2009/10/30/Fri
「本作はある意味様式が確立されていて、それはアニメの前半部においては他作品のパロディはサブカルチャーの隠喩をふんだんに用いながら、オタク文化の要素に慣れ親しんだ人の共感を主に誘うといった演出を軸として作劇されているということであり、またつづく後半においては学校や青春に対しある種のノスタルジーを基調としたメッセージ性を帯びることに作品の労力の大半が費やされ、いわゆるいい話を展開し、そしてラストでちょっとほほ笑ましいオチを備えてひとつのエピソードを終えるというもの。だからその意味ではクオリティが安定してるといえないことはないし、回を重ねるにつれ、この独特の調子はさらに安定感を増してくのだろうなって、その点では作り手を信頼して観てることができる作品だと思う。ただ生徒会メンバーが楽しそうにしてるのをぼんやり眺めるだけでもそれなり気楽な時間がすごせるということはまちがいないし、個々のエピソードで言及すべき要素はそれほど見受けられないとしても、一種の気晴らしとして本作を評価するなら、この作品はなかなか潔い作品コンセプトのもとに制作されてる一作といってもいいのじゃないかなって思うかな。‥無論それに比較して、一つひとつのお話にドラマ性がなくて少し退屈に思えちゃう向きないわけでないかもって危惧はあるのかもしれない。ただ、何かな、私としては本作にある一定の興味を、原作を読みはじめたときから感じてて、それは端的にいうなら本作はもしかしたら昨今のオタク文化の示す精神性の縮図としてその存在の意義があるのかもしれないって思えちゃうとこ。それがなんであるかは、ちょっとここさいきん、私の脳裏に引っかかってる問題でもある。このことをこのエントリでは少しふれておきたいって思うかな。」
「本作はパロディをふんだんに盛りこんだ内容であることはとくに異論のないことであるのでしょうけど、その言及の仕方は「らき☆すた」などと比較すると、こう上手く言葉にできないけれど、どうもずっと自覚的であるように思えるのよね。それは今回のエピソードで作品のキャラクターたちが作品作りをしているといった様子からも察せられることであるでしょうし、何か非常にメタ的な視点を本作はとりこんでいる。しかもそのとりこみ方が作者自身は半ば気づいていないように思えるほど自己言及的なのが、ちょっと不気味なほどおもしろいのよね。まるでオタクが鏡を覗き、そこに映った姿が、この作品のようといったら、はてさて、大げさかしら。‥ただ、そうね、気にかかる作品ではあるのよね。ちょっと不思議な気分ではあるかしら。」
「本作で象徴的なのが杉崎さんの存在だよね。というのも、これは私が以前から考えてたことの一端なのだけど、杉崎さんという人はその本質はまちがいなくモテる人なのだけど、彼が体現してるのはいわゆる非モテの、もっといえば童貞のやさしさともいうべきものなのじゃないかなって思えるから。それはつまり彼は端的にいうなら女性に好意をもたれる基本的な諸条件‥顔のよさがいちばん常道かな。これに財力と権力が加われば、もてないわけがない。もちろん身も蓋もない話であるけど‥を備えてるけど、でも作品を支配している規律は‥要するに作者の意志は‥彼に非モテであることを要請してるのであり、そしてそんな非モテの彼が、大局的に見れば報われるということが、本作のまちがいのない全編を貫くモチーフなのだと思う。べつな言葉でいうなら、本作は杉崎さんのいうとおり、彼がハーレムを築く物語であるのであって、そこには非モテのもつやさしさは報われるべきって信仰が係ってる。‥ただ、これはいろいろ慎重に考えていきたい問題であるから、今回はここらくらいにしとこかな。つづきはまたこんど。」
「非モテを成り立たせている諸条件は何かと考えると、ま、これはさまざまな意見が出るところであるのでしょうが、ひとつは裏表のなさ、つまり正直さであり、ひとつは内面の繊細さであり、ひとつは含羞と気どることの下手さといったところかしら。そして、ま、こういうのをいうのもなんでしょうが、モテるというその一事だけを問題にするなら、そういった微妙な内面の魅力といったものや、ある種のやさしさといったものは、とくにこう意味はないものなのよね。むしろそういったやさしさがなく、女性にだけいい格好をしていても、もてる人はもてるものだし、そこらへんルサンチマンを溜める要因とはなっているのでしょう。そしてそう考えていくと、その種の怨恨が解消されるのが、本作の、そしてひいては広い意味でのオタク文化の美少女アニメやゲームなどの存在意義というべきなのかしら? ‥ま、はてさてね。これは少しゆっくりと、考えていく問題のひとつとしましょうか。」
2009/10/29/Thu
「今回は、もしかしたら前期から含めていちばんっていっていいくらいに、おもしろい回だった。というのも本作はよくもわるくも萌えというものの表現にその労力のほとんどが費やされているように思われる作品であって‥それはそれとしてひとつの考察に値するテーマになりうる表現の問題でもあるのだと思うし、さいきんの私は、ここ一ヶ月ほどに書いてきた種々のエントリを見てもらえれば察してもらえると思うけど、そういった文脈に捉えたうえでの萌えという現象にいたく興味をそそられてる。その意味では、だから、本作はなかなかおもしろいかな‥ともするとドラマとしての観点からは決して評価できない中身になっちゃうことがしばしばであったのだけど、でも今回のエピソードは物語の構成が起承転結としてしっかり作られてて、このドラマが何を描きたいのかということがダイレクトに伝わってきたから。‥登場人物も厳選されてたし、お話もそんな目新しい題材を表現してたものでなかったけど、でもていねいに物語られたそのストーリーは、ただていねいというそれだけで、ここまで作品をおもしろく映えさすものなのだって、今回はそれをつよく思わせられちゃったかな。うん、けっこうよかったかも。」
「あるいは本作は主人公であるところの春香が登場しないほうがおもしろいのかしれないかしらね。ま、もちろんそういい切ってしまうのは春香に対してはかわいそうなのでしょうけど、しかし春香というキャラクターは徹頭徹尾空気の読めないキャラであり、その場にいるだけでその場の雰囲気は彼女を中心に構成されなければならないといったような、ま、いってみればちょっと扱いがむずかしい性格をしているのよね、彼女は。自分を傷つけるような言動には過敏だし、その割には他者の心理の機微には疎いし、なかなかどうして接し方が困難な少女なのでしょう。いや、ま、とかいうと春香のことを嫌っているようだけれど、そんなことはそれほどないのよ。おそらくは。」
「あはは。お姉ちゃんの言い草は乃木坂さんには耳が痛いものかもだし、その指摘はあんがい的を射てるように思えちゃうのがちょっと困っちゃうとこなのかも。なぜなら彼女は一期では自分の趣味のことで陰鬱に悩んでたけど、でもそれだって彼女が毅然とみずからを肯定できていたなら‥もちろん今それを糾弾するのは結果論にすぎないし、それはそれでむずかしい要求ではあるけど‥あんなに苦労する必要はなかったとはいえるのだものね。そして乃木坂さんがそういうキャラクターであるからこそ、妹である美夏をはじめ、本作の登場人物たちは乃木坂さんに気を使うことをその行動原理の最上位に考えるのであり、そのために物語は乃木坂さん中心に展開せざるをえない。よっていつもの本作のエピソードは類型的になっちゃって‥それは乃木坂さんを蔑ろにするわけにいかないって条件のため‥ある一定以上のおもしろさを獲得することを困難にしてたとはいえるのかな。そしてだからこそ、比較的新鮮な冬華ってキャラクターを乃木坂さんの代りに中心に据えた今回のエピソードは、かつて見られなかった物語の多様さを、本作において発揮することが可能になったのだろうと思う。‥テーマとしてもおもしろかった。今回のエピソードの主題は、端的にいえば、人は利害関係なく率直に付きあえる友だちがどれくらいるか?というものだよね。この問題はむずかしいかも。というのも、大人になるにつれ、そしてある面子どものときでこそ、利害というものは無視すべからざる重要なファクターであり、そして利害は他者と関係するうえでのもっとも安定した指標として働くものだから。‥交際上手の人というのは、ある意味、自分と他者の利害の境界をよく認識してる‥つまり踏みこんではならない一線を心得てる‥人であるけど、でもそういった人が心から親しく話ができる人が、果してどれくらいいるのかなと考えると、それは微妙な問題にならざるをえない。‥それは、なんでだろ。なんでかな。これは語るに困難な問題であるのかも。」
「利害というファクターを介しての交際というものは、ま、いってみれば楽な部分もあるのよね。なぜなら利害関係のうえでその交際がマイナスにしかならないのであれば、その付きあっている他人を捨てるということはある面肯定されるものであるでしょうし、その意味では利害上の人間関係というものは、裏切りがない関係性だともいいうるかしら。そしてそういった観点からいうなら、今回の話で冬華が自分の境遇を悲しんでいるのも、いろいろとむずかしいものではあるのでしょうね。なぜなら冬華が友だちがいないのは、単に彼女がお金持ちの令嬢というだけでなく、彼女の性格のためもあるかもしれないし、また彼女のなかにある裏切られることへの不安、あるいは他人を信用することのできない彼女の勇気のなさに原因があるのかもしれない。‥ま、その意味では「走れメロス」的な問題といえるのかしらね。「おまえには、わしの孤独がわからぬ」という奴よ。はてさてね。」
『疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」』
太宰治「走れメロス」
2009/10/27/Tue
「いい感じ。ドラマとしては盛りあがる要素‥事務所が潰れるとか優秀な人材の引きぬきとかリストラなどに代表される経営者的合理性と人情の割り切れなさとか‥がどんどん表に出てきて、これまでほのぼのとした恋愛ドラマ‥といっても、未だ恋愛には至らずってケースばかりだったけど‥を中心に描いてきた本作が、ここに来て状況のどうしようもない変化に曝されてるという構図は、物語を停滞させないためのイベントとしては文句なくおもしろいものとして評価することができるのじゃないかなって思うかな。というのもこの種の会社とか社会とかに関する問題というものは、いってみれば人の人生そのものに根ざす問題であり‥なぜなら人は働くものだから‥それゆえ容易な解決というのが不可能なのであって、どんな展開に転ぼうとも、社会に生まれる問題は万人に納得行く結末を用意するものではありえないから。‥正義の観念とか個人が備えるべき倫理的規範とか、そういった正しいことといったものはもちろん世の中には存在しないわけでないし、そういった道徳の意識がなかったなら、社会は社会として成立しないだろうこともいえるだろうことではあるのだけど、でも世界のどこかに完全な正義というものが存在するというのはただの幻想であって、世のなかには答えのない、答えの出せそうにない、答えを出してはいけないといった類の問題がたくさんある。そしてそういったものに直面したとき、人は正しさという観念の不安定さを直観し、それ以後難事に対しあいまいな態度をとることをえらばざるをえなくなっちゃうものだけど、でも正義を要求する感性は、それを認めることはゆるしがたいことなのかもしれない。‥本作において本社が為そうとしてることも、だから、べつに悪でもなんでもない。かといって正義でもない。世のなかは、二元論で割り切るには、複雑すぎるものなのかな。」
「正義だ悪だと何かを糾弾したところで、ま、この社会のシステムというものは変わるものでもないし、そういった問題というものは、ま、これは取るに足らない意見でしょうけど、地道に個人が己の日々の生活のなかでみずからに問うていくほかない代物なのでしょうね。そしてそういった機微を理解していればこそ、本作はその状況をある意味フラットに描くことに成功しているのでしょうし、なかなかどうしてこの作品はそういった冷めた大人の感性を随所にさり気なく盛りこんでくれていて、その意味でも読み応えがある一作とはいえるかしら。そしてそういった大人がどうしようもなく子どもっぽい恋心を秘めていればこそ、その魅力はいや増すというものなのでしょう。‥いい作品ね、これは。近ごろそれをよく思うようになるほどよ。」
