2008/08/31/Sun
「物語は二つの悲劇を軸に進む。ひとつは主人公泰子の親友、トシが愛人のために横領を働き、そのため捕縛されるというもの。そしてもひとつは泰子の学生時代の仲よかった青年である西が、過激派の思想に被れ、ハイジャックを決行し、そのあと射殺されるというもの。後者の左派的思想のために身を滅ぼすというのは、現代の感覚からいえば歴史を感じさせるものであるし、それをこうした小説のキーに組みこむとこに、私たちは時代性をふかく実感するという部分があるかなって思う。それに対して前者の、ろくでない男に惚れちゃって、それゆえ身をもち崩す純真な‥そしてもっといってよければ、愚かな、女性の姿というものは、どのとき、場所にもうかがえるであろう、ある女性心理の典型の側面を描いたもので、これは現代にも直に通ずるものあるかなって気がする。どちらの事案にせよ、主人公の泰子はふかく関係した人物の起す悲劇に直面するのであって、その両者が形は異なれど人生を‥常識的な意見からいえば‥終らせちゃったのであって、至極真っ当な感性をもち、常識人であり、そして知性ある女性の典型であった泰子は、そこから深甚な影響を受ける。‥まさかあの人がこんなふうになるなんて、とかいうのかな。問われてるのは生き方の相違、そしてそこにあらわれる理解を絶した他者という像。」
「頭のよい、語学に優れたインテリの女性である泰子の姿は、まじめでありかといって頭が固いというわけでもなく、とても好感のもてる人物なのよね。ただ彼女の周囲にいたトシと西という二人は、それぞれ人生の暗黒面を体験した。彼らの価値観というのは、泰子には予想できるけれど、真には理解できない。思想のため命を滅ぼした西に、駄目な男のため犯罪に手を染めるトシ。学生時代にはまるで予想もしなかった事態に人生の局面はかち当る、か。これはけっこう、万人に起りうることかしらね。未来というものは、思いもよらない方角に向くことがあるという意味で。」
「人生の先はわからない、かな。そして他者がわからない側面に転ぶとき、人は人生の意味性というのを考えちゃうもので、泰子もまたその疑問に囚われる。死んだ彼女の母親は、善いもの美しいものへの価値を第一においたのだけど、その実体といえば泰子には雲をつかむようなもの。何もわからなかった。‥善いもの、美しきもの。それらはまるで砂の城、か。‥人生の意味というのはときたま人がだれ問わず考えこんじゃう陥穽のようなもので、だれに対してでもなく、私が生きた、存在した意味は?と問うこと自体が、すでに禅問答の形であり、それに明確な答えがないということは、少しなり悩んだことのある人なら、だれもが知ってることではあるかな。それだけのこととして、その疑問は万人に備わってる。でもだからこそ、そこには万人が落ちこむある悪の誘惑に似た罠があるもので、人生の意味を決定的に理解しえないなら生きる価値さえないと断じちゃう人がときにある理由にはある種の正当性があるのであり、そういうことにはまったとき、思想や宗教は、麻薬のように個人を魅了する狂気の鍵となる。もちろん、そうなっちゃって人生の価値を一義的に断じちゃってる人がいるなら、それはべたにいって気狂いであるのだろなって思う。ただむずかしいのは、それなら人生の意味とはどう決すべきかって問いは、依然厳然として目の前にあるからであって、なら、人生の意味とは?という問いにどう答えるべきか。どう、対処するべきか‥」
「ここらになると、プラトンや各種哲学者の幸福論なんかを参照したくもなるかしらね。しかし、そういった著作を漫然と読んだところで、人生の意味というものは判然とはしない。なぜならば、人生の意味とは問いがありそれに答えるという類のものではなく、肝心なのは、」
「個人のおかれたその孤独の人生の構造にあるから、かな。人のあり方は人それぞれちがうもので、だからそこから導き出される了解の仕方により、千差万別の相を示すものである。人生の意味は、そのため、明確な姿を帯びることは決してない。でも、そうした了解がまた人生の意味でほんとにイコールなの?と問われれば、また微妙な感じになっちゃうのだけど、ここらの命題は、人間の意識は落ち着くべきとこに落ち着かなきゃ、壊れちゃうって事実にある。すなわち、人生の意味を問うことは、それ自体がすでに、一種の反復なのだよね。だから、問題は、永遠にくり返す。それはまるで崩れるのを承知で積み上げる、砂の城のように‥」
「人間はトラップする、か。はてさてね。その有様はもはや悲劇でなく喜劇の相を示すまでになるのでしょうけど、しかしこの問題は人間の存在の基本にはめ込まれているようにも思われる、か。残酷なことね。そしてその残酷が、この作品においては青春という形式でもって語られているわけね。本当に、厭きれるくらい残酷ね。言葉もなしよ。」
遠藤周作「砂の城」→
善悪の問題、善の階層性の話→
幸福、その全般について
2008/08/30/Sat
「今回は美夏さんかわいくてよかった、というだけの話、かな。デートの極意とかいっちゃってる美夏さんのふるまいはみてて楽しかったし、ある意味彼女がこの作品のなかでいちばん凡庸な描かれ方をされてるから、へんな設定が付与されてないぶん、好感を抱きやすいというのはあるかもかな。少なくとも私にとってはこの作品のなかでいちばん好きなのは美夏さんだし、彼女とはたぶん話しててもきっとおもしろいのだろなって気楽に付きあえる予感がある。逆にこの作品でだれがこわいかなっていえば、それはもう乃木坂さんで、今回、彼女が美夏を負ぶってる綾瀬さんを見て、何もいわないでにこにこしてるとことか、背筋が冷えるものおぼえたし、さいご実行委員に選ばれた綾瀬さんと椎菜さんがクラスのみんなからからかわれてたの見ても、にこにこ笑顔で拍手してた彼女の姿は、うーあー、この人こわいーって私に思わせるに十分だった。いつも笑顔で、乃木坂さんって、たぶん傷を抱えこんじゃう人なのかもかな。嫉妬とかそういった付きあってるなら当然みせるべき感情を抑圧しちゃってるというか、それとも反対に恋人としての余裕からにこにこ笑顔でられるのか。どちらにせよ、なかなか一筋縄でいかない人かなって、私は思った。」
「美夏は非常にわかりやすい性格してるからまだしもとして、姉のほうはなかなかどうも、つかみどころがないのよね。いや、それが今回のエピソードでいくらか判然としたといったところかしら。常に笑顔で、その笑顔はある種の余裕のあらわれであり、また防衛機構の働きでもある、か。そして、ま、たぶん、彼女は裕人との関係には確信めいたものももってるのかしれないかしらね。そういうふうに泰然としてられると、逆に周囲としては恐ろしくもあるのでしょうけど。」
「怖いよねー。乃木坂さんって、ちょっとけっこう何思ってるかわかんなくて、とてもとてもやりづらい感じ。私はたぶん、彼女と合わないな。もちろん合わなくてこまることなんてないけれど、だけど。‥たぶん乃木坂さんは感情表現が下手なんだろね。だから笑顔がデフォルトで身についちゃってて、彼女の本心というのは、前回のお父さんとの確執で判明したように、他者が思ってるそれとだいぶ乖離したものを、彼女はだまって孤独に秘めてる。それはある意味彼女の重荷ともなってるのであり、そこらの心情の機微というのはたぶん妹の美夏でさえ、奥ふかくは入りこめてないなって気がする。それで、肝心なのは恋人の綾瀬さんがそこらのケアができるのかなってとこなのだけど、綾瀬さんって、こういっちゃうとあれだけど、基本的に何も考えてない人なのだよね。今回、美夏さんを何気なく篭絡しちゃった感じだけど、それを彼は意図してやってるのでなくて、無意識的に、なんの作為なしにやさしくあろうとしてやさしくしてたのであって、その行為が相手にどんな感情を抱かせることになるか、そこまで考えが行ってない。もちろんこれはやさしくするなというのでなくて、自分のふるまいの節度というのを彼はあんまり無自覚かな、ということ。そういう態度だといろいろ、厄介なことになっちゃうかもかなって思うけど、でも綾瀬さんはたぶん土壇場までそのことには気づけない人かなって気がする。それは彼の、ある意味自業自得ではあるけれど。」
「もしこれを意識的にしていたとしたら、裕人という人は相当なものだと褒めてもいいのでしょうけどね。ま、そうじゃないんでしょう。彼の行為は一々危うい側面がある。何が不味いのかといえば、他者から向けられる感情というものは、執念めいたものであり、それに一度からめ取られると荷厄介極まりなしよということなのだけれど、ま、その手の人間関係に疎いのが、この手のラブコメの主人公の特徴なのでしょうね。この作品はそこまで泥沼になることもおそらくないでしょうから、ま、だまって見ていましょうか。どうなるかしら?」
2008/08/30/Sat
東方は今尚同人である『東方Projectは商業主義とは今尚相反する位置を固持してゐる。漫画や小説やと色々商業流通に載る作品は出てゐるが、あくまでもそれは「ZUN氏が表現したいままを維持して」だしてゐる。逆に、それが難しいアニメ化などは幾度話が来ても断ってゐるのである。
第一、その商業作品についてみても、正直売る気があるとは思へない内容――品質を下げると言ふ意味ではなく、ファンが求めてゐる物を作ったわけではない――となってゐる。東方求聞史紀にしても文花帖にしても、東方を知らない人間にとっては全く――それどころか、原作をやってゐても完全には――理解出来ない内容となってゐる。
そして、ZUN氏自身もそれほど売る気で作ってゐない。出版社側から話を聞いて、面白いと思ったものを、自分の表現で出す。乗っかってゐる流通こそ商業だし、出版社側は当然利益を出さなければならないが、当の本人はまるでその気がない*2
言ってみれば、ZUN氏は東方の産みの親であると同時に、東方を「同人」の枠内に留める砦――作中の言葉を借りれば、同人と商業を隔つ「上海アリス大結界」のやうなものだと言へる』
「良エントリ。そなんだよね。問題は商業主義にすべしとかそうすべき規模になっちゃってるとかそういうことじゃなくて、創作において金をとることは是か非か、この創作家ならだれもが通るであろう疑問に対する錯雑めいた感情が、たぶん商業と同人についての諸々の話題にはついて回るのだと思う。それで私の意見をいうのなら、資本主義下において作品を発表するのなら、その作品の価値は基本的には売文ですよ、と思う。それはそれがいいとかわるいとかいうのでなくて、それはそういうものだということ。作品を売るというならそれはもうすでに売文にほかならないということであって、それに対してよいだのわるいだのいうのは個人の価値観の相違であり、それ以上のものではないかなと思う。そして、売文であるということは作品をつくることによりご飯を食べるということであって、同人というのはただその作品によってご飯を食べるということを選択してないというだけのことなのでない? 作品でご飯食べようって思うなら、その人は商業作家を目指せばいいのだし、そうでないなら同人とか趣味とかでやってればよろし。そして、その二つはただご飯を食べるか否かの問題であって、そこにはそもそも善悪の価値観とは相反したものであり、ただ個人の生き方の選択のみが問われてる。創作に対する向きあい方も、ちょっとだけ問われてる。」
「ま、あけすけにいってしまえばそうなのでしょうね。商業主義下での創作というのは、お金を得るということが目的のひとつではあるのでしょうし、それを俗悪とか純粋でないとかいうのなら、それは、ま、有体にいえばセンチメンタリズムに過ぎないのでしょう。そう思う人は、そう思っていればいいというだけのことよ。」
「同人でやってるから純粋とか、商業だから歪んでるとか、そういうことではぜんぜんないんだよね。ただ複雑なのは、これは個人の価値観と倫理意識が大きく問われる領域であって、拝金主義気味の同人サークルはじゃどうなるのかーとか、一概に一般論にできない厄介なテリトリーというのがあって、そこに切りこむのにはたいてい二の足を踏んじゃう。‥もちろんお金を得るということが、わるいということはありえない。お金というのは人の心でもあるから。それはそうというだけであり、それ以上のこともない。ただお金だけで済まされない人の心というのも事実あって、それがあるから同人の気風は未だ絶やされずあるのだろし、そうでなかったら、みんながみんな拝金のためにのみ作品と向きあうのなら、そもそも文化というのはありえなくなっちゃうのだろなって思う。それはある意味人の力ともいえるかなって、私はこの前のコミケをみたとき、思った。あの喧騒は、私はきらいでない。人の力というのを信じさせたくなる何かが、同人の血潮にはあるよな気がして、私はひとりあの喧騒を思いだす。」
「資本主義下での創作が商業的要請から免れないとはいえ、それもまた規模次第ではあるのよね。つまり利益を得ることは必要なのでしょうけど、しかしどれくらいの利益をもって良しとするかは、その規模において増減するものであり、その意味では同人界のヒエラルキーとそう異なるものではないのでしょう。何を目的とするか、それによって正義はそれぞれ異なるのであり、その当り前の多様性を認めることが、この種の問題には大切なのでしょうね。そうしたうえでよりよい展開を模索していくべきで、極論と独断は議論によって駆逐していくべきでしょうね。それが、ま、ベターな選択というものでしょう。」
2008/08/28/Thu
そこにお金が介在する理由はあるのか?「この手の話題はよくわかんないかな。つまるとこお金を稼ぐのは悪だということで、商業主義をからめちゃうとそれはもう純粋なファン活動でなくて、営利目的の金本位なのだから、同人の名を冠するのは正しくないよ、という感じ? たしかにこの類の価値観というのはあって、とくにネットだとアフィリをきらう人は多いって現実に、この問題の根深さは端的にあらわれてるかもかなって思う。これはなんだか、日本人の宿痾ともいうべき傾向なのかな。つまりお金を稼がない、稼ぐ気のない、そういうことには興味ないよってスタンスを尊ぶ美意識。無私たらんとすることが、無根拠に善となる風潮。私心なきが美風とかっていうのかな。これは歴史的にみても、日本人の特徴みたい。」
