2008/07/31/Thu
まぬけづらさん
『変なことを言うのかもしれないけれど、僕は、ここで必要になるのがハードボイルドだと思いますね。』
「反論、というほどのものでもないけど。なんていうのかな、人が何かを失っちゃって、そこで硬派に徹するというのも選択肢のひとつではあるのだけど、ハードボイルドに生きられないなって認めたのが、認めてしまったのが、「イノセンス」だったんですよ。「イノセンス」でバトーは犬を飼ってるけど、あれは素子を失ったバトーが‥最愛の、自分のぜんぶを懸けてもいいって思えるくらいの恋焦がれる人を失くしてしまった少年の心性をもつ中年男が、自分ひとりだけでは生きられないなって気づいたから、仕事の邪魔になるのはわかってたけど、めんどなバセットハウンドといっしょに暮すんだよ。バトーには、犬が必要だった。孤独に徹することはできなかった。そこにイノセンスって作品の、ある白眉な一点があって、それは人は弱い存在だって明確に認めてること。私は大好きな人を失くしちゃって、悲しいよ。その悲しさを埋めるために、私は犬といっしょにいることが必要なんだよ。そう明確に、タフさの見本みたいなバトーがいい切っちゃってること。孤独に負けた男が、犬に慰められながら、その日その日を自堕落に生きてるということ。この点に、イノセンスのたしかな現実認識がある。中年なんてこんなものなんだって、押井監督の、ある確信がある。」
「素子は身体を喪ってゴーストだけを連れて、ある別世界へと旅立った。バトーにも、理屈からいえば、その跡を追うことはできるのよね。しかしバトーはそれができなかった。彼はあくまで現世に執着しながら、しかし満たされない空白の身体を引きずって、犬と暗闇の世界にいる。そう犬が、彼の本当の身体の役割を果しているともいえるのよね。孤独な人間は、どこかべつなところに己の拠点を見出さざるをえない、か。」
「素子にもなれない。犬にもなれない。そんな絶望に似た諦観を抱いたバトーが素子って精霊の遺す道筋をたどりながら、彼女の記憶を追体験していき、彼女の面影を随所に認めながら、最終的に、地獄の煮え立つ釜の底で、彼は愛する女性と再会する。‥イノセンスという作品は、そういった意味で、とてもシンプルな構成をしてるし、無駄があんまりなさすぎで、そこはちょっとおもしろみに欠けるかなって気もしないでないかな。ただ、いわんとしてるメッセージのひとつにはまちがいなく家族の暗喩があって、それは素子のように空白を抱えながらひとりきりで生きる人もいて、トグサのように娘を抱いて生きる人もいて、バトーのように犬を抱かなきゃ生きられない人もいて、そしてキムのように人形に見つめられながらでなければ己の存在を保てないで失っちゃう人もいる。‥ハードボイルドは、弱い中年のバトーには無理だったんじゃないかな。そこには弱い自分をもてあましながら、ふてくされてる人間がいるだけ。つよくなく弱くあって、ただ傍らに犬がいる。でもその犬さえいつか失っちゃう。そんな予感に満ちた人に、つよくあれというのは、無理じゃないのかな。そしてバトーは、ひとりきりでられない私たちの心のあり方の明瞭な影像である。幸福でも不幸でもない、ただ孤独であるだけの人の象徴である。それが、あの映画の結論だった。」
「娘を抱いた親は娘を見、人形を抱いた娘は人形を見、犬を抱いた男は人形に見つめられた、か。あの三すくみのイノセンスのラストシーンは、台詞で語る以上に雄弁だったかしらね。あんな簡単な象徴的な描写もまたないかしら。はてさて、私たちは何を抱いて何を見つめて、何に見つめられているのかしらね。それは各個人が思い返せば、事足りることではあるのでしょうけど。」
『幸せかどうか自問自答するのは人間だけ。犬や猫は絶対そんなことは考えない。どんな動物だって、今の自分の体と、今の自分の置かれた状況に十分満足している。それは彼らが身体=自分だから。でも、人間はそうはいかない。可能性としての身体とか、可能性としての人生とか、余計なものを抱え込んでしまう。それが人間の存在ではないかということ。それこそ、本当は「林のなかの象のように佇んでいればいい。何も望まず、たったひとりで」というお釈迦さまの言葉のようにひとりでいいんだと。』
押井守「ロマンアルバム イノセンス」
「ロマンアルバム イノセンス」
2008/07/31/Thu
「ブログをはじめて変わったことって何ですか?」「変わったことはいろいろある。まず思うのは、本の読み方が少し変化したことかな。前までは読んだきりにしてた読書だけど、今ではたいていは書評書くようにしてて、それで、私の思いというか、思考の軌跡が文章にあらわれ出るようになって、そのことでいくぶん戸惑った。こんなことこの本読んで思ってたのか私ー、みたいな感じ。そのことは少し私の意識を変えたし、また読んだきりにできない本との係り方というのも考えさせられた。そして、世の中には書評できないような種類の本もあるのだなって気づいた。ブログからはみえない、みえにくいでなくてみえることのできない、ある種類の本というのがあるのだけど、そこは私も上手く言葉にできないものかなって思う。本というのはふしぎだなって、なんだかしみじみ思っちゃって、ちょっとおかしい。」
「がんばればほとんどの書籍は感想書けるのよね。ただそれでも感想をひねり出せない本というのがあるもので、それは学問的に論文などにあらわれるものとも微妙にいえない。そこにすると、文学の奇怪さというのもあるのかしら。不思議なものね。」
「アニメや漫画の見方は、実はほとんどブログやる前と変わってない。アニメみてこっそり私が抱いてた考えを、こっそりブログに載せるようになったというだけかな。ただ私のような考えをあるアニメ作品みてほかの人が似たように思ってるとは私はぜんぜん考えてなかったし、ネットを通じて私と似たようなこと感じる人もいるんだなって、多少なりと知ることができたのは、私に世界ってへんなものなのかなって気持を新たにすることに役立ててくれた。もちろんそうでなくて、私だけかなこんなこと思ってるの、なんて気持抱くこともけっこうある。ただその気持は、ネットやる前からあったもので、今さら新鮮というのでもないかな。アニメはたぶん私はとても気楽にみてるほうだと思う。少なくとも、私にとってアニメは気軽に親しめる作品形式かな。ぼんやりなんとなくみるの。だから私のアニメ感想も、たいていぼんやりしてる。」
「ぼんやり、というのは少しいじわるな言い方かしらね。それは煙に巻くというのでないかしら?」
「そかな。うん、たぶんそんなのもあるかもだね。‥ブログという装置のお陰で、私はまいにち文章を書いてるけど、でもブログはじめる前は小説という形で、私はまいにち同じく文章を書いていた。ただその小説って楽しみが、いつしか私の束縛として機能してて、私はその呪縛に、半ば苦しめられた状態を数年かけてつづけてた。今では、その呪縛は、ほとんどない。それを消してくれたのがブログだった。やさしく、文章の、言葉の、文学の意味を問い直す契機を与えてくれたのがブログだった。その意味で、私ほどブログに感謝してる人間もいないし、ブログからもらえる楽しみをよく考えさせられた人も稀でないのかな。書きつづけるという意味がそこにはあって、私は今でも、この問題を、私という問題を問いつづけてる。ブログはその、大切な一助となっている。」
「決着はまだまだ先、でしょうね。少しは前に進んだのかしら? それとも進歩という言葉自体が意味ないのかしら? はてさて、というものね。終りなどくだらない、か。はてさてよ。」
2008/07/30/Wed
押井守監督「アニメーションを見るだけが生きがいって、それで本当にいいのか」『そんな中、「これから世の中に出て行こうとしている人たち」に向けて作品を作った。その最たる理由は、自身の人生が転機を迎えている、と感じたことだという。 「人生一巡りしたというか、結婚もしたし、こどもも作ったし、離婚もしたし、娘も嫁に言ったし、世の中で一番愛した犬も死んじゃったし、いろいろ考えると、ああ1周しちゃったんだなって」
「これから僕が責任を持つとしたら、奥さんにだけなので、これからは好きに生きようと思った。そして、そうなったときに初めて、これから1周始めようと思っている人間に対して、何かささやいてもいいのかな、と思ったんですよ。『多分、何もないぜ。何もないけど、走ってれば気がつくことがある。おれはこれから2周目だけど、がんばって走れば』、って」』
「いろいろ思うことはあるし、ここまでいってしまえる押井監督に胸打たれるものがあるかな。監督がアニメーションばかりが生きがいでそれでいいのかって訴える箇所は、ちょっと思い詰るものがあって困っちゃうものある。押井監督は、単純にオタク避難とかそういうのでなくて、問題にしてるのは、生きがいを人はときに失うことがある、むしろたいていの人は生きてくうえでの情熱や駆動力となるものを、ただ不運によって‥そこになんの理由もない不運によって、その意味で真に悲劇的といいうる事柄によって‥失くしちゃうことがある、その厳然としたゆえの事実のほうのことかなって思う。人は死んじゃうくらいの喪失感を受けて、よくわかんないほどの悲しい気分になっても、死ねないでぼんやりと生きてるもの。生きられるもの。そのただ生きてるそこにこそあるのが思念でなくて、つまり理屈でなくて頭でなくて、身体それ自体、なんだよ。わかるかな。自分にとってぜんぶともいえた犬を失くしちゃった押井監督がいってるんだよ。愛犬を失っちゃった‥その死因は寡聞にして私は知らない。ただ老衰でも病気でも事故でも、それらのどれも死の説明にはなりえない‥監督が、その事実を知ってる監督が、「多分、何もないぜ」っていってるんだよ。私は感動しちゃった。だめだな、私はずいぶん押井守には傾倒してる。その彼の言葉の意味に、私の感情を付加しちゃうな。付加して、語っちゃうな。ほんとはそんなのはいけないのだろな。やになっちゃう、こういうの。」
「押井監督の犬好きは有名だったことだし、そこのさらっとした発言は逆に意味深とも思えるかしらね。この理性を偏重していた監督が、身体といい愛といい、そして何もないといってしまってるのだから、その変化はおどろくべきものがあり、また言葉にならない気持が感じられるかしら。上手くいえないものね。」
「少し参るね‥。私も、アニメーションの最高は「イノセンス」だと思ってる。ひどい愛着があって、あんなにくり返しみた作品はほかにないかな。ただそのぶん、私にあの作品を客観的に語れるわけもなくて、あの作品以上のものは、私は押井監督に求めてない。ただ押井監督がこれからも創作をつづけてくれること。そこに私はとてもうれしいものを感じる。とても素敵だなって、思えちゃう。私はこの人のファンだな。何もないぜっていえちゃうとこに、魅力を感じる。おもしろい人って、心から思う。」
「おもしろい人というのはたしかでしょうね。この人の創作スタンスだの価値観だの、身体だの唐突にいい出したことだの、いろいろ思うことはあるでしょうけれど、このインタビューは非常によい内容だったとはまちがいなくいえるでしょうね。相変わらずユニークな言説よ。そこがまたいいのかしら。」
2008/07/30/Wed
「吉行淳之介の五十代における雑文、随筆、小文の類を集めたエッセイ集。一読した感想は、これまで漠然と吉行に感じてた私の予感が、そのままぴたりと当てはまった‥というものかな。つまり私が吉行に対し、彼の小説を通じて抱いてた共感が、この日常雑事雑感をつづった随筆から受ける吉行の作家というより人間性から生まれる思念の数々が、上手くそんなに的外れなものでなかったかなって証してくれた気がした。たとえば吉行が人生を二倍に生きるためには睡眠中みる夢は欠かせないなんていうところは、とても私の考えと合致するとこがあっておもしろかったな。夢を楽しめないと、人生は半分損してる。それは私もすごく思うこと。」
「ここら辺は非常に興味深い部分でもあるのよね。夢を楽しむということはべつに現実から逃避しているというわけでもなく、なんというか現実の可能性を広げる空想の力、精神の尊重なのよね。ま、現実軽視の側面から免れているとは、この手の思想を吹聴する人たちに対して一概にはいえないでしょうけど。」
『戦争中、私はさかんに夢をみたし、またよい夢をみるように念じて眠りについた。なぜなら、夢をみることは人生を二倍に生きることで、当時まもなく死ぬとおもっていたから、夢にすがるような真剣な気持であった。』