「うん。とてもいい作品。ここ数話の純真ミラクルは上質なドラマを展開してくれていて、今まで読みつづけてきてよかったって思わせてくれる。これからの展開がすごく楽しみかな。‥これ以後、本作がどういった方向にエピソードの舵をとるのだろうって考えるのだけど、ふと気になるのはモクソンが事務所が潰れるということを知ったらいったいどんな反応をするのかなといった部分であって、彼女はその事実に対して感情的になったり、あるいはあるていどふだんの見かけからは想像つかない理性的な対応をするのかな。これはちょっとわかんない。というのもモクソンは今ある事務所の環境にとても満足してて、彼女のがんばりは自分の好きな人たちのために向けられたものでもある意味あるのだから、モクソンが事務所が不条理に潰されることに感情的に反発することは十分に予想できることかもしれない。でもそうはいっても、モクソンは外見上からは意外なくらいに理知的な面があって、そこが彼女をふしぎな魅力の人としてる要因でもあるのだけど、けっこう苦労人である彼女は‥地元の友だちや家族をモクソンは捨ててる‥事務所がなくなるという事実に対しても、割と冷静に対処できるのかもしれない。‥でも、どうなるか、ちょっと予想つかないかな。モクソンの動向にちょっと注目してみたい。彼女をどうこれから描き出すのだろう。楽しみ。」
「優秀であるという所長や工藤さんも動いているようだし、これからの本作の展開はドラマがどう転ぶかという点も含めて見どころが多くなったといえるかしらね。それに加えて各人の恋愛模様のほうも事態の推移にどう影響されるのかという点も気になる部分であるでしょうし、はてさて、おそらくこれ以降の物語が、この作品の本領ともいうべき部分になるのでしょう。それは人間の情と社会で生きることのバランスのむずかしさ、あるいは人生の困難さの問題といってもいいかしら。どのようにそれが描かれることか、これは本当に楽しみね。おもしろくなってきたことよ。次回に期待しましょう。」
2009/10/26/Mon
「相も変わらぬすばらしさ。よくこれだけのアニメ作品が作られるものかなって嘆息しちゃうほどで、率直にいって現段階の時点では、私はこの作品には諸手をあげて絶賛しちゃう気持が多分にある。ただでもだけど、本作の出来具合はともかくとしても、少し気に引っかかる部分がないわけでなくて、それはなんのことをいってるのかというと、つまりこの作品が描こうとしてるドラマはどうみてもつくづく今の主なアニメファンを対象とした物語ではないって思えちゃうところ。それは要するに本作が舞台とする八十年代において繰り広げられる浮気をメインモチーフとした恋愛物語が、昨今のオタク文化では市民権をもちえないだろうという意味あいであって、そのことは本作がそれほどアニメファンの界隈にあって、少なくとも私が見聞きした範囲では、敬遠する傾向があることからもいえることじゃないかなって思う。そしてそういった事態というのは単にどろどろした恋愛ものがそれほど受容がないという端的な理由に帰せられるものでもなくて、私はもっと、現今の萌えという言葉に象徴されるアニメの受容の仕方の変化、受け手がアニメから引き出す意味の移り変わりが、もしかしたら本作を視聴するうえでのあるキーになってるせいじゃないかなとも思うかな。‥それは一言でいい表すなら、本作は既成の萌えに真っ向から対立する何かを有してるということ。それがいったいなんであるかは、少し慎重に考えてみたいとこではあるかな。」
「アイドルとの恋愛が本作のまず第一に目につく売りではあるのでしょうけど、しかし実際にこの作品のドラマを眺めてみるならば、アイドルとの恋愛はあくまで冬弥という人間の複雑な人生の一幕にしか過ぎないのであり、この作品が描こうとしている物語は多数の登場人物たちの多様性が織り成す関係性でこそあるのでしょうね。そしてその意味では本作は、ある種のキーワードによって登場人物を単なる記号化して表現する萌え作品とは明らかに一線を画しているのであり、本作に現れる人物たちは、そのどれもが一言では表現し尽せない深みと問題を抱えているといっていいのでしょう。それは現実の人間の暗さとむずかしさを、真正面から見つめようと努めているための仕事とも、さてはいえるのじゃないかしら。」
「人間というのはかんたんでないし、ひとりの個人はいくらかの言葉でもってそのすべてを表現し尽せるほどフラットな心を抱えてるものでもない。そして人間性というものは、人間それ自身に代表されるものというよりは、あるいは多様で複雑な人々同士の関係性から眺めてはじめて浮上するものであるのかもしれないし、それならある人物がある他者と係るときは善であろうとも、ある場面、ある状況のなかでは紛れない悪として立ちあらわれることがないとは決していい切れない。‥それだから、わかるかな、冬弥は単純に最低なのでない。彼は寂しさを抱えて当て所もない芸能界を彷徨する由綺が、儚い望みをかけて電話に繋ぎ、またときには実際に会って肌を重ねるときにはこのうえない善良な個として認識されて然るべきなのかもしれないし、あるいはべつの場合でいうなら、美咲さんと決断力のない関係性に陥ったときには‥美咲さん側に問題がないわけではないけど‥浮気者の悪として糾弾される運命のほかはもちえない存在であるのかもしれない。‥あるいは孤独なマナが求めたときには? あるいははるかにとっては? ‥そういう世界の多様性のなかにあって、個人は決して単純に割り切れる存在ではありえない。しかし、ただ、虚ろな人間がそこにいるだけだ。冬弥、あなたはどこに行く? ‥その終局まで見なければ、この物語はわからない。」
「萌えというものが欲望を情報化するものであれば、そこには生きた人間の複雑さが匂うということはありえない。であるから萌えというのは浅はかさを免れないものであり、ま、もちろんそれは長所でもあるのでしょうけど、しかし萌えだけで世界は割り切れるものではおそらくはないのでしょうね。そしてそういった観点から見るなら本作はまったく複雑な世界を直視しようという意欲にあふれた、稀有な一作と評価すべきであるのでしょう。これから物語がどう転ぶことか、さて、では、期待するとしましょうか。次回も楽しみよ。本当に。」
2009/10/25/Sun
「うん、すごく上手。物語の構成といい、内容のそつのなさといい、オチの典型的で、けれど余韻のよさを残す趣味のよさといい、一話完結のエピソードとしては文句のしようがないくらい。それで、だから、今回のお話に関しては何か感想をしておこうかなって気分も起きないほどなので‥いっても感心したって気持をくり返すほかないから、それは重ねれば野暮だものね‥このエントリではちょっと本作の舞台設定について以前から思ってたことを記しておきたい。それは何ごとについてかなっていうと、ずばりいえば学園都市という閉鎖空間における人たちの価値観についてであって、もっと露骨にいうなら、この作品における世界観というのは実際的世の中で展開されてるであろう階級社会の露骨な縮図のように私には思われるということ。というのも本作の世界観においては個々人のもつ能力のレベルにおいて平等に差別されている様子が適宜描写されているからであり‥固有の能力をもたない佐天がそのことに対しコンプレックスを抱いてることに象徴的に示されてる‥それによって入れる学校の格までもが影響されちゃうということが今回のエピソードで明らかになったことも、また大きいかなって私は思うかな。そしてその意味では学園都市というのはそこで暮す子どもたちにとってはストレスの少なくない社会であるだろうし、それは現代でいうとこの受験社会の反映であり、もしかしたら本作はそれを皮肉にしてる向きがあるのかも。‥そう考えてみると、なかなか含蓄ある一作というふうに、あるいはこの作品は称すことができるかしれないかな。」
「学園都市というのは聞こえはいいのでしょうけど、しかし実際に各人の能力や素質がレベルという単純な数字によって表示せられるのだとしたなら、それによって査定される人々のストレスは実際問題予想以上のものになるのはちがいないのでしょうね。それはなぜなら高レベルに認定されたものはそれ相応の優越感を抱くでしょうし、いくら努力次第で成長は可能だといったところで、それが現実社会における勉強以上に先の見えない超能力の修練においてであるとされるならば、落第する者の数も決して僅少には済まないのでしょう。そしてそういった環境的条件があればこそ、本作にはなんともいえないようなチンピラや悪党が跋扈するのでしょうね。ま、自然の成行の産物といったところかしら。」
「へんな格好の不良の人たちがよく描かれる本作だけれど、でもそういった人たちが大量に登場するのは学園都市って環境における過度な競争社会としての側面を鑑みた場合、ある面納得する向きがあるということかな。そしてたぶん本作の世界観における能力測定のシビアさは、現実において人々が曝されてるセンター試験の模試の判定みたいなのと共通の性質のきびしさと、そしてそれ以上に人間性を無視した過酷さが与えられてることは容易に予想できることなのであり‥現実社会においてはテストの点数がすべてじゃないよってフォローはいくらでもされるし、心が大事だっていう倫理的規範は、ある意味、日本人にふかくふかく根づいてる。それはべつな言葉でいえば「空気」を読むという日本人特有の倫理観であるのだけど、でもこれはべつな問題の話になるから、この場ではさておいておこかな‥だれもが美琴みたいに強くあれない以上、子どもたちの精神が荒れてくるのは避けられない事態であるのかも。これはむずかしい問題にちがいないとは、いえるかな。」
「学園都市における子どもたちのメンタルのケアの問題は、予想以上に深刻なものがあるであろう、か。ま、たしかにそういった競争社会の弊害といったものから、これ以降描かれるだろうレベルアッパーの事件は引き起されているのだから、そのへんの問題意識を本作がもっていないということはありえないと見てまずまちがいないのでしょうね。そしてそういった部分を掘り下げてくれるのなら、本作はおそらく非常にテーマ性に富んだ、魅力ある作品に今以上になることは必至なのでしょう。そういった観点からも、ま、本作のこれからは楽しみね。では次回を期待することにしましょうか。」
2009/10/24/Sat
「本作はそもそも小説的な構図でつくられた作品というより、アニメ的な感性、いわゆるサブカル的な見方から形作られた作品であるから、さいしょに思ってたよりずいぶんとアニメ化との親和性はこの「生徒会の一存」シリーズは高かったのかもしれないって、今回の3話目を見て私はそう感じたかな。それはべつな言葉でいうなら本作で展開されるパロディ要素と、軽めの台詞の応酬を矢継ぎ早に積み重ねてくことにより間をもたせ、そして終盤にあってはなんとなくシリアスな雰囲気を演出することによりエピソードに深みをもたらすといった手法は、実に多くのアニメ作品に見出されるドラマの構成の仕方といえるということであるのであって、その意味では今回のお話はとくべつな期待をかけないで見る限り、実に安定した完成度を誇ってた出来具合だったと思う。‥ただでも、そだな、ちょっとだけ気にかかるのは、なんというかやっぱりというか、杉崎さんの言動のほうであるのであり、それはなんでなのかなって問われるなら、杉崎さんというキャラクターはもしかしたら昨今のオタク的要素の縮図として機能してるからかもしれないって、推測されるから。というのも、なんていうのだろ、この杉崎さんの一貫した主張であるところの、だれを傷つけることのない、そしてだれも自分を傷つけることのない、真の意味でのハーレムの創造といった目的、つまり彼の語る夢といったものは、もしかしたらほかの多数の人にとっても支持される夢であるのかもしれない。もちろんだれかをことさら傷つけたくないっていう主張は、それ単体としてはとくに非難すべき点はない意見のように考えられるけど、でも私が違和感を感じちゃうのは、なんていうのかな、杉崎さんの発言に、何かこうリアリティが欠けているように思えるから。端的にいうなら、彼の言動は彼自身の幻想との戯れでしかないように思えるから。‥そこまでいっちゃうのは、少しいい過ぎかなって気もしないでないけど、ね。」
