2008/06/30/Mon
利口系無重力blog@北大さん「秋葉原での無差別殺傷事件への共感」
『容疑者の絶望感に共感を覚えました。
孤独であるということと、そして、派遣労働で将来の見通しがまったくもって立たない、容疑者の感じていた絶望感を感じて「あの状況であるとしたら、何かしらの反社会的な行動をとったとしても、それはありだろう」というか、私が彼の状況だったとして、同じようなことをしないとは言えないなと思ったのです。』
「孤独で絶望だと無差別に人殺したくなるの? 孤独というのもわかるし、絶望というのもなんとなく共感できるというのはわかる。だけどそうやって孤独と絶望に追いつめられたら、いきなり通りすがりの人を背後から刃物で刺したくなるの? ここは正直、私にはよくわからないなって思っちゃう部分。私は、幸運にもまだそこまでの絶望に追いやられてないというだけの状況に‥彼との相違でいえば‥あるだけだろけど、でももし彼と同じ状況だったとしたなら、なんの思想的な信念的なイデオロギー的なものと無縁で、自爆のような暴威として、関係ない人たちを殺したくなるものなのかな。そこが、私にはわかんない。」
「はてさてね。ま、この事件に関していえば、その当初より犯人への共感なり同情なりの意見は散見できたものだけれど。それは果してどういったことなのかしら。」
「孤独で鬱憤があったら反社会的な行動とりたくなるというのは、ま、暴走族みたいなものかな。それならそんなにわからないものでない。でもただ、反社会的な行動をとるとして、その実行の場がなんで秋葉原だったのかなって疑問は残る。就職状況に対する恨みのうえならば、それなら反抗の目的にするにはもっと直截的な、明確な場所、ところというのがあるのでない? 彼の絶望や孤独をぶつける場が、なんで秋葉原に限られたのかなって私はふしぎに思う。情報をみるかぎり、この人はオタク的な趣味のもち主で、なら自分の趣味のホームというべき、自分を支え肯定してくれた場所ともいうべき、秋葉原でなんで凶行に走る理由があったのだろ。それは、もしかしたら秋葉原に対する無意識的な抑圧があったから? わからないな、私には。」
「何か虚無的かしらね。もちろん社会の複雑な因果関係を思い合わせることは重要でしょう。しかしそれに係らず、どこか腑に落ちない点がこの問題には残る。それが何かといえば‥何かしらね。はてさてよ。」
→
秋葉原無差別殺傷事件に対する私的覚書→
そこにあるのはただ虚無かもしれない
2008/06/30/Mon
「オタク」を主語にするな。『端的にいうなら、「オタクは××だ」と「オタク」を主語にする言説のほとんどは何かしらの限界を抱えている。そうじゃないひとが必ずいるからだ。それは自分に見えている範囲の「オタク」を語っているに過ぎない。』
オタクを主語にしろ。『「オタクという言葉を注意して使わなければならない」腫れ物のような存在にしてしまっているのは、「オタクという言葉を特別に扱わせようとしている人間」だと僕は思うのだな。』
「読んだ。それで、よくわかんなかった。いったい何を問題としてるのかーが、まずよくつかめないし、これってつまりオタクは○○だよねーってエントリが初めにあって、そんなのはお前だけだ! オタクみんなが○○なわけないじゃん! オタクを代表して語るなよ!という意見があって、べつにオタクは○○なのだって主張してもいいじゃん。人の多様性いろいろなんて、周知のことだし‥という見解があった、ってことなのかな? とすると、なんだかそれぞれの段階で議論の前提が定まってないような気はするかな。つまりここで問われてるオタクって言葉のあつかい方が三者三様で、結果として議論の流れが私には不明瞭にみえた。‥話を追えてるかどうか自信ないから、齟齬があったらだれか教えてね。議論のスキームが、見えないな。」
「それぞれのエントリを、それぞれ単独に限って読めば、それぞれ首肯できる部分はあるのよね。ただこれらを一連の流れのものとして捉えると、とたんに不明瞭なものになってしまうというか。これははてさて、どうなのかしら。」
「よくわかんないけど‥ただオタクって言葉がある種の流行の、世代的なひとつの型に落ちついてきてるというのはあるかもかな。こんなこと好きな人がオタク、みたいな様式というのがすでに世間的にできあがっちゃってて、それにはまればオタクと名乗る資格があるみたいな。うーん‥なんていうのか要領をえないけど、今はもうオタクというのがネガティブなだけでなくて、ある種の一群の人たちにとっては理解しあうための共通の価値観の標識みたいになってて、それでそれは生き方の選択のひとつとして半ば公然と現在は掲げられてる。‥そう考えてくと、オタクというのはつまるとこ共同幻想であって、これがオタクだなんて基準はどこにもない。だけどある一群の人たちにとっては、オタクを自称することによって、あるコミュニティの連帯を担えるって気分があって、それがつまり上記のような議論を生んじゃうのかなって気がする。オタクの実体なんて何もないものね。あるのはただ私語りなだけな気がする。それがわるいとは、私はぜんぜん思わないけど。」
「オタクを名乗ることが、ある種の世代間の連帯感を担う標識となっているということかしら? ま、そう見てくとオタク現象というのは、実は個人の問題ではなく、特定の集団間の内部における、規律の問題であるかしれないかしらね。その意味で、オタクは○○なものだと主張することは、その閉じたコミュニティ内においては依然有効であるのでしょう。ま、しかし、多少厄介な話になったことかしらね。オタク現象もまた、過渡期ということかしら?」
2008/06/29/Sun
「四年間の記憶が消えたとき、もしかしたら前の私は死んでしまったのでないかってつぶやく千尋の言葉は、まさにそのとおり。蓮治さんにはつらいけど、これはまったくもってそのとおり。三分前の世界は、奈落の底に沈んでる。もうそれはどこにもないもので、時とは順次この世から完全に消滅するものであって、三分前の私はないし、その意味で私とは常に転生しつづける存在なんて、いえるかな。だから記憶とは私といっていいのかもしれない。記憶こそが私の人格の構成そのものだって、いってもそんなにおかしくないのかもしれない。ただ保留をつけるなら‥それは今の私の構成だってことかな。今、ただ今。記憶とはただ今に関係することであって、私が記憶とは、現在このときにおいてのみ有効な発言だって規定してよろしかも。ここは少し奇怪な論理ではあるけれど、かな。」
「過去がすでに存在していないことは自明なことなのよね。そしてそれならば過去の自分もすでに消滅しているはずでしょう。しかし過去とは人にとってごく身近なものであるという印象が、人の意識にはある。それがなぜなのかといえば‥」
「意識の連続性、かな。持続した意識が私の継続ということを認識させて、それがつながって過去が人に親密な印象を与えることになるのだけど、しかしそれは錯覚であって、過去の私はもう今の私と無関係だって、いっていいのかもかな。私は十年前の私を想起できるけど、でもそこであらわれる十年前の私は今の私の反照でしかなくて、蓮治さんが想起するついこのあいだまえの千尋も、また蓮治さんの印象の像でしかありえない。それは千尋が日記を頼りにくみ上げたかつての自分のイメージと、次元のうえにおいてはぜんぜん大差ないものなのだよね。‥ただ、そう、そういって理屈で割り切れるものでもここはなくて、蓮治さんには千尋に対して感情的になる理由がある。ぼくの愛した千尋、という思いが。でもその彼の感情的になる根拠でさえが、彼の記憶にかかってるものであって、そしてその記憶の自明性こそがここでは問われてることであるのだから、問題は、ひどく辛らつな相を呈することになる。‥千尋は時間を意識できてないだけであって、彼女が時間にとり残されてるって思うのは、ただ記憶の‥意識的な認識の、問題でしかないのだよね。千尋は転生の感覚をくり返してるのだろな。彼女を救いだす思想というのは、それこそ死の無を説く涅槃的なものにしか行き着かないだろな。それを愛で乗り切れるかが、まさに蓮治と千尋の物語に課せられた使命であるのだろけど‥」
「記憶の無とは通常人にとっては、死という形であらわれるもの、か。千尋はその意味で死と再生を幾度も繰り返しているのでしょうね。そういった彼女に、いくらか聖性を感じたとしても、それは見まちがいではないのかしら。」
「宮子さんとかの物語は、なんだかありすぎて笑っちゃう。この二つの物語のギャップがけっこうすごいよね。片方では転生を問題にした記憶の物語をやってて、片方では痴情のもつれ。‥この対比が世界の俯瞰なのだとかいわれたら、私としては諸手をあげて絶賛しちゃうかも。聖と堕が混在してるのが人の世なのだ。このカオスが世界そのものの貌なのだ。人それぞれ。思いいろいろ。お後がよろしいようで。とかかな。」
「いやまだ全部終ってないけど。はてさてよ。ま、この二つの物語の落差を楽しめということなのかしらね。とりあえず最後まで見てみるけど、はてさて、どうなることやらかしら。」
2008/06/29/Sun
まぬけづらさん「とらドラ!についてのよもやま話」
『潔癖な人柄であり、責任感が強いからこそ、責任を取らざるを得ない行動を避けている、と。そういうことかな。
ただ、その行動の原動力の中には、紛れもない性への意識も含まれていて、それがあることを自覚しようとしない、というのは不誠実、と。
それはつまり、楽をして美味しいところだけツマミ食いしようとしていることで、もっと言えば他人に厳しく自分に甘いということでもあり。
結構、その、これは。いわゆるギャルゲ(超鈍感)主人公への問題提起、とも取れるのかな。
そのようにまた別の角度から見ると、とらドラ!は更に奥深くなり、面白いですね。』
「書こうか書かないか、迷ったけど、書いとこか。ギャルゲーの鈍感主人公の何が問題なのかといえば、それは、自分が風俗に行く姿を想像できない点ですよ。女を買う自分というのが想像できない点ですよ。世に、女を金で買う男がいるということが、信じられない点ですよ。そして男に女が買われるという世界を、自分と無縁だって思っちゃう点ですよ。世界には、女を金で買わねばならないほどの人間がいるということを、そこで計られる心にたとえようないほど切実なものがあるということを、知らずに済ます、その無神経さが、ギャルゲー主人公の問題ですよ。この意味が、わかるかな。」
「はてさて。またかっとばした出だしね。さて、どう展開するのかしら?」
「たとえば、さ。二次元と三次元を比べちゃう人がいるよね。二次元があるのに三次元の女に手を出す人がわからない、って。それで私は、そういった物言いにはたまらない虚偽が隠れてると思う。つまりそこには、あなたたちだって性器をもったひとりの人じゃないか、という認識が欠けてる。そしてその原初的な事実に盲目でいられるどうしようもない無神経さがある。‥人が人を前にして、その人に欲情することの意味を、そこに善も悪もないことを、ただただ暴力的なひたすら恐ろしい力が人の理性を、心、魂を、精神をさえ乗っ取って、生きろ生きろ生きろ、性の歓喜を狂気を悪夢を、まるでそれをしなければ自分が消えてしまうかのように、まるでこの瞬間が泡沫に無くなってしまうかのように、あまりに暴力的に、人が人として生きることの意味を開示するときというのが、真の知というのが、この世界にはあるのですよ。そしてそれがあなたの人生にも起こるかもしれないって、少しでも思えなきゃ、それはあなたが性器をもった人間としてはあまりに想像力がなさすぎる。生きろ生きろ生きろ、性とはそういう意味であり、だからそれに無神経でいられるギャルゲー主人公というのは、どうしようもなく救いようがない阿呆な存在だって、私は思う。そして非モテに連なる一連の議論も、私はとんと関心おぼえない。性こそ人間の原初であって、それを考えることこそが、人の知の、たしかに荷われた一翼じゃないかなって、そのことを信じるくらいには、私はばかでありうるから。くだらない人間で、ありうるから。」