「自己本位の拝金主義はせせこましい、醜い所業と映るのでしょうね。欲得があるところに悪があるとする考え方。ま、宵の銭を持たずということわざにあるとおり、自分の利益よりも他者に奉仕するところに道徳的価値さえ認めてしまうのが、ある種の伝統であるのでしょう。もちろん、同人という領域はまた別個に複雑な背景があるのは察せるのだけれど。」
「現実には、無私であることが善であるということは一概にいえることじゃないし、拝金主義を表面的に非難することはそれは安易な自己満足を糾弾者に与えるものでしかありえない。ただそうなるとあのサークルは同人とかいって単なる金儲けじゃないかって非難は、どこからどこまでが金儲けであってそうでないかの区別は主観によるものでしかないから、結果として個人の感情の問題として、この話題は落着する。‥肝心なのはたぶん、アマチュアリズムの理想とかいうのでなくて、無私が善でありファンなら無償で活動できるはずだとする考えのほうであって、それを忘れたなら金儲け主義を非難する論者のほうこそが、空虚な理想に囚われちゃうのじゃないかなって思う。‥とここまで書いたけど、じゃ商業と同人の境目があいまいな現状をそれとして肯定していいのかなって問われれば、私はそれに上手く答える術がないなって自覚する。たぶん、同人界全体が過渡期ということなのだろけど、これがどうまとまってくかは、私にはよく予想できないかな。いろいろ微妙な問題はらんでて、軽い意見もいえにくいし。」
「東方に関していえば、同人の他者を顧みない作品性を第一に追求して構わないという芸術的側面をZUNさんは尊重しているというのは各種インタビューで判然とするのだけれど、その周囲はもう傍観者としては何がなにやらわからないくらいの現況かしらね。おそらくこんな状況は長続きはしないのでしょうけど、どう落ち着くか、いつごろ沈静化するかは、ま、はてさてといったところでしょう。とくになんの力もない一ファンは、ぼんやりとしているのがよいかしら。下手にからんでも、どうしようもないでしょうからね。」
2008/08/26/Tue
「物語は戦争末期、米軍捕虜に対して行なわれたという生体実験の模様を、幾人かの視点から多角的に描写し、史実を遠藤周作の長年の疑問、「罪観念のない日本人とはいかなる存在か?」を、ひたすらに問うていく。読んでるさなか、私は本書に率直にいってこれまでにない緊張感を得ることができて、その感触は新鮮なものがあった。ひとつの事件に多重に係ってく人間関係と、それぞれすれ違う思惑、そして心情の行方。ひとつの出来事に対して、どうしてこれほどまでに人たちの思いは交わらないのか、それぞれの懊悩は個々の孤独を形成し、しかしそれでも変わらない実験のため殺されるというひとりの人間の事実。問題となるのは、その殺人という事実に対して決定的な不在である、良心の問題。とても刺激的な作品だった。」
「神の不在ゆえの良心の呵責のない日本人という種族の問題、ね。さてね。ある犯罪行為に、といってもそれは犯罪行為によらずひいては人の倫理の問題なのでしょうけど、一端それらを越える行為をしたならば、人はその事実に恐怖すべきではあるのかしらね。しかし殺人に、やむを得ずとはいえ、手を染めたのに、社会的制裁、世間体のみを人々は真に恐れるのであって、そこには個人の良心というものが存在しない。その、ある意味、日本人らしい貌に、疑問を抱いたのが遠藤ということでしょうね。これはなかなか、尖鋭な問題意識といえるかしら。」
「良心、なんだよね。本書の主題は。戦中、もしこの作中の登場人物の立場に立たされたなら、軍部に反抗し、生体実験なんて非人道的なその行為をすることをお前なら拒絶できたのかってきかれたなら、それに対して自分ならぜったいにそんなひどいこと拒否できた!って答えるのは、たぶんどうしようもないほどの偽善だなって、私は考える。なぜならもし何々だったら私は何々したというのは、それは仮定に仮定を重ねた発言であって、つまり世の物事というのは、結果論でしか語れない場合があるという視点を考慮に入れてないということだから。‥ただ、そう、問われてるのは良心であって、良心というのは簡潔にいえば、孤独な自分が自分以外の多数の他者に向い会う、その契機となるべき面というものであって、つまり良心なき日本人は、決定的な段階においては、人類を裏切るのでないか、私には遠藤はこの著作でそのことをこそ問題においてるような気がする。良心への意識というのが欠けた人間というのは、ひどく狭量で、そして不気味な存在でさへあるのでないか。私にはそのことが問われてる気がする。そのことが、問われてる気がする‥」
「自分が幸せならそれでいい。ほかの人が何をしようが知ったことじゃない。ただしかし、自分には迷惑をかけるな。いいか、他人は人に迷惑をかけてはならない。しかしそうでない限りにおいては、好きにしていいし、そして自分も好きにする‥というのかしらね。ある意味日本人の典型的な思考パターンよ。自分の幸福、そして他者の不干渉。」
「それをぜんぶ否定するわけじゃないけれど、かな。‥ただふしぎな面はあって、日本の大人は、あんまり人生への向きあい方とか、良心のもち方とか、そういった類の問題は考えないよね。そういうので悩むのは中二病とかいっちゃう。そしてそれを克服するのが大人になることだみたいに語っちゃう。でも、それはちがうんじゃないのかな。中学生が悩むような問題って、人は一生抱えていかなきゃいけない問題じゃないのかな。私には、文学の存在意義のひとつはそこにあるよな気がするし、そしてそれをしない思想は、知的なファッションにすぎなくなると思う。でも、そうでないのが、主流かな。そこが日本の知性の個性といえば、そうなのかな、だけど。」
「少し上手くいえないかしらね。ただしかし、神、道徳、良心、そして他者と自身の幸福の兼ね合いの問題。ここらは日本の大人はえてして語りたがらない部分でしょう。なぜ、語らないのか? その謎が、けっこう重要なのよ。なぜ、それは中二病と揶揄されるのか。それが、問題よ。」
遠藤周作「海と毒薬」
2008/08/25/Mon
東方儚月抄が迷走しているみたい。『儚月抄はとてもクセがある。 一般的な伏線も儚月抄では通用しない。
論理的に考えれば考えるほど破綻する。
これはポストモダン的な思考の読者、二次創作者にとっては耐え難いのではないかと思う。
東方の作者であるZUN氏を批判してはいけないのなら沈黙するしかない。
それが東方界隈の答えであると思う。』
「この件について私が思うことはこれ(→
さいきんの東方projectの人気について思うこと)とこれ(→
素材を提供してくれる「東方」というの)。それで、基本的に私は2chの東方スレとかぜんぜん見ない人だから‥その理由はほかの人がこの作品についてどんなこと思ってるのかーってことに興味ないからなのだけど‥この意見もまた私の偏見にしかすぎないものになっちゃうけど、東方って、その作品のコンセプトとしてはそんな人気を衒ってるってとこはないのじゃないかな、と思う。東方という作品群はこういってはなんだけれど、ある意味これ見よがしなほどファンのことを考えちゃいない部分があって、それは端的にいえば儚月抄にあらわれてて、あれが作者の自己満足だーって批判は、いくらでもとおるものだと思う。たとえば十四話とかなんて(→
東方儚月抄 第十四話「金属の戦い」)、ふつうに考えて火雷神とか金山彦命とか、知ってるわけないものね。日本神話においてもそんな重要というふうでもないから、知名度があるなんてとても思えないわけだし、東方のためばかりに日本神話渉猟するなんて人もいないのは、昨今の情勢を考えればすぐわかるというもの。一般の判断からするなら、儚月抄のやってることはそうとう非難されてしかたないものあって、つまり商業作品として提出するなら、儚月抄は危うい部分がないとはいえないってこと。これは作品の質とかでいうのでなくて、あくまで読者の期待を優先するとするのなら‥という留保のもとで話してるのは、わかってね。少なくとも私は儚月抄は楽しいかな。衒学趣味にあふれてて、どこかノスタルジックな作品だなって思ってる。それがさいきんの東方ファンにとって、どう受けとめられるかは危惧する部分はたしかにあるけれど、かな。」
「説明不足というのは何も儚月抄にはじまったことではないのでしょうけどね。ただゲームにおいては「そして誰もいなくなるか?」とか「スワロウテイルバタフライ」とか、一見して元ネタを知らなくても、その場の雰囲気には十分酔わせられる力があった。しかしそれが一端、漫画というフォーマットに移すと、ぽんと「祇園様の力」といわれても、その語がどう作品世界と背景につながっているかを予測するのには、相応の労力が求められるのは当然というべきでしょう。体感するゲームと、読み解く漫画のちがいというのかしらね。そこらを儚月抄は初期コンセプトとして見誤っていたというべきかしら。」
「ゲームと漫画のフォーマットとしての差異のため、かな。それを踏まえれば、儚月抄があんまり評判よくないというのもわかるし、ZUNさんの気質を考えれば、東方がそもそも漫画にそんなに向いたものじゃないというのも、しかたないことかなとは思うかな。‥ちなみに私は儚月抄はREX版しか感想書いてないけど、キャラメルのほうも一応目はとおしてる。ぱれっとのほうは途中でめんどくなってやめちゃった。三誌追わなきゃいけないというのは、これは出版社のミスだったなって私は思ってる。ぜんぶ追ってられないものね。そこは下手な画策をすべきでなかったのでないかなーって、ちょっとだけ苦言を呈してみたり。」
「ま、そもそもわかりやすい作品では決してないということも関係してるのでしょう。作品背景はたしかに独創性があり、他の追随を許さない個性とセンスがあるのでしょうけど、それを読解するに要求する水準は、低くはないのよね。古事記や日本書紀読めともいえないでしょう。本当は読めというべきなのでしょうけど、いえないでしょう。そんなものよ。」
→
趣味が合うとはそもそもどんなことをいってるのだろうか→
オタクという言葉のあらわす現在の混迷さとか
2008/08/25/Mon
「遠藤周作の初期短編集。表題の「月光のドミナ」は自身の生来の気質であるマゾヒズムに苦しめられるある画家の姿を描いたもので、その性心理の描かれ方には鬼気迫るものさえあるなって、私はとてもおどろきをもって読了した。画家千曲は、幼少期のいくつかの出来事を経て、自分の性質たるマゾヒズムに気づくのだけど、その自分という存在から人間性を剥奪して、ただのオブジェとして扱われたいっていう世間からは一般に異常と断じられる性癖に、心の底から苦しみぬき、救い求める姿を遠藤周作はその精緻な筆致でもって描きあらわす。マゾッホさえマゾヒズムの隠微な快楽のさらに核心を見抜けてなかったって言及する箇所はすごかったな。どんな人にだって、軽重の差異こそあれど、サディズムやマゾヒズム的要素というのはあるものだとされるけど、でもそれらが耐えがたいほどの肉欲として人に襲いかかる場合、その人は世間的倫理と性欲っていう悪魔のあいだに非常な戦いを迎えなきゃいけない。そんな運命を甘受して生きなきゃならない場合なら当り前に必然としてその個人にあらわれるであろう運命を、「月光のドミナ」は昂然と描きだしたのだった。‥こういった性の問題の部分に踏みこめる作品というのは、素直にすごいかな。人間の精神が、性という魔にどう食い殺されるのか、そのぎりぎりのところで思われる人間存在のあり方とはなんなのか。とても文学的な問題を、この作品は提出してる。」
「サドには気づけない精神的繊細さ、マゾッホには見抜けない人間の狡さ、そして澁澤にも到底感づけなかった肉欲という悪魔の存在、か。これは文学の技量の問題というより、各々の性格と素質のちがいなのでしょうね。性という未知なる課題に対し、遠藤周作は彼のみに可能だったその才腕によって、実に興味深い性心理の一面を明らかにしている。この短篇の出来具合は、本当にすばらしいものがあるかしら。おどろきね。」
「すごいよね。今まで私があんまり遠藤周作の熱心な読者でなかったことが悔やまれるくらい。あーうー、これから読むよー。ほんとにおもしろかったもん。「月光のドミナ」だけでなくて、戦死者の存在をどう思い、捉えるべきかって疑問を投げかける「寄港地」や、戦争中の罪責によって戦後という昭和の幻想の虚偽性を暴く「松葉杖の男」、そして「あまりに碧い空」、集団ヒステリーの問題と人間の一側面である獣性を曝す「地なり」は、これまた戦争と暴力と人間性の関連についてふかい示唆を提供するものであるし、「パロディ」、「再発」の二篇は夫婦って関係のある空々しさ、男女関係の行末にある種かならず伴う心の空隙っていう問題に、光当てる名篇。全体的にこんなに良質で、そして見事な構成をもった実に興味ある短編集はそうないのでないかな。ほんと、おもしろかった。よかったです。」
「遠藤周作という文学者は、実に隙のない作品群を構成するものかしらと唸らせられるものね。この短篇群が提出するそれぞれの問題意識は、現代の私たちにとってもまた他所事でない真剣みがある。それが何かといえば、人間が人間である場合にこそ問われる、ある意味普遍的なものなのでしょうね。性、死、病、戦争、夫婦。生活と個人。その闇と孤独。見つめるべき世界は、実に真に、あまりに膨大よ。その一端が、この短編集ということなのでしょう。」
『遠ちゃん。あなたがもし此処まで読んでくれたのなら随分、読みづらかったろうね。それよりも僕を軽蔑したでしょう。嫌悪の情をもったでしょう。だが君に与えるそんな軽蔑や嫌悪感を知りながら、僕がこの帳面を君に贈ったのは……本当のことを言おうか。僕はうち明けたかったんだ。自分がまだ他人から拒絶されていないことを願ったからなんだ。どんな浅ましい人間でも人間である以上、拒絶する権利のない作家商売をえらんだ君なら、この僕の孤独だけは察してくれると思ったんだ……』
遠藤周作「月光のドミナ」
遠藤周作「月光のドミナ」
2008/08/24/Sun
