2009/03/31/Tue
「うん、おもしろかった。ここで区切りというのもあとあとに期待をもたせてくれる作りと思われて、全体的に非常に高いクオリティを全編にわたって維持することに成功してたのじゃないかな。とくに主人公である冬弥の心象を反映してるだろう作品全体の陰鬱な調子は本作を特徴づけることに役立ってたのであり、この種の性的な夢魔ともいうべき女性たちによって生活を混乱させられる男性の悲劇といったものを現代において描くのは、なかなか興味ふかいテーマだったのじゃないかなって、私は思うかな。というのも、現代においてこの手の対等の関係になろうとあがきながらも状況がそれをゆるさず、誠実に生きようと希いながらもそれがみずからの惰弱な精神のためか、さては運命のいたずらか、思うように行かない日々の成行を漫然と、それでいて病んだ精神を抱えながら彷徨する弱い男の姿を逃げることなく真正面から描いた作品は、私にはここ数年に出たもののなかでは「WHITE ALBUM」に比肩しうるものはちょっと思いつかないかなって思うから。‥現代は、こういったあがきつづけ泥を被りつづける恋愛の物語は、あまり求められていないのかな。ただ冬弥が優柔不断なだめな人というだけで、本作が表現しようって努めてる問題をこなしちゃうのかな。‥私には、そうは思えない。冬弥の弱さと醜さが、けして他人事で絵空事な代物だとは思えない。その意味で、だから、本作の意義というものは看過しちゃいけないものがあるのじゃないかな。冬弥の弱さは、たぶん私にも通じるものがないわけないのだから。」
「ただそういった冬弥の弱さというものは、共感できる人を選ぶ類のものであろうということはまずまちがいなくいえてしまうことではあるのでしょうね。それというのも傍目からすれば冬弥は多数の女性から迫られている、ある意味おいしい立場にあるとはいえることであるのであって、性欲を表層的にしか把握しない人々にとってはこれほどないほど好都合の状況ではあるのでしょう。もし冬弥が本当に愚者であるならば、由綺も理奈も美咲もはるかもマナも、現時点のように無事ではなかったのでしょうね。弥生にのみ逃避したのは、べつな言い方をするなら、冬弥のせめてもの矜持でさえあったのでしょう。もちろん、しかしかといって、冬弥の弥生との交際を裏切りと捉えるなということにはならないのでしょうけどね。ただむずかしいのは、由綺はおそらく冬弥が弥生と関係していたことを知っても、冬弥を捨てはしないでしょう。そこが彼女のいちばんの問題ではあるのでしょうけどね。ま、難儀な子かしらね。」
「由綺は冬弥にとっての女神でなくて、もしかしたら死ぬまで冬弥を離そうとしない、冬弥にからみついた十字架でさえあるかもしれないから、かな。‥冬弥は前回由綺の気持を手紙で知ってから、由綺のことを心から信じようって決心を新たにしてるのだけど、でもここで考えておかなきゃいけないのは由綺の決意はそのどれもが彼女が独断で決めちゃったことであり、そこにいちばん肝心だろう恋人である冬弥の意志というものが実際は何等考慮されてないのだよね。その点に冬弥は気づけてないけど、でも冷静に事態をふり返って検討してみるなら、この由綺の仕打ちは‥冬弥の意志を一見して重んじてるかのようだけど、でもそのもって回ったいい回しは、冬弥の自由意志をほとんど束縛しちゃってることに気づくはず。由綺はのらりくらりとふるまいながら、しずかに冬弥の心を握ってる‥そうとう独善的でこそあるのであって、もし冬弥がまともなら‥つまり多数の女性に翻弄されてない、また実家の問題を顧慮しなくていい、安定した状態であれたなら‥由綺との関係をもっと上手に処理できたかもしれない。ううん、さいしょから彼女と交際なんて、しなかったのかも、しれない。‥ただそれをいったとこで無意味だし、一度過ぎ去った過去は戻らない。そして過去自分がした選択をどれだけ悔いようと、自分の現在の感情は、ただ自分の未来をのみ、照らすものでこそある。‥「WHITE ALBUM」、さてどうなるだろうかな。次の冬の未来を、私はただ期待する。この物語が決着するのを一途に信じながら、ひとまずここは待とうかな。とてもおもしろかった。つづきがとても楽しみ。どんななるかな。まってる。」
「吉行淳之介はかつて女性に対する恐怖を、ある物語に仮託して説明したことがあったかしらね。曰く、ある女性に男性は睾丸を握られた。じわりと握られたのでこれから先の展開に期待をもつ。ところが期待を抱いた瞬間に、いきなり睾丸を握り潰されてしまった。それはなんて恐ろしいことかと、吉行はいうわけね。ま、はてさてというものなのでしょうけど、しかし考えてみると冬弥のおかれた状況とは、まさにこういった類のものでないかしら。多数の女性に睾丸を握られる。それはその先を期待させるような淫靡なものだけれど、しかし、さて、そこからどう展開するのか、本当は一抹の不安がある。そしてその不安が、この作品の真髄よ。それは女と男の性的な対決の、根源的な部分でこそあるのでしょうから。」
『たとえば一人の女と、かりに一年いたとする。それでもその女というのは結局他人だ、ということで、わからない部分はある。それが、会ったばかりの女と突如性行為をしてるなんてことがあるわけで、それはなんか、とても薄気味の悪いことなんだ。あらためて考えて見れば。会ったばかりの女の顔が目のすぐ前にあって、なんかわけのわからんところへ自分の一部が没入してて、甚だしきに至ってはそれをくわえさせたりしてるという恐さ。これは重大なことなのか、重大なことじゃないのか、わけがわかんなくなるってとこある、性には。』
吉行淳之介「生と性」
2009/03/30/Mon
「東方儚月抄」に対する個人的な立場まとめ(仮)『・秋☆枝氏の問題
去年の冬に作ったらしい「ランシェリ(マクロスF本)」が68P
例大祭だと「プラスチックハート」が72P(大半が総集編)、「My Monster with lovely green eyes!」が28P
他にも「純真ミラクル100%」を始めとして仕事を沢山
「同人活動を全くするな」という訳ではないし、むしろ同人でストレスを発散してた部分もありそうだ。
だが、それでよかったの? 秋☆枝さん
それでもあの漫画が貴女の漫画化人生において代表作になってしまうってのは十二分に考えられる話。
ぶしつけながら、本当にこんな仕事で良かったの?という疑問は拭えない。
まぁ、あの人なりに頑張ったんだろうけどさ。うん。
仕方ないと思える部分もあるから、責めすぎるのも止めておく。
それでももっと頑張りをアピールしようと思えば出来た気もするが。』
「基本的にいろいろな考え方があっていいと思うし、多事争論なのは平和の証拠だとは思うのだけど、上記の箇所だけは少し気になったので書いとく。というのも、神尾さんの言い方、それは秋枝さんに対してフェアじゃないよ、と思うから。なぜなら同人とは公私の私に属する部分なわけであり、そこで何しようと個人の勝手なのは明白で、そこを公私の公に当る商業の点から批判するなら、それは俗悪な精神主義になっちゃうよ。べつな言い方をするなら、公私の私を犠牲にして商業に専心したなら事態は変わったのかもしれないって指摘することは、それは単なる結果論からの言い分にすぎなくて、説得力も何も伴ったものでないよ。さらにいうなら、「それでももっと頑張りをアピールしようと思えば出来た気もするが。」という言葉のあとには、どうすればアピールできたかを具体的に記述しなきゃ、それは空疎な文句にしか受けとれない。‥いいじゃない、同人誌出したって。ちなみに私はランシェリ本もプラスチックハートも勇パル本も買ったよ。おもしろかった。でもそれらの本を出さなかったなら儚月抄はもっとおもしろくなったはずなんて露思わないよ。だって因果関係がないもん。そこを責めるのは、ちょっとお門違いなのじゃないかな。」
「ま、漫画家という職業は、とくに同人などに関係していると、公私の別をはっきりさせないまま混同してある対象を非難してしまいがちなのでしょうし、また日本人は公私の観念がけっきょくわかってもいないのかしれないかしらね。ただ、ま、何かしら、同人は私であり、商業は公よ。そして公の批判は公に限定して行うべきであり、そこに私をもちこむのは、戦前の精神主義と変わるところないのよ。私を犠牲にして公に専心していたら公がよりよくなったとは、断言できないでしょう? そこを見誤ると、いろいろ危険でしょうね。」
2009/03/30/Mon
「一九九〇年に著された「無鹿」は遠藤周作の晩年を考えるうえでは外せない一作であるのであって、ほんの小品ながらここには死を目前に控えた遠藤が‥遠藤周作は一九九六年に歿してる‥いったいどんな問題意識を抱えながら執筆に当ってたのかなといった疑問に応じてくれるだろういくつかの重要な要素が散見される出来になってるって、私は思うかな。というのも、表題にある「無鹿」というのは往時のキリシタン大名である大友宗麟が神の国を地上に実現しようって画策した理想の地の名であり、また西郷隆盛が官軍との戦いにおいて決定的な敗北を喫した場所の名でもあって、つまり二人の歴史上の偉人の生涯を賭した夢と理想の挫折したところであるのだった。‥そして遠藤はこの場所をある平凡な定年を間近に控えた男を‥要するに遠藤自身を‥訪ねさせて、現在はかつてありし日のことを何も偲ばせるものがない、近代的に塗装された無鹿の町を歩ませる。そしてみずからの人生と、宗麟や西郷の生き様を比較しながら、今まで生きてきたことの意味を丹念に思い沈んでく。そんな老いた心性の人生という不可思議な相対への考察と情緒が、本作の中心を成している。そしてそれは紛れない遠藤自身の、切なる生という総体への疑問の凝結でもあった。」
「この遠藤らしい物寂しい筆致から生まれ出る生きることへの愛と悔いの二律背反の情調といったものは、遠藤のまったくどんな心理を背景にして萌芽したものだったのでしょうね。それというのも考えてみると、遠藤は表面的にはキリスト教の問題を文学的に常に追いつづけた作家として捉えて良いのでしょうけど、しかしその実、遠藤の裡でもっとも関心の第一等におかれていたのはイエスという人そのものが象徴する何かであった。遠藤は弱き者の同伴者としてのイエス像を表層的に文学の仕掛けとして飽くことなく用いたけれど、しかしそれは遠藤のもっと切実なる思い、つまりみずからの弱さに対するある圧倒的な劣等感の絶叫の隠れ蓑だったのかもしれない。ま、遠藤という人間には底知れないある暗さがあるとはいえるのでしょう。なぜそこまで思いつめるのか、はてさてといったものなのでしょうけどね。」
「遠藤は自分の人生は失敗ばかりだったけど、でもそれは世間一般の枠を外れるほどのものでなくて、だからその意味で自分はただ平凡な人生の失敗者というだけであり、そこそこ幸福であったろうっていえるのはまちがいないのじゃないかなって、みずから嘯いてる。そしてそう自分自身に説きながら、遠藤は作家として二十四歳ころに出発して以来、実に五十年にわたって休むことなく文章を書きつづけてきたのであって、その事実は驚嘆すべからざるものがあるし、またその傍らでは劇団を主宰したり、文化事業に精を出したりと、一線の文人としてこれほどないくらい働き通したのが遠藤周作という人間だった。‥でもそんなふうにみずからを励ましつづけた遠藤の原動力っていったいなんだったのかなって考えた場合、私にはそれは遠藤の幼少期から消えなかっただろう、生きることへの劣等感にあったんじゃないかなって気が、ふとしたりする。それは敗北者‥キリスト者としての敗北者、医師としての敗北者、世間的な敗北者、倫理的な敗北者、遠藤はさまざまな敗北者をほんとによく描いた‥に終始関心を失わなかった遠藤の文学の全体からもうかがえることであり、遠藤文学のある秘密が、私には彼本来の劣等感に起因して秘されてるような気がするかな。その文脈でみればこの「無鹿」もまた、遠藤の表に出されなかった心裡を解すひとつのピースになるのかもしれない。遠藤の、暗い人生に向けられた情念の秘密を暴く一片として。」
「晩年の遠藤がどういった方面に関心を向けていたかを把握するのは、なかなかどうして、むずかしい一面があるのよね。というのも少し見渡してみる限りでも、遠藤の興味というのは実に多岐に渡っているのであり、お決りのキリシタン大名や信長などに関係する歴史の人物、または臨死体験や心理学の方面からアプローチするあの世という世界への憧憬、そして病気への恐怖、等々といったものが問題意識として遠藤にはあったのであり、それらをつなげるキーワードは何かといえば、はてさて、正確にいい当てることは困難なのでしょうね、これは。ただ遠藤にはあるどうしようもない暗さがある。それは初期作品から最晩年のものに至るまで、どうも免れてはいないように感じられてならないのよ。なぜ、そこまで暗く晴れなかったのか。ま、これから先も考えて行かねばならない課題なのでしょうけど、難儀なものかしらね。はてさて、よ。」
『一体、なんのために自分はこの無鹿に来たのだろうと陽の翳りはじめた風景を見ながら加治はぼんやり思った。
彼は別に宗麟や西郷のように壮大な夢を人生に持ったことはなかった。学生時代、思いつきのような形で詩人になろうと考えたことはあったが、生活のため今の会社にいるうちにそんな夢は「若気の過ち」のように霧消してしまった。
病気をしたり、長男を赤ん坊の時、白血病で亡くしたりしたが、しかし定年が間近になった今、ふりかえってみると平々凡々だが決して不倖せではなかったと思うようになっている。自分の才能の限界もわかっているし、その才能の限界のなかでまずまず努力もしたのだと時々、考える。
そんな自分がなぜ無鹿を訪れたくなったか、加治自身にもよく摑めない。強いて言えば彼の意識しない心の奥の何かが、今日の小さな冒険に駆りたてたと言えないこともない。
(俺の冒険などせいぜい、こんな程度かも知れぬ)』
遠藤周作「無鹿」
遠藤周作「無鹿」
2009/03/29/Sun
「昭和十六年にまとめられた短編集である「愛する人達」の初版が刊行されたのは奇しくも太平洋戦争勃発の日に重なるのだけど、でもこの川端康成のしずかな心理探究の筆致とえもいわれない凛と張りつめた品のある文体によって紡がれる人間模様のあらわれ出た本作には、戦争前後って状況にも係らず、そこには騒々しい世事の憂愁が感じられないばかりか、川端のふかくていねいに積みあげられてったろう孤独に自己に沈潜することによって得られた遥かな香り、人間って存在に対する奇妙で愛しい思いが伝わってくる叙情的な調子が全編に漲って感じられてくるのであって、その類稀なる感性の発露を認めることができるのじゃないかな。とくに私は川端の場合は長編よりも短編にその旨みが凝結してるようにも常々感じられてて、そういった意味からでもこの短編集のおもしろさというのは見過すことの不可能なくらいに興趣ある出来だっていっていいと思う。川端のこの省筆に浮び出る、少な目の文章から豊かに広がってく人間の生活の色あざやかな思念の豊穣さは、なんて美しいものがあるのだろうかな。行間の端々にうかがえる川端のしずかな口吻から予想される彼の世の人たちに対する関心と、それがもたらした生きることという根本的な経験への検討の足跡は、たぶん多くの人が示唆を得ることの大きいものだろうって気がする。力のぬけた肩肘張らないこの短編集は、川端って人の気安さと真率な心裡をあらわしてるのにおそらくちがいないのだから。」
「表題にあるとおりにこの作品集は愛に関連した諸々のエピソードをまとめたものであり、なかでも夫婦や恋人、そして親子といった家族間の情交をテーマに選んだものが多数を占めているのが特徴といっていいのでしょうね。そしてまたおどろかされるのはこれが書かれたときの世の状況であって、戦争間近の胡乱な風潮において、川端はなんとも端然として執筆をしていたであろうことが予想されるほどの、ていねいで瑞々しい作風が「愛する人達」からはうかがわれるのよね。これはすごいことだし、また川端という人がどのように文学を御してきたかがなんとなく思われるものということができるでしょう。慌しい世間の只中にあって、川端が物したのは人を愛することとは如何といった問いかけを内に秘める作品たちだった。なかなかどうして、粋なものかしらね、これは。」
「肝心の短編はそれじゃいったいどんな内容なのかなっていうと、これが実はなかなか一筋縄で行かない、単純な筋立てのなかにも見逃すことのできないような雅量とふつう人の考えを致さない生活の無意識の部分を鋭く突いた指摘が潜まされてあるのであって、あっさり読了できる印象があるけどでも妙に心に引っかかる癖のある短編らだっていっていいのじゃないかな。たとえばむかしの恋人の娘を預かって、彼女を嫁に出す際に娘のほんとの気持に至る父親の姿を描いた「女の夢」や、新婚旅行の帰路の列車のなかでとある混血の少女との出会いを簡潔に描いた「燕の童女」、また「子供一人」は駆け落ち同然で結婚した夫婦のあいだで、妊娠がどんな問題を起すのかといった事情を、女性の気紛れ易さと狂気すれすれの感情の暴発という面から巧みに描出した佳品だって評価することができると思う。そしてそのほかにもなんとなく心に残っちゃう、嚥下するときに変に気をもむような、微妙な味わいのある小品が並べられたのが「愛する人達」だって評していいのじゃないかなって、私は思うかな。‥人を愛することはむずかしい。そしてその愛とは何か。そんな単純で、また根源的な謎に、この諸短編はふれてる。そんな気が私にはして、そしてこの作品に少しく気がおけない自分を発見したかな。何か変に気詰まりで、ふと共感に誘われるかのような作品が収められてる。おもしろい、一冊かな。」
「変に人を悩まさせる作品だという指摘は、はてさてどうしてこの「愛する人達」の本質を指摘した評価なのかしれないかしらね。というのも家族や恋人といった面と向い、付きあうことが日常となった相手と処するとき、私たちは容易に惰性に流され、その関係を思いやってみるということがほとんどなくなるのでしょうけど、しかしどれほど気心が知れていると思っている相手にも、心の見えない一隅というものは、かならずあるものなのでしょう。そしてそういった部分を私たちは心の闇というのかもしれないけれど、しかしその闇はその人そのものであるのかもしれず、また闇でなく恵みのような光のようなものなのかもしれない。ま、人というのは不可解よ。見れば見るほど、知れば知るほど、わからなくなっていくのが人間というものなのかしれないでしょうね。はてさてと嘆息するのも馬鹿らしいほど、私たちは無知なのよね。人という、我のあり方に対して。それは大きな神秘なのよ。ちがうかしら?」
『泉太の生涯は、こういう悔恨の連続であり、堆積だった。
その悔恨が雪のように降り積って、冷たく凍りついた野、枯葉のように降り積って、腐っている林が、泉太の心の世界だった。
その時出会うものをせいいっぱい愛し、その日その日をせいいっぱい生きて、悔いを残すことのないのが、泉太の願いでありながら、時を虚しく流れさせた。
この論語の言葉には、泉太の実感があった。それは多年の経験と悔恨とから生れて来たものだった。
「人には会っている時に、出来るだけ親切にするんだ。いつ別れるかもしれないし、二度と会わないかもしれない。」
と、泉太は妻にも言い聞かせた。
平凡なことながら、泉太の過ぎた日々の嘆きが入っていた。
そして、この平凡なことが容易に行えるものでなかった。』
川端康成「年の暮」
川端康成「愛する人達」
2009/03/28/Sat
「明治二十三年に発表された鷗外二十八歳のときの作品である「舞姫」は、ドイツ留学から帰朝した鷗外の小説家としての地歩を固めることになった決定的な一作であると同時に、また鷗外自身の体験が元となってるだろうその多くの倫理的、社会的問題を含むストーリーが議論の対象となったことは、ここであらためて説明する必要もないかなって思うかな。主人公の豊太郎がほかに並ぶもののない優秀な官僚として洋行したっていう設定は鷗外自身の境遇が重ねられてるのは疑いを入れないし、ドイツから日本に帰ってきた鷗外を追って「舞姫」に登場した女性と同じ名のエリスが日本にあらわれたことは鷗外の実人生を考えるうえでは外せない要件であるのは自明なことだと思う。でももちろん鷗外とその作品の相関関係として「舞姫」を読み解くうえでは、鷗外がドイツにおいていったいどんな体験をしてきたのかなって点を考察してみるのは多いに興味があるし、また外せない要件ではあるのだろうって思うのだけれど、ここでは私は主にこの「舞姫」って作品自体に焦点を当てて、当時において物議をかもすこととなった本作の純然たる物語性の意義と、それにあらわされることになった人間性の暗黒面ともいうべき、鷗外の内省の跡を考えてみることにしたい。というのも、「舞姫」という作品は、端的にいえば女を捨てる男の物語であるのだよね。ううん、さらに直接的にいうなら、それは女を捨てたことの弁解としか受けとれない内容をはらんでる。そしてそういった観点から本作を受容するなら、この作品はいつの時代にも恋愛というのが存するならば、避けて通ることのできないだろう個人が他者と誠実に向きあうこととはいったいどういったことのなのかなって、ある種、普遍的な課題を担ってることがわかるはず。そう思うと豊太郎の愚かさに、私たちが無縁であるって断言する理由もなくなってくのだよね。なぜならそれは彼を意志薄弱だといって済ますことのできない、個人の倫理と世のしがらみの苦しみに、翻弄された悲劇でしかなかったのだから。」
「豊太郎というのは現代からいえば少し想像もつかないようなエリートではあるのでしょうけど、彼がドイツでやってしまった不行跡というものは、どんな人間でも思わず犯してしまいそうなある意味では人間味に満ちたくだらないものではたしかにあったのでしょうね。そして豊太郎がエリスと関係したそもそもの原因を検分していくならば、彼がただエリスに同情したからだけだったのであり、ふつうの人がふつうに抱くであろうやさしさと弱き者への共感を豊太郎が凡庸に備えていたからこそ、彼の運命の歯車は狂ってしまったわけでもあったのよね。そう考えてみるならば、本作は一時の善意が多大な不孝を生むというストーリー仕立てなわけで、なんともアイロニックな面持があることがつかめてくるわけでしょう。エリスを憐れんだ豊太郎は、人間的に劣ったものではなかった。しかしそのやさしさと、そのやさしさのあとにつづく行為と決断に彼の落度はあった。ただ、ま、何かしら、豊太郎の顛末はそれだけで人間的愚かしさの象徴にも感じられるのよね。善意が人をひとり狂気に陥れることになるのだから、なんともはやといったものなのでしょうけど。」
