2009/09/29/Tue
「素敵な作品だった。1クールの原作付アニメで、ここまで高いドラマの完成度をみせた作品は、私のそれほど多くないアニメ鑑賞の量のなかではそうなかったのじゃないかなって思われるくらいに、本作の正道ともいうべき古典的なドラマのあらすじは、それ自体はとくに凡庸と呼ぶべき代物で目新しい点は何ひとつなかったといっていいのだけど、でも細部に至るまでていねいに演出されたその世界観と、そして本作の何よりの魅力であった活き活きとしたキャラクターたちの実際にその場をがんばって生きてるって感覚によって、この作品をとても魅力的にすることにこのうえないほど成功してたと私は思う。というのも本作はそのテーマ性、キャラクター、そしてドラマ性と、この三つが過不足なくいい塩梅に成立した稀有な作品なのであり、一見して派手でなくて目新しいセンセーションを呼ぶ要素は見当らないのだけど、でも作品の実質の部分、そのポテンシャルは比類ないくらいのものだったのじゃないかなって、私はそう賛嘆を惜しまないかな。‥こんなにおもしろいアニメ作品は久しぶりだった。こういう作品がときおり出るのだから、アニメというのはわからない。飽きることなくアニメを見つづける意義があるというものかな。それを実感させてくれた作品だった。」
「物語は大正ということで、事の発起人である晶子が許婚に男尊女卑の当時としては当然であったろう価値観に反発するところから本作の物語は始まるのよね。この物語のスタートはなかなかおもしろいのだけれど、というのも当時にあっても、そしておそらくは現代でも見受けることのできる価値観ではあるのでしょうけど、女性は家庭に入るべきであり男性のする領分に下手に深入りするのはけしからないといった思想に対して反発するというのが、本作のそもそもの発端であったのよね。その意味では時代背景も絡めて非常にむずかしいテーマともいえるのでしょうけど、この作品のすばらしいところは、女性が男性に台頭になるために戦う舞台を、野球というスポーツに選択した部分にあるのは明白なのでしょう。これは新鮮だったかしらね。そして潔いのよ。なぜなら正々堂々、下手に言葉で逃げることのできない世界を、彼女たちは男性と対等になるために選んだのだから。これは爽やかでもあるのよ。」
「女性が不等な差別を受けてるからそれを是正しなきゃいけないとかいう話題になると、すぐにフェミニズムなりなんなりの思想が出てきて、問題を徒に複雑にむずかしくしちゃう傾向があるものだけれど‥たとえばこんなの(→
イプセン「人形の家」)とか‥本作はあえてそういった小難しい理屈を放っちゃって、スポーツっていうその結果が明白で、また努力が個々人の価値を決定する場を選んだんだよね。‥これは勇気のある決意だと思うし、私は彼女たちが下手に難解で抽象的な世界に入ることなく、真正面からただ腕っ節のみで事の成否を決めんとする姿勢をとったことは、とてもかっこいいことなのだと思う。晶子のようにみずから退路を断ち、実践の場において、堂々と、果敢に、自分の思想の正しさを力でもって‥対等なルールのもとに、というのがもちろん肝心。そうでなかったら、それはただの暴力に墜しちゃうものね‥証明しようと試みたことは、本作の見逃してはならない重要なメッセージ性でもあったのだって、私は思う。‥本作の魅力は、だから以上のような舞台の設定に注目してみても興味ふかいものがあることは了解せられることと思うのだけど、でもそういうことは抜きにしてみても、ただこの野球をする櫻花會の愛らしい姿を見守るだけで、この作品の魅力というのは理解されることにちがいないのじゃないかなとは、私は思うかな。‥こんなに素敵な人物たちを描いた少女活劇は、ほんとにしばらく見なかった。またこんな作品があらわれたいいなって、心から思う。」
「キャラクターを魅力的に描くことが作劇の基本であり肝要なことであるとはありふれた文句でしょうけど、本作ほどにその要訣を徹底した作品はそうはないでしょうね。というのも、なぜこの作品の少女らがこうも可愛らしく映えるのかと考えれば、それは彼女たちがそれぞれ独自の考えと意志をもった存在で生きているのが画面から感じられるからであり、彼女たちが血が通った一個の人間という存在であるということが、よく見て取れるからよ。それは本作の演出のレベルの高さを証すものでしょうし、彼女たちのドラマがこれまでと思うと、少々悲しい気持がしてくるほどのものかしらね。まだいろいろ、この子たちの振舞いは見ていたい気がするかしら。なぜなら彼女たちほど明るく青春の様相を示してくれた存在は、そう記憶にもないほどであったのでしょうから。」
2009/09/28/Mon
「私という人間はたぶんひたぎという人物にはもし実際遭遇したとするならまったく性格も反りもあわないのじゃないかなって予想があるのだけど‥無意味な仮定の話とはいえ、私がアニメなり小説なりを読み解くとき、その感想なり評価なりのひとつの指標としてるのは、作中描かれてる人物とこの私とは、果して会話ができるか否かどっちかなっていう部分だったりする。それは私が会話ということを人間関係を形成するうえで大切な要素のひとつと看做してるからであり、だれかといて楽しいと人が表現するとき、そこでもっとも問われてる鍵は会話の成立如何なのじゃないかなって、そう私は思うほどでもあるから。そして読書とは著者との会話であるとよくいわれる言葉にもあらわされてるように、私はアニメにしろ漫画にしろ、作品鑑賞の醍醐味はそれを創作した人間とほかならないこの私とが一対一の関係を結ぶ点にあるのだって思ってる。だからその意味でも、会話というのは生きてくうえで重要なものなのじゃないかなって考えるかな‥それじゃなぜ私はひたぎをどことなく迂遠に思っちゃうのかなと考えると‥といっても、もしかしたら視聴者のけっこう多数は、同じくひたぎとマンツーマンで接したいとは思わないかもしれないけど‥それはひたぎは自己の本心を容易にさらけ出さないから、というより、自己をあまりに素直に表白するがために、返って彼女の存在が異質に思えちゃうから、なのだと思う。‥ひたぎって、なんか衒わないものね。ううん、もしかしたらそれは暦の前だからとくべつになのかもしれないけど、でもそんな彼女のあけすけさは逆に彼女に他者が容易に近づくことを妨げてる原因のような気もする。だって、人は仮面で人付き合いするものだものね。本音なんて、べつに要らないのだから。」
「それにひたぎは自己の感情を隠したりすることもなく、ストレートに表現する気質の人だからなのでしょうね。彼女のように物事の機微を無視し、ある面強引過ぎるくらいに自分自身を主張する人は、集団の和を尊ぶという観点からは明らかに扱いにくい性質の人間であり、その意味では彼女が下手な争いを避けるために孤立を選択していたというのは、ま、暦と出会う前の彼女なら、賢い判断だったといえるのでしょう。そしてそんな彼女を振向かせられるのだから、暦という人間も奇妙なものかしらね。‥彼はなかなか、ここまで話を見てきても、分らない人かしら。単純にできているけどけっこう底知れない。それが魅力ではあるのでしょうけど。」
「今回のエピソードはおもしろかった。というのもその理由のひとつとしては、ひたぎという人間が本心では自分のことがあまり好きじゃないんだなって、そのことがよくわかる内容だったから。‥ひたぎは自分のもってるものはこれだけと執拗にくり返す。そしてそれらはある観点からするなら厳密に彼女の持ち物だといえるはずもないものもあったのであり‥星空を大切なものと呟く彼女は、美しくもあったけど、とても空虚なものが感じられた。それは彼女にとってあの星空が意味するものが失われた家族の幸福という象徴であったからであり、その意味では彼女は失くした過去の残滓ともいうべき綺麗な空を、たったひとりの恋人である暦と共有したことになる。それは迂遠な、彼女の偽らない感情の告白でもあったのかな‥彼女は実際自己嫌悪の塊のような人で、利他的な善意を無意識にする暦の存在は、だからまるで彼女と似て似つかない性質の人とさいしょは捉えられてたのだと思う。でもそんな彼女が自分の醜さと弱さをさらけ出したうえで、なおそれでも隣にいてくれた人が暦であったと語るとき、暦の存在はひたぎにとってある意味恋人とは別種の意味性をもつに至ったにちがいない。‥それは私が生きることに対して、無条件のやさしいを肯定を与えてくれる、真に家族的な愛情の証拠でさえあったのだった。」
「大人になるにつれ、人はいろいろな目標や期待といったものを自分の人生のうえに組みこむようになるのであり、それらは健全な意味で機能するなら夢や希望といった言葉によってあらわされるのでしょうけど、しかし一転してそれが否定的な価値を帯びれば、呪縛や重荷として認識されてしまうものにちがいないのでしょう。そしてひたぎの場合、彼女の母親が彼女に課した期待は、まさに彼女にとっての十字架ともいうべきものだったのであり、それをされた時点で彼女は自身の弱さと罪のようなものを感じ取ってしまったのかもしれないかしらね。また、であるからこそ、暦の限りない善意といったものは、彼女の感受性にあるすばらしい意義を与ええたのかもしれないし、ひたぎと暦がこの先どう生きていくかは、はてさて、少し興味がある部分かしらね。なぜなら幸福なやさしさというものを、暦は見せてくれるようにも思えるのだから。」
2009/09/27/Sun
