2009/06/30/Tue
「シンコは白雪とミドリにくっついてもらいたいんだね。そういうことしちゃうシンコはなかなかかわいくてよろしなのだけど、でもなんで彼女がそんな気持になってるのかなっていう部分が今回のお話を読んでてまず真っ先に気になる箇所であることもまたまちがいなくて、そしてそれを考えることは本作のこれからの成行を思う場合にもかならず要求される物語において大切な鍵となるのじゃないかなって私は思うから、このエントリはそれを中心に記していきたいかな。というのも、シンコの兄と異世界の姫が二人結びあうことへのこだわりは、いったい彼女自身に秘められたどんな心理の働きによってもたらされたものなのだろうって検討することは、本作において常に一定のドラマの中心の位置されてきた重要な人物であるシンコの偽らないある彼女自身にもどうしようもない本心に駆られた行動であるふうに私には読めるからであり‥それは今回のエピソードのラストのミドリに向けてのちょっとした本音の吐露からも察せられることかな。彼女はミドリのことを思い、そして実際に白雪の気持をも鑑みて、二人がすでに相思相愛といってもいいくらいの間柄にあるだろうことを十分察知してるにちがいないじゃないかなって私は考えるけど、でもその事実を作中キャラクターのだれよりも身近でみてきただろうシンコがどんなふうに受けとめてるのか、兄と白雪の馴れあいにどんな心の動揺を秘してるかは、これはけっこうむずかしく、それゆえ興味ある課題とも私には思えるかな。なぜなら本作で当初からいちばん魅力あるように描かれてきたのはだれかなって問われるなら、私は疑いなくそれはシンコじゃないかなって答える用意があるからであり、シンコの内面を思う作業は、なかなかやりがいのあることにも感じられちゃう‥シンコ自身、ミドリと白雪って二人の彼女にとってもっとも近しい存在に対して、ある意味、どうしようもない気持の矛盾と錯綜した感情を抱えちゃってるのかもって、私には気がしてきたから。‥シンコのふるまいは、おもしろい。それはたぶん彼女が本作においてさいしょから特異な位置にいたことも関係してるのだろかな。だってたぶん、シンコの本心は、だれにもみえてないのだもの。」
「だれかとだれかが恋人同士になってほしいという願いというものは、ま、それ自体が要らぬお世話であることがしばしばであり、一歩まちがえるとシンコが今回画策したような互いに心憎からず思ってる二人の関係を強引に縮めてしまおうという企ては、往々にして厄介ごとをもたらしがちなだけではあるのでしょうね。もちろんそうはいっても、ミドリと白雪がそう浅からない関係であることは十分に皆承知しているのであり、であるからシンコのしたことも他愛ないいたずらとして処理してしまうことは可能なのでしょうけど、そういったことをしてしまったシンコの本当の気持といったものは、もしかしたら彼女自身にもそれほど明瞭じゃないのかもしれないということは、はてさて、おそらく指摘できてしまうことなのでしょうね。なぜならだれにいじめられても顔色ひとつ変えず飄々とやり過してきた彼女は、もっとも親愛を感じているだろうミドリと白雪に関する限りは、彼女の本心に近い部分が露わになっていると見て良いからなのでしょうね。さて、シンコの心理とは、これは意外と難題なのか知れないことよ。」
「シンコってキャラはあんがいむずかしくて、それは単純な人物造詣が適度に施されたキャラクターがだいぶを占める本作においても、彼女のようにシンプルな立ち位置でありながらその実心の奥底で何を思い、そして何を願ってるかが容易に察せない人物は、たぶんシンコを除いてほかにないように思われるから、かな。‥これはこの作品のさいしょからのストーリーの流れを追ってみればわかりやすいのだけど、シンコって子は自身の世界に浸りがちで外界に対して気を配ることをそれほど重要視しない性格のもち主であって‥彼女は幽霊がみえるとかに代表される異能力のためにいじめられてきたって描写がされてあるけど、でもよく考えてみると、ただ幽霊の気配が感じられるというのみでいじめられたりはしないんだよね。というのも、わかるかな、もし幽霊がみえたとしてもそのことを人目憚らず堂々とくり出さねば人間集団のなかで浮いちゃうことはなかっただろうし、またたとえ幽霊がみえるとか他人に口にしても、それを上手に会話の流れでくり出すなら愉快な人としてクラスメイトに認知される可能性も十分に考えられることであるのは、疑いなくいえることではあるのだよね。でもそれをせずして、ただ自分の価値観と倫理を正々堂々と掲げて生きるシンコは、べつに幽霊がみえるとかってこといわなくても学校のなかで特異な立場に立たされちゃうだろうことは明白であり、たとえそういった独立独歩の生き方が魅力的に映えようと、シンコが学校生活のなかであまりに不器用に我を張ってしまっただろうことは、たしかに指摘できることであった‥彼女のそういった生まれもった気質と、そしてその能力のための経験によって形成されただろう性格は、シンコ自身にそれほど楽しい思いを‥学校生活のなかで‥与えてこなかっただろうことは、かんたんに予想できることじゃなかったかな。そしてそれだからこそ、自分と似た境遇である白雪はシンコにとって見過せない大切な他者として映ったのであり‥いわれなき迫害を受けながらも気丈に生きてきた白雪の姿は、シンコには思いのほか新鮮にみえたのかもしれないって、私はそんなことまで思っちゃうかな。シンコが白雪にあそこまで拘泥するのは、だからたぶん単純に白雪の真正直な人間性を気に入ったからというだけでなくて、もっとふかい彼女自身の知らない内面が、白雪を、自分と似た境遇にあったもうひとりの自分というほどまでに、ささやいたかもしれないだろうからということは、もしかしたらいえることじゃないかなって、私は思う‥大切な近親者であるミドリの伴侶として白雪が適切であることは、以上の理由でシンコはおのずと理解したのだって、私は気がするかな。‥もっとも、シンコはたぶんただ単にミドリと白雪が好きというだけで、二人が結ばれることを願ってるわけじゃ、ないよね。それはつまり、白雪はまさしくシンコにとって、「もうひとりの私」であったのであり、そんな白雪がミドリと結ばれるということは‥というの。‥おもしろくなってきた。次回も、楽しみ。」
「白雪とシンコの立場が思った以上に似通った部分があるということは、はてさて、たしかにいえてしまうことではあるのでしょうね。つまり片一方は誰彼構わず忌避されつづけてきた薄幸の姫であり、もう片方は世間一般の常識からはよく理解されも歓迎されもしない世界に耽溺しつづけたために、器用に周囲の人間と折りあいをつけることの方法にあまりに不器用になってしまった少女である、か。ま、であるからシンコは似たような暗さを裡に秘めながらも、自身を攻撃する者に対してあくまで果敢に戦おうとする白雪をはじめて見たときは、ある種の衝撃を感じただろうとも創造されるでしょうし、また白雪が身近にいてくれることは彼女の孤独を実際的に癒してくれもしたのでしょうね。そしてそれ故に白雪と、そして彼女にとってかけがえのない大切な人であったろうミドリがいっしょになってくれればいいとシンコが願うことは、シンコの幸福な未来の象徴が、ほかならないこの二人に示されているからなのでしょう。‥なんだかここまで考えると、シンコが少し可哀想にも思えてくるかしらね。そこまで気を回す必要もないのにと思われるし、またシンコ自身の心情を慮っても、なかなか軽くないものが彼女にはあるのは明白に思われるからなのでしょうね。‥はてさて、どう物語が動いていくのかしら。ま、とりあえず、次回に期待でしょう。なかなか先の見えない展開になってきて、これは良いことね。どうなることか、楽しみよ。」
2009/06/29/Mon
「グリードはアルのことを決して生理的苦痛に悩まされることがなくて身体の不調から命を危ぶむこともない、魂だけでこの地上を闊歩することをゆるされる不老不死の能う限りの姿としてはまさに理想のものであることを指摘してたけど、もしかしたらその言い分は正しくて、アルほどハガレンの世界においても完全に近い不死の実現の解答のひとつであるとはいえちゃうことなのかもしれないって思うかな。というのもたぶんこれは情報過多の現代社会に住む人ならだれであろうと、睡眠や食欲などの本能に根ざす欲求やさらには病気や怪我に代表される不測の事態がわが身に及ぼすだろう危険の可能性に、一度ならず悩まされただろうことは疑いなく断言していいことかなって気がするし、それにプラトン的な考え方からいうなら身体とはそれだけで罪ふかい人間に与えられた苦役であるのであり、彼のソクラテスはその個人に備わったできるだけの力と意志でもって肉体的な欲求には逆らって‥西洋の根本的な思想において、身体が自然発生的にもたらす欲望ほど嫌悪すべきものもない‥人は自由に使える時間のすべてを魂の修練に費やすべきとされたのだったことを周知であって、もし古代の賢人がアルの生理的必要にぜんぜん介されないでただ思考のみが彼の自己同一性を支えてるような状況を見たなら、それに対して羨望を抱いちゃうかもしれないってことは、たぶんまずまちがいなことじゃないかな。‥疲れを知らない健康で丈夫な身体にあこがれない人はない。そしてさらに病気に罹ることなくて、またいつまでも若々しい容姿を保ってられるなら、それに対していくらでも対価を支払ってもいいって思う人は、たぶんそんなに少なくないのじゃないかな。なぜなら人とはどれだけ高尚な精神性を説こうと、いみじくもニーチェが指摘したように、あくまでも一個の身体から離れること叶わない存在にちがいないからであって、どこまで行こうと人は自身の身体‥それが美しかろうと醜かろうと。強かろうと弱かろうと‥を伴って、死がもたらす無にまで突き進むほかありえないのだから。それはべつな言葉でいうなら、私は私の身体であるほかその存在をゆるされてない、ということになるのかな。‥だからもしかしたら、グリードのいった言葉は、人間の欲の最たるものであったのかもって、私はそんなこと思うかな。自身の魂だけを相手にできたらいいじゃないかなって考えちゃう人は、だって、たぶん少なくないわけないのだから。」
「身体の世話をするということはとどのつまり現実に生きていることのもっとも基本的な要請を満たすことであり、そしてまた見ようによってはもっとも生産性の伴わない動物的な行いであるかしれないのかしらね。ま、とはいってももちろん、そういった基礎的な身体の欲求が、たとえば衣食住といったそれぞれの文化を著しく発達させる要因にもなったとはいえるのでしょうし、ただ動物が原始的な姿で本能を満足させるのに比べ、人間はそこに知と精神を定着させることを可能にしたのだから、一概に人間の本能に係る文化が、そのほかの精神的行為に比して劣っているわけもないのでしょう。ただしかし、ま、そうね、人間の願望の最たる実現を夢想するならば、やはり身体の伴わない知的活動のあり方といった、どこかSF的な妄想を引き起してしまいがちであることは、それなり認めねばならないことではあるかしら。であるからグリードの存在とその意志するあり方も、なかなか暗示的で人間という存在のもつ願いの一端を具現しているものとはいえるのでしょう。こういう登場人物各々の示す象徴性といった点は、やはりこの作品はさすがね。なかなか見応えがあるかしら。」
「魂だけの存在になれたなら‥SFの文脈で行くと人類がサイボーグになれたなら、かな。これは古典的な人たちの好んだ空想のひとつであるにちがいないし、また昨今の唯脳論みたいにただ人類の不可思議を脳ってブラックボックスに投入することで満足しちゃう安易な精神的傾向からも容易に導き出せる人類の発展の可能性の絵のひとつなのかもしれない‥人は食欲や病気への不安、また性欲という問題‥この性欲というのが最大の鍵なのだろうけど‥に煩わされることがなくなって、人類の歴史上もっとも文明的な人間が誕生することになるのかなって、ちょっと空想する。‥魂だけの、物理的な身体の備わってない人間の形。‥でもこれを考えてくと、果して人間の身体がない人間を、人間といえちゃうのかなっていう定義的な問題がおのずと起ってくることは必至に思えるし、またそしてこれはすごくむずかしいのだけど、私は生理的な欲求を免れた精神がいったいどんなことを考えだすのかっていった部分が、なんだかよく考えられない。というのも、たとえばもし人類に不老不死が実現したならどんななるかなって問題があるとして、もう死ぬことも老いることもない不死の人がどんな生涯を送るのかって想定してみると、彼は死ぬことがないゆえに性を必要とせず‥性とは自身に代る存在を用意する欲求でもあろうから‥性を必要としないために他者を必要とせず‥異性愛にしろ同性愛にしろ、他者を求める心理の起点には性がある‥そして他者を必要としないがために、愛も、ない。‥と考えてくと、私には魂だけの存在に人間がなれたとき、その人間は何かを愛するといったことができなくなっちゃうのじゃないかなって、気がするかな。‥愛と性と死は、するとその意味では、生命の大いなる複雑な機構の言葉による象徴的な解釈であったともいえるのかもしれない。なぜなら私たちは死者に対してさえ愛をもつ。それは死者が他者であり、他者であるために愛しえた存在であるって可能性を信じるがためであり、そして私もまた死により全人類の他者となって、彼らに愛されることを無意識に信じるに違わない心理のためであろうから。」
「愛と性と死が人間が生まれ消えて行く過程の端的なシンボルとして機能しているか知れない、か。ま、たしかにその三つのうちのいずれかが欠けても、もう人は人ではなくなってしまう気がするかしらね。そしてそう考えるならば、アルもまた魂だけの状態で長くこの地上に留まっていたら、いつしか人間らしさを欠落させてしまうのでないかという不安も生じてくることになるかしら。それにアルの問題というのは、ま、これはいいにくいことなのでしょうけど、アルのような年齢の際に生理的欲求から乖離されてしまったなら、その人格とはいったいどういったふうになってしまうのかといったことが、まず何よりも懸念されてしまうのでしょうね。なぜならアルのような年代においてこそ、性というものが友愛に変化しうるものであるということ、それら二つが本質的に同じものであることを、身近に身体的に知る機会に何より恵まれるからなのでしょう。ま、願わくは、アルには一刻も早く肉体をとり戻してもらいたいかしらね。精神だけの存在というのは、なぜなら、奇怪でしかありえないとは、悲しくもいえてしまうことではあるのでしょうから。はてさて、ね。」
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東方儚月抄 Cage in Lunatic Runagate. 第六話「愚者の封書」
2009/06/28/Sun
「お話の構成という面に関していうなら本作はすでに破綻しちゃってて、物語全体をまとめるべき最終一話だけじゃその評価が覆るなんてことはまずないかなってことは確定的に明らかだったから、このさいごのエピソードを見終えたあとも私のなかではとくにどうという気持も動かなかった。‥ただ、でも何かな、本作はひとつのアニメ作品としてみるならその評価がきびしいものになっちゃうのはどうしても否定できない脚本の構成だったっていわざるをえないし、また私もそう思うのだけど、でも何かそれだけで本作を済ませえない少し引っかかる部分があって、それは何かなっていうなら、主人公である裕理、その人のわからなさだった。そして彼のわからなさ、つまり主体性のなさと物語に積極的に参与しない、その場の雰囲気に与するだけが彼の性格のように思えちゃうくらいの、個性の薄さともいいかねる、彼の人間性のあいまいさというのは、以前どこかで私は覚えがあったようにも感じられて、それはなんだろうって考えてみると、「乃木坂春香」の綾瀬さんもまた、この作品の裕理のように私にはラストまで人となりがよくつかめなかった人だったって、思いだした(→
乃木坂春香の秘密 第8話「…おに~さん☆」)。‥この彼ら二人のキャラクターにあらわれてる、その場の状況に流されつづけ‥周囲に自分に好意をもった子が何人かいて、そしてその子たちから好意を受けることを積極的に肯定もしなければ否定もしない‥そしてその状況に自分自身の意見というのがきわめて希薄な‥ましろはアメリになぜ裕理に好きって伝えなかったのか、自分の意志を自分自身で表現しなきゃ何もはじまらないじゃないかって叱咤したけど、でもそれをいう裕理その人こそは、けっきょくさいごのさいごに至るまで自分自身の気持をだれにも示そうって意志の片鱗さえみせない、ある意味アメリ以上に積極的でなかった人であることは疑えない事実なのじゃないかな。ううん、もしかしたら少なくとも裕理が好きって気持だけはもってたアメリに対して、裕理はましろを好きとは一度もはっきりとは言明してない。もちろんこの最終回の内容で結婚を決意してはいるけれど、それといったってアメリに促されてのことだったから、もしアメリが裕理に働けかけなかったなら、彼は何もしなかったかもしれなかったとは、予想できちゃうことじゃないかな‥パーソナリティというものは、いったい何を意味してるのかな。というのも、私には裕理や綾瀬さんといった人の型は、ラノベなどでもたぶんよく見受けられるだろうオタク文化のある共通のスタンダートなような気がする。その原因はいったい何に求められるのだろう。ちょっと、これは興味ふかい課題かも。」
「ひとりの男性が多数の女性に迫られる、ま、いわゆるハーレムものの主人公やアダルトゲームの主役といったものは、視聴者や読者が感情移入しやすいように没個性的に造形されているといわれるけれど、はてさて、それは果して真実なのかどうか疑問に思うかしらね。というのも、幾多の文学作品を紐解いてみればすぐ明瞭になることでしょうけど、世に多くの人の感傷を誘い高く評価されてきた作品の登場人物たちというものは、一概に没個性的なわけではないのよね。それはドラマといったものは人間がその人個人としてかけがえのない人生というたったひとつの道程を歩むために生まれてくるものでこそあれ、決してどこにでもあり、だれでもいいような個性のもとに、真実人間の内奥をうかがうことを可能にするような出会いや出来事といったものは、まず生じるものではないからなのでしょう。そしてその証拠に、裕理や裕人といったキャラはみずから何ものをもつかもうとしないために、作品世界の状況は彼らにことごとく都合のいいように作為される。それは彼らが何も望まないし、そして、ま、何も愛さないからなのでしょうね。いってみれば、つまらない話よ、これは。」
「けっこうお姉ちゃんの言い方は手きびしい。でも的を射てるかなって思えちゃうのは彼らが「何も愛さない」と指摘された部分であって、たぶん、うん、彼らに「好き」って感情がないとはいわないけど、でもそれらは詰まるところ彼らをして何か世界の困難や不条理に自身の愛の実現を嘆き恨むほどの絶望を感じさせ、そしてもしかしたらそういった苦難を踏破せしめるほどの力を与えうる要素ではないのじゃないかなって、そんなこと私は思う。‥もちろん愛というのがだれにあってもそんなふうに激情めいた威力を発揮するものではないかなとは思うけど、でも何かな、もし裕理がほんとにましろのことを愛して、そしてその愛のために魂を揺さぶられていたとしたら、彼はアメリに助言を得る前に、応龍に激励される前に、ましろを抱きしめてやれたのでないかって、私は思っちゃう。‥逆にいうなら、裕理からましろを愛するっていう必死な覚悟といったものがうかがわれないからこそ、彼が永遠にましろをまつなんて決意を語っても、それは言葉が表面を滑るだけであってどことなく滑稽にも感じられちゃうのであり‥愛の言葉は、一見は滑稽なものだものね。でもそれを語るべき真剣さがある場合なら、どれだけ恥ずかしい台詞でも、素敵な魅力は生まれるものじゃないかなって、何か口にすると赤面しちゃうようなことを、私は思ってる‥作品は全体として違和感をしか余韻として残さないのじゃないかなって、私は考えるかな。‥もしほんとに裕理がましろをもっと愛そうとこれまで描写してたなら、さいごましろが死んじゃうことで絶望に打ちひしがれちゃうのもわかるし、それに対してお前もっとしっかりしろー!ってかけがえのない愛のために彼を励ます展開も、ドラマとしては成立する。でもそれが不可能に思えちゃってしかたないのは、たぶん、裕理がだれもほんとは愛したくなかったからでないかな。絶望のようなことだけど、それが私には彼の彼にも無自覚な本心だった気がする。そこまで考えちゃうと、この物語は果てしなく残酷で、やになるかなだけど、ね。‥やになっちゃった。私は。プラトンパンチをくらへー。」
「ましろが現れなければ良かったと、もしかしたら心の底でだれよりも思っていたのは、ましろを愛していた裕理でこそあるかもしれない、か。ま、そこまで行くとちょっと悪い方向に考えすぎという気もしないでないけれど、しかしそんな想念がふと頭をよぎってしまうのは、裕理が徹頭徹尾、ただその場の状況と雰囲気に流されていただけの存在のように見受けられてしまうからなのでしょうね。もちろんそうとはいっても、流されて生きることがかならずしも悪いことでは決してないでしょう。人生とは、ただやみくもに意志をもって切り開けば事態が好転するというものでもないし、ときに流されざるをえない場面といったものは存在している。だが、さて、愛とはまさにそういった運命を甘受し、そして単なる不条理をみずからとみずからを含めた世界全体の全き肯定を可能にするものではないかしら? 裕理とましろの関係は、だから何か物寂しいものが残るように感じられてしかたないのでしょうね。いろいろ心残りのする作品だったかしら。残念ね。」
『愛もまた運命ではないか。運命が必然として自己の力を現すとき、愛も必然に縛られなければならぬ。かような運命から解放されるためには愛は希望と結び附かなければならない。』
三木清「人生論ノート」
2009/06/27/Sat
「今月から雑誌が移って純真ミラクルが月刊で読めることになってたのをすっかり忘れちゃってて、思わず読みそびれるとこだったけど、でも無事に購入できて一安心。それでツアーも終って今回から新展開になるのかなって部分で楽しみにしてた今回のお話なのだけど、展開の成行は期待以上に高水準で、これから先の物語の移り変わりがますます楽しみになってくる完成度だったと思う。うん、今回のお話はよろしかな。それというのもまず注目すべきかなって感じられるのは、今回のエピソードであらためて焦点が当てられたモクソンという人のふしぎな温かさのある人となりについてであって‥これは雑誌が変更したためって理由も少なからず関係してるのかも。本作は、モクソンに限らないけど、平凡でどこにでもいそうな一般の社会人を登場人物の属性に起用してるけど、でも彼らは実際に本作を読み進めてくと、奇妙なくらいに心理が読めない、一種困惑を覚えちゃうほどのキャラそれぞれ独特のパーソナリティを備えてることに気づかされるのであり、純真ミラクルのキャラのわかり難さというのは、そのまま現実世界における人間関係のむずかしさに照応してるっていうことも、たぶん可能なのじゃないかなって思うかな。そしてそんなドラマの中心に位置する主人公であるモクソンが、なぜこの複雑な関係性と思惑と、そして目にはっきりとは映らない社会っていう打算の機構の只中において、注目されるべき存在でありうるのか。それに対する答えの一端が、たぶん今回のお話には含まれてるのだと思う‥モクソンのおもしろさ、その魅力が十二分に本エピソードにはあらわれてたかなって気がするかな。‥モクソンのふしぎな存在感。それはいったいなんなのかな。かっこつけの所長さんが彼女をいじめることに生きがいを見出しちゃうくらい、モクソンには見過せない何かがある。それを探求することこそが、もしかしたら本作の主題の大きな核心を担ってるものでさえあるかもしれない。」
「モクソンの他人にはない不可思議な美点とは何かという問題かしらね。ま、モクソンは音楽については一種の天才で、世間的な好評を克ちうるほどの存在であるという設定はあるのだけれど、しかしそういったモクソンの才能面という長所だけが、彼女の魅力を担っているのでは決してない。それはある分野の天才が天才であるという理由だけで人から好かれないのと同様でしょうね。だからモクソンがこの作品でだれからもとくに嫌われることなく、それどころか事務所の中という限定はたとえあっても、よくされそして同僚でありライバルであるオクソンからもある尊敬を受けている理由とは、果してなんであるのか。ま、それを考えることは本作の複雑な人間関係の将来における変化を予想するためにも、是非必要なことではあるのでしょうね。なぜならモクソンが他者に与える影響というものは、そう少なくないものであるはずでしょうから。」