「豊太郎はエリスと出会ったことにより、自分が今まで自分だと思ってたのは実はほんとの自分じゃなかったのかなって疑義を抱くようになってく。それは彼のこれまでの一途でまじめな人生の生き方というものは、彼の本来的な性質から発し出てたものじゃ事実はぜんぜん異なったのでないかなって省察から由来したものであって、豊太郎はただ勉強することはよいこと、誠実に上に位置する人の説諭を真に受けて、そのとおりに自分を陶冶してくことは正しいことって洋行するまで露疑うことを知らなかった自分の処世の根本的な部分を瓦解させて、ある意味くびきともいえたものから解放されてくことに原因したものだった。‥何が正しい生き方というのかは、わかんないよね。私もわからないし、生き方に個々人の差はあれど、それに正誤を求めるべきではほんとはないのかもしれない。でもただ初期の豊太郎には、そういった自分が生きることへの意味性への思索がぜんぜん欠けてたのであって、その点で豊太郎はただ生真面目なだけの知性に見られる類の退屈さと凡庸さがうかがわれるように私には思える。そしてそれだからこそ、ドイツで全面的な世間的敗北を喫して、エリスとの生活を送った豊太郎にはこれまで彼に見られなかっただろう人間味と、愛ゆえの強さがあらわれるようになるのであって、そうした彼の生き方に私はある種の好感をおぼえる。もちろんそんなのただの人生の敗残者じゃないかーって意見があるかもだけど、人生というのは、そうかんたんでない。だから、愛というのは、あっていい。‥でもだけど、その愛が周囲から疎まれ、豊太郎はけっきょく部分的には完全に壊されちゃうことになっちゃう。それはただ彼の弱さのため? 弱さはたしかにあったのかなって私も思う。でもそれとはべつに何かが、みずからの意志を信じて生きたいって単純でそれでいて切実で、でも世間の狡知と相対してそれを全うするにはあまりに困難な、この現実という代物が、豊太郎の愛の前には立ちはだかったのであって、そしてその魔物はその愛を、その弱さを、嘲ったのだった。‥私は、だから豊太郎の姿を愚かしいの一言で切って捨てるわけには行かないって気持が、身内にわだかまり離れない。なぜなら、そう、人は豊太郎くらいには愚かしいものなのだから。そしてそれだからといって愛を軽んじることはゆるされないって響きが、エリスの狂気には象徴されて宿ってる。彼女のすすり泣きが、豊太郎の胸中を、おそらく生涯消え去らなかったかのように。」
「豊太郎は周囲を自分を便利な機械のような存在にしてしまうつもりだと恐怖を抱いているように読める箇所があるのよね。これはなかなか重要な点かしらとも思えるけれど、世間、名誉、出世、それらの打算と利害に基づいた実生活の権力の力学に翻弄されたのが豊太郎という男だったのであり、そしてそれは官僚である豊太郎の比ではないのでしょうけど、まちがいなく私たち自身のそれぞれの生活にも無縁でないファクターではあると認めてよいのでしょう。この作品の掲げるテーマのひとつには、その種の世間的狡知に自分の意志をどこまで影響させるべきか?といったものがあるのよ。もちろん、女を捨てることは、そう、ある意味では最悪なのよね。しかし、人生はときに豊太郎に訪れたような怒涛の運命を用意する。それに接した際、果して私たちは豊太郎の轍を踏まないと、はてさて、いい切れるのかしら。豊太郎の愚を、もしかしなくても笑えないのでしょうね。私たちが単なる人間である限りは。」
『かの人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや。この弱くふびんなる心を。』
森鷗外「舞姫」
森鷗外「舞姫」
2009/03/27/Fri
「今回の総集編はこの作品の全体の量を考えたならさいしょからとうてい不備の見当らないものにはならないだろうなってわかってたから、そんなに期待しないで見られたのだけど、ただそれでも本作が何を描いてたか、そして何を描こうとしてたかのだいたいの輪郭は十分につかめる構成だったのであり、その点ではこの総集編はけっこう評価してよい出来だったのじゃないかなって気がするかな。そしてぼんやりと鑑賞して、また私は本作への疑義をふかめることになっちゃったのであり、思い返せば私はこの作品についてはけっきょく足かけ数年にわたって考えつづけてることになるのかなって思うけど、でも今に至るまで私のなかで納得行く結論がまとまらないことを、再確認させられちゃった気がした。というのもそれはなんでかなっていえば、この作品の冒頭を飾る言葉である、渚の「変わらないものなんて何もない。でもそれでも好きでありつづけられるか?」という問いかけに対して、朋也は明確に「それなら新しく好きなものを見つければいいだろう。見つけつづければいいだろう。そして好きでいつづけられるように努力すればいいだろう」って答えてるのだよね。‥私はこの回答は複雑な世間の事情と個別的な人の内面の問題を省いた理念的な次元においては正しいと思うし、迷う渚にそう答えてやってまた隣にいてやった朋也には魅力を感じる。でもただ奇怪に思えちゃうのは、そのあとのこの作品の成行は、この冒頭の言葉、つまりこの作品のさいしょの問いかけとテーマを反故にしちゃってるように思われるからで、というのも朋也の人生を襲う悲劇である渚の死と汐の死は、人生に訪れる喜ばしくない不幸以外の何ものでもないのであり、冒頭の言葉を信じるなら、朋也はその不幸のあとからも何かしらの幸福を新たに見つけようと努力すべきだったにちがいない。‥もちろん、それは苦しい選択であるだろうし、他者が朋也にがんばって生きれなんて励ますのは、残酷な言葉でしかないとは私も思う。でもだからって、朋也に再起の可能性を見せるか、もしくは朋也を絶望の淵に叩きこんで物語を悲劇として放棄するか、そのどちらかをこそこの作品はとるべきだったのであり、まかりまちがって、新しく努力するっていう試みを無にしちゃって、朋也の渚に死に別れた五年の月日を夢の空虚な記憶に帰することは、朋也の人生に対する、冒涜としか、私には思えない。‥なぜだろう。なぜ、朋也の五年を夢にしちゃったのだろう。私には、わからない。ほんとに、わからない。」
「一期のラストであり、この作品の全体像を象徴する場面でもあるだろう渚の舞台での秋生とのやりとりも、汐の死とそれにつながる朋也の意識の消失は否定してしまっているように感じられるから、なおさらなのでしょうね。というのも、子の幸せが親の幸せだと叫ぶ秋生の言葉を尊重するのなら、渚に死なれて夢と希望を潰えた朋也は汐の存在を汲むことによって、そこで本当に新しく人生の希望を得ることができたのであって、それは秋生が渚に自分の人生の意義を認めたのと同じく、朋也が汐に自分の価値を認識したということに重なるものがあるのでしょう。そしてそう考えれば、徒に汐を死なせるのは一期の秋生と渚の関係性の価値を不安定なものにするしかないのであり、またおそらく秋生以上の試練を与えられた朋也は、秋生以上の回答を、人生の、自分の存在の価値とは何かといった問題についてのひとつの回答を、模索せねばならなかった。ま、しかし本作はそれをしなかったのであり、最終的には安易な渚の復活に走ってしまった。渚を蘇らすことによって全体のテーマが崩壊してしまっているのよね。これは何かしら。」
「汐との和解で終らせるなら、本作は完璧なんだよね。子である汐と、そしてかつて自分が忌んだ父との確執の解消。その二つが成し遂げられたとき、本作は長く描いてきた親子の問題、家族って殻のなかで生きることのむずかしさと、その大切さ、そしてそこを巣立つことの人間的意義をあざやかに、また感傷的に表現したことになるのであって、それはこの作品の中心テーマであった「変わらないものは何もないけど、でも人はそれを愛しつづけることができる。もしくは少なくとも、愛そうとすることはできる。その可能性はもちつづけることが‥もしそうあなたが望むなら‥できるにちがいない」っていう、ゲーテの「ファウスト」第二部に比すような、「共同体のなかで生きることの人間の本来的な美しさ」を、完遂するにちがいなかったのじゃないかな。でもそれを成し遂げなかったのが本作であって、本編で朋也に与えられた役割を、幸福の光の玉の蒐集という観点から考えてみるなら、朋也は町の「多くの人を幸せにしなさい」って命令を履行するためだけに、たくさんの悲劇を担わされたにほからないのであって‥朋也は多数の人たちを幸せにするっていう目的を与えられたかのように、他者に尽してきた。それがこの作品のだいぶのエピソードであったことは、論を俟たないよね‥渚はその使命と動機を朋也に伝達するだけの存在にすぎなかったことは、つまり町って神の預言者としてしか機能してなかったことは、さらに明らかになってく事実にちがいないのじゃないかなって、私は思う。‥正直そこまで考えてくと、私には本作のこのラストはとうてい受けつけられないものを感じちゃう。町とはなんなのだろう。そして朋也の、人の幸福とはなんだったのだろう。私は、その間の問題が、未だ晴れずにこの作品を見終った。そしてその解決は、たぶんこれからもずっと、私のなかに課題として燻りつづけるにちがいないって、そんな予感をもってる。そしてその予感をもって、本作のエントリは、おしまいにしよかな。安易な言葉は、出てこないから。」
「整理すると、「町」という神は渚を救ったことの引き換えに、渚に町の人々を幸福にするようにという使命を与えた。しかし渚ひとりではその任は責任が重くまた不可能だったのであり、その実行は渚というパートナーを得た朋也が遂行することになった。ただ、しかしそう考えても、汐の死は納得行く説明ができないように感じられるのよね。そして汐の死と引き換えに為される渚の復活と、朋也の人生のやり直しも。ま、はてさてよ。何かわからないことだらけだったようにも思えるかしらね、この作品は。それに大きな課題と何か虚偽を匂わせるラストだったように思えてしかたないのだけれど、合理的な言葉は出てきそうに思えない。ま、致し方ないのかしらね。この作品の謎は、まだよく考えていくほかないのでしょう。時間がかかろうと、考えていくほかありえない。それくらいしかできないのでしょうしね、凡庸な孤独な個人に残された手立ては、地道な事柄しかないのでしょうから。はてさて、よ。言葉もないかしら。」
2009/03/26/Thu
「すばらしかった。ラノベをアニメ化したという点を差し引いても、これほどの作品には近年滅多にお目にかかれなかったのでないかなって万感の思いが私にはする。原作の魅力とその根幹にあるメッセージ性を見誤ることなく十分に伝えきったというだけでも原作の補完を越えた意味でこの作品にはアニメって映像作品としての価値が認められるものだと思うし、また原作がけっきょく果せなかった部分を過不足なく補い表現することに成功したという点では、この作品は基礎的な設定を原作に負うものとはいえ、アニメが「とらドラ!」って作品をより完成度の高い優れた作品に仕上げることに与ったことは、たぶん多くの人の賛意を得ることのできる部分なのじゃないかなって、私は思うかな。というのも、これは原作評価のほうに係ってきちゃうことなのだけど、原作をその全体として捉えた場合、終盤に至っての展開の仕方には納得行く説得力が伴われてるとはいい難いのであって、端的にいえば原作作品をひとつの文芸作品として展望したとき、「とらドラ!」は不十分な評価しか得られない成行を見せちゃったって私は思ってる。その点アニメのほうはもちろん全編が全編とも原作を凌駕してるとはとうていいえないわけだけど、でも原作を念頭において鑑賞した際、この作品がどれだけ原作を理解し、そしてそれを映像として映えるように工夫されてるかの痕跡は、私をして感動せしめるに足るすばらしさがあるのであって、その点、私はこのアニメをすばらしかったって賛嘆するにやぶさかでない気持を告白せざるをえないかな。‥ほんとに、よかった。こんな素敵なアニメになるだなんて思わなかった。最高だった。」
「あの分量の原作をていねいに追いながら、それでいて十二分に納得の行く構成力を示したのだから、このアニメの完成度と製作者の力量には、いやはや、感嘆せずにはいられないかしらね。もちろんラストに至っての展開の急激さには、おそらく原作未読の人たちにとっては不満の残らないものではなかったのでしょうけど、しかしこれはアニメの問題というよりは原作の失点なのでしょうから、このアニメがすばらしいという評価はそれでも覆らないのでしょうね。ま、しかしそうやって考えるなら、いったいこの終盤に差しかかっての「とらドラ!」のストーリー展開の不自然さとはなんなのかといった問題に逢着するのは必至かしら。それは端的にいうなら、どうして最終盤に至って、泰子の家族の問題に焦点が当てられたのか。そこを考察しない限りは、この作品のラストの迷走の原因は判じがたいのでしょうね。いったいなぜ竜児と母の問題の解決にこの作品が向ったか。ま、興味ある課題ではあるのかしらね。」
「ひとつには竜児と大河が結ばれるとした場合、問題として立ちはだかるのは大河の家族との関係性にほかならなかったからかな。というのも大河の家族の冷え切った状況を改善させずに竜児が大河と恋人同士になってそれで終りになっちゃうなら、それは大河がけっきょく依存の対象を竜児ひとりに限定したということになっちゃうわけで、それは大河の自立には程遠い。でも大河の問題の解決を描くなら、その前に実はいちばん脆弱な立場にあった、表面的にはそうは見えないけれどでも本質はひどい母親への耽溺があった竜児とその母である泰子の解放‥閉鎖的な環境にある母子の癒着からの解放‥を描かなきゃならなかったのは避けて通れない問題であったのであり、それを閑却しちゃったなら、竜児が大河と並び立つことが不可能であることは自明だった。‥これはもう少し根深い事情が関係してたかなって気がするけど、それというのもひとつには、竜児がみのりんを好きだった感情には彼の彼自身意識しないマザー・コンプレックスが介在してたことを指摘しないわけにはいかないからなのだよね。それは竜児がみのりんのどこに惚れてたのかなって点を考えることから次第に明らかになってくことであって、竜児はみのりんの前向きな姿勢、明るくて物事に楽観的で希望を絶やさない姿に憧憬を感じてた。当然これがみのりんの本心からのものでないだろうってことは、これまでのエントリでも私が指摘してきたことだからここではくり返さないけど、でも興味ふかいかなって思うのは、みのりんの前向きさというのは実は泰子のもつ生来的な性質と同種のものであるのであり、竜児がみのりんのこと好きだったのは、ただなんてことない、竜児がみのりんに泰子の姿を重ねてたからなのだよね。‥男の人は恋人に第二の母親を求めちゃうなんていうのは、古い心理学のいいそうなことくらいにしか思えないけど、でも竜児の場合を考えたとき、その言葉はあながち的外れでもないのじゃないかなって気はしてこない? 竜児のみのりんへの恋は、母親へのそれの、代理だった。」
「実乃梨の明るさは作為的なもので、泰子のそれは生来的なものというちがいはあれど、しかし二人に竜児が見出していたものが同質のものであったことはたしかにいえることだろう、か。ま、なんというか少し奇妙にずれた部分のあるという性格を踏まえても、実乃梨と泰子というのは竜児には似たような存在として相重なって受けとられていただろうとは思えるのよね。しかしその間の無意識の心理には、竜児自身は気づけなかったし、気づく必要もなかったのでしょう。ただ作品全体の展開を考えた場合、問題となるのは実乃梨との関係の決着をつけることは、実乃梨が彼にとって泰子と同質だったという前提を組み入れたとき、それは彼の母からの自立を象徴的に描写するほか手がなくなっただろうことは十分に予想できることであるのであって、それだからこそ、実乃梨を越え大河を得るためには、何より竜児には泰子との関係を清算する必要があった。だから不自然とはいえ終盤で泰子と竜児の関係性は前面に出てきたのであり、泰子を越えることなくしては竜児は大河を本心から好くわけには行かなかったのでしょうね。ま、これは作品の完成度を壊すことにはなったけれど、文学の課題としては見過せないものではあったのでしょう。ただ読者としては少し嘆息するのはしかたないことなのでしょうけれどね。」
「でもその考えで行くとけっきょく竜児がみのりんを救うことはそもそも不可能だったことが明らかになっちゃうから、捨てられたという点も含めてみのりんの立場はより悲劇性を増すことになっちゃうかな。‥アニメのほうでは泰子と竜児の問題の決着を簡略化して描いたのは、私はそれを作品の雰囲気と調子を守るための英断として評価したい。そしてまた竜児の大河との別れのドラマティックな演出‥夜のヴェールを冠った大河と竜児のキスは感動した。あのシーンを見たとき、私は原作を明確に越えたなって、思っちゃった。原作の大河との別れは、ちょっとぐだぐだになっちゃってたものね‥と、大河を失った竜児と彼を打つみのりん、そして大河からのメール、夜空のメール、さらに「好きっていってなかったよね」のくだりは、もうすばらしいの一言。そしてさいごの、教室での竜児と大河の再会の場面は、二人の相並び立つ意志の行き着いた地平の象徴として、文句なく、美しかった。よかった。あのラストはきれいだった。ほんとに、きれいだった。うん、私はこの作品を評価する。「とらドラ!」という作品を、アニメとして、こんなにまできれいにしてくれて、こんなにきれいに飾ってくれて、美しい作品だなって、感嘆しちゃった。‥とてもよい作品をありがとう。本作を、私は稀に見るラノベのアニメ化だって評価する。このアニメのおかげで私は前よりずっと大河が好きになったかな。その気持をこめて、この作品にふれえた私の喜びは表現し尽せないくらい。ほんとに、名残惜しいくらいに、楽しかった。ありがとう。」
「原作の竜児と大河の再開のシーンも、ま、指摘するには無粋なのでしょうけれどあえていうなら、大河の家族との関係の決着が簡単な台詞で済ませられてしまったから、少し興ざめした部分はあったのよね。それを削ったというだけでこれほどスマートな再開のシーンになるのだから、本当にこのアニメは上手く演出してくれると唸らざるをえないかしら。ま、原作の提起した問題は種々あるにせよ、このアニメは明確に作品の問題を整理し処理してくれたという点において、納得の行く不満のない出来になっていることはまちがいなくいえるのでしょうね。アニメとして、これはすばらしい完成度よ。これほどの作品に出会えるのだから、アニメというのは不思議なものね。そして「とらドラ!」という作品も、現代においてこうも微妙な心理を隠蔽して描いたものがあらわれるのだから、不思議なものよ。いろいろおもしろい体験をさせてもらえたかしらね。そういう意味で、この作品には感謝に堪えないかしら。そしてまたこのような作品を見ることができるようにと願いをこめて、はてさて、このエントリは終りとすることにしましょうか。愉快な一時をくれた作品に、万感の思いをこめて、かしらね。さよならよ。」
2009/03/25/Wed
「さいきんの東方の作品のなかでは、私は天子とこいしが群をぬいて気に入ってて、二人についてはそれぞれ個別にエントリ書きたいなってずっと前から思ってたのだけど、なかなか果せないままずいぶん時間が経っちゃったかな。そこでまずはこいしについて少し気ままに思うことを連ねていきたいのだけど、寡聞にして私はハルトマンの主著には目を通したことがなくて、これはそのうち見ておかなきゃと思ってるのだけど、でもハルトマンの名前自体はすぐにぴんと来た。といってもべつに哲学史に重大な名を残してるからという理由だけでなくて、実は十九世紀に多大な哲学的影響を及ぼした無意識哲学の筆者であるエドワルト・フォン・ハルトマンは、森鷗外のよく愛読した哲学者のひとりだったのだよね。とくに鷗外の自伝的作品といわれてる「妄想」ではこのハルトマンに対する愛着と関心のふかさが端的にみられるので興味ふかい。そしてこの作からとられるだろうハルトマンのイメージは、自己の思想を積極的に喧伝する欲の薄かった鷗外のことだから、けっこうそのまま受けとってもそう大過ないのでないかなって気がするかな。当然額面どおりに受け容れちゃうのは危険なのだけど、ね。」
「ドイツ留学中の鷗外はそれこそ異常なくらいの読書家であったのであり、「妄想」は端的にいえば鷗外の奥深くに巣食った憂愁がどれだけ根強いものだったのか、またその煩悶と苦痛を和らげるために鷗外がどれほど苦闘したかがありありと見てとれる、なんとも重く薄汚れた一作といっていいのよね。暗く、その知的争闘の痕跡は読む者になんともいえない苦味と哲学の苦労を思わせる。ま、鷗外が世界という謎の前に真摯に立ち尽す孤独な男であったことは、その著書を紐解けばだれにも理解できることではあるのでしょうけど、なんとも言葉にならないものが残るのよね。鷗外には。」
『自分に哲学の有難みを感ぜさせたのは錯迷の三期であった。ハルトマンは幸福を人生の目的だとすることの不可能なのを証する為めに、錯迷の三期を立てている。第一期では人間が現世で福を得ようと思う。少壮、健康、友誼、恋愛、名誉というように数えて、一々その錯迷を破っている。恋なぞも主に苦である。福は性欲の根を断つに在る。人間はこの福を犠牲にして、纔かに世界の進化を翼成している。第二期では福を死後に求める。それには個人としての不滅を前提にしなくてはならない。ところが個人の意識は死と共に滅する。神経の幹はここに絶たれてしまう。第三期では福を世界過程の未来に求める。これは世界の発展進化を前提とする。ところが世界はどんなに進化しても、老病困厄は絶えない。神経が過敏になるから、それをいっそう切実に感ずる。苦は進化と共に長ずる。初中後の三期を閲し尽しても、幸福は永遠に得られないのである。
ハルトマンの形而上学では、この世界は出来るだけ善く造られている。しかし有るが好いか無いが好いかと云えば、無いが好い。それを有らせる根源を無意識と名付ける。それだからと云って、生を否定したって、世界は依然としているから駄目だ。現にある人類が首尾好く滅びても、又或る機会には次の人類が出来て、同じ事を繰り返すだろう。それよりか人間は生を肯定して、己を世界の過程に委ねて、甘んじて苦を受けて、世界の救抜を待つが好いと云うのである。』
森鷗外「妄想」