「異性問わず突きつけられている課題であることは、ま、わかるものでしょうか、はてさてね。ただそういった性の力は、ときに人の理性を用いて、タナトスを呼ぶ。そしてタナトスは、ある種の潔癖観と手を結ぶ。そこにこの問題の最悪の危険があるのよ。それはつまり、心中の可能性よ。」
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ヘルマン・ヘッセ「知と愛」→
吉行淳之介「暗室」→
もてもて雑感
2008/06/28/Sat
「とらドラ!」はスゴ本『スゴいのは、巻を追うごとに濃度と体温と回転数がヒートアップするところ。そして、二人の関係はだんだん変わっていくところがいい。気がつかない(気づきたくない)自分の気持ちと向き合うことのまぶしさを、彼・彼女と同じように感じる。』
「そういう読み方もあるものかな。ただ私は自分の気持と向きあうことを、単純にまぶしさとは思えないなって保留をつけてこの作品を読んでる。というのも何かなだけど、7巻において大河は自分の本心に少しながら気づけて、たぶんその胸の高鳴りはほんとのものだろけど、でも竜児の場合は彼女のようには行かないだろなって予感がある。これは彼が男だから‥とかいっちゃってもいい問題で、つまり竜児の場合はどちらに転んでも‥大河と付きあおうと、みのりんと仲よくなろうと、あるいはそれ以外の人といっしょになろうと、さらにはだれとも失敗してひとりきりになろうと‥彼は自分の愛した人が性的に他者のものになる瞬間を見ることになるだろなって思うから。そしてそれを彼のような人は、否認したくなっちゃうのじゃないかな。ここが彼の核心なんだけど‥そして彼のある種の過剰な潔癖の性質の拠るところだと思う‥つまり性に対しての偽悪が彼の裏の本質。そしてそれは若さといって切り捨てられない奇妙な心理。」
「竜児という男性はたしかに性を上手く受容できていないというか、思うように性意識をコントロールできていないような印象はあるかしらね。性の目で大河を見ることを拒否しているところが過剰でしょうし、そのために彼女との関係はへんにこじれているのでしょうね。」
「太宰治の「人間失格」とか思いだすかな。あの作品もどことなく純真な部分、あれだけ腐れてるのに子どもっぽい感受性で描かれてるとこがあって、そこに太宰の文学の奇妙な陰影があるのだと思う。つまり太宰は徹底的に自分を潔癖な、きれいな存在として描きたかった‥パフォーマンスしたかったのだけど、その実としては彼は異性を愛するって責任からとことん自分を無縁なとこにおきたかっただけだった。‥なんていうのかな、彼は異性からとにかくもてたのだけど、女性と性的な深みに‥その沼にからめ取られることを極端に怖れた部分があって、その感情の本質をつけば、それは性の責任っていう汚れから、自分をきれいにしておきたいっていう、くだらない潔癖でしかなかった。そしてだから太宰は異性に対してひどいっていいうるほどのふるまいをしてしまうのだけど、でも彼にとってみればそれは自分がきれいにいるために必要なことで、そのくせ女性が自分以外の男性に身を任すことをよしとしない、ひどく独善的な面まであらわれる、そういった部分が「人間失格」にはあったかなって思う。‥そしてこの奇妙な潔癖さがもたらす偽悪の罠に、竜児はそうとう深いところまではまっちゃってるかなって印象が私にはあるのだけど、ほかの人はどうおもうかな。私は「とらドラ!」という作品は、性的にこわい部分をあつかってるものと思う。そしてそこに無自覚で当ることにも、ちょっと危険のにおいは感じる。それは青春の問題というより、もっと根深い性の根幹に係るもののよな気がするから。」
「ま、青春活劇として読むことはできるでしょうけれど、というかそれが基本的な読み方なのでしょうけど、青春の陰湿的な部分もこの作品はなかなか鋭い意見を投げかけてくれるといったところかしらね。キャラ造詣において、なかなか「とらドラ!」は考え抜かれている印象はあるのよね。果してこれがどうまとまるか、どういった結論をつけてくれるかは非常に楽しみとしたいところよ。どう転ぶかによるでしょうけど、どちらにせよ痛い結果にはなりそうね。ま、それもまたひとつでしょうよ。」
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とらドラ雑感 恋愛と自己愛のバランス
2008/06/27/Fri
アニメばかり観ている人はアニメ以外のエンターテイメントを知らないんじゃないか『たぶんアニメばかりを賞賛している人に、今までに読んだ小説、見た映画、読んだ漫画、聴いた音楽をそれぞれ100個以上あげられて、そのうちのオススメを10個ずつぐらい挙げられる人って一人もいないんじゃないでしょうか。
結局アニメしか知らないから、アニメを賞賛しているだけだと思うのです。』
「ひとりくらいはいるのじゃない? たぶんこのエントリはアニメのファン・コミュニティの閉鎖性と排他的な雰囲気をきらったがためのものかなって思うけど、でもその手の雰囲気というのはどんな趣味サークルのなかにも見出せるものであって、身内のなかでわいわい盛りあがってるのは何もアニメに限ったことでないんだよね。端からみちゃうと狭い世界で馴れあい気持わるい、なんて思っちゃうかもだけど、その気持わるいって思う感性の拠るところといえば、それは自分が優越感を感じたいだけ、という粗末なものであって、アニメ最高ー!っていってる人たちに私は映画百本も見たのだよーとか横から口挟んでも滑稽なもの。閉じた世界でわいわいやるのもそれはそれでひとつの楽しみ方であるのだから、それがよいって思うならそれはもう他人がどうこういう領域じゃないのでないかな。もちろん、その閉鎖性が転じて外界に攻撃的になっちゃう場合とかは、これはもう参るかな、になるのだけど。」
「ま、結局は各人の趣味の問題に帰着するわけでしょうからね。ただまあアニメばかりでなく、作品というのは多数の過去の作品の成り立ちの背景をもっているものだから、アニメを論じるに当ってアニメだけを論拠とするのなら、それは片手落ちになるのでしょうけど。しかし身内だけで盛り上がるというならば、それでもそうわるいものではないのでしょう。」
「それとアニメ好きって一くくりにされちゃってるけど、実際のとこアニメが好きだよという人がいたとしてもその内実というのは様々で、ブログなんかに評論書いちゃう人もいればキャプ画で満足する人もいて、そういった自分の感想を表に出すことを極端に嫌悪する人もいる。それで、ほかの人からみるとあなたたち趣味あいそうだよねーという場合があったとしても、実は絶妙に異なってる場合というのがあって、その絶妙な差異はなんだかその人の人間性の深奥にまで係っちゃってるみたいな、なんだか悪魔の影が差す領域みたいなの。だからアニメ好きといってもだれとも交わらないで孤独に沈黙のなかで楽しんでる人もいるし、趣味同好のうちで和気藹々とやってるグループのなかでも、そのグループの各員がほんとに心ゆるしあってるのかなと思えば、ちょっと微妙なもの。傍目からみたら同じよな趣味でも、すぐ近くで見比べたりなんかしちゃったら、そこにはぜんぜん深い断絶があったりで、そういう瞬間を経験しちゃうと趣味というのは、人間というのはわかんないなって、なんか思い知っちゃうときがあるものかもかな。同じ作品でもこうも楽しみ方がちがうのかーとか、そういった瞬間。たぶんそういうとこが個性化って問題につながるのかもとも思うけど、そこになんだか人間関係のむずかしさがあらわれてる気がする。趣味があえばすぐ仲よしというのでも、ないのだよね。逆に趣味がぜんぜんちがってたりしたほうが人として付きあいやすい場合があったりで、ここらはちょっと、めんどくさい。」
「どうもどうかしらという話題かしら。大人というのはそれほど真剣に趣味を語りあわないものでしょうけど、その理由はといえば趣味というのが深くその人の個性と根付いているからなのかしらね。そして個性の表出として趣味があるならば、その人に表現される趣味との接し方も、いわばその人独自の個性化によって形成されている。だから本当に趣味があって仲よくなるという機会はあまりないのでしょうけど、でもだからといって皆無というわけでもないかしら。はてさてね。ちょっと面倒な話題ではあるのでしょう。」
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趣味というのは不思議なものだなって思う→
趣味を語るうえでの厄介さ
2008/06/27/Fri
「正義とかもち出しちゃう人が疎ましいのはなんでかなといえば、必死だからだよね。それで、どうして彼が必死なのかなといえば、正義をもち出さずにはいられなかったからだよね。そして、世界が正義であれって主張はつまるところ他者との関係性の問題であって、そんなこといい出しちゃうというのは彼が他者と上手くいってないからであり、世間に居場所が見出せてないからだよね。よって世界が正義であれって主張は、たぶんに世界が問題でなくて、自己が問題となってる。孤独な自分をもてあましてるとこに、正義のイデオロギーがするっと入っちゃってるみたいな。それがふつうの他人から見ると滑稽に思えちゃうのは、ある意味しかたないかなとは思うかな。本人にしてみれば笑いごとではないけれど、ね。」
「ま、そうかしらね。イデオロギーというのはイデオロギーであり、それはメタ的な話題であって、メタというのは日常にはなんら縁ないものよ。しかし世界が正義であれというのは、そのメタを具体化する作業であって、本人にしてみれば「正義」であるのでしょうけど、他者からすればね、疑問になるのでしょうね。」
「思想には興味あるけど、思想の実践に無関心なんていい切っちゃった澁澤龍彦なんかは、その意味で健全すぎたんだよね。こずるいとも、いえるかな。ただ正義というのは他者への評定であって、評定しちゃう自分自身に正義に毒された人はたいてい気づけない。正義は語るものじゃないよ、とは思う。だれかが公の場面で正義を語るとき、それはたいがい利害の構図があるもの。というか、争いのもとなんて九割がた利害関係であって、正義はそういった構図においてどうにもならないものだから。‥正義やイデオロギーでなくて、もっと個人的な情緒を大切にする地平で話をはじめてもいいのでないかとは、私は思う。多様な人がいるということを認めるためにも、正義という評定はべたにポジショントークの危険を暗示するものだし、それは危ないのじゃないかなって。‥と、以上が私が「ガンダムOO」をぜんぜん見てなかった理由。興味がまるで湧いてこなかった、というわけなのだ。」
「戦争根絶とかいうのがキャッチコピーだった、あれ? はてさてよ。ま、SEEDにしろOOにしろ、富野監督が戦争とはちがう方向に岐路をとっても、ガンダム自体は戦争からは解放されないのでしょうね。それが方向性としては正しいのはわかるのだけれど、と保留をつけてしまう点で、もうガンダムファンとはいえないのでしょう。ま、どうでもいいことでしょうね。はてさてよ。」
2008/06/26/Thu
「ナウシカは人類のため自然のため、なんだよね。物語の拠るとこがすごくイデオロギー的なもので、その大上段に構えたとこが、私はやだな、苦手だな、あんまり興味ないかな、みたいに思う。その延長で「ガンダム」のニュータイプ概念とかも心からどうでもよかったし、正直ガンダム後半の人類の革新だのいっちゃう展開はあんまり楽しくなかったなって思う。ラストのアムロがホワイトベースに帰るとこはよかったけど。帰る家があるんだって涙するアムロはよかったな。あそこですごく身近な問題に物語が帰着して、私はみててほっとした気分だった。人類革新しなくてよかったーみたいな。」
「ニュータイプというのもよくわからない概念といえばそうかしらね。ファーストガンダムの小説などはそこらをよく記述していたように思ったけど、印象に残っているかと思えば微妙かしら。」
