あずまきよひこ「よつばと!」8巻
2008/10/31/Fri
「8巻が出たのが二月くらいまえだったと思うから、感想書くには少しおくれちゃったかな。といって、感想は新鮮さが大切なのだから今さらするのは時期はずれなのだーとかいうのは私ゆるさない。」
「ま、時節を逸してしまったのはたしかでしょうがね。すぐ買うのが億劫だったから読むのがずるずると遅れたのでしょう。それほど忙しいということもなかったでしょうに。」
「プラトンパンチをくらへー!」
「ぐふぅぁっ!?」
「時節を逸したとかいうなー! 鮮度を恐れて吉行淳之介の感想ができるかー!」
「‥ま、往時の人気作家だった吉行については多くの人が語り、そして同じくらい多くの言説が忘れ去られたのはたしかなのでしょう。それを二十一世紀で読み継ぐという問題はなかなか考えさせられるものがあるかしれないけど、ここでは曲りなりにも「よつばと!」についてのエントリでしょうから、ま、この問題は横においておくとしましょうか。」
「よつばとかー‥。でもちょっと、「よつばと!」について何がしか語るのは無粋かなって気持はぬけきらないものがあるよね。でもここでは少しその気持を抑えて、この作品について抱く私の考えを少し披瀝するとしよかな。‥この作品を見てまず思うのは、「よつばと!」においては明確なストーリーがその作品コンセプトの基本としては導入されてないってことなのだよね。「よつばと!」にはただ流れる時間があるのみで、そしてそこには明確な物語やドラマ性といったフィクションにおいて用いられる古典的な作品の駆動力‥つまり人間を描くに当って起承転結の段取りに依拠しない、あるとても独自な方式がとられてることに気づく。‥これはほんとにすごいなって、私は思うんだ。「よつばと!」と似たようなスタンスをとる「ケロロ軍曹」だって、その作品の底流には侵略をする宇宙人って構図があって、ときにそれが作中の非日常って物語を生みだす誘因となるのだけど、「よつばと!」にはそれがなくて、あったとしても「お隣の綾瀬さん家に遊びに行く」くらいに日常的な次元に、「よつばと!」が本来的にもってる駆動力は目立つことがなくなってる。つまり「よつばと!」の圧倒的なとこは、人や思想を描くのに「物語」っていう「言葉」をつかうことなく、それを表現する術を案出したという点にあるのであって、それが何かなっていえば、私は「視点」なのだと思う。みんなが、大人が、友だちが、よつばを見るその視点。それこそがこの作品の駆動力であり、人を描くのに要らない言葉を用いない、あずまきよひことの天才性の証明なのだと思う。‥と、こういっちゃうとやっぱり無粋かな。私は言葉に頼っちゃう人間だから、ほんと、無粋。」
「主人公のよつばを見守る視座こそが、「よつばと!」という作品の核であるという意見ね。劇的なドラマの起りえない日常を描くこの作品において、よつばが確固たる主役である理由は、だれもがよつばを向いているといった、作者の視点の矛先がよつばをおいてほかにないというところに起因しているということは、たしかにいえることなのでしょう。そしてそれゆえに、この作品はぶれてない。明確な目的意識のない日常を描く作品においては、往々にして主役像というのはぼやけてしまうものだろうけど、しかし「よつばと!」においてはよつば以外に主人公はありえないのよ。その理由が何かといえば、そこにはやはり「視点」がからんでくるというふうにはいえるのかしら。」
「よつばはべつにとくべつな存在でないけど、でもよつばがそこにあるとき、よつばと親しい人たちにとって、よつばはとくべつな、かけがえのない存在になる。それはまた作品を読んでる私たちにとっても同じかな。‥つまりそれはよつばと接する私たちの視点がよつばをほかのだれにおいてでもなくて、ただよつばにおいて機能するからであって、そこには他者を大切に思う人の気持‥やさしさが、ほんとにあるって気が、私にはする。この作品をあずまきよひこのよつばを見るひとつの視点の軌跡として捉えたとき、私には何か子どもと付きあう大人の、そしてかつて子どもであった私自身の、あるとても大事な感情がそこにこめられてるような気がした。‥でもこれ以上語るのは無粋だから、このエントリはおしまい。私がたいがい無粋なのは、しかたないことだけどかな。言葉でいうものじゃ、ないものね。」
「ある意味父性について「よつばと!」は多くを語っているとも読めるのよね。よつばは一人の人格であって、それに対するのは一人の人格に対するのと、何ひとつ変わったところはないし、また変わるべきものでもない。そこには大人のある種の倫理が問われているにように思うけれど、ま、あまりいってもね、あれでしょうよ。この作品の魅力は語るにつまらないものがある。そういった性質の作品があるということはうれしいことよね。それは本当にそう思うことよ。」