「今回の「ひとひら」のお話は脚本をなかなか仕上げられない木野さんのスランプとそれにまつわるちとせの右往左往を描いたほほ笑ましいエピソードで、ちょうど本家「ひとひら」の外伝作品としての性格である本作のなかでも、とくに息抜きとしての意味あいがつよい楽しい一話だったのじゃないかなって私は思う。ちとせや麦ちゃんの日常風景をわずかな場面から垣間見るのはそれだけでファンの私としては楽しいことだし‥とりわけ受験部長に励むさちえの姿には笑っちゃった‥平穏な部活風景がつづいてることを示唆してくれる画面は、実に和やかな情調に満ちてたものと思う。‥ただ、そだな、ほんのちょっとだけ今回のエピソードにふれて私自身の経験のなかで想起されたことは、何か物語をつくる、小説を書くといった創作にまつわるスランプに関することのほうで、というのも私は今のようになんだかよくわからないくらいブログを書くようになるまでは、ずっと小説を書いてた人だったから。‥実際、私が小説を一作考えて書いて、また間をおいて書いて創作ししてた期間は、私がブログをしてるこの4年間よりも長いものだったし、その意味では今回のお話で執筆に悩み、また作品の完成に一喜一憂する木野さんの様子は、何がしか郷愁を思わせるほど、自身よく馴染んだ感情を露わにそして象徴的に示してくれてたのじゃないかなって思うかな。‥もちろん今の私は小説を日常的には書いてないし、何か物語を個人的に紡ぐということに、あまりに消極的になってることは疑えない。それはこれまで一心に小説を書いてきた反動なのかもしれないし、あるいはまたべつな意味あいがそこにはあるのかもしれない。‥それが何かなっていうと、これはちょっと私としてもいいにくい部類の事柄かなとは思うけど、ね。」
「小説を書くというのは、ま、ある作品の二次創作をちょっと物してみるといったレベルから現実に作家を目指し習作を積むといった段階まで、多様な形態が想定されはするのでしょうけど、しかし数年小説を書いては書いてをくり返してきた身からすると、小説というものを想像したいという人の欲求というものは何に根ざしているのかといった疑問は、なかなか解きがたい問題を提供しているようにも思えるかしらね。もちろんこれは何も小説に限ったことではなく、単純な意味ではこの手のブログを運営する欲求は何かといった事柄にも絡んでくる疑問なのでしょうけど、ま、上手い答えは見つからないものかしら。‥なぜ、小説を書くか。自己表現したいのか。ま、はてさてといったところでしょうけど。」
「ただ自己表現したい、自分のなかのいいしれない衝動を作品として形にしたい、といった欲求の純粋なあらわれとしてその創作行為があるのなら、それはまだしも平和といった創造行為というべきなのだろうね。‥でも実際は、人というのは何かを表現したいからって純一な動機から物事を為すということは少なくて、それがどんな行為であれ、人のすることには、意識的あるいは無意識的を問わず、さまざまな要素が影響しあってるのであり、その連関は何年も長くつづければつづけれだけ、やってる個人にある無言のしがらみを与えるものではあるとは、果していえるのかしれないって、そんなことを私は思うかな。‥たとえば小説家になりたいって夢があったとする。そして人はその夢を叶えるためにする努力ないし営為を、アイロニカルな意見をあえて口にする野暮な感性のもち主でない限りは、応援したいって、素直に思う。‥ただしかしむずかしいのは、そういった当初は純粋な夢もしくはあこがれとしてあった対象に対して、個人はいつまでもそれを単なる「夢」と保持できるわけもなく、いつのまにかその理想はその個人を無自覚的に拘束する、ある種の「呪縛」として機能するようになる。そしてそうなったとき、夢は夢でもはやない。それは鎖であり、もしかしたらただ醒めることをばかり願うような悪夢でさえもあるかもしれない。‥それはひとつの、恐怖かも。」
「夢というものはその理想の姿を保ちつづけるものでもさてはないというところかしらね。ま、もちろん夢というものはあって当然いいだろうし、多くの人がこれが自分の夢だと確言できるほど強固な目標としての夢はもっていなくとも、何かしらの漠然としたあこがれのようなものは保持しているものでしょう。しかし、そうね、その種のあこがれというものは、多くの人は実際単なるあこがれとして消費してしまうのであり、それを現実に叶えようと努力する人はほとんどいない。そして努力する人にせよ、その当初抱いていた夢が、夢そのものの肯定的な意味あいをいつまで保ちえるかは、果して定かではない。さらにいうのならば、夢と個人の幸福とは、イコールで結ばれる関係性ではさらにない。‥はてさて、なんかナイーブな話になってしまったかしらね。こんなこと話すつもりはなかったのだけれど、ま、こんなエントリもありといえばありかしら。一応残しておきましょうか。少し後味が悪いけれど、致し方ないことね。はてさてよ。」
2009/09/26/Sat
「1巻の感想をあげたときにいくつか有効なアドバイスを受けたこともあって(→
葵せきな「生徒会の一存 碧陽学園生徒会議事録1」)、本来だったらさいしょの巻を読んだ時点でもうつづきを見る必要はないかなって感じられたのがこの作品に対する私の正直なファースト・インプレッションだったのだけど、物は試しに、そしてあるていどの興味をもって、2巻をさらっと通読してみた。そしてその感想はというと、たしかに作品全体の構成が粗く、気楽なコメディを謳ってるわりにはその語らんとするところの啓蒙的なスタンス、本作のある意味これ見よがしな倫理的主張はだいぶ鳴りを潜めたようにこの2巻目は思われたのであって、その点ではたしかに1巻より2巻のほうが、単純な作品の完成度という意味においては高いレベルでまとまってたと思う。‥本作は基本的に短編集という形式でいくつかのエピソードが収録されてて、本来なら個々のお話にあるていど言及すべきかなって思われるけど、でもこの2巻目に限定していうなら、あえてふかく検討しておきたいものというのはとくになかったって、私は感じる‥それはあえて何ごとかをいうべきじゃない類のお話、毒にも薬にもならないエピソードが本作の内容だということ。そしてそれは決して悪い意味でいうのでなくて、むしろそれを作者自身が明らかに企図してるのが、もしかしたらこの作品のもっとも興味ふかい部分ともいえるのかもしれないかな‥。それより私はこの2巻目にふれて、あらためて見えてきた本作のコンセプトのほうに、より注目してみたい気持があるかなって思うかな。それは何かというと、つまり本作はきわめてモラトリアム的な欲望のうえに成り立った作品だということ。永遠の幼児性を、意識的にしか無意識的かによらず、意図してるということ。」
「モラトリアムという言葉はあまりに手垢にまみれた感じがしてあまり積極的には使いたくないのだけれど、しかし本作がまったくその種の青春期というか、ま、学生時代の空虚さを肯定的に捉えていることは明らかなことなのでしょうね。それはいくつかのエピソードで登場人物たちがみずから証言しているところであるし、何も創造的なことをせず、努力することもなく、ただ無為に時を過すことをこの作品のキャラクターたちは尊重している。そしてその現状の余裕ある生活の価値をお互いに認めているところは、なんだか高校生たちの考えというよりは、成熟した大人のそれを思わせられて、どうにもアンバランスな感じもするかしらね。なぜこの作品のキャラクターたちはこうも達観してるのでしょう。不思議なものね。」
『だから、私はこのままがいいな、アカちゃん。変に……無理して、新しい何かを作り出そうなんてしなくて、いいんじゃないかしら。いえ、作るのが駄目ってわけじゃないのよ? ただ……」
葵せきな「生徒会の二心 碧陽学園生徒会議事録2」
「モラトリアムを尊しとする、何もしなくて何もできなくて、ただ不安と希望の入り交じる未来を胸に抱え、千篇一律の退屈な日々のなかを過ぎ行くしかなかった学生時代をふり返る大人の視線が、遥か過去を想起する今ではもう子どもの心を幾割か欠落した大人の哀しみが、ふと私には本作の隙間に少しだけ感じられる。そしてその作者の視点は作者自身にもあるいは自覚されてないことかもしれないし、この作品はほかのアニメやゲーム作品に見られる、変化しない楽しい学生生活の永遠の反復というテーマ性を、もしかしたら現在もっとも端的に切りとった作品であるのかもしれないかなって、そんなことを私は思ったかな。‥それとあとひとつだけ、本作を読んで受けた感想を記しておきたいのだけど、それは会話というものはその会話を為す集団内の「空気」の前提をよく理解したうえでなきゃ、とても傍観者として楽しめるものではないって事実なのだよね。というのも、本作で延々と展開される各種のオタク的会話を楽しめるのは、そういったオタク文化に精通した人に限られるのはたしかなのだもの。そうでない人には、つまりオタクの文化にまったくたしなみのない人には、本作はまるで理解を拒絶するにちがいない。その意味で、なかなか象徴的な一作であるかしれないかな、この生徒会シリーズは。」
「オタク文化によく馴染んだ人か、あるいはそういったオタク文化にある種のあこがれを抱いている人でないと、この作品に描かれている会話の妙味は分らないであろう、ということかしらね。ま、実際のところ本作で描かれているオタク文化といったものも、相当片寄った部分に限定されているのは明らかでしょうし、これらを楽しめるのがどの層の人々かということを調べてみるだけでも、現今のオタクの状況といったものがほんの少し明らかになるかもしれないのよね。そしてそういった観点から見るなら本作はなんともあざとい作品であるのでしょうし、そのあざとさを自覚的にやってる分だけ、良心的であるともいえるのでしょう。本作は、良かれ悪しかれ、潔くはあるのだから。」
葵せきな「生徒会の二心 碧陽学園生徒会議事録2」
2009/09/25/Fri
