2009/07/31/Fri
「今回はすばらしい。シンコの過去とその過去に根ざした悲しみがどんなふうに彼女の現在を形成しているのか、またミドリを含めた彼女の家族がどのような機会と経験を経ることによってミドリを排斥することなく受け容れてあげられるようになれたのか、そんな本作においてもとくに重要な、もうひとりの主人公ともいうべきシンコのむかしのエピソードが描かれた今号の内容は、淡い情緒とふだんみずからの思いをほとんど周囲に洩らすことのないシンコの隠れた心情を、とくにミドリへのつよい思いいれをうかがうことができて、ここさいきんでは特筆すべき完成度になってたのじゃないかなって思うかな。‥シンコというのはたぶんこの作品のなかでとくに際立って異質な型であって、というのもミドリにしろ白雪にしろその精神の形成や現在における性格といったものは尋常であるって看做してまちがいないのであり、でもそんないってみれば通常の人たちの只中にあって、ひとりシンコだけが異質な存在感をかもし出してるのであって、それは彼女がクラスのあいだにあって継続していじめられてる現況を鑑みても‥シンコがその容易に集団に馴染まない性格と、突飛としかいいようのない言動によっていじめられちゃってるって設定は、初期のころから本作において言及されてたものだったけど、その状況が今現在に至っても一向に改善される様子がないことが今回描写されたことは、けっこう意味の大きい部分じゃないかなって思う。なぜなら白雪の登場によって異世界の能力を垣間見ることができ、それに相次いで多くの友だちを得ることができたミドリとシンコだったけど、でもそんなことで彼女たちの日常、とくにシンコがいじめられてるって状況が変化する道理もなくて、もちろん白雪は一回シンコをいじめてる子たちを注意したけど、それくらいじゃシンコに対するいじめがやむことないであろうことは、明らかにいえることじゃないかなって思うから。だからその意味では本作はそうかんたんに一度趨勢が決った状況は変化しないものだっていう現実に忠実な、ひどくシビアな一端があるといえるし、シンコが淡々といじめの状態に耐えて暮してる状況が、今までの物語の背後にあったということは、この作品の描くテーマの大切な部分を、示しえてるのでもないのかなって、私は感じるかな‥いえることだと思う。‥シンコは、いったい何を思ってるのだろう。彼女の考えは、なかなか見えない。それはたぶん彼女の心に、ふかい孤独の帳が降りてるからなのかもかなって、私は気がしないでない。」
「シンコは家族内にあってはその異常性を問題視されることなく生活しているけれど、しかしかつては今ではシンコの最大の守り手であるミドリにさえ、ある種疎まれていた面があったということは、ま、考えてみれば実に自然なことであったのでしょうね。そして今回のエピソードにあったような出来事を彼らが経験していえればこそ、シンコはその異常性のために周りに心を閉ざし、まったく非人間的に暗く生きることにもなっていなければ、既成の価値観をとことん嫌悪し、単純なニヒリストにもなっていない、現在の実社会では生きにくいこともあるけれど、しかし信頼できる人たちのあいだではなんとか余力をもって生きていくことが可能な、ちょっと洒落っ気もある少女に成長できたのでしょう。ま、であるからミドリの存在はシンコにとっては軽くないのでしょうし、その関係性は一般に見られるような兄妹関係とも少々趣を異にしていると見るべきなのかしらね。おそらくあの二人には、ある意味恋人よりも濃い感情の連結があるのでしょう。それがシンコを救い、そして縛りもしている。いや、おもしろくなってきたことかしらね、本作も。」
「ミドリを幸せにする責任が私にはあるって答えたときのシンコの心中がどんなものだったのかということを考えることは、今回のお話の内容を踏まえてみると、予想以上に重くまた陰影を伴った心理が影響してるって見ざるをたぶんえないのだろうって、そう思う。なぜなら過去において幼いシンコの心を傷つけたのは浅はかなミドリの態度そのものであったのであり‥ミドリもそれを自覚してる。だからミドリはシンコを何より優先する‥そしてまたそれで傷ついたシンコを暗闇の淵から引きあげたのもほかならない実兄であるミドリであったのであって、シンコにとってミドリは、たぶんはじめて自分の闇を分つことを示してくれた語義どおりでのかけがえのない他者であったのであり、ミドリがもしいなかったならシンコはどうなっちゃったのだろうかなって考えると、その想定があまりにトラジックなものに思えてくることからも、ミドリとシンコの間柄の抜き差しならなさというのは、察せられることだと思う。‥ただ、そだな、シンコの様子でとくに気になることはほかにどんなのあるかなって考えると、私にはそのひとつは彼女がいじめにあいながらも、その自分をいじめてる相手にあまりに無関心であり‥自分が気味悪がられるのはしかたないことってシンコは承知してるけど、でもそれだからといって怒ったり憎しみを感じたりしないのは、人の感情としては正常じゃないのじゃないかなって気が、ちょっとする‥自分が気に入った相手、たとえば白雪は朝顔さん以外の人たちに対して、あまりに冷淡であることかな。つまり、私にはけっきょくシンコはまだ十分に世界に馴染めてないのじゃないかなって感じがする。彼女は、もしかしたらまたいつか自分が消えちゃうことになることを、どこかで予想さえしてるのじゃないかなって、そんな気もする。だから、ミドリの幸せを願ってるのかもしれないって、そうも思う。‥彼女の本心はどこにあるのだろう。シンコという人は、むずかしい。」
「もしいじめにあったと仮定すると、自分をいじめた相手を憎んだり恨んだり、ま、殺意をもったりすることはきわめてふつうのことなのよね。逆にいえば自分に危害を加えるような人に何等の感情も抱くことなく、ただしかたのないことだとして切り捨てることは、むしろそれこそあまりに冷淡で無関心な態度として問題とすべきことなのかもしれないのであり、シンコの態度は、だから少々歪ではたしかにあるのでしょうね。それはつまりなんていうのかしら、シンコは自分自身の苦しみを、よく理解できていないような気がするということなのでしょう。いじめられて苦しいと思う心の働きをさえ、いつのまにか彼女は忘れてしまっているのでないかしら。そしてただ自分の愛する人たちの幸せだけを、願うような心情に、落ち着いてしまっているのじゃないかしら。それならばそういった態度こそは、なんてあまりに切なく暗い心持であることかと、慨嘆せざるをえないでしょう。‥ま、はてさてね。これからどう描かれていくことか、注目してみましょうか。非常に良くなってきたことよ。もしかしたらここからが本作の核心なのかしれないかしらね。楽しみよ。」
2009/07/30/Thu
「これは独特でおもしろい。こんなふうに軽薄な会話のみで一話を立派に成り立たせてる作品は、私の記憶にはあまりこれまで類型のものがなかったように思えるし、またテンポのよい会話をあくまで主軸にし、映像の構成を対話をききやすく彼らのやりとりを視聴者に注視させることに特化したように細やかで煩雑な画を一切とり払ってオブジェのシンボル性を最大限に活かすことを目的としたかのようなあっさりとしたレイアウトのしつこいくらいの多用は、ある意味、徹底した潔さとして評価してもいいのじゃないかなって私は考えるかな。というのもこれまで私はシャフト作品の種々の、たとえば「ef」などにあらわれてたような、とにかく視聴者に想像させる余地を残すように努めて、ことさら意味深な雰囲気を出そうって意図がわかりやすすぎるくらいに目指されてる象徴的な画風は、それが露骨であればあるだけ、逆に演出のマンネリズムに陥ってるようにしか私には感じられなくて、それはひいてはシャフト作品への私の苦手とするとこの要因となってたのだけど、でも一転して本作「化物語」に至って、その千篇一律ともいうべきシンボルをくどいほど用いた演出は、くり返せばどれだけエキセントリックな表現であろうと愚鈍に墜せざるをえないって真理を逆手にとったかのような、ある鮮烈な意味性を獲得することに成功したのであり、本作においては演出の浅慮さが会話の内容の薄さと絶妙に適合しその無意味さを徹底させることにつながったのであって、すなわち会話をただ会話することの快楽のためだけに特化させた、そんな作品が「化物語」では表現されてるのじゃないかなって思うかな。‥無意味な会話を、より無意味に機能させるために、本作の底のぬけたかのような意味深な画を用意されてる。それにふかい象徴性なんて何もないこと、わかってるのに。‥でもだからこそ、本作は徹頭徹尾、非生産的な美をあらわすことに特化してる。それもひとつの芸術なのだろうって、私は認めるにやぶさかでない気持になっちゃったかな。おもしろい。」
「画面に配置されているオブジェや時折挿入される実写の映像、またはシュルレアリスムのかつての流行が安易に人々の芸術観を混乱させた際に流布したようなシンボライズされた絵の多種多様な乱用は、そればかりでは演出のなんの意図も見抜くことのできない無価値のものと思われていたのだけれど、それがこの「化物語」で執拗に連続されるソフィスト的なこれまた無意味な言葉の遊戯が加わると、無用な演出に無用な言葉、この二つの存在によって本作の魅力がいや増すように感じられるのは、はてさて、実におもしろくまた奇妙な事実というべきなのでしょう。実際、暦と真宵なんてなんの目的もないものでしょうし、ひたぎの常にもって回ったような言葉遣いはどう見ても自然な人間の言動とは思えなく、異常に芝居がかった本作の人工的な性格を顕わにするだけで、この作品がもし情感あふれる人間ドラマを描こうとするならば、これほど誤った演出のしかたもまたとないのでしょう。ただしかし、本作が目指すのは自然でも天然でもなく、決定的な人工的な美の追求でこそあるのよ。であるからどこまで行ってもわざとらしいキャラクターが用意され、くどく無意味な画面が乱発され、そしてなんの有用性もない会話が延々とつづく。さて、まさにこれは奇妙な作品というべきでしょう。ここまで自然性に逆らったような作品は、そうないともいえるのじゃないかしら?」
「本作が怪異をテーマにえらんでるというのも、演出と会話劇の無意味さを印象づけることに一役買ってる要素ともいえるのかもしれないね。というのもなぜなら、怪異というのはそれが妖怪であれ幽霊であれ伝承であれまやかしであれ、そのいずれの発生にも原因として関係してるのは人間であるのであり、人の意志が恨みを生じ、人の悲しみが憂いをもたらし、人の苦しみがそれを贖うべく想定される神霊、怪の類を想像するのであれば、怪異こそは一貫して人工的な産物であるにちがいなく‥もちろん自然に関連した怪異があることも否定できない事実であるけれど、でもそれはあくまで人の目が観察した自然であるのであって、自然そのものを人間が抽出しえたことは、人類が人類である以上、決してなかったことにきっと相違ない。だって、人の思想を経ない自然観なんて、あるはずないものね。そして自然に関する怪異が人の思想の産物であるならば、やはり人間につながらない怪異というものは、その原理からしてありえないことは、まったくたしかにいえることじゃないかな‥怪異という題材を元に作品を進めてくことを本作が選択したとき、この作品の人工的でわざとらしい雰囲気が醸成されることは完全に避けられないことになったとみていいのじゃないかな。さらにそしてそこに暦、ひたぎ、真宵といった、どこまで自己を表現することに余念なく、我を張ることばかりに特化したかのような近代人の模型ともいうべきキャラクターを導入させ、また無駄な会話を非生産的に永遠につづけようと画策したとき、本作の無駄をきわめたかのような美しさは、いったいどれだけ魅力的に映えることになるに影響したことだろう。‥以上のことから私は本作のこの退廃的なおもしろさに、ひどく心惹かれちゃうものを覚えちゃうものであるかな。無駄で楽しくて、よい感じ。次もこれなら期待かな。無意味な時間をまた味和あわせてくれることを、楽しみにまってる。」
「反自然的というか、どこまでも人間の手の入ったことを感じさせる作品というべきなのでしょうね。それは実写などをそれが用いられるべき必然性をまったく思わせない場面にとり入れることによって、視聴者をふと現実に返らせるような演出の手法にもいえることでしょうし、なんていうのか本作はアニメを鑑賞している私たち視聴者たちをこそ、どこか相対化するかのような欺瞞性に満ち満ちている節があるのよね。ま、それだから本作の登場人物たちも、私たちにはどこか不自然でただそういうったキャラクターを演じているだけかのような、画面にあらわれているものだけが自分の姿ではないということを暗に示しいているかのような、よそよそしさが感じられるのであり、そういった面からもこの作品の人工性というものは、並々ならぬものがあるといえるのでしょう。はてさてね。‥ま、次もおもしろく見させてもらえることを期待しましょう。この出来なら楽しみよ。どこまで突っ走れるものか、見物と行きましょうか。どうなることか、楽しみね。」
2009/07/29/Wed
「今まで築かれてきたエピソードや描かれてきたキャラクターたちがいよいよ本作のひとつのテーマのもとに収束してき、そしてさらにそこからこの作品の本筋ともいうべき未だ明瞭にはあらわれ出てこない暗闇のヴェールに覆われた敵方である謎への対決へと、着々と段階を踏んで紡がれてく構成は、ドラマツルギーの基本をしっかりと抑えた非常にていねいなつくりであるがために、そのおもしろさといったものは抜きん出たものがあるのじゃないかなって、今回のお話をみて私はその思いを新たにした。というのも初登場時にはそれほど重要なキャラクターには思われなかったロス少尉が、こここのシナリオの成行に至って、ホムンクルスに侵食された軍部によるスケープゴートになるというくだりは、彼女がとりたてて本作にあって際立った性格でもなくて‥我を張っちゃう人が多くて、またその性質も複雑に陰を伴った人物が多数登場する本作中にあっては、ロス少尉の人となりはその外見、中身ともに平凡なようにあえて描出されたキャラクターであるにちがいなくて、だから彼女が今回のエピソードでのように悲劇的な立場によもや立たされようとは、ロス少尉自身の心理にシンクロするかのように、私たち視聴者自身もまた思わざるをえないんだよね。そこらへんは本作の構成とそこに秘された意図の卓抜さがうかがわれる点かなって思うし、今まで目立って長所が描かれなかった彼女であればこそ、終盤の脱獄の決意をする場面と、そののちのマスタングによる焼殺の瞬間の迫力さは否応増さざるをえない。今回のお話は、見事かな‥物語全体において中心的な役割を演じることはないだろうって予想されていればこそ、このエピソード本体の劇的さというのは、まったく印象ふかいものになるのじゃないかなって、そう私は思ったかな。‥ここに来て、とてもいい感じ。ハガレンのおもしろさが十二分に出てる。素敵。」
「ロス少尉のような、ま、いってみればふつうの人の運命的な出来事を描いてこそ、本作はただ特別な才能をもった人がその人にしか実現できないだろう奇跡的な行為を為すだけの物語としてではなく、どこにでもいる人間がある瞬間においてはおどろくばかりのような力を発揮することがある、そういったこの世界を土台から支える活力とでもいったものを描くドラマとして受けとれるのであり、であるからまたこの作品の世界観というものは奥行をいや増すことにつながるのでしょうね。そしてそれは世間的に天才と謳われるエルリック兄弟以上の力を、決して天才ではないだろうロス少尉が、その人生の岐路の決断を果敢に果す場面において説得的に演出するからこそ、より余計にドラマの興趣というのは深まるのであって、その意味ではハガレンとはまさしくひとつの群像劇でもあるのでしょうね。いろいろな人間が生きており、そして種々の人間がさまざまな可能性を秘めて、それを発揮してくれる。どのキャラクターも、だから活き活きとしているのでしょうね。それは本作の見逃しえない魅力のひとつというべきでしょう。」
「ヒューズのことで落ちこんでたエルリック兄弟とロス少尉の姿が対照的に描かれているのも、また今回のお話の注目すべき箇所であるように思われるかな。それというのもなぜならヒューズのことで今までになく自分たちの進退に関して思い悩んでるエドたちに対して‥彼らは、くしくも今回ウィンディがいってたように、自分たちの行動は自分たちだけで決めてたのであり、そこには頑ななまでの信念があればこそ、他人が介在することはぜったいに彼らにとってありえなかった。でもそれが揺らいだのはまずまちがいなく、自分たちの行動とその及ぼす影響が、もしかしたら他者に迷惑をかけることになるのかもしれないといった、この複雑な世界で生きることの微妙さ、むずかしさを、ヒューズの死を契機としてあまりに衝撃的な形で彼らが認識したからであり、それは物事にはこれをすれば完全に正しいのだといった解答がないという、ある意味当り前の事実を、エルリック兄弟がはじめて新規に認識したということにもちがいないのだよね。その意味で私は、よかれあしかれ、これでエルリック兄弟は大きく変わってくのだろうって感じられて、兄弟の今回描かれたような消沈ぶりはそうわるくないものじゃないかなとも思う。なぜならそれまでの彼らはあまりに偏執的であり、他を省みることがほとんどなかったのだから。そしてそれが高じ果てれば、兄弟は心をすり減らしてしまっていたように予想できるから‥ロス少尉の勇敢に自分のことをだれにも因らない自分の意志で決断しつかみとる姿は、私には停止するエドと、行動するロスのコントラストにうかがえて、今回のエピソードは実に見応えあったかなって思ったから。‥いよいよ盛りあがってきた感じ。次もハガレン楽しみ。どうなることか、期待かな。」
「ロス少尉に起ったことというのは、周囲からしても晴天の霹靂のように予想しえない出来事だったのでしょうし、それが本人にとってみるなら、なおさら衝撃は推し量れないばかりといったくらいのものだったのでしょうね。ただ彼女のすごいところは何かといえば、あの場面で漫然と自分に降りかかった不運に抗することをあきらめてしまい、無気力に死を待つのでなく、あくまで自分の命を、自分のこれからの未来を選びとるために、脱獄をほんの数刻の間に決断しえたことなのでしょうね。ま、これは何度も協調しておいていいことでしょう。なぜならあの場で自分の社会的地位や世評などに固執することなく、何がなんでも生き延びようと思えるということは、まさに彼女が健全な精神をもって、健全に生きてきた証拠であり、それはそう容易にだれにも実現できる行為ではないのでしょうから。ま、その意味でなかなか勇猛な生き方を見せてくれて、ロス少尉はかっこいいとも感じられたかしらね。良いキャラクターで、よろしいことよ。物語も盛りあがってきたことだし、次回もこれは期待するほかないでしょう。楽しみよ。」
2009/07/28/Tue
「スペルカードという発想が東方をしてほかのSTG諸作品と明確に区別されるべきものと為してる大きな要素であることは、製作者であるZUNさんみずから述べられてることであるけれど、でもなぜスペルカードってシステムがそんなに重要な役割を果しうるのかなって疑問に思ったとき、本書「The Grimoire of Marisa」の存在は、その解決の最大の一助になるにちがいないって思うかな。というのもそれはまずこの本の性格を鑑みてみれば察せられることなのであり、本書は一読した人ならだれもがすぐに了解せられることだろうって思うけど、この書はまるである種の昆虫や動物を図録として掲載しまとめた図鑑のように、スペルカードをそれぞれ独立した客体としてまとめ仕上げた、一種の博覧であるにほかならないのだよね。つまり本書はゲームの攻略本でもなければ、いわゆるファンブックとも趣を異にした、純粋にスペルカードをスペルカードって観点それだけのために制作されたものにほかならず、それはスペルカードがそれ単体で独立しうる存在であることを証することになるに疑えない。べつな言い方をするなら、スペルカードという発想はもちろん東方って作品の主な部分を占める特性であることはまちがいないのだけど、でも東方という作品に一方的にスペルカードが依存してるのでなくて、その気になれば、本書が成立してるようにスペルカードはそれだけでも独立しうるものであるということをこの一冊は証し立ててる。なぜなら「The Grimoire of Marisa」とは図鑑であり、そして図鑑の内容の対象にされるのは、客体物であるほかないのだから。ゆえに、スペルカードとは、客体化された事実であると私たちは認めねばならないのだから。」
「STGにおいては敵が弾を撃ってくる。‥ま、それはそういうゲームであるから当り前でしかないのでしょうけど、しかし東方が革新的であった最大の理由であるスペルカードとは、その弾による攻撃を名前をつけて意味をもたせることにより客体化させるということを実践した点にあるのであり、これによってスペルカードとはゲームの一部分んでしかなかったはずの弾幕を、意味のあるひとつの客体としてとり出すことに成功したというべきなのでしょうね。そしてここでおどろかねばならないのは、弾幕に名前をつけるといったその行為そのものであるのは疑いないのであり、なぜなら名づけるということは、すなわち世界を観察し切りとる人間にのみ許された科学的な態度というべきだからなのでしょう。要するにスペルカードの登場によって、無秩序で乱雑だった弾幕の世界を、秩序立て整理し、分類することが可能になったのであり、これによって私たちは新たな世界を垣間見せられたというほかないのでしょうね。ま、であるから、スペルカードという考えはなかなかすごいのよ。それはたしかにいえることかしらね。」