「鷗外はこの哲学を学んで頭をふったってあとにつづくのだけど、それくらいハルトマンの哲学の展開には何か人をして暗澹とさせちゃうものがあるって予想が、鷗外のこの短い説明からも了解できるのでないかなって思う。まずハルトマンは人間がこの世で幸福だって思ってることはほんとはなんの根拠もない迷誤にすぎないのであって、それがどうして偽の幸せであるかを順序論理立てて解き明かしてくのだよね。それでハルトマンの弁に従うと‥ここでは鷗外の弁に従ってるわけだけど‥世界はけっきょく人に幸福をもたらしてはくれないのであり、ならそんな世界なんてないほうがいいじゃないってことになっちゃうのだけど、でも人ひとりが生きることを拒絶する‥つまり孤独のルサンチマンに陥ること‥くらいでは、世界はびくともしないし、死んだとこで世界がなくなるわけじゃないから、死自体にはそんなに意味ない。だから死よりは生を肯定して、もしかしたら世界が発展してくならいつの日か世界の与える苦の改善が行われるかもしれないのだから、生きてる限りはそれを心よりにして生きてたらってハルトマンは説くみたい。それで、これはひどく人を憂鬱にさせるにちがいない考えかなって思うけど、私には少しこの人をさみしく思わせる生き方の態度の選択は、目の前の苦に対し心を閉ざすことによって一時逃れの解決を図った、こいしの姿を思わせる。他者にきらわれるからといって自分の心を閉ざしちゃって、外界に己を開くことも、また外界の声に耳傾けることもなくしたこいしの彷徨は、私には世の幸福の偽なる姿を暴いて、その結果世界に頼るものを無暗に失い、徒に希望の火を消し尽したハルトマンを重ねさせる。そしてこいしの生き方を哀れに思う心持は、たぶんハルトマンの哲学に頭ふるほかなかった鷗外のそれと、そう隔たったものじゃないのじゃないかなって、ふと私は考える。答えるはずのない書物のなかに手を伸ばしながら、ふとそう、ときおりそう、私は考え、思いに耽る。」
「こいしの閉じた心を解すのが、キャラ設定によれば未知な存在への出会いから生まれた好奇心だというのがおもしろいのよね。人は不幸や世界の不条理に直面すると、とりもなおさず、自分を外界から閉ざすことによって、すなわち関心を外から内へ向けることによって、一時の安定を得ようと努めるのでしょうけど、ただそれは抜本的な解決には至らないのよ。人というのはひとりで生きているわけじゃないし、救いは自分の内面からのみやって来るものではありえないのでしょうからね。ただ一度閉じた心を開くほどの機縁がいつ訪れるのか、さては本当に訪れてくれるのかと考えると、はてさて、それこそ運の問題にはなるのでしょうね。ただしかし、世界というものは不可思議で満ちている。少し試みれば、まちがいなく興味を引く何ものかはあるはず。そう信じなければ、それこそニーチェのように歓喜のみを人生の動機としなければならないのでしょうね。しかし、永劫回帰の理屈は、おそらく人を死から救いはしない。鷗外もそれは認めるところね。ニーチェは痛快ではあるけれど、おそらく慰謝には遠いのよ。切ないといえば、これほど切ない指摘もないのでしょうけどね。はてさてよ。」
2009/03/25/Wed
「大正期に活躍した詩人である室生犀星がはじめて小説作品をしたためたのは彼が三十歳のときで、その処女作である「幼年時代」、つづけて書かれた「性に目覚める頃」、そしてこの「或る少女の死まで」をあわせて犀星の自伝的三部作と呼ばれてる。おもしろいのは犀星自身が認めてるとこだけど、それまで詩作を主に活動してきた犀星が小説の執筆を試みるに当っては、その出発に何等薫陶を施してくれるものがなかったため、この作品には小説らしい技巧や構成の妙というのが見られなくて、ただただ純真に自分の漠然とこんなのが小説かなって衒いない心持があるだけの、稚拙というも愚かなくらい、小説らしい小説ではない何かになっちゃってるって、犀星が自嘲気味に述べちゃってるとこなのだよね。もちろん現代の私たちから見た場合、この犀星の作品が小説とは呼べない代物だなんてことはいえないわけであり、むしろ犀星の率直な筆致と美しい情景描写から成る物語の成行は、犀星がどんな優れた観察眼と、周囲の状況にいたましいほどに感じやすい無垢な感性をもってたのかってことを鮮明に伝えてくれる一作だって評価するにやぶさかでないのは明らかだと思う。ただ犀星がこの作品を発表したとき、当時の文壇はきわめて技巧を弄する過剰な修辞に酔ってた風潮があったのであって、その渦中に犀星のただ無心に自己を物語る本作の単純さは、相対的に文章そのものの無垢な美しさを鮮烈に示し立てることに成功したのだった。‥犀星のよさは、その飾り気なく自分を言葉にして真率に物語れる点にあるのかなって、私は思う。全体の情調は当時の犀星の感じえた世界の心象にほかならないのであり、この詩人がどんな美をこの地上に見出してたかが、本作を読むことで少なからずわかるのでないかな。犀星の世界を見つめる視点というのは、ある紛れない真実に、満ちている。」
「犀星の自伝的作品と称されてる三部作であるだけに、犀星という詩人がどのような環境で育ったかがその単純な文章の累積によって非常にわかりやすく追って行けるのが、本作のまず興味の眼目となるべき点なのでしょうね。とくに犀星の場合、彼が私生児であり、生まれて間もなく養子に出されたということが、彼の生涯に暗い影を落すことになったのは、犀星文学を考えるうえでは外せない要件であるのでしょうし、その間の事情をよく伝える「幼年時代」は貴重な一作というべきなのでしょう。また養母と折があわなかった話や、学校の先生に憎まれ、過度の責めをくらうところなどはなかなか哀切に感じられるものがあるかしらね。そしてそんな犀星を支えた義理の姉との交流は、なんとも胸に来るものがあることよ。ま、とにかくこの姉との中睦まじい交流が、けっこう興味あるのよね。孤独だった犀星の心に温かみを添えてくれたのが、唯一、姉の存在であった、か。これもまた犀星の世界観に無視すべからぬ影響を与えたのは自明のことなのでしょうね。」
「「或る少女の死まで」は、それにつづいて犀星が上京して、極度の貧困に喘ぎながらも詩作に懸けてる若きころの一こまが中心となって話は進む。だけど第一に本作の中心を構成してるのは、表題にもあるとおり、犀星が心惹かれたある少女との交流であって、そしてその少女というのは実は二人いたっていうのがとても興味ふかい事実かなって思う。そう、犀星が憂愁に染められた都会のなかにおいて、詩作の苦しみから、また貧困のあえぎから、ともすると絶望と堕落に沈みそうになる精神にある種の光を投げかけることになり、また清浄な美しい世界への憧憬をかき立ててくれたのは、犀星が偶然に知りあうことになった少女たちであったのであって、彼女たちの幼心から来るのであろうやさしさと、そしてふかい子どもだけが感じられるのであろう、初心な精神のみがこの世界から直接的に受けとれる生きることそれ自体に潜むある寂しさ‥心を鈍化させる大人に、生きることの空しさはあっても、寂しさはない‥から来る、少女という、子どもという存在の無垢な痛々しさだった。‥ひとりは十二、三歳くらいの酒場の給仕をしてる女の子で、痩せぎすの彼女はなんらかの病気にかかっておそらく死ぬのであり‥犀星は彼女の死をはっきりとは知らされない。彼女が完全に死ぬ前に、犀星は東京を離れちゃうから。だから彼女の死は読者に謎となって残る。でも、たぶん、死んじゃったかな‥もひとりの少女は、犀星が下宿した先のとなりの家の十歳くらいの子で、明るい彼女との交流は犀星に並々ならない感動をもたらしてくれたのだけど、彼女は犀星と離れたあと、病によって倒れたことを犀星はのちに知らされる。‥二人の無垢な魂の死。それが犀星の心にどんな陰影を与えたかはまたべつの問題だけど、ただこの作品に描かれるおそろしく純粋で、そしてそれゆえに傷ついてく生きることの孤高の意味は、現代においてもなお枯れない文学性を湛えてるのでないかなって、私は思うかな。無垢な魂に対する憧憬は、人がすさみいく世界に生きる限り、消えない夢であるのだから。」
「犀星が年端も行かない少女との交流にどれだけ救われていたのかは、本作にまったく真率にあらわれ出ている文章を見るなら、まったく巨大なものがあったというほかないのでしょうね。そしてまたべつな観点からいえば、本作は上等の少女を描いた小説とも読めるのであり、子どもの世界に惹かれる孤独な心が絶えない以上、本作のまったく幻のような魅力は、なくなることはありえないのでしょう。加えてそういった観点からまとめるなら、子どもの世界、また子どもの美しさと、さらに子どもの弱さのためにひどく傷つく哀れな魂を描いたのが、この犀星の三部作だと思って良いのでしょうね。たとえば人は皆子どもだったとはよくいわれる文句なのでしょうけど、しかしそれはなんて儚い文句であるのかしら。つまり大人になること、それは子ども心に残酷なことであるという事実を忘れることでさえあるのかもしれないといえるのでしょうね。そしてその言葉に示された哀切は、だれしもが大人にはなるという事情によって証し立てられているようにも思えるのだけれど、しかし世には大人になりきれないで死んでしまう魂もあるのであり、その魂が示した性質は、はてさて、なんて神聖だったことなのかしらね。それは清いからこそ、消えざるをえないという真実よ。なぜならこの世界とは、その種の美の存在を、毀すものでこそあるのでしょうから。なんて、脆い運命かしらね。はてさて、よ。」
『「あの子は死にそうな子だよ。あの子はきっと死ぬ――。」とSはまるで信じ切っているように言った。
「僕もそう思う。きっと近いうちにはね。あの子は一種の宗教的なものを、それが何だということをはっきり言えないが、そういう厳粛なものを容貌の内にもっていた。それはたしかだ。」
そう言いながらも、私はいつも悲しそうに、ときには居睡りしていたりした姿を思い出した。おかみの叱責のひまひまに隠れてやっていた彼の平和な居睡り――私はそれがあの子の最も幸福な瞬間であったような気がした。そういうとき、ふいと目をさまして、にっと微笑するときのつみのない美しさ――。それも思い出された。
「あの子が死んだら花でもやりたいな。しかし余り出しゃばるようでいやだね。」
「そう。花は少し変だね。しかし君でも僕でも、あの子のために祈ってやりたいね。なんだかことさらに祈るという言葉はいやだけれど、祈ってやりたいね。」
私は心からそう思った。あの短い苦しい生涯の花のない道を通ったかの女のために、私は心で、しずかにあの子を祝福してやりたいと思った。』
室生犀星「或る少女の死まで」
室生犀星「或る少女の死まで」
2009/03/24/Tue
「恋愛というのは障害があればあるほど燃えるものなんていわれるけど、その言葉が意味するとこは何かなって考えるなら、それはただ単に自分たちの恋愛に物語がほしいという欲求なわけであって、つまりそれは恋愛のドラマ化を望む心理だって解していいのじゃないかなって私は思う。というのも、人の日常というのはたいてい凡庸なわけで、その無個性な日々の機械的なくり返しに多くの人は飽き飽きしてるもの。だからそういったマンネリを打破するためにこそ恋愛やそれに類した刺激というのは求められるわけだけど、でも恋愛を継続してくとそれは単なる日常に墜落しちゃうから、恋愛を日々の刺激剤として用いるには、ある工夫が要請される。たとえば恋人を次々ととり返るなんていうのはその種の作為の下策であるだろし、単に恋愛をみずからの快楽のためにのみ使用するなら、それはその恋愛に参与した両者にとって決して幸福な未来を約束するものでないとはいえるかな。‥そしてまたその文脈で考えてくと、恋愛に障害があれば燃えあがるというのは、恋愛をドラマとして認識するということで、恋愛にある種の非現実性、要するに空想をとりこむことを目指す決意にちがいないのであって、そこで恋愛は両者が対等な立場に立って、お互いの生活を相互に支えあいながら向上してくことを目指すものではなくなるのであり、恋愛は単に特級の刺激剤、つまり想像的なドラマのなかの登場人物を自分たちで演じ、その熱狂に酔うだけのものに墜しちゃう。‥ロミオとジュリエットが自分たちのドラマのために階級制を利用したように、本作は未だアイドルがドラマになりうる時代を舞台として選んでる。現代ではだれもアイドルとの恋愛だなんて夢みてないものね。だからこの作品は、ある種のかつてあった時代のパノラマとしても見れるけど、でも物語を成り立たせている根本的な次元は、それこそ恋愛が人類の刺激になる限り、変わらないだろう基礎を据えてることは自明かなって、私は思うかな。」
「アイドルとの恋愛がドラマになりえた時代、か。ま、たしかここさいきんでは声優との恋愛をテーマにした「REC」という作品があったように思うけど、「WHITE ALBUM」もまた同じ線上にある、身分の差からなかなか実らない恋愛を劇的に描こうと試みている作品と捉えていいのでしょうね。とかくこの手の恋愛ものにおいては、どのようにして恋愛を成就させないか、どのようにしてその恋愛に障害をもたらすかが、作者にとっては至上の命題となるのでしょう。少女漫画などでもそのことを念頭に置きながら読んでみると、なかなかおもしろい発見があるのでないかしらとも思えるけれど、ま、しかし、恋愛が人間にとって最上の娯楽であることが、この種の作品からはうかがえるのよね。もちろんフィクションとしてはそれは責められるべき傾向ではないのでしょうけど、しかし現実においてドラマとして機能しうる恋愛は、往々にして不幸な結果になりがちなのよね。それはおそらくこの「WHITE ALBUM」においても、冬弥が幸福にはまずなりえないだろうと予想できてしまうところからも、いえることなのでしょうけど。」
「冬弥と由綺が感じてる二人の恋愛を阻んでる障害は、ドラマとしての恋愛が空想上のものであるのと同様、その困難自体がフィクショナルなものにほかならないから、かな。‥これは恋愛の渦中において苦しんでる人に宣告するのは酷かなって気がするけど、ただ少し冬弥と由綺の苦しみの表現には私は奇異な感じを受ける部分があるのであって、それが何かなっていえば、冬弥が由綺と会ったからって由綺のアイドルとしての才能が損なわれると決まったわけでないし、もちろんアイドルである由綺に恋人がいるってことが公然と知られては不味いけど、でもそれは結果論にしかならないし、それに単に冬弥を放逐することはもしかしたら由綺のメンタルにおいても悪影響を及ぼしかねないのだから‥実質及ぼしちゃってるし‥冬弥が何も自分をそんなに卑下しちゃう必要はないのじゃないかなって思えちゃう点なのだよね。これはおもしろいかなって思うけど、弥生さんは冬弥を由綺にとっての癌だって明言してるけど、でもそれには論拠がないのであるから、冬弥はそんなわけないじゃないかーって、弥生さんを押しのけて、由綺に会いに行ってもいいのだよね。でもそれを彼がしないのは、ううんできないのは、彼が弥生さんの言葉を真に受けちゃってるからでなくて、わかるかな、ここが肝心なのだけど、冬弥には由綺に対してものすごいコンプレックスがあるからなんだよ。そしてそのコンプレックスのために冬弥は弥生さんと身を重ねる。それはたしかに不実な行為であるのだけど、でもそれが単に性的にだらしないからというだけの理由でなくして、そこに自分を構ってくれない、自分より上の位置にいる、由綺への復讐の色あいがあると考えるなら? ‥この作品はほんとに、女の影に迫られ、そしてその影を受けとめきれずに滅ぼされる、哀れな男性性の物語であるのだろうな。その意味で私は本作が、ほんとによく描けてるって感心する。次回もとても楽しみかな。」
「由綺は冬弥と会わないことを自分の戒律としているわけなのでしょうけど、しかし冬弥と会わないからといってイベントが上手く行く保障もないのは、冷静に考えれば当り前なのよね。だから彼女がどれだけ涙を流して苦痛に耐えながら孤独であろうと、その前提にある彼女の戒律は、それ自体がもしかしたら空虚な無意味なものであるのかもしれない。そう考えていくと、なんとも不毛な苦しみを二人はしているものだとも思えてきて言葉がないかしら。しかし、ま、なんていうのかしらね、そうやって自分たちで目に見えない障害を作り出し、自分たちで勝手に苦しみながら、自分たちの恋愛というドラマを盛りあげていく。そういった心理は、はてさて、もしかしたら恋愛という現象において人々がはまりやすい陥穽でないとはいい切れないのでないかしら。ま、なんとも残酷で滑稽なドラマよね。どう決着するものか、期待してみるとしましょうか。」
2009/03/23/Mon
「今回は雛ちゃんたち水族館で模擬デートの話。ちなみになんの予備知識のない子どもをはじめて動物園に連れてったなら、その子は神経症者になっちゃうかもしれないっていったのはホルス・ルイス・ボルヘスだったけど、その言葉の意味するところは奇怪で奇態な風貌をした種々の動物たちは、ふだん人間としか接してない、ほかの生き物はせいぜい犬か猫かそこらの虫くらいしか見聞してない幼い精神が、いきなりこの世界の動物を各種無造作にとり揃えた百科全書的な空間に入れて観察させたなら、生物の神秘とかいう以前にその奇妙で奇天烈きわまりない形態にショックを受けちゃうだろうというものかなって、私は受けとってる。それでそのボルヘスの指摘は、動物よりもさらに私たち人とは異なった部分の多い水中の生物をまとめた水族館なら、いわずもがな、さらに強烈な刺激をイノセントな心に与えることは必至っていっていいのだよね。もちろんいろいろな不必要じゃないかなって思えちゃうくらいの情報を、日々摂取してる現代の私たちが、水族館や動物園ほどでそれほど深甚な影響を蒙るなんて、それはさすがに思いにくいのだけど。」
「人間以外の生命体の形態の強烈さ、か。ま、それは私たちに自然の不可思議さと奥深さを教えてくれるものであり、また自然の底知れなさと人間とはちがった異世界がこの地上に厳然と存在してくれることを教える、未知なる恐怖を共に教えてくれるものかもしれないのかしらね。しかし、ただ、なんていうのかしら、いつものことといえばそれまででしょうけど、ボルヘスの言葉とか、恋愛くらぶになんの接点もないのは明らかでしょう。なんていうか、毎度毎度この作品の感想は作品そのものには関係ない与太話しかしていない気がするけれど、いいのかしら。」
「‥」
「‥黙っちゃったかしら。」
「‥い、」
「い?」
「岩をも砕くプラトンパンチだー!!」
「ぐふぅおっ!!?」
「だって‥だって、しかたないじゃないかー! この作品読んでもいつもいつもこれといった感想が思い浮ばないのだもんっ! せいぜい、ませがきめー、くらいしか思いつかないんだもんっ。そしてこの作品はそれでけっこう正しい享楽の仕方なのじゃないかな?って思えちゃうのだもん! でも雛ちゃんスク水かわいかったよねー、で、エントリ終らせちゃ何かつまらないじゃないっ。何より私がつまらない! そんな短い歓楽的な感想だけじゃ!」
「‥ま、だからといって、ボルヘスの話をするというのも、あれじゃないかしら。」
「いいの! 今日はボルヘスの話をするのっ。私がしたいの!」
「それじゃ、勝手に、お気楽に。はてさてね。」
「こほん。‥これは前にもしたかなって思うけど、私自身はあまり動物というのは好きでなくて、もちろん動物それ自体がきらいというわけじゃないけど、でも積極的に動物とふれあったりすることにはとくに興味ないかなって思ってる。ただそれでもときおり動物園や水族館に行く機会があると、その場所を成り立たせてる意義というか人がこういったほかの生命体を蒐集してそれを分類、展示する欲求の根ざすとこはいったいなんなのかなって、そういった点に関しては私はつよく興味をおぼえるのであって、人間のそのコレクションへの熱意、要するに百科全書を完成させようって欲望は、ある意味人間の根源的な形而上的傾向を示し立ててるのでないかなって気がするかな。というのも、つまり動物園や水族園というのは、私には人がそもそもメタ的な欲求を抱えてることの物質的証左であるのであり、人間に形而上学的傾向がそもそもなかったなら、ただ観察するためだけに動物を捕え飼育しようっていう気は起らないだろうなって思えるから。しかもそれぞれ適切な環境が異なった生き物を、各個に応じて展示環境を工夫しながら配列しなきゃいけないのだものね。そんなめんどなことよくやる気になるなって気もけれど、でも私にはそれが人の抽象的な観念的な情熱の発露だと考えると、なかなか愉快な気分になってくるのも否めない。それというのも功利主義的、実利的な態度からだけでは、動物園や水族園の存在意義というのはありえないのだものね。動物園や水族館が幅広く存在するということは、すなわち生命を観察したいという人の形而上的傾向が普遍的に存在することを、証し立てるものにほかならないのだろうから。」
「動物園や水族館というものは、実際的な生き物を集め展示しているのだから実物的な場所に思えるけれど、しかしそれを成立させている根本的な意義を考えるならば、それは人間の形而上学的な欲求の要請するところにちがいない、か。ま、人間というのは無意識裡にはなかなか自分では実感していないような観念的、抽象的な欲求に左右される存在なのかしれないかしらね。そしてまた、なんというかむりやり恋愛くらぶに話を結びつけるなら、雛子のしようとしていることはみずからの頭のうちにしかない恋愛像を実現しようとあくせくしてるのみなのであって、それもまたなんとも奇妙で空疎な観念遊戯にしか思えないといったところかしら。はてさて、毎度のことながら変なエントリになったけれど、しかしこの作品、そろそろストーリーに変化がほしいところかしらね。何かしら転機が見えてもいいのじゃないかしら?と思えるけれど、どうなのでしょう。ま、次回ものんびりと待つことにしましょうか。なんていうか、はてさて、ね。」
2009/03/22/Sun
「今回はいよいよ舞台本番。そしてその模様は各キャラのモノローグを背景に描写されてることも相まって印象的に描写することに成功してるかなって思えられて、なかなか演劇の臨場感がよりよく映えて演出されてたかなって思う。とくにおなじみの人たちが演技してるとこは役作りをしてるのだなってことがよく伝わってきた好感触の描かれ方が為されてて、いつもとちがう自分以外の人格を演じてるって、少し奇妙でそしてふだんと異なった意外な所作のていねいな描出は、それぞれの人物造詣にさらにふかみをもたせることができてたって気がしたかな。おとなしいさちえや積極的なふるまいをする麦ちゃんは、ふだんとのギャップのお陰もあってよかったかなって思う。ただこれで演劇それ自体の描写をもっと焦点を当ててやってくれたなら、より作品の奥行っていうのが出るのでないかなって思えちゃって、ちょっと残念にも感じられたかも。それというのも「ひとひら」って作品はこれまで演劇を一貫して扱ってるわけだけど、舞台でどんな芝居をやってるのかなって部分が中心に描かれたことはないのだよね。とくに今回は怪奇ものということで、けっこうおもしろそうな内容だったみたいに思われるから、よけいにそのストーリーのあらましくらいはさらに描写してくれたらなって、惜しい気持が拭えない。本番の芝居の描写で数話つづけるのはやっぱりきびしいのかな。どなんだろ。」