吉行淳之介「夢を見る技術」
「戦争時代に青春の一幕を過した吉行の体験談もおもしろいし、空襲警報が鳴ってるっていうのに暗幕に隠れて麻雀やってたら防警団の人たちにひどく怒られたなんて述懐するのも笑えちゃう。たぶんここには戦後平和主義によって毒されてない戦争観の一如が見えるのでないかな。もっとも吉行自身は入営して四日で放免になっちゃって、実際に戦場に行ったという人ではなかったけど。ここらは坂口安吾が酒を求めて空襲で鳴動してる東京を、右往左往するエピソードを思い返してみるとより興趣があるのでないかなって思う(→
坂口安吾「風と光と二十の私と」)。当時の日本って国の混乱期にあって、文学者ってろくでない人たちがどんなことしてたのか知るのは有益な側面もあるのじゃないかな。教科書にはぜったいに載せられないものだろけど、ね。」
「酒に麻雀に、そして吉行を語るうえで外せない女性道楽といい、吉行という人間は数え上げれば途方もない諸事を経験してきた人間ではあることでしょうね。さらに吉行は生涯その病身に苦しんだことを思えば、なかなか並大抵の人物でないことよ。」
「発作中にはたとえどんな副作用がある薬でも、一時しのぎのために飲まずにられない病人の心理を、健康頑健な医者は理解しないって吉行がつづるとこは、私にはなんとなくその言葉の意図するとこがわかる気するかな。私は今はほとんど健康にすごせてるけど、むかしは、ひどく苦痛に悩まされる時期があって、そのころの心理は子ども心ながら、鮮明におぼえてる箇所がある。あの心理は、何かな。痛みに耐えてじっと横になって思いを凝らしてる、あの陰鬱な孤独の時間。たぶん吉行の作品には、その暗さの微妙な機微を知る人でなきゃ、気づけない一端というのがある気がする。それはほとんどの大衆には関係ない。ある意味流行と無縁の文学の鋭い先端の問題がある。そこに吉行の思想の、ほかに代えられない貴重さがある。私が吉行を好きなのも、たぶんそんなことが無関係でないかな。理由のひとつでは、あるのかな。」
「病人の心理、ね。これは闘病記の類に見出されるある種の感傷主義とは趣を異にする、非常に鮮明な理性的な言論ではあるのよね。ただそれは敷衍化できるものではないでしょうし、共感を求めやすいものでもないのでしょう。その意味では孤独だし、病気の孤独というのは簡単に語りえないものでしょうね。しかし、そこに文学のある大切な問題意識がある、か。」
吉行淳之介「石膏色と赤」
2008/07/29/Tue
「純真ミラクルもついにコミクス化。例によって各話感想は個別に書いてるからブログ内検索でもしてねだけど、一話は未読だったので、そこの感想はちょっとだけ。‥恋愛運なくていろいろ一杯一杯に生きてる所長さんだったけど、ある日あらわれた新人のモクソンをいじめることで、生きてくことの潤いを思いだす、というもので、あらすじだけぬき出すとなんだか少し変態的な感じで素敵。もちろん所長さんがその手の人なのかーっていわれれば、うーんと唸って、そなのかもかな、とかいっちゃうにやぶさかでないけど。‥所長さんのメンタルというのは、いってよければ知的な女性にありがちな不器用さの典型であるけれど、その解消の仕方、もしくは彼女の日々の忙しさのために生まれるマンネリの変革の希望が、モクソンという彼女にとって強烈な印象を与ええた人間の登場によってもたらされたという点は、なかなかこの作品の独自なとこかなって思う。とにかく人間心理がおもしろいんだよね、この作品。出てくる人たちはいそうでいない、でも深く人間的な所作を示す人たちで、そこには作者の人間観察のたしかな洞察を思わせてくれる機微がある。そして展開される彼らの関係性の網の目は、もって回った独特の複雑さがあって、そこには純粋な物語的な予測のつかなさのおもしろさがある。とてもおもしろい作品だなって思う。こういう作品はみたことなかったな。とてもユニークな個性がある。」
「メインとなるのは狭く閉じた関係性での人間模様ということなのでしょうけど、その心理の繊細さが見事なのよね。どう彼らが反応するか、係ってくるか。よく予想できない。純真であり、そして決して複雑な性格や穿った見方をする登場人物たちではないのでしょうけれど、ある種底知れない部分がある。そこはたまらない魅力を本作品に添えているのでしょう。」
「単純だけど、底知れない。そなんだよね。なんで彼らはこんなに深く、人間的であるのだろう。私はモクソンや、所長さんや工藤さんやオクソンに、あるとても親しい好意というのを抱いてる。それは彼女たちが素敵な人たちだということを、一目みて直観できたから。この作品には、そんなふうに直観させてくれる力がある。たまらないおもしろさがある。うん、この作品は素敵だな。」
「単純な人間劇、入り乱れる恋愛劇と見ても十分に評価できるものはあるでしょうね。しかしこの作品にはテーマだけを見るなら泥沼になりそうな題材なのに、ある爽やかな風というものが吹いている。この感覚は何かしら。ただいえるのは、こういった雰囲気を感じさせてくれる作品はそうないでしょうということよ。それだけでも、本書を薦める理由には十分でしょうね。非常に独特で、個性的なおもしろさのある作品よ。これからの展開も楽しみね。」
秋★枝「純真ミラクル100%」1巻
2008/07/29/Tue
【映画化】 魔法少女リリカルなのは 【決定】「へー、とおどろいた。いい作品になるといいな、と思う。リリカルなのはという作品については私はだいぶ距離を感じちゃってたから、今ではほとんどなんの感情の起伏もないかな、みたいな。とりたてていうことなくて、無事に劇場化が成功すればよいだろなって思う。ただ一期はなかなか劇場のスケールで描くにはいろいろ苦労するかもかなって気がしないでない感じ。いってよければ、一期のテーマは三期のそれよりむずかしい部分があって、それはべたにいえば主人公のなのはが人間的に決定されてない状態というのが一期の主要な眼目であって、彼女が所在なさげな子どもからアイデンティティの獲得を図るというのが、一期全体を通して描かれた物語だった。その心の軌跡を示すというのは、けっこうめんどくさいものだろし、描写の仕方を誤れば、なのはというキャラクターはかんたんに変わってしまう。というか、私は三期のなのは像はその破綻の典型だったかなって思ってるのだけど。あんまりいうと微妙だから、ここは沈黙がよろしかな。」
「たしかなんだったかしらね、家族のなかに適切な居場所を見出せずに、趣味らしい趣味もなく日々を平凡に幸福ながらも満ち足りないものを感じて過していたというのが、一期のなのはの姿だったかしら。そんな彼女が魔法という自分の天性を発見し、自己の基盤を確立するという過程が、ま、フェイトの派手なドラマの下で地味に展開された彼女の物語だったのでしょうね。こうして思い返すと、なんとも齢不相応な悩みだこととも思えるけれど。」
「ひどく理性的、なんだよね。なのはの抱いてる葛藤というのは、あるていど自己意識が明瞭に認識できてる人の悩みであって、それは子どもの微妙な感性を捉えようとしたというより、作者の反映としての少女って側面が大きいかなって思う。その意味でなのはというのはイメージが定めにくい難儀な性格のもち主であるし、三期でなのはがわかりやすい知的で向上心あふれるやり手の人にありがちな変化を遂げてたのには、苦笑しちゃうものあった。‥こういっちゃうとなんだけど、三期のなのはには一昔前のフェミニズムの思想のあり方のにおいを感じる。とかいっちゃうのは、たぶんまずいのかな。たぶん、まずいのだろな。」
「ま、そこらはちょっというに微妙かしらね。なのはという作品はそういう観点からいえばいろいろ示唆的でしょうし、象徴的でもあるのでしょうけど、深入りするには厄介な領域かしら。端的にいえば性と恋愛の問題でしょうね。なのはという作品自体は何も語らないが、作品のあり方はあることを明瞭に語っている。ま、はてさてといったところでしょう。はてさてよ。」
2008/07/28/Mon
「え、フレイザーの金枝篇までからんじゃうの? このお話? なんだかこれ見よがしなキーワードや伏線が次々と出てくる本作だけど、でもその見せ方がていねいでなおかつ月光ステイトの日常描写がレントン視点で細やかに描かれるから、気になる描写や謎の仄めかしも、現時点では十分楽しめる出来かな。噂にたがわず、タルホさんはかわいいね。あとLFOのアクションは思ってたより爽快感があってよろしかな。サーフィンしながら戦闘なんてー、って思ってたけど、一度見ちゃうとこれもありかなって思えちゃう。ニルヴァーシュの武器がブーメラン一丁しかないなんてー、って思ってたけど、けっこう乱暴に素手で敵機を引き裂いたりなんてしちゃうから、意外と魅力あるロボットなのかもって思えちゃう。うん、これまではなかなか楽しめるかな。これからは、まだわかんないけど。」
「ま、そこは十分期待しましょうというところかしらね。月光号の怠惰でシビアな経済学に支配された様を見て落ちこむレントンだけれど、それを補って余りあるほどのカリスマを備える面々という一連のストーリーは、演出としてもとてもよいものだったのでないかしら。子どもたちの悪戯も、ま、悪質といえばレントンにとってはひどいものなのでしょうけど。」
「悪がきどもだものねー。レントンさんもたいへんかもかな。ただ子どもたちの、とくあの年代の子どもの抱える暴力というのは、いわば自分じゃどうにもできないコントロール不能な問題であるから、そこは大人が代わって引き受けなきゃいけない領域ではある。たとえば子どもがだれかを執拗に攻撃するとしても、それはその子にとって理性下にある行動でなくて、一種の衝動や無意識に近いものであるから、言葉でどんなにいっても無駄な場面というのはあるもの。大人はそういうときに、子どもを抱きしめたり殴ったり‥つまり言葉でなくて身体に訴えての行動というのが要請される。それを踏まえれば、子ども三人組のいたずらというのは、これはエウレカにも責めらるべき点はあるかなって思うけど、レントンさんはやっぱりそこまでには気づけない。ただエウレカは聡い子だから、自分で気づいちゃうのだけどね。そこは双方痛みわけ、かな。」
「あの子どもらの心理というのは、これは非常に単純で、そう頭を悩ますものではないのでしょうね。しかし親代わりをしているエウレカと、必然的に深く係らざるをえないレントンにとっては、またきびしい課題を提出する話であったことね。はてさて、どう物語がうねりをみせていくのかしら、この作品は。雰囲気としてはおもしろいものがあるし、当分は様子見かしらね。」
2008/07/27/Sun
「こうもふつうにラブコメやってくれると逆にいうことないかなみたいな。鳴滝荘のどたばたな日々を描いてくことで、ゆっくりと人間関係の深化をあらわしてく、か。そこはていねいに描写してくれる作品だし、各キャラクターも気持のいい人ばかりなので、この手の作品としては嫌味がなくてよろしかな。ただ彼らの住んでる空間というのはある意味大人の不在の空間であって、大人は基本二人いるけれど、でも彼らは背景に意識的に徹してる。あくまで白鳥さんやその周囲を立てようとふるまってる。そこにはみんなでわいわいすることの楽しさ、貴重さを知ってる大人の姿というのも見えるし、ある種の感傷もうかがえるかな。鍵はやっぱり家族、なんだよね。家族を描くということは、人間にとって普遍的な主題のひとつではあるのだろな。」
「ま、心理的な問題として、人は家族にそう単純でない思いを抱えているから、それをなんとかして納得のいく形にしたいというのは、創作家にとってひとつの課題足りえなければならないものなのでしょうね。少なからぬ人が、自分の育ってきた家庭に一方ならぬものを抱えている。その問題を受け止めるものとして、「まほらば」のようなコメディの形を借りて描かれる家族ものというジャンルがあるのでしょう。ま、ここまでいうと少しいい過ぎかしらね。」
「梢さんが白鳥さんにお茶碗プレゼントして、はいこれで私たち家族だよって告げるシーンが印象的だよね。ああなれたら、たぶん、いいんだろかな。ただ、私が白鳥さんの立場に立ったら、家族かーってちょっと思ってそこには複雑な印象感じてあいまいに笑っちゃうかも。少し、苦笑しちゃうかも。‥白鳥さんはやさしいからそんなことないけど、ただ梢さんがあんなにアパートに住んでるみんなの協調性、そして和を大切にする姿勢なのは、すごく日本的な考え方の側面もあるかなって思うし、また彼女の生い立ちのあれこれも気になっちゃうものがあるかも。彼女は‥多重人格ということも含めて‥いろいろあったんだろね。そこらの心の機微は、予想するに辛いかな。それを無視して、この物語はわかんないのだろな。どうやって、描く気なんだろ。」