「名前をつけることにより意味が生まれ、そして意味があるからこそそのものと他のものが区別されうるのであり、もし名前がなかったならそれらはそれらとして認識されることがないにちがいないのであろうって考えられるから、かな。‥これはそうむずかしい話でなくて、たとえば蝶にはいろいろな種類があって、それぞれ固有の名称を付与されてることは少し図鑑を紐解いてみればわかることだよね。でもそんなふうに多種多様な蝶がこの世界に存在してるっていうことは、その事実を知ってる人、つまり個々の蝶の名前を知り特徴を弁別できる人だからこそ可能なのであって、もし蝶についてただ一般的な知識しか保有してない人から見るなら、豊饒な蝶の世界は豊饒として認識されず、どのような個性際立った蝶たちもただ「蝶」というひとつの名によって、乱暴に把握されるだけでしかないことは容易に予想できることにちがいない。そしてこれはほかのあらゆる分野においても同様なことがいえるのであって、私たちは知識をもち、それを観察し把握することができる理性があってこそ、はじめて世界は世界本来としての広がりと可能性を垣間見せてくれるのであり、ならばスペルカードとは、その文脈で把握するなら、ただ乱雑だった弾幕の攻撃を一種の様式として整理したにちがいなく、まさしく東方は弾幕を名づけることにより客体的なオブジェとして看做すことが可能であることを教えてくれた、ある発想の鮮烈さに満ち満ちた作品だっていうことができるのじゃないかな。‥名前があるからそれに付随する観念が生まれる。そして観念と言葉がそれぞれ一致対応するなら、ゲームを通して私たちはなんて豊かな観念の満ちる世界を覗くことが可能になるのだろう。それはきっとおどろくばかりに素敵な発見じゃなかったかなって、私は思う。なぜなら可能性に幻滅した世界のヴィジョンほど、私たちを絶望さすに足るものもないのだから。そしてスペルカードとは、そんな絶望に対する無意味な興趣を象徴するものでこそあるのだから。」
「スペルカードというのは無秩序だった弾幕をまさに意味づけし、ひとつの客体として認識させることを可能にした発想であるにちがいなかったといいうるのでしょうね。なぜならコレクションに値するものとは客体化された何かではなくてはならないのであり、もし客体でないあやふやで不明瞭なものを収集しようと考える者がいるなら、その思惑こそはまったくナンセンスであるのでしょうし、そしてこの「The Grimoire of Marisa」こそは完全に語義どおりにコレクションのフェティシズムにあふれかえった書物であるのだから、スペルカードが弾幕の客体化であったことは疑えない事実といえるのでしょう。ま、以上のように考えてみると、弾幕ほど純粋に客体的で見る者が自由に観念を投影できるものもほかにないのか知れないかしらね。弾幕からどのような意味を引き出すかは個々人の自由であるのであり、であるから本書は弾幕フェティシズムの極致といった内容なのでしょう。その意味で、本書はなかなか興味ある一冊とはいえるかしら。無意味で美しい良い一書よ。まったくね。」
ZUN「The Grimoire of Marisa」
2009/07/27/Mon
「今回は原作1巻を少しアレンジした弓子との出会いの物語、ということになるのかな。それでさっそくその感想はというと、時系列が改変されててその必然性もよく見えなかったこれまでのエピソードと比較すると、この3話目は曲りなりにも今回の流れのなかだけで理解できる構成になってたので、その点では前の2話よりはよほど見やすくてよかったかなって思う‥現代魔法って作品についてはおなじみの、弓子のはいてないネタもしつこくくり返されて笑っちゃったし、あれはコミクス版ではそもそも弓子はそういう主義の人にされちゃってるのだよね。それに弓子のこの種の受難は幼少期のエピソードが描かれる3巻目の「ゴーストスクリプト」においてもその冒頭においていささか印象的な描写として示されるのだから、弓子が本格的に登場する前段階としては、今回のお話はわるくなかった。おまけにこよみのたらい落ちもいつもどおりでよろしかな。でもこの部分に関してだけは後述するけど、ちょっとだけ納得行かない面があることも忘れずに付け足しとく‥。ただだけど、今回のエピソードで不満に思わない箇所が完全にないわけでなくて、そのひとつとしてはやっぱり時系列シャッフルしちゃってるために、こよみと弓子の出会いが1巻の本筋であるはずのソロモンのコードの事件に容易に結びつく鍵となる話であることが、この1話だけでは曇らされちゃってるのだよね。というのもなぜなら原作においては嘉穂といっしょの場においてこよみがまずデーモンに接触するというのが本来の構成であるのであって‥今回のエピソードでももちろん嘉穂は描かれてたけど、彼女とこよみの学校を舞台に逃げ回るシーンは、上手く描かれれば迫力ある構図になろうことは予想できるのだから、その点、ちょっとファンの心理としてはもったいないかなって気もしちゃうかな。それはたぶん嘉穂の出番がまだアニメではあんまり主に描写されてないためもあるかもしれない。‥うん、実は私、嘉穂好き‥そのあとの弓子との出会い、そして暗躍する美鎖‥わるい意味でなくて‥のもち来す情報がそろってこそ、1巻のドラマは盛りあがるように感じられるから。‥だからそれを思うと、ますます1話で少しだけ原作のストーリーを描いて、またべつの原作をわるい言い方するならつまみ食いしてるような感じの時系列シャッフルは、やはり私の好むとこでないかな。当然、これはただ単に私の好悪というだけではあるのだけど。」
「初出の現代魔法の1巻の内容はそれほど評価できる完成度といえるほどでもなくて、徒に入り組んだ構造が物語本来のおもしろさをスポイルしている印象があったのであり、その点では物語を分断さす時系列シャッフルと本作の相性は最悪といっていいのでしょうね。というのもそもそも分り難い構成をしている本作は、もちろんそれが巧みに築きあげられたドラマという魅力の核を成していることは疑えないのでしょうけど、しかし単純にその場その場のシーンの盛りあがりを期待できる出来というのでもないのであり、その点を鑑みるならこの作品は、とくに原作は、人を選ぶ類のものとはいいうるのでしょうね。ま、先ほどリニューアルされた原作1巻のほうはずいぶん読みやすく洗練されているのだから、これを下敷きにしてアニメに再構成できたのなら相当良さそうな気もするのだけれど、しかしはてさて、時系列どおりに単純に見ることが叶わないとなると、どこまでこの作品のドラマ性が理解されるかは疑問といわざるをえないかしらね。ま、不安が頭をよぎることは避けえないといころではあるのでしょう。はてさてね。」
「本作は意外と主要キャラクターを除いた人物たちがそれぞれの物語において中心を占める割合が多くて、だからその点を鑑みても時系列シャッフルには不向きな作品とは現代魔法はいえるのかもしれないかな。なぜなら時系列シャッフルというと、たとえば現在の潮流を築いた嚆矢ともいうべきハルヒは、基本的に中心となるキャラクターのみを用いてドラマが進行するのだから、あるていどのキャラクターを把握しさえするなら物語はたとえ本来の時系列でないとしても視聴に耐えうるかしれないけれど、でもそれがゲストキャラクターが大きな役割を果す類の作品である現代魔法については、同種のことは当てはまらないのじゃないかなって思うから。‥あとはそだな、今回のエピソードでは弓子とこよみの共闘が描かれてて、これは二人の関係性を物語るうえでは外せない場面だとはたしかに思うのだけど、でも本来ならこれは大詰めのソロモンのコードとの対峙において、つまり真に緊迫した瞬間において描写されるべきシーンなのであり、その意味では今回のお話は緊張感を著しく欠くことになっちゃって、ちょっともったいなかったのでないかなとも、私は思う。それはnew editionにおいて描かれたこよみが戦う決意をするに至るまでの過程が、実にそれまで主体的に生きようとしてこなかったこよみって少女の態度を根本から変える劇的なときに思われるからであり、ならばこよみが弓子を上回る可能性を一瞬でもみせるあの戦いの一刻こそは、まさに現代魔法という作品の真骨頂ともいうべきものにちがいないのじゃないかなって、そう私は考えるから。‥と、ここまで熱くなっちゃうくらいに、私は現代魔法が好きだったのかな、って、ちょっと逡巡しちゃう。でも原作のリニューアルされた1巻は素敵な出来だったからそうよけいに思っちゃうのかな。どうなのかな。あんまり熱くなってももうしかたないことなのかもだけど。‥やになっちゃう。」
「こよみが主役である大きな理由は、彼女が本作のなかでもっとも成長しうるだろう可能性を秘めたキャラクターであるからなのであり、であるならば時系列どおりに物語を進行しないと、こよみの変化していく過程というものは鮮明には理解できないように思われるから、なおさら安易な時系列シャッフルには、はてさて、眉をひそめてしまうのかもしれないかしらね。もちろん、とはいっても、現代魔法の描く世界自体がヴィジュアル的には映像にすることがなかなか難儀に思われるものでしょうし、これから先どう描いていくことなのか、ま、その点を注目して見ることにしましょうか。‥それで、さて、次回はなんとjiniの話なのね。これはたしか原作4巻だったけれど、こんなにでたらめに話を進めていって収拾が果してつくのかしら? 何やら不安も感じるけれど、とりあえず次回を待ちましょう。どうなることか、はてさてよ。」
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桜坂洋「よくわかる現代魔法 1 new edition」
2009/07/26/Sun
「今回の純真ミラクルはここさいきんのなかではとくに際立ってよかったかな。というのも今号のお話は現時点における本作のキャラクター間の関係性というものを端的にそれぞれ描写することに成功してるように思われるし、また新登場である末澤さんの存在は安定しかかってたように感じられるこの作品の人間関係をしずかに揺すぶってく類の力を秘めてるように思われて、これから先の本作の展開を考えるに当っては、十中八九、末澤さんのことは無視できない大きなものになってくのだろうって、私は感じたから。‥今回のエピソードは、だから、注目すべき点が多様にあってほんとに読み応えがあったように思われて楽しかった。そしてその一つひとつを順次にみてくなら、まずさいしょに目を向けてみるべきなのはやはり主役だろうモクソンに思われるのだけど、モクソンっていう人は、こういっちゃうと何かなだけど、その考えてること、彼女の本心といったものは表面上の彼女の挙動だけではぜんぜん読めないにちがいなくて、その意味では彼女自身は決して複雑でわかりにくい精神のもち主でないけど、でも底知れない部分を秘めた、やっぱり尋常でないとこがあるキャラクターなのかなって思うかな。というのも今回のお話だけを見てると、モクソンはなんだか所長さんにあまりに一途で、モクソンの所長さんへの思いのつよさを眺めてると、モクソンはただ単に工藤さんへの恋心を押し秘めるためのみに所長さんへ意識を過剰に注入してるのでなくて、やっぱりさいしょからモクソンは所長さんのことが好きだったのだろうかなって、私は推測せざるをえない。だって、モクソンは自分の感情をたとえやさしさからといえども、作為的に偽れる型の人でないものね。それはモクソンが純真な人だからって、その理由だけでも十分にも思う。なぜなら純真な人となりがあればこそ、モクソンは本作の中心に位できるのだから。」
「モクソンの愛情表現はそれが嘘偽りのない本心から発しているように他者に錯覚なく思わせるからこそ、モクソンの存在というものはたとえ所長がどんなに疎ましく思うとも、決して邪険には扱うことができかねる、不思議な魅力といったものを湛えることにつながっているのでしょうね。ま、これはオクソンとの関係性においてもっとも明瞭にあらわれているようにも思われるけれど、オクソンはなんだかんだでモクソンには心から惚れこんでしまっているのが明らかで、その点ではモクソンはともかくもオクソンも劣らずかわいい人だという印象を覚えるかしら。結局モクソンとオクソンは私生活さえいっしょに過してしまうほどの唯一無二のパートナーという役柄を築いてしまっているのだし、この二人の間柄はなかなかおもしろいものがあるといえるのでしょうね。そしてその形成にはモクソンの生来の他者を和ませ親しみをもたせる気質のほかにも、オクソンの誠実さといったものも無視できず影響しているのでしょう。良い関係性だとは、ま、まちがいなくいえるかしら。」
「そして今号の目玉はなんといっても末澤さん。というのも本作においては常に重要なファクターとして語られてきた本社の存在だけど、でもその本社にどんな人がいるのかなって部分にはあまり焦点が当てられなかったのがこれまでの展開であったのであり、その本社を作中において代表するだろうひとりの末澤さんが、実は所長さんの同期の友人であり、また工藤さんとも過去においていい知れない関係性をもってるといった事実が今回のエピソードで明かされたことは、とても大切な意味あいをもつことにちがいないのでなかったかな。それは所長さんが末澤さんには基本的に友情しか感じてないけど、対して末澤さんには天然気味な所長さんの生き方に‥実は本作においてもっとも天然なのはモクソンでなく所長さんじゃないかなって、私はずっと思ってる。それはたとえばモクソンを無自覚に構いつづけて喜んでる所長さんの無邪気な態度に、ある面、わかりやすすぎるほどに示されてるのじゃないかな‥苛立ちとある種の劣等感さえ抱いてるように感じられる描写からも予見される事柄であって、末澤さんの登場は、まさしく本作に風雲急を告げるものであるにほかならないのじゃないかなって、そう私は感じた。‥工藤さんとの仲がちょっと変化しそうな様子が描かれた矢先なだけに、末澤さんの動向は、ちょっとしたものでも大きな波紋を呼びそうで、いよいよ本作の人間ドラマとしての側面が、より劇的に描かれてきそうに思われる一話だったかな。次もとても楽しみになってきた。どうなることか、期待かな。」
「あと今号の話で見過せないのはこれまでも下心をもって行動してた武市プロデューサーの本音、つまり現在の奥さんとはあまり良好な関係ではないからできれば高杉所長とよりを戻したいといった思惑が、明らかな形で描かれたことかしらね。ま、武市が本当に所長と復縁したがっていたというのが事実であることは疑えないことだったでしょうけど、しかしそれがけっこう本気の度合が高いようだったのには、はてさて、少々おどろかされるものがあったとはいえるのでしょうね。そして所長の態度もある意味まんざらではなさそうな節があったのだから、これから先果してどう転がっていくことか、ちょっと注意して本作を見ていかねばならないのでしょう。ま、おもしろくなってきたことかしら。次回が楽しみよ。はてさて、どう展開することかしら。」
2009/07/24/Fri
「種村先生の作品はそのどれもがなかなか深刻で、容易に息をつかせてくれない重さに支えられてるといえるのだけど、それは本作「桜姫華伝」においても変わりなく、基本的な物語の流れは実に悲劇的なものであろうかなって感じるかな。ただそれを表面的にはそれほど衝撃的に思わせないのは、単に主役である桜姫の現時点ではとりあえず保ってるその芯のつよさともいうべき、自分のおかれた状況がどれだけ最低なものに思えようと、だからといってやけっぱちになったり、安易なニヒリズムに走ったりはしない精神の強靭さがあるからであって‥これは本作に限らず、種村作品の主人公はだいたい悲劇的な立場に立たされてあるのだけど、でもだからといって変に性格がねじれちゃってないのは、生来的な希望を失わない楽観主義とでもいったものを、キャラクター性として当初から付与されてるからかなって気がするかな。というのも前作「紳士同盟」の灰音にしろ、「満月をさがして」の満月にしろ、どんな苦境に出くわそうと彼女たちが決してあきらめたりしなかったのは、もちろん彼女たちが周囲の人たちに恵まれたことと多分に運のよさもあったにちがいないかなとは思うけど、でもそれ以上に大きな要素としては、彼女たちそれぞれ自身のつよさが発揮されたからに相違ないのじゃないかなって、私は思う‥桜姫がこのドラマの成行において、希望を捨てずにられる態度には、一種驚嘆すべきものがあるように、私には感じられた。‥家族もなければ、思い人からも刃を向けられ、そして本巻のラストに至っては自分を信じてくれた人をほかならない自分の手で殺めねばならない。そんな責務を負わされた桜姫の境涯こそは、なかなかどうして、生半に行かないものにちがいないかな。ドラマはふかく、悲嘆に沈む。」
「種村作品が悲劇的で重い情調に支配されていることは毎度のことといえばそうなのでしょうけど、しかし本作の桜姫の場合は、これまでとちがって直接的な命のやりとりが関係するエピソードが今回までにも多数含まれており、そしてこれ以後はさらにそういった重苦しい話が増えていくことは避けられないようにも思えるから、はてさて、桜姫の不幸さといったものは、なかなかとてつもないものがあるとはいえるのでしょうね。もちろんそれだからといってこの作品の雰囲気が徒に暗くばかりならないのは、桜姫の明るくふるまおうとするその努力があるからなのでしょうけど、しかし暗い展開が重なるにつれ、そのうち彼女の笑顔も、つまりは無理をしている虚勢、次第に雲っていってしまうように予想できてしまうから、今後の成行がけっこう気になる作品といえばいえるのでしょうね。ま、笑えない作品よ、これは。」
「種村先生の作品は、その終局においては主人公が幸せをつかむことが半ば確定してるようなものだから‥たぶん種村先生事態がハッピーエンドでないラストを好まないためかなって気がするけど‥そこにたどり着くまでの過程が艱難辛苦であることはある意味必要な作業ともいえるのであり、それが本作の桜姫においてはなかなか過剰な段階にまで達したように、本巻を一読して、私はそう感じたかな。というのも天涯孤独の桜姫という設定自体が物語を容易に明るくさせない第一の要因であることは疑えないし、また彼女が青葉に惹かれてるその最大の理由が‥これは作中においてたしかに語られたことなのだけど‥彼女がすでに失い、そして彼女が何より大切に慕ってた身内である兄の面影を、無意識のうちに青葉に重ねてるからといったことに求めらるのは必至であろうって考えられるから。‥当の青葉が桜姫に好意をもってる理由は、まだ本作においては完全に明瞭にはされてないけど、でもこの青葉自体もけっこう困ったもので、なぜなら彼は桜姫が自分の手に入らないならいっそのこと殺しちゃおうって考えちゃう人であるからで、そして事実作中で彼は桜姫を手にかける寸前まで行ってるのだよね。‥なんだか、非常に物騒な作品で本作はあるのかも。これから先どうなってくか、予想するのは存外にむずかしいし、私は次巻をただ待とうかな。どうなることか、楽しみ。」
「ま、青葉はまだよくその人柄や思考がつかめない段階といったキャラではあるかしらね。というのも実際、彼がどの程度まで桜姫を欲しているかも明らかでないし、桜姫の重圧が増してゆくだろうこれからの展開において、彼がどれだけ本音をさらけ出していけるかが、ま、だからこそ、この作品のひとつの見どころであるにはちがいないでしょう。それにそうね、本巻の見応えある部分は実は桜姫や青葉よりも、桜姫に仕える女房である淡海の、その圧倒的なまでの悲劇的な最期に求められるべきなのでしょう。なぜなら本当に、この淡海のラストこそは種村有菜の真骨頂ともいうべき、悲しみに沈む人間存在のある種象徴的な図を成しているように感じられるからなのでしょうね。であるから本巻は、この淡海のエピソードだけでも読む価値はあるといえるでしょう。なぜなら愛と義のために死ぬ淡海の姿は、それこそ日本的な殉死の典型的なものでもあるのは疑えないのでしょうから。」
種村有菜「桜姫華伝」2巻
2009/07/23/Thu
「百合心中なんて題は少し物騒かなって第一印象をおぼえるけど、でも本作の内容をよく理解したとき、この「心中」ってキーワードはある意味まちがいなく本作の性格をよくあらわす言葉にちがいないって思われて、それというのもつまりこの作品が描く種々のストーリーはそのどれもが人間心理のある暗い部分、恋にまつわるある種狂気的な側面を逃げることなく真正面からとらえてるその勇気があるように思われるからであり、和やかで繊細な筆致から成る画風といえど、ううんもしかしたら逆にそのためにこそ、この一冊にこめられたドラマの激しい熱情と暗黒の血の疼きは印象的なものに思えてくるのかなって、私は感じたかな。‥本巻は少女同士の恋、もしくはそれに類するだろう他者をつよく愛しく思う気持のために激しく己を揺さぶられる宿命に遭う人間たちの成行を、「迷う心の道しるべ」を提供するとされるふしぎな骨董屋さんである猫目堂を介して、色濃く情感豊かにまとめた一冊。ぜんぶで五つある短編のそれぞれは相互には直接的なつながりはないけれど、ただそのどれの物語でもみずからが欲する私でない、あるいは己が望んだ事態でないといった、ある種の人生の危機に遭遇した人たちの心理的模様が主軸に描かれてるといった点は共通であって、そんな彼女たちがふと心の間隙にはめられたような奇妙な孤独な心象風景である猫目堂に行き着いて、そしてそこで自分自身の有様を見つめ直すといった展開がこの作品集の基本的な成行と思っていいと思う。‥愛は世界と反発する。なぜなら、恋とは狂気だから。‥古今東西、あらゆる世界において共通に表現され見出されてきたといっても過言でないだろう、その真理を、本作は実によく描写してる。甘いだけでない、恋の一方通行的な側面の様がどうしてこんなに切なくも狂おしいくらいに魅力に満ち満ちてるのか、そんな疑問をさえ私はこの作品を一読して思わずにはられなかったかな。‥恋の色とは、暗い血を含意してるのかな、って。」
「恋愛というものは、なんていうのかしらね、最終的には挫折してしまうものというか、どうしても私たちがふだん生きている実社会とは折りあいがつかない一面を備えたものということは疑いなくいえるのでしょう。というのも恋愛とはその完全な形においては、恋愛の状態にある渦中の二人の意識に、世界よりも自分たち二人こそが真実であり、自分たち二人こそが優先されることが正しいといった、きわめて強大なエゴイスティックな観念を萌させるものであるからであり、もし激しい恋に落ちて、世界から反発された自分たちを感じなかったら、その恋はどこか連愛らしからないものというべきなのでしょうね。それは恋愛とは、恋愛こそが絶対的に真理であると、恋人同士に思わせるためにこそ存在するにほかならないからよ。であるから恋愛に呑まれた人々は、それが反社会的なまでに過剰に燃え上がるのなら、結果として必然的に死の方向に向いてしまう。‥ま、恋愛とは狂的な依存関係の一種であるとしかいいようないのでしょう。それが良いか悪いか、はてさてとお茶を濁したいところかしらね。」
