「ひだまりスケッチ」の描く閉鎖性と永遠性の意味
2008/09/29/Mon
まぬけづらさん
『ひだまりスケッチはさ、やっぱりとても閉鎖的な作品で、ぼんやり眺めるくらいでちょうどいい。本当はどんな作品でもそうなのだけれど、けれどもしかし特にこういった作品は没入し過ぎると、ベタに心が蝕まれてしまう気がしてしまう。
だから、あれを「気持ち悪い」と評してしまう人がいても、その心性は理解できる。
僕は、延々と続く“普通”とその破壊を、ねこねこソフト作品から感じていたのだけれど、うめ先生はあの会社から「延々と続く“普通”」だけを受け取ってしまったんじゃないかな、と思う。もちろん、原作にはこれから先破壊が、“未来”が待ち受けているのかもしれない。
けれど、たぶんアニメはそうではないのだろうな、永遠を作っているのだろうな、と思いますね。』
「まぬけづらさんのこの指摘、それはエデンの園でイヴをたぶらかした邪蛇の甘言かもかな。でもうん、ひだまりという作品が楽園を志向してるってのはたしかな指摘で、そして私は1話くらいしか見てないのだけど、時系列に沿ってきちんと描くのでなくて、あえてそれを壊しちゃって物語を提供してるってことは、その意図自体がふつうの私たちの生活を目指してなくて、ふつうの反対、つまり閉じた円環的な世界を構築しようとしたってことだと、理解していいのじゃないかなって思う。つまりひだまりという作品は、というかアニメは、そもそも永劫回帰的な目論見によってつくられた作品って認識してよくて、でも、生きるということは絶えず変化にさらされるということであるから、その意味でまぬけづらさんの「心が蝕まれてしまう気がしてしまう」というのは、けして大げさな言辞じゃないかなって思う。もちろん、心和やかになるていどの資とするって意味では、サザエさん的な作品は、比類ない効果があるとは思うけど。」
「彼女たちの設定自体が、そういった内的な閉鎖空間を志向しているというのもあるのかしらね。あのひだまり荘には、異物は決して入らないでしょう。彼女たちの彼女たちによる彼女たちのための世界が登ることのできない絶壁の壁のように控えているのであり、作品のすべてはそれを死守することに投入されている。身内受けというとあれなのでしょうけど、しかしこの作品は身内受けということを極限まで押し進めたらこうなるだろうという形になっているのよね。それはそれで、よくもやったことと評価してよいのでしょうけれど。」
「前に私はこの作品のことを砂糖菓子のような世界って表現したかなって記憶してる(→さいきんひだまりスケッチを読みはじめた)。それはだれにも侵されないある種の雰囲気を強固なまでに保ってるということで、そしてこれはあえていうけど、この作品のキャラはみんなが空気を上手く読んで行動してるのだよね。同調性、というのかな。そこにある種の違和を感じる人はいるのかもしれないけれど、でも私はこの手の作品の存在意義は疑うものではないかな。こういう作品も必要だろなとは思う。ただ、私はこの作品の空気に安住したくはないなって気がしてる。この作品に安穏としてちゃ、私はいけないなって気が、消せないでいる。だから私はこの作品についてはあんまり言葉ももてない。ひだまり荘に疎外されてるなんてことまでは、さすがにいわないけれど、ね。原作のほうは、少し胸のざわめきのようなものはあるし。そちらのほうは、けっこう楽しみにしてるし。」
「主人公のゆのの心中というのは、決して安穏としてるばかりでは実はないのよね。彼女は彼女なりの悩みを、彼女なりに深刻に抱いている。それはおそらく未来に進むことでしか解消の途はないのでしょうけれど、しかしあえて先を閉ざして無限のひだまり荘の日々にあることも、ひとつの選択ではある、か。永遠なんてこの世にはないのだし、永遠を志向するのも悪くはないのでしょう。ただ永遠には人はうんざりするものだけれど。そのうんざりは、けっこうどうしようもないのでしょうけれどね。はてさてよ。」
