2009/01/31/Sat
「恋は盲目とはいうけれど、ウラさんのように一方的に恋慕しちゃってそれが客観的な現実認識を欠いちゃってる場合というのは往々にしてまずいかなとは思う。といっても、この手のケースというのはそう少ないということもなくて、ある意味いくつかの恋愛の型は自己中心的な思いを露見するだけであって、そこには何等相手のことを知ろうとか思いやろうとか、そういった基礎的なわかりあうための努力がさいしょから欠落した過程をとおるということがいえちゃうだろうことはまずまちがいないかな。けっこうウラさんのような自分の思いを世界にそのまま投影しちゃって、それで冷静な検討もなしにどんどん深みにはまってく人は、いちゃうものなのだよね。これは困ったものかな、と私は思うけど、でもこういう状態になっちゃった人たちに対してどう接するのが適当なのかなといった問題は、私にはまだよくわからない。これはほんとにむずかしい。」
「自分の気持がそのまま相手に伝わってお互いの意志が過不足なく理解しあえているという幻想に捕われてしまうのよね。ま、ウラの剣道をやめた理由がアイドルへのストーカー的恋着にあったということはなかなかおもしろい展開だったとは評価できるし、バンブレのことだからそこらの描写はマイルドに納まってはいるけれど、しかしこういった女性の妄念じみた執着の様子を目の当りにしたことがある人にとっては、どうして笑えないものでもあるのでしょうね。現状把握ができていない、自己中心的な言葉しか発してないということは傍目には明らかなのだけど、しかしそれを本人が了解することはまずありえない。この間の事情は、微妙に厄介な病理を浮彫りにしているのでしょうね。」
「吉行淳之介もこの種の女性に執着される体験を告白してて、そういった人たちに共通してるのはただ自分の思いのみが世界の核心であるということをいくらも疑わないその極端な現実認識の欠落にあるんだということをいってたかなって思いだす。それは自分という存在をあまりに世界の中心と見なしちゃってるということであり、つまり主観と客観の分別が彼らは為されてないのであって、ウラさんにおいても自分の内面が直接的に世界に反映されるって妄念に憑かれちゃってそれに気づくことがない。だから彼女の思いはそのまま世界とイコールであって、根本的な部分で彼女の思いというのは真理と変わることがないほどの意味あいをウラさんは感じちゃってるのだよね。そして、だからこういった状況に陥った人相手には、理性的な客観的な対話というのは不可能であって、事態の解決を能動的に試みることはまず不可能だと思う。人の心は、だって、かんたんに迷誤の闇に暮れるものであるのだから。」
「その迷誤というものは、もちろん大なり小なりの差異はあるのでしょうけど、しかしおそらく恋愛という状態に入るにはだれもが求められる心理的状態であるのでしょうね。人は少なからず残酷な現実の認識を忘却しなければ、恋愛の幻想に浸ることはできないもの。ま、しかしだからといって、それが極端な場合を呈すれば、ウラのように、またはそれ以上に、傍迷惑なことにはなってしまうのでしょうね。はてさて、このウラの妄執を断ち切り、物語は進むことができるのかしら? ま、そこはバンブレだし安心して先の展開を期待するとしましょうか。いつもどおりのクオリティで、楽しめた10巻だったことよ。」
土塚理弘、五十嵐あぐり「BAMBOO BLADE」10巻→
吉行淳之介「恋愛論」
2009/01/30/Fri
「ことみのいう多世界論は、学術的な関心からはとても興味あることだけど、でもこのもっとべつな可能性の世界、もっとべつな生き方、方途があったのでないかなって思いは、通常個人にはただ悔恨という形において未来への絶望として受けとられざるをえないのが、切ないところかな。今回の話で朋也は「もしこうでなかったら」って言葉で多くの自分の感情を吐露するのだけど、この「なんとかでなかったら」という思いはすなわち過去への憧憬ないし期待という感情がこめられてるのは疑いないのであって、人が希望をもつのは実は未来へでなくて過去に対してであるということがわかってくる。‥人が希望をもつのは未来じゃなくて、過去に対してなんだよ。可能性にあふれてるように見えるのは、けして未来じゃなくて、過去に対してなんだよ。この事実は、べつに逆説的でもなんでもない。だってそれは、ありきたりな人の心の動きの当然なのだから。」
「ふつう希望や可能性という言葉は未来に対して使われるものだと思われがちだけれど、はてさて、しかし人の心理の実体は、未来じゃなく過去に対してこそ本当に期待をもつのだから不可思議なものよね。これは仮想というのは過ぎ去った過去に投影してはじめて可能になるという事情が関係しているのであり、この現在が絶望と幻滅に押しひしがれているからこそ、過去が「もしこうであったら」と、人は願ってしまうのでしょう。つまり多世界への憧憬は、すなわち過去の改ざんと幻想に覆われているものである、か。ま、どうしようもない現在に苛まれるのが人間の実存だと考えれば、それは自然な成行なのでしょうがね。」
「多様な過去の想像が、現実の私を慰撫してくれるものだから、かな。‥でもこの過去へのいろいろな可能性の想定が、実際、ナンセンスにすぎないことは、あえて指摘するまでもないことであることはいうまでもないことだと思う。そう、私という存在は今このときこの人生においてのほかありえなくて、私は今という意識にのみ苛まれてるのであり、過去の改ざんは今の私の存在を慰めようとそれは仮構でしかありえない。そして希望に満ちた過去への憧憬は、絶望に満ちた現在へのルサンチマンの反映としてしか私たちに認識されるほかなくて、現在の否定と過去への耽溺がもたらす現在の私の精神と境遇は、たぶんそれほど健全な状況を約束しはしないのだろな。‥だから私は今の私を引き受けるしかない。そしてできるなら未来に対して今を是とするために、今を変化させてく私を今に現出させるほかない。‥ただ、それはむずかしいかな。人は過去を惜しむものだから。そして、未来は常に唐突に不可知であるのだろうから。」
「渚に置いていかれてしまった朋也は、渚のいた過去にすがるほか、その傷を負った心の選択はありえなかった、か。ま、悲劇よね。そしてそういった過去への期待と現在へのネガティブな感情というものに苦しめられている人は、その程度は多かれ少なかれあるのでしょうが、しかし決して他人事だと割り切れるほどには無縁ではないのでしょう。人は辛い今と期待の過去とのバランスのうえで、現在の意識を支えているともいえる。しかし、もしそのバランスが崩壊してしまったなら? さて、それこそがここからのクラナドという作品のひとつのテーマであるのでしょうね。つづきがどうなるか、楽しみよ。」
→
ef - a tale of memories. 第5話~第8話→
過去をなつかしむこと 人の意識と時間の問題
2009/01/29/Thu
「みのりんの罪悪感に関しては、彼女が見た目どおりの明るい天然な子というのでその本性は実はなくて、彼女という人はもっと根暗で、基本的には自分への自信のなさを常に意識して打ち消してるって心理を読みとることなくしては、なかなか理解しづらい部分だと思う。みのりんはいつも何かふざけて人の失笑を買うようなふるまいをしてるけれど、でもそれは彼女の本心からの働きでなくて、実はただの演技にすぎないんだよね。そうして考えると、みのりんという人は著しく不安定な自我を備えてるということがわかってくるし、また全体的に欝気味だった今回の彼女の様子をみても、みのりんが竜児が捉えてるような明るくてどんなときも前向きで‥という性格とはほんとは対極的な個性を有してることがわかってくるのじゃないかな。‥みのりんのもつ、暗さ。それを今わかってるのは亜美さんだけで、大河も竜児も‥竜児はとくにそかな。彼は自分の望む他者しか目に入れない。人のありのままの姿に、自分の理想を、投影してる‥気づけてない。それがみのりんの孤独をふかめるのに、どれだけ役立ってるかは、少し言葉にしにくいくらい。」
「実乃梨が暗い人だということを考えなければ、亜美の「罪悪感」という否定的な言葉の投げかけの微妙なニュアンスの真実は、なかなかどうして伝わってはこないのでしょうね。ま、これまでの彼女の行動を鑑みても、躁鬱の激しい心理的に安定しない人物ということを評定するのはそうおかしなことではないのでしょうけど、そこまで複雑で隠微な心理の人物をここまで繊細に描いてこれたことには、この作品を率直に感心するかしらね。実乃梨の罪悪感とは、いってみれば自己懲罰のそれでしかないのよ。彼女は自分を責めている。何によって責めているか。大河のこと、竜児のこと。あまりに彼女は自分の本音を明かしていないのよね。ま、明かせないのでしょうけど。」
「みのりんは自分を嘘つきだって見なしてて、それに負い目を感じてるから、かな。でも亜美さんが指摘するとおり、みのりんの罪悪感というのはいわば彼女の独善的な性質の発露ともとれないことはなくて、それくらいのことで友だちに気兼ねして、本音をいわず勝手に内にこもって悶々としてるのは、やはり大河や竜児に対するもっと明らかな裏切りであることは疑えないのじゃないかなって、私は思うかな。‥整理すると、みのりんは竜児に惹かれてる。そして大河に依存するほど拘泥してる。彼女は大河を裏切れない。裏切る自分をゆるせない。また竜児が自分に好意を向けてることも、たぶん彼女はかなり初期の段階で気づいてて、そしてその感情を受けとめることに、そうとう苦慮して煮詰まってる。‥みのりんの罪悪感の問題は、これはそうとうむずかしい。なかなか鮮明に彼女の心理を追うことは、骨の折れる課題であるかな。彼女という人の屈折した心理は、表面の笑顔からは推測できないほど、複雑に陰影を伴ったものであるだろうから。」
「わからない人よね。いや、これは実乃梨という人の性格や心理に私たちがただ疎いということもいえるのかしら。しかしこういった自分の気持を正直に表に出すことができず、その意味で自縄自縛の苦しみにさらされる人というのは、思っている以上に少なくはないのでしょうね。青春だの恋愛だのいうけれど、やはりこの作品の本質は非常に暗い底冷えのする人間心理の描写にこそあるのでしょう。実乃梨を見て、背筋が多少は冷えないかしら。彼女という人間はまったく自分の凡庸さに苦しみそれを打破しようと無駄に足掻く、滑稽な人間のカリカチュアにほかならないのよ。はてさて、どうなることかしらね。」
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竹宮ゆゆこ「とらドラ6!」→
竹宮ゆゆこ「とらドラ7!」→
「とらドラ!」雑感 嘘の囚われ人としての実乃梨
2009/01/28/Wed
「本書「闇のなかの祝祭」は、吉行淳之介の多彩な女性関係のなかでもとくに比重を占めることが大きかったであろう宮城まり子と本妻とのあいだに挟まれた三角関係の様子を私小説の体裁に整えた内容であって、この作品には吉行がどんなふうにして修羅場の連続ともいえる数年間をすごしていったのかなって様子がつかみとれると思う。もともと見合とも恋愛結婚ともとれない形でいっしょになった間柄だって、吉行は本妻との関係を語ってて、二人には子どもがあるけどでもその仲は決して良好といえるものでない状態にあった。そんなときあらわれたのが宮城まり子、つまり作中の名前でいえば奈々子その人であって、彼女には吉行は心底から惚れてることを自覚してるのであり、それはたぶん疑えない事実であったのだと思う。というのも、吉行は浮気をしてるけどその動機には真実その他者に惚れこんだって、あるつよい一点が介在してたのであって、もしそうでなかったなら、事態はこれほど煩雑な三角関係を呈することはなかったであろうことを、吉行はよくわかってた。今の妻とはあまり愛しあってない。でも、子どもがいる。そして、十年以上寄り添った年月の重みがある。でも、自分の心はべつな女性に向いている。事態はまったく、かんたんでなかった。」
「本妻の人、作中では草子という名前だけれど、彼女とて苦しみたくて苦しんでるのでないし、吉行自身を困らせたいという単純な一事が心理の基底にあるのでもおそらくないのでしょうね。もはや愛されていないといった自覚は深く彼女には納得されていたことでもあったでしょうし、ただそうはいっても夫が自分を見捨てて去ることを容易に肯んじるには、あまりに感情の暴風というものが起りすぎる。そして奈々子の場合だっていつまでもただの恋人という立場にいるのは歯がゆく思われ、しっかりと籍を入れたいがそうは本妻が許さない。しかも奈々子の職業は女優業であり、世間の目は常に向いているむずかしい立場にある、か。いやはや、想定しただけでも苦労する状況かしらね。この渦中にあった吉行の心情とは、はてさて、どんなものだったのかしら。」
「本作品を読んでいちばんはじめに感じるつよい印象は、たぶん三角関係なんてろくでもないよね、みたいなことになるのじゃないかなって思うかな。実際、本作中に描かれる吉行、つまり作中では沼田という男は、身体の芯から女性関係の相手に忙殺され疲労し尽くされてるのであり、放っておくほかない生まれたばかりの子どもに対する不安もあれば、連載の仕事を抱えてる心配もあり、また奈々子と密会するための車の費用やホテル代、さらにはアパートの家賃や諸々の雑事によって費やされる金銭の具合が、吉行という人の生活の苦しみをふかくふかく染めていく。‥三角関係というのは、こんなに疲れるものだなということは、たぶんそれを経た人は今さらのように感じる事実であるのだろうし、本書で吉行が死ぬほど困憊するくだりを読んで、私は、嫉妬と愛情の狭間でもがいた吉行の文学の意味性が、いったいどういった形で作品に結実していったのかなって問題にとても関心を惹かれるのを感じた。たぶん吉行という思想の中核には、この嫉妬に苦しむ疲れきった男の身体が、いつも横たわってたのでないかな。背中を曲げて頭をもたげて、吉行はだまって小説を書く。それがほんとの恋愛作家の姿なのじゃないかなって、私はそんなことを思ったりする。嫉妬の渦にありながらその嫉妬を紙に写す吉行という人の心中を、しずかに思いながら。」
「吉行という人はどこか常に自分を他人と見ているような、ひどく冷めたところがあったように思えるのよね。この作品はまちがいなく吉行の実体験を基に構成されたものと見ておかしくないのでしょうけど、しかしここまで丹念に、みずからの生活を検討して文章にできる才能は、やはり希代なものであったのでしょう。余計な装飾を剥ぎとった言葉そのものが美しく組み立てられ行く本作だからこそ、吉行の筆力というのはすごいものよ。そう、吉行はとてつもない美文家であるのよ。そしてこの美しい文章が嫉妬の禍々しさを過不足なく美しく伝えてくれるのだから、なんともいえないすばらしいことなのでしょうね。いやはや、すばらしい作品よ。」
『「どうしたらよかろ」
鼻唄まじりで、童謡の節を口ずさんでみようと試みた。
「もしも水道の水が
インキだったら……」
そのあとの言葉が、舌の奥に引かかって出てこない。奈々子が無事に眠りから覚めることには、彼はほとんど疑いを持たなかった。しかし、彼の口から、鼻唄とは別の沈んだ調子で言葉が出てゆくのだ。
「どうしたらよかろう」
彼はその言葉を、間歇的に繰りかえした。やがて、ギラギラ光る海が、左手に大きく現れて出た。彼は、烈しくまたたいた。』
吉行淳之介「闇のなかの祝祭」
吉行淳之介「闇のなかの祝祭」
2009/01/27/Tue
「この人の情が絡みあって徐々に人間関係を複雑で歪で揺るぎがたく抜きがたくしてく過程の描写は、私にはとてもおもしろく見れて楽しいのだけど、でもこの手のドラマ演出はなかなかもって回った型をとるものだから、人の好き嫌いははっきりしちゃう傾向あるかもかなって思うかな。とくに待ちあわせ場所のすれ違いだなんて、携帯電話の一般化した現代では物語の手法としてはつかわれることまずないものね。その意味で時代を感じさせる描写だったと思うし、この手の行き違いの場面がすっかり物語のなかから一掃されたことは昨今の作品を種々見聞することもなく明らかだと思う。だから今回のお話は今どきの作風では表現しえないやきもきが感じられて、その点でも興味ある展開になってたかなって私は思う。‥冬弥がだんだんと抜き差しならない立場に追いこまれてく過程がよいよね。さいごの由綺がシャワーを浴びてる音を無言で暗い部屋に座ってきいてた冬弥の表情が、この物語の核心。逆にいえば、あの表情の意味に気づけなきゃ、この作品は楽しめない。」