「はてさてね。いわば、彼女という人間の心象の反映として、鳴滝荘の雰囲気というのは作られているのからでしょうね。そこらはけっこう深く、そして見えにくい人間心理のものかしら。この作品の行末は、なかなかどうしてわからないかしらね。ま、楽しみにしましょうか。」
2008/07/27/Sun
「アキバ趣味ということで嫌がらせされちゃって落ちこんじゃう乃木坂さんだけど、ふつうに考えてたかだか趣味の問題でそこまで嫌がらせされることないよね。たいていの人は他人の趣味なんかに関心ないもので、私吉行淳之介好きなんだーとかいっても、へーそうふーんそれはよいねーで終るもの。吉行が水商売の女性ばかり小説に書いてるって知らないくせにっ。とでもいうもので、他人の趣味はもちろんファースト・インプレッションとして無視できないものあるけれど、でもそれが長期的に見てその人の価値評価に係るかなといえば、もっとべつな要因を視野に入れたほうがよろしかも。つまり嫌がらせっていうのは大別すれば二種類で、利害系かべたな嫉妬系かのいずれか。それで、乃木坂さんのはこういったらまたあれれかもだけど、べたな他者の嫉妬を彼女は無意識に煽っちゃうのじゃない? そしてそれに本人無自覚っぽい。天然さん、というのはあるかもだけど、でもそこらの人心の機微に疎いというのは、熾烈な人間関係の争いしてる人たちからみたら、むかつくーなわけですよ。もちろんそういうのはうんざりだけど。乃木坂さんひとりを責めれる問題じゃないけれど。ただ、そこで乃木坂さんがオタクなんて‥って落ちこむのは対応としては下の下であって、そこはもっと毅然としてなきゃいけない。趣味が問題じゃないんだよ。人柄とモラルの問題。そして嫉妬の渦の人間関係のいざこざから、どうやって身を軽くできるのかなという問題。そこが人付きあいの難所かなといえば、乃木坂さんのような人にとってはそなのだろね。私もべつに得意でないし。」
「ま、趣味がどうこうでされる嫌がらせの範囲を逸脱していたのはたしかでしょうね。と考えると、あれだけもてはやされてるお嬢さまに不服の連中がふつうにいるということで、その関係でああも春香は排斥される、か。綾瀬のほうはとばっちりといえばそうなのでしょうけど、春香の身近な人であることは変わりなし。標的にされるのもありでしょうね。」
「趣味で人を判断するのはナンセンス。ただ乃木坂さんは、オタクってばれちゃうとそれだけで周りの人たちから忌避されたという過去があって、そしてそれは彼女がそのていどの信頼しか獲得してこなかったということの証左でもある。そしてそっちのほうこそが重大であって、乃木坂さんが落ちこむべきなのはアキバ趣味とかでなくてそれだけの関係性しか作れてこなかったことのほう。‥綾瀬さんは乃木坂さんを信頼してくれたよね。彼女が考えなきゃいけないのはそのことが彼女が思ってる以上に、より大切なことだということで、人間関係に問われてるのは趣味云々とかでなくてある種の誠実さだということ。取り巻きが何いおうと、気にするでないよ。そんなとこに人間関係はないのだから。乃木坂さんが見るべきなのは、うんざりするよな人間模様をうんざりして見ることであって、でも私には綾瀬さんのような人もいる、その価値をよく思うこと。そこにちょっとしたおもしろみがあるのじゃないかな。私は少し、そう思う。」
「人付きあいというのがうんざりする部分があるということは、そう否定できることではないのでしょう。しかしだからといって、引きこもってしまうのも短絡的というものよ。そこはときにがんばるべき価値があることがあるのでしょう。それは友愛の可能性という、希望よ。くさい言い方だけれど、ま、たまにはいいかしら。」
2008/07/26/Sat
子供をオタクにしないためのマンガ10冊『幸い、マンガというのはこれまで非常に豊饒な歴史を築いてきましたから、その中には、本当に素晴らしい作品、本当に面白い作品というのがいくつかあります。それらの作品は、単にマンガというものの素晴らしさ、面白さを伝えるのみならず、もっと広い意味での、表現や芸術、あるいは人間社会や宇宙そのものの素晴らしさや面白さをも伝えてくれます。それらの作品を読むことによって、子供たちはきっと、そこから本当の素晴らしさとは何か、本当の面白さとは何かということを学び取ってくれるはずです。そうすれば、子供のオタク化というのは必ずや防げると思うのです。』
「えらばれた十冊についてはとくに異論なし。「がんばれ元気」はおもしろいよ。ただ疑問に思っちゃうのは、やっぱりオタクって言葉がひとり歩きしちゃってるかな、というとこ。オタクっていうのはマニアっていうか、好事家っていうか、あるジャンルの造詣に深くて、熱い好奇心をもってその探求に没頭する人を指す言葉かなって私は今まで思ってたけど、さいきんではネガティブなイメージがもうこびりついちゃってどうしようもないね、という感じみたい。上記のエントリの文脈では、もうオタクなんて存在は百害あって一利なし、迷惑きわまりない軟弱で世間さまに顔向けできないお前なんて孔子さまの墓に頭下げとけーみたいなレッテルを貼られる資格十分という感じで、そこはちょっとあれれかなって気がする。オタク化を防ぐなんて言説は、それこそ差別意識の為せるとこかな、とかとか、思っちゃったりしないでないけれど。」
「ま、昨今のメディアで形成されたオタク像というものが、どうにもそういった類のものであることはいえるのでしょうね。しかしだからといって十把一絡げにオタクを非難論難することは、ポジショントークの危険から免れないでしょうし、上記エントリで言及されているオタク文化がとくに何を指すかは、つかみにくいかしら。オタクという言葉自体がもう形骸化しているのよね。飽和化、といったほうが適切でしょうけど。」
「オタクって言葉がもう何を意味してるかわかんないものね。私がオタクだーって大声で自称したらその人はオタクなのかな。それともテレビでこれがオタクだーって吊し上げられたら、それがオタクなのかもかな。ただ思うのは、オタクって言葉はある一群の人たちの共通項になってるって現実があって、オタクを少しなりと自称することによって、彼らはあるコミュニティに属してるって感慨を得ることができて、それは彼らの孤独を覆うことに一役買ってる現状があるっていうこと。オタクって言葉が包含する群れに属したい心理っていえばいいのかな。そしてその心理が、たとえばニコニコ動画のコメントの雰囲気の一部にあらわれてるともいえるわけで、それは巨大な共有幻想として認知されているということ。私はさいきんのオタクという現象はそういうものかなって考えてて、そういったオタク化というのはある意味若い人たちのニヒリズムのひとつの表現でもあるといえるし、そうでなくて本来の意味においての好事家としてのオタクも存在してて、オタクって言葉はそれらをごちゃまぜにしちゃってる。だから現在はいろいろカオスなことになっちゃってる。私としてはこの今をどう考えるかは、そうかんたんな問題でもないかなって思う。オタク文化というのは膨大で手がつけられないかなって感じ。ただそのぶん、未来に少しは逼迫感あるのだけどね。いつか一線が切れるかなとか、そんな予感。」
「肥大化しつづけるオタク文化? ま、昨今は逆にどん詰まりな気もしないでないかしらだけど。オタク文化の未来というのは想像しにくいのよね。予想というか、どう展開していくのかが上手く考えられないかしら。いろいろな要素があるし、ま、しばらくは静観かしら。強い意見は何もいえないでしょうね。はてさてよ。」
→
オタクというのは共同幻想みたいなものなのかな
2008/07/25/Fri
「吉行淳之介の小説にしてはずいぶん穿った作りかな、と思って、それから少し考えて、もしかしたらこれが吉行淳之介の本心から成る作品なのかもかなって気を新たにした。物語は大学助教授のエリートたる花岡が、そのドンファン的気質から夜は伊達な道楽者を演じて、さまざまな女性との交流を楽しんでたのだけど、いつしか気楽な女性道楽が彼の思惑とはちがう方向を示してきて、複数の女性の恋慕と嫉妬と愛のもとに、錚々たるエリートだった花岡の前途に、破滅の予感が隠微な影としてあらわれてくる、というもの。ドンファンを気どっていろいろな人たちと愛を交わしてたのはいいけれど、それが転じて絶望の状況を呈するというのは、吉行特有の黒いユーモアがあって、なかなか楽しめたかな。ただここにはブラック・ユーモアとしてだけ受けとっちゃいけない、吉行の根本に潜む女性観の象徴が示されてる気がする。それはすなわち、吉行という人にとっては女性はやむにやまれない楽しさのために求めるものであるけれど、でもその奥の心象風景では、湿っぽい幽霊のように、恐怖を呼び起こす存在であったっていうこと。春夏秋冬、女はこわい、かな。女性によって破滅しちゃう主人公花岡の姿は、もしかしたら吉行の男女観の、ある結論を示してるのかな。」
「ま、気軽な肉体関係のみに終ろうというのも、ある面からいえば甘い考えなのでしょうね。ドンファンのふるまいは男性心理のひとつの理想であるのでしょうけれど、しかしそれは人の幸福とはかならずしも結びつかない理想である、か。示唆的というか教訓的というか、ま、意地悪な視線が感じられる作品ね。吉行はある意味恐れを無くせなかったのかしら。」
「お化けと幽霊なんていわれてるのがおもしろいよね。吉行は女性は幽霊だっていう。生きながら幽霊になっちゃう幽霊だっていう。お化けは男性。女性にころっと騙されて、でもしかたないね、残念でしたで済まされちゃう、ある滑稽味から免れることのないおかしなお化け。でもそれに対して、幽霊の相貌をもつ女性の恐怖は、柳の木の下にそれと知らず立ち尽す風景に如実に示されてるごとく、吉行の心の奥底にけして消えることない怖さを、植えつけるものであった。‥吉行は永遠に遊んでいたかった。ただ、玩具売り場で、ずっと遊んでいたかった。でも、その玩具はある日突然、怨念めいたもひとつの顔を、子どもの心理に焼きつける。男女の愛の行く末に、吉行はその恐怖の陰影を、予感せざるをえなかった。それが吉行の作品の論理の、疑われない骨子であった。」
「関係してきた女性が主人公の内面に隠然として浮びあがってくる描写は、なかなかぞっとするものがあったかしらね。どこに落とし穴があるかはわからない。ままならない人間心理、そしてままならない人間関係とその未来ということかしらね。この作品はその意味で、吉行という作家を代表する部分があるのでしょう。それは性の、そして人間の愛の課題ね。やれやれ、というのよ。」
吉行淳之介「にせドンファン」
2008/07/24/Thu
「恋愛の練習するというがこの作品の卓抜なとこなのかな、と思う。雛ちゃんは変わらず、運命の人というかドラマチックな出会いを求めてるわけだけど、それはいえば恋愛幻想なんだよね。運命の赤い糸、とかとか、雛ちゃんは自由恋愛に過度な憧れとそしてたぶんちょっとした見当ちがいを抱いてるのだと思うけど、でもこのメンタリティは、あんがい出会い系とかで素敵なだれかを夢想してる人のそれと、根本のとこでは大差ないのかもかなって思う。初恋のときめき‥というか、たぶん恋の郷愁の思い出。その手の記憶が、人をモテとか非モテとか、ある種のイデオロギーやコミュニティに積極的に動員する要素になってるのかも。雛ちゃんが恋愛くらぶにそういった機縁を求めてなかった、とはいえないのじゃないかな。でもそれが人の自然な姿といえば、たぶんごく自然なのかもだけど。」
「ま、運命の相手というかそういったことを期待してしまっているのはたしかでしょうね。再三いってきたように、雛子はまだ知らぬ他者に過度の幻想を抱いてしまっているのでしょう。そういった意味では、雛子はいずれ現実を知るというか、いずれ、ま、がっかりするということが起きるのでしょうね。そこらが傷にならないかしらと心配するのは、過保護というものでしょうね。はてさてよ。」
