2009/04/30/Thu
「男の人が女の人の格好をしてみたいって感じる欲望、または女の人が男の人の衣装を身につけてみたいなって思う願望のことを、心理学ではトランスヴェスティズム、あるいはフランス語でエオニズムっていう。それは萌え文化の文脈のなかではいわゆる男装や女装という形で広くみとめられる嗜好のひとつかなって思うし、萌えが広義における人間のエロティシズムの縮図的な意味あいをもってその勢力を構成してるって考えるならば、当然このエオニズムにもオタク文化の外側に求められるだろう歴史的背景といったものがあるのであり、文化的に異性の服飾として通ってる衣装を着てみたいな、それを身にまとった自己を眺めてみたいなって感じる性向は、あるていど普遍的にみられるだろう人間の欲望の傾向のひとつの型と考えていいみたい。それにオタク作品のなかではこの手の男装、女装の例をさがすのは容易かなって思うほど浸透したものであるかなって思うけど、たとえば十八世紀のフランスに目を転じてみるならば、私たちはアベ・ド・ショワジーっていう女装趣味のあったある奇妙な紳士の姿を発見することができる。彼は自身の回想録のなかで、生まれてすぐ母親に女の子の着物を着せられたこと、劇場では五ヶ月の長きにわたって娘の役を務めあげたこと、自分にいい寄ってくる男たちもいたことを控えめな筆致で物語ってて、なんとも興味ふかい告白かなって思うかな。とくにまいにち身体の手入れをしてたら胸がだんだんふくらんできて、女性らしい容姿になれたなんてことまで書いてるのは、ほんと、ふしぎなくらい。‥でもたしか胸部のマッサージをすると、男性でも女性らしい胸のふくよかさを獲得することは、たしかできたんだよね。その種の告白はたぶんネットをさがせばたやすく手に入るのでないかな。そしてそれを人体の神秘、男性と女性のあいまいな区分といった観点から考えてみると、なかなかおもしろい気がしてくるかも。」
「トランスヴェスティズム、ね。ま、しかしなんとも奇妙な話題からエントリがはじまったことかしら。これは「タユタマ」の感想エントリのはずだけれど、ま、しかしといって、今回のエピソードはそう語るところもないだろうと思われてしまうでしょうから、そういった与太の方向の話にふるのは致し方なくもあるのかしらね。ただ下着だの着物だの、さては裕理が女装もしてたのだから、そうまったく関係のない話題ともいい難くはあるのかしら? いや、関係ないといえばまったく関係ないともいえる、か。はてさてね。」
「着物ばかり着てたから現代の服飾が珍しくて欲しくなっちゃったって告白するぬえはなんかかわいかったよねー。それに対して裕理の女装はあれだけで終っちゃったのはちょっと残念かなって気もしないでないけど、ただなんていうのかな、このトランスヴェスティズムというのは考えてみるといろいろ奇妙な代物でもあって、まずある個人が異性の格好をしてみたいって思うとき、その欲望に同性愛的要素が関係してないのかなっていうと‥つまり男の人が女の人の服装をしたとき、その男の人は女性の格好でべつの男の人の行為を獲得したいがためにそういった格好をするのかなっていうと‥それは心理学的にはほとんど関係がないこととされてるみたい。要するに、異性の衣装を身にまといたいって思うのは同性愛的感情からというより、ただ自分が望む、自分が愛しく思う性を象徴し代表する衣装をみずから覆うことによって、自分が焦がれる「性」に、それが与える「美」の一端に与ろうって心理でこそあって、トランスヴェスティズムは際立って審美的な人間の願望のあらわれだって思っていいのじゃないかな。べつな言葉でいえば、人は完全に男性でも女性でもありえないのであり、人は何等か異性であって、むしろ性の厳然とした区別は存在してない。ただ現代社会と文明の規範の要請がそうさせるのみであって、なら人が完全に区画されたジェンダーにおとなしく納まってるって考えるほうが、不自然ともいいうるのじゃないかもかな。‥性の本質は、つまり、理性と欲望の矛盾した混交の裡にこそ認められるのだろうから。」
「文明は個人を男性か女性かにはっきりと分けて考えることを要望してるし、また社会の機構もそうであることを求めていさえはするのよね。ただしかし、人はいくぶんかは異性の要素を捨てきれずもっているものであり、それはふだんの生活では無意識裡に隠れていようと、何かの拍子に表に出ることはままあるだろうということかしらね。ま、実際問題、トランスヴェスティズムの快楽に憑かれている人は、はてさて、少なくないわけがないでしょうね。どんな人でも性の底知れない欲望といったものは身体と心の奥に秘められてるのであるでしょうし、それがなければ人間はただ単にロボットに墜してしまうでしょうから、性といったものは恥ずべきものではないのよ。これを積極的に享楽しなさいとまでいえば、ま、これはサドの言説のようになってしまうから、はてさてといったところでしょうね。とりあえずこのエントリはほどほどにして終ろうかしら。性の話はそれこそ、いくらしても尽きないものでしょうしね。それが人間の根幹であり、いわばすべてでもあるのだから、おもしろいことよ。性ほどおもしろいものがほかにあるかしら? はてさてね。」
2009/04/29/Wed
「昭和三十八年から三十九年にかけて連載された「闇のよぶ声」は、遠藤周作の手がけた唯一の長編推理小説って銘打たれてるとおり、ほかの諸作品と比較すると明瞭にミステリーを遠藤が構成しようって意識して書いてるんだなってわかる展開と謎に満ちてるのであって、そしてその試みはあるていど以上には成功してるのじゃないかなって、私は感じた。というのもさいしょは遠藤に推理ものなんて書けるのかーって半信半疑に読みはじめたのだけど、でも長らくミステリーものから離れてた私にとっては久々に物語にちりばめられた不可思議とヒントをさぐり当てながら文脈を追ってく作業はことのほか楽しく感じられて、なおかつ全体をとおして考えた場合でも構成に決定的な破綻というのは見られないように思えたから、遠藤もこういう雰囲気の書けるのだねって見直す気持が生じるにやぶさかでなかった。‥でもとはいっても、トリックそれ自体がことさら優れた一作というふうでもなくて、この作品の本質ともいうべき魅力の一点は、やっぱり遠藤周作らしい人間の生きることへの観察と心のあり方への足りることのない探求にこそあるのであって、そこを見落しちゃったならたぶん本作はそこそこおもしろいミステリー作品として消化されるだけになっちゃうと思う。‥物語の筋は、おもしろい。動機と犯行の構図に至っても、合点は行く。ただそれだけで終れない、終っちゃいけないある要請が、本作には歴然として示されてる。そしてそれを読み解くことこそが、この作品に遠藤が期したものを知る道程にこそなるのだろうって、私は思うかな。」
「ドラマはとある連続する失踪事件にある神経科の医師が係るところからはじまるのだけれど、ま、物語の流れを概略するのはあまりに無粋だから止めておきましょうかね。それより興味ふかいのはやはり遠藤周作がどのようなテーマ性を設定してこの物語を構築したかということであり、ただ単にありきたりな推理小説を完成させることが主眼であったはずはないのでしょう。というのも、本作は犯人というのは、ま、それが犯行を自覚して行った人物という意味では、登場するのだけれど、これは作中人物が能動的に発見するのでなく、犯人が告白するという態で行われるからたまったものじゃないのよね。しかも結局、犯人を逮捕することも何もできたものじゃなかったのだから、これは状況だけを見るなら犯人の一人勝ちといったもので、推理小説のカタルシスも何もあったものじゃないのよ。つまり、いいかしら、遠藤周作は明らかに意識的に刺激を与える推理ものといった探偵小説の基本を無視しているのよね。はてさて、それではいったい何を遠藤周作はあらわしたかったのか? そこを問うところから、本作のおもしろみというものは露わになっていくのでしょう。」
「そこの答えは人によってさまざまな考え方が可能であるだろうけど、でもたぶんひとつまちがいなくいえるだろうことは、遠藤は本作においても生きることそれ自体の意味といったものを問わずにはられなかったということであり‥なんで私は生きてるのかな、って、素朴な疑問が常に遠藤の文学の出発点には動機としてあるように私には思われる。そしてその種の「人生の意味」といったものに少しでも意識を捉われたことのない人に、遠藤という存在とそれがもたらそうとしてる、あがこうと、伝えようと苦心してるものはたぶんつかめないのじゃないかなって気がするかな。ただだけど、私はなんで今日もこうして朝起きて、そしていつもどおりに家を出て、この日々のルーチンをこなしてるのだろうって、ふと疑問に陥らない人は、殊に現代社会においては、ほとんどないと思う。そういった言い方をするのなら、遠藤が生涯考えつづけた問題は、きっと多数の人にも共感を呼ばずにはられない類のものじゃなかったかなって気がするかな‥それについて遠藤は明確に、「人生にたいする疲労」といった言葉で表現してる。‥生きること、日々をつづけてくこと、私が私として私であることを強制されることに‥少なくともふつう人は強制されてるって思いこんでる‥ふと嫌気が差したとき、または生に対する感動と驚異と神秘を見失ったとき、おそらく人は、かんたんに死を選択しちゃう。そう、遠藤は私にはこの作品でそんなふうに語ってるように思われた。‥そして、なんていうのかな、遠藤はけっきょくこういった重み、人生に対する、生きてくことに対する疲れに対して、なら人はどうすればよいのかってことを、つまり最終的な結論を、おためごかしの安易な道徳的な解決を、与えてない。ただ人生にはそれ自体に疲労があり、それはときにあっさり人を殺しちゃうし、そうやって死んでる人もいるんだよって、この世にはそうしたことがあるんだよって、ただそういってるだけのように、私には思える。‥そしてそう語る遠藤の目の裏には、たぶんイエスのまなざしが想定されてたにちがいないって、私はただ思うかな。疲労はある。重荷もある。そしてそれを見つめる、何かが、ある。救いは何も、もたらされない。」
「もちろんこの作品ではキリストが中心に出てくるわけではなく、またその種の信仰といったものが本編中話題にとりあげられることもない。ただしかし、何かしらね、この作品に触れている間中、遠藤がイエスの顔といったものをすぐその人物のとなりに思い浮べていることが、なんとも明瞭に、それこそはっとさせられるかのように、分る瞬間と箇所があるのよ。ただそれらを遠藤は抑えて抑えて、ふと登場人物が彼ら自身の生活と生きることにうんざりした刻々に、まるで一条の光がこの己の生活には差すこともあるのだろうかと、そんな突拍子もないことをいうような折に、しずかに洩れたりする。それがなんとも切なく、また苦しみの吐露でもあったのでしょうね。そしてそういった意味で本作は、良質の、手堅くまとめられた作品といっていいのでしょう。非常に読み応えのある一冊よ。遠藤の問題意識を探るうえでも、これは示唆に富んだものといえるでしょうね。おもしろかったことよ。」
『一人の……中年男がいた……私と同じように人生の三分の二を終えた男です。家庭にも生活にも、これという波瀾はない。しかし、なにか彼はくたびれとります。なににくたびれているのか、自分にもわからん。しかし体だけではなく、心の奥まで、疲労が巣くっとりましてな。まあ人生にたいする疲労というのでしょうな」
会沢はまるで自分に言いきかせるようにそう呟くと、寂しそうに苦笑した。
「毎日、毎日が、同じような生活で。これからもその生活が変わるとは思われません。そんなとき、彼ア……同じような気持ちで生きとる一人の女に出会ったんです。女も結婚生活に疲れていた。亭主は別に悪い人じゃない。しかしその亭主と一緒にいるとなぜか、疲れるわけですな。家庭にも生活にも波瀾を起こさん男は女を疲れさせるもんだ。藤村さん。あんたにはそんな中年男や中年の女の心がわかりますかな」』
遠藤周作「闇のよぶ声」
遠藤周作「闇のよぶ声」
2009/04/28/Tue
「昭和三十七年に発表された「砂の女」は、当時まだあまり世に知られてなかった安部公房の名を一躍有名にすることになった出世作であると同時に、また全世界的に安部公房の才能を鮮烈に記憶させることとなった公房の作家としての素質のとりわけ美しく奇妙で、そして何より圧倒的な言語に対する感性の複合としての形態を一心にあらわし結実することになった、類稀な一作として評価することには多くの人が賛同してくれるものじゃないかなって思うかな。二十ヶ国語以上に翻訳されたって実績が当時この作品が与えることになった衝撃のほどをよく教えてくれるだろうし、私としてもこの作品のもつほかの諸作品にはまずお目にかかれないだろう複雑な象徴性の入り混じった独特の筋書と設定と、そのあふれるばかりの人間って存在へ語りかけるような謎の呈示の奔流は、快感とも暗澹とした心理の重みを吐き出させるかのようなため息ともとれない、何かもっと感情のざらざらした表面に擦りつけられるかのような、微妙な思いの伴った感嘆の息を吐き出さすほかない印象を与えられる。こんなに現実的にはまずありえなくて、なのにどこまでも執拗に食い下がるかのような場面を描写する写実的な筆致と、状況と物事に対する観察的な文章の際限のない羅列は、公房の文学のある特異な一点と共に、現代って舞台が作家に与えた素材へのある有力な解答の一端をさえ示すことにつながってるのじゃないかなって、私は思う。‥この作品が訴えてること、そしてあらわそうとしてる人間って存在は、いったいどういったものなのだろう。そのことを考えるたびに私は物思いに沈む。ふかい、どこまでも底のない、いや今私がいるここそが底なのでないか、そんな蟻地獄のような不安を思わず考えちゃうくらいに、私はその問題に対してふしぎな感慨を抱いてる。「砂の女」が与えてくれる感傷は、奇妙なくらいに、ねじれてる。」
「物語はさして変哲のない教師である男が、とある休暇を利用して趣味の昆虫採集に赴くのだけれど、向った先は町のすべてが砂に埋れてしまっている部落であり、そこで一夜を過すことになった男は、はてさて、ある女の家に閉じこめられてしまうというものなのよね。というのも、その部落の家々のすべてはどれもが砂のなかに位置しているのであり、天井だけがぽっかりと空に開き四方を砂の壁に囲まれた、砂の壺の底に収められている家とでも形容しなければならないような奇妙な位置におかれてしまえば、縄梯子か何かを用いなければ脱け出すことはまず叶わないのだから。そして砂というものは絶えず流動するものであり、日々砂をかき集め捨てる作業をしなければ、家は簡単に潰されてしまう。さらにおどろくべきことには、ひとつの家が崩壊してしまえば、それに連鎖して部落のすべてが砂の洪水のなかに破局を迎えてしまうというのだから、なんとも奇怪な状態というべきなのでしょうね。であるから、そんなところを訪れてしまった男は、砂をかき出す労働力のひとりとして、ある女の家に下ろされてしまう。そしてここがこの作品のおもしろい点なのでしょうけど、男はただそこをたまたま訪れたために、適当な労働力として、またそれだけの理由で、監禁され、元の生活をあきらめねばならなくなるという点にあるといえるかしらね。砂をかき出すためのみに男は砂の家に納まった。さて、それは果してどういった意味なのかと問うところから、本作ははじまるともいえるでしょう。」
「男は自分をそんな理由のためだけに自由を奪った部落を憎み、何度も脱走を果そうと奮闘する。自分が奪われた元の世界と生活と自由のすべてをあがなうために、男は何度もあがき、あらゆるものを呪詛し、解放されることを切に望む。そしてそれは男の立場になってみるなら、それはそう思っちゃうよねって、ほとんどの人は納得できる意見だと思うし、本作の構成はそういった男がもしかしたらこの砂の地獄とでもいうべきところから脱出できるのかなって、そういった関心がドラマの原動力に据えられてることはたぶんまちがいなくいえることだと思う。‥でもそういった男の試みはことごとく失敗しちゃうわけで、そしてそこでなんで男は脱出することができないのかなって疑問が当然に湧く。‥男は不当に自由を奪われた。それはゆるされない犯罪だって、私たちはおそらく思う。‥でもただだけど、そこでふとある疑問に突き当るのであり、それは何かなっていえば、男は自由を奪われたって叫ぶけど、それじゃその「自由」とはいったいなんだったのかなって問題がそれにちがいない。だって男はこの村に来る前は、教師をして、でも子どもたちのために生きがいのぜんぶを見出してるのかといえばそんなこともなくて‥夢に懸ける情熱は、いずれ、尽きる‥仲のよい友だちや家族や恋人がいたのかなっていえば、そんなこともなくて‥大切な他者なんて、実はそうない。むしろ心のなかではだれもをばかにしてる‥趣味らしい趣味はいちおうあるけど、でもそれらのためだけに生きてるのかなっていえば、そんなこともない。ただまいにちを惰性で暮してるのがほんとのとこで、その大半はルーチンワーク。さらにいうなら、そのルーチンワークのなかの部品は、何も自分じゃなきゃいけないってこともなくて、ほかの人が自分の代りをしようと思えばそれくらいの代役はいくらでも効く。つまり、自由や可能性といったものはまやかしで、ふだんの社会でふつうに働いてても、砂の壁に挟まれて砂かきやって生きてても、人の存在といったものは、実はそう大差ないのじゃないかなって、ある恐ろしい、どこまでも恐ろしい結論に、本作は突き当る。‥そして、ここが秀逸な点かなって思うけど、この作品は自身が獲得した最終的な答えを、それなり認めちゃってるのだよね。しかもそこに皮肉も恐怖も何等交えないで。つまりそれが自然だといわんばかりの面持で。‥それを、この作品の行き当った答えをどう処するかは、それこそ読者各々の裁量次第なのだろうな。だって、本作は何も答えない。道徳も倫理も、人生訓も垂れ流さない。その様子はまるで、人と無関係に悠久のときを行き交う、砂が何に対しても応えないであるかのように。」
「砂のなかで暮そうと、世間と人ごみのなかで生きようと、その本質はまったく変わるところはないのじゃないかといった主張が、本作にはたしかに読みとれるひとつとしてはあるのでしょうね。ただしかし、少し補足をしておくのなら、本作の秘めている象徴性は実に多義的で、このエントリで述べたことも非常に多様にある読み方のひとつにすぎないということは、まず胸に留めておいて良いのでしょう。本当にいろいろな解釈が可能なのが「砂の女」なのよ。そしてこういった作品の雰囲気は安部公房らしいともいえるし、カミュやカフカを世界的な文脈におくある流れだとも捉えるべきなのでしょう。それはつまり、文化が直面した虚無的な空気のあらわれが、「砂の女」にも免れがたく漂っているということよ。そういった点も踏まえて本作は、なかなか一筋縄で行かない意味性を発しているといっていいのでしょうね。ま、どのような読み方もできる、それがこの作品が広く受け容れられた理由の一端ではあるでしょう。べつな言葉でいうのならば、どういった読み方があなたにはできるのか? その問題こそが突きつけられているともいえるのでしょうね。人が何を読み、何をどう感じるのか。それこそが尽きるところのない精神的な課題ともいうものよ。はてさて、そうじゃないかしら? いや、そうでこそあるでしょう。その通りよ。」
『(百人に一人なんだってね、結局……)
(なんだって?)
(つまり、日本における精神分裂症患者の数は、百人に一人の率だって言うのさ。)
(それが、一体……?)
(ところが、盗癖を持った者も、やはり百人に一人らしいんだな……)
(一体、なんの話なんです?)
(男色が一パーセントなら、女の同性愛も、当然、一パーセントだ。それから、放火癖が一パーセント、酒乱の傾向のあるもの一パーセント、精薄一パーセント、色情狂一パーセント、誇大妄想一パーセント、詐欺常習犯一パーセント、不感症一パーセント、テロリスト一パーセント、被害妄想一パーセント……)
(わけの分らん寝言はやめてほしいな。)
(まあ、落着いて聞きなさい。高所恐怖症、先端恐怖症、麻薬中毒、ヒステリー、殺人狂、梅毒、白痴……各一パーセントとして、合計二十パーセント……この調子で、異常なケースを、あと八十例、列挙できれば……むろん、出来るに決っているが……人間は百パーセント、異常だということが、統計的に証明できたことになる。)
(なにを下らない! 正常だという規準がなけりゃ、異常だって成り立ちっこないじゃないか!)
(おやおや、人がせっかく、弁護してあげようと思っているのに……)
(弁護だって……?)
(いくら君だって、まさか、自分の有罪を主張したりするつもりじゃないんだろう?)
(あたりまえじゃないか!)
