2010/03/22/Mon
「川端康成の『千羽鶴』に私がぞっとしたシーンがあるのだけど、それは作中主人公と非常に微妙な関係にあるちか子という中年女性が、カビの生えた茶碗を拭うというものだった。もちろんただカビを拭うというだけなら何もおかしなことではないのだけど、ここでちか子はなかなか汚れが落ちない茶碗に対し、手で自分の頭をがりがりとやって、それで手についた髪の油で茶碗のカビを拭いとるんだよね。その光景を見た子どものころの主人公と彼の父親は、ちか子のあまりに不潔な行為にぎょっとするのだけど、ちか子は何食わぬ顔で、洗ってしまえば問題ないでしょうと言い放つ。‥私はこれが女というものの本質なのだろう、と思う。こういった女の本質に触れてる人間はそうはいないにかかわらず、しかしこういった女は実在する。おどろくべきかな。」
「漱石の『それから』でも、三千代がのどが渇いたからといって、そこらにある生け花を挿した瓶の水をいきなり飲んでしまうシーンがあったかしらね。こういう態度というものは、即物的とか動物的とか、どうもそういった単純な言葉ではくくることのできない、女性性というものの秘密を明らかにしてくれているものというべきなのかしら。ま、たいていの男性はそれに引いてしまう面があるでしょうけど。」
「でもその引いちゃう感覚は、惹かれちゃう感覚にも通じてる。だからこそ世に男性が女性に溺れ沈み、そして死んでゆく小説は数多いのであるし、近代の日本文学がなぜ執拗に女を書きつづけたのか、その理由もまた女性性のなかにあるにちがいないって思うかな。‥吉行淳之介も思い出す。妻とはべつの女と交際し、その人とも喧嘩し憎みあいながらも、共に生きていこうとするのはなぜだろう。なぜ、遠藤周作は日本の精神はキリスト教の父性を切り落とし、母性の面のみを過度に強調するといったのだろう。この母性への傾斜という日本精神は、いったいなんなのかな。」
「男性は女性というものにより破滅させられるのに、その破滅の過程にいながらも、救済として胸中に保たれるのはまちがいなく女性のイメージであるのでしょうね。そしてある意味、こういった女性の本質というものは男女関係なくある救いの象徴として機能している節がある。それはなぜかしら。はてさてといった、難問ね。」
2010/03/21/Sun
「性的なものを規制しようという動機の根元には性欲が潜んでるんじゃないかなって、私は常々考えてる。アニメやゲームが性的でよくないっていっても、それより容易に入手可能なコンビニの成人向け雑誌のほうが影響力は強いように思えるし、十八禁の棚におかれていない写真週刊誌には公然とヌードなんかが載ってるし、さらにもっというならそこらのアニメやゲームなんて話にならないくらいに強烈な毒を含んでる文芸作品は日本中のどの図書館でも読める現状がある。だからそういった事情を考慮するのであれば、アニメやゲームだけが槍玉にあがるのはくだらないなと思うし、むしろ問題はゾーニングにあるのじゃないかって、私は考える。アダルトビデオみたいにできないものかな、いやできるのじゃないかな、と思う。‥話を戻して、性的なものを規制したいと思う動機にはうっすらと何か性的なものを私は嗅ぎとる。たとえばあるお母さんが息子の部屋でエロ本を見つけて、こんなの読んでるなんてだめじゃないかってそれら本を息子に無断で処分するとき、私はその母子のあいだに滲む性を見出す。もちろんこういうことをふつうの大人はいわない。なぜならそれは悪魔的な発想だからで、性をとりしまり子どもたちを健全に育成しようとする人たちに、あなたたちのその行動はあなたたちの抑圧された陰鬱な性欲の倒錯の発露じゃないですかなんていおうものなら、その結果がどれだけ面倒くさいことになりえるかは、想像するに難くないから。別な言葉でいえば、私がいわんとしてることは、この世の人間関係は、それがどのような形のものであれ、性が絡んでいるんじゃないかって、主張していることにちがわないのだから。‥でも、なら、性を含まない人間関係が存在するのかな、と私は悩む。」
