2008/11/30/Sun
「あはは。今度は巫女さんが出てきたー。しかもチューリッヒに吸血鬼におまけにパラケルススまでもち出しちゃって、なんて国際色豊かかもかな。こう来ちゃうと、少し欲張りすぎって気もしないでないかな。すでにこの作品は超能力と魔術だなんて二大要素を作品の根幹の設定に据えてるわけだし、それらを破綻させることなく物語の背景として機能させるには、よほど融和したストーリーと違和感ないキャラクターの造詣が求められる。たぶんそのために敵味方どの陣営からも不可解とされる異物である上条さんを主人公としたのだろな。その点は、この作品のよく練られたとこなのかもしれない。もちろんジョーカーとしての役割を背負わされた主人公というのは、一歩まちがえちゃったらケレンも何もないピエロになっちゃう危険性はあるけれど‥」
「なんでもできてしまう英雄然とした人物に魅力なしといったところでしょうからね。ま、その意味では右手しか役立たず、そのほかの能力では目立った部分のない当麻というキャラクターは、そうわるくないバランス感覚を備えているとはいえるのかしら。しかしそれにしてもすでにキリスト教に相当突っこんだ設定を発言しているというのに、あろうことか錬金術までしゃしゃり出てくるとははてさてかしらね。これはこの作品、何が出てこようともはや恐れるに足らずかしら。」
「ねー。こわいもの知らずだよね。吸血鬼、ということで思いだすのはいろいろあるけど、とりあえず私としては原点のスラヴ人の古典的な吸血鬼像を思い浮べることにしよかな。これはあんがい知られてないことかなって気がするけど‥たぶんそれは吸血鬼が創作の素材としてもはや独自の文化的背景をもつに至るほど歴史を刻んでるからなのだろけど‥キリスト教受容以前にあった汎神論的信仰風土の一端として、そもそもの吸血鬼はあるのであって、そして文字をもたなかったスラヴ人のために、現代の私たちは古代スラヴ異教のころの吸血鬼の正確なイメージを知ることは、たぶん叶わない。これはキリスト教による異教への迫害と関係することでもあって、キリスト教以前の異端信仰の正確な文献というのはほとんど残されてないのはのちの西欧を支配するキリスト教の影響力のつよさを考えれば、明瞭であるのだよね。だから古来ゆかしき吸血鬼っていうのは、それこそヨーロッパ文化の影であって、光芒の消しがたい跡にふかい霧が引かれてく、そんな過去に茫漠として浮びあがる文字通り幽鬼としてその存在はあるのかもしれない。ほんとに幻想みたいなものかな、吸血鬼のあり方をつかもうと思えば人は空を握るがごとくなのだから。」
「魔術教会側が吸血鬼の存在を把握していないというのも、そういった歴史的事情を考えれば頷けるものはあるのよね。キリスト教者が残した異端の記録は、それが異教であるために記録の客観性といった観点からは有効性を失うのは自明であるし、魔術師が吸血鬼の存在を信じられないというのも、ま、そもそも異教のたわ言としてもよい事柄なのだから、そう不思議がる必要もないのでしょう。もちろんそこまで考えこまれている設定とも思わないけれど、ま、与太話としてはおもしろいのよね、これ。」
『吸血鬼とは、定義をすれば、肉体をとって墓から帰還し、生きている人間の血を吸ってその生命力を奪う死者である。「帰ってくる死者」の信仰は広く世界の諸民族に見られるもので、日本の幽霊もその一つのタイプであるが、スラヴの吸血鬼が日本の幽霊と決定的に異るところは、肉体を得ていることと、人間の生血を吸って生きつづけることの二点である。吸血鬼は死霊であるが、それは「生ける屍体」である。肉体的に帰還する死者、「生ける屍体」の観念は、文化史的にきわめて古い時代である狩猟文化時代のプレ・アニミズム的思考に起源する。アニミズム的思考法によれば、肉体と霊魂は完全に同一視され、人間は二つの肉体を持つ、と考えられた。人間が死ぬとき、あるいは眠っているとき、肉体を離れた霊魂は、鳥、蝶、蛾などにおいて受肉し、彷徨する、と信じられた。死者が肉体をとって帰還するという吸血鬼信仰の根源には、このアニミズム的分身霊信仰がある。』
栗原成郎「スラヴ吸血鬼伝説考」
「なんで題材が吸血鬼なのにとても東洋的な色彩のある巫女さんがヒロインとして登場するのかなって思ったけど、でも吸血鬼って概念を死者の蘇りとしてとらえるとき、その存在は洋の東西を問わず霊魂の意義を信仰する人たちにとっては、普遍的とさえいえる問題なのだってことに気づくよね。肉体のあるなしの差異はここではとりたてて問題にならなくて、さらに神を下す身体としての働きをもつ巫女にとって、彷徨する死体である吸血鬼との相関する間柄は、一見して感じる違和感よりきわめて文化史的な宗教的な、そしてつよい呪術的意味あいがあるのかなって気が、私にはしてくるかな。もちろんそうたやすい領域でないけど、おもしろい題材ではあるにちがいないよね。巫女さんと吸血鬼、かー。‥この問題は別途あらたにしてとりくんでみよかな。ほんとは錬金術にもいいたいことはいろいろあるけど、とりあえずこのエントリはおしまい。こういった世事離れした話題になると、いたずらに話し長くなっちゃうや。抽象的思考に片寄りがちなのが、私の特徴、かな。こまったもん。」
「いつものことのようにも思えるけれど、っていうか抽象的な話題ばかり振るブログだことね。はてさてよ。ま、とりあえずこの禁書目録って作品、もしかしたらこういったオカルトな話題を展開する口火には最適なのかしれないかしらね。なんだか真っ当な楽しみ方ともいえないでしょうが、ま、こんなのもありでしょう。あまりアニメ本編とは無縁だけれど、ま、そこは、お目がねを願おうかしら。毎度のことだし、甘えてもよろしいという感じで、はてさてね。」
2008/11/29/Sat
「朋也が卒業したくないっていって留年の希望を明かすのは、これは彼のわかりやすいモラトリアムの表現であるから、それをいけないっていう渚は至極正しいのだよね。ここで肝心なのは朋也がそういうのは渚を思ってでなくて自分の身勝手な感情からいうのであるということで、彼はそれにぜんぜん思い至ってないってこともないみたいだから、そう卑下するほど成長してないってことはないのかなって気はするかな。しょせん洒落でいってるのはわかることだし、以前の朋也ならそのことにさえ気づけなかったかもしれないから。でも、とことん渚ありきのとこが、彼をけっきょく悲劇に導くことになるのはとても皮肉なものかなって思うけど。」
「杏だの椋だのがこれから先を上手くやっていけるだろうことは予想できるし、ま、ことみは少々不安なところもあるのでしょうがそれでも今の彼女ならばと思えるのはたしかでしょうし、本質的に他者からそう嫌われることはないだろう春原みたいな型の人間は学生よりも実社会に出たほうが上手くなるだろうことはいえるのでしょうし、そして渚が留年したところでなんとかやっていけるだろうと思われるくらいに、彼女は強いのよね。というか、おそらく、渚は強すぎなのでしょう。それに比するとどうしても朋也というのは、ま、春原のいっていたとおりに脆いのでしょう。それが不安な要素だというのは、自然な感想であるのでしょうね。」
「幸せになれって秋夫さんは渚にいってたけど、人の幸福にはどうしようもない運不運が関係するものとはいえ、総じてみるに渚は幸福になる条件‥もしそんなのがあるとするならば、だけど‥を備えてるようには見えるかな。というのも、たぶん渚はその人柄の奥底からして、くじけるってことがないような人に思えちゃうから。もちろんこれだけいっちゃうのは暴論だしちょっと極端にすぎちゃうのでないっていわれたらそれはそかなって頷かざるえないけど、でも渚のもつつよさは、破綻的な不運さえ甘受してしまうのでないかって思わせられるほど、確としたものがあるように私には思えちゃう。そして本編を一通り見てみても、たぶん渚の日々は、幸せであったのでないかなって私は感じるかな。これはたぶん渚が、終始他者のために働いてた結果なのかなって思う。こういうとあれかもだけど、人は他者に尽すと、たぶん幸福感を感じることができる。みずからでなくて、みずからの外に意識と関心と愛を向けること。たぶん不幸せの源泉は自己愛であり、そしてその自己愛を減らすことが、幸福への一歩目のように思えるから。」
「バートランド・ラッセルの教え、とでもいうものかしらね。大人になるということはある意味自分じゃなく、他者のために自分を減らすようになることをいうのかもしれない、か。ま、その意味でいえば渚は聖人の域でさえあるのでしょう。彼女はいろいろ考えると怖い部分もあるのでしょうが、しかし朋也にとってはまちがいなく自分に献身的に付き随ってくれる女性だった。この、何があろうと共にいてくれる存在であるところの人間だった、というのが問題でもあったのでしょうね。朋也にとって、果してそれは本当に幸福のためによかったのか、という問題が、ここにはあらわれてくる。」
「あんまりいうのもあれかなだけど、ね。‥たぶん渚って朋也がどんな状況になろうと、どれだけやさぐれちゃおうと、決定的な段階では彼のことをぜったいに見捨てはしない人なんだよね。渚は常に朋也の同伴者としてあるのであり、そしてそれは弱さの担い手としての他者って相貌を刻まれてることは、ある意味明瞭にわかることであった。そして私には、なんていうのかな、この渚に出会えたことが朋也のために大きな意味性をもつことになったのはとてもわかるのだけど、それはそれとしてまた大きなべつな意味あい、それは遠藤周作が描いたことと符合するかのように思えちゃう、そんな難題さえ彼には渚の愛と本質的に同義なものであるとこのものとして、彼に受け渡されたのかなって、そんな気さえ少ししちゃう。渚はつよい。でも朋也は弱い。そしてそんな朋也が、渚のつよさを要求される事態になっちゃったことは、果して朋也にとって、どういった意味あいをもつことになったのかな。というのが、たぶんこれから先のこの物語の、私の関心の向くとこ。楽しみに、させてもらおかな。」
「今回の話だけを見てもわかることでしょうけど、朋也はこう非常に頼りがいのない、傍目からすると不安でしかたがないという面が拭いがたくあるのよね。もちろん彼が土壇場においては有効な力と決断力を有する人だというのはわかるのだけど、そうじゃない自分自身の部分に関しては、とても無計画でずぼらなところがあるのが、ま、彼の問題だといってはいいのでしょう。そういう朋也と渚の二人組みがどういう形になるかは、少しならず興味がある題材かしらね。とりあえず、次回にゆるりと期待させてもらうとしましょうか。はてさて、どうなるかしらね。」
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自尊心の処理の問題 「とらドラ!」と「山月記」に寄せて→
遠藤周作「ほんとうの私を求めて」
2008/11/28/Fri
「ある意味私はいい時期に山本七平を読んでるのかな、という気がたまにする。山本七平が死んで早十年余がすぎようとしてて、彼についての批判や論争かまびすしい時期に生を受けなかった私にとって、ほとんど周囲の雑音がきこえないくらいの‥もちろん、山本七平のような著作家は彼に限らず読み継がれてる実感はあるし、私のごく身近な範囲でもその読書の恩恵といった形において影響を示してくれる人たちはいる。でもそういった人たちは、当然のことながら、ブログシーンには出てこない。当り前‥静寂と寂寥の只中にあって、山本の本を読めるということはありがたいことなのかなって思うかな。もし、これは私の性格からしていうのだけど、世間でがやがやわいわいやってるメインの思想や作家を、先だって追って何ごとか能動的に発言するとは、私って人間からはとても似あわないのじゃないかなって思うから。たぶん、これは山本七平に限らないけど、私があえて時代の尖鋭であるネットをつかって古典を営々と感想してるのは、私の生来の現実軽視の空想主義的なとこが関係してるのかなって思うかな。もちろん、それはあんまりよい徴候ではないのだろけど。」
「浮世離れなんて録でもないことでしょうからね。ま、ある種頑固にやってきてるのでしょうけど、しかしたしかに世間から忘れ去られはじめているのかもしれない著作をふたたびネットの舞台にあげることには、何か意義があると考えるべきなのかしら。いや、ま、おそらく意義とかいう時点で鳥肌立つのでしょうけど。使命感とかもつととんでもないことになりがちよ。」
「あはは。ろくでもないよねー。あんまり気張らないのがよろしかな。‥さてそれで、本書のことだけど、これは山本七平の多くの著作のなかでもとくに独特の位置を占めることとなる一冊だと思う。表題のとおり、山本七平とその息子さんである山本良樹の交換手紙の内容が本書を構成してるのであり、二人のそれぞれの立場、環境、山本の思想のあり方と展開、さらにはある父子の関係性といった面からも読むことが可能である書だから、人によってこの本へのアプローチの仕方は多岐にわたることは必至かな。‥そういうことを踏まえたうえで簡潔に私の読後感を述べるなら、この本は、ほんとにおもしろい一冊で、もしかしたらこの本こそ山本七平にとってとくべつの冠をさずけるに値するものとさえいえちゃうのかなって気がする。だから、なんなのかな、私はこの本は単純におすすめだから読んでみてとか、そういうふうにはいえないかなってちょっとだけ思う。それはこの書を読むことで私が山本七平に好感をおぼえちゃってることを、ことさら、意識させられたせいもあるからで、うん、一概に感想をいえる本じゃないね、これ。そしてこの私の躊躇は、たぶん本書の親子関係の情感と、それに付随する、またはしたであろう山本の光景を思い浮かべたとき、ふとわかる類のものであるのかなって、私は思う。だからあまりくわしいことはいわずに、本書についての言及おしまい。あんまりたくさんいう本じゃ、ないものね。」
「そこらの機微を了解してもらうには、実際にこの書に当ってもらうほか術はない、か。ま、そうかしらね。単純にいえば、書評をするべきでもない類の一冊というべきなのでしょう。ただこういう本は、座右の書の一冊として挙げとけばいいだけの本であるのでしょう。しかしそれをわざわざエントリに書いてしまうのは、少しのエゴなのでしょうね。ま、そこに自分の凡俗さを感じて嘆息するといった趣向かしら。このエントリに意味があるとすれば、ま、そんなところに落ち着くでしょうね。はてさて、と。」
『人間はカネにならんことを一生懸命やっている限り堕落しないと私は信じているのだ。……生活の心配など、する必要はない。人間、そう簡単に餓死しないことは、フィリピンのジャングル戦の体験で私はよく知っている。
しかし、このカネにならない仕事を長期間継続することは、相当の決心と持続力がいる。問題は「飢え」より安易につきたがる心情だろう。
……
…わずか四十年余で、日本は最貧国から最富国の一つにはねあがった。欲しい、欲しいと願ったものを手に入れた。しかし「心が『空洞化』」していると良樹はいう。なぜか。ルカによればすでに「慰め」を得てしまったからだと。このパラクレーシスには「願いごと」という意味もある。そして、それを得てしまった後には空白しかない。この空白を埋めようとして、さらに富を求める。それを得ればまた空白だろう。いわば、飲めば飲むほど渇くという地獄の水みたいなもの、全世界を買い占めても満足できまい。まさに「人、全世をもうくとも……」だろうな。
……
しかし私は常に楽観的なのだ。いずれ人びとはそれに気づき、自らを少しでも貧しくするため、「金にならないことは何でも」一心に行い、それで心の空白を満たすようになるだろうと思っている。それは根拠なきことではない。江戸時代にはそういう人はいくらでもいたのだ。それは別に高い教育を受けた人ではない。当時の隠居制度もいいな。いつか、鳥亭焉馬という江戸落語の創始者のことを書いた本を読むとよい。彼は大工の棟梁にすぎないが、早々と隠居して、「金にならないこと」を一心にやった。本当に、落語の普及を楽しむなんて、最大の楽しみだと思うよ。そういう楽しみでも、私は立派なことだと思っている。』
山本七平「父と息子の往復書簡」
山本七平、山本良樹「父と息子の往復書簡」
2008/11/27/Thu
「竜児の言い分には一理ある。それは彼が恋愛を幽霊にたとえてるとこで、自分は幽霊に会いたいって思ってる、今までたぶんしっかりと認識したことはないけどでもいつか会ってみたいなって意中の人相手に語る場面は、私が竜児というあんまり好きでない人のなかで、とてもよいな素敵だなって感じられた瞬間のひとつだった。そう、そなんだよね。恋愛というのにあこがれちゃうっていうのはわかっちゃう。メディア幻想とか、恋愛が物語として語られるようになってだれも彼もがラブコメで非モテの人は疎外されてるとか、そういった言説があるていど有効な主張であることは認めるけど、でもそれらに係らず、つまり現代って文脈を踏まえたうえにも係らず、変わらない恋愛への憧憬とそれにつりあうべき恋愛の力の本質というのは、あるにはあるのかなって思うくらいに、私は恋愛には期待しちゃう心情というのがあるのかなって自覚する。恋愛って、めんどいね。たぶん自殺するより、恋愛のほうがめんどい場合って、たいていだよ。そこがときおりやになっちゃう、かな。」