(それなら、もっと素直にふるまってほしいものだね。いくら自分の立場が例外だからって、気に病んだりすることは、すこしもありゃしないんだ。世間には、色変りの毛虫を救う義務がないと同様、それを裁く権利もないのだから……)』
安部公房「砂の女」
安部公房「砂の女」
2009/04/27/Mon
「今回のお話はハガレン全編中のなかでもとくにその独特の物悲しい雰囲気と哀切に満ちた情調がふかく作品世界に奥行をもたらすことに成功してる点から印象に残ってるもののひとつであって、人体錬成にまつわる本作の一貫したテーマである生命倫理の問題、そしてそれに向きあう個人の意識のやりきれなさ‥それは理解しあえない他者という形を一見とって描かれる‥が、端的に手際よく表現された傑出したエピソードだったっていっていいのじゃないかなって、思うかな。それというのも問題なのは自分の娘を自分の都合のためのみに利用しちゃって禁忌の扉に手をかけるタッカーの姿は、本編中、本人がいってたとおり、ほからならないエドの鏡像としての役割があるのであり、物事の本質的な次元においてはエドとタッカーのしたこと、しようとしたこと、そしてたぶんもたらした結果までが、それぞれ対応し、照応しあう性格のものであるのであって‥あえて二人の異質な点を突けば、タッカーはみずからの近親者を犠牲にすることに躊躇しなかった点が挙げられるかな。この部分ではエドとアルはだれかを利用しようとはしなかったし、また彼らは人体錬成以後、自分たちの目的と行動に他者が犠牲になる可能性を極端なまでに怯えるようになる。その間の彼らの心情といったものがどういったとこに根ざすものなのかなって考えることは、たぶんエルリック兄弟の無意識にまでからみつく、罪の影響があると思う‥それを自覚したからこそ、エドはタッカーを、みずからの過去の所業を映すかのような人間のおぞましい表情を、殴打し、罵倒する。まるでその行為は、鏡にあらわれる自分の表情の一挙手一投足に、心の裡を見透かされる恐怖にあえぐかのようでさえ、あったかな。」
「査定をクリアしたいという欲求のための行動であるから、タッカーの動機は少し俗っぽくまたどうしようもない小物といった感じを与えることにはなってしまっているのでしょうけど、ただしかしそれをいうならば、エドとアルもまた孤独を埋めたいというおそらくだれにでもあるだろう感情から発作的な人体錬成を行ったのであり、根本的な部分を見るなら、タッカーもエルリック兄弟も己のエゴから禁忌を易々と踏み越えてしまったという共通項が免れがたく指摘できてしまう点なのでしょうね。さらにこのエピソードの悲劇性を補強することといえば、タッカーが心底邪悪な人間でもなければ、むしろどこにでもいるだろう類の凡骨な性質の者として描かれている点にあるのでしょうね。どう贔屓目に見ても、タッカーは大それた所業をしてしまうような傑物には、良かれ悪しかれ、映らないのよ。しかし現実にはそういった凡庸な人間が、信じられないようなふるまいを為してしまう。そこが人間の恐ろしい点であり、またとてつもなくおもしろいところでもあるのでしょうね。ま、なかなかいいにくい部分かしらとは思うけど。」
「貧困に喘ぎたくないって切実な心情は過去にそれと似た経験を経た人ならだれでも推察できるとこのものだろうし、またひとりきりで、つまり孤独に生きることの苦しさといったものは、たぶん自己の心情に無自覚的でない平凡な感性のもち主であるなら、ふとときおり、考えずにはられない問題でもあるのだろうから、タッカーにしろエドにしろ、彼らが為し遂げてしまった行為の出発点ともいうべき動機についてのみ限定して語るなら、それを想像することは決してそんなにむずかしくはないっていうことがまずまちがいなくいえるだろうって思えちゃう点が、この一連の問題を複雑に暗く、そして暗鬱にいいがたくしてしまってるのだろうね。というのも、そういった登場人物たちの心理のあり方が基本的にどこにでもあって、そしてだれにでも見られるだろうある種の普遍性を備えてるからこそ、この作品のキャラクターたちの人間味といったものが薄くない印象を伴って読者に感得されてくるのだろうし、そして彼らが凡庸な動機から一所懸命に戦う姿勢が、人間の人間性のある核心的なつよさといったものを伝えてるように、私には思える。ただでもだけど、そういった平凡な人格の、つまりありきたりな心理と感情と傷みからこそ、人を人でなくしちゃう、生命倫理の問題といったものは浮上してくるであろうこともまた同じくいえちゃう事実であるのであって、ここに大きな問題が、要するに平凡な心理が技術を得たことによって可能になったとき、人間性はどうその変革に応待すべきか?といった問題が、私たちの前にあらわれ出てくる。それに解答することは、たぶんあらゆる人間に、求められてることでもあろうかなって、私には思われるかな。そしてそれがこの作品の卓抜なメッセージ性を湛える所以でもあり、エドの慟哭の意味を考えなきゃいけない理由でもある。なぜならタッカーはエドにだけの鏡像であるのでなく、人間性のある典型の、一般的な素顔でさえあったのだろうから。」
「孤独が嫌だ、貧困が嫌だ。そしてそれらを解決する方法が技術的には、倫理的な是非はともかくにしろ、開かれているのなら、さて人はそういった道徳的な判断や良心の声といったものを無視して、前に進むべきなのかしら? 本作の優れている点とは、おそらくおおよそこのようなものであるのでしょう。そしてこの種の問題というのは、何も生命技術の領域にだけ限ったものではなく、たとえばネットの世界は人の隠微な欲望を実に拡大する点でも技術と倫理といった「鋼の錬金術師」が描いている問題性の一端を裏づけるものであるでしょう。悪口をいいたいといった心理や、徒党を組みたいといった欲望から、生命やそれに対する畏敬の問題まで、現今の私たちが当面している状況といったものは、はてさて、むずかしく、そして余りに広大であるのでしょう。これは一朝一夕に答えの出るものでないし、おそらく個々人の生き方の選択といったものが問われてくるものでもあるのでしょうから、ま、けっこう判じがたいのよね。ただ何かしら、思うのは、この種の問題は考えなくていいということはおそらく絶対にありえない。だから、ま、よけいにむずかしいのでしょうけどね。このエントリで落ちがつくはずもないでしょうから、とりあえず、ここでこれは終っておきましょうか。ハガレンというのは厄介な作品ね。厄介で、人間くさい作品よ。いい作品と、いっていいでしょう。これからの話も楽しみよ。まったくね。」
『「その大学病院でね……戦争中だが……私は捕虜を殺した……」
ガストンは両手で膝をだきながら返事をしなかった。彼は主人に見捨てられた犬のような眼で遠くを眺めていた。
「戦争のあいだ屋上でね、暗い海を見るたびに、私は……人間の宿命――わかるかね」
「ふぁーい。わかります」
「人間の宿命ということを考えたもんだ。私はこの海と同じように人生は何時までたっても愚劣で、悲しく、辛いもんだと思うたが……それは戦争中だったからかもしれん。あの頃、戦争は何時、終るか、わからんかったし、私も何時、死ぬかもわからんかったからね」
勝呂はガストンに聞かせるためではなく、自分自身に語りかけるように低い声で呟きつづけた。
「だが、今でも……その気持は変らん」
浜辺で犬をつれた青年が木の枝を遠くに投げた。犬はうつくしい走りかたで、その小枝を追った。
「私は今でも……人生は愚劣で、悲しく、辛いもんだと思うとる」
「なぜ?」
「あんたは……そう、思わんかね」
「思わなーい。だから、わたくーし、日本にも来ましたです。たくさんの他の国にも行きましたです。みんな、みんな悲しい。でもわたくーしニッコリしますと、みんなニッコリしますです。わたくーし、今日は、と言いますと、みんな、今日は、と言いますです。そのことのあります限り、わたくーしは生きるのこと辛いと思わない」
ガストンは自分のたどたどしい日本語をこの時ほど恨めしく思ったことはなかった。彼の気持、彼のが考えていることの万分の一しか、日本語ではこの医師に伝えることはできなかった。』
遠藤周作「悲しみの歌」
2009/04/26/Sun
「前回いきなり周囲から疎外されちゃうヒロインを描いたという点で俄然興味ふかく思われるようになった本作なのだけど、今回のお話はそのラストに至る結果からなかなか意味深な展開に方向をとったかなって感じられて、けっこうこの作品は一筋縄で行かないのじゃないかなって気がしてきたかな。というのも、まず今回のエピソードでは周りの人たちに溶けこめず、それだけならまだしもだけど、でもましろはそれ以上に妄想がひどい、いわゆる狂人として扱われちゃうわけで‥美冬さんはあれでもいろいろフォローしてたほうかなって気がする。たぶん美冬さん以外の生徒たちのあいだのましろの評判はもうとり返しつかないとこまで行っちゃってるのじゃないかな。それというのもこれが一段と閉鎖的な寮生活のなかの出来事であるからで、舞台がもうちょっと開放的なふつうの学校でのことなら、ましろにはもう少しべつの目があったかなって思われるけど、でも彼女の場合はそうは行かなかった‥ラスト、神通力みたいなので美冬さんたち以下をおどろかせて一泡吹かせることに成功したのはよいけれど、でもけっきょくのとこ、ましろは自宅から再度通うことになるのであり、それは要するに寮から追い出された、美冬さんたちのあいだでのましろのいう「共存」が一端暗礁に乗りあげちゃったっていうことであって、これはどうみても、フォローしようのないましろの敗北だったっていっていいのじゃないかな。‥もちろん未来はどうなるかわかんないけど、でも今の時点ではましろひとりでは一般の社会生活に順応することはできないって突きつけられちゃったに等しいのだものね。これはましろ、なかなか堪えるものがあるのでないかな。意外とハードな成行で、本作はおもしろいかも。」
「終盤での神通力での場面は、ましろは巻きこまれた多くの生徒たちの記憶を奪ったと美冬が告げていたけれど、あれはよく考えるなら逆効果だったのかもしれないかしらね。というのも、ましろの能力と威力は彼女の言を裏づけるもので一応あるのであり、ならば神通力の実際の現場を見せておくほうがましろのこれからの学校生活にとってはプラスに働く向きが見過せずあるはずでしょう。それにこれからもましろはフローレスに通うのでしょうし、そのなかで自身の位置を有利にするには、神通力の力を知らしめておいたほうが良いことは論を俟たないでしょうね。もちろんここで考えねばならないのは、そうやって威力と権能と神通力の与える恐怖でもって学校内の立場を円滑にすることが、ましろのいう「共存」の目的に沿ってるかは疑問だろうということなのでしょうけどね。そしてそう考えればこそ、ましろは多数の生徒の記憶を無くしたともいえるかしら。ま、彼女は茨の道を選択したということね。それはなかなか勇気のあることとはいえるのでしょう。」
「そうやって得られたましろの未来‥つまりこれからの学校生活‥が、彼女にとって決して楽なものでない、むしろきびしいものになるだろうことがまずまちがいなく予感できちゃうことが、本作のちょっと予想だにしてなかった衝撃で、またこれから描かれるだろうドラマの質に期待をもたせてくれるだろう根拠になってるとはたぶんいえるのだろうね。‥ましろは一旦裕理のもとに戻って、いっときの休息を獲得できたわけだけど、でもまた彼女は彼女を排斥した空間と状況のなかに返っていかねばならないのであり、その負担はましろにとってそう無視できつづけるものでたぶんないだろうし‥だって彼女は監禁されてまでいるのだものね。それは彼女のふるまいがどれだけそれ以前の寮のなかにあって異端と見られるべきものだったかを暗示してる。それはつまりフローレスが築いてきた山本七平がいうとこの「空気」にましろが抵触したということであり、空気に「水を差した」ましろが実質的にさいしょに与えられてた尊厳と価値を一切奪われて、これから奇異の目で処遇されるだろうことは、ましろの抱く理想の困難さを浮彫りにしてる演出かなって思っていいかもかな。そしてそう考えてくと、この作品は初見の印象以上に丹念に構成されてるのかなって思えてくる‥フローレスの内部に裕理たちが介入できない以上、ましろのぜんぶではないけど一日のいくらかは、けっこう神経を使う環境におかれるってことになっちゃうのだろうな。‥そして思うけど、ましろのそういった立場に裕理が気づけていくらか彼女を労ってやれるのかなって考えると、裕理という人はそういった方面には私には疎いように感じられて、なかなかましろの立ち位置はむずかしいものあっちゃうのじゃないって、さらに思う。‥あんがい、アメリや美冬さんはそういったフォローを気遣える人かなって思うけど、裕理との関係性‥つまり恋愛の問題‥を踏まえた場合、とくにアメリは、ましろに対してどう接するのかなって興味が湧く。そしてここがたぶん、本作の考えるに鑑賞しておもしろい部分かも。‥これからの展開が期待できそうで、何よりかな。次もまた楽しみ。どんななるかな。」
「寮を去って自宅から特別に通うましろがどのようにして学校内での生活を送っていくかは、はてさて、おそらくひとつの興味ある物語になるに十分な要素を蔵してはいるのでしょうね。ただしかし、本作はそういったドラマを描く類の、ま、つまり少女漫画のような作品の型ではないのだから、そういったましろの内面なり心情なりは、視聴者側であるこちらが勝手に考えて楽しむこととしましょうか。それに何はともあれ、そろそろ三角関係なり恋愛の段階がもう少し進んで描写されても良いころでしょうね。裕理という人がどういった人かももっと切りこんで描写されてもいいし、次回以降の成行が気になる作品といえるかしら。ま、どうなるか、次回を楽しみに待ちましょうか。意外と演出の端々に感心させられる作品で、うれしいことよ。思わぬ掘り出し物とも、さて、いえるかしらね。良いことよ。」
→
山本七平「「空気」の研究」
2009/04/25/Sat
・キャラ紹介
◎佳代・リヒテンシュタイン~春宵一刻の白と黒~
姉妹の妹のほう。台詞が長めになりがちな人。
基本的に一人でいる。自分の好きなことに素直で、裏を返せばそれ以外については冷たいほど関心ない。あまり誠実には生きてない。
プラトンをあんまり読まないくせにプラトンパンチとか使う。殴られるほうはけっこう迷惑。
◎ナジャ・リヒテンシュタイン~碧落の空煙過眼~
姉妹の姉のほう。はてさてとよく言いがちな人。
ふつうに暮そうと思えば、文学も哲学もアニメも要らないで生活できる。ただもうそうはあれないだろう予感があって、その現実を諄々と受け容れている。思いを現実に妥協させることに慣れてる人。
シスコンといわれるときょどる。妹との関係は、彼女のほうがちょっと共依存ぽい。
・エントリの基本的な流れ
◎佳代→ナジャ→佳代→ナジャ‥
の順番でエントリは進んでいきます。
原則として佳代で会話がはじまって、ナジャで終る。だいたい二往復で終了が多いです(起承転結で書きやすいから)。
本などの引用は『』で表記し、書籍、アニメ、論文かかわらず題名、作品名は「」で表記します。本当はこの表記法は正当でないのですけど、ま、ブログですし、そこはゆるくやろうかと。
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2009/04/24/Fri
「メイドはいいよね。とてもいい。とくに「けいおん!」に出てくるメイド服は黒と白のへんに装飾とかされてないオーソドックスな型だから、なおさら素敵。澪との相性もまったく抜群で、ほんとによろし。すばらしいかな。だから文化祭ではメイド喫茶もけっこう捨てがたい選択肢なのじゃない?とか私は思っちゃったけど、でもそれをあえてふり捨ててあんなに似あうのにライブやるっていう澪に対しては私は少し微妙な気分をかみ締めねばならなかった。うーん、でもメイド服着てライブやればよろしじゃない!って思ったこともなきにしもあらずだけど、でもその案は原作でばっさり否定されちゃってるのだよね。残念。メイドはいいのに。」
「‥あんたがそこまでメイドの格好好きなのは、ま、はてさてと流していいところなのでしょうけど、しかしさて、本編の内容はというと、ここらあたりでけっこう原作をさらにアレンジし、一歩踏みこんだ描写がアクセントを効かせはじめたと見ていいのかしらね。物語の実質的な中心ともいうべき澪が以前の軽音部の演奏のテープを聞いて焦りを感じるということが合宿への動機となっているのは、これは素直にいい原作の解釈だといっていいのでしょう。それでも焦燥感を覚えているのが澪ひとりだというのがおもしろいところね。性格の問題といえば、そうなのでしょうけど。」
「口ではいろいろいってるけど、でも本音の部分でこのバンドのメンバーの関係性に軽くない意味を見出してるのは澪自身にちがいないから、かな。‥というのも澪は律の強引な手によってなし崩し的に軽音部に入部しちゃってはいるのだけれど、でも澪みたいな子はたぶんほかの練習をもっときちっとする部活のなかでも相応に活躍できるし、また上手に評価もされて認められもするタイプの人であることはまずまちがいないっていえることなのだよね。ただ、いわゆるそういった規律正しい大会を目指してもっと真剣にがんばらなきゃ!って雰囲気に、あえてしてないのが本作の特徴であるのであって、そしてそういったつまり不真面目な空間のなかでのだらだらとした環境を、いちがいに否定するものでない、要するにその種のある活動を気のあう面子で気ままに行うっていった、見る人が見たらその態度の不誠実さに怒っちゃうだろうなって思えちゃうあり方に、ある一定の価値を与えてるのが本作であるにちがいないんだよね。そしてそれはべつな言葉でいえば、ただ単に熱血で一目散に公的な評価‥大会でよい成績をあげようとか、次の試合に勝たなきゃ廃部だー!とか、そういうの‥を得ようとするのでなくて、むしろ「けいおん!」はそういった物語の発起点となるべきある意味深刻な目的設定をさいしょから拒否してるということ。そしてそれはあるていどの人たちに支持されてる物語の方向性だっていえると思うし、そういった事情は私にはこれまでこういった部活ものが、特定の成果を獲得するために‥ある種そのためだけに‥行動して、そしてその選択を称揚するように演出されてきたのだったけど、でもそれに対して新たな価値観を呈示した、その功績がみとめられるものなのじゃないかなって気がするかな。‥まとめれば、「がんばること」への価値観が多様化してきたっていうこと。単純に、むやみやたらに意気ごむだけが部活でない。「楽しみ」ということ。何をすれば「楽しいのか」が真摯に問われだしたということ。私には、「けいおん!」のようにがむしゃらにある成果を目指すのでない、かといって音楽にまったく興味が向けられないわけでもない、そういったある種自然体としての人たちの交流の魅力といったものが認識されればこそ、本作の一定以上の評価といったものが存在するように思われるかな。‥これは以前から思ってたことなのだけど、日本の部活って、ちょっと異様だものね。あんなにみんながんばるのは日本の学校くらいじゃないのかな。だから自身の経験を踏まえて考えると、「けいおん!」のような空気はきらいでない。部活って、よく、わからない。」
「ま、しかしかといって部活の何がわからないのかと問われたら、なかなか簡単に明瞭には返答できそうもないような気はするのよね。それというのもいろいろ疑問はあるのだけれど、まず部活ってなぜ県単位で争われるのが多いのかしら? そして地元単位で競われるのなら、学校単位ではなくもっと地域に解体して部活を広めればいいのじゃないかしら? それとあとは、ま、これは勘でいうのだけれど、部活って教育に害ないかしら? と放言をしたところでエントリを終ろうかしらね。ま、どうもこの問題はふれづらいのよ。むずかしいのよね。はてさてね。」
2009/04/23/Thu
「そろそろ終りかなって予感はしてたから次回が最終回って告知にはそれほど意外の感には打たれなかったけど、でもやっぱり、数年来この作品にふれつづけて、思いいれという点ではこんなに気にかけてきたものもほかにあんまりなかったかなって気が免れなく私には意識させられちゃって、少しとなく感傷的に、私はしばし思いを致す。‥今回の内容は甲斐がついに麦ちゃんに告白するといった場面が主眼であって、そのシーンだけに限っていえば、台詞をなくして登場人物の挙動と声にならない声を湛える背景のふかく描きこまれた風景が実に繊細な叙情性をあらわすことにつながってて、長くこの作品を読んできた私にとっても‥そしてまたほかの桐原先生の作品と比較しても‥とても印象的に、そしてしずかな余韻とこの作品が積み重ねてきた時間に染められる気持をあらわすことに成功した、すばらしい描写だったと私は思う。‥麦ちゃんと甲斐くんももう四年の長さにかけて表現されてきたのだものね。二人の関係性が転変を経て、こういった形に紡がれたのは喜ばしいことかなって思うし、それだけに自然に二人の人となりが確固としたものに固められてたからこそ、「ひとひら」が真率に人の心の流れと弱さとそのなかでささやかな光を発するだけのものといえども、ときに何よりつよくそして意味ある瞬間を呈示してくれるだろう人の意志とそこから導かれる思いの交流といったテーマを逃げることなくずっとずっと問題としてきたからこそ、この麦ちゃんと甲斐くんの恋人って関係性への実りは、私にはすごくうれしく、またこの作品の美しさと魅力といったものを端的に象徴するものとして認められるのじゃないかなって思うかな。‥余談だけど、私は二年くらい前に「ひとひら」の夢を見たことがあったっけって、ゆくりなく思いだす。ふだん本とかばかり読んでる私だけど、とくていの作品の内容や人物が夢にあらわれることは滅多にないから、あの夢のことはよく記憶されてる。だけれど内容は死ぬまでいわないけど、ね。だって恥ずかしいもの。」