「今回は来栖先生と藤矢先生が遊園地でデートする話。‥と書いて、これは予想しなかった展開だーってちょっとどぎまぎ。でも意外と、といったら失礼になっちゃうかもだけど、来栖先生と藤矢先生って、相性よろしなのじゃない。まじめで少しシニカルな藤矢先生と、ちょっと天然気味な来栖先生はちょうどよいのじゃないかな。少なくとも私の目には、もちつもたれつという感じでみてて楽しかった。この二人の関係性は、ぜんぜんありかな。」
「そういったシチュエーションを用意してくれた雛子たちに感謝といいたいところかしらね。しかし、ま、何かしら。来栖先生の薬指の指輪の秘密は、ある意味予想していたことのひとつだったとはいえ、なかなかどうして根は深そうかしらね。婚約者と死別していたという過去を、あっさり吐露してしまう来栖先生もどうかという話よ。藤矢先生が指摘していたとおり、これは無意識には相当堪えていることなのでしょうね。」
「藤矢先生相手だから、あっさりいっちゃった、いえちゃった、というとこなのかな。来栖先生、学生時代から恋人関係にあって、それで卒業したら結婚しようなんて約束してた人がいたなんて、ある意味、雛ちゃんの理想とするような恋愛を、来栖先生は体験してたのだね。でもその恋愛は、相手の死という形で終りを告げたということで、このことは雛ちゃんのふるまいに対し、ある種の思いを読者に抱かせる展開ではあるなって思う。もちろん、死という形のみで恋愛が終るというわけでないし、それは稀なことであるっていえるから、来栖先生の恋愛観もまたいろいろ複雑な形をとってることと思うけど。何か、めんどいかな、これは。」
「好きだった相手が逝去したために、行き場を失った思いを空虚に抱いている女性、か。はてさてね。こういうとあれでしょうけど、死者は強いのよ。そしてその死者に後ろ髪を引かれるというのは、傍の人たちからすれば、とても見ていられないものではあるでしょう。時間のみが、解決できることであるし。」
「これを主題として描いたのが、「
イエスタデイをうたって」になるのかな。この作品は榀子先生って、幼なじみを失ったために思いの空回りの牢獄にはまっちゃった人が、物語上、中心としてあらわされるわけだけど、彼女の自縛した感情を解きほぐせるのは、恋愛でも友情でも、まして仕事ですらなかった。何か特異な心理のトラップが死者にまつわる人の恋情にはあって、それは突き詰めれば罪悪感なのかなって、私は思う。つまり死者に対して操を立てるっていうのかな。死は罪を強固にする。そして盲にもしちゃう。それを人は愛の力でもって打破するのが最良かもしれないけれど、でもその行いにすらある種の罪のにおいはあらわれる。それらが複雑に錯綜する恋愛は、端的にいって悲惨で、その渦中にいる女性を見るのは、私には忍びないな。だって、どしよもないから。何もできない、それを自覚することがあまりに情けなくて、歯がゆいから。」
「死は人を無常にする、か。そういえば、西行が出家したのも友人が死んだからだったかしらね。友人の滅却に世を儚んだ西行は、家族を捨て、世俗を捨て、何もかもを捨ててしまった。死は人をそこまでにする。それに抗えるかなんて、抗えるはずもないでしょう。無理なことなのよ、そもそもが。」
→
西行の娘の悲しみ
2008/08/23/Sat
「たまちゃん部長の正念場、かな。がんばるというのはいいけれど、部に対して仲間に対して責任を感じるというのもいいけれど、そこで微妙に上手くいかない感じに苛立っちゃって、失敗を重ねちゃったたまちゃん部長の姿は、私にはいろいろ思わせられる部分ある。今回どうしていいのかわからなくなって、自分ほんとに情けないって心情を吐露するたまちゃんだけれど、人のうえに立つってときにいちばん戸惑うのは、自分が権力者の立場にあるってことを容赦なく自覚させられちゃうことなのだよね。これは指導される身にあるときとか、生徒とか部下とかの位置にある場合はことさら意識するはずもないことなのだけど、一端何かしら人のうえに立つ状況にはまったとき、さいしょに感じる違和感というのは、自分が権力を行使するということの奇妙な意識なのじゃないかなって、私は思う。人が人を左右する力を実感したとき、そこに有体にいえば、人は怯えちゃうことあるんだよね。これはむずかしい瞬間で、とくに今まで他者に強圧的な態度をとることに慣れてなかった人は、権力者としての自分を意識したとき、微妙に何か奇妙な感覚を感じる。それは何かなっていえば、人を動かすことの少しの罪責、そしてこれは自分のほんとの顔じゃないなって感じの演技してる感覚、そして人を動かすことから生まれる、ある種の快楽。」
「他者を指導し、他者を叱責し、そして他者の成行を左右する立場に立つということは、権力的位置に自分が当てはまるということであり、その事実は通常は、人をびびらせるに足るものがあるのよね。だいたい人を動かす責任には、本来の自分ならこうはしないだろうということまで、ときによってはせざるをえないでしょうし、その感覚は人をどうもたぶらかすというか、困惑させるものがあるのでしょうね。とくにむずかしく考えすぎて自分を追いこんでしまうような人は、その感じはことさら強いのでしょう。」
「私がこんなことしちゃってていいのかな、みたいな感覚っていうのかな。人をつかうとき、そこには何か理想的な仕方や、もっと上手くて理に適った方法があるはずだろなって気がするけれど、でも実際はそうかんたんに行くはずもなくて、それは人間関係に必然的にからむ権力意識が、上の立場の人にはより鮮烈に思われるから。そしてその権力意識は、わるいことかなって思うけど、人の合理性というのを壊しちゃう側面があって、理性的な場合だったらこんなことしないよねってことでも、権力者はしちゃうことがあるし、責任の重圧を感じてる人ならなおさら、自分のふるう権力に逆にふり回されちゃってろくでもないことになっちゃう場合、そんな少なくないかなって思う。つまりたまちゃん部長が夏合宿ではまっちゃったのが、責任のプレッシャーを過度に感じすぎちゃったための権力意識の膨張であって、そのための自滅の過程をみるのは私にはいろいろ、身に滲みるものあったなって思い返す。‥権力なんて、つかいたくないものね。でもつかわなくちゃいけないときがあるもので、でもその権力意識を殺すためにも、やっぱり権力者はそんながんばんないほうがいいのかなって、私は思う。仲間と連帯というのは、そういう意味じゃないのかな。榊部長が抱えてた重責を、後輩たちの存在が軽くしてくれたというのは、よい話であるかなって、私は思う。そうなれたら、よいのだろね。」
「美麗はそこらの権力コントロールが絶妙だったからでしょうね。ま、こういうことはあまりいいたくないけれど、やはり資質という点も介在はしてくるのでしょう。美麗がやっていたようには、たまちゃんはできるはずがない。しかしだからといってたまちゃんが駄目出しされるという道理もない。ただ、理想と現実のギャップというのは、そうそう自意識から無くせるものではないのでしょう。そこらの加減が、むずかしいのかしら。」
「たまちゃんが目蓋に理想としての榊部長を焼きつけてるのは、しかたないよね。でもだからといってそれに固執しちゃったなら、彼女は、自分のふるう権力の刃に逆に傷つく。それの一端が夏合宿であり、そしてその痛みを労ってくれたのが、部員のみんなだった、か。榊部長の再登場は、よかった。大学でも楽しくやってるみたいで、何よりです。そのうち野乃さんあたりの再登場にも期待かな。」
「しかし大学でも野乃と美麗と桂木はいっしょなのね。なんだかひとり仲間はずれの状態の理咲が気になるといえば気になるけれど、ま、ご愛嬌といったところかしら。さて、これでたまちゃん部長の問題は一段落ね。次回からは、どうなることかしら。」
2008/08/23/Sat
「なるほど。この作品はオタクのルサンチマンを結晶化した作品なのだね。オタク趣味だからって偏見もったり軽蔑したりするの最低ーって主張が根元にあって、それを理不尽な親の弾圧っていう形に委託して、そして綾瀬さんの主張によってカタルシスを得る、か。構図自体はひどくわかりやすいし、メッセージ性もすごく単純。そしてだからこそこの作品に対する私の違和感も、より鮮明な形にまとまってきたかなって思った。つまり、特定の趣味を高尚とか下劣とかいって価値判定してしまう人なんかに、私の関心はそもそもないから、今回のエピソードは私にとってはなんだか笑えちゃうくらいのものでしかなかった。他人なんてどうでもいいじゃない。そして、オタク趣味がよいとかわるいとかどうでもいいじゃない。それは単純な二元的価値観の陥穽にはまってる証拠。よいかわるいかなんて考えちゃってる時点で、倒錯しちゃってるんだよ。」
「ま、春香のお父さんが怒ってるにしても、彼自身はその趣味を見聞したことは皆無だと白状してしまっているのよね。それはつまり世間一般に流布してる情報でオタク趣味の成否を決めているということであり、もうそれだけでこの人の器というか、ま、たかは知れるかしら。彼の行動は世間体を気にしてのものでしょう。なら、ああいった大げさな行動も仕方ないのでしょう。」
「でもこういう作品を見ちゃうと、オタクの人っていうのはこういったルサンチマンなりなんなりを抱えちゃってるものなのかなって、逆な意味で不安になってくるかもかな。人の目をそこまで気にすることはないと思うけど。だって、私は私であって、私がこういったことが好きなら、それはもう宿命というほかないことであって、それをどうにかできると思っちゃうほうが、より心の傷を深めることにつながっちゃうのだろなって考えるから。‥たぶん、そのルサンチマンがオタク趣味を営むことをどこかで屈折させちゃうのだろな。自然体でオタクやれてる人って、これは私の少しの観察だけど、あんまりそんないないみたい。どこかで鬱屈感がオタク趣味にはある。そしてそれはこの世界の将来に、ある閉塞的な暗雲を予感させる。その到来は、もしかしたら必然なのかな。これは私の考えすぎかもだけど。」
「どうなってしまうのでしょうね、これ。裕人の主張に心動かされるものがあったかといえば、お世辞にもそうはいえないでしょうし、それであの頑固なお父さんが揺さぶられるというのも、薄っぺらなのよね。美夏の登場に至っては、もう何もいえないでしょうし。はてさて、評価するには微妙な成行になってきたかしら。」
「いちばん違和感あるのは乃木坂さんかな。彼女は、いつからそこまで綾瀬さんを信頼するようになったのだろ。彼女の行動は、どこかちぐはぐ。少し私は彼女の心理がつかめてない。たぶん、乃木坂さんの問題は、せまい人間関係に終始してきたための、自分の軸の不安定さにあるのだと思うのだけど、綾瀬さんには、それを広げることを期待するのは無理みたい。彼は目の前の少女で完結しちゃってるから。それは、傍目には悲しいほどに。」
「趣味云々以前の問題なのよね、乃木坂春香の現状は。しかしそれを気づけないお父さんに彼氏に、か。いろいろ暗鬱になってくるストーリーかしらね。なかなかどうして、これでも考えさせられる作品ではあるのかしら。どうにも笑えない、困ったものではあるのでしょうけどね。」
2008/08/21/Thu
漫画の樹海へご案内さん「男性はなぜ女性向けマンガを読まないのか その2」
『男性がなぜ少女・女性マンガを読まないのか。
周囲の人に聞いてみたところ……
基本は「恥ずかしい」「面白く無さそう」との意見が優勢のよう。
「恥ずかしい」のはともかく、
なぜロクに読みもしないのに「面白く無さそう」だと思うのかを問うと、
「内容が恋愛ばっかり、好きとかキライとかどうでもいいから」との答えが。』
「実はこの問題は、恥ずかしい、というほうが肝心。そもそもなんで少女漫画を恥ずかしいって思うのかなって疑問があって、ここには日本のメディアは元来からして性別隔離の色彩のつよい媒体だったって背景がある。少年ジャンプとかマガジンとかが百万部を越すメディアに成長したとき、その背後にはまちがいなくりぼんとかマーガレットとかの存在があったのだけど、その二つはほとんど重なることなかったんだよね。互いが互いに死角になってた。それは両者の規模を考えれば不自然なくらいで、そこには文化のジェンダーって問題が潜んでる。ジェンダーの問題があるから恥ずかしいって意識が生まれるし、それはたぶん人為的なものだったのでないかなって気も、私はするかな。これはメディア的に形成される男女観というファクターもあって、一概にいえることではけしてないのだけどって留保はつくのだけど、ね。」
「もともとマスメディアが男性文化を基底にして成立してるシステムだからかしらね。そしてそれは社会的に中心的関心事とならざるをえないものであり、それがひいては漫画文化のジェンダーの根強い形成につながっている、ということかしら。あまり性差というのは話題にしたくはないのだけれど、ここらの少年漫画、少女漫画の問題に関しては踏みこまざるをえないかしら。厄介ね。」
「あまり立ち入りたくもない領域かな。だけどここを避けて通っちゃってるのがこれまでの漫画文化であって、でも昨今の萌え文化はそれをごちゃまぜにしちゃって、カオスって秩序を打ち立てることにより、そのこれまでの既成を壊しちゃってる節があるから、その点は私は萌え文化に恩恵を感じてる。‥私はむかしから少年漫画も少女漫画もどっちも気にせず読んできたから、恥ずかしさを感じるって心理はよくわかんないな。「
彼までラブkm」とか、こてこての少女漫画でおもしろいよ。‥だけど、あれはちょっと度がつよすぎるかな。少女漫画の王道といえば王道なのは、私としては疑うとこなしなのだけど、ね。‥たぶん少女漫画はその独自の閉鎖された世界で、「家族と性」の問題を問いつづけちゃったんだろな。そこは、同じく隔離された少年漫画には稀な問題意識で、そしてだから両者が邂逅する場面を私は期待してるのだけど、それがどういう展開で生じるかは、まだわかんない。考えることは、いろいろ、多い。」
「真に考えるべきは、フェミニズム、なのでしょうね。いや、はてさてとしかいいようがない問題なのでしょうけど。しかしそこを誤魔化しては、少年漫画、少女漫画の境界線は永遠に解けないというわけ、か。そして現在は萌え文化があるから、なお奇怪でしょうね。この文化的光景は、はてさて、何を意味しているのかしら? そして何を私たちに見せてくれるのかしら。ま、肩をすくめるしかないというものね。厄介よ。」