「研究会のときの「ひとひら」はまだよく芝居の中身にスポットライトを当てることができていたような記憶はあるかしらね。ただ、ま、この作品の場合、あくまで肝心なのは麦ちゃんを中心とする登場人物たちの人間的な成長に関心が払われているのだから、演劇そのものよりは演劇を通じて何を得られるかといった点が課題となるのは、むしろ当然なのでしょうね。本番の内容そのものよりも、本番に至りつくまでの過程こそが問われているとでもいえば適当なのかしら。紆余曲折あった末に、当日の火花のような成功の喜びがある。下積みあってこその今回のエピソードだと思うと、少し感慨深くもあるのでしょうね。」
「部活を通しての内面の変化の様子こそが肝要であるって点についていえば、それはこの作品はさいしょから変わらない、作品の中心に据えられたテーマではあるのだろね。部活と、そこにいる人たちとの交流によって個人の意識の変化こそが、「ひとひら」って作品の眼目である、か。‥余談のようになっちゃうかなだけど、なんとなく思うのは、麦ちゃんが今回「演劇やってて良かった」といえたことは、単純につらい練習の経験を越えて舞台の今の歓喜の場に立てたという高揚感の意味あいはもちろん少なからずあるのだろうけど、でもそれよりもっと注目しなきゃいけないことは、彼女が‥引っ込み思案でいじけて自分の意志を表に出すことができず、自分にも他者にもつよい肯定をすることができなかった少女が‥自分のしてきたこと、つまり演劇を選択してそれを決意をもって臨めたということであり、そしてそれを彼女が是としたということは、麦ちゃんが自分自身の過去を是とするということであって、自分のこれまでのがんばりをほかならない自分自身が評価したということにちがいないのであり、私は、ここに麦ちゃんの変化の最大の部分を見つけた思いがしたかなって思った。‥自分で自分を是とできる。今につながる過去を、自分のなかで目を逸らすでなくて、自分の選択の結果として受容し、そして自分の今のあり方を是とするためにこそ、肯定する。過去が今につながり、そして今の喜びが過去に根ざしてることを実感するからこそ、過去の重みは今の歓喜と変わることができるのであり、それはある意味ニーチェのいったことの最大の要諦でもなかったかな。‥今回のお話は、だから、この作品のひとつの区切りとして十分に納得の行くものだったって、私は思う。そしてこれからどうなるか、まだ描くべきことがあるのかどうか、次回を楽しみにして待ちたいかな。‥麦ちゃんがまたひとつ自分を認めることができたのは、私にとってもまたとてもうれしい瞬間だった。麦ちゃんかわいくて、よろしかな、だね。」
「演劇をはじめる前は自分から何かをがんばろうとしたことは一度もなかったと、麦ちゃんはかつていっていたことを思い出すかしらね。それが今回描かれたように、みずからのがんばりをみずから評価することができるまでに成長できたのだから、人というものは、やはり変化するものなのでしょう。そしてこの作品のいいところは何かといえば、そういった人が自分の努力、そしてまた自分が努力すると決めたその選択をこそ、たとえ途中にどのような苦難があろうとも、最終的に是とする強さを見せてくれる部分にあるとはいえることなのでしょう。ただしかし、麻井麦の成長物語として見た場合、この作品がこれから先どこまで描くかがなかなか未知数なのが、なんとも読者としてはやきもきさせられる部分だというのはいえてしまうのでしょうね。はてさて、この作品はつづいて何を見せてくれるのかしら。ある意味ここらで一区切りといわれても納得してしまいそうだから、なんだか次回がどうなるか興味があるのよね。麦ちゃんの物語は、さてどうなることかしら。楽しみに次回の掲載を待ち望むこととしましょうか。どうなることか、はてさてよ。」
2009/03/21/Sat
「芥川龍之介の数ある短編のなかで、とくに私が好きな作品が「蜜柑」であり、大正七年に発表された本作は、芥川自身の実体験が元となって書かれてるっていわれてる。ほんの数ページくらいしかない分量だから、読もうと思えば早い人で三十分もかからず読めるかなって思えるのだけど、この短い尺のなかに、芥川はみずからが接したほんのひと時の交流と呼ぶにはあまりに慎ましい他者とのふれあいを経験するのであり、人が他人に感銘を受けるって印象ふかい出来事を経るということは、量でなくて質であり、そしてその機縁というのは意図してでなくてまるで天からの贈り物のようにあらわれるものであることを、小さな、だけど大切な奇跡のようなものだとして、本作は表現することに成功してる。この温かみと素朴さと、そして芥川の心理の移り変わりの見事さは筆舌に難いかな。さらにいうなら、この作品に描かれる感動の質というものは、たぶん芥川個人のこのときの心理状態とよく馴染みのある人ならすぐに理解できる類のものなのであって、そこは私も、芥川のいうとこの「ぼんやりとした不安」に駆られたことのないとはいえない人種に分類される無聊とした人間であるのだろから、私はこの作品に並々ならない関心を抱いちゃうのだろうな。‥甘くて温い、蜜柑の味。そこに潜められた人情を、この作品は描いてる。」
「物語というほどの筋はないのだけれど、しかしあえてこの作品を説明するというなら、ある電車に乗りあわせた男とひとりの素朴な見るからに垢抜けない少女の車室での一場面を切りとったものというほどになるのかしらね。その意味でパノラマ的だし、実際この作品は叙景的に描かれているのであって、芥川の簡潔な筆致は読者のこの話がどのような場面で進行して行ったかを、如実に示して余りあるものがあるのでしょう。それに一読すればわかることなのでしょうけど、男と少女は一片の言葉も交してはないのよね。ただ男が少女のふるまいを仔細に観察していただけなのであり、しかしそれだけのことでも、人は多くの言葉を費やす以上に、ときにより理解をふかめることがある。それが縁というものの、不可思議さなのでしょうね。」
『しかしその電燈の光に照らされた夕刊の紙面を見渡しても、やはり私の憂鬱を慰むべく、世間は余りに平凡な出来事ばかりで持ち切っていた。講和問題、新婦新郎、瀆職事件、死亡広告――私は隧道へはいった一瞬間、汽車の走っている方向が逆になったような錯覚を感じながら、それらの索漠とした記事から記事へ殆機械的に眼を通した。が、その間も勿論あの小娘が、あたかも卑俗な現実を人間にしたような面持ちで、私の前に座っている事を絶えず意識せずにはいられなかった。この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、そうして又この平凡な記事に埋まっている夕刊と、――これが象徴でなくて何だろう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であろう。私は一切がくだらなくなって、読みかけた夕刊を抛り出すと、又窓枠に頭を靠せながら、死んだように眼をつぶって、うつらうつらし始めた。』
芥川龍之介「蜜柑」
「ここで芥川が語る、倦怠というものに、たぶん私も無縁でない。本やブログがなかったら、どんなに生きてくのが退屈になるだろうなってときおり思う。そして、その種の倦怠というのはある意味悪魔的なものでもあるのであって、人生の、日々の端々に対する退屈は、そのうち自分以外の外界すべてに対する皮肉な態度に変ずる。そしてそれはそののち侮蔑に変貌するのであり、またしまいには他者だけでなくて自分そのものにも皮肉で悪魔的な感慨を抱くようになる。それだから退屈や、ぼんやりとした不安は、魔であるのであり、生きること自体におどろきや関心を失った態度は私という存在そのものへの、つまり人生そのものへの、蔑視につながるのだろうって思う。‥だからなんとなく退屈かなって世間を眺め回したときに、すでに危機ははじまってるのであって、投げやりで暗鬱な心持は、孤独な心中におそるべき影をもたらす。そこで何よりこわいのは、侮蔑された世界は、侮蔑した個人に対して、無関心という手段でもって、報復に出るということなのだよね。‥だから、こわい。倦怠に覆われた個人は直接的な暴力でもって自分が見下した世界から襲われることこそ心の底から望むのだけど、でも世界は、そんな個人に関心と時は払うくらい、寛容でも慈悲ふかいわけでもなくて、だから蜘蛛の糸自体が孤独な心には見つけられないのであり、地の底に彷徨する、無意味に彷徨することだけが、倦怠に染まった孤独な個人の末路なのだと思う。‥でも、たまに、蜜柑の色が見えるときがある。あざやかな、あなたが、生きてることがわかるときがある。そしてその瞬間は、愛しい。‥私は蜜柑のその色だけを、ただ退屈に暮れた夜にも、信じてみたいと、思ってる。」
「蜜柑を見とめた瞬間は、豊穣な人間性の再発見のときにほかならかったから、か。はてさてね。しかし実際、世間に生きるということはあるていどの無聊を覚悟するということでもあるのでしょうし、またその退屈な心持を退屈と意識することなく、次第に安逸へと堕落して行ってしまえば、個人を襲うのは、退屈からの救いでなく、ある種のおどろきと喜びを感じる心の部分を殺すことによる、精神の死でもって退屈を易々と受容できるように、自己を害ってしまうことなのでしょう。そして本当に、大人になるにつれ、心を死なせてしまう人は多いのでしょうね。それはしかたがないとも思えるし、何かとてつもなく寂しいこととも思える。心を死なせば楽でしょうけど、しかし楽なだけでは何か物足りないようにも思える。ま、ままならないものかしらね。しかし、ただ蜜柑がある、その言葉で救われる心もあるのでしょう。本作の魅力があるとすれば、その一点にしかないのでしょうね。だけれどそれは、とてもいいことなのよ。そうじゃないはずがあるかしら?」
『暮色を帯びた町はずれの踏切りと、小鳥のように声を挙げた三人の子供たちと、そうしてその上に乱落する鮮な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はっきりと、この光景が焼きつけられた。そうしてそこから、或得体の知れない心もちが湧き上って来るのを意識した。私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るようにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前の席に返って、相変不皸だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱えた手に、しっかりと三頭切符を握っている。……………………
私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。』
芥川龍之介「蜜柑」
芥川龍之介「蜘蛛の糸・杜子春」
2009/03/21/Sat
「今回のお話自体は毒にも薬にもならなくて、とくに何もいうことないかなって思うのだけど、ただ少し気になったていどでいうなら、渚とその家族のつながり方というのはやっぱり少し不健全な面があるのは否めないかなって気がするのであり、この点は見逃しちゃいけないようにも思えるし、またその渚の家族から受けた精神的な圧迫は、ひいてはこの作品の終盤の方向性を決定づけることになった町への信仰に大きく関係するようにも私には思えるから、少しここであらためて検討してみたいかな。というのも、まずこれは秋生さんと早苗さんの渚への態度から考えなきゃいけないことかなって思うけど、彼らが第一に力説してることであり、そして作中何度も説くところの彼らの信念というのは、子の幸せが親である自分たちの幸せであるということであり、これは学生編のラストを飾ることになったテーマでもあったことは疑えない事実かなって私は思う。そしてその種の親の幸せは子どもが幸福になることなのだから、子どもは親がどうなろうとても自分たちの幸せのためにこそがんばらなくちゃいけないんだよって説くことは、世間一般に流布した家族って幸福の幻想のお得意の論説なのであり、クラナドもまたその潮流の一端に乗っかっただけであって、だからこそ広汎な人気を得ることになったのだろうなって気がするかな。‥でもただだけど、ここで少し留意しなきゃいけないことは、この親の幸せは子どもが幸せになることだって子どもにくり返し説くことは、一見して子どもの自主性を尊重してるかのように見えちゃうけど、でもその実、この言説は逆に親のありがたみ、親の子への献身を無意識裡に刷りこむことにほかならなくて、だから逆にいうなら、子どもの幸福を親が明言して自身が自己犠牲に走るのなら、それは間接的にとはいえ、親が子の人生の裏の支配者として君臨しちゃうことにつながらないかな。といって、これはなかなかいいづらい話題で、あんまりつよくいうべきことでもないかなって躊躇しちゃう心理はあるけれど、ね。だって、子のためにがんばる親御さんを非難なんてできないものね。でも、そのできないものねって心理の裏に、この親による子の支配の暗黙のひみつがある。そして、この間の事情に気づいてない人は、あんがい少ないのでないかな。」
「要するに子に親が自分たちはお前のためにこれだけ苦労しているのだぞという圧迫を与えることによって、子に親に対しての罪悪感をもたらし、それによって子の人生を間接的に自分たちのために支配し利用するといったものなのよね。ま、なんというかあまりに世間一般のありがちな話であるだけに、逆にけっこう言及しづらい話題かとも思えるけれど、しかしはてさて、このクラナドという作品に限っていった場合、この種の親への罪悪感、そしてそれによる親への恭順といったものは、見過してはならない重要な位置を占めているようにも思えるのよね。とくに一期のラストは親への罪悪感でがんじがらめにされた渚の苦悩が中心だったのだし、家族という問題を描いたこの作品がそういった家族愛の裏の面を無視してはならないというのはある意味当然なのでしょう。そして考えねばならないのは、けっきょく渚は親への罪悪感を断ち切れたのかといったことなのだけれど、はてさて、どうも渚は上手くそれを振り切れてはないように思えるのよね。それはみずからが親になったそのときも、未だ渚を縛りつけているように思えてしかたがない、か。」
「家族という小さな枠組の連帯を支える要が罪悪感だったとしたなら、家族の上位互換として機能してたろう町という存在も、また罪悪感を鍵にしてその信仰を獲ていたように思えるから、かな。‥これはなかなかむずかしくて、まだ私のなかでも上手にまとまってない問題ではあるのだけど、ただ町へのこの作品の極端な神聖視、そして娘や妻を犠牲にしてまでの奉仕は何に由来するのかなと思えば、私にはその一端は朋也の罪に担われてたような気がする。それがなんでかなっていえば、まず朋也は渚っていう家族の幸せになれって期待という名の重圧に健気に耐えるつよい少女に出会ったことにより、家族を省みなかった自分が罪ふかい存在なのでないかなって疑惑を抱く。そして渚との親密さが増すごとに、彼の家族への罪意識は際限なく膨らんでくのであって、彼はその罪のゆるしを求めねば済まなくなる。そして町という枠組が神の役割を果す世界であるなら‥家族もまた入れ物であって、それは人同士の連帯があってはじめて機能しうるものであり、町もまた入れ物にすぎなくて、そこで能動的に人とのつながりを築いて、はじめて町への愛着が生まれる。その意味で町と家族の共通性というのは見出せるのでないかな‥町が与えた罪悪感のために‥つまり幸せにならねばならないっていう強迫感‥朋也が滅び去らなきゃいけなかったのは、家族愛を第一に説くこの作品においては、もしかしたら必至だったのかもしれないかなって、私は思うかな。それというのも町への信仰とは、家族がもたらす罪悪感による支配の裏返しにほかならないと考えるのなら、彼の殉死は妥当であるかしれないから。」
「町とは巨大な家族であるという劇中の言葉を踏まえるなら、決して町が個々人に罪悪感を植えつけなかったとは限らないとはいえるのかしらね。ただしかし、なんていうかこれは、やはり共同体の和の協調がもたらす、個人の自由な発想へのくびきとでもいうほかない現象なのかしら。というのも、家族という、そしてまた町ともいう枠組があってはじめて個々人の幸福が可能であるという発想がこの作品の根本にはあるのであり、それを越える存在は容赦なく断罪されているのがこの作品の物語でもあるのでしょうからね。芳野とかはその典型でしょう。町を見捨てれば呪われたように失敗する。だからさいしょから町から出ず、町の人のために、小さな愛を胸に秘めて慎ましく生きていれば良かった。そして彼は実際その考えに落ちつくのであり、この作品は彼の人生をそれで良しとしているのよね。ただ、ま、なんていうのかしら、何か息苦しい世界のように思えるのよね。この作品は、なんだか息苦しく狭いようにも思えてきたかしら。少しは町を飛び出す、雄大な人物がいても良かったように思えるけれど、はてさてそうは行かず、枠組を壊すどころかそれを賛嘆したのが、本作の意義なのでしょう。それはそれでべつにいいのでしょうけど、しかし少し微妙な思いは残るかしら。それは私たちが家族の幸福を盲目には信じられないからかもしれないけれど、ま、それはしかたないことね。幸福というのはある意味、罪を忘却することで得られるものかもしれないのでしょうから。まったく忘れられないというのは、罪なものよ。はてさて、ね。」
2009/03/19/Thu
「原作と対照して考えるとこの成行はとても興味ふかいものがあるのであって、まず注目したいのは最終巻で描かれたものとアニメで描かれたもののなかで役割に大きな差異がある、みのりんと亜美さんのことを考えなきゃいけないかなって思うかな。というのも、今回、私が重要かなって思ったのは亜美さんが大河と竜児を送ったあと泣くみのりんを見ていった台詞であって、それは「竜児と大河の二人にふられた」というものだった。そしてこれは私なりにこれまで考えてきたみのりんってキャラ像の空隙を埋めるかもしれない評であって、原作と異なり、アニメではみのりんを竜児と大河の二人にふられた存在‥つまり彼女のいちばん好きな二人から、自分はいちばんには好かれてないって、彼女は認識したということ‥として表現されてるのであり、これはもしかしたらみのりんの内面のひみつを暴き出したのかなって気がした。わかるかな、原作のみのりんは、たぶん、竜児と大河を見送ったあとも泣きはしないんだよね。それは原作のみのりんは「自分の幸せは自分で決める」って明言してそのとおりに自己を律してることからもわかるのであって、この場面で‥原作とアニメでは細部はちがうけど、でもそれはあまり大きな問題でない‥みのりんを泣き崩れさせたというのは、私にはみのりんという人となりにとって、救いであったのだと思う。だって、原作のみのりんって、本音みせないじゃない。とくに亜美さんにだなんて、みせるわけないじゃない。それなのにこのアニメではみせた。亜美さんの前で泣いてみせて、そして頼りさえしてみせた。これはすごい。たぶん、これがみのりんをこの人間関係のなかで、この作品のなかで、救うただひとつの方法でさえあったんだ。そっか、ここでみのりんを「自分がいちばん好きな人からはいちばんには好かれなかった」ということを自覚させることが、みのりんの頑なな心を解す唯一の術だったのだね。これはすばらしい。原作を明確に越えた。」
「前回は自分のことを棚にあげて大河を糾弾していた実乃梨だったけれど、しかしそれは大河と竜児の二人からはもうもっとも好かれているわけじゃないということを実乃梨本人が自覚していたと考えれば、たしかに無理な描写ではなくなるのでしょうね。となると、これは原作9巻の内容を実によく解釈し再構成してみせた結果だといっていいのかしら。さらには原作と異なり、自分の弱さ、つまり第一に好かれなかったという失恋の経験を経た実乃梨であるからこそ、自分と似た立場にいる、竜児と大河から良き友人ではあっても決してそれ以上にはなれなかった亜美との共感が生まれるのであり、よって実乃梨と亜美には通路ができた。心情の交流という、可能性に満ちた通路が。いや、これはすばらしい着眼点だったのでしょう。たった一場面、実乃梨の涙を挿入することにより、原作において未解決だった亜美と実乃梨の問題を一挙に解決させてみた。この描写は、感嘆するかしら。」
「亜美さんとみのりんについては文句なし。今回のお話のような見方と可能性を考えるなら、私が抱えてたみのりんの問題はあらかた解決つく。そしてそういった面からいえば、まったく竹宮ゆゆこの発想以上の描写を今回のエピソードはしてみせたのであり、この制作陣の上手さというものを実に納得行く形で呈示することに成功できたのが、「とらドラ!」って作品の長らくの不満点だった、大河以外のヒロインの救済にあったことは疑えない事実であろうかなって、私は思う。亜美さんとみのりんの関係の描き方については、うん、すごく、よかった。‥それで、それじゃ次にはほかならない主人公である竜児と大河の描写についてはどうなのかなって関心に移るのだけど、これは尺の問題からしかたなしといっても、原作のほうが心情の盛りあがりと二人への感情移入から来る臨場感といった面においては、原作に一歩譲らざるをえないかなって気がするかな。とくに橋のうえでの竜児と大河のキスシーンはあったほうがよかったかもだし、川のなかでの告白と抱擁は全編中いちばん心に来るシーンといっても過言ではないのだから、これを閑却しちゃったのは惜しいとしかいえないかな。ただだけど、クオリティって点において、こんなに卓抜したラノベのアニメ化は初めて見たっていっていいかもだから、次回もまた、私は期待したい。どうまとめてくれるのか、とても、楽しみ。」