『ひだまりスケッチはさ、やっぱりとても閉鎖的な作品で、ぼんやり眺めるくらいでちょうどいい。本当はどんな作品でもそうなのだけれど、けれどもしかし特にこういった作品は没入し過ぎると、ベタに心が蝕まれてしまう気がしてしまう。
だから、あれを「気持ち悪い」と評してしまう人がいても、その心性は理解できる。
僕は、延々と続く“普通”とその破壊を、ねこねこソフト作品から感じていたのだけれど、うめ先生はあの会社から「延々と続く“普通”」だけを受け取ってしまったんじゃないかな、と思う。もちろん、原作にはこれから先破壊が、“未来”が待ち受けているのかもしれない。
けれど、たぶんアニメはそうではないのだろうな、永遠を作っているのだろうな、と思いますね。』
「まぬけづらさんのこの指摘、それはエデンの園でイヴをたぶらかした邪蛇の甘言かもかな。でもうん、ひだまりという作品が楽園を志向してるってのはたしかな指摘で、そして私は1話くらいしか見てないのだけど、時系列に沿ってきちんと描くのでなくて、あえてそれを壊しちゃって物語を提供してるってことは、その意図自体がふつうの私たちの生活を目指してなくて、ふつうの反対、つまり閉じた円環的な世界を構築しようとしたってことだと、理解していいのじゃないかなって思う。つまりひだまりという作品は、というかアニメは、そもそも永劫回帰的な目論見によってつくられた作品って認識してよくて、でも、生きるということは絶えず変化にさらされるということであるから、その意味でまぬけづらさんの「心が蝕まれてしまう気がしてしまう」というのは、けして大げさな言辞じゃないかなって思う。もちろん、心和やかになるていどの資とするって意味では、サザエさん的な作品は、比類ない効果があるとは思うけど。」
「彼女たちの設定自体が、そういった内的な閉鎖空間を志向しているというのもあるのかしらね。あのひだまり荘には、異物は決して入らないでしょう。彼女たちの彼女たちによる彼女たちのための世界が登ることのできない絶壁の壁のように控えているのであり、作品のすべてはそれを死守することに投入されている。身内受けというとあれなのでしょうけど、しかしこの作品は身内受けということを極限まで押し進めたらこうなるだろうという形になっているのよね。それはそれで、よくもやったことと評価してよいのでしょうけれど。」
「前に私はこの作品のことを砂糖菓子のような世界って表現したかなって記憶してる(→さいきんひだまりスケッチを読みはじめた)。それはだれにも侵されないある種の雰囲気を強固なまでに保ってるということで、そしてこれはあえていうけど、この作品のキャラはみんなが空気を上手く読んで行動してるのだよね。同調性、というのかな。そこにある種の違和を感じる人はいるのかもしれないけれど、でも私はこの手の作品の存在意義は疑うものではないかな。こういう作品も必要だろなとは思う。ただ、私はこの作品の空気に安住したくはないなって気がしてる。この作品に安穏としてちゃ、私はいけないなって気が、消せないでいる。だから私はこの作品についてはあんまり言葉ももてない。ひだまり荘に疎外されてるなんてことまでは、さすがにいわないけれど、ね。原作のほうは、少し胸のざわめきのようなものはあるし。そちらのほうは、けっこう楽しみにしてるし。」
「主人公のゆのの心中というのは、決して安穏としてるばかりでは実はないのよね。彼女は彼女なりの悩みを、彼女なりに深刻に抱いている。それはおそらく未来に進むことでしか解消の途はないのでしょうけれど、しかしあえて先を閉ざして無限のひだまり荘の日々にあることも、ひとつの選択ではある、か。永遠なんてこの世にはないのだし、永遠を志向するのも悪くはないのでしょう。ただ永遠には人はうんざりするものだけれど。そのうんざりは、けっこうどうしようもないのでしょうけれどね。はてさてよ。」