「でもそれは濁しちゃだめ、な話だよね。‥結果として死に至るのが恋愛の必然と解するなら、ならば恋愛とはおのずから悲劇的にしかならざるをえないものっていえるのかもしれない。だからこそ本作は、人がある他者を愛するといったことから生じるだろう成行をよく観察し表現しえたこの作品は、いくつかの話を除いて結末は思いが叶えられないといった切ない落着を見せるのであろうし、一見して幸福へ一旦向いたかに見える彼女たちも‥たとえば、それこそ「百合心中」のエピソードの二人とか‥その未来は決して安穏であるはずなくて、その前途にはこれからまだ見ぬ苦難があるだろうことは、読者はまちがいなく予見しないわけには行かないのだろうって、そう私は本書にふれて思ったかな。‥愛は多くのものを失ってく。その人がそれまで生きて周囲においてた諸々のものを、たったひとり、あなたという人のために、むしろそれら自分の人生が積みあげてきたものを燃料として摂取するが如く、次々と以前の価値観では考えられなかったふるまいを為し、愛の働きは二人をますます二人きりにさせ、そして孤独に溺れさせてく。それはまるで愛以外にこの世界に価値なんてないって叫んであるかのように。‥でも、きっと、それは長くつづかない。つづかない理由は、いうまでない。なぜなら世界はそんな愛をゆるさないから。恋愛は社会という惰性の枠組にひしげられてしまうから。‥でもそれでも、人は生きてく。もし死を選択しないのなら、ひしげられた恋人は、ひしげられた状態で、それでも生きてくことがある。私は、恋愛とはひしげられていいものかもしれないって、そんなことさえ気がしてくる。なぜなら、人は敗北するものだから。そして恋愛の勝利なんて、それこそ幻影にすぎないように思われるから。生とは、虚で、ないのだから。」
「「百合心中」のエピソードでいちばん良かったシーンは、ラストの心中を思いとどまったシホと日和が、死んでしまったらセックスのつづきもできやしないといって笑いあうところかしらね。あの場面は、まさにそのとおりよ。おかしくもあるけれど、しかしまったくそれこそが恋愛以上の真理でしょう。‥死んでしまったら、セックスもできない。いい言葉ね。これは本当に正しいことよ。だからひしげられた恋愛のなかに、あるいは新たな愛の萌芽もうかがえることになるのでしょう。恋愛という狂気から冷めたとき、しずかな愛の価値が見えることも、さてあるかしらというところかしらね。‥良い短編集だったことよ。満足ね。」
『それは運命だから絶望的だといわれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得るのである。』
三木清「人生論ノート」
東雲水生「百合心中~猫目堂ココロ譚~」→
遠藤周作「愛情セミナー」
2009/07/22/Wed
「今回から連載される「ひとひら」の外伝に位置するとされる「ひとひらアンコール」は、そのコンセプトとして本編中にはよく描写されなかった人たちの様子と行動をよりふかめてくというものがあるように思われるけど、具体的にどんなキャラクターに焦点が当てられるのかなって楽しみにしてた私としては、まずさいしょのエピソードである今回のお話が、ミケ先輩と響さんに充てられたのはとりあえず納得の行く成行かなって思われた。というのもこの二人は本編のあいだで十分に活躍の場面が描かれてないって点についてはだれも疑えないであろうし、またとくに響さんってキャラクターについては、その独特の個性と存在感は他の人物の追随をゆるさないオリジナリティがあろうとも、あくまで麦ちゃんを主役におきその周辺を描くことに務めてた「ひとひら」本編においては、重点的に描写されるわけにも行かない登場人物のひとりだったことはまちがいないように思われるから。‥響さんってキャラクターはちょっと癖がつよすぎて、よくとりあげようって思ったなら、もしかしたら麦ちゃんやそのほかの人たちをも呑みこみかねない個性、ある意味あくのつよさがあるものね。それだから十分に活躍する機会が与えられても決して役不足ではなかったろう響さんの人となりが、番外編とはいえ、こうして本編が終了したあとに読めるってことは、響さんの人柄に好ましいものを予感してた私としては、とてもうれしいものあるかなって思うかな。‥響さんのもつキャラクター性は、ある意味、麦ちゃんのものと対極に位置するものであり、その点ではまったく「ひとひら」本編では描くことの叶わなかった領域をみせることが可能になるのかもしれない。そういうふうに、いろいろな物語を「ひとひら」って舞台において再び演じられる様を鑑賞できることは、なかなか素敵なことにちがいないかな。」
「本編の連載が終了したあとにこうして外伝を積み重ねて行くことによって、結果として本編の内容にも奥行が出てくることでしょうし、また「ひとひら」がこれまで築いてきた世界観にも深みが伴ってくるというものなのでしょうね。ま、しかしそれはともかくとしても、響という人間はいろいろ人目を引くものがあったのであり、種々のキャラクターが登場した本作中においても、その存在感は独自性の強いものがあったのだから、このまま彼女を用いないで済ませるには少々惜しい気持があったことはたしかなのでしょう。たとえば彼女が活躍したのは本編でいうところの41幕だったけれど(→
ひとひら 第41幕「空気を読むのは難しい」)、あの子の態度は実に率直的で、今までのこの作品にはなかった要素をふんだんに備えているように感じられたものだから、なかなか新鮮に感じられたエピソードだったかしらね。ま、その意味ではもっと麦ちゃんと響の絡みも見てみたい気もするけれど、はてさて、それはこれから描かれる可能性は果してあるかしら? ま、現時点ではなんともいえないといったところでしょうけど。」
「今は二人とも三年生で演劇部なのだから、そのうち麦ちゃんと響さんのつながりと関係性の変転もうかがえるお話が出てくるとうれしいかな。‥うん、そういう展開があらわれたなら私はすごく喜ばしい。というのも、だって、私は告白しちゃうけど、響さんがすごく好きなんだよね。麦ちゃんとは異なったベクトルで、とても気に入ってる。そしてそれはどんな理由からなのかなって考えると、まず私が響さんに惹かれる理由のひとつとしては、彼女がとても誠実に表裏なく日々を暮してるからなのだと思う。‥彼女は、衒わないものね。そして演劇部においては音楽という自分の興味にとても正直に向ってるのであり、その己の価値観と趣味にどこまで従順で、決して他者の関心と視線により自己を曲げないだろう態度‥そもそも自分の生き方に他者という規範を導入さすことを念頭にさえおかない性格‥は、響さんの潔さをまったくあらわしてるように思われて、私には彼女のその一途に自分自身であろうと努める姿には、ある種の審美的な価値さえ認めるにやぶさかでないかなとまで思っちゃう。それはつまりべつな言葉でいえば、響さんがもってる要素をいくらか私も担ってるからであり、それが何かなって問われるなら、私は私に没頭することを欲してる、ということになるかなって思うかな。‥私は私でしかありえないのであり、ならば私は私を考えなくちゃ、私をこそ突き詰めて行かなきゃいけない。‥私には、響さんの生き方にはそういった趣を感じる。そしてそこにある種の彼女の美しさの源を見出してるのかなって、そう思うかな。なぜなら、自分らしさを率直に表明し生きることは、他者に交わらない己の孤独に準じることに、相違ない選択の結果でこそあろうから。」
「響という人間は自分という存在にあくまで一途にあることが本来的にできる、稀有な性格のもち主であるとも果していえるかしれない、か。ま、そういえる面はまちがいなく彼女にはあるのでしょうね。そしてであるからこそ、響はどこか他者とずれてしまう向きがあるのも事実であり、その意味では作中みずから述べていたように、周囲の空気を読めない少し気難しい側面もたしかに彼女にはあるのでしょう。ただしかし、そういった周りになかなか順応しえない人となりは、裏返せば彼女の誠実さのあらわれであるにちがいないともいえる。だから、ま、その意味においては、響ほど信頼に足る人間もいないのでしょうね。なぜなら彼女は嘘を点かないでしょうし、安易に他人に迎合もしないのでしょうから。そしてそれは彼女という人間のひとつの美徳よ。またおそらく現代社会ではなかなか得がたい、素敵な長所ともいうべきなのでしょうね。というのも誠実さと信頼とは、まさに人間社会を成り立たす重要な鍵でありながら、それを体得するのは如何に困難か、計り知れないものに相違ないのでしょうから。」
2009/07/21/Tue
「今回のエピソードのように純粋に暦とひたぎの会話のやりとりだけで一話を成り立たせるって試みは、なかなかおもしろい。というのもこの二人の言葉の応酬は、その中身をよくきいてみるとすぐに納得されることと思うけど、それはたとえば押井守がやりそうな知的に意味深な暗喩をこめて如何にも高尚な雰囲気をかもし出そうって類のものでなくて、あくまで無体な、少し気どった少年少女のエスプリやユーモアにあまりなりきれてないだろう、きわめて多感な感性の、いってみれば青臭い雰囲気が充溢してるようにうかがわれるからかなって、そう私は思ったかな。それはべつな言葉でいえば、ふたぎと暦、この二人の生き方の姿勢というかお互いがお互いに向きあう態度が、如何にももって回ったみずからの本音を率直にさらけ出すことに臆病であるふうが見てとれるということであり‥とくにひたぎのやり方は特徴的で、彼女は暦にもってる自分の好意をあからさまに示そうとはしてないけど、でもその自分の彼に対する好意的な感情を彼に汲みとってもらいたいっていう、そんな内面の様子がありありと感じられるのであって、要するに彼女のその思いを真正直には出せない捻くれた心根が、ひたぎという人を理解するうえではとても重要な要素なのかなって思う。そんなめんどくさい姿勢はみててつらくもあるけれど、でも彼女の前半生が前回描かれたあのようなものであったのだから、今のひたぎの様子もやむなしといったものではあるのかなとは思うけど、ね‥それはいわば青春の気の弱さ、吉行の言葉を借りるなら青春の湿った感触とでもいうふうになるかな。‥むずかしい年ごろ、といえばそれまでかも。」
「会話を主軸に一作を成立させようと考えた場合、シャフトのようなきわめてわざとらしい演出は二人の態度と台詞の人工的な雰囲気を際立たせる意味でも、非常に有効なものだと今回のエピソードを見て思わせられたかしらね。それというのもなぜなら、おそらく台詞だけを追って行くならひたぎと暦のなんともいえない関係性の距離感といったものはそうよく理解はされなかったのでしょうけど、表門上の言葉や態度とは裏腹に、暦との身体的な距離を果敢に詰めて行くひたぎの様子を視覚的に見せられることによって、彼女がどのように挑発的であるか、その実体が推察されるというものだからでしょう。ま、そういった彼女のアプローチも、裏を返せば彼女の擬態のひとつに過ぎないのでしょうけどね。ひたぎは友だちそんなにいないでしょうし、他者との距離感のとり方が、そう上手くはないということかしら。」
「この作品全般に見受けられる気どりは、その登場人物の立ち居ふるまいと台詞に端的に象徴されてるのであり、とくにひたぎの自己の内奥を率直に表現することをよしとせず、常に他者の視線を意識してるかのような演技じみた態度は、いってみれば彼女の弱さ、すなわち本作が裡に秘める人間の心理の暗黒面の表出のようにも感じられるから、かな。‥人というのは一種類の固定された人格を備えた存在でなくて、私は人とは多種多様な性格と態度と感情と姿勢を、その場の状況とときのめぐり合わせにおいて、種々に表現しうる存在だって考えてる。だからひたぎが前回の話においてのように、過去の傷をみずから抉り出し、そしてそれを勇敢に背負うことを覚悟した彼女の姿は彼女の真実の有様であるって思うし、それと同様に今回のエピソードで回りくどい言辞を呈しながら自分の本音をさりげなく暦に察してもらいたいって暗に願ってる‥その態度は他力本願の一種であろうけど、でも素直に自己の心情を吐露することには多大な勇気が伴うものであるのだから、彼女がそういう姿勢をとることはそうわるいことでないし、またそう珍しい心理でもないとはたしかにいえるかな。恋の心理とは、ある意味、自己を巧妙に偽ることを強いるものであるのだから‥姿も、また同じようにひたぎっていう人のほんとの顔であるのだろうって思うかな。‥本作の魅力は、だからこのわざとらしい人間の多様な仮面の合間に透ける、ある真実の表情を読みとることに求められるのでないかなって気がするかな。彼女たちのほんとの望みとは、いったいどこにあるのだろう。そういうことを思いながら、私はしずかに本作を視聴してこかな。けっこうおもしろくて、よい感じ。次も楽しみ。」
「人はたしかにさまざまな仮面を相手によってつけかえ、ある個性を演じるものではあるのでしょうけど、ひたぎの態度のそれは少し余りに過剰にも感じられるのであり、ひたぎの姿勢は、なんていうのかしらね、私は私という人間を演じていますといったようなことを、明瞭にアピールしているようにも思われて、それが少し息苦しく感じられるのよね。そしてこれはおそらくひたぎという人間が、他者の視線をきわめて意識して日々を過しているからでしょうし、彼女が他者のことを気になってしかたないのは、彼女の過去の心の傷が大きな要因を占めていることは疑えないのでしょう。ま、その意味では、たしかにこの子は悲劇的な属性を負っているとはいえるのでしょうね。これから先そんな彼女がどう変化して行くか、そこにとりあえず注目して本作は観て行きましょうか。はてさて、では、次回に期待よ。どうなることか、楽しみね。」
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遠藤周作「妖女のごとく」
2009/07/20/Mon
「ドラマ性という観点から見るなら今回のお話もとてもよく描けてる。というのもまずその理由の第一点としては、エドとアルの公的な立場を踏まえるならヒューズの死って事実を知らされないでいる現状は不自然であるばかりか重度の手落ちととられても致し方ない部分あるのだけど‥軍の犬であるはずの国家錬金術師が軍部における衝撃的な事件であるヒューズの殺害の顛末にこれまで遠隔地にいたとはいえ情報が入らないでいたのは、あまりに信じられない事態であるのだものね。そこのとこは原作を読んだときから少し違和感が拭えなかった部分だけど、エドたちの身に次々と降りかかった災難と彼ら自身の心理的な苦難の過程をアニメで連続的に見せられると、エルリック兄弟が心身共に実に危機的な状態にこれまであったことが、結果としてヒューズの死という情報さえからも彼ら自身を離すことにつながってたって事情がよく理解され、ドラマの説得力を今回のエピソードに至るまでの流れで十分に私は納得させられたかな‥そこの点が上手くカバーされた構成の妙は本作のドラマのクオリティの高さを保障するものであるだろうし、また賢者の石についての一筋の光明を得たエルリック兄弟にとって、最大の信頼できる人物であったろうヒューズの亡きことをこのタイミングで告知されることは、あるていど彼らをとり巻く周囲の深刻さを自覚させられた状態でありながらなお前に進もうとした兄弟の前途をくじく悲劇性として、十分な効果をもったものと評価するに足らないわけがなかったって、そう私は思ったから。‥非常に上質なストーリー展開で、見応えある。これはなかなかよろしかな。」
「これまでエルリック兄弟はどんな手段をとることになろうとも元の身体をとり返すことを第一の目的として行動してきたわけであったけれど、しかし彼らががむしゃらにがんばれてこれたのは傷つくのは自分たちだけというある種の線引きがあったからであり、その認識が事実上はっきりと崩れてしまうのがこのヒューズの死の報せであったことはたしかなのでしょうね。なぜなら彼ら兄弟とは、表面上はどのような非情な手段を選択することになろうとも自分たちの望みを達成せんという決意を表明してはいるけれど、しかしそれが虚飾に過ぎないからであり、そのことは周りの大人たちは皆知っていた事柄にちがいなかったのでしょうね。ま、エドがホーエンハイムを憎んでいるといっても、あれは彼の父への愛情の反転したものでしかないのでしょうし、他者を巻きこまざるをえない立場に彼らがもう至って後戻りできなくなってしまった事実は、けっこう残酷なものを含むのでしょうね。それはつらいことでしょう。」
「ヒューズの奥さんは前へ進まないことこそが夫への礼を失すことにつながるのであり、だからあなたたち兄弟は何があろうとも初志貫徹し、自分たちの努力を達成することを目指すべきだ、それが死者へのためなのだって語ってたけど、その言葉はそれがあまりに正当であるために、エドとアルに引き差しならない覚悟を要請する類のものであって、そしてその覚悟をこそ彼らに決めさすことがまずまちがいなくヒューズの死の本作において果す役割の最大のものにちがいなかった。なぜならヒューズはこれまで自分たちだけで孤独に自分たちだけの願いを実らせようと努めてきた兄弟に当って、はじめてではないにしてもよく接し彼ら兄弟の意向をわかってくれた最大の理解者のひとりであったにちがいなくて、その存在は何をしてくれなくても兄弟にとってかけがえのないものであったことは疑えないことだった。‥ただだけれど、ヒューズの存在はその死によって、エルリック兄弟の目標と行動に他者の重みが、つまりその責任って重圧が加わることを明確に示す事件でもあったのであって、べつな言葉でいうなら、ヒューズの死を知ったとき、エルリック兄弟の元の身体に戻るって願いは、彼ら兄弟たちだけの望みでなくて、死んだヒューズ、そしてその家族の願いにもなったんだ。‥だからエドとアルはもう孤独でない。しかし、孤独でないからこそつらいことも起る。自分たちだけの自分たちの未来でないからこそ、そこには慎重さが求められてくることもある。でも、それでも、前へはどのみち進まなくちゃいけない。前へ、前へ。どこに至ろうとも、前へ前へ。ヒューズの死は、その途の灯と、果してなろうかな。‥それは、まだ、わからない。」
「実家をみずからの手で燃やしたところで、エルリック兄弟は過去を捨て、ただ前へと進むばかりの身になったはずだった。ただしかし、それでも過去は彼ら兄弟の行く手に何度も顔を見せることになるのであり、人は過去をふり切れないものであることをエドとアルは徐々に認識していく。そしてさらに現在の行いが直ちに過去に移り変わっていき、いつしかその過去もまた他者という情念の形を借りて、彼ら兄弟の行末に暗い影を投げかけてくるものに変化することは避けられないことである、か。ま、はてさてね。‥ただ、そうね、その過去をただ未来の前途に差す影と考えるか、あるいは影でなく次の自分の一歩を照らすべく光と見るかは、前へ進む者自身の考え方次第ではあるのでしょう。そしてヒューズは闇か光か。ま、どうかしらというところでしょうね。そしてその解答は、いうまでないことであるでしょう。はてさて、よ。未来なんてはてさてよ。ちがうかしら?」
2009/07/19/Sun
「さいきんのアニメの構成の仕方で私がまったく理解できないのが本来のきちんとした話数の流れによっての放送順じゃなくて、故意に順番を変則的に放映するといったいわゆる時系列シャッフルであり、なぜなら私にはこれがどういった目的に沿って行われてるのか、正統的にドラマを堂々と正しい理路に従って展開するのでないという決断は、いったいどんな演出意図のもとにくだされるのかといったことが、どうしても上手く納得することができないからであって、好きな現代魔法がそういった手法を採用しちゃったのは少なからず残念な気持が拭えないかなって思う。‥うーん、物語を当初正当に構成されてたろう型をあえて破壊して、視聴者に次はどんな話が来るのかな、ここから以降はどのように物語が変化を見せてくるのかなって期待を丸ごと放棄させてしまって、ドラマから連続性といった要素を乖離させてしまい‥そして私の意見では、連続性をなくした非連続なドラマなんていうものは、それ自体がどう考えても矛盾した代物にしか思えないという点が、拭えがたくあることを告白しなきゃいけないかな。だって如何に時系列シャッフルといえど、そのシャッフルが可能なのはもともとのほんとのドラマがある限りにおいてなのであって、なぜなら一定の流れをあえて崩すとこにシャッフルの存在可能な根拠があるのだから、前提となるドラマの流れそのものがないなんてことはありえない。そしてそう考えてくならば、なぜその起承転結によって整然と導かれたろうそもそもの作品の調和的な美しさの結実であるドラマを、どうして破壊しなきゃいけないのか、その理由に十分に答えられるべき理由が呈示されなきゃ、私には時系列シャッフルとは単に奇を衒った変化球としか受けとれない。べつな言葉でいえば、奇を衒うことばかりしてたなら、そのふるまいは遅かれ早かれ作品そのものの地盤を揺るがすことにつながるのじゃないのかなって危惧が、私には感じられてしかたないかな‥作品をともかく見づらくしてしまう本作の作品の構成は、私は少し評価する気分にはなれないかも。というのも、だって、現代魔法って作品はそもそも設定がわかりにくいし、それに伴って登場人物たちもまた一般的なキャラのテンプレからは外れた変てこな人たちばかりなのだから、そのうえに時系列を滅茶苦茶にしちゃって難解にしちゃうことには大して意味は求めえないのでなかったかなって考えるから。‥それなのに、時系列をぐちゃぐちゃにしちゃって‥第1話でゴーストスクリプトの話をはじめちゃって‥おまけに3話目は弓子との出会いが描かれるだなんて‥私の現代魔法が‥私の、私の‥」
「ま、あなたの現代魔法じゃないけれど、ただしかし、徒に放送順を変更して本作が魅力が増す作品の類かと問われると、少々はてさてといったところではあるのでしょうね。時系列をシャッフルするの、流行っているのかしら? わからないものね。」
「い、い‥」
「い?」
「岩をも砕くプラトンパンチだー!!」
「ぐほぉうてう!!?」
「せっかく楽しみにしてたのにー! あーもうっ。なんでふつうに放送してくれないのかー! もうもう、私寝るっ。」
「‥寝るのはまったく構わないけれど。というかさっさと寝たらいいのよ。不満を抱えて寝なさいな。」
「プラトンパンチをくらへー!!!」
「げぇふぇうっ!!??」
「引き止めろー!! そして慰めてっ。お姉ちゃんのばかー!!」
「‥ここまで理不尽なノリは久しぶりね。せっかくここ数ヶ月以上安穏と作品の感想を継続してあげてこれたのに‥。ま、なんというか、佳代、現代魔法そんなに好きだったのかしら?」
「‥私と、現代魔法の出会いについて、お姉ちゃん、話ききたい?」
「そうね、興味があるといえばあるかしらね。」
「話さない。」
「‥」
「‥」
「‥あ、そう。」
「でもさいごのこよみと美鎖が手をとりあって師弟になる瞬間のシーンはよかったよね。でも美鎖が正義を語って悪人を倒すのは少し違和感かな。そんなこと、美鎖のような人がするのかな? その点でも、今回のお話はちょっと残念だった。次回以降に、期待かな。」