「竜児の心情をモノローグで逐一つづっても良かったのでしょうけど、しかしそれをやると映像ならではの疾走感に欠けてしまうということはいえてしまうのでしょうね。ただそれでも大河と竜児の二人の想いが共感された場面は印象深いのだから、それがあまり時間を割いて描写されなかったのは、たしかに残念ではあるとはいえる、か。ま、はてさてね。それでもしかし、大筋では原作と同一なのでしょうけど、原作とは異なった、もしかしたらそれ以上に希望をみせてくれるのかもしれない展開の運び方は、まったく感心するばかりよ。本当に良いアニメ化になったことね。ここまでの完成度になるとは正直思っていなかったのだから、さいごまで期待を寄せたいというものよ。さて、どう決着するのか、楽しみに待つとしましょうか。」
2009/03/19/Thu
「一九八九年から一九九一年にかけて新聞で連載されたエッセイを集めた「心の砂時計」は、六十歳をすぎた晩年の遠藤が自身の築きあげてきた思想の裏打ちのあるあたたかな人間性を伴って、どんなふうにその人格を文章として表現するようになったか、その円熟された機微を知るには最適な一冊かなって思う。それに新聞連載って形式上の要請から来る制限もあって、エッセイのなかでふれられてるテーマは多岐にわたるのであり、当時の日本、とくに東京がおかれてた時事問題や、湾岸戦争に関連する国際情勢への洞察、さらには自身が主催してた劇団やバレリーナとの交際や、医療の困難な側面、さらにはおいしい料理屋の話などを、気楽に読むことのできる力のぬけた瀟洒な文体でつづられてる。ただ難をいうなら、新聞に連載されるってためから来る弊害かなって思うけど、一つひとつの内容はそれほどふかく追求されてるわけでもなくて、そのなかでも時事問題についての見識は本人も断りを入れてるとおり、床屋政談の域を出るものでなくて、だから当時九十年台初頭の遠藤って庶民の偽らない述懐を当るって意味においては何等か益があるかもだけど、でも詳細な当時の様子をうかがい知ることはこれではむずかしいかなって思う。さらにもひとつ読んでて惜しいかなって思えちゃうのは、本書には遠藤文学のこれまで扱ってきた種々のテーマにふれる箇所が幾たびも散見されるのだけど、ただそれらが実際の作品に表現され結実されたものを水で薄めたように軽く表面をなでるていどにしか著述されてないから、遠藤の愛読者としては少なからず物足りなく思っちゃう部分は否めないかなって指摘できちゃうとこかな。でもこれは、このエッセイの性質上、致し方ないことではあるのだよね。それにエッセイとして考えた場合、肩の力をぬいて読み飛ばすにはこれくらいが最適なのかも。暇な折に漫然と頁を繰るのが、この本のよき読書の仕方なのかもかな。」
「ま、すでにある程度以上の遠藤の著作を読んでいる人からすれば、本書は遠藤の関心がどの方面にあったかということを再確認するくらいの意味しかないということはいえるのでしょうね。ただしかし逆に考えるならば、この一冊は遠藤周作に一度もふれてない人が入門として読むには、その読みやすさと気軽さも相まって、もしかしたら最良のものともいいうるのかもしれないかしらね。遠藤のもつある種の暗さが、このエッセイ集からは何より除かれているのだし。宗教的な関心から遠藤を敬遠していた人がいるとするならば、この書は遠藤の人間的魅力を伝えるに余りあるものがあるといっていいのでしょう。遠藤の文学の描かんとするところは、そう現代人にとっても無縁とはいいがたいのでしょうし。」
「今でもときおり考えこむけど、遠藤という人が表現しようとしてたことは彼の人間的経験の奥ふかくに沈殿した劣等感にあったのじゃないかなって気が私にはする。‥ね、お姉ちゃんもさ、遠藤には常にどこか後ろめたい思いがその文学を描こうとする際には背後に消し炭のようにつきまとってたのでないかなって思わない? 私には遠藤が病気について語るときも、隠れキリシタンの悲劇をあらわそうとするときも、現代の人間の無意識に潜む悪しき願望を露見させようってするときも、遠藤の頭脳と魂の底には冷え冷えとした人間性っていう奇妙で怖ろしいものへの畏怖があって、そしてそれが遠藤をしてあくまで小説を書かせつづけたのでないかな。‥そしてそういった観点から考えたとき、遠藤を一概にキリシタン作家として定義して彼の文学を評価しようとするのは、速断であり、またある危険があるのじゃないかなって気がするかな。というのも、遠藤はたぶんキリスト教についてだけでなくて、もっとイエスという人に代表される異質な文化‥それはつまり若いころの遠藤にとって、底知れない人間性の象徴に映った‥に驚愕を感じたのであり、それがだんだんと平凡な人間のうちにこそ潜む天使のような悪魔のような性質に連なっていったような気がする。それだから遠藤の文学は、人って不可思議な存在に興味を抱く人ならば、だれもが無視できないだろう何ものかを探求したものとして解されるべきなのじゃないかなって思うかな。それは文学の扱うべき領域の、普遍的なひとつにたぶんちがいないのであろうから。」
「遠藤は小説作品では読む者を憂鬱にさせずにはおかないほどとても暗く陰惨な、表面だけではなく内面こそが地獄であるような世界を追求して描く作家なのだけれど、はてさて、こういったエッセイ集では遠藤という人自身の生来のユーモアが顔を覗かせるのが、小説作品とのギャップも重なって、なかなか興味あるように思われるのよね。人間というものは多面的なものであるということを、遠藤という作家は多少なりとも私たちに教えてくれるのかとも思えるけれど、しかし現代で遠藤がどう読まれるかは、あんがい判じがたい問題なのかしれないかしらね。ま、遠藤という人となりを知るには、最良の一冊といっていいでしょう。ただ当時の世相を知るだの、遠藤文学のテーマを煮詰めるだのという意味においては、あまり役に立つ一冊ともいえないかしら。あくまで温かな遠藤の側面が代表されるものとこの書は捉えるべきなのでしょうね。それでいいし、それ以上を望むべき一冊でもないでしょう。気軽に読めば、それでおそらくいいのよ、これは。」
『わが家にもクロという犬がいて、温和しい、善良そのものの犬だった。
自分の人生の思い出のなかに、幼いころ、少年・少女時代、飼い犬と遊んだ懐かしい記憶の持ち主は多いだろう。そしてそれは幸福のイメージに結びついたり、哀しい追憶と重なりあっているあろう。
私の場合もクロはよき遊び相手だったし、時には唯一の話し相手だった。
私は親にもうち明けられぬ心の傷を(子供だって心の傷があるのだ)、クロにだけうち明けた。
そんな時、クロはじっとぬれた眼で私を見るのだった。
犬が人間の心を理解しえないと私は絶対に思わない。』
遠藤周作「心の砂時計」
遠藤周作「心の砂時計」
2009/03/17/Tue
「冬弥をペットって呼ばせたのは今回のお話の見逃してはならない点かなって思う。というのも、ペットっていうのは彼の現在の理奈さんに限らず広い意味での女性との関係における立ち位置を考えた場合、まさにそのとおり、彼の本質を突いてる評であって、冬弥はこの作品に登場してる女性たちの側から見るなら、彼自身の主体性や意志といったものは何等問題にならない、ただ私たちのいうとおりに動けばいいって、されるがままの立場にあることは明白なのだよね。たとえばこれは理奈さんとの関係を鑑みればわかりやすいのだけど、理奈さんが冬弥を求めたのは冬弥に何か頼みたいからとかでなくて、ただ単に傍にいてほしいというだけだったのだよね。そして冬弥はその言葉のとおりにほんとに傍にいるだけであって、その姿はただの理奈さんのいわれるがままの役割を果すだけの人形、指令をまつだけのペットにすぎないわけであり、これは冷静に考えるなら冬弥はいたく侮辱されてるのであって、彼は怒って然るべきでさえあるのだけど、でも彼は激昂する代わりに、理奈さんを「女神」と呼んで満足してる。自身が屈辱的な位置にいるということに思い至れなくて、表面上はたしかに慈愛に満ちてるかのような理奈さんだけど、その実、何より冬弥を軽んじてるのは理奈さんにほかならないのであって、でもそこまで思考を伸ばさない、伸ばすことのできないのが、冬弥っていう、この作品の愚者にちがいなかった。‥彼のこの空虚さは、いったい何に由来するのかな。そして彼を食い物にする女性たちの欲の底知れないふかさは、なんて暗い情動を呼ぶのだろう。うん、いい作品だね、「WHITE ALBUM」。人間の性の惨めさを、見事に描きだしてくれちゃってる。素敵かな。」
「何も仕事をくれずにただ横においておくというのは、ま、愛玩するといったこと以上の意味あいはないのでしょうね。もちろん冬弥が紛れもない理奈の恋人であるのならば、この冬弥の処遇もまだ認められる余地が生まれるのでしょうけど、しかし実際は理奈は冬弥に対する感情を何ひとつ明確に告白してはいないのであり、その態度を賢明ととるかまたは卑怯ととるかは、ま、人それぞれの判断なのでしょう。ただしかし、冬弥のような男はそのくらいの扱いが適当だというならば、もしかしたら残酷すぎるのかしれないけれど、ある意味真実なのかしれないかしらね。本当、冬弥という男は下手くそよ。彼はあらゆることに深く思いを致せない。まるで中身のない人形のようで、見ていて哀れね。いや、もうこの時点で彼の心の大切な部分は、壊されてしまっているのかしら。壊れているのでないかと疑えるほど、彼の状態は悲惨なのよね。どうもひどいものよ。」
「冬弥は性的な方面にだらしないだけの惰弱な人間として把握するには、何か引っかかるものが感じられるから、かな。‥というのも、冬弥が性欲にかんたんに溺れちゃうだけの問題を抱えてる人ならまだこの錯綜した人間関係の構図はわかりやすいのだけど、でも冬弥って人には、なんていうのかな、ある意味すごく無邪気な一面があるのであって、それはたとえば今回のエピソードのさいごの理奈さんとの会話の場面に覗けることでもあり、冬弥はこのとき理奈さんに臆面なくあっさりと自分が弥生さんと関係してることをほかならない理奈さんに自白しちゃってるのだよね。それで、ふつうはこういった複雑な立場にある人がそんなかんたんに自分の立場を危ぶむようなことを‥何か計算があればべつだけど、冬弥にそんなのないのは明白‥いっちゃったりすることはできないのであって、私はこのシーンの冬弥の悪びれない態度には少しぞっとしないものを感じたかな。‥冬弥という人は、何かとても幼い部分がある。それは由綺と会えないことで純粋に涙を流す場面からも推し量れることで、さらには弥生さんと逢瀬を重ねることに負い目を意識することもとくになさそうな様子からもうかがえることである。この、彼の、無邪気さとはいったいなんなのかな。そしてその無邪気さが性欲と結びついたとき、どんな悪魔があらわれるのか、私にはその間の問題がこの作品の核心である気がする。女という影に浮ぶ、それは悪魔の羽根でこそあるのだろうから。」
「冬弥という人間は空っぽという印象はあるのだけれど、その空虚さというのはどこか何も知らない子どもがそうであるかのような罪のなさ、イノセントを思わせる要素があるということは、たしかに少しいえることなのでしょうね。そしてその邪気のなさ、幼稚さがあるからこそ、冬弥は易々とペットの枠に身を収めることが可能なのであり、また弥生の例に代表されるように女性の逃げ場所としても機能するのであり、さらには兄の代理のような属性をも付与することが可能であるのでしょう。なんていうのか、ある意味不幸な人なのでしょうね。冬弥のような人を弄ぶことこそ、もしかしたら最悪の所業かしれないけれど、もうここまできたら冬弥は逃げ出すことはできないのでしょう。もはやすべての人間関係をふり切って、どこかに冬弥は逃れてしまえばいいと思うのだけど、はてさて、そうは行かないのでしょうね。ま、この地獄がどこまでつづくか、見届けることにしましょうか。まったく、どこまで転がりつづけて行くのかしらね、このドラマは。」
2009/03/16/Mon
「「後世への最大遺物」は明治二十七年、三十三歳になる内村鑑三が、夏季学校‥当時関東と関西で交互に開かれた全国のキリスト信徒が集まる修養会みたいなの。この内村の講演はちなみに箱根で行われた‥で語ったことを記録したもので、そのころの内村の人生観、さらには彼の培ってきたキリスト教的素養がいかにしてこの自分たちが住む現実社会と折りあいをつけるのか、またいかにして実生活とその向上っていう切実な問題に寄与できるのかといったことが、親しみのこもった気安い言葉で懇切に熱く語られてる。‥私は、正直なとこ、あまり内村鑑三にシンパシーを感じる部分は少ないし、また彼はある意味その当時のまじめで熱心なキリスト者の典型であったようにも思えるから、その意見の独自性といったものは‥もちろん明治の日本社会においては強烈な印象があったことは否まないけど‥期待するものではないのじゃないかなって気がするかな。ただだけど、内村がそういった意味において、ありふれたキリスト教的価値観によって陶冶された優れた知見をもつ人物だったということは、そこにある種の普遍性に開かれた哲学があったということで、この「後世への最大遺物」で語られてる思想的内容も、その内実としては現代の私たちの視点からするならとくに目新しいことはないのだろうとは思うけど、でもここまで真率に、また衒わず直接的に自分の意見を筋道だって告白できるとこに、私は内村鑑三のキリスト者らしいつよさを認めるにやぶさかでないかなって思う。さらにいえばその言葉の普遍性は、現代においても構わず有効な響きがあって、それは内村の態度の人間的本質に根ざすことを証するものにほかならないのでないかな。」
「そういった点を踏まえると、本書で述べられている人生訓なり社会に向って示すべき態度の指導といったものは、そのまま今の世の中においてもなんら変わることなく通用するものだとして良いのでしょうね。ま、それにともかく一読してみればわかることなのでしょうけど、読んでみると実にこの手の人がしそうな説教の類であることが、ある意味すんなりと理解できるのよ。内村鑑三という人はそれほど奇矯な性格をした変人というわけではまったくなく、それどころか鮮明な常識的見解を備えた秀才であったということが事実なのでしょう。だからあまり卓抜した意見が開陳されていることを望んでもそれは裏切られるのでしょうけど、ただ意外というか、なかなか興味深く思われるのは、内村というのはアメリカに学んだだけあって実際的な観点に無頓着ではなかったということなのでしょうね。このプラグマティックな考えが、この講演の内容を特長だてている要素だとしていいのでしょう。」
「実用主義的な側面があるんだよね。たとえば表題にあるとおり、この講演で内村は私たちはどんなものを後世に遺すことができるのかな、人として生まれてきた以上は何ごとかをこの世界に起したいというのは自然な欲求であるだろうし、それなら何を社会に対して働きかけるか、それを模索することは大切なことなのじゃないかなって、そんなふうに話をはじめて、次第に後世に遺せる価値のあるものを厳選してく。それでおもしろいのだけど、まず内村が第一等に遺物として挙げてるのは、金銭、お金なんだよね。これがなかなか意外かなって思えちゃったのだけど、でも単に抽象的なだけでなくて、実際に社会で有効なものは何かなって考える実利的な発想のもち主であるなら、お金があってはじめて世界に対して意義のあることが可能になるって理屈は、自明であることなのじゃないかな。そして二番目に内村は事業を掲げて、つづけて三番目に思想を後世に遺すことが重要なことだって説く。これは本書を見てもらえればわかりやすいのだけど、どれもほかの人たちを幸せに、他者に益するにはどうしたらいいのかなって、そういった視点から物事を観察すれば必然的に求められるだろうってものを内村は明快な発想から導き出してるのであって、その言葉には説得力が伴ってるように、私には思えたかな。‥でもそんな功利的な立場から論を進めてた内村が、最終的に最大って名づけうるような遺物、個人が残せるようなそれは何かっていえば、つまり生き様だって結論づけるとこが、この講演のいちばんおもしろい部分かなって、私は思う。前半で実際的な側面に忠実に話をくり広げた内村だったけど、でも最終的に問題は個人の内面の満足に至りつく。ただでもそれが後世の人たちとはいちがいに無縁とはいいえない。なぜなら子孫に対して、立派な生き方をした先祖の記憶以上に、何か心の励みになるものがあろうか。いや、ない。‥そう、内村はここで、人たちの記憶を重視する。よき思い出以上に世界に対して遺せるよきものがあるだろうか。‥私には内村がこの講演においてさいごにそう問いかけてる気がする。それはたぶん内村自身が過去の人たちの生き様から感銘を受けて、それを励みにしたからにちがいないからなのだろうけど、でもその言葉には、いくぶんかの真実が含まれてるようにも、私には思えるかな。人が思い出によって生きるというのは、だって、あるていどまちがいない事実に違わないのであろうから。」
「内村というのは冷徹に現実を直視する能力をもった人でもあったわけで、金を儲けるには才能がいるし、また事業を起すにもそれに見あった素質がいる。さらには思想を文章にしてまとめるのにも天性が必要なのだから、すべての人がこれら挙げた三つの遺物を遺せるものではないと明言してしまっているのよね。ま、物事にはなんでも才能が関係してくるというのはある意味そのとおりなのでしょうし、そこでだれでもが遺しうる、また遺さねばならないのは立派に気高く生きたという証なのだと論を展開するのは、なかなか内村の粋なところなのでしょうね。ま、説教くさいといえばこれほど説教くさい一冊もないのだけれど、当時の世相を知るという点においても、この講演は益するところがなくはないでしょうし、内村鑑三の内村鑑三らしい視点が覗ける一冊といっていいでしょう。ま、こういった説教に耳傾けるのも、たまには良いものかしらね。人はどう生くべきかといった問題は、青年に限らず、大多数の人にとって避けては通れない真剣味がある問題にちがいないのでしょうから。」
『それならば最大遺物とは何であるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも残すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。』
内村鑑三「後世への最大遺物」
内村鑑三「後世への最大遺物」
2009/03/15/Sun
「昭和四十八年に発表された安部公房の実験的な色彩のつよい「箱男」は、ダンボール箱を被ってその日暮しをする特異な浮浪者‥彼のいいぶんによると、決して浮浪者と難じていい存在ではないのだけど、でもここではあえて浮浪者と一くくりにしておこかな。作中、彼は乞食や路上生活者のような浮浪者と自分たちのあいだには明確に分たれた交わることのない境界線があることを執拗に主張する。それは彼の生きた哲学の独自性の表明にほかならない‥箱男に関するエピソードをまとめたもの。といっても、この作品は一本筋のとおった物語として描かれてるわけでなくて、何本かの報告書、書類の集まりという形によって構成されてるわけであって、単純に何か判じやすい筋書があるというわけではぜんぜんない。むしろ記載される報告書の束のなかから読者はその背後にくり広げられたであろうドラマを予想しなくちゃいけないわけであって、複数の登場人物がそれぞれの立場で報告する出来事や開陳される哲学は、裏側の現実にたしかにあったであろう彼らの物語を読みにくくこそすれ、まるでつかみやすいものにしてるとはいい難いとは思うかな。だけどそんな奇妙に難解に敷き詰められたパズルのような本作は、読む人に何か内省と自己検討を要請するかのような名状しがたい圧迫感を与えるのであって、それはある意味麻薬のような箱男の生態と、彼の手になる執拗な内向的な文章の耽溺によるのかもしれない。‥彼らに何が起ったのか、それはあきらめずさいごまで読みとおせば、たいていの人は予想できる類のことにちがいないのでないかなって、私は思う。そしてその事件の異常性と、またその社会性の奇矯な特色も、かな。箱男って奇怪な生命体は、人間存在のある露骨な好奇心の、文学的に過激な虚飾を施されただけの存在に、たぶんちがいないのだから。」
「まず語られる箱男の設定が秀抜なのでしょうね。箱男とはその名の通り、ダンボールを頭から被ってその姿のまま日常生活を送る人のことを指すのであり、彼らはダンボールに覗き窓や光源などの工夫をしながら、ダンボールの内部のみで自活する道を切り開く。そのダンボールの作り方の詳細などは本作で隈なく解説されているからここではくり返さないとしても、おもしろいのは一度閉じられた閉鎖空間である箱のなかにいると、それがたまらなく居心地がいいと感じてしまうといった心理の告白にこそあるのでしょうね。箱のなかで寝たり排泄したり、またテレビを見たり文章を書いたり、さらには自慰行為をしたりしていると、それがまるで人間本来の生き方のように自然に思えてくると、そう箱男は述べている。これはなかなか興味深い見解かしらね。さて、どういうことかしら。」
「まずそれは単純な胎内回帰願望なのじゃないかなって思いつくけど、でもたぶんそれだけでないって感じられるのが、本作のきわめて複雑な人間観察の成果があらわれてる点なのだろね。というのも箱男が強調して述べる部分をきくならば、彼は現代社会においての「見る欲望」と「見られる嫌悪」の重要性についておもしろい見解を展開してるのであり、それは人というのはそもそも「何かを覗く願望」をもった存在だってことを理解することからはじまるってしてる。人は常に何ものかを観察したいのであり、それはただ単に知的好奇心って枠に収まるものでなくて、もっと性的に、人間の存在の本質に根ざした欲求であるのであって、現代社会における情報技術の発達は、ひとえに見たいって欲望が基底にあったからにほかならない。そして、でも人は無条件に自分が見られるということには何か嫌忌しちゃう点があるのは無視できないのであって、それがなんでかなと考えれば、理由のひとつには見られるということは、自分の醜さを見られるということであり、見られることの自覚は、そのまま自分の醜さを自覚させられることにほかならないからというのが挙げられてて、これはほとんどの人が自分を美しいとはたぶん感じてない以上、あるていど肉薄した説得力が伴う意見であるのかなって気がするかな。‥そういう意味で、箱男という存在は、自分の醜さを隠蔽して、なおかつ自分を見る主体として限定する働きがあるのであり、それはもしかしたらもっとも現代社会の欲望の形態に合致した存在なのかしれないのかなって、私は感じられた。というのも、ネットの匿名性は、箱男そのものなのでないかな。ただ単に見て、自分を決して見られるものにおかない環境。箱男の魔力と呪縛は、だから現代だからこそ閑却してならない重要性があるのかも。人というのは醜いから。そして、その醜さを直視することができるほど、強い存在ではないのだから。」