2008/08/21/Thu
「吉行淳之介、昭和六十三年にまとめられた随筆集。吉行が逝去したのが平成六年のことだから、これも晩年の作品ということになるのかな。集められた内容としては、表題にある「犬が育てた猫」は吉行が飼ってた奇妙な猫についてのことで、犬になついて、そのためなんだか挙動が猫っぽくなくて犬らしくなっちゃった猫のユーモラスだけど、でもちょっと寂寥感がある話。ほかは、たとえば相変わらずの酒についての蘊蓄とか、マージャン話やなんてことない日々の様子をつづった日記から、そして数多い文学者との詳細な交流の記録まで、本書には雑然として含まれてる。とくに目を惹くのは各文学者についての記述かな。昭和論壇をある意味仔細に眺めてた吉行って人が、どういった関係性のなかにあったか、そういった観点に興味をもつ人なら、本書は類稀な価値を有することになると思う。逆に文学者なんてぜんぜん知らないよーみたいな人だと、本書はわけわかんない部分が多すぎかな。もちろん私も本書に出てくる文学者を全員くわしく知ってるわけでなくて、そこはうかつというものなのだけど。ただ吉行がかつていた文壇って空気を感じるのに、この書はなかなか稀有な価値を秘めてると思う。」
「雑誌編集者としての経歴をもつ吉行だからこそ、築けた人間関係ともある面いえるのでしょうね。ま、そこらの文学よもやま話というのは、その手の好事家にはたまらないものがあるでしょうけど、一般読者からすれば少しミーハーなきらいもあるかしらね。もちろん、作家の随筆集なんてミーハー根性でないならどんな理由で読むべきかわからない類の本なのでしょうけど。」
「あはは。ファンだから気になる作家の知られないもひとつの顔、かな? ‥吉行という人に関していえば、彼の人となりというのはそれほどわかりにくいものでなくて、性格自体はそんな文章から受ける印象と異なってないのでないかなって気はする。ただ彼の書く文章の陰影という点において、吉行が生涯病苦に悩まされつづけたって背景を無視しちゃうなら、たぶんきっと吉行って作家の文脈を正しく理解することは困難になっちゃうのだろなとは思うかな。白内障を患って、それで淡々と右目が見えないけれど原稿をホテルで書いてることをエッセイに載せる吉行の行動は、彼が自身の身体の苦痛についてある種客観的な位置で観察することができてたことを示すもので、そこにはけっこうおどろくべきものがある気はするかもかな。病人がもつ、ある瀟洒さと、冷静さと、そして自己に対するしぶとさ。どんなにアレルギーで苦しんでても、吉行は酒を飲み、マージャンをして、パチンコに通い、女を誘ってバーで夜を明かした。そういった彼の行動と彼の文学がどういった接点をもって、吉行って小世界を形成してるのか、そこが気になるのは、彼の一読者としては自然なことかなって思う。吉行という人に、私はだいぶ好ましい気持を感じちゃってるかな。それは、ちょっとあれれかもなのだけど。」
「ま、気づいたらいろいろ吉行については読み漁っている現状ということかしらね。たしか今年の春から手をつけはじめたのだから、そろそろけっこうになるのかしら? 性と病気と孤独の文学。吉行淳之介に反応する要素は、私たちはたしかにもっていたのでしょうね。ま、はてさて、ね。」
吉行淳之介「犬が育てた猫」
2008/08/20/Wed
「私は「ハヤテのごとく!」の熱心な読者でないけれど、でも折にふれて読み返すことはあって、そのたび少し錯雑めいた思いをもつ。たとえば私はこの作品で伊澄がいちばん好きなのだけど、それは彼女が腹に一物もつ人であって、表面とはかならずしも一致しない異なる感情を秘めてるって点では、この作品のキャラの特徴のわかりやすい部分をあらわしてるからでないかなって思うからなのだけど、そのことを話したら、あ、なんからしいねっていわれて、ちょっとどぎまぎ。伊澄好きって多いのかな。少ないのかな? そんなことないよね。と、思っとく。」
「ま、ああいう何考えて生きてるか一見してわからなさそうなキャラが好みということかしら。いや、一見してわかりやすそうだけれど、実はわかりにくいというのかしらね。つかみどころが微妙というか。」
「そういう点では雪路とか咲夜とかもいいよね。彼女らは、話しててたぶんきっとおもしろい。逆に私はヒナギクはよくとわかんないなー。たぶん私、彼女と同じ部屋にいたら、二言、三言交わしたら、そのあと気まずい沈黙の帳が降りそう。なんか、何話していいのかわかんなくなるの。‥っていったら、これまたその場面がすごくイメージできるねーって笑われた。あーうー、そなのかな。たぶん、そなんだろけど。」
「気まずい沈黙、ね。ま、あんた好きなこと以外ではだんまりでしょうからね。そこらはいっしょにされたヒナギクが不運というものでないかしら?」
「でもヒナギク一番人気なんだよね。とかふしぎに思ったら、
まぬけづらさん曰く、彼女は都合がいいから、だって。それはそかもかなって、私はちょっと考える。いわゆる彼女は読者受けしやすいキャラ造詣がされてて、いろいろ都合のいいヴィジョンを見させてくれる、付与させられやすいからだってことなのかもだけど、それはたしかにヒナギクにはそういった幻想をもたせさせやすい隙があるかなって、私は思う。つまり彼女は、なんていうのかな、自分に嘘ついちゃうんだよね。自分の本心を我慢しちゃいやすくて、それがいわゆるツンデレということなのだろけど。‥そこらの事情を慮ると、ヒナギクという人は生きづらいだろなって気がする。」
「ツンデレ、ね。ツンデレというのは端から見てると、ま、萌えるのでしょうけど、その当人の心情を思うと軽くない部分があるとはいえるかしら。自分に対して相手に対して素直になれないということは、その本人のとる行動というのは彼女の意図に反してるということでしょうからね。それは、面倒なことでしょうよ。」
「めんどいね。西沢さんにハヤテが好きってことで気がねしちゃうのも、たぶんその自分に嘘ついちゃうって要素が大きいのだろな。そして、相手が西沢さんでなかったら、ヒナギクの懊悩は作中描かれたよな展開をみせることはなかっただろし、そう考えると、彼女のもつリスク‥つまりツンデレのもつ生きてくうえでのリスクは、低いものではたぶんないなって思う。‥彼女のような人を、どんな人なら相手できるのかなって、私は考えちゃう。少なくとも、ハヤテじゃないかな。彼は自覚あるけど他人の心情が決定的に図れない。そしてそれはヒナギクのような人とは、致命的な事態になっちゃうことあるかもかなって気がする。もちろん、そんなのよけいなお世話といわれれば、よけいなことなのだけど。」
「彼女の無意識的に、そして習慣的についてる嘘をどうケアできるかという問題かしらね。そういった点を踏まえて、この作品中に該当する人物がいるかといえば、ま、いるのはいるのでしょうけど。」
「雪路と咲夜くらいかな。そういう機微に意識的なり知らないなりに動けるのは。あとはむずかしそ。‥ツンデレというのを、だから「自分に嘘ついちゃうこと」って定義するならば、ナギはツンデレというよりただ感情表現下手なだけだし、「とらドラ!」の大河も同じ類。むしろみのりんのほうがツンデレだよって意見は、そう考えると腑に落ちる。‥東西南北ツンデレこわい、古今東西ツンデレこわい、春夏秋冬ツンデレこわい。ツンデレは、生半な人は手を出さないがよろし、かな。恋はやっかいなものなのだ。」
「ツンデレというのは、その本質として当人をひどく追いこんでしまうものだからかしらね。笑って萌えといっていられるうちはいいでしょうけど、ツンデレは関係が持続するにつれてある爆弾を抱えこむことになるでしょうね。ま、その手の爆弾を抱えた人は、少し見渡せばあんがいいるのでないかしら? と、いうに、恐い話題ね。三十六計逃げるに如かず、よ。」
2008/08/20/Wed
「中学時代が理想だったとかいう人は、けっこういた。高校に入って思ってたような日々とはちがってて、気楽に楽しくやれた中学生のころがいちばんだったよねって話ふられたりして、私としては苦笑するほかなかった。しばらくすると高校時代が最高だったねっていう人もやっぱりあらわれて、そのうち過去のある時期は私てきにはとてもハッピーな時期だったって他人に語りたがるのは、これは人間のある普遍的な傾向なのかなって、私は思うようになった。つまり「むかしはよかった‥」というのだよね。これはある意味テンプレ。人のぬけ出せない陥穽のひとつかな。ただ思うのは、実際にその人が高校時代が理想だったって述懐するとして、でもほんとにあなたが過した高校生活は、そんな幸せだった?って問えば、そこには少し留保する部分がある。わかるかな。つまり彼ないし彼女はほんとに心の奥底から高校生活を理想としてるわけでなくて、その人が惜しんでるのはみずからの裡にある記憶としての高校時代であって、彼が悲しんでるのは記憶としてしか実在しない高校生活のこと。ここが肝なわけだけど、彼ないし彼女は過去の記憶をこそ求めてるわけなのだよね。今じゃなくて、過去。もっといえば、思い出のほう。」
「むかしはよかったと語る人がいるとして、しかし実際にむかしのほうがよかったというケースはあるにせよ、今を捨て過去に回帰したいかといえば、そういうことではないのでしょうね。むしろ問題なのは思うようにならない今であって、今がどうにもならないからこそ思考は過去に視線を向ける。そして過去を過剰に美化し、理想化し、一種のお守りのように拝んでしまうのでしょうね。今がその人の要求どおりになるならば、その人は過去を見返ることなどないのでしょう。つまり、思い出を美化するということは、現在の私が過去の私に期待する、もはやどうしようもない過去にこそ己の存在価値を要求するということなのかしらね。ま、有体にいえば、不毛な思考運動なのでしょう。」
「ただ、そういうのはどうしようもないことかなって気はするかな。‥ふしぎなのは、なんで人は過去をなつかしむようにできてるのだろう、ということ。なんで人は二度と帰ることない過去に、そこまで自分のアイデンティティを希求しちゃうのかな? それが意味ないってことなんて、だれでもわかってるはずなのに。それなのに、どうして思い出っていうのは、人のなかでこんなにつよく影響するものであるのだろ。人の心は、どして過ぎ去った過去を思い返すことで、涙することができるのだろ。なんで過去に受けた傷が、今の私に作用するのだろ。その記憶は、思いとは、いったいなんの意味があるのだろ。人の心は、どしてそんなふうにできてるのかな? それが生存に、意味あることなのかな?」
「過去をなつかしむとき、なぜその過去は今において有効な位置にあるはずないのに、人に強く影響することがあるのか?という疑問かしらね。過去の傷がどうして現在の私を揺さぶるのか、か。はてさて、なぜでしょうね。人は現在をこそ生きる存在であるのに、過去という名の鎖は、いつまでも人を縛りつづける。」
「それは、人が記憶によってこそ、私足りえてるから、かな。そして私が過去にほかならないから、人は過去を理想化することによって、現在の私をも理想の一端とするように思考が働いちゃうのかも。ただ、うーん、上手くわかんないな。大森荘蔵は、たしかここらでおもしろいこといってたよね。曰く、時間は存在しない。そして人が過去を想起するとき、その過去は、」
「この世界に確実に存在している、か。過去に家が火事になったことを思い返して悲しい気持になるとき、その家は確実にまた焼け落ちているのよ。ま、過去と現在の私の意識と、そして未来をどう受け容れるかという問題ね。人間意識というのは、はてさて、不可思議なものよ。」
2008/08/19/Tue
「今回はコミケの話。ストーリーの流れ自体はとくにいうことなくて、こんなものかなというくらいの印象なのだけど、ただこの前私に指摘してくれた人がいて、つまり乃木坂さんと綾瀬さんは二人で自己完結しちゃってるよね、というの。その言はたしかに今回のエピソードを見るに、正しい意見であるかもかなって、私は思った。二人はいつも二人だけで充実してるのであって、そこに本質的に二人は他者を求めてない。つまり今回のお話だったなら、信長やさらには美夏さんも巻きこんでコミケっていうイベントを和気藹々と描いてもよかったのであって、そうしなくて二人の閉鎖的なやりとりばかり描くのは、それはどこか不健全なのじゃないかなとは、少し首肯する部分あっちゃうなって気がする。もちろん、その二人だけの世界を楽しみたいっていうのが、恋愛の心理といえば、そなのかもだけど。」
「軽い共依存が恋愛の最適解ということ? はてさてね。そう考えれば、恋愛もやはりどこか狂気の一部に属する部分があるのでしょう。しかし問題なのは、決定的に世間知らずである春香を、この物語の構図は、裕人がたぶらかしてるように見えるということかしらね。裕人は基本的にはいい人なのでしょうけど、春香相手にはどうも上手い具合に相手しているとは思えない。それはつまり、彼が春香を決定的に自分のみに目が行くように仕向けているからでしょうね。信長とほとんど接点がもてないのは、どういう理由かしら。」
「サブキャラはみんなおもしろい人そろってるけど、でもそれだけなんだよね。乃木坂さんと綾瀬さんの関係性に、周囲の彼らは侵入しえない。そんな原則があるようで、この作品は乃木坂さんと綾瀬さんっていう二人の恋人関係の狭さに、終始しちゃうことになっちゃってる感じ。次回は、そこらが注目されるのかな。とりあえず、まだ私は期待してみるかも。どんななるかな。」
「コミケという巨大な可能性のあるイベントを扱った割には、逆に二人の可能性の無さが目立ってしまった回だったかしら。ま、これからどう展開するのか、そこには目をつけておきましょうか。」
2008/08/17/Sun
利口系無重力blog@北大さん「学園コメディのアニメが好きだ! で思う。高校生が一番楽しかったんじゃないのかと」
『甲斐谷忍という漫画家の作品を読んでいる。基本的に「騙し合い・駆け引き」をテーマにしたパズル的な作風である。そこで出てくる(というか俺が読み取った)メッセージは、