「出会い系っていっちゃうのはちょっとひどかったかも。ただ人の出会いって、けっきょくのとこ日曜日に買い物に行って店にたむろしてる人たちと同じくらいの割合でしか、人のバリエーションというのはないわけで、何がいいたいのかなというと、人というのは凡庸な集合というの。たいていはふつうの人ばかりということで、そこにドラマチックな展開だの運命の赤い糸だの求むべくもないわけで、そこに人が人と出会って付きあってくことの、いつの時代も変わらない葛藤がある。だから恋愛の出会いというものも、そこには人間関係における特有の影というのは凡庸にくだるものであって、そういったことを恋愛くらぶの顧問たる来栖先生は、そのうち教えなきゃいけないのかもかな。‥もしかしたらもう蛍ちゃんあたりは知ってるかもだけど。その点がどんなふうに物語に影響するか、そこはこれからに期待かな。」
「蛍の場合は相手は年長者でしょうからね。家庭でも一人でいることが多いようだし、そこらはべたな展開になるのかしら。ま、新しい男の子二人を加えて作品世界も広がりが出てきたことだし、この作品はこれからでしょうね。楽しみにするとしましょうか。」
2008/07/24/Thu
「本書「ユートピア」においてその名を不朽のものとしたイギリスのヒューマニスト、トマス・モア。「ユートピア」はモアの理想とする政治体制の敷かれた架空の国家ユートピアを見聞してきたひとりの男性がその内実を物語るという形式によって描かれるのだけど、この書が描いた共和主義的な側面とか、私有財産の廃止に代表される政治的イデオロギーの問題とか、そういった方面のことは過去五百余年にかけて縷々と議論され尽くしてきたものであるし、このエントリでは私は、専ら雑感ていどに本書から受けた印象をつづるということにしよかな。まず読んでて、へーって感心されたのは、ユートピアって国家においては快楽主義的な考えが、世上において大勢を占めてるってこと。モアの夢想した理想郷においては、幸福って何かなって問題は、幸福とは第一に身体的な快楽であるってされてるんだよね。身体の健康、安寧、そして必要な欲求が満たされた状態。十五世紀という時代において、さらには熱心なカトリック信者であったモアが、快楽を人間の理想を考えるに当って決して蔑ろにしちゃいけないものだって得心してたことは、ある示唆を私たちに教えてくれることじゃないかな。人間は身体的存在である‥なんて、サドやニーチェ的な思想の源流をモアの共和国に求めるのももしかしたらやぶさかでないのかな。ここは予想だにしてなかったので、おどろいた。」
「人間性の問題を考慮するにおいては、身体上の欲求を忘れてしまっては意味がないということなのでしょうね。そういった意味で、モアのいう「理想郷」とは実現不可能な境地を示すのでなく、あくまで現実的な幸福論を、一面においては説いたと考えてもいいのでしょう。現在においてはユートピアの語義は、かならずしも当初モアが考えたものではないのでしょうね。そこは少し考えさせられるかしら。」
『楽しい生活、つまり快楽にみちた生活が、もし悪であるとするならば、われわれは相手が誰であろうとそのような生活を求めようとする者を助けてはならない、いや、むしろ、これほど有害なものはないとして、このような生活から極力遠ざけなければならない。しかしもしそうでなくて、かような楽しい生活を隣人のために求めてやることが許されるばかりでなく、むしろそうする義務さえあるとするならば、われわれは隣人に対して親切にすると同じく、何よりもまず第一にわれわれ自身に対しても親切にすべきではないだろうか。なぜなら、自然がわれわれに、隣人に対して親切丁寧であれと命じた時、それは、自分自身に対しては残酷無情であれという意味ではなかったからである。だから、じつに自然そのものが、楽しい生活を、つまり快楽を、われわれのあらゆる行為の究極の目的としてはっきり指示しているのだ、と彼らは言うのである。とは、かくて彼らの定義によれば、自然の法にしたがって規定される生活なのである。』
「ここにモアのキリスト教徒としての聖書理解の一端を読みとることができるのじゃないかな。人道主義の見地に立って、モアは己ひとりを大切にできないものが他者を愛することができるのかと問う。自分を愛せないものが、愛をみずからの裡に宿せない者が、だれかを愛しそしてやさしくあれることが、果して可能なのかってつづける。自分が幸福であること以上に、自分が愛する人たちにできるやさしきふるまいはほかにない。モアが理想郷を構想するに当って、その基盤としたのはより多数の人たちが幸福にあれるにはどうすればよいのかな、という視点だった。それを読み誤ると、たぶん本書は共和主義的な相貌ばかりあらわして、ある種の偏見から免れないと思う。もちろん、時代的な制約というのは厳然としてあるのだけれど。」
「モアから五百年のときを置いた私たちにとっては、モアの「ユートピア」の問題点となるものは、粗方判明しているといってもいいのでしょう。しかしそれでも本書が名著の価値を失わないのは、モアの時代にモアが直面していた問題と、私たちの時代がかかずらっている問題が、その本質として同等なものであるからでしょうね。そのひとつが、安楽死の問題よ。」
『しかしもしその病気が不治であるばかりでなく、絶えまのない猛烈な苦しみを伴うものであれば、司祭と役人とは相談の上、この病人に向って、これ以上生きていても人間としての義務が果せるわけではないし、いたずらに生恥をさらすことは、他人に対して大きな負担をかけるばかりでなく、自分自身にとっても苦痛に違いない、だからいっそのこと思い切ってこの苦しい病気と縁を切ったらどうかとすすめる。また、今は生きているということ自体が一つの拷問ではないのか、もしそうなら死ぬということに対して臆することなく、いや、むしろ前途に明るい希望をもって、この牢獄とも拷問ともいえる拷苦の人生を、一思いに自らの命を断って脱するか、それとも他人にその労をとって貰って脱してゆくか、そのどっちかにしたらどうか、とすすめるのである。そしてなおその上、死ぬことによって人生の楽しみが少しでも失われるものではなく、むしろただ苦痛を癒されるにすぎないのであるから、死ぬことがどんなに賢いことであるかを説明してやる。』
「モアのこの言説には、私は賛同しちゃう部分が多いかな。もちろんモアはキリスト教徒として、自殺には一顧だの価値も認めてないし、むりやり死を望んでない重病者を安楽死させることも認容してない。ただここには数百年、数千年経とうと、人間が人間である限り免れることない、生老病苦の問題が横たわってる。ある意味、本書はモアって知識人が、いかに悪夢めいた現世においていたずらに空想に逃げることなく、あくまで現実を相手として幸せを築くことができるのか、その課題に対しての精一杯な提案だった。ただその困難さは、だれあろうモア本人がいちばんよく知ってた。そしてイギリス史上もっとも暗黒なる犯罪として、暴君ヘンリ八世の手により、モアは断頭台の露と消える。私たちのもとには、ただ「ユートピア」の言葉だけが、尽きることない訴えとして、今も手元に残されてる。」
「とこにもない理想国を描いたモアだったけれど、彼が生きた人生は、理想というには余りにかけ離れた苦渋に満ちていた。本書はモアの生きた時代背景を考えねば、十分な理解はできないでしょうね。モアがどんな立場からユートピアを世に問わねばならなかったか、それはきわめて現代的な問いかけでもあるのよ。なぜなら、それは人間の本質的な問いかけだからかしらね。それこそが、肝心よ。」
『それにもかかわらず、結局私としては、たとえユートピア共和国にあるものであっても、これをわれわれの国に移すとなると、ただ望むべくして期待できないものがたくさんあることを、ここにはっきりと告白しておかなければならない。』
トマス・モア「ユートピア」
トマス・モア「ユートピア」
2008/07/23/Wed
モテなくても自分のことを本当に好きになってくれる人が一人いたら、それでいいと思う。『いっしょに生きていく人(並んで歩くイメージかな)がいたら、それってシアワセなことだと思う。
たまにケンカもするけれど、それでも手をつないだり離したり、お互いの様子を見ながら、てくてくと前へ歩いていくのってよいなぁと思う。』
「軽い共依存が恋愛の最適解という意味では、それはいえるかもかな。ただその私が好きなあなたって像が、あなたと付きあっていく過程のなかで、微妙に変容してくことはある種避けられないものであって、そういったことで恋愛関係というのは当初抱いたビジョンからはかけ離れていくものだし、その変化は相思相愛って観念を信仰しちゃってる人だとなかなか認めがたい部分があるものかなって思う。付きあってくなかで相手と自分の立ち位置は自然と変わってくし、それに他者というのは根本的なとこで完全には理解しえないもので、また私という存在をその他者もまた決定的な意味においては把握しきれないものである。だから現実と理想は乖離してくものであって、そこらの現実認識を嫌がっちゃうと、あとあと状況は悲劇的な様相を呈してくものかな。通じあえない、というのはどこかでかならず生まれるものかなって思うし。」
「ま、お互いが恋愛に抱いていた幻想が現実の前に屈服していく過程とでもいえば、少し皮肉が効きすぎるのかしらね。恋人として付きあっていくことというのは、恋愛始めの高揚感だけでは行き詰るものでしょうし、さらにそのうえに何かを重ねなければ、現実と理想の落差はひどくのしかかってしまうのでしょう。そこらで若い情熱というのは挫けるのが大半かしらね。ま、はてさてよ。」
「思い思われる関係が理想というけれど、その思い思われるってことがどういったことを通して恋人関係にあらわれるかなって問えば、たぶんそれは延々たるふつうな会話を通して、にほかならないのじゃないかなって気がする。恋人というのはある意味だれよりも会話を重ねなきゃいけない関係性で、言葉と言葉のやりとりの蓄積こそが、ある意味その恋愛の形をつくる大切な要因となる。退屈な日常を、退屈にぼんやりに、でも少しの楽しさとあなたへの責任を感じながら、向き会いふれいく日々の何気ないあり方こそが、情熱とかセックスとかそういった部分からは見えない恋人の平凡なスタイルであって、そしてそれは大切な因子なんじゃないかなって思う。‥私とお姉ちゃんもずっと話してるものね。だからラブラブ。」
「ラブラブかどうかは置いといて。ま、延々と会話してるのが本当かしらね。というか三年目に突入してるのかしら、この対話って‥。いや、なんだか目眩することよ、はて、さて‥」
2008/07/23/Wed
山日記さん「リトルバスターズ!を勧めること。」
『「リトバスってどんなゲーム?」
みたいな質問に既に答えられないことに気づく。
青春物ギャルゲー、なんて答えだと「To Heart?」なんて思われるだろうし、野球、バトル、友情、どれも微妙に正確ではない。ましてや「感動物」という紹介は大いに間違ってる気がする。かといってRefrainにも触れられない。「メタフィクションっぽいゲームだよ」なんて言われてやる気になるとも思えない。』
「ユートピア全力で否定してモラトリアムから脱却しようとするけれど、さいごのさいごで詰めが甘かったゲーム。あの最終エンディングで、仲間を全員助けてしまうのは、ひどい現実を直視することをおそれた結果かなって気がする。もちろん、keyの作品でそこまでの悲劇をAirのあとに望むつもりはなかったのだけど、麻枝さんて作家は、最終的なとこで家族から離れられることはなかったなって気がする。家族って愛情のユートピアから、リトバスはさいごまで脱せなかったって思う。それがわるいとは、もちろん一概にはいえないかなだけど、ね。」
「リトバスもせんじ詰めれば家族関係の物語だったことは、論を俟つまでもないことなのでしょうね。仲間たちの友情という範囲から、彼らの絆は収まり切らないものがあるのは自明でしょうし。ひとつの家族的な関係性を構築してしまっているとでもいえば適当かしら。」
「家族的な愛情の‥そして性的な物語であるリトバスは、だから控えめにいっても人をえらぶ作品であることはたしかかなって思う。少年少女の恋愛は、実はリトバスという物語のうえではアクセントでしかなくて、その彼らの愛はやがてより大きな集団としての家族に統合される必要があって、サブヒロインのエピソードがそれぞれ枝葉にすぎないというのは、リトバスにおいてはある決定的な意味をもってる。‥ある意味、家長である恭介が、家族の正義を示して、それが結果的に物語世界から無上の肯定を獲得するっていうのが、リトバスのエンディングなんだよね。あの結末をよしととるかどうかは、これはその人の価値観によるけれど、でも私としては彼らの家族愛の表現に、ある種の屈折を見出さずにはいられなかったかな。彼らの家族愛は、たぶん個人の孤独を覆ってしまう。そんなもの見たくもないっていうなら、またべつだけど。ただ私は、理樹と鈴の二人だけがとり残されちゃうあのエンディングが、いちばん美しかったって思う。あのさみしさが、とても美しかったって思う。みんなで助かるエンディングは、理樹の成長を決定的なとこで阻害した。そう思っちゃうのは、私の偏屈かな。たぶん、そなんだろな。」