「竜児が実乃梨と語りあう場面が非常に良かったというのは、たしかにそう首肯できるものあるのでしょうね。この語らいがある意味竜児と実乃梨が対等に接したはじめての瞬間であったのであり、ここでの印象を感じると、実際問題竜児と実乃梨はそう相性悪いというわけじゃないのでしょうね。ま、もちろん、こういった話題を二人が共有できたからといって、それが互いが互いを恋愛対象として十分に機能するかといえば、微妙なところではあるのでしょうけど。」
「ここでみのりんがいう、恋愛感情ってなんなのか私わかんないって答える態度は、わかる人にはすんなりわかることでないかなって、私は思うかな。というのも、これはあんがい男性にはつうじにくいことかもだけど、恋愛感情を実感したことのない女性はずっといる。たぶんだけどこれが恋愛かーって自覚できるほどに恋愛を体験してその機微を意識できる人というのは、意外というほど身近に偏在してないのじゃないかな。それはその人が美人か不美人かということには無関係で、つまりほとんどの人は素敵な恋愛の物語を演じるには自分は役不足だなって感じてるってことが大きく与ってて、そしてそれに恋愛の劇的な開始の告示というものも、明瞭に訪れる人なんて早いうちにそんないないから、みのりんが恋愛がわからないって語るのは、その言葉どおりに受けとめるべき発言であったって、私は思う。‥たぶん、これは作者の竹宮ゆゆこのよく実感のこもったシーンだったのじゃないかな。竹宮先生というのは、たぶん、恋愛のドラマ性というのを幻想としては信じてない。それでも恋愛の力というのは考えてる。この作品のことを考えると、下世話だけど私、竹宮先生の人となりと抱く恋愛観にちょっと興味湧いてくるかな。それは作家論としてよりも、私の単純な好奇心のせいかもだけど、「とらドラ!」を読むと、この人はけっこう現代的な恋愛観の文脈の背景に対して、違和を感じとってたのでないかなって、私は少し思うかな。」
「恋愛というのは愛だの出会いだの感動の涙だの、そういった大衆的には大仰な言葉で飾られるものであるけれど、しかしそういうのを心から信じている人は、いないだろうというある種の感慨かしら。恋愛がわからない人はけっこう普遍的に存在するものだと語る女性の心情というものは、これで実に素直な感情がこめられていたりするから意想外なものよね。さて、ここでひとつの問題が浮上もするでしょう。竜児や実乃梨は幽霊に会いたいってことを肯定する形であの対話は終了していたけど、ではそれじゃ幽霊に出会えない人生といういのはあるものかしら? そしてまた幽霊に出会えなかった人生には意味があるのかしら? これは本質的な問題よ。さて、どう答えるべきでしょうね。」
2008/11/26/Wed
「雨宮先生のいってることは結果論ではあっちゃうんだよね。お前は逃げたのだーとかいわれても、あの状況ではしかたなかったじゃんって、ふつう傍観者の私なんかは思っちゃう。でもその冷静に考えてみれば理路がめちゃくちゃでただの難癖かって切り捨てられる雨宮先生の言葉を真に受けちゃえるほどに、火村さんというのは素直な人だし‥ばか素直かな。少しこの純真さは、危ういな‥彼の心に過去の災害の記憶は、今なお消えない影響力をもっちゃってるほど、悔いがついて回ってるってことなのかな。‥ただ、でもうん、妹さんを失っちゃったって事実は事実それとしても、そこに火村さんの罪があるって考えることは理屈としてナンセンスだっていうことは、少なくとも理性的に考えたら当然に至りつく結論だけど、火村さんはその悲劇をただの悲劇としてでなくて自身の罪業としてとらえ、そしてある意味その償いのために火村さんは生きてきたともいるから、物語はむずかしくなっちゃってるのかな。それは火村さんは、むしろ悲劇を己の責任に帰することで、生きるための力を得てたともみえるからで、そうしなきゃ生きられないほど‥放っておいたら自死に至った‥妹さんの彼において占める割合は大きかった、か。‥それはそれで健全な関係だったとはいえないかなだけど、でも火村さんは過去のためによくもわるくも生かされてたとはいえるのかな。そして雨宮先生のしたことは、火村さんのそういった内罰的な傾向を見抜いたうえでのいちばん痛い部分を突いちゃったのだろな。ある意味、火村さんは雨宮先生自身の生き写しだろから、彼の心理はよくわかって当然なのかも。」
「危うい人間というのはまったく、かしらね。いきなり優子を連れて出奔してるところは何ごとかと思ったことよ。まさか駆け落ちしてしまうとは、いやはや、はてさてというか、人は見た目に寄らないというか、ある意味見た目どおりというか。まったく激情的な性のもち主であることよ。これほど加熱しやすい心性の人だから、雨宮のいうことでもあれほど動揺してしまうのでしょうね。冷静に見返せば雨宮の主張に妥当性はないことに気づけるでしょうに。それができないのが、ま、火村が雨宮に拮抗しえない理由かしら。それは、少し哀れでさえあるのでしょう。」
「ここで雨宮先生に火村さんを捨ててついてっちゃう優子さんの心理が問題となるのかな。優子さん何考えてるのー、みたいに。ただだけど思うのは、人の心というのはそんなつよいものでないし、優子さんはとりたててつよい人でないっていうこともわかってたことだから、この展開は、ある意味しかたないことではあったのかなって、私は思うかな。というのも、たぶん二人の出奔の最終的に行き着く先は、心中でしか、ないのじゃないかな。そして優子さんははっきりとはいえなくても、薄々その可能性に思い至ってたから、雨宮先生の出現に心揺れちゃったのでないかな。‥ここで私がそう思うのはいくつか理由があって、まずひとつめは、火村さんと優子さんは、どちらも若いから。こういうと危険かなだけど、若さの美は自殺を誘引する。‥もひとつは、そしてこれが核心であるのだけど、火村さんの深層心理にはたぶん雨宮先生が指摘したように妹といっしょに死にたかったって欲望があって、そして妹を‥これは火村さん自身は否定してたけど、でもそうじゃないってことは、彼が燃えた時計の遺品を捨てきれないでいることからも察せる‥忘れきれない彼は、いつか妹の影を優子さんにだぶらせて、そして優子さんを妹の代替にして、彼女を幸せに、つまり救うために、ともに死のうとしちゃう傾向があることは、今回のある意味彼の楽天的なふるまいから、予見できることでさえあったのじゃないかなって、私は思っちゃう。‥火村さんの願いが、妹の無念を晴らすことだとしたなら、優子さんに求められるのが、優子さん自身にとって決して幸福な未来を約束する方向でないことは、むしろその対極であることは、ほかならない優子さん自身にとって、感づけちゃうことであったのじゃなかったかな。優子さんは、火村さんの危うさに、気づいてた。だからこの作品でもしいえば、優子さんより、そしてもしかしたら雨宮先生より、火村さんの狂気は色濃いのかもしれない。‥妹って死神に、誘われて冥府に落ちるのは、彼という人にこそ、ふさわしいことであるのだから。」
「優子は回の進むにつれ、どんどん常識的な人であることが判明してくるのが、より火村の尋常でなさを証し立ててくれているのかしらね。こういうとなんでしょうけど、不幸である女性の姿に萌えてしまうという心性をもった人は、実はそう少なくないのよ。そしてそのときその心理には、少なからず女性に対しての自己投影と若干の美化が起っているとはいえるのでしょう。ま、なんだか口にするだけでとんでもない話だけれど、火村はけっこう怖いのよね。優子が火村を怖がったとしても、そうおかしくはないのでないかしら。もちろん、それが火村の不幸を呼び寄せようと、優子にしてみれば、詮無きことであるのでしょうが。はてさてね。ままならないものよ。」
→
救いについての意味あい 生と死の混淆→
まほらば~Heartful days~ 第19話~第21話
2008/11/26/Wed
「原作のほうは1巻ですでに辟易しちゃってそのあともうついてけないかなって思ってフォローしてなかったのだけど、アニメはあの1巻の内容をどう映像化するのかなって興味があったから見てみたら、わーなんか完全再現って感じでおどろいちゃった。6話もかけて1巻を丸ごとそのままあらわしちゃうなんて、これはなかなかすごいかもかな。こんなに華麗だと思わず私も心揺らいじゃう。原作苦手ーって思ってたけど、インデックスと神裂さんでお釣りきちゃうのじゃない?」
「いや、まておいっていうか、インデックスたちはああもかわいらしくなるとは意想外だったかしらね‥。神裂火織のやりようは剣術とかそういうレベルでなかった印象だったけれど。」
「かわいいよねー。インデックスよかった。でもとりあえず、アニメのほうで原作を再体験させてもらってるようでおもしろかったのだけど、みててつくづく感じちゃったのは、上条さんの最たる武器はイマジンブレイカーとかそういうのでなくて、何よりその流暢に間断なく流れる弁舌の才にあることこそ疑えないよね、ということ。もう彼の演説の長さは特筆に値しちゃうくらい。‥ね、6話までのお話でもそだったけど、上条さんが真価を発揮するのは敵と戦うことでなくて説得する方面であって、彼の詐術に近い思想に敵方はことごとく共鳴しちゃうから、上条さんは最終的に勝っちゃうのだよね。たぶんこの作品を楽しめるかどうかは、彼の語る思想に共感できるか否かなんだろな。告白しちゃうと、私は彼の言い分にはぜんぜん賛成じゃないけど。だからあんまりこの作品にはのめりこめないのが残念かな。うん、残念。」
「ま、上条のいうのはけっこう支離滅裂というか、熱い勢いがあるのは認めるのだけれどねというレベルなのよね。しかしそこらに突っこむのは止めにしときましょうか。この独特の論理で流されるのが本作が支持を受けている要因でしょうし、上条に苛立つくらいなら係らないのが賢いのでしょう。もちろん上条の思想がいらっと来るのであって、人柄自体は好人物の条件は備えてはいるのでしょうが。ま、それが微妙な理由か。」
「記憶を失ったあとのインデックスに対するふるまいはすごかったよね。あそこは私も、認めるにやぶさかでない。でもあんまり好きになれない人物ではあっちゃうのかな。たぶん、これは私のためかも。‥作品設定で気になるのは、やっぱりイマジンブレイカーの基準だよね。あれってなんなのかな。幻想や異能力を殺しちゃうのだーってことだけど、でもその異能者の基準を判定してるのはだれなのかな?って疑問がある。この世界では超能力は科学であるのに、上条さんのイマジンブレイカーでは打ち消せちゃうのだよね? レールガンとか。でも打ち消せちゃうっていうことは超能力は異能力であって、そして科学とは人たちに認知された世界説明の論理体系と定義するなら、超能力は科学の範疇でないのじゃない? だってそうでなかったら超能力と魔術の垣根がそもそも成り立たない気がするし、たとえばの話、超能力さえイマジンブレイカーが無効化できるなら、今の科学文明の産物‥車とかパソコンとか‥も同じように無効化できなくちゃ、おかしくない? イマジンブレイカーって私にはよくと説明できないな。だれか上手い説明できてるのかな? うーん‥」
「どうもこの私たちの世界でフィクションとされていることが無効化できているという節なのよね。私たちの現実世界にはない超能力や魔術が上条の能力によっては無意味とされているということなのかしら。しかしそういう話になるととても突飛でメタな設定だということになるし、あくまで作品世界の法則を尊重するのなら、べつな理屈が介在してると考えるべきなのでしょうね。ま、現時点ではさっぱりかしら。」
「正常と異常の境目を云々してるようで、確実なことって何もいえないよね。‥常識というのはただ彼ないし彼女が所属する集団内での教条でしかほかならなくて、この世界自体を観測するなら、そこに起ることが事実であり、その事実を通常異常の境界で判別できることは、ただ人間の限られた主観的で恣意的な価値観によるほかない。だから異常といっても、正常人との差異はただていどに求めるしかないことで、人の価値観というのは差別の固まりのようなものだから、けっきょく人間のもてる常識の範囲で世界を云々することはナンセンスってことに落ち着いちゃう。上条さんの能力は、私には読者の常識を作品世界にもちこんでるように思えちゃう。それはとてもメタな次元で。だから私はイマジンブレイカーは何を証明するのかって問われたら、読者の常識だって返答する。その意味で上条さんの能力は、フィクション的にはあんまりおもしろくないものかもかなって、私は思うかな。たぶんそれが打ち消してるのは神さまのシステムでなくて、この現代社会のシステムの疎外するものだよ。そしてその疎外は、現代社会に臨在する狂気に通底するものでさえあるのかも。‥でもここまでいっちゃうとぜんぜん禁書目録と関係しなくなっちゃうから、ここでおしまい。あんまり暴走しすぎかな。」
「まったく作品の感想と無縁な方向に逸れたことね。なんていうか、ある作品の感想してると余計な方向にどんどん突っ走っていくのはいつものことともいえるけれど、ま、どうなのかしらね、それ。とりあえず、この作品について結論めいたことをいえば、すごくおどろかされるしある意味では予想通りのアニメ化であるといえるのかしら。まずは原作ありきなのよね。そしてその原作がどうかというと、ま、フォローしてないから2巻以降はわからない、か。はてさて、これからどう展開していくか、気になるところではあるのでしょうけど‥」
2008/11/25/Tue
「昭和五十四年にまとめられた短編集「十一の色硝子」は、老年にさしかかった遠藤がこれまで書き連ねてきた自身の文学的モティーフに沿ってその思いをちりばめた小編を集めたもの。だから本書を読む人はまたこのテーマなんだなって過去の作品を思い返しながら、熟成されてく遠藤周作の小説技法の妙味をそこに認めることになると思う。どれも二十分くらいで読めるていどにまとめられた物語は、遠藤文学のもつ色あいと雰囲気を凝集してるっていうことができて、その味わいは遠藤って作家の資質と彼がどの方向に関心を向けてきたのか、その軌跡の一端の証明としての意味あいさえ帯びることになってるかなって気がする。‥五十の頂を越えた遠藤が、どんなふうに世界をみて過去を述懐したか、その様子を少しなりと知りえるのが本書のつよい興味ある点かな。若年の私がどうこういうことじゃないかなって、少しくらい思っちゃう。」
「各々の短編にあらわれ出ている文学的エッセンスは、まさに遠藤周作を遠藤足らしめているといっていいほどの、べつな言い方をすれば読者にしては見慣れに見慣れた素材で組み立てられた作品ばかりであるのよね。であるからここで各短編のテーマを解説してもほとんど意味は薄いのでしょう。遠藤が長く書きつづけてきた要素がさまざま咲き乱れているのであり、ある程度遠藤を読んでいないとこの著作の意味はあまりなくなるのでしょうね。そういう意味で、読者を選ぶものとはいえるのかしら。」
『その女性はアウシュヴィツ収容所で少女の時、一年、過ごしたのだと言った。毎日毎日、たくさんの囚人が撲られ、蹴られ、首をつられ、ガス室で殺されていく光景を幼い眼でじっと眺めねばならなかったのである。
「わたしはカトリックですけれど、そして人を許さねばならぬと知っていますけれど、彼等を……許す気持にはどうしてもなれません」
その夫人は私の眼を凝視して、はっきりとそう言った。彼女の息には玉ねぎの臭いがした。
「一生涯ですか」
「ええ。きっと、そうだろうと思います」
絶望と溜息とのまじったその声を私は滞在中、いつも耳の底で聞いていた。』
遠藤周作「幼なじみたち」
「キリスト教作家として遠藤が向いつづけた問題のひとつが、ヨーロッパ文明と自身の相克にあったことは今さらあえていうべきことじゃないかなって思うけど、本書にはワルシャワを訪れた遠藤が現地の作家の案内でアウシュヴィツを訪問する箇所が描かれてて、そこの様子は遠藤の表明してきたキリスト教への態度を鑑みて考えると、なかなか考えさせられちゃうものがあるかなって私は思う。‥世間ではクリスチャンとして日本文学にあったとされてる遠藤だけど、そして私も文学史においてキリスト教をことさらとりあげて、そしてそれに誠実に対したのは遠藤をおいてほかにないって思ってるけど、でも遠藤の語るキリスト教は、いえばとても彼個人の独自の形を形成してて、そのパーソナルな問題は文学としては一定の価値を包含するに至ったけど、でも信仰の課題として読めるものではないのでないかなって、私はここしばらくふとそんな考えを抱いてる。遠藤のもったキリスト教観は、これは作品の流れを追ってけばおのずと判明することだけど、遠藤が期待した弱さのある意味象徴としてのイエスであって、それはたぶん遠藤の負い目から発したものだった。そしてその負い目が何から生じたのかなって疑問は、本書にも収録されてる「うしろ姿」や「還りなん」に描写されてるとおりであるとこの、遠藤の母親に対するコンプレックス‥母の死に目に会えなかったことへの、かな‥に、帰することができるのじゃないかなって、私は思う。そしてそこにおそらく遠藤が、日本の禁教時代の信者の様子に一定の関心をもちつづけた理由が、示されてるのじゃないかな。」