「雑誌を移籍してから俄然おもしろくなってきたように私には感じられる純真ミラクルだけど、今回のお話も期待にそぐわず、十分に堪能できるよいエピソードだったと思う。というのも、何より現在のこの作品を盛りあげてるのは新しく登場した末澤さんってキャラクターであるのは明白なのであり、彼女はこれまで人間関係に対して臆病で、あるいは奥手な人たちが主要だった本作の人物の相関図に対して、唯一主体的に、そして意図的に行動してる人間であるのであって、その自分の感情に引きずられ、本来理性的には望んでない言動を次々と繰り出しちゃう姿は、まったく人間的でさえあるって思われて、彼女の登場が停滞してた本作のドラマを活性化させただろうことは疑えないように考えられるから。‥私はなんだか彼女がすごく好きになっちゃったかな。それはなぜかというと、末澤さんには生きた人間のリアルを感じるからであり、そのリアルとはべつな言葉でいうなら自分で自分の感情‥それは友を思うやさしい気持と恋敵を憎むどうしようもない嫉妬と、そしてそういった渾然とした感情がみずからの裡にうねることに恐怖をおぼえる冷静な理性でもある‥を如何ともしがたくしてる彼女の現状が、実際ありそうに感じられるという意味あいであって、ふかく複雑に多様な気持を秘めた末澤さんの姿は、まったく現代的な困難な環境に翻弄されてる一個の個人に相違ないって、そう私に思わせるということ。‥三木清はかつて、自分に人間の善性を疑わせるものがあるとすれば、それは嫉妬の存在だって語ったけど、たしかに嫉妬ほど身近にありながら、これほど悪魔的な情念もまたとないのかもしれない。なぜなら嫉妬とは作為的でありながら、何等内面性をもたないものであるのだから。嫉妬は、反省しないから。」
「嫉妬に駆られた人間は、嫉妬するということが自分の未来に対してなんの役にも立たないことをよく知悉していながらも、かといって嫉妬することを辞めるということはなかなかできないものなのよね。それはべつな言葉でいうならば、嫉妬には物事を多方面に考える想像力が欠けているということであり、嫉妬に憑かれた人間はさまざまな可能性を思案する余裕がなくなるものと、ま、一般的に指摘しては良いことなのでしょう。それは末澤の場合も同断であり、彼女がいくら高杉を妬もうと、工藤が振向くことはありえないのでしょうね。そして彼女の理性はそれをよく分っていながらも、高杉に対する嫉妬は止められない。いやはや、まったく人間的だこと。ありそうなことね、この事態は。」
「嫉妬の問題はむずかしい。嫉妬はふだんは物事をよく考えない人にも考えさせるようにするものだけれど、でもその思考はただ自分の不幸を他者と比較することにより際立たせるというその一点のみにおいて有効なのであって、そのほかの点では嫉妬はいくらも建設的な意義を提供することはまずないといっていいのだろうね。‥でもだからって、嫉妬はなんの意味もないから嫉妬のことなんか考えないようにするがいいよってアドバイスしたとこで、嫉妬する人が嫉妬をやめる道理がないことはいうまでないことであり、それは嫉妬が「自分はもっと幸福になれるはず」っていう、仮初の希望にその根拠をもってるからなのかもしれない。そしてその意味では嫉妬は理想主義と競争主義の不幸な産物って規定することが可能なのかもしれないし、嫉妬をなくすには、自分の孤独をふかく自覚することでしか、あるいはその根本的な解決は不可能なのかもしれないって、そんなことも思うかな。‥私が私しかなくて、その私は他者との比較を絶した孤独な自己である。そう考えたとき、嫉妬は霧散するかもだけど、でも幸福になれるのかなって問われると、それはまた微妙な問題といわざるをえないのかもしれない。なぜなら人間と嫉妬とは、まるで兄弟のように不可分の間柄であるかしれないのだから。」
「末澤の置かれた立場というものは、その内面も含めて考えてみると、ま、むずかしく辛いものがあるだろうことは十分に予想されるのよね。その意味では現在この作品のなかでもっとも感情移入できる対象は末澤であるかしれないし、高杉の揺れる心情といい、いよいよ人間ドラマとしてこの作品は山場に差し掛かったと見ていいのでしょう。‥はてさて、これからどうなることか、ひとつ期待といったところね。上質な人間心理の移り変わりを楽しみとしましょう。この作品にはまちがいなくそれが裏切られないだけのポテンシャルがあるのだから。」
『なぜ、プロパガンダは、友好的な感情をかき立てようとするときよりも、憎しみをかき立てるときのほうがずっと効果的であるのか。その理由は、明らかに、現代文明が作りあげた人間の心情は、友情よりも憎しみに傾きやすい、ということである。そして人間の心情が憎しみに傾くのは、不満を感じているからであり、また心の奥底で――おそらくは無意識手にさえも――なぜだか人生の意味を見失ってしまった、そして、人間が享受すべく自然が差し出しているもろもろの良きものを、私たち自身ではなく、たぶん他の人びとがひとり占めしてしまった、と感じているからである。現代人の生活の中にある快楽の絶対量は、疑いもなく、より原始的な社会に見いだされたものよりも大きい。しかし、こうもありうるのではないかという意識が、さらに大きくなってしまったのだ。』
バートランド・ラッセル「幸福論」
2009/09/24/Thu
「今回の翼の話はわかりやすい。ストレスから人格障害になっちゃうってケースは現実問題よく見受けられるものだろうし、過去において多重人格や精神疾患などを悪魔憑きや単なる狂気としてあつかってた事態を考えるなら、現在では病気の種類として認知されてる種々の病状を怪異や妖怪としてむかしの人は捉えたであろうことはほぼ疑いなくいえることにちがいないのであり、その意味では「化物語」はここに来て怪異の正道ともいうべきエピソードを展開するつもりなのだなって思われて、けっこう楽しみになってきたかな。というのも、この翼のおかれた環境というの、これはもういつ、どこのことであろうとも実際に起りそうな事例にちがいないであろうし、家庭環境のトラブルから心身に多大な負荷がかかり、ために病気になっちゃうなんてことは、たぶんほんとに凡庸に発生することであるのだものね。そしてこの種の問題のむずかしさとは、その発生する確率の平凡さに比して、病状の解決が困難であるということなのであり‥それは、なぜなら、個々人のおかれた環境はそれぞれに異なるものであろうし、ゆえに一般論として解決法を呈示することが実質不可能であろうから。この種の問題は、それぞれ個々の事例に即して、柔軟に考えなくちゃいけない‥単純にわるい妖怪をやっつけることによっては、ぜったいに問題は片づかない。‥その意味では、だから、どうお話を収拾するつもりなのか、今回の「化物語」には十分期待したいところかな。暦、いったいどうするの?」
「ストレスが原因だというのは、ま、この怪異に限らず、殊に神経を緊張する機会には事欠かないこの現代社会においては、まずありふれた問題のひとつに過ぎないだろうことはまちがいなくいえることなのでしょうね。というのも、この世間や社会に日々を暮す私たちにとって、ある程度のストレスを免れるなんてことが叶うべくもないことは、もはやいうまでもないことにちがいないのでしょうから。‥だれだって満員電車には乗りたくないし、できることなら朝はぐだぐだ寝過ごしていたい。しかしそうは行かず、そうは叶わず、寝不足のまま家を出、疲れた身体を無理に酷使しながらその一日を全うせねばならない。であるからストレスが原因だとはいわれても、飲酒も喫煙もギャンブルも辞められず、ますます身体と精神には過重がかかり、いつしか取り返しのつかない傷を負ってしまうものである、か。‥ま、はてさてね。はてさてといって済むことではないでしょうけど。」
「私は喫煙も飲酒もギャンブルもしないけど、かな。でもそれはとりあえずおいといても、ほかのことでさまざまな負担があって、そのために通院してる人もいれば、体調に無理な負担のかかる趣味をやめられない人があろうこともたしかなのが、この現代社会であることは前提としてたぶんまちがいないとはいえるのだろうね。‥それなら、いったい、私たちは如何にすべきか。どうやって、この現代社会のストレスを軽減し、楽しく暮すことができるのか。‥それで、私はこのストレスって問題を自分なりにいろいろ今までずっと考えてみたのだけど、結論を先にいっちゃうと、ストレスを免れることは、無理!!! だと思う。‥なんだか身も蓋もないこといっちゃったかもだけど、でも、だって、実際、無理じゃない。無理だもん。あきらめよう。ストレスを受けないということは実質無理であり‥というのも、たとえばルソーみたいにストレスはいやなものだから、自然に帰ろうとか、いってみる? それこそ無理じゃない。自然に帰ったほうが現代人はストレスになるよ‥であるなら私たちにできることは、いろいろなことをあきらめることにほかならなくなる。‥いろいろ、あきらめよ。そしてそうすれば、それがストレスを減らす、消極的な方法のひとつにはなってくれるかも。なぜならストレスとは、運命みたいなものだから。」
「諦観こそ救いなりとでもいうのかしら? ま、あきらめというのはそこそこには良い処世術ではあるのでしょうけどね。というのも、生きていることが重要な意味をもつ個人というものは、ほとんどいないからよ。試しに自殺でもしてみれば分ることでしょうけれど、自分が死んだって、世間はそれほど困らないのよ。ただ、しかしそれだからこそ、ストレスになることもあきらめてみることは、ほかならなく、そしてかけがえのない自分にとっては、いささか有益にもなるのでないかしら? ‥なので翼に勧めるのは、そうね、家出しなさい、しばらく。‥そのうち捕まるかもしれないけれど、ま、それでもいいでしょう。あなたがいなくなっても、そう困る人はいないのだから。」
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人は強くなるべきなのだろうか?