「偏屈かどうかは、ま、置いておきましょうか。ただしかし、リトバスという作品がある種の納得のいかなさを残しているというのはあるのよね。どうも溜飲が下がらないというか、まだ完全な決着を見たわけではない。何かやり残しがある。この気ぜわしさは、何かしら。」
→
「リトルバスターズ!」 ユートピアと現実と→
リトバスとクラナドとAIRの話 家族という快楽の図式
2008/07/22/Tue
「よかった。麦ちゃんと響さんの絡みはとてもよかった。そうそう、響さんのようにいってくれる人は今までいなかったものね。響さんはきっと自分に自信があるからだっていう麦ちゃんだけど、響さんはべつにそういうわけでないんだよ。なんていうのかな、ただ彼女は自然に自分足らんとしてるのであって、そこには安定した現実受容の営みというのがある。安寧と、少し変人だけどそのままの自分をへんに曲解することなくて受け容れて泰然としてられる力がある。響さんは、もしかしたら麦ちゃんにとってすごく影響を与えてくれる人になるのかも。性質として二人は反対で、それもまた相性としてはよろしかな。響さんと麦ちゃんの接点を待望してた私としては、今回の話はとてもよかった。うん、これはおもしろい。」
「部内の人間関係で悩んでばかりの麦ちゃんにとって、他者への顧慮というものをほとんどせずに、それでいながらそれなり上手くやっている響という人物は、なかなかどうして強い意味をもちうるキャラかしれないかしらね。この二人のやりとりというのは、なんともほほ笑ましいものがあったのでないかしら。」
「自分の性格が嫌いで変えたいっていう麦ちゃんだけど、たぶん性格っていうのは変えられないし、自分が望んでるふうにはその変化の兆しというのは感じられない。それは私が私であるということの意味で、私が私をやめられるものでないものね。記憶とかぜんぶ失くせるとかいうならべつだけど。そんなこと望まないでしょ。それで、私がそういう性格だったなら、すぐ落ちこんで、ささいなことでショック受けて、空気読めない性格だったなら、それはそういう現実であるというだけのことであって、べつにそのことに劣等感もつ必要は、ないですよ。だって、それが現実じゃない。あなたはあなたで、麦ちゃんは麦ちゃんでしかないのだから。響さんが響さんやってるのも、それが現実であるからで、べつに自信あるからとかでない。無理せず、私が私であることのそれだけのべたな現実を、思えばいいだけなのだから。」
「ま、そこの意識改革がなかなかむずかしいのでしょうね。ちょっとしたことで落ちこみ、引っ込み思案な性格で困ってるといっても、そういった性格的要素というのは背が低いとか高いとかいった身体的要素と同じことで、自分じゃどうにもできないことなのよね。だから、それで劣等感とかもっても致し方ないでしょうという話よ。性格なんて変わらないのだから、悩むというのは現実への対処ミスなのでしょうね。悩んでも解決の端緒なんてつかめるものでないでしょうし。」
「響さんが落ちこんでも無駄じゃない?っていう理由はわかるんだよね。ただむずかしいのは、劣等感もつなってことは、開き直れってこととイコールでないこと。私は引っ込み思案だ、でもだからそれがどうしたー!とかやんないこと。大切なのは無理しないこと。それがそれであることをなんの気なしに認めること。あんまりがんばらないこと。麦ちゃんは、さいきんちょっとだけ、がんばりすぎちゃってるかなって気がする。がんばることはがんばることで大切なのだけど、きょーちゃんの問題はすぐに解決するようなものでないし、その解決の糸口は、ほかならないきょーちゃん自身が見つけるべきことであって、麦ちゃんはそんなすることは、実はない。そして空気読めないとかいわれたって、それは努力でどうこうできるものでないし‥これは放言だけど、空気読もうってがんばってる人ほど空気読めない現実。うまくゆかないね‥だから麦ちゃんは、麦ちゃんにできることを、無理しない範囲で、やってけばいい。‥うん、響さんの存在はいいな。作品にまたひとつ深みが出た。もう響さん素敵すぎっ。ぜひ麦ちゃんを押し倒しちゃったりなんかしちゃってっ。私がゆるすからっ。」
「まておい! ‥ま、しかしいろいろ個性ある考え方の人間が描かれていくことね。さまざまな登場人物の、さまざまな考えが描写されることにより、作品世界の色合いはより深まっていくことでしょう。作品が更なる広がりを見せてくれる期待が、俄然高まってきたというものね。次回からが楽しみかしら。」
「甲斐くんは、さすが甲斐くん。きょーちゃんの心をかんたんにつかんじゃったようで、そこは麦ちょこ怒ってもよろしかもだよ。甲斐くんの人間的包容力の前には、多少の問題あり後輩なんて、どうとでもなるのだー。甲斐くん、かっこいいっ。」
「本当、自制力と判断力のある人ね、甲斐くんというのは。波乱万丈な研究会をなんなく乗り切った過去は、伊達ではないのかしら? きょーちゃんの問題もこれなら進展ありそうね。おどろきよ。」
「そして気になるのはちとせの心情と、榊部長に連絡とったたまちゃん部長の動向かな。今回はとてもおもしろかった。波乱の夏合宿だったけど、物語に多様な可能性を与えることができたエピソードだったと思う。次回がこれは期待かな。楽しみっ。」
「登場人物にそれぞれ課題と、そして新たな一面が覗けた舞台だったかしらね。はてさて、次はどういった展開かしら。何はともあれ、期待するとしましょう。まずはたまちゃん部長の問題かしらね。生半に行くものでは、ないでしょう。期待よ。」
2008/07/22/Tue
子どもの運動量、10代前半に激減 テレビゲームの影響もと「このことについてはなんとなく思うことある。記事はアメリカのことだけど、日本の実情としても無視できないものがあって、けっこう考えさせられちゃうかな。子どものライフスタイルの変化というか、単純に外であそべー!で解決しない背景がここにはある。‥私自身は、なんだかんだで外出歩く用事が多いし、乗り物は基本あんまりつかわなくて歩いてばかりだから、意外と運動不足と無縁でよろしかなって気がする。そいえば自転車もぜんぜん乗らない。四十分くらいふつうに歩く。私の一日のなかで、ぼんやりとてくてく歩いてる時間がけっこう占めてて、私ごとながらちょっとどかなって思っちゃうくらい。でもなんだか今さら自転車乗れない気分。自転車って、ちょっと速いから、きらい。」
「ちょっと速いからきらいって、おい。またわけわからないこという子ね。ま、歩く習慣があるというのはいいことではあるのかしら?」
「時間節約とか、ふつうは気にするものだものね。ただ私はそういうのあんまり考えてなくて、そこらはだいたい無駄に生きてる気がする。‥そいえば以前、
武道必修化の話題があったけれど、これってけっこうそんなに不味いものでもないのでないかなって気が私はしてる。なんていうのかな、とりあえず人は少しくらい武道の技術に親しんでてもいいのじゃないかな。武道の礼節とか精神性とかとりあえずどうでもいいから‥とかいうと怒られるかもだけど‥とっさの身体の使い方とか教えてくれるという意味で、武道は人を救うことけっこうある。たとえば柔道の受身とかちょっとでもできれば、人生のリスクはだいぶ減る。‥ただそういった武道を技術理論としてていねいに教えられる先生がどれくらいいるかなって問題になると、またちょっと微妙な気分にはなるけれど。伝統とかどうでもいいから、受身とか押しあいとか、そこらは理論として伝えられたらいいのでないかな。体育の時間だけでそれができるのかーって疑問はあるけれど、やるだけましじゃない?って私は思う。それくらいの身体操作は、体験しといたほうが、たぶんいい。」
「ダンスもそういった意味ではなかなかおもしろいものでしょうね。ま、人というのはどこまでいっても身体的存在なのだから、身体を蔑ろにするのはよろしくはないのでしょう。しかし運動不足解消というのは、お題目ばかりが先行する問題でもあるでしょうし、なかなか上手く対応できないものでしょうね。厄介よ。」
2008/07/21/Mon
日々の地道な更新があってこそ会心の出来の文章が生きる『会心の出来の文章は、派手ではあっても自分の文章の一つでしかない。それを見て来た人達が、固定客になるかどうかは、日々の地道な更新にかかっている。そう思うと、今、それほどアクセスが無いなと思っても、腐らずに地道に楽しみながら文章を書いてみるべきだと思う。』
「むずかしいな、と思う。というのも自分にとっての会心の文章でも、他人からみたらそれはべつにとくべつよくできてるというふうでもなくて、そこらはけっこう書き手としては微妙な感慨味わうものだったりする。ただそういっても、どんな文章でも特定の読者というのはあるもので、そういった意味では固定客を得る云々というのは、思ったより複雑な背景があるみたい。たとえばこれは人気があるなしの問題にも係るのだけど、人気があるブログがおもしろいブログであることとイコールでは繋がらないんだよね。それがなんでかなっていえば、人気があるっていうのは集約的な問題であって、おもしろいというのは個々人の主観に帰する問題だから。大多数の人に支持されてようと、それがある個人の主観に反するなら、結果として人気のあるブログがおもしろいって評価されるわけでない。もちろん人気があるっていうのは一定の価値であるし、それを理由で継続読者になることはなきにしもあらずでしょって反論は可能かもだけど、上記のリンク先にも挙げられてるとおり、人気が出るっていうのはただ「ハレの日」であるというだけであって、それはけっこうブログの本質の価値とは無関係っぽい。というか、ハレの日だけ注目されてもそれはケの日になって自滅しちゃ、なんの意味もないことのよな気が私にはする。むしろブログというのは、人気を得る得ないでなくて、ただ長く地道につづけてるというそのこと自体に、ある種の価値を見出すべきメディアなのかもしれないって、私はときに思ったりする。ただ現実は、PVの増減に一喜一憂されるのはしかたないのだろけどね。でも、PVというのは見方を変えれば喧騒というだけだったりもする。そこらの機微は、むずかしいかな。」
「人気を得るのもむずかしいのでしょうけど、しかしブログというのはまず何より存続させねばならない。こういえば誤解される向きもあるのでしょうけど、しかしブログほど自滅しやすいメディアもまたないのよ。それゆえ、ブログを書くならば第一に思案すべきはブログを潰されない、そして継続する最適な戦略なのでしょう。そういった意味で、ハレの日に大量に来るPVは継続を旨とするブログにとっては災厄とでもいえばいえるかしら。ま、一概にいえないことなのでしょうけど。」
「ネットそれ自体が、しずかに読まれるというふうでなくて、どしてもある種の騒がしさを求めちゃってるふしはあるかな。人気が欲しいというのもわかるけど、でもそれより、大切な見知らない他者とエントリを介して同一の地平に立って、無言の関係性が構築される、読まれ思われる、そういった祈りのような気持があらわれるときを期待することこそ、文章を書くことのひとつのやりがいで、ないのかな。そしてそういった読まれ方というのは、PVなりではわかるものでない。さらにそういった読まれ方というのは、固定客を得る云々の問題でも、またちょっと趣きがちがう。ネットでそういった文章を書いて、そういった関係性を求めるのはあるていど困難なのかもかなって思う。でもそれもまったく不可能事というわけでもないなって、私は思う。数年ブログシーンに立てた、それが私の獲た感慨かな。それくらいは、自負をもって、思ってる。」
「静かにブログを綴るというのは、ある種むずかしいのよね。これはネットというのが瞬間風速的な価値観を優先する世界であり、そして乱費される情報の表象でもあるからなのでしょうけど、それでもと、ブログに期待は捨てられないかしら。ま、なかなか厄介な話だことね。そう自己コントロールできるものでもないのでしょう。ブログの行く末というものは。」