「弱さの同伴者としてキリスト、か。弱さなのよね、遠藤の視点の向けられる先というのは。これは常にといっていいほど、遠藤周作という作家は強くあれない人間像を描出することにその才能を傾けてきたといってもいいのじゃないかしら。遠藤が熱烈な信仰心をもって遥か彼方の異国に布教に来る宣教師の挫折を、何度もその筆致に乗せることには故なしというわけがないでしょうし、そして人生においての敗北者に、遠藤の興味関心というものはいつも引きつけられないわけには行かなかった。それはこの作品集でも変わらず、遠藤の弱さを抉る目と、そしてそれに与る己の負い目は、老年になりより珠玉の形態をとることとなった、か。そういうと少々意地が悪いのかしらね。しかし、遠藤は弱さの作家よ。ここがそして奇妙なのよ。」
『三年にちかい入院と二度の大手術の失敗で、私はすっかりくたびれていた。いつになったら治るのか望みもなくなり、医者の口さきだけの慰めも、もう信じてはいなかった。時たま、尋ねてくれる見舞客を有難いとは思いながら、その人と会話することにも疲れていた。九官鳥を無理して飼ったのは、そんな気持のためだった。
真夜中、寝しずまった病院の一室でこの鳥にだけ話しかける。「手術を受ければ死にますか」九官鳥は首をかしげて「は、い」と答える。「神さまは、いますか」「は、い」私は鳥のぬれた眼をじっと見る。この鳥だけが嘘を言わぬような気がした。』
遠藤周作「うしろ姿」
遠藤周作「十一の色硝子」
2008/11/25/Tue
「この作品の核は各キャラクターのイノセンスにこそあるのかなって、この6巻を読み終えて少し思う。今回収録されたエピソードはむかしからずっと「イエスタディをうたって」を読みつないできた私としても、作品のいっちゃえばわるい部分であるぐだぐださが‥といってもその冗長性は本作の魅力の核心である叙情性にも関係することだから、一概に欠点とはいえないのがむずかしいとこだけど‥これでもかーってくらいに結実しちゃってたのじゃないかなって、私は思うかな。それは本巻を読了した人ならすぐに気づくことで、つまり今回の一連の物語でも本筋のストーリーはとりたてて何も進展してないし、今回新たに描写されたファクターが作品の主題である陸生や晴や榀子先生の状態に、何か決定的な変化をもたらすものであるかは‥浪くんといっしょの榀子先生は怪しいとこだけど‥大きく疑問としていいと思う。だから物語がまだまだこの停滞のさなかにあるだろなってことが予見できちゃうから、いえばいつもの「イエスタディをうたって」ではあるけれど、少し私としては、息が切れてきちゃったかなって気分を否定できない今日この頃、みたいな。長いものね、本作って。」
「来年で連載開始から十年と考えると、ま、長いでしょうよ、それはね。ただしかし今回描写された部分が将来的に物語のうねりの要素として機能するだろうことは否定しきれるはずもないことでしょうし、さりとてこの主要登場人物の煮え切らなさは、6巻においてある意味頂点に達したともいえるのではないかしらと思えるのが、読者としても少し重いため息が洩れるところでしょうね。とりあえず何はともあれ晴の煮詰まりようは何かしら。彼女らしからぬといえば、まったく今回はそうだったのじゃないかしら。」
「引け目ありすぎ、といえちゃうものね。‥彼女がなんであんなふうに能動的に陸生に動けなくなっちゃってて、前みたいにぜんぜん果敢にアタックしないようになっちゃったのかなって疑問は、たぶん晴がこれまで恋愛らしい恋愛を体験してこなかった、もうちょっと踏みこんでいうなら恋愛感情というのがよくわかんなくなっちゃってる‥それは陸生との関係性があんまり進行しないためもあるかな‥というのがあると思う。これは陸生や榀子先生にも当てはまることであるけれど、人間関係の処し方が下手すぎではあるのだよね。もちろん人間関係の処し方が巧みであることになんの意味も私は認めないけれど、でもただ晴の卑屈ぶりをみちゃうと、彼女には自分の今の状況を話せる友だちも家族もいない孤独が、彼女をとことん苦しめさせてる理由のひとつであることは疑えないことかなって、私は思う。陸生はたぶん、彼女の、ほんとの意味でのはじめての友だちだったのだろな。だから関係を壊したくないのだろな。その気持は、たぶん恋愛感情のそれより、つよいのだろな。」
「気がおけない人を失いたくはない、か。ま、そう思うと辛いのよね。きつい言い方になるでしょうけど、まだあの三人は三角関係どころか恋愛関係にすら十分には入ってないとさえいえてしまうのでしょう。陸生が淡白というか、ま、陸生の問題も見過ごせないほど大きいのでしょうけど、性愛の感覚がけっこうばっさりとこの作品は欠落してるのでないかと疑えてしまう人間が、散見できてしまうのよね。好きなら好きといって迫ればいいのでしょうが、ま、そう行かないというのもわかるのだけれど。歯がゆいことね。」
「暑苦しい告白とかと無縁な地味に生きてる彼らだから、かな。無論私はそういう人たちをわるく思わないし、だれもが「キングゲイナー」のゲイナーみたいに熱狂的に恋愛すればよろしじゃないとか、小林秀雄とかみたいにどろどろの精根尽き果てるくらいの三角関係を演じちゃえーとか、そんなことは思わない。人それぞれだし、人それなりの恋愛観と生き方の選択を、私は尊重する。‥ただ、そだな、私は白状しちゃえば榀子先生よりも晴のことが好きで、だから今回少し榀子先生が積極的になっちゃってるのは、みててちょっとはらはらだったかな。こういうのいうの無責任だけど、たぶん晴は、陸生を失っちゃいけないよ。もし榀子に負けたとしても、友だち関係はつづけられるように、しておいたほうがいい。このさいしょの初恋を、うやむやで終らせちゃうのはたぶんもったいないのじゃないかなって、私は思うから。そしてしっかり清算をつけられたなら、陸生と恋人になるかどうかはもうあんまり問題でなくなってるかもしれない。晴に必要なのはたぶん人間関係を途中で投げ出さない根気と勇気なのでないかな。その意味で陸生のいい加減さは、晴の成長に一役買ってるっていえば、いえなくもないかもかなって思うけど。でもそれはあまりにあまりだよね。ひどすぎ、かな。」
「なんていうか陸生と付きあうことにはもはやそれほどの意味はないのじゃないかしら、ということかしらね。挫折に終ってもいいのじゃないかというか、晴の場合まだまだ世界は広がる可能性があるでしょうということよ。もっともっとさまざまな世界と場面を覗いてみることよ。‥と、しかし榀子先生の場合はいろいろあれかしらね。先生は陸生をなんとかものにしたほうおそらくいいのかもしれない。それは浪くんの熱意にたぶん榀子先生は疲れてしまうのでないかしらと思えるからだけど、そういうと今度は浪くんが可哀想になるのかしらね。あちらを立てればこちらが立たず。はてさて、面倒な作品よね、これは本当。」
冬目景「イエスタディをうたって」6巻
2008/11/24/Mon
「運命の人が見つかるまで、か。雛ちゃんは運命の人との恋愛で初手を仕損じないために恋愛くらぶの存在意義があるのだーってこといってるけど、でもこの主張ってあんがいと的を射てるのかなって気が少しする。というのも、こういうことってあんまり大人は語らないよな気がするけど、恋愛のはじめての体験の第一手って、男女問わず、どちらも精神的なリスク高いよねって思うから。ファーストインプレッションでその人のそのあとの人生観がいろいろ変容しちゃうんじゃないかな。そして性的な体験が多様な形をみせはじめてる現代だからこそ、あるべき性教育っていうのはもっと実際的、個人的の場合に即したものであるべきかなって思うけど、でも現状の日本の性教育って、なんか、あれれじゃない。上手く行かない部分かな。」
「ま、非常に即物的というか物質的というか、性の現実的に起りうる問題を扱っているというよりは、本当に教科書的な記述や知識の挿入に終っているといった印象かしら。性教育がむずかしいというのはわかるのだけれどね。がしかし性という問題は、イデオロギー的に大々的に話題になるという性質はあるでしょうが、その本質は日常的な人間の生活において把握されるべきものでしょう。倫理や道徳である前に、「性」は「快楽」なのよ。その基本がどうも見落されがちというのが、まず問題なのでしょうね。」
「快楽が悪って認識を学校の先生が一元的にしてるとも思えないけど、かな。ただ教育という場において快楽をあつかうのはどうなのかーって懊悩があるのはわかることだし、教室で一般論として語れる性質の類でないって言い分はもっともであると思う。でも性のもつ快楽は人と人との「愛情」の起点として機能するってこともしっかりと認識しないのでいけないのじゃないかな。むしろ教育というタームにおいては、快楽と愛情が不可分になってるからこそ、性のそもそもの姿かたちはあいまいになっちゃって、実際的な性教育を疎外しちゃってるのかも。そして性が快楽であることから、性によって起る社会的問題はあとを絶たないわけだし、またそれらの問題が道徳や倫理において統制できるわけでないってことも、事実として明瞭になる。性は愛でもあり人を堕落させる本性でもある。その機微がたぶんむずかしいのだけど。」
「性は人の本質である、か。だから、ま、何かしらね、性教育を担うべき存在は、意外と学校教育でというよりは、それ以外に適した場所と人物がいると考えたほうがよいのかしら。むしろ過去にはそういった場と人物があり、彼らがそれを実地にしていたが、現代ではそれらは排除されてしまった。そう考えるべきなのかしらね。」
「フェミニズムが国が管理してた性風俗の場である赤線を排除したとき、その赤線の意味あいを、つまりそこでしか生きられなかった人や存在とそれによって変革させられたものを、ぜんぜん認識してなかったという事実は、その例のひとつだっていってよろしなのかな。‥でもやっぱりむずかしい。ただ安易にキスしないほうが、雛ちゃんは、たぶんいいよ。たぶんしちゃうと、雛ちゃんみたいな人は、後悔する。それをこの物語が志向してるかっていえば、私はずいぶんいじわるかなって思うけど。」
「富野由悠季は上の娘が中学生に入ったとき、セックスをして性病になるといけないからだらしがない男とは無暗にセックスをしてはいけないと教えたというふうにエッセイに書いていたかしらね。セックスをしてはいけないではなく、だめな男としてはいけない、というのなのよ。これは倫理的でないでしょうけど、しかし理性的な発想ではあるのよ。さて、このギャップが性教育のむずかしさといったところかしら。」
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吉行淳之介「恋愛論」→
遠藤周作「愛情セミナー」
2008/11/23/Sun
「表題はたぶん吉行のいちばんの名文句「春夏秋冬女は怖い」ということで、吉行淳之介が過去さまざまに見聞した女性にまつわる文学者や友人やそして自分自身の体験も含めた諸々について記された、気ままな随筆集といったところかな。ちょっとした女性論といってもいい内容で、口軽な文体の裏に吉行の長年の女性遍歴の実地に裏打ちされた勘が冴えることもあって、読者としては興味深甚としてよいと思う。‥現代の情勢からいったら、とうてい気軽に口に出せないなって思えちゃうよな発言も随所にみられるから、そこのとこも注目しておもしろい部分だと思う。まじめで一所懸命な女性論者からしたら、激昂しちゃいそなとこ、たぶん盛りだくさん。だからこのエントリも軽く表面を撫ぜるだけで、ね。済ませよかな。」
「意外とその印象に反して自身の女性観を小説以外の形ではそれほどはっきりとは語っていない吉行が、臆面なく白状してしまっている記述がけっこうあるのよね。もちろん吉行の文体だから難解な思想だの哲学的言述だのは見当らないことだけれど、ちょっとした雑談といったふうな語り口から覗ける素顔は存外におどろかせるような側面もあるかしら。」
「小説家はストーカーにあいやすいとかって話を開陳しちゃうとことかとくにかな。今さらとりたてて主張すべきことじゃないけど、小説家やそれに類する有名人が思いこみのつよい人につきまとわれちゃうってことは古今東西いつでも見受けられることで、そしてこの本でおもしろいのは吉行が自分のストーカー被害の実際を書いちゃってるとこ。ある日唐突に知らない女性から葉書がまいにち二、三通ずつ届くようになったっていうのがはじまりで、その文面は有名小説の丸々引用で埋められてたっていうのが洒落てるようでけっこう不気味。宛名から調べてみるとインテリ風の大病院に勤務してる薬剤師とかで、美人として評判もいいみたいなことがわかってくる。冷や冷やした気分でいると案の定その女性は突然吉行宅を訪問して、何をするかと思ったら玄関のとこにがんと腰を下してそれから沈黙、動かない。なんの一言もなくて吉行はこわくなっちゃって部屋に引っこんじゃったけど、それじゃ埒があかないからもう出てけーとか肩を揺さぶっても反応なし。吉行はあきらめて不安な気持のまま部屋に退いたのだけど、いつのまにやらその女性は消えてたって。なんだったのかーって吉行は慨嘆したけど、しばらくして分厚い手紙が家に届く。開いてみるとだれからか、その女性だった。読んでみると吉行愕然、「先日は、とてもおやさしくしていただいて、ほんとに感激しました」の文章にはじまる、とても自然で、とても感情に富んだ一節が記されてた。同封されてたのは喘息の粉薬。さすが薬剤師って思いたいとこだけど、薬を包む紙は、べっとり何かで濡れていた。それは唾液? それとも‥」
「あるのよね、そういうこと。そしてこの手の事態に遭遇するのは何も有名人とは限らない。正直だれもがこういった事態には陥る可能性はあるのよ。そこで肝に銘じておきたいのは、理論的な会話は相手とはまず確実に成り立たないということなのよね。理性でどうにかしようとしても絶対に無理なのよ。そして肝心などういう人が被害にあいやすいかといえば、ま、ぶっちゃけモテるというか、ある魅力の部分がある人ということになるのでしょうけど。やれやれね。」
「たぶんその魅力は、付け入られやすい隙でもあるのだよね。だからモテたいとかいわないほうがよろしだよ。そしてモテの結果生まれる事態は、実は恋愛の幸福とは似て非なるものを用意するだけなんだよ。といっても、たぶんわかる人にはすんなり伝わることで、そうでない人にはふざけるなーって石礫投げられてもしかたなしのことかもかな。‥とりあえず、こんなふうに吉行のおもしろくて笑えちゃう、でもよく考えてみると背筋が凍るようなエッセイが収録されてる魅力的といっていい本書なのだけど、さいごにひとつ、ここだけ引用したなら誤解と非難の嵐だろなって思えちゃう部分を抜き出して、このエントリは終ろかな。冗談のようだけど、ここの吉行はひどく切実に訴えてるようにみえちゃうのがおかしなところ。小説のなかでだって、こんな真剣な吉行なかったのでない? ここに興味をもてたなら、本書は買っても損ないかも。」
「非常にミスリードを誘いやすいか、さてはわかりすぎるほどわかってしまうか、そのいずれかに反応は分かれるでしょうね。はてさて、どうかしら。春夏秋冬女は怖い、か。もはや現代では男女問わずよく理解されていることなのか、それともアリストファネスの時代から人間の本質が変わっていないことに苦笑するほかないことなのか、人間というものはわからないものね。ま、だから生きていておもしろいのでしょうけど。男女の性的差異があるということは、世のなかをおもしろくするひとつの要素よ。ま、がちがちの論理で覆えるものでもないし、それくらいに捉えておくほうが賢いのじゃないかしら。楽しくありたいものでしょう。ちがいなく?」
『女は自分が宇宙の中心にいる、とおもっている。つまり、自分は大きな円で、小さな点などは覆ってしまって問題にしない。
一方、男は自分は大きい円の上を移動している点だ、という意識をもって、行動している。たとえば、車を運転しているとき、全体の車の流れをチェックしながら、そこに自分の車がどういう形で存在しているか、といつも考えている。だから、いきなり右へ曲ったり、停ったりすることはないわけです。
こういう精神構造の差は、当然肉体構造のちがいからきている。
それでは、その違いとはなにか、それは子宮だ。
そういう言い方は軽率なんじゃあるまいか、つまり、性器ということになれば、男にだって結構複雑でデリケートなものが存在しているではないか。子宮、子宮と一方的に言うのはどんなものか。
しかし、やはり元凶は子宮なんですよ。』
吉行淳之介「春夏秋冬 女は怖い なんにもわるいことしないのに」
吉行淳之介「春夏秋冬 女は怖い なんにもわるいことしないのに」
2008/11/22/Sat
「なんかよくわかんないかな。宮沢さんはみんなが争わないようにって訴えてるっていうのはそれはべつにそれで立派な志なのでないかなって思うけど、でもそれで宮沢さんがしてることってただ単にあちこちの不良グループの人と縁故をつないでるってだけのことであって、その行為自体はなんら争いをなくすって目標には益してなかったのじゃないかな。争いをなくしたいってほんとにその実現を願うなら、やるべきことはもっとほかにあるはずで、たとえば抗争が起きるってことは集団内の党派性とかその地域の権力構図とかいろいろ要素はあるだろけど、でもそれらに対してただ争いはよくないよーっていいながらそれぞれの派閥の人たちと仲よく談笑してるだけなのなら、なんていうのかな、すごく意味ないじゃない、それ。ちょっとわるい言い方をしちゃうなら、今回けんかが起った理由の責は、もちろん春原が名前を騙ったということもあるにはあるけれど、でもそれより重いのは宮沢カズトさんって故人の清算を上手くできてなかった有紀寧さんとそのグループにあるのでないかな。大元締めがなくなっちゃって、それで集団が統制とれなくて、あろうことか他集団とぐだぐだになっちゃうなんて、それは状況としては最悪のぐだぐだでない。もっとこうなる前に宮沢さんはやることあっただろなって、ふと私は冷徹に、思っちゃう。」