2009/09/23/Wed
「命蓮がどこの出身でいつごろ信貴山に登ったのか、その正確なところはよくわかってない。ただでも、命蓮が数十年もの長年月にわたって山にこもり、一心に修行の人生を送ったことはたぶん推測できることであるのであって、「信貴山縁起」を参照するなら、たしかに命蓮は六十をすぎる齢に至るまで、ただただ山中のなかで求道のために身を捧げてたのであった。というのもそれを勘案しなくては、同じく命蓮よりも年長の尼公が弟をさがしに老体をおして長いながい旅に出ることもなかったろうと思われるからであり‥尼公がもし命蓮とよく連絡を通じあっていたなら、「信貴山縁起」に描かれるような旅の人と尼公がなろう道理は、だって、ないのだから‥そういった事情があればこそ、第三巻「尼公巻」に描かれたどこまでもつづくかと思われる果てしない無窮の世界を孤独に行く尼公の旅の困難さは、読者である私たちに否が応にも想像させずにはおかなくなってくるのだから。‥この命蓮の姉である尼公が遥か途上を弟に出会うただその目的のみのために進み行く場面は、「信貴山縁起」のなかでもとくに際立って美しく壮大に思われる箇所であり、ひたすら広大な旅の途を進み行く老体の尼公の姿は、その切実で純一な願いから来るだろう無垢の表情をもって、私には堪えない美として感じられる。そしてだからこそ、命蓮と再会したあとの、姉弟仲睦まじく過すさいごのシーンののどかさと朗らかな温かさとは、見る者にやさしい情感を伝えずにはおかないのであり、私はこの尼公と命蓮が再会する場面がとても好きかな。‥そして逆にいえば、だからこそ「星蓮船」で描かれた、若返り、魔術を行使する尼公の姿は、私にはどことなく不気味に、さらにあえていうならば、ひどい命蓮に対する裏切りのようにも、感じられる。死を拒み、外法に走った「白蓮」の姿は、その語る倫理観はさておいても、非常に化物じみた何かを思わせる。‥そう思うのは、果して、私の気のせいかな。どうだろ、かな。」
「命蓮の姉である尼公の名前というものは史実には伝えられていないし、その実際のところは分るところでは無論ないのでしょうけど、しかし「星蓮船」でその尼公の名前にあえて「白蓮」という言葉を当てたのは、少し考えさせられるところかしらね。というのも、白蓮という名称にはその思想的、歴史的背景にはいろいろな憶測が立つだろうことは、ま、あえてここで述べる必要もないところでしょう。肝心なのは白蓮が命蓮から法力を学んだということであり、弟とようやっとめぐり合えた白蓮が命蓮から仏法の講釈を受ける場面は「信貴山縁起」にも描かれているから、法力の類を少々習ったとしてもそうおかしなことではないと思っていいのでしょうけど、しかし少し引っかかる部分はあるのよね。というのも、毘沙門天信仰のうちには飛行自在法の秘法も含まれていたといわれるし、法力の類は外法とはいえ、それらを体得していた仙人が仏教に帰依するということは、そう珍しいことではなかったのでしょうが、ただ、ま、何かしら、白蓮の場合には仏法よりも、どことなく仙術やもしくは妖術のほうにより傾倒していったとあるところが、なんとも不穏に思われるのよね。‥ここらの話は、少々微妙な思いが去来するところでしょう。」
『しかし、命蓮は白蓮よりも早く亡くなってしまった。
嘆き悲しんだ白蓮は、死を極端に怖れるようになった。
まず、自分が死なない為に若返りの力を手に入れた。それは法術と言う
より妖術、魔術の類であった。』
ZUN「東方星蓮船」
「命蓮の死により白蓮が死そのものをひどく恐れるようになったという成行は実にありそうなことで、私はここに白蓮の人間的弱さを見る思いがする。それはその後、白蓮が不老不死を得ただけで飽き足らず、その力がいつか失われ、自身が死んじゃうことをあまりに不安に思うがために、本来なら罰すべき妖怪たちのほうに接近していったという記述から読みとれることでもあるのであって、というのもこの時点で白蓮は大衆を導くという僧侶である己本来の任務よりも、明らかに私情を挟み、自己のエゴイスティックな目的を優先してるのだから。‥実はこのことに、白蓮を慕う妖怪たちは気づいてないし、当時白蓮を迫害した民衆たちも思い至ってなかった。白蓮にあったのは、ただ「死の恐怖」もしくは「愛する弟の死の悲しみ」であったのであり、彼女が外法に手を染めたのも、そして妖怪たちをふかく理解するようになったのも、すべては当初にある「恐怖心」であったにちがいなくて、その恐怖心は裏を返せば「死にたくない」っていうひどく人間的な、弱々しい女性の嘆きでしかなかったのだった。‥そういった弱さは僧侶としてはふさわしくないものに相違なかっただろうし、弟の命蓮ならそんな弱さをきちんとふり払えたにちがいない。‥でも白蓮は弱かった。ひどく、ただの人間だった。そして幻想郷に降り立った白蓮は、自分のその弱さを、すでに忘れてる。危ういほどに、忘れてる。」
「妖怪の事情を知るようになり、妖怪たちに味方するようになったという白蓮のエピソードは、一見してみれば彼女の慈悲心の証明のように思えるけれど、しかしそれらはあくまで結果論に過ぎないのよね。‥ま、そうやって考えていくと、白蓮というのは今まで登場してきた東方キャラのなかでも、何か際立って人間的な弱さを抱えた、哀れな、そして共感しやすい人物のようにも思えてくるかしら。さればこそ、「彼奴は人間の面をした悪魔である」といって糾弾した当時の人々の白蓮に対する指摘も、そうまちがったものには思えなくなってくるのかしらね。なぜなら外法に走り、不老不死になった僧侶なんて、信用できるわけないでしょう? 仏法などどこ吹く風よ。若返った時点で、もう白蓮は人間を辞めているのよ。だからこそ、霊夢が白蓮を妖怪として退治しようとしたのは、あながち間違いではなかったのかもしれないかしらね。死なない人間など、人間ではないでしょうから。」
『しかしながら、飛鉢法の行使は平安時代中期ころまでの人に限られており、それ以後の人たちにはみられない。それは、ありうべからざるような奇跡的物語は、過去は別として現実の社会、仏教に対する人々の考えがしだいに客観的になって、奇蹟を否定し、現実を直視した結果を肯定するような風潮になってきたことを示すものかもしれない。また一方では、説話集編著の流行がみられるが、その編集の態度にも、そのような機運を醸成する原因があったのではないかと思われるのである。』
佐和隆研「日本絵巻大成」4巻
2009/09/22/Tue
「「信貴山縁起」第一巻の「山崎長者巻」別名「飛倉巻」は、「信貴山縁起」そのものの個性をもっともよくあらわしている内容として認知されてて、このお話では当時一般民衆のあいだに信仰されてた命蓮の法力の実際的なエピソードが語られる。お話の筋は単純なもので、ある日、町の長者の家の裏庭におかれた倉が、突然空に舞い上がり、どこかに消えて行こうとした。あわてたのは当然長者であり、というのも倉のなかには千俵にものぼる大量のお米が入ってたからで、これが失われたら長者にはたいへんな大損になっちゃう。でもふつう倉が勝手に空飛びはじめるわけもないわけで、それじゃいったいなんでこんな異変が起るのだろうと考えてみると、長者はすぐあっ!て理由に思い至る。それが何かなってきくならば、長者はまいにち信貴山のうえに住んでる命蓮上人に食料を送る勤めを担ってた。でも山頂近くの上人のもとに日々欠かさず通うのは一苦労であり、それじゃいったいどのようにして食料を供給してたのかなっていうと、その運搬方法はおどろくべきもので、長者はまいにちとある鉢に食料を納めておけば、あとは自動的にその鉢が命蓮の法力の力によって、宙に舞いあがり、遠隔操作されて山のとこまで飛んでくのだった。‥長者が感づいたのがまさにそれ。昨日、長者はいつものように倉からお米を出して命蓮のために鉢に食料を備えたのだけど、うっかりその鉢を倉のなかに入れっぱなしにしちゃったために、今日このとき、常のように鉢を呼び寄せて食べものもらおうとした命蓮上人の法力によって、なんと鉢どころか、その鉢をなかに納めた倉がそれごと舞いあがってしまったのだ。おどろくべきは、倉さえ易々と浮かしてしまう、上人の法力の力かな。‥それでその後、山のうえまで長者はやっとのことでたどり着き、命蓮にわけを話すのだけど、飛んできた倉はもうどうしようもないとしても‥長者たちの力で動かすこと叶うわけないものね‥倉のなかにある米千俵はなんとしても回収したい。それを上人に切々に訴えると、命蓮はお安い御用、鉢のうえに米一俵を乗せなさいっていう。不承不承にその言葉に従うと、鉢はまた米を載せながら軽々と浮き、空を舞って長者の屋敷に一目散に飛んでいく。するとどうしたわけか、ほかの米俵も次々とそのあとを追うかのように、鉢の軌跡を辿って、空をどんどん駆けてくのだった。‥このふしぎなお話が、一巻「山崎長者巻」。」
「話の筋はシンプルなもので、おそらく命蓮の法力のすごさとその信仰を伝えるために作られたエピソードだったのでしょうね。さて、これが「星蓮船」にどのように活かされているのかといえば、まず気づかれるのは「星蓮船」でいわゆるUFOというかベントラーアイテムとして登場している「飛倉の破片」といったものが、まさにこの千の米俵を軽々と浮かした命蓮の法力の実際的な証拠の破片であるというところでしょう。しかし少し「星蓮船」においては原作と異なった点もあるのであり、それは設定テキストでは「軽々と鉢を飛ばしたかと思うと、その鉢でごうつくばりな長者の倉を持っていったり」とあるけれど、ただ「信貴山縁起」そのものを参照するなら、長者が「ごうつくばり」だったということは分らないのよね。むしろ命蓮に日々施しをしていたのだから、信仰心の厚い人だったと考えたほうが適切なようには思えるかしら。これはZUNさんの創作か何かと見るべきでしょう。」
「飛倉に法力が詰っており、それが白蓮を復活させる鍵となるのも、「山崎長者巻」で実際に命蓮の力が行使される対象となったのがこの長者の倉であったってことをみとめるなら、筋の通った話に「星蓮船」は思えてくるのじゃないかな。そして白蓮のスペルである飛鉢「フライングファンタスティカ」と飛鉢「伝説の飛空円盤」もまた、この命蓮の鉢を自由自在に遠隔操作する能力からとられたものであろうことも、納得されることにちがいない。‥ただここでちょっとだけ補足しておきたいのは、こういった何かの物体を空に浮かしたりとか、空を飛んだりする能力をもった人のエピソードといったものは、何も命蓮に限ったことでなくて、むしろ枚挙に暇がないくらい、数多く伝えられている奇蹟だっていうこと。たとえば有名なところでは法華山に住んでいたとある仙人は千手宝鉢法を修得していて、鉢を飛ばしては供物を得ていたっていうし、奈良時代の役行者になると、自分は草座に乗り、そして自身のお母さんは鉢に乗せて、それで日本から唐まで空を飛んで渡ったいうのだから、その能力の使い方の規模の大きさにはちょっと戸惑いが感じられちゃうくらいかも。‥というふうなわけで、まだまだ例はいくらでも引けるけど、この種の物体を自由自在に遠隔操作したり空を飛ぶ法力といったものは、日本には古来から連綿として存在する、ある意味伝統的な能力でさえあるのだよね。ちなみにこの鉢を飛ばす法力を飛鉢法というのであり、これは仏道修行の前に必修すべき神仙秘法であるとされてる。‥神仙秘法、というのがある意味肝心だよね。というのもそういうことなら飛鉢法自体は仏教本来の求道の修行にはかならずしも必要なものでなくて、あくまで食料を容易に得るための技にすぎなかったということ。そしてこの技を行使する者は、巷にはあふれかえるくらいにいたのだった。」