「ま、これは単に雑感程度のエントリだと補足しておきましょうか。真剣にこう、社会的に議論する気は、ネットという場では、もうそうないのよ。なんだか無責任な言い方で申し訳ないけれど。」
「性的なものを取り締まっても、性そのものが消えるわけじゃない。なら単純な話で、性的なものが規制されたら、ただ犯罪を犯せばいいだけなんじゃないかな。それくらいシンプルに私は考えてる。」
「また誤解されそうな発言だことね。ま、誤解されてもやむなしね。どうでもいいことよ。」
2010/03/20/Sat
「引っ越ししなきゃ。」
「‥ああ、そうね。大変よね、準備。」
「あまり面倒でやになっちゃうよね。本の整理がかったるくて困っちゃう。というわけで、昨夜も久しぶりに九鬼周造の随筆を繰っていた。」
「何が「というわけ」なのかはわからないけれど、ま、整理の途中で本を見るのって典型よね。」
「九鬼周造はおもしろいことをいろいろいってる人であるけれど、なかでも私がおもしろいなって思ったのは、ハイデガーの哲学は暗いシュワルツワルドの鬱蒼とした森林の間で築かれたものであり、対してベルクソンは瀟洒なパリの世界で生まれた哲学だって述べてるところ。これはつまりその人がどんな環境で生まれ暮らしていたかが、その人の思索、人生がもたらすこととなった哲学に反映しているかをいっているのであり、逆にいえば人の考え方がどのような程度まで暮らしているその場の条件に影響されるかを指摘してるものでもあるかなって、私は思う。そしていわれてみると九鬼周造の哲学はあまりに都会的に洗練されてるように私には感じられてくる。東京で生まれ育った九鬼周造は、たとえ京都に移ったとしても、どこまでも隙なく垢抜けた存在であったように思うし、その痕跡はその著述の至るところに見てとれるのじゃないかな。」
「ま、人というのはどうしようもない初期条件に支配される側面があるということは否めないことなのでしょうね。生まれもった格差というと、どうにも印象のいい言葉ではなくなるけれど、しかし生まれた時代や場所などはそれこそ運命のように与えられるだけではあるのでしょうね。理不尽といえば、ま、納得の行きにくい問題ではあるのでしょう。」
「夏目漱石は東京生まれの線の細さがあるように思える。というのも、たとえば漱石と同じくロンドン留学を経験し、漱石と並び立つくらいに勤勉であった人物のひとりに南方熊楠がいるけれど、漱石と熊楠、この二者から受ける印象はまるで異なっているし、ロンドンで神経を病んで自転車に乗り身体を鍛えなきゃいけない羽目に陥る漱石に比較して、熊楠は酒を飲みまくってイギリス人と殴りあいまでしてる。もちろんこの例はそもそもの性格の隔たりがあまりに顕著なようにも思うけど、でもその思想と結果に育った環境の反映を考えた場合、なかなかおもしろい思索の材料を提供してくれるのじゃないかなとは思うかな。無論いうまでないことだけど、これは実証的な話をしてるわけでなくて、あくまで趣味的な気楽な話題でのこと。ひとりの人間がどう形成されるかは、複雑きわまる問題だもの。」
「太宰治などもそういった文脈でみるとおもしろい気がしてくるかしらね。なぜなら太宰の文学とはどこか日本離れした、最初からある種の世界的な感覚を備えていたように思うけれど、それはもしかしたら東北が日本ではなかったからなのかもしれない。そして太宰の人並みはずれた金銭感覚というものも、彼の作家としての性格に大きな影響を与えている要素と看做さねばならないのでしょうね。当時の田舎の富豪というものは、ちょっとスケールがちがいすぎよ。」
2010/03/19/Fri