「基本的に有紀寧は理想論しか語らないからでしょうね。争いをなくしたいと思っても、そのために現実的な方策をとるでもなく、実務的に行動するでもなく、ただ抽象的な道徳訓を語っていただけではあるのでしょう。その意味では智代は生徒会に入って実際的に行動しているからまだしもなのでしょうけどね。ま、かといって有紀寧が果していた役割が意味がないとまではいわないけれど。しかし彼女の理想論は理想論としてあるべく現実の前に挫折してしまった、か。世知辛いことね。」
「そこまでいっちゃうときついかなだけど、ね。でもここまでいうのも、だって、有紀寧さん殴られてるでない。べつに軽症だったからよかったとか、問題はそういう次元にあるわけないでない。つまり私がいいたいのは、暴力がいけないとかそういった理想論は、それが世界において実質的なシステム的な方法論として語られないただの正義や道徳といった言説に留まる限り、なんの意味ももちえないじゃない、ということ。実際に、ほんとに現実に、暴力がいけないって思ったなら、それがない状況を現出したいって思ったなら、やることは愛をもって抽象的な訓戒を垂れることでなくして、ていねいに堅実に謙虚に、現実に小さく働きかけてくことでないかなって、私は思う。小さいことで、自分の周囲から。何も私は有紀寧さんがお兄さんの代わりになってリーダーになっちゃえーとか、そういうことはいわない。ただもっと小さく、やれることはあったはず。そしてやれることがなかったなら、自分の小さな関係性の世界を守るために、あえて逃げることも、汚名を被って引き下がることも、できたはず。それがなかったから、あんな暴力沙汰になったんだよ。勇気ある闘いなんて、私は、信じない。」
「もちろん有紀寧に智代のようなことができたとは思わないのよ。しかし有紀寧には有紀寧の果すべき役割が、ただたしかにあったはずだと思えてしまうのが、なんともやるせないのかしらね。ある意味理想論のもつ危うさを、有紀寧というキャラクターはあらわしていたともいえるのかしら。ラスト大団円で終っていたのは、端から見たら少し危険にも思えるのよね。カズト兄さんが喜んでいたと語るのは、どうも危うい満足感のような気がするけれど。ま、そう思ってしまうのも仕方ないことではあるのでしょう。理想論のもつ魅力は厄介、か。はてさてよ。」
2008/11/22/Sat
「それが究極的な自己愛を意味するのなら、かな。ここがピュグマリオン神話のおもしろいところであるのだけど、自分がつくった人形に恋をするということは、自分が生みだした存在に対して愛着するということで、実はこれはとても瀆神的な意味あいがあるということはいえるのだよね。つまり人形にとっての創造主はすなわち自分であり、そして人形を作り出した彼ないし彼女はみずからの創造物に愛を捧げるということで、これは神が人を愛するのと同様、まったく神の所業の模倣にすぎないってことに人形師はいつか気づく。そしてそのとき人形師は自分が人形にとっての神であり、またぜんぜん孤独な確固とした不毛性の大地のうえに屹立する恋愛関係を成就した‥ひとりきりではじまって、そこから広がりようのない愛ほど、愛らしくない愛もまたほかにない‥ピュグマリオン・コンプレックスは、だから神の創造に真っ向から反する、自身を神の立場に擬する行為であるって事実に、否応なく追いつめられる。ここに人形愛には形而上学的な野望が含まれてるって言葉の、ひとつの意味が判然とする。そして魔術や宗教において、偶像崇拝が異端とされる理由のひとつも同じく明瞭となる。だって、人形を愛する人間は、闇の帳のなかで神の愉悦を実現するにほかならないのだから。」
「私たち人間は神の造った操り人形でないだろうかと、言葉を洩らしたのはプラトンだったかしらね。錬金術においてもホムンクルスに代表される秘蹟は、この種の人間が神の営為を再現しようといった実に高遠な願望が潜んでいたとはいえることなのかしら。人々は古来から自分が単なる人形でないかと怪しみながら、人の形をした何かを延々と生み出してきた。人間とは人間の形をつくる存在である、なんて定義をしたらおかしいのかしらね。さて、どうかしらね。」
「人は人の形をつくるものである、か。けっこう意味深だよね。人形愛というのはその意味で単純に不毛な自己愛っていって忌避していいものでないし、そこにあらわされてきた人類の所業というのは、思う以上にふかいものがあるのかなって思う。‥ただ、そだな、この人形愛が意味する行為がとても非生産的なもので、極端な人工美、ボードレール的な冷感症崇拝に結びついちゃって、現実性の排除、孤独な王のさみしい手慰みに墜するのじゃないかーって批判は、真っ当な感性をもつ人と限定しなくても、とにかく非社会的な営為であるのは疑えないところと思う。でもこの不毛なエロティシズム‥この世でいちばん不毛なエロティシズムの実践は何かわかるかな。答えは、そう。自慰行為のこと。男性ならとくに、そのスペルマの蕩尽に象徴される無益さは、呆れるくらいわかりやすく表現されてるのでないかな‥は、その悲しく滑稽的であるまでの実態から、人間の真実のある一点をさえ示し出してる。それが何かなといえば、自然に反する人間性のこと、芸術の観念の、人の想像力の至りつくインセストの美しさの、熱烈な宇宙的な証明であったって、私は信じる。そう、人形は美しくて、人形愛は極度に人間的な所業であったことが、その悪魔的な理由なんだ。‥ピュグマリオン・コンプレックスはすなわち自己愛であり、そして、なぜそれが可能なのかっていえば、もう答えはわかりきってる。人形には、魂がないから。だからこう結論できる。人形が美しいのは、人形とは魂がない人間だからなのだって。人は、そこに、魅了されちゃう。こればかりは、しかたないことかなって、私は思っちゃう。こればかりはって、つよく、つよく。」
「魂がない人間は美しい、か。はてさて、どうなのでしょうね。この言い方がどう理解されるか、余計な誤解を生まずに済むか、どうでしょうというところかしら。二次元を最高とかいうのはやむを得ないとまで、この文脈はいってしまってるのよ。そうね、ひとつ無駄でしょうけど付け加えれば、自己愛はぜったいに幸福とは無関係にあるものなのよ。それ以上は自己責任で、というところかしらね。リラダンのエワルド卿もそうだったでしょう。ま、エディソンを気どるつもりはないけれど、はてさてね。」
『優雅さは意識をまったく持っていないか、さもなければ無限の意識を持つ人間の肉体、つまり人形か神かのうちにもっとも純粋な形で現れる。』
ハインリヒ・フォン・クライスト「マリオネット芝居について」
四谷シモン「人形作家」 押井守「イノセンス創作ノート 人形・建築・身体の旅+対談」 「少女人形 人形作家による魅惑の少女特集号」 ハンス・ベルメール「ハンス・ベルメール写真集」→
ピュグマリオン・コンプレックスのこととか
2008/11/21/Fri
『ピグマリオンコンプレックスとは人形偏愛症を意味する用語。心のない対象である「人形」を愛するディスコミュニケーションの一種とされるが、より広義では女性を人形のように扱う性癖も意味する。学術的にはピュグマリオニズム (英語:Pygmalionism) と呼ばれる。また、パラフィリア (性嗜好異常) の用語としては、こうした嗜好はアガルマトフィリア (英語:Agalmatophilia) またはスタチューフィリア (英語:Statuephilia) とも呼ばれる。ただし、社会的に犯罪とされるレベルに達しているか、精神的苦痛を訴えている場合でなければパラフィリアとは見なされないとされる。なお、「ピグマリオンコンプレックス」という呼び名は、学術的に認識されている専門用語ではなく、流行語的ニュアンスで広まった和製英語の一種である点に注意を要する。』
wikiより引用
「ギリシア神話の人形師ピュグマリオンは自分のつくった人形に恋慕し熱烈に身を捧げ、その様を見た神々は哀れを催して人形ガラテアに生命を与えた‥というのがいわゆるピュグマリオン神話のあらましだけれど、このエピソードから無機質な人形に恋することをピュグマリオン・コンプレックスと呼ぶことになったのは、もうすっかり定着した観はあるかな。ただだけどwikiを見てみたら「広義では女性を人形のように扱う性癖も意味する」って記述があって、これはたぶん他者を物体のようにあつかう性癖を指す、オブジェ志向のことを意味してるのだろけど、でもそれをピュグマリオン・コンプレックスに含めていいかどうかはちょっと疑問。もちろんそういった傾向が人形愛につながることは、理解できることだけど。」
「単なる異常性愛に属するだけにも思えるけれど、はてさてどうかしらね。しかしこの手の人形愛にまつわる性愛の形態も、古来から連綿とつづくある種の伝統といってもいいのでしょう。人は人の形をした物体を延々と作りつづけてきた存在であるなんて定義したら、なかなか愉快そうね。」
「人形哲学に人類の業のすべてが宿る、かな。もちろんそこまで断言する気はないけれど、でもピュグマリオン・コンプレックスの性質を仔細に検討してみたなら、この性愛は人形一般だけによるものでなくて、けっこう普遍的に存在するものであることは少しいえるのでないかな。‥たとえばそう、人形を愛するとはつまりオブジェを愛するということであって、それは端的にいえば何かを愛するということでなくして、何かの対象を具体的に愛してるってことでない。わかるかな、これはアニメキャラとかにもいえることかもだけど‥絵もすなわち人形‥人形というのは他者でないから、それは究極的な一方通行の恋愛であって、その果てに至りつくべき相手は厳密な意味で存在しない。もうちょっというなら、人形愛の究極には、人形すら必要としない。だって、そこで向う先はただ己の幻影にすぎないのだから。人形ってオブジェを愛するって仕業は、現実に具体的な他者を必要とするのでなくて、彼ないし彼女の求めるのは、己の幻影をこの世に定着させるべき依代、つまり不毛な愛の実践の場にほかならないのだから。それは完全な想像の世界での愛の好意、ピュグマリオン・コンプレックスとは、ただの自己愛の情熱にちがわないのだから。」
「人形愛とは自己愛である、か。そして、これは世間一般の恋愛にも潜みがちな陥穽のひとつでもあるのでしょう。実は恋愛の大部分は、ある対象としての具体的な他者を向いているのではなく、ただ自分が理想とする幻影を相手に被せ、その幻影をこそ愛しているのではないかしら? そのときそれは恋愛ではなく自己愛であり、つまりピュグマリオン・コンプレックスの一変型にすぎないのでないかしら? ま、悪魔的な物言いよね。しかし自己愛って、恋愛の最大の障壁であるのよ。それは意外と見落しがちな事実出ないかしら。」
『貴君が呼びかけたり、眺めたり、あの女の内に創造したりしているものは、貴君の精神が対象化された幻ですし、またあの女のうちに、複写された貴君の魂でしかないのです。
そう、それが貴君の恋愛なのですよ』
ヴィリエ・ド・リラダン「未来のイヴ」
ヴィリエ・ド・リラダン「未来のイヴ」→
sola 空という幻想と未来→
水瀬葉月「C3―シーキューブ―Ⅱ」
2008/11/20/Thu
「このくらいの話から、物語はちょっとめんどなことになってくる。まず竜児だけど、たぶん彼はここくらいの各人の関係性の距離感がいちばん楽しかったんじゃないかなって、私は思うかな。大河とも当意即妙の仲で楽しくやれて、みのりんとも次第にふつうに会話できるようになってきて、彼にとっては意想外な考え方をしてる亜美さんにどきどきさせられて。‥これは竜児をとりまく擬似的なハーレム関係が成立しちゃってるということを意味するのであって、もうちょっというならたいていの萌え作品が前提の作品コンセプトとして用意するのがこんなふうな温めの人間関係であるってことはいえるのじゃないかな。そしてこの状態に安穏としてられなくするのが、この作品のひとつ感心すべき点であって、それは変化を望む大河や亜美さんと、停滞を望む竜児とみのりんの対比という構図において、作中ではあらわされることとなる。‥このお話、竜児って大河の意中にぜんぜん関心向いてないものね。竜児は大河は「北村が好き」ってテンプレにはめちゃってそれ以上を考えることをしてなくて、いえばある意味大河を軽んじちゃってもいるのだけど、そこの機微に徹底して無自覚なのが竜児のこまったとこかな。鈍感でなければラブコメは成り立たないのだーとかいう意見もあるかもだけど、それは悪しき鈍感さであり、そしてその鈍さはけっこう暴力的に働いちゃう。竜児の場合、その暴力がさいしょに牙を向いちゃうのが、つまり亜美さんなのだよね。そこらの展開は、注意してみるとおもしろいかも。」
「気づけないのよね。竜児は大河が自分をどう思っているか、その心理の変化にまったく疎い。というより、ほとんど関心もないのでしょう。それなのに竜児はつきっきりで大河の面倒をみている。これは見様によっては非常に狡猾でもあるかしら。」
「ふつうの人はあそこまで他人に干渉しないものね。竜児があんなに大河に構っちゃってるのはだから少し偽悪的な言い方をしちゃうなら、狙って女性を撃ち落そうってしてることと同義であって、ふつうあそこまで異性が尽してくれちゃうなら、何か私に気があるのかなーくらいには思っちゃうのが自然の心理の成行というものでない。そして家事一切が不得手の大河が竜児の万能ぶりに劣等感を抱かないということもないわけであって‥彼女が竜児を犬呼ばわりするのはその反動ってみるべきかもかな‥大河が竜児をある面非常に尊敬さえして慕ってることは、後々みのりんの口から竜児に伝わることであるけれど、それは素直な彼女の本心からであったのでないかな。‥でもそれでも、竜児はあんまり変われなかったのは痛すぎかなだけど、ね。」
「惚れるでしょうね。ま、これは下世話な話になるでしょうけど、家事のフォローができる人というのはいつの時代になっても好意をもたれるに十分な魅力が備わるものよ。そして家族的な雰囲気に憧れていたであろう大河が、竜児のもつアットホーム的な要素に惹かれないではいられなかった、か。ま、ふつうに少女よね大河は。こうして考えると竜児はやり手と称してよいのでしょうけど。」
「でも家族のままであろうとするものね。あるいは気のおけない相方くらいの感覚、かな。でもそれじゃ大河は生殺しであって、その状況のもつ意味あいの酷薄さを指摘できるのが、実は亜美さんのほかなかったっていうのが亜美さんの悲劇であり、そして彼女のやさしさの証明だった。‥大河と亜美さん好きな私は、だから竜児呪われろーくらいの気持はあるかなだけど、でも大河はべっとりだものね。彼女は屈折してなくて、その純真さに図らずもつけいっちゃったのが竜児だっていったら、これは私、少しいい過ぎかな。ただだけど、うん、竜児が願ってるような楽しい関係性は、長つづきするはずないんだよ。だって、恋愛って、そういうものじゃない。生半な状況に留まろうとするには、みんな、そんな淡白でないでない。その自覚がないことは、責める気は当然ないけれど。」
「関係を白黒つけられればいいのでしょうけど、ま、きびしいのよね。大河も竜児も自分らの妄想する恋愛に浸ってわいわいやっていることが、とてもとても楽しいのでしょう。しかし、二人はいつまでもそれをしてるわけには行かなくなるのよ。ある意味心理の自然として、かしらね。さてここからがこの作品はむずかしいかしら。物語は次の段階へと進む、か。はてさてよ。」
2008/11/19/Wed
「復讐が目的っていい切っちゃう優子さんはよかったかな。偽悪的にならなくても、優子さんがしてることはいたずらに火村さんを追いつめちゃうだけのことであって、彼女がもう少し冷静に対処できたなら‥といってもこういう事態に陥っちゃってる人にそれを望むのは酷なのだけど。でも優子さんは存外にきびしく現実認識をしてて、その理由が実はこのお話の要諦なのだろな‥火村さんに責を被せるのはなんら状況の解決に意味ないことは気づくのでないかな。それほどに彼女は賢くて、そして執念ふかい。つまりいえば、優子さんが火村さんを責めるのは、かつて「私を捨てないで」って声ならない声を発した自分を見限った大好きなお兄ちゃんへの復讐であり、そしてその復讐は今なお効力を失わないほどの、彼女のつよい真実の愛の反照でもある。‥前回のお話まではそこまで読めてなかったので困惑したけど、でも優子さんの根底には常に火村さんがいて、そしてその愛が彼への報復を企図していたとするのなら、もしかしたら雨宮先生の折檻でさえ、優子さんの手のひらのうえのことにすぎなかったのかもしれない。とかいっちゃうと、優子さんこわすぎかな。でも、私は彼女はそこまでこわい人にみえる。火村さんを追いこんでく様は、彼女の愛の苛烈な証明にみえる。」