「と、いうことは、つまり恥ずかしい内容の夢だったということね?」
「‥プラトンパンチをくらへー。」
「ま、それもいいのじゃないかしらね。おそらく、そうね、いいのでしょうね。」
「あとは何かな、私はずっと「ひとひら」が好きってことをいいつづけてきたけど、その理由のひとつとして、私は1巻を読んだときの感動といったものが消せないで残されてる。というのも、これは以前にも少しだけふれたかなって記憶してるけど、1巻の出たころの私は諸事情でけっこう孤独で、それまで住んでたとこを離れたばかりだったし、人間関係の環境もまた私はひとりきりの内省に導くに適したものだった。もちろんこのブログにあらわれるとおりに、私はそれほどひとりであることを苦にする性格ではなかったのだけれど、それより私のおかれた問題は私がみずからのこれからに対してどのような選択と決断を為すべきかといった、将来に対する漠然とした状況とそれに由来する自身の能力への懐疑とでもいうべきものであったのであり、そのころの私は何かな、今より以上に孤独であったし、端的にいえば、時間の流れにひしがれてた。‥そしてそういったなかで手にとった「ひとひら」の内容は、それが与えてくれた意味というものは、私にはひとが意志をもって‥それが偶然であろうとなかろうと、意志を抱き心がけようと決めた瞬間に、個人に機縁は天恵の、graceの意味をさえ与えてくれる、恵んでくれる‥がんばることの、そうできる、あることのできる人間の素敵さ、魅力といったものを示してくれたのであって‥その点で、私は偶然手にとることになったこの本に、ある種の過剰ともいえる意味づけを行ったことになるのかな。「ひとひら」1巻を立ち読みできるようにしてくれてたあの本屋に、私は感謝したい‥私が「ひとひら」にここまでこだわっちゃうのは、私がこの作品に救われた部分があったって感じてるからであり、またそれに対しての感謝があるからにちがいない。‥だから、次回で最終回なのは、寂しいな。でも、いたずらに作品を延ばしてしまうのも、私の好むとこでない。「ひとひら」のさいごを、だから、私は心待ちにしたいと思う。楽しみに、してる。期待する。」
「1巻の内容がきれいにまとまっている優れた構成になっているであろうことは、はてさて、たしかにいえることなのかしれないかしらね。そして逆にいえばそのあとの2巻の合宿の荒れ模様は、結果的に麦ちゃんにはプラスにはなったとはいえ、野乃の独善的な性格がけっこう露出してしまっているののだから、評価するには少しためらわれる部分も出るのでしょう。そして3巻の研究会の舞台発表とそれが予想に反して敗北してしまう流れはすばらしい。4巻につづく佳代ちゃんとの別れは転回点だったのでしょうし、その後の2年生になってからの内容も語るべき点は決して少ないものではなかったといっていいのでしょうね。しかし、さて、それではどんな最終回に、結末にまとめてくれるのかしら? 楽しみであり、少し切なくもあるかしらね。長く見てきただけに、ま、感慨もひとしおといったものでしょう。どう締めくくることか、はてさて、しずかに待ちましょうか。楽しみね、本当に。」
2009/04/22/Wed
「医師にして小説家っていう特異な立ち位置をもつ石黒達昌の「今年の夏は雨の日が多くて」は、1993年に発表された短編で、特徴的な題名は本文の冒頭を切りとったものであって、これは石黒の傑作である「平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士,並びに,」と同じくタイトルそれ自体には意味がないって石黒本人は述べてる。小説の形式としては「私」がとあるだれかに書簡を送るというもので、本文はその内容が逐一記されてるというもの。ここで「私」がいったいだれにこの手紙を送ってるのか、またその二人の間柄はどんな関係が秘められてるのかといった事情は一切本編では明かされなくて‥これはつまり作者と読者の関係性を沈黙のうちに石黒が語ってるとみるべきかな‥ただただ「私」の近況及び悩みが簡潔で理路整然とした文体で物語られてる。そしてその話題は多岐に渡るのであるけれど‥社会情勢の問題、根治しえない病気にかかった不安の問題、人間の自由とはいったい何に根拠を求めるべきかといった問題、等々‥貫かれてるひとつの課題とはいったいなんなのかなっていえば、それは私は「私」という人間の「私」についての徹底した問答、つまり自己内省と検討の意義に関してじゃなかったかなって思う。「私」は「私」について悩むのであり、彼の苦しみは彼が彼にとって明瞭な存在でないってひとつの疑義に突き当る。そして「私」が整理された見事な状態でないからこそ、本作の話題はさまざまな方向に飛ぶのであり、その雑然とした様子は「私」がどれだけまとまりのない人間であるかを明示してるのであって、それはさらにいうなら世間一般の人間の雑然とした不安に塗れた姿の暗喩であるからにほからないのじゃないかなって、私は思うかな。その意味で本作の興味は、個人と社会の構図における、個人のアイデンティティの獲得といった一般的なテーマにまとめることも可能かなって思う。ただそれはちょっと表面的に扱いすぎかなって気はしないでないけど、ね。」
「アイデンティティの問題という点については、主人公が探偵社に自分自身の調査を依頼するという箇所がもっとも印象的に示されている部分だということになるでしょうね。「私」は「私」が他者からどのように思われているか、自分はいったいどのような人間で社会的に存在しているのか、自分はとくべつな存在でありたいと願っているが果してそれは叶えられているのかといった、おそらくどのような立場にある人間でもふとある瞬間は考えに憑かれずにはいられない疑いに「私」は駆られるのであり、そのために自分の公的な客観的な指標を得るために、探偵社に自分自身を調べあげることを要求する。ただしかし、そうやって彼が得たのは自分はほかの人間からそれほど尊重も侮蔑もされていないという、有体にいえば、多くの人にとってそれほど関心の対象ではないという、ごく平均的な人間以上の人間ではないという、ま、当り前といえば当り前の評価を受けとることになるのよね。しかしこれはなかなか印象的なシーンではあるかしら。」
「その個人にとってはほかならない自分こそが自分の人生の主役であろうけれど、でもほかの人にとっては単なる世間の背景として存在する群集のひとりにすぎないのであり、そして年齢が長じるにつれ、人は自分が人生の、つまり世界の主役であるべきはずなのに、実は自分が世界にとっては端役にすぎない存在であることを、往々にして自覚させられるに至るから、かな。‥これは考えてみるならふしぎなことなのだけど、世界は私にとってのみ考えるなら、私が観察することでしか意義をもちえないはずであるのに、世界それ自体は私なしでもおそらく動くだろうし、また現に世界は私をそれほど尊重して扱ってくれてるわけではないみたい。でもそれは私の自意識にとってみるならなんとも不当なことであるはずなのに、でも世界は私の重要性を認識しようともしなければ、一瞬間後に私が消えてなくなろうとも、おそらくそれを是とするほど、私は私にとって以上に、世界にとって重要でない。‥つまり、それは孤独の自覚であろうし、独我論ってかんたんに片づけてもいいのだけど、ただ独我論には私の意識と世界の関係を踏まえた場合、どうしても独我論にぶつからざるをえない何か‥私と世界の関係の齟齬の象徴としてあらわれる、たとえば他者‥が、私という意識の発生にはぬきがたくあるみたい。そしてそれだから人の意識は冷たく暗くなってくのだろうし、またそこから解き放つ唯一の術に思える「死」が、人の人生において決定的な働きを担うようになっちゃってく。逆にいうならば、「私」が世界の傍観者でなくなったとき、「死」は私に独我論以上の実在の認識の光を与えてくれるのかもしれない。でも、世界はそれを、拒絶する。」
「この作品において主人公は自分の生まれたばかりの娘を観察した結果として、まだほとんど知能の発達していない子どもは死の概念といったものをまったく理解していないようだといっているのよね。そして死そのものが恐ろしいとも思っていないように、要するに死を理解してはいないように思えるといっている。そこから「私」は死の恐怖とは単に個人がアイデンティティを獲得、自己への執着を高めることによって、無意味に本能が与える以上に死を恐がることにつながっているのでないかと、解釈しているのよね。ま、これはなかなかおもしろいことかしら。そういった自己執着から解放されたなら、人はもしかしたらずっと楽になれるのかもしれない。「私」が「私」であることにこだわらなくなったとき、もしかしたら「私」は世界の傍観者でなく、世界そのものになれるのかもしれない。しかし、はてさて、それは無意味な話でしょうね。そんなことは、まずできないでしょうから。できるかしら? できないのじゃないかしら。できるといえるかしら。さて、できる人も、ま、たまにはいるのかもしれないかしらね。しかしそれは、はてさて、ほとんどの人には関係のない話よ。ほとんどの人は、なぜなら、凡庸なのだから。」
『結局のところ、私は概ね上司からは「そつのない」人間だと思われ、部下からは「きさくな」人だと思われているようです。時々講演やゴミ捨て場で会う近所の人間には「いい父親」に映り、親戚は「のんびりした人」だと考えているようです。要するに、平均的、ないしは自分が「平均的」だと思っている人間が私なのです。もっと言うと一言で言い表されるような人間だということになります。自分のアイデンティティーを追いかけているうちにごく平均的な人間にたどり着いたのだとすれば、これは一つの悲劇に他なりません。もちろんもっと深いところで自分は自分だと思ってみるのですが、車の模型を作るのが好きだとか子供好きだとか部屋をきれにしていないと気がすまないといったつまらないところばかりが「自分である部分」のような気もします。実際そういう人間はこの世の中に掃いて捨てるほどいるのです。私が失望と同時に安堵を覚えたのは言うまでもありません。どちらの方が強かったかと聞かれると、安堵の分だけ失望の方が大きかったのでしょうか。』
石黒達昌「今年の夏は雨が多くて」
石黒達昌「平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士,並びに,」
2009/04/21/Tue
「ハガレンの世界では錬金術はそもそもの錬金術としての意味あいというよりは、現代の科学技術の代替としての役割がつよくて、そのために今回エドがいったように錬金術士=科学者という構図で彼らの技術の社会的及び思想的性格が語られてたけど、実際の歴史上における錬金術の働きを考えた場合、そこには技術上の要請と同じていどの重要性で宗教性もまた不可分にあったことは、まずまちがいなくいえることなのだよね。たとえばパラケルススことフィリップス・アウレオルス・テオフラストゥス・バンバストゥス・フォン・ホーエンハイムは錬金術を「自然の営みを感性へと導くための唯一の手段」と定義してて、錬金術師にとって自然とは聖書に並ぶ神の言葉の書かれた書物にほかならなかった。そして自然の働きを解して、それを役立てようとする試みは神の意志に叶うことなのであり、ここから錬金術師独特の性格である「自分自身を自立的におのずから救う」といった、ただ単に神の救いのみをまつばかりの一般的なキリスト教的発想から自立した能動的な精神の探求者のイメージがあらわれる。‥だから錬金術っていうのは物質的、技術的な側面ばかりに注目するものでなくして、その作業には常に物質のなかに囚われてる宇宙の魂つまり神を救済しようとする、求道者的性格があったと考えていいと思う。ただそういった人間が何ものか、とくに神を救うって考え方がカトリックの教義のそれと対立することになっちゃって、錬金術師には異端的イメージが離れがたくつきまとうことになっちゃうのが歴史の話。たとえば十七世紀の薔薇十字団はその典型のひとつとしてみていいかな。」
「カバラ、グノーシス、ヘルメス主義。そのいずれものちに薔薇十字団の思想的源泉の各々として見られており、中世の神秘的、暗黒的な雰囲気を十二分に伝えてくれるものといったところかしら。ま、しかしそれはおいておいて、視点を錬金術師に移して考えてみるならば、錬金術師の活動といったものは第一にして精神的なものがあったのであり、単に技術の研磨といった部分のみが取り沙汰されるのは不当なことでもあるのでしょうね。というのも現代の自然科学の観点から見ると、錬金術は自然科学の未熟な時代のもの、またはその劣化した姿と考えられがちなのでしょうけど、しかし錬金術とはそもそも技術のみを目指したものではなく、そこにはある宗教や哲学の修行者のような側面が見過せずあったのだった。だがそれらの認識は現代ではあまりなされていないようではあるかしらね。はてさて、どうかしら。」
「科学の未熟な状態が錬金術であったのでなくて、錬金術から精神性を奪いとり技術のみの研鑽を重ねた末がある意味自然科学の発生ともいえるから、かな。‥もちろんここは慎重な議論を要するデリケートな部分であるけれど、ただかんたんに錬金術の作業の精神性といったものに注目してみるならば、錬金術とは自身の魂を成長させるべくしてある作業の体系ともいえることは記憶に留めておいてもよいのじゃないかなとは思うかな。というのも、たとえば錬金術において使われるフラスコが「哲学の卵」と呼ばれるように、錬金術にはその技術に精神修練として暗喩がかならず見とめられてたっていっていいと思う。そしてだからこそ卑金属を純粋な単一の黄金に変える錬金術師の悲願ともいうべき技術の追求は、それ自体が卑金属つまり不純した己の精神を、より純化した存在としての黄金つまり人間の理想ともいえる哲人になろうとした暗喩であることは、理解されることじゃないかな。錬金術は第一にして哲学的側面があり、そして技術はその実践的修養ともいうべきアナロジーとして存在した。そこはたぶん精神性を看過しやすい現代の情勢においても、もしかしたらいちがいに無駄といえない意義を思い起させてくれるのでないかな。人の心の問題は、いつの世でもかんたんなものでありえないのだろうから。」
「錬金術師はその実際の作業に臨むに当っては、かならず自身の魂の成長といった問題を思わずにはいられなかった、か。そしてそれが錬金術が常にある種の宗教性をまとっていた理由でしょうし、冷酷に物質的な側面ばかりを注目して科学のような体系を築けなかった理由でもあるのでしょう。なぜなら精神の修養とは畢竟個人的な作業に属するのであり、客観性の確立といったものはまず見こめなかったからでしょうね。ま、なかなかここらの分野は興味深くておもしろいかしら。魔術や錬金術、そして宗教と科学の関係といったものは、現代人が考える以上に密接に結びあったものであったのよね。それを考えるのは、はてさて、おそらくそう現代でも無駄じゃないでしょう。科学は科学のみで生まれたのではない。そんな当り前の事実を忘れてはおそらくならないでしょうからね。」
2009/04/20/Mon
「ここでましろを裕理と引き離しちゃう展開には少しおどろいちゃった。というのも、ふつうのこの手の作品ならふつうに同棲して学校でもいっしょでそれでべたべたな疑似家族的空間をつくって安住しちゃうものなのだろうけど、でもこの作品に限ってはメインヒロインに据えてあるだろうましろを一種の閉鎖的世界である寮のなかに押しこんじゃったのだから‥しかもそれが縁って言葉でもって片づけられてるのだからおもしろい。縁を大切にするって発想がましろにあることは、この作品が神道をモチーフにしてるだけあって少し気になったかな。共生云々というのはよくわからないけど、機縁が人間の行末を左右する大事なものって認識は、私にそうわからないものでない‥「タユタマ」は主人公とヒロインの距離をどんなふうに縮めてくのかなって興味が湧く。安易に二人をひたすらいつもいっしょにいさせるのでなくて、一定の間をあけさせたのは素直に関心かな。ここからましろが慣れ親しんだ‥といっても一晩ていどだけど‥人たちから離れて、見知らない集団のなかでどんなふうに自分の位置と居場所を見定めてくのか、そこにどんな葛藤があらわれるのかは単純に見物ともいえると思う。といって、これがあっけなく解決したらつまらないかなだけど、ね。少しは波乱があってほしいところ。少女漫画的な発想があれば、この作品はおもしろい方向に転ぶかもって思うけど、さてどうかな。」
「ヒロインが転入するまではこの種の作品の滅茶苦茶な常套手段だからどうでもよかったのだけれど、そこからヒロインがいきなり主人公の家から離別させられたのは意外性があって良い展開だったかしらね。とかくこの種のものは、なんの前触れもなく主人公とヒロインが家族関係に収まっているものであり、主人公とヒロインが他者と他者の距離がある関係性からいったいどのように身近に、お互いに気のおけない間柄に変化していくかという、いわば人間のドラマを描くうえでもっとも興味深いだろう箇所を往々にして閑却していたのだから、「タユタマ」がそこを避けてましろと裕理がそう気軽に会うことのできない状況にしたということは、評価してよい描写だったのでしょうね。ま、寮生活というものも一度くらいは体験してみると良いのでしょう。といっても、本作に描かれるような世俗と徹底的に隔絶された舞台はやりすぎという気もしないでないけれど。箱入りというかなんというか、はてさてよ。」
「完全に外界と連絡を断って人間形成に専念させるのだーって発想は、意外と伝統的な西欧の教育の流儀だといってもよろしかも。たとえば遠藤周作の小説にもたしかヨーロッパの修道院に務めて世俗と一切の係りをなくして、一心に心身修養に励む人物の話があったように記憶してるけど、そんなふうに刻苦精励して途中で脱落者がいて当然甘えるなー!みたいな環境は、向うの教育観の典型のひとつといっていいのだろうな。もちろんそれが最良の教育の方法だというつもりもないけれど‥そいえば遠藤周作のその小説では修道院で勉強しづくめた彼は死んじゃったっけ‥ただ寮の生活というのはそれ単体として切りとって考えても、なかなか私には思わせられるとこある題材かなって気がするかな。それというのもこれは学校生活との関連で思うのだけど、今回ましろが終盤友だちから距離をおかれちゃった場面がなかなか私には気に入られたからで、あんなふうにさいしょの接触で違和感もたれちゃうとそのあとのフォローといったものはむずかしいものあるし、下手をしちゃうともうましろは周囲の評判をとり戻すことは無理かもかなって気がして、そしてそのうえで寮生活っていうファクターが加わると‥寮というのはひとつの親密な村社会とでもいうべき代物だし、加えて高校生って年齢を鑑みたなら、そこでの生活はあわない人にはあわないものあるだろうなって気がする。それは他者との距離感がまだ適切につかめてないって思えるからだし、また学校の友だち関係っていうのは、なんていうのかな、一種の催眠でもあるのだよね‥ましろはそうとうたいへんだろうって気が私にはする。もちろん友だちがましろにできればいいね、なのだろけど、でも何かな、友だちができない寂しい寮生活も、あんがいいいものかもだよ。というのも、人は孤独になれるならなったほうがいいときもあるものだって、私は思うから。ただだけど、そういった私の言葉は誤解されやすいのだろうな。それはされて当然かなとは、ちょっとは思うのだけど、ね。むずかしいとこかな。」
「高校以前の学校生活というのは、はてさて、なんていうのかしらね、そのなかにいるとその環境が世界のすべてのように捉えられがちなのでしょうけど、しかしそこでの友人関係といったものは実は非常に小さな大したものではないのであり、学校で友だちができなくても、ま、極論すれば、どうってことないのよ。というのも、これは一度体験した人ならすぐ合点が行くことでしょうけど、そういった閉鎖世界といったものは一端外に出てしまえば、ああ、なんで私はあんなものにあんなに苦しんでいたのかと不思議になるくらい、きれいに消えてしまうものなのよ。これは学校に限らず、家族という関係の内でもいえることでしょうね。そして、であるから、数年くらいは友だちがいなくてもいい体験だというほどに考えてみても、ま、無駄じゃないんじゃないかしら。いや、孤独というのはそう簡単に行くものでもないということはわかるのだけれど、しかし何かしらね、本当にくだらないのよ、そういうものは。そのうちその種の関心というのは嫌でも減っていくのだし、ひとりぼっちもまた経験と選択の結果なのじゃないかしら。ま、あまり上手くいえない話題ね。はてさてね。」
2009/04/19/Sun
