2009/08/26/Wed
「昭和三十七年に編まれたエッセイ集である「不作法紳士」は、吉行淳之介のその生涯のテーマのひとつであったというべき男女観とみずから修養の時期であったって告白してる売春に捧げた青春時代のことが主に描かれていて、吉行っていう人がどんな人だったのかなってことに興味を抱く初読者の人にとっても、なかなかおあつらえ向きな一冊じゃないかなって、私は思う。この巻の内容は大別するなら二つの部分から成り立ってて、前半部は吉行が考える男性のダンディズム‥いわゆる「無作法紳士」というもの‥について述べられており、ここで吉行が述べてることのなかでもっとも注目に値するだろうって個人的に思われるのは、なんといっても男と女の気質の微妙なニュアンスについて吉行が独特のいい回しでときに知的に鋭く、あるいはユーモラスに湿らないよう巧みにコメントを挟んでる点かなって思われる。たとえば吉行は中学生くらいの年齢における性の目覚めについて、男女間の著しい相違が何かといえば、それは男子中学生は盛んに好んで猥談をすることだっていってる。男の人が猥談を楽しんでするのに対して女性がそれほど積極的に猥談の類をしなくて、むしろそれらを下卑たものとして認識しがちなのは、それこそ男女の生理の発展のちがいに求められるべき原因があるからにちがいなくて、それは男は性がセックスに直接に結びついたものとして実感されるのだけど、字音何とっては性の目覚めは間接的に、ある意味遠まわしに理解されるものだからっていうのだよね。これは吉行らしく実体験に基づいた直感的な物言いで述べられてるけど、下手に精神分析の議論なんかをもち出すよりは、よほど信頼のおける雑談かなって気が私にはするかな、男性にとって性は常に未知なる他者の相貌をもつけれど、女性にとって性といえばほかならない生理現象ともいいうるものね。ここらの差異に基づく男女間の断絶は、なかなかむずかしい。」
「男性にとっての性とはつまるところペニスであり、そのペニスとは、ま、いってみればひとつのオブジェ、玩具的な性質を当人においては意味する代物として意識されるにちがいないであろう、か。しかしそれが翻って女性になると、女の身体にはペニスに代表されるような、なんていうのかしらね、これも使い回された文句なのでしょうけど、男根とは「他者性のシンボル」なのであり、それが女には備えられていないということになる。だから女性はペニスを欲するようになるのだとつづければ、これはまったく去勢コンプレックスになってしまい、おもしろくもなんともなくなるのでしょうけど、しかし本巻では吉行はそういったもって回った議論は避けているから、ま、無難に肩の力を抜いて楽しめる一冊とこれはいえるのでしょうね。以下に引用する言い草は、まったく吉行らしいことよ。」
『大人になった男が、ワイダンをするには、いろいろ理由がある。
その一つは、それが、最も無難な話題であるためだ。男というものは、社会に出て、辛い生活をしながら生計を立てていかねばならない。そして、社会生活で、最も心を悩ますのは対人関係である。うっかりした話題を出すと、さしさわりが起る。ワイダンをやっていれば、無難である。下手なワイダンは困りものだが、巧みなワイダンに顔をしかめるのは、偽善者ということに、大人の世界ではなっている。
それに、ワイダンというものは、じつはけっしてナマナマしいものではなく、これほど観念的なものはないといってもよいくらいのものだ。男と女のちがいの一つは、性について知ることが多くなればなるほど、女は肉体的になってゆくが、男は観念的になってゆくことだ。女は眼をつむってセックスの波間に溺れ込むようになるが、男はますます眼を見開いて観察し、そのことから刺激を得て、かろうじて性感を維持してゆく。』
吉行淳之介「不作法紳士―男と女のおもてうら―」
「‥だから男の人はエロゲっていう眼や耳を神経質に利用する媒体を使って萌えあがることが可能なのだね、って話を引き継ぐことが可能なのであり、上記の吉行の指摘はまさに性の道に熟達した人のみが為しうる的を射た言葉というべきじゃないかな。猥談に関する話も、うん、私は吉行のいってることはそうおかしなことじゃないだろうって思うかな。実際エロゲにしろ萌えアニメにしろ、そこで描かれてる内容と、そしてその内容についてわいわいって騒がれるファンのあいだで交されてる萌え談義ほど、観念的で、実体のないものもないのだから。‥それはそれとして、次に本巻の後半部に収録されてる「娼婦と私」のほうに少し言及しておきたいのだけど、でもここで書かれてることの大半はこの書以前に吉行の著作をいくつか読んだことのある人なら、もうそれ知ってるよの類ばかりといってもよくて、とくに新鮮味ある内容があるわけでない、いつもの吉行の話かなって思ってればいいと思う。ただでもだけど、少し印象的に思ったのは、この章のさいごのほうに赤線が廃止されたときの感慨を、吉行が少しだけ洩らしてる部分があって、このとこはちょっと私も感じ入った。吉行って、あんまり政治的な発言なんてしないものね。ううん、そういうのぜんぜんしなかった。だからこそ、ここの文章は名文かなって思う。これは現代においても、決して空文でないって、私はそう考えるかな。」
「吉行は赤線という風俗地帯が廃止されることの善悪については、明確だったことはたしか一言も述べてはなかったのよね。ただ時代の流れとして、当時あったフェミニズムの、ま、なんていうのかしらね、その系統の世論の後押しもあって、赤線が失くされることは避けられないことにはちがいなかった。しかし、何かしらね、そうやって性風俗を壊滅させても、売春がなくなるわけではなく、女を買う男がいなくなるわけではなく、むしろより一層性風俗の世界は複雑な形態をとるようになった。ま、その善悪の判断はおいておくとしても、人から性を抜きとることはできやしない。当り前のことね。しかし、その当り前を当り前と思えることは、けっこう貴重なことなのよ。それはこの今日において、変わるところのない話でしょう。そうじゃないかしら?」
『この町では、女たちも威勢のよいようにみえても、結局のところは善良な人物が大部分であった。店先で、ビール瓶をスカートの下に入れて、それで前を突っぱらせ客をからかっている女がいた。酔っぱらっているらしく、通りかかる男たちに毒舌を吐きつづけている。「こういう女は、きっと善人にちがいない」と、私はたしかめる気持で、その女の部屋に上った。差しむかいになると、彼女は恥じらい深く、善良そのものになってしまった。』
吉行淳之介「不作法紳士―男と女のおもてうら―」
吉行淳之介「不作法紳士―男と女のおもてうら―」
2009/08/25/Tue
「おもしろい! これは素敵。よく描けてる。どうしちゃったのかな、いったい。今までももちろん純真ミラクルはおもしろかったけど、雑誌を移籍して月刊連載に変わってからはますます魅力ある内容に成長してきてる気がする。これは物語の本筋がいよいよ登場人物たちの表面上を撫でるばかりでなくて、その繊細でこれまでふれることを躊躇されてた心理の柔い部分を刺激する、抜き差しならない佳境に入ってきたからって影響もあると思うけど、でもそれにも増して何より見過せないことかなって思われるのは、今までに溜めに溜めてきた本作独特ともいうべき屈折した感情をもつ人物たち‥彼らはだれもが正直に自分たちの本音を吐露することができてない。それはある人にとっては本音と建前の意識的な使い分けのためであったり、またある人にとってはその使い分けの無自覚さのゆえであったり、そしてべつな人にとっては内省するのが苦手なために自分自身の本来の感情を見失ってるがせいでもある‥の感情が、ここに至って成熟を見せはじめたことによって、なんていうのかな、話の流れにある躍動感がうかがえてきたからのように私には感じられる。要するに、登場人物たちの性格と心が活き活きと映ってきて、物語が上手に回りはじめた結果が、本作の現在におけるこのおもしろさの理由なのじゃないかなって、そう私は考えるかな。‥おもしろくなってきた。ほんとに。ちょっとうれしくなっちゃう。」
「今まで安定を保っていた各種のキャラクターたちの関係性がついに変化し出そうとするためにもたらされる一種のカタルシスなのでしょうね、さいきんの本作に感じる魅力の大きな要因のひとつは。そしてその変化をもたらしたきっかけとは前回に登場した末澤という人物に求められるだろうことは必至なのであり、彼女は、なんていうのかしらね、前のエピソードで触りだけを見たときは少々屈折しているキャラクターに感じられたけれど、しかし今回の掘り下げ方を参照すればその考えは外れであり、彼女はただありがちの大人でしかなかったといえるのでしょうね。いやはや、これは上手いかしら。末澤という人物に、たった今回一回の描写だけで、ここまでの人間味と社会に出て苦しんでいる大人の姿を見ることになろうとは思わなかったかしら。この心理描写の簡潔さと要点を押さえた描き方、見事の一言よ。」
「素敵だよねー。なんだかべた褒めになっちゃうけど、でも末澤さんってキャラクターのおもしろさは、もしかしたら本作のなかでも随一なのじゃないかなって私は思う。というのもその理由はなんなのかなって問われるなら、たぶん彼女はこの作品中においてたぶんいちばんといっていいくらい平凡な人であるのであり、なぜなら彼女はコネで入社したっていうちょっとした負い目があり‥それくらいの後ろめたさは、人間、だれでももってる‥同期に所長さんがいたっていうプレッシャーもあり‥優秀な人と比較されることによって生じる嫉妬を胸中に抱える者の苦しみは、それを味わったことのある人しかわからない‥工藤さんのことを好きになった一途さがあって‥それは純情ともいうべきもの‥そしてジェラシーから他人を術策に陥れようっていう狡猾さも備えてる。‥なんて人間らしい人だろう。なんて愚かで、単純で、とてもとてもかわいらしい人であるのだろう。すばらしい! ‥もうこの末澤さんってキャラクターの素敵さは、私、参っちゃうくらい。彼女の魅力は、ちょっと騙されたと思って、味わってみるべきかもかな。こういう人を描けるというとこが、秋★枝先生のすばらしさ。感服かな。」
「単純に善のキャラクターもいなければ浅薄な悪のキャラクターもいない、あくまでありうるだろう人間を情感的に描写し表現するところが、本作のたまらないセールスポイントであるのでしょうね。‥しかし少し気になったけれど、モクソンとオクソンはもう完全に同棲状態であるのよね、あれ。オクソンがテレビを見ていてモクソンが料理をもってくる場面なんていうのは、なんだかもうこの二人の間柄はどうなっていることかと聞いてみたい気もするけれど、はてさて、それはそっとしておくことにしましょうか。何はともかくとも、ま、おもしろくなってきたことでしょうしね。次回も楽しみよ。どうなることか、期待というものね。」
2009/08/24/Mon