「モクソンのもつ最大の長所とはいったいなんであるのかなって考えたとき、もしかしたらモクソンのいちばんの武器は実は類稀な音楽センスでも容姿のちょっと個性的な魅力でもなくて、彼女自身の生来的でありそしておそらく環境によって奇跡的に陶冶されたその人柄でこそあるのかもしれない。‥これはたぶんほかのあらゆる場合の人間関係についても敷衍できちゃうことなのかもしれないけど、人が他者と付きあううえでもっとも重要視され、要求される要素といったものはなんなのかなって問うた場合、その答えは知識や知力や世間一般に価値のあるとされてる個人的な能力とかではほんとはなくて、人間性っていう獲得することが容易でない、でも個人がひとりの人間としてだれかに相対するとき、まず真っ先に勘案されるだろう一種言葉にしにくい人柄といった力であるってすることが可能なのかも。というのも、技術というのは理論化することがある意味不可能じゃなくてそしてその意味ではだれもが身につけることがむずかしくないのかもだけど、でも人柄っていう、なんていうのかな、その人の生き方の直接的な反映ともいうべき、その人が発する人間性とモラルの結実としての雰囲気は、だれもがそう模倣できることではおそらくぜったいにない。だって、自身の性格というのは、自身にさえどうしようもないものだって思いこみが、まず先入観に免れなくあるものね。‥でも実際これは世間を眺めてたら合点が行くことかしれないけど、個人がとあるだれかと親しくなりたいな、これから先も知りあい同士でいたいなって思うとき、人をそう思わせる決定的な要因は、知識でも能力でも権力でもなく、まちがいなくそのだれかの人柄に惹かれたっていう、その一点の理由でしかないのじゃないかな。‥そしてそこまで考えたとき、人柄ってなんなのかなって問題に私たちは至りつく。人間性って、なんなのだろ。なぜ私たちはある人を好ましく思い、ある人をきらいに思っちゃうのかな。そう思わせられちゃう人の生き方のスタンスとは、どこでどう決定されるものなのだろう。‥たぶん、この問題は、すごくすごくむずかしい。だからがんばって考えなきゃ、いけないね。なぜならこの問いにこそ、人が生きることの核心的な意味性が、含意されてるにちがいないのであろうから。」
「やさしさ、謙虚さ、寛容さ、等々、いろいろな言葉で人の性格をあらわすことは可能でしょうけど、しかしある個人の性格を丸ごと正確に完璧に表現することは、おそらく言葉では不可能なのでしょう。そしてそれだからこそ性格を磨くということも、変な啓蒙書みたいなのは巷に溢れてはいるのでしょうけど、本質的な次元にまで食いこんだものは、はてさて、そう多いはずがないのでしょうね。であるから私たちは、性格というものは自分にとって変えようがなく、また性格のいい人間に出会ったときその個人を驚嘆し感嘆し、あるいはときに妬みさえ抱いてしまうのでしょう。なぜなら良き人柄に遭遇し、その良さを簡単に技術的に模倣することが可能ならば、この世に悪い性格の人なんていないでしょうからね。ま、こういった問題は単純なようでいて果てしなくむずかしいものなのでしょうね。なぜ私たちは、モクソンのように、衒いなく他者を慮ることがなかなかできないのかしら? ‥分らないことよね、まったくに。はてさて、よ。」
2009/06/26/Fri
「全編にわたってしっとりとした哀調が感じられて、今回の内容はこれまで見てきた「けいおん!」のなかでもとくにその総まとめとなるべき本作の魅力が十分に凝結され、またこの作品の世界観を広げるという意味でも、よく練られた実に満足すべき完成度になってたのじゃないかなって思うかな。というのも今回のこの番外編のエピソードは、この作品のそもそものもち味でありそして何よりも高く維持されてきた繊細な画を形成する能力が、ドラマの主題である軽音部の面々の揺れ動きやすい心理の微妙な働きをあらわすのにまったく適合されてたと感じられるからであって、絵と物語性の二つの面が今回のお話ほど相互に高めあいながら発展して結実してたことはなかったのじゃないかなって感じられるから。‥たとえば、そだな、このお話の何がいちばんよかったのかなっていえば、そのひとつに私は今までこの作品が頑なに軽音部っていう閉じた空間のなかの彼女たちだけを描くことに固執してたのに反して‥二回目の合宿のエピソードとかは、閉じた関係性のなかで閉じた人間関係をその閉じたなかにいる人物が語るという構図のものであって、これは見ようによればけっこう受け容れられない人もいたのでないかなって気がするかな。なぜならすでに私たちは唯たちそれぞれの個性と魅力と、そして好意に思うべき彼女たち各々の人間性といったのを理解してたにちがいないのだけど、その今さらくり返すべきでないだろう唯たちの素敵さの紹介を、梓の口を借りてまたくだくだしく述べちゃってるのだから、あのエピソードにこの作品全体的な重要性があったのかなっていえば、私はそれはなかったのじゃないかなって答えざるをえないから‥軽音部っていう閉鎖的な世界の外にいる彼女たちをこそこの番外編は描いており、それはよく見知った登場人物たちの新たな相貌をあらわすと同時に、本作の魅力をいや増すのじゃないかなって、私にはそう感じられたことを挙げると思う。‥軽音部をテーマにした作品で、でも軽音部以外の自分の居場所を見出す彼女たちを描くということ。このことはなかなか原作ではやりづらい、まさに番外編を冠することのできるアニメならではのエピソードだったのじゃないかな。けっこう、その意味で感心しちゃった。」
「バイトに励む紬に、慣れない恋によって動揺した心理に苦しむ律、創作に従事する澪に、ペットを預かるというちょっとした厄介ごとに苦しむ梓、か。ま、それぞれのキャラクターらしい日常の一場面が今回は見事に描かれたと評価して良いのでしょう。もちろんここではなぜ唯がとくにいつもと変わらずに描写されているのかという疑問も生じるかもしれないけれど、唯に関してはすでにクリスマスのエピソードや最終回などでその掘り下げはよく為されていたとも考えられるし、それにそうね、今回の話でいちばん印象的な軽音部の唯を除いた全員が最終的になんらかの形で唯の魅力に引きつけられるという箇所は、唯のけっこう不思議な性格をこそ意味しているというべきであり、唯の扱いについては喝采をこそすれ、文句をいうべき部分は何等ないというべきでしょう。彼女は、なんていうのかしらね、単純なのに底知れなくてなかなかおもしろい子よ。そんなに複雑に物事を考えるような人物にはまるで思えないけど、次に何を仕出かすか容易に予想できない。ま、その意味でも主人公にふさわしいキャラといえばそうはいえるのでしょうね。なかなか深みのある人間とはいえるかしら。」
「人は常に他者の目を気にして生きてるようなもので、それはなぜなら他者が決定的な段階においては何を考えて何を自分に対して思ってるのか、それがまずぜったいに自分は理解できないっていう、自己と他者、その断絶を人は無意識に考えちゃうものだからって思われるけど、でもそういった人の目線が気になる過敏な日常生活において、まったく自然そのまま、本来の自己のありように従って生きてるように感じられる唯は、要らない気遣いに苦しめられる現代人にとって、ひとつの驚異として映るかもしれないから、唯という存在は本作にあってもとくべつな場所を占めてるのかもしれないね。‥この唯ってふしぎな存在は、だから唯と出会った軽音部のそれぞれにもたぶん意識されてることにほかならなくて、というのもそれはみんなが軽音部と関係ない自己の問題にかかずらってるとき、ふとした唯のぜんぜん何かを衒わない純真さにふれて気分を一新させてるって場面からも察知できることでああり‥とくに紬と梓は印象的。紬のように仕事でちょっとミスしちゃうとかは日常的によくあることにちがいないし、その場のショックで焦って冷静にふるまえない際に、だれかの陽気な言葉で理性的になることを可能にする穏やかさを発見するという梓みたいな事態も、そうないわけじゃないのじゃないかな‥唯という人物の描かれ方としては、それゆえ今回のお話は彼女が軽音部って彼女自身がえらんだ空間でどんな位置にいてどんな役割を果してるか、それが端的に示されたまとめとして受けとっていいのだと思う。‥あとは、そだな、本作の締めくくりとして今回のお話を見たときに、みんながみんな、軽音部以外の世界をもってて、そしてそれぞれべつな方向に将来的に歩みだす、そんな彼女たちのこの先っていう未来のヴィジョンが想起される構成だったことが、何よりこのエピソードのよかった点なのだって、私はそう考えるかな。‥彼女たちはこれからたぶんべつべつに生きてく。でもそれでもふとしたときに、たとえば唯のへんなメールを受信したときみたいに、かつてあった、そしてもしかしたら今も可能かもしれない関係性を想起する、そんな瞬間があるかもしれない。それはいえば本作のかもす郷愁感の、ある決定的な終りのメッセージであったのであり、「私とあなたはちがう人間だ。でも、私たちは友だちはなれる。」‥そんな意味あいが、このエピソードからは私にはうかがわれたかな。べつな言葉でいえば、つまりそれは友情というものが人生に与る役割の、本来的な希望という可能性に相違ならなかった。‥おもしろい作品で、よかった。楽しませてくれて、けいおん、ありがと。そして、さよなら。」
「私とあなたは異なる人間同士である、か。ま、いってみれば当り前の事実に過ぎないのでしょうけど、しかしどんな仲の良い楽しい関係性といっても、それが無限につづく道理もなく、いつかは終りが来てしまうものなのだということは、その閉じた関係性の内にいるときは忘れがちであるものでしょう。しかしいずれはまちがいなく別れがあり、そしてその別れのあとには新たな出会いがある。ただもしかしたらその出会いはかつての出会いがもたらしてくれた楽しみほどには魅力的なものではなく、ためにただ現在を憂い過去の愉快をなつかしむだけの、そんな事態に陥ってしまうかも人の人生の成行は分らない。そしてそんなことになってしまった人は、ただむかしの、あの部活をしていたあいだは楽しかった、あれが己の人生のもっとも恵まれていた時期だったと、そんなふうにしか思い出を扱うことしか、もしかしたらできなくなってしまうかもしれない。‥しかし、何かしらね、それでも人は現在を生きるほかなく、そして現在を生きるなら未来を恃むほかない存在だとはいえるのでしょう。それだから本作がさいごのさいごで未来に対する切なさを思わせるエピソードを用意してくれたことは、ありがたいことであったのかもしれないかしらね。ま、なかなか楽しかった作品よ。十分に堪能させてもらって、これで終りという実感が希薄かしらね。いい作品だったことを、ただ今は感謝しましょうか。これでさいごとは名残惜しいことね、本当に。」
2009/06/25/Thu
「儚月抄の感想にかこつけてだいたい二年くらいになるのかな、東方について考えてたこと思ったことを散々吐き出すことができてきたのだけど、さいきんはあんまりいろいろなことをいってきたためか東方については以前よりそれほど考えなくなってきちゃってる自分がいる。それというのももともと私は松倉版の三月精で東方の存在を知って、あのとても儚い線と筆致によって紡がれる幻想郷のユーモラスな物語と、そしておまけについてるZUNさんの何をいってるのか正直よくわからない雑文のふしぎな魅力とによって東方の本家STGにも手を出したっていう、たぶん東方ファンのなかでもそんなに多くないかなって思われる部類の人だから、漫画作品としての東方は私にとっての東方の自然な形態のひとつとして捉えることが可能だったのだけど、でもこの儚月抄はいろいろ途中あったものね、率直な評価がむずかしい一作にはちがいないかなって世の意見に同意して私も思うから。‥でもそれでも、漫画版の最終話にふれたときから私の本作に対する印象は肯定的なものに変わって、今ではもう、総じてみると儚月抄を私は十分楽しめてよかったかなって感じてる。これはほんと、楽しいまんがだったって、そう思う。‥そして問題は今回の小説版になるのだけど、これはまた正直にいっちゃうと、小説のほうの儚月抄は妹紅のエピソードにいたく感心させられたのをさいごに、それほど興味を引かれる内容では個人的にはなくなってきちゃって、この最終回もそんなに本音は期待してはなかったのだけど、でも一読して気持は一転、これは上手にまとめたって思わず手を叩いちゃった。というのも今回のお話にはいくつか重要な点があるのはまちがいないけど、そのなかで何よりこの話で肝心に思われるのはずばり霊夢と輝夜、そして紫と永琳のこの両者それぞれの会話シーンに求められるにちがいなくて、この二つの対話がつまり儚月抄のテーマ性の完全なアンサーとして機能してるって、私はそう考える。なぜなら私はこの答えに接したとき、この作品が何がしたかったのか、何が果していいたかったのかなってことがすんなり了解できて、そのまとめ方の見事さにはさすがかなって言葉をこぼさずにはられなかったから。‥お見事。こうもきれいにまとめられるだなんて思ってなかった。侮りがたし儚月抄、かな。おどろいた。」
「紫はかつて小説版で、藍になぜ勝ち目のない月面戦争を行うのかと問われたとき、永遠亭は人間でも妖怪でもないのに地上の民として暮している。しかし彼女たちが妖怪側に与さない限りは人間の位置にいるにちがいなく、ならば彼女たちからは住民税のようなものをもらう必要があると、たしかそんな旨のことを述べていたのだったかしらね。そして、今回のエピソードではその紫が永琳たちから徴収しようとした税とは何か、つまり地上で生きるために彼女たちが払わねばならない代償とは何かといったことの解答が呈示されているのよね。本作の秀逸な点とは、この解答があまりに見事なものだったという部分に求められるにちがいないでしょう。はてさて、まさか紫がそういうことを画策していたとは、さすがに予想だにできなかったかしら。これはまさに一本とられたというところよ。なんてセンスのある妖怪かしら。」
「紫が永琳に課そうとしたものは‥これはすごいネタばれになっちゃうけど、でもこのブログの感想は一貫してネタばれとか意に介さないでしてきたから、このエントリもそれに則って行うことを、ここで断っておく。ほんとはこのおもしろさは実際にわが目で読んではじめてなるほどって思える類のものかなって気がするけど、でもその核心を突かないと忌憚ない私の感想にはならないものね。そこは、ご容赦を‥地上に生きる者ならだれの身であろうつきまとうだろう、不安、だった。‥これはすごい。この発想はとてもすごい。つまり、いいかな、比肩しうるだろう存在のまるでない巨大な力と威光をもった神であり、そして世界の謎をすべて解き明かすことの可能な優れた頭脳のもち主でもあり、また命尽きることのない永遠の時間を思うがままにできる不老不死の存在である永琳こそは、月の理想とする穢れのない高尚な生命のまさに見本でこそあって、その能力のすばらしさは彼女に対して世の何ものをも恐れる必要を見出さない自負心をこそ保証するものにちがいなかった。そしてそのこと自体はだれも疑うこともない当り前の事実であって、無敵で天才の永琳が道に迷うことなどだれも思わないし、彼女は信頼されまた頼られこそすれ、だれかの手によって守られるべき存在でないことは、だれもが、あの綿月姉妹でさえ、疑問に思うはずもない道理であった。‥でも、それはほんとにそうなのかな? 永琳はたしかにすごくつよいし頭もいいけど、でもそれだけでほんとに生きることが楽になるのかな? ‥答えはちがう。紫はそのことをよく知ってた。生きることは不安そのものだ。未来が何ものにもわからないからこそ、生は未知であり、汚れであり、また幸いでこそあるのだ。‥その確固たる信念に裏打ちされたとき、地上の生活の、ううん、生きることそのものの本質というべき、不安を忘れた神に不安を想起させ、そして真の意味で地上の民とすることを、地上の賢者たる紫は画策したのだった。‥なんてすばらしい答えだろう。これは賢者だ。さすがにそのとおり、生きることは不安を伴う心だ。すばらしい。この作品の結末に、私は賛嘆の辞を惜しまない。お見事! すばらしかった。」
「生きることは不安である、か。ならば生も死もなくなった月の民こそは、表面上は汚れもない高尚な存在ではあるにちがいないのでしょうけど、実は生きることと死ぬこと、その本来生命には当り前であった真理をいつしか忘却してしまい、ただ空っぽの心を抱えて悠久の時を過しているだけなのか知れないかしらね。それは緋想天で天子が天界を離れたがっていた理由でもあったのでしょうし、もしかしたら、はてさて、ここに来て、儚月抄は東方全体のある重要なメッセージを担うことになったともいいうるのかしらね。それはすなわち、輝夜と霊夢の対話にこそすべてが象徴されている。‥この問答は決定的かしらね。これだから東方はおもしろいのよ。たまらないことね。」
『「月の都って、思ったより原始的ね。建物の構造とか着ている物とかさぁ」
輝夜は笑った。
「そう思うでしょう? だから地上の人間はいつまでも下賤なのよ」
「どういうこと?」
「気温は一定で腐ることのない木の家に住み、自然に恵まれ、一定の仕事をして静かに将棋をさす……、遠い未来、もし人間の技術が進歩したらそういう生活を望むんじゃなくて?」
霊夢はお酒を呑む。
「もっと豪華で派手な暮らしを望むと思う」
「その考えは人間が死ぬうちだけね。これから寿命は確実に伸びるわ。その時はどう考えるのでしょう?」
「寿命を減らす技術が発達するんじゃない? 心が腐っても生き続ける事の無いように」』
ZUN「東方儚月抄 Cage in Lunatic Runagate.」
2009/06/24/Wed
「さいきん人気のある一冊という評判に引かれて読んでみたのだけど、たしかに風のうわさに違わず本作は十分におもしろくて、そして独特の内容のふかさをしずかに読む者の心に問いかけるふしぎな魅力というのが私自身感じられ、これはなかなか感心すべき作品なのじゃないかなって思われた。‥物語のあらすじは、不幸なことがつづいててあんまりさいきん元気のない女子高生の夢が、とある機縁により、宇宙の星々を破壊して回ってるっていう少女、大魔王のモモに出会うというもので、物語はこの二人の心の交流を軸に展開する。というのもモモは地球を破壊しようってもくろみがあるのだけど、ただ生命体がいる惑星の場合、彼女を満足さすことができたならその星は滅亡を免れて救われるっていう決りがあるからで、ふとした偶然からモモと知りあうことになっちゃった夢は人類全体を代表してモモの望みを叶えてあげる立場におかされちゃったのだよね。そしてそういった設定があるからこそ、人たちの敵対者として通常はあるだろう魔王って役割のモモに対して、夢は悪意や憎悪や義憤をもってこれに対処するわけには行かなくて、彼女にはモモが何を考えてるのか何を欲してるのかを明敏に察知してこれを彼女を労るようにして満たさねばならないっていう、ある意味、人と他者とがどのように接して親しさを増してくのか、そんなコミュニケーションにおける思いやりといった根源的なテーマを、本作は上手に物語の導入に設定の説得力を伴って描くことに成功してる。‥人が他者を喜ばせるということは、やさしく接してあげられるということは、いったい何をどうすることを意味するのかな? そんなある場合には恐怖と未知の象徴でもあるだろう自分以外の人間‥つまり他者という扉を通じてあらわれる、私を除いた世界の総体‥と付きあって行かなきゃいけないことの大切さとはどこに求められうるのだろうっていう単純で、そしてこの社会に生きるだれもが胸中に潜ませてるだろう疑問をこそ、この作品は問題としてる。だからこの作品は思った以上に多くの人の心に訴える力を秘めてるのでないかなって、そう私には思われたかな。」
「他者と接することのむずかしさ、かしらね。本作ではモモは幼い少女という形において描かれており、だからモモが本心では何を望んでいるのかという疑問は、現実の子どもや、そして大人以上でもまったくそうであるように、他人の本心といったものは人にはそう分ることのできるものではありえない。そしてそういった理由があればこそ、夢はモモが何を臨んでいるのかということを絶えず考えながら、彼女を喜ばせるために満身の努力を払うことになるわけね。これはなかなかどうして、人が人と交流をすることのまず基本的な課題であり、そして究極的な意味性をも包含する主題というべきなのでしょうね。なぜなら他者との交流というのは畢竟その他者を如何に傷つけないか、そして自分が如何に傷つけられないか、そしてそういった痛みという不安を乗り越え、如何に情を交すかということにこそ、その本意が求められるからなのでしょう。さらに言葉を足すならば、これは人が人を愛するという行為の問題の、積極的な問いかけでもあるのでしょうね。いやまったく、だから本作は非常に興味深いドラマ性と意味性をその内容に含んでいるというしかないかしら。こういった少女漫画が、恋愛というタームにおいてでなく、基本的な人同士の交流という問題において語られているのだから、やはり漫画というのは多様な可能性をもったものというべきなのでしょうね。本当、おもしろい作品よ。」
「やさしさ、というのはむずかしい問題だよね。人にやさしくするっていうことはいったいどういうことなのかなって疑問は、私のなかにももちろん抜きがたくある疑問であり、それが容易に解決されないで悩みの種となるって事実は、要するに私がやさしさとはなんなのかっていうことをよく理解してないからにちがいないからって、そう思う。というのもつまりやさしさとはなんなのかって問いかけ自体に、それじゃお前はやさしいのか、もしお前がやさしいのだとすれば、お前はだれに対してやさしかったのか? ‥そんな問いを暗黙に秘めてるからにたぶんちがいないのだろうって、私は気がするからかな。‥たとえば人にやさしくできない、あるいはやさしくしようとしてもけっきょく結果として相手を傷つけちゃう、そんな場合が人生には往々あるものだけれど、そのときどうして自分はやさしくその人にありたいって願ってたのに、事実はそれに反して相手を泣かせちゃったりしたのかなって考えてみると、それは私がその人のことを誤解してたからって答えが可能になるかもしれない。つまり相手が何考えてるかわからないから、相手の望んでることがわからないから、私はそれに対して躊躇してしまい、その必然の成行として相手の気持を踏みにじっちゃう。‥うん、そういうことはありそう。でも、ここまで考えたときべつの問題が思い浮ぶ。それはすなわち、もしそうというならお前は相手の心が読めたなら、相手の心を労れたのか? ‥そんな疑問が浮んでくる。人の心を読むことと、人の心を理解し労れる能力は、まったく同じものなのか? ‥もちろん、そうでない。私は首をふる。相手の心がわかったとて、相手にやさしくできるとは、限らない。そしてそれに、やさしさというのは相手をただ理解すれば可能というものでもないように、私には気がしてくる。なら、それじゃ、やさしさってなんだろう? ‥私はそんな問題をずっと考えてる。他人にやさしくするって、どうすればいいのだろうって、そんな疑問に単純に囚われてる。‥この問題は解けるのかな。今の私には、わからない。」
「相手をただ理解することが、すなわち相手を思いやったことには、そう単純にイコールにはならないということかしらね。ま、考えてみれば当り前のこと過ぎるのでしょうけど、しかしやさしさとは本質的にはどういったことを意味するのかという問題は、なかなかどうも難解なものにはまずちがいないのでしょう。というのも、そうね、この「やさしさとは何か?」といった問題は、その問いの発端からしてどうもきな臭いというか、ずばり何か罪のある問いかけのように思われてしかたないからなのでしょう。なぜなら「やさしさとは?」と問うとき、その問いをする時点で何かある罪を犯してしまっているように感じられる。おそらくそのように思われる理由は、やさしさを問う者自体が自身がやさしいかどうかを棚上げしてしまっているように察せられるからであり、またやさしい人間はそういった問いかけをまずしないように予想されるからかしらね。ま、しかしそうね、「罪」というのは重要なキーワードでしょうね。もしかしたらやさしさとは、罪と深い関係にあるのかもしれない。それはドストエフスキーの「罪と罰」でソーニャがラスコーリニコフの罪を許したように、そしてこの作品でモモが星を破壊するという罪を背負っているという描写に、さては暗示されていることかもしれないかしらね。ま、はてさて、よ。むずかしい問題では、あるのでしょう。本当にね。」
『愛情は想像力によって量られる。』
三木清「人生論ノート」
酒井まゆ「MOMO」1巻
2009/06/23/Tue