「うん、おもしろい。本作のいいところは日常を単なる日常それそのものとして扱うことに徹してる点であって、これは昨今の4コマ作品に関しては殊に増えた作品のスタイルのひとつかなって気がするけど、ただ単のなんの変哲もない日常生活を切りとることによってある作品を構成するっていうことが、なんの葛藤なく受け入れられだしたのが、ある意味、萌え文化の一定の成果だったのじゃないかなって思いが私にはしてる。というのも、この手の作品は大仰なテーマをもち出すということが基本的にはなくて、現代のありのままの生活を浮きあがらせるといっても少女漫画的な世界観である恋愛や、それにまつわる人間関係の問題をドラマの原動力とすることなしに、なんていうのかな、ほんとに自分の、ただなんとなく生きてたら遭遇するであろう生活と人生の一側面を魅力的に描くことに専心して、そしてその選択はあるていどの成功をかちえてるって、私は思う。そしてまたその試みの根底にあるものとは、つまりは作品をつくるって創造行為の根拠にあるだろう製作者のそもそもの思いとはいったいどこにあるのかなって考えた場合、「けいおん!」や、そしてそれに類する作品の多くは、たぶんみずからの生活の何げない魅力の再確認に負ってるのじゃないかな。だからこそ、「けいおん!」の世界は「けいおん!」それ自体のなかで完結してるのであって、彼女たちの日常を乱す存在、つまりはイレギュラーというのは登場することすらゆるされない。彼女たちは彼女たちの平凡な日常が変わらないだろうことを承知してるのであって、そしてそれは視聴者たちにとっても同様の思いであるにちがいない。これは、おもしろいこと、かな。」
「ドラマというとそれこそシェイクスピアの時代から何かしらふつうの日常を乱す事件があり、その予期せぬ出来事からめくりめく展開していく様子をこそ描いてどれほどのものかになっていたのでしょうけど、ある時期から、というかこれはよくよく調べてみなければ迂闊にはいえないことなのでしょうけど、日常そのものを日常のそれとして描き出す作品というものがあらわれた。ま、その手の作風というものはかならずしも現代になってはじめて登場したものではないのでしょうけど、しかしどこにでもいる、そしておそらくそれほど目立った資質のもち主でもない人物たちがそれほど珍しいことでもない生活を送る様子を描写することが、どうしてこのように魅力的に映えるということがありうるのかしらね。ドラマといえど、「けいおん!」のそれは劇的でもなければ、目新しいものでもない。本当に目に見える範囲の小さな世界を、小さく大切にとり扱うことに腐心されてつくられている。それはまるで記憶にしまわれた思い出を、ていねいにかみ締めるかのように、かしらね。」
「自分の身の回りの小さなことを、自分の手に負える範囲でとり出そうってするこの種の作品の成り立つ根拠は、作者とそして視聴者のある共通した思いに帰着させねばならないだろうとは、思われるかな。そしてそれがいったいなんなのだろうって問題は、意外と私にはむずかしく思われる課題であって、というのも「けいおん!」の彼女たちの生活の衒わない姿をありふれた光景のままに、何か冒険や彼女たちの世界を傷つけかねない事件の介入を万が一にも防ごうとするかのように本作は描かれてる節があるように私には思われるからであって、この閉じた、そしてやさしい世界を守る人間の願いといったものは、現代のオタク文化のもたらす作品の一定の傾向のようにも思われるから。‥私は、この種の日常を日常そのものとしてとり出して、そこにいくつかの萌えを見出すことを望む人の心理とは、たぶんかつてだれにもあっただろう生活の、学校の記憶の、あったか、もしくはなかったかしれない、ノスタルジーへの羨望がもたらすものじゃないかなって気がしてる。かんたんにいえば大切な過去への個人的な思いが、「けいおん!」の彼女たちの生活をしずかに見守ってやろうって個々人の「萌え」っていう共通項でくくられるだろう思いによって、ある種の連結を生んでるんじゃないかっていうこと。‥でもただ、これはちょっとむずかしい。私も少し上手く納得行ってない部分もあって、このエントリであつかった問題はこれからもちょっと考えていかなきゃかな。‥なんのドラマもおそらくないだろう「けいおん!」の作風を支えてる魅力の根幹は、いったい何に拠るのだろう。それに答えうる人はいるのかな? 私には上手い説明がまだ思いつかない。そしてそれでいて、この種の作品が求められてることは現代において、当然だっていう気もしてる。その気がしてくる理由が、わからない。上手く言葉に、ならない。なんでだろう。わからない。」
「きらら系統の4コマ作品といえばいいのかわからないけれど、その種の作品は4コマ作品でありながら4コマ作品と呼ばれたかつての文脈から作品の魅力を発見することはひどくむずかしいという、なんとも奇妙な雰囲気に満ち満ちているのよね。何がいわゆる萌え4コマの魅力を支えているのか。そしてそれらを支えている人々がそういった作品に見出しているものは、いったいなんなのか。ま、はてさて、なんだか雲をつかむような気がしてくる話題ね。これはわかる人には自明なことなのかしら。日常というドラマともいえないドラマを欲する人の心理、ま、ゆっくり考えていかねばならないことなのでしょう。現時点ではよくわからないのよ。本当に。」
2009/04/18/Sat
まぬけづらさん
『たとえば美少女ゲームだと、“父”に相当するのはヒロインたちの抱えている諸問題、“運命”とも言うべきものに置き換えられるんじゃないかなって言うと、それはトンデモなのだけれど、それをおしてここでは仮に「置き換えられるのだ!」として語ると、そもそもひととひととを結ぶ関係性は、親子の関係を原点にして、それを希釈・模倣するほかなく、もっというと、“世界”と“個人”の結びつき方も、結局は同じことなのではないかなと思ってしまうわけですよ。
だから、
この「母」への執着といったものは日本人の心性のある傾向とでもいうべきもの
というのはどうだろう、と思う。
日本から出たことのない、ほとんど日本人としか係わったことのない、僕が言ってしまうのは、ちょっとアレなのですが。アレ。
そして若干話を戻すと、“運命”が、あるいは“理不尽”が父だとするなら、やっぱり“母”は“恵み”であったり、“幸福”であったり、するのではないかなって思うですよ。
運命という理不尽が、恵みを所持していて僕らから幸福を奪う。
これはどうしても避け得ないことなのだけれど、父をひとりの人間として見るのではなく、“父”として見てしまうから、そういう重ね方が出来てしまうのは、なんだかしょうがないことのような気がする。』
「ここで私が母性への執着を日本人に限定して語ったのは、それが日本人のもつ宗教性のある意味本質だろうと考えたからであって、それでこの間の問題は遠藤周作が生涯をかけて追った問題のひとつでもある。たとえば「母なるもの」は端的に日本人によって変容させられるキリスト教がテーマであって、というのも隠れキリシタンが鎖国された時代、海外の力を借りずに独自に発展、継承させていったキリスト教は当初宣教師が教えた、いわば純正のキリスト教とはどこか似ても似つかない別物に変えられてしまっていたということは、当時の教会においても憂慮すべき問題のひとつだったから。そしてまた現在においてそのことを考えた場合、いくつかこの日本という国の心性の傾向ともいうべきものがそこから見えてくるのであり、遠藤はそのひとつとして、日本的宗教性の本質を母性にあるって見てとってる。つまりゆるしと慰謝をこそ日本人はその心底において常に求めていたのであって、父の怒りと罰を基調とする西欧キリスト教の源は、この国にあっては‥じめじめとした日本にあっては‥変わらざるをえなかった。それを遠藤は、この国にはキリスト教が決して受け入れることのできない何か、といった言葉でもって表現してる。」
「父が罰であり運命であり理不尽であるということは、それを象徴している根本的な属性という意味においては、おそらく妥当するのでしょうね。そしてまた母が恵みであり幸福であり安らぎであるということも、同じ意味で妥当することなのでしょう。そしてまたそれらが全人類的に普遍的に妥当するだろうものだということも、基本的な構図においてはおそらく正しいのよ。しかし、ただ、そこで留保をかけるならば、どうも日本という国にあってはその比率が母性のほうに大きく傾くように感じられる。それは、果して気のせいかしら。それとも、そうじゃないのじゃないかしら。」
『「でうすのおんはあ、サンタマリア、われらは、これがさいごーにて、われら悪人のため、たのみたまえ」「この涙の谷にてうめき、なきて、御身にねがい、かけ奉る。われらがおとりなして、あわれにもおまなかこを、むかわせたまえ」
私は闇のなかの海のざわめきを聞きながら、畠仕事と、漁との後、それらのオラショを嗄れた声で呟いているかくれの姿を心に思いうかべる。彼等は自分たちの弱さが、聖母のとりなしで許されることだけを祈ったのである。なぜなら、かくれたちにとって、デウスは、きびしい父のような存在だったから子供が母に父へのとりなしを頼むように、かくれたちはサンタマリアに、とりなしを祈ったのだ。かくれたちにマリア信仰がつよく、マリア観音を特に礼拝したのもそのためだと私は思うようになった。』
遠藤周作「母なるもの」
「たとえばラーゲルクヴィストの「巫女」にあらわされてるような仮借なき神の姿は、日本人の倫理観にはあわないんじゃないかなって気が私にはする。人を試し、勝手な都合で人たちを締めあげながら、罰をくだし、最終的には無上の尊敬を要求する神の姿とそのあまりに甚大な権力の発露の光景は、日本人の自然に対する感性にはとうてい思いもつかないものにちがいなかった。それがなんでかなっていえば、キリスト教というのはあくまできびしい自然の、荒れ狂う砂塵と灼熱の太陽の下で生まれた苛烈な環境下に耐えることでの意義を意味する宗教であり‥山本七平はこうした事情を何度か述べてる。山本が中東の砂漠の風景に魅了されてたことはけっこう知られてるよね‥それが湿潤で、豊かな水の風土をもつ日本という国においては、激烈な環境で思い巡らされた神の姿‥世界を掌中に治める神。人間の矮小さを思い知らしめる神の巨大さ‥は、日本の土地にあってはただ理不尽なだけに映ったのかもしれなかった。そしてその間の認識の相違が、おそらく父性と母性への、人間の基本的な心的状態から発する傾向への分配といったものを、左右しちゃうのじゃないかなって気がするかな。そして私自身は、母性といったものは信じてないことをここに告白する。それは単に、私は母性の威力といったものが、あまりに巨大すぎるものだろうって理解してるから。母性といったものはあまりにこわい。なぜならそれは人を基本的な部分で支えるものであり、そして人をまた真に死へ追いこむものでさえあるのだから。」
「日本とは真実「母親」に支配されている国であるという話をたしかどこかで聞いたようにも思い出すかしらね。ただ、ま、何かしら、「母」が恵みであり幸福をもたらしてくれるものというのは人の基本的な成り立ちな側面から見れば、まずまちがいのないことなのでしょうけど、しかしそういった母の与える恵みが、いつしか重みとなり鎖となり、人を沈ませるようになることがあるのよ。そしてそれはまるで陰湿な日本の風土が、何もかもをも重たく水で濡らさせるものと、どこか似ている節がないかしら。さらにそれは孤高の父の怒りを、まったく寄せつけないものであるのよ。不可思議なものね。いや、奇妙よ。」
→
遠藤周作「母なるもの」→
ラーゲルクヴィスト「巫女」→
イザヤ・ベンダサン「日本教徒―その開祖と現代知識人」
2009/04/18/Sat
「またまたエヴァの話で恐縮なのだけど、この機会に少し私がずっと考えてきたことを吐き出すことをゆるされるなら、これは前にもいったことかなだけど、私はテレビ版の最終回がすごく好きだったりする。あの内容はふつう一般にはあんまり評価されてないかなだけど、私は劇場版を何度もくり返し鑑賞したあとに「世界の中心でアイを叫んだけもの」の内容を咀嚼してみたら、ふっと身に染み入るかのように劇場版の意味がよく理解できた気がして、私は「まごころを、君に」の悲痛なほどの自虐さは、「世界の中心でアイを叫んだケモノ」の泣きたくなるくらいの自己懺悔によって釣りあってるんだなって感じられた。というのも、いいかな、エヴァという作品はそもそも個人の内面の悲惨と外界の物理的な災厄が対応して描かれてるのであって、使徒によって街が破壊されるごとに個々人の閉塞感も次第に深まっていき、それがある緊張点を越えた象徴としてカヲルの死が描かれたのだった。そしてカヲルの死は世界の悲惨という泥を隠さずにシンジという少年にその責を負わすという形へ物語的な発展を遂げるのであり‥ここで肝心なのはシンジという存在は現実世界でどうすることもできない自己嫌悪に襲われた、あるいは襲われてたろう作者自身の心象の投影にほかならないということ‥その結果として、完全に逃げ場を遮断された、他者との交流の可能性さえ見失ってしまったエヴァという物語は、最終的な破局に向うほか選択肢の可能性がない状況に追いこまれたのだった。‥ただでもだけど、そこで世界を終らせるって、その決断をためらわせる何かが作者にはあったのであって、だからこそテレビ版のラストはもっとも必要と思われるシンジの内面の救済をこそ描くべき方向に傾いたのであり、それがシンジが自己自身の可能性から自分だけを慰め、ここで死を、つまり自殺をすることをなんとか防ごうとした‥カヲルを殺したシンジに与えられた自由は、それこそ自分を自分の手で殺すこと以外にあの状況ではなかった‥あの滑稽な、自己セミナーみたいとまでいわれた、弐拾伍話と最終話の内容だったって、私は思ってる。‥ここで悲しいのは、あのシンジの独自の連続はほんとに彼だけの独自であるという点であって、それというのもシンジ以外のほかのキャラクターも、けっきょくは作者の分断された自我のそれぞれの仮託された姿にちがいないということであり、つまりあのシンジを救済する「自己セミナー」は、作者が作者を救うために作者自身が重ねた問答の光景におそらくちがいないだろうって、思われちゃうことなんだよね。そしてその姿は現代の生んだもっとも孤独な内省の表現であり、それを見てそれに理解を示すことができた人がどれだけ少なかったかということが、エヴァって物語の真に陰惨な点だった。‥でも、そう、理解した、あのエヴァを生んだ心のひりつくような傷みを理解した人間が、ああいった傷みを少年がアニメにしてしまう、そのような少年を放っておいたことの罪に気づいた人間は、たしかにいたんだ。そう、富野由悠季が「ブレンパワード」をつくった背景には、そういった背景が無視できなくあるのであり、そして「ブレンパワード」こそは「エヴァ」の訴えた傷みに対して、大人が応ええた数少ない真率な言葉のひとつだった。「頼まれなくたって生きてやる」。あの言葉が、どれだけの意味をあの時代において担うに足りたか。その功績を私は思う。今でも、思いつづけてる‥」
「エヴァという作品においてはとかく主人公のシンジの主体性のなさ、その英雄らしからない態度こそが問題視され、ために槍玉にあがるのでしょうけれど、しかしあの作品で本当に深刻なのはあのような少年を生んでしまった、そのような少年に世界を破壊させてしまった、大人たちの責任といったものが閑却されてきたようには、さて、少し感じられるのかしらね。そして少年にすべてを委ねてしまうことの愚かしさと残酷さに多少なりとも感づいた人たちはいたのでしょうけど、無論エヴァの作中にもいたのでしょうけど、しかしそれらがエヴァという物語を救うことができなかったことが、ある大人たちには悔いとなって思われている。そういうなかで「ブレンパワード」には、もしかしたらそういった大人の悔いの貴重な素直なメッセージがこめられているとは、人によっては読めるのかもしれないかしらね。あの作品の美しさとある名状しがたい生への渇望ともいうべき力は、あまり話題にあがったことはないのでないかしら。さて、どうかしら。」
「私が「まごころを、君に」でとくに印象的におぼえてるのは、アスカがシンジに対して「いつもみたいにやってみなさいよ」って迫るシーンで、あれはいつもみたいに私をオカズにオナニーしてみなさいよっていう意味なんだよね。私はさいしょその台詞をきいたときはよく意味がわからなかったのだけど、何度か考えて、それから今にして思うと、あれはなんてナイーブな心情から発した言葉なんだろうって気がして愕然とする。というのも、あれこそが一見してオタクの人たちに自身の醜さを直視させるように仕組まれたものでありながら、その実はまったく逆で、あれは自分の醜さに、自分が汚れたということに、または汚れるかもしれないって恐怖の前に震えて泣いてる哀れな子どもの、精一杯の強がりの言葉でしかなかったって、私はのちに気づいて、今でもその正しさを確信してるから。‥大人は汚いものだと人は思う。そして私は汚くなんてなりたくないなって、少年と少女は思う。でも、何かな、その汚さを引き受けるところに、心に疚しいものを抱えながらなんとか世間を生き延びてる人間のうちに、ある彼らを生かす愛の存在に思い至る瞬間がある。そしてそれだから富野由悠季は叫んだ。頼まれなくたって生きてやる、って。だからお前も生きろ、って。気持わるくても生きろ。人を裏切ってでも、自己嫌悪でぐちゃぐちゃになっても生きろ、って。‥だれかをオカズにしても、それでも生きてたほうがきっといい。むしろオナニーをあざ笑う人間のうちに、私は薄っぺらい悪魔の容貌を見分ける。その怖さを知る人間は、だまってオナニーでもしてたほうがいい。そういうことに、決ってる。」
「エヴァで印象的なのは、ほかでいえばそうね、たしか拾六話の「死に至る病、そして」だったと思うけど、「楽しいことを数珠のように紡いで生きていけるはずがないんだよ」というのがあったかしらね。あの台詞はまったくその通りのことだとは思ったけれど、しかしそれでも生きていくほうがいい。そういった当り前のことを当り前にいうことがむずかしくなったのが、もしかしたらこの十年なのかしれないかしらね。エヴァが変わるとすれば、もしかしたらその「少年の心性を思いやる大人の理性」が加わるか否かという点なのでしょうけど、ま、これはどうなるかははてさてね。ただいえるのは、むかしと同じドラマをくり返してもなんら意味はない。どんどん変わって行けばいいのよ。その結果、悪くなろうと、変わったほうがいいのよ。そうじゃないかしら。果して、ちがうかしら。はてさてね。」
2009/04/17/Fri
「エヴァ以降の庵野監督がいったいどんな方面に関心を向けるように変わっていったのかなって疑問は、エヴァという作品がいったいどんな意味をもってたかって問題にも直接的に関係してくるテーマに思えられるし、またエヴァの衝撃があまりに甚大であったのは世相を見る限りにおいても疑うべき余地のないことであって、そのためにエヴァのほかの庵野監督の諸作品というものはけっこう埋れがちになっちゃってるのじゃないかなって気が私にはしてる。そこで今回は少し庵野監督の諸作品‥ここではエヴァ以降の数作品に限定して‥少し私自身の述懐を交えながら、思い返してみたいかなって思う。‥まずさいしょに挙げたいのは、エヴァ以降に監督が手がけた作品である実写映画の「ラブ&ポップ」であって、これは村上龍の小説をもとにした援助交際をテーマにした作品だった。ところで村上龍は自分の作品を映画化するには相応のこだわりがあることを告白してたと思うけど、この映画については満足の行く出来だったことをどこかでいってたように私は記憶してる。そしてその評価自体はたぶん村上龍の率直な意見だったのだと思うし、この作品そのものが村上龍らしいともいうべき奇妙さとある種の気どりに満ち満ちた世界観を形成してるのであって‥ちなみに今の私は村上龍にとくに関心ない。「ラブ&ポップ」の原作にしても、それほど瞠目すべき箇所はないかなって思うかな‥庵野作品のうちにおいては監督のはじめての実写作品というくらい以上の意味あいはないんじゃないかな。庵野作品と村上龍の親和性については、意外なほどあってるものがあるのかもって気はするけど、でもそれだけかな、みたいな。」
「あの異様な構成の原作を映像化しようと思えば、おそらくこうなるだろうというものを示してみせたものが「ラブ&ポップ」だとはいいうるのかしらね。だからその意味でいえば本作は実に原作に忠実すぎるほど忠実なのであり、逆な見方からは庵野秀明のある作品の本質を見抜く完成のたしかさといったものを立証してる一作とも評価できるのでしょう。しかし、ま、おそらくそれだけね。本作はそれほど意味のあるものではないのじゃないかしら。」
「エヴァのあとの初の監督の手がけたアニメ作品である「彼氏彼女の事情」は見逃せない。というのもこれは原作にしてから一癖も二癖もある、生半に行かない難物作品であるのだけど、エヴァとの関係性からみてもなぜ庵野監督がこれをアニメ化してみようっていう気になったのかなって興味は、実はエヴァのもたらした傷とそこからの立ち直りといった二側面から回答することが可能であるのであり、この作品はエヴァの深奥をまったく明確に抉りきった怪作だって気持が私にはしてるかな。ほんとに、この作品はとてつもない面があるのであって、注目したいのは主人公である宮沢雪野が直面した悩みというのは、本質的にはエヴァでシンジが突き当った葛藤と根を同じくするものだという事実にちがいなく、すなわちそれは「エヴァ」で結果的に失敗した、孤独に生きる個人の寂しさの癒しの可能性を求める心理の問題を、別側面から庵野監督が追及した成果が、この「彼氏彼女の事情」だっていうことにほかならない。そして、いいかな、このアニメ作品自体はエヴァと同じく、もしくはエヴァより悲惨に大失敗しちゃったのだけど‥後編の無茶苦茶さは一見の価値あるかもだよ。もうカオスそのもの‥原作の作者である津田雅美は、数年かけてこの問題に見事に決着をつけた。この間の事情はほんとに興味ふかい一幕がうかがえておもしろいかな。ただカレカノがたどり着いた地平には、庵野秀明は一生かかっても到達できない。それがわかっちゃうのがなんとも心苦しいのだけれど、ね。」