「今回のひとひらは野乃先輩と美麗のかつてあった対立の話。自身の病気のことを自覚し、このまま演劇をつづけることの危険性をもよく承知していながら、それなのにたった一度きりのこの高校生活において目標を目指すことをあきらめ、ただ受身になり残りの高校生としての時間を漫然とすごすことを潔しとせず、あくまで己の思いを貫き通そうとする野乃先輩と、だれよりもそんな彼女の身のうえを心配し‥おそらく本人以上に‥そのためにほんとは望むとこでなかったのだろうけど、あえて敵役を引き受けることを覚悟した美麗。‥このひとひら前半部の実質的な中心ともいうべき二人のエピソードを二話目で描くのは、野乃先輩と美麗の本作における重要性と影響力の高さを思えばまったく妥当かなって思われるし、本編ではあまり活躍の場面がなかった生徒会長さんがどんなふうに二人に係ってたのかなって謎だった部分が明らかにされたことも、今回のお話の見逃せないポイントだったと思う。おどろいちゃったのは、会長さん、意外と良識的というか、ふつうによい人だったのだね。初登場のときはどことなく破天荒な性格の人なのかなって印象をおぼえたけど、ところがどうして今回のエピソードを踏まえるなら、演劇研究会をぜがひとも実現しようとした野乃先輩の無謀さに比較して、あまりといえばあまりなくらい常識的な人であったのでない。そしてべつな見方をするなら、野乃先輩と美麗のようにきわめて感情的で、さらにある個人の身体の問題まで絡まった事案を処理する実際的な責任者であったこの会長さんのかつておかれた立場は、傍目で見る以上に重いものがあったことは容易に想像できることかな。さらにいえば、それを演劇対決っていう落しどころをもってきて上手にとりまとめた手腕は、なかなかのものって評価するにやぶさかでない。見た目もおもしろく、機会があればいろいろ描写をふかめていってもらいたいキャラクターのひとりかな、この会長さんは。」
「野乃も美麗もとことん冗談の通じない、いってみれば生真面目一辺倒な性格の人物であるから、こんなふうに互いの新年が真っ向から反すると、おそらく止めどがなくなってしまうのでしょうね。それというのも、もしこの二人がどこかで自身が正しいと思ったことを主張し通すことに不安を覚える余地があったのなら、本編で描かれたような直接対決はありえなかったのでしょうし、この二人の縁もどこかで破綻していたことはおそらくまちがいのないことなのでしょう。しかしそうはならず、二人が摑みかからんばかりの敵対関係にありながらも、最終的には和解しあえたのは、両者が自身に恥じる部分が自覚的にはまったくなかったからにちがいないとはいえるかしら。ま、それに加えて、美麗の場合は野乃に対する強い執着ともいうべき感情があったから、余計にそう見えるのでしょうけどね。愛情というかなんというか、とにかく重たい関係性よ、この二人は。桂木の介入する余地はあるのかしら?」
「美麗の気持はよくわかるんだよね。野乃先輩のことがほんとに好きだし、それに彼女の健康、そして将来のことも気にかかってくるだろうし、少なくとも美麗の心境は野乃先輩のそれに比べて、より容易に感情移入できる類のものであったことは疑えない。でもそうして考えてみると、やっぱり不可解というかむずかしく思えてきちゃうのは野乃先輩であって、彼女のあそこまでの初志貫徹する気概はいったいどこからもたらされたのかなって疑問は、今に至るまで私のなかでは納得行く答えが得られてないものだとさえいえるのかも。‥野乃先輩は、どうしてあんなに自分を貫き通せたのだろう。どうして、そこまで自分の考えに確固たる根拠を抱くことができたのだろう。‥これは今の私の気持からいうのだけど、実をいうと現在の私はそれほど野乃先輩に肯定的な態度を選択することができなくなっちゃってて、というのも、たとえどれほど自分の選択が自分自身では正しいと思えてても、もしそういった覚悟がある他者をふかく傷つける可能性があるのなら‥そして実際傷つけてしまっているのなら‥そういった決意といったものを、やみくもに貫こうとするのは、まちがったことじゃないのかなって思いが、私にはしてるから。‥もちろん安易に野乃先輩のことをエゴイスティックと非難するわけでない。でも、彼女がいくぶん自己中心的であったことは否めない。それはそののち麦ちゃんをふかく野乃先輩が動揺さすことからもいえること。ただだけど、野乃先輩のような生き方があったればこそ、本作のあるシビアさが生まれそれが物語全体に緊張したテーマ性をもたせることになったことも見落しちゃいけない点であるわけで、だから「ひとひら」という作品における野乃先輩の象徴性は、存外、かんたんに結論の出せるものでもないかなって思うかな。‥もう少し、考えてみたい。こればかりは。」
「野乃はもしかしたら演劇部を去ったとき、美麗との関係が崩壊することをどこか心の片隅では覚悟していたのかもしれないかしらね。しかし実際は美麗は野乃が思っていた以上に強く、そして野乃のことを信じていてくれたわけであり、仔細に検討いくと、野乃というのは本当に業が深いというか、罪作りなことをしていたものであるのでしょう。ま、しかしそういった強烈な個性があったからこそ、あの奥手な麦ちゃんがああまで変化できたともいいうるのでしょうし、なかなかどうしてああいった人間はそう見受けられるものではないのでしょうね。とはいっても当然、彼女のような人が身近にいることが良いことか悪いことかは、単純には決定で気なのでしょうけど。そしてそれが恋人の位置にあればと想定するならばなおさらかしらね。ま、はてさて、桂木に然り美麗に然り、彼女のような人を好きになるのもよほどの物好きではあるにちがいないのでしょう。厄介な人物よ、野乃とはね。ああも掴みどころのないキャラクターも、そうはないかしら。」
2009/08/19/Wed
「作中では自他ともにツンデレあつかいされてるひたぎさんだけど、でも彼女ってほんとにツンデレなのかなって、ちょっと私には疑問ある。というのもだって、ひたぎって基本的に自分の欲求に素直じゃない。私の考えというかツンデレ観としては、ツンデレの人っていうのはまずその条件として求められるのは自分の本音を上手く相手に伝えられないということが挙げられるのであり、本心ではあるとくていのだれかに好意をもってるのだけど、見得とか世間体とかセルフ・イメージとかそういった諸々によって自分の気持を偽らざるをえなくなっちゃう傾向があるのであって、だからその基準でいうと、私の見方としてはひたぎはまるでツンデレの範疇に当てはまらない‥なぜなら彼女は暦への好意を素直に伝えられてるのだから‥のであるから、少しひたぎがツンデレ呼ばわりされてるのには違和感あるかな。といって、もちろんこれは個々人のツンデレ観の問題といわれればそれまでなのだけど、でもうーん、私にはひたぎにはいわゆるツンデレと呼ばれる人たちに共通してるであろう、自分の本音を伝えられないために生ずる焦燥感や、自身の気持と相反する現実への失望感、そしてそこから自身にもたらされる嫌悪感などが見られなくて、ただ単に彼女は独占欲と依存心が過度にあるだけの人にしか思えない。そしてその思いはたぶん彼女が堂々としてるからなおさらそう感じられるのであって、というのもツンデレの人は表面あんなに気どってられるものでないものね。なぜならツンデレとは、現実に屈服させられる純情の変型ともいえるのだから。」
「ま、ひたぎの場合は変に居丈高になっていたりするのではなく、あの強気で威風堂々としている態度がむしろナチュラルであるのでしょうね。その意味では彼女は手練手管を弄するような器用さももたない素直な女性といえばそうなのでしょうし、思いを表出することなくひたすら己のなかに閉じこめて、破裂してしまうような型の人間でもない。ま、であるからそう考えると彼女は実に健康的な生き方をしているともいえるのでしょうし、唯一危ういのは暦が現在の彼女にとってあらゆるものを引き換えにしてもいいほどの、巨大な存在となってしまっている点なのでしょうね。実際、彼女は暦に裏切られたら暦と心中くらいは軽くしそうね。その意味では、暦の度量がどれくらいかが今後の鍵となるのでしょうけど。」
「私のなかでツンデレというと思い起されるのはほかならない「とらドラ!」であって、というのも私には「とらドラ!」の中心人物のひとりであったみのりんは、ツンデレって気質が赴く悲劇の可能性の先端まで行っちゃったキャラクターに思われるからなのだよね。‥これはいくらか単純化していうのだけど、私にはツンデレというのはごくその中心的な性質をぬき出して検討してみるなら、ツンデレを形成する大きな要因のひとつはセルフ・イメージなのだと思う。そのセルフ・イメージ、つまり自分本来の姿‥といっても、この本来の姿というものこそ虚栄なのかもしれないけど‥をありのままに表現して暮すのでなくて、あるとくていの理想像を演じるということを自分のナチュラルにしちゃうということがいえるのじゃないかな。もちろん人はたったひとつの個性いわゆるペルソナがあるというふうでもなくて、人と場所、ときと関係性に応じて、多種多様な性格を無意識に変じてるものであることはまちがいなく指摘できることなのだろうけど、ツンデレの人は、なんていうのかな、そんなふうに自分を柔軟に感じることができなくなっちゃってて、ある種の個性の可塑性を失ってる状態というふうにいえるかも。そしてだからツンデレの人は、現実の自分と理想の自分のギャップに苦しめられるのであり、その最終的な結果としては、自己自身の完全な喪失に至るのだろうと、私は思う。‥その意味ではひたぎさんがまったくだれか他者のために自己の欲求を押し殺しちゃうなんてのは予想できないわけであり、だから彼女がツンデレとは、私はぜんぜん思えないかな。‥もっとも暦のためだったら、なんでもしちゃいそうな点は、ツンデレより、よりひどい困難の萌芽ではあるかもしれないけど、ね。そこらはこれからの展開を期待かな。」
「セルフ・イメージというのは、ま、一般論としても生半には行かない問題ではあるのでしょうね。というのも個性の価値が声高く叫ばれている昨今ではあるのでしょうけど、個性というものがたったひとつきりの己を見つめ直す途を進むことでしか得られないものだと仮定するならば、自己自身という個性の獲得には長年月と絶え間ない自己検討が求められるのでしょうし、それを敢行できる人というのは、決して多いはずがないでしょうからね。そしてそうやって見ていくと、個性的に生きるということは畢竟孤独に生きるということにほかならず、その文脈での孤独とは内省的な態度を常に要求するものでもあるのでしょう。ま、はてさて、少々今回は化物語本編とはちがう方向の話にエントリが終始したようだけれど、全体としてはけっこう楽しめる出来であるのよね、本作は。次もまた、では期待しましょう。どうなることか、楽しみよ。」
→
ヘルマン・ヘッセ「デミアン」→
成長を許されないヒロイン像としてのツンデレ、という話→
虚栄について または「こう思われたい」という心理の人間らしさとその無について
2009/08/18/Tue