「杉崎という人物はけっこう不可解というか、ま、本編中ではネタの部分はともかくにしろ有能な、他者からの信望は厚い人間として描かれているのだけれど、それが少々説得力を伴って伝わってこないのは、彼に何か恋愛の悲惨さを経験した肉体的な迫真性が備わってないからなのでしょうね。というのも、恋愛でだれかをふるということは、無論世間的にはよく見受けられることなのでしょうけど、しかし実際問題そこで行われていることといえば、人が人を捨てるというその残酷さの本質のあからさまな露呈でしかないからよ。そして捨てられた人間というものは、単純にいえば、自分が好きだった相手に自分の心を拒絶されたということであって、美しくもなんともないただの悲劇でしかないのよ。絶叫するほかないような、そういう悲劇よ。‥ま、こんなこと、そうもったいぶっていうことじゃないのでしょうけどね。本当に。」
「オタク文化の恋愛観の歪さが、もしかしたらこの杉崎さんってキャラクターには象徴的に映し出されてるのかもしれないね。それは具体的にどういうことなのかなっていうと、単純にいえば「肉体の感覚を喪失した恋愛の希求」が「萌え」ということであり、杉崎さんの語る「ハーレム」ということであるのであって、私はこれを以前「恋愛の欲望の情報化」と呼んだ(→
乃木坂春香の秘密 ぴゅあれっつぁ♪ 第1話「一緒に、いきたいです……」)。‥情報化、というのは、恋愛を幻想化するということであり、さらに突き詰めていうなら、女の欲望に立ち向うことからの逃避、もしくは、女の生臭い肉体に‥それは生理のこと‥目を向けたくないといった男の願望の実現が、それ。‥過去にあっては恋愛は恋愛それだけで完結するものでなくて、恋愛はその先にその成行の必然として「結婚」や「家庭」の段階を抱えてたのであり、それはつまり「恋愛」が「人生」の問題であることを証すものだった。でもそれは、「恋愛」が一種の「ゲーム」として認識されることにより変革され、そして「ゲームとしての恋愛」は人が人を捨てることの「残酷さ」を、徒に先鋭的に露出することに至ったのだった。‥そういう仮借ないきびしさから、逃避したいって願う男性心理は、あるいは正常な判断なのかもしれない。でも現代社会はその逃走の途として、「萌え文化」という「予定された幻想」を完備しちゃってる。それがいいことなのか不味いことなのかは、少し確言することを躊躇したい気持あるかな。性の絡む問題は、だってデリケートなものにちがいないのだろうから。」
「性の問題は心の問題と同義である、か。ま、そうなのでしょうね。そして昨今の萌え文化が「肉体性を欠いた恋愛」=「情報化された恋愛の欲望」を描くことを主軸としているのなら、それに耽溺する人々の性的欲求もまた、孤独のうちに蕩尽される運命にあるといわねばならないのでしょう。‥無論、それが悪いことだと非難したところで何も始まらない。しかし、萌え文化のために失われたものもたしかにあるのは事実でしょう。何が失われたか? 生臭い人間の肉体よ。そこに挫折する人間の涙よ。そしてそれらの問題は、もう認識されえぬ問題でもあるのでしょう。なぜならだれも自分の肉体を持っていないのが、萌え文化であるのでしょうから。」
2009/10/22/Thu
「昭和二十五年初出の井伏鱒二による「遙拝隊長」は、戦争によって気を狂わした岡崎悠一という人をめぐって戦争とそこに見出されずにはおかれないだろう狂信的な軍国主義を、素朴な筆致により浮きあがらせた、多数ある井伏の短編のなかでも殊に私の興趣をそそる一作といっていいと思う。というのも井伏というのはふしぎな作家で、安穏と率直にその文章は綴られるのだけど、行間の奥ふかく、読み手の意識がテンポよく進む物語に没入しながらもふと我にかえるその瞬間に、なんともいえない隔靴掻痒ともいうべき奇妙な感触を与える作家であるからであり、そのユニークな‥こんな気持を抱かせる小説家はそうそうない‥印象はどこから由来するのかなって考えてみると、たぶんその答えは井伏の物語るその調子は如何にも屈託のないものであるのだけど、ただ聞き耳を立ててその流れに浸ってるならまだしも、ある気紛れで彼のその言葉の発される表情を見あげてみるなら、人はもしかしたらその表情に不可思議な暗示のような、掴みどころのないイメージを発見するからじゃないかなって、そんなふうに私は考えるかな。‥井伏の作品は、だからすべてを物語らない。言葉にならないある隙間に、作者のある観念が、ある意図をもって潜んでる。そういった機微を仕込める作家は、なかなかない。」
「「遙拝」とは簡単にいえば礼をすることであり、ここでいう「遙拝」は外国に出征した軍人らが、とあることごとに東方に向って、つまり日本に向って何か目出度いことを祝い感謝するためにお辞儀をすることを指すのよね。そしてこの話の中心人物ともいうべき岡崎悠一は、まっすぐな気質をもった一途に生真面目な青年隊長であったのであり、滅私奉公、国に仕える意志とそこから生まれる誇りは、ほかのだれよりも強かった。ま、そこらがこの物語で語られる喜劇のような悲劇の原因となるのであり、それは一転して軍国主義的なものへの皮肉や非難となっている。おそらくそこらがこの作品の表面的な構造なのでしょうね。日本軍がもたらした過剰な精神主義を揶揄するという目的が。」
「狂人となった岡崎悠一は村人たちやたったひとりの身内であるお母さんにひたすら迷惑をかけながらも、その気分だけは未だに将校のそれであって、現実の彼と彼が語る軍人気質の落差が生みだすギャップが、この作品のユーモアの第一点におかれてるんだよね。そしてそれは悠一がだれよりも熱意をもって軍人という生業にとりくんだがために生じた結果であったのであり、彼は状況がそうであったというのは当然あるにしても、でもなんの疑いなく日本軍的精神主義に邁進し、ために理性を失ったのであるから、井伏が本作にこめた思いの率直さといったものは、なかなか強烈なものがあるというふうにはいえるかな。‥でもただだからといって、単純にこの作品が戦中の軍国賛美を揶揄するためのものと早合点してはいけない気が私にはするのであって、それはなぜかというと、この岡崎悠一という人間は、ただ平時にあったなら、ふつうにまじめに生活できる常識人にすぎなかったであろうなって思われるから。‥彼はその点ではどこにでもいる凡人でしかない。そしてだからこそ彼の気の狂う様は、いいようのない喜劇的な要素と、どうしようもない悲劇的要素にあふれてる。それは滑稽な人間の実存ともいうべきものだった。」
「岡崎悠一が馬鹿正直な人間であり、どの世界にでも見受けられる類の一本調子の秀才児だったということはたしかに本作から読みとれることであるのでしょうね。そしてそういった人間であればこそ、時代の風潮といったものにはいとも容易く染まってしまうとも、はてさて、もしかしたら指摘できてしまうことなのかもしれないかしらね。というのも、真面目で能力のある人間ほど、そのときの空気を読む能力に長けているからよ。しかし、その末路が狂気だと、笑うに笑えないかしれないかしらね。それはその狂気が、一時は真実真面目な挙動でもあったからよ。狂気と常識の境目は、それほど脆いのよ。それはなんて不安定な話かと、嘆息するばかりかしら。はてさてね。」
『その日は、悠一のお袋が一時間ばかり捜しまわった末に、身の不運に涙をこぼしながら、せがれを捜すことを断念した。悠一は山の中腹の共同墓地で、墓の列の間を歩きまわっていたのである。彼は墓を一つ一つベルトでなぐりつけながら歩いていた。墓石を兵卒とみなしたような意気込みで、ぴしりぴしりとなぐりつけて、口のうちでつぶやいていた。
「ビンタをくらえ、貴様もくらえ、貴様もくらえ。ビンタをくらえ、貴様もくらえ……。」』
井伏鱒二「遙拝隊長」
井伏鱒二「山椒魚・遙拝隊長」
2009/10/21/Wed
「ごく私事になるのだけど、つい先日、私が個人的に読みつづけていたとあるサイトが閉鎖された。そのサイトについてはこのブログで言及したこともないし、私自身がそのサイトの運営者の人にコメントなりなんなりでコンタクトをとったこともない。有体にいえばサイト運営者にはぜったいに具体的に知られることのない、よくある大多数の無名の閲覧者のひとりにすぎなかったのだけど、ただそのサイトを私は、何年になるのかな、たぶん少なく見積もっても四年以上読みついでいたわけであり、その意味では無言のうちにふかい友愛のようなものをそのサイトとそしてそのサイトの執筆者の人に向けていた。だからというわけでもないけれど、そのサイトが近々過去ログを含め、すべて消え去ることに、なんともいえない空虚な気持を私は今感じてる。‥もちろんネットの世界にそれなり接し、そして曲りなりにも四年の月日にわたってブログを書いてきた私にとって、あるサイトやブログがネットの世界からその痕跡を、まるであたかもさいしょからそんな文章はこの世に存在しなかったかのように、拭い去り、永久に行方知らなくなってしまうといった経験は一度や二度でない。だから今回も、その先に経験した喪失感と同様の喪失感を私は感じるにちがいないのだけど、ただ何かな、ここ数ヶ月、比較的にとはいえ、あるていどブログにとりくむ時間を意識的にと無意識的にといわず少なくしていた私にとって、今こうして消え行くサイトを見ることは、まったく私と無関係でないある感触を与えてくる。それは端的にいうなら、私もいつかはこのネットの世界から消えちゃうのかな、という漠然とした予感。そして消えるときはどんなふうに消えるのだろう、という思い。‥泡沫のような、その思い。」
「ネットというのは不思議なものなのよね。というのもネットに現れる個人というものは、現実の世界に生きているその個人そのものでは、いろいろな場合はあるのでしょうけど、基本的には同様な存在なのではないのであり、であるから匿名と実名のへんてこな議論も生まれることになる。しかしブログは匿名だ、ネットに現れる個人は実際のその個人そのものではないのだといったところで、それは表現活動そのものに根ざす根源的なものであり、なぜなら作品イコール作者という公式が成り立つはずのないものであることは、一度でも創作を、なんなら文章をでもいいから、書いてみたことのある人にとっては自明であるからよ。‥そして数年もひとつのブログで活動していれば、もうそれは匿名でもなんでもなく、「そのブログ」といった個性と「実在」を獲得することになる。そして、ま、だからあるサイトやブログが閉鎖するということは、その実在が消失することを指すのでしょう。それは文章の蓄積とはいえ、ある時間の積み重ねとそれによって獲得された個性の死にほかならないのでしょうね。それは、だから悲しいことよ。」
「ブログを書いてきてふしぎに思うことがある。それはつまりいうと、ブログの書き手と読者の関係の問題であり、もっと詳しくいうと、私はどんな人にどう読まれてるのかなといった書き手の思いと何もみずからの意見を発することなく無言に私を見てくれている個人の胸中の思いの、その二つの単純な関係性の問題。‥たとえば、どれくらいの人が見てるのかなっていった疑問は、アクセスカウンターなりを設置すればあるていどは概括的に把握できることで、そして多くの人はただ単にアクセス数の増減のみをブログをつづける‥つまりネット上に存在しつづける‥動機にしてる。それはもちろん私にとってもそういった動機がないわけでないけど、でもそれよりよけいに私に気にかかるのは、いったいどんな人が読んでるのだろうっていった疑問のほうであり、そしてそれには率直にいって、答える方法はまず存在しない。なぜならコメントなりトラバなりで実際に私にコンタクトをとってくれる人よりも、そうしない人の数のほうが現実に多いものね。‥でも、だからこそなんていうのかな、私はその無言の関係性といったものを思う。無言に、沈黙のうちに紡がれるネット特有の関係性のうちに、私はある種の信頼のようなものを思索する。‥そして私がそういった信頼を寄せていたひとりの人は、ネット上から永久に消え去る。私はそれをどうする権利も意志もない。ただ私は考える。私がネット上に積み上げてきたものの意味を。その足跡を、過去を負うことの意味を。ただ孤独に、考える。」
「ブログというのは極論すれば、べつに書かなくてもどうでもいいものなのよね。書かなくても生きていけるし、ブログが生活において不可欠なものになるはずはないのでしょう。それにあるときは延々と同じブログという場で発信しつづけることに倦んでくるかもしれないし、すべてをリセットして新たにべつの場所で活動してみてもいいかもしれないし、匿名の掲示板で気ままに言葉を吐き出してみてもいいかもしれない。べつなアカウントでtwitterを開始しなおしてもいいのかもしれない。‥しかし、ま、それでも「私」は孤独なのでしょうね。何をしようと、どこに行こうと、孤独に生きつづけるほかない。それは致し方ないことでしょう。しかし、進むほかないことでもあるでしょう。なら進むほかない。進みつづけるしか、方途がない。そうでしょう。」