「宮沢雪野の生き方は碇シンジには一生かかっても真似できない代物である、か。ま、「彼氏彼女の事情」自体の最終的な評価も簡単にはくだせないものがあって、なかなかいいづらいのだけれど、しかし雪野のような人間がひとりでもいれば、エヴァの悲劇というのはまちがいなく回避できたのでしょうね。そしてそれは現実社会がエヴァの世界のようには決してならない理由でもあるのよ。いつの時代にも、どこにでも、雪野のような圧倒的に強い人間というのはいる。ま、ただそれがシンジのようなタイプにはプレッシャーになってしまうのでしょうね。それはもうしかたがない話ではあるのだけれど。はてさてね。」
「「式日」についてもふれておきたい。というのも私はこの作品が庵野秀明の感性的な面においては最高傑作だって思ってるから。ほんとに、こんなに陰鬱でせまく寂しく孤独な世界の風景を切りとってみせた作品は、「式日」を除いてはまったく稀有なのじゃないかなって思うかな。それでいてこんなにきれいで、死への甘い誘惑をささやきかけられることがあんなにも麗しいことだって思わせてくれるなんてって、そう私に少し感傷的に考えさせちゃうくらいに、本作はとてもすごく美しい。「式日」を私は四の五の言辞を連ねて批評する気分は、今はない。未見の人は、ぜひふれてみるとよいかもだよ。紛うことなくこの作品こそが、庵野秀明の映像作家としての最高傑作であるのだから。」
「ま、しかしそうはいっても人を選ぶ一作であるのはたしかでしょうね。なぜなら物語性などといったものはほとんどなく、あるのは孤独な心と生活のみなのだから。いや、生活とも果していいうるのかしらね、これは。ただ暗い情調のみがある。しかし、なぜかしら、それでもなんとも奇妙な感覚を提供してくれる一作にはちがいないとはいえるのでしょう。そしてこの作品にあらわされたような庵野秀明の部分は、世間にはよく受け容れられなかった。だがそれは当然よ。だれがこんなに美しくあれるものかしら。それは無理というものよ。不可能なのよ。なぜなら世界は汚いのだから。この種の美しさが存在するのを許さないくらいには、ね。はてさてよ。」
庵野秀明「ラブ&ポップ」 庵野秀明「彼氏彼女の事情」 庵野秀明「式日」
2009/04/16/Thu
オタク達は碇シンジにトラウマを植えつけられたのか「これはおもしろい問題で、私も折にふれて考えつづけてきたことのひとつなのだけど、まずエヴァという作品の基本的な原理を一言でいうなら、それは庵野監督自身も名言してるとおり、エヴァという物語は「息子が父を殺して母を寝取る」ドラマだということを見逃してはならないと思う。そしてこの原理はある意味ほかのオタク作品にも共通する性質であって、さらに敷衍して語るなら、この「母」への執着といったものは日本人の心性のある傾向とでもいうべきものであり、日本人の感性にまったく適合した原理のもとにエヴァって作品が創造されていたからこそ、ここまでエヴァは巨大な存在として認識されてきたのだと私は思うし、また表層的には新エヴァの序が十年以上前の内容ととくに異なった変化がみられないのは、この間に日本人の「母」への渇望がなんら変容を被ってないからだって私は考えてる。‥つまり、いいかな、この文脈でいう「母」というのは人が求めるある心理的な型を表象するものであり、日本人の男性心理には基本的に好意をもつ相手を擬似的な母に化しちゃう心理が存してるっていうこと。たとえばなんでもいいけどギャルゲー的な作品で、幼なじみが主人公を起しに来たり、お弁当をつくってきてくれるのは彼女が主人公にとっての疑似母だからなんだよ。そして多数のヒロインに迫られるっていっても、それらのヒロインは「母性」の多角的な表現にすぎなくて、要するに「母」への愛着といったもの、またはあこがれといったものが恋愛という場においても、個人の決定の大きな要因として男性心理のなかでは機能してる。そしてエヴァが多数のオタク作品と異なってたのは、ある種のハーレム作品がヒロインたちとの疑似家族を構成するために実家族を設定的に殺してるのに対して、エヴァでは実父が主人公の前に立ちはだかり‥ユイだけでなくてレイの前にもゲンドウは立ってる。後者はとくに印象的に表現されてるのはわかるよね‥シンジはゲンドウを明確に越えなきゃいけなかったっていうこと。そういった事情の、つまり母と息子の関係を阻む象徴としての父像を、実に衝撃的に描いたのがエヴァという作品の劇的な点だったのじゃないかな。」
「父を殺して母を寝取るというのは、ま、比喩的な文句ではあるのでしょうけど、なかなかショッキングな印象を人に与えるものではあるのでしょうね。しかしなんていうのかしら、恋愛相手を母に似せてしまうというのは、ある意味、人間という存在にとっては致命的ともいえるほど逃れられない桎梏でさえあるのかもしれないかしらね。というのも、現代ではあまり目立たなくはなったのでしょうけど、古き昭和の時代に理想とされていた夫婦像といったものを思い返してみれば、そこにあらわれるのは夫に従順に働く妻といったものだけれど、この妻は実は夫にとっては母の代理としての意味あいが、妻としてのそれよりも大きいということは理解されることでしょう。というか、むしろ昭和やそれ以前の価値観においては良き妻とは良き母の役割の代理というほどの意味でしかなかった。たとえば「サザエさん」のフネとか見れば、あれはもう夫に対しても母としての機能しかないでしょう。ここらの夫婦観については遠藤周作もまったく妻を第二の母としてしか認識してない節があるから、なかなか根強い感覚だと思うほかないのでしょうね。」
「恋人に求める大きな働きのひとつが母性にある点は、古今変わってないということかな。‥たとえばツンデレってあるよね。ツンデレがツンツン小言いいながら主人公を見捨てられない、最終的にはデレデレしちゃうのは、それはツンデレが「お母さん」であるからなんだよ。さいきんの作品でいえば「とらドラ!」の竜児が家事万能なのは、彼が大河にとっての疑似母であるからであり、そして当の竜児がみのりんに好意を寄せたのは彼女の表面的な明るさが竜児の無意識下にある精神的な支えとしての母性像‥つまり泰子‥に一致したからにほかならない。そしてそう考えてくと、アスカがシンジに実質的にふられちゃったのは、アスカがシンジにとってのユイの代理になれなかったからで‥逆にいうなら、母性以外のものの価値にシンジが気づけたかどうかが、劇場版以降のシンジの決断の変化に影響してくる‥人類補完計画自体が巨大な胎内回帰願望の表現にすぎなかったことは終盤の展開で明らかになる。‥そういった文脈で踏まえてけば、劇場版で量産機に蹂躙されるアスカと初号機に噛み砕かれるゲンドウの二人がどうして深刻な場面が多いエヴァのなかでもとくに残虐に描かれたのかなって疑問が解けてくのであり、それはその二人が明確にシンジの母への憧憬を阻む障害であったからにちがいないんだよね。アスカは対等な他者としてシンジと並びたかったし、またゲンドウは息子との距離感をさいごまでつかめなかった、臆病な人間にすぎなかったのであろうから。」
「対等な関係性といったものがひとつ大きな問題として浮上してくるのでしょうね。というのもエヴァの物語のなかでだれがシンジを見くびることもなく、過剰に期待することもなく、無理に責任を負わせることもなく接しえたのかといえば、クラスメートの数人だけであり、そして彼らは胎内回帰願望の表現の前には邪魔なだけの存在であったから、物語的な必然として、終盤には排除されてしまった。であるからエヴァの物語を変革するには、シンジの意識それ自体も重要でしょうけど、シンジと向いあう人間の人間的な意志といったものが求められるのよ。寄りかかるだけでなく、また寄りかからせるだけではない距離感といったものかしらね。甘やかすだけが母じゃないのよ。が、それを理解する人間がひとりもいなかった。それこそがエヴァの悲劇でしょう。そしてまたおそらく現実にもあるだろう問題でしょう。親子関係というのは、はてさて、むずかしく奇妙なものね。人間の心とは、不可思議よ。」
→
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序を観てきた→
「「ハルヒ」は「エヴァ」の継承者か」について思うこと
2009/04/15/Wed
「昭和五十八年に編まれた「男と女をめぐる断章」は吉行作品のなかから文章の断片を適宜ぬき出して、それを整理し一冊のアフォリズム集にまとめたもので、この編集には吉行自身は関与してない。なので吉行の作為の入らない吉行の第三者から眺めたある吉行像とでもいうべき個性を、ある編集者が独力で完成させたという趣がある点で、これはほかの吉行作品とはだいぶ性格を異にするものだっていえると思うし、また吉行作品の愛読者にしても同じ小説をほかの人はどんなふうに読み、そしてどんな言葉をえらび出すのかなって関心から少なからずおもしろく読めるって特色がある一冊だって気がするかな。それにアフォリズム集って性格のため、全編を通読する必要なんて殊更ないし、またそういう読み方を読者に要請もしてない一冊だっていっていいと思う。気軽に暇なときに頁を適当に開いてみて、そして目についたとこを見てみればいい。逆にいえば、それくらい気楽にアフォリズムは読まないと、アフォリズムの魔力に人はやられちゃうかもだよ。そこらの危険性は吉行本人も自覚的だったみたいで、それはあとがきでの言葉に表現されてる。」
「アフォリズムは数行の言葉で人生をいい表していて非常に機知に富んでいるように見えて好ましいように思えてしまう、というのがそれね。ま、たしかにアフォリズムというものはラ・ロシュフコーにしろニーチェのそれにしろ、一見して読みやすく理解しやすくて、何より才気に満ちているような印象を受けるから、小難しい小説を読むよりも伊達なふうに捉えられるということは少なくないのでしょうね。ただ吉行がいっているとおり、その機知とはもしかしたら気どりなのかもしれず、それに酔うと人は途端に軽薄な雰囲気になったりするから困りものよ。そこらの思想青年がドイツ語の哲学用語を交えて会話したりブログを書いたりしているのを見ると、ま、はてさてと思う部分と似たものかしらね。酔いやすいというのが危険なのよ、とにかくそういう類のものは。」
「この世界と人の人生とそしてそれらにまつわる人の思いというものは、本質的にどうしても易しい表現に直すことのできない部分があるものであって、それをかんたんにあっさり済ませちゃうのは思考の怠惰以外の何ものでもないから、かな。‥これは吉行の小説作品を紐解いてみるとわかりやすいことかなって思うけど、吉行はその省筆、無駄を極力きらったスマートな文体でとても軽く読むことのできる作風で一世を風靡したのだったけど、でもその虚飾のないただ伝えたいことのみがあらわされてる文章が意味するところのものは、個人があらためて受けとって考察してみると、途端にどうしてあんなふうに吉行は軽く表現することができたのかなって訝しまざるをえないある種の深奥さというのを秘めてる。そしてそれだからその種の軽さのエレガンスといったものに支えられてる吉行の作品から一冊のアフォリズム集を成立させたという事実は、私をしておどろかせるものがあるし、少しぱらぱらって本を開いてみるだけで、吉行の、その性の芳香というものが感じられて、なかなかおもしろい一冊なのじゃないかなって気持が湧いてくるかな。小説の切れ端が作家としての吉行の魅力を余すとこなく伝えてくれるものではないと思うけど、でもその感性の鋭さと個性といったものを知るには、そうわるくないのじゃないかなって気がするから。」
「アフォリズム集といったものは、もしかしたら無聊なときの慰みとしては格好の一冊なのかもしれないかしらね。それに考えてみるとこの短い文句の連なった一冊は、ふだん吉行にふれたことのない人にとっても入門書として吉行の世界観に目を通してみるには、けっこう適したものだともいえるかもしれないでしょうね。なぜなら小説を一冊読了するよりは簡便でしょうし、それでいて吉行の独特な味わいといったものは知ることができるのだからお得な面はあるのよ。それになんていうのかしらね、アフォリズムはセンスで書けるでしょうけど、小説はセンスだけでは如何ともしがたい面があり、そして小説からアフォリズムを摘出せしめた本作は、一概にアフォリズムとだけはいえない興趣に満ちているともいえるのであり、それはなかなかほかの作品には見られない点でしょう。ま、おもしろい一冊ね。手元においておいても、そう退屈はさせはしないのじゃないかしら、この言葉の奇妙な集合体とでもいうべき一冊は。」
『幸福そうにみえる人間は、腹立たしい。
不孝そうな人間も、鬱陶しい。
……
親子というものは、一たん他人になってから、あらためて人間関係を付けるのがよい。
……
恋人同士では、会話を交わさなくても退屈しない間柄というのが好ましい。
……
けっして失恋しない類の人がいる。その一つの種類は、けっして恋をしない人である。
……
生きていることは、汚れることだ、ということは生きているうちにしだいに分ってくる。その考えが決定的になったのは、戦争のときである。
汚れるのが厭ならば、生きることをやめなくてはならない。生きているのに、汚れていないつもりならば、それは鈍感である。』
吉行淳之介「男と女をめぐる断章」
吉行淳之介「男と女をめぐる断章」
2009/04/14/Tue
「ここしばらくは外国語の文献にかかりきりで、ちょっと日本語の小説を読む時間が見つからなくて書評エントリが書けないかなって感じだったのだけど、でもなんの気なしに読めるラノベはそれこそほんの暇にあっさり読了できちゃうから、この頃合にこのあいだ読み終えたラノベの感想をしとくのもわるくないかなって思う。ということで、あまりにあっさりと読めちゃった本作「緋弾のアリア」についてなのだけど‥かんたんに読めるのはラノベの武器であるって理屈はわかるのだけど、でもなんだかそれが逆に弱点にもなってるのは否めない事実なのじゃないかなって気がちょっとする‥話の筋は荒唐無稽の代物で、とりたててここで概略を述べるまでもないかなって気がするし、大げさに感想するものでもないように思えたけど、でも少し関心を引かれたのはホームズやルパンの祖先が活躍するってキャラ設定のほうで、それというのも私はむかしからルパンが好きでいろいろ読んでたからルパンの血族を出すって発想にはそうよくない印象を抱くわけにも行かなかったので、本作にはその点だけで何がしかの満足をおぼえちゃった。ルパンを出すならそう文句をいうわけにもいかないよね、みたいな。‥でもルパン、かー。何かいろいろなこと思いだしちゃうのだけど、それというのもある点では私はルパンに物語の薫陶を受けたってこともいえないわけでなくて、だから私はホームズより断然ルパン派で、さらにその影響かサドやブルトンっていったフランス文学にも愛着がある人になっちゃったっていえないものじゃないから、ルパンにはけっこう人にいえない感傷がある。また作者ルブランの描くトリックはドイルのそれよりはあまり評価の対象にはなってないのでないかなって思うし‥それはある面妥当で、ルブランの長編の本領はその息つかせない速度と登場人物、わけてもルパンその人の人間的魅力に負うとこが大きい。ルパンの伊達な生き様と、そして彼のスタイルから展開される世界のさまざまな側面を縦横無尽に駆けぬける冒険の疾走は見逃せない部分かな‥ルブランの名前もあまり広くは浸透してないのでないかなって思われちゃうのはちょっと寂しい気もするかな。ただでもそうはいっても、ルパンの名そのものはあまりに巨大で、そして現代においても変わらない魅力と意味を帯びてるのは万人が賛同されるところだと思う。‥それにしてもルパンが活躍してたころから今は百年以上経っちゃった。その文脈でみると、ルパンの物語はある種の懐旧の念を湛えてるとも読めないわけでなくて、その点でもルパンはおもしろいの多い。というのも、ベル・エポック、フランスのよき時代を象徴してるのがある意味ルパンだともいえるのだから。」
「作者ルブランにとっても自分の小説の一キャラクターにすぎないルパンが自身よりも遥かに偉大な名称になってしまったことは、晩年においてはそうとう苦悩の種になったという話もたしかあったかしらね。自分がどこに赴こうと彼の名は影のようについてくる、と。そしてルブランはその死の直前にはルパンに自分を脅かしているので困っていると警察のほうに連絡をしていたという記録もあるのであって、なかなかどうして、ルパンとルブランの関係というのは、奥深くまた奇妙なものがあったと見られるのでしょうね。それが作者という創造主を越えてしまったキャラクターという意味あいがあるのだから、考えようによっては文芸といったものの不可思議と神秘を十分に味わった人物ともルブランについてはいえるのかしら。見ようによっては奇天烈なものでもあるのでしょうね。」
「ルブランは四十歳をすぎてからルパンを書きはじめて名声を得ることになるのだから、ルパンってキャラクターもまたルブランの長い下積みのあってのものだったんだよね。ルブラン自身はさいしょ難解な哲学小説を好んで書いてたっていうし、その意味でも痛快で娯楽的な側面のつよい冒険小説を何十冊も刊行したことには、もしかしたらルブランの内心にはいろいろなものが渦巻いてたのかもしれない。ただそれをあまり詮索するのは、ちょっと下世話な方向になっちゃうかな。あんまり深入りするものでないのかも。‥それでついでなので、私の好きなルブランの小説をいくつかとりあげてこのエントリをしめたいと思う。‥まず「
ルパン逮捕される」はルパンシリーズの創始にして叙述トリックを巧みに用いた傑作。いきなりルパンは逮捕されてルパンの長い物語ははじまるんだよ。そこでもけっこう運命的な意味が感じられる。次に「
奇岩城」はルパンの冒険小説の最高峰ともいうべき一編で、今でもこの物語を思い返すとわくわくしてくるほどだし、それにつづく「
813」はドイツ皇帝までも登場させる豪華ぶりにルパンのラストの苦悩の描写がなんともいえないくらいに悲哀を思わせる名編。そして「
カリオストロ伯爵夫人」は若きころのルパンとルパンシリーズを貫く設定であるカリオストロの謎がふれられており、あとは意外なところで「
バーネット探偵社」はルブランの才気がうかがわれる粋な短編集だっていえると思う。‥私個人の思いいれをさいごにちょっとだけいうなら、私はルパンの冒険小説で小説のおもしろさというのを教えてもらえたって思いがする。活字が苦手な人は、ラノベとかでもいいかもだけど、冒険小説を手にとってみるといいと思う。子どもが読む、冒険の、胸が熱くなる空想の物語にこそ、私は本のもっとも根幹的な魅力というのがあふれてるのでないかなって気がするかな。なぜなら思いきり感情移入して好きなだけ自己投影して小説のなかに酔うことこそ、物語の深奥をうかがうたしかな手段だって思うから。」
「ルパンというキャラクターの一挙手一投足に心惑わされ、ドラマの展開の行末に感情的になって心躍らせることこそが、物語の世界に浸ることの第一歩目ということなのでしょうね。そしてそういった客観的とは程遠い主観的でわがままな読み方こそ、読書の基本的でそしておそらくあまり人が慣れてない読み方のスタイルというべきじゃないかしら。学校のように精読をする必要なんてないのよ。ただ楽しく読めればいいし、そういった点からいえば冒険小説こそは小説という媒体のエッセンスを抽出したものだともいいうるのかもしれないかしらね。その意味でルパンというのはいい見本になるでしょうし、またルパンは今読んでもまちがいなくおもしろい。そのことは断言しても構わないかしら。どこか懐かしく、そしてわくわくできる世界というものがそこにはあるはずよ。少しの暇を見て、その世界を覗いても、さて、無駄はないのじゃないかしら?」
赤松中学「緋弾のアリア」
2009/04/13/Mon
「ハガレンを象徴するといって過言でない人体錬成のエピソードはそれ単体でエルリック兄弟の物語の根幹に係る彼らの行動を支える動機とその執念の在り処を端的に包括するものであり、また錬金術といったその世界における一大テクノロジーの闇の部分‥つまり錬金術が万能な魔法と異なるものだということを、母と呼べない肉塊と引きかえに身体を失ったエルリック兄弟の被った罰の深甚さによって、このうえなく意味深に示してる‥を視聴者に認識させて、さらには母の死っていうだれにも訪れるだろう寂しさにあがくあまりに幼い、そしてそれゆえにより真摯な兄弟の姿勢を情緒的に描くことによって、主人公である彼らの人間味とどうしようもない甘さとそして外形にそぐわない資質と力を宿されたアンバランスな存在としての不気味さと底知れなさを、破綻させることなく一個のキャラクターとして結実することに成功した、名編が多い本作のうちでもとくに印象ふかいものだって思うかな。‥この人体錬成っていう、本作に収まらない歴史的規模で夢想された人の人の手による神の御業の再現ともいうべき、性愛によらない人間の誕生への憧憬といったものを支える原動力はいったいなんなのかなって疑問は、本エピソードにはじめてふれたときから私のなかに留まってる問題であり、また各種の古典を紐解いたときにもときおり考えずにられないテーマのひとつでもある。たとえばこれは以前にもエントリしたかなだけど、十三世紀に成立したとされる西行を語り手とした説話集「撰集抄」には‥西行の名前が出てくるけど、でも西行がこの作品の選者でないことは定まってる。だから西行本人がここにあらわれてるような関心を抱いてたかは決ってないのだけど、でもお話のおもしろさはそれで揺らぐものでないよね‥一人暮しの寂しさに耐えられなくなった西行が、ふと反魂の術を試みて、死者の蘇生、すなわち人体錬成を行うっていう筋書きになってる。ひとりきりでいるのがつらくって無聊を慰めるために人間の創造をもくろんじゃう点では、これは根本的な部分でハガレンと異なってないともいえるし、また西行の秘術がけっきょく失敗しちゃって人間らしい何かを生み落して終ってることでも共通してるっていえるのじゃないかな。ただ西行はそうして生じた肉塊も人であるには人であろうって思って、殺すに殺せなかった箇所ではちょっとちがってるとは思う。といっても、西行はその塊を人の通わない奥に捨てて放っちゃうだけなのだけど、ね。それはそれで死体遺棄。西行、いけない。」