「吉行淳之介は日本には情交があるのみで性交というのはないといった発言をしていたように思うけど、たしかにこの手のドラマを見ると男と女の付きあいにおいては情というものが占める割合というのは馬鹿にならないくらい本質的なものがあるのでしょうね。知ってか知らずか、冬弥は多数の女性から情を向けられる位置にいてしまっているのであり、もはやその情が紡ぐ網からたやすく脱け出ることは不可能なのでしょうね。そしてその網が仕向ける彼へのアプローチは、実際問題、冬弥の意志如何には係らず、ただただ女性たちの思惑によって左右される性質のものである、か。これは恐怖でしょうね。ラストの冬弥の顔色なんて、まったく恐怖する人間のそれそのものよ。」
「冬弥のような人は女たらしというのとはちょっとちがうんだよね。彼は女性が好きで接近するって傾向はもちろん疑いなくあるのだと思うのだけど、でも彼にとって女性はただあこがれの対象であるばかりでなくて、純然たるある種の恐怖を伴った存在としても認識されてる。それは冬弥が理奈の罠にはまったことに感づいたことでもあり、またはるかや美咲から好意が向けられることに対して適切な距離をとることができてない自己を認識する際に感じることでもあり、また由綺のことをほんとはよくわかってもないのに知ろうとすることもできなくて、ただ彼女の意向次第によって貞操さえ奪われちゃう、そんな頼りない力しか自分はもってないということを暗い部屋で彼女の裸体を想像しながら待つときに、意識されることでもある。‥この他者から向けられる情によって拘束されままならない立場におかれることの恐怖というのは、なかなかその感覚と適合するセンスのもち主でないと、見えてこない世界の風景であるのかなって気はするかな。冬弥が実は傀儡であり、そして今回の話で貞操を奪われる役割を果したのが彼であったことを認めるとき、この物語は単なる表面だけでない深い色あいを帯びることになるのだと思う。それは恐怖とない交ぜになった快楽に、泣かされる子どもの物語と、いえるのかもしれないかな。」
「多数の女の情の視線によって絶えず緊張させられ、射すくめられているのが真実は冬弥であるということに気づいたとき、この物語の怖さというのはなかなか強烈なものになるのかしれないかしらね。冬弥はおそらく女性たちのことを信じていたいと思っているのでしょうし、であるから彼女たちを女神とまで呼んでいるのでしょうが、しかしはてさて、そうは行くまいと予想できてしまうのが、ま、この手のドラマの常套でしょうね。由綺も理奈もはるかも、実は冬弥は眼中にないのよ。そしてこの物語を考えてみると、まったくどうして悲劇的な話でさえあるのでしょうね。次回もまた、これは期待するほかないかしら。どうなることか、ま、楽しみね。」
2009/01/27/Tue
「罪人を乗せる船のうえでの一夜の問答。役人庄兵衛は弟殺しで縛された喜助の身の上語りを聞き、己の境遇と照らしあわせ、世のふしぎと個人の生き方と世間での折りあいと、そして人の生死と現実の不合理の一面に思いを馳せる。‥鷗外の「高瀬舟」は、国語の教科書にも採用されてるくらい世に知られた短編であるから、そのあらすじをここで詳説する必要はないかなって思う。多くの人がこの作品を読んでるし、そしてこの物語の伝える機微が非常に答えの出にくいむずかしい問題を提出してることに疑義を挟む人はまずいないと思う。それで問われてる課題は大きく二つあって、ひとつは人の欲望の問題であり、もひとつは安楽死の問題。まず無欲そのものともいえるほど謙虚な生き方を実践してる喜助という存在を見とめた読者は、庄兵衛が感じたこんな人間もいるのだろうかっておどろきと同じ衝撃を、この特異な人物から受けると思う。また苦しみに喘ぐ死すしかない立場にある人間を、慈悲心から楽に死なせてあげるのは、果して殺人として罪に問われうるのかといった、きわめて倫理的な現代でも紛糾する問題が、この作品では次いでとりあげられてる。‥人の欲望と、死の問題。この二つを少ない分量で適宜に書きあげた本作の凝集性は、まさに鷗外の並外れた文才を示してあまりあるのでないかな。このシンプルなエピソードにあらわされてる課題は、ほんとに人という存在と切っても切り放せない本質として具備されてあるものだろうから。」
「まず興味を惹くのは喜助という人間の不可思議さなのでしょうね。親と死に別れ兄弟二人きりで貧しく育った境涯であるのだけれど、この喜助という人物には世間に対する憎しみだの、自分の生まれの運命に対する恨みだのがまったく欠けている。通常このような立場に生まれたならばよほど屈折してもおかしくないでしょうと思われるのに、喜助という男にはぜんぜんルサンチマンなり怨恨なりが払拭されてみずからの状況に泰然としていられるのよね。ふつう人はこうは行かないでしょう。ネガティブな感性というものはだれにでもあるものでしょうし、それに苦しめられるのは凡庸な世間の光景であるのでしょうからね。運命の悲惨には平気でなんていられないものよ。」
「欲望を単純に否定してるわけじゃ、喜助はないのだものね。ここがけっこうおもしろいとこかなって思うけど、喜助は財産をもつことは悪なのだとか、立身出世なんてくだらないぜしょせん人はそのうち死ぬのだしみたいな儒家的な態度とか、そういった思想的背景のもとに無私であれるのでなくて‥喜助が世を儚むみたいな教養を備えた人物でないことは、彼が教育を受けるほどの身分でなかったことからも明らか‥ただただ単純に、私が今この私という立場にあるということは、いってみればそれが私というだけの理由のほかなくて、であるならべつに悩む必要ないよね、みたいなふうに自分の立場を解してるように私には受けとれる。そしてそれは他者に関心を向けるのでなくして、自分ひとりの境遇をまったく自分ひとりの問題として処理してるからであって、そこに世間への怨恨が生まれないのは、喜助が世間や社会といったいわゆる他者を、自分の存在することの責任として見なしてないからかなって、私は気がするかな。もちろんふつう人はこんなふうに自分の欲望をなくしてあることはできない。でも人の欲望というのは、常に他者に向いたものであることを考えるとき、自分ひとりの世話をすればよしとする喜助の心情に思いを致すならば、喜助がただ泰然としてられることも、そうおかしなことではなくなるのでないかな。‥喜助は自分のことだけを相手にすればいい。それ以上のことは、比喩的な言い方だけど、彼は天に任せて放っておく。そういった生き方は、たぶん人の人生の重荷をいくらか軽くするのだろうな。その重荷とはすなわち、人の対世間的な名誉を期する、欲の別名でもあるだろうから。」
「人が何事か欲するとき、そこにはもちろん「私」がそれを望むからという理由もあるのでしょうけど、しかしそれだけの純粋な願いの形というものは、社会的な生活を営む人間においてはほとんど不可能なのじゃないかしらという疑問かしらね。欲望にはほぼかならず自己幻想が絡むのであり、その幻想というのは他者にこう見られたい、私はこういう立場にありたい、そして私は私の欲する理想的な生を送りたいといった、きわめて不自然的なものであるのでしょう。であるから人の欲望というものは、常に過去に向けられる。なぜなら過去こそ、「こうであったなら」という欲望の原因の生ずるところであるのでしょうからね。然るに、喜助は過去を顧みない。弟殺しも宿命として受けとっている。はてさて、この態度は何かしら。喜助には悔恨といったものがなかったのかしら。それが天命だと納得したのかしら。どうも、それだけじゃないようなのよね。果して、それは何かしら。」
『庄兵衛は只漠然と、人の一生というような事を思って見た。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。万一の時に備える蓄がないと、少しでも蓄があったらと思う。蓄があっても、又その蓄がもっと多かったらと思う。かくの如くに先から先へと考て見れば、人はどこまで往って踏み止まることが出来るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気が附いた。
庄兵衛は今さらのように驚異の目を睜って喜助を見た。この時庄兵衛は空を仰いでいる喜助の頭から毫光がさすように思った。』
森鷗外「高瀬舟」
森鷗外「山椒大夫・高瀬舟」
2009/01/26/Mon
映画「交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい」映像を初公開!『これはレントンとエウレカの、もうひとつの物語――。
宇宙より飛来した謎の生命体イマージュと人類の戦いは、既に半世紀に及ぼうとしていた。西暦2054年、ホランド・ノヴァクの指揮下、イマージュと戦う第303独立愚連隊の戦闘母艦・月光号に一人の少年兵がいた。少年の名はレントン。ニルヴァーシュに搭乗し、戦場へと赴く彼の夢は、8年前に連れ去られた幼なじみの少女エウレカをいつの日か助け出し、故郷へと帰ることだった。
だが運命は、レントンとエウレカの小さな恋を試すように試練を与える。使命と感情、真実と嘘、過去と未来、生と死、現実と夢、そしてホランド。二人の前に世界の全てが立ちはだかる。イマージュとの最終決戦が迫る中、二人は神話の扉を開く!』
「映画化には率直にいうとあまり関心なかったのだけど、このストーリーの刷新には一驚を禁じえないかな。上記のあらましだけを見てもテレビ版とはだいぶちがうというのが伝わってくるし、まったくべつな側面からレントンとエウレカの物語を描こうとするその試みは大きな決断であったのだと思う。というのも、テレビ版のほうのストーリーが破綻しちゃってるのは衆目に明らかだし、その原因の最たるものであろう複雑な世界背景を一新するというのは構成の必要上からも妥当な判断であったのだから、この映画がどんな内容になるかは未知数のものがあると考えていいのじゃないかな。‥エウレカセブンの終盤というといろいろ思いだすけど、未だに情報力学とかクダンの限界とか、私、意味わかんないものね。あの自壊しちゃった感じのある背景設定は、けっこう目を覆わしめるものあったといったら、大げさかな。そのテレビ版を乗り越えるという意味で捉えても、この劇場版には注目に値するものがあるのかも。」
「やたらに持って回った奇妙な設定を用意したのが、テレビ版の最大の失敗だったのでしょうね。なるほどそれなりに考えぬかれているというのは十分に伝わってくる設定群ではあったのでしょうけど、しかし作品を動かす原動力というのは、これは悲しいかしらね、今も昔も「物語」という古典的なものであるほかないのよ。それは竹取物語のころから現代のアニメに至るまで変化することはなく、作品を駆動しそこに生命を備えるのは物語という装置に頼らざるをえない。ま、そう極言するのもなんでしょうけど、しかしエウレカセブンの失敗がそこらに関係しているのはほぼまちがいないのではないかしら。」
「エウレカの場合は世界観を中心に据えたかったというのは見てて十分感じられたことだったのだけど、その世界観を紡ぐ言葉があまりに自己中心的に語られるだけで、世界そのものの雰囲気というのが伝わってこなかったのが痛かったかな。というのも‥これはいろいろな分析が可能だとは思うけど‥私が考えるエウレカの失敗しちゃった理由のひとつとしては、物語の次元ではエウレカとレントンの古典的で凡庸なラブストーリーを企図してたのだけど、でもそれを支えるはずの背景世界が陰惨で複雑なこの現実の抱える問題‥宗教問題、戦争、貧困、PTSD、等々‥を表現することになったために、物語と世界観のあいだで著しい乖離が生まれちゃったことが、見逃してならないひずみだったということが挙げられると思う。それはかんたんにいえば、エウレカとレントンの青春を満足させることで目を逸らしちゃいけない問題を、この作品は見せすぎたのじゃないかな、ということ。私は、だからレントンとエウレカが結ばれたというその一事だけで、この作品を肯定しえない気持がある。いろいろ大切なことに目を瞑っちゃったのが、この作品の非難されるべき部分だと思うから。」
「もちろん、そういった困難なテーマにおざなりの解答を与えればよかったということではないでしょう。ただむずかしい問題はむずかしい問題として、悩み苦しむ誠実さを見せてもらいたかった。しかし、ま、今さらいっても詮無きことではあるのでしょう。それよりこの劇場版のほうはなかなか良さそうな雰囲気だから期待できそうじゃないかしら。「ポケットが虹でいっぱい」だなんて、この古くさいセンスがエウレカセブンでしょうね。何か見てみたい気持にも駆られてきたかしら。さて、どうしましょうか。」
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交響詩篇エウレカセブン 第47話~第50話
2009/01/25/Sun
「お話自体はどうということもなくて、ここで雛ちゃんに姉のセックスの現場見させるのも趣向としてはおもしろいかなとは思うけど、でもそこまで描くのはさすがにこの作品の役割でもないかなと思うので、凡庸な展開に落着したのはそう責められるべきことでもないと思う。ただ何かな、こういうの見ちゃうとやっぱり子どもに対する性教育のあり方みたいな問題をぼんやりと考えちゃう傾向が私にはあって、つまるところこんな雛ちゃんみたいな恋愛の行為の常識の欠落した無垢な存在というのは、現実問題今の小学生に当てはめてみてもいいのかなとは、疑問に思う。だいたいレディコミの現状というのは数年前から退屈な過激な女性の抱く性幻想の典型みたいなものの量産に墜しちゃってるし、それをいうなら少女漫画ですら、読者の性的関心のある充足を目指してることは否定できない事実だと思う。ここで私が性的関心の充足、なんて言い方をしちゃうのはどかなって意見があるかもだけど、でもメディアに人が求めるのはたいていそんなだからというのはあって、過去は大衆文学がその責を担ってて今はただその場所に漫画があるというだけかな。性も恋も、大衆の求める形は凡庸すぎるものだから。」
「性的というとオタク的な萌え文化もすぐ槍玉にあがるけれど、レディコミなどのちがいというのはただ単に男性の必要とする性幻想と女性の求めるそれの差異でしかないのでしょうね。ま、もっともその男女間のちがいというのも、現代の状況下では一概に区別できるものではありえないのでしょうけどがね。しかしそういった人の抱く性への関心、つまりはみずからの身体の発する本能の声との付きあい方というのは、社会的な背景や主流である思想やイデオロギー的なものによってさまざまに喧伝されるものではあるのでしょうが、しかし実際の人の生活という問題は思想で大上段に区画できるものではありえないのだから、必然、性教育に求められるものも現実の感覚といったものが要請されるのはたしかでしょうね。ま、その現実の感覚というのがむずかしいのでしょうけど。」
「性の現実での適切な処し方を実践できてる人なんて、どれくらいいるかさえ疑問だから、かな。でもそれは考えてみれば当然で、自分の性的な欲求を上手にコントロールして社会生活を営んでくことは大人に求められる姿勢の基本でありながら、さらに年齢によって変化する身体の問題のコントロールとの兼ねあいもあって、その欲望の処理には人生そのものといえるほどの時間がかかるのだものね。これはむずかしいかな。それというのも大人は快楽というものを快楽それ自体として考えることがなかなか不得手であって、とくに子どもに向って快楽を説くということ自体がけっこうその本来の意味から誤解されてるのが現状だと思う。つまり性というのは愛情というだけでなくて、快楽の源泉という側面はその本質のひとつとして拭いがたくあるのであって、性は快楽であり愛情でもあるという‥そのどちらにも優劣はない‥その事実を直視する必要性が、大人には問われてるのでないかな。倫理的な色づけを施せばそれでだいじょぶだなんて、そんな教育ないものね。でもここは、やっぱりむずかしいことは免れないかも。老人になってさえ性のために心悩ます人が絶えないのは、それが人間の本質であるというにすぎないともいえるのだから。」
「性は人の生き様のそのものである、か。はてさてね。老ゲーテも少女に恋をしたし、サドも精神病院に入ってから年少の女の子に夢中になっていたようでもあるし、さらにナボコフのような例もあるし、本当、性というのはままならないものかしら。しかしだからといって性はただ忌むべき快楽というだけでなく、愛情の本源という使命もあり、また身体の快楽は人の生きる活力のひとつにもなりうるということは、事実であるのよ。そこらの認識というのは一筋縄で行かないでしょうね。さらに実践が伴わなければならないとすればなおさら。ま、はてさてね。性の問題というのは考え出すと、まったく厄介なものよ。それは性には簡単じゃない人の生き方の選択の問題が問われているからでしょうけどね。困難なのも道理かしら。」
2009/01/24/Sat