「こういうこというと怒られちゃうかもだけど。なんか人類は変わらなきゃとか魂を地上に縛られてるオールドタイプとか、私にはあのいい合いの感覚がよくわかんない。シャアやシロッコが論争しながら戦ってるとことかって、なんだか難解ぶってるインテリ学生がカフェで実存論争してるみたいなので私はちょっと引き気味。そういういことでΖガンダムのだいぶは私はよくと理解できなかったな。ディテールを追う気も起きないし、その先のダブルゼータも私にはどこか乖離したメタ会話ばかりで心休まるものでなかった。「逆襲のシャア」もその系統といえばそだけど、あれはいい表したいことが実にシンプルで見ごたえはあったかな。ずばり、シャアが富野監督その人で、シャアがドン・キホーテだったってことが「ガンダム」の答えなんだよね。あれは上手かったなって感心する。逆シャアはおもしろい。」
「シャアがドン・キホーテ。ま、いい得て妙かしらね。彼は真剣であればあるほど道化の仮面を着せられるほかない人物なのでしょう。」
「私てきに映画として文句なくおもしろかったのは「F91」かな。あれは上手だったよね、って思う。というのも人類だ世界だーとか、そういった次元に作品の根拠を求めなくなったことが、富野監督の作風を一風した一因だと私は思う。それは次の「Vガンダム」もそうで、あれはあくまでウッソの個人的な生活‥家庭の問題に寄りそったドラマ展開をしてた。ただ、ウッソの家庭を破壊しつくさなきゃ気が済まなかったとこに、富野監督のドン・キホーテぶりの極地がある。ここは、ちょっと語るに詰るかな。」
「人類や世界を引き合いに出すことのほか、作品の根拠を求められなかった時勢というのもあったのかしらね。「ナウシカ」も「ヤマト」も人類だ世界だといってしまったがために、ある種のイデオロギーと無縁ではいられなかった。それがドラマにとって幸か不幸かというのは、ま、はてさてというのよね。」
「さいきんだと「コードギアス」とか「ガンダムSEED」とか、へんに規模の大きな題材を根拠として作品をスタートさせたがために、要らない苦労を背負いこむことになっちゃった作品かなとは思わないでないかな。‥戦争とか人類とか、そういったことを語るなとはいわないけれど、その手の問題意識、イデオロギーというのはどうしてもある種の権力意識と無縁でなくて、そしてアニメ作品というのはそういった権力意識を上手にこなしてこなかったかなって気が、私にはする。「ガンダム」も「ヤマト」も、そして「ナウシカ」も、最終的には人間ドラマの、少年少女の感情の機微によってしか作品を終結させることができなかった点に、イデオロギーをあつかうときの問題の厄介さの根深さが、あらわれてる気がするかな。‥そういった意味で、さいしょから個人の心情に世界の命運を託す形式をとった「エヴァ」は賢かったのだと思うし、反面ずるかったのだとも思う。ただキャラクターの青春劇の衣を借りてイデオロギーを語ることに、私は虚偽のにおいをおぼえるかな。それは少し躊躇っちゃう部分が、私にはあるみたい。」
「アニメというのは不思議なものかしらね。そういった意味で、人類全体の業を燃やし尽くそうとした「イデオン」を作ってしまったのも、富野監督が真正直すぎたからでしょうし、戦場に文化をさえ持ちこんだ「マクロス」には、エヴァ以上の賢さがあったともいえるのでしょう。それがよいかどうかは微妙でしょうけれどね。」
「そういったこと考えてくと、宮崎監督や富野監督の作品の系譜というのは興味ふかいものあるかなとは思うよね。「紅の豚」でポルコ・ロッソと宮崎駿が限りなく重なったとき、宮崎駿の関心はほかならない自分自身‥そして自分を中心とするコミュニティの創造に向った。そのひとつの到達が「千と千尋の神隠し」。そして富野監督が「ブレンパワード」において家族を直にテーマとしてあつかって、「∀ガンダム」で地位を捨てておだやかな死をのみ願う女王の姿を描いたとき、富野監督の眼は人間の生きるコミュニティの原初の力のあり方の一端をつかんだ。そして「キングゲイナー」ではついにコミュニティがコミュニティとして、人が人として人らしく生きるために戦う、人本来の営為を写し取ろうとしたエクソダスが描かれることとなって、そこにはもうニュータイプの呪いはなかった。イデの呪縛は断ち切れるものだって、熱い想いがこめられてた。地を這う人間の、オールドタイプの宿命が、そこではカタストロフを免れてた。私は、それに心しびれるものがあった。こういうのが、私は大好き。素敵だな。」
「小さいものが好きなのよね。小さな人間の、たしかな強さが。「スケッチブック」だの「ひとひら」だのを好むのも、ま、わかるというものでしょうね。「コードギアス」なんかが苦手というのもまあわかる話よ。東方を気に入るというのもわかりやすいでしょうね。わかりやすい人間よ。ま、そんなものかしら。」
2008/06/25/Wed
「宮崎駿では「もののけ姫」が最高傑作だよねっていう人がいて、その気持はそんなにわからないものでないかな。宮崎駿の作品はそんなにディテールを追ってる私じゃないけれど、あの作品がただならない心境で作られたものだっていうことはなんとなく察せられる。そいえば以前とあるお寺の坊さんといっしょにもののけ姫を見る機会があったのだけど、彼があまりに真剣に視聴してたので私のほうが戸惑っちゃったことがあったくらい。‥それで、あの作品は神殺しというモチーフが大々的に使われてて、まずどうしてもそっちのほうに興味が行っちゃうのだけど、私が気になるのはアシタカという人間のほう。彼は呪いによって蝕まれてるわけだけど、彼って、なんていうのかな、すごくよくわかんない人だなって私は思った。たしか十六歳くらいの設定だったと思うけど、彼は宮崎駿の多数の作品の例にもれず、とても完成された人間として描かれてて、その勇猛な活躍はとても視聴者の感情移入をゆるすものでない。神や一国の君主たちとも一歩も引くことなく渡りあって、最終的には神の命をさえ手中におさめて運命を決する精神性を示したアシタカは、まちがいなくひとつの英雄‥自然さえ凌駕する怪物としての人間性をあらわしてるのだろなって思う。‥自然さえ凌駕する怪物的な人間性、というのが「もののけ姫」という作品の一貫したテーマだったけど、何よりそれを体現したというのがアシタカという主人公だったのかな。彼の非人間的な活躍は、そのままみずからそれと知らなくて神殺しを行なってしまういきすぎた人間の力のあり方を暗示してる。それは科学技術という形をとって、作中に示されてる。」
「ま、そうね。「もののけ姫」では自然の象徴たる神を人は殺せてしまうのよね。「ナウシカ」ではこれはまったく逆であり、人は人の技術の究極たる巨神兵を用いてさえ、自然の驚異であるオウムを退けることは叶わなかったけれど、「もののけ姫」では銃という人の知恵で、偉大な神々を抹殺している。ここに宮崎駿の自然観と人間観の変移を読みとるのは容易でしょう。」
「二つの作品で変わってないのといえば、それはナウシカとアシタカの超人間的な人間力、といったとこくらいかな。完全にこの二作品では人と自然のパワーバランスは崩壊してて、そこに宮崎駿のメッセージを見ることは明瞭すぎるくらい明瞭ではあるよね。‥ただ、そう、宮崎駿の自然に対する考えは明らかに変わったのだけど、それに処する方法‥自然さえ壊しちゃう人の力の抑え方と、人の業の癒し方の解決の、希望の方途への暗示は、二作品とも変わってない。それはどちらの作品のクライマックスを見れば、明らかだよね。そう、みんなまとめて家族として生きてこ、というの。」
「ナウシカは風の谷に生きるのであり、アシタカはタタラ場で暮すことを選択した。人の共生のうえでの希望の可能性、というのかしらね。そういった意味で、宮崎駿は人の力、家族の可能性というものをまだ捨てきれずにいるのでしょう。」
「でもそれも迷いのうえで、なんだよね。ここが「ナウシカ」と「もののけ姫」の徹底的な差異なんだけど、「ナウシカ」には爽快感があって、「もののけ姫」にはそれがない。「ナウシカ」は人の力を、伝説の少女としてのナウシカという形を借りて表現できたわけなのだけど、アシタカはけしてそこまでわかりやすい存在でなくて、徹頭徹尾迷いぬいた、よくわからない存在だった。‥「もののけ姫」が評価されたのもそこらに関係あるのかなって思う。つまり「もののけ姫」には迷いしか表現されてなくて、そこには行き詰った人のどうにもならない苦しみがあらわれてる。その苦しみを昇華することのできないまま、宮崎駿は映像を作った。その思いというのが怨念のようにこびりついて、あの作品には呪詛がまとわりついてる。神々の嘆きは自然の嘆きであり、そしてそれは自然に自分を投影した人間のエゴにほかならなかった。‥私はだから、もののけ姫が好きでない。その呪詛がとてもやり切れないから。私はそれに、あまり共感しないから。」
「宮崎駿の魅力のひとつである、娯楽的な爽快感が「もののけ姫」には欠けているというのは、また、たしかにいえることかしら。ある種宮崎駿の長所をスポイルした作品が、最高傑作に数えられるというのはおもしろいことではあるのでしょうね。葛藤が全面に出てきた映画作品。はてさて、なかには辟易する人がいるのも当然かしらね。その呪詛はたしかに、心地いいものではありえないのでしょうから。」
2008/06/25/Wed
「絵がかわいかったので読んでみた。というか私がラノベ読むのって、絵がかわいかったとかイラストが気に入っちゃったとかそんなのばかり。それでいいのかーとか思うけど、でもほかにえらぶ基準もないのでてきとうなもの。ぼんやり読んで、ぼんやり感想。それで、これまたひどく凡庸な出来だったかな。一口にいって、こんなフラットな文章だらだら連ねてもひとつの作品として出せるものなのだなみたいな。けっこう、悪口のつもり。」
「ひどくあっさりしているのよね。読みはじめてなんの山もないままに終ってしまったという感じかしら。のど越しさわやかというか、あとに何も残らないといった印象かしら。」
「すごく淡白。物語はキャラのひとりの一人称でたんたんと語られてくスタイルのものなのだけど、その語りが、なんていうのかな、何もないのだよね。まるで気のない作文を仕上げてくみたいな、その語りを通して読者に伝えたいって思いの熱なりがまるで皆無というか。正直、それでこの作品は何がしたかったの?って読み終ったあと思っちゃうような。‥うん、そう、虚無的なんだよね。作品を何かでも作ろうとするのなら、そこには作者の思いなり信念なり美学なり、なんなりやむのなさ‥私はこれをせずにられないっていうある種の宿命‥が、あって然るべきだと思うけれど、この作品は徹頭徹尾、実のない文章の連続であって、それは作文でこそあれひとつの作品としては結実してない。作品として、成り立ってない。‥こんな凡庸なら、小説なんて書かなくていいのでないかななんて、私は思った。書くべきでないなら、書かなくてもいいのじゃない? この作品が何がしたかったか、私はぜんぜん見えてこない。わかんない、な。」
「文章を通じての作者が見えてこない、とでもいえば適切かしらね。しかし見方を変えていえば、こうまで淡白な作品ができるというのもひとつのおどろきではあるかしら。ま、その凡庸さというのは少し考えさせられるものがあるのかしれないけれど、ラノベというのはけっこう不思議な世界よね。こういった作品が何気なしに出てきたりする。本当、玉石混交の世界だことね。」
麻宮楓「リリスにおまかせ!」→
それでも理解されたいと思うことはある→
作者と読者のある信頼とでもいうかな
2008/06/25/Wed
テレビゲームで子供の頭は壊れている!『◆「生まれてきてよかったし、自分のことを好きだと思う?」に「いいえ」と答えた割合は約5倍。
◆「人は敵か味方かのどちらかだと思う」と答えた子は2.5倍。
◆「傷つけられるとこだわり、仕返ししたくなる」と答えた子は約2倍。
◆「小さな動物をいじめたり、傷つけたことがある」と答えた子は3倍強。』
「久しぶりに一読して怒りが湧いてふざけるなーとか勢いこんでエントリ書こかなって思ったけど、あんまり怒って手がふるえるようなエントリするのもどかなとか、ちょっと思いとどまる。それからだるい話題にはちがいないものかなと思って、上記抜粋の箇所がひどく物憂げになってきた。‥あのね、自分のこと好きじゃないとか、他人は敵か味方かのどっちかとか、いじめられたら憎しみが湧くとか、昆虫や蛙で遊んだりしたことあるとか、それって、べつにふつうのことじゃない? というか、上記三つに関してはそれはもうべたな現実認識というものだし、子どもは大人が思う以上に冷静に現実を見てるもの。その現実認識が狂って、私ポジティブ100%、みんな友だち仲よしハッピーとか思う人いるなら、それこそどこか異常なのだよ。べたな現実認識が狂って幸せになったって、そんなの意味ないでない。ちょっとみんな、子どもに夢見すぎ。」