「その後、西行は自分の反魂の法がなぜ失敗したかをその道の権威である徳大寺のもとへうかがいに行くのよね。ま、ハガレンではなぜエドたちの人体錬成が失敗したかは不可知の方向で処理してしまってるのだけど、「撰集抄」のほうでは細かいオカルト的設定であれやこれやこうしたほうがいいと指導をしてくれる。ま、ここらへんの文句はおそらく大分陰陽道や密教の類が関係してくる領域で、そうとう胡散臭いものなのだけれど、そこはそれとしてもなかなかおもしろい話ではあるのでしょうね。というのも西行はこのあと人間創造の秘伝ともいうべき忠告を承ったのだけれど、人間を造る業を「無益のわざ」といい捨てて、もはや人造人間を新たに生もうとはしなくなったのよ。はてさて、ここで興味深いのは何が西行をして人造人間をあらわすことにうんざりさせたのかしら?という部分でしょう。というのも、そここそが生命倫理とかいうと手垢にまみれた感じがして嫌だけれど、何か生命への畏敬ともいうべきものが関係してくる部分なのでしょうからね。またそういう文脈で問うならば、エルリック兄弟にはその種の畏敬が欠けていたからあんな目に遭ったともいえてしまうのだけれど、さて、どうかしらね。ここは興味深い問題よ。」
「神の創造のひみつを盗むかの如き人体錬成に恐怖をおぼえるか否かは、ひとえにその個人が形而上学的な不安を感じるかどうかにかかってるともいえるから、かな。‥形状学的な不安? そう、たとえば人間がなぜ生まれるかという疑問、生まれた私がどうしてこのときの私だったのかという不思議、私が世界に紛れこみそして世界を認識できてるという秘密、それでいて今このすぐあとに死んだとてもそれをそれとして許容としてしまう自然の驚異、そう、驚異。‥逆にいえばこの種の事柄にまったく無頓着な型の人であるなら、人体錬成を行うのにも易々として‥現実世界にはたとえ人間を錬成しようと、動物をどれだけ畸形にしようと、真理の門は開かないものね。そして真理の門が開かない世界に私たちがあるということが、ハガレンの世界よりおそろしい、ある真実のもとにこの世界の人たちが生きてることを私たちに伝えてる‥無事であるのであって、それは文学的にはリラダンの「未来のイヴ」に美しく表現された、アンドロイドと恋する青年の光景や、または崩れるゴーレムの姿、さらに遡るならピュグマリオンの伝説そのものが、人の意識の業のふかさを暗示してるのかもしれない。‥さいごに、そだな、ひとつだけ補足するのなら、アルやエドが望んだのは彼らからしか望まれない母親像であって、母親という属性だけに縛られないその人自身ではなかったんだよね。つまり、アルやエドが錬成したのは彼らの人格の裂け目から生じた幻影にすぎなかった。私はそれをエルリック兄弟の錬成の最大の失敗の要因だって思ってるのだけど、どかな。彼らの生んだ肉塊は、もしかしたら彼らのエゴの結実にすぎなかったのかもしれない。そしてそれはなんて皮肉な展開であるのだろうって、私は憂えて思うかな。なぜならこの解釈は、あまりに彼らの未来に対して酷な意味性を秘めるのだから。」
「リラダンの「未来のイヴ」もあれは結局自己愛の物語でこそあるのでしょうね。そして自己愛というキーワードを中心に考えるならば、エルリック兄弟が人体錬成を行ったのもエゴイズムからだったのでしょうし、西行が反魂の術をしてしまったのも孤独な心からだったのでしょう。そしてそうとするならば、真理の門とはまさにそういった人間の独善性の発露の瞬間に彼らを押しとどめてくれる良心のようなものなのかもしれないかしらね。ま、そうありがたいものでもないのでしょうけど、あの門が意味する象徴性は少し複雑よ。ここらは慎重な検討が必要でしょうし、もう少し考えてみるべきなのでしょうね。人体錬成に潜む人間の傲慢とも呼ぶべき本性の発露、ひょっとするとエドはその贄になったとも、さて、いえるのかしらね。ま、奇妙な、それでいて不可思議な問題よ。人が他者を必要とする生物であるというこの問題こそは。はてさてね。」
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ピュグマリオン・コンプレックスのこととか
2009/04/12/Sun
「とにもかくにも雛菊がよろし。桐原先生は雛菊は主人公じゃないからっていっちゃってるけど、でもこの作品のなかで現在だれがいちばん物語の中心に位置してるのかなって考えれば、それはとりもなおさず雛菊にちがいないのであり、それというのもなぜならこの登場人物たちのなかで雛菊がもっとも現在起ってる事件に縛られてるからであって、それはつまり過去と自分の生活と生き様の記憶が雛菊という現在の存在にはぬきがたくまとわりついてるということであり、べつな言い方をするなら、雛菊がいちばんドラマを体現してるっていうこと。ソルシールの家の歴史に翻弄されたのが雛菊であるならば、それらに連なってる現在の状況を主体的になんとかしたいってがんばってるのも雛菊なんだよね。よって物語の能動的でかつ中心的な役割には雛菊がだれをも差しおいて真ん中に来るのであり‥白雪も歴史を負ってるという意味においては雛菊に負けじ劣らじなのだけど、いかんせん彼女は今囚われの身という立場であるから、真正のヒロインの位置にこそあれ、主役として活動できてるわけじゃないんだよね。その意味でミドリが目立たないのは致命的だけど、でもそれはご愛嬌かな‥今の事件に深刻に係ってるのが雛菊だということは、たぶんまちがいなくいえることなのじゃないかなって気がするかな。‥何より今回おまけの描き下ろし漫画がよいよね。雛菊と撫子の愛憎ある感情の入り乱れた関係性がそれとなく示されてて、物語の二人の立場がそうかんたんなものでないってことがよく理解される。ここに父と兄、二人の家族の異性のあいだとの関係が撫子と雛菊って姉妹の間柄にふかい影響を及ぼしてくることがわかるのだから、愛と性と本能の微妙な葛藤が二人のなかで争われただろうことはうかがえるのじゃないかな。‥うん、この巻はおもしろい。雛菊が魅力的でとてもいい。」
「撫子という存在は兄に対する尊敬と憧憬が強いばかりの存在かと思ったけれど、それに劣らず妹への嫉妬と劣等感がひどく自由な思考を阻んでいる、いろいろと自縄自縛に悩まされている人物であるのでしょうね。それに彼女の場合は単に雛菊に憎たらしいというわけでなく、雛菊への仮借ない態度は彼女の魔法が使えないといった、ま、現代風でいえばさまざまな社会や世間から受ける評価に対して納得行く成果が出せないといった類の、自身に対して過度にネガティブな心性の裏返しといったものなのでしょうね。そう考えれば雛菊への悪意は単純に雛菊が憎いからといったわけではなく、雛菊を鏡として通じる世間からの聞こえるはずのない嘲笑への反動だったということなのでしょうし、ま、はてさて、こういう人の型というのはそう珍しくもないのでしょうけど、本人も、そして周囲も辛いものはあるのでしょうね。この手の劣等感というものは扱いがなかなかむずかしいものだけれど、撫子はちょっと反応が過剰に見えるのも難儀なところね。単純にいえば他者への関心が強すぎるともいえるのでしょうけど。」
「人というのは無意識に他者への関心をもってるもので、どれだけ自分と他者を比較することが無意味であろうと理性的に納得しようとしても、他者に対して完全に目を閉ざすことは不可能だから、かな。‥ここでむずかしいのは単純に他者への関心を途絶させることが嫉妬や憎悪で苦しんでる個人の救済にはならないということであって、というのも劣等感に代表される否定的な感情というのは、それらが個人に内的に向うからこそ苦しいのであって、そしてそれらをまったく消去することは不可能であるのだから‥否定的な感情というのは消すことはできない。消せたと思っても、それはたぶん単なる抑圧なのだろな。だから私はポジティブ・シンキングとかはやんないほうが無難かなって思うけど‥肝心なのは、自分に対する関心を薄くさせながら、外界をそのままとして受容することなのだと思う。‥たとえば撫子は雛菊がきらいだよね。でもその雛菊をきらいになった理由は、たとえ雛菊があらわれなくても撫子に生じた、もしくは生じてただろうものであり、だから撫子が雛菊に向ける憎悪は、そもそも撫子の内にあるものに、つまり自分のみじめなあり方にすぎなかった。そしてそのみじめさを認めたくなかったからこそ、そのみじめさを雛菊に投影して雛菊の滅却を撫子は図ったけど、ただそれは、撫子に燻るそもそものみじめさを除去してくれるものじゃありえない。だから撫子と雛菊がいくら骨肉相食む如く争おうと二人の傷は癒されないし、むしろ確執をふかめるばかりだったのだけど、ふしぎなことに撫子を救ったのはぜんぜん見知らない外界からの来訪者、つまり新たな存在とのふれあいによるくだらない価値観の‥彼女をこれまで縛ってきた因習の‥放擲によるのだった。‥否定的な感情というのはどうしようもない。ただそれらが無くせない以上、人は自分の暗い醜い部分というのを、その人それ相応に、見つめるべきものなのかなとは思う。あるいはそれらから完全に目を逸らして生きていけるなら、それはそれでいい選択なのかもしれないって、そうも思う。‥ただここらの問題はむずかしい。私にはまだよくわかんない。他者と個人の関係と、そしてそれにまとわりつく感情の軋轢の問題は、ほんとにむずかしいなって気がする。何かいい考え方はあるのかな。上手い生き方なんてないのだろうけど、でもそれでも、何ごとか考えていきたい気分はある。荒涼とした世界に対して、何ごとか刃向いたい気持はある。それにどんな意味もたぶんないのだろうけど、ね。やになるかな。」
「否定的な感情をどう処理すべきかといった問題は、人が平凡に生きていくうえでもどうしようもない負担なるだろう問題に思われるからかしらね。そして撫子と雛菊の二人の関係性はそういった面を考察させるのに非常に示唆的な印象を帯びていたといったところかしら。ま、しかしなんていうのでしょうね、愛憎が活発に動いているあいだは、まだそれは他者への甘えともいったものが関係しているのよ。真に怖いのは、そうでしょうね、他者に対して徹底的に無関心になってしまうことでしょう。それよりは、おそらく、自己に対して無関心になったほうがいいのかもしれない。ま、安易にいってはいけないことなのでしょうけど、しかし何かしら、生きにくい人が生きやすく生きられるのかといった問題は、胸を締めつけられるような苦しみがある。それが辛く、むずかしいのよ。ま、この作品がどう展開するかはわからないけれど、しかしテーマが収斂されてきた4巻だったといっていいかしらね。何か非常に横道に逸れた感想エントリになったけれど、ま、許してもらえるかしら。とりあえず次巻が楽しみよ。はてさて、雛菊あたりはどうなるのか、期待して待ちましょうか。」
桐原いづみ「白雪ぱにみくす!」4巻
2009/04/11/Sat
「こういう形の話の膨らませ方があるのかなって、素直に感心させられた。というのも原作では割とあっさり流された唯のギター購入のエピソードだけど‥というより4コマ作品である原作はそもそもの性格として重厚な物語を展開するのに不向きであって、場の雰囲気がとかくあっさりになっちゃうのは致し方ないことだと思うし、へんに肩肘張らないほうが正解ともいえるのかな。それと比較するとこのアニメ版がどんなふうに情報量を加算してるかが興味ふかいポイントに思えてくるはず‥お金が足らないためにみんなで唯のためにバイトするって発想は、単純でありながら彼女たちの今の関係性を考えたときには、のちの展開を見据えながらドラマにふかみをもたせることにつながる最良のアイディアだったのじゃないかなって思うかな。それはなぜなら唯は音楽に対してなんの知識も経験もない素人としてあるからであり、唯がこれからはじめる音楽活動にとって鍵となるだろう楽器に向けての愛着をみせるということは、唯が軽音部に所属する根幹的な意味あいを問うものであるのだろうし、また唯以外の三人にとっては音楽になんの関心もなかった唯を巻きこんだ責任というのが自覚的にしろそうでないにしろ感じられるのは当然であるのであり、それだから唯のためにいっしょにバイトするというのは、彼女たちのさり気ない気遣いの効果的な発想だったっていう説得力が伴うんだよね。そして互いが互いのために努力するって展開が、彼女たちの打算ない行為のあらわれであるのは明瞭であり、それは彼女たちの関係性をどちらがどちらの優位に立つのでない、公平な、自然なものにすることに役立ったのだって、私は思う。‥うん、今回のお話はすごくよかった。これは原作の間隙を埋めるというふうだけでないエピソードだと思う。原作のよい解釈があってこそかな。感心する。」
「ま、最終的には紬の権力によってギターは入手できたのだけれど、そこに至るまでの過程が実に一工夫も二工夫もされているのであり、また紬の好意によって念願の楽器が手に入ったことを唯はちゃんと自覚しているというフォローもあったのだから、これは本当にていねいに各人の描写をしてくれているという感じはあるのでしょうね。とくにバイトの様子を通じながら各キャラの個性をそれとなく物語っていく手法は、無理がない自然な導入とも思われるので、このあたりも上手なものだと評価できるのでしょう。正直なところ彼女たちはそれほど際立った個性と能力をもった存在ではない。どこにでもいるだろうふつうの人たちであるのであり、しかしそういったありふれた世界観のなかからある優れた感情と印象が生まれることがある。そのような類の世界の魅力を、本作はよく見落さずに拾っているのよね。そういうのは魅力的かしら。」
「どこにでもあるような風景というのはいい得て妙で、この作品は基本的にすごいこととか大それた方向に傾くということはまずなくて、彼女たちはさいしょあらわれたとおりの人物であるし、また一年か二年で人が抜本的には変化できないように、たぶんこの作品が終るころになっても彼女たちが劇的に成長したというふうな展開になることはないかなって私は思う。ただでもだけど、そういった人の凡庸であまり変わらないといった当り前の世界の風景‥唯たちがライブなんてそう頻々にするものでないし、というか練習自体あまりやらないものね。彼女たちは基本的に怠惰であって、彼女たちが大切に思うのは音楽を通してのお互いの交流、その心地いい空間への愛着にほかならない‥への愛着、つまり何げない時間の累積が人にとって、ある大切な記憶として定着するだろう、支えになるだろうことを、本作は本編に漂うある種のノスタルジックな雰囲気と共に伝えてくれてる。たぶんそういった、過去の記憶への愛着が、本作のような作品の基本を支えてるのだって思うかな。そしてそれは「けいおん!」に限らず、学校生活を舞台にしてる種々の作品のぜんぶに共通することなのかもしれない。ある過去の、そしてあったかもしれない過去への、今の私の感情の反照として、その種の作品は成り立ってるのだっていえるのかも。そしてそれだから本作は甘い夢魔のような雰囲気に満ちている。それは魅力的で、でも耽溺しきるのもこわいかなとは思えるかな。過去に根ざす思いとは、とりもなおさず、現在の私に目を瞑っためにあらわれる想念にちがいないのであろうから。」
「この手のアニメ作品が視聴者の過去のありえたかもしれない自己の、その理想を糧として形成されているかしれないということはいいうるのかもしれないかしらね。ただ、ま、なんていうのかしら、過去への悔恨というか、こうあったかもしれないかつての私、またこうあったらよかったのにというかつての私への思いというものは、とりもなおさずその実態としてはただ単に現在の私の意志のあり方次第にかかっているということはいえるのかもしれないかしらね。要するに、過去を悔やむということは、それはその実、現在をこそ悔いているのよ。現在の私のあり方と、記憶の結びつきをこそ、かしらね。過去はどうしようもできないものとして認知されているけれど、しかし実際にどうしようもないのは、過去の記憶として認識される現在の私の感情でこそあるのでしょう。そして感情とは、本当は記憶の別名よ。記憶が感情であり、感情が私の意志の本性であるから、人生の問題はむずかしくなってくるのよね。ま、はてさてと嘆息したいところだけれど、嘆息してもね、けっこうどうにもならないものよ。厄介なことね。」
2009/04/10/Fri
「この手の作品は一歩逸れると人間性のこわくて、どうしようもない愚かさを呈示してくれることが多々あって‥たとえば「School days」はすごくよかった‥一見して男性の独善的な女性を囲いたいっていう露骨なハーレム願望によって作品の世界観が構成されてるように思えちゃうけど、でもその囲いたいって性的な視線をまともに浴びる女性は、つまり男性の欲望に順応に応えるべきよう定められた女性キャラクターといったものは、男性の内心の真正直な鏡像としてあるのみばかりでなくて、ときにそのキャラ自身の、快楽に応えるという快楽を貪欲に追求しだすことがある。その代表例は「Shuffle!」の楓であったりするわけで、そういった側面からこの種のゲーム原作の作品を鑑賞するのはなかなか興味ふかいことなのでないかなって、私は思ってる。‥それで肝心の本作「タユタマ」についてなのだけど、たぶん第1話目に若干見受けられた神道的要素は物語の導入の意匠にすぎなくて、この物語でいちばん興趣をそそられそうなのは、押しかけ女房であるましろと、主人公の裕理に人知れない思いを抱いてるだろうアメリの関係性の変転にこそあるのだろうなって思うかな。というのも第一にましろという存在は、空から少女が降ってきてなし崩し的に好意を向けられるといった、まさにこの種のテンプレそのものともいうべき人物であるのだけど、この類の押しかけ女房というのは、ね、わかる人にはわかるし、あるていど世間を観察する趣味のある人なら気づかれるかなって思うけど、さして珍しい、完全に二次元だけの存在というわけでないっていうのが微妙なところ。ましろはかわいい外見だからだまされちゃうかもだけど、やってることは仔細に看取するのなら、裕理の意志を何等問題にしないきわめて自己中心的な、妄想的なふるまいであるのだよね。そしてこの傾向といったものはいわゆるストーカー的とも称される性質であるのであり、目をつけられたなら決して離してくれないという意味では、裕理にとって、これは幸いというでないのかも。もちろんましろは見た目だけでなくて性格もそれなり好感を抱かれるようになってるから、へんな生々しさはないのだけど、ね。ここらは現実に比較して考えてみるとむずかしいとこではあるのかな。」
「ま、神さまが化身して結婚を申しこまれたとかいうのはまずないのでしょうけど、こちら側がまったくそんな気がなくとも、なぜか他者から強烈な好意をさては憎悪といったものを向けられるといった経験は、大なり小なり、人によって思い当ることはあるものなのでしょうね。そしてなぜ自分がそれほど意をかけていない他者が自分にそう思いをぶつけてくるのかといった疑問は、一端そういった立場におかれてみると実に奇妙に思えてくる事柄なのであり、その間の事情はまったく関係しない第三者でなければ冷静な事態の成行を観察するということは不可能なのでしょうね。ま、しかしただいえるのは、人は他者に関心をもった存在であるけれど、他者の意志はあまり尊重する傾向がない存在ではあるということなのでしょう。それは畢竟個人は己の世界を生きるばかりであり、他者をどれだけ愛そうとその他者自身にはなれないという現実が関係してくるのかしらね。ま、さもありなんといったところでしょう。」
「他者に対する関心は往々にしてその他者を慮るという形においてでなくて、その他者を自己の幻想の範疇内に収めることにより、幸福って幻想の成就をもくろんじゃうものであるだろうから、かな。‥これはけっこう難儀で、そして切ない事柄と指摘になっちゃうのかもだけど、たとえば私がだれかを好きだとして、そのだれかを幸せにしたいと願ったなら、たぶん人は、それなりの常識を備えててそして自分がとりたてて傑物じゃないなって自覚してる凡庸な人であるのなら、果して自分が自分の愛するあの人を幸福にできるのかなって疑問には、まちがいなく避けられようなく突き当っちゃうものであるんだよね。そしてそういったあの人の幸せを考えるならって想定が恋愛に介入したとき、よほどの人でないなら、私が私の愛する人の人生に関係してその人の人生を変えてしまう可能性を、たぶん本質的に恐れちゃう。そしてその結果、人はだれかを好きになる可能性を、だれかを好こうとする自分を、抑圧させてしまうのだろうって、私は思う。‥世にある自然消滅に近い恋愛の形の幾割かは、私には思いやりのための悲劇のように思えることがあって、そういったことがあると考えたとき、私には愛や恋の意味というのがわからなくなっちゃう。なぜ、人は恋愛のある世界を選択したのかなって、そんなことを考えちゃう。性と愛がどうしていっしょに共存できるのか、なぜ生命は性を生のシステムの根幹として選択したのか、私にはよくわからない。ううん、わからなくなる瞬間がときおりあるって答えるべきかな。ときおり、私はわからなくなる。迷って、思いに沈む。答えなんて、どこにもないって、空耳に無表情でありながら。」