「私はしっかりした人になりたい、か。‥麦ちゃんがそう告白するのは自分への嫌悪感があるからで、彼女は意外と自分のだめなとこに自覚的で、そこに何等か劣等感を抱いてるのはこれまでの話からでもわかることかな。そしてその自分に対して自信がもてないって認識‥周りの空気を読めない、他者の気持を慮れない、すぐ感情的になっちゃう、等々‥があるからこそ、麦ちゃんの言葉はいつも真率で、そこには他者の賢しい打算や思惑を吹き消す、ある一途な真実味があることは否めないかなって、私は思う。‥これがけっこうおもしろいことかなって思うけど、麦ちゃんはあんがい孤独で、とくに佳代ちゃんがいなくなってからは自分のさみしさを容易にごまかす手段が、言い方がわるくなっちゃうけど、強制的になくなっちゃったから、ある意味彼女の自己嫌悪はより明白な形でもって露出してる。そしてその偽らない本音を身をもって体現してるからこそ、麦ちゃんの前には、なんていうのかな、嘘がつけないしついたとしてもそれは自分の浅はかさを露呈するだけのことだったりしちゃう。だから私には麦ちゃんには敵わないなって思いが、どこかある。それははじめてこの作品にふれてきたときから感じた印象で、そして私がこの作品にこだわりつづけてる理由でもある気がする。私のような誠実でない人は、麦ちゃんみたいな人にはたぶん敵わないものね。それはしかたないことかなって思ってる。」
「ちとせもある意味麦ちゃんの前に敗北してしまったからこそ、今回こんなにあっさり自分の気持に整理をつけることができたのかしらね。もちろんこれでちとせの感情がすべて処理できたのかといえば、当然そう事は単純には行かないのでしょうが、しかしもうちとせは以前のように激しい焦燥感に苛まれるといったことはなくなるでしょう。その契機が麦ちゃんの「駄目な自分の露呈」にあったというのは、なかなかおどろきかしらね。ああいうふうに衒いなく弱さを見せられる人間は、強いのよ。ふつうの人は敵わないでしょう。」
「麦ちゃんの場合、演劇部にそれだけ思いいれがないということもほんとはなくて、でも友だちのためなら自己犠牲を厭わない、むしろそこで自己の保身がぜんぜん念頭にないという態度に出れるというところが、たぶん麦ちゃんのある種非凡なところであるのだろうね。ふしぎだな。麦ちゃんがいう「しっかりした人」って、いったいどういう人のことを指すのだろう。麦ちゃんが思い描く「しっかりした人」というのは、どういう生き方を選択して、そしてどういうふうにみずからの運命を受容しようとするのかな。‥私にはよくわかんない。それは私が麦ちゃんとはあまり似かよってない性質のもち主であることも関係してるだろし、また私にはかんたんに自己犠牲に走れないある種の物事への執着がある。そこから単純に私は免れないし、だから麦ちゃんのような人柄には、なんていうか私とは異なった価値観の人という意味で、とても関心がある。だから、気になるな。麦ちゃんはどんな人になりたいんだろう。どんな人になろうとしてるのだろう。それは麦ちゃんの生き方の姿勢に、それとなく示されてるようにも思えるけれど、でも私には明言できないな。私は麦ちゃんに惚れこんでるから。」
「恋愛でも友情でも、麦ちゃんは自分が引けば自分の好きな他者が報われるという状況にあるのならば、容易に自己犠牲の決断を選ぶのでしょうね。それはそれほど彼女の幸せのためになるとも思えないし、彼女のことを好きな他者もまた浮ばれないかもしれないけれど、しかしそういうふうに自ずから無私の態度に出れる人間は、稀有な魅力を備えているであろうことは疑えない、か。はてさてね。さて、とりあえずは次回を期待しましょうか。いよいよ公演本番かしら。紆余曲折はあったにせよ、どういった内容の芝居になるか、楽しみね。二回目の秋公演だし、注目してみようかしら。麦ちゃんたちがどう活躍するか、興味尽きないことよ。」
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ただ私足らんとする空の姿 「スケッチブック~full color's~」第7話に寄せて
2009/01/24/Sat
チェキ空ブログさん「今だからこそ東方妖々夢と幽々子の話」
『ただ一つ分かる事は、今の幽々子は実に楽しそうじゃないか。
幽々子はあれでいいんじゃないか? と強く思う。
幻想郷ほど危うくない、死んだ人間で比較的善良な霊が、次の転生を待つ場所。
そこを管理出来るのは幽々子だけだろうし、能力的にも性格的にも幽々子みたいな人じゃないと出来ないんだろう。多分。』
「とくに異論というわけでもないのだけど、でも少しいっておきたいなと思うのは、幽々子の魅力というのはその設定の卓抜な点にあるのは疑えないなという点で、つまり幽々子の背景を考えるに当ってはそこに西行法師の存在を慮る必要性があるって私は思うということ。というのも、幽々子が西行の実娘であることは彼女が「富士見の娘」とされてるところから明らかであって‥富士見とは西行が富士を見てる場面のこと。「富士見西行」といえば画題のひとつであるということに思い当るよね‥彼女の立場と能力がどういった情感を湛えてるのかなといった問題は、西行法師の来歴を考えることなしにあってはとうていなしえない。そして西行という歌人の独特の個性を思うならば、その娘という設定を負わされた幽々子ってキャラクターの深みもまた、あらたな見方を伴って呈示されてくるのじゃないかな。」
「西行妖という存在がまず幽々子のことを考えるにおいては当面の課題となるのでしょうけど、これは「多くの人を魅了し、多くの人が永遠の眠りについた」とあることから、実際に西行がその樹のもとで死ぬことを願い歌い、そして実際にその望みを叶えたという事実を指しているのでしょうね。西行は桜の下での死を望んだ。ま、西行忌ということで、これは現代でも有名かしら。」
『願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ』
西行
「「望月」とはつまり「満月」のことで、「きさらぎの望月」なのだから、これは二月の満月の夜のことになるのだよね。そしてこの歌は旧暦のもとで詠まれたのであるから、時日は二月十五日前後ということになるのであって、新暦でいえば三月二十日くらいになるのが理解されることだと思う。さらにいえば旧暦二月十五日は釈迦の涅槃会であって、西行が死んだ日が旧暦二月十六日になるのだから、西行の念頭にこの釈迦の死の日があったことはまず疑えないことと思う。つまり西行は釈迦に自分の死を重ねあわせ思いをこめたのであって、それを鑑みなきゃ、彼の死と上記の歌の与えた大きな意味というのはわからない。西行は、だから、みずからの死をみずからの望みどおりにみずから導いたんだよ。自分の死を自分の手にして、西行は死ねたんだよ。‥そして、これが肝心だけど、その娘とされる幽々子はあろうことか、「死を弄ぶ能力」を与えられたんだよ。これがどれくらい残酷なことか、想像しなきゃ、いけないじゃない。」
「皮肉なのよね。西行に本当に娘がいたかどうかは、西行の実生活の記録がほとんどわかっていないのと同様、たしかな証跡というものはまだないのだけれど、しかし多数の文献が伝えるところによれば、西行は保延六年二十三歳のときに出家し、その後全国を経巡ってるのだから、娘がいたのならば当然それを捨てての旅だったのでしょうね。「西行物語」には娘との再会のエピソードも載せられてはいるのだけれど、しかしこれはおそらく史実ではないでしょう。とすると、世を儚んだ当時の大勢いたであろう出家者の近親と同じく、西行の娘のおかれた孤独も予想できそうなものでしょうが、ただむずかしいのよねこれは。しかしだれからも捨てられ孤独に置かれた子が、死後の世界で陽気に冥界に暮してるというイメージは、何か寒々しいものがあるのよ。それは何か悲しいのよ。滑稽で、どこか愚かしいのよ。そう思わないかしら。」
『花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける』
『世をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ』
『いつかわれこの世の空を隔たらむあはれあはれと月を思ひて』
『見るも憂しいかにかすべき我心かゝる報いの罪やありける』
西行
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西行の娘の悲しみ
2009/01/23/Fri
「妊娠というのはむずかしい問題で、基本的には安定期に入るまではそこに他者が介入すべきでないとてもプライベートな問題であるのだから、生むにしろそうでないにしろ、それは家族が考えるべき事柄であって身内以外のものはただ秋生さんがいうとおり、夫婦がくだした決断を受けとめるだけの覚悟をしていればいいのだと思う。だから妊娠とか出産とかそういった問題には、儀礼的に無関心の態度をとるべきであり、そうすることはわるくない世間の常識であるのじゃないかなって思うかな。‥でもただ微妙に気になることはいくつかあって、そのひとつとしては、朋也と渚、たぶんあなたたち避妊のこととか考えてなかったのじゃない? って思っちゃう部分かな。なんていうか子どもを作るなら作るでべつによろしなのだけど、でも渚には自分の健康って重大な課題があるのだから、まずはその部分に適切な方法で克服なり対策なりをしてからあらためて子どものことは考えたほうがよかったのじゃないかな。でもたぶんこの二人って、見るからに両者とも依存気味であるから、セックスのときとかその場の気分ですごい盛りあがっちゃって避妊とか蔑ろにしちゃったのだろな。‥とかいう私、たぶんいい過ぎ? でもたぶんだれもいわないとこだろから、私くらいはいっておこかな、みたいな。」
「避妊の問題とかいうとなんかアニメの感想してる雰囲気ではなくなるけど、ま、日本の中絶の高さは少し異常なものもあるから言及しておいたほうがいいのかもしれないかしらね。もちろんこの領域の問題はいろいろ議論されてきてはいるのでしょうが、しかし実際有効な性教育が実現されていないから、若年層の妊娠や中絶の問題というのはけっこうおどろかされる部分があるのでしょうね。当然この作品で渚や朋也がもっと意識が高かったらとかいえば、それは物語というものをおもむろに否定するものになるでしょうから、そんなところまではいわないけれど。ま、微妙よね、この問題は。」
「遠藤周作の小説で堕胎の仕事ばかりしてやさぐれてる医師の人物がいたことを思いだすかな。それに街のお姉さんとかの話を聞く機会があったりすると、現場が知れてけっこうおもしろい。あとは吉行淳之介も売笑婦の姿を描くから当然そこらの事情に筆を走らせることがたまにあったりで、この問題は世間的には表面だってあまり語られないことであるけれど、でも人の実際の生活感覚としては、決して絵空事でない大きな問題であることはたしかだっていっていいのじゃないかな。‥中絶の良し悪しを云々するのはむずかしい。なぜなら妊娠にしろ堕胎にしろ、それは基本的に個別の問題であって、個々人に起る事例を十把一絡げにして是非をくだすことが愚かしいのは、いうまでないことであろうから。‥でも新しい命の問題がある。新しい命の権利の問題がある。中絶にしろほかの性的問題にしろ、日本人はもっと議論すべきなのかもしれない。でも、この領域は合理的にだけ割り切れるものでない。人が生きるということは、だって、理屈以上のことなのだから。」
「渚あたりは新しい命への倫理意識が少し狂的なまでに高いから、どうも周囲の人たちは大変でしょうね。母体を思えばおろしたほうがいいという場合でも、渚は、なんていうのかしらね、自分のせいで子どもの将来の可能性の芽を摘むことを、極度に嫌うのでしょう。それが良いかどうかはわからない。というか、もはや善悪の問題ではないのでしょう。はてさて、微妙な展開に突入してきたことね。ここからがクラナドという作品の本領であるのでしょうけど、考えるにはとても繊細な思考が要求される部分に入ってきたかしら。ま、とりあえず成行を見守りましょうか。次回は、さて、どうなるかしらね。」
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遠藤周作「悲しみの歌」→
柊小学校恋愛くらぶ 第13話「恋愛開始!」→
柊小学校恋愛くらぶ 第14話「男と女」
2009/01/22/Thu
「思わず見入っちゃった。なんなのだろう、この完成度。今回ほど大河のもつひりつくような感性と孤独の発露‥北村だけでなくて結果的に大河も直接的に失恋してるのが今回の話。北村は泣くけど大河は泣かない。泣かない代わりに北村のために拳を握る‥が、激烈に表現された回は過去なかったと思うし、原作においてもこのエピソードはいろいろ転回点となる重要なものであるから、まったくすばらしいの一言で全体を評していいのじゃないかな。竜児のモノローグと、そして大河の躍動が対比的に描かれてるのも作中の機微をつけるのに役立ってて、非常に画面に引きこまれる魅力を十二分に湛えてた。とても素敵。こんなよくアニメ化するだなんて思ってなかったな。ほんとにうれしい。このアニメのおかげで、私は以前よりずっと「とらドラ!」に愛着をおぼえるようになったかも。それくらい、このアニメはよくできてる。私の感性に、適合する。」
「表面上は北村の失恋が中心に描かれているのでしょうけど、しかしその実体としては手ひどく失恋している大河のあまりに健気な北村への愛情の動きというのが見れて、その心中を察すると報われなくて辛いものがあるかしらね。大々的に告白してすげなくされた北村も哀れといえばそうなのでしょうけど、告白する以前にその恋が完全に駄目になった大河もまた重く心に影を落すものがあると見るのは自然でしょう。本来なら深く沈むところでしょうに、大河の場合は好きだった北村のために一肌脱ぐという、会長を殴るという役を北村に代わってやってしまうのよね。なぜこうも、大河という人間は実直なのかしら。」
「彼女の一途さはあまりに明白でずっと切ないね。‥たぶんなのだけど、大河はほんとに自分の北村への恋情が実るということを信じてたのかなといえば、私は彼女はだいぶ前から北村と恋仲になるだろう可能性には懐疑的だったのじゃないかなって気がするかな。それというのもお父さんへの信頼が崩れたときに、彼女はもう現実と理想の不一致というのをよく承知してたはずだろうし、それに大河は聡いから、自分の性格の欠点やだめなとことかもけっこう自覚的で、単純に自分の恋に楽天的であったろうはずはないのじゃないかなって、私は思う。‥自分の望みは、そうかんたんには叶わない。そしてそれは凡庸な現実でもあるのだから、ふられる、という事態自体はそう珍しいものでない。でもだけど、ただそれでも、ゆるせない納得しがたい現実のある側面というのはあらわれることがあるもので、そしてそれが自分の好きだった人への思いが乗せられているならなおさら、看過できないものというのがあるのは、当然だっていって、いいと思う。そしてそれはまちがいなく、彼女のやさしさの証明だった。‥大河はやさしいね。そして美しい。大河の弱い繊細な感受性は、この冷たい現実のうえにひそやかに咲く、花のような美しさがあるって、私は思う。それは弱さかもだけど、でも、逆説的な強さをも意味するであろうって私は信じるかな。だって、世界はそんな弱い花の存在を、まちがいなく認めてあるのだろうから。」
「大河は賢くなったほうがいいっていうけれど、大河のもつ不器用な弱さはそれはそれであるとても大切な人間の本質を意味しているのではないかとも思えてしまえるから不思議なのよね。人は強く賢くあったほうがいいと思うかしれないし、そしてそれは明らかに世間的な成功を収めるには必要なものかもしれないけれど、しかし思うのは、世界の美しさは強さだけではなく弱さによっても表現されていることよ。坂口安吾は、自分の弱さを大切にすることが必要だみたいなことを述べているように思えるけれど、はてさて、その読みはまちがいなのかしらね。しかし、弱さを滅却する賢さは、つまらないものよ。そう思うのは、決して悪くないことじゃないかしら。」
『人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、このほかに花はない。』
坂口安吾「恋愛論」
2009/01/21/Wed