「箱男が現代社会の情報技術のもたらした光と影の暗喩だという意見は、安部公房のこの作品を執筆したときから三十年余が過ぎた今だからこそ、より切実な響きが伴うものであるのかもしれないかしらね。そしてそういった意味で、安部公房の先見性、さらには人間の本質を穿つ視線というものの強さというものは、まったく驚嘆すべきものがあったのでしょう。彼は、マスメディアの発展が個々人を箱男にするであろうということを予見していたのかしら。ま、それは果してわからないことだけれど、なんていうのかいろいろ不気味よね、この作品は。まさに現代の状況を予言しているかのようで、背筋が冷えるのよ。私たちのだれもが箱男であることを免れない、か。ぞっとしない話ね、本当に。」
『ぼくは自分の醜さをよく心得ている。ぬけぬけと他人の前で裸をさらけ出すほど、あつかましくはない。もっとも、醜いのはなにもぼくだけではなく、人間の九十九パーセントまでが出来損いなのだ。人類は毛を失ったから、衣服を発明したのではなく、裸の醜さを自覚して衣服で隠そうとしたために、毛が退化してしまったのだとぼくは信じている(事実に反することは、百も承知の上で、なおかつそう信じている)。それでも人々が、なんとか他人の視線に耐えて生きていけるのは、人間の眼の不正確さと、錯覚に期待するからなのだ。なるべく似たような衣裳をつけ、似たような髪型にして、他人と見分けがつきにくいように工夫したりする。こちらが露骨な視線を向けなければ、向うも遠慮してくれるだろうと、伏目がちな人生を送ることにもなる。だから昔は「晒しもの」などという刑罰もあったが、あまり残酷すぎるというので、文明社会では廃止されてしまったほどだ。「覗き」という行為が、一般に侮りの眼をもって見られるのも、自分が覗かれる側にまわりたくないからだろう。やむを得ず除かせる場合には、それに見合った代償を要求するのが常識だ。現に、芝居や映画でも、ふつう見る方が金を払い、見られる方が金を受取ることになっている。誰だって、見られるよりは、見たいのだ。ラジオやテレビなどという覗き道具が、際限もなく売れつづけているのも、人類の九十九パーセントが自分の醜さを自覚していることのいい証拠だろう。ぼくが、すすんで近視眼になり、ストリップ小屋に通いつめ、写真家に弟子入りし……そして、そこから箱男までは、ごく自然な一と跨ぎにすぎなかった。』
安部公房「箱男」
安部公房「箱男」
2009/03/14/Sat
「昭和三十九年に発表された短編作家としては名うての技量をもつ安部公房の試みた長編作品である「他人の顔」は、とある化学事故によって顔面に重度の傷を負った主人公が、そのすでに怪物としか形容のしようのない無残な顔を覆うために仮面を作成するというもの。といっても、この単純な筋書きの裏には複雑に精巧に練りこめられた心理的な記述ともって回ったような自己検討を執拗にくり返す男の論理が奔流となって背後に存在してるのであり、事故によってとうていもとの素顔を想起せしめないほど顔面を失った、まさに自分の顔を喪失した人間である主人公がくり広げる内面の圧倒的な省察の展開は、本作の暗鬱な雰囲気のだいぶを成すものであり、そして理知的な独自の積み重ねは、すなわち男の陥った顔の喪失って災難を埋めあわせるかのような切実さがあることは、本書を紐解く人がおそらく同意してくれるであろう事柄じゃないかなって、私は思う。‥傍目には見られないほどの損傷を顔に蒙った男が、社会に対して、そして自分に対して抱いた感慨とはいったいなんだったのか。そこの疑問とそれについての果てしない戦いが、この作品の要諦なのじゃないかなって、私は気がするかな。」
「顔を失った男はその喪失という体験を経てはじめて、世間において顔の果す役割といったものの意味性といったものをはじめて考えだすのであり、そして顔のもつ重要性に論理的に気づき至ったからこそ、一目には本物と見分けのつかないような人間の実の顔そのものともいえる仮面を作ることを決意するのであり、その仮面によって新たな人間としての、つまり他人としての自己を獲得することになるのよね。ただしかし、この一連の過程の心理の動きというものは、それは本作に目を通してもらえればわかるのでしょうが、実に複雑な階梯を経ているのであって、容易に説明が可能なものでもないのでしょう。それに物語性といったものがそれほどこの作品の重要な部分を形成しているわけでもないでしょうし、はてさて、どう考えたらいいのかしらね、この作品は。なかなか評価するにむずかしい一冊だとはいいうるのかしら。」
「本作について意見を述べようとするなら、それはとりもなおさず、社会において顔が果す役割を、自己の体験に基づいて率直に考察する必要性に迫られるから、かな。‥というのも本作において主人公が開陳する顔についての一連の哲学は、それだけで重要な意味性があるとしても、それ単体としては上手にまとめられたものでは決してないのであり、それはたぶんここで描かれる男自体が決然と自己の行動に確信を伴って行動できてるわけではないからで、彼のふるまいの一つひとつは彼自身の迷いと苦しみの表現にちがいないのであって、だから彼の作中描かれた行動は、そのままぜんぶを信じきれる誠実さに満ちてるとは思えないって事情が関係してくるだろうからかな。そしてその不安と混迷があるからこそ、男は自身の思惟を極限にまで推し進める理由が得られるのであって、男は自分が顔を失くしたことにより、顔の果す意味と、その虚偽と、また顔によらない人間の自立の意義について、次第に考察と体験を深めてく契機が与えられたともいえるのかもかな。‥でも最終的にこの主人公がみずからの行動をみずからの哲学に当てはめようとしたとき、彼は顔以外のものを、そしてたぶん顔以上に大切だったものを、顔を失ったときと比べられないくらいの喜劇性によって、喪失することになっちゃう。それが作者のアイロニーだったのかどうかは、私にはうまくわかんないかな。顔が果す意味性とは、顔って記号が表面的に果す意味性以上に、何か奥狭まった本質があろうことは、多分いえることにちがいないのであろうから。」
「顔を仮面によって変えることによって、主人公はこれまでの自分とは異なった他人になれたのだと思ったし、事実そういった側面はあったのでしょうけど、しかし顔という記号の代置だけでは決して変わることのない何かを、主人公は見落していたということが、さて、終盤の悲劇であり喜劇でもある場面の意味性であったのでしょうね。そしてそれがなんだったのかといえば、もちろんこれは簡単に答えが出せる類の問題ではないのでしょうが、あえていえばどのような顔にでもついて回る孤独というものの本質を、主人公は気づくことができなかった、ということなのかしら。ま、しかし困難な問題ね。顔についてここまで思索を重ねた一作もそうはないでしょう。実に刺激的な一冊だったことよ。顔にまつわる苦悩は、現代人のすべてに無縁ではありえない、か。ま、はてさて、ね。」
『彼等が問われている罪名が、顔を失った罪、他人との通路を遮断した罪、他人の中の未知なものを発見する怖れと喜びを失った罪、他人のために創造する義務を忘れた罪、ともに聴く音楽を失った罪、そうした現代の人間関係そのものを現す罪である以上、この世界全体が、一つの監獄島を形成しているのかもしれないのだ。』
安部公房「他人の顔」
安部公房「他人の顔」
2009/03/13/Fri
「前半まではとてもよかった。幻想世界っていう朋也の内面の働きを非現実的に象徴的に描写しながら、彼の心の懊悩‥つまり自分が渚で出会わなければよかったのでないかっていう過去への悲しみと悔恨‥の検討と解決を図ってく。そしていっときは自分が渚を不幸に招いた、要するに渚を死なした罪をただ自分のみの責任として、それを放擲するが如く、己のこれまでの人生を単純に渚や汐といった自分の愛した人たちの喪失によって否定しようとするのだけど、でも渚の、思い出のなかの渚は、朋也の人生を、彼がこれまで紡いできた生き方の価値を率直に認めてくれて、そんな渚の思いはたとえ朋也の想像の裡にしかないものだったとしても、それは死者の思いを生きるための力と成すって事実にはちがいないのであり、朋也が過去を含めた今の自分それ自体を肯定するとなれば、この一連の過程はきわめてニーチェ的な人生の全き肯定の意味性が加わるのであって、クラナドという作品はきれいに完結する。それというのも渚の思い出と渚との出会いの肯定のあとの朋也という存在は、ある意味、今まで自分を悩ましてきた問題との決着を終えた新たな姿でもあるわけで、汐が生きてようと死んでようと‥明確な汐の生死の描写は為されてない‥朋也のさらなる人生の道程は開かれてるにちがいないのだよね。‥でもそうしなかったのがこの作品で、その点で私は非常に残念な思いがある。渚を、復活させなきゃいけなかったのかな。私はその点だけで、もしかしたらこの作品を失敗作と看做さなくちゃいけないのかもしれない。渚の復活は、それほど重要な意味あいを帯びてるにまちがないのであろうから。」
「渚を復活させるということは、端的にいえば朋也が渚の死後築いてきた人生の過程を、丸ごと否定する意味あいがあるから、ということなのでしょうね。もちろん渚が生きていようとも、朋也はいずれ父との和解を果したでしょうし、汐とももともと良い関係を作れたということはまちがいないといっていいことなのでしょう。しかしここで渚を復活させるということは、渚に死に別れたあとの人生よりも渚と共に生きる人生のほうが朋也にとって幸福であろうというメタ的な看做しがあるのであり、そしてそれはある意味渚といっしょのほうが幸せなのかもしれないけれど、しかしそんな憶測のためだけに、朋也の渚のいない人生を、ありえただろうあの生活を、無下に否定し尽して果していいのだろうかといった疑問は、はてさて、残るのよね。ここばかりが納得行かないところなのでしょうね。」
「朋也は、渚が死んだあとも、必至に生きた。もちろんそれは不器用で多くの人を傷つけたし、無用の時をどれほど積み重ねたかしれやしない。でも、それでも、その無駄とも思えるほどくだらない時間の積み重ねの果てに、その自暴自棄の絶望の暗闇に彩られた人間の愚かさの体積のうえに、朋也は汐を得、父をゆるし、そしてまた希望をつかむことができたのであって、その順風満帆でない苦しみに満ちたあがきの生活こそ、その生活を耐えぬけたって事実があったからこそ、私は朋也を認めるのであり、それなしに汐と生きることを誓った朋也の人生の決断をすばらしいと思うわけで決してない。でもそれなのに、わかるかな、そういった朋也の愚かな人生の期間を、渚の復活は拒否し尽するのであり、私は、なんだかそれが、ちがうのじゃないかなって思う。もちろん渚がいたほうが朋也にとっても汐にとっても幸せだろうし、それは「よいこと」なのだろうけど、でもそれじゃ、あの渚に死なれて汐も放擲して、ただ仕事のくり返しで死んだ心を抱えたまま、虚ろに生きてたあの朋也を、いったい、だれが救うっていうの。あの悲しみに沈んだ朋也を、だれが救えるっていうの。‥私は、だから渚の復活を認めない。それによって町を賛嘆するなんて、ありえない。町は、悪魔だよ。私は暗闇につく。絶望に沈んで育児を放棄した朋也の側につく。だって、あの愚かしさこそ、私だって免れてない、人の弱さの、ありのままの姿でこそ、あったのだろうから。その愚かさを拒絶する光を、私は、ゆるさないから。」
「町の光による救いといっても、この作品によって描かれた町とは、変化も破壊もすべてをそのとおりに受容する受身を本質とする存在として描かれてきたのであって、ここに来て渚のみを救うように働く決定的な理由とは、実際問題、わからないのよね。なぜこれまで頑なに沈黙を守ってきた町が、渚ひとりを救うために動いたのか。その決断の理由はどこにあったのか。そしてそこまでして渚を救い、朋也の人生のひとつのありえた未来を完膚なきまでに破棄する理由は、果してどこにあったのか。ま、はてさて、ね。わからないし、納得行かないことばかりよ。町という神に帰依することこそ求められているのかしら。町に対する信仰を疑ってこそいけないのかしら。正直、ついていけない世界ね。信じるものは救われる、のかしら。はてさてね。」
『人間だけが地獄を見る。しかし地獄なんか見やしない。花を見るだけだ。』
坂口安吾「教祖の文学」
2009/03/12/Thu
「このあいだ原作最終巻を読み終えたときから気分が少しならず感傷的で、私はあんまり自覚なかったけど「とらドラ!」がけっこう好きだったのかなー‥というか大河が好きだったのかなー‥大河ー‥とかアンニュイな心持だったのだけど、今回のお話を見て、みのりんの強烈さというのを再び直接的に認識させられちゃって、ちょっと調子が上向いてきた感じ。みのりん、飛ばしてるね。というのも原作でもここらあたりの展開は、みのりんに焦点を当ててみるなら彼女の言動といったものにはある種の奇異をおぼえずにはられないとこがあるのであり、でもそれがあんまり注目されなかったのはたぶん本作の中心である竜児と大河の状況がそれどこでなかったからにちがいなくて、そして原作そのものも竜児と大河の問題の処理に手一杯でさいごまでみのりんを扱う余裕がなかったというのが真相かなって、この前出た最終巻の内容を踏まえながら、私は思うかな。‥こういうとちょっとあれかなだけど、もうこの時点で竜児でさえ関心の主要たる部分は大河その人以外になくて、彼の心を占めちゃってるのは大河のことと自身の進路、そして家族についてであり、そこにみのりんが収まるべき余地というのがなかったから、今回のみのりんのもつ違和感についても竜児は盲目でこそあったんだよね。つまり、いいかな、みのりんがほとばしるように大河に伝えた「どうしてたった一言がいえないんだよ」って言葉は、そのままみのりんに当てはまるだろう台詞であって、それをみのりんが大河にいう資格は、端的にいってない。そして大河がいった「大好きなみのりんが幸せになるように」って気持は、まったく「大好きな大河が幸せになるように」行動してるみのりんの胸にこそ響くべき言葉であるだろうに、みのりんは、何かな、そこを無視しちゃってるのだよね。「私の幸せは私が決める」ってみのりんはいうけれど、でも、果してみのりんはその言葉を守ってくれたのかな? 私はそこの疑問が、原作が完結した今でも、まだ胸にわだかまってる。」
「ま、前回までの行動をふり返ってみるならば、竜児をふったくせにぐだぐだと関係をつづけていたのはほかならぬ実乃梨でこそあり、大河がわざわざ気をきかして竜児と距離をおこうとも、自身は決してそうはっきりと態度を決することなく、竜児と微妙にあいまいで、そして少し幸福だろう付きあいをしていたのは、完全に実乃梨以外にはないだろうという話なのよね。それだから亜美は「子どもがいないときに」と竜児と実乃梨を批判したのであり、だれよりも大河のことを心中思ってる彼女であればこそ、その言葉は無視できない重さがあるというべきなのでしょうね。ま、はてさてしかし、実乃梨の幸せとはいったいなんだったのかしら。なんていうのか、大河と竜児はまちがいなく二人が一緒になったほうが幸せだし周囲としても良いのでしょうけど、では実乃梨の幸せはどういったことによって達成されうるのかと考えた場合、その輪郭は結局この作品のなかでは、示されることはなかったのよね。もちろんソフトの選手になりたいとかいう話はあったけれど、あれで彼女のすべてが片づくものかしら。さて、そうは何か思えないのよね。奥歯に何か引っかかるのよ。」
『「ソフトをね、続けたいの。私の夢だってでっかいし、ちゃんと叶うって、大声で叫んでやりたいの。でも、高卒で実業団に入るには実力が足らない。だからお金を貯めてね、自分で体育大に進んで、ソフトをやるの、そして私は頂点を――全日本を目指すの」
「……それで、あんなにバイトばっかしてたのか」
「うん。口に出すのが怖くて言えなかったんだ。笑われるかも、とか、心のどこかで思ってたんだよね。でも今は堂々と言いたい気分。弟に、親に、リトルリーグの監督に、私の夢を笑った中学の担任に、世間みんなに、世界中に私は叫びたいのよ。私は私のやりかたで、私の頂点を極めたぜ! 私の選んだ、摑んだ幸せは、これだぜ! って。……ただの維持。でも、そんなものにこだわって、私は泣くのをやめて、前向きであり続けようって決めた。一人でできるところまで、いけるところまでいってみたい。誰にも文句は言わせない自分になりたい。……そんなふうに、頑張ってる。泣いてもつらくても苦しくても、意地張って、頑張る」』
竹宮ゆゆこ「とらドラ9!」
「みのりん、それは自分を痛めつけるだけだよ、と思う。それは抑圧で、その意地はいつかあなたを傷つけるよ。あなたの幸せへの、夢への願望、がんばりは、どこかあなたの過去の傷に根ざす部分があるのであって、その微量なルサンチマンの影に、聡明なあなたが気づいてないわけないでない。だから、いつかあなたは自分の蒔いた幸福への幻影のために、報復される。幸せって、そんな激烈に声高に主張する、我のつよいもので、たぶんないんだよ。だから、私はみのりんを否定する。あなたの幸福への執念を、それはちがうって、拒絶する。‥でもそういう私がたぶん亜美さんみたいに、彼女からきっと阻まれるのだろな。それはそれで、しかたないかな。」
「なんともはやよね。もちろん実乃梨がソフトを心から好きだということは否定しないけれど、しかし家庭内でのコンプレックスが実乃梨という少女の原動力の一郭を占めていたであろうことも、また同じく否定できない事柄なのでしょう。彼女のその深い苦しみと影の重みに、ただ亜美のみが気づけていた。しかし、亜美にはどうしようもなかった。竜児と大河は芯が強いから、実乃梨の弱さに目を向ける感性が欠けていた。ま、はてさてね。これがかりはどうしようもないのよ。本当、どうしようもなかったのよ。実乃梨という少女を描くには、この人間関係では、救えないのよ。致し方なかったかしら。」
2009/03/12/Thu
「うん。さすがに上手。こういった和気藹々とした空間を演出するのはやっぱり秋枝先生の得手であって、モクソンを中心とした事務所の一体感は、もともとモクソンの個性であるだれをも疑わないし自分をある意味特別視することのない誠実さに負う部分があるとしても、ただほんとに打算なく彼女のために動ける人たちが衒いなしに集まってるからこその、温かい雰囲気であるのだろうな。それにこういっちゃうと何かなだけど、秋枝先生の作品には基本的にその世界の和を乱すような絶対的な敵対者というのが存在しなくて、和やかであくまで静謐に満ちたムードというものをだれもが破壊しないようにていねいに生きてる印象というのがあって、それはこの「純真ミラクル100%」でも変わらなくて、二宮さんの登場でそれが少し打破されるのかなって思ったけど、でも実際は二宮さんもモクソンの魅力にやられちゃった人であったのが真相だったのだよね。そして正直そういったおだやかだけど波乱のない世界といったものに一石を投じてみたい、そこにある種の混乱が生まれないものかなってちょっとやきもきしちゃう気持があることを私は告白しないわけにはいかないのだけど、でも今回のお話のおどろきは皆無だけれどゆるやかなやさしさのある世界には、私はある種の居心地のよさというのを認めないわけにもいかなくて、この世界がぜんぶだと肯定する気はもちろんないけど、でもこういった温かさを用意してくれる作品というのはばかにしちゃいけない重さというのはあるのだろなって気がしたかな。‥とくに倒れたモクソンのためにわざわざ駆けつけてくれる所長さんがいいよね。なんだかんだで私はけっきょく所長さんとモクソンの関係性が好きだからこの作品を読みはじめたのであって、そこの起点は大切にしたい。所長さんも、むかしの恋人なんて早く切り捨てられたらよいのに。でもそういった悔恨に似た感情の厄介さというのがどうしようもないというのもわかるのだけど、ね。現在の奥さんに対する気兼ねと嫉妬もあるだろうし、そういった感情の処理は単純でない。」
「モクソンが移籍されて経営不振で今の事務所が問題視されるかもしれないと聞かされて自分の責任のようにとってしまうモクソンというのは、ま、いくら才能があろうとやはり二宮のいうとおりに、大人としては問題があるのでしょうね。こういってはきついのかしれないけれど、だれもが自分の責任は自分で果さなくてはならないのであり、モクソンはモクソンの仕事をただ完遂するように努めれば良いのであって、それ以上は踏みこんではならない領域というのはあるものよ。もちろんといっても、他者の責任をときに自分の責任のようにとり扱わなくてもならないのが大人の役目というもので、今回予測できないアクシデントを起したモクソンの始末を全員で一致団結して行う姿勢は、まさにそういった間の事情を明らかに描写してくれたと見て良いのでしょうね。モクソンがいなくなろうと、これだけ共同してやれる人材がそろっているのだから、ま、モクソンが事務所の経営方針を憂慮してもしかたがないことよ。当然そういわれて気にかかるというのも、また自然な反応ではあるのでしょうけどね。」
「自分がどれだけ考えても無意味なことなのだから、あまり勝手に思い詰めても益ないことであろうから、かな。‥事務所の今後の立ち行きに関しては所長さんが何かしてくれるかもだからそこに期待するとして、今回少しおどろいちゃったのはモクソンには女性ファンがそれなりついてるっていう事実かな。それというのもこのくだりを読んで私はほんとなのかーって疑っちゃったからで、モクソンみたいなタイプが同性に広範囲な人気を克ちうるのかなって考えちゃうと、少しいいにくいかもだけどちょっと判断に困っちゃうっていうのはあるのじゃないかなって気がするから。なんていうのかな、モクソンはこういうとあれかもだけど、成功者の典型みたいな人で、しかも運だけでなくて実際に才能とそして周囲の人たちから疎まれない性格のもち主であるから‥少なくとも本編で描かれてる限りでは露骨にきらわれてるって場面はないよね。そこらは同じ芸能界を舞台とした「WHITE ALBUM」とはおおちがい‥妬まれる条件というものがもしあるとするならそれらを完全に具備しちゃってるタイプとみてよいのじゃないかなって、私は思う。そしても少しいうと、モクソンはネガティブな感情というのが、あんまりないよね。あったとしても、自分の問題として、それを受けとめられるよね。これはいうとやばいかもだけど、ふつうの人はネガティブな感情を拠り所にしてけっこう生きちゃってるもので、そしてネガティブな感情はたいてい他者への関心の基底を成しちゃうものでさえあるから、ますますネガティブに不遇に自己嫌悪を重ねてくものなんだって思う。もちろんそんなネガティブな感情なんてプラトンパンチをくらへーって吹き飛ばせればいいわけだけど、そんなのふつうの人にはできないから、そしてする気もないから‥わるいのはあいつ。私わるくない‥自然にネガティブを払拭して生きてるような人たちは、格好の標的になるものだよ。そういう意味で、モクソン、気をつけてね。何に気をつけたらいいかはいわないけど、ね。」