「時系列が順序どおりに行かない以上、どこまで原作が再現されるのか、またはコミックス版のようにオリジナルエピソードを主軸に勧めて行くのか、ま、未定といったところなのでしょうけど、とりあえずまだまだ観させつづけてもらいましょうか。盛りあがるか、それとも否か、なんともはてさてといったところかしらね。次回がどうなることか、少々胸中穏やかでないことよ。こういうふうに描かれるとは、思ってなかったものだから。」
2009/07/18/Sat
「バンブーブレードの外伝とされる本作は、この春から中学生になった年齢の割には背が高い恵まれた身体を保有してて、そして少し天然であどけない性格をしてる少女、大城戸優を主役に据えて描かれる。優は中学校に進学したといってもまだまだ小学生らしさがぬけてない、分不相応に背伸びしたがる年ごろであろうけど、でも友だちのそういった大人らしさの雰囲気に接すると少なからず疎外感を覚えちゃうような子であるのであり、彼女は周囲にいたならたぶんだれからも好かれるだろう生来のほんわかとした善良な気質と温かな心根をもった、素直でひたむきな人としてとても魅力ある造詣が為されてる。‥ただだけど、そんな優にはひとつほかの一般的な人と異なる習慣があったのであって、それは彼女のむかしからの友だちであるケンちゃんに付きあうという名目で、日々剣道の稽古を欠かさないケンちゃんの相手を長年にわたって習慣的に重ねてきたということだった。そしてその持続された鍛錬の成果は、ケンちゃん相手には及ばずとも‥というより、この巻のさいごで優相手に圧勝しつづける実力を備えるケンちゃんの規格外さというのが意味深長に余韻を残して描写されてるのであって、この構成の仕方の巧みさはなかなかすばらしいものあるのじゃないかな。本作はこの点に限らず、展開の成行の仕組みにところどころおどろかされる部分が少なくない。それはたぶん土塚作品の見逃せない特徴ともいうべきかな‥そうとうの実力を彼女に約束することになったのであって、既存の剣道部員にその力を見せることから、優の物語はスタートする。‥非常にきれいに描かれてて、感心した。すごくていねいな漫画だって思う。これはけっこう、よろしかも。」
「土塚理弘という作家は、本家バンブレにおいても数年来にわたってそのよく練られたストーリー展開とぶれのない一貫した個性を発揮するキャラクターの創造によって、その手がける漫画作品の完成度といったものを認知させられてきた稀有な能力の作家であったのでしょうけど、このバンブレビーにおいてはその作品の安定度といったものが際立って発揮されているというべきなのでしょうね。それというのも本巻の序盤は主人公である優の心理に密着したドラマを描いているのであり、ここらの成行はある意味少女漫画の文法のように、人物の個性をしずかにモノローグによってあらわすことに成功しているように思われて、とても心地よい魅力を表現することを達成していると評価できるでしょう。この手腕の巧みさは、はてさて、見事というほかないかしら。」
「すごく無駄のない作品っていうふうに感じるかな。というのもそういうにはいくつか理由があるけれど、まず第一に思い浮ぶべき本作の魅力は何かなっていえば、それは優の衒わない態度と純真な性格から醸成されるだろう物語の良質な雰囲気に求められるべきにちがいない。なぜなら優のあどけない個性こそは、本作にある一定の清涼な印象をもたらす力の源であるのであり、またさらには彼女が物語の中心にいるお陰で、読者は彼女のきれいな態度に安心して身を委ねることが可能になるのであって、その効果は剣道部の顧問の進退がかかった試合において、遺憾なく発揮される優の実力が示すだろうカタルシスの核心に象徴されてる。‥優のあどけなさが本作の第一等のおもしろさの要因にちがいなくて、私は彼女の存在によって本作がずっと気に入っちゃったかな。彼女のような美しい人は‥私はこういう人は、美しいと感じる‥みてて楽しい。だから本作の行末は期待かな。なかなかこの作品の展開は、だって、未知な可能性に満ちてるにちがいないのだろうから。」
「本作の魅力を成す部分とは、あとはそうね、たとえばドラマの王道ともいうべき展開の仕方にも果して求められるかしら。それは一見してまとまりがなく、顧問の意志には無関係にどこか分断しかかっているように感じられる現在の剣道部の状態を、優が加入することによって、新たな成行を見せてくれそうな、単純に物語の先行きにわくわくさせられるものがある。その意味でいうなら本作は物語性という作品を成り立たせる純粋な原動力によって、どこまでも読者を引っ張って行ってくれる力のある作品なのでしょうね。だから、はてさて、ここからの成行が楽しみというものよ。では、次巻を期待しましょうか。どうなることか、楽しみよ。」
土塚理弘「BAMBOO BLADE B」1巻
2009/07/17/Fri
「本巻からはじまったテレビの一企画「バニッシュ学園」編が、紛うことなくバンブレの最終章であることがこの巻でまったく明言されたことがまず私にはおどろかされたことだった。というのもバニッシュ学園っていうのはあくまでテレビに関係することであって、それ自体として考えるならこの章は高校の部活ものとしてはちょっとわき道に逸れたものであることは疑えないことだろうし、そしてこの章でバンブレの物語が完結するなら、室江高剣道部は公式の試合としてはけっきょく地区予選どまりでその成績を終えることになっちゃう。それは要するに、本作が有体の部活を描く漫画作品の上等の文脈から完全に外れちゃうことを意味するからで、なぜなら因縁あるだろう本作において最強の剣士の位置にあったウラと主人公のひとりであろうタマちゃんとの出会いは、きちんと剣道の部活としての由緒ある舞台で為されるのでなくて、テレビ企画の、いってみれば部活としてみるならイレギュラーな環境で対峙するだろうことが明らかになったってことでもあるんだよね。‥だから私がいちばんおどろかされたのが、この作品が描こうとしたものが、部活で鍛えてがんばって大会を勝ち進んで誇りとつよさを手にするっていう類の一般的な部活ストーリーでなくて、実際にどこにでもありそうなそれほどつよくもなく弱くもなく、かといってきびしすぎもせず怠けすぎもせず、言葉どおりの意味で楽しい日々をみずからの丈にあったていどに送る高校生たちのドラマを描くことにこそあったということが確定したという点にまずあり、またそれはこのバンブレって作品が、何げない人たちのだけどとくべつな素敵な世界をこそ表現しようとすることに主眼をおいてきたために、はじめて到達しえた、ドラマの地平であるのだろうって思わされた点にも求められるかな。‥高校生の女の子たちの日常というより、むしろその高校生たちを見守る大人の視点に、作者の思いいれはよけいに感じられるかもだけど、ね。おっさんたちの成長がメインだっていい切っちゃう、この作者のセンスには、私はなかなか吃驚させられるものあるかもかな。こういう雰囲気の世界を展開できる人は、だって、なかなかいないもの。」
「ま、冷静になって考えてみるなら室江高校が試合を勝ちあがって全国の舞台で因縁の相手と雌雄を決するなんて展開はどう考えても常識的に無理があることは自明なのでしょうけど、しかし大抵の作品はその道理を無茶で吹っ飛ばして大々的な舞台にまで物語のコマを進めてしまいがちであるのでしょうね。そしてそこにいってみるとこのバンブレという作品が特異な存在であることは明瞭になるのであり、タマちゃんは強いといっても最初に登場したときの強さからはほとんど変わっていないし、ほかの部員たちもそれほど大きな変化、劇的な向上というものは見当らないのよね。もちろん、小さな変化はあるけれど。いや、はてさて、その小さな変化を、つまり人が為しうるだろう小さな小さな成長の意味と意義をこれほどまでに注視し、そして浮彫りにしてみせたからこそ、本作の他に代替できない魅力といったものは、認知されるべきなのでしょうね。つまり、人はわずかながらも意志によって成長できる。そのテーマを忠実に描き出してみせたからこそ、さて本作の、おもしろさといったものは比類ないのでしょう。」
「そのわずかな変化を子どもたちの世界だけでなくて大人の領域においても見出しえたことこそが、さらに認められるべきバンブレの魅力であるともいえるかな。‥コジローもずいぶん変わった。初期のころは自分の保身のことばかりで生徒をよく見てやれなかった彼が、今では生徒たちを自分の勝手な都合でふり回すことをよしとせず、このまま辞めさせられちゃうことになろうとも子どもたちに無理はさせないことを決意してるコジローの姿勢には、たしかな大人の責任と哀しさがあった。そしてそれはたとえばサヤに上段をやることを勧めて、さらにほかならないタマちゃんにその監督を任せることにより、タマちゃんとサヤ、二人が相互にいい影響を与えあうことを期待するあの場面において、もっとも端的に象徴されたものじゃなかったかな。‥私はこのシーンにちょっと感じ入っちゃうものがあって、というのもコジローすごく先生らしいって痛み入ったからであり、こんなふうにしずかにだけどたしかに変化する大人の姿をていねいに描いた作品は、もしかしたらバンブレを除いたらそう稀なのじゃないかなって、そうもまた思ったから。‥そしてその変化と成長の意味あいはコジローのみに表現されるに留まらず、本巻で新たに登場した三人の大人たちが、またそれぞれの変化を見せてくれるだろうことを、私はしっかり確信してる。なぜなら、本作のクオリティは、信頼に足るものであるのだから。‥しずかに次を期待する。楽しみかな。」
「バンブレという作品は一貫して一定以上の品質を保つことにまったく揺るがないものがあるのだから、はてさて、この完成度の高さといったものはまったく評価すべきものなのでしょうね。そしてこの安定感が何に由来しているものなのかと問うならば、それは土塚先生の最初期から明確に構想されていたろう本作の基底を成すテーマ性の確かさに求められることは必至なのでしょう。なぜならその作品においていったい何を描くのかという、その創作における基礎ともいうべき部分が微動だにしないからこそ、作品全体のバランスというものははじめて保たれるからなのでしょうね。ま、はてさて、これからの展開が楽しみよ。ラストに向けてどう展開していくか、期待させてもらうとしましょう。どうなることか、待ち遠しいことね。」
土塚理弘、五十嵐あぐり「BAMBOO BLADE」11巻
2009/07/16/Thu
「一所懸命に日々をあくせく働いて過す必要のないくらいに十分にお金持でそのために自堕落な生活を送っちゃってる二人の姉妹の日常を描いた一作。といっても本作において描かれる自堕落さとはそうとうの度合、オタク文化やネットカルチャーを自虐的に戯画化したものであるのであって、その種の世界で通俗的に用いられてる表現や呼称、用語をあるていど熟視してなきゃ、この作品の含意するとこのものはわからないのじゃないかなって気がするかな‥でも本作のような作品を手にするような人にとっては、この一作が内容の随所でふれてるネット的な物の見方からあらわれるだろう言葉や価値観‥たとえばリア充とかマイミク外されたからむかつくとか働いたら負けかなとか、そういうの‥に、無縁であることはたぶんないかなって思うけど、ね‥。‥かわいらしい素敵な絵柄でその点の魅力については文句ないけど、でも本作のベースとなってる画風の黒さといったものは、社会制度に上手く順応できないために自分を除いた世界に若干のルサンチマンを秘めてるけど、でもその怨嗟といったのは実のとこそれほど強烈なものでもなくて、ただ何かしら愛されたい、楽しいことをしてたいっていう、オタク文化に顕著にあらわされてるだろう自分への甘さ、自己のおかれた状況をよりよく認識することへの恐れといったものに対して実に明確な指摘を為しえてる部分があるのであり、なかなかどうしてこの作品は単純に笑って済ませるに行かない、ある種の問題を含んでももしかしたらいるのかなって、そう私は思ったかな。‥楽しくかわいく、そして毒を含んでて、意外とこの一冊は掘り出し物だったかも。」
「初っ端から毎日を引きこもって暮すのは不健全だからといってバイトに赴こうとする妹に対し、働くのは大罪に当るからそんな決意は止めろといい放つ姉の蘭子の態度はなかなかおもしろいものあるかしらね。ま、この姉妹二人がいろいろと思い悩んでいる理由の原因とは、突き詰めて考えれば世間一般の常識つまり日々を働かずに無目的に自堕落に過すことは悪だという戒律から、自分たちが外れてしまっているマイノリティであることへのコンプレックスというのがまちがいなくあるのでしょうけど、この姉妹に象徴されたおそらく他のオタクらも内面にもっているだろう苦しみというのは、きわめて日本的文化の産物だといわざるをえないのでしょうね。なぜなら実業的な労働を美徳とするのは日本的な価値観のひとつの特徴といえるのでしょうし、これがイギリスなどだったならば、それこそ働かないのが格好いいとされるに決っているのでしょうからね。ま、とはいったところで、日本のオタクの劣等感が払拭されるわけでもないのでしょうけど。はてさてね。」
「リア充、という言葉がわかんないなって私はずっと思ってて、というのもネットだけに耽溺してそのほかの世界で実際に活躍してないことがそんなに悪なのかなってふしぎに思っちゃう感性が私にはあったからで、そのため現時点でも私はリア充という言葉と、それを用いる人たちに対する共感という意味では、ほとんど理解を絶した側面があるのかなって思ってる。‥ただでも何かな、本作にいわれてるようなリア充‥つまりは実世間でも問題にされてるだろうリア充‥とは、私には世間的にいわれてるだろう社会的に成功してるとか恋人や家族と円満な関係を築けてて幸せだとか、そういった事柄を指す単純なものとも思えなくて、それは私がネットでいえるリア充が真の意味でのリア充‥つまり、幸福‥ではないのじゃないかなって考えるからにほかならない。すなわち、私が思うリア充とは、ネットからは不可視だろう部分に自分の位置と立場をしずかに確保することということに落ち着く。それはべつな言葉でいうなら、私が私でいれるとこを、ネット以外の関係性において保つことというふうになるかな。そしてそういった意味においてのリア充は、社会的な成功でも不成功とも無関係で、みずからの関心をみずからのうちにこもらせるのでなく、外に向けて日々を過す、そういった自意識の外的な志向性をこそ意味するものというふうにいえるかなって思う。なぜなら、己の関心を外界に向け、世界に興味と好奇心を抱くことこそ、幸福の獲得の第一歩にちがいないって、そう私は考えるものであるから。」
「私心のない興味の大切さ、とでもいうのかしらね。ま、こういうことはあまりうるさくいうと説教くさくなるし嫌なものなのでしょうけど、しかしリア充などということを幾度も口にして大仰に飾り立てる人は、少し自分に対する関心が強すぎるのでしょうね。というのも今現在よりも自分はもっとよりよい立場におかれるべきといった自尊心がなければ、リア充の自分なんていう仮定を施すことには決してならないのでしょうから。だけれど、はてさて、それは少々自惚れが過ぎるというものよ。そういう場合は、自分に関心をなくしていくほうが、よほど上手な対応といわれるべきでしょう。なぜなら、自分自身とは空虚なのだから。そして、世界とは実り多きものなのだから。故に外界を向いてこそ、真のリア充は可能になるのでしょう。」
ユキヲ「武蔵野線の姉妹」1巻
2009/07/15/Wed
「わあ、けっこう真っ当な人間ドラマを描いてくれるんだって、今回のお話のまとめ方には感心しちゃった。うん、こういった隠喩に満ちた物語を‥妖怪や神さまはそもそもからして精神的に解されるべき存在であり、それは錬金術において見られるような物理世界の事象を精神世界との連関において把握し、現実の行いがそのまま心の働きの象徴としてあらわれるといったものの観方を代表してる。だからすなわち本作に描かれてるような妖怪はそれ自体が超自然的な代物って捉えられるべきもので決してなくて、それは本エピソードに表現されたように他人にはぜったいにうかがい知ることのできない、ある孤独な個人の心の傷跡そのものでさえあったんだよね。蟹がひたぎにしか見えない理由も、つまりそこにある‥非現実的な図法とシンボルによって仰々しく飾り立てることには一定の意味性が付与されるにちがいないって‥つまり本作のとことん人工的な意匠によってまとめられた画面構成とは、登場人物たちの心理のあり方を派手にそして端的に切りとったからに要請される演出にほかならなくて、このきわめて意味深なレイアウトが送るだろうメッセージ性や実写さえふんだんに用いることを恐れないその態度は、この作品に登場する人物たちがことごとく作為的で自然本来の人格的な存在である限り、まったく彼らの姿に似あったものであるにほかならないって、私はそう感じたかな。要するにこの作品の本質的に備えたわざとらしさは、シャフトの気どった演出スタイルと、見事に合致するように思われるってこと‥私はこの一連のお話を鑑賞して、素直に思った。‥うん、なかなか本作はよろしでない。このストーリー性は見応えある。いい感じ。」
「これまで観てきたシャフト作品というのは、ま、たまたまだったのかもしれないけれど、どうにもあらゆる画面の細部に執拗に細工を施すことを好むその演出の一貫した手法は、なんだか作品そのものの魅力をどこか損なわせてしまっているように感じられてしまい、率直にいえばあまり評価できる気持にはなれなかったのよね。ただしかし、本作「化物語」に限っていえば、おそらくこれは原作それ自体からしてこのような作風なのでしょうけど、人の気どりやわざとらしさといったものを全面的に押し出した、非常に非現実的な物語がその基底としてあるのでしょう。それは本作のキャラクターがどうにも実際には存在しなさそうな性格や言動をすることからもうかがえるのであり、これら変てこなキャラクター群がいればこそ、シャフトの偏執じみた演出スタイルというのは水を得た魚のように活き活きとしてくるのでしょうね。ま、配合が上手くいったということかしら。」
「ひたぎの背景と蟹の因果関係についても十分理路整然としたものが感じられて、この一、二話のエピソードに関しては私はとくに文句をいうべき箇所は見当らないかな。というのも何よりこのドラマにおいて感心させられたのは、みずからの思いすなわち自身の記憶の一部である母親にまつわる過去を重荷に感じたためにこそ、ひたぎが実際上の物理的な重量を奪われちゃうってストーリー展開に求められることは必至であって、なぜならこの一連の過程は人が過ぎ去った事績を如何に「悔恨」って形において囚われちゃうものであるのかっていう一般的な苦しみを一身に象徴してるように思われるから。‥ひたぎは、もうすでに終ってしまった過去そのものを悔いていた。でもその過去というのはもうどうしようもないからこそ過去であるのであって、それに何かしら影響を与えることは‥今の自分がその過去をどう認識するのかって、現在の行為と自身の態度を問題にするのでない限り‥不可能であるにちがいなく、ために悔恨とはただただ苦しみとつらさをその個人に与えるだけの代物であるに相違ない。‥でも、そう、だからといって、それじゃ過去を忘れて希望を胸に後ろをふり向かず前向きに生きてこうって思ったとこで、そうかんたんに過去に決着をつけられるはずがないのであり、それはなぜなのかなって考えるなら、私はその理由の一端は、人は、というよりむしろ人の心、無意識とは、過去という記憶こそ私という人生それなのだって、どこかで知ってるからじゃないかなって、そう思うかな。‥記憶が私の人生を輪郭づけ、ならば過去とは私の人生にあらわれた他者のすべての反照にちがいない。従って、記憶は消せない。べつな言葉でいえば、その悔恨こそが私を死から免れさせる。人生を捨てることを、躊躇させる。‥それが幸福であるかどうかは、また別問題かななのだけど、ね。むずかしいとこかな。」
「もし幸せになることだけを追求するなら、嫌だった過去を忘れ去ってしまい、未来の希望を胸にして生きたほうがよほど良いのか知れないでしょう。だがしかし、ひたぎは過去を引き受けることを選択し、それはつまり過去がまったく背負っている失われてしまったつらい体験の記憶や、その情感や、あるいはこうすればあのとき良かったかもしれないという悔恨という巨大な負債さえも現在の自身に科されることを決意するということであった。ま、その決意は単純に考えるなら、苦しみを増すことだけになってしまうでしょうけど、しかしそれならなぜひたぎが悔恨をもつことを願ったのかといえば、さて、これはなかなかむずかしい問題かしらね。というのも幸福になるべきなら、そんな過去は忘れたほうがいい、気にかけないほうがいいと、私たちはいうべきなのでしょうからね。‥しかし、そうね、あえてその過去を思い出すことを選択した積極的な理由があるとするならば、過去とは、つまりひたぎにとっての過去の記憶とは、母という十字架そのものを自身が担う覚悟そのものであったからにちがいないのでしょう。その十字架は、ひたぎにのみ見えた十字架とは、だれかが背負わねばならない性質のものだった。だれが背負うのか? ま、ひとりしかいないわけでしょうね。はてさて、よ。難儀な子ね、まったくに。」
2009/07/14/Tue
「錬金術が医学とふかい関連をもつものであるのはまちがいのない事実であって、というのもホーエンハイムことパラケルススもまた何より十五世紀末に活躍した医者として著名であるからであり、錬金術を代表すべき人物の本業が医学にあったことは、錬金術が志向したものが本来的に人の身体や精神の健康に根ざしたものであったからにちがいない。もちろんといってもパラケルススは当時一般の標準的な医者として有能であったから後世においては半ば伝説めいた事績が語り継がれるようになったというわけではなくて、パラケルススをして医学界のルターとまで称されるほどの人物に仕立てあげたのは、なんといってもホーエンハイムのもつ反体制的で非協調的なその気質のためだった。‥パラケルススの倣岸さとだれに対しても居丈高でいけ好かない態度をとっちゃうそのまるで詐欺師のようなふるまいは兎にも角にもパラケルスス伝説の外郭を規定するものであって、たとえば彼はのちにバーゼル大学の教授に就任するのだけど、そこでの講義をパラケルススはドイツ語でしてるのだよね。そしてこのことは当時としては大問題になるだろう仕業であったに相違なくて、なぜなら中世のアカデミーの講義はだれもがラテン語で行うべしというのが犯してならない大学の規律であったのだから。‥それなのにそのころのアカデミーの象徴であるべき教授が、ラテン語を話さず、研究で薄汚れた貧相な身なりをして学生の前に立つということは、きわめて反動的な自身の思想の宣言にとられてもしかたなかったのであって、この一エピソードからもホーエンハイムその人の歴史的な人となりが察せられることと思う。へんな人って一言でいってよろしかな。」