「昭和三十五年から三十六年にかけて執筆された「眠れる美女」は、病的な文学的資質をもつ川端康成のその極致ともいうべき内容と、精緻に精緻を重ねる細やかな言葉による機械的な装飾ともいうべき文章と、そして何よりその常人なら発狂せんばかりの題材をあまりに冷徹な目と心とによって観察し尽した文学者としての川端の恐ろしいまでの冴えがあらわれた代表すべき一作だって、私は思う。‥本作はデカダンス文学‥退廃的、厭世的な世界観を基調とする作品の類を指す‥のその完全な達成ともいうべき、ひとつの可能な限りの小説的技法が用いられた真に読み応えのある一冊じゃないかなって私は感じるのだけど、その理由としては川端の事実をありのままにまるで理科の実験のレポートを書くかのように場面を記述する、その圧巻ともいうべき描写力が全編にわたって展開されてるからで、本作を紐解く人はだれあろうと川端の筆致の怒涛ともいうべき緻密さに圧倒されることじゃないかな。そしてさらには本作はそういった形式的、技法的な面の高さに支えられてながらも、あくまで読む者の心を揺さぶるのは川端以外には発想しえないだろう小説の舞台設定の異質さ、異常さに求められることはちがいなくて、この作品のような世界をここまで冷徹に静謐に忍耐つよく描写しつづけようと思えるのは、たぶん川端を除いてのだれにも不可能だったのじゃなかったかな。‥その意味で、やっぱり川端というのは日本的風土に生まれた実に日本的人間でありながら、そのままユニヴァーサルに通じる異常性を常に湛えつづけた、怪人でこそあったのだろうなって、私は思う。川端の恐ろしさというのは、なかなか口にしがたいくらいかな。だって、ちょっと人間ぽくないものね、川端って。」
「川端は人間をどこか超越しているか、あるいはそれとも異常にある部分が欠落しているのでないかと思われてしまうと、はてさて、そういうことなのかしらね。ま、しかしもちろん本作の内容を踏まえれば、川端の着眼点というのはおよそやせ細った知識人や、泰然として大家を装っている凡人に比較するなら、まったくどうしようもないくらいの魔性というべき要素が含まれていたことはたしかな事実であるのでしょう。というのも本作「眠れる美女」という小説が何を描いたものなのかといえば、これはとある宿に通うひとりの老人の姿を描写したものであり、なんのために彼らが宿に向うのかといえば、これはさて女を買うためなのよね。しかし売春とはいっても、買い手はもはや男としての機能を果せない老人らばかりであり、ただ一晩薬によって眠らされた少女の横でその肢体を眺めながら眠りにつくだけが、彼らには許されている。眠らされた少女たちは何をどうしようと目を覚ますことはなく、ただ老人たちは枯れ果てた性欲を伴いながら、若々しい少女の傍らにいることを最上の、老境の果ての悦びとしている。ま、こんな内容かしらね。そのすごさといったものは、どうにも説明しにくいものかしら。」
「もう性交を実際にすることのできない老人が、ただ少女のとなりにあるためだけに売春宿に赴くって発想が、とにかくすごいよね。‥老いの悲哀とはもちろんかんたんにはいうことができるけど、でも私は何かな、老いというものが人間そのものを変えうるものだとはとうてい思えなくて‥それは身近な人たちに対する私なりの観察と、そして私なりの想像によって得られた意見にしかすぎないけど‥人の心というものは、ただ身体が死にゆくだけじゃ、そう死ぬものでもないのじゃないかなって気がしてる。そしてだからこそ、老いない心を抱えた老いた身体を伴って彷徨することこそが、ある老境の哀れの核心的な理由であって、つまり老いの醜さとは老いない心と老いる身体の懸隔から生じるものって、もしかしたらそんなことさえいえちゃうことなのかもしれない。‥またさらには、本作が問題としてることのひとつには、機能しなくなった男というのは果して男であるのかな?っていう問題が潜んでるにちがいなくて、この作品の主人公自体はまだ完全に男の役割が果せないってくらいには衰亡してないけど、でも近くそうなる予感は絶えずもった人物として描かれてて、そのうえこの宿に通う常の客はもはや男の用を足せない人たちであるっていう記述が、枯れた男の性欲の問題‥それは性欲といえるのか?‥が、本作のきわめて重要なテーマであることを保障してるにほかならなないって、そう私は思うかな。‥もう屹立しない男根をもてあそんで、眠る少女の若々しい匂いをかぐ。そしてそこに己の人生の幻影を見る。‥なんて、本作はだからなんて切なく狂おしく、そして病的であるのだろう。こんな小説は、なかなかない。なぜなら老いと性の問題を、こうも切実に問いかけるのは、人生に幸いなどありはしないという孤独のうちに人が死ぬだろうことを、予感せずには決して書かれないにちがいないのであろうから。」
「遠藤周作の小説にもたしか老人が少女に性的な眩惑を感じるといった作品があったけれど(→
遠藤周作「スキャンダル」)、人間において性という問題は結局死ぬまでついて離れない課題でこそあるのでしょうね。そしてそういった場合の性というものは、なんていうのかしらね、単に性交をして欲情を静められればいいとかいったような単純な問題では絶対になく、何か生きているというだけで寂しくなってしまう人の弱い心が希求するのは結局は他者なのだという、他者の温もりのほかにはないのだという、そういった真実をささやいているように、さて、感じてしまうのよね。何かこう、寒い冬の夜半に少女と寝るために宿に通う老人の姿は、世界の寂しさを究極に象徴しているようには思われないかしら? ‥ま、はてさてね。あたかも身内が冷えるような、これは小説というべきでしょう。人生とは性とは何かということを考えさせずにはおかない一冊であり、世界とは果してここまで暗い哀切なものかと考えさせられてしまうかしら。分らないものよ、本当に。」
『「一生の最後の女か。なぜ、最後の女、などと、かりそめにしても……。」と江口老人は思った。「それじゃ、自分の最初の女は、だれだったんだろうか。」老人の頭はだるいよりも、うっとりしていた。
最初の女は「母だ。」と江口老人にひらめいた。「母よりほかにないじゃないか。」まったく思いもかけない答えが浮かび出た。「母が自分の女だって?」しかも六十七歳にもなった今、二人のはだかの娘のあいだに横たわって、はじめてその真実が不意に胸の底のどこかから湧いて出た。冒瀆か憧憬か。江口老人は悪夢を払う時のように目をあいて、目ぶたをしばたたいた。しかし眠り薬はもうだいぶんまわっていて、はっきりとは目覚めにくく、鈍く頭が痛んでくるようだった。うつらうつら母のおもかげを追おうとしたが、ため息をついて、右地と左との娘のちぶさにたなごころをおいた。なめらかなのと、あぶらはだのと、老人はそのまま目をつぶった。』
川端康成「眠れる美女」
川端康成「眠れる美女」
2009/06/22/Mon
「一は全にして、全は一なりという考え方がきわめてプラトン的発想で、そして歴史的な錬金術の基本的な観念であったことは今さらいうまでもないことかなって思われるけど、このエドとアルが錬成の根本的な原理として学んだ事柄は、それ自体が自然科学のかつての普遍的な姿であったことを想起しなきゃ、全体的な理解は混乱しちゃうのじゃないかなって気が少しするかな。というのも、これは何度かいったことかなだけど、錬金術というのは科学の未発達な時代のあやふやな技術体系であるとか、現代ではぜんぜん問題にならないくらい呪術めいた意味のない技にすぎないとか速断しちゃうのは危険なのであり、というのも錬金術はその出発点にしてからが私たちの口にする科学とは発想をまったく異にしたものであったことに留意しなきゃいけないって思われるから。それはつまり十七世紀に至るまでの自然科学は精神についての研鑽の術でもあったということを見逃しちゃいけないということであって、人間が精神と物体を区分して考えるようになったのはデカルトの登場をまってからって失念しやすい史実を見落さないのなら、魂が知と不可分であり、そして知を磨くことがそのまま己自身の発展につながることは往時の術師の意識からすればきわめて自然だったことは、確認するまでもないほど自明なことにちがいなくなるのでないかな。‥術者が自然を操作することがそのまま己の精神を理解することでもあったのであり、錬金術師の作業において実際的な操作‥つまり化学実験‥と倫理的、精神的な修養‥要するに人間の内面の充実‥は一致した業であったにほかならなくて、ここにおいて私たちは錬金術師の世界観において主観と客観が混交してるという事実、つまりまったき一元論の思想を見出すことが可能になる。‥錬金術の作業とは、だから自己の精神をその実験作業において暴き出すことにもなったのであり、錬金術が客観的な知の体系を築けえなかったわけが、ここに求められるだろうことも私たちは気づくかな。それはなぜなら、錬金術とはあくまで己を実験に仮託して磨く術でしかなかったのであって、自己の精神を離れたところに知識も実験も何もなかったのにちがいないのだろうから。」
「ハガレンの世界においても錬金術が術者の主観世界と無縁でないことは、登場する錬金術師たちの能力のそれぞれ異なっていることにも明瞭に象徴されていることではあるのでしょうね。ま、もちろんとはいっても、基本的な錬金術の技術といったものは体系化されているようではあるのでしょうけど、しかし肝心要の要諦といったものは、今回エルリック兄弟が死に物狂いの修行で獲得したように、現代世界の科学のような客観的な知の体系を築いているとは、はてさて、いえないのでしょうね。そしておそらくそういったハガレンの世界においても異質な存在であろうエドとイズミという二つの存在が、ただ己の身体のみで錬金術を行使する様は意味深でもあるのであり、あの二人が手を重ねるだけで世界を変化させられるのは、主観世界が直に客観世界に作用していることを描写しているためにほかならないともいえるかしら。つまりべつな言葉でいうなら、あれが真理を見たために得られた業であるのなら、さて、ハガレン世界における真理とはまったく一と全が結びついてしまう可能性をこそ含意しているということになるのでしょう。これはなかなか、象徴的であるかしら。」
「術者の主観世界の変化‥世界をこう変えたいっていう望み‥によって客観世界‥つまり私たちの物理世界。人の思いだけで動かない、デカルトが分けて考えた機械的な無慈悲な法則の支配する場‥が自由に弄られ、個人の想念が思いのままに具体化するエドとイズミの錬金術師としての姿こそは、マクロコスモスとミクロコスモスの完全な一致、その究極的な達成された光景を意味するにほかならないように思われるから、かな。‥ここが錬金術の興味ふかいとこでもあるのだけど、個人つまりミクロコスモスと世界つまりマクロコスモスが各々照応してるって考えが錬金術の体系にはそもそもあって、精神界の変成が直ちに物質界の変成に対応してるからこそ、錬金術が説くところの自己の修養、すなわち宇宙との一体化の果てにある本来の自分の発見が、可能になるのだった。そしてその「本来の自己」といったのを錬金術の隠れた寓意として発見したのがだれあろうユングであって、ユングは錬金術を無意識に眠る本来の自己を見出すことにより、意識世界の自分自身をも再生することを目標とした単なる科学的実験以上のものとして報告したことは、よく知られた事実のひとつだと思う。‥錬金術においては、だから、意識と無意識、物質と精神、光と闇、生と死、それら相反した要素を調和して一体化させることが何より問題とされたのであって、ここから今回のハガレンのような内容、つまり全のなかの一の発見、そして一のなかの全の偏在といった、完全な一元論が目指されることにつながるのは、以上のような流れを踏まえれば、ある意味当然のように思えてくるのじゃないかな。‥ただとはいっても、現実において錬金術の完全な統一への希求は、歴史的にみれば明らかに失敗した。それがなぜなのかなって考えると、いろいろな意見が指摘されることと思うけど、私はやっぱり自然のどうしようもないくらいの不完全と混沌を好む本性といったのが、錬金術の欲する完全ゆえの安定した調和を否定し尽したからじゃないかなって気がするかな。たとえば精神は不安を免れず、物質は完全な安定を得ることなくいずれ崩壊に導かれる。絶対的な完全性への探求は、だから神学的な意味あいと共に、崩壊し去るにちがいない。なぜなら神の言葉など、きかれるべくもないのだから。」
「永遠の一者である神という絶対性はとこしえに沈黙を保った存在である、か。ま、現代世界においては世迷言にちがいないのでしょうけど、しかしとはいっても人の永遠性への憧れといったものはまったく非常に根源的に強いものがあるように思われるから、はてさて、錬金術的な夢想というものもなかなか一掃されるものでもないのでしょう。たとえば宇宙蛇ウロボロスや両性具有者ヘルマフロディトゥスは、この種の反対物の一致のシンボルの具体的な例にほかならないのでしょうけど、この手の絶対者の観念といったものはまずほとんど世界中に見られるものであり、如何に永遠への希求が人間存在には免れなくあったかを証するものにちがいないのでしょうね。そして錬金術は、物質のなかに神を求めようとした欲求の、もっとも端的な寓意でこそあったともいえてしまう。ただしかしハガレンの世界では、その永遠に触れたものは、現実世界での身体を害われてしまうといった罰を被ってしまうとも描かれる。はてさて、なぜエドとイズミは、ただ錬金術の道理に従っただけであったのでしょうに、ああも傷つけられてしまったのかしら? もしかしたら、そうね、ここらへんに錬金術の罪深さが隠れているのかもしれないかしらね。人の完全を求めたがる業ともいうべきものが。ま、それにしてもともかく複雑な話ではあるのでしょう。この作品のこういった部分は、だからけっこう重い話でため息も出るというものよ。はてさてよね、まったくに。」
2009/06/21/Sun
「季節は夏、舞台は田舎、そして数少ない人物‥基本は一対一の少女同士‥のみを描くという制約のもとに描かれた漫画作品の短編集である本書「熱帯少女」は、言葉少なく場面も均一でありながらも、そのいずれの物語も個性的な展開と、そして登場人物たちの切実な情愛と心中の思いといったものが繊細に優雅に、そしてときに何よりつよい熱情を伴って表現された、稀有な完成度を全編にわたって達成してる優れた一冊だと思う。テーマをいくらか限定して作劇するという手法はそんなに珍しいものでもないかなとは思うけど、これほどの量の諸編をコンスタントにある一定以上の質で描きつづけえたということは、率直にただ感嘆の気持しか私はもてないかな。そしてこの作品集のとくに際立って興味ふかく思われる点は、少ないページ数のために作者のこのお話では何を描きたいのか、つまりこの一編においてはどんなことが主要なドラマであり、何をどう展開することが要諦であるのかといった物語の核ともいうべきものが、逆に返って鮮明に輪郭だってあらわれ出てるという点に求められるだろうことはまず疑えないのであって、あやふやで何を物語りたいのかけっきょくわからない構成が破綻しちゃってる凡百なまんがとはまるで異なった、明瞭な線と言葉によって、見えがたい人の恋の隠れた気持を露わに描出する本作の構成そのものこそは、まったく短編作品のお手本ともいうべき恋愛もののシンプルな魅力を放って余りあるものじゃないかなって、そう私は感じさせられたかな。‥このことはたとえば実際に小説とかを書いてみたりしたことある人にはすぐ察せられることかなって思うけど、自分のいいたいこと、そして作品として結実させたいことを、無駄な要素や言葉を省いて適切なスマートな形に仕上げることは、思った以上に作者の力量が要求される技術にちがいないのであり、そういったことを踏まえて本作を紐解くなら、この短編集が実に高度なレベルにおいてまとまった漫画作品の数々であることに気づくはず。‥こんなにわかりやすく、そして読みやすくて情景と舞台とキャラクターの関係性を一読で理解できる作品というのは、なかなかない。その点だけでも、本書の魅力というのは揺るがないかな。」
「技術的な話に限っても本書にはひどく感心させられる面があるという話かしらね。ま、実際のところ、漫画なりなんらかの幻想やフィクション作品を制作しようと思った場合、ふつうの人はそういった作品といったものは自分の思いなしを自由に行使して作っていいのだからなんだか手軽で夢のようなイメージをもちがちではあるのでしょうけど、しかし本当はあるフィクション作品を描こうとした場合、書き手に求められることは何より幾何学的な、明瞭だって建設的な精神でこそあるのでしょうね。なぜかといえば自分のイマジネイションというこの世にはないものを現実に具体化しようする場合にこそ、幾何学的精神というものがまったく求められる分野もないと思われるからであり、それは要するに論理と構築性がなければ、作品は一本筋の通った完結したものとして構成されることはまるで不可能になるからなのでしょうね。ま、この手の論理といったものはなかなか日本人には不得手と思われる部分でもあるのであり、それは日本の文学には私小説ばかりで有益な幻想小説がほとんどないという事実からも理解されることでしょう。そしてであるからこそ、本作の明瞭さ、分りやすさといったものは、まったく驚嘆すべき業でであると評価するにやぶさかでないのでしょうね。実に良い、これは漫画であるかしら。」
「あんまり一話ごとに使えるページ数が少ないという状況を逆手にとったように、本巻のどのエピソードも意味深なメタファーとシンボルによって、単なる登場人物たちによって語られる台詞以上の奥行をドラマ全体に与えることに成功してる点も、また本書のおもしろさを引き立たせることに寄与してることはまちがいないように思われることは、見逃しちゃいけないことにちがいないよね。それはたとえば本巻の一エピソードである「体内回帰」においてすばらしく描写されてる象徴的な場面を注目することによって明らかになるように思われるのだけど、このお話では二人の少女が体育館の束ねられた幕の内側に寝そべり、その閉じられた暗闇のなかで身体を重ねる光景がしずかな筆致で描かれてる。そして二人はそれぞれこの暑くだれも見当らない小さな世界を、「内臓」のなかにいるみたいといい、もう一方は「水の底」にあるようだっていい放つ。‥水の底という言葉は、自分の思いが届かない孤独に一方の少女がいることを示し、内臓をイメージしたもう一方の少女は、薄暗い体内の、つまり子宮の内側に二人がおかれたことをおのずと予感して、そしてその直覚のために体内のなかに結果として位置する二人の熱情は、たまらない性の衝動として愛の言葉を代弁することになる。‥この夏の、性の、そして愛の交歓の「内臓」って言葉によって喚起されるエロティシズムの発露こそは、なんて激しいものであったろう! ‥私は、うん、このお話はすごく好き。ここまで身もだえするような、静謐なエロティシズムといったのを、言葉と行為によって実に整然に描いた作品は、そう多くないのじゃないかな。‥愛という言葉と、そして内臓という性のたぶん本源の相貌。それがほんとに象徴的に描かれてるこの一作は、私には見事な出来映えに思えてうれしいくらいかな。この一作だけで、たぶん本書はすばらしい価値がある。もちろんそのほかのエピソードもいろいろ魅力あって解釈の仕方も多様にあろうけど、私としては「体内回帰」から受ける印象はことのほかつよかった。だってこの一作は、身体の性のもたらす衝動と、意識って幻想の生みだす愛という言葉のヴィジョンの、まるで見事な一致をこそ呈示するに成功した一作にちがいないのであろうから。」
「象徴によって深まる物語性という問題から本巻を見直したとき、この一冊の意味する地平といったものはまったく広大きわまりないものであることが自然と見えてくるのでしょう。たとえば「SUIKA」は表題にあるとおり果物のスイカがドラマに果す意味性というものは、まったく多義的なものがあり、また視覚的にも実に色香をもたらすことに成功してると思われる要素であるでしょうし、「夕立気分」と「sketch」はそれぞれ心のすれ違いといった主題を効果的に色濃く描写することを達成している。さらには「夏の蟻」のエロティシズムの深甚さといったものは、実際の蟻の活動になぞらえる少女の行為を、滑らかな肢体と夏のもたらす暑さのための汗とによって、鮮明なイメージを構築することに本作が巧みであるために生まれたものにほかならないのでしょうね。‥総じていえば、これほど良質に高水準でまとまった短編集というものは、そうないといって過言でないでしょう。久々にこうまで見事な出来映えの漫画というものを見せてもらった気持からしらね。かもし出されるエロティシズムと、静謐にあらわ出される煽情性といった点においても、まったく本書は比類ないものよ。これにはいやはや少しおどろかされたかしらね。すばらしい一冊よ。感嘆の言葉ばかりが口をついて出るかしら。お見事。」
吉富昭仁「熱帯少女」
2009/06/20/Sat
「非常に良質な女の子同士の恋を主題にした作品集。倉田先生の諸作品は、私は雑誌掲載時からその一話ごとに見事に起承転結でもって構成されたストーリー性の高さと、画によってめくるめく説得力を伴って描かれるキャラクターの心理描写と、そして何よりそのような繊細な技術と物語の完成度の裡に秘められてあったろう他者と他者が愛という絆によってふかく本質的に結ばれるだろうことへの隠しきれない情熱という赤裸々な思いのつよさとによって、とても気に入ってた作家のひとりだったから、本巻はまさにほかに代えられない魅力をもった一冊として、これを評価せざるをえないかなって思うかな。それにたぶんようやく編まれたこの「リンケージ」は、この作家さんのある人がある人を好きになることによって得られるかもしれない、その個人を激しく揺り動かし、そしてときにはそれまでの生き方さえも変えちゃうかもしれないくらいの決定的な契機としてあらわれるだろう可能性という意味あいにおいての恋愛を問題にして描きつづけた諸編をまとめて体感したいことを望んでた人にとっては、きっとその渇を癒してくれるものにちがいないって思われるし、それに私としてもこの一冊くらい多様な魅力ある恋愛物語の作品集は、そう手に入れられるものでないかなって感じられるから、愛着の度もひとしおっていっていいかもしれない。‥それで肝心の本作の内容の詳細についてだけど、恋愛もののあらすじを語るなんてことは野暮だから、実際のお話がどんなかなって疑問にはまずこの書を手にとってもらうことを期待するとして、このエントリでは少し私が本巻から受けた印象とそれについての雑感について以下に気楽にまとめたい。でもこの作品集から受ける読後感はあまりにさわやかなものだから、私がそういい足すべきこともないかなだけど、ね。気分のいい一冊で、ほんとにこれはよろしかな。」
「こうも堂々と恋愛というものを正面から逃げることなく描き通した一冊というものは、はてさて、そうもないように思われるかしらね。それというのも一話ずつのドラマの完成度も、まるで漫画作品のお手本のように起承転結にメリハリがあって非常に読みやすいし、登場人物相互の立ち位置がはっきりとしているから、物語世界にこれほど入りやすい作品もそうないように思われるのでしょう。全体としてみれば、各エピソードがどれも均一に高いクオリティを保って描かれており、いずれの話にもドラマの成行とキャラクターの心理の変転の描写という部分に関していうなら、欠点などまるでないように見受けられるのだから、まったく、本巻の安定感と完成度の高さといったものは、まさに比類がないレベルと評して過言でないのでしょう。こうも見事な出来映えとは思わなんだかしらね。本当にこういった一冊がときおりあらわれるのだから、さて、漫画というものは分らないものよ。少々、この作品集にはおどろきかしら。」
「愛したい愛されたいっていう、人が他者と共に生きるこの社会に暮す以上、おそらくだれあろう免れない友愛や親愛、そしてまず筆頭に来るだろう性愛って問題に関して、本作ほど一途に追求して物語を編もうと試みてる作品も稀なように思われるから、たぶんこの一冊はとても貴重なメッセージをその身に包含してるようにも感じられるのかもしれないかな。‥人を好きになる、そして好かれたいと思うこと。私は、これはこのブログをずっと継続して見てる人には今さらいうことでないかもだけど、たぶん性愛というものに対して、それがエロティシズムのどんなものであれ、ほとんど葛藤らしい葛藤や偏見らしい偏見をもってないという点では、一般的な感性からはけっこう外れちゃってるのかなって気が少しする。というのも異性愛や同性愛についての、いわゆるジェンダーが問題となる点についていえば、私はそれら性の垣根や区別ということに関して何等偏見をもつことに意味がないじゃないかなって気がするし‥もちろんそれら性差が課題となってドラマが展開する作品についていうなら、性をことさら描くことにより作品としての魅力を増すかもしれないという点において必要性を認めるものであるけれど、個々のエロティシズムそれ自体に、たぶん私は差別ない‥さらに極端にいうなら、私はほかの、たとえば小児性愛や露出症みたいなのに対してさえ、それが本来的にやむにやまれないエロティシズムの個人における表現の一本質という点については、否定する気持にはとうていなれないことをここに告白せざるをえないかな。‥もちろん、それらエロティシズムはその個人においての宿業として、またその個人の生来的なあり方として不可分であろう性愛という意味において否定する気にはなれないっていうだけのことであって、もしある他者があるだれかの性愛の被害を受けるなら、その場合は話はべつになることはいうまでないことであるだろうけど、でも一応ここにいっておく。だって、もしそうでないなら私がいってることはサドの悪徳小説のようと同じになっちゃうものね。それは論外だもの。世間は、ある意味では、妥協と思いの狭間に形成されるものであるのだから。‥それで、ちょっとわき道に話が逸れすぎちゃったみたいだけど、えっと、結論めいたことをつけ加えるなら、私はだから以上のような立場において、恋愛というものがあらゆる制限のうえを越えて、ううんそれら立場や思惑とはまたべつな次元において発生するものとして、人が人を好きになるという気持を、その本質として肯う考えであることを、自身あらためて本作にふれて思ったかな。それは本作が「愛する気持自体にバグはない」ということを、胸張って言明した姿に、象徴された考えであったかもしれない。愛の根本的な成立の条件は、なぜなら、自分の人生と存在を肯定することにこそあると、私はそう信じるものにちがいないのだから。」