「ま、仏道修行の僧がその手の常識はずれの能力を見せることはそう珍しいことではないのよね。たとえば「法華験記」だの「今昔物語」だのにも、巻物を手を触れずに遠隔操作で操る僧のエピソードがあったことだし、法力といったものを身につけると、ま、かくも便利に過せるという見本なのでしょう。そしてこのような奇蹟を見せればこそ、さあ私たちを信仰しなさいというオチにつながるわけなのでしょうしね。‥しかしただ「東方星蓮船」の白蓮が異端に思えるのは、この白蓮が仏道修行よりも法力の獲得に、いわば妖術や魔術の類にまで手を出しはじめてしまったとされているところかしら。なぜならこの種の超能力といったものは、あくまで余技と思われるからよ。本来の仏道修行とは、少々疎遠なものでしょう、鉢を飛ばしたりする法力だなんて。‥しかし白蓮は求道に専心するよりも、むしろ若返りの術を行い、異端の道に赴いた。その有様はもしかしたら外道と呼ばれるべきものだったのかもしれないし、当時の人々がそんな白蓮を妖怪扱いしたのは、何も彼らに慈悲心が欠けていたからというだけでもないのかもしれないかしらね。白蓮こそが、実際に妖怪になっていたかもしれないのだから。」
2009/09/21/Mon
「今度の東方は仏教ネタだという話をきいて実際にあそぶ前から少し身構えちゃってたのだけど、でもプレイしてみると、今回のこの星蓮船は今までの東方のなかでももしかしたら一、二を争うくらいに私の気に入る内容なのじゃないかなって、思いが変わってきた。というのも、星蓮船はなんといってもセンスがいい。STGでまさか「信貴山縁起」を題材とするだなんて、たぶん世界広しといえどもそれを思いつく人はなかなかいないし、現実にそれでゲームをひとつ作っちゃう人となればまず滅多にないだろうことは明らかだもの。そして「信貴山縁起」のその比類なきおもしろさ、洒脱さ、そしてセンスのよさを十分に得心してる人ならば、星蓮船のある意味もっとも空想的な興趣をさらによく理解するだろうことは必至なことじゃないかなって、私は思うかな。だって、信貴山縁起、これはすごくおもしろいよ。絵巻物語のなかでも実によく当時の信仰心と人たちの趣味の際立った特色を伝えるものとして、長くふかい研究の対象とされてきたものであるのだから。」
「信貴山縁起を今もっとも簡単に読む方法は、おそらく中央公論社から昭和52年に刊行された「日本絵巻大成」の4巻を参照するのがまず確実でしょうね。amazonにあるかしらと見てみると、ま、
こんなものでしょう。しかしとりあえず、少し大きい図書館に行けばほぼまちがいなく置かれているシリーズであるから、興味のある人は探してみるといいかしら。それほど分量があるわけじゃないから、目を通すだけならすぐの一冊よ。もちろんその絵をじっくり鑑賞するとなれば、まったく歯ごたえのある一冊にはちがいないけれど。」
「それで、「東方星蓮船」において「信貴山縁起」はどのように使われ、またどんな影響を与えてるのかなって部分をこれから検討して行きたいのだけど、この作業は実際問題はじめる前からけっこうたいへんな仕事になっちゃうのじゃないかなって予想が私にはあって、というのも星蓮船のおまけテキストを見るだけでも、そこにはZUNさん独自の「信貴山縁起」解釈が入ってるのであり、「信貴山縁起」そのものの考察も踏まえて「星蓮船」を見てくなら、その行程は慎重な考察が求められるだろうことは疑えないように思えるから。‥なので、「星蓮船」と「信貴山縁起」の関係については少し時間をかけて、エントリを分割して書いてきたいって思う。気長に付きあってもらえると、幸いかな。」
「では「信貴山縁起」の概要から述べておくと、この絵巻は全三巻から構成されており、それぞれ「山崎長者巻」、「延喜加持巻」、「尼公巻」と名づけられている。第一巻に当る「山崎長者巻」の別名が「飛倉巻」で、星蓮船でUFOの元ネタとなったのがこれね。そして命蓮の姉であるとされる白蓮が登場するのが三巻目の「尼公巻」であり、ここにおいて命蓮とその姉が再会し、それをもって「信貴山縁起」は終っている。はてさて、では、星蓮船はどのように信貴山縁起を解釈したか? ま、それはまた後日というところかしらね。」
2009/09/20/Sun
「昭和二十八年に連載された「川のある下町の話」は、とくに世間から際立ってるとか特殊な才能があるとかいった人々のことでなくて、たぶんどこにでもいるだろうやさしく、そして日々の苦しみに耐えながらも健気に生活を生き抜こうと努力する人間の慎ましい交流を描いた、川端康成の長編人間ドラマのひとつとしてみていいと思う。ただといっても、本作は何か劇的な展開が待ち受けてるのだー!とかそういった迫力あり手に汗握る成行が描かれてるわけでなくて、あくまで物語の骨子は平凡な人間のだけど凡庸に割り切れない感情のむずかしさを描いたものであるから、この作品に何かカタルシスのようなものを求めたら、その期待は裏切られることになっちゃうのじゃないかなって思うかな。‥私自身も、本作は川端の諸作品のなかで、それほど目立って優れた一作とはいえないと思う。というのもそれにはいくつか理由があるのだけど、そのすぐ思いつくひとつとしては、本作が日本の小説らしい小説であるという点が挙げられるのじゃないかなって思えて、それは具体的にいうとどんなことなのだろうというと、起承転結の理念によってしっかり話の筋が計算され、細部まで緻密に言語により構成された理知的な作品では本作がないということなのであって、知性よりも感情に、思いやりに、わるくいえばその場の空気に支配されてるのがこの作品なのであり、それは一面からすれば幾何学的な美しさには欠けるけど、でもある意味どこまでも日本らしい叙情的な気分に浸ることができるという観点を踏まえるなら、本作もそう見劣りするものとも一概にはいえないかなとは思うかな。」
「ま、本作が実に日本の小説らしい、ぐちゃぐちゃと感情や情緒がねばりついた一作であるということはいえるのでしょうね。もちろん川端康成がそういった情緒の面にとりたてて優れた作家であるということを念頭におくのなら、本作もそうおどろくべきものではないのでしょうけど、しかしこの若者の恋愛模様、しかもきわめてプラトニックな恋愛関係を描いたのが、川端五十三歳のときだったというのだから、驚異よね。こうも青春の水気のある情調を五十を過ぎた人間がそう描けるものかしら。いやはや、川端というものはやはり魔人ね。ちょっと怖気を振うものよ。」
「登場人物も若者の青くさい恋愛劇を描くのにこれでもかー!って適した人たちで構成されてるものね。‥主人公はインターンをしてる医学生の潔癖症のつよい義三という青年。彼は美男子で、決して人付きあいの上手なほうじゃないけれど、でもそのどことなく子どもっぽい世間知らずのある性格は、女性からたいへんもてちゃう要因になる。そしてそんな義三のいとこであり、父親がお医者さんで裕福な家庭に育った桃子という義三より少し年下の幼なじみは、これまたお嬢さんらしい他者に対する寛容さと世間の常識に疎い面があり、そういった意味では本作でいちばん萌えるポイントがある子かも。当然、彼女は義三にラブラブ。‥さらに義三の周囲にいるもうひとりの女性は、義三の同期で優等生の民子というお嬢さん。彼女も家がお金持だけれど、でもさいきんは兄夫婦の関係が上手く行ってないみたいで、ちょっと精神的に疲れ気味。けっこうツンデレ。‥さいごに本作の正ヒロインであり、薄幸の美少女でもあるふさ子がいる。彼女は親と死に別れ、掘立小屋に幼い弟と二人暮しをしてるっていう苛酷な環境にあったのだけど、そんな彼女が義三と出会うところから、この作品の物語ははじまる。‥どのヒロインがお気に召すかは、実際に本書を手にとってみて、考えてみられたら如何かな。それが本作の読書の、もしかしたら、いちばんの醍醐味かもしれないし。」
「なんかこう、登場人物の設定だけをかいつまんでいくと、こう如何にも昨今のアニメなりゲームなりを想起させられてしまうのがはてさてといったものかしらね。いや、あるいは反対で、日本人のこの種の好みというか、ま、「萌え」趣味というものは、昔から根強く存在するものと考えるべきなのでしょう。それは日本を代表する作家である川端の本作を紐解けば、なるほどと得心するものがあるくらいには、かしらね。そしてだとすると、日本人の萌え好みといったものは、もう骨がらみなのでしょう。はてさてといったところかしら。」
『「あきらめるとか、あきらめないとかということじゃないんだ。まだ僕は、愛情をあきらめた経験はないし、そんな経験を持とうとも思わないんだ。ただね、僕のよしない同情か関心かが、あの子の運命を狂わしたんじゃないかと、それが心配で、苦痛でたまらないのだ。僕がもう一度、あの子の前に現れたら、あの子はどうなるか。そのくせ、会いたくてならないんだ。どうしていいか、僕はわからない。わからないうちにも、一日一日、日はたって行って、息がつまるようだ。」
「川に落ちて、流される子供なら、飛びこんで助けられるけれど……。」
と民子は口ごもった。
「でも、愛する女は、みんな川に流されて、溺れてるようなものかもしれないわ。」
「女の子の運命に触れるって、恐ろしいものだと思った。この世で誰がほんとうに、その子を幸福に出来るんだろう。こんなこと言うのは、僕の愛情が薄いのかもしれないが……。」
「そんあことないと思うわ。」
「愛は自分一人だけの冒険じゃないからね。しかし、こんなことを言っているうちにも、あの子はどうなっているか知れない。愛だって、なんだって。この世に静止しているものが一つもないのは、このごろ僕にはわかるんだけれど……。しかし、川から助け上げた子供も、僕は病気から助けられなかったこともあるんだ。」』
川端康成「川のある下町の話」
川端康成「川のある下町の話」
2009/09/18/Fri