「私を捨てないで、か。ま、なんというか、一見して場面は火村の残酷さを露わにしているように映るでしょうけど、ここで本質的にぞっとするほど非情で残酷なのは、まちがいなく優子のほうであるのでしょう。私を捨てないでと呟かせる男より、実はそう口にする女のほうが、何等か恐ろしいのよ。そしてその鬱積がついに火村の凶行となってあらわれ出る可能性が、今回示されたのでしょうね。いやはや、少しおどろいたかしら。」
「雨宮先生の問題は、私にはこの種の問題を示唆してる気がするかな(→
遠藤周作「真昼の悪魔」)。たぶん雨宮先生の優子さんに向う暴力的な衝動は、自身の過去の悲劇の清算の不始末から生まれた、空虚さへの代償行為なのだと思う。そしてそれを埋めるのにいちばん適した立場にあったのが、事実優子さんのほかなかったのであって、その雨宮先生の妹さんの代わりになって先生を支えられる立場にいたはずの彼女は、いつまで経っても火村さんへの恋慕をやめることができなかったから、雨宮先生はより空しさをふかめちゃったのかなって、私は推測する。ただこの間の事情もそのうち描かれるだろから、それなり期待しよかな。意外とこちらのストーリーもおもしろくて、楽しみにしてよいみたい。」
「それに対して久瀬とミズキはどうなのでしょうね。ま、テーマ的には繋がりがあると見てよいのでしょうけど、どちらの物語もある意味空虚さへの抵抗としての愛の獲得を主眼としておいていると考えてよいのかしら。一方は優子と雨宮であり、もう一方は死の呪縛に囚われた久瀬である、と。さて、どうなるのかしらね。」
「死ぬのは、こわいよね。それは、わかる。ミズキの愛は、果してそれを穿てるのかな。久瀬さんよりミズキのほうが謎が多くて、私はあんまり何もいえない。どうなるかな。」
「描写が深まってきた久瀬に対して、当のミズキのほうがあまりくわしく生い立ちなり性格なりは判然となってはいない、か。そういえばそうね。おそらく後半のストーリーはそこが基点となって進行するのでしょうけど、とりあえず期待しましょうか。今回はなかなかよかったことよ。これなら次回もわくわくさせられるというものね。楽しみよ。」
→
死の恐怖とかの話
2008/11/18/Tue
「なんてきれいな小説だったんだろう。物語は京都の主に呉服をあつかう問屋のひとり娘である千重子と、彼女と瓜二つの少女である苗子、二人の少女を機軸として展開する。千重子は傾きかけた家業のために少し疲れ気味の父や母を相手にしても、真心から両親を労わり敬慕してる、そんな作中の言葉をつかえば「北山杉みたい」に、まっすぐに敬虔とした人なのだけど、実は彼女は捨て子であって、物語は千重子が双子の片割れである苗子と祇園祭のときに運命的に再会するということで大きくうねりを見せる。自分の出生をくわしく知る機会もなかった千重子は、自分に双子の姉妹がいたって事実にいたくおどろく。それに対して父母とも早、死に別れ、物心もつかないときに別れることになった姉との再会を心から願ってた苗子は、千重子との出会いに涙さえ流すのだけど、二人の機縁はそうかんたんには幸福には結びつかなかった。それには二人の現在の境遇が係ってて、一方はあんまりさいきんは芳しくないといっても京でそこそこ歴史があって評価もされてる問屋のひとり娘である千重子であり、もう一方は杉山で労働に励んでる苗子という構図。もちろん千重子はそういった面で他人を差別するような人でないのだけど、苗子のほうはそうも行かなくて、彼女はお互いの距離と少し感傷的にすぎるとはいえ身分の差まで感じちゃって、できる限り身を引こうと、係わりあいにならないようにって気を配る‥。この小説の見どころは、なんていっても千重子と苗子の双子の美人姉妹の、互いを思いやるその情の交流にこそあるのでないかな。少なくとも私は、もう二人の繊細で気が回るたおやかなやさしさのあふれるふるまいの、お互いがお互いを好きで思いやるがための物語の場面場面の細かな描写に、もう身もだえしちゃったくらい。‥なんて素敵なのかー! 京美人の双子姉妹の愛の様子だなんて、筆舌に尽しがたいに決ってるのだよね!」
「ま、そういう読み方もあるのでしょうけど。しかし随所に挿入される実際の京都の街並の詳細な描写と、各種の祭事を断続的に描きつづけるための京都の町の臨場感は、なかなか興趣に堪えないものはあるのでないかしら。本当、京の景観が思い浮べられるような小説ね。よくもここまで丁寧に書くことと感心するかしら。」
「ねー。京都行きたいよねー。それになんといってもそこで描かれる、悲しい過去を背負ってるけどでも星のめぐり合わせで再会できて、京都弁で交わされるためより肉薄とした印象を与える、千重子と苗子の素敵さは格別かもかな。とくに杉林のなかで突然の雷雨に打たれて、怯える千重子をしっかりと抱きすくめる苗子の場面は、もう私もう転げまわっちゃうかと思っちゃった。えへへ‥あれはよきものかな。」
「‥よくもまあというか、それ、萌え狂いすぎよ。そういうのもありでしょうけど、しかしこの作品のべつの部分は見落してないかしら?」
「萌え狂うよねっ!」
「‥ま、ね。」
「あとは、そだな、千重子と苗子それぞれに関係してくる男性たちという関係性もこの作品には描き出されてくるのだけど、でもそれらがきちんと決着を見ずに終っちゃったとことか、あくまで川端が中心として展開した要所にこの姉妹の動向があることから、この作品の主題に来るものがなんであるかはやっぱりおのずと自明になるかなって気はするかな。‥ただむずかしい部分もあって、ひとつは日常的な場面を淡々と積み重ねてゆくこの小説の形式は、非常に日常性をかもし出すことに成功しているのだけどそこから浮びあがってくる心情、つまりこの小説のきわめて日本的な情感の理解といったものは、京都の風物が随時挿入される本書だから、この作品単体の読書だけではつかみにくいかなとは思う。あとは何より、「気を配る」といった言葉に代表されるような、日本的女性のもつ独特の‥なんていったらいいのかな、機微が、この作品の印象を決定的なものにしてるってとこが、現代の私たちにとっては少し気づきにくいことなのかも。苗子が終盤どれだけ千重子が説き伏せようと、彼女の幸せのためには私は叶うなら消えたほうがいいんだって切々と訴える場面。ここに、私はこの作品の性格の鍵をみる思いかな。それは私を消すことによる、愛する他者への完全な無私なる奉仕。その残り香は、たぶん今もなくなってない、日本的心性の典型的な表現であったのかな。」
「日本らしさ、かしらね。この小説で描かれる各種人物というのは、実にこう言葉にしにくいものでしょうけど、ずばり日本的風土性といったものが感じとれるのよね。苗子が自分を疎かにしてまでも知重子を幸福にしようとするとき、たとえ苗子のその決意が逆に千重子の孤独を深めることになろうとも、あえて自分を無に徹するとき。そこにうかがえるのは単なる臆病さというよりも、もっと深い自分を消して他者を立てるいわれようない快楽なのでないかしら。というと、少し怖ろしいかしらね。その意味では、ま、けっこう恐い小説よ。しかしその恐さは、転じて日本女性の強さでもあったのでしょうけど。ま、そうはいっても、かしらね。」
『「お嬢さん、あたしの親が赤ちゃんを、捨てたのは、お嬢さんの方どしたえ。あたしは、なんでや知りまへんけど」
「そんなこと、もう、すっかり忘れてますえ」と、千重子はこだわりなく、「あたしには、今ではもう、そんな親があったと、思てしまへん」
「ふた親とも、その罰を受けたかしらん、思いますけど……。うちも、赤んぼどしたけど、かにしとくれやす」
「それが、苗子さんに、なんの責任や罪がおすの?」
「そんなことやおへんけど、前にも言いましたやろ。苗子は、お嬢さんの、おしあわせに、ちょっとでもさわりとうないのどす」と、苗子は声を落して、「いっそ、消えてしまいとおす」
「いややわ、そんなん……」と、千重子は強く言った。「なんや、片手落ちみたいな……。苗子さんは、ふしあわせなの?」
「いいえ、さびしいのどす」
「さいわいは短こうて、さびしさは長いのとちがいまっしゃろか」と、千重子は言って、「横になって、もっとお話したいさかい」と、押入れから夜具を出した。
苗子は手つだいながら、しあわせて、こんなんどっしゃろな」と、屋根に耳を傾けた。』
川端康成「古都」
川端康成「古都」
2008/11/17/Mon
「川端の戦前の日本文学を代表する一冊として、さらには冒頭のあまりに有名な出だしに象徴される情景の美の精緻を尽した小説として、今さら私が何かいうことのないほどの知られた作品であることは疑えないかな。でも少しそのあらすじを伝えようとすると、ふとこの小説ほどストーリーを語るのに不適合な作品もないことに気づく。それは物語性といったものがとにかく欠如した小説だってこの作品はいうことができるからで、あらすじを一言で述べるなら、親の遺産であそんで暮してる男の人が温泉宿で芸者を引っかける、といった、ほんとにそんなもの。起承転結とか、わくわく高揚するよな物語のうねりとか、そんなのとは徹底的に無縁なのが「雪国」であり、そしてそれだけでもひとつの作品として成立するというのが小説のもつ可能性であって、ただ場面の一時の限られた瞬間を切りぬこうとした美への執念から生まれる本作は、まさにその正しい証明になるのでないかな。‥もちろん、ただ物語性が欠如してるってだけのことは、いえるわけじゃないのかもしれない。本作を貫いてるのはある女性の生々しい好意の向け方の、その肉声さえすぐそばに感じられるほどの描き方であって、それはある意味「美文」なんて言葉じゃ収まり切らないほど、こわいことなのかもしれない。この小説の女性に接して、人はどう思うかな。ただ美しいとかリアルだなーとか、そういうことだけできっとないよね。そこには、たぶん、ぬるりとした触感がある。そしてその触感を感じられるとこに、川端の常軌を逸した文学がある。」
「生々しいのよね。仰々しい小説にありがちな起伏に富んだストーリーがないぶん、その男女の関係のあり方はこの変哲もない世間一般の人生の一場面と、非常に酷似したものがある。いや、もしかしたら人生というものをそのまま切り抜き小説にしようとしたら、この作品のような形になるのはある意味自然な帰結でさえあるかしら。それは少し考えるべき問題でしょうね。」
「何もないものね。たぶんこの小説を読んで文章がきれいだねーとかそういうこと思える感性のもち主はそう少なくないのでないかなって思えるけど、でもこの小説で描かれる男女関係には目でみえる進展といえる進展はなくて、でもただ日々のちょっとした何げない言葉によって、ときに傷つき、ときに熱狂し、そして個人勝手な思いを蓄積させ絡ませもつれさせ、最終的には、どうにもならない人の情の怨念のこびりつきみたいなのを、もたらせてしまう、人と人の宿命みたいなのを、察知できる人はどれだけいるかなというところに、私はこの小説の少しぞっとする部分を見つける。この小説から漂う女のにおい、そして惚れられる男のたとえようない色気。「雪国」が示すその艶かしさは、もしかしたらそれこそがきわめて日本的風情だったのかもかなって、私は思う。たださいごに至ってもこの小説は何も変わらないし、何も終ってない。ただ情熱の霧散する一瞬前で終ってる。人が色香に狂い、そして我に帰る少し手前で終ってる。その意味で、この小説ほど現実味をきらった作品はないのじゃないかな。雪国なんて、どこにもない。それだから。」
「美は常に現実の前に敗北させられるものである、か。はてさてね。何もないというのはいい得て妙なのでしょう。この作品にはとりたてていうべきほどのものは実際に何もないのよ。しかし日本人がかもし出す色香というものは、そのある種自意識の欠落した穴に発生するものなのかもしれない。そういったことを考え出すと少し怖くもあるかしら。何もなかったであろうこの作品が占める文学史の位置も、考えると、少し怖いものがあるのかしらね。はてさてよ。」
『もう三時間も前のこと、島村は退屈ばぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろこなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、底に女の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。しかしそれは彼が心を遠くへやっていたからのことで、気がついてみればなんでもない、向側の座席の女が写ったのだった。外は夕闇がおりているし、汽車のなかは明りがついている。それで窓ガラスが鏡になる。けれども、スチイムの温みでガラスがすっかり水蒸気に濡れているから、指で拭くまでその鏡はなかったのだった。』
川端康成「雪国」
川端康成「雪国」
2008/11/16/Sun
「平成四年に出されたエッセイ集ということで、吉行の著作のなかでもとくに最晩年の一冊といってよいものかなって思うけど、でもたかだかそれくらいしか以前の本でないのに、吉行淳之介って作家はもう人の口に上るとこではなくなっちゃってるんだなって気持が、ふとした。‥私はよく流行作家は消えちゃうものかなってことをいうけど、でもそれは少し文学史なり往事の風俗史なりを紐解いてみれば瞭然とすることであって、それは本書に載せられた日本文学の一情景がどれだけの人の頭に浮び、そして残るかなということを、少しだけ私にある哀歓の調を伴って、思われることの理由でもあるのかなって思う。もちろん本書自体に、そんなセンチメンタルな感想を抱く人はいないかなだけどね。」
「ただ各種文学者の葬儀の模様なども吉行の筆に乗って記されているから、そういった戦後からの日本の文壇の様子に関心を抱く者にとっては、なかなか興趣に堪えない内容ではあるのでしょうね。ま、こうして平成も二十年を数えるという時世に吉行の手にかかる文章を読むというのは、なかなかどうして時代を思わせられるという気分はあるかしら。しかし意外とというか、ある部分ではまったく古びた印象を与えないのは、これは文学のもつ普遍性と、吉行の才能の一端なのでしょうね。そこは興味深いことよ。」
「女の問題を描きつづけた吉行だから、かな。あと子ども時代の思い出をよくつづる吉行の傾向は、人によってある種免れない過去の記憶と現在の自分の係りあい方のひとつのパターンを示すことになるだろから、そういった点から文学の超時代的な相貌というのはうかがわれるのだと思う。‥あとは、そだな、本書でまたつくづくと思ったけど、吉行という人はほんとに病気病気の連続の人生を送った人だったのだなってことを、あらためて認識させられた。時代を象徴する疾病であった結核から、白内障を経ての右目の失明、それの手術、さらには各種アレルギーから鬱病まで。ここまでいろいろな病気を経験したって人もなかなかないのでないかなって思うし、下手を打っちゃってたら、吉行は七十歳まで生きることはできなかったろなって気がする。‥べつな言い方をすれば、吉行はとうてい生き延びられない局面を生き残ってきた人でもあったのだろな。でもそんな波乱万丈から来るニヒリズムや世を儚む厭世観から、まったくぜんぜん無縁であれたのが、吉行のちょっと尋常でないとこだったって、私は思うかな。吉行って、病気の愚痴、ぜんぜん書かないものね。それは少し呆れちゃうくらい。」
「ダンディズムとかスタイルのためだとか、そういった匂いもしないのが少し不思議なところかしらね。吉行という人はおもしろいほどにほのぼのと、ある意味泰然として文筆をやっていたのでないかと、疑えるような面もある性格の文章家であった。ま、だから後輩を騙すような形で高価な時計をせしめたりだの、麻雀なんかで相当理不尽に暴れたりだの、殴りあいをやったりだの、そういったことを臆面なく文章にしてしまうといったちょっと無頼なところもあったけれど、本性はこれでどうして掴みがたいのよ。ま、それがたまらなくおもしろいのでしょうけど。」
吉行淳之介「やややのはなし」
2008/11/15/Sat
「長かった紳士同盟もこれで終り。ずっと追ってきた私としては読み終って何か感慨めいたものはあるかなって思ったけど、でも何もなかったかなっていうのが正直なとこ。それはなんでかなっていえば、実質的に紳士同盟の物語は途中から破綻しちゃってて、とくにストーリー構成についてはいわずもがな、目も当てられないかなって気がする。それというのも終盤において鍵となった働きをしてる十夜の描きこみが絶対的に不足してて、そのためラストに向って走る物語の高揚感の欠如というのは否めないのでないかなって、私は思うからかな。単純にいったら登場人物が多すぎて、それを処理しきれてなかったの一言で済んじゃうことではあるのだけど。でも、どなのかな。」
「種村有菜はみずから今回は登場人物をたくさん出すことをテーマのひとつにしたとは洩らしているけれど、それが作品的に意味があったかは首を傾げざるをえないところでしょうね。何はともあれ、この作品は灰音というキャラを中心で回すほかない作品であり、そのためもあってか灰音と絡むことが作品内で意味のもてる唯一の方法だった。しかしそれは裏を返せば灰音と接触しなければなんの魅力も発揮できないということであり、それはキャラを大量に投入する群像劇の形式にはまったく不適合だったということの証明にほかならない。とりあえず、灰音のキャラが強すぎたとはいえるのでしょう。そうでなかったら、またべつな見方は良かれ悪しかれ可能ではあったのでしょうがね。」