「友愛というものの根本義は、深く人生の底に沈む世界への愛敬にほかならないと思われるから、ということかしらね。それというのも、愛し、愛されたいと、そう願うことは万人において普遍的にちがいなくある気持でしょうし、愛する人を得られた人やどんな形であれ愛を受けることのできる立場にある人は、個別的な場合は多々あれど、それ自体としてはかけがえのないものとして尊重して然るべきとはいえることなのでしょう。ま、もちろん、とはいっても、独善的な愛し方だの、他者を思わず知らず傷つけてしまう愛情だの、もしくは当初は純粋に見えた気持がいつしか慢性的なエゴに変容してしまうことも長い人生のうちでは到底避けられないこととして、ありうるのかもしれない。しかし、でも何かしらね、そういった愛情の危険性を知りながらも、しかし愛に赴かねばならないというものが、人の宿命でもあるようには思われるかしら。それがなぜかといえば、つまり何ごとかを愛そうとしない生き方は、ひどく孤独につらいように思われるからなのでしょうね。ま、本質的にむずかしい問題ではあるかしら。愛し愛されたいという欲求の強さと、それにふり回される人生の様相といったものは、安易に答えも何も出ないものなのでしょうね。ま、はてさてよ。まったくいい難い話題ね。それが当り前といえば、当り前にはちがいなのでしょうけど。」
倉田嘘「リンケージ」
2009/06/19/Fri
「最終回の内容としてはまず文句ない出来だったのじゃないかな。というのも第一にここに来て一応主役であった唯の軽音部に入部してからの物語の締めくくりとして彼女を中心に据えて今回のエピソードを展開したのは妥当に思えるし、その材料として原作を上手く再構成してた印象は十分受けとることが可能だった。つまりひとりのこれまであまり自発的でもなくて、ただ周囲に流され安穏としてた女の子が、高校に入学して環境を変わったことを機会に新しく目標をみずから定めて積極的に変わり映えのしない日々をでもそれでもできる限り楽しく生きてこうっていう決意の表現の一連の物語として本作を捉えたとき、今回のお話はその成果を自分の居場所をつかむことができた唯の姿とその表明において見出すことができるのであり、この点に関してはラストを飾る舞台として、少しトラブルもあったけど学園祭はまさにふさわしいものに成りえたのじゃないかなって思うかな。‥ただでもだけど、本作の終りとしては今回の最終回はたしかにすごく楽しくみれたのだけど、でもそこに至るまでのストーリーがどうだったのかなって考えた場合、この「けいおん!」はかならずしも高い評価を得ることはできなくなっちゃうのじゃないかなって危惧されちゃうのが、もしかしたらこの作品にとって何より惜しいことなのかもしれない。というのも、これは大方の人の同意は得られることと思うけど、けっきょく最終回で唯が宣言したように彼女たちはあまり演奏にそれほどかかずらってきたわけじゃなくて、音楽に対する熱意のあらわれとしての練習風景という点においては、まだしも原作のほうが精力的に描いてるように思えちゃうくらいだから、このアニメ版についていうならもっと軽音そのものについての切りこみや描写はふかくしてもよかったのじゃないかなって、私は思う。‥ある意味、この作品は一週ごとに鑑賞してはじめて楽しかった作品であるのかもしれないって、そんな気するかな。シリーズ全体を通して一気に見たなら、本作から受ける印象はそれほどよいものじゃなかったかもしれない。だってこの作品は、閉じた関係性における虚ろな日々の温かさ‥ありえただろう青春への憧憬‥こそを、テーマに描いたものにほかならなかったのだから。」
「一話ごとの関係性が薄いというか、ま、結局本作は大局的なストーリーがなかったという点が、その評価を微妙なものにさせてしまう大きな要因であるのでしょうね。なぜなら軽音に対する情熱をこそ最終回の唯はアピールしてはいるものの、その軽音それ自体に関して彼女がそこまで入れこんでいたのかどうかといえば、その答えはなかなかきびしいものになることは否めないでしょう。つまり何かしら、唯が軽音に対して真に感謝しているその根本的な理由は何かと問うならば、それは唯が軽音を通じて今の仲間たちに出会えたということであり、また軽音という場が提供してくれた友だち同士で切磋琢磨して行きながらひとつの共同作業である演奏を完遂するという、連帯の喜びこそに相違ないからよ。ま、しかしとはいっても、これはぜんぜん悪いことではないのよ。大切な仲間に出会えたからこそ、軽音が大事だというのは、まったく良い理由よ。ただでも何かしらね、音楽そのものにはそれほど入れこまなかった彼女たちだけに、本作のラストは少し素直に感受できない部分が残るということも、またたしかなことではあるのでしょう。練習描写を増やせば良かったかどうかは判断に困るところではあるのでしょうし、ま、バランスのとりづらい部分ではあるかしら。」
「音楽に対する研鑽の積み重ねと練習が当り前のようになってる彼女たちの音楽活動の日常がよりよく描かれなかったために、最終回さいごの演奏場面での唯の情熱はどこか空回りしちゃってる印象をある意味受けざるをえないと感じられるから、かな。‥とくに梓が登場した回において唯たち四人のあまり練習しないのがふつうっていう状況を明確に本作は描いちゃってるから、それについてのなんらかのフォロー‥たとえば梓が来たことによって少し反省して、練習にそれまでよりも熱心にとりくみだすとか‥が効果的にあったなら‥もちろん合宿の回において自主練する唯っていう場面を挿入してくれてはいるけれど、でもその前段階における合宿そのものの描写において、彼女たち遊びすぎちゃってるから、唯の自主練習のシーンもどこかおためごかしだった印象は抜けきらないのじゃないかなって思うかな。もちろんあの唯と梓のいっしょに練習するとこそのものがわるくない出来だったことは、私は率直に主張するにやぶさかでないけど‥この最終回の余韻も、また一段とふかまったものになったのじゃないかなって気が、私は少しするかな。‥でも、ただ何かな、私は今回のお話自体は‥これ単体として見るなら‥とても感に堪えるものがあったことをここに告白せざるをえなくて、それというのもなぜかというと、好きなものを見つけて、そしてその好きなもの自体に感謝するラストの唯の姿勢といったものは、もしかしたらこれはひとつの幸福の端的な図であるのかもしれないって、そんな気に私はさせられたから。‥自分の好きな、自分が好きだと思うことを自分自身が納得し、そして結果はともかくとしてもそれに専心できることというのは、かんたんなようでいてなかなかそうでない。それはなぜなら、私は私をどうしたいのか、その問題こそは、もしかしたら他者に影響されない自分自身のありうべき姿勢を自己自身に問答する、根源的な自己認識を含むものかもしれないって、そんなふうに思うから。」
「私は私をどうしたいのか、か。ま、入学した当初の唯もそういった焦燥感に駆られていたために、なんとかして現在の状況を打開しようと軽音部に入ったであろうことは、まずまちがいのないことでしょうからね。そして唯の抱いただろう自分がやることがないための空虚感、そしてそういった空虚さのために生じる焦燥感といったものは、多くの人がもったことのあるものでしょうし、そしてその中ではその焦燥感にいつしか慣れてしまい、自分が本当は何をしたいのか?といった問題を考えることを忘れてしまった人さえいるのでしょう。ま、そう考えていけば、たとえ少しだらけていたとしても、自分の楽しみを仲間と分ちあえる居場所を獲得した唯は、はてさて、あれでなかなかがんばったといえるのでしょうね。というのも、自分のしたいことというのは実はよく抑圧されているものであり、また他者の視線が自分の選択というものを限定させてしまうものなのでしょうから。たとえば憂といっしょに来た友だち思しき女の子は、軽音部が一見して変な様子だったために敬遠してしまったでしょう? しかしもし彼女が一歩そのなかに足を踏み入れていたならば、ちがう世界が見えたかもしれない。ま、だからどうしたという話でもないでしょうけど、いろいろな可能性を考えてみるのはおもしろいものかしらね。‥私は私をどうしたいのか、か。はてさてといった問題ね。本当に、それははてさてね。」
2009/06/18/Thu
「アニメ作品としてはもうフォローのしようがないくらい破綻したことは疑えないだろうに思える本作だけど、それは今回のエピソードでより濃く言い訳の成り立たないほどシナリオの構成の粗を露呈しちゃったように思われて、そこの点は残念な感じが免れないかなって思う。それでまずこの作品について検討しなきゃいけないように思われることといえば、それはとりもなおさず何が本作のドラマの構成において不味い要素として機能しちゃったかなって部分を洗い出すことにほかならず、私としてはこの物語がここまでぐだぐだになっちゃった最大の要因のひとつには、ましろとアメリの、ずばり本作の中心ともいうべき裕理を巡る三角関係が十二分に描写されえなかった点に求められるだろうことは疑えない事実なのじゃないかなって気がするかな。というのも、今回ましろがいみじく指摘したとおり、この作品の人物関係ではアメリが一応ましろの恋敵として位置してることは明白なのだけれど、その当のアメリは実際に裕理に積極的なアプローチをかけるわけでもなくて、ただその場の状況に流された結果として失恋に至ったというだけなのであり、アメリのその受動性は、ひいてはこの作品全体におけるドラマの活力を損なうことになったのはまちがいなく、ほんとならもっと波乱あふれるべき恋愛の修羅場ともいうべきシーンにおいて、アメリが演じた役割はただみずからの裡にこもりいじけるだけといった、滑稽な道化‥それをそうアメリに指摘することは酷なことにちがいないのだけど‥にすぎなくて、彼女はその与えられた役割において仮借なく意見を突きつけるなら、まさにましろの相手役としては役不足な観を免れざるをえなかった。‥でも、なんていうのかな、アメリのだめだめな点がある意味これみよがしなくらいに描かれた本作であったけど、私の個人的な気持をいうなら、私はそれでもアメリをきらいになれない何かがあって、それはつまりアメリという人間は片思いに悩む積極的でない多数の人の象徴としての意味あいが、そのキャラクター像にはあらわれてるからなのだろうって思うかな。‥アメリの、この受動性。運命にただ翻弄されるだけの姿は、もしかしたら人間の恋愛の、ううん、恋愛だけに留まらない、弱さをこそ表現してるかもしれないのだから。」
「アメリの弱気な姿勢は一般論としては非難すべきものにおそらくちがいないのでしょうけど、しかしそれでもアメリというキャラはどこか人間らしい脆弱さ、事に臨んでの頼りなさ儚さを一身に背負って象徴しているように思われるからこそ、単純に彼女は駄目な人として切り捨てるわけには行かない感情が芽生えるといったところなのでしょうね。ま、それになんというのかしら、アメリは結局のところ失恋したわけなのでしょうけど、しかしアメリはましろが指摘したように、裕理に告白してふられたわけでも実はなんでもないのよね。ただましろと裕理がいい感じでいる光景を眺めて勝手に絶望に落ちただけであって、アメリがましろを恨むのは、その意味では単なる逆恨みととれなくもない。しかし、そうね、ここでひとつ問題となるのは、つまり片思いというものの本来的に秘めるだろう独善性と、一方的な好意とそれが裏切られたときに個人が抱くだろう憎悪という感情、要するにそれら人間が自然にもつ性向といったものはまったくどんなに厄介で困った代物か、といった一連の人間観察から生じる人間性について諸意見であることはまず疑えないのでしょうね。‥人とは、アメリが見せたように、こうも狭く独善の方向に進んでしまうものなのか? はてさて、するとこれを問題にした作品がずばりあったかしらね。ま、ある意味恋愛というものは、こういった悲劇性を包含したものでもあるということなのでしょう。」
「つまり夏目漱石の「こころ」こそ、この作品で描かれた拙いアメリとましろと裕理の関係性の基本的なアーキタイプとして掲示するに事足りる作品にちがいないだろうということになるのだよね。‥もっとも「こころ」が描く恋愛自体、「タユタマ」があらわしてみせたような恋愛と同種の割り切れなさに満ち満ちてることはたぶん説明するまでもないことであって、というのもアメリが積極的に恋心を打ち明けられなかったの同様、「こころ」のKもけっきょく告白するまでには至ってない状態である意味一方的な思いこみで自殺しちゃったのであり、そういった点を踏まえるならアメリの意気地なさというのはもしかしたら日本の恋愛物語のある種の伝統に沿ったものであるということもいえることなのかもしれないから。そしてまたそういう考察のうえで検討を進めてくなら、「こころ」も「タユタマ」もありふれた凡庸な恋愛の悲劇として、受身の人柄が積極的な人間の登場って不運によって挫折する模様を描いただけの作品にすぎないって評価することも可能なのであり、であるからこの二作品に共通するものは何かなって問うなら、それは平凡な人間の恋路がとある不運に、思いがけない不運によって敗北し絶望の運命を受諾する人生の成行にこそ相違ないって答えられるかな。‥もしかしたら、「こころ」のKは先生がなかったなら、自分の恋を実らせられたかもしれない。そしてまた「タユタマ」のアメリもましろがあらわれなかったなら、いつか自分の気持を成就させることができたかもしれない。‥でも、それはできなかった。だから、そういった仮定は空しい。‥しかし、そうしかし、なぜ彼らがみずからの恋を叶えられなかったときくなら、その本質的な理由は彼らの勇気の足りなさというより、ただ単に、運のなさ、だったのかもしれない。‥運がよかったら、アメリもKも、幸せになれたのかな? ‥それに対して、私はそうかもしれないって考える。‥ならそう思考を進めるとき、問題となる、運というのはなんなのだろう。どうして、人生には運不運なんてものがあるのだろう。‥私は暗く、そんなことを考える。そんな思念に、憑かれてる。」
「世の中には不運というものはたしかにある、か。しかしそうやって不運を嘆くものに、この社会は決して手を差し伸べないし、また単に自分を不孝だとわめいているばかりの者は、人間としてもなんらおもしろみがないことは世間はよく知悉してるものでもあるのでしょうね。しかし、ただ何かしら、それとは逆に単に自分の幸運を誇ってるだけの人間も、不運を嘆くだけの人間と同じくらいに、つまらないものだし、またありふれたものでもあるのよ。たとえば社会的な成功者などは、よく説教を垂れるものか知れないけれど、大方成功というのは運が絡むものであり、ならば成功するのに必要なのは幸運だということになって、幸運を得るための方法論など、はてさて、ありはしないのよ。だから成功者の言い分といったものは、たいてい自身の幸運の下手な理論化に過ぎず、それこそ意味はないともいえる。ま、でもそれでもと割り切れない思いは残るでしょう。そして、そういった割り切れない思いのなかに、運不運に縛られない、人間の凄みといったものが、あらわれてくるものかもしれない。人の生き方とは、だから奇妙なものなのでしょうね。運がある者もいればない者もいるし、運に係らない地点で己を見つめねばならない者もある。人それぞれというものでしょう。ま、はてさてといったところね。おかしな話ではあるかしら。」
『絶望において自己を捨てることができず、希望において自己を持つことができぬということ、それは近代の主観的人間にとって特徴的な状態である。』
三木清「人生論ノート」
2009/06/17/Wed
『自分の富、自分の強さ、自分の美しさ、自分の才能を頼みにして、この世をわがもの顔に生きている人たちの目には、貧しく醜いソクラテスは、笑うべきもの、軽蔑すべき存在に過ぎなかった。しかしそのソクラテスの前に、やがてかれらは、その自負心を失い、底知れぬ不安を感じなければならぬ。クセノポンの『思い出』には、美をたのむ女テオドナの、そのような場合が、やや浅薄に描かれている。われわれはかれらの、そのような無力化に応じて、ソクラテスの内面が、一種の力を得て来るのを感じる。この転換は、しかしながら、ソクラテスの卑しげな顔、話すことの平凡さ、貧しげな様子などを、一つの仮面に変えてしまう。だから、この外見にあざむかれたと思う人たちは、自分の愚をせめるよりも、ソクラテスの外見そのものを、アイロニーとしてにくんだのある。かくて、ソクラテスの存在そのものが、ひとつのアイロニーとなって、ひとびとを不安と絶望に陥れたのである。それは少数の人たちには、哲学への途をひらくことになったかも知れないが、多数の人々は、かくの如き仕方で、自己の無を知ることを、死の如くに恐れたであろう。ソクラテスが呪われ、殺されなければならぬ所以のものが、そこにあるとも言われるであろう。』
田中美知太郎「ソクラテス」
「古代ギリシア研究の碩学である田中美知太郎先生の「ソクラテス」は、半ば哲学の、そして西洋世界全体における伝説的存在と称しても決して過言でない、人の理性のある意味到達点ともいうべき型であるソクラテスその人の実際的姿を、種々の文献や口伝にあらわれる人物像から検討してく労作と評することが可能だと思う。それというのもこの間の実際歴史上にあり、そして多数の人たちの驚嘆の的となって、さらには悲劇的な最期を迎えることとなったソクラテスっていう人物は、ほんとの話いったいどんな人柄で、またどんな生き方をしたために今日あるような一個の人間が博することができるとは思えないほどの巨大な影響力をもつに至ったのかなって問題というのは、事実上きわめて困難なものがあるからであり、その理由の一端には周知のとおりソクラテス自身は何等みずからについて著作も何も遺してないっていう、これまた奇妙な事実が介在してることはいうまでないことであるかな。‥ソクラテスは、自分の考えたこと思ったことについて、ひとつの言葉も書きあらわなかったし、まして少し有力な評判を克ち得た思索者が陥っちゃうような弟子をとるとか宗教染みた説教者になるとかいった無分別の類とはすなわち一線を画してたのであって、それどころか彼自身が自分の知を誇ろうとだなんてみじんも思ってなかったことは、有名なデルフォイの信託における「ソクラテス以上の知者はこの世にない」っていう文句が、ソクラテスの求道のはじめになったっていうよく知られた事実からも察せられることであるにちがいない。ただだけど、そういったいわゆるソクラテスについての証言といったものは、私たちにソクラテスのその突飛な性格を教えてくれるものであるけれど、でもよりよりソクラテスのおどろくべき人間性の深奥をどれくらい解き明かしてくれるものであるかなっていう点に関しては、いたずらに混迷の度を増しちゃうものでさえあるかもしれないって、私は思うかな。‥このソクラテスっていう、人間の奇天烈さは、いったい何に由来するのだろう。ソクラテスのような存在は、未だソクラテスを除いて人類の歴史にほかにない。この事実は、いったい何を証し立てているのかな?」
「ソクラテスという人間について伝えられている事績を聞くだけでも、ソクラテスという哲人がどれだけ私たち一般の者の理解とは隔たった存在であるかに目を見張るばかりであるからこそ、二千年以上経過した現在においても、伝えられるソクラテスというものは真に瞠目し研究するに値する人間であるのでしょうね。というのも、ま、それにはいくつもの理由があるのでしょうけど、いわゆる哲学史的な、ソクラテスの与えた思想上の問題点を云々してソクラテスの重要性を際立たせるというよりは、この場においてはソクラテスの人柄そのものに少し注意を促してみるのがよろしいでしょうね。なぜならそういった哲学的な話はいくらでも可能なことは可能なのでしょうけど、しかしその前にソクラテスが人類社会においてこうまで世界的に有名になったという事実には、ソクラテスがふつうの平々凡々とした個々人のあいだで、まずもって驚異として映らねばならなかったと思われるからよ。というのも第一に哲学などおいておいても、ソクラテスが巨大な何かを備えてなかったなら、ソクラテスは歴史に名を成すことはなかったろうと思われるからなのでしょうね。何がソクラテスをしてここまで大きく人々に認識させえたのか? はてさて、それは興味ある課題というべきでしょう。」
「その理由の第一に、ソクラテスの死があまりに悲劇的であったくせに‥もちろんソクラテスの裁判による死が妥当であったか否かは、これもひとつの歴史の問題として軽々しく判断をくだしていいことでない。ただでもここではあくまで一個人がその罪の真偽はともかくとしても、死の宣告を処され、さらには助かる機会すなわち脱獄とその後の幇助の可能性が十分にあったのに、その道をえらばず、易々として死についた、ソクラテスのその判断をこそ大切な問題として考えなきゃいけない‥ソクラテス自身はその境遇を少しも悲しんでなかったこと、死そのものを恐れるのでなくて、死よりも大切な精神の尊厳を重んじたこと、そしてむしろ死の直前に至るまで自分自身がこんなふうにして終りを迎えることに楽しみをソクラテスが見出してたふうに受けとられること、つまりそういった諸々の伝えられる事情が、私たちにソクラテスという人間のおかしさをある衝撃を伴って教えてくれる。‥よく世間には死ぬことよりも大切なことはあるよとか、恥を受けるよりは雄々しく命を散らせたほうがかっこいいとか、そういった説諭は軽々しい浅はかさをもって流布されてるものであるし、また無知や粗暴さやある若さの熱狂が、みずからをして安易に生命を軽んずるといった成行も、世にはないわけでない。でも何かな、通常私たちはそうやって精神性や、あるこだわりのために死んじゃうことよりは、みじめでもなんでも生きつづけたほうがきっとよいって思うはずだし、ましてみずからの無実を確信してながら有罪のために死刑にされることを笑って受諾することができるとは、よもや思えるわけないことであるのは自明というべきじゃないかな。‥でも、それなのに、ソクラテスは自分自身の罪のなさを信じながら、死ぬことになんの葛藤もみせなかったし、ソクラテスにとって無罪で死ぬことはそれほど問題とすべきことじゃなかった。ソクラテスには、もっとべつに問題とすべきことがあった。‥でも、その問題とすべきこととはなんだったか? ソクラテスは答える。善と美、それだって。‥私は首をふる。ソクラテス、あなたは狂人だよって。でも、ソクラテスはこういうかもしれない。‥いや、私以外のあなたがたこそが狂っていて、私ひとりだけが正常なのかもしれない。‥なら、人間世界はみな狂的だというつもりなのか。そこまでいって、私は沈黙する。笑って毒杯を飲み干し、なおまだ死ぬまで時間があるソクラテスは、何か問答しようっていう。‥私に、彼は、わからない。」
「わからない、その感情こそがソクラテスを死に追いやった、アテネの人々がこの貧しい変人に感じた脅威の正体でこそあったのか知れないかしらね。ソクラテスという人間は、だからなんていうのかしら、ひどくやはり常識を欠いた人ではあったのでしょうけど、しかし他面、この人間ほど人間の真実人間らしい姿を纏っていた存在もないように思えてしまうから、なんとも奇妙な魅力を人はソクラテスに抱かざるをえないのでしょう。なぜ、この金もない容姿も醜い、徒に話を複雑にするだけの喧しい男に、こうも人々は注意を向けざるをえなかったのか? ま、本来ならソクラテスなんて権力も資本もないような男は、文明社会においてはなんの力ももたない弱者としてしかありえないものなのでしょう。しかしそれなのに、ソクラテスはただ言葉と態度と、そして何よりその生き様において、権力者達に殺されるほどまでに、ある種の力を備えるに至っていた。果して、その力とはどのような種類の力であったのか? それこそが、はてさて、現代でも問われるべき課題なのでしょうね。なぜなら今日においても、ソクラテスが得た力を備えている人は、まったくいないように思えるのだから。それはなんと不思議な事実かしらね。はてさてよ。」
『尊いこと、善いことというのは、いのちが助かるとか、いのちを助けるとかいうこととは、別のことなのだ。自分がどんな人間であるかということにはお構いなしに、ただ自分のいのちを保ち、どれほどかの時間でも生きるなどということは、男子の問題とすべきことではない。むしろそういうことは神に一任し、何びとも死の定めをまぬかれぬのだということでは、昔からの言いつたえを守る女たちの言を信じ、その次のこと、すなわち生きるはずの時間を、どうしたら最もよく生きられるかを考うべきだ』