「アニメ化も決定されてるということで、この本書「生徒会」の一存は現在もっとも人気のあるラノベの一冊ということになるのかな。それで私も本作についてはとくに事前にどんな作品なのかって情報を一切入れずに興味本位で読んでみたのだけど、著者名をみてはじめてこの本の作者が「マテリアル・ゴースト」の人だということに気づいて、若干おどろかされた。というのも「マテリアル・ゴースト」については、これは以前もちょっとだけ言及したことあったかなって思うけど(→
マテリアル・ゴーストとか太宰治とかの話)、私は主人公の行き方とその信念のよく練られてないにも係らず、実に道徳性を装ってるふうに描かれる表面的な浅はかさについて、まったく評価する気分が起らない、いってみればそうとう嫌悪を覚えちゃう類の作品であったわけで、だからこの「生徒会の一存」ももしかしたら前作とさほど変わるとこなくて私の気質に反しちゃうのじゃないかなって不安がもう目を通す前から生まれちゃったのだけど、それじゃその結果はどうなのかなっていうと、意に反せず、本書は「マテリアル・ゴースト」ほどとはいわずとも、十二分に私の好みにあう内容でなかった。それにはいくつか理由があるけど、でもとりあえず本作についての私の受けた率直な印象を述べるなら、この作品は作者みずから「雑談小説」だと規定されてるようで、そのとおり本書の大部分は対話体で構成されてはいるのだけど、でもその対話が活力ありまた躍動的にふかい内容に富んでるのかなっていうと、私はどうしてもそうは思えなかったって告白せざるをえない。‥これはいろいろむずかしいのだけど、対話篇を作品にするっていうのは、ほんとにたいへんな作業と資質が求められることなのだよね。だから本書「生徒会の一存」がよく上手くない対話ばかりであろうとも、それをことさらとりあげて非難するのも、なかなかきびしい態度ではあろうかなとは、私も思う。そもそも現代の日本には、純粋に会話を娯楽とするって趣味が希薄であるかなとも、思うのだし。」
「古代ギリシアにおいてのように、対話を純粋に快楽の源泉のひとつとして洗練させていたという背景があったればこそ、プラトンのように最良質な対話篇は完成したに相違ないのでしょうしね。ま、その意味ではこの現代日本において対話篇を主な内容とした作品が発生しないのもむべなるかなというものでしょうし、本作の会話がダイナミズムに富んでなく、安易なネタに走ってしまっているのもそう責めるべき箇所ではないともいえるのでしょう。というのもこれはなんというのかしらね、日本人の会話というものはどこかに必ず情が混じってしまうものだからよ。感情を離れた、つまりスポーツのように会話の内容によってエスプリを競うといったような感覚は、なかなか日本人の間では見出しがたいのでないかしら。ま、その意味からいえば、対話を主軸とした内容を企図した本作は、その野心的な試みという観点からは評価すべき部分はあるのでしょう。その成否はおいておいても。」
『もう、大事な人間に無理に順番なんて付けようとしないって。いくら苦しくても、辛くても。大事なものは……全部この両手に抱えられる男になるって……決意、したんです』
葵せきな「生徒会の一存 碧陽学園生徒会議事録1」
「本作の主張、そのメッセージ性は、作者が気楽なギャグを謳ってるわりには、ずいぶん啓蒙的なスタンスで書かれてて、そういった点に関してみても私自身あまり好むとこでないし‥啓蒙には常に他者に対する楽観主義が潜むから‥そのいわんとしてる本質についても私はそうとう浅はかな印象をおぼえちゃったのだけど、そのうちでとくに気になった点が上記引用した箇所であり、ああ杉崎さん、その決意はまちがってるよって、思わず呟かざるをえなかった。というのもこの場面は周りにいる女の子をみんな幸せにしようっていう杉崎さんの思想の一端が示されてるところなんだけれど、好きなもの大切なものをぜんぶ平等にあつかうことによって、とくていのだれかを不幸にしないっていう彼の考え方は、どうみてもそれ自体のなかに一種の矛盾を含んでるのは私には疑えないように思われるから。‥だって、単純に考えてみても、愛というのは差別じゃない。だれかを愛するとき、それは必然的にほかのだれかを愛さないことを決意してるのであり、その価値の相違があればこそ、愛するだれかと愛されるだれかの結びつきは際立ってくる。でもだけど、もしその選別を行うことなく、あらゆる人に平等に変質なくやさしくあろうとしたなら、それは翻ってだれにもやさしくしてないことになるのであり、それはいわば、一種の無関心の状態になっちゃう。‥わかりやすくたとえるなら、みんなを幸せにしようって思うのは、運動会で競争なのにみんなが同時にゴールすることを強制するようなものだよ。それはみんなにやさしくしてるのでないよ。だれをもやさしくしてないんだよ。そこを勘ちがいしてると、杉崎さん、後々たいへんなことになっちゃうよ。そう私は思うかな。」
「自由を求めるあまりに自由を失うとプラトンはいったものだけれど、この話は愛を求めるあまりに愛を失ってしまうといったところなのでしょうね。というのもなぜなら、人はなんだかんだいっても差別を望んでいるものだからよ。心の底で、自分が好きなだれかにほかのだれかよりも差別され、優遇されることを欲しているものよ。そしてそれは正常な心理であり、それを不平等だとかいって責めるのはお門違いというものでしょう。なぜならそうやって差別や差異があればこそ、自己と他者の確認ができ、そこに安心ができるからよ。むしろ平等というのは不安なものよ。というのも平等はプラスにもマイナスにも働かないのであるから、いつまでも不安定な状態に自己の精神が置かれることを意味しているからでしょうね。ま、だから愛は残酷よ。しかしその残酷さは受け容れねばならないのよ。そうでないかしら? そうじゃないはず、ないでしょう。」
『二種類の平等。――平等欲は、他の人をみな自分のところまで引きずりおろしたがるか(けちをつけたり、黙殺したり、足をすくったりして)、またはみんなとともに自分をも引き上げたがるか(ほめたり、助けたり、他人の成功をよろこんだりして)、というぐあいに現れうる。』
フリードリヒ・ニーチェ「人間的、あまりに人間的」
葵せきな「生徒会の一存 碧陽学園生徒会議事録1」
2009/08/17/Mon
現代文の授業とかなんのためにあるのかわかんね『実際のところ、国語の授業というものが「なにを目的にしているのか」がさっぱりわからない。古文や漢文はまだましなのだけれど、現代文というやつは皆目わからない。』
現代文の試験とか空気読む訓練ですかそうですか。『んで、ついったーでのpost、えむけーつーさんのエントリのブコメで一応説得力持ってるなーって思ったのは、「"一般人が読めばどう感じるか"の世間の空気のシミュレートの精度を上げる訓練」っていう意見。少しうがった言い方をすればついったーのFpodさんの「日本人一般として妥当な解釈が可能な扱いやすい人材を大量生産」するための教科。』
「まず言葉の定義から。問題となってる現代文のなかでもとくに議論が混迷してる観があるのは「小説」だけど、小説というものは実は歴史は新しくて、小説が誕生したのはフランシス・ベーコンの登場を私たちはまたなきゃいけない。‥といきなりいうと、なんでここで帰納法で有名なベーコンの名が出てくるのかーって違和感をもたれる人がいるかもだけど、でもそもそも小説というのはそんなに新しく登場したものでなくて、小説の発生には帰納法の存在が必要だったって事実を把握してなきゃ、この一連の問題は徒に混乱しちゃうだけなのじゃないかなって、私は思う。だって、いいかな、小説は英語ではnovelって書くけど、このnovelには「小説」って意味のほかに「新しい、珍奇」って意味があるのは、辞書を少し引けば、わかるよね。そしてそれならどうして「珍奇」って意味のnovelが「小説」の意味をあらわす語にえらばれたのかなって疑問が湧いてくるのは当然だと思うけど、実はこのnovelはverseつまり「詩」あるいは「賦」を意味する語と対立するものとして考えられた。というのも、そもそも文芸といえば基本的には往古はverseの形態しかなかったのであり、それは韻文、要するに純粋な美の追求としての仕事としてしか言葉が用いられてなかったことを意味する。でもただ科学が生まれたとき、この科学精神は言葉にも大きく影響を与えたのであって、そのひとつの結果として発生したのが、いいかな、科学的精神から生じる「観察」を人間に向けることによって生じるnovelつまり「小説」だった。‥そういう意味では、小説は科学とその根本を同じくしてるって思っていいのだと思う。これは忘れちゃいけない重要な指摘かな。」
「科学、要するに「観察」を自然でなく「人間」に向けたときにはじめて生まれるものがnovel「小説」であるということかしらね。これはフランスでは十六世紀のことよ。その意味では小説もまた西洋的精神のなかで初めて誕生しえたものであるのであり、東洋、すなわち日本や中国においてはnovelは近代に至るまで生まれえなかった。というのも、いいかしら、そもそもなぜnovelを「小説」と訳するのかというと、中国においては文章には大きく分けて二つの型があったのよね。一つは「大説」といい天下国家を論じた文章、そしてもう一つは「小説」であり、ま、恋愛などのいわゆる日常を描いた小物を主軸とした文章。つまりnovelを訳す際、日本人としては「小説」を用いるほかなかったのよね。ま、ここらへんはなかなか複雑な背景が必要よ。」
『しかし、この科学としての性格から出て来ることなのであるが、科学性・実証性・客観性というような概念は、自然科学の場合と人文科学の場合とで、かなりの相違を生ずることがある。われわれは、国文学の場合に、自然科学における科学性を要求して、徒らに研究者を苦しめている時がある。人文科学の研究対象の中には、必ず自由意志をもって行動する人間の判断が含まれている。従って、その人間の判断や行動は、甚だ非論理的・非合理的・非法則的なものを含んでいることがある。それを扱う研究者が、終始合理性・論理性・法則性を前提において、研究の科学性を充足しようとすると、却って実際にあわぬ時がある。中世の歌学者達が、非合理的な解釈をしていながら、案外、的をはずしておらず、近世の国学者が、合理精神に立って研究していながら、時に的をはずしてしまう時があったりするのは、一つには、こうしたところに理由があるように思われる。』
安部秋生「国文学概説」
「いわゆる「国語の授業への違和感」は、たぶん上記引用した箇所にその原因の大半があるのでないかなって思う。そしてこの違和感は実は国語だけの問題でなくて、ちょっと敷衍するなら教育そのものへの違和感に変わってく性質のものであることも同じく理解されることと思う‥補足しておくと、私はこのエントリで現代文の解法とか現代文の模範解答のある妥当性とかについても言及しようかなって思ったけど、そういうのは実際の現場の課題であるのであってブログで発表するには不適当かなって気がしたから、さておく。しかたないよね‥。それで教育全体における現代文の占める意義についてだけど、これは私はかしゅーるさんの意見に賛成、「現代文の試験とか空気読む訓練」というの、大正解。そのとおり。そしてこれはネガティブな意味でなくて、歴史的にみてもそうだった。ヨーロッパやアメリカで今でも古典教育をやってるのはつまり人間形成のためといっていいと思う。古典をよく読むことにより、精神的な習慣が養われる。それでいいじゃない。だって、moralはtraditionalなものでしかありえないのだから。」