「世の中は騙し合い。騙される方が悪い。生き延びるには騙してくる相手を騙し返すだけの狡猾さを持て」
というもの。これが大学生以上の大人の基本的なものの考え方じゃないかと俺は思った。他人から騙されないように警戒して、場合によっては他人を騙してでも自分が生き延びる。それだけの狡猾さを持たなくてはならない。
…俺はこういう考え方や世界のあり方があんまり好きじゃないし、それゆえに、騙し合いではなく、他人を疑うことすらしない高校生の性善説ともいえる子供っぽい世界観にあこがれるものがある。
大学を舞台にした「げんしけん」では、登場人物は社会をサバイブするための狡猾さ・ずる賢さを持ち合わせている。というか、大学生以上ともなると、ある種の計算高さ・打算というものを持たないわけにはいかない。私自身も持っている。
それでも、そういうありかたは嫌だという思いが、純粋というか無邪気というか、シンプルに理想的な、高校を舞台とした学園コメディやキッズ向けアニメに魅力を感じさせてしまうのではないかと思う。
「将来には夢や希望を持っていい」という風に思わずにはいられないから、だから学園コメディを大人になっても見てしまうのではないかと思う。少なくとも作品の中では、この命題はYesになっている。』
「上記エントリで指摘されてるのは、これはべたなモラトリアムなのかな、と思う。ただモラトリアムという言葉は便利すぎて、私はあんまり好きでないし、さらにいえば、子どもという子どもがみんな、理想的な考えをしてるわけではけしてない。むしろ単純に子どもだから大人に比べてよいねーとかいっちゃう人を私はきらうし、子ども時代が大人になった今と比べてかならずしも理想と幸福に満ちてたわけじゃないってことは、多くの人が思い返せば自然至りつく答えなのじゃないかな。むしろ大人になったほうが楽に生きれる部分というのはあるし、逆にいえば結果的に大人までにサヴァイブできた子どもというのは、子ども時代の記憶を無意識的に失くしちゃう傾向すらあって、それは子ども時代の感性の喪失‥つまり心のある部分を殺すことにつながる。だから私はむかしのほうがよかったよねとは、あんまりいいたくない。私は今を見ていたい。そして自分の手にない未来をできるかぎり見届けたい。それは私が今のほかに存在しえない存在であるということで、そして一瞬間後には死んじゃう可能性に常に開かれた存在であるから。過去は私を形成するそのものであるけれど、希望は未来に形を変えていつもあらわれつづけるもの。それを抜きにしちゃうと、希望はただもってればいいってだけの形骸と化しちゃうのじゃないかな。少なくとも、私は高校時代より今の私のほうが生きやすい。もちろん普遍化できる話題でないってことは、十分に自覚的であるのだけど、ね。」
「大人になればなるだけ、人は希望を語らなくなるというふうに、一見して思われやすいのでしょうね。当然、幾割かの人たちは、上記エントリの指摘のようにシニカルな態度に硬直してしまう。しかしそうではない、心を死なせたのではない大人というのもまちがいなくいるのよ。自分に夢や希望を抱いてはいないけれど、しかし夢や希望を疑ってはない人たちが。」
「つまりそれは、大人はまだ見ない子孫に、まだ生まれてこない可能性に、夢や希望を託すものだから、かな。これはきれい事でないです。たぶんだいたいそう思ってる人はいるし、そしてそういった気持があるからこそ、人は自分の死にすらある種の希望を見出せる。死が希望と、いうのでないよ。人は生れ落ちたときからその生まれた時代に絶対的に束縛されるものであって、さらに生きてくなかでほかの大多数の他人っていう無名の群集と否応なしに相対化される。そのこと自体は自分って存在の重要さをほとんど感じさせなくなっちゃうことで、そのため人はシニカルになっちゃうこともあるし、私なんていてもなくても同じだよねみたいにネガティブにもなっちゃうものだし、ハルヒみたいに非常識的な異世界を空想しちゃうようにもなっちゃう。でもこの世に異世界なんてないし、宇宙人だってまずあらわれないし、どこかで殺人事件はまいにち起ってるし、高校時代は二度と戻ってはこない。でも、だからといって、過ぎ去った過去をなつかしむだけで未来を儚むくらいよりは、自分の希望を常に未来に問いかけて、その成就の可能性のために今の自分の可能性を懸けてくほうが、よほど、意味のあることじゃ、ないのかな。私は、未来に絶望するのは個人の思いあがりだと思う。未来は私にない。だれの手にもありえない。ただ今があり、そして今の私の存在がある。希望を懸けるべき対象は、いつもそこに見出すべきものでは、ないのかな。」
「もちろん希望は叶わないこともあるし、叶った希望が自分の思ったものとちがうという場合もあるものよ。そして明日の朝のニュースでも、意味なく殺されたり死んだりした人の報道は流れるでしょう。しかし、それでも希望は懸けるべきよ。納得はできないでしょうけど、それでも希望は懸けるべきよ。そしてその責任は、未来に放ることよ。気に病んでも、無意味でしょうから。」
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H・S・クシュナー「なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記」
2008/08/16/Sat
サトシアキラの湾岸爆走日記(自転車でね♪)改さん「やはりオリンピックは戦争の代替行為なのだと。」
『世間一般的にいえば、身内の功績も『一家の功績』として自慢しても良さそうなものだけどね…だが、オリンピックの場においては、他の国の人間に『俺の国はこんなにナイスなんだぜ!』と、基本的に他人の功績でも誇って良いものなんだろうな。で、この記事のタイトルに掛るわけですが…ちょっと強引な解釈かも…
あ、多分ワールドカップは間違いなく戦争だと思う。だから、共催などやらかして、挙げ句の果てに共催相手を『共催相手だし、隣国だし、同じアジアの国だから』と応援してしまうなどということは、売国行為に他ならないのだよ、分かったか!』
「オリンピックにおいて国家の色彩がつよくなってきたのはナチスがプロパガンダとして利用してからであって、それまではそんなにオリンピックというのはナショナリズムというのでもなかったかなとは思うかな。有体にいえばそれは国家幻想というべきものであって、スポーツなんかに国家とかいっちゃうのは私としてはちょっと引いちゃう部分ある。だから今日は日本がメダル何個とったのだーとかってニュースも、なんていうのか、あんまり意味わかんない。だってスポーツじゃない? みたいな気分。オリンピック的な高揚とか、集団で感動を共有とか、そういうのは私には理解の遠い世界かな。」
「だからオリンピックもほとんど関心がないというのかしら? ま、スポーツを見るという点についてはそれほど否定的というわけではないのよね。そうではなく、スポーツをスポーツとして楽しむのでなくそれより同調的な雰囲気の強い報道などが、気持わるいというか。ま、気持わるいといえばこれは感性的なものでしょうし、そう敷衍できることでもないのでしょうけど。」
「けっこう、むずかしい問題だよね。柔道とかみて、その技術にへーって感心することはあるけれど、でも選手の生い立ちとかドラマ仕立てに仕上げられた報道番組とか眺めて、感動とかぜんぜんない。むしろ誰々がメダルとったって事実に、その事実でない選手の人生って物語性を付与しなきゃいけない報道の姿勢に、私は疑問を感じる。もちろんそういった物語性があることが、選手への感動をより密接なものとして視聴者に与えることができるということはわかるけど、でもそこまでして人は感動しなきゃいけないものなのかなってふしぎが、私にはある。もっといえば、そういった選手に密着した悲喜こもごもの有様というのは、その選手の身近な人たちが知ってて、感動すればいいものであって、ほかの人が踏みこんでいい領域じゃないかな、私はそこまでうかがうことはできないかなって、私は考えちゃう。‥人は、感動したいのかな。そしてその感動をみんなで共有したいのかな。私には、少しわかんない部分かな。どなんだろ。」
「はてさてね。ある意味その感動の共有という現象は、多くの世代を覆っている特徴ともいえるでしょうし、さらにはその世代の連帯感を生み出す装置として機能しているともいえるのでしょう。そこには群れたいという心理以上に、何かある種臆病な本能が垣間見えるとも、いえるのかしらね。感動をありがとう、というのは、その感動を共有できる、理解できる、その集団に自分が属している、つまり私は一人じゃないってメッセージを発する共通項ともいいうるかしら。それは、見た目以上に深刻な事態なのかしれないでしょうね。」
「疎外に対する恐れ、なのかな。感動を共通項にして、そして物語性の助力を得て、連帯感を得るやり方というのは、裏を返せば極度の孤立への恐怖以外の何ものでもない気がする。そしてその恐怖は、自分たちの集団以外の個人の考え方を、ときによっては排除する傾向に出ちゃう危険性はあるのかも。そしてその危険は、意外と身近なものかもかな。身に覚えは、いくつかある気がする。感動をありがとうって制度の、圧迫感として。」
「感動するのは構わないのよね。しかしその感動というものは、それ自体としてはパーソナルなものであり、決して共有できる類の感情ではない。しかしそれが昨今は安売りされる傾向にある。そしてそれを望む人も多数いるように感じられる。はて、これは何かしらね。どういう現象が、果して、あらわれているのかしら。」
2008/08/15/Fri
まぬけづらさん
「オフ会のレポートというのは何かやりづらい。どして書きにくいのかなーと思うに、一時限りの会話の楽しみの時間というのは、基本的に再現不可能のもので、それを文書にあらわそうとしたなら、書きあらわしたものは必然私がその出会いから何を得たのかということが問われることとなる。その意味性がちょっと私に筆を迷わせるのかな。あんまり記憶力、よいとはいえないし。」
「とかなんとかいって。面と向ってじゃないといえない余所事のうわさ話ばかりしたから、心が重いのでなくて?」
「プラトンパンチをくらへー!」
「ぐふっ!?」
「そんなことないもん! リリカルなのはに捕われていつまでも延々と語ってるのは呪いみたいだねーって深々とため息なんかついたりしてないもん! ‥嘘。してた。」
「してたのじゃない!? ‥まったく、しかし自分が書く感想に含まれる毒が、どのような影響を他者に与えるかといったところまで考えてブログを書く姿勢というのは、なかなか見習うべき点があるのでないかしら。いきなり、竜児最低とかダイレクトに書くのもどうかというものね。」
「岩をも砕くプラトンパンチだー!!」
「ぐががっ!!?」
「毒じゃなくて愛だー! 私が本気でオブラートに包まなかったらもっとすごいんだぞー! いいかー、フルメタのテッサはねーその深層心理ではねーお兄ちゃんと寝‥」
「やめなさい! なんでそう直接的にいうのかしら!? 世の中には言責もちようにももてないことというのがあるのよっ。」
「まったくだね。‥でもナデシコの続編はないよね。」
「それは、そうかしらね。」
「天もつんざくプラトンパンチだー!!!」
「げふっっ!!?? ‥いや、ちょっとあんた殴りすぎでしょ。おい‥」
「でもナデシコはよい作品でした。まる。」
「まるじゃないっ!! ‥ところで、あんたがプラトンパンチとかいうときは、良くも悪くもキテるというのは至言かしらね。頭が、ほら、あれよ。」
「お姉ちゃん、冷たいっ。」
「何がよ!?」
「‥ふーんだ、でもいいよね。まぬけづらさんはまたきっとラジオやるものね。」
「いや、微妙じゃないかしら?」
「‥全力全開プラトン‥!」
「カウンター!!」
「きゃー!!?」
「カウンター!!」
「きゃー!!?」
「カウンター!!」
2008/08/14/Thu
合コンで異性に熱く語られるとウザいと思う話題ランキング「話についてけない一人語りの類いは、やっぱりあれれかなというのはわかりやすいのかも。でもそするといったい何話したらよいのかーって疑問に思うのは当然で、そこは人類永遠普遍な課題ですよ、みたいに誤摩化しちゃう気持が大きくなっちゃう。‥ただ私見をいえば、それが会話であるなら合コンに限らずなんであれ、あるていどの隙をみせてるほうが好感は抱かれやすいかも。あ、この人そんな大したことなさそだなーってくらいに思わせちゃったほうが、結果として相手は気をゆるしてくれる可能性は大きくなる。だからあんまり固い口調や話題はよろしくないのだと思うけど、じゃどんな話題がベストかなっていえば、それまた難題ではあるかな‥」
「言い方がわるければ、舐められるくらいがちょうどいいといったものかしらね。人間関係においては、少しくらい見くびられていたほうが動きやすい状況というのは、実にしばしばであるから、あまりプライドに固執するというのもあれなのでしょうね。しかしそこらの言動の機微はセンスが求められるというか、あざとく振る舞ったら逆効果ではあるでしょうし、ま、結論としてはコミュニケーションはテクニックじゃないのでしょう。それをいったらすべてが終ってしまうでしょうけど。」
「お仕事でやってる人なんかは、相手に隙もたせるのが上手いんだよねー。ああいう手練手管は見物かな。‥あ、それとあんがいと思われるかもしれないけど、文学や哲学の話は出し方によっては気を引ける部類の話題であるかなって気がする。むかしSMの人とかそちら側の女性とかとこんな感じの(→
サディズムとマゾヒズムの基本的な概括の話)お話したら、盛り上がっておどろいた記憶ある。知的にエロティシズムを匂わせるのは、けっこうよろしな武器かもかな。」
「‥ほう、佳代はいつ、そういった女性たちと香り高いエロティシズム話に花を咲かせたのかしら? さぞ優雅であったことでしょうね。」
「‥お姉ちゃんも、好きだよ?」
「うるさい! ‥そういうの聞くとあんたも大概よね。ってかよくそういう話題を臆面なく振れること。デリカシーとして、どうなのかしら?」