「灰音のつよさ、かな。でもそれはそのとおりの側面があって、よく描かれたっていえる生徒会メンバーの個別の物語にしてみても、そのぜんぶが灰音の魅力によって変化する成長するって文脈におかれてたことは、自明だった。‥だからもしこの作品で登場したあらゆる人たちを描こうとするなら、だれしもが灰音となんらかの形においてふかく接せざるえないのであり、それをしてしまえば物語の本流である東宮家の問題を疎かにしちゃうことになっちゃうのは、わかりやすすぎるほど明らかだった。‥と思うと、やっぱりキャラが多すぎだったのは失敗だったかなって思うし、もっとふれなきゃいけない十夜を蔑ろにしたのは作品として致命的。彼はけっきょく物語を駆動させるための作者の傀儡としての印象しか残さなかったなって、私は思う。十夜はほんと、惜しかったかな。」
「潮もその文脈でみれば、惜しいのよね。彼女はもっと映えたはずでしょう。そしてずばりいうなら潮は千里とからむ必然性はなかったのよ。これはまったく。だがしかし、それをしてしまったのが紳士同盟であり、そして種村有菜の選択なのでしょうね。ま、そこらの意味を考えるのは少しならず億劫でしょうけど。」
「同性愛の方向には興味がないからあえて挑戦した、って、種村先生はいっちゃってるものね。でも、なんていうのかな、種村先生が好んで描く三角関係の構図には、同性愛的志向というものは紛れなくあるものなんだって、いえちゃうのだよね。これは閑雅と高成の兄弟関係にもいえるし、従僕の十夜にだっていえるし、あえていうなら人と人との関係に付随する感情の根底には、そういった同性愛的情緒といったものはあるものだっていえるのじゃないかな。何もほんとに本気の恋愛関係に入ることが同性愛描写のすべてだなんて、そんなことはぜんぜんないわけで、そこを少し見誤っちゃったのかなって、私は本作を読み終えて少し思う。潮は、少しほんとに、残念だったかも。」
「そこらのテーマはまだいろいろと掘り下げてもらいたい気持もあるけれど、次作以降の種村有菜作品で、果してそれが拝めるかしら? ま、微妙よね、何かと。」
「あとやっぱり東宮家の仕来りを灰音のパワーで変革しちゃうのだー!って展開は、予想できたことではあったけど、もっと繊細にすべきことではあったかも。というのも、たぶんここらの家柄と、それについて回る階級と社会支配の日本的な構図というのは、けっこう厳然として存在するものだからって私は思っちゃうからかな。もちろん少女漫画って舞台でそれを描くことに何がしかの意味があるとは思わない。でも微妙な領域ではあるんだよ。この作品がそういった設定を上手く扱えてたかなっていえば、それはまた微妙かなだし。」
「背景としてそういったものがあるのはぜんぜん構わないでしょうけど、紳士同盟の場合はそれが物語の根幹に収まっているからなおさらかしらね。なおざりに描写されたにすぎないというのは、ま、あるかしら。といって、深く切りこむにはまず無理でしょうというものだけれど。」
「どうだったのかなー。私は、本作は率直に評価できないし、種村有菜先生は「満月をさがして」を読めばそれで十分だよって気持が、拭いがたくあるかな。「紳士同盟」は、明確に「満月をさがして」を越えられなかった。‥さいご、閑雅と高成と灰音が三人で暮すことになってハッピーエンドと銘打たれたけど、彼らがそののち幸福にあれたかは、つまりあれをハッピーエンドと称していいかは、私には疑問。ただでも、それをもって紳士同盟を否定するというのも愚かなことなんだろな。三角関係にあれでピリオドを打っちゃうのは、たぶん欺瞞ではあるのだろうけど。」
「実際問題、家柄と仕来りと兄弟相手の三角関係ということで、そういった題材を撰ぶならその顛末は世間的に見れば十中八九悲劇に終りそうなストーリーだったのよね、紳士同盟は。もちろん悲劇的なラストを望んでいたわけじゃないけれど、しかし「満月をさがして」が幸福のなかにも爽やかな哀切を含み出していたとするのなら、今回の「紳士同盟」のラストにはある種の能天気さがあるのは否めないのでないかしら。それは本作のいろいろな問題の集積として露呈したのでしょうけど、ま、少々冗長にすぎたためとまとめることはできるかしら。個々のキャラ造詣は味があっただけに、微妙に惜しい気分が漂う最終巻だったことかしらね。ま、これで終い、ね。もう触れることもないでしょう。はてさてよ。」
種村有菜「紳士同盟†」11巻
2008/11/15/Sat
「不良かー。なんか、原作やったときも感じたことだけど、こういうお話こそ私の関心の向う側というか、すごく興味の外側に位置しちゃってるテーマというか、宇宙の彼方のような価値観で展開されてるストーリーであるから、自然と私の抱く印象もどこか他人事感にあふれちゃってるものになっちゃうかなって気がするかな。不良とか、世間からのはみ出しものとか、率直にいえば私にはだからなんなのだろって考えしか浮んでこない。ただいろいろな生き方の選択があるだけじゃないかな、とか思う。そのなかでただ不良とか暴力とか仲間内でのもめごととか、そういった選択があっただけじゃないのかな、とか思う。その意味で私はアウトローとか不良とかはみ出しものさんとかに変なレッテルを貼るわけでもなければ、差別や偏見もぜんぜんない。ほんとにない。なんの価値もそこにプラスもマイナスも思わない。ただそういう人がいるだけかな、くらいの気持。そしてその意味で私はただほんとに人としてどこか冷たいのかもしれない。なんの興味も、浮ばないという点において。」
「ま、個人が主体的にその選択をしたというよりは、家族と不和だったとか状況がそうだったとかその手の理由づけは為されてはいたのでしょうけどね。がしかし、そういった理由があるということは、佳代にとっては殊更意味をもちえないのでしょう? それが冷たいといわれれば、ま、そうなのかしれないかしらね。」
「理由があるとか状況がそうだとか、それはそうなのだろなってくらいには、もちろん私は思うしそれは信じる。でも、なんていうのかな、そういったついてないって状況があるとして、そこから孤独にならずに仲間と群れちゃってるって選択が、私にはわかんない。家族と仲よくなれなくて居場所がなくて、なら、それで孤独であればいいのじゃない? そこでなんで不良とかになっちゃうの? なんで群れてそれで安穏としてられるの? わかんないかな。ぜんぜん。もちろん社会に反抗的な気持があるっていうのは想像できるし、それを表に出しちゃう性格のためというのも予想できるし、状況がきびしかったっていう個別的な場合もあることもわかる。でもけど、そこから群れちゃうのは私にはわからない。私はそういった冷たい世界に対し、孤独でいたし、また今もけっこう孤独でいる。それでいいのじゃない。だめなのかな。」
「その意見、見ようによってはとてつもなく残酷でしょうね。」
「そ、かな。うーん‥でも、そうなのかも。アウトローがかっこいいとか思っちゃう心性も、今の私には遠い心性だけど、ただそういうのはあるのはわかるし、そういった選択があるのは私には係りがないというだけの点において、認めてぜんぜんいいものではあるのだものね。‥不良とかわかんないっていっちゃうのは、若い気分を失っちゃってるかもだからとかいう人がいたら、プラトンパンチをくらへーだ。私、若いもん。」
「あら、何才くらいのつもりでいるのかしら?」
「十三才くらい?」
「まておい! ‥どこの世界に吉行淳之介の赤線体験だの遠藤周作のキリスト教観だのマニアックな文学者のラーゲルクヴィストだのを話題にする十三才がいるのよ。その告白はちょっといただけないかしら。」
「でも私とお姉ちゃんの年の差は三年って設定があるから、私十三才だったらお姉ちゃん十六才だよ。」
「そんな設定あったの!!? ‥はー、へー、三年近くあんたと会話してきたけど初耳かしら、それ。へー。」
「えへへ。いいよねー。」
「うふふ。そうね。」
「あははははははは。」
「うふふふふふふふ。」
→
正しい自己嫌悪のあり方、みたいな
2008/11/14/Fri
「このエピソードはとても重要(→
竹宮ゆゆこ「とらドラ3!」)。なのだけど、でもアニメ単体で今回のお話だけをみてもその部分はちょっとわかりづらいかなって気はするかな。肝心なのは、今回、大河がしぶしぶ竜児の前に水着姿をみせたときに、竜児が罪悪感を意識しちゃうという場面であって、あのシーンを独自なしの竜児のちょっとした所作だけで終らせたのは、原作を忠実に再現することを目標のひとつとしてるこの製作者のスタンスにしては、英断だったのでないかなって気がする。亜美さんの水着を目の当りにしても感動薄くて、好きなみのりん相手にようやく食指が動くくらいの、いってみればあっさりした、べつな意味では鈍感の竜児が、大河のみに示した性的な怯え。それがこのエピソードの要諦で、そして私がこの作品への見方をあらためた契機となるキーポイントでもある。それは、性なるものへのおそれの、真率な態度。今回の話は、だからむずかしかったんだなって思う。いろいろな描き方は、可能なのだろし。」
「ある意味竜児と大河の二人の関係に、はじめて性的なファクターが入ったのが今回の話だといえるのでしょうね。それまでの二人の関係性は実に奇妙なもので、二人は互いに互いを異性とも殊更意識していなかった。ただ近所で家族のような付きあいをしているだけのことに、まったく違和感を覚えなかった。ま、この時点でいろいろおかしいし、いってみればある種不健全で歪な二人なのでしょうけど、それが明確に変化を見せはじめるターニングポイントが、大河の水着姿を見た竜児、なのでしょうね。相手が異性で、そして同年代の女子よりも脆弱な存在であることを明瞭にわかってしまった、か。はてさてね。」
「それ以前の竜児は、大河の表面的な乱暴さに戸惑わせられてたから気づけなかったといってよいのだよね。もっとも鈍感というか、他人のことに気を払うことを無自覚に欠いている彼のことだから、大河の本心がどうだとかそういうことはぜんぜん考えたことなくて、ただ大河の表層になあなあで付きあってればよかったっていうのはあるのかもかな。でもそれだけじゃいけなくなるのは、二人の距離が縮まってくなら逃れえないことであって、そしてその第一歩は、竜児に大河は性的な存在であるのだ、ということを意識させることに求められるのは必至だった。‥これはけっこうだれも指摘してこなかったことかなって思うけど、ふつう、大河くらいの女の子が、いくら親しいといったからって夜中に、男子の前で水着姿になるなんて、それはあの場で襲われても文句いえないじゃんってほどの、出来事であったんだよ。そこに気づけないのが萌え文化の、たぶんいちばんの罪業なのだと思う。ここはちょっときびしめにいっとこかな。」
「そういった性的なことにつきまとう諸々の荷厄介さを、萌えは表面で覆ってしまうこと多々ある、か。エンタメとして見た場合はそれも仕方ないのでしょうけど、しかし少し無節操にすぎるという気はたしかにするかしらね。竜児の鈍感さは、さて、竜児だけの問題でなくある世相をさえ反映しているかしれないのかしら。ま、どうでしょうね。」
→
「とらドラ!」にみる男の奇妙な性心理→
性の意味
2008/11/13/Thu
「この数ヶ月目をとおしてきた遠藤周作の著作のなかで、もし遠藤の抱懐してたキリスト像の関心から一冊をえらぶとするなら、私は神学研究に挫折した学者の姿と古代のイエスの物語を連関して描いた「死海のほとり」を推すと思う(→
遠藤周作「死海のほとり」)。ただ「死海のほとり」のおもしろさというのは、それ単体としてみてもあんまり明瞭になることでなくて、ここで描出されるイエス物語も学術的に見たら正確なものとはとうていいえないし、イエスの残影に縛られて人生の途上で喘ぐ二人の初老の男の苦い苦しみの生き方の光景は、ただそれだけであってこの本のなかではそれ以上に進み描かれることはないから、「死海のほとり」だけを読んじゃう人がいたら、そこから受ける文学的印象はとりたてて大したものでないだろなって気がする。その意味で、「死海のほとり」は微妙な出来だっていってもよろしかもだし、小説の形態はとってるにしても中心の問題はきわめて遠藤個人に密着した宗教的関心であって、遠藤文学全体を俯瞰するときはべつとしても、それ以外で高く評価するには地味なものがあるのはたしかかなって、私は思う。‥でも、ただ思うのは、本書「聖書のなかの女性たち」のように、遠藤がクリスチャン作家としての面目躍如として代表される著作の表層的な聖書文学は、修辞的に凝ってるためもあって一般受けしやすい傾向のものであるだろなってことは疑わないけど、そこからさらに遠藤のキリスト教への興味の向き方のとても独特な形式‥奇矯なパーソナルなスタイルを認めようとするときには、「沈黙」を継いで書かれた「死海のほとり」の息苦しさが、きわめて重要な位置に位するからって、私は思うから、こうつよく、いっちゃうのだろな。それは遠藤の、著作の表面には出せなかった、ある暗い暗い想念のように、思えるから。」
「「聖書のなかの女性たち」、か。ま、あえて解説する労はいらない著作でしょうね。いってみれば日本人の書いた聖書へのガイドブックのこれほどないほどの見本ともいえるでしょうし、ま、そう一概にいえないこともあるでしょうが、しかしそういった評価で一件落着するであろう類の本であることはまずまちがいないでしょうね。だからこの一冊を取り上げて、遠藤周作のキリスト教観をいろいろいうことには、それほど関心も湧かないといったところかしら。表題のとおりの、丁寧な本といったものでしょうからね。」
「だから私には遠藤の個人的な述懐を記した、付録されてる「秋の日記」のほうが、よく興味がもてたかなって思える。これは、いいよね。素敵。遠藤のなかでもこんなにきれいな文章はほかにないのじゃないかな。何はともあれ、この日記を読むだけでも、遠藤周作の価値はあるのかも。ほんと、こういう情景をみれたというだけで、私は遠藤の著作の価値を認めちゃうかな。そういう態度は、たぶんいくないのだけど、ね。」
「病床に伏した遠藤がつづった日記、か。ここで述べられている各種テーマは、のちの作品で文学的に結実することは、多少遠藤に親しんでいる人にはいうまでもないことでしょう。聖書のなかの女性たちも、ま、聖書の読み方の一模範としてはそうわるくはないのでしょうが。むずかしいところよね。聖書の読み方なんてことをいうと、怒られないほうが不思議でしょうし。本当、不謹慎なブログよ、これは。」
『私たち多くの人生というものは私たち小説家が時として撰んで描くような冒険や事件や英雄的行為などはない。若い人々が恋愛や結婚がどんなに素晴らしいかを憬れるが、本当の結婚の動機とは安岡章太郎が『舌出し天使』で書いたように一人の男と一人の女がデパートの食堂でお好みランチを共にたべあったことで決るような平凡さと凡庸さに充ちているのである。そして顔を洗う。食事をする。満員電車にのる。風邪を引く。そうした凡庸な日常性を私たちは避けて通れない。『田舎司祭の日記』の主人公の生活ははじめの頁から最後の頁までこの顔を洗い、満員電車にのる私たちの生活と同じつまらぬ出来ごとに埋められている。彼の毎日は私たちのそれと同じように、意味のない日常性にかこまれている。ところが少しずつ、眼だたず、この詰らぬ日常の出来ごとから彼は生きはじめる。我々と同じ石ころの上、同じデコボコのわずらわしい路を歩きながら彼は聖人となる。
どこからそうなったのか。
聖書を読む時、私たちはやはりこのことに気をつけねばならぬ。聖書はあまりに劇的な場面にみちみちているので、我々はそのかげにかくれたつまらぬ日常生活をあの中の人々がどう生きたかを知らず、自分より遠い人間のように思いがちである。』
遠藤周作「聖書のなかの女性たち」
遠藤周作「聖書のなかの女性たち」
2008/11/13/Thu
「おもしろいということは個人の主観に属すること。人気があるということは集約的な評価に属すること。人気がある作品が、イコール自分にとっておもしろい作品にならないということは当り前のことで、これが反対にならないのもまた自然なこと。だけれど往々にして人気があるからおもしろいはずだー!とか、この作品私とても好きなのになんで評価されてないのかーとか、そういった思いに人は囚われちゃうもので、でも人気があるっていうのは客観的な指標に基づき精査される事実であって、逆にいえばそれだけのことしか「人気がある」という評価にはついて回らない。そしてそのことに気づけたなら、他者の意見つまり人気に、自分の主観を従属させることが愚かであることには気づくよね。事実と主観は異なること。でもただ、それを見失わせちゃうのが世間の潮流であって、そして場の雰囲気、つまり空気であることはしかたないとは思うけど、かな。」