「他者を愛するとき、その他者を私が幸せにしてみせると嘘でもいえてしまう人間は、ま、強いのでしょうね。そしてまた他者の幸せをそんなふうに、つまり自分が幸福にできるかできないかで迷ってしまう人間は、ある意味おこがましいという非難もできるのでしょうし、そして実際、おこがましいのよね。というのも本当にその恋愛が対等の関係性で築きあげられていれば、お互いが必至に幸せになろうと努力すれば済む問題ともいえるのでしょうから。ただ、しかし何かしらね、やはり躊躇はあるのよ。そして愛する人の幸福を幾分か己が壊す覚悟が、もしかしたら求められているのかもしれないし、その覚悟こそが、もしかしたら真実の愛情とでも呼ばわれるべき代物かしれないかしらね。ま、はてさてよ。気が滅入る問題というか、安易な答えは出ないことなのでしょうね。いや本当はただ臆病なだけかしら。ま、そうなのかしれないかしらね。愚かなこと、本当にそうよ。はてさてよ。」
2009/04/09/Thu
「あはははは! 感動した! すばらしいっ。今まで失敗作とか漫画とゲームのフォーマットはちがうんだよとかいろいろいってたけど、この最終回をみたらもうそんなことは些事として切り捨てちゃってよろし! まさかほんとにこんな落ちがまってるとは思ってなかったから一読して笑っちゃったじゃないっ。酒! そうお酒! 第二次月面戦争とか神を従えた巫女がいれば負けるはずないとか私には都会の喧騒が必要なのだとか永遠亭の連中は人間としての義務を果してないとか、いろいろさまざまもっともらしい大仰な文句はついて回ってたけど、でもそれもこれもさいごに地上ではまず味わえないだろう極上の美酒を得るためのものだったとは、これはもう四の五のいわず、こちらの負けを認めるしかないでない。私の負け。儚月抄にはやられちゃった。そして私はある意味東方という作品の酒への執念を見失ってたのかもしれない。そんなに酒が飲みたいのかー。飲みたいのだっ。‥すばらしい! そこまで潔いと感嘆しちゃうっ。土下座してまで手に入れたのがけっきょくお酒だなんて、その発想と勇気と度胸と他人には真似できないだろう、そして真似したくもないだろう姿には呆れるどころか私は感心しちゃう。ドストエフスキーの「罪と罰」に出てくる酔漢マルメラードフだって酒を入手するためにここまで手のこんだことしないっ。あえて私は断言するっ。儚月抄は傑作!」
「いやはや、まったく本当にそこまで酒が好きなのかといった展開だったことかしらね。月の都から税金として何かを盗んでくるという展開は十分に読めていたけれど、まさかそこでとくに大した意味もないだろう月秘蔵の美酒をかっぱらってくるとは、まったくまじめに予想なんかできない代物ね。しかし、はてさて、酒というものは、本編中、紫もいっているように、飲んでしまえばそれまでの双方共に遺恨を残さないものであるのだから、もしかしたら盗んでくるものとしてはもっとも穏当なものかしれないかしらね。綿月姉妹もまさか酒をとられたからって幻想郷を吹き飛ばすわけには行かないでしょうし。というか、幻想郷があと一歩で灰燼に帰す裏では幽々子が酒を盗むために暗躍していたのね。なんて阿呆らしい展開かしら、いやいい意味で。」
「ほんとにまさかそこまでとは思わないものねー。結果的にだれも痛手を被ってないから結果論として事態は上手く収まったのだけど、ほんとは幻想郷は危ない際までいったのだし‥とくにレミリアたちは下手したら命さえとられかねない状況だった‥紫たち、この騒動の元凶には然るべき反省と謝罪があってよろしなのだけど、でもそこまでして欲しかったものが、そしてけっきょく手に入ったものが酒だっていうのは、なんだかそういったまじめな話がばからしくなる限りで困っちゃう。‥ただ思うのは、うん、こうまでばからしい話だったから、逆に私は本作に最終的に好意を抱いちゃうな。酒が飲みたい、か。そっか、うん、それならしかたないよね、みたいな。というのも、なんていうのかな、私、お酒ってあんまり好きでないのだよね。どこか冷めちゃう。酔うのが好きでない。酒は私には狂気と暴力を人に吹きこむだけのもののように思える。酔って宴会して人同士が仲よくなれるなんて、私は信じてない。それは人は酔うと本音をさらけ出すものかしれないけれど、人は本音でなくて建前と妥協で現実を生きてるものだって、私は思ってるから。‥酒、酒か。私はわからないけど、でもこの作品は何か憎めない。東方は、これでいいのだと思う。でも一言だけいうのなら、酒はほどほどにしたがよろしと思うよ。酒で身をもち崩すのがいくら人の常といえど、ね。酒はこわいものだから。」
「ま、理路整然とストーリーを組み立てることを好む一群の人たちにとっては、本作はまさしく穴だらけ、突っこみし放題の無茶苦茶極まる評価以前の作品に映るのでしょう。ただしかしラストのこの酒へのあまりの執着と愛着の素直な表現は、酔っ払いを見るように何か致し方ないといったほんわかとした気持を抱かせられるのよ。いやはや、これは甘い見方なのでしょうね。しかしどうも、それにしても酒よ。もはや憎めないのよ。いい作品だったと総括していいのかどうかはわからないけれど、ま、はてさて、何かもうこれでいいような気がするのよね。それは酒の迷いのためかしら。それとも今が春のためかしら。うららかとしたいい陽気。馬鹿らしくなることね。本当に、馬鹿らしく、いい作品だったことよ。なんて立派な馬鹿かしら。お見事よ。」
『扇にて酒くむかげやちる櫻』
松尾芭蕉
2009/04/08/Wed
「遠藤文学の総括的意味あいをもつ「深い河」を執筆するに当って、遠藤は多数の人と対談を交してる。その相手は多岐にわたり、同じ作家や俳優と同席についてるものもあれば、物理学者や医学者などさまざまな分野の第一人者と意見を交換してるのもあり、さらには遠藤周作の代表作のひとつである「沈黙」を英訳したことでもふかいつながりのジョンストン神父との対話は、キリスト者としての遠藤の相貌をうかがうでも貴重なものでないかなって思うかな。そして全体としてこの対談集を眺めるなら、本書を構成してる主要なテーマはいくつかに分類できるのであり、まずひとつはこれまで西欧化学文明が認識できてこなかった未知なるもの、要するに晩年の遠藤が傾倒してた輪廻転生や臨死体験、いわゆるあの世に関する事柄は科学にとってどんな意味をもつのか、また科学は変われるのかといった課題が検討されてるのであって、ここの部分は読む人によって遠藤に対する評価がさまざまに分れちゃう箇所かなって気がする。というのもシンクロニシティや前世の問題、さらに至って東洋的な「気」の範囲にまで話が及んじゃうと、これは私自身が感じたことだけど、そうとうオカルトになっちゃうのだよね。それに遠藤が展開する理論はお世辞にも整然とした説得力のあるもの、つまりあくまで冷静に内容を検討するといったものでなくて、かなりの部分、独善的な方向に走っちゃってる観があるから、客観的な論証が求められる問題に対してあまり有効な態度ではなかったかなって思えちゃうから。でももちろん遠藤は科学者で断じてないし、優れた文学者でこそあったのだから、その点で遠藤をオカルトとして非難する向きはあんまりすべきでないかなとは、私も思う。ただなかなか評価がむずかしい部分ではあるのだよね、晩年の遠藤の関心の傾向を考えるのは。」
「死というものが間近に迫って感じられたからなのかどうかはわからないけれど、しかしたしかにそれほど論証的な議論ではないのよね。むしろそれよりこういった科学側との対話において考察すべきなのは、遠藤自身の精神的傾向がどのように作品に結実したかといった面なのであって、それ以上の部分には踏みこまないのが妥当だというべきなのでしょう。正直さいきん流行りの偽科学とかの論調に巻きこまれるなら、本書は格好の材料を提供することになるのでしょうね。ただしかしむろん肝心なのはそのような点ではなく、遠藤の文学の意味性といったものを常に念頭におくことよ。前世や共時性というと眉をひそめる人もいるでしょうが、より大切なのは遠藤がそれらの概念をどう文学に起用したという点でしょうね。ここの問題はなかなか厄介よ。」
「遠藤の「深い河」のユング的、またインド的な混沌を志向するようになった向きは、いったいどんなふうに彼の前半生の巨大な課題であったキリスト教を代表としての西洋文明との確執と関係してくるのかなっていった疑問は、ひいては遠藤という一個の文学者の総体を考えることにほかならないであろうから、かな。‥この遠藤の読者ならたぶんだれもがとらわれずにられない問題に対して、遠藤は本書のなかである意味的確に答える。というのも何かなっていえば、遠藤は端的に「疲れた」って回答してるのだよね。それで何に疲れちゃったのかなっていえば、それは西洋文明の合理性、キリスト教にまつわる理知的なもの、つまり信仰というものが人間存在にとってどのような意味あいがあるのかを理性で把握しようって試み、それら全体に対して決着をつけようって焦る人間の傾向に、遠藤は疲労してしまったのだって答えてる。‥これはおもしろい告白かなって思うけど、疲れちゃったっていうのは私には遠藤の本音のようにもきこえるかな。そしてまた疲れた遠藤がすべてをありのままの矛盾においとくことを本来的だと考えるインド的な世界に至ったというのも理屈が通ることだし、そして最終的作品である「深い河」の文学的破綻もまた、遠藤のあきらめ、しかし愉悦に似た諦念の発露だったのかもしれない。その姿を残念に思うか、または好ましく思うかは、遠藤の愛読者のなかでも意見が分れちゃうとこなのでないかな。ちなみに私も、この部分についてはあまり性急な判断はくだせない。だって、まだ私、遠藤ほどの年齢に至れてないものね。それは当り前で、そしてあんがい確信的な要素なのかも。老いの意味は、私にはまだつかめない。」
「ま、老いがなんたるかを云々するというのは時期尚早ということでしょうね。というか、なんていうか、当り前すぎて馬鹿らしいといった話でしょうけど。あとそれにそうね、本書のなかでもしかしたらいちばん興味深く思われるのは、遠藤の夫婦観が少しにじみ出ている部分かしら。これもまた肝心な点だと思えるけれど、遠藤にとって夫婦が意味するところのものはそのまま人生の、そして文学のすべての行末を決定するかのように秘められた大切な部分だった。それは遠藤の恋愛観の終局的な形ともいえるし、また決定的な主張だったともとれる。そこを考えて本書を紐解いてみるのもおもしろいでしょうね。夫婦とは、恋愛とは、つまり他者と生きることとはどういうことなのか。その間の事情は、はてさて、多くの人にとってまったく無縁でないでしょうからね。人はけっきょくだれかと共に生きていかざるをえない存在なのでしょうから。」
『われわれ人生を生きてると、いつも自分が主役だと思いたがる。他人のことを脇役だと思っていますね。しかし脇役からみると、こちらのほうこそ脇役なんですね。こちらが主役であると同様、向こうもまた主役であるということに思いを至らせるには、多少時間がかかりますね。少なくともぼくなんか、時間がかかっちゃった。
そうすると、どうにもならないことってあるわけですよ。そして、そのどうにもならないことを、人生の中で何とか辻褄を合わせたいと思う。でも、できないんですよね。だからそれを包容してくれる大きなものが、欲しくなってきてね。そういう大きな力が、具体的にこの世に現れているのが、ぼくはインドだと思う。』
遠藤周作「「深い河」をさぐる」
遠藤周作「「深い河」をさぐる」→
遠藤周作「深い河」
2009/04/07/Tue
「現代魔法は好きな作品のひとつで、魔法ってありふれた設定に対する独特の切りこみとそれを上手に用いた複線を効果的に利用する巧みな演出の仕方がとくに印象に残ってる。それなのでシリーズ再開というのは素直にうれしいし、またアニメ化もするって話は原作が一端完結して四年も経ってたのだからけっこうおどろかされた情報だった。来月発売されるコミクス版のほうも楽しみだし、今さら現代魔法がこんなに世に出てくるとは思ってなかったな。‥それで、数年ぶりの新作としてのこの6巻なのだけど、一読した感想としては全編が隙なく構成されてて、伏線の張り方といい、こよみとプーのほほ笑ましい体験の積重ねとそれがラストにつづく危機の局面への葛藤の理由づけになってる点といい、主役としてのこよみに常に焦点を当てて物語をわかりやすく印象的にしてる点といい‥初期の現代魔法はあまりに巧緻な設定群とキャラの個性にふり回されちゃって肝心のドラマの魅力がスポイルされちゃってた印象あったものね。そういった現代魔法の、わるくいえば欠点が、あらかた解消されてるのには率直にいっておどろいた。すごく読みやすいし、ラノベという枠で見るだけでない作品の完成度が本書にはあるんじゃないかな‥内容としては文句のない仕上がりになってたって思うかな。こよみの不可思議な魅力と、嘉穂の飄々とした態度や美鎖の浮世離れした姿‥とくにホテルに向っての執拗に理路整然とした独自の場面はひどく現代魔法らしいね。あの論を展開する個性ある挿入は、この作品の性格をよく示してる‥それに弓子の変わらない豪腕ぶりは、私に以前どおりの現代魔法を思いださせてくれてなつかしい気分もあった。総じて見て、とてもいい出来の作品かなっていっていいと思う。こよみと嘉穂のコンビは、やっぱりよいよね。素敵。」
「現代魔法が今になって復活するとは到底予想していなかったことだから、なかなかさいきんの動向にはおどろかされることが多々あるのよね。しかしけっこう理屈が先行する作品だし、ヴィジュアル的な迫力といったものは序盤はそうないでしょうし、キャラの魅力はあれど一歩まちがえれば相応に変人である面々なのだから、アニメのほうの評価がどうなるかは演出次第といったところなのでしょう。ま、しかし原作のほうの最新刊はとりあえず予想以上に上手くまとまっていて感嘆したといったものかしら。ストーリーの流れがわかりやすいというのがまず良い部分なのでしょうね。この作品は設定が一見するとわかりにくい分、ドラマにあらわれる成行はやれる限り鮮明にあらわすべきなのでしょうけど、過去シリーズではそれが殊に序盤は文句なくできていたとはいいえなかった。しかしこのFire foxの物語はそういった欠点だったといえる部分を見事補強することに成功している。この点はすばらしいといっていいでしょう。ありふれたテーマだけれど、しかしそれゆえに作品の魅力が浮き出る話だったことよ。こよみとデーモンの交流は、なかなか見ごたえあったかしらね。」
「この作品はシステムが無機的に物語の優劣を瞬時に決定する世界観で、へんに感情や根性が物いわないだけあって、ある種冷徹な世界観を構成することに成功してる。だからこの巻のラストに象徴的にあらわれ出たような、こよみと本来は決して意志を通じあわせることのできないはずの存在であるデーモンとの交流は、このエピソードの主軸を占めるドラマでありえながらも、本来的には謎を呈示して明らかであるはずの部分であるのであって、どうしてこよみが直感的に‥彼女が理屈だけでない存在であるがゆえの稀有さは、周りがシステマティックな脅威ばかりで占められてるだけに、本作のある重要な点を成している‥プーと接することができたのかなって問いは、この作品が作品内に上手く説明できない謎を導入したということであり、それはまたこの世界がそう人の思うどおりには行かないっていう当り前で、そしてなんて神秘が未だあるのだろうかって驚嘆という感動を備えることにつながってるって、私は思うかな。‥世界はそう割り切れない。本作の奇妙な物語を読み終えたときに、私はそう感じた。こよみとプーのやさしさと思いやりから生まれただろう交流の意味あいは、それこそ世界の未だ知れない神秘と謎の威力をこそ、その魅力をこそ、湛えてるものにちがいないのであるのだから。」
「ラストの場面でなぜプーがこよみの意志に応ずるかのように自身の消えることを望んだかは、デーモンの行動原理を人間が知りえない以上、また知ることのできるところではないのでしょうね。そしてそれはまた世界の奥深い性質を垣間見させる、つまり人間の知見が未だ至れない不可思議を象徴して表現しているということになるのであり、それは現代魔法という作品がまだまだ引き出せるものを多く蔵しているということにもほかならないだろうということなのでしょうね。はてさて、良い作品だったことよ。果してつづきはいつあるのかといった疑問もあるし、コミックスもアニメもどういう出来になるか、ま、楽しみといったところね。今年はなんだか現代魔法でいろいろ楽しませてもらえそうでうれしいことよ。それぞれがいい作品になることを今はただ願いましょうか。どうなることか、期待よ。」
桜坂洋「よくわかる現代魔法 6 Firefox!」
2009/04/06/Mon
「原作はいちおう既読といっていいのだけど、でもあまり長大な内容になっちゃってきてるから、それほど本作を読みこんでるわけじゃない私としてはけっこう新鮮な気持でこのアニメを見れるかなって思うかな。前にやってたテレビ版もけっきょく通しては見てないし、数年前の劇場版はなかなか斬新な発想で全編が貫かれてて感心した記憶があるくらい。だから本作は虚心な気持で思うところをつらつらと書いてくって気軽なスタンスでエントリを紡いでいこかなって思う。‥それで、まず今回の1話目の内容はこの作品にとっては基本ともいえる国家とその国家に不審を抱くものらの確執が描かれたわけだけど、ここで問題となるのは国家に不審を抱いてる人たちというのは何もこの話のアイザックのようにとりあえず暴力的な手段、要するにテロリストとして現今の体制に異議を唱えるという型の人たちばかりというわけでなくて、現在の国に信をおけないでいるのは主人公のエルリック兄弟やマスタング、そしてその賛同者やそれに連なるそのほかの人たちといった具合に、ある面からいうならこの作品の主要登場人物はだいたい現在の体制には‥それを表に出すかどうかは個々人により異なり、また時期によってもちがうのだけど‥不服の気持でいるのだよね。ただだからって徒に今回のアイザックのように無辜の民衆を災禍に巻きこんじゃうかもしれないような即発的で、さらに自棄的な手段を選択しないのが、エルリック兄弟の立場と、そしてあえていうならその信念の意義と倫理を支えてる点なのであって、彼らが物語の主役となるべき使命があらわれてる重要な決断なのだと、私は思うかな。‥このテロリズムは卑怯だと思う感性が、この作品には興味ふかいことに一貫して貫かれてる。それはだれもが今の国家に不審を抱きながらも、忍従してるその姿勢からうかがわれることであって、この面を端的に象徴してるのはマスタングなのだろな。この作品の登場人物間のバランスは、いつも思うことだけど、とてもよくできてるって感嘆する。」
「ある意味アイザックのようにブラッドレイに代表される巨悪を許すことができず、とりあえず何かしら行動を起して現状を変革しようという人は純粋でさえあるのでしょうね。そしてアイザックは純真な心でもって悪を打倒する精神という点においては、まったく善であるのであり、さらには潔癖な正義感とでもいうべき存在であるのでしょう。ただしかし、ま、むずかしいのは、彼のような存在はまったく善であり、それゆえに純粋そのものの心でテロ活動をし、また人殺しさえやってしまう。そしてその破壊は彼らにしてみれば純真な心の発露であるのだから、自分らには罪があるとは片時も思わず、そして善の気持の発露が悲劇を呼ぶはずがないといった奇矯な価値観に支配された、なんとも厄介な人格であるのよ。というのも、アイザックは正義の心から都市を破壊したし、純真な悪を忌む心から兵士を何人も殺したでしょう。そしてその行為に対して、アイザックは決して反省しないのよ。なぜなら、アイザックは純真だから。」
「目的が善であるのなら行為は何をしてもいいっていう発想は、畢竟、独善性を帯びることになり、それでいながら純真な人は自分たちの落ち度といったものを認識することはありえないから、かな。‥この種の立場と目的の複雑に対立しあう人物関係の配置が「鋼の錬金術師」って作品の際立っておもしろいとこじゃないかなって思うのだけど、つまりアイザックの「今の国家はゆるせないから、なんとかしよう」って目的それ自体に注目するなら、そのことだけをとってみればそれはエルリック兄弟もマスタングもアームストロングもぜんぜん賛同するとこにちがいないのだよね。けれど目指すべき地点というのが同一でこそあれ、そこに至るべき手段が彼らは各々異なってるのであり、アイザックは目的が善ならけっきょく善を為すことになるのだからどんな手段をとろうとも早急に解決を図るべきだって考えであるのだけど、それに対してエルリック兄弟たちはとるべき手段、目的を実現する方法については、そうかんたんに、つまり純真な人たちのように、割り切って行動することができない躊躇といったものに面してる。そしてその躊躇は見る人から見るなら偽善とさえ感じられちゃうのだけど‥さっさと賢者の石をつかって元の身体になったらいいじゃない、みたいな‥でもその躊躇いがあるからこそ、人の倫理と、名誉といったものの価値は守られてる。‥私はその点にこの作品の明確なある主張が認められて、とてもおもしろいって感じるかな。目的が善というだけで、すべての行為が赦免されるなんて、そんなことはありえないのだから。そしてエルリック兄弟の生き方は、そういった忍従と葛藤と迷いに満ちた人の姿の悲劇と価値を、高らかに示してさえあるのだから。」