2008/07/21/Mon
存在しないであろうマンガのジャンルを挙げるスレ『吹奏楽マンガ
少女マンガならあるかもしれんが』
「いや、ごめんなさい。さいしょので吹いちゃった。吹奏楽だけに、とかいってみたり。あはは。」
「いきなり最低ランクの駄洒落ね。ま、いいけれど。」
「うーん、だってさだってさ、これってすごく私事で恐縮なんだけど、私の知りあいの吹奏楽部出身で、今でも母校の吹奏楽部のお世話してる人が、吹奏楽をテーマに扱った作品はないのかないのかー。吹奏楽はやってる人なら日本中どこでもたくさんいるはずなのに、なんで一般的な知名度ってそんなにないのかー。だから吹奏楽をもっとメジャーにするためにも、何か吹奏楽を主題にした作品でもあればよろしでないかー。まんがでもアニメでも、のだめがヒットしたのだから吹奏楽をひとつテーマにしてもいいじゃないかー。スウィングガールとかなんとかいうのはあったけど、でもヒットというまでには至らなかったよねー。あー、吹奏楽を描ききる気概のある作家さんはあらわれないかなー‥って、私はずっと身近できかされてきたのだー! もう耳にたこができるくらいにっ。そんないうなら自分で書けばいいじゃんとかいったら、ほんとに設定考えて小説書きはじめちゃったくらいなのだけどー。」
「ま、吹奏楽なりなんなり、集団を描くというのはそれだけで苦労するものでしょうね。ヒットしたとはいえ、のだめは、あれは一握りの天才の軌跡を軸に描くもので、集団芸術としての音楽を上手く切りとっているとはいい難いでしょう。むずかしいところでしょうね。」
「ただでさえ吹奏楽とか大人数になっちゃうから、必然それは群像劇とならざるえなくて、そういったことも吹奏楽をテーマにする作品が寡少な理由なのかも。人間関係のいざこざからは免れなさそだし、そういった意味で私みたいなのにも、吹奏楽にまつわる人間ドラマを構築するのは難事かな。‥でもそのうち一作品くらい出てもいいかもしれないね。テーマとしては、やりがいあることにはちがいないのだし。」
「難易度はひたすら高いのでしょうがね。高校の部活ものとしても、それの悲喜こもごもというのは一般的なスポーツ物とはまたちがった複雑さがあるのでしょう。それを引き受けられる作家は果して誕生するのかしら? ま、それこそはてさてというものでしょうけど。」
2008/07/20/Sun
夏休みの読書感想文をコピペする子供たちにネットの怖さを教えたいと思います。一見すると普通の読書感想文だが、よく読むと原作にないエピソードが混ざっているニセの読書感想文を書いてください。優秀作を集めてニセ読書感想文サイトをつくります。「読書感想文なんて、コピペでいいじゃん。それをこうやって偽の感想つくって餌みたいにしておいとくのは、少し私としては引いちゃう部分ある。というか、読書感想文なんていうのはある種のテンプレをもっともらしく並べればできるものであって、それで読書力とか文章力とかつくはずないんだから、夏休みの宿題のなかでもとびきり最低のものだなって、私はずっと思ってた。だいたい学問としても文学としても、感想文なんてそう意味あるものでないし、それで全国読書感想文賞とか、優劣さえ競っちゃう悪趣味さには私は辟易しちゃう。本なんてものは個人が内在的に読んでくことのみが問われるのであって、それを外部に感想文として表出することにはあまり読書の要諦はない。そして、単なる美辞麗句でない自分の裡から滲み出るよな、その人の凡庸な個性の発露のやむにやまれなさがあるとこの営為こそが、その人にとっての書くことであって、だから自分の文章が受賞作品とかとぜんぜんちがうからって、悲しむ必要はまるでない。作品と直接的な関係性に立つこと。それができてこそじゃないかなって、私は思うから。」
「ま、そういった作品とめぐり合えるかどうかというのもひとつの課題でしょうし、読書がどう生活に位置づけられるかという問題でもあるのでしょうね。とりあえず読書感想文がくだらないというのには同意かしら。野暮な宿題でしょうね。」
「コピペはよくないよーということなのかもだけど、文章というのはある種のテンプレの典型の組み合わせによってできてるものであって、文章の個性というのはそのテンプレの活用の個々人の差異ということだけだったりする。だからネットして文章探してコピペして‥とかでも、ある意味文章なんてこんなものかーって思えちゃうことはあったりするかなって思う。だから、読書感想文なんて宿題くらい、コピペでもよろしなのじゃない? とかいうと怒られるかなだから、とりあえずこのブログの文学エントリは、いくらでもコピペしていいよ。といっても、対話体だからそのまま作文にはできなさそだし、丸々ぜんぶやっちゃうと私の文の調子で先生にほめられることあんまりないよな気もするから、そこは適宜に、上手くやってね。あとは、私の知ったことでないから。」
「対話で、しかも横道にそれること異常に多い書評ばかりだから、ま、危険がないといえば危険ないのかしら? 宿題なんて適当に済ませてもいいとは思うのよね。課題図書というのがまた困りものだし、この手の国語教育は、なんとか改善できないものかしら。」
2008/07/19/Sat
「五話は黒崎母子の内職話。ダンボールが何度となくとり上げられたのは笑っちゃったけど、ダンボールで寝ると温かというのはほんとのこと。お布団なくてもダンボールあれば、それなり快適に夜をすごせるから、ダンボールの応用力というのはすごいのあるかな。とかいっちゃうと、如何にも私がダンボールで寝てるふうだけど、うーん‥、これは私の先生がいってたことなんだけど、その先生は若いころあんまりお金なくて、それで布団買えなくて、ダンボールで睡眠とる生活してた。そんな貧乏ありのままの日々を送ってた先生だったけど、あるときうまい具合に彼女ができて‥という言い方も失礼だけど‥ある日、「今日、あなたの部屋に行きたいの‥」とか告白された。女性みずからそんなこというなんてーって衝撃受けた先生だけど、喜びよりは冷徹な現実感覚に先生は忠実で、さて彼女に自分の部屋には布団なくて、そういったことするにはすごく不適合なことを、どうやって説明するかに頭悩ましてた。」
「‥いや、それ最悪ね。まさかダンボールでやれというわけじゃないでしょうね。」
「それもどこかロマンチック? ‥困った先生は、正直に告白することにして、お布団もってないんだよってアピールするに至るのだけど、当の女性は「私はあなたがどれくらい貧乏か知ってる。だから今さらそんなこといわないでっ。」って、あくまで乗り気なご様子で、それならばと先生は彼女を伴って部屋に入って、そして畳のうえに敷かれたダンボールを指差した。絶句した彼女は部屋をつと飛び出して、そのあと音沙汰は杳として知れなかった‥」
「‥非常に暗い話ね。ダンボールがいくら便利といっても、それに頼りすぎなのは駄目なのでしょう。」
「六話は珠美さんと白鳥さんのいろいろな話。珠美さんが白鳥さんの品定め、といったとこかな? 彼女はなかなか屈折してて、みててけっこう楽しい人なのかも。白鳥さんみたいに、自身の立場と性質をよくわきまえてて、そのうえでそれをネガティブでなくてある種の諦観をもって受容できてる人というのは、珠美さんみたいな人にとっては、たぶんある種のコンプレックスを抱かせちゃうのかもかな。何より自分自身に納得できてないのは珠美さん、かな。そこらはこれからの物語の展開に、期待かな。」
「ま、そう単純な問題でもないのでしょうね。しかしそれをいえば、今までこの物語に出てくる人物は皆、どこか欠損を抱えているふうにも見えるかしら。はてさて、穏やかな外観とは裏腹、この作品はなかなか手ごたえがありそうね。それは楽しみよ。」
2008/07/19/Sat
「今回は乃木坂さんと綾瀬さんが秋葉原でデート、ということで、なんだけっこうふつうに付きあえてるのでない。ちょっと意外‥でもないのかな。綾瀬さんというのがべつに偏見なければ、お嬢さま相手だからって気張るというふうでもなくて、自然に凡庸に接しられてるということなら、この二人はけっこうよろしなのかもしれない。乃木坂さんも、またいい人見つけたのかもかな。ガシャポンにこると、あとがたいへんかもだけど。」
「秋葉でデート、ね。ま、ピンと来るといえば来るし、今の秋葉はそういうふうに楽しむべき街なのかしれないかしらね。秋葉原を聖地とかいうのも、時代的な共同幻想といったところなのでしょう。べつな言い方をすれば、秋葉原ほど時代を映す象徴的な場所もないのかしれないかしらね。」
「秋葉原論をぶつつもりはないけれど、かな。外人さんが抱く秋葉イメージも、そういった意味では世界的時代的な相貌を、秋葉に見出しいてるからなのかもね。‥とかいっちゃうと、ちょっと話が大仰かなだけど。うーん、話を乃木坂さんに戻すとして、‥乃木坂さんはオタクとして自然体だなって思った。彼女はなんかこう、メディア的なオタク像に左右されてそのスタイルを被ってるとかじゃなくて、ふつうに好きなものを好きなものとして、その好きさの自然な発露として秋葉に来てる。これはけっこう好感もてるし、べつな言い方すれば、昨今のオタク像のナチュラルな天然さんを模索した成果が、この乃木坂さんなのかもしれない。あれだよね、孤独にオタクやってたというのもよかったのでないかな。群れちゃうとどうしても、その集団内での流行に影響されちゃうもので、みずから望む、自然にそうあれるところの私‥というのからは、どうしても乖離しちゃう部分があって、それは如何ともしがたいとこ。ただ乃木坂さんは周囲に同調して騒げるからという理由からでなくて‥そういった理由からオタクやる人もぜんぜんわるいと私は思わないけど‥ある種、自分を救ってくれた恩恵としてまで、その趣味を愛好してる。そして、だからそこには軽くない思いがある。‥もしかしたら、彼女は「らき☆すた」のこなたとかとは正反対の位置にいる人なのかな。性格として、そして趣味に対する重きの置き方のちがいとして。」
「彼女はなかなかどうして趣味に対してはへんに自分を飾ったりしないのよね。それは趣味を本来の意味での趣味として、楽しむことができているからなのでしょう。ま、なかなか好印象の人ね。現時点では、彼女をそう嫌いにはなれないかしら。さて、次回はどう展開するかしら。」
2008/07/18/Fri
スクール水着廃止など、モンスターペアレント対応者の体験談が話題に。『A氏はエピソードを紹介するに当たって「思い出すと治ったはずの胃潰瘍が…」としており、かなりつらい経験だった模様。閲覧者からは「子供がかわいそう」という意見が多数寄せられているが、それについて「まさにその通り。『お母さん止めて!』『アンタノタメデショ!』のやり取りのむなしさは異常」と述べている。』
「子どもがかわいそう、というのが、伝わらない、伝わらない、伝わらない。ほんとに、伝わらない。この問題のむずかしいとこは、親御さんたちが問題意識をもってないということで、それはつまり危機意識をもちえないということで、その負担は何より子どもにかかってくる。そして、その子どもへの負担というのはちょっとやそっとじゃなくなるものでなくて‥こういうとなんだけど、たぶん生涯重荷となって背負ってくほかない。そこが、どうにもつらいかな。」
「ある意味無邪気なのよね。こういった親御さんたちというのは、無邪気さゆえに子どもへ依存気味となり、そして子どもも親に倣って共依存の形をとっていれば、まだいいのでしょうけど、しかしそうは長くはつづかない。もちろん周囲にとってはそれでも災難でしょうが、共依存の状態なら、親子関係自体はなんとかなるのよね。しかし大概、子どもはいずれそういった親子関係への疑惑をもつもので、さてそこから親離れできるかといえば、ま、はてさてといったところでしょう。」
「あなたのために、というのなんだよね。私はこのことを私のためにしてるのでなくて、あなたのためにしてるのだ。だからあなたのことをこんなに思ってる私の行為は正当化されるべきもので、それをまさか非難するなんて、親の愛情ってものわかってない!‥とかかな。ほんとにこんなふうに思っちゃってるのが問題であって、そしてこの言説の厄介なとこは何かなっていえば、それは親子の絆というのを主張の根拠としてるとこなんだよね。だれも、その愛を、疑うことなんてできない。他人ならなおさら。そして子どもになら、それはまた別種の困難さがあらわれるもの。この問題のぜんぶの元凶は、しいていえば愛であって、あなたを理解できるんだって愛の傲慢さ。他者を自分とちがう他者として、放っておけない、愛の強さ。そしてその愛にかこつけて、我欲を陰に忍ばせる、その無邪気さ。‥かんたんに行く問題でないよね。それが家族の問題ならよけいに。愛の、絆の、冷たく地獄めいた問題なら、よけいに。」