「毎月の感想はめんどくなってやめちゃってたのだけど、今回新しく出た3巻の内容はなかなか見どころあるよって風評があったものだから、もののためしに読んでみたら、これは意外、おどろかされる部分がいくつかあった。それでまず本巻で描かれた内容で気にかかるとこは何かなっていうと、3巻では恋愛くらぶに新しく男の子が入って、その子たちとデートなりなんなりして雛ちゃんは雛ちゃんなりに恋愛の実践を仮想的に目論んだ試みをこなしてくのだけど、新入部員のひとり優くんの差し金によって、自分のなかの肉体に眠る性の存在に気づかされるんだよね。‥ここのくだりはいかにも典型的に家庭の事情で屈折して世間一般をアイロニカルな視線で見てるよーっていう優くんの手ほどきで為される部分だから、お決りといったらお決りの描写で、とくに何も思わなかった過程だったのだけど‥というのも、優くんみたいなの、よくいるものね。どこの学校でも学年にひとりは見かけるタイプ。奔放に異性と付きあうことが可能で、同性からはそれほど信用はおかれないけど、でも性的にそれなり充足できるので、日々をあんがい楽しく過せる型の人。でも表層的な性欲のみにかかずらってるから、心から納得行くことがきわめて少なくて、性のさらにその奥の思惟的な営みに至ることはなかなかない、そんな人。ただこの手の人は最愛の人を得られたなら、けっこう強くなれる傾向にある気がするかな‥気になったのはそのあとで、雛ちゃんが来栖先生に、「男の人のおちんちんをね女の人の股の穴に入れることって本当に出来るの?」ってきくところ。秀逸なのはそれに対する来栖先生の誠実な答え。‥ここはけっこう感心したというか、来栖先生がしっかりプロの先生なんだって、安心する気持が大きかった。こういう先生がいてくれると、けっこう安心。立派な人じゃない。」
「小学生相手にどのように性教育を行えばいいのかという問題なのかしらね。ま、この来栖先生という存在がこの作品の最後の良心であるのは明白なのでしょうし、この人がいてくれればこそ、雛子のように無知で無邪気な子が恋愛を遊びにしている様を延々と見せられても、どこかそれほど心配する必要もないように思われているのだけれど、しかしこの雛子の傾向は、何かしらね、危ういのよね。もちろん小学生のうちに自分の性器に気づき、オナニーを経験して快感を引き出すということは、そう珍しい事態ではまったくないのでしょうけど、ただ気懸りなのは、この雛子が興味本位で易々とセックスまで行ないかねないところなのでしょう。しかもその相手は練習だからだれでもいいと本気で思っているところが、なんともはてさてね。性行為の練習というと、ま、如何にもな話だけれど。」
「処女にこだわりもないし、雛ちゃんの場合はそういった思想的なバイアスを何等受けてない、ある意味とても開放的な家庭に育ちながら、きわめて箱入りのお嬢さんみたいに純粋なところがある、先生や親御さんにしてみたら、これほど不安にさせられる子もまたとないといえるのかもしれないね。‥これはけっこうふしぎなのだけど、お姉さんがいるのに雛ちゃんはあまり物事知らないよね。あんがい雛ちゃんのお姉さん、妹には過保護なのかなって気もしちゃうし、でもそのわりにはお姉さんの存在が雛ちゃんの性的なことへの関心を徒に強めてる節もないでない感じだから、雛ちゃんのおかれた環境というのは、なかなかむずかしい。‥それに、なんていうのだろ、この作品って奇妙な内容であって、というのも表向きはかわいい女の子がえっちなことするよっていう典型的なロリコン漫画の体裁をとってるけど、でもその実、来栖先生のように性教育をしっかり考えてる存在を導入して、作中に機能させてる。‥もし、この一見して少女たちの楽しいふれあいを描きながら、どこか影に性の怖さを滲ませる作風を意図して描いているとしたなら、作者であるあづまゆき先生という人は、敏腕であるって評価せざるをえないかな。‥雛ちゃんの行末は、だって、不安になっちゃうものね。どうなっちゃうのだろ、これから。」
「案外恐ろしい話なのでしょうね。というのもこのままだと雛子は簡単に処女喪失してしまうでしょうし、そのあまりの呆気なさはこれから雛子の人生の方向をある程度狭めてしまうこと必至でしょう。それは初体験というものの精神的リスクということでもあり、また本作が暗黙裡に描いている、小学生の恋愛といった問題をどう考えるかという読者に対する問いかけともいえる。ま、はてさて、小学生はセックスしていいものかしら?と、世間の誰彼問わず、多くの人に質問してみたい気持もするかしらね。で、もししてはいけないというなら、その理由は何か。なぜセックスしてはいけないのか。子を作ってはいけないのか。快楽を引き出してはいけないのか。子どもと恋愛してはいけないのはなぜか。大人たちでさえ性に翻弄されるというのに、子どもがそうあってはいけないというのは、あまりに無責任な思想なのではないか。‥ま、むずかしいのよね。本当に。」
あづまゆき「柊小学校恋愛くらぶ」3巻
2009/09/17/Thu
「今回の「なでこスネイク」のエピソードは今まででいちばんおもしろかった。だから原作のほうは未だ未読であった私だけど、撫子のお話くらいは活字で目を通してみても楽しいかもしれないかなって気になってきた。というのも本エピソードはアニメでざっと見たていどでもいくつか関心を惹かれる要素が散見されたからであり‥アニメ本編のほうはいかにも無意味な象徴的で簡略的な描写が為されてたから、たぶんこれがこのお話の完全な再現というわけでないのだろうって思われるものね。もちろんこのことはほかのあらゆる原作付アニメ作品に対してもいえることなのだろうけど、これまでわりかし忠実に、そして誠実に作られてきた本作「化物語」に関しては、シャフトの既存の原作のアニメ化したもののなかでも、一段飛びぬけた評価を与えたいって私は思う。だからそのため、本作の今回に限ってシンボリックに徒に傾倒した描写は、惜しいかなって思うかな‥よくとこのエピソードの意味するところを考えてみたいかなって思いが、私には生まれたから。‥まずその気になった要素のひとつめで、そしてもっとも大きな部分は何かなっていうと、それはとりもなおさず主人公の暦の、わるくいっちゃうなら、偽善者的な側面がつよくクローズアップされたって部分に求められるのであり、暦は、なんていうのかな、他者を助けたい、自分の目のうちに入る不幸を減らしたいって純一に願える人の型であるのだけど、私は率直にいってこの手のタイプは苦手に思ってた。それは私が孤独を是とするからであり、また他者と積極的に係ることをそういいこととも思ってないからでもあったけど、でもふしぎなことに本作で描かれる暦って人格に対しては、それほどつよい嫌悪感もおぼえることなくて、むしろ好意を感じてた。これは、意外と奇妙なことでもあったかな‥たとえば同じ系統のfateの士郎などは、私は虫唾が走るくらいにきらいなのだけど、暦に対してはそうでなくて好意を覚えちゃうのは、いったいどんな理由によるのかな。あんがい難問かも‥」
「暦の場合、ま、これまでの話を見てきても分ることだけれど、彼はどんな浅い人間関係でも、というか初対面の相手に対してさえ、ひどく親切に接するし、その行きずりの縁に自己の生命を賭けることについてさえ躊躇がないのよね。これは考えてみるとある面異常ともいえることであり、なぜなら人は自分の愛する人や家族に対してなら、どんな犠牲を払おうとも、ま、心情的にはそうおかしなものではなく感じられるのでしょうけど、しかし反対に暦は見ず知らずの他人相手にその善意を命がけで発揮してきたのだから、彼の、なんていうのかしらね、利他主義的な信念といったものはどこから来たのかといった問題は、なかなか難しく、そして彼自身にとっても病的なものがあるのかしれないかしらね。何が暦をしてそう駆り立てるのか。ま、現段階でははてさてとしかいえないところなのでしょうけど。」
「暦は親切や善意という己の感情に自縄自縛にされちゃってる、みたいなとこなのかな。それというのも今回暦は撫子を呪った、本来なら恨みこそすれ助ける必要なんて客観的にも心情的にもなさそうに思える相手にも、その彼特有の慈悲芯を発揮してなんとかしようって奮闘してたけど、でもこれは暦のほかを除いた人たちにとっては、暦のその行動はどう映ったのだろうって考えると、けっこう微妙な問題が介入してくるように思われるのじゃないかな。たとえば、撫子が暦が負った傷は、撫子だけを助けるのでなくて、撫子をそんな目に遭わせた当の加害者を救うためにも負ったものだと知らされたなら、暦のことを好きな撫子は、いったい、どんなふうに思うのだろう。‥撫子は自分を呪った相手に対する自身の気持を、一度も告白してないけど、ううん、それゆえにこそ、彼女のなかにたぶんあるだろう恨みや憎悪といった感情に対して、撫子を呪った人をも助けようと試みた暦は、向いあうことが敵わない。そしてそういった以上の背景により、今回のお話のラスト、暦は感謝の言葉を述べる撫子を、直視することができなかった。‥自身の偽善の代償を、そこに見てしまうのだから。」
「難しい問題なのでしょうね。人助けは世間一般には良いこととされているけれど、しかし誰彼構わず救うことが絶対的に良いことになるとは、かならずしもいえることではない。というのも、この世のすべての人が、あなたの善意を望んでいるからではないからよ。撫子は暦の善意を欲したけれど、撫子を呪った人らは果して暦の善意を求めるのかしら? ま、分らないのよ。だからこそ、人を呪うときには自分も呪われる覚悟が必要だけれど、人を助けるときにも、そこにはある程度の別種の覚悟が必要になるのかもしれない。善意も悪意も重いものよ。それは人間関係がむずかしいのと同様に、重いのよ。‥やれやれといったところかしらね。はてさてよ。」
2009/09/16/Wed
「twitterをつかいはじめてそろそろ三ヶ月になるのかな。私はほかのなんでもそうだけど、生活に対してはけっこう保守的で、自分のふだんの生き方や習慣のリズムといったものはよほどのことがない限り変えないし、変える気も起らないのだけど‥同じシャーペンをもう九年間愛用してほかのものに買い換えないくらい(→
文房具の話とか)‥twitterに関しては、何かな、はじめる前は常の例ですぐ飽きちゃうかなって思ってたのだけど、やってみるとずるずる時間をとられちゃう羽目になっちゃった。これは私には意外なおどろきが感じられて、というのも私はこうみえてブログには自分のなかで重要な意味と位置を占めてたし、ブログにかける時間を削ってまでネットを利用しようって気はことさらなかったのだから、次第にブログよりもtwitterのほうに文章が綴られるようになってく過程は、ほかの人はさておいても、だれあろう本人にとっては思いだにしない事態だった。だってtwitterの過去ログってどんどん流れて行っちゃうし、検索するには不便だし、あとで見返すのもめんどだものね。だからtwitterに考えや感想を溜めてってもなんの益がないのじゃないかなって私は考えてたし、もしコンテンツということを意識するなら、今もtwitterよりブログのほうにより有用性があることは疑えないって、私は思う。‥でも、それなら、何が私をしてtwitterに夢中にさせたのかなって問いが生じる。それは、なんだろう。いったい、何が私をtwitterの場に興味をもたせつづけたのだろう。」
「twitterのツールとしての魅力とは何かという問いかけかしらね。ま、これは案外あっけなく答えが出るようにも思えるでしょう。というのもその解答のひとつはまちがいなくブログに比してtwitterというツールは気軽に運用ができるのであり、とくに携帯電話を用い出すと、これはあれね、twitterの軽さはとてつもない魅力に思えてくるものなのよね。そしてそれに比較するとブログというものはどうしても情報量があり、更新にも時間がかかるし、twitterの利便性にはどうしても見劣りする面が出てくるのは致し方ないのでしょう。とくにこのブログのようなブログは、やたら文字数が多くて読むのが大変でしょうしね。ま、今さらのことでしょうけど。」