「私、大概でないもん! 知性とはユーモアであるのだから、そこらは仄かに吹かせなきゃ。‥お姉ちゃんも、そういうのは、好きだものね? お楽しみは、これから。」
「楽しみ、ね。‥ま、それもいいかしら。いいかしら、と思ってしまうのが人の弱さであるのでしょうけど、ま、しかしいいかしら、いいの、かしら‥」
2008/08/14/Thu
「物語は天上的な愛を求道的に追い求める少女アリサとそのアリサを心から慕う少年ジェロームの、子どもらしい憧憬にあふれながらでも真実に相思相愛の関係に立つ二人の恋愛というも愚かな、ふかい人間的交流を軸に描かれる。幼くして母の不倫、そして遁走という境遇におかれたアリサは、その事件に心痛める父と妹、弟の気づかいをしながら、高尚な愛の形‥地上的な男女の恋愛でなくて、崇高な宗教的徳というものを彼女は希求する‥をいつも心に願いながら、従弟であるジェロームと真の心ゆるしあえるつながりを感じる。だけど神への愛という観点に立つアリサは、ジェロームが求める世俗的な愛の安心‥つまり婚姻を否定する立場にとどまって、最終的には宗教的観念から殉教するに至る。‥誠と愛と。内面の軌跡を丹念に追ったジッドの心の分析ともいうべき、恋愛小説。何より美しい、恋物語。」
「ジェロームとアリサという、どちらも品行方正、非常に優れた人間的魅力のもち主であるけれど、その恋愛、愛情の交流は現世ではついに実現しえなかった、ということかしらね。もちろんジェロームにしてみれば、アリサと幸せな家庭生活という平凡な未来を夢望んでいたといえるのでしょうけど、アリサがそれを許さなかった。彼女はあくまで宗教的信念を保持した。さて、その心理は何かしらね。」
「こうして物語を俯瞰してみると、この世にありうべくもない宗教の教えのために、アリサはくだらなく愛人を捨てちゃったっていうに感じられるけど、でもその理解はちがうんだよね。たしかにアリサは結婚やそのあとの世俗的生活といった幸福を拒否するのだけど、でもそれは来世で救われたいとか、天国で神の歓喜に浸りたいとか、そういうのでなくて、ただほんとに、何ものをも望まないために死んじゃうんだよね。この心理は、何かな。アリサは徳行のために命を捨てたのでなくて、何かもっとおそろしくてふかい、わからない何かのためにジェロームの愛の結実を拒んだって気がする。それは彼女が殉教者に特有な死の喜びを感受してないということからも読みとれることで、そしてそれは歓喜も絶望も無縁の地平で、彼女がある戦いを行っていたということを意味することでもある。それはすなわち、人は幸福になるべき存在でないっていう、悲しいほどの、確信だった。アリサは、幸せになろうとすら、しないんだよね。彼女は人はただあるがままにあるべきで、そしてあるがままにあるならそれは幸福という状態でないって、たぶん知ってた。そしてそれゆえにこそ、彼女がジェロームを拒んでひたすら孤独になろうとする姿は、切ないまでに痛々しい。宗教者にありがちな熱狂も陶酔も、アリサにはない。あるのはしずかな孤独だけ。そしてその孤独の静寂に息をひそめる、私たち読者のいたたまれない思いだけが、この書物の余韻に渚のように広がってる。」
「幸福も絶望もないというのはそのとおりなのでしょうね。アリサという人は、人生に何も期待することなく、しかもそれが諦念の形すらとることなく、ただ個人という静寂の一点に安住することをおぼえた人ということができるのかしら。しかしそれは傍目にはひたすら辛く、見ていられないものであるのだけれど。愛を振り払い、彼女が得たものはなんだったのかしら。それを私たちは、問わずにはいられないのでしょうね。」
「好きな人から離れて、か。彼女の思いは、わかんないよね。少なくとも、私にはわからない。彼女はもっと、やれたことがあったかもって、私はどうしても、思っちゃう。でもただ、彼女は偶然からその境涯に陥ったのでなくて、アリサはあくまで自覚的に、その狂気の孤独に進んだ。そう、彼女はみずからその運命を選択したのだった。‥私は、夕暮れの庭の腰かけで、詩集を片手におきながら、風に吹かれてるアリサの姿が目に浮ぶ。愛する人を思いながら、しずかに時をすごすその姿が、とてもない情感を伴って、私に迫ってくる。なんてきれいな、小説だったのだろう。その美しさだけが、この物語のすべてだった。私はそう、思いたいな。アリサは、美しかった。そのことだけを、私は思う。」
「宗教的な意味あいからも当然読まれるべき書でしょうけど、しかしこの作品は、幸福とは何か、そして恋愛が人にもたらすものとはいったい何かという、実に普遍的な問題をも含んでいるのでしょう。むしろその精緻な描写こそが、卓抜なのでないかしら。この作品の登場人物たちの内面の動きの軌跡は、それだけである美しさを示している。小説として、これほどのおもしろさはないでしょうね。見事な、作品よ。」
『力を尽して狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者おおし。生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見いだす者すくなし』
「ルカ伝第十三章二十四節」
アンドレ・ジッド「狭き門」
2008/08/13/Wed
「自己愛が恋愛の障害だっていうことの意味が、さいきん、少しわかってきた。人というのはその基本として、自己愛が欲望の根底にあるもので、みんながみんな、自分のことを王子さま、もしくはお姫さまって思いたがってるようなものだって、いったりすることできるかもかな。でも実際は世間的に生活してくなら、自分がそれほど対人的に重用されないって事実に突き当るものであって、そういった過程を経ることにより自己愛は表に出ることなく、本人の無意識下に沈潜することとなる。でもただ、それは自己愛がなくなるということでなくて、埋れちゃってるってだけだから、恋愛なんてくだらないよねーとかいってる人でも、ほんとのほんとは自分のことをわかってくれる素敵なだれかを心の奥底では求めてるのだろなって気がする。そしてだからこそ非モテの言説も、公にはとうてい支持されえない稚拙な論理であるけれど、でもそれが訴えてる論旨は多くの人が願ってることであって、そのため非モテ言説にはあるつよい情感が伴う。乃木坂春香の世界が理想世界とか、そういうこといっちゃう気持も、たぶんそのへんに関連があるのでないかな。たぶんそれは自己愛の牢獄なんだ。」
「人はいつか自分のことを真に理解してくれるだれかの登場という、お伽噺のような展開を人生に期待してしまうということ、か。ただしかし不条理できびしい世の流れを観測すれば、それが叶うことなどあろうこともないということはわかるというものなのでしょうけどね。しかし、自己愛は捨てきれず、それはそう単純な問題でもない、か。」
「王子さまは望んでなくても、私の内面のことわかってよ!みたいに思う人はたくさんだものね。ほんとは理解しあうってことが恋愛において大切なのでなくて、たぶん肝心なのはその理解しあおうって過程こそなのだと思うのだけど‥。その過程を飛ばしちゃうと、理解できないイコール相手が不誠実ということになっちゃって、私のこと理解できないあなたは駄目、世界は広いからどこかに私のこともっと理解してくれる人がいるはずなのになー、みたいな心理になっちゃう。たぶん、ストーキング行為とかも、ここらの心理的固着と幻想が大きく係ってくるのだろな。内面を理解してあげてるって、その確信の虚偽性の無自覚なとこが。」
「あなたのことを私は理解できているという嘘ね。本当に他者を理解できるなんて夢物語以上の何ものでもないのでしょうけど、しかし往々にして自己愛はその幻想を期待してしまう、か。おそらくこの心理が恋愛を阻むのでしょうね。理解されるわけもないのに、理解を望む。そしてそれをあきらめられない人の心性が。」
「やになっちゃう、かな。というのは、そういう状態におかれちゃうと、理解して理解してっていうのはあなたの自己愛にすぎないよ、としか思えなくなっちゃうということがあるから。‥人は自分の内面はいつも大切にしたいって思うもので、そこに疚しさを感じちゃうなら、人は自己愛的な弁明を自身に対してけっこう行なう。ただその弁明は端的にいえば悪であって、その悪を受け容れてしまうなら、それは悪と共存するということになり、ひどい虚偽の帳が降る。それが恋愛に関係すると、それは恋愛とも、いえないかな。恋愛の情は人を殺すけど、それが自己愛の形をとるなら、たぶんだれも救われない。でもそこの意味は、おそろしく伝わらない。なぜなら人は王子さまを待ち望むものだから、かな。」
「自分に弁明したいというのは弱さであるのよね。しかしたいていの人間は弱いものでしょうし、必要なのは強くなることでなく弱さを認めることなのでしょうけど、ま、それも意識的にはむずかしいのでしょう。願わくば、自己愛にかこつけた恋愛を他者に強要したくはないものね。といっても、それがむずかしいのでしょうけど。上手い案も、ないかしら。」
→
愛にふくまれる自己愛の話→
とらドラ雑感 恋愛と自己愛のバランス
2008/08/13/Wed
「いい作品かな、と思う。絵はかわいいし、こういうの、ラノベとしてとっつきやすくはあるのだろなって思う。とりあえずそれなりよい人な少年がいて、そして各種少女がいて、と。テンプレではあるけど、でもこの作品に関していえば、その巻ごとにあつかってる題材がなかなか卓抜であって、その意味でたぶん作者が考えてる以上の問題意識を読者に提供できるかなって気がする。有体にいえば、今回のお話で肝心なのは、罪悪感を麻痺させちゃう呪いの道具によって、不幸な境涯の女性が狂的な信仰心を集めちゃってる、っていうとこ。ここにはこわいものあるかなって思う。そしてそれは作中描かれた以上の規模をもって、現実世界で起こりうるものでさえある。‥その意識は、もちろんラノベで堂々と描くべきものではないけれど、ね。むずかしい部分かな。」
「呪いの道具という題材を通じて、上手い具合にそのエピソードのテーマを拾ってくるのよね。ここらの構成は素直に上手だと感心するし、また思った以上に想のよいセンスを思わせるのよね。なかなかよいシリーズ物じゃないかしら、これは。思案するに事欠かない材料を提供してくれるし。」
「人間の良心という問題ではあるんだよね。良心なんていうといきなり身構えちゃう人いるかもだけど、そして安易にもち出すべきでない語であるのだけれど、ただこの罪に向きあう人の気高い意識の防波堤という意味において、人間は罪悪感という問題について、数知れない理性を積み重ねてきた歴史的背景をもってるなんて、たぶんいえるかな。かんたんにいえば、この巻で罪悪感をスポイルされちゃったアリスはわれにかえったならば自身絶句するほどの所業を積み重ねてきちゃったわけだけど、この良心の呵責の欠如という問題は、何も呪いの道具に拠らなくて、現実世界に行なわれうることであるだろなって、私は思う。たとえば集団で他人をあざ笑うような事態には、今の世の中、事欠かないものね。そしてそういうのはやだなと思っても、見まいとしても見えちゃうのが現在の社会ということで、そこにはリテラシー云々以上に、ある種人の品性が決着を迫られる機会が、現代社会ではかつてないほど危機意識をもって考えられるべき状況にあるというふうにいえるかな。‥ただ、そう、良心を語るとき、そこにはまちがいなく孤独の問題がからむのであって、これは放言でいうのだけど、良心や罪悪感といったものは孤独で語らなきゃ、そうでないならその語りにはかならず幾分虚偽が混じる。そしてその虚偽は、愛の効果を人に錯覚させる。‥だけどむずかしいのは、その罪を語る人の孤独の核の一点には、その人にとって単純な責苦でさえありえないある苦しさがある、か。‥ここまで考えちゃうと、ちょっと正直わかんないかな。ただ心に嘘をつける人というのはいるもので、嘘をついたからといって楽になれるわけでもないのが奇怪なとこかな。人生の不幸なんて語るだけ嘘かもね。ただそういっても、誤解されちゃう向きは、あるのだろなー。」
「ま、集団的に語られる良心といったものは、それは良心でなくただの規則に墜するものということでしょうね。しかしかといって、孤独にありうることを望むべくもない人というものもいるものだし、沈黙して語らないのがここらは賢いのかしら。その賢さに価値があるとも、思えないのだけれど、はてさてね。」
水瀬葉月「C3―シーキューブ―Ⅳ」→
正しい自己嫌悪のあり方、みたいな
2008/08/12/Tue
「親に殺意」高校生の3割経験 大阪大調査「殺意というのは主観であって、だれもこれを断罪するということはゆるされない。これこれこういうことは思っちゃいけないよ、って、一言でもいったなら、それは思想的統制であって、その意味でもうその行いはたとえどんな倫理上のすばらしい動機から為されようと、問題の次元においては魔女裁判のそれと変わりなくなっちゃう。主観や、他人の本心を勝手に推定して、それをもって他者を責めようというのなら、それは恥ずかしいことだろなと私は思う。‥と、ここまで書いてそれでこのエントリの要諦はもうおしまいなのだけど、ただもうちょっとだけ気になるのは、殺意という問題で、実際自分の家庭にいろいろ鬱屈した思いをかかえてる人は少なくないよねって気がする。親を殺したいほど憎みたいって感情の働きは、いってみれば自然な過程であって、それで大多数の人がその殺意を殺人という行為にまで及ばさないのは、いろいろな要因があるのだろけど、そのひとつとしては、殺意を自分の裡にためこむより、憎む対象との関係性を解消しちゃったほうが、より手軽でそして切実な心理的プロセスとして機能するからじゃないかな、というの。憎む対象を殺す意志をもちつづけるより、それを捨てちゃったほうが、だいぶ楽。たぶんこれがいちばん単純な親離れの心理の説明だと思うけど。ただ、それが自然と移行しえないって状況も往々にしてあるみたいというのが、社会の厄介なとこ、かな。」
「殺意を抱くこと自体は大したことではない。問題はその殺意が現実的に行動を起しうるかということであり、大部分はそうならず、殺意は親離れという過程を通じて解消される、ということかしらね。円満な家庭のエピローグは、その終焉をもって締めくくられるとでもいえるのかしらね。それが世代を重ねるということでもあるのでしょう。」