「浅慮な愛の表現、とでもいえば、きついのかしらね。ただ家族というもっとも基本的な集団で起こる苦しみと葛藤だから、この種の問題は、人に大きく影を落とすことになる。その影のしんどさというのは、だれが語れるものかしらね。当事者しかわからないし、そして当事者には解決の糸口さえ見つけられない問題よ。さて、どう考えれば、いいのかしら。」
2008/07/18/Fri
「忘れられないことというのは、いくつかある。たとえばこんなの。むかし私の幼なじみのひとりというのがいて、よくいっしょに遊んでたらしいのだけど‥らしいのだけど、というのは、私はそれをぜんぜんおぼえてなかったから。今でもぜんぜんおぼえてないし、薄れちゃった記憶を探っても、ぼんやりとした光景が掠めるだけで、あなたと私は幼なじみなんだよっていわれても、私ははっきりと首肯することできない‥彼と私は、それほど趣味とかあってなくて、性格的には対照といってもいいくらい。彼が活発的なお調子者だとすると、私はいつのまにかひとりでいて、彼のふざけてる様子をなんの気なしに眺めてるというふうだった。‥それで、数年たって再会したわけだけれど、私はぜんぜん彼のことおぼえてないし、彼にしても私に対してそう感興あるということでもなかった。それはそう。そんなものだよね。ということで、自然、お互いにどうでもいいかなーって他人らしい、ちょっとだけ知り合いなのみたいな、よくある関係性が構築されたわけだけど、ただひとつだけ共通したことというのがあって、それは二人ともなぜか剣道してるってことだった。なんでかな。私はだらだらとやってたし、彼もだらだらと剣道やってたけど、なんでか止めるという選択は二人ともしなくて、そののち学校別れて滅多に会うことなくなっても、剣道の縁でときたま再会して話したりすることは、周期的に訪れた。会うたびにろくでもない話ばかりで、あるときは私がばかにされてるの見て私の友だちが彼に憤ったりしたのだけど、むかしからあんなだからべつにいんだよって、私が逆に友だちをなだめることになったのは、今もってふしぎ。なんでかな。‥ただそうやって剣道やってる彼を、むかしからの彼の一応の知り合いである私が、たぶんいちばん長く見てたのだと思うし、彼のそういった側面は、彼と親しい人たちは、逆に知る機会はあんまりなかったんじゃないかなって思う。だからそう、彼の告別の場においても、私は少し身の置き所がわかんなかった。彼の剣道のばからしい側面を、如実におぼえてるのは私だけだろなって思う。そして今ではその記憶もだいぶあいまいになってきてる。それなのに、その記憶の意味するところと、その記憶が私に抱かせる感情が、私にある問題を提出してる。その問題に、あれからどれだけ経とうと、私は心を煩わさせてる。」
「そういえば、彼はカトリックだったかしらね。ま、それが何を意味するかは、いろいろ思わせられるものがあるかもしれないでしょうけど。」
「本書、クシュナーの苦しみと悲しみと経験と、心の言葉のあらわれであるこの本は、あるとても明快で、そしてひどく身近で、そのために、底知れないほど人間的な、人間ゆえの、問題と世界の深奥が、問われ、考え、悩みぬかれて、言及されている。この本が提起する問題に、たぶん人は、いつかその人なりの形において、ふれえることになるのじゃないかな。そしてだからこの本は、何度も何度も読み考えなきゃいけない、強度というも愚かな、ある遥かさがある。そしてやさしさがある。たぶん本書は、人が人に、そして人が世界に、人が神に対してする、問いかけであって、それよりもっと申し立てであるのだろな。この本は読むべきだと思う。なんでかな、ほかに上手い言い方が思いつかない。読んでおく、べきだと思う。私からはそれ以上ないや。あとは私の見知ることのない遠い人にこそ、託すべきこと、かな。」
「ヨブ記についても、本書によって目を開かれた箇所が幾度となくあったかしらね。このように聖書が読めることかしら。そして宗教をこういう形で解することが、果してできることかしら。新鮮なおどろきと、そしてよろこびと、言葉にいえないむずかしく重く、深いものが手渡された感触かしらね。それをこそ、思うべきなのでしょう。」
H・S・クシュナー「なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記」
2008/07/17/Thu
「大家さんはぬくぬくな人、ということで、梢さんみたいな天然系の人というのはそれだけでもうたまらない魅力があるもので‥それは邪心とかないふうに思えて、歪で複雑な人間関係に処することを求められてる社会的存在な現代人の視点からだからよけいなのかもだけど‥けっこうな人がこの手の天然系な人にころっと参っちゃう。というか、たいていの人は天然純真な人が直接向けてくれる好意には免疫ないもので、それでそんな天然純真な恋人というのを、人は‥ときには一生かけてでも‥探し求めてるのかもしれない。‥何かほかに思惑なくて、ただやさしさから接してくれるというふうなのって、そんな状況と場合、あんまりないものね。みずからの孤独をそのぬくぬくで埋めあわせできるかもかなって期待しちゃうとこに、天然純真に人が憧れるってことの理由があるのかな。少しわかんないけど。」
「なんというか損得勘定なしに接してくれるというだけで、そこには何か解放感があるのかしれないかしらね。人は仕事なりプライベートなりで顔というかペルソナを使い分けているものなのでしょうけど、そういった計算ぬきに生きてる天然系の人を見ることは、愚かと思うことこそあれ、それよりもある種の感動を覚えてしまうのでしょう。そして、叶うことならそういった人と生活してみたいってことかしらね。ま、天然ピュアな人に憧れるというのは、考えればこれほど自然なこともないのでしょう。」
「でも天然な人って、そう単純でもないけどね。‥あー、でも私も天然な人って好きなのかもかな。スケッチブックの空とか、ひとひらの麦ちゃんとかちょこっと天然っていえば、天然なとこもあるかなって気がするし‥。‥天然さんってさ、でもあれだよね、天然な人はみずから好きで素でいるのでなくて、そうあるほかなくて天然であるから、そこには彼ないし彼女にしかわかることのできない、ほかの人からすれば意外な‥ともとれる、孤独があったりする。そして天然さんの抱く孤独というのは、ふつうの人がいう孤独とちょっと趣が変わってるようで、彼らの思う自身のコンプレックスは、なんだかちょっとほかの人には手の届きようのない場所にあって、それをその天然さん以外が手助けしてあげるとかは、無理っぽい、かな。もちろんだからどうこういうのでないけれど、梢さんもなんとなく私には、そう楽に生きてるようでもないみたい、って気がする。そこはたぶん、他者から見えにくい位置なのかもだけど。」
「天然であれることが幸か不幸かは、単純に言い切れることではない、か。ま、そうでしょうね。そして天然な人というのは、みずからの不幸や不運を、その天然さによって、おどろくほど従順に受け入れたりもしてるから、端から見てると辛いと思う部分もあるかしら。ま、それがその人の人柄といえば、これ以上何もいえなくなってしまうのでしょうけど。」
2008/07/16/Wed
インターネット時代の「孤独」『「自分の周りには誰もわかってくれる人がいない」という孤独と、「どこかにわかってくれる人がいる」と信じて投げたボールがどこからも返ってこない現実を突きつけられる孤独。後者は、たぶん、インターネット時代になってはじめて、「普通の人」たちも直面することになった「新たな孤独」だ。
さて、この「孤独」は、どうやって癒せばいいのだるうか。』
「こういう言い方はおかしいのかもしれないけれど、私はさいしょから私に興味をもってくれる人を期待してネットにアクセスしたわけでなかった。そもそもブログなんてやる気ぜんぜんなかったし、ここをはじめたのも他人の勧めがあったからで、それがなかったらまるでネットに文章綴るなんて思いもしなかったな。そして、私が読んでるよな本の感想探しても、そうネット上では見つからなかったし、それは現実での私の活動と大して変わらない感触を得るものでしかなかった。そういった意味で、私はネットに何も期待などしてなかった。とかいって、いいのかな。」
「そもそも反応をそれほど期待してなかったということかしらね。ま、少し捻くれた見方といえば、そうなのでしょうけど。」
「ただ、何かな、それほど見渡しても私の興味抱いてるようなことに同じように感慨もってる人はそんな見かけないとしても、でもそれでもネット上に私とはちがった形での、私と似た思いを抱えてる人は、だいぶいた。そしてその発見は、また私にとっておどろきで、そして他者という存在に、世界って広大な地平に、新たな相貌を確信するのに十分なものが、ネットには転がってた。いろいろな人がいるな、と思う。そして、こういう言い方はあれれかもしれないけど、私はさいしょから他人に何も期待してなかったし、他人に興味も、ほとんどない。ほかの人なんてどうでもいっかなって、気安く思っちゃう心のなかのある箇所が、私という人間の、大切な一部を成している。ただそういった孤独という原点のうえにあっても、ネットにはある種の思いとやさしさが、いたくこびりついてる一面があって、それにふれえたとき、私はネットを捨てることがなかなかできない立場に立たされてた。孤独を言葉に滲ませることは、ときに必要だよ。そして、孤独はどこまでいっても癒せるものでないよ。そんな当り前の事実は、でもそれでも、なかなか人に伝えられるものでないし、そんなこという人間は、相応のばかさ加減から免れないのだと思う。だから私も、相応にばかかなって、思うことに何よりしてる。だから勘弁して、くださいね。ネットでちょっとした出会いというのも、他生の縁というほか、ないものなのだから。」
「頭のいい人間はたくさんいるものでしょうし、利巧な人間は、ネットにおいても現実と変わらず、利巧にふるまえるものなのでしょう。しかし、そうできない人間もいて、そして利巧だからといって彼が孤独の内面をネットに見える顔に、滲ませてくれるとは限らない。もちろん、孤独な人間が増えればいいということでもないものでしょう。ただ利巧であるだけじゃ、あれなのよね。ま、そこらは上手く言葉にできないし、するものでもないのでしょう。はてさてというものよ。」
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薄く奇妙な縁
2008/07/16/Wed
「信じることというのは、自分のこと‥たいていは未来について。人は過去については信心を向けない‥を、自分の外部に意志として託す、というふうにいえるかな。いったん何かを信じるって決めちゃうことは、それは自分の力の及ばない範囲に、自分の進退の鍵を預けるということで、何かを信じはじめたとき、もうその成否は自分には係ってない。私はあなたを信じるよっていったとき、あなたが私を裏切るか裏切らないかは、私にでなくて、あなたに全責任が係ってるんだよね。だからその意味で、何かを信じるってことは責任をほかに依存するということでもあって、信じるということ自体には、少し自己勝手なとこがある。もちろん、これが信仰ということになると、またちょっと意味あいがちがってくる。どうちがってくるのかなっていうと、これはまた少しむずかしいのだけど。」
「信じることというのは、自分の未来をどこか知らない場所に放る、ということでもあるのかしらね。何かを信じると決意したとき、その信じたことの成行如何は、すでに己の手を離れ、どこか超越的なものに委ねられているということかしら。それはそれで、場合によれば賢明な判断かしらね。気が楽になる、という側面はあるのでしょう。何かを信じることによって。」