「現実失調に陥った子どもというけれど、生まれてきたよかったと思えない子どもが現実をしっかり認識できていないとはいえないでしょうね。ま、ゲーム脳なんてもう時代遅れもいいところなのでしょうけど。」
「子どものときのこと、人は忘れちゃうものなのかな。‥子どものとき、ほんとに自分のこと好きだった? 他人に対して、いやな思いしたことぜんぜんなかったの? そんなことないじゃん。人はその年齢の如何に係らず、攻撃性というのが厳然とあって、ゲームなりなんなりというのは子どものもつサディズムや暴力衝動を巧みにマーケティングした結果の商品というだけ。あるていどの配慮は必要だけど、ゲームはただの表現にすぎなくて、子どもは内にもつ攻撃性を実に隠然と発揮しうるもの。そして私たちがすべきことはそれをなくすことでなくて、私たち自身がどうやってその攻撃性を乗り越えてきたか、その過程をこそ考えて、身のふり方を、子どもとの付きあいを思うこと。‥少し私語りになっちゃうけど、私は子どものときのほうが生きづらかったな。ひりつくような孤独が、子どものときには離れなかった。それは病気がちだったこともあり、また人付きあいが今より下手で、つんつんしてたこともあったけど。‥大きくなるにつれて、私はずっと楽になってきた。子ども時代がユートピアだなんて、そんな観念私は笑っちゃう。生きるということは、大人子どもに係らず、とても真剣なことなのだから。」
「生きることは真剣さが求められる‥。ウィトゲンシュタインがそんなこといってたかしらね。ま、何はともあれゲームばかりを悪にすることは、問題を考える領野をみずから狭めることとなり、結果としてその他の、もっと幅広く複雑化した日本社会の問題状況から目をそらすことにしかならないのでしょう。問題はゲームだけではないのよ。子どもはゲームだけで生きているわけではないのよ。もっと大きな社会の複雑な体系のなかで生きているのよ。それがわかれば、ゲームばかり責めても無益だということは、わかりそうなものかしらね。」
2008/06/24/Tue
「千尋の物語は、いろいろ思わせられる部分ある。これは放映当時突っこむべきことだったかもかなとか、ちょっと思わないでなかったり。‥時は流れず、時間は存在しない。この作品は、大森哲学をやってるんだな。千尋の閉じられた時間の円環は、まさしく語り存在たる人間のあり方の悲運的側面を‥悲運、そう、悲劇でなくて‥あらわしてるんだな。そう考えると、いろいろな点が私のなかで落ちついてく。十三時間しか記憶を維持できない千尋は、まさに字義どおりの意味で語り存在そのものの刻印を押されてるのであり、その記憶の欠陥は正常な人間からすればまさに障害としか映らないだろけど、しかしその存在の仕方こそが、どの人間も免れてない、人そのものの正しい姿なんだ。そして千尋と蓮治の関係性こそ、人が他者と付きあうことの明示的な現実を、たしかに表現しきってるんだ。‥なるほど、この作品は興味ふかくはあるね。ちょっと辟易しちゃう演出の妙味は慣れればなんとか気にならなくはなるかな。ちょっと見てて疲れちゃうけど、でもそれは物語の妙味を失わせしめるものではそんなにない、かな‥」
「過去も未来もこの世界には存在しない。あるのはただ現実のみであり、そういった事実を考えるならば、なるほどやはり千尋という人間は人の記憶の象徴としての機能を、その身に示しているのでしょうね。大森荘蔵を思い出すのも、無理からぬことかしら。」
『しかしこのような刹那滅的な世界を信じる人はいない。過去が全くの非在であり全くの空無であると考える人はいない。それは自分の人生が、そして人間の歴史が全くの空無だと考えることだからである。した約束も犯した罪業も、預金も借金も今は存在しない、と考えることだからである。人が遺恨や感謝の念を抱くのは今や空無と化したものに対してではないであろう。そして、歴史学は空無の学として無学であり、日記は無記であるなどと考える人はいないだろう。』
大森荘蔵「過去は消えず、過ぎゆくのみ」
「過去は私が語ることによってしか存在しえない。むかし私がどこそこで何かしてたよね‥と語るから、その過去はあるのであって、過去の事態自体は、もうこの世界のどこにも存在してない。それはそだよね。この世界にはただ今があるばかりであり、過去は一秒後にはもう奈落の底に消えてる。‥と考えると、私が私であること、私が私を記憶して私を存在してることの自明性の基盤となるものは、記憶としての感情‥私が感情をもって世界にコミットすること、そこに私の希いを懸けること‥に拠ることのほかありえない。その意味で、記憶とは感情的な想起であり、記憶とはつまり「私」を定義することにほかならない。だからそこに千尋の物語の悲運の意味があらわれるわけだけど‥少し考えれば、これはだれもが抱えてる悲運であることは、わかるよね。千尋と私たちのちがいは、質のものでなくて、ただ量のものでしかないのだから。」
「千尋は十三時間、そして私たちはどれほどかしら? 数年、数十年。ま、そこまでも行かないでしょうね。人は忘れるたび、あらたに何かと直面する。記憶は新陳代謝をつづける。そしてそれは、私の更新の歴史にほかならない、か。はてさてね。」
『だがしかし人はまた、死者がなお今存在する、その生前の姿で存在する、とは信じない。死者は亡き者なのである。だが、だとすればその死者生前の所業もまた亡きものではないか。だとすればわれわれ今生きる者の過去の所業もまた亡きものではないか。だとすれば歴史はすべて亡きものということになる。われわれは一まわりして刹那滅的世界にまい戻る。そしてしかしまたそれを信じないのである。』
大森荘蔵「過去は消えず、過ぎゆくのみ」
→
大森荘蔵「流れとよどみ―哲学断章―」→
時間というのは流れるものであるのだろうか
2008/06/24/Tue
「義之さんがあっさり消えちゃったのには少なからずおどろいちゃった。彼って、ちょっといったいなんなのだろね。自分が消える‥ということの恐怖を微塵もみせずに、消滅することが所与のことであるかのように、未練のこさず他者を気づかう余裕さえ見せて、彼はあっさりいなくなっちゃった。気づいたら、いつのまにか彼は消滅という運命の只中にいたというのに、彼がした人間らしいことといえば思い出のアルバムを繰ってむかしを懐かしむことくらいで、あとは由夢さんのいうなり、こうまで我執が少ない人というのは珍しいのでないかな。ふつうだったら、消えたくないとかいって半狂乱の態になっちゃうものじゃないのかな。そうならなくて、あくまで冷静に、さいごのときを迎えた義之さんの空虚さに、私はちょっとぞっとする。‥私が彼の立場だったら狂っちゃうかもかな。そしてたぶんそんな運命を用意したさくらを恨む。さらに由夢さんあたりにも周り見えなくなって八つ当たりする。‥そんなこともない? さて、どかな。」
「なんというか自分の生を生きてないかの如くに、自己というものがない人なのかしらね、義之という人は。何か悟っているというわけでもないのにでしょうに。悲しみで乱れる由夢や音姫のほうがよほど見ていて安心できるかしら。」
「そこなんだよね。二人の姉妹のとり乱し方はよくわかる。好きな人がそんな理不尽な目に遭っちゃったなら、それに対して憤るのには実に人間的な感情の発露だと思う。‥でも、そこで、ほかならない自分のことだというのに、ああまで泰然としてられる義之さんは何かなといえば、‥いいづらいけど、彼もまた桜の木の呪いのひとつの結実にしかほからなかったのだと思う。彼はさくらの願いで、由夢の希望でもあり、そして音姫さんの生きる核心でもあった。まるで鏡のなかに映る幻のように、義之という存在は、女性たちの願望の演じられる舞台だったのだろな。‥とか考えると、おそろしくブラックな話ではあるけれど、ね。それも運命ということかな。避けがたいものとしての意味として。運命の表象が義之であり、真に運命が牙を向いたのは二人の姉妹だった。さくらの罪は、そしてゆるがなくなる。」
「運命の傀儡だったことは、果して義之にとっては幸せだったのかしらね。彼のふるまいはある種残酷であり、そしてそれを用意したさくらという魔女の残した厄災は、いろいろな形でこの島に長く跡を引くことになるのでしょう。はてさて、というのね。」
2008/06/23/Mon
「今回は雛ちゃんがある男の子と出会う話。山で転んでそこに偶然通りかかった男の子‥織倉海くんに出会って、少しく気にかけてもらって、それで夜のフォークダンスで名前を知って‥というので、ある意味こてこての展開ではあるのかな。けがしたときにやさしくされちゃった‥というシチュエーションで、雛ちゃんがその親切を過度な意味に解しちゃう可能性はひどく高いかな。‥つり橋効果、なんてことまではいわないけど。」
「べたに古典的な展開だったことね。ま、こういった機縁でだれかれが気になるようになるというのは、ある意味自然なことでしょうし、そう心配することもないとは思うけれど。さてこれから物語がどう展開するのかといえば、多少不穏にはなってきたことかしらね。」
「女は男で人生変わるから、なんてこといっちゃう来栖先生だけど、それは男と女が逆でもありうることかもかな。それで、たぶんここで来栖先生がいってることは、恋愛は人を変えうるものという意味であって、非モテの思想奉じちゃってる人なんかはけっこう反発おぼえる箇所かなとは思う。あんまりつよくいう話題でもなくて、来栖先生は恋愛というのが多かれ少なかれ人に与える影響というのは軽いものでないということを知ってる人だと思うから、なおさら、私としてはいろいろ来栖先生の言葉には思わせられちゃう。‥恋愛の問題、というけれど、恋愛というのもけっきょくのとこそれを自分に引きつけて語らなければ意味ないもので、自分に引きつけて語るということはそれは恋愛を自分だけの問題として引き受けること、つまり孤独に考えることにつながることと思う。何がいいたいのかなというと、恋愛において縁があるないはそもそもあんまり意味あることでない。孤独に生きるということ、個性に生きるということは、己ただひとりに拠って生きるということであって、そこに行き方の範例というのは他に求むべくもなくて、モテ非モテというのはけっきょく他者との相対によっての自己評価にすぎないわけだから、ほんとに自己自身に忠実に生きようとするならばもてるもてないということは、恋愛上の問題にすらなりえない。運命の出会いということも、ごく小さな自分の生活の一出来事としてしか考えられなくなるかもかなって思う。‥あんまり直截にいう話題ではないのかも、だけど。」
「モテ非モテというのは、個性化とはあまり関係ないということかしらね。ま、何はともあれ人は自分の人生を送っていくほかないのでしょう。その過程で恋愛が劇的な人もいれば、つつましい人もいる。それだけの話で、だから大したオチもないのよね。はてさて、というのよ。」
2008/06/22/Sun
「永遠の現在のために。突き動かされる美への衝動‥宿命に駆られたひとりの天才たるストリックランドの生涯を描きながら、芸術と人間、美と人生、そして人の根幹に潜む性の問題‥その暗示を描いた、モームの屈指の力作。この作品がゴーギャンの伝記から想を得て書かれたという話は有名かな。善悪のまだ存在しない、原初の力といったものを体現した存在である天才ストリックランドの凄愴で、ゆるし難くて、けれどとてもない愛に満ちた人間性の表現‥芸術の本質に憑かれた画家のあり方を通じて、モームが語りかける世界の深奥の物語。‥この作品はいろいろな読み方ができる作品かなって気がする。単純に漫然と読むだけでも、その物語の示すイメージというのは凡百の作品にない力というのが感じられるし、当然芸術や天才といった問題にも卓抜な着想を与えうるものをもってると思う。‥そして私がこの作品をどう読んだかなといえば、一口にいうのはいろいろむずかしいのだけど、ひとつ強烈な読後感の印象を述べるなら、これは孤独にしか生きられない天才と、そしてその天才のために身をやつす女性の、生き方の選択の、強烈な回答なのだろな、というの。この作品の肝は、女性性かな。女性が男性をどう愛するか。そのひみつの深淵に、一抹の炬火をこれは投げてる。そこがとても興味ふかい。」