「ま、あえていうほどのことでは無論ぜんぜんないのでしょうがね。おもしろさというのは、どこまで行っても個人の枠内を脱け出ることはありえないということは、しかし意外と人の意識の盲点ではあるのでしょう。世間が人気があるだのこれはつまらないだの見る価値がないだのという言説を流布させるといっても、それに介在しなければ、ま、それは自分とは関係ない宇宙の果ての出来事であり、それに無理やり自分の考えを矯正することのほうがよほど不自然ではあるということかしら。ま、集団の和を尊ぶとかいった言説に幼少期から慣れ親しんでいれば、そうもいってられないでしょうがね。」
「でも自分の価値観を大切にする、それがほんとの意味での個性化でないかなとは思うかな。‥自分の主観的な評価を大切にするということは、転じてみれば他者の主観的な評価を許容するということでもあって、それはたぶん公平な議論への橋渡しとなる可能性がもてる。それに、何より楽しみというのは自分がまず尊重されてなくては、楽しめないことじゃないかなって、私は思うかな。自分の趣味をまず把握して、それをよく馴染ませる。それはあたかもサド侯爵が標榜したような、貴族的な趣味人の基本でさえあったのでないかなって、私は思う。あんまりほかの人の関心に、自分の興味を適合すべきでないのじゃないかな。それはいえば自分を殺すことの、ありがちな表現であるのだから。」
「個性化というとすぐ他者と異なった特徴だの才能だのに目が行くでしょうけど、基本は自分が何かをどう思うかということをありのままに発揮できるという部分にこそ、あらわされることではあるのでしょう。先生がいったとか、友だちがいったとか、評論家がいったとか、どこかのブログがエントリに書いてたとか、そういうことで自分の趣味を規定するのはつまらないことよ。百人がつまらないといっても自分ひとりが評価していれば、その趣味は趣味として成り立つのよ。それを孤独で嫌だというなら、ま、それは仕方ないことでしょうけど。孤独は究極的にはどうしようもないことよ。」
『「酔いたまえ」
常に酔っていなければならぬ。それがすべてだ、問題はそれしかない。君の肩を押しひしぎ、君を地べたにかがませる「時間」の恐るべき重荷を感じたくなかったら、休むひまなく酔い続けなければならぬ。
しかし、何に? 酒にでも、詩にでも美徳にでも、お好きなように。だがとにかく酔いたまえ。
そしてもしもときたま、宮殿の石段の上で、掘割の緑の草の上で、君の部屋の陰鬱な孤独の中で、君が目を覚まし、酔いがすでに薄れたり消えたりしていたら、訪ねるがいい、風に、波に、星に、鳥に、時計に、およそ移ろうもの、およそ呻くもの、およそめぐるもの、およそ歌うもの、およそ語るもののすべてに、訊ねるがいい、いまは何時かと。すると、風も、波も、星も、鳥も、時計も、君に答えるだろう、《いまは酔うべき時! 「時間」の奴隷として虐げられたくなかったら、酔いたまえ、絶えず酔いたまえ! 酒にでも、詩にでも美徳にでも、お好きなように》と。』
シャルル・ボードレール「パリの憂鬱」
2008/11/12/Wed
「ちょっとうんざり。この作品は、一期のときも感じたけど、狂気とか無理にあらわすことないのでないかな。登場人物が自分の悩み苦しみをあんなふうに言語化できてどどーって奔流のように吐き出せてるという時点で、なんか、ぜんぜん、だいじょぶでない、とか思っちゃう。それに、こういうこといっちゃうとあれれかなだけど、DVに限らずこういった暴力が常態としてある関係性というのの実態にはだいぶ共依存の面があるもので、優子さんと天宮先生のあいだにいつ暴力が介在することになったのかはわかんないけど、でも今の年齢の優子さんにまで暴力をふるってそしてそれを甘受してるってことは、それは優子さんの側にも何か問題はあったかな、という気はするかな。もちろんここで私がこういうこといったとて、だから優子さんの自己責任だーとかっていう気はぜんぜんない。ただひとつだけ、男女の関係のあいだに‥実は親子関係もだいぶ性的関係に収斂されるもの‥起りうる暴力というのは、たぶんに自己愛がからむもので、二人の関係性は二人の暴力をうっすらと欺瞞で覆っちゃってるように見える。あんまり上手くいえないけど、でもなんだろな、この私の優子さんに対する疑いの気持は。」
「また微妙な問題を引っぱってきたという感じかしらね。なんというか、暴力が出た時点でその関係性は明確にある線を越えてしまっているというのに、過去の記憶やその個人への愛情という期待の嘘が、この手の暴力関係を持続させてしまうということなのかしら。優子についていえば、その齢なんだから逃げ出す契機はあったのでしょうといってしまいたくもなるけれど、しかし個別のケースが判然としない状況では、何を傍観者がいっても意味がない、か。はてさてね。」
「天宮先生の態度がまたあれだからなおさら、かな。彼は火村さんに優子に手を出すと後悔するぞといってたけど、それは自身の暴力沙汰を優子を介して知られるのおそれたからそんなこといった、というわけではないみたいに、私には思える。むしろ今回の優子さんのふるまいを鑑みると、少し言葉がわるくなっちゃうけど、火村さんの憐憫を誘って彼をたらしこもうっていう戦略が、うかがえる気がする。‥とかいっちゃうと、私もそうとうひどいかな。ただだけど、優子さんが自分のこれまでされた仕打ちとそれについての憎しみを赤裸々に語るとき、私には彼女が自分のみじめさ、不幸さを披瀝する自分の状況に、ある種の快楽を感じてるような感覚に、ふと、とらわれた。それは悪魔的な意見? もちろんそかな。でもここには女の詐術がある。そして優子さんは、私にはとても女にみえる。それは一種、愉悦を伴っての、かな。」
「非常にこう、誤解されても仕方がないという内容のエントリになってきたかしらね。しかし、ま、微妙なのよ。この話で優子がヤンデレとかいう見方もあることでしょうけど、しかし優子はきわめて正常に女である可能性があるのであり、また天宮を一方的に狂気と断じるのもこの手の問題の理解のうえでは邪魔になるのよ。もちろん天宮が最低の下種だという見方は正しいでしょう。しかし天宮と優子が曲がりなりにも兄妹として、互いに接していた場面はすぐ想起できることもまた事実でしょう。そしてそれを見て火村は二人のあいだにDVのようなものがあるとは予想できなかったでしょう。それはまた視聴者である私たちも同様に。そこがこの種の問題のむずかしさよ。」
「もしかしたらいちばん不幸なのは火村さんになっちゃうのかなって予想が、少し出てきたっていえるかな。私は、暴力が支配する関係は、本能的に嫌忌するけど、でも男が女に相対して暴力のほかふれえざるときがあるということと、そしてそのときの男がどれだけ惨めでありうるかという問題は、とても文学のあつかう領域だなってことは、率直にそう思うかな。むしろこの惨めさの認識の直視が欠けてたことが、天宮先生の行為を促すことになっちゃったのかもだし、それを誘引する何かが優子さんにあって、それは彼女の魔性とさえいえることかもとまで、私は思っちゃう部分ある。‥ただいろいろ微妙かな。私はこの話だけで優子さんをどう見なすか決めることはできない。ただ、火村さんの進退はもうこの時点で決っちゃったのだろなってつよく思う。もう彼は優子さんに陥落してる。その意味で、この作品は自分の描いてるある怖さに、無自覚的でさえ、あるのかも。」
「女性が幅を効かす作品ということかしらね。ま、まだこの回だけでは何ごとかを云々することはできないといった印象だったかしら。不安なのは火村でしょうけどね。彼、このまま天宮を刺殺とかしないかしら? 激情的な行為に駆られる誘因は、さんざん振りまかれた今回だから、余計にその危惧は強まるかしら。さて、どうなるのでしょうね。」
→
遠藤周作「砂の城」
2008/11/11/Tue
「あはははは! あーもう! 初っ端から笑っちゃったじゃないっ! 二宮さんごめんなさいっ。この前の感想(→
純真ミラクル100% 第8話)で、もしかしたら私と似てるとこあるかもなんていっちゃって。まさかほんとにモクソンのこと好きになっちゃってるなんて、私、思ってなかった。やだな、私。私とはそんなに、ね、二宮さん、似てないね。前回のお話の私の受けた印象と誤解は、私と二宮さんの他者に対する態度の相違をそのまま浮き彫りにしちゃったかな。冷たいな、私。二宮さんは幻想を排除してるのでなくて、他者と上手く接せない自分を知ってのうえでのあの対応だったのだね。それは冷厳であるからでなくて不器用だったから、か。少しここは、私、自己嫌悪するとこだよね。他人を自分のように思ってはいけない、かな。」
「ま、本気でモクソンに惚れこんでいるのは予想できた展開のひとつではあったし、ここは素直に秋枝先生の手腕を認めるべきなのでしょうね。実際、少しやられた感はあるかしら。それともこれ以上この物語のただでさえ煩雑な人間関係をこじれさせようとは予想できなかったということなのかしらね。実際、どこまでこの物語は人間関係の渦を作り出せば気が済むのかしら。」
「ねー。ここまで各人各様の思惑と行動を展開することになるとは思わなかったよね。この作品のすごいとこは、それぞれがそれぞれの実直な感情と、それを素直にみせることの叶わない現実の前での妥協との葛藤を、それぞれの個性に沿った形で明敏に描きださせてるとこにあるのであって、正直ここまで錯雑めいた印象を与えられる恋愛劇も稀有でないかなって思う。‥こういうエピソードをみせつけられちゃうと、やっぱり秋枝先生の真価はこういった繊細巧妙をきわめる人間劇と違和感なく人の心情をキャラに描出させてみせる筆致の柔らかさにこそあるのだろな。その意味で、儚月抄があんまり秋枝先生に向いてないのでないかなって意見は、少し正しさがあるのかも。重厚な人間心理をメインに出すはずのない、ひねくれた東方の人たち相手では、秋枝先生の才腕をふるう場所は見出しにくいのだろね。ここまで微妙なバランスのうえに成り立ったキャラクター間の交流を軸とする恋愛物語は、私はこれまで記憶にないほどだから、よけいにそう思っちゃうかな。」
「見事なものかしらね。少し絶賛しすぎという気もないけれど、よくもこう一人ひとりのキャラクターの心理を丁寧に描き分けていくことよ。正直、二宮というキャラクターにこういった役割が回ってくるとは思わなかったし、次だれがどのような行動を起すか予測がつかないという点では、純粋に恋愛劇のおもしろさを引き出しているということでしょうからね。絶妙なものよ。」
「しかもこの手の恋愛漫画にありがちな、嫌味なキャラクターとかテンプレな事件とかが物語の進行には一切からまないからなおさら、かな。表題にあるとおり、この作品の人たちはみんな純真な側面があって、それは自分の気持を大切にする、そしてその感情が今ある関係性を壊すことを極度に恐れるといった弱さって部分においても、とてもよくあらわされてる。‥二宮さんは、だからその意味で、この作品の象徴的な人物っていえることができるかもかな。私は、この作品の人たちには輝きを感じて、そこにある種私という人間には接近できない力のあることを認めることに、やぶさかで、ないかな。もちろん純真さという性質が、よいことばかりでないことは承知できるものだけど。そして、そろそろこの物語も変化をみせる頃合であるだろな。工藤さんと所長の恋、そして二宮さんの存在は、モクソンの立場を決定的に変革しうるファクターとしてあるのだから。」
「モクソンのライブを間近にして、何ごとかは起りうる、か。ま、下手な予測はしないことにしましょうか。この作品に関してはなかなか先が見えてこないし、静かな日常を淡々と描いているため、逆にこの現実と同様、下手な予想は逆の目を出すのよね。どうなることか、一読者として楽しみに待つことにしましょうか。本当、何がどうなるか見えづらくて、わくわくさせられる作品よ。」
2008/11/10/Mon
「このエントリ(→
東方儚月抄 第十六話「旧友の地図」)を書いてから、ここで言及されてる巫女と神々との関係の構図は、昨今のオタク文化の現況とも相関するものがあるのかなって気がしてきた。それは何かなといえば、「○○は私の嫁」という言説に代表されるオタク文化の側面であって、このことについては私は以前これ(→
○○は私の嫁という言い方についてのこと)でふれた。今思うと少しアプローチの仕方がまちがってたかなって気がしてて、たぶんこの現象は共同幻想領域と対幻想領域の相関する地平という側面で、考えてみるべき問題じゃないかなって思う。それはすなわちこの問題は古来から連綿としてつづく神々と巫女の交わりの仕方と同型であり、たぶんオタクと萌えヒロインっていうのは神と巫女の関係に酷似した一面がある。そこがたぶん鍵だと思う‥」
「萌えヒロインがアニミズム的な神々の特徴を備えているという主張は、ま、何かしらね。一見するととんでもでしょうけど、しかしある作品において表現されたキャラが、ファンコミュニティの領域でオリジナルとはべつの表層を獲得し、それが個別のオタクのもとで増幅されるというシステムが、現今のオタク文化の著しい側面だと看做すならば、この言にもある程度の妥当性は生まれる、か。さて、どうなのでしょうね。」
「まず萌えヒロインっていう基礎的なイメージを提供する作品、媒体があって、それは共有される幻想だって定義できる。でもその場合は完全な共同幻想というほどのものでなくて、微妙に個人の思慕とか偏見とかがこびりついちゃって、あくまで個人的な部分と外部的な部分は画然と切りわかれてて、オタクは萌えヒロインに愛着はもっててもその埋められない距離に憤懣を抱く。そこであらわれるのが対幻想領域であって、ここにおいて「○○は私の嫁」って主張の効力ある理由が明確になる。つまり○○は私の嫁って主張することは、つまりそのキャラクターないし属性を家族の次元に引き入れることを意味するのであって、それはずばり紛うことない性的な問題なんだ。そう、巫女が共同幻想たる神を引き下した如く、オタクはキャラクターを本質的な性的存在として感受する。そこで力もつ言説が、「嫁」っていう直接的に生活の同伴者を意味する言葉であったとき、萌えヒロインが実在であるか否かが問題ともならない地平が開けちゃうって、いえるんだ。」
「と、いうと、ま、なんか、キチガイ全開なエントリに聞こえるかしらね。しかしこういった意味あいの言説がそう世迷言ともとれない状況が、そこかしこに見られるのがさいきんだという気は、はてさて、するのかしらね。」
「こんなの(→
漫画の人気キャラが非処女と判明してヲタ騒然…「単行本全部捨てる」と漏らすファンも)とか、かな。アニメのキャラクターや、これはいっていいのかどうか微妙だけど、でも声優さんのその手の話とかが話題になっちゃうとき、その背景にあるのはまさに対幻想の課題なのでないかな。たぶん問われてるのは恋愛の問題と、あと家族と恋愛が乖離しかかっちゃってる、近現代にかけての恋愛観のパラダイムシフトの影響の余波なのだと思う。だからアニメキャラと籍を入れたいとかいう話(→
日本政府に対し「二次元キャラとの結婚を法的に認めて下さい」という署名活動実施中)は、意外とこの種の悩みを抱えてる人たちの当然で、そして凡庸な帰結であるのかなってさえ思う。つまりそれは対幻想を共同幻想領域において把握すること。言葉を変えていうなら、それは「社会的に思いを大切にする」こと。笑い話で、あんがいないかもかな。」
「ま、そこまで時代は来てしまったのでしょうね。と、いうほかないことかしら。澁澤なりバタイユなりベルメールなりが現代を見たらなんていうのかしら。澁澤は爆笑しそうだけれど。はてさてよ。」
→
あるオタク論 やさしさの視点
2008/11/09/Sun
「今回出てきた神さまは、天照大御神と天宇受売命、か。レミリアを破る段取りが天岩戸の故事にちなんで日神である天照を呼び寄せてるのはだれがみてもわかることだろからよろしとして、ここでちょっとふれておきたいのは天宇受売命のほうかな。天宇受売命はアメノウズメノミコトといって、岩戸にお隠れになった天照を招き出すために儀式を行なった神さまなのだけど、平安時代に成立したとされる神典「古語拾遺」では、この神さまの名前の「ウズメ」の由来を、「強悍く猛固くます」からと説明してて、ウズメの性質の本質は力による横暴や恐怖の支配に対して、笑いと和合の希望をもって克服するところにあるってしてる。だから宇受には巫女の身につけるかんざしの意が含まれてて、天宇受売命は女性的な笑いとつよさの神格化、その神聖は巫女の力の象徴たるものがあるのだよね。だから今回のお話で、恐怖と血と絶大な暴力の権化である吸血鬼のレミリアが、天宇受命の前には為す術なくやられちゃったのは道理に適ったことであって、ある意味、力を無差別にふるうしかない吸血鬼じゃどうしようもなかったかなって思っちゃう面もあるかもかな。天照を招き出せたのは、力でなくて、舞踏だったのだものね。」
「愉楽と柔和さによって現実の苦難に立ち向う神、か。それを考えれば理不尽さの代表のような永遠に幼い吸血鬼が敵うわけはなかったのでしょうね。天宇受命はここからもわかるとおり、武力ではどうしようもない局面を打破してきた特徴的な神であり、どんな猛々しい神相手にも交渉を可能としたその性質は、現実という苦しみに満ちた世界に対して一条の光明となるべし巫女の職務の本質を象徴するものとさえいえるのでしょう。巫女というのは不思議なものね。考えると、その役割というのはたしかにアメノウズメのようなものが期待されているとはいえるのかしら。」
『〈巫女〉とはなにか?