「嫉妬ほど悪魔的な感情ないものでしょうから、かしらね。ま、ネットを見渡してもワイドショーだのスポーツ新聞だの週刊誌だのを覗いてみても、世にどれだけ嫉妬を基本とした行動があふれているかは探すのに苦労はしないでしょう。そういった嫉妬心なりを個々人が自己の問題として検討できるようになればそうトラブルは起きないのでしょうが、はてさて、それほどの克己心をもった人がどれだけいるかは疑問だし、望むこと自体がナンセンスなのよね。それにそういえば、東方に嫉妬心を操る能力をもったパルスィというキャラがいたかしら。東方で最強なのはまちがいなくパルスィだと思うけれど、さてどうかしら。妬みに比べれば、境界も不死も何等問題にならないのよ。生物の根源的な力を考えた場合それは嫉妬や憎しみだともいえるし、ま、ここらほど怖いものも少ないのよね。嫉妬ばかりは、どうしようもないものよ。まったく本当に。」
『愛と嫉妬との強さとは、それらが烈しく想像力を働かせることに基づいている。想像力は魔術的なものである。ひとは自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する。愛と嫉妬とが術策的であるということも、それらが想像力を駆り立て、想像力に駆り立てられて動くから生ずる。しかも嫉妬において想像力が働くのはその中に混入している何等かの愛によってである。嫉妬の底に愛がなく、愛のうちに悪魔がいないと、誰が知ろうか。』
三木清「人生論ノート」
2009/03/11/Wed
「この登場人物のだれもが自分を好いてない、そしてまたその自己嫌忌を逃れようとする如くだれかを愛そうとするのだけれどその行為もまた完全に自己を託せる覚悟を保持できるほどでなくて、だからあいまいな状態、中途半端なままに、愛という観念の前に尻ごみしちゃってる、この情けなくも愚かしくもあるけれど、でも人らしい弱さを体現した物語はいったいなんて魅力的なのかなって、私は思う。というのも、この作品にはあらためて見ると本気で恋愛って麻薬にすべてを投げ打てるほど他人と自分を信じきって溺れられる人もなければ、かといって愛を空虚なただの言葉として退けて孤高にあれるほど割り切ることもできない、何ごとに対しても重大な決断をみずからくだすことの不可能な臆病な人たちばかりがずっと一貫して描かれてるわけで、この人間関係のあり方はそのまま私たちって凡庸な個々人が陥りがちな優柔不断な有様の縮図として機能してることにもほかならないのでないかなって気が私にはして、興味ふかい。‥なんていうのかな、冬弥はだれも本気で愛せてない。愛したいのだけど、愛せない。そしてそれが彼の傷であって、彼はただその心の傷そのものであり、それ以上の存在理由は、彼にはない。さらに彼をとり巻く人たちもまた心の傷そのもののようであって、それら傷の埋めあわせを冬弥に期待してるのだけど、なんてことかな、彼女たちはそれ以上の意味あいを冬弥に求めてるわけでは、けしてない。そして核心をつけば、求めてないからこそ愛せないのであって、愛せないからこそ傷は癒えないのにちがいないのに、彼女たちはその間の事情に、ぜんぜん気づけてない。‥だから本作は、なんて悲劇で、そしてコミカルでさえあるのだろう。救済を願いながらも、その救済は彼らの伸ばす手の先には、あらわれない。」
「心の傷、というのはいい得て妙かしらね。冬弥という人物は過去何かしらの傷を家庭的な場から受けたのであり、それを代替するかのように由綺が冬弥の傍にいてくれたのでしょうね。そして冬弥が彼をどう思っているかはひとまず置いておくとしても、冬弥が望んでいるような救いの象徴としての意味性を、つまり彼の言葉を借りれば女神としての属性を、由綺はすでに果せないところにまで来ているということなのでしょう。ただしかし留保をつけたいのは、彼の抱く傷というものは、これまでどおりに由綺と付きあうことで癒せるはずのものでもなければ、かといってほかの女性たちに耽溺することで消せる類のものでもありえないのでしょうね。極論をいえば、だれと付きあおうと冬弥のその態度では、駄目なのよ。溺れるだけよ。というか、溺れることもできてないでしょう。自分を誤魔化すことももうすでにできてないのよ。女を抱くたびに、真顔になって、冷めるだけよ。憐れなものかしら。」
「少しいうと、この空虚な人物たちの織り成す身体的な次元がことごとく欠けた物語、そしてそれゆえにただただ痛みのイマジネイションのみが延々と空想的に記述されてくストーリー展開は、私にはどこか三島由紀夫を思いださせる。素質や基本的な人間性といったものは備えてるのだけど、でも人が人として自立して、だれかを主体的に愛するときに求められるだろう、徹底した情熱の類、つまり愛を観念的なだけでなくて実際的な場として認識する身体性へのセンスの欠落が、この「WHITE ALBUM」って作品の著しい特色だし、また三島由紀夫って作家を語る場合でも外せない要件なのでなかったかな。たとえば冬弥が弥生さんを抱くシーンでも、そこには肉体的な情緒といったものが完全に見当らなかったのであり、それは端的にいうなら情とか心とかいった人が人を愛するときにあらわれるだろう力が見出せなかったのであって、それは翻っていえば、ただ機械的に愛の営みがあるだけ、無益な空疎な時間の消費でしかなかった。そして「金閣寺」に本質的に示された三島の作家性というのは、そこに「動機」があるばかりで、そこに至るときに必要となるべき「行為」が欠落してるということ。そしてそれは本作にもいえることであり、みんな「愛」を求めてるくせに愛すべき「理由」が見出せてないのだよね。だからこの作品は、みんなが空虚。さみしい心の傷以外を、さらけ出せない。」
「冬弥は多数の女性と関係しているわりには、まったく女の匂いというか、そういった色気みたいなものが感じられないというのが奇妙におもしろいのよね。たとえば美咲のかつての恋人だった演劇部のだれそれだの、弥生をストーキングしている元マネージャーだのは、愚かしい存在だけれど生身の女によって狂わされた人生の実感のリアルがあるぶん、まだその存在の意味はわかるのよ。しかしそれが冬弥や彼をとり巻く女性陣になると、何か観念的なだけであり、その観念性はリアルに密接に結びついてないのよね。だれもが自分の想像を越えることがなく、ために一人相撲に終りがちであり、またみずからの想像力を越えたリアルにコミットできなく、ますます孤独に一人きりに閉じていく。なんて不毛な運動かしらね。この作品に光明は、はてさて、果して見えるのかしら? このぶんだとどうも救いがなさすぎよ。」
2009/03/10/Tue
「この作品への私の評価は前回まとめたことから変動なくて(→
東方儚月抄 第十九話「縛られた大地の神」)、残りの話数で全体の完成度は如何ともしがたいとしても、低調な印象をなんとか回復できないかなって一縷の望みをかけてたけど、最終回直前の今回のエピソードは、残念ながら期待に応えるどころかこれまでどおりあまり映えない成行だって評価せざるをえないみたい。というのも、まず気になったのは、けっきょくレミリア一行の月へ殴りこみをかけた一団は、最終戦の霊夢に至るまで完膚なきまでに敗北しちゃったというのが落ちであって‥しかも対霊夢戦の内容はすべてがしっかりと描かれたわけでない‥これは月人が強力だからとかそういった理由なしに情けなさすぎでない。なぜならいくら月と地上の差を描くことが力点だったとしても、カタルシス皆無な戦闘シーンはただストレスをためるばかりなのであり、なおかつ霊夢たちは依姫の情けで幻想郷への帰還を果したことになる。それはあまりといえばあまりな展開で、よくわかんないとこによくわかんない因縁をつけて乗りこんでったのはいいけれど、よくわかんない敵にぱっと見た感じでは敵いそうにないから、とりあえず自分たち有利な勝負方法を提案してそれが採用されたはいいけれど、でもやっぱり自分たちの慣れ親しんだ土俵だっていうのに、一矢も報いることができずぼろぼろにされちゃって、おまけに圧倒された敵の善意によってとくに何もされずに家へ帰されたとあれば、だれだってそんなのかっこわるすぎじゃないって思っちゃうのは避けえない事実じゃない。とくにふだん妖怪とか妖精相手にあれだけ居丈高なのに、この体たらく。しかもそれについての反省がないのだから、ちょっと目も当てられない。」
「くしくもパチュリーのいっていたとおりに「痛い目に遭った」ということなのでしょうけど、レミリアはべつに懲りてないでしょうし、霊夢と魔理沙に至ってもなぜこのような事態になったのかといった関連への洞察が見られないのは、はてさてどうよといった趣なのよね。なし崩し的に月に行くまではまだ東方らしいかしらとも思えるけれど、しかし月に行ってから散々にやられてそれで飄々としてるのはいくら他人の目線を気にしない東方のキャラといっても、どこかちがうのじゃないかといった観は拭えないのであり、ここまで月人の強さを描写しても、果してそれがこの作品にどういった意味性があるのかと考えれば、ま、何もわからないのよね。ストーリー上からいえば、まったく霊夢たちの戦闘は依姫の潔白を証明するものでしかなかったのであり、となれば彼女たちが敗れ去るのは当然だとしても、ただなんていうのかしらね、策を弄した紫を非難しているわりには無策だったレミリアたちも貶めているのが儚月抄であり、幻想郷の住人はただの愚か者だったということがこの作品の最終的な結論だと捉えられても、それはある意味しかたないってことになってしまうのよ。それは、何かおかしいのじゃないかしら。」
「「道は爾きに在り、而るにこれを遠きに求む」を体現したのが幻想郷の住人たちだったとしても、だからといって月の民がとりたてて優れた種族にも儚月抄の描写からはうかがわれないからなおさら、かな。‥これがつまりこの作品の決定的に失敗しちゃったかなって思える部分で、さらに私がこの作品のそもそもから心配してた部分であるのだけど、それは何かなっていえば、遥かに高度に発達しきった文明として月世界は設定されてはいるのだけど、その種の現在の知性を越える高次の知性というのはSF作品の常道ではあるけれど、でもそれを効果的に説得力を伴って描くのは至難の業であるっていうこと。わかるかな、要するに人間種の‥この作品では対比はあくまで幻想郷の人たちだけれど、でも幻想郷は現実の私たちの社会の相対的な投影としてしか定義されえない存在であるのだから、月世界が私たちの社会の上位変換と考えてなんら問題ないのは自然なことなのだよね‥上位知性として描かれるべきはずの月の民は、私には古くさい中華思想的発想に染まった、単なるありがちな権力と特権意識に酔った支配階層の類型にしか映らなかったということであり、そんな連中が公然と実権を握ってる月世界が、理想世界だなんて笑えちゃうということ。そして月世界があいまいな存在としてしか印象を残さないのは、月人の代表として描かれた二人の姫の凡庸な性格から由来することでもあり、月世界の具体的な描写もなければ、あまつさえ今回は霊夢の台詞で月の都の状況を詳述したのは、苦し紛れな補填としか思われない。‥月世界が個性ある輪郭をもてなかったこと。これが私が本作を評価しない最大の理由かな。月は理想郷でもなんでもない、私たちの歴史にあらわれた特権意識に染められた、閉鎖世界でしかありえなかったのだから。」
「ま、上位知性のコミュニティを描こうとしてそれが破綻してしまうのはよくあることともいえるから、それを強く責めるのも酷だとも思えるのよね。というのも上位知性というと、現代の私たちの量的な増加は容易に想像できても、その質的な変化といったものはわかるわけないのであり、それが十分に描写できなかったといっても致し方ない面というのはあって当然なのよ。もちろん上位知性というのがまったく想定できないわけじゃないけれど、釈迦だの親鸞だの道元だのが普遍的に存在するコミュニティなんて描けるわけないでしょう。というか、そういった知性のもち主なら、そもそもスペルカード戦なんてやるはずないでしょうし、どっちみち無理な話だったのでしょうね。ま、なんというか、設定も物語もここに来て破綻の色が決定的になったかしら。どう次回ラストをまとめてくれるか、恐々と待ちましょうか。無難な最終回を期待よ。」
2009/03/09/Mon
「おもしろかった、といっていいと思う。でも率直にいって手放しで絶賛というほどの完成度でもなかったかなって思いは私のなかに最終巻を読み終えたあとから免れたく残ってるのであって、それは端的にいうなら、本作は自身が提起してきた課題のすべてには洩れなく対決するということができてなくて、それはとうていこのラスト1巻で収まりうる内容のものでもなかったから、10巻で終りって情報が知れたときから予想ができた類の失敗ではあったかな。つまり「とらドラ!」って作品はいくつかのとても示唆に富む問題を提出してくれたのだけど、本巻で描かれた部分はこれは読了した人のだれもが納得してくれるものだと思うけど、真摯に決着をつけられえたのは竜児ただひとりであって‥実は大河の問題に関してはスルーしちゃってるところがあって、そこは少し残念かな‥作中、重要な位置を占めたであろうみのりんについては、まだ大きな課題が立ちはだかってるのでないかなって思いが、私には拭えない。そして、竜児はみのりんのことがけっきょくわからなかった。でも、それは、しかたないことであるかもだけど。それはみのりんと竜児の人となりは、その型としては、ぜんぜん異なった二人だっていってもよろしかもなのだから。」
「ま、竜児の葛藤については上手く処理することができたといったところかしらね。いろいろ意見はあるのでしょうけれど、しかし竜児が大河を連れ出し逃げて、そのまま社会からいろいろなものを放り投げて、つまりこれまで築いてきた自分の負った歴史を捨てて、消えてしまう可能性もあったことを思えば、今回、彼がくだした決断というものは評価してよいものであったのでしょう。とくにこのまま大河との愛だけに溺れ、ほかを省みなくなるのは破滅につながる道だと気づけたのは、竜児が真にこれまでの経験を昇華し、変化した証拠と見てよいでしょう。人は変われば変われるものなのかしらね。ま、終盤の竜児はちょっと多幸感が強すぎてあれと思う場面もあったのだけれど。」
『泰子のエゴイスティックな保護欲と、それに応えなくてはそもそも存在する意味さえないと思える空虚な自己像が竜児の前には立ちはだかった。そして大河の母親も、大河を竜児から引き離そうとして立ちはだかった。』
竹宮ゆゆこ「とらドラ10!」
「実際的な家族の不在を設定として用意して、それなのに女の子や何かで擬似的な家族を構成しちゃう傾向があるラノベにおいて、実の親を捨てた泰子と泰子を捨てようとした竜児、そして紡ぐ因果の恐怖によって祖父母に頼った孫の姿は、私には竹宮ゆゆこの視点の卓抜さを示すものにほかならないのじゃないかなって思うかな。それは安易に子どもたちだけで気楽な家族を形作るのに逃げるのじゃなくて‥つまり現実にある親や兄弟とはあんまり楽しくないから、理想の家族像としてかわいい女の子で囲まれた生活集団を、ラノベが描きがちなことと対照されてるのだよね。そして本作でも竜児は大河と逃げ出そうとして、現実からの逃避による空虚な理想の実現に行きそうになったのだけど、それを拒否したのが彼の男らしいとこ。ここは素直に私は竜児を見直したかな。やるじゃない、竜児‥現実をどうしようもない現実として認識するということであって、それは自分のためだけでない、要するに環境が彼に課した運命的な責任を、竜児は主体的に泥を被ることによって乗り越えようとした意志を象徴するものでこそあるのだよね。‥人は、ときに自分のせいじゃないのに、重荷を負うべき場合がある。それを十字架って表現してもよろしかもだけど、でも私は、それが生きるための与件ならって、腹をくくる竜児の態度には大人を感じたっていいたい。そう、今回の竜児はなかなか大人だった。感情に流されまいとしてふんばるとこなんて、素敵じゃない。」
「竜児が母子家庭に生まれたのも、祖父母と断絶して生きてきたのも、すべては竜児の責任ではなくただ状況がそういうものだったというだけであるのよね。ただしかし、そのまったく自分には責任がないはずの不運な状態に、人は何かしら意味づけを与えてしまいたくなるものであって、本作でも竜児は運命だの罪だのといろいろ悩んでしまうのは、ある意味、実に人間らしい懊悩だといって良いのでしょう。ただそれは、運命でも罪でも、まして必然でもないのよ。ただ状況がそうあったというだけであって、それは大河にしろ実乃梨にしろ、異なるところはないのでしょうね。しかしいえるのは、人はただの不運に運命という意味を与え、勝手に絶望してしまいがちな存在である、か。はてさて、ならばそういう傾向から逃れるにはどうすればよいのか。それがこの作品の最終的なテーマだったと思って良いのでしょう。」
『そうやって、生きて生きて、生き残ったから、今ここにいる。でも、簡単にここまで辿り着いたわけじゃない。よろよろで、傷だらけで、満身創痍のボロ布みたいになって、それでも生きて、過ぎ行く過去を渡ってきたのだ。自分だけじゃなくて、生きている奴はみんな『今』を目指してボロボロになって、それでもやってきたのだと竜児は思う。』
竹宮ゆゆこ「とらドラ10!」
「この認識にたどり着いた竜児が、不運と絶望に満ちた運命を受諾する場面が、本巻のいちばんの見どころであって、竜児は自己の孤独を分つ片われとしての存在である大河との愛を信じること、一途に信じることによって、暗黒に染まろうとする自分の心に光明を点しつづけることを決意する。そして大河もまた愛を得るのであって、まさにこれは私がいってきた『それは運命だから絶望的だといわれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得るのである。』を証するかのようで、私は、うれしかったかな。‥たぶん最終巻で胸に来ちゃうのは、竜児と大河がようやく両思いになれたってことであって、回り道を重ねてきた迂遠な二人であったからこそ、結ばれてからの関係性の表現は最高のカタルシスがあったのだと思う。でもなんていうのかな、二人は以前もいったけど、本質的に適合してるのでないかなって思えちゃうほど相性のよい性質同士であったから、そのうち傍にいたらうざくなっちゃうくらいのバカップルになるだろうなって私は気がするかな。というか、本巻でもさいごのほうそんな雰囲気だったから、亜美さんあたりは近いくらいに怒ってくれてもよろしかも。‥でも、それはそれでよいのかもかな。大河がしずかに幸せになれたことは、私もうれしい。それは、よかった。」
「ただ大河の家族関係ももう少し余裕をもって描かねばならなかったと思えてしまうのが、なんとも惜しいのよね。竜児をしっかりと描写しきったのだから、相棒である大河も疎かにしてはならなかったとは思えるのだろうけど、はてさて、真正面からとりあげられる日はいつか来るのかしら? それに実乃梨の問題は、何かしらね、「とらドラ!」では核心には触れられずじまいだったという印象は残るのであり、実乃梨の闇の問題は、おそらく竹宮ゆゆこという作家にとって、未だ向わねばならない課題として在るのでしょう。ま、しかし、ひとまずこの作品がこれで区切りというのは妥当なのでしょうね。楽しませてもらったのは事実でしょうし、素直にそこは感謝かしら。しかし、本作はまだこれから考えねばならない部分は多いでしょう。そこは私たちとしても、気を緩めてはならないところなのでないかしら。ま、はてさて、ね。」
『桜の季節が終わる頃、メチャクチャだった大河と出会った。騒々しい八方破れの日々が、そこから始まった。やがてどうしようもなく惹かれあって、いつしか恋に転がり落ちた。無様に転げて、死ぬかと思った。どうにかこうにか起き上がって、やっと心は重なりあった。そうして今、高須竜児は、逢坂大河を、愛している。
こんなにも愛している限り、二人を繋ぐ絆は決して断たれはしないと思う。繋ごうと思う限り、大丈夫なのだと自分自身を信じる。いずれこの愛は声になって溢れ出すだろう。堪えきれない呼び声となって、お互いの名を叫びあうだろう。肉体も、心も、魂も、引き寄せる力に抗えずに、やがて世界のどこかで二人は必ずぶつかりあうだろう。
そうしたら、その後はまるで帰り道を見つけたみたいに、竜児と大河は同じところを目指して生きていくのだ。大河と一緒に生きていけるなら、ともに歩めるのなら、その先に果てなんてなくてもいい。ずっと続いていっていい。永遠でさえいいと竜児は思った。そこにはただ、愛がある。』
竹宮ゆゆこ「とらドラ10!」
竹宮ゆゆこ「とらドラ10!」→
竹宮ゆゆこ「とらドラ!」1巻→
竹宮ゆゆこ「とらドラ2!」→
竹宮ゆゆこ「とらドラ3!」→
竹宮ゆゆこ「とらドラ4!」→
竹宮ゆゆこ「とらドラ5!」→
竹宮ゆゆこ「とらドラ6!」→
竹宮ゆゆこ「とらドラ7!」→
竹宮ゆゆこ「とらドラ8!」→
竹宮ゆゆこ「とらドラ9!」→
竹宮ゆゆこ「とらドラ・スピンオフ! 幸福の桜色トルネード」→
竹宮ゆゆこ「とらドラ・スピンオフ2! 虎、肥ゆる秋」→
絶叫「とらドラ!」1巻→
竹宮ゆゆこ、絶叫「とらドラ!」2巻→
とらドラ雑感 微妙な距離感→
とらドラ雑感 恋愛と自己愛のバランス→
「とらドラ!」にみる男の奇妙な性心理→
「とらドラ!」は現代の「人間失格」なのかな→
大河をツンデレとするオタク的気質の問題とか→
「とらドラ!」雑感 嘘の囚われ人としての実乃梨→
自尊心の処理の問題 「とらドラ!」と「山月記」に寄せて
2009/03/09/Mon