「人間としては最低に近い男であるストリックランドの、その才能に相応しいかのような女性遍歴というのも、この作品の重要な一側面ではあるのよね。彼という男がどのように女に接したか。そして女はどうこの天才に身を投げたか。この天才を縛ろうとしたか。そこらが鍵ではあるのでしょう。」
「ストリックランドの口から語られる女性観というのは、けっこうばかにしたものでないって思わせられる面があったかな。‥彼ははじめ都会にいて、そこでそれなりの幸福な家庭を築くことに成功してたのだけど、ある日突然と妻子をかんたんに捨てちゃって、それからパリに赴いて、そこで親友の妻を奪って自殺までさせる。そのあと晩年をタヒチで過し、そこで原住民の女性とこれまでなかったくらいの穏やかな生活を送り、彼は畢生の大作を、芸術の悲願をそこで遂げる。‥彼において重要な女性は、となると三人かな。そのだれもがそれぞれ異なったストリックランドとの交流を送るのだけど、彼女たちが示すのは、女性が男性と付きあうときのその不可解な心情の仕組み、男性に支配されたいしかしそう単純でない独占欲のあり方、そしてそういった女性の存在をある面疎ましく思いながらも、女なしで男は死ねるのか?といった、最後的な究極の疑問が、ここでは突きつけられてる。‥ラスト、ストリックランドが死ねたのは、女の愛があったからだろうし、その愛がなきゃ、彼の裡に潜む原初的な彼の力は、彼をして彼の芸術を成就させることは、けしてなかっただろなって思う。不可解な、人の、愛の姿。それがこの物語の、とてもおもしろい意味を呈示してくれることと思う。とてもおもしろい作品でした。よかったです。」
「男が死ぬためには何が必要か、か。たしかにそこがここでは異様に問われている課題なのでしょうね。愛とはただの言葉に過ぎない。しかしそれなしでは狂気たる天才は、彼足りえることはありえなかった。そこらの機微は、実に人間的な本質を衝いていることでしょう。奇怪であり、そして自然的な問題ね。その問いにぶつからずに済ませられない人間にとっては、この物語は重大な示唆を与えてくれることでしょう。そういった点でも、とても興味深い作品だったかしら。男と女の行き方の選択、か。」
サマセット・モーム「月と六ペンス」→
ヘルマン・ヘッセ「知と愛」
2008/06/22/Sun
幸せは金で買えるか「この手の話題は、ね。めんどくさく考える人多いけど。単純にいえば、金で買える幸せもあり、金で買えない幸せもある。それで、金で買える幸せは多い。そして、金で買えない幸せもかならずあることを、ふつうに生きてたらそのうち知る。それだけの、話。」
「もちろん金で買えないものというのはふつうにあるのよね。しかし、ま、それがあることをわかっていても、金というのは人を惑わし、苦労をかけ、人の恨みを買うものよ。有体にいえば、金に恨みのない人はほとんどいないでしょう。だから金で買えないものがあるとしても、ま、人は金こそすべてといいたいのよ。」
「お金がぜんぶじゃないよ。お金がぜんぶと思ってそれを実践すれば、その行いはありふれた悪にすぎなくて、その人は類型的な堕落の過程に墜することになるのだと思う。‥愛はお金で買えない。でも、私はお金で愛を買う人を否定しない。それも愛だよねって思う。愛を得られない人がお金で愛を得ることは、そんなわるいものでない気がする。お金は人の心のようなものだから。ただそれだけの事実だから。」
「また二律背反なことをいってしまってからに。はてさてよ。ま、お金に執着する人がある、そのことを云々しても意味ないのでしょうね。金は人の力なのだし。しかしただふつうの人は金ばかりを期待できるわけでもない。ふつうの人は他者に恋愛だの友愛だのを期待してしまうもの。それだから、ま、ふつうの人はふつうに生きるほかないのでしょうね。金に懸けることのできる人生というのも、ひとつの強さが求められる生き方でしょう。ひいては悪に繋がるとしても、かしらね。」
2008/06/21/Sat
「たまちゃん部長がリタイアしたあとでも、合宿はつづく。でももちろんあんなことあったあとで、元気に練習再開できるわけもなくて、さすがのさちえ副部長も空元気気味。空元気も元気、なんて言葉もあったかな。ここで海で遊ぼうってみんなにいえるさちえは、大方の選択としてはまちがってないと思う。でもただ、そう、ちょっと難事かなーという気がしないでないかな。もやもやでネガネガ。こういうその場にいたなら痛々しくて重苦しくて、麦ちゃんでなくても逃げ出したくなっちゃうよな場面を、逃げることなく描こうとする「ひとひら」は、私は好きだな。地道で、そして居たたまれない日々を根気よく描いてく。そういったことから逃げない作品は、稀有なものかなって、思うから。」
「去年の夏合宿も、研究会が解散になって空虚になった期間も、この作品はしっかりと描くのよね。そういった面はシビアなものだと思うし、そしてどんなことがあっても日々を過していかなくてはならない、人々の宿命みたいなものまでも感じさせてくれるかしら。きつい部分ね、ここは。」
「だれもが本音をいってないんだよね。いえることかな、と思えば、それはむずかしい部分があると思うけど。でもそのみんなが心中隠してる部分が、それぞれ鬱積してて、結果として癇癪となって破裂しちゃうのは、前回の甲斐くんがいい例。あんまり気持を溜めこんで鬱々としてるがそもそも性でないちとせまでが本音をひた隠しにしてる状態だから、結果として部内の雰囲気は最悪。そんな低迷した状態で練習してもなってことで、みんなを遊ばすことにしたさちえ副部長は英断かな。たぶん私でもそうする。開放的な海の下で、少しでもネガネガを吐き出せることができたなら、それは儲けものというのだものね。‥ただそのあとの、麦ちゃんの彼女の責を諭そうとするのは、少し早計だったかなって思う。もちろんこれはいわなきゃいけないことだし、麦ちゃんの態度にもやきもきさせられちゃうものあるのはたしかだけど。なかなか上手く、いかないね。」
「周りを見ろというのは、けっこう当を得た指摘ではあるかしらね。麦ちゃんも一旦自己嫌悪にはまると、とことん内省的になって周りが見えなくなるタイプでしょうし。そう自分を責めることもないのにでしょうにね。」
「もっと気楽に構えて、いいことはいいのだよね。‥ただそう、ただ麦ちゃんのそういった繊細さという部分が、彼女の人となりの核心であるのだろし、その一見すれば弱さと映る部分が、土壇場で彼女の力になることはあるし、そこが彼女という人のかけがえのない魅力ではあるのだと思う。研究会のさいごの公演で、麦ちゃんが踏みとどまってみせたように。彼女の繊細な感受性は、ときとしてある人の心をつかむもの。そういったものがあったから、きょーちゃんは麦ちゃんを信頼したのだろしね。彼のような人は、自分を傷つけると思えるような人は、決して近づかないだろうから‥。‥自分を追いこみすぎちゃうのは、麦ちゃんのいけないとこだけど。もっとぼけっとしててもいいのじゃないかな。麦ちゃんのすることなら、私なんでもゆるしちゃうから。」
「なんでも許すのはどうよ、おい。‥ま、しかしあれね。麦ちゃんというのもとことん波乱に恵まれる人であること。気楽な夏合宿というのには縁がない人なのかしらね。」
「あはは。麦ちゃんといれば修羅場には事欠かないのだ。‥そして今回のお話の目玉、ついに響さんが表舞台にやって来た! えへへ、私はねー、響さんのことをずっと気に入ってたからー、ここにきてついに響さんがクローズアップされてとても喜ばしいのだっ。響さん胸ないなんて気にすることないですよ。だいじょぶ。ぜんぶ私に任せて。いろいろしてあげるから。」
「まておい! ‥いきなり何言い出すのかしら。余計なお世話というものよ。」
「そんなことないよー。響さんかわいいもん。ミケ先輩との関係もそうなのかーって感じで、その態度はとてもとてもよろしかな。反応がよろしくて、彼女は素敵。麦ちゃんのこれからも、響さんは楽しみかな。どんな二人の関係になるか、とてもとても楽しみです。」
「無口で感情表現が苦手とうことだけで、ほかには彼女の人となりはあまりわかってないのよね。はてさて、合宿はどうなるのでしょうね。オリナル、そして甲斐ときょーちゃんと、まだ迫らねばならない部分を数多い。どこまでこの合宿中に解決がつくのかしら。ま、次回を楽しみにしましょうか。」
2008/06/20/Fri
「奇跡の代名詞のようにいわれる作品「Kanon」だけど、作中その行なわれた奇跡というのはある意味現実世界に起こりうるかなと思えるていどの奇跡であって、私はこの物語の本質はそこにはないのじゃないかなと思った。大きな奇跡としてはあゆの現前というのがあるのだけど、それは作中何度かふれられてるとおりに夢のような出来事であって、これは祐一が自身の心の傷をゆっくりと癒してく、その過程の物語として解釈すれば、あゆが彼の前に再びあらわれてくれたことは、彼にとっては必然に近い意味での啓示であったのだろなって私は思う。そして小さな奇跡で、あゆは目覚めたのであり、栞は助かったのであり、その奇跡を実現させたのはほかならない小さな人間の小さな営為にほかならなくて、その営為にこそ、この物語の価値はあった。たとえあゆが目覚めなくても、栞が助からなくても、彼らが為そうとしたことを彼らは為したであろうし、そしてその生き方の選択が、カノンって物語の中核であるだろなって、私はつよく思う。ファイトだよ、というのだね。」
「あゆの物語も名雪の一連の物語も、いってよければそれほど逸脱したものではないのよね。あくまで予想の範疇であり、古典的な展開といえた。少なくとも舞のようなおどろきはなかったかしらね。」
「そこなんだよね。物語自体はあんまり大したことなくて、あゆの物語において語られるのはあゆがあらわれたことが奇跡でなくて、あゆが祐一の前に降臨したことが奇跡であったということだった。‥あゆが霊魂のような存在としてあらわれ出たこと、それ自体が物語のなかで奇跡として示されるのでなくて、物語が示すのは祐一の前に降臨したあゆが意味するのは何か、という点での奇跡のみ。恩寵という形をとって、忘れられちゃった祐一の過去を、ゆっくりと呼びさます契機としてのあゆとの出会い、生活こそが、物語において、そして祐一においてあらわれた奇跡であった。‥わかるかな、つまりこの物語を祐一を起点としてみるならば、これは彼の分裂した自己を救う話なんだよね。つらい過去があり、そしてそれに負けちゃった今があり、その今を回復すること‥統合することこそ祐一に課せられた使命であった。そしてその使命を果たすために、彼はたくさんの人と接せねばならなく、多くの死と悪と、善の狭間で葛藤する人間性のあり方を直視する必要があり、奇跡は彼において最終的に彼の生きる理由の啓示‥恩寵としての伴侶、あゆを与えることによって、物語は恵みを垂れ給うた。‥奇跡は奇跡それ自体として価値があるのでない。奇跡は奇跡があらわす、奇跡の起す人間の営みの精神性の如何によってこそ、その価値が思われるのだ。‥私はそんな言葉を、カノンという物語のさいごにしずかに感じる。どろどろに生きた人間の、あがきの一端の恩寵として、この物語の奇跡はあったんだなって、私はそう認識する。」
「奇跡というのはあるものなのよね。これは厳然な事実として、人の人生には幾度か奇跡のような出来事が起こるものよ。ただ、それは好ましい奇跡ばかりではない。不治の病が治るとか、交通事故の後遺症がなかったとか、幼なじみの女の子が夢に出て自分を救ってくれたとか、そういう喜ばしい奇跡ばかりが起きるわけではない。そこが、なんとも奇妙なことなのでしょうね。」