「アウトプットなんてどうでもいいから、インプットをとことんすればいいという意見かしらね。ま、これは暴論に聞こえるでしょうし反論もあるでしょうけど、独創性だの多様性なんていうものは、教育じゃ養われるわけないのよ。なぜならそれらは個人の問題でしょう? 教育にやれることは限られているのよ。だから、ま、古典をひたすら読んでいればいいのよ。その意味では問題なんて解く必要さえないのよ。むしろインプットだの解釈の多様性だのを教育に要求するのは、それはオプティミズムが過ぎるというものでないかしら? 勉強は自分でするのよ。当り前よ。」
『田中 日本でも国語教育のなかに、もっと古典教育を入れるべきなんです。『徒然草』でも『平家物語』でも『太平記』でもなんでもいい。『日本外史』でもいい。教師はいちいち説教なぞせずに、生徒に読ませるんです。生徒はそれぞれの仕方で感銘を受ける。もちろん人によっては素通りすることもあるけれど、それでもいいんです、ともかく読んでいれば。それから日本以外の、シナやインド、ギリシア、ローマの古典ですね。そういうものを説教なしに、ともかく読ませるんです。その方法しかないだろうと思いますね。べつに新時代のモラールをつくるなんて、大仰なことを考える必要はありません。だいたいモラールはトラディショナルでいいんです。定着しているというのが大切であって、新しいモラールはそこから発達すればいいのですよ。「いろはがるた」にも「イソップ」にも、何にでもモラールはあるわけで、そういう意味の古典教育を教育の根幹にするというのが、私の考え方ですけどね。
西部 ぼくらが教わった時代というと、ほんの数ページの古典の抜粋が教科書に載っているだけです。さまざまな抜粋が脈絡なしに羅列される。
田中 アンソロジーになっていえればいいのですけどね。なかなかそうも……。しかも今の国語教育だと、いちいち細かいところを説明したり、これは何を言わんとしているのかなどと言ったりしますけど、そんなこと言わなくていいんであって、漫然と読むだけで、朗読するだけでいいんです。暗誦させればいい。そういう古典教育だけでたくさんです。』
田中美知太郎「プラトンに学ぶ 田中美知太郎対話集」
『環境は我々に近いものであるとすれば、人間にとって人間よりも近いものはなく、環境は我々に遠いものであるとすれば、人間にとって人間よりも遠いものはない。』
三木清「哲学入門」
2009/08/16/Sun
『山崎 それを思うと、先生が政治に志して、片方で生物学に興味をおもちになったのは、まことにうまくギリシア的であるわけですが、とくにギリシア哲学を専門におやりになった動機は、大学におはいりになってからですか。
田中 もっと若いときからですね。
山崎 プラトンをお若いときにお読みになったと書いておられましたが。
田中 初めに何かをやったというのは、そんなにはっきりした――芝居だと心機一転してそこでなにか志を立てるというような話ですが(笑)、そんなものじゃないでしょうね。ぼくは古本屋で、ギリシアの変な字が書いてあるのを見て興味をもったという印象があるけれども、それからだんだん関心を深めて行ったということでしょうか。結局、どういう動機でそういうものになったかというのは、いろいろな人がいろいろな動機で、いろいろなことに興味をもつことはたしかにあるんじゃないか。ただそれを持続させるということは何かということが、いちばん大切じゃないか。なんとなく繰り返して、それを捨てられないで、思い切れないでいつまでも残っていく。若いときはいろいろなものに興味がある。今でもいろいろなものに興味がありすぎるほうですが、そういうものを捨てられないで、いろいろやってきたということじゃないですか、たいがいの人は。』
田中美知太郎「プラトンに学ぶ 田中美知太郎対話集」
「ソクラテス、プラトン研究において日本に比肩することのない実績を残した碩学である田中美知太郎先生の対談や対話の記録を精選しまとめたのが1994年に出版された本書「プラトンに学ぶ」であり、重厚なその内容とふかく香り高い学識と経験と尊敬すべき知性のもち主である田中先生の言葉の数々を納めたこの書はまったく骨太な内容を備えたものと評することが可能なのであって、私自身、この本くらいじっくり腰をすえて一行ごとに文字を追ってくことに楽しみをおぼえさせられた書は稀じゃないかなって思う。というのも田中先生は周知のとおりプラトンの翻訳やそれについての解説、研究、評論においても多数の著作を残されてる方であるけれど、プラトンのその持論としては、哲学とは話された言葉、実際に面と向って交される対話でもって教えられるのが真の哲学なのであり、そうでない書かれた言葉、つまりテクストによって為される哲学というものはほんとの薫陶でなくて、それは紛い物でしかないっていってるんだよね。‥これは指摘されてみるとなるほどって頷かされる部分がないわけでなくて、なぜなら私たちはほとんど書物によって物事を学び自力で勉強することを旨としてやってるわけだけど、でもプラトンはそういった書物による教えを死の文字による教えだと呼ぶ。それはかんたんにいうなら、もしその本を読んで学んでる人があることを疑問に思っても、本っていうのはそれに対して何も答えてはくれないから、そういわれるんだよね。要するにそれはすなわち、書物で哲学を覚えようと試みる者は、それ自体としてはただ単に受動的なもの、それみずからは決して語りださないものを相手に学んでるわけであって、そんなのからはぜったいに生きた活力ある教えが得られるわけがないというのがプラトンの主張するところだった。‥もちろん、とはいっても、プラトンは実際にいくつかの対話編を物してるし、そこにはいくらか相矛盾した思いもあったのでないかなって予想されるけど、ただでもプラトンが実際の対話による哲学を最上の哲学としたのはたしかなことであるし、さらにプラトンがある面頑ななまでに対話篇の形式にこだわって著述を積み重ねたことは、注目すべき事実じゃないかなとも思うかな。‥そしてそういった観点を踏まえて本書を紐解くなら、まさにこの一冊は田中先生の生きた哲学の足跡をみることが可能な書なのであって、その価値の高さ、おもしろさ、興味ふかさは、堪えられないものがあるって私は思う。とても、すばらしい一冊かな。」
「田中先生の問答の相手になっている面々がまた一癖も二癖もあるおもしろい人たちだから、本書の魅力はなおさら増すのでしょうね。ぱっと見る限り、劇作家である山崎正和、田中先生と同じくプラトン研究に多大な寄与を示された藤沢令夫、評論家の小林秀雄、小説家として著名な井上靖、物理学の湯川秀樹もいれば思想家の西部邁もおり、そして西洋古典を話題として山本七平も加わっているのだから、これらの人物に多少なりとも関心を抱いたことのある人なら、本書が如何に種々の興趣に富んだ広い知的興味を包含しているかは、自ずと察せられることでしょう。ま、実際、この本ほど長く時間をかけてていねいに読み進めることに価値がある一冊も、そう思い浮ばないのよね。かつて為された会話の場景を、しずかに文字を追うことで自身のなかで再現してみせる。これはプラトンからいわせれば真の哲学とは程遠いのでしょうけど、しかしそのおもしろさや興奮といったものの価値は、そう疑えるものでもないのでしょう。非常な良書よ、これは。」
『西部 絶望して当然の世の中だとしか思えなくなっていくのに、しかし実際に絶望しているかというと、毎日なんということなしに生きている。非常に乾いた感じの絶望がひろがっていますね。
田中 近ごろはなんだかむやみにゲラゲラと笑うでしょう。ぼくはいつもテレビ見てるわけじゃないけど、あいの手みたいにみんなゲラゲラ笑い、みんなを笑わせようとする。ああいうふうなかん地が、かえって非常に暗い感じがするね。なんとも言えない暗い感じがするね。戦争中、兵隊やいわゆる産業戦士を慰問するという名前で落語や漫才をやったでしょう。みんな笑っていながらなんとなく暗い。徳川時代の『浮世風呂』や『東海道中膝栗毛』を読んでも、おかしいと思うんだけど、時代の暗さというようなものがあたりをつつんでいる。それと共通するところがあるんじゃないかなあ――表面は明るいんだけど全体としては暗い。』
田中美知太郎「プラトンに学ぶ 田中美知太郎対話集」
「この箇所を読んだときは思わず、ああ田中先生!って慨嘆せずにはられなかった。そう、そうなの、そうなんです、先生。すごく暗い。この二者の対話が為されたのは85年のことだったけど、それから二十年以上経った二十一世紀の今でも、その暗さは依然としてこの国を包んでる。世相は免れずに本書にあるように「白昼にあらずして白夜」にある。‥私はふだんアニメ以外のテレビ番組をぜんぜん見ない人だけど、このあいだちょっとした機会にみてみたら、この「あいの手みたい」な笑いは、減るどころかますます隆盛を極めてるみたいで、まるでそれがなかったならテレビでない、間がもたないというようなまでにゲラゲラゲラゲラって、絶え間なく笑いが木霊してる。そしてその笑いはおかしいから笑ってるのかなって思うと、実際はそんなふうでもなくて、何かとても心に重くのしかかるものを抱えてるがために、それがあまりにどうしようもないものであるかのために、ただただ笑わざるをえないといった情調であるのであって、テレビって、なんていうのかな、うるさいのだけど、そのうるささには直視できない歪みみたいなのが、私には感じられた。‥べつな言い方をするなら、哲学はだからこそ現代において非常な重要性がある。そして本書の意義もまた、今日はかつて以上に緊要とされる何かを含んでるのじゃないかな。なぜならこの私たちを包んでる「暗さ」を厳密に分析し対峙するための最大の方途こそ、哲学的態度というべきものなのだから。」
「田中美知太郎という人は決してエリートに順風満帆に人生を送ってきた人でなく、学校を中退もしていれば退学させられそうな羽目にも陥っているし、浪人も経ていれば、正式な教授になるまでにも相当の時間がかかった奇妙に波乱に富んだ生活を過した人でもあるのよね。さらにはまた東京大空襲では焼夷弾に焼かれ、二週間意識不明の瀕死の状態を経験した人でもあり、なればこそ、この人の語る哲学というのは、ただ難解な言葉を使って知的な雰囲気をかもし出している人らにはない、誠実さとなんといってもその強さ、広さがあると見るべきなのでしょうね。いやまったく、数十年前の対談ばかりが収録されている本書だけれど、一度目を通してみるなら、この書がどれだけ現代にも通じる問題意識を秘めているかが分ろうというものよ。これほど勉強になる一冊もそうないかしらね。すばらしい本よ。これは疑えないことかしら。」
田中美知太郎「プラトンに学ぶ 田中美知太郎対話集」
2009/08/09/Sun