プラトン「ゴルギアス」
田中美知太郎「ソクラテス」
2009/06/16/Tue
『三島 「A感覚」とV感覚」なんかでも、ずいぶん思いきった理論ですね。ワギナの感覚というのはもとでなくて、アニュスとの感覚が原形だということをいうでしょう。そこから派生したものだというんでしょう。Pなんていうものは問題じゃないというんだから、人類史ひっくり返しちゃうんだ。これはびっくりしたね、ほんとに。
澁澤 僕はこれはたいへんなものだと思うんだ。オットー・ヴァイニンガーだとか、いろいろな人がいましたね。あんなものはひっくり返っちゃうわけだ。セックスの文明論にとどめを刺すようなものだ。だって一元論だもの。
三島 完全に一元論ですね。これは不思議な考えですね。
澁澤 不思議な考えですね。ヨーロッパ人にも考えつかないでしょう、この徹底した一元論は。
三島 だって、人類の生殖とかそういうものを全部否定しちゃうんですからね。そして個人個人は完全にばらばらで、個体は空虚と、宇宙と、虚無に直面して、そのなかへ流星のように消えていくんでしょう。』
三島由紀夫、澁澤龍彦「タルホの世界」
「三島由紀夫は自決する前、澁澤龍彦との稲垣足穂についての対談の場において、次のようなことをいってる。それはすなわち、自分はこれから先何か愚行を演ずるかもしれない、そしてその愚行は日本中の人が自分をばかにして、仮借なく糾弾するくらいのものであり、たぶん自分という人間はほんとの笑いものになる。でも日本のすべての人が自分を嘲弄しても、たぶん稲垣さんだけは自分のことをわかってくれるに相違ない。‥という趣旨のことであって、この言葉のとおり、自衛隊基地を占拠して切腹した三島は日本中の注目の的となり、ある人は狂人とまで彼を呼んだ。そしてでもそのとき三島が唯一期待をかけた稲垣足穂はどう反応したのかなというと、これはけっきょく、三島が生きてたときと同じように三島を足穂はきびしく非難してたけど、でもその様子はどことなく哀調が感じられるものであったことは、たぶんそう思ってまちがいなことじゃないかな。‥足穂という人は、だから三島との関係性だけをみてもとてもおもしろいものある人で、私自身もこの作家にはその巨大さ、あどけなさ、そして空想の果てしない空虚さによって、心惹かれつづけてる文学者のひとりである。そして足穂の主著のなかでもとくにもっとも有名な一冊であろう「少年愛の美学」の豊穣さとその独特のユーモアは、ときに紐解いてゆくりなく無聊を慰めるのに、これほど最適な一冊もないのでないかなって思われるくらい、足穂以外に不可能なある興趣に満ちている。‥ほんと、足穂のようなことをいえる人は足穂以外にないものね。なんでこんなに自然体で、こんなにオリジナリティのある人があるのだろう。そこにはただ足穂がある。そして足穂は足穂以外に不可能だ。そういえることは、たぶんすごいことなのだろうって思うかな。」
「スタイルを工夫した跡がないのに、ほかのだれも模倣できないだろうスタイルに文章が構成されている。複雑怪奇な理論などどこにも見当らなくても、足穂の述べる哲学はもしかしたらこの宇宙そのものを包含してしまうのでないかと思われてしまうほどに、厚くふかく温かみに支えられた、真に度量のある思想によって形成されている。そしてそのような圧倒的な個性で紡がれる足穂の世界の物語は、これこそ魔法的で銀河的であり、もし幻想という言葉があるなら足穂以上に幻想に練達した作家も少ないのではないかと思われるほどであって、その理由はつまり足穂ほど物語を骨格に当てはめて理路整然と組み立てながらも無限の柔らか味を帯びさせられる、まったく明快な真実の意味のおいての幻想を言葉にして物語った作家というのは、稀有というべきだからなのでしょうね。というのも日本においてはファンタジーというと夢のような世界での、あやふやな非現実的な話だと考えられがちなのでしょうけど、しかし本物の幻想とは、くっきりとした理屈によって細部まで意図的に形成されたものにほかならないのよ。そこをおそらく勘ちがいしてしまうから、日本文学にはおもしろい幻想小説というものがなかなか発見できないのでしょうね。なぜなら幻想は、論理よ。細部までぼやけないでしっかりとしてるから、それは幻想に値するわけよ。」
『われわれは「共同体」に属して、食堂的存在であり、またトイレ的存在である。食堂は複数で、トイレは大旨単数である。しかも只ひとりでいる時の伴侶は、P感覚でもV感覚でもない。それはA感覚である。こういう意味で、「お尻」は「人」と同意語である。ためしに次のような単語の「コウ」を「肛」におきかえてみよ! 高野山、弘法大師、幸若舞、香気、講道館、攻玉舎、侯爵、好調、高士、高級、恒例、工員、公務員、公開実験、交通機関、行動派、硬派、高弟、膏薬、黄禍、後患、公徳、公選、鴻恩、行人、行楽、交歓、幸福、厚志、交情、好意、後見……いずれも間違いなく成立する。』
稲垣足穂「少年愛の美学」
「上記引用した箇所は、まさになんてタルホ的な言い草であるだろう!って、思わず手を叩いちゃうくらい。それというのもこの足穂特有のA感覚‥つまりアナル感覚のこと。足穂はペニスでもヴァギナでもなくて、人間の快楽、ううんそれ以上に人間存在の根本的な部分をアナルに限定して、そしてそこから人間のあらゆる営為の可能性の発端を探求してく。そしてこうした臀部に人の生と宇宙の核心的なひみつを探り当てた足穂は、A感覚による完璧な一元論としての宇宙像を構成するわけであって、その発想の大胆さ、ほかの追従をまったく免れるだろうユニークさ、そしてさらにその言辞の達者さは、まったく足穂以外の人間には構想しようという気を起すことさえ不可能なのじゃないかな。だからここまで大胆な文学者は、もうあらわれないのかもって思っちゃうのは、たぶん私だけじゃないよね‥は、本書「少年愛の美学」において、膨大多数の例示によって遺憾なく証明されてくのであり、少しでも足穂の意見におもしろみを感じた人なら、本書を手にとってみると‥そして本書だけでなくて足穂の小説作品もまたいっしょに‥きっと新鮮な印象と新しい世界の広がりを感じることが可能なのじゃないかなって、私は思う。‥足穂は「少年愛の美学」において、あらゆる逸話、故事や歴史上の出来事、物語や読者の体験談を語りながら、人がどれだけ一元論としてできる限り単純に語りうるものかを、見事その実践でもって教えてくれる。そんな足穂の行為は、もしかしたらいちばん形而上的な思索の、そしてあるいは宇宙の与えた人の理性の勇猛さの、個性的な行使が描いた軌跡そのものじゃなかったかなって、私は思うかな。‥もちろん、そんなにA感覚が好きなのかーって慨嘆せずにはられないかなだけど、ね。‥こんなに堂々とした趣味人というのはなかなかない。その点において、足穂のすばらしさというのは、今もっても現代の最先端に位置してるともいえるかな。だって足穂こそは、オンリーの存在にきっとちがいないのだろうから。」
「ま、いってみれば本書は足穂がどれほど美少年好きだったのか、その思いのありたけがぶつけられた労作に相違ないのでしょうからね。もちろんしかしとはいっても、足穂の言い分というのはなかなか興味深いものもあるもので、足穂は世にいわれる美女や美少女といったものというのは、そのどれもが美少年的な部分をもっているものであり、美少女とは畢竟美少年の薄まったものにほかならないというわけなのよね。これは意外とけっこう真理を突いた言葉でもあるか知れないと思われるから、足穂というのはおもしろい人よ。あとはそうね、本書には男性の同性愛の多数の報告も随所興味深く載っているから、ま、そういった関心にも十分応えてくれる一冊といえるでしょう。とにかく、ほかに類例のない一冊よ。それだけでもこの本を書架に置くことは、そう無益な業じゃないでしょう。なぜならこんな本、ほかに求められようがないのでしょうからね。そのことだけは、ま、困ったことに、確実よ。」
稲垣足穂「少年愛の美学」
2009/06/15/Mon
「今回のハガレンの内容を受けてから少しゆくりなく、本編でもエドとアルに貴重な影響を与えてくれた体験として描写されることとなった妊娠ってタームについて、いろいろ思いが巡ってたのだけど、ある意味出産とそれにまつわる生命の誕生というありふれた神秘くらい、フィクションが描くには困難に思われちゃうテーマもないのじゃないかなって気が、私にはする。というのもなんでかなっていえば、出産って問題ほどきれいごとが通じない、これほど現実に相対した人間の人間らしい側面が‥ひとつの生物としての。また理性的な存在としての‥あらわになる出来事もないのじゃないかなって思われるし、だれもが母体をとおしてこの世にあらわれ出てる以上、生半な覚悟で出産の問題を作品に結実させることは行かないにおそらくちがいないから。そして少し私が考えてみても、出産を真正面からとり扱った作品というのはちょっとほんとに数少ないのはそのためかなって気がしてくるし、この問題は、つまり生と誕生に連なる人間の創造って課題こそは、ある種あまりに生命の血なまぐさと具体性を帯びるが故に、それを直視しようってするものには一筋縄で行かない重さを与えることになっちゃうのだろうって思われるかな。‥たとえばこんなに性が肝心になるテーマもほかにないように思われるのに、妊娠を過不足なく描写した文学作品はろくにないような気がする。吉行淳之介も、これには明確に答えたものはないと思われるし‥ある意味吉行だからこそ無理だったのかも‥日本の妊娠の現代的な問題については、私が寡聞であるという点を差し引いても、あまり文学としてはふれられてこなかった側面であるのかもかな。」
「性と生がこれほど露骨にあらわれてくる問題もほかにないように思われるからなおさらということなのかしらね。たとえ妊娠を現実的な範囲において描写しようとしても、それをどこまで作品として鑑賞に耐えうる強度をもたせることのできる作家がいるのかといえば、そんな出産という場面を完全に描くことができたならそれこそ類稀な天才としか評せないのでしょうし、逆にそれが不可能なためにたとえばサド侯爵のように出産をさえ物扱いして残虐に滑稽にふるまうしか、はてさて、妊娠という問題には文学はなかなか切りこめないのでしょうね。そして、ま、これはいうまでもないことなのでしょうけど、フェミニズムは現実のこういった部分に対するには不適当といわざるをえない。そのために今回のハガレンのように、フィクション作品においては出産や妊娠は半ばファンタジーの色彩を通してしか表現されないのでしょうね。なかなかこれは、由々しき問題でもあるかしら。」
「たとえば「CLANNAD」は自宅出産の様子を描写してみせたことがあったけど(→
CLANNAD ~AFTER STORY~ 第15話「夏の名残りに」)、現実において自宅出産は渚の望むような温かい家庭の一場面として存在するというのでもなくて、ほんとはかなり実際的なこみいった事情によって選択の制限された結果のひとつとして考えなきゃいけない問題であるのじゃないかなって思いが、私にはあるかな。具体的にいえばそれは、経済と病院のベッドの問題に還元されるって、乱暴な言い方ができちゃうかもしれないけど、これは複雑で専門的な問題なのでここで私にはふれられない。‥そして、あとはそだな、出産という問題に直面したとき、私たち日本にいるものが目を逸らしてはならないだろう課題のひとつに中絶の問題があることは、まずまちがいないことであって、これこそだれそれとかいわずに、だれをもが考えてみなきゃいけない世間の現実に根ざす事柄だって、私は思う。というのも‥もちろん以下のことは私自身まだあまり仔細に考えきれてない問題であるので、ずいぶん粗雑でいい加減な話になっちゃうと思うけど、そこは諸氏の指摘を乞いたいとこであるかな‥日本の中絶の高さと中絶を行うことへのある容易さというのは、たぶんこの国がこれまであまり見つめてこなかった現実の一部であって、それは裏では性への倫理的な意識の粗暴な向き方という形において人たちの内面を荒らしてきた要因のひとつじゃないかなって気が、私にはしてる。なぜなら中絶とは‥これは当然一般論に敷衍していいことでないし、出産にしろ性に係る事象は個別的な関係性においてていねいに判断してかなきゃいけないものであるにちがいない。ただだけど、何かな、中絶という事柄は、無意識裏に多くの人の生と性へ不安を根本的に懐疑せしめる、もっとも恐ろしい脅威でないかって思いが、拭いがたく私にはある‥今生きてる人に対して、自分の誕生の基盤をこそ、怪しませるものであるにほかならないのであろうから。」
「中絶とは、ま、なんなのかしらね、ある意味暗黙のうちに社会の握る生殺与奪の権利を、人々に見せつけるような効果があるものであるとは、果していえてしまうことなのでしょうね。そして、ま、なんとなく考えてしまうのだけれど、中絶のようなことを、教育はどう扱えばいいのかしら? 子どもたちに、お前たちはもしかしたら親の裁量次第で生まれなかったかもしれない存在なのだと、中絶という語は意味してしまうのじゃないかしら? ‥ふと思い出すと、この種の問題に向きあったのは、アニメでは「ブレンパワード」くらいになるのでしょうね。あとはそうね、遠藤周作の「愛情セミナー」は、この中絶という問題について疑問を投げかけ、その対処を懸命に説いた数少ない一冊とも、もしかしたら指摘できることかもしれないかしら。ま、むずかしい問題なのでしょうね。いってみればこの一連の問題は、子殺しと男と女と、性欲と、それが文化的に社会的に形成されてきた歴史の問題でもあるのでしょう。まったく、むずかしいものよ。はてさて、ね。どう考えたものか、ため息も出ないかしら。」
→
遠藤周作「愛情セミナー」
2009/06/14/Sun
「昭和五十二年に刊行された「妖女のごとく」は遠藤周作の手がけたミステリ仕立てのサスペンス作品といったとこになるのかなだけど、でも本作に過度の探偵小説的な期待をかけて読むとそれは十中八九裏切られることになっちゃうのかなって気が私にはする。というのも遠藤周作のもとからしてがそういった方面の、つまりエンターテイメント的なドラマを紡ぐセンスには恵まれていたろうとは思えないわけだし、遠藤の小説のおもしろさといったのは純粋に物語の構成といった面に求められるものでなくて‥次にどんな場面が来るのかなっていった、そういった手に汗握る展開は、遠藤に望むべくもないものね。遠藤の作家としての骨頂は、私にはしずかに沈思した人間観察の成果のうえに立つ人たちの生き方のあるスタイルを提示する点にあるのだと思う‥だから、ミステリの興趣をふんだんにとり入れて執筆されただろうこの作品は、遠藤の小説全体のなかでも中途半端な位置を占めることになっちゃうのでないかなって思いが、私には免れなくあるかな。‥物語の大まかなあらすじとしては、表向きは清純そのもの、社会的にも立派な信頼できる人物として名声を博してる美人の女医さんが、実は裏では人知れない隠微な快楽を胸中に秘めてるといったもので、こういう人物は遠藤のよく好んだものであることは、たとえば「真昼の悪魔」などからの諸編からもよく理解されるだろうことと思う(→
遠藤周作「真昼の悪魔」)。遠藤が長年テーマとして書きつづけてきたもののひとつには、人間には二面性‥表と裏。仮面と素顔。多様なペルソナの集合としての人間像‥がかならずあるといった認識にあったことはまずまちがいなくて、この「妖女のごとく」もそういった方面の問題をとりあげたひとつにちがいないかな。‥ただだけど、物語の成行とその結末には首を傾げちゃう向きもないわけでなくて、その意味ではあんまり良作とはいえないかも。けっこう微妙な出来、かもかな。決してつまらないというわけではないだけに、評価はあいまいなものに留まっちゃうのが本作の残念な点になるのは疑えない。ちょっとだけ、惜しい気もしちゃうかな。」
「人にはあまり表沙汰にはできない隠された秘密とでもいったものが、心の奥底にはだれであれ眠っているのだといったことは遠藤は「ほんとうの私を求めて」などでもよく主張していたことではあったけれど(→
遠藤周作「ほんとうの私を求めて」)、ま、これはいわれてみれば当り前、どんな人であれ他者には洩らせないだろう、あるいは自己自身ですらよく認識していない己の本性といったものがありうるだろうことは、べつに心理学なりなんなりを参照しなくても、勘のいい人であるなら、自然に承知していることではあるのでしょうね。そして、ま、下世話な言い方をするなら、遠藤という人間はこういった人間の裏側、とくに世間では常識人として通っているような人に陰惨な側面があることを暴くことに、何か一種の関心をもちつづけてきた作家であるとも、さてはいえることなのかしれないかしらね。それはおそらくサドにも熱心な好奇心を示した遠藤周作であるからこそ、なかなかどうして人間存在というのは簡単でないという思いが、彼をして人の本性といったものの探求に向けさせたのでしょうね。いやおそらく、遠藤はサドにもっとも初期のころから興味を抱いていた人物のひとりよ(→
遠藤周作「留学」)。そしてそのような遠藤がキリシタン作家として世間に周知されているのだから、ま、逆説的な意味でなくてもおもしろいものかしらね。西欧文化とは、やはり業が深いのよ。まったくね。」
「あと本作を遠藤の関心しつづけてきたタームから読み解こうって思うなら、無視しちゃいけない要素のひとつには本作の鍵でありまた強引にお話を終らせちゃうポイントとなる「転生」の問題があると思う。それというのも転生って事柄に遠藤がある種憑かれてたことは、遠藤の作品に輪廻の問題を組みこんだものが非常に多いことからも察せられることであって、たとえば晩年の「深い河」はまさに転生思想の大元ともいうべきインドを舞台にしたものであったし(→
遠藤周作「深い河」)、この書の副読本である「「深い河」をさぐる」は各方面の知識人に遠藤みずからが疑問にしてた輪廻とあの世の問題を問い探求しつづけるといった態のものであった(→
遠藤周作「「深い河」をさぐる」)。‥遠藤のこの転生にまつわる疑問への関心のあり方といったものは、一種偏執的って思えちゃうくらいにしつこいものがあって、その姿はある意味異様に見えちゃうものがあったし、私自身なぜ遠藤がこんなに輪廻にこだわってるのかなっていうことはふしぎなことでもあり、またあの世の実在を頑ななまでに信じ理論化しようってその道の権威にすがってる‥と、私にはみえる‥遠藤の姿は、何か哀れなような、滑稽のようなものさえあった。そしてそれだからこそ、晩年の遠藤の傾倒ぶりはオカルトそのものと評してそんなにまちがいじゃないって私は思うし、それを非科学的だっていうことは‥つまり、輪廻転生なんて、ありえない‥私には正常な現代人の正当な権利といっても過言でないって思う。‥でも、そだな、それでも私には、さいきん、遠藤がどうしてここまであの世の問題を考えてたかが、わかってきた気がする。思ってみればかんたんなことで、遠藤が恐れてたものは、死だった。死の恐怖が、遠藤をして、オカルト染みた問題にこうまで走らせた。‥もちろん転生なんてない。でもこの世には、転生を思わせる何かがある。その何かがなんなのかなってきかれるなら、私はそれに対して、生きにくさ、それだとそう答えるかな。‥この世の生きにくさが、私にあの世を思わせる。それが真理であったことは、歴史こそが明かし立てる。そして現代もまた、かな。‥なぜなら生とは、今でもまさに、困難なものにちがいないのであるのだから。」
「死を厭う恐怖と生を苦しく思う心情の狭間にこそ、魂の永遠とあの世でのこの世の報いの補償としての楽しみを希求する人間精神にとって、ある種普遍な期待をもたせるものである、か。ま、おそらくそうであるのでしょうね。ただしかし、それにしてもなんていうのかしら、遠藤のような男でも、いや遠藤のような男であったからこそ、あそこまで死というものの底知れない恐怖に抗うには、何か神秘的な要素をもち出さずにはいられなかったと見るべきであるのかしらね。もちろん遠藤のいうような、転生や輪廻で魂が永遠を生きるのかといった問題は、一笑に付してしまっても、はてさて、そうまちがいではないのでしょう。ただしかし、そうね、遠藤が徒にスピリチュアルに向ってしまったその心理の根本の部分、要するに無形の「死」が与える静寂な恐怖とでもいうべきものは、あまりに鈍感な人をべつにすれば、ほとんどの人がいつか接せねばならない課題ではあるのでしょう。それは大病を経験した遠藤でさえも死を現実的にそうとれなかった、その事実からも理解できることではあるのでしょうね。死こそは、はてさて、いい難く、表現しにくい、しかしこれほど身近なものはないだろう、矛盾した現象であるのでしょう。面倒な話かしらね、まったく。はてさて死とは、どう扱えばいいのかしら。何か妙案があるのかしら? それこそはてさてね。容易な解などあろうはずがないことよ。」
『絶望に終わりはない。自殺もそれを終らせることはない。人が奮起して絶望を終わらせない限りは。』
ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン「ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記」
遠藤周作「妖女のごとく」→
生きづらさの表明としての作品という話→
死の恐怖とかの話
2009/06/13/Sat
「秋葉原にはそれほど思いいれも愛惜ももたない私だけど‥といっても、人生のある転回点のときに私はふと秋葉原に寄ることはいくらかあったかな。あの場所のある種混沌とした調和ともいうべき、この作品でも折にふれて描かれてる独特の雰囲気は、私に孤独とみずからのうちの思念にゆくりなくふけることを可能にしてくれる冷めた雑踏がある。そういうあの街特有の、鬱積した情緒性とでもいったものは、今の私にも興味ある課題のように秋葉原を思わせてくれる気がするかな。それはつまり、秋葉原が町の未来への可能性の凝結としての現在を、常に湛えて存在してるからなのかもしれない‥この「トランジスタ・ティーセット」が描こうとしてる題材としての秋葉原‥もっといえば、これはべつに秋葉原でもなくていいわけで、要するに人たちが暮す町とその町の変化とそして人たち自身の感情と結びついた記憶としての町の、その複雑で人間味あふれる人と共に生きる歴史のある種の象徴こそが、本作の紛うことなきテーマであったのだろうって私は感じるかな。町と共に生きることによって、人の歴史が町に沿い、そして町の歴史が人の記憶に刻まれる。そんなどこにでもあり、そしてだれの心のなかにも思われてるだろう大切な居場所、故郷としての「町」のヴィジョンというのが、この作品の背景につよく設定され、そして検討されてる主題であるにちがいない。なぜなら人が町で生まれ死に、暮してゆく限り、町が人の情念の容器として機能することは、ある意味避けられないことだから‥は、私に多種多様な人の思い出とその思い出を支えまた想起させてくれる装置としての町の密接な、また親身な関係性を考えさせるに足る魅力ある物語を提供してくれて、とても好ましい一冊として読めてよかったかな。‥本作は登場人物の魅力と一話ごとのドラマのおもしろさも見逃しちゃいけないことと思われるけど、でもこの作品の核には町と暮す人の歴史性といったふかい課題があって、それがこの物語をより一層興味ふかいものに仕上げてるって、私には感じられる。それは人は記憶の存在であり、そして思い出のうちに生きる根拠を見出す存在でもあろうからって、私には思われるかな。思い出のない人間なんて、だって、いないにちがいないのだろうから。」
「祖父の店を継ぎひとりで生活していこうとがんばる主人公のすずの心理の根本には、祖父が口にした街で生きることの誇りと思い出を守るという強い意志があったのであり、そしてそれは祖父の思い出のよく滲んだ店を守ること、すなわち思い出を失くさせないための具体的な活動をこそ、すずが祖父の遺産としての店を引き継ぐことのうちに見出したからにほかならないのでしょうね。そしてそう考えていけば、すずは自分の幼年期の記憶にある祖父を守るために、現在の努力を行うのであって、それは大切な記憶のため失くしてはならない過去のため、いってみれば彼女が直に感じただろう歴史性のためと称しても、はてさて、いいのかもしれないかしらね。記憶こそが、さては、人を縛るものかもしれない。しかし思い出こそは、もしかしたら、人を強く活かすものなのかもしれない。ま、人の心のなかにある過去へ結びついた情というものは、なかなか一言にいい難いものがあるといえるのでしょう。」