「このブログは書きすぎなのだー、かな。‥ただ長文になるのはべつにそう狙ってというものでもなくて、いつも話が長くなっちゃうのはただの癖なのだよね。それはtwitterでもだらだら連続して文章を書きつづるって個人的な傾向からもいえることだと思うし、その意味ではtwitterもブログも文章量がかさんでくるのは個人の性向の問題として、区別ないのかもしれない。‥それじゃtwitterの利点と考えられるほかのものは何があるのかなって考えてみると、私はそのひとつは、そして大きなその特徴は、ブログはエントリ単位で情報が集約されるのに対して、twitterは「人間」単位でネット上に個性が出現する点に求められるのじゃないかなって思う。‥これは考えてみるとおもしろいことで、たとえばネット上で「吉行淳之介 ○○(なんらかの作品名)」のように検索するとけっこうこのブログは当るけど、これはブログがコンテンツの集合体として存在してる証であるのであって、ブログが第一に問題とされるべきなのは何を書くかという「ネタ」なのであり、その背景にいるだろう作者は、あくまで二次的なものにすぎないんだよね。でもこれが一転してtwitterになると、twitterはどれだけその場で多様な話題を提供しようと、中心に位置するのはまったく「人間」であるのであり、その発言はその個人の多様性の発露として看做され、ネット上に仮の姿とはいえ、ある人間の姿が明瞭に形成されるっていっていいと思う。‥私はこれがtwitterのいちばんおもしろい点だと思う。twitterはつづけてくと、人間が顕わになってくる。私たちと同じ世界、同じときを生きてる、他者の像が、twitterを通してダイレクトに浮びあがってくる。これはすごく、おもしろい。」
「そしてそういったふうに現出される個人同士が結びあい、人間と人間のある面もっとも赤裸々な部分から成る関係性がtwitterの醍醐味といったものなのでしょうね。というのもtwitterの発言は発話者の日常性に基本的に基づいており、そのコメントは個人の思想的、知性的な面の無防備な部分がよくさらけ出されているように感じられるからであって、そのためtwitterから生まれる人間関係といったものは、まったくネット特有の友愛の直接的な表現として感じられるからなのでしょうね。ま、それだからtwitterにはいくらか慎重にならざるをえない面があるともいえるでしょうけど、しかしこの直接的な関係性を結びあう快楽といったものは、なかなか馬鹿にできないものがあるかしら。その果す役割は人それぞれに異なれど、重宝すべきツールのひとつというべきなのでしょうね、twitterは。使い方には十分な検討が必要という留保は、無論、あるけれど。」
2009/09/06/Sun
「雛菊かわいいーっ! もうさいきんの桐原先生の作品のなかで雛菊のかわいさは図抜けてて特筆すべきものがあるのじゃないかなって、私は常々考えてたけど、やっぱりその感じ方は誤りじゃなかったのだなって、今回のエピソードをみて思いを新たにした。いいよねー、雛菊素敵だよねー。悲劇的な過去を乗り越えて、そして今では厄介だったお兄さんとお姉さんを追い出して‥という言い方にはもちろん語弊があるかもだけど。あはは‥好きなお父さんと仲睦まじく暮せるようになった彼女の愛らしい恥じらいを微かに含んだ表情は、可憐でとても魅力に富んでる。‥すばらしい! 雛菊、素敵っ。愛してる!」
「‥ま、雛菊が幸福になれたのは実際良いことではあるのでしょうね。というか今回の話で分ったことだけれど、あの子まだ十歳だったのね。はてさて、年齢の割にずいぶんとハードな事態を今まで迎えてきたものかしらね。その意味でも彼女が報われたのはまったく喜ばしいこととはいえるのでしょう。再登場したのだから、さては、まだ活躍の機会はあるのかしら?」
「あるとうれしいな、かな。でももう雛菊をメインで描くべき余地はあんまりなさそにも思えるから、そこまで大きな期待はさすがの私もしないでおくけど‥。‥と以上のようにとりあえず雛菊素敵ー!っていう私の気持を述べることに一通りの満足を覚えたとして、それでほかの今回のお話についての若干の感想についてなのだけど、うんと、朝顔と撫子がちょっとその関係性が気になってきたかなって部分以外はとくに補足していっておくこともないように思えるから、それじゃあとはまたまた本編とは関係がありそうで実はぜんぜんないような余談をすることにしよかな。‥何についてかというと、近親相姦について、ちょっとお話。」
「なんらかの感想をするはずのエントリが、明後日の方向に逸れることは毎度のことなのでしょうけれど、しかし雛菊や撫子といったキャラが久しぶりに登場した今回の話で近親相姦の話題を振るのは、少々、あれね。野暮というか悪趣味というか‥」
「プラトンパンチをくらへー!!」
「ぐふぉっ!!?」
「‥お姉ちゃんも好きだよね、近親相姦、ね?」
「‥今までの発言のなかでも最上級にブラックなネタふりね、それ。はてさてよ‥」
『かつて私はユートピアについて論じたとき、「ユートピアなるものは、なるべく私たち自身の手の届かない永遠の未来に、突き放しておくべきものであって、安直に手にはいるようなテクノクラシーのユートピアは、真のユートピアとは似て非なるものだ」と述べたことがあるけれども、私にとって、私自身の「娘」とは、まさにこのユートピアにもひとしいものなのである。それは、この世に存在してはならないものなのである。存在するとすれば、日常の秩序から離脱したユートピアにおいてのみであり、このユートピアにおいては、むろん、近親相姦の完備な夢をいかほど放恣に満足させようとも、何らの生涯も起り得ないのものであることは申すまでもない。
もっとはっきりいうならば、私にとって、娘という存在は、近親相姦の対象にするためにのみ存在価値を有するものであって、近親相姦の禁じられている現実の世界では、娘をもつことの意味はまったくないのである。娘と近親相姦とはぴったり重なり合う概念であって、げんに娘をもちながら、近親相姦を行わないということは、げんに自動車をもちながら、ガレージにしまいっ放しにしておいて、自分ではまったくこれに乗らないことにひとしいのである。この社会で、自家用車に乗ることが禁じられているというのに、どうして自動車を所有(ないし生産)しようという欲求が起り得ようか。私には理解しがたいことである。』
澁澤龍彦「インセスト、わがユートピア」
「生涯子どもをもたなかった澁澤がなんであなたは子どもをつくらないのですかって質問されたとき、決って自分はもし子どもができたならその子と近親相姦したくならからであり、それが実際問題ゆるされない社会にあっては、子を成す決意など生まれようはずがないでしょうって、笑いごまかして語ったって伝えられてるけど、もちろんこれは澁澤特有のユーモアであり、そう言葉尻をとらえてああだこうだいうべき代物でもないかなとは思う。でもただ、ここで澁澤が近親相姦の欲望を「ユートピアを求める欲望」と呼んで、その意味するところはアナログだといってる点はたしかに傾聴すべきある近親相姦への鋭い洞察が秘されてあるのであり、なんで近親相姦がこの社会にあって罪とされてるのかなって問題に対してはっきりした定説が現時点でも存在してない現状を踏まえるなら、近親相姦の罪とはまさしく「ユートピアを現実にもたらす」ことへの罪というふうにも解することが可能になるのだと思う。‥たとえばサド侯爵はその「悲惨物語」のなかにおいて、自分の娘を自分の理想の女性とすべく徹底的にその生活と教育を管理し、みずからの空想の要求する最高の恋人像を現実に実現することに成功したある男性の物語を描いたものだったけど、これこそ近親相姦がユートピアであることを立証する物語であるのであり、なぜなら自分の完全な理想を現実に再現せしめようって願うのは、孤独なオナニストの妄想でしか、突き詰めていうなら、ないのだものね。まるで現実的でない、ロマンスと夢を功利的な世界から切り離して夢想するところにユートピアの可能性は萌芽するのであり‥ユートピアとは、リアリティを欠いた妄念でしかないのだから‥ならば近親相姦がその裡に秘める魅力とは、ありえようない快楽の空想的な充足でしかないのかもしれない。なぜなら空想主義者の目指すものは、ユイスマンスの「さかしま」に描かれたデ・ゼッサントの例を引くまでもなく、現実の前に敗れるものにちがいないのだろうから。」
「近親相姦とはとどのつまり観念的な要素をそのなかに隠したものではある、か。ま、「千夜一夜物語」にも兄妹間における近親相姦のエピソードがあったけれど、あれもひたすら象徴的に、現実には起りようもないような出来事を描くからこそ、その近親相姦が発言する恋愛というものは、まったく美しさを備えることになるのでしょうね。べつな言い方をするのなら、その恋愛に空想的な要素がない恋愛ほど、恋愛らしからぬ恋愛もまたないということになるかしら。そしてそう考えていくと、アニメだのゲームだのの二次元の女性を理想とし、現実の女性を三次元といって切り捨てる風潮は、まさにこの種の理想主義の反映でこそあるのでしょうね。もちろんそれが健全かどうかはそれぞれの価値観によるのでしょうけれど、しかしこの種の傾向が世界的に普遍的なものであったことは、まずたしかなことも、さて、疑えないことなのでしょう。なぜなら夢見る能力こそは、人間の人間らしい想像力という能力の、別名でもあるのでしょうから。」
『ユートピア主義者の私が、よしんば不逞な野心を起したとしても、せいぜい『ロリータ』のハンバートのように、少女姦ぐらいしかできないだろうと予測し得るのは、したがって、もっぱら時代のせいなのである。』
澁澤龍彦「インセスト、わがユートピア」
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悲惨物語について→
sola 空という幻想と未来→
近親相姦についての雑感
2009/09/04/Fri
『イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。』
「マタイによる福音書1章18節~25節」