「わかりづらい。何はなくとも話の構成がつかみにくい。というのもそれにはいくつかの理由が考えられることと思うけど、まずその第一の原因は何かなって考えるなら、それはSF作品にはありがちなことかもしれないけれど、でもやっぱり固有名詞がどんな意味をもってるかって部分が上手く視聴者に理解されてないくせに、ドラマ自体は一方的に進行しちゃってる点に求められるであろうことは、たぶんまちがいなく指摘できちゃうことじゃないかなって、私は思う。たとえばジギタリス、ギルバテス、ケリュケイオン、魔女のライブラリ、等々、今回のお話にはぱっと思いつくこれだけ以上のような重要なキーワードがあるのであり、それを把握することなくして、弓子のおかれた立場、そしてその弓子を狙うジギタリスの生まれ変わりを名乗る男の目的、さらには過去に祖先がジギタリスを葬ったという因縁で浅からない立場におかれて美鎖の状況、またそれらぜんぶに大きく影響を与えることになったっていう未来から来たこよみの占めるこのエピソードの意味性を鑑みてみるなら、どうみても今回のお話単体だけではよく物語に浸りそれを楽しむことは至難の業っていっても致し方ない部分はあっちゃうのじゃないかなって思いが、私には免れなくあるかな。‥時系列シャッフルもその意味では裏目に出ちゃってるのがちょっと口惜しい。もちろん原作とてこの「ゴーストスクリプト・ウィザーズ」の巻は、決して構成的に優れてるというわけでもなくて、あまり渡し個人も評価する気にはなれない一冊かなって思うけど、だからこそアニメ化においては再構成に期待したい向きがあったので、今回のお話には少し否定的な気分があるのは認めざるをえないかな。わかりにくくて、損してる。」
「せっかく番組の最期に解説コーナーがあるのだから、そこでジギタリスだのギバルテスだのの説明を挿入するのかと思ったけれど、まるでそんなことなく宣伝を行っていたのも、割かし肩透かしの印象があったかしらね。ま、とはいってももちろん、ここらへんの固有名詞や専門用語がぱっと見て難解であり、初見者には敷居を潜りにくいというのは現代魔法に限らず大方のSF作品には該当する事情なのでしょうけど、しかしむずかしい用語と世界観というのは一度それをよく呑みこんでしまえば、これほどないほどの魅力を覚えさせる材料となるのであり、ならば問題は視聴者に理解してみようかという気にさせるほどに、その作品が紡ぐドラマが魅力的に映えるか否かという点になるのでしょうね。そしてその部分を本作に当てはめて考えてみると、ま、はてさてとお茶を濁してみたくもなってしまうのが嘆息すべき点ということかしら。少々、苦しい段階でしょうね、これは。」
「弓子の成長と変化って要素に着目してみても本作はとてもおもしろい話を展開してくれてるのだけど、ただその人間性の変容といった部分が、種々のSF用語に惑わされちゃって見えにくくなっちゃってることが、また本作のこのエピソードの魅力を損なってる原因であることは、いえることなのだろうって気がするかな。‥これはドラマの段階をどう踏んで描いていくかって点にも関係することだと思うのだけど、アニメではまだ原作3巻の冒頭に位置する弓子が学校でも家庭でも、その目立つ容姿と能力のために居場所を得ることができてなくて、ために弓子の居丈高で協調性のない性格が形成されてるって部分は、本エピソードを読み解くうえでは見落してならない点だって、私は思う。というのもそんな生意気でひょっとしたらいじめの対象になっちゃうかもしれない弓子の性質を‥弓子自身が攻撃的で排他的な性格だったから、進んで彼女をからかおうって人が僅少なだけであって、弓子のように周りの空気なんか読んでやらないですわー!みたいな人は、日本のような社会では、浮いちゃうことは必至なのだよね。そしてべつな見方をするなら、そうやって他者を拒みつづけてるがために、ますます孤独に陥りそうになっちゃってるのが六年前の弓子であったのであって、そんな彼女が出会い、はじめて友だちとなれたのが、ほかならないこよみであったというのが、このエピソードのもひとつの重要なテーマといっていいと思う‥変化さす決定的な契機として「ゴーストスクリプト・ウィザーズ」はあるのであり、もし、あのとき弓子がこよみと出会わなかったらと思うと‥それは同時に美鎖と出会わないということでもある‥弓子のつよさ、そして美しさというものは、現在あるような形にはとうていならなかったのでないかなって私は思うかな。なぜならこよみとの出会いこそは、彼女にとって広い未知なる外界への、第一歩にちがいなかったのであろうから。」
「弓子のように無駄に誇り高く高慢で、自分の存在に自信満々であるということは、なかなかどうして小学校や中学校のような世界だと、生きづらい面も多々あったことは予想できるのよね。そしてであるからこそ、彼女が自分の知識と能力という面において、対等に付きあえる存在というべき美鎖とめぐり合えたことは大きかったのでしょうし、また自分のテリトリーであるはずの魔法という分野に関して、自分とはまったく異なる未知の可能性を秘めたこよみの存在は、彼女の価値観に決して少なくない動揺と喜びを与えたことも疑えない事実であるのでしょう。‥ま、以上のような理由から、このエピソードは考えてみるといろいろ発見があるものなのよね。いろいろ不安も拭いきれないアニメ版だけれど、しかし次回も今回のつづきをやってくれるようだから、はてさて、では期待してみるとしましょうか。どのようにまとめてくれることか、楽しみよ。」
2009/08/08/Sat
「雰囲気に酔わせることのできる力量のある作品はそう滅多にお目にかかれるものじゃないのでないかなって思いが私にはあって、というのも起承転結のまとまったドラマを作品の主軸にして物語を形成することは作劇の基本であり、また永遠に追求されねばならない技術の研鑽を要する仕事であることは疑えないのだけれど、ただそのドラマの内容をできる限りこみいったものでなくて薄く軽やかなものに仕立てあげ、でもそれでいてなおかつひとつの作品としてほかのものの追随を容易にゆるしえないもの、すなわち作者の審美的態度と美観の徹底的なこだわりが行き届いた無二ともいうべき世界観を構成することに至る作品を描出せしめえるのは、それこそ本来的にあるとくべつな資質を必要とするものなのかも、もしかしたらしれないかなって、私は考えてるから。そしてその意味でいうなら、私は宮下未紀先生のような作風を主とする作家には、これまでほかに該当すべきあるだれかを想起しえたこともないし、たぶんこの人の紡ぐ世界の映し方はきっとこの人にしかできないのじゃないかなって感じてるから、その意味では私は迷いなくこの作家のファンだし、そして本作「マイナスりてらしー」についても、さらに洗練されてきた宮下先生の感性の結果を垣間見る思いがして、とても楽しく読ませてもらったって、いっていいと思う。‥本作は、おもしろい。ただこの独特の‥ユニークって言葉がこんなに適切な人も珍しいかなって思えちゃうくらい‥価値観の世界に馴染かどうかは、人によって種々異なってくることは避けられないことかな、とも思う。でもそれはこの作品だけに限ったことでなくて、この世に存在するあらゆる作品にもいいえることなのだから、あえて私が付言する必要もないかななのだけど、ね。ただ世界には、多様な美しさが満ち満ちてるというだけなのだから。」
「宮下未紀先生の商業作品はそれほど数が出ていたわけじゃなかったと記憶にあるけれど、本作はたとえば「ピクシーゲイル」のようにきわめて耽美的で閉鎖的な性愛の世界を優雅に描ききった秀作ととは少々異なった方向に向いた作品というべきなのでしょうね。というのも宮下未紀という作家はただ綺麗な世界を紡ぐだけの素質であるのではなく、その中には紛うことなき毒が秘されてあるのであり、それはこの「マイナスりてらしー」や「よくわかる現代魔法」のコミカライズにおいて、十分に発揮されているといえるのでしょうね。この、なんていうのかしらね、如何にも飄々としているというか油断ならないというか胡散臭いというか、とにかく奇妙でおもしろく、そしてそれなのになぜか颯爽としていて格好いいというか、そういった一種いうにいわれぬ愉快で超世俗的な作品を創りあげてしまうのは、まったくこの作家のなかなか奇抜で予想の遥か上を行くところのある魅力であるのでしょう。いやまったく、これほど全貌が摑みにくく、なのに麻薬のように中毒的な世界観を築ける才能というものは、いったいどういったことなのかしら。決して清涼ではないし、無難でも心休まる作風でもないのだけれど、しかしどこか高潔としていて凛としている緊張感に似た美しさがある。いやはや、どういったことかしらね、この人というものは。」
「本作の人物関係がまず突飛だものね。主人公の康光さんはもとは大資本家の由緒正しいお金持だったのだけど、今では全財産を失った着物姿の薄幸の少女で、それに幼少のころから付きあっててただならない信頼関係と愛情を共有することができるようになったメイドさんである常人離れした能力のもち主であり、さらには物語のキーパーソンである美晴さんは、彼女のことをだれより愛しく思ってる。‥そしてそんな康光さんの給食費を請求するために過程訪問に来たクラスメイトの委員長さんである武山さんがふとしたことから康光さんのとんでもない境遇を目の当りにしたことから本作ははじまり、このカオスな空間に果ては先祖のメッセージを金星から送り届けられたという理由のためにあらわれた巫女少女が降臨したとき、本作の一言にして説明しえない人間関係は、借金の返済といった実に人間くさいテーマを廻ってドラマを展開することになる。‥途中から何いってるか私自身もよくわかんなくなっちゃったけど、でもこの作品がそういった尋常でない人たちの手によって為される様は事実であって、この不可思議な人たちが世俗的な苦難と問題に直面してどう生きぬいてくのかなって成行には、ちょっとした興味を覚えてくるのはたしかな反応じゃないかなって、私は思う。そして最終的な局面で描出されることになるだろう、康光と美晴のつよいつながりを知らされたとき、本作の、なんていうのかな、おかしなだけでない、ある人間の高潔な精神性ともいうべきものが、もしかしたらひょっとしたら、うかがわれることになるのじゃないかなって、そうも私は思うかな。‥ちなみに私は金星の巫女少女がお気に入り。この子かわいいよね。食べものあればそれでいいやって人生観は、宮下先生の初期作品である「キスキュー」の健さんを思い起させる。‥といって、わかる人がいるのかどうかはわかんないけど、でも彼女もまた宮下先生お得意のキャラのひとりではあるのはたしかかな。この胡散臭い発言ととらえどころのない人生への向き方は、まさに颯爽とした奇妙な個性の発露以外の何ものでもないのだから。」
「胡散臭い美少女を描かせたら宮下先生の右に出る者はおそらくそうはないのでしょうね。‥ま、という言い方自体が少々あれかしれないけれど、しかしこの人の作風というものは実に独特であり、ほかでは得られないノリがあって、惹かれる人にはとてつもなくたまらないものがあるというべきなのでしょう。何しろガールズラブ専門の雑誌で借金で暴力団などと右往左往した漫画というものは、この宮下先生の発想なくしてできるものじゃ到底ないでしょうからね。いや本当に、愉快な一作よ。ラストの問題解決の方法のまったく予想だにしない方法で、これは一見の価値がありじゃないかしら? これほど問題大有りなオチというものも、はてさて、昨今そうは見ない出来でしょうね。お見事の一言よ。痛快な一冊だったかしら。」