「真琴が助からなかった。それも奇跡だったんだよね。そして、たとえば秋子さんが助からなかったり、栞さんと二度と会えなかったり、あゆが永遠に目覚めなかったり、そういった場合にも、それは奇跡として呼びうることができるのかもしれない。ただしかし、奇跡というのがあるならば、それは奇跡は人の生き方に決定的な意味をもたらすものにほかならないって、私は思う。その意味で、祐一はたくさんの奇跡に‥それこそ数え切れないくらいの奇跡に接せたのであって、彼が感じた奇跡は、彼だけのものでなくて、ほかの彼をとり巻くたくさんの素敵な人たちに、奇跡の意味あいの何かを示すことになったんだって、私は信じたい。‥そしてそれは祐一が、どこまでも愚直に人間関係にふれ合ったからだって、私は思う。健気な他人を想う心と行為がなきゃ、この結末はありえなかった。だから私は彼を素敵な人だなって、思いたいな。ああいう行為が為せた人はそういない。さいごまでの彼は美しかった。ほんとうに、美しかった。」
「生と死と、そして日々を健気に生きる人間の物語だったといえば適当かしらね。愚かしいほどに今日を生きぬこうとする、泥臭い彼らの姿こそが、この作品の本質であったのでしょうね。それは紛うことない、小さな小さな人間の営為の姿よ。そしてどこまでも偉大な、生き様の姿でもあったことかしらね。」
「よかった。‥私はAir、クラナド、リトバスってやってきたけど、このカノンがいちばん好きかなって思う。とても素敵な、そして素朴な人の生活の真摯な瞬間を描いた作品だったと思う。‥名雪を気に入っちゃったのも大きいかな。彼女はkeyの作品ではじめて私が迷いなく素敵だなって思えた人かも。とてもよくて、考えさせられた、そしてきれいな作品でした。ありがとうって、素直にこの作品には伝えたい。とてもとても、よかったです。ありがとう。」
「けっこうラストまで地に足のついた、実に丁寧な作品の作りだったといえるでしょうね。だから最後まで目を離さずに見ることができた。稀有な作品よ。素直な感謝を、この作品には捧げましょうか。とても貴い時間にひとつの感謝を、かしらね。」
『われわれにはいろいろ理解できないことがある、
生き続けて行け、きっとわかって来るだろう。』
ゲーテ
2008/06/20/Fri
「話が通じないな、と思う人があるとして、いくらいってもわかってくれないしきいてもくれない。考えられないのかなとか、考えたくないのかなとか、いろいろ思っちゃうのだけど、事実として彼ないし彼女は私のいうことを頑として、咀嚼する以前に拒絶しちゃってるから私としてはどしよかな、どしよもないことかなって、あきらめ気味のつかれ気味。なんで通じないんだろって倦怠みたいなのを感じはじめちゃって、そんなふるまいじゃあれれだよとか冷たく思いだすときに、私はもうそうとう彼ないし彼女を見限ってる。見限っていいことかどうかはわかんないけど‥たぶん、見限るべきなんだろな。私のことをさえ考えるなら。彼ないし彼女のことを、そこまで私が心わずらわすのもな。意味ないのでない?と、ぼんやりと私は考える。」
「内在的な狂気傾向があるのかしらね。話が通じないという場合はいろいろあるもので、それらを普遍化して語ることはナンセンスなのでしょうけど、そのひとつの例として、少し狂気傾向を示す類の人もいる。それはなぜなのかしらね。」
「たぶん、鍵は悪意なんだと思う。‥たとえばある集団に属してるとき、自分以外の人たちのしてることがばかっぽいなとか思うことあるよね。それ以外では下らないなとか、あほらしとか、それはまちがっちゃってるよーとか。なんでもよろし。とりあえず集団に属してて、その集団に違和をおぼえる。ただ違和をおぼえるだけならいいのだけど‥内面どんな心情をもってようがそれを外部に表出しないのなら、現実世界では問題にならない‥その違和が悪意に転化したとき、そしてその悪意を外界に直接的に構築しはじめたとき、もうそのふるまいは狂気でしかなくなるのでないかな。お前らばかだろーって心のなかでだけ思ってるならいいけど、そのばかだろーを実際に行為として示しだしたなら、それは狂人の仕種だよ。あなたの内的世界を、悪意を通して表出するなら、それもう狂気にしかならないよ。ただ、こういっても、通じないのだろね。」
「悪意があるのよね。話が通じないというのがあるとして、その通じなさというのは相手が考えられないということ以上に、外界に対して悪意がある。その一点が実に深刻なことになるのでしょうね。」
「悪意があるかないかが、そしてその悪意が彼をして行動せしめるかどうかが、肝心なのかもかな。実際問題、内面は狂人という人は多い。たぶん私もその手の狂的傾向はあるし。ただ現実社会においては自分の内面感情を現場においてぶつけるなんてことしないし、たいていの内的狂気の傾向もってる人もそこらの機微はよく知ってるもの。だって自分の狂気は現実に吐き出したなら、それはただのきちがいで、そしてきちがいは淘汰されるということを知ってるから。‥だから現実において狂人とされるのは、実際に内面の狂的傾向を秘めてるかどうかはあんまり関係なくて、その狂気を表出するかどうか、もしくは狂気を演じきってしまうかどうかに懸かってる。そしてその悪意を悪意として、悪意に頼って外界に向うということは、いってよければ、甘えてるだけにほかならない。‥だからその甘えをどう自己処理するかが、この問題では肝要な部分かなって思うかな。ただの悪意は共感を生むものでは、それはけしてないのだから。」
「甘えるな、というか、その悪意を自分だけが思ってることと思うな、ということかしらね。だれもがそれなりの怒りは抱えてるものよ。それを自分だけと錯覚するところから、強烈な悪意というものは生じるものよ。そして悪意とは、徹頭徹尾、くだらないものよ。そうなのではないのかしらね。わかってもらえる、ことなのかしら。」
2008/06/19/Thu
まぬけづらの浪漫倶楽部さん「D.C.Ⅱ~ダ・カーポⅡ~ についてのよもやま話」
『この辺、僕にも消化し切れていないことですのでモニョモニョ口ごもってしまうこと。そうすると、登場人物たちは鏡合わせに“自身が望む義之”を見ていただけで、彼自身というのは、もしかしたらどこにも存在しないのではないかな、とか思う。そうすると、D.C.Ⅱはとんでもなく皮肉めいた、愛情の否定が行われているということになってしまう。信頼の否定。わたしは、わたしだけで十分。“あなた”はいらない。わたしだけで完結している、という、ひどく閉じた、ペシミズムに囚われた悲し過ぎるお話となってしまう。』
「上記のエントリの意図がようやくわかってきた。なるほど、そしてまぬけづらさんの指摘は卓抜だね。ダ・カーポ2に対してアンビバレンツな感情抱いてるのもわかっちゃった。アニメ11話までを見て、私もそっかそうなのか、って感じ。私なら見切っちゃうかな。まぬけづらさんみたいにへんにツンデレ風味にこの作品に接するのでなくて、私はさくらの所業を知ったときに、あ、もうついてけないなって思った。それでそのあとの音姫さんの様子をみてこれはもう無理かなって気持を新たにした。音姫さんがこの作品の、そしてまぬけづらさん曰くペシミズムに囚われた、自身の願望にふり回されつづけちゃってる悲劇の人なのだね。やっと、わかってきた。」
「アニメと原作ゲームはちがうものでしょうけど、しかしおそらく根っこは同一のものでしょうね。簡単にいえば由夢と音姫の義之に対する接し方の対照が、実に明確にこの作品のテーマをあらわしている。それだから辛いのでしょうね。」
「音姫さんが空虚な人、というのはいい過ぎかなとは思うけど、ね。‥作中、すでに死にゆくほかない義之さんの姿がクライマックスとして描かれてるのだけど、ここで彼にもっともふかく接してる二人のヒロインの行為の示し方が、とても明確な対照をなしてる。それは、もう救う術はないってわかってるのにあくまでさいごまで義之を助けようって奮闘する音姫さんと、もうどうしようもないってことをわかってて、義之さんのさいごの生活を、せめてさみしくないものにしてあげようって考えてる由夢さんのふるまい。そう、これはずばりいって安楽死の問題。臨終をどう見舞うかって、人の死の、極地の問題。それが、わかるかな。」
「どちらがどうまちがっているという話ではないのよね。どちらのしてることも、それぞれに理解できるものがあるし、悲しいものがある。音姫は無駄と知りつつも終局まで足掻く人の姿そのものでしょうし、由夢の姿は他者を思いやる、そういった原初的な温かさがうかがえる。そう考えると、問題となるのは何かしらね。」
「‥義之さんの気持、かな。みんなから忘れ去られてくなかで、ふかい悲惨な孤独に突き落とされる過程にあったなかで、その彼の孤独を救おうとして側に寄り添ってくれたのが由夢さん。彼の孤独を考えずに、彼を救うあがきをつづけたのが音姫さん。実際孤独のなかにいる、彼自身の気持を考えずに、彼を救う術を模索しつづけたのが音姫さん‥、と。ここから先は、ちょっと音姫さんのひどい悪口になっちゃうね。彼女はとても純粋な人なのだけど、ただ少しだけ、我執が強すぎる。彼女は自分しか見えてない。自分のために、弟くんを求めてるのであって、それは義之さんに付きあおうと、その彼の辛さ寂しさ救われなさを、分ちあおうと欲した、由夢さんとの対照で、鮮明だよね。‥ただだからといって、一方的に音姫さんを責められるはずもなくて、責めていいはずもなくて、だからむずかしい。そして切ない。正しい答えなんて、ないのだから。」
「愛の問題、そして悪の問題、または孤独の問題、かしらね。相手の孤独を分ってやれる。そんな考えは傲慢でしょう。やさしさとは、果してどう示せばいいものなのかしらね。はてさて、よ。」
『それは運命だから絶望的だといわれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得るのである。』
三木清「人生論ノート」
2008/06/19/Thu
「蓮治の言葉をすぐに受け容れられない千尋の気持はわかる。小説書くのが夢なんだよね、ならいっしょに書こうとかっていわれても、いきなり私のこと知った気になっちゃって、みたいな。でもそれが図星つかれたことだったりしたものだから、微妙に私のことわかってくれてるのかーってうれしさと、微妙にでもそんな私単純なのかーってくやしさが入り混じっちゃって、とりあえずもうちょっとスマートに空気読んで接してくれてもいいじゃないか、みたいな。そんなこんなで懊悩と葛藤が透けて見えちゃう千尋のわかりやすさはかわいくてよかったです。この二人の成行は、けっこううまいこと行くのでないかな。さいごに至る浜辺のシーンも違和感なかったし。ここはよかったと思う。」
「ま、お互い相愛といったところでしょうからね。記憶の問題というのもそう重大に描いていっても見てる側としてはそれほどドラマは期待できそうにないでしょうし。このくらいのノリなら十分楽しめる範囲かしらね。この二人の物語はなかなかどうして楽しみよ。」
「紘と宮子と景の話。は、正直いってあんまりよくわかんない。むかしの紘さんというのはがちがちに美術の英才教育でも受けてたの? それでそんな孤独に制限されてた紘さんをあそびに誘ってある意味救ってくれたのが景さんということで、彼が漫画家してる理由もそこらに起因してる? そしてそのことは紘さんが一人暮らししてる核心にもつながってる? ‥わかりやすいといえばわかりやすい、ふつうの恋愛事情のお話ではあるのかな。宮子の紘への取り入り方は単純すぎて逆にほほ笑ましかったかなって思っちゃったけど。あんなのでかんたんにやられちゃうなんて、紘さん修業足りないよみたいな。それでそんな紘さん相手に奥手に手こずってた景さんもそうとうかな。ちょっと景は不器用にすぎる印象あるかも。」
「わからないというのはこれがどういった物語性を獲得していくかが掴めないということかしらね。蓮治と千尋はおぼろげながら書こうとしていることの主題がわかる。ただこちら側の物語は現時点では凡庸な恋愛ドラマのそれでしかなく、なら並行して二つ三つの物語を描く意図はどこにあるのか。それがまだ不明瞭なのよね。」
「群像劇のむずかしさ、かな。たぶんここからビデオの人もからんでくるのだろけど、そこからどう展開してくか、期待半分不安半分な感じ。とりあえずは期待してみる。どなるかな。」
「この奇抜な演出も四話目ともなれば多少は慣れてくるものね。ま、それで見やすくなったとはいい難いでしょうけど。はてさて、とりあえず次回もこの調子で期待してみましょうか。」