2009/10/19/Mon
「とてもよい出来。原作をすごく上手にアレンジしてて、原作で描写があまり掘り下げられてなかったところをキャラクターの魅力をより増すように考えられたエピソードの補完の仕方は、まるで原作に忠実にアニメ化する際の見本のような完成度で、今回のお話だけを見ても本作のほかの作品にはなかなか見受けられないだろう作品の品質の安定感を覚えずにはられないかな。とくに今回のお話は美琴の本作における実質的なパートナーであろう黒子の独壇場といった感じで、黒子のそのはちゃめちゃな性格と立ち居振る舞いが気に入ってる私としては、大いに満足の行く内容だったと評価していいと思う。黒子、かわいくてよろしかな。‥私、黒子好きだから、このまま上条さんでなくて黒子が美琴とずっと仲よくなってくれればいうにことなしなのだけど、でも原作本編ではそういう成行にはなってないみたいで‥私は原作である禁書目録のラノベのほうは1巻以降読む気にならないから、単なる人の話伝手にいうだけなのだけど、でも前までやってたアニメのほうでも美琴の気持は上条さんのほうに向ってたから、美琴が有力のヒロインの一角であるのは疑えないのかも。上条さんのどこがそんなにいいのかーって私はきいてみたい気持もするけれど、美琴の一途な性格を鑑みれば、上条さんにふられでもしなければ彼女の意志は揺らがないのだろうな‥美琴は上条さんとの仲を深めてくのが正式なストーリーの展開みたい。‥それはちょっと残念。上条さんがあんまり得意でない私としてはなおさら。説教されたくないもの、私。」
「ま、説教云々はおいておいても、当麻の魅力とは果してなんなのかしらね。本編では誰彼問わず人気があるみたいだし、案外彼のように自身の信念と美意識を所構わず主張するところに男性としての魅力を見出してしまうのものなのかしら? ‥ま、説教というか説得というか、当麻の弁舌を何に分類していいのかは議論があるところなのでしょうけど、しかしとりあえず説教というのはいってみれば「お前は私の意見に従え」という権力的なメッセージの発信にしか過ぎないとはいえるのよね。だからその意味では、当麻の強引なまでの腕力に惚れる女性が、この作品には、はてさて、多いということなのでしょう。強引な手法も一線を越えれば破壊力があるというのは、ま、それなり一般論ではあるかしら?」
「この前ある人が、というか
まぬけづらさんが、黒子は報われないから魅力あるキャラだっていってたけど、たしかにそれは首肯できる部分があるのであって、なぜなら黒子はどこかで美琴の境界を越えないようにしてるからであり‥それは私と相手のプライベートの境界を、という意味‥黒子は美琴に対し踏みこみすぎないでいるからこそ、美琴は黒子と同居してられるのだろうし、黒子のふざけ半分の馴れあいを楽しめることができてるのだろうなって思われるから。‥でもすると、黒子はいずれ自身の思いがいずれ破れるだろうことをどこか頭の片隅で予見してるということであり、もちろんそういった否定的な感情を彼女は常のつよい意志の力で克服して表に出すことは決してないのだろうけど、しかし視聴者は彼女の本心を想像する際、彼女の思いの悲劇的な性質を想像しないわけにはたしかにいかなくなる。‥もしかしたらそれが黒子というキャラクターの魅力の本質なのかなって気がするけど、でもあるいはそこまでいっちゃうのは深読みのしすぎかもしれない。だって、未来がどう転ぶかは、たしかにだれにも確言できることではないのだから。‥そう思うことでしか、今を耐えることはできないのだから。」
「現時点でそこまでいってしまうのはたしかに考えすぎなのでしょうし、おそらく本作ではこの少女たちの関係性にある程度の決着をつける段階まではストーリーが進行しないと見たほうがたしかではあるのでしょう。しかしただ、原作のライトノベルのほうは否が応にも決着は、普通ならばつくのでしょうし、その展開がどう転ぶにせよ、黒子のおかれる立場はいくらか辛いものが残ることになるとはいえるかしら。なぜなら当麻と美琴が結ばれようと、あるいはそうでなかろうと、人の思いというものはそう簡単に清算のつくものではないからよ。人が人を捨てるということがありうるのが、恋愛の本質であるからよ。‥ま、嫌なものかしらね。捨てる捨てられるを考えるということは、たとえそれが訪れるか分らない未来のことであるにせよ。はてさて、ね。」
2009/10/18/Sun
「すばらしい。感嘆するほかない。昨今、本作ほど一話に情報量を詰めこみ、描かれる登場人物それぞれにふかい含蓄をもたせ、なおかつそれを安易に語らせることで表現するのでなくして、ただただ場面に、画面に、その挙動に解釈せしめる余地をもたせることによって表現し、物語全体から受ける印象はひたすら静謐ながら、その裏ではどれほど激しい感情の波が渦巻いてるか思い及ぼせないほどのアニメ作品を見たことは、まったくまるでなかったっていっても過言じゃないのじゃないかなって、私はおどろきをもってそう思う。‥ただすばらしい。すごいアニメだ、white album. おどろいた。とくに今回衝撃を受けたのは意外かも知れないけどさいごの次回予告であって、あの幼い少女が口紅でみずからの唇を辛苦に染め、そして手鏡に映る己を見つめ、己が己に口づけする場面のたとえようのない背徳的で魅惑的で淫靡な雰囲気は、ただそれだけの映像を見せられたなら、いったいだれがアニメの予告だと感づくことができようという出来具合だった。まったくそのエロティシズムは群をぬいてる。‥ちょっといい過ぎかもしれないけど、私はあんなにエロティックなシーンをアニメで見たことはほとんどなかった。さらにすばらしいのは、あの少女が何を本作において暗示してるのかという点に求められるのであり、ならいったいあの次回予告の象徴的な少女の自慰行為が‥自分で自分にキスすることが、自慰行為以外の何ものであろうか‥何を私たち視聴者に伝えようとしてるのかなって検討するならば、私は躊躇わずこう答える。すなわち、あの少女は本作が「自己愛」の物語であることよりほかに、いったい何を意味してるというのだろうか、って。」
「なんだかいつになく絶賛ね。しかし、ま、意味深な展開にはたしかに本作はなってきたことかしら。正直1話目を見たときにはここまで複雑に入り組んだストーリーになろうとは予想だにしてなかったし、もしここまで手のこんだドラマをやろうということをあらかじめ知っていたとしても、到底これほどの完成度に仕上がるとは信じられなかったでしょうから、まったくその意味では本作のスタッフの力量というものには感服せざるをえないでしょう。とくにすばらしいのは、本作が完全に群像劇として文句のない構成になっているところかしらね。だれもが自分にしか分らない孤独を抱え、その孤独を癒すことにただ一所懸命になっている。それはたとえていうなら世界のどこにあっても変わらない人間の本質を本作の登場人物たちは表しているということであり、彼らの苦しみは私たち現実の投影でこそあるのでしょうね。そう考えると、本作の雰囲気は暗くて当然なのでしょう。私たちの心は、常にこのようなものであるのでしょうしね。」
「さいしょは冬弥がいろいろな女の子と仲良くなってくいつもの美少女ゲームのストーリーなのかなって思ってたけど、今ではそれはぜんぜん当てはまらないことが明らかにいえるのだものね。それはたとえば一時は冬弥に心を寄せていたはるかやマナがもう冬弥との距離を縮めようとはせず、新たな関係性を互いのうちに見出してることからもいえることであるし‥この二人はすごくいい。感嘆かな‥冬弥をもう過去の人にしちゃって彰を恋人にしちゃってる美咲さんといえども、二人の関係はそれほど磐石なものでなくて、そこには冬弥が介入できない、そもそも知ることさえないだろう二人の恋愛の局面があるのであり、それはそれでひとつのドラマになりうる主題を提供しうるほどのものである。‥そしてそんな状況のなか、未だ自分以外を見ない、あるいは見えない由綺は、冬弥の心さえ理解しようとせず、代りに幻想の自虐癖に浸り、あまつさえ冬弥自身にそのくだらなさを看破されながらも、彼女はいつまでもどこまでも鳥かごののなかに留まってる。‥そして冬弥のお父さんはしずかに孤独を説く。すでに孤独でしかない息子に、その孤独を自覚させるがために。孤独に徹することを、教えんがために。」
「皆が皆、利己的なのよね。自分を愛されたい理解されたいと願いながらも、相手との距離を縮めよう、自分の欲望を我慢して、なんとか相手を理解してやろうという、やさしさには欠けているのよね。だからそのためにこそ、彼らは幸福になることが叶わないのであり、というのも愛というものはいってみれば意志ある忍耐でしか成就できないものであるからよ。‥しかし、そうね、かといって、彼らをただ徒に責めるのはそれほどフェアなことでもないのでしょう。なぜなら現実の私たちこそが、理解されたいと強烈に願いながらも、他者に対する寛容をどの程度までもちうるかは、ま、甚だ心もとない自信しかないものでしょうからね。そしてべつな意味でいえば、だからこそ本作のストーリーはこうも胸に迫るのよ。そして心に痛いのよ。孤独に沈む個人のくだらない悲劇は、あまりに私たちに身近なものであるのだから。」
2009/10/17/Sat
「昭和三十八年に連載された「わたしが・棄てた・女」は、遠藤周作、最大の問題作だと、私個人はそう思ってる。‥それでそれじゃ私がそういうふうに考える理由はなんなのかなってことをこのエントリで記しておきたいと思うのだけど、でもまずその前に、前提として理解しておかなきゃいけないのは、本作がいわゆる大衆作家としての遠藤周作の作品であるということで、本作はそれほど重厚に、つまり文学的な筆致でもって書かれた作品ではないということであって‥といっても、私は大衆小説とそれ以外の、なんていうのかな、純文学なるものを区別してるわけでは決してない。純文学なんて言葉がそもそも意味不明な代物であることは明瞭だし、大衆雑誌にことさら平易な文体で書かれたからって作品自体のテーマ性やドラマ性が薄れるなんてことはまったくありえない話にちがいないだろうことは、おそらく理解されることだよね。そして私がその種の大衆小説も好んで読むことは、吉行淳之介などへの私の向きあい方と、またラノベに対する姿勢を勘案してもらえれば、より容易に理解されることと思う。ことさら気どるのはばかみたいだものね‥だから読み下すにはそれほど苦労を伴わない一作ではあるのだけど、でも本作が描き出さんとしたものは、まちがいなく遠藤周作その人の追い求めてたテーマの一端だったであろうということ。それは遠藤をそれなり読んできた人にとっては自明なことだと思うし、この作品が苦しみへの共感、生の意味、連帯することで示されるだろう愛の実現をまざまざと克明に描写している点においては、ほかの遠藤の作品と比べても、あまりに「わたしが・棄てた・女」はこの作家の倫理意識の鮮明な表現として結実してるのじゃないかなって私は感じるかな。‥でもそれじゃ、いったい私は遠藤の作品のなかでも劇的なドラマ性を誇りうる本作をどうして問題作だと指弾するのだろうというと、その理由はいたって単純。私は、ミツが、大きらい。‥この一点に、尽きるかな。」
「本作のエピソードを非常に簡略化してまとめるのなら、どこにでもいるだろう平凡な男が、ある夜、どこにでもおそらくはいるだろう田舎から上京してきて働いている少女の貞操を奪うというもので、ま、無知で物事の機微にも疎い女の子が都会のどうしようもない男の食い物にされるという、いってみるとなんともな話であるのよね。そして少女のほうはそんな目に遭わされたというのに、母性本能というかそういった心理で、たった一夜を共にした男に深い愛情を抱いてしまう。ここらへんはこのミツという女性が男に靴下を買ってあげようって述懐する場面が実に印象的ね。彼はろくな靴下をはいていなかったから、靴下を買ってあげようと彼女は思うのよ。もちろんミツにとってはそれは気を回しているつもりなのでしょうけど、しかしこういった母親の口うるささに属するような愛情の表現は、ほとんど男性は疎ましく思うところのものなのよね。‥ま、以上のような娘がミツであって、よくあるテンプレのような田舎の少女を思い浮べてもらえると、ミツという人物は理解しやすいかしら。美少女でもなく、すぐ周囲に埋没してしまいそうな地味な子よ。そういう子が本作のテーマだったのよ。」