「鷗外の「ヰタ・セクスアリス」は、当時、性風俗壊乱の罪で発禁をくったいわば問題作として世間に受けとられたわけだけど、今日的な意味での性的な描写がそこに見られるかと問えば、それは当然時代がそうとう隔たった現代であるから今の人が本書を読んで劣情を催され云々なんてことはありえないよねといっていいと思う。それに当時においてさえ本書が単純な性欲の描写に終始してるのかなといえば、それは鷗外先生のこと、巧みな自己検討と心理の移り変わりへの観察の炯眼は稀なるものであるのだから、この書は現代においても変わるとこのない人の心理のある一面を抉り出したものであることは疑えないかな。それは本作品の主人公として描かれる、金井湛の個性にひとえにあらわれてるといえるのであって、金井はその時代の状況にあっては並ぶものないほどのインテリエリートであるのだけど、でも自分の面貌が冴えないって自覚にいつも心重くしてる人であり、醜いがために自分は恋愛とは無縁だなってある種諦念を抱いちゃってる人でもある。そうするとその手の人の型というのはだれもが美人に生まれつくはずのないだろうこの世のなか、かならずいるにちがいないタイプのひとつであることはまちがいないといっていいよね。だからそうして考えてくと、本書の魅力はまったく色あせてなくて、また現代的なシーンにおいてもつよい意味のある作品であることがわかると思う。」
「金井は自分の姿形が優れているという思いはなく、むしろ反した思いで気を重くしてそれに少々引け目をもっている人間だといえば、なかなか理解しやすい人間像にはなってくるのでしょうね。そしておもしろいのはこの人物は性欲というものをそれほどみずからに感じたことがないと告白していることであり、そのため自分の面の悪さもあまり気に病んではいないふうに描写されているところが複雑な人間の性格の反映として読まれるべき部分ではあるのかしら。金井は面貌の悪さで損をしているという自覚がある。しかしそれは単に華やかな恋愛から疎外されているという気持であり、性欲的な面においてはある意味どうとでもなると泰然としているのよね。これはなかなか興味深いことかしら。」
「金井は恋愛と性欲はべつものだって分けて考えてる節があるよね。恋愛は恋愛それ自体として美しいものであって、さらにそこに性欲が関係するからなお映えるものであろうという哲学を金井は心中に抱いてる。でもその恋愛‥空想的で非現実的な小説にロマンチックに展開されるような‥はまったく自分には無縁であって、金井はその現実をしかたなしに認めてる態度がそこかしこに読みとれる。でも奇妙なのは、彼の実人生には自分はとくにかっこよくもないなって思ってるくせに、けっこう男女関係の機会というのは折節訪れるのであって、それに対して金井は半ば潔癖的にその接触を厭うことなんだよね。金井は自分は見栄えのしない女性相手の務まらない男‥今ふうにいえば非モテかな‥だって自覚が歴然としてあるのだけど、でも実際に当の機会に恵まれたときに彼の果す行動は、自分をきれいなままにしておこうっていう、汚れを嫌忌する童貞の誇りまたは潔癖さのようなものだった。‥性欲って何かきたない、性的な営みって何か気持わるい、そういった思いが金井にはつきまとって離れなかったみたいで、そこから彼は自分を性欲のない男かもって判断を下すのだけど、でもこれを読者はどう見るかは、なかなかむずかしい問題があるんじゃないかな。私には童貞ないし処女の「汚れたくない」って意識には、何か欺瞞があるようにも思えるけれど、でもそれを単なる表面だけの臆病さと解するには、どこか躊躇しちゃう部分があるのもまた事実のように思えちゃう。「ヰタ・セクスアリス」の提起する問題は、だから現代でも依然として課題とされるべき、ある重さがあるにように私には思えるかな。恋愛と性欲の人にもたらす混乱は、いつの世でも変わらない人間の本質があるのかなって、私には思えるから。」
「恐るべきは鷗外のこの心理の検討の仮借ない誠実さなのでしょうね。自己の内面を観察し分析し、それを実地に筆に成す手腕の強さは、さすがに鷗外の文豪たる所以を示して余りあるのでしょう。そしておもしろいのは、この金井という主人公のどこか超然とした振舞いにあるのでしょうね。彼はインテリではあるがそれを鼻にかけることもなく、いってみればそれが彼の自然体であるからそうなのであるというふうであり、であるから性的な問題にもこの主人公は実に本来的な係り方をしているのよ。この主人公が理解できるかどうかは、なかなか人を選ぶでしょうね。何かとてつもない孤独を秘めた人間のようにも思えるけれど、はてさて、どうかしら。この作品ほど多用に読まれる小説も滅多にないでしょうね。中篇程度ながら裡に備える深みは、まったく計り知れないものがある作品よ。」
『僕はどんな芸術品でも、自己弁護でないものは無いように思う。それは人生が自己弁護であるからである。あらゆる生物の生活が自己弁護であるからである。木の葉に止まっている雨蛙は青くて、壁に止まっているのは土色をしている。草むらを出没する蜥蜴は背に緑の筋を持っている。砂漠の砂に住んでいるのは砂の色をしている。Mimicryは自己弁護である。文章の自己弁護であるのも、同じ道理である。』
森鷗外「ヰタ・セクスアリス」
森鷗外「ヰタ・セクスアリス」
2009/01/20/Tue
「各人の思惑がそれぞれに作用しあってきて複雑なドラマの予兆を思わせる構成はお見事。たぶん次回あたりまでが導入部でそれから次第に冬弥は抜き差しならない状況に追いこまれてくのかなって思う。そしてそれは端的にいえば女に溺れてく状況というふうにいえると思うけど、でも今回のお話でもそれとなく示されたように、冬弥ってほとんど自己主張をしない人であるのだよね。理奈さんにマネージャーやらないかっていわれたときも、由綺のアプローチにも、そして英二さんの手によって理不尽に首にされたときも、彼は諄々と周囲の状況に従うだけでそこからどうにか自分にとってよい方向に打開しようって意志が見えない。そこが冬弥のふるまいに視聴者がやきもきしちゃう要因だとも思うし、またこの彼の空虚さがただ女性との交際ってその一点において満たされてるのが現状であるって事態でもあり、たぶんそれがこの物語の混迷する理由なのだと思う。趣味とかたぶんなさそだものね。冬弥にあるつよい思いはたぶん父親への反発と意地、それだけであって、彼は由綺との交際もそれほど大切に思ってるわけではないように見えちゃう。もちろん、それは冬弥だけのせいではないのだろうけど。」
「みずからの空虚さを女性で埋める、か。ま、その空虚の理由は何かと考えれば、それは冬弥の人生なり生い立ちなりを見てみなければ判断しようもないでしょうが、しかし自分の存在に確たる決意がもてないために周囲の状況に漫然と流されてしまうということは、そう珍しくもないよくある人の型をあらわしてはいるのでしょうね。あんがい冬弥の居場所のなさというか、不安定で自分自身について浅慮な態度の理由は彼の家庭環境に、それも母との関係にあるような気もするのだけれど、ま、それは本編で言及されない限りは推測の域を出ないでしょう。とりあえずいえるのは彼のような人に理奈はともかく由綺は荷が重いだろうということね。理奈のように積極的に引っぱっていける人なら、もしかしたら冬弥の受動的な性格もそれほどマイナスには働かない気もするのだけれど、しかしはてさて、そう簡単には物語は転ばない、か。」
「由綺の冬弥への傾倒ぶりは、少し危険な雰囲気も感じちゃうかもというのはあるから、かな。‥というのも今回のお話で、冬弥と由綺が高校からの付きあいであることがわかったけど、この二人がいったいどんなふうにして相互理解を深めてきたのかなって疑問はなかなか微妙な様相があるように思えちゃって、少なくとも私には彼らが真実互いを親しみあって気楽にあれる関係性にあるようには率直にいって思えない。それはこの二人のあいだには、なんていうのかな、ある種の重さがあるように印象を受けるからで、それが生みだすぎこちなさがはるかや美咲、そして理奈さんにまで冬弥につけいれられちゃう、隙のほんとの原因なのじゃないかなって気がする。‥理奈さんがこっそりと、由綺にひみつで冬弥との接触を図ったのが印象的だよね。嘘は両者を私的な関係へと区切らせる。嘘の共有が馴れあいのはじまりで、そして隠しごとの存在は他者の疎外を生むといっていいかな。冬弥は私には、いろいろな人たちとのそんな嘘の共有を次々と打ち立ててく未来があるようにみえる。そしてそれは、彼の孤独の確立でもある。その孤独によっておそらく彼は滅ぶのだろな。次回も、楽しみ。」
「嘘にしろ陰口にしろ、それらはその本来の性質として閉じた性格をもつものといっていいのよね。だれかの悪口を隠れていうとき、その悪口をいうもしくは聞いたものは、必然的に閉じた関係性とその権力に従属するすることを要求される。それはすなわち嘘や悪口を共有したものは、陽に当らない隠然とした関係性の枠内に入るというもので、その関係性がもたらす隠微な快楽は、往々にして人を破滅させるほどのトラップであるのでしょう。秘密や陰口は目先のちょっとした快楽のように思えるけれど、しかし実体は、まったく恐ろしいものよ。はてさて、平和に行きたいものだけれど、この作品はそうも行かないのでしょうね。さて、どうなるかしら。」
2009/01/19/Mon
「戦国時代から江戸期にかけてのキリスト教伝来とその迫害の様子に対して、一定の感心をもちつづけた遠藤周作だったけど、遠藤の興味のあるつよい一点に日本において受容されたキリスト教は、本来の西欧が意図したキリスト教でなくていわば日本流にアレンジされちゃう傾向があったという部分におかれてたことはまちがいないと思う。これは遠藤は「沈黙」や「銃と十字架」のように、史実を借りた長編で表現もすれば、「十一の色硝子」のように現代を舞台にした宗教のあり方を問う短編でもくり返し問題にしてる。でもそこでひとつの疑問が読者にはあらわれるわけで、それじゃいったい日本ふうにアレンジされるキリスト教とはいったいなんなのかな、また日本の何が西欧の根幹的でおそらくもっとも布教に熱心であったろう伝道者たちの意志さえとりこみ変貌させることができたのかな、といった謎が浮びあがってくるのは必至だと思う。‥日本の伝統的風土の何がキリストを変化させたのか。その具体的、実証的アプローチを行なったのが「日本教」のテーマのもとに書かれたイザヤ・ベンダサンの著作のうちのひとつ、「日本教徒」になるだろうかな。日本の精神性の語られざる核心の問題、それが本書で詳述される興味ある内容といっていいと思う。」
「日本人を無自覚的に律している思想とはなんなのか、それをベンダサンは日本教と呼び、そしてそれを本書ではキリスト教伝来に際してその宗徒となり、その後、棄教した当時最高の知識人のひとりであったろう不干斉ハビヤンの生涯と著作を分析していきながら、日本人の基本的なあり方と哲学の骨格を析出していく、その興味あるアプローチが本書の中心内容といっていいのでしょう。ハビヤンはもともとは儒家であり、のちにキリシタンとなったのであって、その後は儒も仏もキリストも神道も否定していきながら、現代の日本人の態度そのものといっていい、宗教なき個人のあり方、一見して無宗教で無思想な日本人の性格をその身に備える。たしかに今の日本人も個別に問えば、とくに信奉している宗教もなければ特定の思想の持主であるとも公言しはしないでしょう。そしてみずからに宗教も思想もないことを科学的で平和で偏見のない自由な幸福なあり方だと認識してるのが日本人であり、それに疑いももたないのでしょうが、しかしそれは本当に「無思想」であるのか。そこが大きな問題なのでしょうね。」
『「教へ」は自由意志でないから、人がその教えを選ぶか撰ばないかはありえても、その逆はありえないはずである。したがって、教えに従って殉ずるか否かをきめるのは人間の側であっても、「教へ」の側ではありえない。その考え方は結局、人には選びはありえても、神には選びはありえない、ということである。従って日本人には「神の選び」という考え方は皆無であり、選びはすべて人の側にある。従ってどの神を選ぶかは人間の自由であり、ここに、人間が絶対者であって、神は選びの対象にすぎないという結果となる。いわば「神」は方法論なのであって、尊重さるべきものは人間という概念である。この点でも、ハビヤンと現代の日本人の間には差はない。』
イザヤ・ベンダサン「日本教徒―その開祖と現代知識人」
「信仰の自由という概念があって、それはどの宗教を選択しようとそれは人の勝手だよねって立場がまず自明としてあるからいえる思想であることを、たぶん多くの日本人は指摘されるまでほとんど意識しないことと思う。でも信仰の自由という場合、そこには明らかに「神」よりも「人」を高位におくって考えがあるのであって、それがなかったなら権利の主体が自分にあるということはまず思えないものね。そしてこの人間絶対主義ともいえる考えが日本人の基本的な思想の性格を表現してるっていえるのであり、宗教が日本人にとってなんとなく楽しければそれでいいじゃないみたいな立場‥クリスマスも盆も正月もイベントだから楽しめればそれでいいよねとか、試験前に神頼みに行ったりとか、病気になったらお百度参り踏んだりとか‥にあるのは、人間が神に優先する、そしてそれは人の存在を神の気ままによって左右されるのは何があってもが肯んじえない日本人の思想的態度の基盤があるからにほかならない。つまり日本人を支配してるのはそういった人間主義的な意識であって、さらにいえば、それは日本人独特の自然観にあるのじゃないかということを、ベンダサンは論を展開して詳述してる。‥ここでいう自然という言葉、これは自然に生きろとか、無理しないで自然のままにあったらとか、自然に伸びやかに子どもは育てればいいよねとか、そういった意味での自然であって、でもここでいう「自然」が、実は普遍的なものでなくてただ単なる日本の風土のみに立脚した価値観にほかならないのだとしたら? ‥日本教の要諦は、たぶん、ここにある。自然が自然でないという認識が、日本人には徹底的に欠けていたのであろうから。」
「自然に生きろといった場合、その自然が意味するのが実は日本人の伝統に立脚するものでしかないという事実認識の有無がいわれているのでしょうね。自然にあればいいといったような言説をよく考えたとき、この意味する自然というのは万物全体がそれであるところのものを指すのでなく、単に日本に限定された人間観の表現だとは考えられないかしら。なぜなら自然という言葉が世界どこでも変わらない生の人間の状態を意味するとしたならば、それは普遍的な意味性を自然という言葉が有するということになるのであり、ひいては日本的思考の絶対主義につながるのよ。ただしかしこの間の事情を、体系的に分析的に論じてこなかったのが日本の歴史であり、それは裏を返せばこの自然観が、弁証的な論を展開する資質とは反対に伸びる性格をもつ哲学であったからだった。日本の限られた、しかし無自覚な思考のスタイルが何かといった問題は、やはりひとつの興味深甚な課題といわねばならないでしょうね。現代においても日本人の思考のオリジナリティは、さまざまな場面で散見されるものにちがいないのでしょうしね。」
『普遍主義は、それを伝道しようとしまいと、一つの絶対主義である。そして絶対主義は常に他のあらゆる思想を否定する。従ってハビヤンはキリシタン的普遍主義に基づき、『妙貞問答』においてまず仏教と神道を否定したわけだが、ついで、『破提宇子』において、その否定の論理でキリシタンをも否定したわけであった。そして、この否定の背後にある普遍主義が、「ナツウラへの教へ」であり、その中心にある概念いわば一つの絶対者が「自然」であった。この状態を現代の日本人は、「無神論」もしくは「科学的」と呼び、その状態にある自分を「無神論者」または「無宗教」という。そして日本人が無神論という場合、それは常にこの状態のことであり、これ以外の状態にある無神論を、彼らは、想像すら出来ない。そしてこの基本となっている考え方は現代においても何の変化もなく、日本人は「自然」という土台の上に「人間いう概念」を支点として立て、その支点に天秤をおいてバランスをとる、という状態にあることは『日本教について』で詳説したから再説はしないが、同じ状態は、すでにハビヤンに見られるわけである。そして日本人は、当時から現代まで、「自然」という言葉が、全人類を律しうると考える一種の普遍主義者として生きてきた。この自然は、全人類を支配する絶対的秩序だから、人はその前で「無心」でいればよい、と。そしてこの考え方は、おそらく日本人が、この「自然」とは実は自分たちだけの「伝統」乃至は「伝統的生き方の基本」だと明確に意識するまで、つづくであろう。』
イザヤ・ベンダサン「日本教徒―その開祖と現代知識人」
イザヤ・ベンダサン「日本教徒―その開祖と現代知識人」
2009/01/18/Sun