あずまきよひこ「よつばと!」8巻
「ま、時節を逸してしまったのはたしかでしょうがね。すぐ買うのが億劫だったから読むのがずるずると遅れたのでしょう。それほど忙しいということもなかったでしょうに。」
「プラトンパンチをくらへー!」
「ぐふぅぁっ!?」
「時節を逸したとかいうなー! 鮮度を恐れて吉行淳之介の感想ができるかー!」
「‥ま、往時の人気作家だった吉行については多くの人が語り、そして同じくらい多くの言説が忘れ去られたのはたしかなのでしょう。それを二十一世紀で読み継ぐという問題はなかなか考えさせられるものがあるかしれないけど、ここでは曲りなりにも「よつばと!」についてのエントリでしょうから、ま、この問題は横においておくとしましょうか。」
「よつばとかー‥。でもちょっと、「よつばと!」について何がしか語るのは無粋かなって気持はぬけきらないものがあるよね。でもここでは少しその気持を抑えて、この作品について抱く私の考えを少し披瀝するとしよかな。‥この作品を見てまず思うのは、「よつばと!」においては明確なストーリーがその作品コンセプトの基本としては導入されてないってことなのだよね。「よつばと!」にはただ流れる時間があるのみで、そしてそこには明確な物語やドラマ性といったフィクションにおいて用いられる古典的な作品の駆動力‥つまり人間を描くに当って起承転結の段取りに依拠しない、あるとても独自な方式がとられてることに気づく。‥これはほんとにすごいなって、私は思うんだ。「よつばと!」と似たようなスタンスをとる「ケロロ軍曹」だって、その作品の底流には侵略をする宇宙人って構図があって、ときにそれが作中の非日常って物語を生みだす誘因となるのだけど、「よつばと!」にはそれがなくて、あったとしても「お隣の綾瀬さん家に遊びに行く」くらいに日常的な次元に、「よつばと!」が本来的にもってる駆動力は目立つことがなくなってる。つまり「よつばと!」の圧倒的なとこは、人や思想を描くのに「物語」っていう「言葉」をつかうことなく、それを表現する術を案出したという点にあるのであって、それが何かなっていえば、私は「視点」なのだと思う。みんなが、大人が、友だちが、よつばを見るその視点。それこそがこの作品の駆動力であり、人を描くのに要らない言葉を用いない、あずまきよひことの天才性の証明なのだと思う。‥と、こういっちゃうとやっぱり無粋かな。私は言葉に頼っちゃう人間だから、ほんと、無粋。」
「主人公のよつばを見守る視座こそが、「よつばと!」という作品の核であるという意見ね。劇的なドラマの起りえない日常を描くこの作品において、よつばが確固たる主役である理由は、だれもがよつばを向いているといった、作者の視点の矛先がよつばをおいてほかにないというところに起因しているということは、たしかにいえることなのでしょう。そしてそれゆえに、この作品はぶれてない。明確な目的意識のない日常を描く作品においては、往々にして主役像というのはぼやけてしまうものだろうけど、しかし「よつばと!」においてはよつば以外に主人公はありえないのよ。その理由が何かといえば、そこにはやはり「視点」がからんでくるというふうにはいえるのかしら。」
「よつばはべつにとくべつな存在でないけど、でもよつばがそこにあるとき、よつばと親しい人たちにとって、よつばはとくべつな、かけがえのない存在になる。それはまた作品を読んでる私たちにとっても同じかな。‥つまりそれはよつばと接する私たちの視点がよつばをほかのだれにおいてでもなくて、ただよつばにおいて機能するからであって、そこには他者を大切に思う人の気持‥やさしさが、ほんとにあるって気が、私にはする。この作品をあずまきよひこのよつばを見るひとつの視点の軌跡として捉えたとき、私には何か子どもと付きあう大人の、そしてかつて子どもであった私自身の、あるとても大事な感情がそこにこめられてるような気がした。‥でもこれ以上語るのは無粋だから、このエントリはおしまい。私がたいがい無粋なのは、しかたないことだけどかな。言葉でいうものじゃ、ないものね。」
「ある意味父性について「よつばと!」は多くを語っているとも読めるのよね。よつばは一人の人格であって、それに対するのは一人の人格に対するのと、何ひとつ変わったところはないし、また変わるべきものでもない。そこには大人のある種の倫理が問われているにように思うけれど、ま、あまりいってもね、あれでしょうよ。この作品の魅力は語るにつまらないものがある。そういった性質の作品があるということはうれしいことよね。それは本当にそう思うことよ。」
あずまきよひこ「よつばと!」8巻