この問いにたいして、巫覡的な女性を意味するとこたえるのはおそらく本質をうがっていない。また巫覡的な能力と行事にたずさわるもののうち、女性をさすといってもこたえにはならない。
わたしのかんがえでは〈巫女〉は、共同幻想を自分の対なる幻想の対象にできるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が、巫女にとっては〈性〉的な対象なのだ。巫女にとって〈性〉行為の対象は、共同幻想が凝集された象徴物である。〈神〉でも〈ひと〉でも、〈狐〉とか〈犬〉のような動物でも、また〈仏像〉でも、ただ共同幻想の象徴という位相をもつかぎりは、巫女にとって〈性〉的な対象でありうるのだ。』
吉本隆明「共同幻想論」
「ここで「共同幻想論」をもち出しちゃうのはちょっと話の射程を伸ばしすぎかなって気がしないでないけど、ただ少し、アメノウズメノミコトについて思いを馳せたらそれはすなわち巫女という存在の行為の直截的な本質に結びつくものであるのかなって気がして、それを考えてみたい。‥東方において巫女の役割というのはけっこう基本に即したもので、それはとくに日本の神々を素材とした「風神録」以降、つよく感じられることかなって思う。諏訪子はお祭の本質を神と人がたわむれる「神遊び」にこそあるっていったけど、それは上記「共同幻想論」で吉本がいってることと微妙に接近する点があるのでないかな。もちろん「共同幻想論」の文章を解釈するってことはあまりに難易度が高いことではあるけれど、ここだけの引用に即して考えるなら、吉本はある集団内における幻想つまり「意味」を相手に性行為‥ここでいう性行為は実際的な肉体交渉ではもちろんなくて‥を行なえることが巫女の本質だって述べてて、それは人たちの共通したイマジネイションをたったひとりきりの地平において、接することができる能力がある人間ということ。東方ではこの性行為は弾幕遊びというふうにいい変えられてて、その内実としては本来の巫女の役割とそんなちがわないかなって気がする。ただ異なるのは、そう、幻想郷においてはそこで意味される現実は、つまり私たちの現実の稀薄になった意味性であるということ。だから霊夢が巫女として働くことは、「疎外されたあらゆる存在の象徴として」、機能することにあるのかもしれない。と思うと、少し辛気くさくなっちゃって、めんどかな、だけど。」
「煌びやかな月の巫女である依姫と、ま、いってはなんでしょうけど村落的であまり華やかには扱われてないだろう霊夢の、二人の巫女の対照は、なかなかおもしろい部分があるのかしらね。‥「風神録」でわかるとおり、幻想郷にいる神々はもはや共同幻想ではなくなった神々なのよね。それは即ち巫女を相手の対幻想としての存在でしか、いられなくなった神々ということかしら。そう考えると幻想郷入りするということは、なんとも歪な観念のようにも思えるけれど、ま、どうでもいいことではあるでしょう。楽しく弾幕やってくれてれば、べつによいでしょう。」
2008/11/09/Sun
「善意がかならずしもよい事態をもたらすとは限らないということは、あらたまっていうまでもないことではあるけれど、でも基本として人には自分は善人だと思われたいな、私はわるいことしてなくて後ろ指指されるはずもない人間であるよねって、そんなふうな同意を得たいっていう、自分を善性の人だって信じてたいって心性が、備わってるかなって気はするかな。それは一般には世間体を気にするとか、夕食の時間にちょっと小言をいってみたりするお父さんの姿とか、道徳の時間に神妙な面持で訓示を垂れる先生とか、たまにある飲み会で赤い顔して経験に裏打ちされた人生論を語る先輩の顔とか、そういったふうな側面においてあらわれるものだっていっちゃったなら、これは少しニヒリスティックにすぎちゃうかなって気はするけれど。‥もちろん、人が他者によく思われたいってそういった類の欲求は、基盤においては社会を円滑にこなす仕組みの一翼を担ってるってことは疑えないことだけど、でも本書「火山」はそんな善性がかならずしもよい結果を招来しないこと、また人が善意のもとで悪を為しうることが危険として厳然とあるのに、それに目をつむる心の働きが隠然として人間にはあるということを、遠藤周作はもち前のキリスト教的モチーフを巧みにレトリックとして用いながら、表現してみせてるって、私は思う。この作は、ほかの遠藤の作品群と同様、堪える人にはすごく堪えちゃう作品かな。この作品の圧倒的な暗さ‥無縁でない人はたちどころに理解できる類の暗さ‥によって示される善意の刃物は、まちがいなくある読者の一群の心を、突き刺しちゃう。その意味で本書の与える読書体験は、いい難い一面が含まれることになるのかな。」
「物語は、小心翼翼として事なかれ主義を貫くよくある日本人の生き方の一典型である須田仁平と、遠藤の作品において何度か用いられる型の人間像である棄教した老神父のデュランの、二人の人物の人生の終焉をそれぞれ描写しながら進行するのよね。定年した須田は、生涯を賭けた火山研究の成果を出版する作業に取り組もうとするのだけれど、その矢先、病を発症して入院してしまう。だれかをつよく愛することもなく、家庭には無関心にただ仕事に務めてきた彼には、家族の者が自分に冷ややかな視線を投げかけているのには死の寸前まで気づくことはなかった。いや、死の寸前に気づいてしまったのが、須田という男の最大の不幸だったのでしょうね。須田が疎まれ、息子夫婦が彼の入院資金で愚痴をいっているのを立ち聞きしてしまうシーンは、たいていの人は目を背けたくなるのでないかしら。これに類似する場面に、この世間、事欠きはしないでしょうからね。」
「家族は諸悪の根源‥といったとて、何が解決するはずのものではないけれど、ね。‥平凡がいちばんの幸福とか、家族の愛情が最終的な拠り所となるとか、そういった言葉がもつ真実性を私はべつに疑うとこでないけれど、でもただ、世にあるどれだけの人が家族の悲惨さを、表立って語ることのできない苦渋さを胸に秘めてるかは、文学のほか、なかなか語れるものではないのでないかな。‥遠藤はこの作品で、ただ荒波立てないことを第一に専心して、とくに妻を愛するでもなければ、子どもを気にかけることもなくて、そしてそういった自分になんらの痛痒も感じなかった須田って男を描写してみせているけど、でもそういったまじめに人と向いあってこなかった人間はだめなのだー!って、そういった調子で須田が表現されてるわけでないことは、この作品を読むだれもが、察知するとこではあるのだよね。‥何を愛し、何からも愛されなかった人間が、だれからも真から悲しまれることなくて、死んでく。その事実に気づいたとき、須田は人生をやり直したいって絶叫するけど、その咆哮は、死の意識の途絶によって、無情に切り裂かれる。‥遠藤文学の全体において注目するなら、この須田って男は、べつに悪人ではぜんぜんなかったんだよね。かといってとりたてて善人でもなかったけど、でも地獄に責め苛まれるよな、悪業を犯した人間であるわけなかった。ただ何もしなかった人間だった。そして何もしない人間とは、私たちの大多数の人間の、現況でさえ、あるのだよね。ここに、この小説のぞっとする部分がある。怖ろしい、指摘がある。」
「何もしない、だれも愛さなかったことが罪‥というわけではないのでしょうね。罪や悪といった、大仰な言葉は須田のような、日本人的な生き方にはそぐわない。ここで問われているものは、もっとべつの側面のもの。和やかな激しさのない、何もトラブルがなければそれでいいといった、絶対的な価値観や信念において生きるのでなく、「空気」によってのんびりとした善意に即して生きることを尊ぶといった、日本人のしずかな小心さこそが、この小説の主題であったのかしれないかしらね。それは一欠けらの善意識、か。」
「そこでいわれる善も、激しい意味での善でないのだよね。悪を糾弾するとかいうのでなくて、ただ私はよい人って思われてたいな、くらいの意味での、善意。‥これは余談だけど、私は性善説と性悪説では、まったく性善説が正しいなって思ってる。でも結果としてあらわれる世界が、善でないだけかなって気がしてる。人は、その性質は、紛うことなく善なんだ。でも、だからこそ、その結果としての社会は、個人の生活は、幸福にならないのかもしれない。遠藤の中期の作品である本書は、その間の苦しみを、筆致によくあらわし出してる。その懊悩は、今でもこの書に燻りつづけてる。私はそれを、読後感として感じたかな。どうすることもできない悪の顕現として、善意は人を盲目にする。エゴイズムと善意は、だって、手を結ぶものであるのだから。」
「人に尽くそうとする際に、どこまでそこに自分の支配欲が善意に紛れこんであるか知れたものではない、か。ただ利口者は、そういった苦しみを見て、何もできない小心者の言い訳と見なすでしょうね。それは一面真実よ。みずから善意を行なえない者にはまちがいなく負い目は生まれる。しかしやみくもな善意は結果としての悪をさえ招来する。ま、善を為すとは何かとか悪を為すとは何かとか、そういった問題は面倒よね。深い疲労が感じられるだけではある、か。はてさてよ。」
『「学校はどげんか。成績は良うのうてもいいから人から後指をさされん人間になんなさい」
食事のたびごと、一合の酒を舐めながら一種の処世訓めいたものを息子にのべるのが病気前の彼の習慣だった。今は酒は禁じられているので仁平は箸を動かしながら二ヶ月前と同じように中学生に説教をしはじめた。しかし謙次郎は返事もせず茶碗を顔に押しあてて旺盛な食慾をみせているだけだった。
「なあ……人間たあ、平凡が一番、幸福じゃけんあ」
彼は誰に言うともなしに感慨ぶかく呟いてみせた。その時、彼はふとその次男の横で黙ってうつむいていた咲子が、不意にこちらに顔をあげたのに気がついた。瞬間ではあったがその嫁の頬に仁平を蔑むような冷笑が走り、唇が皮肉に歪むのを彼は認めた。』
遠藤周作「火山」
遠藤周作「火山」
2008/11/08/Sat
「秋の一夜の幻想、かな。このお話はつまり志麻さんの本来の飼い主である人が、かつて恩を受けたことを感謝したくてその思いを自分の飼い猫である志麻さんに託して、そして猫志麻さんは人の姿に顕現して美佐江さんのとこにあらわれた、ということなのだよね。でもそこで猫志麻さんと美佐江さんが恋仲になっちゃうっていうのは、たぶんご主人にしてみればあれれな予想外だったのじゃないかな。とかいっちゃうと私あまりに空気読んでないみたいでやになっちゃう。うーあー、感動物語であることはわかってる、わかってるのだけどー。」
「ま、なんていうか、猫の志麻と美佐江がああいう関係性に至るというのは想定外ではあったのでしょうね。願いをひとつ叶えるというのはそもそも本編中為されたような事柄を意図していたわけではないでしょうし。ま、どうなのかしらね、これって。」
「美佐江さんの現在のあり方が猫志麻さんとの思い出に求められちゃってるから、だからかな。‥猫志麻さんと出会わなければ、たぶん美佐江さんは寮の管理人なんてしてないし、もうちょっとちがう人生を送れてたのかなって思う。でも美佐江さんが現状の暮しをしてるってことは、それだけあの夏祭りでの記憶が心に刻まれてるからなのだろし、人が何かに出会うということは往々にしてそういった力が与ることがあることは認めなきゃいけないことだから、猫志麻さんの責任を云々することは野暮以上に愚かなことであるだろな。それに人の生き方というのは他人が口出しできない性質のものであって、私にできることは美佐江さんの立場を他者としてあるていどの儀礼的な無関心をもって、距離をとることであろうし、今回のお話は、その意味で尊重すべきものがあるのだと思う。‥でも猫志麻さんのやったことはあまりに大きいのかなとは思うけど、ね。今はただの猫さんなのだよね。どうにもできなくて、ちょっと美佐江さん、切ないかな。」
「しかしそれが美佐江さんの決意である、か。はてさてね。消えてしまった男への愛情を一途に抱えている生き方というのは、少し生真面目にすぎるかしらとも思えるけれど、彼女の性格なら致し方ないというのもあるのでしょうね。あの友だち二人はきつい立場かしら。おそらく志麻さんにはそうよい印象を保持できてはいないでしょうし。」
「途中で消えちゃう男なんてー!かな。でも猫志麻さんのふしぎを見知ってたから、そんなこともないのかな。‥人の記憶というのはふしぎで、過去過ぎ去った愛情が、それを思い返す現在に与って力もつとき、その愛情の想起がもたらす心の印象は、決して過去のそれと同一でないはずなのに、過去はただ思われ語られるものでしかないはずなのに、人の心はその記憶のなかの愛情に、どしてか固執しちゃう。思い出というのは私だし、記憶というのは感情だし、感情というのは私の存在なのだよね。操を立てるというのはそこに美があるのはわかるけど、でも傍観者としての私は、今の美佐江さんは幸せなのかなって、問いかけちゃう。それが私のエゴであることは自明として。ただなんとなく、でも私が朋也だったら、その夢のお話はぜったいに語らないなって、そのことだけはつよく思って。私が朋也だったら、話さない。だってその行いは、美佐江さんをますます志摩さんって過去に縛りつけるだけじゃない。そのことをだれも指摘しないのが、私はむかつく。それがクラナドって物語の本性だっていうことは、十二分にわかるのだけど、ね。やになるな。」
「美佐江さんがこれから先、べつの人生の選択をしないということも決ったことではないでしょうし、ま、今は、これでもいいのかもしれないかしらね。ただ人は過去に支配される存在である。その意味で人の心というのは、愛情というのは、恐ろしい。青春の恋愛といって、簡単に片づけられるものでもない。はてさてね。あまり考えても埒があくことはないのでしょうけど、やるせなさは残ってしまう、か。ま、仕方ないのでしょう。傍観者は黙するのみよ。それが最適であるのでしょう。」
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遠藤周作「愛情セミナー」
2008/11/07/Fri
「ほんとの自分とはなんなのかなという問題は、いってみればよくありふれた悩みにすぎなくて、ふだんの私はほんとの私を生きてないとか、私はもっとべつな形で自分を表現できるはずだとか、そういった欲求はたいていの人が抱いてるものかなって気がする。ただだけど、ほんとの私ってものがほんとにあるのかなって疑問はけっこう微妙であって、人は自分の思いどおりにならない現実の前にあるていど妥協した自己表現をもって、自分らしさというのを体現するほかないってふうにいえるのかもかな。そしてそういった生き方が青春の人たちには、ある種純真でない大人の影像として映るのかもだし、ほんとの私なんてどうでもいいじゃんって思ってる私のようなのは、ほんとの自分の存在を信じてる一群の人たちからは軽蔑されるのかなって気もしちゃうかな。自分探し、どこかにべつなもっとちがう私がいるはずでそれをなんとかみつけ出して真実私らしい私になりましょってことに嬉々としてとり組んでる人たちがいることを、私はべつに否定しない。でもただ、自分の深奥をえぐってく自己の探求は、ほとんどの人の場合、悲劇的になるほかないのじゃないかなって、私は考えちゃう。それをあらわした文学が、たとえばヘッセになるのだと思う(→
ヘルマン・ヘッセ「デミアン」)。」
「ま、自分探しだの私らしく生きることが大切だのという言説は否定しないのだけれどでも、というところかしらね。こういってはなんでしょうけど、自分というのはけっこう空虚なものよ。心を検分していくと、意外と何もなかったりするものなのよね。だから飾らず、本音をさらけ出せばすなわち楽に生きられるかといえば、そうでない場合も多々あるし、案外なんの個性も見出せない凡庸な自分が思われるだけの悲しみであったりするのでしょう。ま、だから本音はさらさず生きろというのも、また少しちがうのでしょうがね。」
「ほんとの私っていってるけど、でもその欲求の真実は、ただ他者にこう見られたい自分ってセルフイメージの反照にすぎなかったりするから、かな。実はここがけっこう自分探しとかのはまりがちな陥穽であって、人というのは他者を根源的に必要とする存在だから、他者にそう思われたいところの自分の像というものをみんなひそかにもってるもので、その実現がつまり「私らしく」って文脈のなかにはあるのじゃないかな。ほんとの私はこうじゃないんだー私はもっと本音で生きるぞーって意気ごんでも、その本音というのがほんとに本音なのかなって問題はいい難いものがあって、それは自分の他者への関心が本質として人の各種の行動を規定してしまうことが往々にしてあっちゃうから。そしてそういったセルフイメージのために、人は自分の「好き」を抑圧しちゃうって状況がよくあらわれるもので、今回の亜美さんのエピソードは、つまりそういった抑圧からの解放をテーマとして据えてたんだよね。その描写が上手くいったかどうかは、ちょっと私としてはどうなのかなって思っちゃう部分は、無きにしも非ずだけど。」
「他者にこう見られたい、思われたいという欲求は、人が思っている以上に強大な側面があるというのはいえるのでしょうね。ここらは過剰な自意識のためという言い方もできるのでしょうけど、自意識というのは他者への志向性の別名でしかなかったりするのが悲しいところなのでしょうね。そして「とらドラ!」のなかでもっともセルフイメージのために本性を抑圧しているのが、亜美でもなんでもなく、実乃梨だということには、竜児はいつか気づけるのかしら。おそらく、気づく瞬間は来ないのでしょうがね。」
「むずかしい問題。私が私であれることというのは、現実問題挫折必至なことで、それが抑圧されちゃうっていうのはただ理想が状況に最適化されるっていうだけなのかなって気もするかな。‥ただ、そだな、自分探しとかいろいろあるけど、でも私らしさっていうのは性格とか人格とかに求めるものでなくして、世界観とかライフスタイルとかにこそ見出すものでないかなって、私は思うかな。場当たり的な性格が一貫しないだなんて、そんなことは当り前。人は場面と状況に応じて態度を変えるものだし、ある意味変えなくちゃいけないじゃない。でもそういった多様な生活のうちで、もし私らしさが発現できるものがあるとしたら、それは身の丈にあったライフスタイルの選択とそれに自分の価値観を乗せることでしかないのじゃないかな。生活の継続のなかにしか、自分というのは見出しえない。だから、ほんとの自分なんてどうでもいいじゃんって、私は思う。私とは生活と思考の持続が生みだす何かでしかないのであり、その日々のうちでの変容は免れないって思うから。」
「ま、なんていうのかしらね、自分探しや本当の私の確立とかいう言説には、どうしても魅惑的なものがあるものでしょうけど、しかし人が人と対するということは、性格や一見して思われる印象以上にべつな部分が与って力あるのでしょう。性格というのは、それが瞬間的でなく長期の人間関係であれば、その個人のライフスタイルの反照としてしか捉えられないものであるのでしょうし、だからつまりライフスタイルよね。亜美が天然キャラを演じているとかいうのは、実は些細なことなのよ。ま、面倒な話ではあるのでしょうけど。」
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スケッチブックにおけるモノローグの意味とヘッセの理想の話