「人望とか人柄とかいった、ふだんはよくその定義や概念を理解してつかってるわけもなくて、ただ感性的に用いてる他者評価のひとつであるこの種の言葉を、山本は本書で明確に実世間で尊敬を克ちうるためには不可欠の条件だって指摘してる。そしてそのこと自体はとくに多くの人も異論のあろうはずもないことで、実生活を営んでるだれもが人望やその人の個性や魅力といったものに対して、惹かれたりあるいは逆に軽蔑したりしてるわけであって、さらにまたほかの人に私はどう思われてるのかなといった内省は、多数の人たちの網の目をくぐるかのような現代社会においては個人において求められざるえない深刻な自己検討の響きがあることも、同じく賛同されることと思う。‥でもそれならそこで大きく問題になることは、果して私たちが日常何げなく用いてる人望って言葉はいったいどういうふうに理解されうるものなのかな、そしてその概念を解したら、それを私も身に備えることができるのかなといった疑問であることは明白で、本書「人望の研究」はその人が集団を整えて枠内で生きる存在である以上避けてとおれない問題に、真っ向から挑んだ良書だって評価していいんじゃないかなって、私は思う。人望とは、なんなのかな。そしてそのセンスとしてはわかっても、言葉にしては把握しがたい模糊とした何かを、人は意識してつかむことはできるのかな。‥本書はこの部分に、実に鋭く体系的な論述をしてる。そこはとても興味ふかい。」
「山本はまず戦後の日本社会やそのほかの国々が企図した平等社会の実現は、紛れもなく人望主義的社会の到来を招くものだと定義している点なのよね。それはいわれてみればたしかにそういった側面はあるのであり、というのも階級や身分といったものが消滅した社会は完全な競争社会として機能するもので、そして競争とはどれだけの人に認められるか否かによって大勢が決するものと思えば、そこにおいて人望が果す役割というものは、少なくないどころかある意味決定的な影響を担いうるものといっていいのでしょうね。これはつまり人望という評価がなければどれだけの能力があっても社会からは除外されるということであり、むしろ高い能力が専門性ということで人望の一要素にもなるのだと考えるなら、人望とは何か、そして人望を備えるための方法論への議論は必須だとして当然なのでしょう。さてそれなら、人望とは身につけられるものなのかしら。もしかしたらそれは生来的なもので、努力などではどうしようもないものなのではないか。本書はまず、そこに答えているのよね。」
『『近思録』には、次のように記されている。
「伊川先生曰く、学は以て聖人に至るの道なり。聖人学びて至るべきか。曰く、然り」
これはおもしろい言葉である。というのは、聖人とは徳と一体化したような人だから、普通の能力とは別で、それを超える異質な能力を持つ人である。では、学ぶことによってそのような人になれるのか、「曰く、然り」で、だれでもなれるのである。ということは、自ずから人望のある人に、「学ぶこと」によってなれるということだから、「人徳がない」とか、「人望がない」といわれる人も、それはけっして生まれながらの性格や性質によるのでなく、このことを学ばず、したがって修得していないにすぎない。
普通、学ぶといえば知識を修得することだが、知識の獲得が、ある能力の獲得になるということはだれでも知っている。工科に学べば技術家の能力を獲得し、法科に学べば法律家の能力を獲得する。それと同じように、「徳科」に学べば、その「徳」という異質の超能力を獲得できるというのである。いわば人望ある人になる能力も、学べば獲得できるのだから、「人望がない」は、けっして「宿命」でない。それを学べばよいのである。』
山本七平「人望の研究 二人以上の部下を持つ人のために」
「上記の箇所が本書のおもしろいとこで、徳やそれに基づく人望、そしてそこから生ずるだろう世評や名誉、尊敬といったものは、ただ生まれながらのカリスマとかいうのに拠るものでなくて、しっかりとした手順と修練をつめばだれでもそれを獲得できる、ある普遍的な能力にすぎないって明言しちゃってる点にあるのだよね。もちろんそうはいっても性格とか気質っていったものは個々人で相違はあるし、それは生来的なものっていっていいでないかーって反論はあるかもだけど、これに山本は「飽食暖衣、逸居して教なければ則禽獣に近し」って答えてて、どんな素養のもち主でもそれを磨かなければ発揮されることはないって、学習が人間にどれだけ影響を及ぼすのか、その力のほうに目を向けるように促してる。そしてこの意見には私も頷いちゃう点があるのであって、素質は陶冶されなきゃ上手に表出されないっていうのは学問やそれに限らずあるとくていの分野を専一に観察すればわかることであり、山本はそして人望の獲得のために儒学や「箴言」に代表されるユダヤ民族の伝統的な知恵を紹介しながら、またとある企業の内部事情を挙げることで、詳説される意見が机上の空論に陥らない所以の補強を試みてる。‥徳や人望、そして道徳なんて言葉をもち出しちゃうと、実学が重んじられる現代においてはあまり身近な問題には感じられないかもだけど、でも人望といったものが民族、時代に係らず、人間にとって常に重大な題目であったことは、人望がすなわち他者の尊敬を得るといった、人望のもつある普遍的な本質に基づいてることからもいえると思う。それは本書で山本が儒学やユダヤ民族が描く聖人の社会機能的な面からの同一性からも理解されることと思うし、また古代ギリシアのプラトンなどが同じように徳‥もちろん細かに分析してくと同じ枠組で語るのはむずかしいけど、でも徳から来る人格者のイメージは、洋の東西を問わず、ある共通性があることはいえるのじゃないかな‥を一義に思索の対象としたことからも、人望が決してせまい閉じた概念でないってことは指摘できるのじゃないかな。人望とはとりもなおさず、人が社会性を獲得する階梯の、最終的な目標でありまたさいしょの一段でもあるのだから。」
「本書を読んでおもしろいのは、人望がだれにも得ることが可能といった発想から来る、ある種の教育論としても読めるという点なのよね。これは山本が中心に典拠とした中国文明やユダヤ人が、その歴史的背景や環境から一種の教育主義的な側面があったということが関係しているのであり、平等主義や競争主義はそのまま直接的に教育主義的な方向と親和するものであるのでしょうね。ただしかし現代の日本の教育システムでは、往時においては最重要とされた徳の獲得といった教育が不十分であるのであり、山本はそれに対し自学自習することを切に勧めている。というのも、たとえどれほど能力が高かろうと、人望のない人は評価されっこないからでしょうね。ここにおいて山本は、積極的でもあるのよ。つまり人望がない、人から好かれないと思い悩むのなら、それ相応に努力せよ、と。徳は得られる。人望を身につけられる。生まれつきの性格に人生のすべてが決せられるはずがない。本書の意義とは、まさにそこを訴えている点にこそあるのよ。あきらめる必要性など、毛頭ないというその認識の裡にこそ、かしらね。それはひとつの人生の幸福論よ。」
『徳有れば此に人有り。人有れば此に土有り。土有れば此に財有り。財有れば此に用有り』
「大学」第六段
山本七平「人望の研究 二人以上の部下を持つ人のために」
2009/03/07/Sat
「儚月抄が非難される最大の理由は何かなって考えれば、それはひとえにそのわかりにくさにあるのかなって気がさいきんの私にはしてきてる。東方最難易度なんて揶揄されるのもストーリーの煩雑さと描写の拙劣な箇所から来る物語性の理解の困難さから来るのであろうし‥漫画作品としての完成度はかならずしも高くはないかなって私も思う‥それはSTGっていうゲームのなかでもとくにわかりやすい枠組で表現されてきた東方であるからこそ、よけいに際立って感じられちゃうことなのじゃないかなって気がするかな。‥ただだけど、ここで思いだしてもらいたいのは、本家STGのストーリー自体もそうわかりやすいものでなかったって事実であり、東方において物語性というのはあくまで背景として存在してるからこそ世界観のふかみに寄与する部分があったってことは無視できないにせよ、ストーリーの成行自体が作品の中心を成す‥プレイヤーにとってことさら目につく部分という意味において‥わけではなかったのだよね。だから西行や竹取物語や日本神話の体系的な知識がなくてもSTGはSTGそれとして楽しめるのであり、実際おもしろいしそこから派生的に背景の知識へと興味を移すこともあるのだろうけど、ただ儚月抄がやっちゃったミスのひとつとしては、そういったSTGでの東方の文脈をそのまま漫画って媒体に移しちゃった点に求められるように思われる点なのだよね。つまりプレイヤーが主体的にとりくむことが可能なゲームと異なって、読者は受動的な立場に立たされざるえない漫画という領域においては、東方のわかりづらさは弾幕を避けることでごまかされることなくして直接的に体感されるのであり、それは東方のもつ爽快感をスポイルすることに結果としてなったって私は見てる。でもその種のわかりづらさはこれまでのSTG作品のなかにもまちがいなく潜在してた類のものであるのであって、ことさら儚月抄が東方の文脈のなかで奇異な位置を占めるものではないのじゃないかなって、私は思うかな。わかりやすさ、というのが評価されるのが現代だものね。ううん、これは現代に限らない、人の傾向なのだものね。」
「二次創作界隈におけるキャラクターの記号的理解というのも、ま、わかりやすさというものが肯定的な意味をもつからこそ、有効性を得ているのでしょうね。そしてよく作品を吟味してみれば明瞭となることでしょうけど、霊夢も魔理沙も、こういってはなんでしょうが、非常にわかりづらい性格をしているのであり、とくに霊夢のパーソナリティというのはある種の共通の性質を自覚してる人にとってはそれほど困難な性格をしているわけでもないのでしょうけど、そうでない人にとってはなかなか判じがたい宇宙人のようなキャラなのでしょうね。というのも、人というのは基本的に他者への関心をもった存在であるのであり、他者にあまり関心がないというのは、けっこうやばいのよ。だれもを平等に見てるというのは、だれをも特別にしていないということでしょう。だれも嫌ってないということは、だれもそう好かないということでしょう。それは孤独を是とすることであり、孤独というのはたいがい嫌なものよ。しかし孤独を霊夢は選択してるというのであれば、それはだれにも媚びないということよ。媚びないとは、空気を読まないということよ。愛想がないということよ。阿らない、ということよ。そして東方は、媚びていないのでしょう。ファンが根気よく育ててきた界隈の空気というものに。それがありありと出てしまったのが、ま、つまり儚月抄ということよ。」
「同人作品には本質的にわかりやすさというのは求められてないものであるから、かな。もちろん儚月抄は商業作品でないかーって批判は通るかもだけど、ただZUNさんのスタンスを見る限りかならずしもその意識は濃厚でなくて、あくまで自身の思想を‥他者の評価をべつにして‥表現しようって姿勢は、本人がいうとおり、同人の特徴をまっとうしようとしてる気概がうかがえておもしろいかなって、私は思う。よくもわるくも、そういった創作姿勢をこんなふうに示せる人はなかなかない。もちろん立場によってその姿勢は単純に肯定も否定もできないだろうけど、でも私にはこれから何を表現しようって考えてるのかなって、その先が常に気になる稀有な作家のひとりであることはまちがいないっていっていいかな。東方のファン界隈の空気を読んでないのも、だいたい意図的であろうし、儚月抄が最終的にあらわそうとしてるわかりづらさは、何か思索するに値するものを残そうとしてるのかもしれない。というのも、ある種の事柄は本質的にかんたんに語り尽せるものでないし、私は小説作品としての儚月抄にはある種の鮮烈な印象というのを感じてる。それらぜんぶを踏まえて儚月抄を評価するには、たぶんまだまだ数年くらい時間がかかるのでないかなって気がするかな。だから、あまり急いてもしかたないのかも。といって、このネット世界で急ぐなというのは無駄だろけど、ね。憶測が邪推と疑心暗鬼を生むのもやむなしかな。」
「儚月抄という作品でおもしろいのは、それを語り批評するファン層が、次第に作品論の次元を離れて、系譜学的な考察というかしまいには企業論理などのきな臭い方向に向ってしまうことなのよね。編集部だの作家のスタンスだの云々しても、所詮、推測の域を出ることはないのだから無駄じゃないかしらとは思うけれど、ま、はてさてね。作品をノイズのないただの作品として受けとるのはもはやむずかしいのかしら。ただ、ま、個人の感情というものはどうしようもないのでしょう。それは非難するつもりは、もちろん毛頭ないかしら。そんなものなのでしょうしね。はてさてよ。」
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東方儚月抄が不人気な理由のひとつはファンの連帯感の構築に与れなかったからかな
2009/03/06/Fri
「この物語において汐を死なす必要性が果してあったのかなって疑問は、クラナドという作品にはじめてふれたときから今まで私のなかに燻ってきた問題であって、その汐の死の悲劇性への違和感は、未だ胚胎したそのときから完全に解消されることなく私の裡に留まってる。それというのもこれまでのストーリーの成行を思うなら、渚の死によって一度人生に裏切られた朋也が、娘の存在によって死んだ心をとり戻し、さらに父との和解を済ませるって流れはとてもきれいなものだし納得の行くものでもあって、この作品は直幸との和解の段階で終らせてもよかったのでないかなって思いが、私には拭えないから。でもだけど、そこで物語を終らせることなくて、そのあとを描こうと試みたのが本作であって‥それはこれまで恋人同士が結ばれる過程までしか描かなかった恋愛作品とは異なり、結婚からそののちまで視野に納めたこの作品の発想の大きさを証するものでもある‥汐の死もまた、そういった文脈のなかで考察しなきゃいけない問題なのかなって、私には思われるかな。‥汐の死に、いったいなんの意味があったんだろ。町とは運命であり、そして不条理に弄ばれる朋也の人生の比喩にほかならないのだとしたら、その町に殺される渚と汐と、そして彼女たちを愛した朋也の存在に、いったいなんの意味があったのかな。私は、いつもそこで、答えに窮しちゃう。」
「なぜ渚は死ななければならなかったのか。なぜ娘である汐もその顛末を再現せねばならないのか。ま、そういった疑問がこの作品のラストには否応なく喚起させられるということなのでしょうね。そしてその疑問は、今回のエピソードでふれられた朋也の町への不信感といった形で視聴者の共感を呼びながら語られるのであり、町つまり人生はなぜこういった悲劇を用意するのか。そして運命とは、もしくは神とは何なのか。その種の疑問が、ここでは問われているのでしょう。ま、要するに、クラナドという人生をテーマにした作品が最終的に直面した課題は、くしくもヨブ記のそれであった、か。はてさてね。」
『なぜ、悲惨な境遇に泣く者に、光といのちが与えられるのか。彼らは死にたくても死ねない。人が食べ物や金のことで目の色を変えるように、ひたすら死にたがる。思いどおり死ねたら、どんなにほっとするだろう。神の与えるものが無益と失意の人生だけだとしたら、なぜ、人を生まれさせるのだろう。出るのはため息ばかりで、食事ものどを通らない。うめき声は水のように止めどなくあふれる。恐れていたことが、とうとう起こったのだ。ぬくぬくと遊び暮らしていたわけでもないのに、災いが容赦なく降りかかったのだ。』
「ヨブ記」第3章
「なぜ私は生まれたのだろうと、ヨブはいう。そしてこの台詞は、そのまま朋也の過去への想起へと直接に重なる意味性があるのであって、人生の根本的な意義を疑いせしめるような不条理に出会ったとき、人はみずからの存在、なぜこんな不遇な「私」があるのだろうかといった悩みに直面するのはある意味必至であって、それはなぜなら私の存在の喜びや意義や意味を吹き飛ばすかのような威力とやるせなさを伴ったのが不幸の究極的な意味あいであるからで、朋也が渚と出会わなかったほうがよかったのでないかなって思っちゃう場面は、ヨブ記の問題の構図のままであるのはまったく自然なのかなって、私は思う。‥私は、なんていうのかな、たぶん次回の最終話で朋也にはある救済がもたらされて、人生のすばらしさを認識し町‥つまり運命‥を肯定する流れに、原作と同じように、描かれるのだろうって予想するのだけど、でもたぶんクラナドという作品の意味を思うなら、ほんとはこの回が最終回であったのだと思う。つまり渚も死に、汐も死ぬ。そして朋也は己の存在の意味を失う。それがこの作品の最終的な結論だったのだと思う。それはヨブがけっきょく絶望のうちにおかれるように。安易な答えなんて、与えられないかのように。」
「ヨブ記のさいごの救いの描写が後代の加筆であるのと同様、次回のクラナドのエピソードがそれと似た構図に納まるであろうことは十分に考えられる、か。ま、たしかに物語が終盤に至ってこれほどの悲劇性を呈出するクラナドという作品が、一般的な評価のためにもラストの救済を描かなければならなかったというのは致し方ない部分もあるのでしょう。ただそれでも町のもたらした不条理というものは視聴者には明らかに納得できない何かとして残ることは、残る。そしてその納得できない何かというものは、おそらく最終回で描かれる希望によっては単純に解消される性質のものでもないのでしょう。運命とは、そう都合の良いものでないでしょうからね。残酷なようだけれど、しかし人は残酷なくらいに孤独におかれるものよ。なんてことかしら。」
2009/03/05/Thu
「よく描けてる。印象的なのはとくに亜美さんとみのりんの二人きりの会話の場面であって、ここは両者の考え方の対照的な様子と、またかつて竜児や大河といっしょに仲よしといわないまでもあるていどの関係性を築けた四人の間柄が明白に変化したことを端的に象徴する、この作品の終盤の雰囲気を鮮烈に描写してたかなって思うかな。それでまず考えたいのはみのりんの行動であって、亜美さんは前回までのエピソードですでに竜児やみのりんに愛想を尽かしちゃってる事情はすぐ理解されることと思うのだけど、でもそこで違和感を感じるのはなんでみのりんはまた亜美さんとの対話を望んだのかなって部分であり、ここに亜美さんはもう諦念に達しちゃってるけど、みのりんはそうじゃない、むしろみのりんにはまだ亜美さんが求められてる、そういった彼女の心理の動きが看取されるのでないかな。つまりみのりんがほんとにしたかったのは亜美さんとの和解でなくして、みのりんの心の肝心な点を占めてるのは自身の精神状態の整理にほかならなくて、そしてその整理には亜美さんとの接近、対決は避けられないものであったということ。さらにいうなら、みのりんは未だ亜美さんに固執する何かを秘めてるということであり、決定的にそのことを裏づけるのは幽霊のたとえ話をもち出した点にあるのだよね。だって、幽霊の話を知ってるのは竜児だけじゃない。亜美さんは夏合宿でそのことをきいてないんだよ。でもみのりんはここでも幽霊の隠喩をつかった。それはほかのだれでもない、みのりんの葛藤の自己中心的な展開のあり方を示してる。」
「実乃梨にとって亜美の存在がそう無視できるほど小さなものでないという観察はおそらく正しいのでしょうね。そして冬山での一件を越えてから明らかに実乃梨はこれまでの自分をなんとか変革しようとあがいており、その自分の心を決するためには亜美とのもう一度の邂逅が彼女のなかでは不可欠の意味を帯びていたということなのでしょうけど、それが一方通行のものであったことは、はてさて、今回の二人の様子を見るに思っていいのかしれないかしらね。実乃梨はなんというか、やはり少し独善的よ。大河のことを勝手に思い、勝手に決断し、竜児の告白を無下にする。そして亜美との会話も彼女の一方的なものであったという側面は否めず、彼女は何かを決意し、もう迷わないということを勝手に決定している。ま、なんというのかしらね、他人の意見というかもっと友だちの気持をうかがう余裕があっても、実乃梨にとってはそう損じゃないかしらとは思えるのよね。少々焦りすぎよ。なぜそこまで思いつめるのかしら。」
「もう迷わないって宣言する姿は、逆に彼女の懊悩のふかさを示すものにほかならないって思えちゃうから、かな。‥みのりんって基本的にポジティブ・シンキングの人で、今回も自分をいじめるかのように忙しく予定を組み入れてバイトに部活に奔走する様子が描かれたわけだけど、彼女がそこまでがんばるからには何か理由があるはずで、竜児もまたそれを知りたいって多少は思ってる。でもそれをよく知ることは彼にできることでなかったのであり、みのりんの内面の複雑さは彼女の本心を覗くことが叶わない竜児と同様、私たちにもうかがい知ることのできない闇となってこの作品には提示されてるのであって、ここ終盤に至ってもそのほんの一端さえ明示されないのは、「とらドラ!」って作品のむずかしさに寄与することになっちゃってる要因のひとつかなって、私は思う。‥みのりんは変わらない。でも彼女をふかく思う人にとっては、自分がどれだけ働きかけようと、些細な動揺さえ見せない‥見られようとしない、あらわさないよう努めてる‥姿は、己の無力さを痛感させる働きこそすれ、彼の幸福には結びつかないのでないかな。そしてまたそういった他人の心情を慮る余裕のない、あるいはそれをすることを恐れちゃうみのりんの気質は、いたずらに陽気にふるまえばふるまうだけ、彼女の傷を抑圧する結果しかもたらさないのじゃないかなって、私は思うかな。‥だから変化しつづける、大河の挙動に竜児は戸惑う。停滞しない大河と、隠蔽しつづけるみのりん。この二人のコントラストもはっきり出てきて、興味ふかいエピソードだったのじゃないかな。次回も、楽しみ。」
「未だ竜児と実乃梨の仲を願っている大河の姿があまりに健気であるからこそ、竜児に対しはっきりとした宣告をくだすことなく、曖昧な関係を維持している実乃梨の不誠実さといったらあれなのでしょうけど、そういったずるい部分が露わに出るのかしらね。ま、しかし、竜児もまた自身の感情を上手く処理することのできていないといった印象かしら。正直、今回、竜児は大河の首を絞めるのでなく、抱き締めてキスのひとつでもしてやるのが本懐といったものでしょう。というか、それくらいしないから関係がここに来てもぐだぐだなのよ。さっさと何かしてしまえばいいのよ。そうすれば否が応でも関係性は変化し、物語は展開するのだから、悩んでいる場合じゃないのでしょう。感情の処理は、頭で考えるより実地に動いたほうが効果的な場合も多々あるものよ。暗黙知とはべつにいわないけれど、竜児は少し内向的すぎるのよね。関心を外に向けることが、彼には求められてもいるのでしょう。ここからが、彼の踏ん張りどころよ。がんばってもらいたいかしらね。」