「そのミツとは一度逢瀬をしたあとは、もう彼のほうは忙しい日々に紛れて行っちゃって、ミツの記憶は次第に薄れ、彼は社会人になり、そののち恋人までできて婚約しちゃう。‥でもその一方ミツはといえば、工場勤めを辞めたと思ったら酒場で働いたり挙句の果てには風俗で働かせられそうになったりで、あまりといえばあまりに幸の薄い成行に陥っちゃう。そしてその極めつけはハンセン病と判断され、ある病院に送られちゃう場面なのであって‥というのも当時にあってはハンセン病は不治の病であり、基本的に隔離するほか方法がなかったから‥ミツの悲惨な境遇は目に余るほどだった。‥でもそんな薄幸なミツとはいえ、彼女の基本的な性質はどこにあろうと、自身がどんな目に遭おうと揺るがない。それは他者が苦しんでいるのを見ると、ふかい憐憫を感じずにはいられないというものであり、そしてだれかにやさしくすることが、そのまま自分の生きる意味そのものだって考えて、それを疑わないという彼女の無類の尽きぬ愛情だった。‥私は、あるいはここでこういったミツの愛情こそが肝心なんだってことをいうべきなのかもしれない。でも、私はそうはいえない。私はミツのような生き方を、首肯しない。そんなふうに、生きちゃいけないって、私は思う。そしてそう思うことは、私の誤りなのかもしれない。でも、私はミツを受け容れられない。そればかりはしかたない。しかたない‥しかたない‥。‥そんなわけもないとでも、果してあなたはいうのかな? でも、私はミツに否と答える。彼女の背後の十字架に否と答える。この作品のあり方に、否、そう答える。‥そればかりは、譲れない。」
「この作品はまったくお涙頂戴ストーリーの典型ともいうべきものなのでしょうし、ラスト、ミツの行動と態度には少しばかりの涙をこそ見せるべきなのかもしれないかしらね。‥しかし、何かしらね、ミツのような愛情を向けられた人にとっては、本作はそう感動できるものではないのよ。もちろんそれは本作に描かれたように、貞操を奪った挙句慕われたから困ったといったような自業自得の類ではなく、ふとしたほんのつまらない出来事で築かれる人間関係が、深く思いものになったとき、思いもかけない重圧が、果して個人に降りかかることが、人生にはときとしてあるということよ。‥そしてそれは、辛いのよ。‥曖昧な言い方だけれど、ま、人間関係というものは分らないものかしら。はてさてとと呟いて、誤魔化しておきたいところかしら。‥本当、それくらいしか、能がないのよ、人間の愛情の重みを前にした、単なる人間の呻きとは。」
『私は時々、我が身と、ミッちゃんをひきくらべて反省することがありました。『難事、幼児のごとく非ずんば』という聖書の言葉がどういう意味か、私にもわかります。『伊豆の山々、日がくれて』という流行歌が好きで、石浜朗の写真を、自分の小さな部屋の壁にはりつけている平凡な娘、そんなミッちゃんであればこそなお、神はいっそう愛し給うのではないかと思ったのです。あなたは神というものを、信じていらっしゃるか、どうか知りませんが、私たちの信じている神は、だれよりも幼児のようになることを命じられました。単純に、素直に幸福を悦ぶこと、単純に、素直に悲しみに泣くこと、――そして単純に、素直に愛の行為ができる人、それを幼児のごときと言うのでしょう。』
遠藤周作「わたしが・棄てた・女」
遠藤周作「わたしが・棄てた・女」
2009/10/13/Tue
「実は私はけっこう萌えアニメが好きで、なんの気なしにぼんやりとこの手の作品を見るのはけっこう楽しい余暇の過し方であるかもしれないかなって勝手に考えてるほどなのだけど、本作「乃木坂春香の秘密」に関していえば、その例に洩れない萌えアニメであるばかりでなくて、いわゆる男の子向けのハーレム作品のテンプレを網羅してる典型的な作品として、私には萌えを考えるうえでそれなり興味ある題材を提供してる一作として認識してる。それというのはつまり、なんていえばいいのかな、私はこの作品に出てくる人たちの考えとか行動の仕方、態度があんまりよくわかんなくて、とくに主人公の綾瀬さんに限っていえば、私はなんだか彼のことは感性的にぜんぜんわからない人だなって気がしてるから。だからちょっと失礼な言い方をしちゃうなら、綾瀬さんと私という人の理解の断絶はもしかしたら宇宙人に出会ったときのそれと同等なものがあっちゃうかもって考えるにやぶさかでないくらいに、劇中描かれる綾瀬さんの態度なりスタンスは私にはよく見えてこないっていっていいかもしれないかな。‥彼という人、もっと敷衍していうなら、彼にあらわされるオタクなりなんなりの考え方や価値観といったものはなんなのだろう。それを私はぼんやりと本作を視聴してるあいだに考える。それは萌えという語の現代広くオタク層に共有されてる感性を、検討するという意味あいでもある。」
「今回の話だけを見ると、裕人も春香も両思いであるのは疑えないのでしょうね。それは自分の趣味のことを偏見なく理解してくれており、そしてこれまであまり交友関係のなかった春香にとって初めてできたであろう親しい関係の人間という事情を勘案すれば、春香が裕人に行為をもつのはそう理解に苦しむことではないのでしょうけど、しかし一転して裕人の場合を考えてみると、彼の行動はなかなか理解に苦しむ点が多々あるのよね。というのも、彼は果して本当に春香のことが好きなのかしら? 何かこう、そこらへんがよく掴めないのよね。今回のエピソードでも春香が笑顔でいれば彼女の気持はどうでもいいみたいなことをいっていたけれど、何かそれはちがうのじゃないかしらと思うのよね。どうも彼は純情とも純粋とも春香のことを一途に思っているというわけでもないようで、よくスタンスの分らない少年といわざるをえないかしら。はてさてね。」
「萌えってよくわからないよね。萌えってなんなのかなってふしぎに思うし、そしてそれはこの作品のようなハーレム作品において提示される「萌え」が繰り広げるだろう不可解な性質を鑑みて、よけいにその謎をふかめてるのかもしれない。というのも私はこれまで「萌え」って言葉は無論そこには性的なニュアンスが加わるけど、でも単に「好き」っていう言葉の単純な代用なのかなって考えてたのだけど、さいきんはもしかしたらそうじゃないのかもしれないって考えをあらためるようになってきたから。そして私がそういうふうに考えを変化さすようになった理由の一端が本作のようなハーレム作品においては、そこで描かれる少女たちは主人公にとってひとりの人格ある個人というよりも、もっとオブジェとしての性格‥萌えという記号を満たす存在‥としてカラーがよりつよいのじゃないかなって思われるようになったからであり、ハーレム作品で描かれる恋愛は恋愛でなくて、ある種の様式、萌えを消費するスタイルにすぎないのじゃないかなって、そう思うようになってきたからというふうにいえる。‥たぶん「萌え」は「好き」とはちょっとちがう。「萌え」は恋愛したいって欲望に根ざす、あるいはそこから発生する、消費行動と看做すべきなのかもしれない。そしてそれならこういえる、すなわち、「萌え」とは「恋愛の欲望」の「情報化」である、って。」
「「萌える」という言葉がある種の「消費行動」だと看做すならば、「○○は私の嫁」といったり、作品が入れ替わるごとにとくに葛藤なく「嫁の交換」が可能なのも、納得できる態度にはなるとはいえるのでしょうね。そしてであればこそ、「萌え」とは人々の「恋愛の欲望」の先鋭的な表現と考えられるのであり、「萌え」とは本当にただ「恋愛幻想」のもたらしたものに過ぎないのでしょう。というのも、「恋愛」が「恋愛」だけに限定されるということは、ある特定の時代を除いてはありえない現象だからよ。かつては「恋愛」と「結婚」は不可分であったし、「婚姻」や「家庭」、そしてそれに連なる「家系」を抜きにしての「恋愛」など考えられるはずもなかった。しかし、そうね、近代の恋愛幻想は、人々に恋愛のみをする欲望の可能性を教えたのであり、それが個人の人格を捨象した「萌え記号」による少女らの「消費」を可能にしたのでしょう。‥ま、と考えていくと、いろいろ興味深いものかしらね。本作はその意味でなかなかおもしろい一作であるとはいえるかしら。だからなんだかんだで、楽しみね。次回がどうなるか、では見させてもらいましょうか。」
2009/10/11/Sun
「おもしろいっ。こんなに魅力的なドラマを展開してくれるアニメは久しぶりに見させてもらった! 「WHITE ALBUM」まっててよかった期待どおりすばらしいっ。‥というわけで、そろそろ半年以上も経つのかな、気になる引きでずいぶんとやきもきさせられたWHITE ALBUMのつづきがはじまったわけだけど、その出来と内容のおもしろさはこれまでの本作の完成度に違わず、思わず時を忘れて画面に見惚れちゃうくらいにすばらしい出来具合だったって評価していいのじゃないかなって私は思う。というのも、登場するだれもが自分自身どうしようもない心を抱え、虚ろな本能と性の衝動と孤独の辛さの前に、否応なく複雑な関係性の只中に身を落してく様は、まさに重厚な人間ドラマの本懐ともいうべき重みがあるのであって、こうまで真摯にある抜き差しならない立場におかれた弱い人間のとるだろう行動と心理真正面から描き出さんとする作品は‥弱い人間、といったけど、その弱さはただ単に状況が彼にそれを呈示することを要求したにすぎないのかもしれない。冬弥が醜く倫理的に許容できない行いをしちゃうのも、それは彼がそういう人間であったからというわけでなくて、彼の悪は彼以外の人間にも大なり小なり潜在するものであり、ただ冬弥に仕向けられた環境のきびしさが、彼をして、彼をひどい人間に仕立てあげてるだけなのかもしれない。その真実は、だれにも確言できることでない‥私の記憶のなかでも、そうなかったのでないかなって気がするかな。それがアニメならなおさらのこと。この作品のように勇気をもって人の醜さを直視しようって作品はざらになかった。本作は、だからすばらしい。」
「冬弥は見るからに駄目な立場にあるのであり、そんな彼を最低といって切り捨ててしまうことは簡単だし、またしかたない世人の反応でもあるのでしょうけど、しかし彼はそう生来的な悪意の人というわけでもなくて、基本的には少しデリカシーの欠ける凡庸な個人というに過ぎないのでしょうね。それは彼くらいに気配りに疎い人間は、世の中には決して少なくないということでもあるのであり、ただ冬弥が不味いのは、彼が女性関係でへまをやってばかりという点に限られるのでしょう。もちろん、彼のやっていることは肯定できることではないのでしょうけど、しかしだからといって彼は悪人ではないのよね。ま、むずかしいところではあるかしら。」
「人は冬弥を軽蔑するかもだし、彼に対して一定の軽蔑をおぼえるということは人の道徳的意識として正しいことなのかもしれないけど、ただある種の恋愛的な経験をもった人は、あるいはそういった恋愛的な経験の質感とでもいうものを感じとったことのある人にとっては、冬弥を一概に切り捨てることは‥つまり彼を自分とは異なる人間として忘却してしまうことは‥ためらわれるのでないかなって気が、私にはする。というのも、人はだれでも冬弥のような罪に陥る可能性は秘めてるのであり、私はぜったいに冬弥のようなことはしないよーって自信をもっていえる人ほど、あるいは反対に冬弥の示す悪がどれだけ凡庸であるかの認識を欠いてるのでないかなとも、私には考えられるかな。‥なぜなら性とは、人を殺すところまで個人を導く可能性を秘めた力であるのだから。そしてそれを知る人は、冬弥が鏡に映る己の未知なる部分の暗示であることを、それとなく予見するのだろうから。」
「本作を楽しむには、あるいはもしかしたらそういった種類の恋愛の、もしくは大きな意味での人間関係の困難の経験を抱えた人でなければ、素直に楽しめない部分があるのかしれないかしらね。‥ま、これは少し余談になるのでしょうけど、非モテとかいって恋愛に無縁だった人が、ある日突然性経験をし、その結果人が変わったようになってしまうということは、そう珍しくないことであるのよ。そしてそういった瞬間を見たことがある人にとっては、性とはまさしく悪魔的な何かなのかもしれないと考えるのであり、本作のようなドラマも、完全に絵空事というふうには感じられないのでしょうね。ある種のリアリティがあるのよ、この手の恋愛ドラマというものは。もちろんそういったリアルに遭遇しないほうが平和的であるのでしょうけど、しかしこれは一種の運命であるでしょうからね。ま、はてさてといったものよ。未来はどうなることか、分らないものでしょうしね。」