「郷愁という情のふしぎさ、かな。‥よく子どものうちは大人がする昔話、思い出語りの類はききあきちゃうものでまたそんなこと何度もくり返して話すのは無意義なことじゃないかなって思われちゃうものにたぶんちがいないのだろうけど、でもあるていど生きてくとふとそういった思い出語りといったものがもつ魅力のようなものが、人には理解されてくるもののように、私には感じられる。というのも、単純な場合ではただの懐古であるけれど、でも懐古というのはみようによってはただ単にむかしを偲んで現在を忘却してるってかんたんな意味あいだけじゃない、その奥にもっとふかく人間の心のあり方に関係づいたひみつというものがあるかもしれないのであって、それがつまり何かといえば、すなわち人はその人それ単体では成立しえない、その人の背後にあるだろう膨大な過去の蓄積、要するに歴史のうえに私が存在しうるのだという実感をこそ体得するという意識といった意味性が、歴史性のもたらす情感‥べつな言葉でいえば、郷愁‥の根幹にはあるのだと思う。‥そしてそこまで感づいたとき、私は私が歴史で、そして私が歴史になったように他者もまた歴史になった、つまり人間こそが歴史であるっていう奇妙な感得が人に訪れるものなのかもしれない。たとえば私に限っていうなら、私こそほんとにたぶん懐古的な趣味の人で、だいたい古い本しか読まないのだけど、そういった古書が形成する過去の総体と、そしてその古書が現在であった時の残影の蓄積といったものがかもし出す、ふしぎな世界の見方といったものが、ときおり、読書体験の連続のなかでうかがえる瞬間があって、それはけっこうおもしろく思えるかな。具体的にいうなら、漱石や鷗外とかあの時代の作家の作品を一通り見てくと、彼らが生きた時代の東京の、旧制高校やその学生たちが闊歩した時代の風景の与える情感といったのが、次第に感じられてくる。それがなぜかなってきかれれば、私は文学は情感を湛えるものだからって答えるかな。そしてまた、漫画作品も同じく、人の直裁な心の言葉を伝えるものにちがいない。その意味で、この作品はとてもおもしろかったかな。彼女たちの暮す秋葉原の現在の風景もまた、過去の一部として刻まれるに相違ないだろうことを、本作の存在は鮮明に物語ってもいたのだから。」
「歴史というものは人間それ自身である、か。ま、この歴史は生きた人間の蓄積と足跡の総体であるという話は、なかなか教科書などで学べるようなものではおそらくないのでしょうし、高校生くらいで歴史が十分に学べるのかといえば、これまたまったくそうではないのでしょうね。それに歴史というのは、ま、こういう言い方は適切ではないのかもしれないのでしょうけど、ある種の情感、ある種の思いや愛といったものを経なければ、よりよく理解を深められるものでもないのでしょう。それはなぜかというなら、「私」が存在している、ほかならない「私」がこの場所に、この時代に生きているというそれらの理由を解き明かしてくれるものこそが、歴史にほかならないからなのでしょうね。歴史こそはその意味で、己への認識を己自身に課すものであるのでしょう。まったく、まだまだ勉強していかねばならないことばかりといったものでしょう。なぜなら課題は多く、興味も多様。しかし世の中というのは、だからおもしろいものなのよ。はてさて、そうじゃないかしら?」
里好「トランジスタ・ティーセット~電気街路図~」1巻
2009/06/12/Fri
「個人的には今回の回は感心させられた出来だったかな。まずその理由のひとつとしてはここに来てようやく本作が起承転結のある無理のないドラマを描いてみせたという点にあって、ドラマの内容の是非はともかくとしても、この登場人物たちの人柄の魅力と細やかなキャラクターの一挙手一投足をていねいに描くことを可能にする演出の自力が備われば、それほど複雑でなくて先に展開することのない平凡なエピソードといえど、ここまで画面に力が加わり見応えのある作品になるんだっていうことが、今回の「けいおん!」は見事に証明してくれたのだと思う。‥惜しむらくは、こういうお話がどうして最終盤に至ってやっと見られるくらいなのかなって思われちゃうとこになるのかな。たとえば今回のエピソードは断続的でない原作の‥四コマ作品である以上、物語として大局的な流れはあっても、場面場面ごとに必要とされるキャラのリアクションやその種の補填というのは映像化する際において必要不可欠の作業に思われる。ただ単に四コマのシチュエーションをそのまま切り貼りして映像にしても、それが魅力的な原作の昇華につながるのかなといえば、そんなことはないものね。それがどうしてかと考えれば、もちろん多種多様な理由は求められるだろうけど、そのひとつとしては作品の骨格が、つまり演出家の意図といったものが映像に反映されないからだと私は思う。‥なぜこの場面がここにこういう形で求められるのか。なぜこのキャラがここでこういう動作や発言をするのか。そういった諸々のことは演出の意図に沿って配置されるべきであり、それが為されないとき作品は成り立つべき根拠を失い、瓦解するのじゃないかなって、私は思うかな。「けいおん!」に関していえば、中盤からは明らかに何を描きたいのかが不明瞭になっちゃってた‥総合を、それぞれ妥当な理由をもって為されていたにちがいないのであり‥唯のギターを紬が権力でむりやりねじふせるのでなくて、あいだにお金を払おうって姿勢を挿入するだけで、原作の乱暴さは除去される。また唯の風邪引く理由に一段階挟んだことは、作品をクライマックスに向けて高揚させる意味において、決して無駄じゃない‥今回のお話は、だから、私はとてもよかったって評価するにやぶさかじゃないかな。‥もちろん、この期に至ってこの作品がオリジナル要素を多分に見せることには、賛否両論あって然るべきなのかもしれない。でも今まではこの作品については肯定も否定もできないくらいあいまいな完成度にしかすぎなかったように私には思われるから、それよりは今回のエピソードのように独自性をあらわしてくれたほうがよっぽどおもしろいように私には感じられるかな。もっと好き勝手つくってもよかったのに、って、ちょっと悔やまれちゃうくらいに、今回のお話は私てきによかった。」
「本作はこれまで破綻らしい破綻はなかったとはいえるけれど、しかし作品がどのような作品になるのか、どのような雰囲気の作品を目指していたかが途中からはまったく鮮明にはならなくなっていたのであり、それはたとえば前回の合宿のエピソードで、これ以上必要ないだろうというのにキャラクターの魅力を深めようとしていたことからも、その混迷ぶりがうかがわれるといったものなのでしょうね。そしてその混乱を生んだ最たる理由のひとつには、もしかしたら梓の存在があるのかしれないのであり、なぜなら梓を出したことによってそれまでただ単純にある閉じた空間においての閉じた関係性の変わり映えのしない日常を主に描くことに注力してきた本作が、いきなり音楽と仲間の関係性について見直さざるをえなくなったからで、梓が登場して以降の本作の状況は、ま、あまり評価できるものでもなかったのでしょうね。というのも、何をしたいのかがあまりに分らなくなっていたからでしょう。それに比較して今回は、少なくとも律と澪の微妙な間柄というテーマを中心に構成されていたために、視聴者としてはどこに注目して展開を追えばいいかが、非常に明瞭に伝わってきた。ま、これはいいことなのでしょうね。それまでの本作のぐだぐだっぷりに比べれば、よほど上等といったところでしょう。」
「そこで次に問題になるのが律と澪のつながりに関してなのだけど、私自身はとてもおもしろく見れたので、その私の個人的な興味と好みの点に限定して語るなら、今回のエピソードは、うん、すごく楽しかった。というのもたぶん今回の騒動の原因の一端には二年生になった当初の律と澪のクラスが離れちゃったっていうあの場面があったように思われるからで、それがなんでかなっていえば、あのとき澪ひとりが疎外されちゃったって感じてただけのように私は見たけど、その実、澪と離れたことに何より寂しさをおぼえてたのは、それが自覚されてたにしろそうでなかったにせよ、律本人にちがいなかったのじゃないかな。というのも律の澪の構い方には律自身はたぶん無自覚的であったろう頼りない澪を支えるのは自分しかいないって自負心と‥これがもっとも顕著にあらわれたのは一年のときの学園祭かな。ヴォーカルを務める澪の緊張をそれとなくほぐす律の気遣いは、よく描写されてた‥澪に対する一方的な、あるいは双方的な、依存心があったのであって、和と澪の実際にいっしょにいる場面を目撃したことにより、律にそれまでよく自覚的でなかったその思いが一挙に今回意識のうえにのぼったであろうことは、たぶん疑えない。そして澪に対する距離感のとり方が、その彼女に対する独占欲の自覚によって、わけわかんなくなっちゃったのが今回の律の澪への過剰なふるまいであったのであり‥これは律が体調を崩してたことも大きく関係してるのだろうね。そこらへん理由づけを今回の「けいおん!」はとても上手に処理してる‥あの痛々しささえ感じちゃう律の行動は、彼女の精神的な落ちこみをまったくよく映像として形に結実することに成功してたのじゃないかなって、私には思えたかな。なぜなら単純な嫉妬に駆られて参る繊細な心理の、その子どもっぽさをこそ、今回の律の姿は象徴してたにちがいないのであろうから。」
「以前、梓は澪に外でバンドを組まないのかと問うていたけれど、人見知りの澪がそんなことできるわけもないだろうことは唯たちには承知のうえのことだったのでしょうね。そして律もその点に関してはだから不安はなかったのでしょうけど、しかし軽音部の外の世界、つまりふだんの澪がどのように生活しているかについて、とくに和との関係性においてどうだかは、少し不安を心中に萌す部分があったということが、ま、今回のドラマの要諦であったのでしょうね。もちろんふつうの状態の、つまり体調が通常の律ならば今回のように極端な行動には出ないのでしょうけど、その過度なわがままな振舞いの原因として風邪をもってきたことは、違和感のない説明としては十分で良かったと評価できるのでしょうね。ま、幼なじみ故の微妙な関係性とその距離感を、今回の澪と律はよくあらわしてくれていたということでしょう。なかなか良かったかしら。この調子で最終回を、では期待するとしましょうか。どうなることか、楽しみよ。」
2009/06/11/Thu
「おまたせしましたの「スケッチブック」コミクス6巻目。今回もいつもとおりの内容のほんわか気分。空と夏海と葉月はお変わりないようでけっこうかなだし‥余談だけど空をとおして何度も示されてる小箱とたん先生の猫遭遇率ってどれくらいのものなのかな。ふだん生活しててそんなに猫に会うのかなーって疑問に思うのだけど、そんなに猫いないよね?って思っちゃうのは私があんまり外に出ないせい? うーん、あ、でもこのあいだ窓を開けておいたら猫が部屋に入ってきたことあった。それでね、私のおいといた本に興味を俄然と示したから「君も遠藤周作に関心があるのかー」みたいな猫との共感の瞬間。でも家のなかにずっといられると困るから、そののち外に出てもらった。私の住んでるとこは、なぜか野良猫が多い‥ケイトのボケキャラっぷりはいよいよ壊れてきちゃったかなって思われちゃうくらいだし‥また余談だけど、ケイトの日本語についての論理的疑問というのは、これは言語学的に見た場合きわまて妥当でさらにおもしろい問題を提起してるものでもあるのだよね。たとえば
池上嘉彦「〈英文法〉を考える」は、日本語と英語のごく基本的な特徴のちがいと日本の英語教育によって知らないうちに身体に馴染んでる英語に対するちょっとした誤解をよくまとめてる。主語と述語を中心にして論理的に組み立てられた西欧語と、独自の非論理性って特徴を備えた日本語のその相互間のギャップを埋めるうえでは、本書は有益な示唆を提供してくれるのじゃないかな。たぶんケイトもこの手の本を読んだならぼける必要性がぐっと減るかもだけど、ケイトってけっきょく何人なのだろ。うーん‥春日野先生のぐだぐだぶりはもはやほかの追従をゆるさないくらいになってきちゃったのじゃないかなって思われた。‥今気づいたけど、美術部のくせに6巻で美術のネタがなんにもない。なんてまんがだ。すばらしい。」
「虫だの猫だのはこれでもかというくらいに過剰に描きつづけている割に、題名にあるかのような美術についての話は、回を進むごとに見受けられなくなっていくのは、いやはや、良い意味でもさすがとしかいいようがない点になるのでしょうね。ま、春日野先生が石膏像をいつになっても破壊しつづけているのが唯一の美術部ネタといったところかしら? それもどうかだけど。あとはそうね、海水浴に行く話に顕著にあらわれていたようにも思うけれど、ああもひたすらだらだらの計画性なしの何をするわけでもなく何をできたものでもない海の一日のさいごで、楽しかったと朗らかにいってのける先生の態度には、なんか逆にもう見習うべきものがあるようにさえ思えて、はてさてともいえないかしらね。まったく晴れ晴れしいくらいに天晴れな性格よ。春日野先生も、良いかどうかは分らないけれど、とにかく、おもしろい先生とはいえるのでしょうね。良いかどうかは、ま、分らないけれど。」
「猫ってあんなにいるものなのかなー、と考えてると、ふと記憶を遡るとけっこう身の回りに猫はあんがいいるものかなって思いを新たにする。そういえばそんなに猫って見かけないこともないものね。それに私ペットは飼わないことに決めてる人だけど、それがどういった理由からかなっていえば、私のばあちゃんにいい含められてたことが関係してて、それというのもばあちゃんは以前猫飼ってたことあったのだけど、一度いっしょに暮してつくづく懲りたからってよくもらしてた。どんなふうに懲りたのかなって当然ふしぎに思うのだけど、ばあちゃんがいうには子猫のころは小さくてかわいかったけど、大きくなるにつれてえさをやるのがどんどん癪になってくるからだめだ!って、こう私にしみじみ語るわけ。それでそれをきく私はばあちゃんはそんなだからでぶでぶ太ってるんだよって呆れていいたくなるのだけど、でも呆れると口もききたくなくなるから、やっぱり何もいわずに成長してあんまりかわいくなくなった猫が太ったばあちゃんにお前はかわいくなくなったっていわれながらもえさをねだってる場面を心のなかで想像するだけだった。‥今近所にいる野良猫も、やたら大きく体格よくて、野良のくせになんであんなに恰幅いいのだろって疑問に感じるのだけど、うーん、だれかえさやってる人いるのかな。それとも栄養あるものこのあたりにあるのかな。こんど、あいつにきいてみよう。それがよろしかな。」
「猫の写真なんかも売ってるのは分るのだけれど、ああいうのは何かしらね、なぜか手にとってみる興味も起きないのよね。それは空がいうように触れない猫は精神衛生上よくないからというよりも、単に私たちがそれほど猫にこだわりがないためなのでしょうね。ま、たとえばボードレールなんかも猫好きでたまらなかったみたいだし、この前久しぶりに読み返したポーの「黒猫」も作者本人の猫に対する強い執着がなければ、到底、発想しえない物語ではあったのでしょうね。逆に遠藤周作なんかは犬やインコが大好きだと告白してるし、はてさて、文学と動物の間柄も、それだけでひとつの研究に値する課題とはなるのでしょうね。動物を主役にして小説を好んで書いたジャック・ロンドンのような人もいるものなのだし、なかなかどうして、動物というものは巨大な精神的な意味性を人間にもたらしつづけた存在のひとつには、ま、ちがいないのでしょう。そう考えていくと、動物というのは奇妙なものかしらね。おもしろいものもあるかしら。」
小箱とたん「スケッチブック」6巻
2009/06/10/Wed
「今回は全体的によかったかな。とくに自室で見舞いに来てくれた裕理の声に一瞬喜びを感じるのだけど、そのすぐあとにましろもいっしょだったという現実を突きつけられちゃって、なおかつ裕理の白々しい、あるいは無思慮きわまる態度を真っ向から浴びて暗く絶望に沈んじゃうアメリの心理の一連の過程は、応龍のいうとおり「だれもお前のことなんて考えてない」っていうまさにそのとおりの顛末であって、ましろはともかく裕理はほんとアメリの気持をてんで考えてなかったっていうことが今回露見しちゃった成行は、とても非情に描かれてて感心しちゃった。そしてこの裕理の仕打ちはアメリにとっても最終勧告のようなものであったのだろうし、彼女が長いあいだ思いを寄せてた裕理からの決別は、彼女のそれまで育んできたろう恋心を一転して憎悪に変えうることは必至であったろうし‥好きの反対はきらいでなくて無関心。だとすると自分自身の好きって気持が現実という壁によって無下に否定されたとき、その思いいれが手のひらを返すことはある意味しかたないのかもしれない。なぜなら好きという気持には、それを意志することによって支えつづけてきた決して少なくない時間と、また仄かな恋慕を身内にやつすっていう隠微でそしてそれでいて無害な快楽を与えてくれてたものという意味あいが、おそらく免れなくあるであろうから‥とくに裕理の仕業は、アメリなんて何等自分にとっては問題でないよっていうことを暗に示すある種の陰険さに満ち満ちたものであったことも関係して、アメリが突き落とされた悲しみの淵は、単純にふられるていどのものを遥かに越えちゃったのだろうな。‥彼女の境遇は、だから、かんたんに彼女の責に一方的に帰していいものじゃないものかもしれない。アメリはもっとやれることはあったろうけど、裕理は敵を作りすぎだものね。彼女も不器用だけど、裕理はそれに輪をかけて人間関係に無頓着すぎ。たぶん、彼はアメリだけでなくてほかにも方々で恨みを買ってるように思われる。長生きしそうに、ない人かな。」
「ましろも裕理に誘われただけとはいっても、のこのこついて来てしまっているのだからそのアメリに与えた悪影響といったものは少なくはないのでしょうね。というのもどうにもましろ自身も裕理に対する執着心が強すぎるように思われるからで、彼女が裕理の傍を離れずに今回のようなアメリが追いこまれている危険な状況を十二分に承知していながらも、アメリの部屋に裕理のほかならないパートナーとして、その存在感を見せ付けるようにふるまってしまったことは、アメリにとってはこのうえない嫌味としてしか機能せずにはいられなかったでしょう。もちろんましろはその夜裕理にアメリについてのフォローを行っていたけれど、あれもどうなのかしらね、遅きに過ぎるといった感じで、二人が結局のところ根本的な部分でアメリのことをそれほど大切に思っていないということは、当らずとも遠からず、完全にまちがいというわけはないのでしょう。もしかしたら、これは最悪な想像になるのでしょうけど、アメリは共存を阻む最大の敵としての意味性しか裕理たちにはもはやないのか知れないかしらね。ま、なかなかシビアな展開かしら。アメリに対して極端にシビア、という意味においてだけど。はてさてね。」
「応龍がましろたちがあらわれなきゃアメリの日常は変わらなかったんだよって説く場面は、ある意味これまた応龍のいうとおりであって、現実の自分の状況をいくらでも憂いてるだろうアメリの心中においては、彼女はましろがあらわれなかった現実をきっと何回も夢想だにせずにられなかったろうとは、たぶんまちがいなくいえることじゃなかったかな。そしてこの「もしもあんなことになってなかったなら」っていう言葉において示される、人の悔恨の情といったものこそは、たぶん人の種々の感情のなかでも、とくに扱いと考えるに困難な問題を与えるものなのだと、私は思う。というのも、「私が何かを悔いている」というとき、その私が悔いる対象というのは畢竟「過去」にほかならないのであって、悔恨というものは常に「過去」に根ざす「現在」の私の状態って定義することが可能になる。そして過去というものは、それが過去である限りにおいて、奈落の底に沈んでる、一度過ぎ去ったなら二度と手に再び入らないものであるくせに、人の「記憶」‥記憶は「現在」しか意味しない。「現在」にしか記憶は存在しないのであり、人は「過去」はぜったいに想起しない。想起したと思った「過去」は、「現在」に立ちあらわれる「事実」そのものであろうかな‥というものが、まるで「過去」が再現可能であるかのように、人を錯覚させてしまう。‥恋愛という場において、過去がどれほど無意義であるかは、いわずもがなといったとこかな。「もうあの人はあなたを好きでない」。‥この言葉に、なんの過去が太刀打ちできるだろう。でも、そう、まだ「未来」がある。「過去」の与える憎悪を受けるべき「未来」がある。その未来は、万人に平等に、訪れる。」
「過去は消えず、過ぎゆくのみといったものかしらね。ただ、なんていうのかしら、過去はもう元に戻らないし、今いるこの現実においてはなんの意味も利益ももちえないということを十分に理性的に納得してはいれど、それでも人というのは過去をなつかしむ、もしありえたかもしれない可能性といったものを想像せずにはいられない存在であるのでしょう。そして、なぜそのような心理が生まれるのかと問えば、人には自分と乖離した自分の成功へのあこがれを、抑制できないからなのでしょうね。私は私であるほかないのに、成功した私もあっただろうと、夢見てしまうものなのでしょうね。しかし、そうね、私は私のほか、今のこの私のほか、ありえないのよ。成功も失敗も、私の孤独と不可分よ。そしてそれを否定してしまったとき、過去は「死」を語り出すのでしょう。過去が未来を死に変える。ま、はてさてね。ありえたかもしれない未来とは、本当に残酷な幻想でしかないのでしょう。悲しい話ね、まったくに。」
『人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。もし一切が必然であるなら運命というものは考えられないであろう。だがもし一切が偶然であるなら運命というものはまた考えられないであろう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味をもっている故に、人生は運命なのである。
希望は運命の如きものである。それはいわば運命というものの符号を逆にしたものである。もし一切が必然であるなら希望というものはあり得ないであろう。しかし一切が偶然であるなら希望というものはまたあり得ないであろう。
人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。』
三木清「人生論ノート」
2009/06/09/Tue
「昭和二十九年に連載され翌年に単行本として刊行された「みずうみ」は、それまで日本の自然性すなわち伝統的なこの国の叙情性を中心に描いた小説を執筆することによって賞賛されてきた川端康成の作風からよほど乖離した異常な内容と当時はみとめられた一作であり、そのころにおいても名声華々しく多数の賛同者を得ていた川端の存在だったのだけど、本作はその基盤を一挙に動揺せしめる、川端文学の愛好者たちにとっては衝撃的な一作となったのだった。それはこの作品を読んだあとに熱心な川端読者や批評家が次々と本作についての苦言、嫌悪を呈せざるをえなかったいう事情からも察せられることであろうし、また実際に現代においてもこの書を一読してみるなら、本書がもつ内容の斬新さと提示する主題の深刻さといったものは容易に理解できると思う。というのも、本作は種々の観点から考察することができる強度の厚い一作ということを鑑みても、私にはあるひとつのテーマがこの作品の中核にあることは疑えないのじゃないかなって思われて、それがなんなのかなっていえば、本作が描いたのはある少女愛に憑かれた男の破滅に至る人生の悲劇性、それこそが川端の目指したところにちがいないのでなかったかなって思われるから。‥本作のもつ、この痛み、悲しみ、切なさは、たぶんこの作品の主人公の心理に一度でも接近したことがある人なら、あるいはこの哀れな男の心の裡を見透かすことのできる経験を経た感受性のもち主なら、見過せない何かがきっとあるはず。そして逆にいうなら、この男のおかれた境遇の原因というものの深奥に気づけえなかったなら、本作はただ気持わるい人間の滑稽な戯画としてしか映らないのだと思う。そしてそれはそれで、ぜんぜんわるいことでない。その微妙さが、たぶん本書の魅力の大部分の拠るところでもあるのかな。」
「物語は銀平という三十半ばのある男性を中心に描かれるものであり、この男がどういった男なのかといえば、ま、一言でいうなら少女幻想にとり憑かれた男、あるいは通俗な表現を借りていうならロリコンの典型といったものになるのかしらね。というのも銀平はまず高校教師であったのだけど、ある受けもちのクラスの美しい生徒に心惹かれ、とある日、彼女を尾行するのよね。この尾行というのが本作のキーのひとつであるわけで、銀平は美しい少女を見かけるとそのあとを追跡することに異常な魅力と執着を感じるといった性質の人間であり、銀平はついにはその少女と関係を結ぶ。だがしかしそれが露見して銀平は職を追われ、社会的には落伍者となってしまうのだけれど、彼の内奥にある、なんていうのかしらね、性という幻影の熱情の火は、彼をしてきれいな存在、少女への憧憬を捨て去らせはしなかった。ま、何かしらね、川端という男が本当にとんでもない人間であった理由が、本作には過不足なくうかがえるでしょう。もしかしたら、この銀平という男にいくらか共通したものを感じなければ、ロリコンというわけはきっとないのでしょうね。それくらい、銀平は切実な存在であるのよ。」