2008/06/18/Wed
「軽妙洒脱な吉行淳之介のミステリ仕立てな長編作品。刺青というキーワードをめぐってくり広げられるひとりの男と多数の女たちの、欲と快に彩られた瀟洒な関係性と人間性への探求のパノラマ。恋というほどしっとりとしてなくて、愛というほどこだわりもない。だけど重なる逢瀬のなかで、いきずりの一夜の熱の交流で、徐々に浮びあがってくるあるひとりの女性との差し引きならない真情の交流。とても読みやすくて、そして吉行らしい軽くそれでいながら単純でない人間性の一面を描いた作品でした。なかなかよかった。けっこう予期しない展開であったかな。」
「次々とあらわれる女性、そして矢継ぎ早に提示される謎解きのおもしろさと、エンターテイメントの基本を押さえた力作といえるでしょうね。そして人間の性のあり方の描かれ方も、さすが吉行らしいというべきものだったかしら。なかなかこういうふうに人の性を描ける作家はいないのよね。」
「吉行は、洒脱なんだよね。じっとりしてない。こだわらない。陰湿な人間関係のどろどろさがなくて、そこにはどこか幻想的ともいえるよな透徹した性意識が垣間見える。たとえば本作はレスビアンがひとつのテーマとなってるのだけど、そのアプローチもへんに粘着的になってなくて、ひどくさっぱりした描かれ方をしてるのだよね。これは吉行の書き方のスタイルの特徴ともいうべき点が大きく係ってるかなって思う。つまり吉行という作家は人間を直接的にはけして描かない。彼はこうこうこういう人間で、だからこんなことしてあんなことする、とかいうのでなくて、あくまで吉行の物語の人物というのは、その人たち同士の相互の係りあいのなかで、人と人との付きあいの過程からその人物の人となりがあらわれ出るような描かれ方をしている。つまり固定的なキャラ造詣がされてなくて、吉行は人間と人間が不断に関係してく日々の間断なき瞬間の蓄積からこそ、その人間像というのは表出するのだって思想をもって小説を書いてたのでないかなって、私は思うかな。人間には決った形なんてのなくて、人というのはその関係性の映し出すさまざまな側面から、それぞれの表情を浮びあがらせる万華鏡のような存在なのだって、吉行の作品を読んでると私は感じる。それが吉行という文学者がたくさんの作品を通じて試みてきた営為なのだなって、私は思う。」
「それ単体としては不定形な人間を、吉行という作家は関係の瞬間と積み重ねを通じることによって、人間の本質というものに触れえようとした文学者なんて、いえるのかしらね。そういった意味で、この作品は吉行という作家の特徴をわかりやすく示すこととなる作品のひとつだといえるでしょう。読みやすく、それでいながらそこに描き出される人間は一筋縄では行かない。なかなか稀有な作品ではないかしら。」
吉行淳之介「美少女」
2008/06/18/Wed
猫を償うに猫をもってせよさん「マスコミよ」
『『週刊朝日』の見出しはひどいなあ。「若者に気をつけろ」だって。実は私にも取材申し込みがあったのだが、通り魔無差別殺傷事件のようなものは五年、十年に一度くらい、社会的に不遇な者によって起こされているもので、当人の「彼女ができない」といった言に過剰に意味づけするのは間違いである、マスコミはこういう事件に意味づけしすぎる、と電話で言ったが、どうやら採用されなかったようだ。この手の事件に若者も中年もないのである。調子に乗るのもいい加減にしてほしいものだ。』
「さすが猫猫先生。この手の意味づけ‥物語性の付与が、事実を直截に報道すべき媒体にある種の脚色をしちゃうというのはあるのだよね。なんでそんなのが求められるのかなといえば、異常というのは異常であって、それはふつうの人は理解できないし、理解する必要もないものなのだけど、でもわかんないの一言で終らせることができなくて、人たちはそこに意味とドラマと原因を必要とする。そして異常なものが、異常だけどそんなに理解断絶というほどにもいかないくらいなものに演出されて、こんな原因でこんなことになっちゃったから、こういったものは無くそうね、みたいな耳にやさしいテンプレートどおりの文句に落ちつく。‥そう、報道するさいに求められるのは落ちつかせるってことなんだよね。ただその落ちつきというのは字義どおりの意味でなくて、ドラマを付与された不幸な出来事としてある種のエンタメ的な事柄として、視聴者の慰みになるというていどの意味。つまり理解と演出とが、そこでは為されてるわけだよね。」
「理解しやすいように、そしていってよければ不幸な出来事として楽しめるように、調整する必要があるというわけかしらね。本当に異質なものというのは理解しようという気も起きないものよ。本当に異常がそこにあるのだったら、その異常を社会は排除しようという行動に移る。‥物語性というのが曲者なのよね。どの事件も物語性を付与されて、ドラマと化してしまう。そしてドラマならばそこには起承転結の因果性があり、国民皆プロファイラーと化してしまう。原因があるはずだ、ということかしらね。」
「意味なんて、ほんとはぜんぜんないのかもしれないのにね。でも無意味に人を殺しちゃう人があるということは、とても恐怖であるから、だからこの手の物語性の付与は一向に無くならないわけであるのだろな。‥虚無を虚無として受け容れることは、ふつうはできない。だから人たちは物語として語られうる事件をこそ、原因があってドラマがあってそのうえで為される事件をこそ要求するのであるけれど、でもそこにはほんとは人たちが望むような原因なんて何もないのかもしれない。ただ人間の、人間性の淵源から来る虚無があるのかもしれない。そしてその虚無を見つめない限りは、悲劇は悲劇として考えられることなくて、ただの一ドラマとして消費されるだけかもしれない。‥そこにはつまり学習がない。事件を直視することは怖いことであるけれど、でもそこを少しは考えることは、必要なのでないのかな。私はそう思う。」
「意味なんてないのかもしれない。そしてドラマとは作られたものである、か。現実はドラマではないものね。しかしその事実は、現実にはぞっとするほどの理解不能な虚無があるということには、真っ当な感性には、許しがたいことであるのでしょう。事件を演出するなといっても、はてさて無理でしょうねということかしらね。まったく、はてさてよ。」
→
秋葉原無差別殺傷事件に対する私的覚書→
意味なんてないよ ワルプルギスの夜の夢を思い起こすのだ!
2008/06/17/Tue
「主人公が忘れさられてく、かー‥。この手の忘却現象はこういったゲームやアニメ作品だとよく見かけるもので、どうしてこうも記憶からその人の姿が失われてく過程を、こんなにもゲームやアニメは描いてるのかなとか、人の思いから剥離させられてく個人の悲劇を描くことになんで執着してるのかなとか、いろいろ思うことはあるのだけど、でもこの記憶喪失ものはひとつの様式としてすでに定着した観はあるのだよね。keyの諸作品とかもろもろ、忘れ去られるといったキーワードで象徴されるこの悲劇は、その成立にしてからひとつの興味ある課題を提出してくれるものであるけれど、ほかならない主人公たる義之が忘れ去られるというのは今まであんまり見たことない型かなって思った。たいていはヒロインが周りの人たちから忘れ去られてくんだよね。風子とか美鈴とかみたいに。」
「それを考えると主人公自身が悲劇の中心になるというのは、なかなか斬新なのかしれないかしらね。ま、今回は見事な演出だったのでないかしら。周囲から徐々にその存在を認知されなくなっていく義之の姿は、真に迫るものがあったことよ。とくに親友にさえ忘れられてしまうのは、持ち上げて落す、作劇の基本どおりで感歎したかしら。あれは辛いでしょうね。」
「義之さん、もともと影のうすいほうだったからなおさらかな。私なんていてもいなくてもどうでもよかった‥とか考えだすと軽く鬱。そんななかでただただ健気に寄り添う由夢さんの姿も映えるよね。あっさり忘れちゃったななかとか小恋とかはなんなのかーだけど。でも人の思いとは、そんなものかな。」
「最終的には家族の絆を描くことになるのかしらね、この作品は。ま、当初からそれが題目であったいうことか。はてさてね。」
「後悔しないようにって音姫さんに諭す由夢さんだけど、それはけっこう正しいかもかなって思った。後悔というのは即時的にするものでなくて、ゆっくりとするものだよね。それが後悔をよりきついものにしてるものであるけれど、でもせめても後悔しないようにって念じて行動するのなら、後の後悔もまた、幾分か救われたものになるのかな。それは、信じたいところ。終局は、どうなるかな。」
「このまま義之は終りなのかしら? そうなると、さくらの悪もまた強調されることになるでしょうけど、ま、お手並み拝見といったところね。どうなることか、次回を期待しましょうか。」
2008/06/17/Tue
東方キャラソート「やってみた。けっこう納得いく順位が出たのが意外かな。意外でもなんでもないかもだけど。」
「そういうものだからでしょうね。ま、こういった本人の無意識を反映してくれるようなものは、やってみるとなかなか愉快なものよ。なるほどと頷く側面と、思い寄らない側面が露わにわかっておもしろいかしら。」
1 西行寺幽々子
2 魂魄妖夢
3 霧雨魔理沙
4 博麗霊夢
5 マエリベリー・ハーン
6 宇佐見蓮子
7 綿月依姫
8 比那名居天子
9 綿月豊姫
10 風見幽香
11 東風谷早苗
12 永江衣玖
13 鍵山雛
14 フランドール・スカーレット
15 十六夜咲夜
16 河城にとり
17 レミリア・スカーレット
18 八雲紫
19 稗田阿求
20 上海人形
21 蓬莱人形
22 パチュリー・ノーレッジ
23 八雲藍
24 アリス・マーガトロイド
25 射命丸文
26 伊吹萃香
27 秋静葉
28 秋穣子
29 洩矢諏訪子
30 四季映姫・ヤマザナドゥ
31 八意永琳
32 鈴仙・優曇華院・イナバ
33 上白沢慧音
34 小野塚小町
35 因幡てゐ
36 蓬莱山輝夜
37 きもけーね
38 八坂神奈子
39 メディスン・メランコリー
40 犬走椛
41 橙
42 藤原妹紅
43 リリカ・プリズムリバー
44 ルナサ・プリズムリバー
45 レイラ・プリズムリバー
46 メルラン・プリズムリバー
47 ミスティア・ローレライ
48 小悪魔
49 ルーミア
50 チルノ
51 大妖精
52 リリーホワイト
53 森近霖之助
54 レイセン
55 ルナチャイルド
56 サニーミルク
57 スターサファイア
58 紅美鈴
59 毛玉
60 魅魔
(以下省略‥
2008/06/17/Tue
桃月学園Blogさん「【中学生に『空の境界』】」
「あの作品はねー、中学生くらいの子のほうが楽しめるのじゃない?とは思うかな。というか、あの作品はけっきょくのとこ雰囲気に酔わせるという部分が大なのであって‥これは「空の境界」だけでなくてほかの奈須さんの作品もたいていそうだと思うけど‥理屈でああだこうだ設定の隅を突いていっちゃえば、けっこうぼろは多い作品かなって思う。たとえば霊がどうのこうのっていう場面があったと思うけど‥今手元に作品がないからぜんぶうろおぼえな状態の私の記憶によって書いてるけど‥あの心霊理論はなんだかめちゃくちゃかなって思うし、統一言語もはったりとしてはおもしろいけどでも説得力があるのかーといえば疑問だし、カトリック系の学校のなかで自殺を扱っちゃうのは、もうちょっといろいろな配慮があってよろしかったのでないかなとも思うし。何よりあの作品の致命的なとこといえば、主人公の式は殺人衝動云々かんぬんっていってるけど、でもそれこそが彼女の核心ではなかったってことなんだよね。彼女はけっきょく人を殺さずにはられないのだーとかいってるけど、ほんとはそんなことぜんぜんなくて、この作品において設定群が雰囲気を出すためにあったがように、彼女の殺人衝動も物語の雰囲気、味を出すためにこそあったということが、あの作品の肝なんじゃないかなって私は思う。とすると、「空の境界」についていえば諸設定を理解できるかどうかはあんまり肝要でなくて、大事なのは雰囲気に浸れるかどうか。それで、ああいった奈須さんのなんとなく排他的、邪悪的、堕落的な言葉の数々は、ある種の人を魅惑する力があることは疑いないんだよね。「空の境界」を伝奇作品だーというのは、私としてははてな、だけど。新伝奇とかってだれがいい出したことなのかな。」