宮下未紀「マイナスりてらしー」
2009/08/05/Wed
「それなり人気のある一冊ということでふとした興味から手にとってみたのだけど、内容の評価としては奇を衒わない順当な古典的ともいっていいくらいの予定調和のストーリー展開が中心を占めてて、物語の流れには安定した完成度を感じられてその点においては問題なく楽しめたかなって気がするけど、でもそれは裏を返せば無難なお話という以上のものはなくて、本作については私はとくに心惹かれるものはとりたてて何も見つけられなかった。‥ただそれならあえて感想を記しておく必要も見当らないかななのだけど、本作で少し気になったのは物語というよりむしろそのキャラクターの造詣の面に関してであって、というのも私がまずこの一冊を読み進めてみて違和感を覚えたのは、だれあろう主人公である京介その人にほかならなかった。彼は、なんていうのかな、一言にしてみれば、オタク的作品‥エロゲとかラノベとか、そういうの。もちろんこれら全体を乱暴に概括することは危険だし、正確な検討をする場合には「オタク的」なんてあいまいな言葉は安易に使っちゃいけないことなのだろうけど、でも本作品はそういった世間一般に流布するオタク像をストーリーの基底に据えてる節もあるから、ここでは「オタク的」という言葉をあえて用いておこうかな‥の典型ともいえる性格の記述が為されてるのであって、彼は彼自身の言葉を借りていうなら「無難でつまらない毎日だと言われるかもしれないが、『普通』でいるってのは、わりと大事なもんだ」という考え方をモットーとする人であり、それは何ごとにおいても無気力で人ととくに隔たることがなくて、そして自分自身を積極的に打ち出さないことを「平凡」だと看做してる類の人間だった。‥私が強烈に違和感を覚えるのはこういった無個性を旨として、自分の好奇心や関心をつよくもたなくある種の諦観をもった生き方の態度を「平凡」だと考えちゃうその思考の型であり、そして私が本作を捨ておけないのは、そういった考え方はもしかたら現代のオタク文化の‥そしてあるいは若者文化の‥あるスタンダートなのかもしれないって、感じられたから。‥ここはちょっと、むずかしい。」
「本作ではこの手のゲームの主人公が無個性的にわざわざ描かれているのは、プレイヤーがゲームに感情移入しやすくするためだと説明されているけれど、ならばそういった周囲の騒動に流されやすく、主体的な意志をもたずにその場その場の雰囲気と偶然だけによって自分の未来を預けてしまうような性格の人間に、現代の若者というかオタクというか、ま、大多数の人々は共感をもっているということになるのかしら? それはラノベやアニメの、ま、なんていうのかしらね、いわゆるハーレムものとか女の子がたくさん登場するような作品の主役の男の子は、概して受動的でとりたてて記憶に残るほど印象的な造詣をされていることが多いことからも、あるいはそうであるといえることなのかもしれないけれど、しかし個人的な気持を述べさせてもらえるなら、どうもその種の人間像にはなぜか共感をもてないのよね。むしろその無気力ぶりに呆れさえ感じることがあるくらいだし、はてさて、これはただ単に私たちの感性がずれているということなのかしらね。それとも、あるいは事情はよほど複雑なのかしら? さて、どうでしょう。」
『普通っていうのは、周りと足並み揃えて、地に足つけて生きるってことで。
無難ってのは、危険が少ないってことだ。
幸い俺の成績は、いまのところ悪かあない。このまま順調にいけば、わりといい大学に進学できるんじゃないかと思う。その先、将来どうするか――なんてのは、四年間のキャンパスライフを楽しみながら、ゆっくりと考えればいいことだ。
いまから慌てなきゃならないのは、そのやり方では就けない職業を目指しているやつらくらいのもんだろう。夢を追いかける――聞こえはいいけどな。それは『普通』じゃなくなるってことだ。危険は多いし、間違っても無難じゃない。少なくとも俺には向いてないね。
ま、子供の頃の夢なんて、とっくの昔に忘れちまったけど……強いて言うなら、平々凡々、目立たず騒がず穏やかに、のんびりまったり生きていくのが俺の夢ってところかな。』
伏見つかさ「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」
「こういった考え方の人がいてもぜんぜんいいし、基本的に私は他人の生き方には干渉しない。だから本作の京介のような人生観のもち主が一向にいても構わないのだけど、ただ私の個人的な感想をいわせてもらうなら、私は上記の引用したような意見には毛頭といっていいくらいに共感を覚えないし、またその京介の語る生き方が「平凡」であるとも、むしろ「普通」であるとも、少しも思えない。なぜなら彼の語る「平凡」という言葉は、まるで人が個人的な夢や興味、願いをもって生きることは危険が多くて「無難でない」という理由だけで否定する方向性をもつ類のものであることは一見して明瞭であるし、さらには彼は「普通」とは「のんびりまったり生きていく」ことだって定義してるようだけど、でも世間一般を眺めるなら、わかるじゃない、「のんびりまったり生きていく」ということがどれだけむずかしいことかということを。逆にいうなら、表面的には「のんびり」生きているように見える家庭でさえ、その内面はそれぞれの地獄を抱えてるってことが少なくないし、また「まったり」生きれるということは、それ相応に経済上の余裕が約束されてるから可能なのであって、それをぬきにした京介の「普通」論は、ぜんぜんふつうでない、あるとくべつの状態を指してるのだとしか、私には思えない。‥ふつうっていうのは、世間一般に普遍的に存在するだろう共通的な条件を意味するのかもしれないけど、けどそれなら「普通」の状態っていうのはね、「不幸」ってものだよ。そしてだからそれを知らずに「平凡」に生きたいなんてことを願ってる京介の態度は、私には、きつい言い方をしちゃうなら、ただの現実逃避にしか映らない。‥でも、もしかすると、こういった無個性で無気力な人にシンパシーを感じる人のほうが、ずっと多いのかな。でも、私にはわからない。私には京介のような人はわからない。わかろうとも、思わない。だって、私は私を問題とするほか、ないのだから。私には私にしかゆるされてないのだから。‥他人のことなんて、知らない。」
「本作の説くところの「普通」とは、何か「虚無」という言葉とおきかえても成立する気が、はてさて、少しするかしらね。そして京介のように平凡にまったりと生きたいと願うがために、周囲の様子に自己を常に最適化させていこうと画策する態度は、まったり生きることとはむしろ正反対で、巧妙に空気を読む狡猾な生き方であるとも、さてはいえるのかしれないでしょう。‥ま、それにしてもこの問題は難解ね。いつからこういった無個性で無気力なキャラクターが幅を効かすようになったのかしら? それを求めている一群とはどのような人々なのかしら? そしてどういった要因が、彼らにこういったキャラクター像を要求せしめるのかしら? ‥はてさてね。ちょっとこれは困難な問題よ。地道に少し考えていくとしましょうか。」
伏見つかさ「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」→
山本七平「「空気」の研究」
2009/08/04/Tue
「感心した。この悲劇性は素敵じゃない。というのも、まず今回のお話で何がよかったかなっていうと、真宵の素性に隠された彼女が実際にはもう死んじゃってるって点はともかくとしても‥ほんとのとこ、ひたぎが彼女の存在を近く知覚できてなかったって点に関しては上手い伏線かなって思ったけど、それをべつにすれば真宵がもう幽霊で彼女自身が是正すべきほかならない怪異だということは、前回までのストーリーの雰囲気であるていど予想できてたことではあった‥そんな一見してみれば奇妙そのものであり、救うべき対象というよりむしろ恐れるべき驚異であるはずの真宵を前にして、それでもなお彼女の悲しみを救おうとした暦の姿勢に求められるのは必至であって、彼のその目の前の気になる相手の助力になろうって態度は、もちろんそれ自体をとって検討してみるなら彼の裡に隠された欲求と、またその偽善性を非難することは可能なのだろうけど‥彼がただ単に無自覚的な善意の人でなくて、彼自身もまたそれ相応の悩みを抱えてる存在であることは、本作のさいしょから描写されてることでもあるよね。それはこの真宵のエピソードでも同様で、真宵の怪異に彼が接しえたのが、その規模は異なるとはいえ、本質的には真宵と同種の苦しみを現在の彼が味わってる点にあったっていう帰結は、本作の構成の美しさの端的な証左でもあるって思うかな‥それでもただ他者の助けに‥それが生者、死者の区別なしに‥なろうと努める彼の精神性こそは、怪しげでそんなに信用ならないキャラクターが多数を占める本作中にあって、彼が主役を占めるべき正当な理由を提供してるのだって、私はそう思ったかな。‥ひたぎじゃないけど、彼のよさというのはなかなか目立つ類のものでないけど、でもある得がたい美点を秘めてるものであるのはまちがいない。そんな彼に目をつけるのだから、ひたぎの人をみる目のたしかさというのはさすがなとこがあるかなって気もちょっとする。暦のような人は、たしかになかなかないものね。」
「怪異など放っておけばいいともいえるのでしょうけど、しかしもう生きてはいない者の心理と行動の背景を考慮することができ、そして自分以外の他者の視点に立って、その者の本心をしずかに把握しそれに適切に対処するというドラマの流れは、まさに正道な妖怪譚ともいえるのであり、その点でもたしかに暦は一面では妖怪物語である本作の中心に位置すべき理由を備えた人物ではあるのでしょうね。それにまたなんというのかしら、彼の思いやりというか、真宵の素性を知らされると瞬時に彼女の前後の発言に隠された意図を察し、それに対して親身のこもった対応をできるところを見させられると、まったくやさしさというものは想像力を量る尺度であり、想像力なきところにやさしさはないのだという事実を思い知らされる観があるかしらね。なぜならやさしさというのは単純に甘く丁寧に他者にふれればいいというものではなく、そこにはなんていうのかしらね、あるたしかな知性の力ともいうべき、相手の身の上に思いを馳せる真の想像力といったものが問われているのでしょう。その意味では暦は決して馬鹿ではないし、むしろ感心させられる面が多いかしらね。」