「私たちは糞と尿のあいだから生まれるって、苦々しく独自したのはかの有名な聖アウグスティヌスであったけど、その告白の背景にはまずまちがいなく処女降誕されたイエスと比較して自覚されざるをえない卑小な多くの人間のうちのひとりに自分自身が数えられるといった内面の葛藤があったであろうことは、たぶん推測できることじゃないかなって思う。そして上記引用した「マタイ書」に記されてるマリアの処女懐胎のエピソードは、キリスト教に疎いどんな人でも知らずにはないだろう有名な場面であるし、その象徴するところがどれだけ多くキリスト教って宗教を束縛したかもなんとなく察すことができる部分じゃないかな。というのも中世から十九世紀にかけて延々と行われた、現代ではたぶんばかばかしくてやってられないかもしれない神学論争のなかで、この処女懐胎をどんなふうに理解すればいいのかなって問題は、さまざまな識者の意見を参照するまでもなく一大課題であったのであり、たとえばアレクサンドリアの教父でありって津学者でもあったオリゲネスは、「一般に女陰が開かれるのは分娩のためにあらず、交合のためであるが、イエス・キリストの母親の女陰に限って、分娩のために初めて開かれた」って、この問題に対しての自身の考えを述べている。そしてこの意見は聖書に記された奇蹟を理解するに当って、現代でもとてもわかりやす非常に合理的な解釈であろうかなって思われるし、キリスト教における純潔を重んじる思想の端的な態度をもあらわしてるってふうに考えることがまた可能じゃないかなって思うかな。‥受胎という苦痛に満ちた方法を伴わない限り、誕生することをゆるされない原罪を負った人間という存在。イエスの処女降誕を信じるなら、分娩における苦しみをなんとかして理由づけして納得しなきゃいけなくなっちゃうのはある意味当然であったのであり、その面においては処女降誕についてのさまざまな為されてきた意見を追うことには、どこか人の実存的な懊悩の典型を見る思いもしちゃうかな。もちろんそんな空疎な議論なんてお断りだーって拒否しちゃうのも、ひとつの常識的な態度であることは当然だろうかなって思うけど、ね。」
「イエスの処女降誕について記しているのはマタイ書とルカ書であり、とくに処女降誕伝説を決定的にキリスト教に根づかせたのはルカの仕事であるというべきなのでしょうね。というのも、ルカは周知のとおり「最初のカトリック教徒」などと呼ばれているけど、実際的に流布しているイエスの伝記はまず大体ルカ書をベースにしているのよね。聖体告知や天使の祝福の記述もルカ書にしか見られないのであり、ほかの共観福音書にはないのだから、ルカはそもそものイエスがユダヤ教のラビの教えからそう隔たっていなかったことを考えるなら、まったく非ユダヤ的でギリシア的であったというほかないのでしょう。それにルカはイエスに一度も会ったことがなかったのでしょうし、その著作がユダヤ人のあいだにあった思想からは離れてしまったことも、ま、当然というべきかしらね。ただルカのギリシア語による書がすばらしい出来であり、これがなかったならばキリスト教の普及は大きく滞ったことはたしかなのでしょうから、その存在というものはまったく巨大なものがあることは否定しようがないのだけれど。」
『ルカ伝はマタイ伝より数年遅くあらわされたが、その記者は、地中海北岸のヘレニズム世界にキリスト教を伝道したパウロの同伴者、医師ルカと考えられている。ルカはユダヤ人ではなくて、ヘレニズム世界に育ったキリスト者であった。ルカ伝にヘレニスティックな、ヒューマニズムの色彩の濃いのはそのためである。ルカ伝のキリストは、すでにユダヤ人のメシアの域をはるかに超えて、人類の救済者キリストであった。その系図が、人類の祖アダムにまでさかのぼったのも故なしとしない。』
赤司道雄「聖書 これをいかに読むか」
「イエスがほんとに処女だったマリアから生まれたなら、父であるヨセフとは血縁的には無関係になっちゃうのであり、それならイスラエルの始祖であるアブラハムからさらには人類の祖アダムにまで遡るってされてるルカの系図はまったく矛盾しちゃうことになっちゃうことはわかるよね。でもこれはただ単に不合理でないかーって怒る場面でもなくて、こうした矛盾した物語が初期キリスト教団には混在してあったという事実にこそ注目しなきゃいけなくて‥イエスの誕生伝説が歴史的な事実を伝えてるとばかり解釈すると、どうしようもないもの‥これら混交した状態こそがキリスト信仰に種々な形があったことを、つまりその信仰の形態は最初期から純一でなかったということを、私たちは知ることができる。そしてアダムにまで遡るとしたルカの記述からは、イエスという存在に負わされたその象徴性が複雑にまた奥ふかくなってくることに私たちは気づかないわけには行かなくなるのであって、それはむずかしい問題だけどそのうちのひとつを指摘しておくのなら、アダムはさいしょに罪を犯した人間であり、そしてアダムそのものと同じような誕生の仕方で生まれた‥その誕生に人の手を介せず、神のみの力によって生まれた‥イエスの存在こそは、罪を犯す前のアダムと同じく、罪を知らないでこの世にあらわれた存在であるのであって、そうした罪のないイエスが今度はアダムとは対照的にすべての人の罪を身代りとして死んだという記述のもつ複雑な意味性に、注目しないではられなくなる、という部分が挙げられることと思う。‥アダムが罪を犯したために人は死ぬようになったのであって、その罪をイエスが拭うたと考えると、けっこう辻褄はあってきちゃうように思えちゃうよね。でもただだけど、このイエスを誕生の時点ですでに特別視したことが、キリスト教に対するユダヤ教の反発の原因ともなったのであり、ここらの過程と背景は歴史的にみても複雑きわまりなくて、そう雑に話すのも如何かなってためらわれちゃう部分があるのは事実かもしれない。‥なので、今回はここまで。機会があれば、つづきはまたそのうちに。」
「日本人にとって処女降誕というものは、ま、こういってはなんでしょうけれど、まず理解できようのない考えであるのでしょうね。それはべつに理由のないことではなく、というのも日本には処女降誕の類の伝説がないからよ。いや、これは知る範囲でということなのだけれど、しかし日本人に果して処女で誕生した人間がいたかしら? ‥考えてみると、いないでしょう。イザナミ・イザナギをべつにするなら、それ以来この国には処女で生まれた者はなく、処女で生まれたがために特別扱いされた人間などはなおのこといなかった。これはユーラシアでは処女降誕伝説がさほど珍しくないことを考えると、はてさて、ある種の日本人の精神文化の特徴を説明してくれているようにも思われないかしら? ま、これにはいくらかの理由が考えられるのでしょうけど、それを考察してみるのもまた次回ということにしようかしらね。自国の文化といったものは、異文化と比較してみて始めて見えてくる領域があるのだから、ま、聖書についてこう思い巡らすエントリもなかなか良いものでしょう。なんといっても自分のことは、鏡を見るばかりでは分りようがないのだから。」
2009/09/01/Tue
「おもしろかった。「化物語」はきちんと毎回のテーマをしっかり精選して物語を構築してくれるから、そのドラマを鑑賞するに当っては何に集中して見たらいいかの判断が視聴者側としてはとてもやりやすいし、またそのエピソードに不必要な場面やよけいなキャラクターの登場が適宜削ぎ落されスマートに演じられてるぶん、本作が伝えようとしてるメッセージ性がぶれることなく表現されていて、その点でも非常に感心させられる一作かなって、私は思う。とくに今回の駿河のお話は、彼女がひたぎのことを好きでそしてひたぎの恋人である暦への憎しみや嫉妬の念を奇麗事で誤魔化さなかったとこに、人間性の暗黒面を直視せんとするこの作品の果断さが明瞭に示されてるように思われて、作品全体に緊張感とある種の、なんていうのかな、抽象的な話でキャラクターの本心を煙に巻くことのない潔さをみとめられて、なかなか本作は見どころあるものじゃないかなって、少しうれしくなっちゃった。というのも、好きな人が自分以外の人をえらんだという時点でそれは多大な苦しみであるだろうし‥失恋の重さ、辛さを理解することは、それを経た真率な人であろうなら、軽く扱えないものがあるだろうことは容易に了解せられることじゃなかろかな‥その失意が殺意に発展するだろうことも、決して大げさでない、ううん、むしろよくあることだろうことは、世間一般の事例と、そして己の記憶に照らしあわせてみて、合点の行くことじゃないかなって、私は感じる。なぜならだれかを好きになることは、その好きになった人以外を見捨てることでもあるのだから。そこまでいわずとも、それに似た意味性が「好き」という言葉にあることは、まちがいないことなのだから。」
「嫉妬という情は対等な関係性のうちに起るものだと、たしか三木清はいっていたものだったけれど、たしかに懸隔のあまりにある相手には、嫉妬の情は発生するはずもないのでしょうね。それはなぜなら嫉妬の原動力というものは「想像力」であるからであり、自分もまた妬ましいあの相手の「位置」にあれるだろうことを想定できるからこそ、嫉妬は生まれもするのよ。もしこれがまず絶対に自分が到達できない地点にいる相手だったのならば、自分がその場所にいることを頭に浮べることも不可能なのだから、というよりそういうことをそもそも思いもしないのだから、嫉妬は起ろうはずもないのでしょうしね。ま、嫉妬ほどイマジネイション豊かな情念もないといえるでしょう。そしてそれはイマジネイションであるからこそ、実に人間らしい感情であるのよ。困ったものでも、あるのでしょうけどね。」
「想像力、なのだよね。そしてむずかしいのは一般に想像力って呼ばれるものが、何も人間を成り立たせてる要素のうちで人間の善性をもっとも疑わしめる「嫉妬」のみでなく、ほかのいろいろな情念のなかにもそれらを成り立たせているその当のものとしてあるという事実なのであり、たとえば「愛」こそは相手の身を思いやる心があってはじめて可能であるということは、だれもが納得されることにちがいないのだものね。だからそう考えてくと、「愛」も「嫉妬」も、一見して相反する二つの情念のように見えるこれらだけど、でもそれらを成立せしめてる基底に果して何が潜んでるのかなって考えるなら、疑いなく「愛」も「嫉妬」も孤独な個人の胸中で繰り広げられる「想像力」のもたらした産物であるのであり、そしてそこに「嫉妬のうちにある愛」の存在と、「愛のなかに眠る悪魔」の存在の厳然とした可能性を、私たちは思い知らされる。‥嫉妬も愛も想像力の仕業であるのなら、その双方が同じものの裏表であることは明らかなのだよね。なら問題は、想像力の使い方、それそのものにこそある。そして本エピソードは、まさにそこに焦点を当てて描かれた。すばらしい出来だったかな。よかった。」
「駿河はひたぎにも暦にも告白することの叶わない無意識の海のなかで、ろくに知りもしない暦の死を願った。そして暦はろくに知りもしない後輩である駿河の心中を勝手に想像し、その思いやりから自分が犠牲になることを意識的に選択した。はてさて、この両者は共に自己本位な想像力を駆使し、自身の行末を見定めたものといえるのでしょうけど、ただその発露の仕方は各々異なったものとなり、またそれから受ける印象もよくちがったものになったのは、なぜなのでしょうね。想像力とは、であるから、まったく恐ろしい力というべきでしょう。そしてなんてすばらしい能力だともいえるかしら。不思議なものよね。同じ力なのに、同じ人間なのに。はてさてよね。本当に。」
『自信がないことから嫉妬が起るというのは正しい。尤も何等の自信もなければ嫉妬の起りようもないわけであるが。しかし嫉妬はその対象において自己が嫉妬している当の点を避けて他の点に触れるのが常である。嫉妬は詐術的である。』
三木清「人生論ノート」