「かずまこを先生の作品は雑誌で読んだときからとくにお気に入りで、一冊にまとめられるのをまだかなまだかなーとまってた身としては、今回の単行本はとてもうれしいものあるかなって思う。内容は教師と生徒の純愛もので、読み返してみて思ったけど、これは幾度の恋愛を経験しながら真実人に溺れるほど好きになったことがなかった大人が、子どもの真率な感情にふれて、はじめて理性を揺るがせられるほどの、存在を揺さぶられるほどの、激しい恋心をおぼえるって流れが、この作品の主題なのだろうね。‥このことは私も何度かいってきたことかなって思うけど、恋愛感情というのは世間にいわれてるほど確固とした普遍的な感情でなくて、恋愛って現象や心理の働きを物語や本で読んで知ってはいても、それが実際に自分に訪れるものであることを信じてる人は、そうあんまりいるものでないんだよね。この間の事情はだれかを好きって感情に無自覚的であるというよりは、ほんとに恋愛感情ってなんなのかなってその存在を知らずにいるという状態を指すのであって、恋愛ってさっぱりわからないという人はたぶん少なくない。そしてそれだからといって人は焦ったりもしないもので、ふつうに他人に話をあわせながら恋愛というか恋愛とも呼べない付きあいをこなしてくのが、けっこう世間に見られるだろう生き方のひとつなのじゃないかな。恋愛というのは言葉でわかるものでないものね。だから恋愛を語る言葉は、いつもどこか宙に浮く。それはしかたないことであるのかな。」
「恋愛がわからないという発言は、恋愛をわかっている人間からすれば、はてさてともいえないほどの言葉であるかしれないかしらね。しかし、ま、何かしら、人というのは恋愛がわからなくても生きていけるものでしょうし、恋愛をしなくても生きていけるから世の中はあんがい平和に回っているのかしれないけれど、ただ恋愛の激しさというかその個人の全存在が一点に向うような強烈な体験のもつ意味性というものは、何かとんでもないものがありそうなのが恐ろしいところなのでしょうね。恋愛を経験できるかどうかは、ま、世間ではいろいろいわれるでしょうが、ぶっちゃければ運の問題よ。容姿の美醜も、性格の良し悪しも、実はほとんど問題じゃない領域なのよ。しかしかといって納得もできないでしょうが、ま、納得しなくていいことでしょう。恋愛がわからない。いつかわかるときが来るか、もしくは来ない。ま、そんなものね。」
「世間の話は世間の話というだけで自分の私的な生活には関係ないし、自分というのはたいがいの人凡庸なものだし、だからそこで行なわれる秘事もまた地味な形をとるのは自然の成行ではあるとはいえるから、かな。つまり恋愛というのはその本質としてただ個人の限られた孤独の領域においてほか語られるものでないとはいえるのだけど、でもその本質としての実態‥恋愛はただ「私」においてしか語られないし、体験されるものでしかないという事実‥は、世間的にメディア的に語られるものとはしばしば位相を異にするものであって、だから恋愛は対外的に語られる姿と内在的に経験される姿はそうとう隔たった印象を与えて然るべきなのだと思う。でもそのことを理解するのは恋愛感情の動揺に曝されてはじめて感得できるものなのかなって気はするし、それはあまり表立って語られる類の言説でないのかもしれない。だって、愛は人を変える。なぜなら愛は激震だから。そしてそういった愛のもつ威力のなかに、個人が世界を凌駕するある瞬間があることを、卑小で狭隘で救いがたい塵埃のような存在である人間ってニヒリズムを超克する現実があることを、私は夢想するにやぶさかでないかな。‥つらつらと書いたけど、そんな私の考えは、このかずまこを先生の語る仄かな物語のもつある強さに、少しでも色添えてられるものであってほしいなってちょっと思う。‥作品のお話の詳細はいわないよ。ロマンスの中身を明けるだなんて、そんな野暮はプラトンパンチをくらへーだから、本作はぜひ手にとってみてもらいたい。こういうの私は好き。大好き。恋の実りは、よきものかな。だってそれはとてもとても美しいのにちがいないのだろうから。」
「恋愛はいろいろな形で語られるし、語られてきたものであるけれど、しかし実際それは各々の個人が実地に平凡な人生を企図して生きていく過程をもって示されるのでなければ、おそらくは嘘になるのでしょうね。ま、本当に味わい深い作品よ。恋愛がどのように人生の契機としての意味をもつか、その機微が実に繊細に描写されていて良いかしら。恋愛における感情の問題のほかに、性の問題と籍の問題にも多少ふられているのは、実に誠実なことだと印象をおぼえるかしらね。もちろんここらの複雑な恋愛の社会的な背景の問題は、そう簡単に語ることのできるものでもないのでしょうが、少しずつ思考を進めていくほかないとはいってよいでしょう。恋愛を人がどう体験するか、その淡い一幕が本作品の魅力でしょう。非常に素敵な完成度よ。少しうれしくなるくらいかしら。」
かずまこを「純水アドレッセンス」
2009/01/17/Sat
「殴りあいをしてくれるのはよいけれど、でも当麻のイマジンブレイカーはやっぱりどこかぜったいにおかしいのでないって思うかな。というのも、イマジンブレイカーが能力を問答無用で打ち消す能力だと仮定して、さらに無効化できるのは能力そのものであって能力が起したあとのいろいろな反応には効果が発揮できないものだとするのなら、今回、アクセラレータがベクトルをいじって起した線路をぐにゃぐにゃにしたりだの爆発を発生させたりだのプラズマを形成したりだのの、そういった能力によっての反応が打ち消せないのはわかるけど、でも当麻は以前美琴の能力によるレールガンや蹉跌の剣を打ち消せちゃってるのだよね。もし能力そのものしか無効化できないのなら、美琴の能力の直の発露である電撃は打ち消せても、その電撃の起した反応であるレールガンは打ち消せないだろうし、またレールガンが無効化できるのならそれは能力が起した連鎖的な反応も打ち消せることになって、アクセラレータのプラズマとかも無効化できなきゃいけなくなる。でも作中に描かれた実際はそういうことになってないから、道理があわないなと思うわけで、うーん、イマジンブレイカーはよくわかんないね。何が打ち消せて何が打ち消せないか、その基準が見えないから無敵にみえちゃう。さいしょから反則的な能力を主人公がもってると、その活躍のさせ方描き方はむずかしいものがあるだろなって思うかな。」
「設定の根本たる魔術なり超能力なりを無効化だときてるのでしょうしね。なかなか扱いに難儀な設定だと思うし、どこからどこまでが異能力の範疇に入るかは、けっこう議論かまびすしくなりそうな話題かしら。それになんていうか、美琴の電撃によってのレールガンが打ち消せたとなると、あの風車の回転なども同様に無効化できなくてはいけないのではないかしらね。ま、そこまで行くと何がなにやらわからなくもなって、イマジンブレイカーがもっとも意味不明な存在だと断定しなければいけなくなるのでしょうけど。よくわからない存在ね、本当に。」
「アクセラレータが無敵になりたいっていうのも、正直私にはよくわからない考え方であるから、このエピソード全体の意味や意義がどこにあるのかなといった問題も不明瞭なまま物語が進行していった観があって、ドラマとしての盛りあがりには少し欠けた部分があったのでないかなって、この話を総括して私は思うかな。アクセラレータがだれをも寄せつけない強さがほしいっていっても、それはけっきょく他者と相対しての集団のなかでの強弱にほかならなくて‥レベル云々いってるのがそのよい証拠。他者ありきの自己評価なのだよね。そんなの意味ないじゃない‥アクセラレータが強さを求めるのはたぶん彼の屈折した心理の抑圧のためなのだろな。とくにアクセラレータの表情の歪みがそれを証してて、彼にはそうとうの無意識のストレスがあるなって感じる。ここの作画は印象的で、アクセラレータが余裕ない立場におかれてることがその立ち居ふるまいから鮮明に見てとれるのはよかったと思う。何が彼の過去にあるのかな。そこが問題の本質だと思う。」
「強さばかりを希求するのは、その裏に弱さへの明確な自覚と嫌悪があるからで、今の自分が嫌いだからこそより良い自分を志向してしまうといったことかしらね。ま、これは単純な心理分析にすぎないけれど、しかし強くなりたいという場合、強くなるのには自分の弱さを破棄しなくてはならないのよ。しかし自己の本性などそう簡単に変化するものでもありえないのだから、強くなるという試みは往々にして弱さの抑圧と蔑視に終りやすい。ま、はてさてね。そう強弱にばかり目を向けなくてもいいとは思うけれど、しかたないのでしょうね。しかし強くなりたいとは、結局他人のことが気になってるだけなのよ。他人の自分を見る目が、ね。それはけっこう不幸なことよ。」
2009/01/16/Fri
「家族を持て、だものね、この作品の基本的な思想的立ち位置というのは。それが現代の、しかもこの作品の主な視聴者層たるだろうオタクたちにとって、どんな意味性があるのだろと思うし、また家族という言葉が示すところのものは世代によってそうとう異なってくるものであるから、本作のメッセージ性が実際どこまで現実的に有効であるかは、私はけっこう疑問かなとも思うかな。というのも、たぶんクラナドが説く人生の艱難辛苦を共に乗り越えてくための伴侶としての家族の姿というのは、ある意味新聞の社説に出てきてもおかしくないほど保守的な家族の理念をあらわしてるものであるけれど、でもそういった家族像‥つまり結婚と家庭と幸福が、間断なく連携してる人生のヴィジョン‥は、現実問題今の若い世代においては崩壊しちゃってるのじゃないかな。もちろんここの議論はきわめて現代的な問題としてさまざまな形で表出されてるものではあって、かんたんに概略をまとめるのは乱暴かなとも思うけど、でもこの作品のメッセージの思想的性格は私にはどこか非現実的な空論を述べてるだけのようにも思えちゃって、それがなんだか違和感をおぼえちゃう理由なのかなって思う。何か変だよね、この作品。何が変なのかな。」
「素直に画面を読みとるならば、いわんとしているものは人は大人になったら恋人をもち、ゆくゆくは結婚し、そして勤勉に働いて社会的なステータスを確固としたものにしろ、というものだとしてもそう的外れではないのでしょうね。実際、作中で描かれている朋也は学生時代は不良だの呼ばれていたけれど、もう今ではどこまでも真面目な、どこへ出しても恥ずかしくはないだろう社会人になってしまっているのだから、何か皮肉な匂いを本作に感じてもこれは穿ちすぎではないのでないかしら。しかも子どもまでできたのだし、なんだかあまりに順調で、あまりに理想的で、そしてあまりに退屈な話であることよ。べつにそれが悪いわけではないのでしょうがね。」
「むしろすごくよいこと、と、世間の人はいうかもかな。でもどこか変じゃないかなって思うのは、この物語がけっきょくエロゲっていう若い人たちの性的な充足を図るための媒体として表現された経緯があるからで、そしてまた現在放映されてるアニメも、いわゆる萌えキャラによって画面を華やかに飾ってるから、私にはこの作品の内奥のメッセージと表面にあらわれる意匠のギャップの激しさが、何か滑稽な印象で感じられてきちゃうのだろな。‥萌えっていう、表層的な性の欲望の目指すところのものが、実は内部でこんなに社会的な理想を人知れない願望として潜ませてるのが、私にはクラナドという作品の隠れた本質なのでないかなって気がする。でもここは、まだよくわからない。オタクの性欲と作品の理想主義の兼ねあいの構図が、まだ私には鮮明と見えてこない。それが少しわかるまで、私はこの作品を見つづようと思う。もうだいぶ私の気に入る内容ではなくなってはきちゃってるけど、ね。こんな退屈な話だったかな。滅菌された世界を見させられてるようで、私にはおもしろみがない。得るものが何もないなって、そんなこと思う。人の隠れた情動の揺れ動き我ない世界は、私には欺瞞だと思えるから。」
「何とはなしに子どもができてしまったことから見ても、萌えキャラという外見以上の性的な要素はとにかく除外しようとしているように見えてしまうのよね。その意味ではこの作品はサザエさんみたいなもので、性的に清浄された主人公が刺激はないけれど平和でおそらく幸福だと思われる生活を営んでいくのが基調なのでしょう。若い割に朋也はなんともおとなしいかしらとも思えるけれど、こういう生活も未だにある理想的世界を描いているであろうことは、この作品の一定の支持を思えば明らかなのでしょうね。ま、いろいろ奇妙かしら。とりあえずはどう展開していくかを注目してみるとしましょうか。」
2009/01/15/Thu
「さいごの救い、か。‥今回もまたとても上手に原作を組み立てて、正直このアニメ化には脱帽する気分にもなってきちゃったかも。情緒的な演出という点ではすでに原作以上の部分も散見されるし、どうしても冗長になっちゃうストーリーの展開を切り詰めて完結に表現しまとめられてる手腕は率直に評価していいと思う。とくにこのエピソードは原作のなかでもとくべつな位置を占めるものであるから、なおさら要所ごとの見どころを摘出して再構成してる今回のお話はよくできてるかなって印象があったかな。やさぐれる北村、距離をとる亜美さん、困惑する竜児に大河、そして心中複雑なみのりんと、各者の立ち位置もよくおさえられてて興味ふかい。お話自体の言及としては、私は原作の感想(→
竹宮ゆゆこ「とらドラ6!」)であらかた述べちゃってるから、あらためて今回いうことはあまりないかな。私が北村も会長もきらいという話は、もう何度かしたものね。」
「北村も会長も好ましいとは思わない、か。ま、その理由のひとつとしては二人があまりといえばあまりに純真だという点が挙げられるのでしょうね。実際、北村の態度は亜美が看破した如く、自分が苦しいだれか助けてくれと叫んでいるにすぎないのであり、しかもその叫びは会長ただひとりに向けられているものであるから、竜児や大河の気遣いはけっこう無意味なのよね。もちろんまったく意味がないとはいわないけれど、しかし北村の心の中は会長によって占められているのであり、案外、北村はそういう意味では竜児にも大河にも冷たいとはいえるかしら。ま、他人を慮れないのが北村の特徴ではあるのでしょうけど。」
「だからきらい。北村は自分のことしか、悩めないものね。あとあとのエピソードの内容にふれちゃうけど、それは会長さんの立場を考えたなら北村はかんたんにわがままをいえるわけもないという事情に示されてることであり、北村が金髪にしたり家出をしたりで方々に迷惑をかけられちゃうのは彼の独善性の発露にほかならないと、私は思う。もちろんそこまで強くいうこともないかなとは思うけど、でも私としては北村のような、そして会長のような本心を押し隠してそれで大人ぶってるような人が大きらいだから、こんな辛らつになっちゃうのだろな。二人は、もっと感情的になっていいじゃない、って思う。もっと好きなら好きって我を張ってしまっていいじゃない、って思う。それをせずに内に引きこもって関係のない竜児や大河に甘えて、意中の人にぶつからないで漫然と状況の好転を願ってても、それはただ空虚で怠惰なだけじゃない、って私はそう思う。だから北村はきらい。そしてそれに対して、竜児や大河がやさしすぎるから、切ない。大河の心中は、とくに、かな。北村の無神経さが苛つく。」
「大河は健気なものね。ああも北村に幻想を抱いていると、逆に可哀想にも思えてしまうから、なかなか状況は難儀なのよね。竜児あたりがもっと敢然と大河をものにしてくれたら、まだしもとも思うけど、はてさて、実乃梨の存在がむずかしいのかしら。夕暮の竜児との会話でもわかるけれど、実乃梨はとにかく複雑な子ね。彼女はどこか自責の念があるのでしょう。自分を駄目だと思いたがっているのでしょう。その心の枷の原因は、果して、何かしらね。さて、何かしら。」
「そこがわかれば変わってくるよね。人間関係も状況も、恋心も、たぶんいろいろ変わってくる。でもみのりんは本心を隠す人だから、まだ、だれも、わからない。‥ね、今回思ったけど、たぶんみのりんは亜美さんに気持をわかってもらいたい、もしくはわかってくれるだろうって思いを抱いてるんだよね。その気持がもっと素直にあらわされたなら、事態はずっとべつな方向に変わるんだよね。原作の今の状況は訪れないんだよね。そう思うと、何かいろいろ切なくて、つらいかな。亜美さんも、みのりんも、二人の立場が、つらいかな。竜児と大河の関係のように、あの二人の関係が、なってくれればよかったのに。でもそれは無益な想定なのかな。どうなんだろ。」
「はてさて、どうなのでしょうね。しかし人間関係というのはどう変化し転がっていくか、実に奇妙なものがあるものだし、まだ希望の灯は消えてないのかもしれないのかしらね。ただ亜美も実乃梨も複雑よ。それに対して北村と会長の単純なことといったらないことよ。当然、単純さや複雑さで悩みの深さというのが大きく変わるものではないのでしょうけどね。ま、しかし、いろいろな人間の型が出てくる作品だことよ。人間心理のおもしろい描写がいろいろ見れて、このアニメは飽きないかしら。次もまた期待よ。さどう魅せてくれるのか、楽しみにしましょうか。」