「ま、精緻に巧みに設定を用意して、異世界を築くというような作品ではないのでしょうね。一連の雰囲気というか感じを出すというか、そういったことのほうがあの作品にとっては本質なのでしょう。もちろんそれが悪いというわけでは決してないのだし。」
「そだね。「空の境界」はつまるとこ思春期の少年少女の関係性を、過剰なくらいたっぷり叙情的に描くことに専心したものだっていえるかもだし。式と黒桐さんの関係は甘々の典型的な共依存のスタイルをとってたから、その点はほんとに字義どおり耽美的な二人だなって、思わないでなかった。‥そいえば、黒桐はコクトーの謂なのだっけ。コクトー、かー‥」
「そこらも本作が衒学的だといわれる所以でしょうね。ま、実際の内容をみればコクトーも霊理論もタナトスなりなんなりの話も、魔術理論でさえも作品を飾る意匠でしかないのよね。核心は恋愛劇にほかならないというのが、この作品の潔いところでもあるのでしょう。」
「魔術理論とかでエリファス・レヴィとかアンドレ・ブルトンとかもち出されても困るものね。雰囲気に酔って、その魅惑に浸りきることができるなら、この作品の要諦をつかめたっていっていいのでないかな。‥私はちょっと苦手だったけど。戦闘描写については、あえて口を出さないのでした。」
「ま、こういうので戦闘場面にいろいろ突っこんでもね。ナイフだの刀だのの殺陣には思うことはあるのでしょうけど、そこらは黙ってるのが吉かしら。武道の話してもね、はてさてというのがオチよ。」
2008/06/17/Tue
マンガや雑誌に埋もれ、仙台市の男性死亡 地震による可能性『調べでは、男性は本を四方に約2メートルの高さに積んだ部屋の真ん中で、本に押しつぶされる形で倒れていた。胸や腹が圧迫されており、同署では本の重さで息ができなくなった可能性があるとみている。』
『中島敦の短篇小説に、万巻の書を読破した古代アッシリアの大学者が、たまたま宅の書庫の中にいるとき、ニネヴェ地方を襲った大地震に際会し、落下するおびただしい書物(数百枚の重い粘土板)に押しつぶされて死ぬという物語があったのを思い出すが、しかし実際のところ、本に押しつぶされて死んだというひとの話を、まだ私は寡聞にして知らないのだ。私は大学者ではないし、学者でさえないから、たぶん本で圧死するという空想は杞憂にすぎず、万が一にも、そんな死にざまをさらすことはあるまいと考えたい。』
澁澤龍彦「書物」
「事実は小説より奇なり。澁澤、私ももしやと思ってたけど、でもそういった不幸というのはあるものなのだね。おどろいちゃった。なんともな、な不幸が、あるものだね。ほんとにこれは不運だったとしかいいようないかな。防げたなら防げたかもだけど、でもこれはなんとも奇妙な事故ではあるかな。」
「地震の余波で圧死するという事故はよく聞くけれど、しかし本に押しつぶされるというのはね。なんとも、そのニュースの聞こえようからして、凄惨としかいいようないかしら。」
「中島敦の小説も、本で圧死するということに説得力もたせるために、舞台は古代アッシリアで書物はみんな粘土板に書かれてるという設定を用いたものだと思うけど、でも二十一世紀になって漫画雑誌に埋れてというのは、ほんと、言葉が見当らない。痛み入る、かな。」
「高く物を積み上げるというのは危険だという実に単純なことなのでしょうけど、何かしらね、こういった事故を聞くとなんとも信じられない思いがするものかしら。本で圧死ね。本当、後味わるいことよ。」
2008/06/16/Mon
「千尋あたりのストーリー展開は、おもしろいといえばおもしろい。ただその描かれ方自体はひどく単純かなって気がする。なんだか千尋や蓮治に感情移入させて、そこから物語の高低に翻弄させてやるぜーみたいな思惑が透けてみえる感じで、私としてはあんまり、距離を感じて視聴してる。ただそういっちゃうと千尋関係以外の物語‥宮子とか景とかビデオとってる人とかのお話が、なんのおもしろみも現時点でないから、ここまで見て私としてはけっこうきびしいとこある作品かなって思う。映像が意欲的なのはよろしだけど、それだけかなって感じ。あんまり酷評するほどの作品じゃ、もちろんないのだけど、ね。」
「完成度は高いのだけれど、どうにも肌にあわないといったところかしらね。果敢な映像演出を試みているけれど、それがどうも物語と乖離しているというか。上滑りしているというか。どうも、はてさてね。」
「でも千尋の境遇には考えさせられるものあるのは事実かな。私はあんまり、さいきん脳障害の方面の知識には疎いから上手いこといえないけど、でもこういった障害というのは、ご家族がたいへんだろなってまず思う。というか、こういったふつうに生きられるはずだった家族がひとりの障害の発生のため、ある悲劇に翻弄されることとなる、一連の悲惨は、世間であまり語られないことながら、世間にありふれた、ふつうの出来事としての側面がつよくある。ある意味アルジャーノンという作品も、そこらの世間の機微をこと細かに描いた稀有な作品なんていえるかな。‥そういったことを踏まえると、千尋っていうおもしろいキャラクター性がありながら、その家族を火村さんって装置をつかってばっさり切り捨てちゃってるのはちょっともったいないかなって気がする。‥それか、これは後々語られる部分かな。なら大いに楽しみにしたい。このへんの問題は、ひどく微妙な感情の軋轢でもあるのだから、ね。」
「ひとえに障害といっても、それが引き起こす諸々というものは、ま、なかなか表立って語られえないものなのかしらね。その理由は、端的にいえば語るに耐えないからなのでしょうけど、しかしそこにある種文学的な問題はあるもの、か。はてさてね。果してこの作品がそのテーマを扱いきれるか、まあお手並み拝見といきましょうか。」
→
意味をもつこと 意味になること→
とある町道場
2008/06/15/Sun
「このブログはシュルレアリスムからアニ横までって謳い文句があるけれど、でも実際のとこアニ横やシュルレアリスムの話ってあんまりないのがその実態。シュルレアリスムぽいエントリはそれでもいくつかあるかなだけど、アニ横については今までぜんぜん語ってこなかったかなって気がする。‥それでいいのかー! こんなでー!!」
「うわ、びっくりした。といってもね、アニ横ってそう本腰入れて語れる作品のものでもないでしょ。あんたの得意な本題と関係なく延々と与太話するというのも、アニ横ではどれだけ可能か疑問だし。」
「プラトンパンチをくらへー!」
「ぐぅっ!?」
「お姉ちゃんがそんなでどうするかー! がんばってアニ横の話をしなきゃっ! リヒテンシュタインの名折れでないかっ。」
「げほげほ‥っ。‥まったく、何よ。そういってもね、アニ横九巻目じゃない。これで十年目くらいだったかしら? ふつうに目出度いのじゃないの。私たちはそれをただ喜べばいいのであって、無理にエントリにする必要はないのじゃないかしら?」
「う‥。それはそうかもだけど‥」
「感動を素直にエントリにこめればいいのであって、衒う必要はないのでしょう。でなければそれはただの空回りというものよ。」
「お姉ちゃん‥! 私、大事なこと忘れてた。そだよね。感動を素直にあらわせばそれでよろしなのだっ!」
「はいはい。そうね。そうでしょね。」
「それじゃ前置きはここまでということで! ‥アニ横も九巻目かーということで、けっこう感慨ふかい。一定のアニ横節をクオリティを保ってつづけられてるのは、この作品のすごいとこかな。一話一話も基本短いから、コミクスで読むと、なんだか時間が圧縮されてて去年一年をふり返るような気分になるのは、コミクス派の宿命かな。‥今巻の見どころとしては、あみっぺがついに友だち少ないってこと認めちゃったり、イヨが鬱期になっちゃったり、ケンタが日焼けしたり、イッサが日ごろの鬱憤からついにキレたり、くーちゃんが心底からヤマナミさんがきらいだっていったり、ヤマナミさんがそのことでふかく傷ついたり、イヨのお年玉がゴリラだったりすることかな。なんと今回はあみっぺのランドセルしょった姿までおがめちゃう! こういうの眼福っていうのかな!とかいうと引かれちゃったりするかもだから心のなかで思うだけで決して言葉に出したりしない!」
「いや、言葉にしてるけど‥。ま、あれね。相も変わらずのアニ横のノリということで、安心して読める作品のひとつでしょうね。実際こうまで不安ない気持で読める作品も珍しいのでないかしら。ま、アニ横好きなら9巻も、まちがいなく押さえておきましょうということね。なんだかんだでファンなのよね、好きなのよこの作品が。」
前川涼「アニマル横町」9巻
2008/06/14/Sat
「すごく疲れる。なんだこれ。凝りに凝った演出、画面表現、レイアウト‥というのはわかるけど、でもそれに何か意味あるの?と思うと、私はすごく疑問に思う。ここでこの場面でこういったレイアウトで演出することに、何か外せない必然性というのが介在してるの? なんだかこの作品はよくわからないな。単純な意味性を打破するような野心に満ちたためにこんなことしてるのかなと思うし、言い方わるくなるけどただ気を衒ってるだけなのかな、という気もしないくらい奇矯な作品のつくり方にも思える。‥これはどなんだろ。ちょっと私にはわかんないな。」
「物語と画面演出がひどく乖離しているような印象があるのよね。物語自体はとくに正常な、いってよければ古典的で平凡な描かれ方をしているわけだけれど、それを画面にあらわす方法が、どうにも常軌を逸している。そのギャップが違和感を感じさせるのかしらね。」
「この演出は諸刃の剣かな、とは思うかな。たぶんこれにふかい意味を見出せて、感興できる人はすごく楽しめるのかもだけど、受け容れがたい人にはひどく気疲れする映像だと思う。私の場合は、ちょっと後者のほうに気持がよっちゃってるけど。‥何かな、映像論的にはいろいろいえるだろけど、私がつよく思うのは、レイアウトというのは演出家の意図に沿って厳密に制御されなきゃいけないもので、感覚や気分というものの力はけして少なくないものあると思うけど、でもあるていどの理屈でもって抑えなきゃいけない割合はあるのじゃないかな。‥なんのために、どんな意図をもって、そのシークエンスが物語全体においてはどんな意味をもちうるのか、そういった個々のアプローチの声をこの作品の演出レイアウトは、無視してるよな気がする。‥もちろんこれは、ただ私が感じた一意見。だからほかの人がどんな評価してるのか、この作品がどんな世評を獲得してるのか、ちょっと私は気になってきたかもかな。ふだん私はあんまりほかの人の評価気にならないたちだけど、この作品については関心出てきた。どんな評価が出てるのだろ。少なくとも私は、二話まで見て、手放しに評価できる作品とは思えないな。ほかの人は、どんなかな。」
「見づらいといえば、見づらいのでしょうね。そしてその見づらさはなんのためにあるのか、そこがどうにも掴みがたいのよね。はてさて、これはどうなのかしら。このノリでさいごまで行くのかしら。だとしたら、見つづけるのはちょっときついものあるかしらね。どうでしょう。」
『レイアウトによって統御された構図とは、それ自体で完結した表現では決してありませんし(少なくとも演出家にとっては)、たんに見栄えのする構図を引くことは最低限の獲得目標に過ぎません。何のために、どのような意図を込めて、どんなアングルで、レンズで、カメラワークで構図を決定するか。そのシークエンスに物語からするといかなる意味があり、その意味を実現するためにどのような構図を並べるか―そこにこそレイアウトの意味があり、だからこそレイアウトという作業は演出家にとって大きな武器となるのです。
レイアウトは決して任意になされるわけではなく、ある意図に従って―そう言って良ければ、ある種の必然に導かれて決定された時にこそ、その本来の威力を発揮するものなのです。』
押井守「イノセンス創作ノート」