「それは、そかもかな。家族って、いちばん身近な性的関係だから、その内面を身内がいろいろ斟酌しだすと、よりつらく、苦くなっちゃうんだろね。そしてそういったつらさを要請する過程からは、一時とはいえ、逃げたほうがいい場合は、きっとあるんだろな。‥ただ殺意というのは愛でもあるよね。殺したいと思うほどからには、そこにはある種の愛は必然の意味をもって介在してる。愛は人を殺しうるというけれど、人を狂わせる愛というのがあるのは事実で、そしてたいていの人はかなり愛憎をだまって抱えて生きている、かな。その愛憎はふつうはみんなだまってるから、世間的には語られることあんまりない。でもだれしも、愛憎には参ってる。そしてそれを墓までもってく。私はどうかな。私はけっこう、文章で吐き出しちゃってる感じがあるけど、それは私に抜き差しならない自己省察を迫ることであるのだろな。その意味あいは、日々、たぶん無意識に問われてる。私はその軌跡に、隠微ながら、追われてる。」
「ま、それも致し方なしというものでしょうね。ふつうの人はふつうに愛憎に囚われている、か。おそらくその愛憎が事件に直結しないのは、ただ偶然が少ないからという理由だけなのでしょうね。そしてだからこそ、人生の悲劇的様相というのは、こうも身近である、か。ま、あまり語ってもしかたないものではあるのかしら。」
2008/08/12/Tue
<エニックスマンガと2ちゃんねるについて>『ここまで来て、わたしはふと気づいたんです。「あれ?実は2ちゃんねるって大したことない?」
前々から、「2ちゃんねるの意見は実はかなりの少数派。無記名の書き込みの集まりだから多いように見えるだけ」という話を何度も聞いていたんですが、いまいちそれを強く感じることができませんでした。しかし、ここに来て、はっきりとそれを認識することになりました。「ああそうか、自分は2ちゃんねるの力を意識しすぎていたな」とはっきりと分かったのです。
上で散々書いたとおり、2ちゃんねるの書き込みの方向性は、個人サイトやブログのそれとは大きく異なります。まったく異なる異様に偏った見方が出てくることが非常に多い。で、2ちゃんねると個人サイト・ブログと、どちらが少数派かと言えば、そりゃ2ちゃんねるに決まってます。そんな簡単なことも分からなかった。』
「エニックス漫画の関連で私が語れないのが残念だけど。2chにかんしていえば、蓄積に弱いというのはあるかな。だから長期的な観点に立てば、2chが弱いというのはあるのかも。あと2chに限らず‥といっても実質2chが問題の焦点なのだけど‥匿名掲示板って、読み方がわかんないんだよね。あれってどう読めばいいのかな。私はよくわからない。単純に、あるスレッドがあるとして、そのスレッドの文脈をどのような視点でとらえるか、そこらの幅が各スレッドで異なってる、つまり村社会であって、その意味では2chの果す役割はSNSの点と本質では変わらない。ただむずかしいのは、ネットには実際原則には匿名というのはありえないわけだけど、そしてこれは日本人の‥と限定しても無意味なのだろけど‥好むとこかなと思うのは、けっこうな人は、ブログで意味ある内容を蓄積してくことよりは、匿名でぐだぐだやってるほうが楽しいって思っちゃうことなんだよね。それはそれでべつにいいし、私としてはほとんどどうでもいいかなって思っちゃうことなんだけど、ただそういった自分を人間の重さを感じさせないぎりぎりの限度である無名の公衆においとこうとすることが、最終的には炎上って現象につながる人の悪意の増幅装置として機能しうるということに関係してる気がする。そして、たぶんそこらが匿名掲示板の問題であって、その問題意識は使用者の大部分がもってると思うのだけど、でもそれが抑制できてない背景がある。そこは、いったいどしたものかなって思う。」
「無名の大衆の背景のなかで発言しているという意識が、匿名掲示板にはあるのよね。つまりそこにはコンテンツの質を志向することはなく、かといってコミュニケーション一辺倒ともいえない奇妙な何かがある。はて、それは何かしら。」
「偉そうなとこ、かな。とかいっちゃうとたぶん誤解されそだけど、ここにはいろいろ含みがあって、それを順次にいえば、まず匿名掲示板での発言は数ある匿名者のなかのひとりという枠にくくられることによって、埋没するということ。それはつまり言責をもたないということであって、それは彼の主張にあるていどの価値しかおかないわけだけど、彼が批判するもしくは言及する他者と同じ地平に彼が降りてこないということをも意味するのであって、それはいえば言論のネガティブなスタイルでしかありえない。でもそのスタイルが複数の集団でなされるなら、結果としてそれは思想的弾圧であって、その構図がおもしろそうなら、追随者を次々と生むことになる。この行末が炎上であって、炎上とは平たくいえばバッシングの形をとるものではあるけれど、でもそのバッシングが成功したからといって対象へ果して教育的効果があったかなといえば、ぜんぜんないんだよね。つまり炎上したからといって対象が改善されるわけはなく、残るのは弾圧されたって恐怖と、そしてその光景が周囲に不可避的に与える影響だけ。結果論でいえば、炎上の責を問うということはだれにもできないことであって、つまり最終的にネットの炎上とは被害者も加害者もない、ただ恐怖だけが居残るある意味魔術的な様相を呈することとなる。‥だから2chというのは大したことないよといえるかもだけど、かといってかんたんに片づけられる現象でもないかなって気がする。私には、あそこの現象はまだよくわかんないな。見えてない部分が、まだ多い。まだ、突き詰めるべき箇所が、きっと足らない。それは、なんなのかな。」
「炎上に類する問題を、どうシステム的に把握し解消できるか、という問題でしょうね。ま、2chの影響といっても、それがどう波及していくかはよくと知らないのよね。外にいるとわからないし、といって内にいればわかるのかしら。そうとも思えないし、どういう観測をとればいいのかしら。はてさてといったところでしょうね。」
2008/08/11/Mon
「山本七平に興味があったといえば、あった。だけど今までなんとなく読む機会を逸してきて、つい先日、ふと立ち寄った小さな書店で山本七平の一冊を見つけて読みふけった。それで、この八月という時期に山本七平に目を通すことになったのが偶然以上の何ものでもなくて、その意味ではよい機会にふれられたかなと思うし、逆に厄介なことにならないかなって危惧がないわけでもなかった。それがどういう意味かなといえば、本書が私の心にひとつ影を投げることにならないかなって、少し不安に思う気持があったから。‥それで、読み終えてまず思ったことは、私はこれを見つけてよかったなって思えたこと。それと、やっぱり重苦しい一物が、私のなかに燻ることになっちゃった、という感覚。しいていえば、それは戦争の煙霧が私の感受性を衝いたような、そんな疲労感。そして、山本七平の、たまらない現実感覚の伝播する触感。」
「戦争を生身の現実感として見知った著者による、これほどないほどの戦争に関係する論説集といったところかしら。気軽にふれえる話題でないし、気楽に紹介できる内容でもないのでしょうね。なんというか、読む人が読めばそれでいいという感じのする本かしら。」
「戦後の復興を、戦前戦後の区別なくただ己の目と偏見によって、語ろうとした‥山本七平は語ろうともしてないのかもしれない。そこはどういえばいいのか、私にはわからない‥この著作は、己の意志を忌憚なくあらわし出そうとしたものであり、その内容にとても深く膨大な問題意識をもつもので、私はこれをおすすめですとかって、いえる気概はない。ただ思うのは、これはこの本を大切に読める人が読み継ぐべきだろし、たぶんその系譜というのは私が何これしようと関係なく引き継がれるものだろなって思う。その意味である種確信的なものに拠って本書は書かれたのかもって気がするし、それは山本七平も十分自覚的であったかなって思う。それが何かなといえば、人間のある普遍的で理性的にはどうしようもない部分、つまり生身の動物としての姿を山本は戦争を通して人間存在の根幹に認めたのであって、その認識は消そうと思って消せるものでないだろなって、この著作を前にして、私は実感する。そしてその事実があるからこそ、本書は抜きがたい価値を秘めるものであるし、その価値って言葉が愚かにきこえるほどに、私はある感慨と、それ以上の問題意識を本書から得た。‥戦争のにおいというのは裏返せば平和を生活者の次元で思考するというもので、それは戦後の一連の復興の歴史的過程を、どこかで幻としか感じられない、生きた人間の述懐に基づく、死者の記憶だった。本書で記された末期米のエピソードに、私はそのことを、陽炎のように仄かに思う。」
「戦地に赴く兵士が、雑嚢のなかに一種のお守りとして入れておいた一握りの米のこと、か。それを食って山本七平は生き延びたといっている。その意味は、遠く離れた現代の私たちにとって、どう響く意味があるのかしら。いや、遠く離れたと断ずる意識にこそ、末期米の意味は、鋭く響きうる、か。」
『何日目か私も憶えていない。粥を配食するから容器をもって甲板に並べという指示があった。私は何も容器をもっていないので、ロウびきのKレーションの空箱をもち、頭がかすんで足がふるえるのと必死で戦いながら、またあの鉄パイプの梯子をのぼった。夕刻であった。雨期にも日の沈むころに一時雨がやみ、雲が少し切れることがある。西の水平線近くの雲が細長く横に切れ、帯のような青空がわずかに見えて、雲の縁が黄金色にかがやいていた。何日かぶりの陽光であった。ブリッジの下に四角くて大きな部厚いアルミの炊事用の容器がすえられ、粥とも重湯ともつかぬものが湯気を立てていた。飢えは嗅覚を異常に敏感にする。糠くさく、腐敗米らしいにおいが湯気とともに流れてきた。』
山本七平「洗脳された日本原住民」
山本七平「ある異常体験者の偏見」
2008/08/10/Sun
「依姫と咲夜のスペルカード戦。これでもかーってくらい神さまを大盤振る舞いしちゃう依姫さまは変わらず素敵。やっぱり彼女はかっこいいっ。」
「名のある神さまを出し惜しみなく投入してくるのね。八百万という名の如く、物量でいけば太刀打ちできるものなどないのでしょう。これはやはり霊夢側が不利かしら。」
「まず依姫がくり出したのが火雷神。この神さまはかのイザナギが亡き妻であるイザナミを連れ戻しに黄泉国に追いかけていったときのエピソードにちなんでる。かつての夫であるイザナギと再会したイザナミだったけど、すでにその身体は腐乱してて、イザナミはそのためイザナギにけして自分の姿は見ないようにって頼む。だけどその禁忌をイザナギは犯してしまい、彼は蛆のたかるイザナミとさらにそこに八柱の雷神を見ることになる。このときイザナミを囲んでたのが俗にいう八雷神であって、それぞれその神らは死の穢れを象徴するとされてる。すなわち、大雷神は頭、黒雷神は腹、折雷神は陰部、若雷神は左手、土雷神は右手、鳴雷神は左足、伏雷神は右足、そして火雷神は胸を覆っていたのであり、それぞれその部位の死を意味する。依姫が「七柱の兄弟を従えこの地に来たことを後悔させよ」といったのはそういう含みがあって、さらには来ちゃいけないとこに来たレミリアたちの所業を、このイザナギとイザナミの神話にも重ねてるのかなって推測がつく。」
「強力なのもよくわかるというものね。この八柱はその後イザナギを追いかけ回したのだけれど、黄泉比良坂の坂本にあった桃の実を投げつけられて退散するのだった。桃の実、というのが、また暗示的かしらね。」
「雷の神さまが八種類もあるということは、それだけ古来の人たちにとって雷が多様な表情を見せてたことを意味してて、もっとも身近な自然の驚異をあらわすのがこの八柱の雷神だっていってよろしかな。さてそれで、次に咲夜のナイフを無効化しちゃった金山彦命だけれど、これは金山毘古神ともいって、イザナミが火の神カグツチを産み落としたとき、女陰に火傷を負って、その傷がもとでひどく病に苦しみ嘔吐したさいの吐瀉物から誕生したって伝えられてる。吐瀉物はつまりどろどろになった溶岩や、とろかした金属をあらわしてて、そこから金属全般の神さまとなって崇められるようになった。金の採掘や鉱山そのもの、剣、鏡、刀、鍬や鋤などの農機具に至るまで、金属に係るあらゆるものを守護する神さまとして、現代でも有数の尊崇を集めてる神さまのひとり。金山祭りといえば、今でも全国各地で盛んな行事であることはいうまでないよね。それだけメジャーな神さまだから、咲夜が負けちゃったのも致し方なしかな。得物が金属じゃ、金山彦には敵わない。」
「そういった意味で妖夢なんかも勝てないでしょうね、この神さまには。金属全般の運命を左右するのだから、強力無比といったところでしょう。厄介極まりなしよ。」
「ちなみに、このとき金山彦を生んだために負った火傷のために、イザナミはあの世に行ってしまうんだよね。そういった意味で、今回依姫が出した二体の神さまは因縁があって、そういうとこでも儚月抄は考えられてるなって感心する。何気ない言葉が、ある文脈のうえに並べられてるんだよね。そういった背景を無視しちゃ、たぶんこの作品の妙味はわからないのじゃないかな。少しそう思う。」
「読者にある程度の知識を、本当に無駄なところで求めるのよね、東方という作品は。ま、それが本筋に関係しないという点において、これは与太といえば与太なのでしょうけど、興味深い作品であることはたしかかしら。さて問題は、底が知れない依姫に幻想郷の愉快な住人たちがどう戦うか、か。咲夜があっさり負けた時点で結果がどうなるかはあらかた読めた気もするけれど、魔理沙はしかしやる気十分ね。ま、期待するとしましょうか。」
2008/08/10/Sun
「ラノベを読んでここまで腹立ったのは久しぶりというか、さいきんは本読んでてもこんなに感情的になっちゃったことはなかったなというか、とりあえず、「とらドラ!」って作品はおそろしいなって思う。青春とかラブコメとか、そんなじゃぜんぜんないじゃない。これは相当に、厄介というかこまったなというか、参っちゃう作品じゃないかなって気がする。これからアニメ化もするんだよね? なんだか原作の展開次第では憂鬱になってくる感じ。」