「ま、優秀な人物であったことはまちがいないのでしょうけど、とにかく派手で非常識的で世間の枠に収まりきらない人でパラケルススはあったから、当時の権威や保守的な人々から受けた憤慨はすさまじいものがあったのでしょうね。それにしかしパラケルススの態度も少々行き過ぎの部分のところがあったのは否めないでしょうし、というのも彼は自分自身を神に任命された医学会の王とまで自称するほどだったのだから、ことさら体制寄りの人でないとしても、過激なパラケルススの姿は好ましくは映らなかったにちがいないでしょう。そしてそんなホーエンハイムだったから、彼の名前の一部であるは「誇大妄想」という言葉の語源にまでなってしまったほどなのよね。英語でいうところのbombastよ。あれはホーエンハイムが元なのよ。」
「ハガレンで描かれるホーエンハイム像は、だからその意味でいえば性向や物事の考え方は実際存在したろうパラケルススの面影をどこかに残しながら独特の解釈が為された魅力あるものと評価することができるだろうけど、でもほんとのホーエンハイムはさらに過激だったって思ってたぶんまちがいないんだよね。それというのも彼は自分のやり方をことさら非難する大学当局の姿勢に激昂して、一昔前の学生闘争みたいにみずからに従う医学生たちを先導して教科書を燃やすアジテーションを先頭に立ってするなりで、まったくとんでもないところあったのだから、パラケルススがけっきょく最終的に大学から追放されたのもやむなしといったものだった。‥その後のホーエンハイムは、ドイツ、イタリア、フランス、イギリスといったヨーロッパ諸国から、遠くアジアにまで足を運んだっていわれるほどにさまざまな土地を経めぐる、有名な諸国放浪の旅に赴くのだけど、当時の世相は宗教戦争が荒れ狂う動乱の時代であって、パラケルススの伝説をことさら波乱にしてる理由のひとつには、パラケルスス自身が生きたときの混乱さが与って力あることはまちがいないのじゃないかなって、思うかな。そしてたぶんハガレン世界の情勢の不安定さも、私には十五世紀から十六世紀にかけての宗教と農民一揆が絶えなかったころの世相をいくらか反映してるように思えるし、ここのところをよく見てみると、おそらくハガレンの舞台設定のある核心がうかがえるのかもって、そう思う。なぜなら不安と困惑が満ち満ちる場合にこそ、精神と物質の意図的な混交を目指した錬金術の、その本懐がうかがえることになるに相違ないって思うから。」
「人心が不安定であればこそ、錬金術のような怪しげな術が根本的にもつ効用もよりよくあらわれてくるといったところなのかしらね。ま、とはいっても、パラケルスス自身の名声までそう何もかも伝説の空想的な作り話といったわけでもなく、ホーエンハイムをして偉大な学者として認知される所以は、彼が亜鉛や水銀といった物質を医術に用いて人を治療することに成功した歴史上はじめての人だったということが挙げられるのでしょうね。実際問題、パラケルススは病原体を医薬によって退治しようという近代的医学観の片鱗を見せてもいるのであり、それは彼の著書である「奇蹟の医書」などにもうかがわれることなのでしょう。ま、とにかく変てこな人物だったということかしらね、ホーエンハイムは。彼の話はまだいくらでもあるのだけれど、一まず今回はこれくらいにしておきましょうか。では、また次回を待ちましょう。楽しみね。」
2009/07/13/Mon
「楽しみにしてた現代魔法の1話目、なのだけど、あれれ、なんでさいしょから「ゴーストスクリプト」の話やってるの? というのも今回描かれた弓子の幼少期の彼女の運命を決定する魔法使いギバルテスとの戦いとは、弓子と美鎖のそれぞれ血族に関係する因縁めいた代物であるのであり、この現代魔法が主に描く舞台である現代からみて六年前である出来事に、実はゴーストスクリプトによる影響によってこの過去の事象に干渉することになったこよみが重大な役割を果すというところが、原作3巻で描かれた「ゴーストスクリプト・フォー・ウィザーズ」の主要なあらましだった。そしてそれなのだから、本巻のエピソードをよりよく理解するためには登場人物たちのあくまで現代における関係性というのを踏まえてなきゃいけないし‥とくにこよみと弓子がどんなふうに関係を結んだかって部分を見落しちゃっては、このドラマの魅力はほとんどなくなっちゃうのでないかな。なぜならこよみにある意味ご執心といっていいくらい、彼女のことを好いてる弓子がほんとはこよみを六年前から見知ってたっていうタイムパラドクスが何より本エピソードの愉快である点にちがいないのであり、この興趣を味わうためにはこよみと弓子の気がおけない間柄を承知してなきゃいけない。というのも友だちがあんまりいなかった弓子にとってみて、はじめて対等に接してくれた存在というのが要するにこよみであるのであり、であるからこよみという人は弓子にとってかけがえのない位置におかれることになる。ただだけど、その前に原作どおりの流れで二人の仲を描いておかなきゃ、「ゴーストスクリプト」のドラマ性は、つまりこよみと弓子の関係の一方ならないつながりから生じるだろうある種の緊迫さは、失われちゃうことになるのじゃないかな。そのことが、だから、少し不安‥それがないからこの一話目は、あまり評価できる構成とはいえなかったと思う。なのでその意味で、ちょっと残念なお話だったかも。」
「あえてこのエピソードを一話目に据える積極的な理由が現時点では見出せないといったところかしらね。ま、とはいってももちろん、まだ「ゴーストスクリプト」の内容も半分くらいしか行っていないし、このあとで上手く展開が超せりされるのか知れないけれど、しかしともかく最初の物語の導入としては不適切な一話目だったということはいえてしまうのでしょう。なぜならこの話では弓子も聡史郎も六年前という過去の姿でしかないのだし、このかつての出来事が現在の彼らのキャラクターにどのような影響を及ぼしているのかを察することが原作本来のおもしろみのひとつであったことを思えば、ここで原作3巻の内容をやることは、ま、はてさてといったところなのでしょうね。こういうふうに原作の時系列を変更してアニメにするの流行ってるのかしら? なんか微妙ね。」
「作品の内容と魅力をより映えやすくするためにあえて時系列を組み替えて行うっていう強力な理由がある場合はさておくも、けれどただ単になんの意味もなく本来のお話の流れを無視することは、原作の興趣をスポイルこそすれ、決して物語の世界に浸りきることを助けてくれる材料にはなりえないから、かな。‥私個人の印象としても、だからこんなふうに時系列を変更して放映するってやり方には否定的な気持が免れなくあって、というのも正しいストーリーの流れを混乱させてまで表現すべき作品をよりおもしろくする理由といったのが、私にはどうしても見出せないからなのかなって、そう思う。なぜならだって作品というのがあくまで物語性といったストーリーの成行を期待させることを作品の原動力にする型のものであるならば、物語の流れが登場人物たちによって違和感なく演じられることこそが何より作品を構成する段階において求められる作業に相違ないって感じられるから、作品やキャラクター相互の関係性についてのよい理解が得られてないままに、徒にストーリーを分散させちゃうのは、物語を味わうといったもっとも基本的で疎かにしちゃならないだろうことを、瓦解させちゃう仕業につがなるのじゃないかなって、私はそう考えるから。‥ゴーストスクリプトの、つまりこの一話目で描かれたドラマの全貌とは、そのトリックも含めて、非常におもしろいものあるんだよ。でもそれは序盤の序盤になんの準備もなく突入して興味あるないようになるものでは、決してない。‥私はそう思うから、楽しみにしてた現代魔法だけど、このさいしょのエピソードは評価できないかな。ちょっと、残念。次の話に、期待する。」
「ま、現代魔法という作品も多角的に捉えることが可能なものであって、原作小説で描かれたこよみが魔法に出会う成行と、この前コミカライズされた漫画の展開とはかならずしも一致した内容ではない(→
桜坂洋、宮下未紀「よくわかる現代魔法」1巻)。それだからこのアニメ版においてもいろいろ試行錯誤してもらっていいし、原作そのとおりにやる必要なんて殊更ないのでしょうけど、しかしこのようにいきなりゴーストスクリプトの話をするのはどこか方向性をまちがえているのでないかという気は、はてさて、してくるのよね。それにともかく、この一話目ではゴーストスクリプトのゴの字も出てこなかったし、既読者でないとこの展開の唐突さにはついて行けなかったのじゃないかしら? ‥ま、いろいろ不安になってくるけれど、とりあえず次の話を待ちましょうか。盛り返すことを期待して、どうなることか楽しみよ。」
2009/07/12/Sun
「序は正直のとこ、映像の華麗さと緻密さをきわめたために引き起されるだろう怒涛ともいうべき迫力ある構図の説得的な展開という点を除いては、それほど意外の感には打たれなかった出来であったのだけど、この破に至っては幾度も私の想像を越えた成行をこれまで何度も見知ってたであろう「エヴァ」の物語が表現せしめていて、今回描かれた内容については私は率直に感動するものがあったことを認めざるをえない。それはつまり本作が単純に過去の作品をふり切って新たな胎動を見せることに成功したから覚える感慨というよりは、むしろ既存の制作されたエヴァの物語それ自体を、この破こそは肯定し、それらすらも包含し、まったく新規な風をエヴァ世界に送りこんだからこそ感じられるもののように私には思われて、この期に及んでエヴァが完全に新生されることが起ろうとは、私はまるで予想してなかったかな。ここまで見事に描き紡がれ直せる作品に変わろうとは予想だにしなかった。だからこそ、本作のこの内容は、エヴァって作品のあらわされてきた世界に、決定的な一打をさらに打ちこむべき可能性に満ち満ちてる。この為された事実は、すばらしい。」
「いろいろおどろかされた展開ではあったけれど、どこか本作には非常に懐かしい感覚を感じたのよね。ある何か郷愁ともいうべき遥か過去に味わったであろうような趣を、この破においては再び見出したように見受けられる。というのもつまりそれはどのような印象かといえば、エヴァの物語が初期にもっていたであろうある勇躍さ、純粋におもしろく魅力的な映えるアニメを作ろうとする熱意そのものともいうべきモチベーションの高さ、そして何より画面から感じる製作者の純粋なる意志の力に拠るだろう生の迫力ともいったものが、今回の劇場版の内容からは如実にうかがわれた。そして今回の内容の最大に良かったところは何かといえば、旧作ではそのエヴァを根本で支えた情熱といったものが、次第に悲観主義に呑みこまれて行ってしまうのだけれど、この破ではそのペシミズムに抗おうとする意志が感じられた。これがまったくすばらしいのでしょう。本作は、紛うことなき意志がある。感嘆すべき点とは、まさにそこをおいて他にないでしょうね。」
「私は以前から旧作を新たに描き直すってことについてはその創作における意味性からも懐疑的で、というのも人は常に未来を志向すべきであり、過去に想像した作品はもちろんそれ自体に思いや記憶や悔恨といった種々の感情が絡みついたものであろうけど、でもそれはあくまで過去であるのだから、どんなにやり直したくなっても、どれだけ捨ててしまいたくなっても、それらを見返ることせず、人は前に進むべきだって、新しい作品を意図するべきだって、私はそう考えてた。‥でもその信念が少し揺らいだのは富野監督の「Ζガンダム」のリメイクを観てからで、なぜならあの作品は私にはなかなか衝撃的で、過去の自分を‥自分、というのは、作品とはつまり自分そのものであるから。作品はその当時の作者の心の有様を示す鏡であり、そしてその反照を視聴者である私たちはみずからの内面に照らし出す。そして照射された心の名残をこそ、私はこうして文字にして吐き出してる‥今の自分が見返すことにより、過去の自分のいけないと思った点を、今の自分が修正してあげる。そしてそれによって、過去そのものを、自分のかつてあった姿をこそ、今の自分の意志を肯定し支えるために、見つめてあげる。‥この一連の作業を、要するに富野監督は為しえてたのであって、過去は過去としてどうしようもないものとして未来を欲してた当時の、あるいは現在でもそうであるかもしれない私にとっては、作品を作り直すことによって過去を慈しむ「Ζガンダム」という作品は、実際、衝撃だった。‥そしてそれと同様のことが、この「破」においても当てはまる。過去の「エヴァ」という心の傷が、現在の「ヱヴァ」という広大な温かな意志によって、たしかに癒されてた。まさに本作の意義とは、かけがえのないこの時代における新しいヱヴァが望まれる意味とは、そこにこそある。私は、うれしさを感じた。‥よかった。」
「ほんのちょっとした心の持ちようで、物語とはこうも劇的に変わるものなのかしらね。あるひとつの出来事があろうと、その出来事の意味性とは、つまりその出来事を受容し判断する人の心のなかにしかないのであり、そしてであるならば、出来事の意義とは出来事それ自体にあるのでなく、出来事を判断する人自身にこそあるのでしょう。だからこそ、シンジやレイやアスカや、そしてゲンドウにおいてさえ、彼らが自分の心を見つめ返し、ほんの少しのやさしさを見せれば、エヴァはヱヴァになれるのかもしれない。それこそ、もしかしたら、希望といったものなのかもしれないかしらね。そしてそうであるからこそ、次の新劇場版がどのような可能性を包含してくれるかを、今から期待できるというものでしょう。」
『The happy life is to an extraordinary extent the same as the good life.』
Bertrand Russell「The Conquest of Happiness」
2009/07/11/Sat
「作品の感想としてはもうすでにぜんぶいい切った観があるから、私としては本作に以前に記したこと以上のことをここで述べようとは思わない。ただでも何かな、本作は私にとってなかなか生半でない意味性と、そしてたぶん真摯に向きあいその内容の示すところと描かれてきたドラマのテーマ性にほかにない魅力を覚え、さらに本作の意義と私自身との偽らない関係のあり方を見つめ考えつづけてきたという点においては、ほんとにこの作品を除いたものはないように思われるから、いよいよこれで「ひとひら」が終っちゃうのだって思うと、少なからず感傷的な自分を発見しちゃって、それがわがことながらおかしくなる。‥本巻に収録されたエピソードは、たぶん麦の魅力と裡に秘めた才能のたしかさを長く身近にいて彼女を支えてた佳代ちゃん以外でははじめて認めたであろう友だちであるちとせとの交流のある困難な一幕と‥本作において麦ちゃんも揺れ動く心理と周囲の状況の激動さによって困惑させられてきたという意味においてはずいぶんたいへんなものあったであろうことは否めないけど、でもそれに負けず劣らずさまざまな内面の困苦を経てきたもひとりの人物が、ちとせであろうこともまた疑えないことじゃないかな。彼女は、もちろん麦ちゃんの場合とはちがって、物ごとに果敢に当ろうっていうある意味人生に積極的にとりくむ姿勢から種々の障害を経てくることになったのだろうけど、でも麦ちゃんがただ流されるままの状態が多かったことに比較するなら、ちとせの態度こそは麦ちゃんのよきコントラストとなってたことはまずたしかなことじゃないかなって思うかな。そして恋愛ってテーマに本作が焦点を当てることができたのは、ちとせその人の功績であったことも、加えてまちがいなくいえることだってそう思う‥彼女の演劇生活をこの時点で締めくくるだろう集大成としての公演であり、それらが流麗な筆致によって描かれたあと、そして桜のひとひらが舞う春の出会いの場において、本作はついに終局を迎える。‥本巻の最終話の美しさは、さすがに私には筆舌に尽しがたい。それはこんなきれいな人はそういないって、そんなことを思うくらい、私はこの作品には恋焦がれた面があったということをさし示す。そしてその意味ではたしかに、私はこの作品に並々ならない思いをもってあったのだろうな。‥ただ今はその事実に、ある感謝の念がある。ちょっと大げさでやだかなだけど、でもその気持は、私のなかに結実してある。それは、疑えない事実かな。」
「物語としては大団円といって良いのでしょうね。実際問題、本作がこの時点で一度区切りをつけることは、ドラマのこれまでの展開の成行からもこれ以上ないほど妥当と思われるし、何より本作のプロローグであった勧誘される麦ちゃんの場面を、今度は麦ちゃん自身が新しい少女を誘うという場面によって再び描いてみせたことは、この作品のテーマの見事な想起として機能してもいるでしょうし、さらには「ひとひら」という物語が、つまりは人の数多い人生の物語のそのひとつが、再度巡って新たな形において展開されるだろうことを読者に予見させることにこの最終的な光景の描写はまったく成功しているともいえるのはちがいないかしらね。そういった観点からすれば、余韻を残す本作のこのラストエピソードは、正直ここまで美しく終ることが可能かと思わせられるほど、実に美麗に終局を飾ることができたのでしょう。ま、もちろんアンコールという形で本作のエピソードは増えて行くのでしょうけど、ただしかし、「ひとひら」というドラマの一端は、まさに終りを迎えたに相違ないのでしょうね。それはこれほどないくらいに綺麗な姿において、かしらね。まったく、良かったことよ。」
「本巻のあとがきにおいて桐原先生は、麦ちゃんが主役に向かない引っ込み思案の性格であることを再び指摘して、そしてでもそんな彼女が人生の一歩を歩みはじめるその小さな短いほんの少しの軌跡こそがこの「ひとひら」という作品であったことを、印象的な言葉によって記していられる。‥私は、もしかしたらさいごのこのあとがきにおいてもっとも心動かされたかもしれなくて、それというのもなぜならこの世界で生きることの生きがたさといったものを一身に象徴してたのが、あるいは麦ちゃんの高校生活の光景であったのかなってことに、ふと気づかされるに至ったから。‥麦ちゃんはほんの些細なことで何ごとかを一所懸命にとりくむことに必要以上に臆病になっちゃう子であって、高校に入って演劇研究会に無理やり入部させられるまでは、彼女自身は自分は今まで何もがんばってこなかったっていうことを認識できてないくらいに、ただ周りの環境に流されて、主体的に暮してこなかったことを意識してなかった。そしてそんな麦ちゃんの状態はべつにそう珍しいものでなくて、何かをがんばろう、あることを一所懸命にやってみようって、ほかのだれでもない自分の意志をもって自分の生きてくことを自分自身が決意して選択するということは、なかなか思った以上に困難なことであるかもしれない。なぜなら人は流されやすい存在であるだろうし、また他者の視線を気にして自己本来の趣味や価値観を見つめ直す機会を、そうもてるものでもないのじゃないかなって気が私にはしてるから。‥でも、ただそれだけど、生きることは私が生きることでしかない。そして私が生きることは、他者が生きることでない。それゆえに、私は私の生きることを私自身が私の意志によって意図しなければ、私は私の心をきっと見失ってしまうのじゃないか。そういうことは、つまり、悲しいことなのじゃないか。‥私はそんなことを、思う。だからこそ、みずからの意志でみずからを決めてる人を、私は美しいと思う。好ましいと思う。それは素敵なことなのじゃないかなって、そう思う。そして「ひとひら」という作品こそは、私にそういうことを考えさせてくれる機会を与えてくれた、大切な作品のひとつだった。そのことに、ただ、感謝する。ありがとう。ほんとに、楽しかった。素敵な作品を、どうもありがとう。愛してる。」
「生きにくいという感覚は、覚えたことのある人でなければおそらく容易に理解されることではないでしょうし、逆に一度でもこの世の生きにくさを身を以て知った人ならば、生きることが苦しいという感覚はこれ以上ないほどに明瞭に察知されることでしょうね。ま、生きにくさについても人によっていろいろな、立場によってさまざまな相違があることは必至なのでしょうけど、しかしどのような生きにくさでも、それが身体的な問題に関係することでなければ、心が腐っていってしまうような恐怖感と共に、いつまでも明日を生きて行かねばならないといった不安が伴うものなのでしょうね。そして生きにくさは簡単に怨嗟や怒りといった負の感情を誘発させやすいものであるでしょうし、それらのどうしようもない気持によって自己自身を擦り減らす人も、はてさて、決して少なくはないのでしょう。‥しかし、ただ何かしらね、生きることを企図するということは、どんなに弱く醜くても、己本来を獲得することにきっと相違ないでしょう。そしてその私自身であるということは、たとえ生きにくさと伴っても、ある覚悟が、未来という希望と自己という運命が合致するという覚悟こそが、備わるものにほかならないでしょう。つまり、私は私を生きねばならない。そしてそれを意志せねばならない。果して、そうじゃないかしら? ‥しかしもしそうじゃないとしても、意志というものを信じてみたい気持があるのよ。その気持はどうも根源的なものがあるように感じられるのよ。それはおかしなことかしら。きっと、そうじゃないでしょう。なぜなら人は意志の存在でこそあるのだから。意志するからこそ、人は人足りえるのだから。」
桐原いづみ「ひとひら」7巻→
ひとひら 第44幕「友達だから」→
ひとひら 第45幕「ちとせ失踪」→
ひとひら 第46幕「これからもずっと」→
ひとひら 第47幕「行くぞッ!!」→
ひとひら 第48幕「本番 そして…」→
ひとひら 第49幕「麦と甲斐 帰り道」→
ひとひら 最終幕「麦、勧誘する。」
2009/07/10/Fri