「吉行淳之介は男のやさしさとは熊の掌のようなものといってたけど、やさしさというのは実際世間に考えられてるとおりに女性的な美質でなくて、むしろその本質は一般に男らしさに分類されるべきものなのかもしれないね。というのもなぜなら、やさしさとはつまり相手のことを自分以上に優先して考えてあげられるという能力というふうにもいえるのであって、ならやさしさという能力を発揮するには自分を第一に考えるのでなくてときに自分を犠牲に処す必要性さえ生じちゃう類のものであることは疑えない。そしてそう考えると、やさしさはまったくエゴイズムの対極に位置するものであるのであり、自分の利害を排除した打算的な価値観とは別個な基準によって自分自身を統制しなくちゃ、とうてい人にやさしくあることは不可能になるよね。だからやさしさというのは、そういった理由によって、自己を省みないでそれでも自己の余裕を失わないでいられる‥ある種のゆとりなしで、他人のことを慮れる道理もないのだから‥強さこそが必要なのであって、その強さはあるいは人の名誉や世間的評価をいっとき傷つけちゃうこともあるかもだけど、でもそれでもただ他者のために‥たとえそれが益にならなくても‥尽せることができるということは、一種の驚異的な能力というほか、おそらくないのじゃないかなって、私は思う。‥ただ、そだな、もちろんそういったやさしさというのは世間には稀であって、なぜならそこまでやさしくあれる強さというのは得がたいものであるにちがいないし、それになんていうのかな、やさしさだけでは人は腐っちゃう。というのもただ他者にやさしくあるばかりである人は、単に自己の意思を有しないという場合も考えられるのであり、なら自分を保ちながらも他者にやさしく、そして自分を見捨てずいるということは、どんなにむずかしいことなのだろう。‥これは、ただまたべつの課題ではあるかな。そののち、ちょっと考えてみよ。そうしよう。」
「やさしさはエゴイズムではない。しかし単にやさしくあるばかりだと、それは自己本位が過剰に他者本意に変わっただけで、ただの便利屋と変わるところはなくなるだろう、ということかしらね。ま、やさしくあるということがどういうことを指す言葉であるかは、いろいろ考えてみるべき点がある問題といえるのでしょう。‥あとはそうね、今回の話で良かったことは、ひたぎがきちんと「好きになる努力」をしようと発言していたことかしら。というのも、これはまったくそのとおりだからよ。人というのは最初のころは情熱的に何かを好きでいられるし、それが好きということとの出発点ではたしかにあるのでしょうけど、しかし情熱はいつしか霧散するのであり、ならば好きなものを好きでいつづけるには、ある努力が必要となるものよ。しかし人は往々にしてそういった努力には無頓着であり、それゆえいつしか好きなものがこの世界にはぜんぜん無くなり、心が死んでしまうということが少なくない。であるから、ひたぎはなかなか賢い女性ね。こういった人もまたおもしろいものよ。暦とどう付きあって行くことか、では注目してみるとしましょうか。これからの展開が楽しみよ、本作は。期待するほかないでしょう。」
『我々の生活は一般にギヴ・アンド・テイクの原則に従っていると言えばたいていの者がなにほどかは反感を覚えるであろう。そのことは人生において実証的であることが如何に困難であるかを示している。利己主義というものですら、殆どすべてが想像上のものである。しかも利己主義者である要件は、想像力をもたぬということである。
利己主義者が非情に思われるのは、彼に愛情とか同情とかがないためであるよりも、彼に想像力がないためである。そのように想像力は人生にとって根本的なものである。人間は理性によってというよりも想像力によって動物から区別される。愛情ですら、想像力なくして何物であるか。』
三木清「人生論ノート」
→
true tears雑感 真心の想像力→
吉行淳之介「ぼくふう人生ノート」
2009/08/03/Mon
「小さな人間の傲慢な掌という題はおもしろい。私は一見してこのタイトルは錬金術っていう神の領域に迫るであろう技術を求め用いながらも、やってることは安易な感情に支配されがちな本作のある意味絶望的な状況‥それは実際的、物理的な意味でもそうだし、アルのような存在をいくらでも生みだすことの可能なテクノロジーの発達と、そしてそれが未来において普及しかねない現状というものは、広義の意味においてふかい精神的な危機も起ってるにちがいないって、私は感じる‥に対しての皮肉からつけたものなのかなって気がしたけど、ところが意に反して、この「傲慢な掌」はほかならない本作の主人公であるエド自身を指し示す言葉であったのであり、またそんなエドの姿勢をこの作品は肯定するつもりであったのだね。とすると、私はいくぶんこの作品について侮ってた部分があったかもって気がしないでもなくて、なぜなら私は本作がこの期に及んでまた通俗的な生命倫理の問題をもち出してエドの心理的葛藤の描写をまだしばらくは、ロス少尉の死という素材もからめて、進行するのかなって予感してたのだけど、それはまったく杞憂に終って、ぐだぐだ長引くどころか実にスピーディに物語を進行してくれたのだから、今回のエピソードは思わず私をして画面に見入らせるものがあった。‥うん、おもしろい。本作の魅力というのは揺るがない。これほど多様なキャラクターを短時日で矢継ぎ早に登場させながらも、ドラマが煩雑になるどころか返って奥行を広くしていき、また各々の人物に個々の背景と孤独な未来と現実に対するやむなき義務といったものを背負ってて、そしてそれを担いで生きて行かねばならない宿命さえ描写してくれてるとなれば、この作品はひとつの群像劇として比類ないレベルでまとまってる出来というべきかなって思う。すばらしい。」
「ロス少尉が故郷に別れを告げる場面は、原作でもはじめて読んだときはまったく印象深い良いシーンだと感じたものだったけど、こうしてアニメで毎週連続して本作のドラマの流れを追って味わってみると、また別種の趣があると感じるかしらね。というのもロス少尉というのはかつてエドの独断専行とその短気を戒めたこともある、実にこの世界における一般常識と私たちにもよく共感しうる類の倫理基準を備えた人であったのであり、そんなある意味ではまちがいなく真っ当な人間である彼女が、不慮の運命の運びとしてこのような仕打ちを受けることになろうとは、よもや予想だにしてなかったことだから、その衝撃というのは他のキャラクターに起きた悲劇よりも、より一層親身に思われる面があるといえるのでしょう。なぜならこれがアームストロング少佐に降りかかった災いであったなら、ここまで悲壮な雰囲気は出ないのでしょうからね。平凡なロス少尉であるからこそ、本作のドラマ性というのは生きるのよ。彼女の強い姿は、ただ美しいかしら。」
「傲慢な願いであろうとそれが現時点での偽らない自分の本心であるからっていったエドであったけど、でもその決意がどれだけ過酷な将来を彼に負わせることになるかは、その考えをみんなに語ったすぐあとに、まったく運命のいたずらとしかいいようない出来事によって故郷と両親をさえ失わなくてはならなかったロス少尉の描写からも、十分に察せられることじゃないかなって私は思う。だから「傲慢な掌」というのはいい得て妙で、なぜならエドの手のひらこそはこれまで幾度に渡る傲慢さの象徴でもあるからなんだよね。それは一つひとつ順を追って見てくなら、まずその手とは両親を自然の摂理に反して再創造しようと試みた手であったのであり、またその代償として生身としては失われた手でもあって、さらには罰を受けながらもそれでもさらなる望みを抱いて再度大地を踏みしめ生き抜こうと決心した彼を支えるべく人工的に創出された機械の掌という、人間のある意味では欲と反自然的な思想の結晶であるオートメイルで形成されたものでもある。そして自然を思うがままに再構成し使役する術を実際に発動させる要でもある。‥だからそうやって考えてみると、エドの掌というものはまさに人間の、エドという人間の傲慢さの端的な象徴であるのであって、今回彼が為した決断とは、その傲慢さを丸ごと肯定して生きてくということでもあったのじゃないかなって気が私にはした。‥エドはもう戻れない。前へ前へと進んでく。それがどこにつながるかわかんないけど、でも一視聴者として、私はその姿をさいごまで追ってこうって思うかな。どうなることか、しずかに見てゆこうって思う。私にはそれしかできないから。」
「エドがもう後戻りできないのは、彼の傲慢さが彼だけの傲慢さではないからなのでしょうね。というのも彼の掌には、彼が生き返らせて殺した母親の跡があり、弟への拭いきれない贖罪の影があり、彼を支える少女の思いがあり、また死んでしまったヒューズとその家族の願いがあって、さらには彼の周囲にいて彼に親しくしてくれている人々への信義がある。ま、だからもうエドはエドだけのものではなく、彼は多くのものを背負った単独では存在できない存在、いうなれば、そうね、大人になったというべきなのでしょう。今まではどこか子どものわがままさをもち、それが幾分許されていた節があった本作だけれど、はてさてここからは、もしかしなくてもそうは行かなくなるのでしょうね。ま、じっくりと確実に成長していくエドの軌跡をこそ、楽しみにさせてもらうとしましょうか。次も実に楽しみよ。どうなることか、期待ね。」
2009/08/02/Sun
「あれ、よくわからない。何がわからないかなっていうと、jiniについてがよくわからなくて、今回のお話はつまりjiniが誤作動を起してその影響としていくつかのプールの水量などに関するトラブルが発生して、それをこよみたちが解決する‥という認識でいいのかな? でもjiniというのは今回のおまけのコーナーでもふれられてたとおり、機械の機能に仮想的な人格を与えたものにすぎなくて、それ自身はとるに足らない発言をくり返しあたかも自意識のあるようなふるまいをみせてるけど、でもそれはあくまで魔法が物体に一見して人格の如きものを与えたためでしかないのであり、ならばjiniそれ自体には自意識のようなもの、要するに意志なんてものはないと考えてまちがいないのじゃないかなって、私は思う。‥でもそれだと今回のお話がそもそも意味不明になっちゃうのであり、というのももしjiniが今回の厄災を引き起したとするなら、それはそうするように何ものかがプログラムを組んだからにほかならなくて‥あくまでjiniが物体に仮の人格を張りつけただけのなんの意味もないものと解すなら‥ならばこのエピソードのアクシデントの真の原因とは、今回だけのお話じゃぜんぜん問題ともされてないということになっちゃうのじゃないかな。‥うんと、でもそうはっきりつよく指摘できる自信も実は私にはなくて、それはなぜなら私がそうとうこの作品を読んだのがむかしのためだからであり、本作についての正しい知識を保有してないからにちがいなく‥それに私がそんなにこの作品で描かれるようなコンピュータ関連の知識に精通してるなんて、そんなことないものね。それはこのブログの性格をみるなら、大方、予想されることだと思うし、その意味ではたぶん私の立場はこの作品におけるこよみそれとあまりちがいがないということにもなっちゃうかな。少なくとも嘉穂のようなふるまいと行動は、私にはぜんぜん無理‥だから時間があったら、もう一回くらい本作を読み返すことは理解をふかめるうえでは必要なことなのかも。‥でもうん、ちょっと、困っちゃった、かな。話の筋がよく理解できなくなっちゃった。根幹部分の設定を承知してないけど、この手の作品はきびしいね。」