2009/10/10/Sat
「連載中と異なって、まとまったストーリーをコミクスの形で通読してみれば、もしかしたらこれまで見えてこなかったこの作品のべつな側面がわかってくるのでないかなって期待をこめて、「東方儚月抄」漫画版の最終巻であるこの底巻を手にとったのだけれど、ぱらぱらと一読した限りでは、私にはただこれが連載してたころももうけっこう前のことなのだねってなつかしい気持を思わせる以外に、とくに本作に関して新たに考えさせられる要因の発見には至らなかったって、ここに告白せざるをえないかな。といっても、もちろん私は連載中にこの作品に関してはそうとうなことを述べてきたと思うし、今になって新しく過去のエントリに付け足す意見がなくても、それはそれでしかたないかもしれないかなっていう思いは否定できない。‥ただ、それでも何かな、ふと考えちゃうのは、連載中、私は本作の感想についてはできる限り本編で登場し扱われてた原典を探ることを第一の課題として検討してきた。それはたとえば作中に出てくる神さまが実際どのような神さまなのかなっていうことを調べることにより、本編に示されている意図をつかむよすがにするためだったのだけど‥というのも、明らかに本作は多重的な暗喩を駆使してつくられてる。ある場面においてなぜこの神さまを使役するのか、なぜこの用語を用いるのかについては、たぶん何がしかの意味があるはずだって私は推測してたし、そしてそれはたしかにあるていどの意味が介在してたことがたしかであったことは、過去エントリを見てもらえれば理解せられることと思う‥でもそれが最終的に本作全体の意図を把握することに役立ったのかといえば、私は、否だと思う。‥うん、私は本作の読解にはけっこう失敗しちゃったかなって気がしてる。その理由は端的にいえば、私は本作が何を描きたかったのかわからなかった。あるいはもしかしたらただ単に、本作がストーリー的な点においては破綻しちゃってるというだけなのかもしれないけど。」
「本作のむずかしいというか、ま、意図がつかめにくいところが何かといえば、それは月の住人において表された思想性をおいてほかにないのでしょうね。というのも底巻の巻末においてZUNさんは本作を指して「いかにも東方らしくなった」と述べているけれど、しかしはてさて月のリーダーである綿月姉妹のみを考えてみるならば、彼女たちはどうにも、東方のキャラらしくない人たちであるのよね。それは東方のキャラクターが大小のちがいこそあれ基本的に「訳分らない」性格と思考回路をしていて、そしてその行動はまったく「適当」であるのだけれど、しかしそれに反して綿月姉妹は月を守るという実に「分りやすい」目的と「合理的」な思考をもったキャラであったのであって、それはなんというか、異質なのよね、非常に。ここが本作を東方らしくなくしてる最大の要因であり、そしてある種の受け容れがたさ生じてしまっている原因であるのでしょう。とっつきにくいのよね、豊姫も依姫も。」
「本作を全体的に俯瞰してみるなら、この遊び心を失い過剰な自尊心をもった洒落を解さない下々の手の届かないエリートである月の民を、婉曲的な方法で揶揄するといったことが、本作の決定的なテーマであったことは疑えないと思う。そしてそう考えるならば、本作はあくまでゲームとして遊びとしてふるまってる東方の住人たちが、ちょっと冗談の通じない相手である月にちょっかいを仕掛けて、その結果、返り討ちにされちゃうという方向性のエピソード、つまりレミリアたちの側のストーリーが片方にあって、そしてもう一方にはその融通の効かないエリートである月人をからかってやろうってひとつ画策した「大人気ない大人」であるとこの紫と幽々子の暗躍のエピソードが配置されてたっていえるのじゃないかな。‥とすると、本作にふかく根ざしたテーマ性とは「からかい」であったのであり、それは「遊び心」を理解しない頑なで、そしてちょっと腹立つくらいエリート意識のある頑固なありがちな「大人」を、「罪深い子ども」が引っ掻き回すお話だったって、そうまとめることが可能になってくるのかな? ‥ちょっと、わからない。私にはまだわからない。上手い解釈が、果して本作には見つかるのかな? 私には、わからない。」
「月の民というおよそ東方には似つかわしくない性質のキャラクターをわざわざ登場させたその意図はどこにあったのか?という疑問なのかしらね。そしてこの問題をむずかしくしているのは永遠亭の存在があるからであり、というのもエリート意識の下手に強い月の都のあり方に疑問を感じ、その結果として幻想郷に住むことを決意したのが輝夜や永琳だったとするなら、彼女たちの本作において果した役割、とくに小説版のそれについては、より多様な解釈が可能になるからよ。それはまた永琳が月の賢者だとされていればこそ、なおさらにそう思われるのでしょうね。なぜなら永琳が誤ることのない存在だとすれば、彼女の弟子である綿月姉妹も、いずれ永琳が地上に住みつづける、子どもらしさにあふれた幻想郷に居つづける理由を見出すかもしれないからよ。‥ま、なかなか読解するのが大変だった作品だったかしらね。それでも楽しいことは楽しい作品だったといえることはできるでしょう。長く味わわせてもらったことよ。その点はただ感謝かしら。」
ZUN、秋★枝「東方儚月抄 Silent Sinner in Blue.」底巻→
東方儚月抄 第十五話「星屑の人間」→
東方儚月抄 第十六話「旧友の地図」→
東方儚月抄 第十七話「二十七と三分の一の罠」→
東方儚月抄 第十八話「月の頭脳」→
東方儚月抄 第十九話「縛られた大地の神」→
東方儚月抄 第二十話「最後にして幽かな穢れ」→
東方儚月抄 最終話「青の宴」→
ZUN、秋★枝「東方儚月抄 Silent Sinner in Blue.」上巻→
ZUN、秋★枝「東方儚月抄 Silent Sinner in Blue.」中巻
2009/10/09/Fri
「あいもかわらずの内容かな。ただちょっと苦しくなってきたみたい。というのもこの「生徒会」シリーズは気軽な雑談を主な内容とすることをアピールポイントのひとつとしてるように見受けられるけど、でもかんたんに雑談してればいいというシンプルな内容は、実は創作においては非常に高度なレベルを要求するにちがいないハードルであるからであって、それはたとえば少し図書館に行って世界の文学全集なりなんなりを紐解いてみればすぐにわかることと思う。つまりそれはどういうことなのかなっていうと、文学というのは会話なのであり‥読書とは著者と対話することであるって言葉は、三木清をはじめ、多くの賢人が指摘するところ‥そして人がこの世界で生きてくっていうことは、とどのつまり、会話をすることイコール言語の只中を過してゆくことであるからなんだよね。‥戯曲ならなんでもそうだけど、例としてシェイクスピアなどを開いてみるなら、そこに書かれてあるのは延々とした台詞の連なりであることにはだれであれ気づかれるでない。そしてそれが示すことは人間と人間の関係といったものは、ふつうな延々たる地道な会話であるということであるのであり、人が人を理解するということは根気よく会話しつづけることでもある。‥だから会話というのはむずかしい。これをあえてテーマに据えて執筆に挑んでる「生徒会」シリーズは、私にはけっこう果敢な意欲作のようにも映るけど、でもそれに内容面の充実がついてきてるかなって考えると、その評価は微妙になっちゃうのは致し方ないことかな。もちろん、きびしいことではあるのだけど。」
「会話の題材がオタク的なものばかりではそのうち手詰りになるのは目に見えていたのではあったのでしょうけどね。ま、むずかしいのよ。なぜなら会話というものは、その場限りの表面的な類のものをべつにすれば、小手先のテクニックが通じるものではないのであり、いわゆる会話術なんてものは気休め以上のものではないからよ。それは会話が人間そのものの立ち表れであるからであって、会話は個人の感性や知性をありのままに表現するものであるからでもある。‥ま、twitterなど見ていても、長期的に継続して行われる発言の集積は、その個人そのものを照らし出すのよね。これは言語の不思議な特質でもあるとはさていえるかしら。」
「会話が娯楽になるというのも、そういったふうに人間性が言葉のやりとりから感得されるようになってくるからとも、もしかしたらいえるのかもしれないね。‥たとえばプラトンが見事に描いてるとおり、古代ギリシアでは討議は魅力的なエンターテイメントであったのであって、西洋において会話は伝統的に楽しい時間の過し方であったことは理由のないことでなかった。その点日本に行くと、会話の愉悦といったものは残念ながら近代に下るにつれ失われていったようで‥この間の事情を田中先生はおもしろく述べてる(→
田中美知太郎「プラトンに学ぶ 田中美知太郎対話集」)‥純粋な対話の娯楽性といったものを、日本人はなかなか見落しがちじゃないかなって気もしてくるかな。‥本作についていうと、本編内でなされる会話があまりおもしろくないかなって感じられちゃう原因の大部分は、話を上手にふくらませることができてないからかもって、私は感じる。オタクネタなども、ただの一発ネタで終っちゃってるんだよね。それはよろしくない。もっとさまざまに話題を広げていけないものかな。キャラクターは魅力あるのだから、あとは会話の仕方だと思う。本作をさらに映えさせるためには。」
「ひとつのエピソードをなんとなく良い話っぽく締める傾向もはてさてといったところだし、かといってシリアスなドラマのほうが魅力に富むかといえばそれほどでもないし、ま、けっこう限界っぽいのよね、この作品は。しかしとはいっても本巻における椎名姉妹のエピソードなど、キャラの魅力が活かせるドラマならまだまだおもしろさはあるのだから、なんとかならないものかと期待は捨てきれないのよね。とくに真冬なんて実に怠惰で人間らしさがあってなんともいえない魅力があるのだから、雑談の部分でも、そういったキャラクター性がより強くアピールされるようになればいうことなしかしら。‥ま、これ以降どうなることか、ひとつ期待といきましょうか。」
葵せきな「生徒会の月末 碧陽学園生徒会黙示録2」
2009/10/08/Thu
「うん、おもしろかった。私はこの作品は実は雑誌に掲載された一話目をたまたま読んだときから気に入ってたのだけど、それがこうして非常に良質な形でアニメ化されたことは喜ばしい限りかなって思う。それに本作は一応体裁上は禁書目録の外伝ということになってるけど、個人的な好みとしてはこのあいだやってた上条さんを主役に据えた禁書目録よりは美琴の活躍するこの作品のほうがおもしろく感じられる。それにはいくつか理由が挙げられるように思うけど、まず今回のお話を見たところ私に感じられたそのひとつは、美琴と上条さんのキャラクター性のちがいが指摘できるように思える点にあるかな。それはたとえば前作の上条さんという人を例にもち出せば、彼はところかまわず説教をはじめちゃうって変な気質がある人であって、そしてその説教がひいては作品そのもののメッセージ性の根幹にも直結してたから、前作は、なんていうのかな、一言でいえば上条さんの滅茶苦茶な怒涛のような論理展開をどこまで受容できるのかって部分に作品全体の評価がかかっていたっていうふうにも、もしかするといえると思う(→
とある魔術の禁書目録 第1話~第6話)。でもそれが反対に本作になると、主人公の美琴は上条さんのように理屈っぽい気質じゃないから、彼女の思想性はシンプルにその行動として体現されるのであって、その意味では彼女は上条さんのように捻ったヒーローでなくて、字義通りにかっこいい少女主人公なのだと私は思うかな。‥それはある面、年相応な少年少女のあるだろう姿のようにも思えるし、私にはそのほうがより自然なものとして受けとれる。本作は、だから私は前作より好きかな。こののちの展開を楽しみにしたい。」
「美琴にせよ黒子にせよ、本作の登場人物は皆子どもっぽいのよね。それは公園で和気藹々としている様子からも十分に感じとれることだし、美琴と黒子、初春や佐天の仲睦まじいやりとりは、下手に大人ぶったところのない無邪気な彼女たちの性格をよく演出しているように感じられるかしら。それは前作の如何にもラノベっぽく奇妙な論理のもとに行動する当麻とは対照的で、当麻がなかなか理解しがたい自己犠牲精神と正義感のために戦っていたのに比べて、本作はよりシンプルな活劇をだから期待できるといっていいのでしょうね。‥ま、もちろん、子どもっぽい美琴たちだからこそ、当麻のときには予想しえなかった困難が生まれることも容易に想像はできるのでしょうけど。どうなることか、はてさてね。」