「ロリコンって言葉は多くの人に流行でただ使われちゃってる陳腐な言葉に墜しちゃった観のある昨今だけど、でもほんとのロリコン‥もしそんな表現が可能なら‥があるとしたなら、その存在はたぶん本来的にあどけないものにちがいなくて、そしてそのために真実ロリコンだっていいうる人は決して多くはないだろうって思われるから、かな。‥ロリコンに限らず、あらゆる性的倒錯と呼びうるもの‥同性愛や人形愛、露出症にネクロフィリアに至るまで‥は、それがその与えられた個人に本来的にやむにやまれないものとして感受される限りにおいてなら、そうなること、そうあることがその人にとっての避けられない自然体でこそあるのであって、個人に抜きがたくまとわりつくエロティシズムといったものは、それ自体が個性というより以前の宿命に似た存在の発露なのだって、私は感じてる。そしてそれだからよきにつけあしきにつけ、性の行為と性の幻想には純粋性がかならず付随してあらわれるのであり‥サド侯爵の、あの子どもらしい残虐場面の数多の夢想や、谷崎の獣じみた精液のかかる文章、三島の肉体への青白い過度の劣等意識を、私たちは思いだしてみるべきかな。あるいはナボコフの観念の遊戯や、キャロルの永遠の子どもの遊技場の妄想をこそ、想起すべきなのかもしれない‥エロティシズムのどうしようもない人間らしさ、性の妄執といったものは、私には人間性を問題にするときは、ぜひに直面しなきゃいけない課題のように思われる。‥本作の主人公である銀平は、もちろん人間的にはどうしようもないのだけど、ただひとつだけ、彼は少女がきれいだなって思ってる。そしてその思いの美しさだけは、何かな、奇妙なくらいに信じられちゃう。それが本作の、たぶんいちばんのパラドクスになるのかな。‥ロリコンを知る人にとって、これはパラドクスでもぜんぜんなんでもないのかもだけど、ね。人の心とは、こういった闇の美しさを、どこかに常に秘めている。」
「人間がきれいだと人間にあこがれる感情こそが、もしかしたら性的倒錯のすべての根本原因を成しているのかもしれない、か。はてさてね。ま、しかしそれにしても、ロリコンにしかりなんにしかり、どうして人間には性なんていう訳の分らないおもしろいものがついて回るのかしらね。もちろん性欲というものがなければ生物が存在しえないという理屈はあるのでしょうけど、しかしなぜ生命が性なんていうややこしいシステムを導入したかは、まったくはてさて、理解に苦しむといったところでしょう。それに人間というものは性欲が一旦満たされればそれでおしまいというものでもなく、即時的な快楽よりもさらに恒久的な美にあこがれる、そのような形而上的な傾向が人間には免れなくあるのだから、本当、不思議なものといえるのでしょう。それはたとえば、子どものころの銀平の思い出が、あんなに美しいのに涙が零れてしまう哀愁に浸っているかのように、かしらね。性と人間の間柄とは、それ故、いつも切なく語るほかないとも、さてはいえることなのでしょう。悲しい小説だったかしらね。まったくに。」
『銀平は欄干を離れて、町枝のうしろへ忍び寄った。ワンピイスの木綿は厚いようだった。蛍籠をさげる針金が鍵型なのを、町枝のバンドにそっとひっかけた。町枝は気がつかない。銀平は橋のはずれまで行くと、町枝の腰にぽうっと明るい蛍籠を振りかえって立ちどまった。
いつのまにか腰のバンドに、蛍籠がひっかかっていると、少女が知った時にどうするだろうか。銀平は橋のなかほどにもどって人ごみにまぎれながらうかがったって、なにもそう、少女の腰をかみそりの刃で切った犯人ほどに、おそれることはあるまいに、足が橋をうしろにして行った。この少女によって今、銀平は心弱い自分を発見した。発見したのでなくて、心弱い自分に再会したのであるかもしれない。そんな風な自己弁護みたいなものにうなずいて、橋とは逆のいちょう並木の坂道の方へしおしお歩いた。
「ああっ、大きい蛍。」
銀平は空の星を見て蛍と思って、少しもあやしまなかった。むしろ感動をこめて、
「大きい蛍だ。」と、もう一度口に出した。』
川端康成「みずうみ」
川端康成「みずうみ」
2009/06/08/Mon
「ドラマ構成の見事さについてはいわずもがな。このタイミングで作中かけがえのない魅力を放ってたヒューズ中佐を退場させる英断が結果として物語の謎とその奥行をぐっとふかめることにつながってることは明瞭であるし、視聴者の視点からみるならだれが敵で何が真実なのかわからない状況でのもっとも頼れただろう個人のあまりにあっさりとした死の描写は、本作が仮借ない非情なリアリズムによって支配されてることをよりよく私たちに認識させることに成功してることをとりもなおさず保障するのであり、そのお陰で作品全体の緊張感がいや増したことは疑えない事実だろうって思われる。それに今回感心させられたのはアバンでかつてのイシュヴァールの内乱の場面を描写した点に求められるのであり、それはなぜかなっていえば、ここにおいて過去のヒューズ中佐とマスタングの関係性の成り立ちをふり返ることによって、その印象的なモノローグと戦災によって煤けてる過去の二人の立ち居ふるまいが、二人が同じ体験とそしてその体験によって得た共感をもとに築きあげられた生半でないつながりであったことを、まずまちがいなく視聴者は思い至らせられるにちがいないのであり、それが終盤のマスタングの「雨が降っている」という台詞にあらわされる悲劇性を意味深にし、また両者のあいだの別離を確定的なものとして演出して、そしてなおしずかな叙情性を湛えて画面に表現されればこそ、この今回のエピソードのふかみといったものは、実に感に極まる余韻が生まれるのだろうな。‥うん、今回はとてもいい。ハガレンのおもしろさ、その魅力が十二分に結実した一話だったと思う。さすがかな。」
「マスタングとヒューズの他者にはうかがい知れないだろう、言葉に表現することのむずかしい関係性のもたらす重みとでもいったものが表現されているのかしらね。それはすなわち二人の、そしてその背後にあるだろう膨大な数の人間が経験した過去の内乱というキーが介在してはじめて成り立つことであるのは明白なのであり、あの危機的な争闘を経た人たちのなかでマスタングやヒューズと同様の思いを抱いた人々が決して少なくなかったからこそ、こののちのマスタングの躍進といったものは説得力を獲得することになるのでしょうね。それにあとひとつ付言しておけば、ヒューズが殺されるに至った経緯の物語的な意味での核心には、彼らがそのとき目標に抱いていた「この国を変える」という切望の源を形成した共通経験であるイシュヴァールの内戦と、それに類するだろう数多の戦闘が、実は裏でだれかの意志のもとに為されていた確信犯的行動の結果であったという事実が秘されていることは見逃してはならないポイントなのでしょうね。べつな言葉でいえば、イシュヴァールがだれかの手による犯罪的行為であったという真実にふれえた最初のひとりがヒューズであり、それが今回の話の悲劇性の最大の構成要素であるのでしょう。これはなかなか、重くない響きがあるかしら。」
「軍人であるなら戦争に駆りだされるのはしかたない。もちろんそこにいくらかの逡巡‥たとえばアームストロング少佐に示されるような‥が拭いがたく覆い被さるだろうことはいえるけど、でも戦うことの正義と、戦わざるをえない現実へのあきらめと、そして戦うことによって得られるかもしれない未来への希望があればこそ、おそらくヒューズやマスタングは露命をつなぐことが可能であったのであって、それはすなわち戦争が不条理に起るもの、ある種避けがたい宿命として認識されればこその話であった。‥でももしその戦いが、あるだれかの姦計に拠るものであり、多数の犠牲者がある個人の、またはある集団の狙う意志の筋書きによって進行したものと考えるなら、前述した不条理な戦争に臨んだ人たちの決意といったものは無残に瓦解するにちがいないのであって、それがどうしてかといえば、悲劇は避けがたく天災として個々人に降りくだるから悲劇としての資格を有するのであり、もしそれがあるだれかの掌中の出来事として愉快に操作されていたとするならば、戦争の英雄とは一転して戦争の首謀者の傀儡、つまりピエロにすぎなくなっちゃうのは自明の理であろうから。‥そしてその理屈でいうなら、あるだれかの意志によって戦いが起され、人を殺し殺されたとするなら、それはいちばん大切な、無視しちゃいけないものであるだろう、人の尊厳としての意志、意志ある人の生き様をこそ侮蔑するものにほかならないのであり、その他者を見下す「傲慢さ」にさいしょに気づいたのが、つまりヒューズ中佐であって、今回の物語の悲劇が、正にその代償だった。‥おもしろい。ハガレンのこういった物語の構造は、ほんとにおもしろいものある気がする。私は今まであんまりこの作品をそれほどふかく考えてこなかったけど、今回のアニメ化はよく本作のストーリーの意味性を検討する機会を、私に与えてくれてるものになるのかな。それは、なかなかよいことなのかも。だって、この作品は、興味ふかい。うん、次回も楽しみかな。」
「ある国民全体を縛る共通体験なるものは、実質的に現代社会においては戦争くらいしかないのであり、戦争のない時代の世代にその世代を拘束する共同の体験なるものは、ま、ないといっていいのでしょうね。そしてそれだから日本においては世代なんてものは戦中か団塊かくらいしかないという議論ももしかしたら可能なのかもしれないのであり、たとえば遠藤周作は戦争に行かなかったことにコンプレックスを感じている男の小説を書いたものだったけど、そういうことは世代の意味あいについてひとつの示唆を私たちに提供するものともいえるのでしょうね。それ故、ま、それをハガレンに適応していうならば、いわゆるマスタングたちのイシュヴァールを経験した世代といったものの共通の怨敵といえるのがホムンクルスであるとも、さては指摘できることなのでしょうし、それだからマスタングの思想の背景にはよほど重い人々の思いといったものが隠れているとも、はてさて、いうことは可能なのでしょうね。ま、いよいよおもしろくなってきたかしら。この調子で本編が加速していくことを期待しましょうか。次もまた楽しみよ。はてさて、どうなることかしら。」
2009/06/07/Sun
「安部公房の芥川受賞作である「S・カルマ氏の犯罪」、その同年に発表された「バベルの塔の狸」、そして前二作の前年に発表され戦後文学賞を受賞した「赤い繭」の三つをあわせて昭和二十六年に刊行された「壁」は、著名な安部公房の代表作としていちばん世界的に名の知れてる作品じゃないかな。そして私自身も上記に挙げた三部からつくられるこの一冊こそはまったく疑うことなく安部公房の作家としての性格と独自性を簡潔に、またそれゆえに美しく表現しきった作品って印象を与えられてるのであって‥たとえば固有名詞のない、あるいは希薄な個人としての属性を剥ぎとられた放浪する孤独な人間を主に描く、安部公房の特異な小説のスタイルがこの三部作では殊に顕著かな。あるとくていのだれかでなくて、名前も顔も、そのキャラクターの来歴さえ読者は知ることなく、そのキャラクターの物語を読者は読むことになるのであって、それが意味することは個性なきドラマ、過去や記憶、思い出を喪失した地点に存在する人間の彷徨であり、あるいはもしかしたらメモリーの欠落こそが生みだすことが可能になる赤裸々な抽象化された人生の裸形であるのかもしれない。そして、これらの創作作品の特徴は作者の意図するところでたぶんあったのだろうなって、私は思う‥この「壁」という作品のもたらす理路整然とした混濁とも形容すべき内容は、それ自体がひとつの不安の塊であるって、読む人は折に呟かざるをえなくさせられる類の不可思議さに満ち満ちてるって、私はそう感想を述べずにはられないかな。‥安部公房の見たものとは、いったいなんだったのだろう。私は、安部公房の世界に対する姿勢とその小説作品にかならずしも愛着をおぼえるとはいえない私は、でもその一点に関してはひどく興味を感じられてならない。安部公房に、この経験の真正直な蓄積ともいうべき作品を筆致せしめた動機は、なんだったのかな。私はそれが気になる。気になって、ある意味、しかたない。」
「何が安部公房にこういう理屈っぽく、それでいて幻惑的な中身の小説を描かせしめたのかという、ま、一連の疑問でしょうね。そしてこの謎は多かれ少なかれ安部公房の諸作品にふれた人は覚えずにいられない類のミステリーにちがいないのでしょうし、この思わず吐気を催すかのような幻想の数々に魅力を覚えるか否かといったところが、おそらく安部公房のファンになるかどうかの岐路であることもまずまちがいないことではあるのでしょうね。はてさて。ま、それでは一つひとつの作品を個別に見ていくとしましょうか。まず芥川賞を獲得した「壁」は、みずからの名前を喪失したある男の物語であり、この名前を失くしてしまうといった設定が如何にも安部公房らしいといった点であることは、多くの賛意を得られる部分であるでしょう。名前を失うとは、しかもそれが比喩でなく字義通りの意味でだとするならば、これはいったいどういうわけなのかしら? ま、読者は第一にそこでみずからの生きる社会の常識に外れたこの小説の神秘に突き当らざるをえないのでしょうし、この小説の深奥は、そこからさらに深い地点にあるのよね。おもしろい話よ、これは。」
「私たちのふだんの常識に真向から反するかのような設定や装置を導入することによって、人間存在の日常からは隠蔽されてる孤独の秘密をうかがおうって試みることは、文学の領域ではすぐにカフカやカミュの存在、あるいはサルトルやバタイユの思想を思い起させちゃうものであることは明らかなのだけど、安部公房の小説には安易に実存というタームのみで迫るには少しきびしいかなと思われる面があるのであって、それが安部公房をシンプルにカフカの亜流といった位置におかないひとつの決定的な要因になってるのじゃないかなって、私は考える。‥もちろん不条理性といった面から私たちの世界を文字通り切り崩す作風であるって点においては、カフカなどと相通ずるものがないことはないのは自明であるのであり、それら現実を平凡な意味において受けとることを複雑に拒絶するといった作品の感性が、単純に安部公房を日本の作家でなくてユニヴァーサルな立ち位置にする説得的な根拠であることもまた私は否定しないのだけど、ただ何かな、安部公房にはカフカが与えるような「不安から来る暗さ」が、どこかない。「実存」っていう言葉がもつ重さと、その言葉が抱える歴史的背景の帯びる陰惨さを、安部公房はどこか免れてる。そしてそれだから、私はこの「壁」という作品がもちえた意味性は、もしかしたら作者である安部公房自身の「世界の見方」の真率な告白でこそなかったのじゃないかなって、そんなことまで考えるほどになっちゃってる。‥ね、もしかしたらほんとに、この「壁」は安部公房自身の、ううん、安部公房に類するだろう感性と想像力のもち主の一群が抱くだろう、世界の直接的経験の文章によるたったひとつの本能的な告白でこそなかったって思わない? ‥そう私は考えると、私はこの作品の衒いない感情の理論的な叫びのような表現と、ある端々にうかがえちゃう書き手の倦怠のような呻き声の成り立つ理由が、見えてくるような気がする。‥壁のもつ意味性は、全宇宙的だ。だからこの作品もまた無個性的に存在する。私は、そんな論理を思い立つかな。この作品の読後感はあんまりわるくない。それはこの作品が、個性を否定してるから。」
「個性なく、そして個人という名がなければ、畢竟、孤独もありえなくなるだろうから? はてさてね。‥二部の「バベルの塔の狸」もまた単純な筋や感想を述べるということはむずかしく、安部公房の作家としてのイマジネイションが縦横無尽に展開した、ある意味痛快な一作であることはまちがいないのでしょうね。ただラストの展開に至ると、これは突飛さをさいごまで残した「S・カルマ氏の犯罪」に比べると、対照的な成行にも思われるから少々おもしろいかしら。そしてつづけて三部の「赤い繭」は短編を四つ集めた構成で組み立てられているのであり、このなかではとくに「赤い繭」と「洪水」が非常に個人的には興味深く読めたかしらね。「魔法のチョーク」は少し教訓的に読めてしまうきらいもあるでしょうし、「事業」も実にアイロニカルな構成だけど、そのテーマ性は日本的ではないでしょうね。ま、本当に楽しめる小説であるよ、この「壁」は。安部公房の所以をうかがうには最適の一冊じゃないかしらね。楽しくて良かったかしら。本当にね。」
『プラタナスの並木の下で、さっきの画家がさっきのままの姿勢でじっとしておりました。その足元では浮浪児がやはりしらみをとっておりました。すれちがうとき、振向くと、カンバスはやはり真白のままでした。思わずぼくは聞いてみました。「何故お描きにならないんですか?」「待っているんです。」画家は真すぐ前を見たままぶっきら棒に答えました。「何をお待ちになっているんですか?」「何を待っているか、それが分るくらいなら、誰も待ったりはしません。」
ほんとうにそうだと思い、ぼくはまた歩きはじめました。』
安部公房「S・カルマ氏の犯罪」
安部公房「壁」
2009/06/06/Sat
「すばらしいっ。もうこの手のお話はとことん私の気に入るとこで、仲よくなれた晶とひよりの初々しいやりとりはよきかなよきかなよろしかな! とにもかくにも登場人物の少女たちの表情の華やかさと心理の揺れ動きの可憐さが見事かなって感心させられて、まるで晶の天然な性格に戸惑いながらもふとした折にうかがえる彼女の何げないやさしさに気づいて胸ときめくひよりに感情移入するかのように、私自身も彼女たちのかならずしも上手く行ったとはいえなかった不器用なファーストコンタクトから、徐々に互いを親身に思いあえるだろう、友情の仄かな予感を感じさせる交流の段階のていねいな描写には、これこそ人と他者との出会いの真率な偽らない関係性の構築への紛うことなき一歩目にほかならないのじゃないかなって思われて、とても満足、よく練られた完成度の高い短期連載だったって、感嘆してやぶさかでない。‥えへへ、「アキラとひより」はほんとに私の趣味そのものともいうべき展開で、なんだか意味もなくうれしくなっちゃうかな。こういうガールミーツガールは桐原先生の繊細な筆致がまったく十二分にあらわされるテーマだと思うし、個人的に桐原先生の作品のなかでもとくにぬきんでた一作だと評価してる「ココノカの魔女」は(→
桐原いづみ「ココノカの魔女」)、あるそれまで見知らなかった他者との出会いがその人にとってのちのち大切なものに思われてくその発展の段階をこそ切りとり、またそれをドラマという形においてきれいに構成してくっていう、友情とそれに類するだろう人同士の関係性のあいだに見晴かされる愛を描写しようと試みたものだって感じられてて、本作「アキラとひより」は私にはその系譜で読まれるべき、ある意味「ココノカの魔女」と同一の主題を扱おうとしてるものだって思われたかな。‥ひとりじゃ生きられない、生きちゃいけない人間の、他者との交流の話。それはあたたかく、そしてなんて魅力的なのかな。私はこういう話が好き。とても心惹きつけられる。」
「あら、久しぶりに絶賛ということかしら? ま、もちろんこの種の少女同士の交流を安易な型通りの心情表現で済ませることなく、細かい箇所まで繊細に扱い、たとえ一見して凡庸に、または赤面せしめるような心情や言葉であろうと、それらを真正面から描出しようと努める本作のようなスタンスこそは、青春を問題にする何等かの作品においては、是非に求められるべき要件であるとはたしかに指摘できることではあるのでしょうね。それになんというか、ひよりは小細工なく真正直に生きていて、見ていて気持がいいのよね。そしてそんなふうに衒わずみずからの思いを身体的に表現できるということは、それ自体がひとつの才能でもあるのでしょうし、その意味でぼんやりしたところのある晶とはなかなか相性がいいとも、はてさて、いえるのかしれないかしらね。この二人の今後の成行は、さてそういうわけで、興味あるものといえるでしょう。秋ごろまた再登場するそうだし、これは本当に楽しみかしら。」
「ひより、いいよねー。というのもそれにはいくつか理由があるのだけど、そのひとつをここでいっておくならば、彼女の美点はいみじくも晶が指摘したように、自分の思ったことをそのまま口に出せちゃうという点なのだよね。‥もちろんひより自身は自分のそういったとこをただやかましいだけって述懐してるし、ときと場合においてそういった癖がだれかを傷つけるかしれないということはたしかにいえることかもしれないけど‥ひよりは感情的で衝動的に何ごとかいっちゃう傾向のある人だけど、彼女自身がそれほど他者を思いやれないというわけでなくて、また本来的にやさしい性格の子だということが、彼女の多弁を魅力ある長所に変えてるのだろなって思うかな。世間には他者をそもそも念頭におく能力の欠けてる型の人がいるものだし、そういった人の一言こそは他人の心を無意識に抉るものであるかもしれないけど、ひよりは自分がいったことをそのあとで後悔できてるのだから、彼女がただがさつな人だというわけじゃないことはよく理解できる。でもそのあとでひとり泣いちゃうのは思い詰めすぎというものかなだけど、ね‥自分の思いを胸に秘めてるだけじゃなくて、それを伝えられるということは、たぶんいいことだと、私は思う。‥ひよりは、作中、晶のこといい人だと感じて、そしてそれを伝えるにはどうしたらいいんだろうって悩んでるけど、それは、ね、口に出して伝えたらいいんだよ。好きだという思いを告白することは、そう、わるいことでない。相手に対してわるいことでないし、それに何より自分に対して、告白ということはわるいことでないって、私はそう思うかな。‥好きという言葉は、墓までもってくものでない。告白してこそ、思いは報われるのだから。それにちがいないに決ってるのだから。」
「好きだという気持はほかならない好きだと思っている自分自身だけのものにはまずちがいない。ただしかし、そういう他者という別個の存在にからみつく思いというものは、ただ自分のなかに納めておくだけでは、ある種自分の孤独をさえがんじがらめに縛ってしまうという困った一面があるのであり、そういった好意の感情というものはそれを伝える機会と勇気があれば、ま、伝えたほうがいいとは一般論としてもいうことはできるのでしょうね。それに何かしら、好きという気持を自分のなかでもてあましていると、いつしかその気持を自分自身で否定したくなることもあり、そういうふうに一旦なってしまうと次々と自分自身に自分が嘘つきになっていってしまうものなのよね。そういうのは、さて、自分を自分の敵にするといったものでしょうし、健全な状態では、ま、ないのでしょう。人の心というものは、だから、むずかしいものではあるのでしょう。はてさてよね。本当に。」
2009/06/05/Fri
「前回の引きから考えた場合、今回はまず及第点の内容かなって感じられて、それというのもけっきょく梓が練習もあまりしないこの軽音部にどうして留まりつづけてるのかなってその決意と選択の問題についてはよりよく描写することが叶わなかったけど‥この前の話で梓を泣かせちゃうまでに追いこんだわりには、そのフォローが話のなかでふれられてないのはけっこう致命的に思えるかな。なぜなら梓という子の生真面目な性格と融通の効かなさから考えると、彼女は一歩まちがえると怠惰に陥りかねない軽音部に在籍することにそうとう表にはあらわさない葛藤を抱えこんでるのじゃないかなって予想されるし、さらにはそのことに周囲の先輩たちが感づいてあげられるとはとうてい思えないわけだから、一年生が彼女ひとりしかない現状においては、梓の立場といったのは微妙なものになっちゃうのは致し方ないことかなって思われるから。なかなかむずかしい内面が、もしかしたら梓にはあるのじゃないのかな‥でも毒にも薬にもならないだろう少女たちの何げない日常をそれそのものとして描きだすっていう、ある意味この作品の基本に立ち返ったこの10話目は、肯定的な意味で本作のあるべき姿勢をなんとかとり戻すことに成功した内容だったと、当面はたぶんいえるのだと思う。でもといっても、さすがにドラマ性といった面においては、あまりにもあまり、芸がなさすぎかなという気は免れなくあるのだけど、ね。‥たとえばクリスマスのお話のときみたいに、姉妹の絆といったひとつのキーを導入することによってあそこまで良質なストーリーを描きだすことができるのだから、一本骨の入った物語がどうして再び見ることができないのかなって、本作については少し奇異にも思う。四コマのそのままの再現だけでは、いよいよだれてきちゃったかなって気がするかな。その意味で、なかなかこの作品はむずかしい境に差し迫ってきたのだと思う。‥単純な、原作のアニメ化だけじゃ、捻りがない。そのさじ加減が、むずかしい。」