「過度に存在感の薄い女の子、薄子さんの日常を淡々と描いた漫画作品のコミクス1巻目で、私としてはなかなかこの作品が紡ごうとしてるゆるやかで、そしてどこまでも平凡で、だけど小さな個人の日常を大切に思いやろうとする作風は、あくせくとただ慌しく時間がすぎゆくばかりの現代社会において、ふと見過しがちになっちゃうだろう身の周りの些事に秘められたしずかな幸福な意味性を思いださせてくれるようなやさしさに満ち満ちてるように感じられて、思ってた以上に心をさわやかにさせてくれる一冊として、本書を評価する気持になれたかな。というのもこの作品は、ちょっと異常に見た目に特徴なくて影の薄すぎるという以外にはこれといって秀でた部分のないって自覚してる薄子さんの些細な心理を中心に描いたものであって‥存在感のない薄子さんって設定されてるけど、でもほんとは色素が薄くて見た目も美人な薄子さんが人目につかないはずはないのだけど、ね。画子の弟さんはそこらへん目が高くて、薄子さんが素敵な人であることをよく見ぬいてる。でもそれはもちろん薄子さんをよく知るであろう画子や雲子にとっても自明であることは明らかで、薄子さんってあんまり目立たない人には、どこか周囲の人を和ませてくれる、そんな調和的な魅力があることはたしかなのだろうって私は感じたかな。それだから、薄子さんは自分のしたいことや魅力がそれほどないって思ってるかもだけど、薄子さんの友だちや彼女と身近にあれる人の様子を鑑みたとき、薄子さんの素敵な部分というのは本人が考えてる以上に、大きなものあるにちがいない‥平凡な薄子さんのその生き方は、ただ忙しげに生きるだけが能でない、世界の多様さを思わせてくれるものがあるのじゃないかなって、私は思う。だからその意味でも、本作は独特の魅力ある一冊といえるのじゃないかな。」
「薄子のいいところは何かといえば、彼女は自分があまり目立たず認知されにくいという点でもちろん実際上の不便は被ってはいるけれど、しかし自分の影の薄さをなんとかしようとしてそれを徒に改善しようとはしない点に求められるのはたしかなのでしょうね。というのもなぜなら、薄子は自分の存在感のなさを自分のしかたない個性として受け容れているということが先の点から判明するのであり、やみくもに自分を目立たせよう改善しようとして騒ぎ立てれば、それだけでその行為はどうにも滑稽に映るものであるから、薄子の自身への態度といったものは幻想も何もない、冷静な自己認識に基づくまったく健全なものといえるのでしょうね。要するに、薄子は自分の個性を個性としてよく認めているし、画子や雲子もまたそれぞれの個性を無理なく発露している。本作の魅力とは、それ故に、登場人物たちがだれもが天然に伸びやかに暮しているその様子を見られる点にあるのでしょう。‥下手にキャラを作っている子が、ひとりもいないもの、本作は。それはこの作品が自身の個性をよく理解しているからなのでしょう。なかなかこれは気取りが多い昨今の諸作品に比較して、稀有な見どころともいいうるのじゃないかしら?」
「存在感というものはやみくもに求めるものでなくて、それはある意味自然本来的に人に備わるものであるのだから、徒に工夫して存在感とか出そうとしちゃうとそれはもうその時点で何か作為的に見えちゃうことが免れなく、滑稽に襲われちゃうのは必至であろうから、かな。‥そういった意味で行くと、人のもつ存在感はその人の個性や容姿ともちろん分たれ難く関係したものでは当然あるけれど、でも自分という人間を冷静に見返すことのできる能力をもった人であるなら、自分が不相応な立場にあることの苦労はおのずから予見せられるものであり、なのであんがい無理に目立とうとはしない傾向に自己を謙虚に認識しえた人はあるとはいえることなのかも。でもそれは逆にいえば、存在感を気にしないで生きるということはすなわち自分のありのままのあり方を認容するってことにほかならなくて、それはすなわち「こう私はありたい」とか「こんなふうに私は思われたい」っていういわゆるセルフイメージにそれほど拘泥しないで生きようってすることでもあるとはいえるのだと思う。‥むずかしいのはつまりそこであって、人というのは基本的に「他者にこう見られたい私」といったヴィジョンを無意識に心のなかに納めてるものであり、そのイメージに則って生きてしまうことが往々にして免れなくあるのだから‥人はたぶん基本的に他者の目を気にする存在なのかなって気がする。むしろ他者という指標があるからこそ、人の自意識っていうのも破綻することなく、つまり狂気に陥ることなく、機能してるのかもしれない。でもただ、その他者っていう、実は実際的には自分の実生活にほとんど有益な影響を与えない仮の幻想によって、代りのないだろう自分自身を「こう見られたい」っていうセルフイメージによって破損させちゃうことが逆にあるかもしれないということが、もしかしたら人の意識の悲しい部分なのかもって、そう思うかな。たとえば名誉とか恥とかうわさとか、実体として他者はどこにもないけどでも幻想の他者として常に実際の個人に意識される「他者像」が人の意識の常にあろうことは、わかるよね。それら幻影に囚われ、自己本来を見失うことがぜったいにないとは、だれにもいえない‥自然に、私そのままに生きることは、予想以上にむずかしいことなのかもしれない。そしてそれは、目に見えない他者が急激に増加したこの現代社会ならなおさら、かな。‥薄子さんの物語は、だからその意味で、忘れやすい心のある部分のメッセージを明瞭に伝えてくれてるように、私には感じられた。薄子さん、なかなか素敵じゃない。気に入ったかな。次もまた楽しみ。」
「日常を楽しむということはそれだから考える以上にむずかしいある問題があるのでしょうね。それというのもつまり現代社会は、人間関係のあり方が非常に広く複雑に重層化しているのであり、それはたとえばネットでの人間関係を思い起せばある種明瞭に理解されることなのでしょう。すんわちネットであらわれる人間関係というのは、そうね、だれもが一定の他者を演じているわけでもないし、どれくらいの数の他者がいるかも明らかではない。そしてそのためにネットにおける自己表現のあり方、本来的な自分という個性の露出とは、とても危険がありまた面倒なものでもあるのであって、そこでは目に見えない他者という幻想がもつ力といったものが、ある意味これほどないほど暴力的に展開することがある。しかしはてさて、それでも他者という像に惑わされない生き方の見本というのがあるのかしら? あるとすれば、その生き方は何によって支えられるのかしら? ま、答えは案外単純でしょう。内面の充実、それに拠るのよ。そして薄子の暮し方は、そうね、その意味である理想の一端を表現しているとも、もしかしたらいえるのじゃないかしら? そうやって考えていくと、この作品はけっこうおもしろい一冊ね。案外いろいろ示唆的ともいえる内容といえるのか知れないし、何より心休まる内容で楽しかったことよ。2巻も期待といったところね。楽しみよ。」
水月とーこ「がんばれ!消えるな!!色素薄子さん」1巻
2009/07/09/Thu
「昭和三十三年に発表された短編作品である「娼婦の部屋」は、娼婦のことを積極的に作品にとりあげた‥その舞台は主として戦後はじめの五十年代に国によって公然と認められ存在した売春地帯であるいわゆる赤線であり、本作ももちろんそれに洩れることなく、赤線に生息するひとりの女性の姿が描かれる‥吉行淳之介の諸作品のなかでも、とくに初期に位置する作品であって、またその後の吉行の描くことになる風俗嬢の物語のすべての原型としての意味あいももつ、非常に重要な一作品として認識すべきものって思うかな。またこの作品はその物語の構成の緊密さ、限定された登場人物の心理を的確に描出する文章の繊細な筆致、そして無駄を極力省きながらもどこか当時の世相の暗さをそれとなく仄めかすドラマ全体に満ち満ちる余韻の存在といった、短編の名手として名高い吉行の手腕が存分に発揮された一作としても、たぶん空前絶後の完成度を伴った小説であろうことは疑えないことであろうし、吉行全体の作品を見比べても、この「娼婦の部屋」ほど優れた人間心理の観察の凝結としての厚みを誇る短編作品は、そうないのでないかなって、私は思う。‥注目すべきは、二人の男女。ひとりは黙々と娼家に通う、多数の娼婦が立ち並ぶ町にいいようのない興味と関心に憑かれた二十台の男すなわち「私」であり、もひとりは娼家によって生かされ、そして娼婦という仕事に心身をふかく気づかぬ間に暗く染めあげられた、娼婦として生きることの重さと因果さをその一身に負って象徴するだろう秋子という女性だった。‥物語の「私」は、さいしょのころは若さのために傷つけられた心を癒すがために秋子のもとに赴くのであり、そして秋子はそんな「私」に力を与え、また外の世界で生きる活力をくれる。だから二人はその意味で、初期のころは互いにそれなり健全な関係性を保っていたといえるのかもしれないけど、徐々にその間柄は変貌を余儀なくされてくる。その過程こそが、もしかしたら本作のもっとも興味ふかい箇所であるのかなって、私はそう考えるかな。」
「男は女を求め、貪り食い、そして女はそれを諄々として受け容れる。この小説に出てくる「私」は娼家街に通いながらも、馴染みの存在である秋子以外の女性とは一夜を共にしようとはせず、そのことから秋子以外のほかの娼婦からもやさしい視線を向けられ、「私」はそれを実にしっかりと認識しているのよね。ただしかし、「私」が秋子のもとのみに通おうと、秋子はひとりの娼婦でもあるのだから、ほかの客をとることも当然ある。そして「私」はそのことをよく理解していたつもりだったけれど、いつしか嫉妬の念が芽生えてくるのよね。ま、ここらへんは読者にもそう迂遠でない感情の成行ではあるのでしょうけど。」
『道路の上で、動いている沢山の躯は、すべて女の躯ばかりであった。両側の建物の横腹に、長方形にくろく開いている入口の前に佇んでいる躯は、すべて女の躯ばかりであった。この地域では不思議のないその事柄が、異様に私の心に迫ってきた。佇んでいる任意の躯の前に立止れば、その躯は立止った躯を密室に導いてゆく。そして、導かれた躯の下で、やすやすとその躯は両脚を開くのである。』
吉行淳之介「娼婦の部屋」
「秋子には彼女に対して親身に世話し思いやってくれる黒田という人がいてくれて、彼は秋子に今の娼婦という仕事を辞めて健全に働いてほしいって願ってる。そしてその気持自体はたぶん今の私たちにも容易に想像できることであるのであり、愛する人が売春で生計をたててるなら、それをとめてもっとべつな真っ当な安定した生活を望むことは、そうふしぎな心理でない。それだから秋子が黒田のいいようになり、娼婦の街をあとにしたことは怪しむべきことではなかったのであって、「私」もそれについてはとくに異論を差し挟むことなく、事態の移り変わりを見守ろうとする。‥ただ「私」には、一抹の不安があったのであり、それが何かなっていうなら、秋子はまさに娼婦の町によって娼婦の重さとにおいと暗さをすでに身ふかくに刻印された存在であるということを、「私」はよく見破ってたという点だった。‥それからしばらくして案の定、秋子は一般社会の生活から疎外され、娼婦として町に戻ってくるのであり、遊蕩を重ねてた「私」はまた秋子の身体にみずからを重ね、黒田が再度秋子に別口の仕事を勧めようってしてる事実を知らされる。でも「私」はまたそれが上手く行かないだろうこともよく察知してたのであって、秋子は二度町を出ながら、その都度町に戻ってくることになるのであり、「私」はすでにこの地域の外で暮せない翳にとり囲まれてしまった秋子を明瞭に認めるのみだった。‥それはよくもわるくもない、単なるひとりの人間の、しかたのない事実だった。」
「「私」と秋子の関係性とはいったいなんだったのかと、ちょっと考えこんでしまう一作かしらね。「私」は最初のころは秋子に心身の癒しや救いを見出していたけれど、しかしそれはいつしか薄れて行ってしまい、その後は女たちを観察し如何に快楽を掠めとれるかという、性の探求者を気どる遊蕩児の姿勢をとるに至る。ただしかしそれも長くはつづかなかったのであり、「私」が町に対して情熱を失くしていけばいくほど、町もまた「私」に対して以前のやさしさを見せなくなり、いつしか両者の距離は埋められないほどお互いを遠ざけてしまったといえるのでしょう。そしてそのなかで、ただ秋子との関係が「私」の中心的問題としてある。秋子と「私」とは、そうね、単なる客としてだけの関係でなければ、といって恋人でもないでしょうけど、しかし単なる他人というにはあまりに深く身体が結びあったつながりがあった。ただ二人のあいだには、空しくなるくらいの愛があった。いや、むしろそれしかなかったのでしょうね。それだけだったからこそ、この物語のラストがあるのよ。それはつまり、生きることの疲労そのものに堆積される自身を「私」が見出したということだった。‥疲労の重さが、ただ余韻に残るすばらしい一作といえるでしょう。感に堪えない出来かしら。」
『「また戻ってきちゃった」
と、秋子は笑顔のまま言った。
「恋人はどうした」
秋子が好きになったと言っていた若い男のことを、私は訊ねてみた。
「別れたの。すっかり苦労させられちゃった。わたし、もう若くないから、いまさら見せの前にも立てないし」
と、秋子は算盤のある部屋を、あらためて見まわした。私は、黙っていた。適当な言葉を見付けることができなかった。
「そんなことをしないで、タバコ屋でもやらないか、と言ってくれるんだけど」
と、秋子がぽつりと言った。
「誰が?」
「黒田さん」
「黒田さん? 黒田さんは、若い男のことを知っているのか」
「知っているの。バレちゃった」
「タバコ屋をやらしてもらえばいい」
「そう。きおこから出たら、わたし、躯も直さなくちゃいけないの。子宮が上にあがって、捩れてしまっているの」
「そうか、元気でやりたまえ」』
吉行淳之介「娼婦の部屋」
吉行淳之介「娼婦の部屋・不意の出来事」
2009/07/08/Wed
「原作は未読。西尾維新という作家について、私はその著作を一冊も読んだことないし、その評判やどんな作品を主に書く人なのかなって情報もほとんど入れてない。なので本作については私はまったく何も無知なまま鑑賞することになるのだけど、ただシャフト制作ということがひとつ気になって、というのも私はかつて何作かこの製作者たちによる一種独特の演出法と審美観によるアニメを見させてもらってるのだけど、そのスタイルはかならずしも私の好みにあってるところのものとはいえなくて、だからこの「化物語」についても一見するまでは少なからず私の肌には適さないのじゃないかなって不安があった。そしてでも今回の一話目のエピソードを見てみると、思ってた以上にすんなりと個性的な意匠によって装飾される画面と、常識的な人の世界を観察する見方の典型からはまずぜったいに思い浮ばないだろう構図とによって華々しく飾られる物語世界に浸りきることができたのであって、これは私ながら、なかなかおどろきだったかな。「ef」とかで慣れたためもあるかもと思うけど、でもそれ以上に本作のある種人を食ったようなドラマとキャラクターの雰囲気が‥すべてを滔々と流れるように語りながらも、その実本音をさらけ出すことのない、臆病さの入り混じった虚実のキャラクターたちに、原作のスタンスと作者の思想が象徴されてたように、私には感じられた‥シャフトのアニメの技法に上手く合致したって部分がきっと大きいのかもかなって、そう私は思った。‥意外と、楽しませてもらえそうな感じ。つかみとしては、よろしかな。」
「以前は徒に文字や人工のオブジェによって装飾される画面に果してどんな意味性がこめられているのかと一々気に留められたものだったけど、だんだんとそういった意匠は単なる意匠としてそのデザインを目で味わいこそすれ、無理に意味性を引き出す必要はないのだということに合点が行きはじめたということかしらね。むしろシャフトの演出といったものは、その都度のレイアウトに明確な演出家の意図があらわされていると考えるよりは、作品を全体としてひとつの耽美的な雰囲気に統一せしむるところに、その主眼があると見るべきなのでしょう。ま、もちろん、これは一視聴者の単なる感想に過ぎないけれど、しかし意味深に挿入される個々のオブジェにそれほど深い意味を求めると泥沼にはまりそうな作品では、はてさて、あるのでしょうね。ま、この製作者たちにとっては、いつものことといえばそうなのでしょうけど。」
「ふと今回のエピソードをみてて思ったけど、シャフトのつくるアニメ作品は徹頭徹尾、人工美によって埋め尽そうっていう意志が見受けられるのだよね。というのもたとえば各種の文字や記号、電柱や看板や文房具、等々は、そのいずれもが人が人によって使用されるためにみずからの手と意図によって生み出した産物であって、そのなかには自然が偶然に誕生させたといった代物はひとつとしてない。そしてそれはすなわちこの作品には自然的な美しさ、要するに人を癒し受け容れようとする天然の素材をなんとしても排除しようって意志があるということであり、徹底的にオブジェによって飾られた世界観は、人間の創造した物体で満ち満ちていようと、その本質としては疎外がある。なぜなら人工物とはつまり人が「こう使うべし」っていう意図のもとに工夫してつくったものであるからであり‥カッターは紙を切ったり工作のために用いるべきものであって、けして人を切るためのものでない。ホッチキスは紙束などを留めるための道具であって、けして人を傷つけるべく扱われるべき道具でない‥人工物はそれ自体が「意味」を帯びて人に迫ってくるものであるっていえるに相違なかろうから。‥でも本作において、その意図はぜったいに無視されるのであり、そこには倣岸なまでの各キャラクターの我が見受けられる。それがたぶん本作の過剰なまでの意味に覆い尽されたために生まれる、ある息苦しさの源であるのだろうって、私はそう思うかな。‥人の意志は、それ自体が他者にとっての圧迫でもあるのだから。」
「圧倒的に人しかいないと、本作に限らずシャフトのいくつかの作品については指摘出るのでしょうね。なぜならこの「化物語」を例にとって見るならば、出てくる舞台はすべて人が意図的に奇矯に制作したとしか思えない、現実に存在したならまず崩壊は免れないだろうという、自然性から真向から対立した奇妙な代物の造形物にちがいないのであり、それはつまり本作が極端過ぎるほどに人間の生まれもった天然さといったものを嫌悪しているからにほかならないからなのでしょうね。そしてそうやって考えてみると、なぜこうも人工的なものによって作品を構成するのか、なぜ気が狂うばかりに人の意志を一箇所に集中せしめるのかといった疑いが生じてくることも必至なのでしょう。ま、それはなかなか興味ある課題かしらね。これから先の展開を、では本作については、期待してみるとしましょうか。どう描いてくれることか、楽しみよ。次回を待ちましょうか。」
2009/07/07/Tue
「これは上手。というのも本巻のラストのエピソードの端書に作者さんがこれでこの作品のちょっと長かったプロローグが終ったって書いてらしたけど、まさにそのとおり、この作品は2巻までの内容をつかって夢とモモ、二人の関係性の基礎を築きあげることを試みた、非常に良質なドラマを展開してるのだね。なぜなら本作においていちばん早急に求められなきゃいけないのは、本人みずから認めてるとおりただ偶然によって救世の役割を授けられた夢が、みずからの意志によってモモの傍らに立つことを望まねばならないことであるのは疑えないことであったのであり‥それは途中ブレスレットをかんたんに実結に譲渡した夢の態度からも指摘される点であるのであって、それというのも夢自信には世界を救うって大げさな目標でモモのそばにいることはためらわれちゃうくらいに彼女にはそういった危機的な状況で物事を自分の力で処理しようって能動的な資質に欠けてるんだよね。だからその点だけをとってみるならまず実結が夢の役割を代行したほうが正解であることはまちがいないのだけど、でもただだけど、もしモモを地球を破壊することが目的っていう悪の属性としてだけで判断するのでなくて、彼女を一個のかけがえのない人格として認識し、そしてその尊重すべき他者を面と向いあい対等になろうって人と人とが好意をもって接しようっていう、人付きあいの根本的な意味性においてモモと何より関係性をつくろうって思うなら、夢の姿勢こそがもしかしたらいちばん正しいやり方であったともいえるのかもしれない。それはつまり、夢がモモに友愛の気持をあらわしたということにちがいなくて、そしてそういった態度をみせたことが、夢がついにみせてあげられたことが、本作の序章の決定的な意味あいであったのじゃないかなって、そう私は思うかな‥モモと夢、二人がついにお互いを代りのない存在として共通に認識したということが、2巻の最大の見所だったのじゃないかなって、私は思う。‥うん、こんなに良質な心理の微細な揺れ動きを表現してくれるまんがはひさしぶり。こういうの好きかな。ほんとによろし。ちょっと、感激しちゃった。」
「腰を据えて実に丁寧にキャラクターの心の様子を追って描いてくれる作品と評価すべきなのでしょうね、本作は。というのも夢が唐突に強引な実結の手管によって意気消沈させられるくだりはまったく自然な成行に思われるし、それに実結の存在はいい意味で夢と対照的であり、翻って夢の境遇の寂しさと、そしてそんな夢がモモに出会えたことによって日々の喜びと光を感じられるようになったという本作のドラマの説得力が、まったくいや増すというものなのでしょう。そして自分の望み、欲することをダイレクトに表現してそれを実現するためには如何なる方法でも用いようとする実結の態度こそは、不幸が重なり自分の思っていたこと、願っていたことがことごとく叶わず苦渋を味わいいつしか願うことそのものすら忘れてしまっていた夢にとって、ある強烈な印象を与えたことはまちがいないことなのでしょうし、そして実結の果敢な様子によってようやく夢がみずからの空虚さに思い至るという流れは、いやはや、すばらしいの一言なのよね。夢の、彼女の寂しさとは、なんとも哀切なものがあって感じられるものがあることよ。これはなかなか、良いシナリオかしらね。」
「愛されたいという願いを次々と踏みにじられてきた少女が夢その人であったのであり、そんな彼女がようやく求められ、自分の存在価値ともいうべきものを教えてくれたのがほかならないモモであった、ということになるのかな。‥本巻の終盤で夢は、自分には何もない、うれしいことも楽しかった記憶もいつしかそれは失われてしまうものであり、ならばさいしょから期待することをやめておけばいいっていう、ある種の悲観主義的な考えに自分が憑かれていたことを明瞭に自覚するのであり、そしてそんな悲しい自己の心の裡の認識は、たぶんまずまちがいなく彼女の現実のまいにちの生活と、そしておそらくその将来でさえを暗く限定したものに為してたであろうことは疑えない。でもそんな平凡な心理の状態にあった彼女において‥平凡な、とあえて付けたけど、でも夢のような世界の見方に陥っちゃってる状態というのは、そう特異なものじゃないのじゃないかなって気が、私にはするかな。もちろん夢みたいにわるいことが重なってばかりというわけでないにしても、でも大なり小なり、人は世界に期待することをいつしかだんだんと縮小してくものであって、それはたぶん自分の願うことと世界が与えてくれることのギャップを月日が経つと共に次第にわかってくからなのだと思う。でも、たとえ世界が私にそれほど関心がなくて、私がとくべつな何ものでもない、単なるつまらない小さな存在であろうという理由でだけで、心をつまらなくしていいか? ‥その答えの一端こそが、本作のテーマにほかならない‥光としてあらわれてくれたのがモモであって、そしてモモの姿は、その可能性は、夢に新たな、本来的な意味での生きることの大切さを教えてくれる。‥それは何か。私はあなたを愛せることができるかもしれないっていう、淡い淡い、期待だった。それは、すばらしい夢だった。」