「よほど参ったみたいね。8巻の内容はそこまでクルものがあったのかしら?」
「うーん‥「とらドラ!」って、ずばりいって現代的にリファインされた「人間失格」だよね。少なくとも、私にはそうとしか思えなくなっちゃった。たとえば人間失格において何が肝心だったかなといえば、あれは太宰が作中一貫して自己弁護に努めてたこと。太宰はいろいろもてるのだけど、その多数の女性に好意を向けられるってことに上手く対応できなくて、いろいろ致命的な失敗しちゃう。それで、それは自分含めて関係した女性をさまざまに傷つけることになっちゃうのだけど、太宰はそこで自分にも非があったな、わるかったなって思うのでなくて、ぼくは何も知らなかったしよくわかんないでひどいことしちゃった。でもよくわかんなかったから、あんまり責められることもないよね。だってぼくって作為的でなかったし、イノセントなんだもん‥というふうに、いい切っちゃってる。つまりこれは相手からの好意に上手に反応できてない、それどころか相手の気持は相手の誤解であって、ようするに自分は無関係で相手にばかり責がある、そう態度を決めこんじゃってふるまってる竜児とぴたりと相応するんだよね。一言でいえば、これはそうとう、きたない。女性に対し、もっといえば他者に対し、すごくきたない接し方なんだよ。それはなんでかなっていえば、他者を自分の感情の慰めに用いてるから。ただそれだけで、あるから。」
「おそらく、太宰にしろ竜児にしろ、そういうふうになってしまう‥意図せずにしろ何にしろ‥のは、ある種の愛情への飢えとその飢えがもたらした欠落なのでしょうね。たぶん家族の問題であり、竜児にしてみれば父親との確執、そして母親への心理的固着‥といったところかしらね。主体的に自分の性を見つめられないのよね。それは、なんとも気の毒というものだけれど。」
「性欲がよくわかってない節はあるかな。たぶん、彼は、女性にも性欲があって、大河やみのりんや亜美さんにも、性の問題が根深くからんでるってことが、見えてないんだなって気がする。女性から向けられる性的な眼差しに、竜児は狂的といっていいほど、気づけない。そして気づけないから彼女たちからの好意の視線を、自己正当化の具にしてしまう。それは、いってしまえば、彼を悪に染めてしまう危険がある。‥竜児はもうずいぶん悪っぽいけどね。完全に染まっちゃったら、もう目も当てられないかな。そうなる前に大河あたりがなんとかしてくれるのが、この作品の最適なエンディングになると思うのだけど、もうしそうでないとしたなら、それは、」
「まさに人間失格とでもいうのかしら? はてさてね。だれもそれは認めないし、もしラノベという媒体でそれをしたら、もう拍手喝采というものよ。よほどひどい作品になってきたことね。褒め言葉よ、最高の。」
『「このひとは、まだ生きているのですか?」
「さあ、それが、さっぱりわからないんです。十年ほど前に、京橋のお店あてに、そのノートと写真の小包が送られて来て、差し出し人は葉ちゃんにきまっているのですが、その小包には、葉ちゃんの住所も、名前さえも書いていなかったんです。空襲の時、ほかのものにまぎれて、これも不思議にたすかって、私はこないだはじめて、全部読んでみて、……」
「泣きましたか?」
「いいえ、泣くというより、……だめね、人間も、ああなっては、もう駄目ね」
「それから十年、とすると、もう亡くなっているかも知れないね。これは、あなたへのお礼のつもりで送ってよこしたのでしょう。多少、誇張して書いているようなところもあるけど、しかし、あなたも、相当ひどい被害をこうむったようですね。もし、これが全部事実だったら、そうして僕がこのひとの友人だったら、やっぱり脳病院に連れて行きたくなったかも知れない」
「あのひとのお父さんが悪いのですよ」
何気なさそうに、そう言った。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」』
太宰治「人間失格」
→
太宰治の救われざる悲しさの話→
太宰治「人間失格」「走れメロス」 想像力のひとつの課題
2008/08/09/Sat
「最低。ばかだばかだとは思ってたけど、ここまで愚図だとは思ってなかったかな。もうだめ。留保なし。さよなら。私は竜児に見切りをつけた。この人は最低だなって思う。大河にクリスマス、あそこまでのことをされたのに、この人にあるのは我、我、我、どこまでいっても我欲だけ。みえているのは悶々としてる自分だけ。それで自分の憂鬱に浸って、おれってかわいそうだなーってみずからの不幸に酔っちゃってるだけ。だれの言葉も、亜美さんの訴えもみのりんの気持も大河の愛情も届かない。ずっとずっと、本編一貫して自分の事情にかまってるだけ。自己愛に酔っちゃってるだけ。そんなじゃいけないじゃない。それがよくないよって亜美さんはああまでいってるのに。それなのに、いつまで経っても、我執しか、自分の感情しか問題にしてない。だめだめ。最低。こんなのといっしょになったら、不幸になっちゃうよ。とかいっちゃうと、たぶん私いい過ぎだけど。でも今回は、あえて辛口暴言でいこかな。」
「のっけから悪口全開ね。ま、竜児が愚かだというのはわかっていたことだけれど。」
「ああまで人の気持に気づかないというのは、鈍感というより怠惰なだけ。無頓着な、だけじゃない。いつもぜんぜん他人のことを問題にしないで、自分のことばかり気に病んでる。彼は、他者というのに、ほんとに関心がないのかなって気までする。ねえ、彼はよく顔が怖がられるから今まであんまり他人とコミュニケーションできてこなかったっていうけれど、そんなの嘘だって少しなりでも世間を見たら、わかるじゃない。コミュニケーション下手だったのは、顔のせいでなくて、彼の他者へ向う姿勢のせい。その自己自身の感情に気楽に安住しちゃって、それで安穏としてるお気楽さのせい。今回、彼のしてることはひどすぎる。大河にも、亜美さんにも。そしてそれはみのりんにもいえるけど、みのりんは竜児に比べて自己満足がつよすぎる。ぜんぜん竜児のこと、フレてないじゃない。一度拒絶したのだから、さいごまで拒絶しなきゃいけないよ。それができないなら、プラトンパンチをくらへーだ。さいしょからてきとうに誤魔化すでない。愛というのは、性というのは、そんないい加減にしていいものでない。好きといわれたら、相手はあなたのこと好きなんだよ。ほんとに、血の出るくらい、好きなんだよ。その想いを軽んじるな。ふざけるな。大河と亜美さんが、これじゃ不幸じゃない。すごくすごく、ひどいじゃない。竜児もみのりんも、自己憐憫に酔っちゃってるだけ。そんなのはゆるさない。私はゆるさない。そんな態度を、私はけして、認めるわけにいかない。人の気持を、自分を正当化することに、使うんじゃない。それはいちばん最低なふるまいだって、私は信じるほどに、馬鹿でありつづける。愚かな大河と亜美さんの側に立つくらいに、人の心を大切にする思想をとる。そうでないなら、それを軽んじるのが利巧だというのなら、そんなのは初めから私には知ったことじゃない。もう、竜児なんて、知らない。」
「はてさて。佳代の逆鱗に触れたとかいうのかしらね、これ。ま、北村然り、どうも自分に酔っちゃうことが多い人がこの作品には事欠かないのよね。据え膳食わないのは自己満足よ。その意味がわからないなら、ま、そういうことかしらというだけでしょうね。あまり気分いい話でなくなってきたことね、この作品。」
竹宮ゆゆこ「とらドラ8!」→
「とらドラ!」にみる男の奇妙な性心理→
性の意味
2008/08/09/Sat
「へー。乃木坂さんってピアノやってるの。それで世界的コンクールで優勝だなんてちょっとこっち方面の話したくなっちゃうけど(→
中村紘子「ピアニストという蛮族がいる」)、あんまり本作と関係なくなっちゃうので割愛。あくまで、アクセントとしてだものね。お嬢さまはピアノやるものということかな。」
「ピアノほど反社会的な才能もないという話? はてさて、それはあまりにアニメとは関係ない話題になるでしょうね。頭痛くなるのはご免よ。」
「それもそだから。‥今回は、天宮さんという人が転校してくるお話で、それと水泳大会のエピソード。何度も偶然に出会う関係の綾瀬さんに、天宮さんはそれってやっぱり何かあるかもって、運命的なことを匂わせちゃうけど、でもたしかに人と人との出会いは運命というのはあるかなとは思うかな。出会いというのは基本的に自分の意志でなんとかできるものでないし、それはただ訪れるという意味において、たいていの人は自分に起こる出来事に運命の予兆を認めてくものかなと思う。それはつまり避けられない逃げられないという意味でもあって、人の意識は、人生のそういう徴にある巨大な因果にからめ取られた自己という構図を、夢想しちゃうものではある。ただ、そういった運命が無意識として前提にあるとしても、人の自由となる意識はその無意識にかんたんに順応するでもなくて、どこか微妙な齟齬‥そしてひいては葛藤をあらわすことになる。邂逅というのは、だから、わからないものかな。なんで私がこんなとこにいるのだろ、みたいな状況もよくあるし。そして生きてくという人間の種としての生存は、ときに恋愛のもたらす依存関係を是としてる節もあって、恋愛はともすれば性欲に墜する危険性を、常に裡に自明として孕んでる。たぶんその性欲と本能の網の目の過程から、個別的な愛を得るということが、人間の精神性という語によって、古来から語られてきた尊厳であるのかなって思う。でも、その愛を得る前に性のもたらす快楽は、ある種の空しさをときに人に与えてしまうことさえあるかな。それが意味するのはたぶん‥」
「またのっけから暴走状態のエントリね。少しオーバーヒート気味かしら?」
「さいきん暑いからかな。あーうー‥。たぶん性の空しさは個々人の闇となるのであって、その闇は必然的に人に血を流さす。逆にいえば、その闇を引き受けられるならこわいことだけど、生きてられる。あるいはその呪縛にからめ取られるなら、その結末は「人間失格」だろな、あるいは高等遊民だろな、と思う。性のふるう血に塗れたなら、そしてそれでも生きようとするなら、性はその個人にある種の宿命をさえ要求するのかも。それがつまり‥」
「吉行淳之介やサド侯爵あたりというの? ただ吉行もサドも女性に骨の髄まで呪われた人生だったのでしょうけど、その帰結する全体像は絶妙な差異を示しているのよね。おそらくサドのほうが凡庸で、吉行は天才だったのでしょうね。」
「それは、感じるかな。‥サドは理論家で、あったんだよね。だからその性の楽園はユートピア風味になってしまうのであって、どしても現実感とはどこか空理しちゃう。それに対して吉行は、実地に挑んだ性的現実をもとに小説を書いたのであって、その現実感を吉行はどこまでも要請しちゃう人だった。‥お姉ちゃん、吉行のもつ闇とサドのもつ闇の差異は、もしかしたらその家族観にあったのかなって思わない? たぶん、性の問題は家族の問題に帰着する。だから太宰曰く、」
「家族は諸悪の根源である、か。はてさてね。‥ところで、乃木坂本論の話からは大分遠い話題を問題にしてる気がするけれど。」
「美夏ちゃんかわいくてよかった! あはは。この子がいちばんかわいいかもかな。オタク趣味のお嬢さまって設定は、ほとんど意味を奏さなくなってる気がするけど、でもけっこうおもしろいからよろしです。次回もそれなり期待。ということで、このエントリおしまい!」
「性の問題絡めるとこれだから。ま、人間にとって軽い話題ではないことはたしかなのでしょうけど。本当、はてさてというものよ。与太に与太を重ねたエントリかしら、これ。」
2008/08/08/Fri
スパロボZの主人公発表。男はX、∀、キンゲ。女は種死ルート「オリジナルなんてどうでもいいじゃん! キングゲイナーと∀が出るのだからっ。きんぐきんぐきんぐげいなー‥きんぐきんぐきんぐげいなー‥きんぐきんぐきんぐげいなー‥。あはは。ふふふ。楽しみだよねーっ。」
「いや、怖いから。というか修理ユニットがオリジナル主人公機で出るのね。これまた英断かしら。外見、マッチョな親父だし。」
「たーんえーたーん‥たーんえーたーん‥。今回のスパロボは久しぶりにとても楽しみなの。だってだって、キングゲイナーと∀が出るのだものねっ。買わずにいられるかというものなのだ!」
「いや、あんた同じことしかいってないけど。ま、バンサーも出るようだしガチコもサザンクロスの技を披露するみたいだし。なかなかどうして、キングゲイナーには期待していいのかしらね。」
「ウルグスク・ドームポリス自警団が使用するシルエットマシンことバンサー! そのいかにもやられ役みたいな地味な外見ながら、質実剛健の性能を示し、対オーバーマン兵器であるBB弾を備えてからはブラック・ドミさえ圧倒する戦力を秘めるようになった、さらにはさいごのオーバーデビル戦においてそれらバンサー部隊の登場によって戦局は窮地を脱したといっても過言でない、まさにヤーパンを代表するメカ、それがバンサー! きっと終盤では量産型ながらとてもとてもつよい魅力的な性能になってくれるって期待してる。α外伝ではカプルをつかってた私としては、カプルも楽しみ。カプルかわいくてよいよね。外伝ではプルツー乗せてた。」
「なぜプルツーなのかと疑問は残るけれど、ま、懐かしい話ね。ああいう地味ながらどこか味のある機体をしっかり描いてくれるのが、富野監督のていねいな長所かしらね。」
「ねー。ガンダムはそんなたくさんいなくてよろしなのだ。いっぱいいても、ヒロイズムがそれで増すと思えないし。ここぞというとこでガンダムがあるから、ゲイナーがいるから、希望はけして捨てちゃいけない。アナ姫さまがいわれたように、私たちにはキングゲイナーがいるのだっ。きーんぐきーんぐきんぐげいなー‥めたるおーばーまーんきーんぐ‥」
「‥で、これでこのエントリ終い? またなんとも中身のない内容だけれど、でもべつにいいのかしら。さて、いいのかしら‥」