「時系列がシャッフルされていると余計にストーリーの前後関係を追うことが困難に感じられてくるかしらね。それにjiniの話がメインに描かれるのは4巻という原作でも終盤に差し掛かる頃合のものだし、ここからラストの5巻の展開に赴くのであって、このアニメの序盤のときにかならずしもjiniを描写しておく必要性があるかは、ま、その意味では率直にいって疑問といわざるをえないのでしょう。それに加えていうなら、本作のストーリー展開というのは決して分りやすい描かれ方をしているものとはいいにくく、なかなかどうしてもって回ったそのドラマの構成の仕方と登場人物が入り乱れる作風の特徴は、どうも読み手にけっこうな負担を強いるもののようにも、はてさて、思われるのよね。もちろんそれは読み応えがあるという面では評価すべき部分ではあるのでしょうけど、アニメで、おまけにストーリーの順番がまったく予想できないとなると、これはどうもマイナスに捉える向きが強くなるのもやむなきといったところかしら。ま、困ったものかしらね。」
「そこらへんのいわゆるラノベの切り詰めた文章で紡がれる物語といったものは、一見してみれば文章量が少なくて、さらに改行も多くて、よくいわれるのは赤川次郎的ということなのだけど、そういった種々の特徴は読みやすさ、気軽さといった点においては多くの人の好評を博することになったのだと感じるけど、でも言葉が数少ないということはいってみればそこに表層的にあらわれる情報量が限られてるということでもあり、なら本作のように複雑な設定と背景理解を読者に求める作品においては、一概に気安く手にとれるといったラノベのスタイルはプラスには働かないのじゃないかなって気も少しするかな。‥ただこれは単純に初期の「現代魔法」といった作品が、文章の妙味という点においては構成力がそれほど優れてなくて、ために物語の展開を理解することが困難にされてたのかなって思いもあるし、実際その影響が大なのだろうって考えるけど、でも先ごろ出たnew editionにおいてはその欠点がずいぶん改善されたように思われ、その意味でも原作のこれからは大いに期待すべきものがあるように私は思うかな。しかし対してアニメのほうはとなると、原作初期のわかりづらさといった面がよりよけいに色濃く出ちゃってる気がして、本作の背景にある重厚なロジックが、まったく重荷としか機能してないように思えるのが‥つまり萌えを描く要請の部分の負担として、という意味‥ちょっと残念にも感じられるかな、と思う。‥これからどうなっちゃうのだろ。まだまだ期待してるけど、現代魔法がんばって。おもしろくなるはずなのだから、たぶん。期待する。」
「ま、映像化するにはそもそもあの独特のコードによる魔法をどう描くのかといった問題もあったし、元来からしてアニメにするにはそれほど適した素材でもなかったのかしれないかしらね、この作品は。‥それになんていうか、やはりというか、キャラ描写の点に関してもあまり各キャラクターがしっくり理解されて描かれているようにも感じられない部分がこのアニメ版にはあるのであり、今のところはどの人物も物語を動かす駒としてしか、ま、きつい言葉になるのでしょうけど、思えないのよね。‥ただそうね、それは原作においてからがそうであったという意見も可能でしょうし、それが是正されたのは、つまりキャラクターが真に魅力ある人間として受容できるようになってきたのは、おそらく宮下未紀によるコミカライズとnew editionからなのでしょう。その意味ではあのコミック版はとてもいい出来だし、小説の新たな展開も十分楽しみとはいえる。‥が、しかしそれならアニメはどうなるのかしら。とりあえず今のところははてさてとしかいえないでしょう。まだまだ先はあるのだけれど、現時点ではどうも微妙といわざるをえなく、その点は少々残念な感じは免れないかしらね。けれどもともかく、ま、次を待つとしましょうか。どう展開していくことか、とりあえずは静観よ。」
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桜坂洋、宮下未紀「よくわかる現代魔法」1巻
2009/08/01/Sat
「作品のクオリティという面に関しては本作ほど信頼に足るものもないように思われるし、その意味では本巻でも期待以上のドラマ性の高さといったものを十分に味わわせてもらったのだけど、本作中に描かれたエピソードの盛りあがりの高さとその高揚感がもたらす興趣を存分に感じるにつれ、長いガンスリの物語もいよいよ佳境に差し掛かってこれから先はただこれまで張られた伏線を収拾してくのみなのだろうってしみじみと思われて、その部分では感無量といった気がされた11巻の内容だったかな。‥まずこの巻で第一に注目しなきゃいけないように思われるのは、何をさておいても冒頭を飾るベアトリーチェといった特異な少女のその感受性についてであり、というのも彼女は異質な境遇と苛酷な環境に生活していかなきゃいけない立場に立たされたためだろうと思われる儚く繊細な感受性と鈍く一般的規範を欠いたきわめてアンバランスな精神をもってる義体の少女たちのなかにあっても、とくにその他者に自身のことを積極的に語らない姿勢と‥それは担当官であるベルナルドが饒舌であるのとは対照的‥どんな状況にあろうとも顔色ひとつ変えない静的な雰囲気から様子をつかみにくいキャラクターであったことはまちがいのであって、そんなベアトリーチェがこの作品の山場というもいうべき11巻において、主要な活躍を果すことになったのは注目していいことかなって思うから。‥死を恐れない、何が楽しくて苦しいのか、そういった感情を一切覚えたことがないと独自するベアトリーチェの相貌は、もしかしたら義体というものの本来想定された理想を示してるのかもしれない。ただだけど、私たちはこれまでのガンスリの物語において、大人たちの目指すとこの純粋な機械人形としてもともと生きた少女たちを使役することが、如何に困難な目標であるかを認識させてこられたのであり、その余波はまちがいなくこのベアトリーチェにも及んでいたのであって、表面上は義体の職務をその基本的な設計において果したかに見えるベアトリーチェだったけど、もしかしたら彼女の心にはある変化が萌してたのじゃないかなって思わずにはられないいくつかの描写が留められてることが、私には11巻で描かれたドラマにふかく陰影を放ってるように感じられてしかたない。だってベアトリーチェのだれにも語らなかった心中の思いこそは、この作品のテーマそのものの発現の片鱗のようにも感じられてしまうから。」
「ベアトリーチェの変化というものは、この作品においては実に微妙なニュアンスで描かれるに留まっているのであり、その微細な移り変わりを追うことは、少々厄介な仕事でもあるのでしょうね。ただしかし順を追って見ていくと、ある程度の外観をつかめるように思われて、まずその第一としてはクラエスによるトリエラに対する彼女のちょっとした認識の変化が挙げられるのでしょう。作中においてはクラエスはトリエラは皆に生き伸びることを求められている存在だと教えられる。そしてそれは死を恐れないというよりむしろ死という概念を上手く自分のなかで受容することができないベアトリーチェにとっては、ひとつの新鮮なおどろきであったに相違なく、ならばベアトリーチェにとってトリエラとは、ひとりの自分とは対極に位置するシンボルとして捉えられる存在だと規定してもそうまちがいではないのでしょう。であるからこそ、彼女が終盤身を張って命を散らせながら奮闘する様は、自分とはちがう存在であるトリエラを守ろうとした、ひいてはトリエラが担うこの世の価値とでもいったものを保護しようとした行為ともとれるのであり、彼女の最期は、だから非常な悲痛を読者にもたらすことになるのでしょうね。この一連の描写は、お見事の一言よ。」
「人の心がもろく不安定なものと解する本作においていちばんだれよりもこの世界の安定しなささと絶望によって慄かされてるのは、実は義体の少女たちでなく彼女たちを手駒にする大人たち自身にほかならないであろうことは、この作品の本流がジャンとジョゼの復讐の物語であろうことからも察せられることにちがいないのだろうし、またそれは悲劇によって不安に揺れる心を復讐を果そうとする願いとそれを維持する憎しみによって自己を支える彼ら兄弟にとってみるなら、なんとも痛烈な皮肉としかいいような言葉であるのかもしれない。‥憎悪というものは常に過去に根ざすものかなって、私は思う。なぜなら人は未知の権化たる未来に対して不安を感じることはあろうと、つよい執着としての憎しみを向けることはその原理として不可能なのであり、ならば憎悪が目指すものは疑いなく過去なのであって、その過去とはつまり自分自身によってつよく糊塗されつづけてる記憶であるにほかならず、それなら憎悪により儚く醜い現実を生き延びようと画策することは、それ自体が過去へのひどい耽溺と依存であるといえるのかもしれない。そしてだからこそ、ジャンは己の復讐を持続させるためにフィアンセを見舞うのであり、ジョゼは過去を投影する対象としてしかヘンリエッタを愛することは、求めることはしようとしない。‥でも、そうやって彼ら向けつづける過去の投影として他者は、決してそれ自体が過去そのものになることはなく、彼女たちはあくまで現在そのもの、感情をもったひとりの個人であるのであり、ヘンリエッタの変化、そして復讐の第一の失敗が今後彼ら兄弟の心理にどのような変化を来すかは、ただ注目してみねばならないことかなって、私は思う。‥たぶんここから先が本作の本番なのだろうって気がするかな。楽しみにしたい。どうなることか、見届けたい。今の気持は、それだけかな。」
「クローチェ兄弟が過去に縛られつづけ、その過去を己のうちでなんとか処理することだけを目的として今生きつづけているだろうことは、もはや確定的なことなのでしょうね。そしてそうやって見ていくと、トリエラの生き方はつまりそのような大人たちと対照的なものであり、彼女は未来に生き延びることこそを今の自分のアイデンティティとしているのよね。さて、とすると、このちがいは存外に大きいのでしょう。なぜならこの作品に登場する大人たちとは、その大部分が過去に深い辛酸を舐めた者ばかりであり、その意味では生きることは傷を負うことだと十分に理解している。もちろん傷を負うことがどういったことであるかを、トリエラもまたよく承知しているのでしょうけど、しかし彼女が相違している点は、なんていうのかしらね、希望を未来に懸けることをあきらめないという思想にあるのでしょう。そしてまたヒルシャーはそれを信じようと決意し、根本的な変化がこの二人には訪れたように見えるかしら。‥ま、その意味でもこれからの展開が楽しみといえるでしょう。では次巻を楽しみに待ちましょう。どうなることか、ただただ期待よ。」
相田裕「GUNSLINGER GIRL」11巻