2009/01/14/Wed
「短編はその作家の技量が直接的に問われるむずかしいものといわれるけど、かならずしも本人の意向からだけでなくて商業的な要請からシリーズを維持しなくちゃいけないラノベ作家には、先の言葉はなかなか重い響きが加わるものと思う。今回、「とらドラ!」のスピンオフとしてまとめられた本書は、短編の質としてはそれほど傑出したものはないかなって印象が第一としてあるけれど、でも私がこの一冊をそれなりに評価するのは、竹宮ゆゆこという作家の資質と関心が若い感受性の表現という一点に凝結されてることが確認できたからかなって思う。竹宮先生の心理の観察の対象となるべき存在というのは、思春期の微妙な情動によって揺り動かされる不安定な少年少女のあり方にひとえにかかってるともいえるのであり、個性的で奇抜なキャラクターだけでなくて、繊細で凡庸な人間の表出に竹宮ゆゆこの筆致の冴えはうかがえる。その意味で竹宮ゆゆこという人の才能はあんまりラノベ的でもないかなとは思うかな。派手なアクションというのは基本的にないものね、とらドラにしろ今回のスピンオフにしろ。」
「竹宮ゆゆこの視線というものは、強烈な自己意識と性意識の目覚めにより混乱の時期にある人間の、その不安定な陰影の表現にこそあるということはいえるだろう、か。ま、本家のとらドラにしてからが非常に性的な影の差した物語を展開しているのだし、今回の割と生々しい話の多いスピンオフの内容も、当然といえば当然期待されて然るべきものだったとはいえるのでしょう。たしか青春はじめじめしているといったのは吉行淳之介だったけれど、竹宮ゆゆこの作品は全体的にじめじめしているのよね。隠微に人間の情が絡みあっているというか、自意識過剰の痛々しい青春というか、それは人の心の混乱の極の呈するものであるのでしょう。もちろん青春というか思春期の、その繊細さゆえの魅力があるからこそ、本シリーズは一定の支持を得てはいるのでしょうが。」
「年ごろの人間の性の微妙な揺れ動きの表現という点では、屈折した人が多い「とらドラ!」本編よりも完結にまとめる必要がある本書のほうが明らかにわかりやすく描かれてるとはいえるかな。たとえば「春になったら群馬に行こう!」は、長年つづいた恋人関係の破綻とその懊悩の様子、またそこからの立ち直りを要領よく構成したものだといえるけど、ここには春田の性意識と倫理観によって左右される複雑な立場の葛藤がとても繊細に描写されてて、意外と私は竹宮ゆゆこの真骨頂が結実してるのでないかなって思った。さらにゆり先生のむかし話を描いた「先生のお気に入り」は、不登校生徒との交流を描いたものでそのラストはけっこう安易な方向に流れちゃったかなって気がしたけど、でもゆり先生の教師としての手腕の見事さは、これから先の本編での大河や竜児相手のトラブルでも、十分に発揮されるだろうことがうかがえて頼もしさもおぼえちゃうかな。とくに苦しみと挫折をどう乗り越え受容するかの部分は、竹宮ゆゆこの倫理意識‥苦しみと不条理に対してはときに人は負けるほかなくて、そしてそれにはとくにこれといった理由もないのだよという、少しの諦観さえ交じった大人の態度‥を見せてくれて、「とらドラ!」という作品がどういう結末を期待させてくれるかにもいくつか示唆をくれたと思う。なかなか楽しい短編集だったとは総括していえるかな。かわいい亜美さんがみれて、よかった。亜美さんよいよね。素敵だった。」
「「虎、肥ゆる秋」は亜美のお人よしの一面を見せてくれておもしろい出来出し、「THE END OF なつやすみ」と「秋がきたから畑に行こう!」はそれぞれ竜児と大河のつながりをあらためて深めてくれて心休まる一編だったかしら。ま、なんだかんだで大河と竜児は馬があうというか、気の置けない仲なのでしょうね。それは恋人や何かといった枠ではなく、もっと広い意味において、二人のあり方は模索しても良いのでないかしら。ま、実乃梨のことを考えるとそう簡単には行かないのでしょうが、なんとか上手く納まらないものかしらね、本編は。はてさて、よ。」
竹宮ゆゆこ「とらドラ・スピンオフ2! 虎、肥ゆる秋」
2009/01/13/Tue
「日本のマルコ・ポーロとも称されるほど波乱万丈の生涯を劇的に送ったペトロ岐部は、十六世紀から十七世紀にかけての信長から秀吉、そして家康の政権が樹立されるまでの文字通り動乱の世に生を受けた人であって、当時の現代では考えられないくらい過酷な状況下にあってなおマカオからゴア、インドからシリア砂漠を横断してエルサレムに至りついて、さらにそこからローマにまで及んだ日本人としては破格の見聞を得た人だった。もちろん岐部は単なる冒険心からそんな危険きわまりない旅程に足を運んだわけでなくて、そこには幼少期、有馬の神学校で学び生涯をキリスト教に捧げることを決意しながら司祭になる術を外国宣教師たちの日本人に対する偏見と、また秀吉から家康になってきびしさを増してく禁教令によって追われて、そのため単身ローマへの夢を抱きつづけた孤高の人間の姿が浮彫りになってくる。岐部は迫害の嵐から一端非難して、そこからいつの日か神父の位を授けられてから隠れ潜む日本の信者たちの援けとならんとみずからの意を決するのだよね。でもそこには禁教令の布かれた日本から、理由はどうあれ、居残った信者たちを見捨てて逃げたって負い目が彼には免れなく背負わされてあったのであり、その後ろめたさが岐部をして世界を横断する大冒険の活力と、数十年後に日本に戻ってくる決断の決め手になったことは疑えないかな。当時の状況においてキリスト者としてあろうとすることは、死の覚悟を受け容れる選択にほかならなかったのだから、岐部のローマやエルサレム巡礼は、死の準備をする段階にほかならなかった。」
「遠藤周作の作品のなかでキリスト教迫害の模様を扱ったものでとくに著名なのは「沈黙」なのでしょうが、本書は「沈黙」執筆から実に十三年後に書かれたもので、遠藤の迫害下におけるキリスト者へ向ける視線も、相当の変化があると見なければならないのでしょうね。「沈黙」においては最終的に棄教するロドリゴ神父を描いた遠藤が、本作では殉教するペトロ岐部を主人公に据えている。強者と弱者、弱者に寄り添うイエスを好んで描いた遠藤が、ここでは強者の視点からのイエスを題材として取り上げているのよね。ここらの相違は、なかなか興味深いかしら。」
「小説的なドラマの盛り上げに敏感なタッチだった「沈黙」と比べても、「銃と十字架」はより史実に忠実にあろうとした、全体的に落ちついた筆致になってることも指摘しておいていいことと思う。本作では遠藤は多数の文献を援用しながら、当時ペトロ岐部がどんな心中になったのかなってことを、できる限り客観的に描き出そうと試みてるのであり、そこには脚色されたドラマのおもしろさは欠けるけど‥といっても、岐部の実人生のあらましがそもそも事実は小説より奇なりを地で行く慌しさにあふれてるから、よけいな書き足しは無用だったということもあるのだろうけど、ね‥でもそこの事情には、遠藤がペトロ岐部といった困難な時代に決然とした勇気を示した人物に近づきたいって思いがつよく見てとれるから、本作品を読む人は、遠藤の関心のあり方の衒わない実相をうかがうことができると思う。‥迫害と棄教。この二つに照らし出される人間存在の心理の動きと、また苦痛と悲しみに敗れ去りやるせない思いののちに死ぬ、人たちの記録が後世の私たちに投げかける問題意識は、いったいどんなものがあるのかなって、私は思うかな。本書で遠藤がものしずかに語る悲劇は、悲しみに引き裂かれる人生の境涯のたしかな記憶という点において、今の私たちにとっても決して無縁でない響きを与えてくれると思う。それは人生を懸けた対象によって、人生を喪失せしめるといった、人の夢とその願いの落着を示す物語にほかならないのだろうから。」
「迫害や棄教といっても、現代日本の大多数の人々にとってはあまりぴんと来ない題材ではあるのでしょうね。ただしかし、これは単なる自分の人生すべてを投げ打ってみずからの夢に希望を乗せた決断が、社会的状況と思想的潮流のために敗北するといった、現代でも起りうる、そして現に起っている悲劇のひとつの場合だとはいえるのでないかしら。もちろん当時の大迫害の状況にあった悲しみや悲劇は、現代ではそう身近にあるものでもないのでしょう。しかしこの当時の記録は、何かしらね、どうにもならない人生を生きるほかないある種の人間の運命の不合理さを、まざまざと教えてくれるものではあるのよ。この不合理に目を瞑っていていいのかしら。さて、どうもそうは行かないみたいなのよ。」
『いつ来てもこの廃墟は静かだった。訪れる人影もなかった。むかしここに小さな学校があり、こここそ日本人がはじめて西洋を知った場よだったとはほとんどの日本人は知らない。ここで学んだ者たちがその学んだことゆえに迫害され、殺されていったこともほとんどの日本人は知らない。ここで学んだ者たちのなかに我国最初のヨーロッパ留学生の何人かがいたことも、ほとんどの日本人は知らない。だからすべてが静かである。』
遠藤周作「銃と十字架」
遠藤周作「銃と十字架」
2009/01/13/Tue
「これはおもしろい。技巧がかった各場面の繊細な象徴性や、登場人物たちをアニメ的なキャラ造詣によって個性を際立たせるのでなくて、その各々の欲求とそこから生じる対世間的な媚びによってそれぞれの立ち位置を明確に刻んでくていねいな手法は、古典的なドラマの基本に忠実であるだけに、製作陣の自力の高さがうかがわれる完成度になってると思う。この男女関係の鬱屈した雰囲気といい、回顧的な情緒を画面全体に湛えてる色調といい、私にはどこか本作には吉行淳之介の小説を読んでるような感覚を感じとってしまうかな。とくに主人公の冬弥がみずからの性欲を御しきれてなくて、自分の欲望とさらに女性たちからの欲望のあいだで不安定な自己をさらけ出しちゃってる有様は、非常に生々しい問題を提出してるみたいに思えて、興味ふかいかなって思う。冬弥があんまり視聴者には人気ないだろうっていうのもわかるかな。こういうよくあるだろう性的に爛れてしまう人間像というのは、見てて決して気持のいいものでないものね。でも彼のような人は、さみしい人間の心の間隙に、ひっそりと潜んじゃうある個性の発露がある。だから本作でも冬弥の周りにはきわめて人間的な情動の渦が形成されちゃうわけだけど、どこまで人間心理の泥濘さに切りこめるかは見ものかな。」
「自身の性欲の強烈さに上手く対応できないタイプかしらね、冬弥は。そしてまた女性から向けられる好意の視線に適切に応えられてもなさそうだし、それは彼がはるかの誘いや理奈からのアプローチに積極的に肯定も否定もできずに流動的に受け答えしてしまっているところからも推測できることでしょうし、あまつさえ恋人のはずの由綺の現状をまったく知れてないことは致命的ともいえるのでしょう。冬弥のようなタイプが、海千山千の女性の欲求充足のための傀儡にされるというのは、実際ありそうな話ね。ま、しかし、それが彼にとって幸福かどうかはまた別問題なのでしょうけど。」
「冬弥はまた女性に対して夢を見ずに現実だけを直視できる性格でもないだろうから、かな。これはとくに男性に限ったことでもないかなとは思うけど、人は他者と接する際に‥とくにそれが色恋沙汰のときは‥それが自分の勝手な思いこみであるのだろけど、でも一定の自分の理想や幻影を相手に重ねちゃう傾向が往々にしてあるもので、それはまた一種の自己愛の変型でもあるから、恋愛に夢みちゃう人の性というのはなかなか免れないものではあるのかなって気がする。それは孤独な自己がどこかに自分のことをほんとに理解して、そして自分を救済してくれる王子さまないしお姫さまを待望しちゃう心理と同型のものといってもよくて、ただだけどそれは冷徹な現実の前には彼ないし彼女の理想の独りよがりにすぎないといった形において滅ぼされるものであるから、そこに性的な問題と恋愛の心の問題の衝突のむずかしさがあるとはいえるかな。だって恋愛は精神的な関係性の構築を本質として企図するけれど、でも関係なく性欲は動物的な強力さをもって、意識のうえにはあるものね。この問題の解決は、人が思う以上には容易には解決できないもので、この作品がどんな展開を与えるかは興味あることかなって私は思う。愛情の幻想と性欲の関係は、人間存在の根源に係るものであるのだろうから、この作品が描こうとするものは重いものがあるのはたぶんまちがいないのだよね。どんななるか、期待してみてこかな。」
「性欲はきわめて私的な問題に括られるものなのでしょうが、しかし恋人といった恋愛の問題は、それとはべつに社会的な次元においても意味をもつものであるから、そこらで愛の単純な幻想といったものは否定される運命にあるとはいえるのでしょうね。これはつまり言い方を変えれば、童貞ないし処女の抱く非現実的な愛情への過度の期待といったものになるのでしょうが、なかなかどうしてここらは解決がむずかしいのよね。吉行淳之介にしてから、あれだけ女性経験が豊富だった人間がその心の本質は子どものような純潔さがあったようにも思えるし、性の問題は隠微で微妙でわからないかしら。はてさて、この作品はどう描くのでしょうね。ま、期待してみることにしましょうか。」
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吉行淳之介「にせドンファン」
2009/01/12/Mon
「いよいよはじまったモクソンのライブツアー。今回のお話はその模様とそしてモクソンと所長さんの関係性がさりげなく深められて描写されてて、今まであまり際立って二人のやりとりが描かれてこなかっただけに、モクソンと所長さんのかわいらしい関係性のあり方はもう私てきに最高によかったかな。なんていうかなんていうのかな、もうとてもとても素敵で最高でやっぱり所長さんとモクソンの関係は見ててほほ笑ましくていちゃいちゃですばらしくて、うん、すばらしい! モクソンと所長さん素敵っ。こういうお話を私はまってた! まってた甲斐あった! よかった! モクソンと所長さん最高っ。さすが秋枝先生! 素敵っ。」
「なんかいつになく弾けた感想だことね。ま、所長とモクソンの関係性は1話でそれなりに描写されたのをはじまりとして処々に描かれてはきたけれど、今回のようにとくに大きく取り上げられて描かれたことはなかったかしらね。ライブ前の不安なモクソンの心持をわかって声をかけたり、わざわざ花束をもってきてくれたりする所長さんの心遣いはたしかにいじらしいかしら。ま、なんかよい雰囲気ね、これ。」
「最高だよねっ。‥あはは、うん、こういうのあると思ってたから私はずっと純真ミラクルを応援してたのだ。何はともあれ、所長さんとモクソンのかわいらしさに匹敵しうるものなんてないのだから、今回のお話は貴重かもかな。前回までは二宮さんの心にうち秘めた思いや工藤さんの表立って主張できない恋心の有様が追及されて描かれてきただけに、今回の何げなくお互いの心情をわかってあげられてるモクソンと所長さんの関係性は、その対比としてもおもしろいものあったかなって思う。とくに自分に正直になれなくて強張っちゃってる二宮さんは、もう少し肩の力ぬいてもいいのにね、とは思うかな。でもモクソンと所長さんの面映い仲には私の趣味として二宮さんは敵わないので、今回のお話はとにかくよかった。楽しかったー。」
「ここに来て二宮さんに非情な意見を呈するのね。これもモクソンと所長のやりとりが描かれたからというのだから、なんていうかはてさてよ。ま、しかし、その当のモクソンが本社に引き抜かれるという話が浮上してきたのが今回のラストだったから、さて、必然モクソンとその周囲の関係性もある決断を迫られることになるのでしょう。おそらくここがこの作品の転回点ね。」
「歌手として揺るぎなく成功してるモクソンにとって当面課題となるのは、その身のふり方っていう、きわめて彼女という人柄にとってはむずかしい選択を迫られるものになっちゃうのだろね。モクソンはたしかに歌に確固とした信念を保持してる天才肌の人物だけど、でもそんな彼女がどうしようもない社会的な状況のために、居心地のいい人間関係の変更を迫られたとき、彼女という何ごとにおいても誠実にふるまえる、稀有な人格のもち主は、どんな決意を固めるのかな。それはひとつの興味ある展開だし、またモクソンと彼女をめぐる複雑な人間関係の諸相も、どのような成行を見せるかはとても予想しにくい未来を予期させてくれるだろうって、私は思う。これからどうなるかな。俄然おもしろくなってきて、私うれしい。次もとてもとても楽しみ。モクソンと所長さん、がんばって。」