「でもそれが、夢を信じるとかそういうこととかだと、なんだかちょっと趣は変わってくる気がする。‥夢を信じるか? そう自分に問いかけてみて、べつに私は信じてないな、というか、そうつよく思う事柄もないかな、みたいに思う。かといって、夢をみるなんてばからしいのだー。現実みて冷静に判断しなきゃだめだめじゃないかー、とかも思わない。夢見てないで現実見なさいよって言説は、それはポジショントークであって権力意識であって、夢を信じない代わりに現実を代替してるだけだから。私は現実も、そう信じてない。目が覚めて自分が胡蝶だったとしても、とくにありかなとか、醒めてて思う。たぶん、夢も現実も、私にとっては信じる対象でない。」
「またずいぶんと何がなにやらという話題に突入してきた観があるかしらね。さて、どうなるかしら。」
「うんと、そだね。‥信じるって問題はそう考えてくとふしぎにむずかしい側面があるし、サド侯爵はもしかしたら現実も希望も信じられなくなったがために、あんなに獄中、書くことに執着したのかな、とも思う。現実の辛酸を嘗めつくした侯爵は、だから筆のもたらしてくれる空想の蜜に浸ることに固執したのだろし、書くことというのは、そこまでのどん底から這い出てくるものでもあるのかな。そしてつまり「愛を信じる」という命題について、快楽しかないって暗闇のバスティーユの底で絶叫するからこそサドは、ある人間性の表現の‥不信心の行き着く先の‥到達者足りえたのでなかったかな。‥でも、快楽をのみ見つめた侯爵の文章は、快楽っていうくり返されるなら単調にならざるえない機械的な反復に、サドの文学自体もはまってゆき、結果として、サドの作品群はある退屈なユートピアの無限を、その身を以て示すことになったんだと思う。‥いつのまにかサドの話になっちゃった。ほんとはもうちょっとべつな方面の話にしよかなって思ってたけど、これもこれ、一興かな。サドの亡霊に、私はまたもや、囁かれたみたい。やになっちゃう、な。」
「サドの孤独なディストピア、かしらね。愛を否定しきるがために、サドの世界は快楽のほかない人間味の失われた機械的理想郷を呈することとなった。快楽だけでは、人は生きられないのでしょう。ま、さもありなんというものよ。しかし、愛の問題は、それでも立ち塞がる。厄介ね、本当。」
2008/07/15/Tue
「何を信じるかとか、だれを信じたのかとか、抽象的で禅問答みたいな会話。こういう質問ふられるとこまるよね。レントンさんもこまってた。私もこまる。おじいさんやホランドは二人で事情わかってて、ドラマチックな盛り上がりみせてるけど、蚊帳の外なのが何よりこまりもの。どう反応していいか、わかんないじゃん。でもとりあえず、そんな抽象的な会話はおいといて、目の前の生の現実感覚を教えてくれる暖かいエウレカの言葉それこそが、レントンの進退を決定する強力な一因なのは、レントンさんくらいの人の心理を考えててよかったかな。彼にとっては色褪せた現実の象徴でしかない故郷の街並を去るのに、おじいさんの必死の言葉は届かないものね。そこは、ちょっと哀愁気味に思っちゃったり。」
「ま、ホランドとの会話もね、わけわからないといえばわからないものだし。それよりかはカットバックドロップターンを決めたこと、何より好みの少女に求められたことこそが、レントンの旅立ちの決定因となるのは、物語の動機の説得力としては妥当よね。思ったよりていねいな作りでいいのじゃないのかしら。」
「セブンスウェル現象とかなんなのかー、だけど。謎の多いニルヴァーシュ。そしてやっぱり東洋的な思想的背景の感じられるキャラクター間の会話。‥求めよ、さすれば与えられんというのは聖書だけど。何度も何度も主人公としてのレントンの意志を確認してるのは印象的だったかな。もちろん、意志というのがすべてを決めるものではないけれど、ただ、世界たるものに積極的に関係性を打ちたてようとみずからを投じる覚悟をもつものこそ、世界はそれに対して答えるかもしれないというのは、なかなかどうして、かっこいい文句ではあるかな。‥レントンはこれから旅立つのだろけど、でもおじいさんの態度は、やっぱりちょっと気になるかもかな。ホランドのいったとおり、おじいさんは現実をこそ信じてるわけでなくて、そして夢や希望といった浮世離れしたものを信仰してるわけでもけしてない。ある種、不運だけを信じてるのかもしれない。自分の身に起こった不幸だけが、おじいさんの現在を規定してるのかもしれない。それはつらいな、それがおじいさんの生活で、物語はおじいさんから孫さえ奪っちゃうのか‥とかとか思うと、これから先みてく気がいきなりなくなってきちゃう。うーん‥気をとりなおして、次回を楽しみにっ。どうなるかな!」
「はてさてね。新たな出会いあるところに、別れあり、か。ま、そこを云々しても何も変わらないでしょうし、不運は不運でそれだけのことなのでしょう。理由なんて、不幸に求めてもそれは何も応えられないといったところね。しかたない面よ、それは。」
2008/07/14/Mon
夜と街灯の思索道さん
『まじめに受賞狙いで一本書いてみようかなぁと思います。
じゃあいままでどうだったんだって話ですが、どっちかでいえば明らかに自分のために書いてました。本当に読む人のことを考えるなら、思うがままに場面だけつらねても無意味ってことを解ってないといけません。何となくで書いていたのをちょっと意識改革しようと。』
「なんとなく懐かしくなっちゃったので。私も以前はそういった小説を書いて賞なりに応募してた人間だけど、今ではだいぶご無沙汰。すっかり小説を書くってことから離れちゃったなって、ちょっと自嘲気味に思うかな。‥それで、受賞を狙うというなら、それは賞ごとにその賞なりの特色というのがあるもので、まずそれを把握して自分の個性と合致するかどうかを考えることが大切。いえば、自分らしい作品がいちばん当てはまる賞を選ぶことなんだよね。さらにいえばこの各賞なりの特色というのは、せんじ詰めればその賞を主催してる出版社が、どの市場を目して作家と作品を集めてるかということと密接に係ってて、賞の特色というのはけっきょくのとこどんな読者層を視野に入れてるかってことだったりする。ここらはなまぐさい話で、作家さんにはめんどくさい話なのだけどね。あんまり各賞の特色にあわせた作品作らなきゃ!って気張っても、それはそれで微妙なことになっちゃうからむずかしい話。めんどいね。」
「ま、実際のところ、賞を分析してもっとも取りやすい文学賞に応募するということは、なかなかどうしてできないことなのよね。小説を書くような人間ならなおさら、そこらの機微を求めても酷というものでしょう。」
「たぶん、ここらは運のファクターも混じるんだよね。ぴったり自分の感性に適した出版社と賞を選べるというのは、そう苦心しても見返りあるかというと疑問かな。‥それで、となると問題は自分に適した賞を探すことに拘泥するということでなくて、どれだけいい作品を作れるかってことに懸かってくる。そして、それがほんとにいい作品だったなら、たとえ自分の作品の色とぜんぜん不適切な賞に応募したとしても、かならずなんらかの反応は返ってくる。たとえば最終審査に残るとか、編集者が連絡くれるとか。‥そしてたぶんここからが鍵。何回か小説書いて最終審査の常連あたりになってくると、自分に何が足りないのかなってことに意識が向いてくる。そして人はだいたい二通りに分れるもので、ひとつは小説の賞をとることに固執して、何度も何度も作品を練り上げて出版賞に挑む場合。途中でリタイヤしちゃったり、賞をとったけれどそのあとがあれれだったり、そこはそれぞれ。二つ目は、賞まで後一歩のとこまでこぎつけて、そしたら、賞をとる以外のちがう可能性が見えてきた場合。‥私は後者だった。ある意味、文学の視野がそのときはじめて開けた。それはそれで、けっこう楽しい世界だった。」
「こういった芸術的な分野だと、結局は才能がすべてとかいう文句が幅を利かせるものだけれど、実は才能でどうにかなる部分というのは、本当、限られたものなのよね。だから小説を書くに当り、才能がないとかいうことは言い訳にすらならないことなのでしょう。書くというのは、もっとどん底なまでに孤独の営為なのでしょう。それは死ぬほどに、かしらね。はてさてよ。」
2008/07/14/Mon
「テキストを読み解く力、なんてこと漠然といったけどその実地における発揮をみるなら、竹田青嗣先生の本書に展開されるプラトン読解を見てくのが、いちばん簡便じゃないかなって思う。テキストそのものに寄りそってていねいに現代思想にとっては誤解の的であるプラトン像を、本来あるべき文脈と著書と歴史的背景において再構成してく姿は、とてもないおもしろさを秘めてる。率直にいって、私にはこの本はすごくおもしろかった。プラトンの説くエロスと哲人国家の理念においては、私も今までもってた考えを改めなきゃいけないかなって気がずいぶんとした。以前はこんなの(→
「車輪の国、向日葵の少女」 アンチプラトンの傑作 倫理、光)書いたけど、今ならこうまで直截には書けないかな。いくつかの私のプラトン理解において、ふかい示唆を与えられた気がする。そこがとてもよかった。」
「プラトン哲学の全編にわたって精細な考察を展開してくれるから、プラトンの全貌を一通り俯瞰するという意味においては、本書はたいへん有益なものがあるでしょうね。しかし、プラトン入門と題されてはいるけれど、ある程度プラトンの著作と思想に親しんでなければまたよけいな誤解を与えそうでもあるかしらね。ま、そこらはどんな入門書なり解説書なりにもいえてしまうことなのだけれど。」
「だから原典に当らなきゃーって私は思うのだけれどー。でもあんまりくり返すのもしつこいから、ここらでこれはもういわない。‥あとはそだな、現代においてプラトニックな恋愛なんて表現はすっかり定着した観があるけれど、でもその語源となったプラトンのエロス理論が、プラトニックなふうというような言葉から印象づけられる肉欲をきらった、ことに精神ばかりを重んじる恋愛観‥みたいに解釈することは実は誤ってる。プラトンの「饗宴」あたりを読んでみればわかることだけれど、プラトンは実際性欲的なエロスを貶めてるわけでなくて、その上位に精神的なエロスがあるとはしたけれど、肉欲自体をばっさり切り捨ててるというわけでない。それはバタイユが説いたようなエロティシズムのなかにある種の不死性、永遠性を観取するということであって、そこにプラトンがこの世の原型たるイデアの最上位として善のイデアを提示した意味がある。そこを踏まえなきゃ、プラトンのエロス理論は錯雑めいたことになっちゃう。」
「この善のイデアというのがまた曲者なのよね。ま、しかしそれとはべつに、プラトンが決して地上的なエロスと天上的なエロスを対立的に扱ったわけではないということは注目されてよいことかしら。これを鑑みれば、さらにスタンダールやトルストイといった近代恋愛小説の対立の潮流や、サドやニーチェといった哲学的なエロス理解についてもある光明が得られることでしょう。」
『恋を知って、それまで世界の何についても深く思わなかったことをはじめて知るという権中納言敦忠の歌(あひ見ての後の心にくらぶれば昔は物も思はざりけり)がある。恋を知ってはじめて美しいという言葉の意味に深く触れる、というスタンダールの言葉もある。これらはいずれも、恋を知るとき人ははじめて、自己のうちから何かが現れ出て自己を超えた何者かと結びつくような可能性を直観する、という本質考察と深くむすびついている。
プラトンはこの自己なるものを超えた何者かを、「永遠」という言葉で呼ぶ。これはごく素朴にいえば、有限な生をもつ人間が永遠なものに憧れるということだが、一歩間違うと形而上学的な思考を呼びそうな言葉でもある。だがおそらくそうではない。彼はここで、「恋」という言葉を何かを「生み出す」ことへの憧れ、希求として使っており、そしてこの欲求の底には必ず「永遠なるもの」、「不死なるもの」への思いがある、というのだ。』
竹田青嗣「プラトン入門」
「愛には相手を自分のものだけにしたい、所有したい、そういうことだけでない常ならない側面というのがかならずあって、その思いを、ここにプラトンはイデアという卓抜な語によって刻みつけたのかもしれないなって、私はふと思ったりする。超越というのは、べつに高尚ぶった難解な性格のものでない。それは美に焦がれる人間の普遍的なあり方なのだから。私は本書を読んで、プラトンについてまた課題が増えたかなって、興味ふかく、沈思する。」
「プラトン理解における諸々の困難や壁、しかしそれにまつわるおもしろさを、見事に詳述してみせたのが本書ということかしらね。プラトン思想にふれる者にとって、本書はたしかに有益な一助となるのでないかしら。」
竹田青嗣「プラトン入門」