり自己愛捨てるのがもてることのいちばん手っ取り早い方法だったりするのだけど、でもこれはできる人そんないなくて、そしてできるって人がいても私はあんまり勧めない。勧めない、というのもへんかな。これはその人の資質によるとこが大だし。つまり、人はそこまでつよくない。」
「極悪であるが故に、その方法は自己を過酷なまでにすり減らす、か。ま、それは当然かしらね。できる人がやればいいだけの話よ。人はそこまで立派にも醜くも演じられないでしょうし。ま、義之という青年は侮れないというのはたしかかしら。なかなかどうして、ひやりとさせられるような人間よ。」
2008/04/14/Mon
「楽園の素敵な巫女は空を飛ぶ。なんで飛べるの? それは巫女霊夢だから。ふしぎな巫女だから飛べるので、飛べるからふしぎな巫女たるのであって、だからそこに是非もないのだ。空中浮揚、重力にさえ縛られない自由な存在としての人間の姿は、人の常識をもっともつよく破る姿かもしれなくて、空を易々と飛ぶことはずっとむかしから人の焦がれる光景だった。だから空中浮揚の伝説は多くて、紹介しようと思えば空を飛ぶ程度の能力の持ち主は枚挙に暇がないくらい。そのなかでとくにさいきんで有名だったのは十九世紀のダニエル・ホームかな。ホームは身体を水平にして、すると頭からするりと窓の外にでて、そのままふわりと浮揚してたって伝えられてる。窓の外の空中で、だいたい二十六メートルの高さでふわふわしてたって。英国学士院のウィリアム・クルックスに代表される学者さんが何度も科学的な検査をしたらしいけど、でも決定的なトリックは発見できなかったっていわれてる。」
「当時の多くの著名人がホームの奇跡を目撃したとされてるのだから、大したものかしらね。真か嘘か、どちらにせよ謎の人物よ。」
「ホームは聖者でないけれど、キリスト教の聖人が空飛ぶ奇跡を見せたって逸話は数多いよね。そんななかで日本のお坊さんの明恵上人の空中浮揚のエピソードは、ちょっと趣きを異にしてる。‥明恵上人が宋に渡る計画を立ててたころ、当時上人の近所に住んでた女の人が、いきなり障子の鴨居のうえにむしろをかけて、そこに飛び乗ったかと思うと、彼女は天井ちかくまでひらりひらりと舞い上がった。おどろいた上人。見上げてみれば女性はこんなことをいい出す。われはこれ春日大明神なり。御坊の唐へお渡りのこと、きわめて歎かわしく侍れば、このことを制し奉らんがために参りたるなり。びっくりしちゃった明恵上人はそれなら宋へ行くのはやめましょと約束すると、女性は安心したかのように天井から降りてきた。彼女は妊娠中で、おまけに絶食もしてたのに、春日大明神に憑かれて上人の渡海を引きとめたんだね。ふしぎといえばふしぎで、わかりやすいといえばずっとわかりやすいお話かな。」
「明恵上人は美貌で伝えられているものね。おそらく近所に住んでいる美男子の明恵上人がちかいうちに外国へ行ってしまうということで、その女性は矢も盾もたまらずなってしまった、か。妊娠中というのがまたなんとも話をへんにリアルにしてるかしら。」
「あはは。すごいよねー。恋情が空を飛ぶ能力を可能にしたのだ。でもこの手の奇跡譚では、そういった性的な要素というのはけっこう重要で、宗教体験の神秘的体験の基礎には性的な事柄が大きく関係してるっていうのは、心理学者の意見の一致するとこみたい。常識を越えるのが愛なのだ、かな。空飛ぶ久米の仙人が落下したのも、飛んでる最中にかわいい女の子の脛を見ちゃったからだよね。空を飛ぶときは、かわいい子には気をつけよう。愛が飛ばせてくれるかもしれないし、また愛があなたを地上に引き落とすかもしれないから。‥落下して、久米の仙人みたいに花をみるのもいいかもだけどね。奇跡は花のために咲いてこそ、奇跡の価値はあるのじゃないかなって思うから。」
「花は恋慕、愛するあなた、か。明恵上人のエピソードはまさにそれでしょうけど、しかし渡海を邪魔された上人にとってみれば笑い事ではなかったでしょう。それもだれからも惚れられてしまう上人の美貌のためというのだからはてさてよ。ま、常人には縁のない話かしらね。花の妙を知る人が、警戒すべき、事柄よ。」