「なんだか完全に今回の話でやられたようね。ま、たしかにこのエピソードのモクソンはかわいらしかったけれど、彼女を含めての人間関係は実に微妙な均衡のもとに成り立ってはいるのよね。何の修羅もなしに、この人間関係のもたらす事態は、果して収束するのかしら? そう上手く行くわけがないとは思いながら、不思議な魅力の存在であるモクソンは、はてさて、本当にどんな影響を与えるか読めない存在であるのよね。ま、これからの展開を心待ちにするとしましょうか。なんにせよ、楽しみよ。」
2009/01/10/Sat
「地上に生きることそれだけで罪がある、か。この作品では一貫して月の民は生死の輪廻に囚われた地上の生き物を睥睨して穢れと忌んでいるけれど、古来日本の価値観からいえば、人為的な悪を「罪」と称し、生来的な悪を「穢れ」と呼んだ。だから地上に生まれたというただその一点だけで、死という穢れを必然的に地上の生き物をは負わされてることになるのであり、その負い目から逃れようと、遥かむかし、月へ地上を捨てて向ったのが、今のこの紫さえ打ち倒した神仙たちであるのだろな。‥罪、それも生まれながらにしての汚濁なのだから、それは原罪と呼んでいいのだと思う。老病死苦ともいわれるように、たしかに人は豊姫のいう穢れからは逃れられないように、この地上の奥底に縛りつけられてる存在ではあるのかもしれない。でも、何かな、私はこの豊姫の傲慢な物言いには反撥をおぼえるかな。ずっと再三、地上を罪の巣窟のようにいってくれちゃって。死を払った世界が理想郷だとは私にはとうてい思えないせいもあって、私は豊姫には少し反感をおぼえちゃうな。何さまかーって感じ。端的にいって、むかつく。」
「生きるだけで罪である、ということね。カトリックなどだと人間存在はそもそも原罪を背負ったどうしようもないものだと見ているし、古代ギリシア世界でも肉体は牢獄であってそこからできる限り精神性を尊ぶようになるのが理想だとされたのだから、何も地上に生きることが悪だとするのは東洋に限ったことではないのでしょうね。ま、さりとて死という輪廻から外れたであろう月の民の言葉を聞いて、はいそうですかといった感じに彼女らを羨む気にもなれないのは、無駄と穢れに満ち満ちているであろう幻想郷の風土が、如何にも気楽に自由に私たちに観取されるからかしらね。たしかに罪深いといえば、ま、そういう傾向は否認できないのでしょうが、しかし何かしら、罪から逃げて蓬莱の薬を飲んで不死になるよりは、おそらく畳のうえで死んだほうがいいのよ。罪からまったく脱却するなんて、できるわけないでしょうし。」
「人は穢れの悲しみの裡に、愛情の源を見出すから、かな。私は、ある種の弱さへの感受性は人にやさしくするためには必要なものなのじゃないかなって、そんなこと思ってる。多くの人は人は強くなるべきだとか、できるだけ心を雄々しく、まっすぐ堂々と生きるのがよろしかなって考えてるかもしれないけど、でも私は、人は自分のなかにある種の弱さを見とめるなら、その弱さを駆逐することによって強さを得るよりは、その弱さを守ってそしてその弱さからつながる他者への連帯と友愛の可能性を模索するほうが、ずっと精神的に気高い行為なのでないかなって気がしてる。‥たとえば自分に対する負い目がなきゃ、つまりみずからを完全な存在として傲慢に構えることではなしにあってはじめて見わけられるだろう感受性がなくては、根本的な点において人はだれかにやさしくできないのでないかな。これ(→
小林秀雄「「白痴」について」)でもふれたけど、イエスはけして強さを誇示したのでなかった。ただ無垢なる弱さとしてあっただけだった。そしてそのためにこそ、彼はある美しさを見せ、その美しさが他者を大きく、時間をかけながら、変化させることができたのだった。だから私は、強さを一方的に見せつけて地上を侮蔑する月の民の態度を、好くものでまったくないかな。やになっちゃう。死から外されたことがそんなにえらいのかーって感じる。だって、それは死のもたらす悲しみに鈍感になったというだけでない。そんな人たちを羨み崇めるなんて、私には耐えられないかな。ただ、それは気に入らない人の偏狭で浅薄な思想の偏向を、あらわしてるようにしか思えないから。」
「ま、自分たちの価値観が絶対的な支配力をもつ空間に閉じこもって、そこで圧倒的な科学力で独自の倫理意識を支えながら数千年もいれば、ある程度、意識が硬直化するのもやむをなしではあるのでしょう。‥ちなみに今回出てきた神である伊豆能売(いずのめ)は、祓戸神(はらえどのかみ)のひとつであって、マイナーといえばまったく目立たない神の一人ではあるのでしょうね。穢れを失くす祓いを司るのが祓戸神であり、余談を加えればロケットを飛ばしてきた住吉三神も祓戸神に加えるという説があることも覚えておいてよいかしら。祓戸神について詳述されているのは平安時代に醍醐天皇によって作られた「延喜式」という書物のほかはあまり目につくものはなく、「延喜式」は古代から中世の公家社会において重宝された公事や年中行事の典拠なのだった。そういう点を踏まえるなら、伊豆能売がすぐわからなかった霊夢が依姫に勉強不足だといわれたのは、つまり「延喜式」の知識の不足を指していたのかしらね。ま、祓戸神というのはいろいろ情報が錯雑としていて、調べるにはちと骨が折れるのは否めないのだけれど。ここらは面倒なのよね、どの神を祓戸神に当てはめるかは諸説あるし、ま、伊豆能売を知らなくても、致し方なしとはいえるのでないかしら。マニアックにも過ぎる神さまよ。やれやれね。」
→
人は強くなるべきなのだろうか?→
正しい自己嫌悪のあり方、みたいな
2009/01/10/Sat
「さいしょの野球の対決シーンは、さっぱり意味がわからない。もちろんあれがお嬢さんをください!の劇的な演出の比喩なのだろなくらいには承知してるのだけど、でも根本的に、私は野球ってわからないから、この作品がここまで野球にこだわってるのがちょっと変に思えちゃう。野球っておもしろいのかな、とか思う。やったこともあるし見たこともけっこうあるけど、私にはあれが何を意味してるのかぜんぜんわかんない。何か白ける、とかまでいっちゃうとあれれかなだけど、でもうーん、私にはわからない。あれがおもしろいと思う人もいるのだろな、そして野球で心の交流をする人間関係もあるのだろな、それはその人それぞれの趣味と選択と生き方の問題なのだろな、くらいにしか私は思わないかな。とりあえず、うん、よくわからない。」
「keyはなぜか知らないけれど、野球が好きなのよね。ま、集団競技ということで連帯感を高めるだのなんだの理屈はつくのでしょう。しかし雨の中素振りまでして秋生の球を打たなければ求婚もできないとは、何かこう部外者からしてみると少し異常な感じもするかしら。ま、そう怪訝に思わなくてもよいのでしょうけど。」
「集団競技というのはわかんないよねー、って思うけど、でもそんなの私だけかな? うーん、べつに運動が私きらいというのでないのだけど‥散歩好きだし木刀ふるし、スポーツだって剣道とか柔道とかボクシングとは好きでたまに見るし、殴りあいはいいよね、でも関節技とかはとくに美しくないかなって思う、綜合格闘技は全体的に意味ないなって思うからあんまり興味ない‥でも、あー、球技はむかしからわからないかな。ボールに固執する理由がつかめないというか、とにかく私の関心の埒外にある。でも人気あるよね。なんでかな。」
「なぜと問うてもね。はてさてとしか返事しようがないことよ。ま、渚と朋也は何はともあれ結婚した。経緯はどうあれこれで世間的に二人の関係は確立したことであるし、これは時間の問題だったとはいえ、二人の内面に与える影響は小さくはないのでしょう。いいことじゃないかしらね、おそらく。」
「あと渚ひとりのためのとくべつな卒業式もやってたよね。‥またまた悪口になっちゃうみたいでやだかなだけど、あの一連の流れも私にはわからないといえばわからない。なんで卒業式にそんなにこだわるのかな、とか思う。べつにいいじゃん、あんなの出なくて、とか思う。さらに卒業したみんなが集ってというのはべつに構わないけど、でもなんで制服なんて今さら着ちゃってるの、それって何かな、とかとか思う。なんかちょっとわけわかんない、というのが正直なとこ。卒業して、以前通ってた学校に集って、あまつさえむかしの制服を着こんで感傷的な雰囲気に浸るだなんて、私はぜったいにご免かな。あの空気はたぶん私の苦手だ。近寄らないが、よろしかな。」
「ああいう身内の感傷的なしっとりとした雰囲気が苦手ということ? ま、わからなくはないけれど、どうもちょっとあの手の感情的な親密さを要求する集団のあり方は気味が悪いといったところかしら。ま、そう文句をつける必要もないのでしょうが、けっこう特異な集団よね、朋也の周辺って。肉感的な情の連帯でできあがっているというか、心理的にべたべたしているというか、とりあえず苦手な人にはとことん駄目な雰囲気は少々あるのでしょう。もちろん、それが売りな作風だというのはわかるのだけれど、少しその感じが露骨になってきたかしら。ま、どう転ぶのでしょうね、これからこの作品は。」
2009/01/09/Fri
「16世紀に起ったドイツ農民戦争に材をとったサルトルの戯曲大作として有名な本書は、当時の好戦的で悪名高かった騎士のひとりであるゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンを主人公に据え、善と悪の問題をサルトルらしい弁証的で執拗な論理的構成の物語として展開してく。私生児として幼いころをすごしたゲッツは、その心の憶測に拭いきれない劣等感と世間に対する憎悪を抱いてたのだけど、弱者の側に立ってともにその辛酸を舐め、そのために教会から追放されることになっちゃう破戒僧ハインリッヒと出会うことによって、さらに農民のリーダーナスチや娼婦カテリーナの存在の果す役割のめぐり合わせが伴って、ゲッツは悪の無益さに気づき、これから善に生きることを決意する。そしてまずその第一歩としてゲッツは私有財産の廃止や階級的差別の撤廃を実現するために、共産的な理想のもとに組織される無抵抗主義を掲げた共同体の設立を図るのだけど、その試みは当時興りつつあった農民蜂起の風潮のために、村民の殺戮という最悪の形をもって、ゲッツの善意を極端にまで否定することになる。さらにそれが引き金となって、農民たちの暴動は全国各地に広まってくのだけど、その有様を眺めるゲッツはみずからの善意のための行動からはじまったこの連鎖が、ひたすらこの世にこれほどないであろうというほどの悪意の実現という形でもってつづいてくのに、ただ自分の浅はかさと神の残酷さ、またはその不在を自覚する。ゲッツという男の善への意志なんて、塵のようなものだということを証明する現実に向って、ゲッツは慟哭する。」
「ニヒリズムのために悪業を重ねてきた騎士が、ある運命の機会によって善へと立ち戻ろうとするのだけれど、その善意から発した行動は自分が悪をやってきたとき以上の災厄を生むといった皮肉を呈することとなるのであり、それはすなわち神の存在への疑惑へとつながっていく、か。歴史の想像もできないほどの悲劇を、サルトルが善と悪といった倫理的なテーマにおいて組み立てたのがこの物語ということになるのでしょうね。ゲッツは愛を為そうとしたが、愛の実践とは果して何か? 浅慮な意図から出た善意ほど、人を害うものもまたないのかしら。」
『おれ一人だよ、坊主、おまえのいうとおりだ。おれ一人だ。おれは嘆願した。しるしをもとめた、天に言葉をおくった、なんの答えもない。天にはおれの名だって知られておらぬ。いつもいつも、おれは自分が神の目に何でありうるかを、心に問うていた。いまやっと答えがわかった――無、だ。神にはおれなど見えぬ、おれの声など聞えぬ、おれなどという人間は知られておらぬ。おれたちの頭上のあの虚空がおまえには見えるかい? あれが神だ。扉のあの割れ目が見えるか、あれが神だ。地にあいたあの穴が見えるか? あれもまた神だ。沈黙が神だ。不在が神だ。神は、人間の孤独だ。ただおれがあるのみだったのだ。おれ一人で悪を決定した。おれ一人で善を発案した。いんちきをしたのはおれ、奇蹟をやったのもおれ、今日おれを裁くのはおれ、おれの罪をゆるしうるのもただおれ一人だ。おれ、つまり人間だ。もし神が存在するなら、人間は虚無だ。もし人間が存在するならば……』
ジャン=ポール・サルトル「悪魔と神」
「神の沈黙に接したゲッツは大地のしずけさを見とめ、そして世界にはただ地上あるのみでそこに天国も地獄も介在する余地のないといった、ただ自分ひとりの存在が私には観取されるのみといった、孤独の自覚に至りつく。このゲッツの嘆きの意味と、その空虚な渇いた感覚というのは、たぶん非キリスト教徒としての日本人にはわかりづらいのじゃないかな。もちろん信仰のない私にも、ゲッツの臓腑をえぐるような叫びの悲しみの本質というのは、わかんない。それをわかるというのは知的な欺瞞だな、と思う。ただ私はこの物語が伝える悲劇が、世界には事欠かなかったであろう時代の痛みの感触としておぼえられるだけであって、善と悪の倫理の世上での実践の困難さ、善と悪の不可分さとそこから来る人間の行為の正しさの見分けがたさを、ふかく考えるだけかな。‥でも、そう、忘れちゃいけないのは、これは神を問題にした作品だということで、信心のない私にそこに向うのにはある距離があるということは、私は認めておかなきゃいけないと思う。とくにルターの出現によって動揺してた当時のドイツを思うなら、なおさら。‥神の存在がぼんやりと、私がこの作品の深奥に近づくのを妨げてる。でもそれは、しかたないことであるのかな。だって私は、神の問題に切り詰められて問われたことはないのだから。そこを知的に装飾してごまかすのは、たぶん、いけない。」
「まったくこういったキリスト教の問題というものは、身内に神と倫理の問題の感覚が染み渡っていなければわかるものではありえないのでしょう。ま、だからドストエフスキーもニーチェもサルトルもバタイユもロレンスも、非キリスト者には用のない存在だといってももしかしたら過言ではないのかしれないけれど、日本の知的な雰囲気というかインテリは、そこらを都合よく閑却してしまうのかもしれないかしらね。ま、はてさてというのも嘆息でしょうが。どうかしらね。」
『大地の臭気は星までとどく。』
ジャン=ポール・サルトル「悪魔と神」
ジャン=ポール・サルトル「悪魔と神」
2009/01/08/Thu
「アニメはおもしろかったから原作はどんなかなって関心から読んでみたけど、あのアニメ化は演出が少し目立ちすぎてただけで、思いのほか原作の基礎的な部分に忠実だったのだなって確認できた。とくにナギと仁の関係、それについて回るつぐみの切ない心情の働きについては原作以上に切りこめた箇所があったと思う。つぐみの視点からみると、この物語はよけいにつらいね。原作の展開は仁とナギが互いに対しての恋心を明確に自覚するといった方向に進むから、つぐみ側の気持は、かつて互いの過去にふかく親しんだ幼馴染の立場といった兼ねあいもあるから、むずかしいものが生まれてきちゃったのだろなって思う。幼なじみが成長してそれから大人になっての関係性のあり方というのは、微妙な問題だよね。とくにそこに恋愛感情が絡むなら、なおさら。だって相手のなかに自身の子どもだったころの郷愁の匂いが、まちがいなく嗅ぎ取れちゃうのだから。それは、つらい。」
「人の自意識とは記憶の堆積の生むところのもの、と思っていいということかしらね。どれだけ時間が経ち、多数の雑多な情報の埃の中に幼年時代の思い出が埋れてしまおうと、当の幼なじみの相手が目の前にいるのなら、その肉体はおのずから過去を物語ってしまうのでしょうね。ま、少女に恋した記憶というか、少年に恋した記憶というか、つまりその淡い恋の匂いを色濃く残す相手との大人になってからの恋愛は、いろいろ微妙な問題にはなってしまうのでしょう。ま、それが萌えといえばそうなのかしらね。」
「ざんげちゃんの中の人、白亜の問題も、よくわかりすぎるほど私にはわかった。‥こういうとたぶん涼城先生にはわるいかなだけど、白亜に起った問題の原因は、たぶん先生の無意識の疎外の結果なんだよ。というのも、白亜が作中の言葉をそのまま信じるなら悪霊に憑かれて情緒不安定になりはじめたのは、涼城先生の奥さんが亡くなったころと時を同じくするのであって、そのことは白亜の精神の不調が父親と娘の閉鎖的な家庭環境にあることを意味するのだと、私は思う。そしてこれは推測になるけど、まじめで堅苦しい気質のもち主である涼城先生の存在は、子どもだった白亜にとってはあるていどの抑圧として機能するのはまちがいないのであって、たぶんお母さんがそのあいだに入ることによって涼城家は危うい安定を保ってたって気がするかな。だから母の存在の欠如が、白亜に父の権力の畏怖を真っ向から浴びせることになっちゃって、それが白亜の幼な心には父からの疎外といった形に受けとられちゃったであろうことは、物語の展開を見るにつれ、いえると思う。その意味で、白亜のおかれた立場というのはきついかなとは、思うかな。そしてまた、彼女はざんげちゃんの降臨によって、紛うことなく救われたであろうことは、いえちゃうことなんだ。」