「本作で私は佐天が好き。佐天はすごくいい。この一話目も期待してた以上によい描写でうれしかった。‥彼女の魅力はなんなのかなってきかれるなら、私はとりもなおさず、佐天は自分の平凡さに人並みの嫌気を感じてるけど、とくにだからといって自分自身を変える努力をしようと思わない、適度に凡庸な怠惰さに身を任せてるありがちな少女であるからって、たぶんそう答えるかなって思う。‥うん、佐天はすごく凡庸でとてもいい。彼女は実際きわめてふつうの人なのであって、努力で自己を切磋した美琴にはさいしょからつまらない先入観をもって接し、常人とはちょっと異なる価値観をもつ黒子には若干引き気味で、そして気弱なことをいいながらもだれよりもやさしく、そして無自覚的だけど高い才能を秘める初春には妬みよりほかに好意を感じてる。‥佐天はそれくらい凡庸だ。でも、だから、すごくいい。彼女がこれから悲劇に接し、その当事者となり、そして自己の無力に抗うようになる過程は、だからとてもかっこいい。‥私はその場面を今からとても楽しみにしてる。どう描かれるか、期待かな。」
「この四人のバランスというのは非常に優れていて、なんていうのか安心して視聴していられるのよね。これはある意味ヒロインが次々と入れ替わり、登場人物が一定しなかった前作ともまたよい対照となることでしょうし、佐天や初春のようなそれほど目立ったところのない、いってみれば集団の裡にともすると埋没してしまいがちな個性の人物をメインに置きドラマを展開しようという本作は、さまざまな意味で見どころの多い作品になることでしょう。‥ま、さて、一話目としては文句のない出来だったかしらね。以降の展開を、では楽しみとしましょうか。」
2009/10/07/Wed
「実は原作のほうはもう6巻まで読んでしまってるのだけど、とくに感想書く気力も必要性も感じなくて、アニメのほうも惹かれる要素がなかったら感想書かなくてもいいかなって思ってた。さいきんの私はどうかすると自分の意見をしっかり書いておかなくちゃって欲求を身内に抱くほど、それほどアニメに興味を感じることもなくなってきちゃってたから、この生徒会のアニメ化も、さして期待した見たわけでない。‥出来具合はさておき、随所に挿入されるいわずもがなの「らき☆すた」の系譜を思わせるオタクのセルフパロディ的要素も横においといてみても、本作はあの原作をアニメ化するとしたなら無難にこういった成行になるかなって思わせられる完成度だったと思う。ただ雑談をしてるだけって軽く本編では自虐的にいわれてるけど、でも実際のところ、会話のみで作品を成り立たせるということはたいへんな技術が必要なわけであって、それはなぜなら単なるほんとに友だちとただだれてるだけといった内容なら、それは曲りなりにも一定の作品に仕上がる道理がないのは明白だから。それでそれじゃ雑談をひとつの作品として結実さすことに本作は果して一定の結果を納めているのかなって疑問が生じることだと思うけど、今回の第一話に限っては、私はその評価は差し控えておこかなって思う。というのもまだ一話目で総括的な意見を述べるには適してないように考えられるからだし、またあの原作の内容でどこまでアニメを再構成できるのかなって部分に私は少なくない興味があるから。なので、本作の評価はまだ後々まで私はとっておく。‥むしろそれより気になったのは杉崎さんのほう。一話目でいきなり描かれた彼の人となりは、やっぱりというか案の定、私には少し受けつけられない部分があった。というより、彼はあんがい病的で、そしてその病的な部分にほかの生徒会メンバーは知ってか知らずか無自覚的にふるまってる。それがひいては本作の、危うさを象徴してる。」
「ハーレムという形態がもっともだれを傷つけることもなく、だれをも幸せにすることが可能な恋愛の仕方だと杉崎は主張しているのだけれど、ま、それが欺瞞であることは明らかなのよね。というのも、これは原作を読んだときから感じていたことではあったけれど、女性一人ひとりを大切にするという意識はとりあえず立派といっていいのでしょうが、だからといって本来なら皆でするべきはずの仕事を自分ひとりでこなしてしまうのは、やさしさのはきちがえとしかいいようがないのでないかしらと思われるからよ。それはなぜなら杉崎のみに仕事を負わすということは、その時点でほかのメンバーは生徒会というみずからの立場に課されている義務を放棄していることになるのであって、そういったけじめのない仕業はなんだかんだいったところで肯定されるべきことではありえないでしょう。‥ま、当り前のことなのでしょうが、この作品では何かその当り前さが歪んでいるのよね。作者は、これはおそらく無自覚なのでしょうけど。」
「杉崎さんのハーレムを否認するような態度をとっておきながらも、実はそのハーレム思想に依存しきってたのが偽らない生徒会メンバーの実態だったっていえちゃうのかな。‥これは原作6巻目で明瞭に示されることであったのだけど、生徒会の彼女たちは口ではいろいろいいながらも、杉崎さんの演出する雰囲気が実は大好きだったのであり、そして彼のもてなし、奉仕に心から身を任せることにいいようのない快楽を見出してた。もちろんそれは彼のみの力というわけでなくて、そこには会長さんのカリスマなり書記さんの気配りが介在したのだろうけど‥そういうふうに原作では記述されてる‥でももっとも肝心だった要因は、つまり生徒会の温かな雰囲気を根本で支えてた力とはなんだったのかなと問うならば、それはまちがいなく、杉崎さん個人の力に拠っていたことは疑えない事実だった。‥それはべつな言葉でいうなら、杉崎さんにほかの生徒会メンバーは依存し、「考えることを放棄していた」ということであるのであって、杉崎さんによる奉仕に受動的に安穏としていた彼女たちがどういった目に遭うかは、6巻の結末部に象徴的に表現されてる。‥もしこの顛末を自覚的にコントロールしていたとするなら、作者の目論見はすごいものかなって私は思わないわけにはいかない。ただ、これからどう展開するか、それはちょっと不安を感じないわけでないことも付言しておく。‥最終的な評価がどう転ぶかは、だから本作の場合、そうとう不安定なものがあるとはいえると思う。どうなることか、けっこう私楽しみかもかな。」
「杉崎のハーレム思想を口では拒みながらも、それを無意識下には受け容れていたように思われるのが生徒会メンバーであった、か。‥ま、彼女たちが杉崎に基本的には善意しかもっていないのは明らかだったのでしょうし、杉崎の為す努力を彼女たちが否定してはいなかったことがその何よりの証拠なのでしょう。しかし、それは裏を返せば、生徒会の楽しさというものは杉崎の考え如何によりどうにも変わってしまう類のものであったということであって、杉崎の力で生徒会の楽しさが無残に崩れてしまうものでもあったろうことが、はてさて、6巻の内容だったということになるのでしょうね。その意味では本作は実に不安定な、少年少女の心の投影ともいいうるのかしら。‥いや、それはいい過ぎなのでしょうね。本作の不安定さとは、何が正しくて何が悪いのかまるで分っていない、弱い子どもの戸惑いそのものであるのでしょうから。」
2009/10/03/Sat
「このとこ私がとりくんでた大著であり、そして膨大なウィトゲンシュタインの遺稿を各時代区分とそれぞれの時期が担ったであろうテーマをもとにきわめて明瞭なウィトゲンシュタインの提示する問題の数々をまとめたものである本書「ウィトゲンシュタインはこう考えた」は、著者の入念なウィトゲンシュタイン研究の成果がうかがえる非常に興味ふかい一冊だと思う。実際問題、その生前に刊行されたところの書物や論文の類が並外れて難解で‥一口に難解といっても、難解にはいろいろな種類の難解さがあるものだけれど、ウィトゲンシュタインの提示する難解さとは、そのテキストの読み解き難さに多大な理由があるように私には感じられる。といっても、当然私はそれほど時間をかけてウィトゲンシュタインに向きあってるわけでなし、本書もまた私の貧弱なウィトゲンシュタインへの理解を少しなりとも補強するために手にとったものだったから、それほど大きな意見がウィトゲンシュタインに対して、そして本書に対しても私がいえる道理がないことは自明かな。でもそれにしても、本書はこういったウィトゲンシュタインの捉え方があるのだなって、私に新奇なおどろきを提供してくれるものだった‥初学者にはいったいどこから切りこんでいったらいいものかまず途方に暮れさせる難物だろうウィトゲンシュタインに関して、本書はある有効な手助けを与えてくれるものだろうって私は感じる。それはたとえば本書が整然とウィトゲンシュタインの追及した哲学的課題の変遷を指し示してくれてるからでもあり、またウィトゲンシュタインの全テキストのテーマ別に分類した詳しいリストを収録してることからもいえることかなって思うかな。だからそんな意味からも、本書はさまざまな面において、読者のウィトゲンシュタインへの要求と関心を満たしてくれるものと思う。」
「世に名を遺す哲学者といったものは多かれ少なかれ皆難物ではあるのでしょうけど、そのなかでもウィトゲンシュタインはとくに正確な理解といったものが困難な人物のひとりではあるのでしょうね。というのもそれにはいろいろな理由があるのでしょうし、そのうちのいくつかは本書中においても触れられているからそちらを参照してもらえればいいのでしょうけど、とりあえずひとつ確かにいえることは、ある哲学の理解といったものは時代ごとにさまざまに変化するものだからということなのでしょうね。ま、これはいってみれば当り前なのだけれど、研究が進むにつれ、ある哲学者の思想の受容もまたそれに応じて変化する。その意味ではウィトゲンシュタインほど研究の変転やら何やらで、その思想の受容のスタイルは実に多様に変わりうる存在であるから、はてさて、まったく日々勉強しなくてはならないということなのでしょうね。論考はさておくとしても、探求やウィトゲンシュタイン晩年の思想などは、まったく本書で新たに考えさせられた部分は大きいかしら。むずかしいものね、これは。」
「むずかしいけどある意味これほどスリリングな読書体験もさいきんあまりなかったかなって感じられちゃうのが、本書を読書して、私はいちばんよかったかなって思う。‥うん、この書はすごく久しぶりに楽しかった。というのも私は以前からウィトゲンシュタインには一定の関心をもちつづけてたのだけど、ただそれはウィトゲンシュタインの思想を正しく把握しようっていう欲求よりは、ウィトゲンシュタインのその特異な人間性の魅力のほうに重点がおかれてたことは疑えなくて(→
救いについての意味あい 生と死の混淆)、その点では私はたしかに本書に指摘されてるような徒にウィトゲンシュタインを神秘化しちゃうあまりよくない傾向のウィトゲンシュタイン読者だったかなって反省を迫られちゃったかな。‥本書の感想を仔細に書き出すとなると、その作業は単にブログで収めるべき気軽なものとは行かなくなることは必至であり、であるからウィトゲンシュタインの哲学についての私の個人的な考えというものは、あまりいわないでおこかなって、このエントリについては申し訳ないけどそういうふうに思う。それは私があまりよく本書の内容を咀嚼できてないからでもあるし、本書のラストが呈示した、「ウィトゲンシュタイン最後の思想」における、「私」というものがもつだろう超越性と言語の関係については、もう少し時間をかけて考えてみたいからでもある。そしてもしその私なりの考えが煮詰まったなら、あらためてエントリには起してみたいかな。それまでは本書が私に教えてくれたさまざまな見解について、思いめぐらしたい。‥そう感じさせるくらいに本書のくれた読書体験は、だって、楽しかったから。」
「本書の大きな特徴は、各章それぞれのウィトゲンシュタインの思想の解説ごとに、著者の意見なり考察なりが随時挿入される点にあるのでしょうね。それはつまり本書がある程度にはウィトゲンシュタインのことを学んだ人間を読者層に考えているということであり、その意味では本書はまったくウィトゲンシュタインのことを知らない人が最初にとるべき本ではないとはいえるのでしょう。ま、であるから本書の読書には、それなりの準備が必要ではあるとはいえるのかしらね。それに新書というには400ページにも渡る相当の分量がある一冊であるし、平均的な新書感覚で手にとると意外と苦労するかもしれない一冊でしょう。ただ、ま、それでもこの本がもたらしてくれる時間というものは、まったく実に刺激的なものにほかならないのよ。なぜならそれはウィトゲンシュタインという、最高におもしろい哲学者を真正面から逃げることなく扱った勇敢な一冊であるのだからでしょうね。良い一冊に、はてさてこれはちがいないことかしら。」