「ドラマがなさすぎるというのはいろいろな意味で致命的であり、またどうにもこうにももったいなさを感じさせずにはおかないといったところでしょうね。というのも本作についていえば、キャラクターの個性と魅力といった点についてはほかの多数の作品以上に評価することができないわけじゃないのであり、このメンバーを使って青春なりなんなりのテーマを掲げて物語を展開させれば、たとえそれが平凡なものであろうと、十分鑑賞に耐えうるものが仕上がるだろうと予感させられるからなのでしょうね。それはたとえばバイトやクリスマスといった状況設定において、それなりおもしろいドラマを生み出してみせた本作だからこそいえることであって、前回の外部のバンドを彷徨する梓といった姿は、それだけでも十分なドラマを予感させるに足るものといえるのでしょう。だから、さて何かしらね、今回の合宿の話は、どうにもこうにも単調すぎて感想も何も不可能でしょう。なぜならこの回は場面しかなく、流れがない。キャラクターの挙動しかなく、その挙動が必要とされる文脈がない。これでは高く評価するわけには行かないでしょう。なんとも少々、惜しいことよ。」
「原作にない要素をいろいろつけちゃって物語とこの「けいおん!」っていう世界を広げてみてもいいのじゃないかなって思われるから、かな。‥もちろんここの議論は原作付きアニメがどう制作されるべきかっていう人と立場によって多種多様な意見が発せられるだろう問題を前提として含んでるものではあるのだけど、でも本作に限っていうなら、唯たちっていうキャラクターがより多角的でふかいテーマ性のドラマに耐えられるだろう人格を備えた個性であることが映像化することによって説得的に広く知られることになったのだから‥本作は、これは極論かなだけど、彼女たちっていう人間の魅力それそのものにおいて、好評を博してるのじゃないかなって私は見てる。それというのもだって、ドラマらしいドラマがないこの作品においては、作品の魅力というべきものは唯たちっていう人間を提示することでしかないのだものね。だから私は唯たちそれぞれの個性は、個々に異なった魅力と可能性を感じさせる、類稀な造詣だって評価する。そしてそれだから物語性の希薄な本作のスタンスを、私はつよく惜しいなって感じちゃうのかな‥原作の忠実な再現に留まらない映像化を、私は期待してやまない。‥といっても、もうそれは今さらなのだけど。‥なんだか原作とアニメ化の関係性について、どこか考えさせられちゃうものが本作にはずっとつきまとってあるのかな。いろいろ、微妙な問題だとは、思うのだけど。」
「ま、この話だけでもいろいろとドラマの萌芽ともいったものを感じさせられるから、そういった思いは強くなるのでしょうね。たとえば唯と梓の部内での立ち位置といったものはおもしろいもので、唯は一種の天才でしょう。そしてこういうのはなんでしょうけど、世の中、どのような分野にも才能というのはあるものであり、そして才能があるだけでは実はそれほど意味がないということも、興味深い世間の事実でもあるのよ。あとはそうね、梓は練習が大事だとはいっているけど、ただ単にがむしゃらに練習すれば上達するというわけでも実際はなく、唯たち四人の演奏が良く聞こえるのは彼女たちがだれからも強制されない自主性において集まったメンバーだからだという理屈も成り立つ。そしてこれを元に梓が外部のバンドの様子といろいろ比較してみれば、梓が唯たちを選んだ理由というものが、もしかしたら見えてくるのじゃないかしら? ま、とは適当にいっても、はてさてね。物語性が薄いという点が本作の致命傷にならないことを、これ以降の話において、期待してみるとしましょうか。望みはあまりないかもしれないけれど、ま、楽しみにしましょう。どうなることか、期待ね。」
2009/06/04/Thu
「三木清は人間の本性が善であることを疑わしめるものに嫉妬の存在を挙げてるけど、それは嫉妬がほかのどんな情念よりも狡猾に人を働かせしむる性質のものであるからであり、嫉妬こそは悪魔の属性にいちばん適してる感情の種類であるからにちがいないって思われるからなのだよね。というのも嫉妬っていうのは一つひとつ考えてくとおもしろい特徴を備えてるものかなって興味ふかく思われてくるものなのだけど‥ほんとはそれに囚われちゃってる人にとっては、いうまでなくただ単に興味あるだなんていっちゃいけないのだけど‥それは嫉妬というのは愛と並んでもっとも人を作為的にさせる情念であるからで、それらはふだん何等考え事をしたりしない人のなかにもどんなふうにして意中の人を自分に向けさせられるのかなってことをたとえば考えさせるようにする。そしてそんなふうに理知が混入するために、本来なら瞬間的な威力を発揮するに留まるであろう情念の一種であるはずの愛と嫉妬とは‥たとえば怒りは感情のなかでもほんの少しのあいだしか持続しないものであるよね。短期間しか維持できないということは、感情というものの基本的な性格でもある‥意識的な作為が混じることによってその当初の冷めやすいっていう性質を喪失しちゃうのであり、知恵に駆られた人を使役する恋愛にまつわる情念は、かんたんに消えることなく長期にわたって人を縛りつづけるものになる可能性がここで生まれることになる。‥そう考えてくと、愛や嫉妬のもつ共通の性質というのが浮びあがってくるのであり、それがどんなものかなっていえば、それら二つはどちらも他者への渇望ともいうべき人の孤独でありたくないって願いから生じ、そして他者を得るために何ごとかを画策するという点で似てる性質があるっていえるのだよね。」
「ただしかしそれでも、嫉妬が悪魔の属性だと仮定するならば、愛は天使の属性だと看做さなければならないでしょう。ま、愛と嫉妬の相違点とは実に単純にいい切ることが可能であって、それが何かというのなら、まず愛は純粋でありうるというまったく簡明な特長によって規定することが可能であり、それに対して嫉妬は常に陰険な、個人のうちにこもるものという一点に関して、愛と相反する性質だと指摘することはできるのでしょう。もちろんそうとはいっても、愛と嫉妬が表裏一体の関係にあることは忘れてはならないのでしょうけどね。というのもなぜかといえば、愛と嫉妬を支える強さというものは共通のもの、すなわち想像力にほかならないからなのでしょうね。それらの情念は他者の身を思いやるといった同じ力によって、人の生きる力となっているにおそらく相違ないのよ。逆にいえば、想像力のない愛も嫉妬もないのでしょうね。思いやり、やさしさということもまた想像力に拠る力なのであり、その意味で嫉妬が悪魔だということは、はてさて、ある意味深な人間の真理を物語っているのかしれないかしらね。」
「人のもつ種々の能力のなかにあって、想像力ほど魔術的な力もまたないにちがいないと思われるから、かな。‥ふとこれは考えてみるとけっこうこわいことかなとも思われてきちゃうのだけど、人が何かを愛する、またはそれに嫉妬するといった場合、よく検討してみるとある個人が愛する対象というのはその対象そのもので実はない場合が多々あって、その個人が真に愛でてるのはもしかしたらその個人のなかの想像力が作り出したある何かであるかもしれないとは、いえちゃうことなのかも。そしてその文脈で愛と嫉妬その両方を仔細に見てみるなら、どちらも想像的な情念であることが十分に呑みこめてくるのであって、つまり愛もしくはやさしさは対象を労るために対象そのものの幻影によることだとするならば、嫉妬はその反対に対象を引きずり落そう、認められない自分自身を労るために対象の不当に歪められた幻影によることだって規定することが、もしかしたら可能じゃないかなって、そう私は思うかな。‥以上のことを私は今回のこの作品のエピソードにふれて、少しゆくりなく思ったのだけど、アメリという人がおかれた立場といったものは、もちろん彼女の意気地のなさ、その度胸を発揮することのできない不運なめぐり合わせを十分に考慮に入れても、まだ何か不憫に思えちゃう面があって、なかなかつらくもあるのだろうって、思われる。それというのも、だって、嫉妬っていうのは自分よりも幸福な状態にあるもの、またはあると思われるものに対して起るものであって、嫉妬が成立するには私も彼女とようになれるんだってあるていどの自負心がなきゃ、いけないものであるのだものね。だからアメリはましろに負けてないって心のどこかでは思ってるのだろけど、でもそこから先に一歩進み出すことができてない。つまりそれは勇気の問題に帰着することになっちゃうのだけど、嫉妬が勇気を与えてくれるものでその本質としてぜんぜんないことに、嫉妬の真の意味での悪魔的な相貌がうかがえてくるって、私には思えてくるかな。なぜなら対象を低めることこそ、嫉妬の本懐にちがいないのだろうから。」
「嫉妬は自分よりも幸福なものに対して起るが、しかし嫉妬自身は嫉妬の向けられる対象の位置に自分を高めようと仕向ける性質のものではまったくない、か。それに対して愛は自分よりまったく高いものに憧憬するといった性質のものであり、ここにおいても愛の純粋さと嫉妬の狡猾さの対照的な性格といったものが見えてくるといったものでしょう。ま、ただそうはいっても、むずかしいものでしょうね。というのも愛と嫉妬という相反すると思われるもの、またやさしさと妬みといったまるで正反対の気質といったもの、このどちらの情念も根本においてそれらの核心にあるのは想像力という力にほかならないのだから、人のもつ驚異的で神秘的な能力であるはずの想像力が、なぜちょっとしたちがいでこうも異なる影響を人にもたらすものであるかは、本当に奇妙な人間のあり方といったものを示しているにちがいないと感じられるからなのでしょう。嫉妬の底に愛がなく、愛のうちに悪魔がいないと、だれがいえるだろうか、か。まったくその通りね。愛も嫉妬も、元は同じものなのでしょう。ただその表出の仕方が、ほんのささいな生き方の相違によってちがってしまう。それはなんて皮肉な事実なのかしら。分らないものよね、人の情念というものは。」
『自信がないことから嫉妬が起るというのは正しい。尤も何等の自信もなければ嫉妬の起りようもないわけであるが。しかし嫉妬はその対象において自己が嫉妬している当の点を避けて他の点に触れるのがつねである。嫉妬は詐術的である。』
三木清「人生論ノート」
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true tears雑感 真心の想像力
2009/06/03/Wed
「アルの悩みはとてもいい。というのもそれはなぜかなといえば、この私という存在はどこまでが信じるに値するものであるのだろうか、私の記憶なんて実は作り物にすぎないのかもしれないのであり、疑おうと思えばこの世界に存在するものはどれもが信頼するに足るものじゃないのじゃないかなっていう一連の疑問の過程は、それ自体が本質的にデカルトのコギトに端を発すだろう西洋哲学のひとつの無視すべからざるタームであるのにちがいなくて、空虚な身体を‥文字通りの意味で‥抱え彷徨する魂であるアルの姿こそは、自意識と己の存在の意味性に不安と疑義をなくすことのできない近代人の苦悩する姿のある種象徴的な陰画として見えるのじゃないかな。そしてまた自分を支え経験してきたであろうことの蓄積として彼の意識に反映される記憶をこそ自分の実存を疑わしめるものとして懐疑するアルに対して、他者との絆をもち出してアルの苦しみを解こうとする今回のエピソードの展開は、根本的には私にはそれは問題のすり替え‥つまりアルはみずからの存在の確証をこそ欲してるのだけど、その疑いの根本には何があるのかなっていえば、アル自身のなかにある思い出への懐疑が根ざしてる。そしてそんなアルに対してエドは己の記憶、アルと共有した記憶から引き出せる感情によってアルの悩みをなくそうとするのだけど、でもほかならないその「記憶」っていうものそれ自体にアルは疑義を抱いてるのであり、ここにおいて自己の記憶と他者の記憶、この二つをどう扱い考えるべきかっていう問題が生じてる。要するに、アルの悩みの決定的な解決策というのは、ないのだよね‥にしか思えなくて、いずれアルはアル自身によって、アルただひとりによってまた同種の問題に突き当らねばならなくなるのじゃないかなって、私には予想させられた。‥意識と記憶、私と私という存在を思惟する何か。これらの問題は哲学的にとても重要なとこで、またかんたんに意見をまとめることがとても困難な箇所かなって気がするかな。その意味でアルの苦しみというのはそう癒されざるものであるのだろうし、眠ることのできない彼にとって、自意識の束縛は常に彼を覆ってるものとみてまちがいない。だから、眠れないアルの苦しみは、私にはとても大きなものに見えるかな。その存在の仕方は、つらい。」
「いわゆる"je pense,donc je suis"「我思う、故に我あり」という文句にあらわされる哲学的問題の一端が今回のハガレンのエピソードにはうかがえるということなのでしょうけど、デカルトというのはなかなかどうして、詳細な検討を試みるとこれほどない以上に巨大でまた難物な存在であるにちがいないのでしょうね。というのもこの「方法序説」の一節は、あまりに有名すぎて知らない人はいないというほどなのでしょうけど、それの意味するところ、デカルトが実際に為しえた西洋哲学における伝統への一撃の重みと巨大さといったものは、到底一言にまとめられるような態のものではありえない。というのもそこには種々の議論というのがいくらでもあるものなのだけれど、ま、できる限り簡便に述べるとするならば、デカルトのコギトとは思惟する意識に哲学の基礎を考えた最初だということになるのかしらね。どうにもこうにも議論が複雑になりがちで、はてさてといったところなのでしょうけど‥」
「意識はフランス語では"conscience"。"conscience"の語源はラテン語の"con"「ともに」と"scire"「知る」であって、ここでは「ともに」っていう意味があることに留意しなきゃいけない。というのもそれは"conscience"という語が以下の二つのことを語源的に意味してるということにほかならないからで、ひとつは「意識」とは意識する主体が世界と「ともに」存在することによってはじめて可能な「行為」なのだということ‥何ごとかを意識するときは、その「何ごとか」つまりある対象がなければ、いけないよね‥そしてもひとつは他者と「ともに」あって人は「意識」することが可能だということ‥他者なしに自己はありえないから‥が、ここでは含意されてる。要するに、"conscience"とは世界と他者を知り、そのうえで自己をよりよく知る「行為」であったのにちがいなくて、だから"conscience"には「意識」といっしょに「良心」や「道徳性」といった意味もこめられてることがわかる。なぜならほかの人たちと「ともに」世界を「知る」ことこそが"conscience"であるのだから、それは他者と共有されるよりよき「知」をも意味するのであり、それこそが「良心」の基礎であることは疑えないのだものね。そしてデカルトのコギトはこの"conscience"の語源を踏まえて考えたとき、「私という存在」="je suis"から「思うこと」="pense"をとり出してみせたという点にあるのであって、「私」という主体から離れた「思考」という概念を、つまり「思考という行為」の行為としての純粋化、非人格化を図ったことが、デカルトの哲学の伝統における決定的な業績であったことに私たちは思い至る。それはすなわち人間性から外れた「知」の創出であったに疑いなくて、ここから非人間的な知の総体つまり「科学」の基本的性格が規定されるのであり、また純粋な思考の究極的な姿として「真理」いわんや「神」の相貌があらわれてくることは、不可避のことだったともいえるかな。‥そしてそこまで考えたとき神と科学のある種類似した性格といったものが見えてくるのだけど、なんだかあんまり与太話に行っちゃったみたいだから、このエントリはここらでおしまい。‥デカルトのむずかしさとおもしろさは、筆舌に難いものがあるかな。なかなか上手くまとめられない。ほんと、難物。」
「毎度のこととはいいながら、まったくアニメの感想らしからぬ内容になるのはちょっと考えてしまうかしらね。なんか、こんなので、いいのかしら? ま、はてさてとお茶を濁してみて、とりあえず思うのは意識というものの不可思議な性格といったところでしょうね。意識とは、さて、いったい何かしら? というのも少し考えてみれば分ることだけれど、意識には名詞的に使う場合と動詞的に使う場合がある。すなわち「何々の意識」というときと「何かを意識する」といったときでしょうね。そしてデカルトのコギトを考えた場合、私たちはデカルトが意識を行為として捉えていることに気づかされるのであり、デカルトは「行為としての意識」をこそ純粋な自己の基盤として発見したのだった。しかしそこでひとつ問題が生まれるのは、その行為を支える「実体」を、つまり意識する「何か」こそがデカルトにおいては見落されている部分にあるのでしょうね。すると分ることだけれど、デカルトとは私の存在の根拠を「思考」に求めたというよりは、「思考」それ自体に人間と神の存在の構図を見出していたようにも思われてくる。ま、はてさてといったところね。実に厄介な問題と、嘆息せざるをえないかしら。本当に。」
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それはすごく大問題 存在という一個の謎
2009/06/02/Tue
チェキ空ブログ2さん「なんとなく東方儚月抄を想起してみたくなった」
『まあ根本的に幻想郷と月の都の全面戦争みたいな本当に深刻な展開をやりたくなかったというのは分かる。
基本、ZUNは「今の幻想郷」に対して一種のゆとり空間のような雰囲気を出そうとしてる。
儚月抄の小説版の暗さは永琳にしろ豊姫にしろ妹紅にしろあくまで「過去」であって、基本は「今」じゃないもんね。
その今の幻想郷を象徴してるのが、歴代で最も暢気という事になってる博麗霊夢なのかもしれない。
霊夢が絡んでくるとヌルくなるのだと解釈してる。なんだかんだで綿月姉妹も割と友好的っちゃ友好的だったし。
萃夢想でも「霊夢の能力のせいで萃香は一攫いしなかったEND」とかやってる訳で。』
「儚月抄のテーマ性を考えるとき、見落しちゃいけないことかなって思われることのひとつに私は「第二次月面戦争の無血の勝利」って幽々子の台詞があると思う。というのもそれはなんでかなっていえば、この言葉は暗にかつて起った第一次月面戦争は無血でなかった、つまり多数の犠牲者が双方に生じたものであったことをたぶん示してるのであり、これを踏まえて今回の紫の目的を考えた場合、紫がそもそも第二次月面戦争で果そうとした目的の中核にはもしかしたら「無血で勝利すること」があったのでないかなって気が私にはしてくる。そしてそういった紫の意志を考慮に入れた観点から儚月抄を考えるなら、第二次月面戦争とは月と現在の幻想郷の価値観の相違に基づく争闘であったことがわかるのであり、紫が月に対して為した意趣返しは、結果的に東方という作品全体の性格をもあらわすことにつながってるのでないかなって、今の私には思われてくるかな。‥それじゃ一つひとつ論点を以下に記してく。まず第一に、過去の幻想郷すなわちスペルカードが導入される以前の幻想郷においては、妖怪や人間による殺戮が日常茶飯事であり、それは月の民がいうとこの「穢れ」そのものにほかならなかった。でもそれはそののち採用されることになる「スペルカード」によって、相手を死に至らしめることなく争いを調停する文明的な解決法を幻想郷にもたらすことになるのであり、これが人間と妖怪の関係性の変化に大きな役割を果したことは疑えない。でもそういった変遷を辿った幻想郷に対して一転して月に目を向けてみるなら、彼らは彼ら以外の存在をすべて見下してるのであり、それらを滅ぼしさること、自分たちの価値観に反するものを否定することに、月の民がなんら葛藤をもってないことは、依姫がまず武力的に霊夢たちをしとめようとしたことからもうかがえることだと思うし、それが月の一貫したやり方であったことは、永琳がかつて輝夜を守るために月の使者を皆殺しにせざるをえなかったことからも判断できる。‥つまり、いいかな、ここにおいて価値観の異なる相手に破壊や殺害、相手を滅することによって解決を図ることを拒否した幻想郷と、地上を穢れと呼びながらも争いの解決に殺しを捨て切れてない月のコントラストが生まれることになる。それで紫がこの実質的な戦闘では勝ち目のない相手に対して、なんとか意趣返しを、月を見返してやろうって画策したときに、そこに「相手を倒さない」ことが必須の要件として組まれることは以上の流れから見れば明らかなのであって、紫や幽々子がその常軌を逸した力‥境界を操り、死を弄ぶ‥でもって月の民と戦闘しようとしなかったことは、彼女たちがただ相手を否定するためだけに暴力を使うことを放棄した存在である場合、ある意味、道理であった。」
「要するに、暴力を駆使して相対する月に対して、それを上回る暴力でもって対抗しようという発想自体を、紫は最初からとらなかったということになるのかしらね。そしてあくまで実質的な戦闘を行うことなく、だれをも犠牲にせずにほんの些細な盗みを行うことが、結果として月の民の大げさで破滅的な性格を嘲笑することにもつながるのであり、全体としてみれば紫の策略はその形而上的な意味性においてはまったく勝利を納めたとも、はてさて、いえるのでしょう。ま、そうすると今度はなぜ紫が霊夢に神を使役する修行をさせたのかという問題も自ずと判明してくるのであって、あれは要するに直接的な依姫の武力に対して自衛の手段を授けたという以上の目的はなかったのでしょう。ま、とはいっても、もしかしたら紫はレミリア一行が依姫の手にかかって全滅しても、意に留めなかった可能性もあるのだけれど。案外、いやこれは当然なのかしれないけど、巫女や魔法使いや吸血鬼が死んでも、千年以上生きる妖怪がそれを悔やむ必要は、もしかしなくてもないのでしょう。そんなことを気にするよりは月の民への意趣返しが優先する。それが妖怪というものかとも、ま、思うかしらね。巫女はともかく、魔理沙などは本当にどうでもいい存在でしょうし、紫にとっても幽々子にとっても。」
「そうやって考えてくと盗まれる対象が酒であったことも理解できてくるよね。というのは東方って作品においては酒は常に友好と和解のシンボルなのであり、どんな敵と戦っても宴会を通してその場を円満に収めることが東方という世界における一種の様式美であった。でもそれはあくまでスペルカードっていう命を奪うことを最上の目的としない優雅な娯楽を介して両者が争うから可能なのであり、これを無視してさいしょから命を狙い、ただ無粋に殺しでもって状況の解決を図ろうとした月の民‥豊姫と依姫‥が、和解の象徴である酒を盗まれて、けっきょく地上の民と融和できなかったことは、儚月抄という作品の実に皮肉なメッセージの核心を秘めてるのじゃないかなって、私には思える。‥まとめると、儚月抄という作品は価値観の異なる対立に無血での些細な意趣返しを紫という妖怪が計画したことがすべてであるのであって、この対立は意味深な暗喩として機能してる。というのも輝夜も永琳も妹紅も、すべて永夜抄のキャラクターは血塗られた過去を背負わされてるのであり、そんな彼女たちが争いの解決に血と死をもって臨むといった姿勢を否定するスペルカードの存在する「幻想郷のある種のやさしさ」によって救われるということが肝心だったのであって、その意図を汲みとれなかった綿月姉妹は結果幻想郷に受け容れられないものとして、ある意味彼女たちが地上を穢れと呼び苛み否定したように、放逐されてしまった。‥それだからラストの宴会の描写の和やかな情景に、綿月姉妹はぎゃふんとなることになるのであって、あの姉妹の参った姿はそのままそれを読む者自身にも返ってくる性質のものなのだと思う。‥といって、私は酒をそう友好のシンボルとも、ほんとは考えてないのだけれど、ね。酒は、たぶん狂気と怠惰の悪夢なのだと思う。もちろん、そうでない飲み方と生き方もあるけど、それは存外むずかしい。そして、価値観の対立する相手と優雅にあそんだあと、宴会で楽しくするのも、実は人間性の豊かさを個々人に必要とする。この問題は、むずかしい。」
「月と地上の戦いは、意見を異にするもの同士の争いに一見して映るけれど、その本質は価値観の反するものを一心に否定しようとするもの=月に対して、そうやって狭量な考えで徒にがんばる相手にべつなアプローチもあるのではないかと提示するもの=幻想郷が、見事に意趣返しを成功させたといったものなのでしょうね。そしてこのように解釈を行ってみるなら、月と幻想郷がそれぞれ何を暗喩としているかは、ま、自ずから分ってくるというものでしょうし、その意味で東方という作品において唯一といってもいいだろう和解させてもらえなかった綿月姉妹の存在は、なかなか重い意味あいがあると見ねばならないのでしょう。それはすなわち、なぜ綿月姉妹は融和できなかったのか? 月の考える月面戦争、紫の考えた月面戦争、そして読者の考えていた月面戦争とは、それぞれなんであったのか?といった問題を提出するものであり、儚月抄という作品は、この三者の「月面戦争」に対する認識の相違から生じる空回りだったとも、もしかしたらいえるのかもしれないかしらね。ま、以上のようなことは解釈の一例に過ぎないけれど、こう見るとけっこうおもしろいものでしょう。儚月抄はそう悪いものでもないのよ、おそらくは。ま、はてさて、ね。」