「白亜が父親の無意識の疎外だというのは、まったくそうなのでしょうね。なんていうのかしら、これくらいの子どもがあれこれ大人の顔色をうかがって、自分の立ち居振る舞いを思案してしまうということ自体が、すでにもう何か誤ってしまっているのでしょう。もちろん涼城先生がいい人だということは疑いなくいえることなのでしょうが、しかし何かしらね、人間はもっとくだらなく生きてみてもいい存在よ。肩に力が少し入りすぎているのよ、涼城先生も白亜も。ま、難儀な性格なのかしらね。」
「その子が悩んじゃう前に遊びにでも連れてったらどかな、かな。先生が少し過干渉だということもあると思うし、そういう点で自堕落そのもののようなナギや俗世に染まりまくっちゃってるざんげちゃんのような神さまの存在は、白亜にとってはある種救いのような意味あいもあったのかもしれない。‥あとはそだな、肝心のナギのアイデンティティの問題だけど、これは6巻までであらかた予想はできると思う。たぶん穢れの正体は、ナギのかつての過ちの名残りなのだろな。ナギの過去を暴かなきゃ、たぶんナギの問題は解決できない。そこの展開が暗く重くなるだろうことは、たぶん争えないかな。いろいろと、つづきは気になる。どうなるかな。」
「ナギと仁がこうも相思相愛の状況に簡単に至りつくのは、少々予想外ではあったけれど、ま、そのほかはけっこう堅実なストーリー展開だったとはいえるのでしょうね。ま、白亜の立ち居地はなかなか興味深いことよ。これ、仁も白亜も母親を失くしているという点が共通しているのよね。おそらくこの母性の欠如を埋めるのが、産土神たるナギとざんげの役目なのでしょうけど、はてさて、そう上手く行くかしら。完結までは見届けたい作品よ。ま、ゆるりとつづきを待ちましょうか。」
武梨えり「かんなぎ」1巻 武梨えり「かんなぎ」2巻 武梨えり「かんなぎ」3巻 武梨えり「かんなぎ」4巻 武梨えり「かんなぎ」5巻 武梨えり「かんなぎ」6巻
2009/01/08/Thu
「今回は素敵。すばらしい。おどろいちゃった。思わず見終ったあとに拍手しちゃったくらい。恥ずかしくていうのもあれかなだけど、私は素敵な作品に心から感じ入ったときにはこっそりひとり拍手してる。今回のとらドラのエピソードはまさにそれ、すばらしかった。人が生きる小さな思いを安易なモノローグに頼らずに、ひっそりと叙景的にしんみり人の心の機微を伝えながら描くことに見事に成功してる。私がアニメを見つづけるのは、こういったエピソードがたまにあらわれるからかなってさえ思っちゃう。音楽と絵と声と、それら全体が一体となった調和が、見事に物語の精神を語る以上の言葉をもって、表現されてる。いいすぎず、みせすぎず、詩的な余韻さえ残してみせて。今回の話は、すばらしい。」
「あら、久しぶりに絶賛ね。これはおそらくアニメオリジナルの回だったと思うけど、各登場人物の思いを言葉でも画でもほどほどのバランスを保って、くどくならないように繊細な感受性をもって、演出されていたという印象がとても感じられた回だったとはいえるかしら。文化祭といった一大イベントのあとのエピソードであるだけに、この静けさが一際目立って感じられるのも好印象なのでしょうね。なかなかおどろかされたかしら。」
「こういうアニメ化があるから、世のなかというのはわかんないよね。正直私はさいしょ「とらドラ!」を映像で過不足なく表現するのはできるかなって疑いから免れてなかったのだけど、ほんと、このアニメ化はとてもよい。たとえば亜美さんのさりげない善意の表出が描かれたと思ったすぐ矢先に、彼女自身をふと我に返らせてシニスムな気分に浸らせるといった心理の移り変わりの描写に連続してるのは、彼女の真から自分を理解してくれる人はないだろうって孤独のあり方を端的に表現してるといえるし、さらに竜児の無自覚な善意にふれたことにより、これから先の身の処し方の選択の決意を固めるといった流れは、ありふれた小さな思いを大切にすることによって生活の充実を望む、ごく平凡な人たちの、そしてそれゆえの幸福の創造の方法のひみつをうかがうようで、なんて心憎い演出かなって私はうなった。肝心なのは、亜美さんは自分の行為にひたすら自覚的であろうと努めてて、それに対して亜美さんの周囲にいるみんなは、ことごとく本能的で感情的な生き方をしてるってこの対照にあるっていえるのじゃないかな。たぶん身近の大河の動物的で感情をすぐに表出させる傾向は、亜美さんにはまったく欠けた理解の外にあるだろう態度と生き方であって、でもそんな大河の存在が、処世術に敏感にならざるえなかった亜美さんの頑なな抑圧された心情を、ゆっくりと癒してきたことはこれまでのストーリーを追ってきた人にはよく理解できることと思う。亜美さんは、ほんとに変わったよね。彼女の顕著なやさしさのあらわれは、この作品の根底にある人の善意の存在を、私に明瞭に示してくれてるように思う。それがとても素敵だな。」
「そういう点からいえば亜美と同類なのが実乃梨なのであり、何事につけても神経質なまでに自分を飾っている実乃梨の生きにくさを理解できてやれるのもまた亜美をおいてほかにはないということなのでしょうね。今回もっとも良かったのは、もしかしたら亜美が実乃梨を気づかってやるあの場面だったのでないかしら。細かな心理の揺れ動きとそれに伴う気分の荷厄介さを知ればこそ、二人はいい関係性になれるのでないかという可能性ももてるのでしょうけどね。ま、現実ははてさてよ。ただしかしとりあえず、今回のエピソードは細かな人々の日常的な仕草の描写が実に丁寧で感動的だったとはいっていいでしょう。見応えがあったことよ。こういう作品が出てこれるというのは、非常に喜ばしいことなのでしょうね。次回も惜しみなく期待するとしましょうか。」
2009/01/07/Wed
チェキ空ブログさん「東方儚月抄とはなんなんだろう」
『結局、嫦娥とか月夜見とかなんだったんだ? という話だけど、あの辺は「儚月抄のストーリー」というよりは「月の都の背景」でしかないんじゃないかな。
まあ人気のある既存キャラを新キャラにフルボッコさせるとか、商業雑誌でやるべき事じゃない気もするけどね。』
「私はネタバレは見てないけど、でも少し思うのは、月夜見や嫦娥が月の都の設定だけの背景に墜しちゃうかもって危惧はこの二つの神さまの由来をそれなりに知ってればあるていどは予想できたことではあったかなって気はするかな。というのも、月夜見は「古事記」や「日本書紀」にもほとんどそれらしい記述がなくて、文字通り名前だけ出てくるようなそもそも得体の知れない神さまであるし、また中国古来の神話に伝えられるところの嫦娥だけど、中国神話はかつて儒家によってその重要性を著しく薄められちゃってあまり後世に伝承されなかったという歴史的背景があるから、東方においてもそんなに存在を誇示してあらわれ出てくることもないかもかなって予想は立てられたと思う。もちろん、この二つの神さまのあやふやな性格を利用してみずからの想像をふんだんに活用しようって野心が見られたなら、儚月抄の評価はまたちがったものになったかなとは思うけど、ね。」
「月夜見にしろ嫦娥にしろよくわからない神であるということはいえてしまうのよね。とくに月夜見に至ってはろくな記述も文献に著されていないような、存在感のないといったら無礼なのでしょうけど、ま、実際はそういうくらいのものだとはいってよいのでないかしら。これは日本神話が自然を神格化するということにあまり積極的でないといったエピソード面における性格も関係してくることであるし、ま、実際に描写しようとする段には面倒な存在ではあるのでしょう。ミステリアスではあるけれど、扱いには難儀するといったところかしら。」
「ちなみに嫦娥を含めた古代中国の幾多ある神話のあらましを知るには、お話のおもしろさと読みやすさといった点からも魯迅のが最適かなって思う(→
魯迅「故事新編」)。このなかで「月にとび去る話」がいわゆる嫦娥伝説を扱ったもので、嫦娥は崑崙山に住むとされる神さまの西王母からさずけられた仙薬を服用することによって、月精となり、夫の羿を裏切って女神となる。この夫の羿という人は伝説的な弓の名人で、太陽さえその矢には太刀打ちできなかった。というのも、いい伝えによると過去に太陽は十個もあって、それぞれが順番に地上を温めるといった取り決めをしてた。でもあるとき、その約束が違われて一斉に十の太陽があらわれて、大地を灼熱と化しちゃう事件が起って、羿は上帝の命令から九つの太陽をその強弓をもって射落すといった大業を成し遂げる。これで地上はもとの適度な温度に戻ってみんな助かったのだけど、でもせっかくの太陽を九つも殺しちゃうのはさすがにやりすぎで、もっとほかに方法があったでないかーって周りから責められたために羿は天界を追放されて妻の嫦娥ともども穢れある地上での生活を余儀なくされるのだよね。東方の世界にも嫦娥が存在するってことは、これに類した事件が数千年以上前にあったのかなって気もするけれど、それはちょっと遠大な妄想になっちゃうので、このエントリはこれでおしまい。嫦娥あたりの伝説は、調べてみるといろいろおもしろいかなとは思うかな。」
「十個あった太陽というのは実は帝の息子たちなのだから事情が複雑なのよね。ま、神話のこういった奇想天外な設定というものは、古来の人々の想像力の奔放さと枠に囚われない闊達さを思わせてくれて、現代の忙しない事情に取り囲まれた創作とは一風変った雰囲気を忍ばせてくれるものとはいえるのでしょう。東方には、どこかこういった奇天烈さが備わっており、それが魅力の一端を成しているように思えるのは、はてさて、気のせいかしら。ま、儚月抄がだからおもしろいかどうかは、またべつの問題になるのは当然でしょうがね。ま、完結までゆるりと待つのが吉でしょう。急いても詮無いことよ。」
2009/01/06/Tue
「サド研究の古典的な一冊として、その価値が大きく認められてるところのボーヴォワールの「サドは有罪か」は、現代においてもサドが秘めるであろう人間存在の孤独といった実に本質的な思索の核心の意味性を、よくまとめて伝えるものであるかなって私は思う。サドというと、現代日本ではサディズムやSMって手垢にまみれた言葉で語られる存在でしかなくなっちゃった観さえあるけど、でも十八世紀といった歴史的にも革命の吹き荒れた特異で人心が動揺にさらされた時期にあった背景に誕生したサドは、同時代のヴォルテールと比してもなんら劣るとこのない、ある強烈な価値を発してるって見ることは、たぶんサドに傾倒しがちなこだわりをもつ私だけの贔屓ではないのじゃないかな。サドは徹底的に世渡りの拙さによって人生を棒にふった、今ふうにいうなら負け組の最たる結果にほかならなかった。そしてそんな社会的弱者の位置にあったサドだからこそ、そして自身の異質な性的衝動を熟知してさらにそこから目をそらすことなく見つめきる強靭な理性のもち主だったためにこそ、サドが展開しえた思想がある。その示すものの価値というのは、人間の裸形の心理が時代の暗黒面に直面してるだろう現代だからこそ、ある主張を湛えることになってるのでないかなって、私は思う。」
「サドの場合はその異常性癖の理論家と体系化の先駆としてのフロイトらのさらなる祖形として見られる向きは強いのでしょうが、しかしサドのきわめて特徴的な資質は何かといえば、自身の個性を単なる個性として保持できたところにあるのであり、自分の独特な他者と異なった嗜好に、変な劣等感を抱かなかったという点に求められるということはいってよいのでしょうね。そしてそこには口先だけの個性的な生き方だの、人それぞれの良さを認めることが大切だのといった言説とは根本からしてちがった真の意味での個性尊重の思索があった。なぜならサドはその個性のために幽閉させられたのだからでしょうね。社会的な制裁を受けようが、サドはみずからの個性にコンプレックスを抱くことはなかった。少なくとも作品にあらわそうとはしなかった。そこらの意味は、果して強大なものがあると見るべきでしょう。」
『つまり、サドのえがいた主人公は、愛と歓喜をもって自然にしたがっているのではなく、自然を憎みながらしかも自然を理解することなしに、自然を写し取っているのである。そしてみずからは自画自賛することなく、自己を欲しているのである。悪は調和あるものではない。その本質は引き裂くような悲痛なのだ。』
シモーヌ・ド・ボーヴォワール「サドは有罪か」
「サドが吠えたのは社会の欺瞞と偽善をおいてほかになかった。サドは自分を排斥せしめた社会が、万人の幸福と空虚な旗印のもとに、道徳的なふるまいを見せることを極度に嫌悪したのであって、それだからこそサドは悪徳の賛美に走らざるえなかったって、いっていいのでないかな。実際、サドはいかなる意味でも実際的な悪人ではなくて、やったことといえばつまらない売春婦とのいざこざにしかすぎなくて、彼が幽閉の憂目をみたのは文字通りただ社交的な能力が著しく欠損してたって、その生来的な不器用さにあったことはサドの足跡を多少追うならだれもが得心するところだと思う。そしてそんなサドだからこそ、権力が自身の立場に安寧し、自身の保全をしか考えに入れてないくせに、世間のためだとか愛のためだとか連帯のためだとかいった眼目を掲げ、さらに目を覆うことには美名のもとに弱者を差別し虐げることに安んじてるって状況が、サドには見えすぎるほど見えてたのだと思う。だからサドはそんな不合理で狂的な世界の、人間が他者を圧迫しその自由と本来的な生のあり方を疎外する体制を、徹頭徹尾、批判する。だからサドの次のような言葉は、ある種の悲痛さを伴って、きこえてくるのじゃ、ないのかな。即ち、弱者を絶望に陥れるくらいなら、皆殺しにしろ。私が権力を掌中にする立場なら、それほどの悪は引き受け、なおかつその悪を称揚する。悪の悲しみとその引き裂かれた悲痛さをぬきにしては、人間の世界は、その関係はありえぬだろう、って。」
「サドが真に痛烈に批判の矛先を向けたのは、良心や道徳といった当時人々を拘束していた徳目が、半ば有名無実と化し、ただ単なる社会的強者が社会的弱者を自由にするための道具に成り下がっていた有様だったとはいえることなのかしらね。サドが悪を求め悪に美徳以上の価値を付与するのは、その悪が人間本来の生き方を肯定する性質のものであるからなのよ。しかしその種の悪を生きることは、悲しいかしれないけれど、弱いサドにはまったく不可能だった。嗚呼、サドは弱かったのよ。だからサドは狂った世界の前に敗北した。泣き叫んでいるような、奔流の言葉を残してね。しかしそれは、逆説的な強さであったということは、私たちは認めねばならないのでないかしら。」
『抽象的な大殺戮を背後に引きずるような善に同意するよりは、悪を引き受ける方がましではないのか。たぶんこのジレンマをまぬかれることは、不可能であろう。もし大地を繁殖させる人間全体が、その現実全体においてあらゆるものにたいして現前しているとしたら、いかなる集団的行動も可能とならず、各人にとって空気は呼吸できないものとなろう。一瞬ごとに、幾千もの人間が、空しくそして不正に、苦しみ、死んでゆく。しかもわれわれはそのことを悲しまない。われわれの実存はこの犠牲を払ってしか、可能でない。サドの功績は、各人が恥かしげに自白するものを、声高く叫んだことにあるだけではない。恥かしげに自白するといったことを、自己の運命として甘受することをしなかったからである。無関心にたいして、彼は残酷さを選んだ。たぶんそれだからこそ、個人が人間の悪意よりは人間の善意の犠牲者であることを知っている今日、彼が多くの反響を呼んでいるのである。かの怖るべき楽天主義に打撃をあたえることが、人間に救いをもたらすことだからである。牢獄の孤独の中で、サドは、デカルトが身を包んだ知性の夜にも似た倫理の夜を実現した。彼はそのことの明証をほとばしらせはしなかった。しかしすくなくとも、あまりにも安易なあらゆる解答に、異議を立てた。個人々々の分離状態をいつか超克すると期待できるとすれば、それはその分離状態をまちがって認識しないという条件においてである。さもなければ、幸福と正義との約束は、最悪の脅威を包んでいることになる。サドは、エゴイズムと不正と不幸の時を、どん底まで生きた。彼の証しの最高の価値をなすものは、彼がわれわれを不安にさせることである。他のさまざまな形態でこの今の時代につきまとっている本質的な課題、人間と人間との真の関係を、ふたたび問題として取り上げることを、彼はわれわれに課しているのである。』
シモーヌ・ド・ボーヴォワール「サドは有罪か」
シモーヌ・ド・ボーヴォワール「サドは有罪か」