『ある男が奇妙で複雑な哲学的問題について生涯考え続けたとしよう。彼の思考が生み出したものは何の役にも立たず、誰の関心も惹かなかったが、彼は哲学的思考のおかげで生きることができ、その果てに安らかに死ぬことができた。この男の生涯は幸福だったのであり、男の哲学的思考は彼にとって比類なき価値を持っていたのである。彼の思考が生み出したものそれ自身がどのような理論的価値を持つのかは、彼の思考の価値に無関係である。しかし男の死後に残された者達にとっては事情は少し違う。男が生み出したものが、実は人々のものの見方や生き方を根本的なところで動かす力を持っていることが後になって判明したとしよう。男の存在はにわかに我々の心を激しく揺さぶるような属性を帯び始めるだろう。それは「時に背を向けながらも、そのことによって時を超える者」という属性である。こうした者をある種のヒーローと呼ぶことができよう。明らかにこれまで多くのウィトゲンシュタイン論の根底には、こうしたヒーローとしてのウィトゲンシュタイン論が一種のロマンとして流れていた。本書の第二の目的は、ウィトゲンシュタインが事実そうした存在であったことを、ロマンや伝説としてでなく、彼自身の言葉を通じて示すことである。彼の思考が生み出したものには、彼のような特異な哲学的生を送った者の思考のみがなしうる仕方で、我々を深いところで動かす力があることを、これまで隠れていた彼自身の言葉を通じて示すことである。』
鬼界彰夫「ウィトゲンシュタインはこう考えた 哲学的思考の全軌跡 1912-1951」
鬼界彰夫「ウィトゲンシュタインはこう考えた 哲学的思考の全軌跡 1912-1951」
2009/10/02/Fri
「3巻目も一応読んだのだけど語るべき点はとくにないように思われたから、3巻についての感想はなしということにして、この4巻について感じたことを徒然と記していこかなって思う。そしてもちろん3巻に比較して4巻の感想を優先して書くというなら、内容の面からいっても4巻のほうが3巻よりも意義のあるように考えるのかーって指摘が出てくるように思われるけど、それはある面そのとおりであって、私は本作の主ともいうべき雑談の段階においても、そして本作全体を表面的には明らかになってないけどでもたしかに拘束してる大きな要素であるところのモラトリアムとその脱却といったテーマ性においても、4巻目はこれまで見てきた「生徒会」シリーズのなかではひとつ上になるかなって判断した。といっても、この作品における雑談というのはある世代間とあるジャンルに親しんだ人たちのあいだでしか通用しないネタを延々とこれ見よがしに展開するといった性質のものであるから、そもそも本作で問題とされる話題のネタを知らなかったら、本作は楽しむ楽しまない以前の問題であることは明白なのであり、さらにいうならどのネタを好むかなといった完全に読者の趣味に委ねられてる部分もあるのであるから、本作の気ままなギャグシーンの評価といったものは、あるていど以上に読み手側の事情に依存するものだとは思うかな。そしてそういった点から私の感想を述べるなら、4巻目で展開されたネタはなかなか私の気に入るところであったのであり、とくにラジオのお話はくだらないって感じながら思わず笑っちゃった。何げなく1巻から通しての本作で私の好みに直接的にはまった唯一のエピソードだったかも‥実は私はけっこう椎名姉妹が好き‥」
「ま、雑談がメインといっても本作のそれは短いセンテンスの応酬といった域を出るものではなく、その意味では本当にただ単に勢いとネタの意外さに頼っての力ずくのものばかりなのであって、エスプリといったものはとくに見当らないから、いずれネタが枯渇したときが本作の終焉であることは目に見えているのよね。というのも、この手の雑談を何巻にも渡って進めていくなら、それこそ何かしらのテーマ性が求められるのは必至なのであるけれど、しかしそれが本作の構造においては何かのテーマを定めてのディスカッションが作品の目指すところではないのであり、描かんとしているものはあくまで娯楽としての会話であるから、その会話のネタ次第ではどうしようもなく退屈になってしまうエピソードが生まれるのは避けられないのでしょう。もちろん本作では常に会長があるテーマをもってくるというのが導入における基本だけれど、それがどうにも活かせていないのよね。こういった会話劇というものはテーマというかネタがなければ回りようがないのだから、もう少しオタクネタ以外の材料を期待してみたいところではあるのだけれど。」
「オタクネタ以外があまりこなせてないようにも思えちゃうものね。というのも、たとえば本作において展開されてる少しまじめなシーンでの描写の稚拙さといったものは、少しこの作品全体の評価を下げて考えちゃうようにしか作用してないのでないかなって思わせられるからであり、それは裏で進行中であろう企業編とかいうののおもしろみのなさに如実に代表されてると思う。もちろん、そちら側のエピソードはあくまでサブであり、あまり真剣に解釈すべき部分ではないのじゃないかなって指摘はあるのかもしれないけど、ただ何かな、それなら下手にちょっとスケールを広げたお話をほんの数ページで展開するのでなくて、本作は当初に掲げた課題であろう楽しい雑談といった領分を貫徹すべきだったろうにって思うかな。‥もしかしたらこの企業編なんなりが、のちに本作の中心部であろう雑談劇のほうにも重大な役割を果してるくるのかな? それならそれで本作は興味ふかい内容になってくるようにも予想せられるけど、現段階ではあまり期待はできないように感じる。‥あとは、そだな、この4巻で何よりおどろかされたシーンは、深夏と真冬を、しっかり退場させることを約束した部分に尽きるかも。ひょっとして本作は、モラトリアムの脱却とその終焉を、さいしょからたしかなテーマとして設定してた? もしそうであれば、本作はしっかりラストまで見届けねばならない作品なのかもしれない。なぜならモラトリアムの終焉は、新たな別世界の到来を約束するものでもあるのだから。そしてそれを描けるのなら、本作のラストはきっと見どころのある内容に仕上がるにちがいないのだろうから。」
「1巻ごとに大体一ヶ月ほど作品世界の時間が進行していると明言されたことが、本巻でのもっとも意外に思われた点にほかならないのでしょうね。なぜなら、とすると、この作品でだらだらと描かれている雑談の部分の無意味さくだらなさが、またべつな意味性をもって読者に感じられてくるようになるからなのでしょうね。それはつまりどういうことかといえば、本作の雑談の無意味さというものは、そのまま私たち現実に生きている人間たちの日々の無意味さにも、そのまま照応するようになるからよ。そしてそれを踏まえたうえで本作が本作それ自身を肯定できるのであれば、それは平凡な私たちの実際の人生の無意味な一幕をこそ、肯定するものになるでしょう。‥ま、もちろんそこまで考えこむ作品ではないのかもしれないけれど、しかし本作で交わされている会話は、ネタがすっかり風化した数年後に読み返してみるなら、何か新たな感慨を与えるものであることはいえるのじゃないかしら? その感慨はおそらくノスタルジーとでも名づけたくなるものであるでしょうしね。ま、はてさてよ。」
葵せきな「生徒会の四散 碧陽学園生徒会議事録4」
2009/10/01/Thu
「評価するにはちょっと微妙なお話。というのも、この作品って主人公であるミドリとヒロインである白雪の関係性がいちばん凡庸というか、なんていうのだろ、ドラマとしてあまり見どころない部分なのだよね。もちろん、如何にもそんなに主体性なくて場の状況に流されるだけのこの種のラブコメにありがちなキャラクター造詣のなされてるミドリはともかくとしても、それなり悲劇性のある過去を背負って活動的な白雪はまだしも魅力あるストーリーを演じてくれるのじゃないかなって期待が捨てきれずにはあるのだけど、でも彼女は率直な言い方をするなら、あまり内省的な型の人でなくて、そのために物語を盛りあげふかめるために必要な葛藤や懊悩といった過程が、白雪の場合、スポイルされちゃう。だからミドリと白雪のやりとりは実に表面的な部分をなぞるだけに陥るのであり、彼らの予定調和ともいうべき仲が縮まってく過程を見せられるよりは、せめて多大な不幸と恨みを裡に抱え、それでも純粋な混じりけのない父への愛のために戦った雛菊や、未だ心の底をだれにも明かしてないだろう、あるいは明かす勇気のないだろうシンコのドラマをよく注目して描いてくれたほうが、本作はよほどおもしろくなってきちゃうのだろうって、そう私には思えるかな。‥本作の中心であるべきミドリと白雪があんまり魅力ないキャラに感じられちゃうのは痛いかな。本作はそこでけっこう損してる。雛菊やシンコが素敵な人物であるだけに、そこらの点は惜しい気もしてくるかな。」
「ま、平凡を絵に描いたようなキャラクターというのがミドリという人物のコンセプトとしてはあるのでしょうけど、それだけではひとつの物語の登場人物としての役割というものは、なかなかこう果せないものなのでしょうね。なぜなら人格に裏も表もない人間の話など、先の展開がまるで予想されるのだから、見ていてもおもしろいことなど何もないでしょうし、そしてこれまで本作を読んできて分ったことは、このミドリという人物は本当に裏のない人間であろうということくらいかしらね。もちろん裏のないということはそれだけではべつに非難する要因とはならないでしょうし、その性質は誠実さや信用さにも結びつく肯定的な面は見過せなくあるのでしょうけど、ただ、ま、何かしら、やはりドラマの人物としてはおもしろくないのよね。なんかフラットな人間すぎて、つまらないのよ。」
「ミドリくらい趣味も欲望も変な性癖とかも見えてこない人というのは‥コミクスで数えて4巻になるまで彼を追ってきて‥逆に少し珍しいかなって気もしてくるかな。というのも人間というのはたいてい他者にはひた隠しにしてる秘密の部分というものがあるものであって、それは裏の顔とか心のなかの闇とかいう言い方をするならなんだか悪い意味にとられちゃうかもだけど、でもそれは考えてみれば至極当り前の事実なのであって、人というのは自分自身でさえ計り知れない、ある予測不能な要素をみずからのうちに蔵してるものだっていえるのじゃないかなって思う。なぜなら人は多様性を備えた存在であるって私は考えるからであり、そして人というのはできる限りみずからの多様性を開花するよう努力すべきだって、そうも私は考える。それはたとえば趣味の幅を広げるといった単純な事柄からはじめてもいいことだし、人間というのは何も固定された単一な人格をもった存在であるのでなくて、その場そのときの環境と状況次第にさまざまなペルソナを発現できる存在であるって人間観が私にはあるから、なおさらよけいに、ミドリには膠着しかかったようなフラットな表情だけでなくて、もっといろいろな様相を見せてもらいたいって思うかな。多様性こそ、人の心の動脈硬化を防ぐ、鍵でもあるのだから。」
「遠藤習作などは好んで世間一般には良識ある人物として通っている人間が、心の奥底では特異な性的欲求を抱いている様を小説にあらわしてきたものだったけれど、そこまで行かなくても、人間というのはいろいろな表情や関係性をもっているこそ、人間であるのでしょうね。であるから性格なんていうのも相手によりさまざまに変化していいものでしょうし、心というのはそもそもからして柔軟に発揮できるよう意図されたものであるという気もしてくるかしら。そしてそういった心の可塑性を失えば、人間なんていうものは簡単にロボットのようになってしまうものなのでしょうし、みずからの裡に多様性を失くさずいるということは、果して案外と難事なのかもしれないかしらね。‥ま、余談に逸れまくったところで、今回のこの感想エントリはおしまいにしましょうか。次は休載のようだし、少々間が空くかしらね。」
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遠藤周作「スキャンダル」