「愛されたいの愛されないという悩みはたしかに苦しいものでしょうね。そして愛したいのに愛する対象がいないという状態も、また先に劣らず辛いものがあることはまちがいないのでしょう。なぜなら愛してくれる存在を得ることはなかなか容易でなく、能力と根気とそして多大な運がその達成には求められるからであり、大方の人はあまり愛そうという思いが叶うものではないことを、遅かれ早かれ、そうね、認識するものだということは一般論としてもいえることなのでしょう。ただしかし、愛する対象も、愛されるだれかも、自分には得られないからといって、愛そのものをあきらめて、果して本当にいいのだろうかと、もしかしたらそんな疑問が心中に湧くかもしれない。そしてその疑いに対して、私たちは楽天的といえど、こう答えねばならないのでしょうね。すなわち、愛すべきだ、と。愛する可能性を捨てるべきではない、と。ま、容易でないかしら。上手く行くことでないかしら。しかし、そうね、それでもと、思う感情は残るでしょう。なら、それを見限るべきではないのよ。さて、ちがうかしら。それとも、ちがわないかしら? はてさて、ね。」
『希望を持つことはやがて失望することである、だから失望の苦しみを味いたくない者は初めから希望を持たないのが宜い、といわれる。しかしながら、失われる希望というものは希望でなく、却って期待という如きものである。個々の内容の希望は失われることが多いであろう。しかも決して失われることのないものが本来の希望なのである。
たとえば失恋とは愛していないことであるか。もし彼或いは彼女がもはや全く愛していないとすれば、彼或いは彼女はもはや失恋の状態にあるのでなく既に他の状態に移っているのである。失望についても同じように考えることができるであろう。また実際、愛と希望との間には密接な関係がある。希望は愛によって生じ、愛は希望によって育てられる。
愛もまた運命ではないか。運命が必然として自己の力を現すとき、愛も必然に縛られなければならぬ。かような運命から解放されるためには愛は希望と結び附かなければならない。』
三木清「人生論ノート」
酒井まゆ「MOMO」2巻→
酒井まゆ「MOMO」1巻→
遠藤周作「愛情セミナー」
2009/07/06/Mon
「今回も全体的によい感じ。なんだかこの作品はともすると主人公であるエルリック兄弟が前面に出てこないほうが魅力を増すように思えてきちゃう部分があるように私には感じられるけど、その理由は考えてみれば明白で、なぜなら天才と周囲から称されて他者に比肩されないほどの能力のもち主であるエルとアドの二人だけど、でもただ単に資質があるという理由だけで彼らが万能というはずもないのがある意味異常に底知れない奥ふかさを世界観に与えることに成功してるこの作品においては当然の事実であるのであり、であるからエドたち以上に経験とこの神秘に満ちた世界について思索をつづけてきたろう大人たちのほうが、まだ齢若い二人が太刀打ち叶うべくもないだろう手練れであることは、あらためて考えるまでもないくらいの自然な状態であるのだよね。そこらへんこの作品はだれに対しても平等であろうし、一歩まちがえてたなら容易にエドは命を落してただろうって思える事態の切迫感と緊張の具合は、先にヒューズさんをあっさりと冷徹に残酷にこの世界においてはだれもがふとしたときの不運によって命を失くしちゃうことが珍しくないんだっていう、厳然とした自然の摂理を明確に示しえた本作であるからこそ、表現することのできる、ほどよい品の高い雰囲気を全編にわたって保ちえてるのだと、私は思う。‥だれもがちょっとしたミスと事態認識の誤りによってあっさりやられちゃう。この作品のこういった一見無敵と思われようとでもその実そんなことなくて、くつがえようのない実力差はあるキャラクター間にあれど、でもぜったいに敗北が予見できないような存在はない。‥その通常の自然の世界にはまるで当り前なリアルの感覚が本作には終始一貫して意識されてるから、この作品のおもしろさと見応えというのは変わらず支えられてるのかなって、私は思うかな。うん、今回はおもしろくてよかった。展開速くて、なかなかよろし。」
「こうやってアニメでずっとストーリーを追って行くと、本当、エドはいつもぼろぼろにやられてしまっているのよね。ま、そもそもそんなに強くはないキャラクターだというのは認識していたけれど、こうも戦いにおいて見せ場がなく倒されてしまうのは、この手の少年漫画の主人公としてはなかなか稀有なのじゃないかしら? もちろん単にエドが弱いだけならば彼にはそれほどの魅力は生じえないのでしょうけど、しかしエドにはこれから先何かを為してくれようという期待感と、冷静に現状を目の当りにして良質な判断を下してくれようという理性に多大な信頼を視聴者はもつことができている。であるからエドの個性といったものは周りの濃いキャラクターたちに埋れることなく映えるのでしょうし、彼が主人公であるのもその知性に懸かっているのでしょうね。ま、おもしろい各人物の相関図よ。あらためて見ると、気づかされるといったところかしら。」
「今回のお話の中心はやっぱりブラッドレイに求められるのは必至なように思われて、そして私がこの作品で少し気になるかなって興味を惹かされてるキャラクターの筆頭も、やっぱりこのブラッドレイになるだろうことはここでいっておいてもいいことかな。というのも実は私はさいきんアニメみててもあんまり特定の人物に関心をもたせられることがあんまりなくなってきたかなーって感じられてきたからであって‥ときおりというか、これは決して少なくないことかななのだけど、とある作品を視聴してても私は好意をもつ人物がその作に何等求められないかなって気になることが、少なくない。それは私の人好きのしない本来的な性質のためかなっても思われるし、また私自身がそれほどキャラクターの魅力のみで作品を味わうことをよしとしない考えの人でもあるからだろうかなって気がするかな。それだから私は「だれだれは私の嫁」って言い方も実は個人的な実感としては何等了解できないふしぎな言葉って思いが拭えないし、つまり端的にいって私のそういった傾向は、私があまり他者に関心を払う生き方をしてないためなのかもって、そうも思う。けっこう、私はあらゆるものから距離をおいて、生きている‥ブラッドレイはそんな私にあっても、その独特の魅力と存在感によって、無視すべからざる何かを感じさせられる。‥ブラッドレイのおもしろさ。これはいくつかの点が挙げられるだろうかなってまちがいなく思われるけど、ここでは今回のエピソードでふと感づかされたひとつの彼の特徴についてだけ述べておくとするならば、ブラッドレイというのは家族もちであるって特徴が、何より私には際立って彼をおもしろい個性の存在に思わせてくれる要素のように考えさせられるかな。というのも彼は以前よりよく描写されたヒューズの家庭と同様に温かな雰囲気のホームをプライベートに維持してるように感じられて‥もちろん息子の存在はともかくとしても‥それは家族を捨て孤高に生きてるエルリック兄弟とよい対照をなすし、またホーエンハイムの徹底した反世間的な生き様とも比較される。ブラッドレイとは、だからその意味で、本作の人間観のよい結実のひとつとして見るべきじゃないかな。なぜなら彼に示される複雑な人の内面の有様こそ、本作の容易に割り切れない現実認識の暗喩のひとつにちがいないのであろうから。」
「グリードら相手に残虐なまでの殺戮行為をしたあとに家族と温情あふれる交流をするブラッドレイの姿が挿入されればこそ、簡単には理解できないだろう彼の個性と信条といったものを視聴者はおのずと考えこまずにはいられないのでしょうね。それはつまりブラッドレイが単なる破壊を好む暴力者というのでもなく、かといって任務に冷徹なだけの仕事人間でもないという事実を私たちは認識せねばならないからであり、彼のなかでどのような思いが交差しているのか、家族といるときと敵を刃で貫いているとき、それぞれどのような感情が彼の胸に去来しているのか、その複雑な対比をこそ思わせられねばならないのでしょう。そしてこのブラッドレイのような複雑こそは、ある意味では私たち人間の理屈どおりには行かない複雑さの一端の証でもあるのでしょうね。ま、はてさてよ。とりあえずおもしろくなってきたことだし、次回もこの調子で期待しましょうか。どうなることか、楽しみね。」
2009/07/05/Sun
「この一作にはおどろかされた。さいしょはなんの気なしに手にとった一冊にすぎなかったのだけど、読み進めるにつれてこれは現代のポルノグラフィのある鮮烈な芸術的表現の一端にまで食いこんでるのじゃないかなって私には思われてきて、というのもこの作品が描こうとし、そして描出してみせた作品世界はまさに耽美的であり、また人間の隠れた一般的な常識の範疇から外れる価値観のもとに独特の固陋な偏執的な審美的規律によって紡がれる閉鎖的で依存的な暗黒の快楽を掠めとろうってする点において野心的であり、そして快楽と愛によって俗世間を何等省みないエゴイスティックな態度においてはあまりに人間的であったから。‥この種の作品がライトノベルの形式で出版されるって現況がとりわけ私にはまた興味ふかく思われる次第だし‥といっても、私はラノベって名称にそれほど意味を見出してるわけじゃないことは、付言しておいていいことかな。よくラノベとは何かーとかいうライトノベルの定義みたいなことが議論のネタになりがちではあるのだろけど、でも私はただ単にラノベっていうのは出版社のある区切られたレーベルの種類を指すにすぎないのじゃないかなって考えてる。その意味でラノベという言葉自体に、本質的な意味なんてない。あるのはただ作品だけであり、そして作品にとってはその作品そのものを除いて本質がありえないだろうことは、いうまでないことであるにきっとちがいないよね‥ここまで異常性癖に類する問題を小説って次元において勇敢にとりあげる作家が未だいるという事実は、私にはさらにラノベを含めた現在のいわゆるオタク文化にまで射程を広げる、ひいては現代における表現芸術の問題にまで、あらためて考えさせられる気がしてくるといったところかな。それくらい、本作は刺激的におもしろい。こんなのひさしぶり。よかったかな。」
「物語は全寮制の世俗とは切り離された学園に暮す少女たちの生活風景を切りとったというもので、ま、この手の作品にはありがちの舞台設定ではあるのでしょうけど、しかし本作のきわめて個性的であり特殊的な部分とは、ずばりある少女とある少女の関係性が、非常に歪で依存的な呈をなしているという点に求められるのは必至なのでしょうね。というのも、情緒不安定で常に何かに追い詰められているような切迫した雰囲気を伴った非常に危うい少女である莉子は、ルームメイトであり彼女にとってほかに代えようのない友人である心音に文字通りの意味で「噛みつく」という性癖があるのであり、莉子はまったく、ある好んだだれかを噛まなければその麻薬的な欲求を抑えることができない。そして心音に至っては、この儚くも美しい少女に噛まれることに自分の存在価値とそして快楽までをも見出してしまっているというのだから、はてさて、二人はなんとも際立って奇妙な関係性を築きあげているとはいえるのでしょう。しかも莉子の噛むというのは、本当に皮が破れ、肉に歯が食いこみ、血が肌を伝ってあふれ出すくらいの程度を意味するのだから、なんとも言葉が出ないことよ。おまけに小学一年から高校に至るまでそのきわめて性的な関係性はつづいたというのだから、まったく本作はよく描いたものというべき内容なのでしょうね。ちょっとここまでとは、さて、予想だにしなかったかしら。」
「問題はマゾヒズム、そして少女愛、またはマザー・コンプレックス、挙句の果ては極端なほどの自己愛に求めねばならないほどに、本作の提供する性的シンボルは多岐にわたってる。‥私が本作を一読してまず真っ先に思いだしたのは、これら挙げたエロティックな要素と少女同士の同性愛の課題ももちろんあるけれど、でもそれ以上にふかく興味を惹かされたのは、紛うことなき心音の「噛まれることによって快楽を得る」といったそのマゾヒズム的傾向に関連したことであったのであって、つまりそれはポーリーヌ・レアージュのマゾヒズムに溺れる女性の姿を赤裸々に描いた「O嬢の物語」であったことをここに告白しておかなきゃいけないかなって思う。‥マゾヒズムというと、世間的にはよく人口に膾炙しちゃった言葉のような気がしちゃって、今では気軽にだれもがあなたはSで私はMかなみたいな調子で使ってる手垢にまみれた言葉のようにとらえられるかもしれないけど、でも実際のところ、このマゾヒズムほど理解しがたい人間の心理というのもぱっと考えてみてないわけであって、それはサディズムが単純な意志をもった主体ならだれもがもってるだろう攻撃性を単純に吐き出すのに比較して、マゾヒズムがもつ破壊衝動は実に婉曲的にもって回った発言をするからなのだと思う。‥たとえば、ね、よく苦痛がマゾヒストにとっては快楽なのだよって意見がされるものだけど、でもほんとに苦痛が快楽なわけないのであって、というのも苦痛を快楽と感じちゃうならそれはただ単に神経の異常であり、マゾヒストというには及ばないから。でもそれじゃマゾヒズムってなんなのかー、マゾヒストは苦痛や虐待を受けることが気持いいからマゾヒストなのでないかーって反論がされるかもだけど、でもよく考えてみると苦痛それ自体はほんとに苦痛にしかすぎないのであり、ならば私たちはマゾヒストはいったいどこからその快楽を汲みとってるのかなって、そのことこそを検討しなきゃいけないのは明白になってくる‥マゾッホの諸作品を見るなら、これは明白だよね。マゾッホの描く主人公たちは、彼らが受ける苦痛や苦境には一貫して真実の悲鳴をあげてる。そしてその描写こそは、マゾヒストが受ける快楽の源泉が実は苦痛それ自体にあることでないことを立証してる‥。‥それじゃ、ならば、マゾヒストが感じる快楽の源泉はどこになるのかなと問うならば、私はそれに、苦痛そのものでなくマゾヒストは苦痛をもたらす苦痛の原因たる性的衝動それ自体に快楽の理由を見出すものであるって、そう答えようって思う。‥性的衝動。なら、この作品で心音が感じた、彼女が莉子に発見した性的快楽の本源は何? かんたん。そしていろいろある。少女愛、母の代理、依存関係、その依存がもたらす倒錯観が彼女に与える世間を裏切る背徳した感じ、自己を他者にさらけ出す露出の喜び、そして何よりか弱い莉子を守ってあげられるのは私だけだっていう、このうえない偽善がくれる、自己愛、その閉塞した歓喜。‥すばらしい、一作だった。こんな素敵なポルノグラフィが読めるだなんて、思わなかったかな。とても満足。よかった。」
「本作の年月を追って淡々と語られる出来事といったものは、語り手である心音がみずからの身に起ったこととして淡々と語るからこそ、なんていうのかしらね、余計にその異常性といったものが目立って伝わってくるのでしょう。‥はてさて、どうも本作は語ろうと思うといくらでもエロティシズムや異常性愛の観点から分析できそうな気がして、少しきりがないほどにも思われてきて、ちょっとおどろきかしらね。ま、この作品はかつてのレアージュやサドや、そしてサルトルあたりに見られる性愛の歪な表現の文学的探求といった意味において、非常に関心を向けられるべき素材を提供してくれる一冊であるとはまずまちがいなくいえるのでしょう。なかなかどうして、こんな作品に出会えるとは思ってなかったから、吃驚させられたかしらね。世の中何があるか分らないといったところでしょう。ま、興味ある人はぜひ読んでみると良い一冊よ。性というのはここまで強烈なものかしら。まったく、はてさてという言葉も出ないほどよ。人間とは、衝撃ね、まさに。」
『「ママぁ……」
莉子ちゃんが仔猫のように頬を擦り寄せてきた。あたしは引きずられるようにして、自分でもほとんど気づかないうちに、ベッドに上がっていた。
莉子ちゃんは顔を上げると、物欲しげな上目遣いであたしを見た。
何を欲しがっているのかは、考えるまでもなかった。
「リコね……ママのこと……食べたいの」
蒼褪めた唇がゆっくりと開く。
鋭い犬歯がぎらりと覗いた。
「ずっと会えなかった分まで……いっぱい、いっぱい食べたいの」』
瑞智士記「あまがみエメンタール」
瑞智士記「あまがみエメンタール」
2009/07/04/Sat
「こんなに楽しみにしてた作品はひさしぶり。というのも私はいつも視聴するアニメってとくに何という基準もなく決めてて、その時期ごとの勘と気分とあとは原作を知ってたらとりあえず見ておこかなって、それくらいの考えで感想する作品が決定するから、放映前に特定の作品に何かとくべつの思いいれを抱いてるってことはほとんどないのだよね。だから今ではすごく気に入ってる「スケッチブック」も、事前に何かしらの情報を仕入れてそれでとくに目をかけてたというわけでなくて、たまたまふれた一作が、偶然に私の感性によく当ったというだけであり、その意味ではなかなか私は博打的にアニメを視聴してるともいえるかな‥「とらドラ!」でさえ、さいしょはアニメあんまりチェックする気なかったくらいだし。もちろん、今では見ててすごくよかったって気持が免れなくあるけれど‥。‥なのではじまる前からわくわくしちゃってるアニメ作品はほんとに私にとってはさいきん記憶になくて、みる前こんな緊張した気分になってるのひさしぶりって、わがことながらおかしくなっちゃった。こよみが、嘉穂が弓子が、ついに美鎖が映像でうかがえるのかって、すごくすごく楽しみで、もう現代魔法とてもいいよね!って、いつになく高潮した雰囲気の私がいるかもかな。‥このとぼけた、だれもが率直さといった言葉とは無縁でありそうな信じられなさ、胡散臭さを漂わせた登場人物たちと‥もちろんそのなかにあって、こよみは人を疑うことを知らない純真な存在であるけれど、でも彼女その人がこの作品においていちばんの不可思議さを体現した存在であることが、こよみを主人公として際立たせる特徴だっていえるのじゃないかな。まただれに対しても素直であろうこよみであるから、あの容易に馴れあいを好みそうにないキャラクターたちのあいだにあって、彼女が中心にみんなをひきつけてる、その理由も証されようってものだって、私は思う‥そして彼女たちの活躍する舞台であり、さらには嘲弄しようって企むかのような、現代というほかならないこの時代って舞台背景のかもし出す特異な本作の魅力は、いったいどれくらい愉快な、興味ふかいものであるだろう。‥この作品は、だからこの雰囲気に存分に浸れる人なら、変に好きになっちゃうふしぎな魅力があるのじゃないかなって、私は思うかな。というのは私みずから本作の個性にいたく惹かれてるからであって、アニメがどういった出来に最終的に結実するか、楽しみでしかたない。‥いったい、どんななるかな。なって、くれるかな。」
「現代魔法とは、ミスティフィカシオンに存分に満ち満ちた作品ともいうべかしらね。なぜなら人を煙に巻くといった意味では美鎖こそがその種のミスティフィカシオンを全身にまとった人物の典型ともいうべきでしょうし、猪突猛進の弓子はべつとしても、こよみの友人の嘉穂は簡単に本音をさらさないという点については、ある面、美鎖以上の心理のうかがい知れない人物であるからでしょうね。ただしかし、そうね、本作のおもしろいところのひとつは、そういった他者とあまり接触しないだろう、徒党やそれに似た集団を組んで何ごとかすることがおよそ考えられないだろうといった人物たちが、おそらく正しい意味において平等な付きあいをしているという点であり、彼女たちが仲間である理由の根本的な意味として、主人公の森下こよみの存在があるという部分が、なかなかどうして意味深でまた示唆的であるのでしょうね。はてさて、こよみの彼女たちを惹きつける個性とは何かしら? とくにそれは弓子と嘉穂においておもしろい状態を呈しているように思えるけれど、さて実際はどうかしらね。ま、それはこれからの放映に期待するところでしょう。」
「努力や根性や気合でなくて、システムが厳然と冷徹に瞬時に勝敗を決する現代魔法という世界観において、イレギュラーともいうべきあらゆるコードをたらいにしちゃうっていう、ある面滑稽で、そしてある面恐ろしいくらいの能力を秘めたこよみは、まずまちがいなく本来的な意味においての本作のジョーカーであり、平凡なひとりの人間にすぎないって思いこんでた彼女自身がとある機縁‥そのジョーカーとしての片鱗を見せることで‥により、新たな舞台と人間関係を得るっていうお話が、ずばり本作の導入であった。‥こよみは自分のことをあまり頼りない、性格も才能もまるでない情けない人間って考えてて、自分のことをつまらないものだって割り切って考えちゃってる。そしてこの作品の冒頭のストーリーだけを見るなら、そんな凡庸な彼女に実は魔法って現代では失われちゃったけどでもすごい才能が実はあって、そしてそれによって彼女が救われるってストーリー展開を予想するかもだけど、でもこよみの能力は異質で巨大でありながらも、それ自身としては単に使い勝手のない能力として、もし才能があろうとても、こよみ本人にとっては自覚できないほどに儚い能力を意識させるほどのものでしかなかった。‥こよみはその意味では、だから、魔法についても、彼女がほかのたとえばテニスとかに絶望し見放されたのと同じく、やる気を失してもおかしくない状況だった。‥しかし、それながら、こよみは魔法を習うことを決意する。そして自分なりにもがんばろうって、これだけはあきらめずにやってみようって、考える。‥それはまさしく、自分の力に疑いを抱きながらも、未知な未来に不安を伴いながらも、でもそれでも明日のために現実を生きていかざるをえない人間が、ほかならない自分の生き方の小さな端緒を選択するっていう物語だった。‥こよみの魅力とは、つまりそこにある。自分の意志で、がんばろうって思う、その心にある。私は好きだな、こういうの大好き。こよみ好き。大好き。」