「アイザックに象徴されるように、国家打倒といったものを掲げる彼らの理想といったものは、それ自体としては正しいことであり非難すべきことではありえないのかもしれない。しかしどんな手段をとろうとそれを達成さえすればいいというのは、複雑な現実を直する勇気をもたないがために安易な逃げであり、それに気づけるか否かが正義という巨大な目的以前の、小さな人間の尊厳を守れるかどうかといった僅少な、しかし決して無視してはならないだろう大切な問題ではあるのでしょうね。ま、しかしはてさて、今回のアニメ化はいったいどういった方向に展開するのかしら。原作のとおりに行くのか、さてはちがうのか、とりあえずは期待したいところかしらね。ま、楽しませてもらいましょう。今回はおもしろかった。さて、次回はどうかしら?」
2009/04/05/Sun
「一九五〇年にフランスの哲学史家エミル・ブレイエによってフランス放送局から今日の哲学界の事情について大まかなあらましを講演した内容をまとめたのがこの「現代哲学入門」であって、話題の中心としては二十世紀初頭にかけて起った哲学運動、具体的にいえばベルクソンやカントからハイデガー、サルトルにつづく実存主義に関する課題が内容のだいぶを占めてて、それに補う形で二度の大戦を経て動揺した人間性と科学と政治の連帯の問題を考え扱うべきヒューマニズムに焦点を当ててるっていうのが、本書の構成だといっていいかなって思う。そして表題には「現代哲学」ってあるけれど、でももう今から半世紀も前の講演に本書はなっちゃうのだから、現代においてこの精緻で多量の資料を渉猟した哲学史家としては稀有な存在であったブレイエの精緻な概説といえど、五〇年代以降の哲学の動静についてはまったく当然ではあるけどふれられてない本書を、果して読む意義はあるのかな?という問いは半ば必至に出てくるものだと思うけど、これに対して私は、うんべつに読む必要はないのじゃないかなって答えちゃう。‥だって、そうだものね。本書の中身はそもそも「哲学入門」であって哲学史としてわかりやすく提供されたものでこそあれ、一つひとつの課題にはだいたいの注解が与えられてはいるけれど、でもそれだけであって個々の課題には踏みこんでないし切り入るべきでもなかったのだから、本書を哲学史の観点から読む必要はまずないっていっていいと思う。でもそれでもあえて本書にざっと目をとおすおもしろさは何かないかなってきかれるなら、私はそれに対して五〇年代っていう哲学が‥殊にフランスは‥波乱の時期にあった場面に実直な哲学史家がどんな問題意識を抱えてたのか、そういったその時代その場所での実際的な意識といったものを感じることに興味があるなら、本書はなかなか示唆的な印象を提供してくれるものかなって答えるかな。」
「ま、哲学史といったものはなかなかどうして難儀なもので、学者によって見解がさまざまに相違するのは当然なのでしょうし、これといって良書といったものはすぐには思いつかないものなのよね。そしてそれであるからブレイエのこの書も、これ単体で当時の哲学状況を網羅しているというはずもないのであり、あくまで参考にすべき一冊として解すのが正当であるのでしょう。おもしろいのは、このブレイエ、ハイデガーやサルトルなどの実存主義に対してはけっこう批判的であるのよね。戦争を挟んだためか、むしろブレイエはヒューマニズムの復興、そしてそれに伴うギリシア、ラテン文化の倫理的価値観の見直しといったものを緊急の課題として提唱しているのであり、ここらの人道主義への片寄りはなかなか当時の情勢を思わせられて興味あるところかしらね。もちろん私たちの現代においてヒューマニズムは、あまりに手垢にまみれてしまった観もあるから、なおさらブレイエの熱意は印象を深くする面もあるのでしょうけど。」
「二度の大戦が直接的に西欧の危機にほかならなかった当時にあっては、西欧文明の根本的な価値と意義を再把握して、それによって哲学の意義といったものを強固に復権させることこそがブレイエにとっての悲願と映ったにちがいないから、かな。‥これはけっこう問題を整理して考えるのはむずかしいのかなって思えちゃうくらいに錯雑と種々の思想が入り乱れてる領域なのだけど、ブレイエはまずヒューマニズムはユートピアでないっていう厳然とした事実の前にまず立って、論拠を展開してる。そしてこの「ヒューマニズムは理想でない」って認識こそが、実はヒューマニズムを考えるうえでは忘れちゃいけないことじゃないかなって私には思えて、というのも安っぽいお涙頂戴でありえない切実な要求がヒューマニズムが求められた当初には存在したのであって、それは端的にいうなら暴力と強欲が渦巻くなかでの人間の人間たる意味を問わずにられない人間の本性がヒューマニズムの動機にはあったからだった。そしてそのためブレイエはヒューマニズムを法則として人たちに伝播するためには教育がその任につくことが要請されるって実にまっとうな論を述べてるのであって、それは科学を科学それ自体としてでなくて、人の意志と意味を科学に負わせることを要求するものだった。‥この種の主張、つまりヒューマニズムと民主主義の記述は、私は現代においても読まれるべき価値がないわけじゃないかなって気がしたかな。ヒューマニズムを装う論理が横行してるのは、現代の情報化社会においてこそ、ブレイエの時代とは比べ物にならないくらい、激しい状況にあるのだから。」
「ヒューマニズムを生活のスタイルと捉えて事態を考察しているのが、ブレイエの理性の価値を保証するものであるのでしょうね。それはつまりヒューマニズムとはブレイエのいう通り、実践してこそ何等かの価値が認められるものであって、ただ単に言葉として、イデオロギーとして吹聴するだけではそれはなんの役に立たないばかりか、有害でさえある。ただしかしヒューマニズムを実地に日々の生活で行うためには、それはそうとうむずかしいことでしょうし、また誤解されてヒューマニズムが曲解されることになりかねない。要するに、これは教育とはどうあるべきかという問題に帰着するのよ。そしてブレイエのおもしろいところは、教育とは忍耐だと明確に自覚的であるところなのでしょうね。教育の努力は一代ごとにやり直さなければならない。まったく当り前で、それでいてなんて厳しい指摘なのかしらね。ただしかしそれは、子どもを未来が必要とする限り、自覚しつづけなければならない理屈であるのでしょう。未来には子どもしかいないのだから。」
『近代人は待っている人である。近代人の生活は動きに充ちているけれども、活動しているというよりも動揺しているのである。行動派はっきりしていながら、行動を導く思想はぼんやりしている。肝腎なのは行動だけだと考えているが、その行動の元になるものの価値は、自然とか神とか民衆とかいうような大きな存在に結びつくところにあるので、人間はその中に見失われてしまう。一方には主観主義があって、そこでは行動の法則が個人の感情や欲求に過ぎず、一方には現実の事象があって、そこに個人が身を捧げれば吸収されてしまい、この二つの中間は存在せず、どっちの場合にしても個人は自分自身を把握することができない。自分の感情に身を委ねて『超降』するにしても、自分よりも優秀な存在に頼って『超昇』するにしても個人は自己を失ってしまう。人間の像は解消的となり、外の響に負けてある主義に吸収されるにしても、内の響に負けて放埓な欲求に耽溺するにしても、絶えず自分自身を奪われるので、この二つの対立を人間性の本質的な性格と思い込み、承知で事物の中に没入する。この人間の統一の否定こそはヒューマニズムの危機の最も顕著な兆候となっている。』
エミル・ブレイエ「『科学とヒューマニズム』の梗概」
エミル・ブレイエ「現代哲学入門」
2009/04/04/Sat
「原作は既読。けっこう好き。個人的には唯や澪のかわいいとこ見れたら満足かなって軽い気分でいたのだけど、予想以上によく描けてたのにはおどろいたし、また4コマ作品をどうアニメ化するのかなってその手法の部分にも注意を引かれた1話目だった。というのもまず今回のお話の構成を鑑みてみるならすぐに了解されることだと思うけど、しっかりと起承転結に基づいたドラマを構成することに要点がおかれてたのであり、原作の間隙を埋めるというふうだけでない独自のストーリーが紡がれてたことは明瞭であるのだよね。たとえば唯が入部を決意する段に入るまでの流れは、基本的に原作に準拠したものではあったのだけど、でも特筆すべきは彼女たち四人のやりとりにそれぞれ各キャラらしい個性を上乗せしてるという点であって、これは単純に原作に忠実というだけでは実現しえないだろう、元ネタである原作をよい意味で利用してのドラマを生みだすことへの意欲がうかがわれる仕上がりだったかなって思ったかな。それとあと気になったのは紬の描写であって、彼女のことはお金持ちのお嬢様であんまり友だちとあそんだことの経験のない深窓の人という感じで描いてくつもりなのかなって、ファーストフード店での様子から少しそんなふうに思われた。そいえばこの前のキャラメルのインタビューでも紬のことは少しくふれられてたものね。原作ではあんまりそんなお嬢様って感じでもなかったかもって思うけど、これはこれでありではあるのだろうな。でもいちばんおどろたのはさわ先生の出番がよけいに多かった点なのだけど、ね。猫かぶりは見事かな。」
「非常に表情豊かで眺めているだけで楽しい作品というのかしらね。ただ、ま、あまりに気合の入った演奏描写は逆にほとんどまじめに演奏することのないこの原作なのだから、そのギャップが微妙に笑えるというかおかしいのよね。もちろん実直なくらいに青春ものとしての側面も備えている作品なのだから、やりようによってはドラマは大きく膨らんでは行くのでしょう。それにそもそも気負った方向には行きようのない原作ではあるのでしょうし、見ている側としても日常の一挙手一投足を楽しんでいけばいいのでしょうしね。ま、さいごに演奏されたのが「翼をください」だったのは、なかなかどうして粋な選択だったのじゃないかしら。もちろんあの歌はそれ単体として眺めるならば、けっこうきな臭くはあるのだけれど、ま、それは横においておいていいのでしょうしね。」
「「スケッチブック」のときも感じたけど、4コマ作品をアニメ化するっていうことはある意味製作者側のオリジナリティを必然的に要請する向きがあるのであって、原作の足りない、もしくは残された余地を十分に検討してそれを新しく想像する作業が求められるなら、それはまったくオリジナルを創造することと製作者に求められる意味あいとしては同義なのかもかなって、ちょっと思う。それはたとえ原作にも大まかなストーリー上の流れと無視しちゃいけない箇所というのはあるにせよ、それでも4コマで流せてた部分を‥つまり描くべき部分でないところを‥執拗に掘り下げ、画面にあらわし出すことにちがいないのであり、殊にアニメのなかの1話という区切りでみた場合、それに当てはまるだけのドラマの構築は製作者側の独創に寄る部分が大きいのだろうなって思うかな。‥私は見てないけど、「ひだまりスケッチ」もたぶんそんな感じなのかなって気がするし、4コマ作品からあるていど以上のドラマをつかみ出すっていうことは、とくにそういった形での作品が現今増えてきてるっていう現象は、思いのほかに興味ふかいことであり、またある種の自然の成行があるのかなって気がするかな。‥ところであずにゃん出るのかな? 私てきには憂ももうちょっと活躍する原作2巻目のエピソードも見てみたいのだけど、でも1クールならむずかしいかな。1巻の話の流れは好きだからそれはそれでいいけど、でも憂は惜しいような、そんな気分。憂ちゃん地味に活躍するとうれしいかな。こそっと期待してみたり。」
「高校生活のはじまりということで、全編にわたって初々しい雰囲気が満ちていたのも良かったかしらね。背景の春ののどかな様子と、それに対照するかのような気分が一転二転して落ち着かない唯の様子など、メリハリの効いた構成だったと評価して良いのでしょう。見どころとしては原作にない、そしてまた原作に想をとったオリジナリティをどれくらい魅力的に描いてくれるのかといった点かしらね。1話は十分、文句ない出来だったし、これから先も期待できるでしょう。はてさて、次回は原作のとおりならギター購入の話かしら。どうなることか、楽しみね。」
2009/04/04/Sat
「次の種村有菜作品は平安ファンタジーってきいてたから、期待半分不安半分でけっこう楽しみにしてたのだけど、一読して素直に感心、これはよく描けてるって感嘆した。というのも今回の「桜姫華伝」を読んでみてまず興味を引かれるのはその登場人物の設定の秀逸な点であるのであって、何よりも主人公の桜がかぐや姫の孫だっていうとこがおもしろい。竹取物語を純粋にSF的な素材として少女漫画に活用するのかーっていうだけでも稀有な発想だと思うし、また平安って時代設定にもその場限りでない説得力をもたせることに成功してて、さらには作中敵役として登場してる妖怪の類である「妖古」を月から追放された罪人が心を失って人の姿をなくした形って定義されてるのも非常によくできた、考えさせられる設定かなって思うかな。それというのも月と罪人の相関の問題は、竹取物語原典においても重要な読み解くうえでの鍵であるのであり、さらに本作ではかぐや姫が人の心を失った罪人の化した妖怪を唯一殺すことのできる剣をもってたって設定が‥つまりかつてのかぐや姫は堕ちた月人を処刑するためにやってきた?‥物語にふかい解釈の余地と意味性を与えることに成功してるって、私は思うかな。‥うん、これはおもしろい。さすが有菜先生。感心しちゃった。これはすごくよくできてる。」
「「紳士同盟」のあとだからどういった作品になるのか不安もあったのでしょうけど、蓋を開けてみれば非常に考えぬかれた設定を伴った平安ファンタジーとして高い完成度をもった出来になってるのよね。これは素直におどろかされたし、また各種設定がそれぞれ必然性のあるものとして納得行くようにていねいに描写されているのも好印象かしら。それに何より登場人物たちに愛着がもてる、かわいい良いキャラクターがそろっているというのが大きいのでしょうね。桜の境遇はなかなか泣けるし、東宮に立てなかった憎しみを桜に転化している、桜の許婚である青葉の立場もおもしろいものがあるといって良いでしょう。先のドラマを予感させる、これは優れたキャラ造詣と評して構わないかしら。上手いことね。」
「平安貴族っていう人たちだから、少女漫画的な過度の装飾や美辞麗句で着飾ったような素敵な文句や恥ずかしい台詞も、むしろあの時代なら当然といった形で受けとれるのもこの作品のいい点なのだよね。というのも何より和歌なんて歯の浮くような言葉を並べてみせてみて如何ほどのものであるのだし、それだから有菜先生の独特の台詞回しも、心情を過度に表現するって意味において、よく機能してるっていってよろしなのかなって気がする。‥本作はだから一巻目としては破格なくらいにおもしろかったと思う。先のストーリーを予感させるキャラクターに、いろいろな解釈が成り立ちうるだろう人物設定、また平安って華々しい背景によく似あう少女漫画の衣裳や、さらには息つかせないドラマの展開の加速度はこの作品の魅力を十二分に湛えてることに成功してるって私はいっていいって思うかな。‥純粋につづきが気になる一巻だった。次もまたとても楽しみ。琥珀かわいくて、よかった。」
「印象的なのは許婚でありながら青葉に刃を向けられる桜や、またその桜を裏切る淡海の姿など、なかなか衝撃的で仮借ない場面を真正面から描ききっている点なのよね。桜自身の立ち位置もむずかしいのでしょうし、そしてその彼女をとり巻く面々の思惑も簡単なものでもないということがドラマの怒涛の成行からは慮れるのであり、それはこれからのこの作品の行末を期待させる要素として意味があるものなのでしょう。ま、本当にこれからどういった方向に作品が向うか、楽しみかしら。それではつづきに期待して、次巻を待つこととしましょうか。」
種村有菜「桜姫華伝」1巻
2009/04/02/Thu
「けっこう楽しく読めたかなって思う。ストーリーの成行としてはこの手のラノベにしては緩急のつけ方がはっきりしてて、読んでて過度にだれるということもないし、展開の仕方はとくに独創的というほどでもないけど、でもそのために安定感があってその巻ごとのテーマをしっかり決着させてくれる起承転結のとれたストーリーに納まってるから、このシリーズはあまり不安なく気軽に手にとれるものだって評していいのじゃないかなって思うかな。それに今回のお話は裏切りと人が強くなりたいというときの強さとはいったい何を意味してるのかってある種根源的な問題に切りこんだ趣もあって、私としては存外に思わせられた側面がなかったわけでない。もちろんラノベの常としてそこまでひとつの事柄を考究する執拗さというのは受けとれないのだけど、でもこのお定まりの物語仕立てからあるふかみを思わせる構成はそれ相応に認めてもいいのじゃないかなって気は、私にはするかな。人の強さ弱さ、かー‥。あんまり興味ない事柄といえば、私に限ってはそうなのだけど、でも大勢の人にとってはおそらくそうでないのだろうし、また人が抱くその人の強さの基準といったものは、なかなか無意識に強迫となって働くこともあるから、厄介な側面はあるのだろうなって気はするかな。今回のお話でいうなら、潰道先生なんて自分で自分を強くあろうとさせて、逆に自縄自縛に弱くなっちゃってる典型だものね。そしてこの先生の例はとくに珍しいことというでも世のなかはないのだから、この種の問題はやっぱりむずかしいのかも。」
「人は強くあるべきか?といった問題かしらね。ま、たいていの人は自分が強いとか弱いとかは日常生活においてはことさら意識することはないのでしょうけど、しかしこの手の問題が緊急の課題としてもちあがるのは、やはりその個人の生活の安寧が破られたときなのでしょうね。つまり悲劇が運命としてその個人のこれまでの生き方を否定する方向に向ったとき、人は己の弱さといったものを自覚させられ、強さというものの抽象的な意味性を考えさせられる必要を感じる。ま、幸福な状況下にあっては自分が強いとか弱いとかいうことは問題にはなりえないのでしょう。恵まれた状況にあった場合、その状況が恵まれているからと考えるからでなく、自分の強さのために自分は恵まれていると錯誤する向きも当然あるのでしょうけど、それくらいに己の存在の強さといったものはふだんは見えにくいものなのでしょうね。もちろんそんなもの見えにくくていいものなのでしょうが。」
「強さ弱さってあんがい生まれつき決っちゃってるものなのじゃないかなって、私はときたま思ったりする。もちろんそんなこというとそれじゃ弱く生まれついた人は‥弱さは生きてる最中のさまざまな困難に突き当ることによって、当人に自覚させられるものであるよね。いじめられたり、試験に失敗したり、仕事でミスしちゃったり、恋人にふられたり、人を傷つけたり、陰口いわれたり、等々の場合において‥強くなれないのかーって反論があるかもだけど、私は、ね、弱く生まれついた人は強くなれないのだと思う。そしてそれはそれでべつにいいのだと思う。世界はその弱さを肯んずるものだって、気がしてる。‥ここはたぶんすごく私の言葉が拙くきこえてきちゃう部分なのだと思うのだけど、でもなんていうのかな、強くない人が強くなろうって意図したとき、それは本来自分にない性質を求めてることにほかならないのだから、どうしても生き方に無理が出ちゃう。そしてその無理はたぶん本然としての生活を送ることを難儀にしちゃうのだろうし、また強さへの過度の期待は、その強さを実際に得て身につけてみたときに、たぶんその人の期待を裏切る暴力性を本来の性質として備えちゃってるのだと思う。‥何かな、こういうとますますあれかもなのだけど、よく生きることと強く生きることは同義でなくて、なら人は、できるだけ自分の強さを抑えて生きたほうが、周りに対してやさしいのだと思う。それに生まれつき弱いのなら、それはそれがあなたというだけなのだから、それでいいのじゃないかな。孤独に、弱く、あればいいだけじゃないのかな。強さって、私にはよくわかんない。でも弱さはなんとなくわかる。それが、ふしぎかな。」
「ここでイエスなんてもち出すと話を錯綜させるだけなのでしょうけど、ま、どうも個人勝手な考えを述べさせてもらえるなら、イエスは強弱の観念とはべつの位置に自然に据わっていたような存在に思えるのよね。それになんていうか、強くなろうとして弱い人があがくのは、それはそれですばらしい部分はあるのでしょうけど、弱いなら弱いなりに生きる方法もあるようには思える。そして世界はただ強さのみを目指して存在しているものにはどうも思われない。草木や、花は、何か弱さをそのものの美しさとして、存在しているように思える。ま、そういうことを考えていくと奇妙な味わいが覚えられてくるのよね。どうも強さというのはわからない。あまり深く考えるべきものでも、おそらくないのでしょうね。人の強弱なんて、生きていくうえで、けっこうどうでもいいことなのでしょうから。」
水瀬葉月「C3―シーキューブ―Ⅵ」→
人は強くなるべきなのだろうか?