「それまで自分に自信をもてずにいた少女が、少しでもいいから何ごとかをがんばってみようと、おのずと努力してみる話、か。‥まったく、そういうの好きね、本当。「ひとひら」もその手の話だったし、結局私たちは何か意志をもって前に進もうとする人に、好意を抱かざるをえないといった人間であるのでしょうね。ま、しかしそうね、がんばるということは、がんばってみなければしかたないものではあるのでしょうし、それならとりあえずどんなに弱くてもいいから、弱いなりに生きてみれば、それはそれでけっこう素敵なライフスタイルというべきものがあらわれてくるというものなのでしょう。であるから、これからこよみがどんな成行を見せてくれるか、その彼女の友がどう活躍してくれるか、期待しないでいられないといったものよ。次回からが、だから、楽しみね。いよいよ現代魔法も本番よ。どうなることか、期待しましょう。」
『どうする? この再会はただの偶然だけど、あなたの選択によっては偶然を運命にできるわよ』
桜坂洋「よくわかる現代魔法 1 new edition」
2009/07/03/Fri
「平成元年に刊行された「落第生の履歴書」は、主に遠藤周作の幼年時代や学生時代の思い出をエッセイ調におもしろおかしく描いたものであり、そのほかに文学者仲間についての雑感や知人についての愛情こもった逸話によってまとめられた、遠藤の著作のなかでもとくに気楽に読める類の愉快な一冊に分類されるかなって思う。遠藤というと、これはこの作家によく慣れ親しんだ人にとっては意外でもなんでもないかもしれないけど、この人はあんまり学校での勉強が得手じゃなかった人で、大学受験にも‥といっても遠藤の時代は旧制高校のあったころだから、現代でいう大学受験とはほとんど仕組みは異なってるのだよね。乱暴な比較がゆるされるなら、当時の大学はだいたい現在の院生くらいに該当するって思えばいいのかな? 単純な比較ができないだけに、遠藤の話もあるていど懐古的な色彩を伴って思われてきちゃうのは、ある意味しかたないことではあるのかな‥そうとう苦労重ねて浪人の末に入学したって人で、作家としてそれなり立派な栄誉を克ち得てはいるけれど、でもその背景には遠藤という人にはあまり世間には開陳できなかった苦労があったってみていいのじゃないかな。たとえば遠藤のお兄さんはかなり優秀だった人らしく、遠藤は兄に対して劣等感と同時に相応の尊敬に似た羨望ももってたみたいで、その感情はなかなかかんたんでないものがあったのでないかなって気がするし、さらには遠藤にとってたぶん子ども時代もっとも大きな問題であったろうその母との関係性は‥遠藤のお母さんは熱心なキリスト教信者であって、彼女の手引きで遠藤もその宗門に入るのだけど、若かったころの遠藤があまりまじめな信徒でなくて周囲から迷惑がられてたって話は、遠藤のほかの著作からも十分うかがわれることであった‥本書においてはほとんど語られてないけど、でもそれとなく予想される箇所は、だいぶあったのじゃないかなって、私には感じられた。だからそういった観点からも、この書はけっこう興味を惹かせられるものがあるってことは、たしかにいえることじゃないかな。」
「遠藤がそうとう手に負えない子どもだったということは、種々の書籍からも存分に感じられることであり、本書の興趣あふれる点は遠藤がそのことを内実共にあけすけに自分みずから語っている点に求められるのでしょうね。もちろん齢を重ねた遠藤の言葉であるから、その思い出話にもある一定の距離を感じさせる、自分の過去をそこにまつわりつく感情や情緒はそれとして横においてふれることができるという、ある種のゆとりを感じさせられる語り口ではあるけれど、しかしそのさまざまなエピソードの背景にあるだろう記憶には、ほかの諸作品でもふれられた遠藤の直の思いといったものが、ときおりふと思い浮ばられるのだから、本書はなかなかどうして一筋縄では行かないのかもしれないかしらね。ま、遠藤の人となりとその人生語りを緩やかな調子で聞きたいといった者にとって、本書はまさにおあつらえ向きといったところなのでしょう。気軽な筆致に透けて見える遠藤の生き様が、なんともというところよ。」
「遠藤はだれにも理解されないさびしさをもった子どもだったって、自分の過去を回想するに当って述べてるけど、この他者に理解されない人の心の奥底にある暗闇といったものへの遠藤の生涯変わらなかった関心は、もしかしたら彼の幼少時代の体験がその土台として影響を与えてたのかなって、ふと私はそんなことを考えた。というのも、これは遠藤の読者にとってはよく知られた話だろうけど、遠藤の動物への偏愛やちょっと過度ともいうべき傾倒といったのの起源はどこに求められるのかなっていえば、それは友だちも何もなかった小学生のときの遠藤の愛犬との交流があったことは疑えないのであり、そしてそういった犬や鳥のじっと濡れたような瞳が見つめてる世界、そしてそうやって見つめつづけてる犬たち自身に仮託されたある目に見えない巨大な何かといった問題の構図が遠藤の文学世界に発した始原が、つまり遠藤の孤独な子どものときの忘れがたい記憶とそれに根ざす感情にあったことはまちがいないことであって、遠藤の小説の世界を見通してみたいって欲する人にとっては、だから、本書は興味ふかい素材を提供してくれるに異ならないって、そう私は感じたかな。‥遠藤のイエスへの関心は、遠藤がイエスを知る前に付きあってたたった一匹の犬の濡れた瞳の画によって、遠藤の内奥に無意識に刷りこまれてたのかも、もしかしたら知れない。また後年遠藤はその事実にふと思い至って、世のふしぎとめぐり合わせの奇妙さに、自身の文学的課題を照応させることを考えたのかもしれないって、そうも私は考える。そして遠藤のそういった検討の果てに、イエスそれその人への思いがあった。‥その思いがどういった結実を見たかは、種々の作品が示してることではあるよね。人の人生の成行というのは、だからそう考えてくと、奇妙な符号を見出したくなっちゃうものでは、たしかにあるとはいえるのかも。たとえそれが人の恣意的な願望からの人生の作為的な混乱にちがいないとしても、かな。ここはなかなか、むずかしい。」
「遠藤は犬や鳥の率直な世界に真摯に向きあう姿に、ふとイエスの象徴を見たのかしれなかったけど、しかしそれは遠藤がそう見たかったからという、それだけの理由しかなかったからなのかもしれないということかしらね。そしてその意味でいえば、遠藤が人生の大きな変化の運動にある一定の意味性を見出し、それを神と呼びたいと思っても、しかし世の中にはそう遠藤のいうように思うとおりには行かず、不合理そのものともいうべき人生を味わう人が少なくなくいるのだろうから、遠藤のいう神の働きもまた、まやかしと断じられても、致し方ないといった面はまずあることはあるのでしょう。しかし、それでもそうね、遠藤というひとりの男ががむしゃらに生き抜いて人生の意義といったものを酒を片手に笑いながら語る姿は、どこかその背景にどうしようもない寂しさが透けて見えるとしても、何かこう和まずにはいられない力といったものがあるとは、はてさて、いえるのでしょうね。いや、いわねばならないのでしょうね。なぜなら遠藤の語ることへの率直さと不器用さといったものは、一種とてつもないものがあるのでしょうから。」
『私が中学生の時、雨の日に林のなかで首をつった人がいた。警察がくるまで数人の人が騒いでいたが、林の入り口に彼が飼っていた犬がじっと坐っていた。登校の途中、そこを通りかかった私は、前脚に首をのせて、主人の死んだ林を見ていた飼犬の眼を今でも忘れない。犬というのはそのようなものだ。
私が洗礼を受けたのは先にも書いたように自分の意志からではなかったが、その後、私にとってあの林にいた犬の眼が人間をみるイエスの眼に重なることがある。』
遠藤周作「落第生の履歴書」
遠藤周作「落第生の履歴書」
2009/07/02/Thu
「昭和二十九年に刊行された「山の音」は川端康成の多数ある諸作品のうちでもとくに傑作の呼び声高い一作であり、また戦後文学の枠内においてもその日本的感性の文学的なあらわれとしてみた場合、おそらくこの作品に比肩しうるだろうものはほとんど限られてきちゃうのじゃないかなって思われちゃうくらい、この一冊の評価というのはある意味抜きん出たものがあるって考えていいみたい。それというのも本作がその独特な魅力の核心を何に負ってるのかなって考えたとき、それはとりもなおさず作家である川端が日本という国の特色とは何かを考え、そしてその疑問に対して家族のあり方だとし、日本人の生活意識のその根底に根づくだれもが免れないだろう規範のひとつとしていわゆる家族幻想を俎上にあげたということであり、本作がもつおもしろみとまた底知れないくらいふかい暗さと悲しみにもし読者である私たちがなんらかの共感を示すというなら、それは私たちがまちがいなくこの作品に描かれる家族たちのふるまいとおかれた状況とそしてその逼迫感にある一定以上の共感を、要するに日本的家族のすばらしさとその影とを、認識しちゃうからにほかならないのじゃなかったかな。すなわちその意味でいうなら、この作品はまったく日本人が日本の家庭の現況をつぶさにみとめてありのままに平凡な一典型としての家族に起りうるだろう陰惨さと問題状況とをとらえあげたということであり、日々を家族のなかにおいてすごすだろう大方の日本人において‥家族のない人は、根源的な意味において、ありえない‥本作が描くところとなった世界観と物の見方と、そして何より切ない愛情とやさしさへの焦がれるばかりの飢えといった様子は、決して無縁でありえないものだって、そう私はこの作品にふれて感じえたかな。‥この小説ほど暗く思えちゃう作品も、なかなかない。でも本作を暗いなって思っちゃうのは、それは私がこの暗さを知ってるからなのだろうな。家族っていう、そのせまい暗さの本質を。」
「舞台設定は戦後すぐの時代であり、本作において主人公として語られるのは信吾という六十を半ば過ぎた男性である。そして信吾の家族には長年連れ添った保子という妻があり、戦争に行った経験のある息子である修一とその妻である菊子が彼の家庭の構成要員としてあった。ま、そのうち嫁いだはずの娘である房子が舞い戻ってきたり、その子どもである二人の幼い幼児が家族の一員に加わったりといろいろあるのだけれど、基本的には物語は老人であるといっていい信吾の視点で進行するのであり、彼の心理を追うことがまずもって読者には要求されることではあるのでしょうね。そして信吾の目線についていく際、問題となるのは嫁に来た菊子であって、菊子というのはなんていうのかしらね、実にかわいらしいやさしげな風情の女性であり、その可憐な風貌に信吾はなかなか好感を抱くのよね。もちろんそれは家族的な愛情からそう逸脱したものとしては本作においては描写されないけど、しかし家族というものほど性的な関係もないとはいえるのだから、この家族間の関係性といったものは複雑なものがあることはまちがいないのでしょうね。そしていうなら、どの家族もこの家族ほどには複雑さを平凡にもっているものではあるとは、果していいうるかしら。なぜならだれもが辛いのでしょうしね。だれもが、性からは免れないのでしょうしね。ま、はてさてといったところなのでしょうけど。」
「信吾には子どものころにあこがれた女性があり、彼はその人をお姉さんと慕ってたのだけど、彼女はとあるこれまた美形の人に嫁に行っちゃう。そしてそのお姉さんの妹がほかならない信吾の妻となる保子であって、姉と比べてそれほど美人でなかった保子は、姉に対して羨望めいた思いを抱き、そして姉の夫である義兄にも心惹かれてる。でもそののちお姉さんは死んじゃって、義兄もまたどこかに消えてしまう。それゆえに結ばれることになったのが信吾と保子であるのだけど、二人の思いにはどちらも美人でこの世でこんなに完璧な組みあわせもまたとなかったろうって思われる姉夫婦の姿が理想像として厳然とあるのであって、信吾は還暦をすぎながらもその記憶を消せない自分に気づいてる。‥また問題を錯雑としてるのは息子である修一の女性関係であって、彼には絹子っていう愛人があり、絹子の存在は若い嫁である菊子を苦しませ、そして美しい菊子がその悩みで憔悴する姿に、ある意味菊子にかつての姉を被らせてる信吾も、心痛める。‥房子がいる。嫁に行ったはずの彼女はしまいに実家に舞い戻り、かつての夫とのあいだにどんないざこざがあったのか知れないけど、この夫婦のよりがもう元に戻らないものであろうことは明らかで、すでに三十を大きく越した房子にもう貰い手がないだろうことも予想せられて、信吾の苦しみは、つまり子どもを幸福にしてやれなかった父親としての苦しみは、いや増すばかりだった。それというのも、房子は不器量で、もっと美しかったならやりようはあったかもだけど、それが不可能な想定なのは自分と保子のわが姿を鑑みればわかる道理であって、そのことに、つまり容色が与える人生への影響というものに、信吾は生半でないこの世界の問題とその残酷さを考えさせられることになる。‥悩み、苦しみは尽きない。不安も尽きない。家族の、この日本の家族の苦しさは、いったいなんで生まれるのだろう。どこにその原因があって、そしてそれを解決できるのだろう。‥信吾はそうまいにちの生活を営みながら、憂鬱げに考えをふかめてく。そしてその様子は、本書を読む人ならだれでも、凡庸な私たち自身の苦しみの反映でしかありえないって、おそらく気づくのでないのだろうかな。なぜなら信吾の悩みというのは、まったく安易な解決なんて究極的に死以外にありえないだろうという、この社会の無邪気な無関心さのもたらす残酷のために、ほかならなかったのであろうから。」
「本作は実に種々な問題と課題を含んでおり、そのどれもが容易に片がつきそうにないという点でまったく暗鬱とさせられる内容であるとはいえるのでしょうけど、ひとつどの場合にもおのずから難事として浮上してくるものとして、性の問題が挙げられることは必至なのでしょうね。たとえばこの作品は、通常人がいいにくい問題の最たるものであろう、容姿の美醜が与える人生への影響というものを真正面から目を逸らさず描いている。もちろん世間は人生の幸福というものは見た目の良し悪しには左右されないものとして通っているけれど、しかし不器量であることがそれ自体ある苦しみであるにちがいないということは、これはまさしく一片の真実にはちがいないとはいえてしまうのでしょうね。そしてそういった容色の問題とは畢竟性の問題でもあるのであり、家族のあいだに暗黙に育まれる性関係の複雑さといったものがもたらす生活の微妙な機微といったものは、はてさて、本当にむずかしいものがあるといわねばならないのでしょう。なぜなら、そうね、家族とはある面苦しいばかりのものにちがいないでしょうからね。そしてその苦しみの根ざすところとは何かといえば、性なのよ。まったく性なのよ。美人不美人という苦しみよ。愛し愛されたいという苦しみよ。私を愛してくださいという叫びよ。‥そうじゃ、果して、ないかしら。はてさてね。」
『修一は醜悪だ。東京の女のところで酔って来て、家の門に倒れかかっている。
もし信吾が門の戸をあけに出たら、信吾は顔をしかめ、修一は酔いがさめただろう。菊子でよかった。修一は菊子の肩につかまって、うちにはいれた。
修一の被害者である菊子が、修一の赦免者でもあるようなわけだ。
二十を出たばかりの菊子が、修一と夫婦暮しで、信吾や保子の年まで来るのには、どれほど夫をゆるさねばならぬことが重なるだろうか。菊子は無限にゆるすだろうか。
またしかし、夫婦というものは、おたがいの悪行を果しなく吸いこんでしまう、不気味な沼のようでもある。絹子の修一に対する愛や、信吾の菊子にたいする愛なども、やがては修一と菊子との夫婦の沼に吸いこまれて、跡形もとどめぬだろうか。
戦後の法律が、親子よりも夫婦を単位にすることに改まったのはもっともだと、信吾は思った。
「つまり、夫婦の沼さ。」とつぶやいた。
「修一を別居させるんだな。」
心に浮ぶことを、うっかりつぶやく癖も、信吾の年のせいだった。
「夫婦の沼さ。」とつぶやいたのは、夫婦二人きりで、おたがいの悪行に堪えて、沼を深めてゆくというほどの意味だった。
妻の自覚とは、夫の悪行に真向うことからだろう。
信吾は眉毛がかゆくなってこすった。』
川端康成「山の音」
川端康成「山の音」
2009/07/01/Wed
「変にいいもわるいもないっていう渓の意見はなかなか的を射てる鋭い言葉かなって思われて少し感心させられたから、今回のスケッチブックのお話に関しては少し個性のことについて考えてみよかなって思う。それというのも渓はみるからに個性的って称するのがおそらく適当だろう美術部の人たちに接して、ああいった場所っていうのは善悪ともかく貴重な場所にはちがいないっていってたけど、それはただ単に変な人がそろった場所が希少だっていう意味あいだけでなくて、スケッチブックにおいて描かれる美術部の空間というのは彼そして彼女たちが少し周りの一般的な感性と異なった価値観を抱いてるけど、でもそのこと自体に彼女たちがそれほど拘泥するわけでもなくて、ありのままの自分を表現した結果としてあの雰囲気があるって点が、その特徴でありまた得がたい魅力であるのでないかなって、そういったことを指摘してるように感じられたから、個性の有様について検討してみるのは、今回のスケッチブックはけっこう最適じゃないかなって気がするかな。‥それにたぶん個性って言葉は、現代において混乱した価値観を付与された言葉のもっとも代表的なひとつであるのじゃないかなって思われるし、さらには個性の尊重とかそういったタームにおいて実に奇妙にこれまで世間一般において語られてきたものにちがいないって思われるけど、でも個性というものを考えてみるとそれはとどのつまりある個人のあり方という意味以上のことがあるはずもない。しかしながらそれなのに個性的という言葉によって多くの人が踊らされてきたことが、つまり「自分さがし」などに代表される混迷した人たちの精神活動として示されてきたという矛盾した事態がこれまで見受けられてきたことが、個性って言葉の奇妙なかく乱があった何よりの証拠に相違なかった。‥でもそれなら、個性的に生きるって、どういうことなのだろう? その問題はかんたんなようでいて、けっこうむずかしい問題のように、私には思えるかな。それはなぜなら、自己自身という個性を自分だけで判断することは、自分の意識そのものの構成を把握しきることにたぶんちがいないのであろうから。」
「自分は変わるだの性格を変えることができるだのに代表される事柄、ま、有体にいえば自己啓発やそれに類した何かにおいては個性といったものは重大な困難であり、またある一群の人々にとっては個性というものを獲得することこそ人生上の一大問題になっているように見られるのは、冷静になって少し考えてみると、これほど奇妙なこともおそらくまたとないのでしょうね。なぜなら、ま、そもそも個性というものがその本人のある部分や要素の一端だけを指すのでなく、その個人を成り立たせているさまざまな要素の複合的な総体として考えるなら、原理的にいってそういった自分を自覚的に認知するということはまず不可能といっていいのでしょうね。なぜなら自我というものもまた「私」という個性を形成している一要素に過ぎず、その自我のみで私の性格の全体を把握しようということは、はてさて、顕微鏡で星を覗こうというようなものでしょうからね。ま、「私」が変わるということは「私」を認識する「私自身」が変化するということでもあるのだから、個性だの自分探しだのというものは、本来的に不毛な業だとも、さてはいえるのか知れないのでしょう。」
「個性っていうとすぐ性格やある対人関係における態度といったものにおいてあらわされるものって定義づけがもしかしたら可能かもだけど、人の人格というのは何もある特定のひとつに限定されたものじゃなくて、性格はその生来的に可塑的なものにちがいなくて、そのためあるひとりの人間といってもその個人があらわすだろう行動や感情や思考は、多種多様なものがあって当り前ではあるんだよね。だからたとえばある人がある相手にとっては居丈高であってもべつのだれかにあっては弱腰であったりも当然するし‥個々の人間関係におけるポジションとそれに付随する権力関係はおのずから異なるものだから‥ある場面においては親切であるけどほかの瞬間においてはこのうえなく冷酷だったり‥感情や気分といったのは心理的なその日の状態のみでなくて、体調においても当然異なってきちゃうことは疑いなくいえること‥することも、人が多様な要素の総合として存在する複雑なものである限り、個性がある限定されたものでないことは免れることのできないもの、むしろ多様に変化こそしうるものということができるのじゃないかなって、私は思うかな。‥そうすると個性を獲得するって問題は、ただ単に性格って部分だけに注目して理解できるもので当然ないってことになって、なら人が個性化する、個性的に生きるということは、いったいどういったことを意味する事柄なのかなって疑問が湧く。そしてそれに対して私は、個性とは性格において形成され表現されるものでなくして、個人の生き方の反映においてこそ見出されるものにちがいないって答えるかな。‥個性とは、だから、長期的なその個人の生きてきた軌跡においてはじめてあらわれ出るものだって、いうことができるかも。なぜなら短期的、瑣末的な性格の発現だなんて、その人間の本質をまったく代表するものでは、まるでありえないのだろうから。」
「個性というものが長いスパンを得てはじめてうかがわれるものであろうということは、たしかに人の性格や態度が感情や身体的状況によって変化しうるものである以上、まずたしかにいえることではあるのでしょうね。なぜなら人間関係というものは結局は長い目をもってある個人と個人が付きあって行く過程においてのみ実現されるものに相違なく、ならば一時のいざこざやすれ違いというものもあることはあるのでしょうけど、しかしあまりに短絡的な人間でなければ、長期的にある他者に接してこそ、真の交際というものがありえるだろうということは、主張できることであるでしょうからね。であるから個性とは要するに、長期的な人生の蓄積を透かしてはじめてあらわれるものであろうとは指摘できることではある、か。だとすると自分探しというものも、やろうとするならもっと遥かに長い時間を考えて実践せねばならなければいけないものではあるのでしょう。もちろん、そこまで覚悟してやることかどうかは、断言できかねるといったところでしょうけどね。なぜなら本当の自分など、そんな確定的なものは、この浮ついた世の中、そうあるはずもないのでしょうしね。ま、はてさてよ。」
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遠藤周作「ほんとうの私を求めて」