「古代ギリシア哲学研究の碩学である田中美知太郎先生は、哲学という学問はある種のセルフ・リフレクションの側面があるっていわれていたことがあって、その意味するところはつまりある専門科学をやるのであればその自分の従事する研究がおもしろいっていう単純でそれでいて強力な理由があれば事足りるのだけど、哲学に関していうなら、なぜ自分はこんなことをするのかって問いかけが常に内在しているものだっていうことだった。それが哲学の特徴であり、そして哲学が早熟な天才の存在を許さない、つまり生まれもった才覚だけではどうしようもならない困難な学問であることの説明であって、哲学の発展というのはなかなかままならないねって、田中先生はいわれてる。」
「もちろん哲学徒がすべてそういった根本的な問いをもっているというわけでもないということはいわずもがなのことなのでしょうけど、しかし実際的な有用になることを研究することが肝心だという理念のもとに隆盛したプラグマティズムなんてのもあるから、なぜ私はこれをするのかという決定的でそして運命的な問題というものは、抱えていくことは非常に苦労を伴うものといわねばならないのは確かでしょうね。というのも、「なぜ」を駆逐しなければ生きられないのが、人間でしょうし。」
「なぜ私はこれをするのかとみずからに問うて内省するのは、しんどいものね。よくわかる。だって、なんで早起きして電車に乗らなきゃいけないのかなーって考え出したら、人は一日たりともまともに生活することが叶わなくなるもん。その意味では、だから、哲学とはある問題に答えようとする営みであることは一面まちがいないけれど、でもその達成に求められるもの‥それが達成するかどうかは置いとくとして‥忍耐であるのだろうなって、私は思う。そして忍耐とはもしかしたら運や才能といった天与のものをしずかに、長い時間をかけて、すり減らしていくものでもあるのかなとも感じる。そういった世界においては、センス以上にある何かが求められてるのかもしれない。執念のような、怠惰のような、そんなものが。」
「なぜを考えないように自身を陶冶しなければ普通に働くことですら叶わない、か。‥ま、そうよね。なぜ?を絶えず口にする幼児は、だから大人にとっては厄介に映るのでしょうし、ソクラテスがギリシア中から嫌われた理由ももっともというものよ。また、なぜソクラテスがある種の若者の熱狂を買ったのかといった理由も、なんとなくわかってくるかしらね。なぜという言葉は、だれもが暗黙の内に心に抱えている重りのようなものでしょうから。」
2010/03/18/Thu
「子どものころ、具体的にいうと小学生から中学校の前半までくらいかな、ある種大人が絶対的な力を備えてるように見えるときってあるのじゃないかな、と思う。知識もなくて経験もない子どもの時分、大人がそれぞれの理屈のもとに自分たちを指導しようとするときっていいかえてもいいけれど、私もご多分に漏れず、小学生のころは担任の先生がいう道徳や訓戒に一々心理や気持を左右されたものだった。そしてそれら指導は今から思うと少し行き過ぎな面がなきにしもあらずで、つまり過剰に子どもを説教したり、中学校や高校は怖いとこなんだぞ、勉強してなくて落ちぶれて悲惨な目にあった奴を知ってるぞってあまりに感情的な責め方をしたりということであって、私はそういった教育の仕方は適切ではないのじゃないかなって、現在では考えてる。‥もちろん、といって私はそういった指導をした先生方をそれほどどうも思ってない。彼らには彼らなりの立場と思想の強制があったのだと思うし、それらはある点まではやむをえないものだとも思う。ただ、子どものころはどうしようもない理不尽だったと思うことやこれが正論、正しい考えなのだって理解させられていたことが、実はそうでもないかな、あるいは別な見方が可能なのでないかなって思われることが、成長するにつれ、増えていく。そんなことを、小学生くらいの出来事を想起するにつれ、思わざるをえないかな。」
「大人といってもさまざまだし、学校がそう正しいものでもないということを納得するのは、そうむずかしいことではないのでしょうね。ただそういった段階に達するにはいろいろな過程を経なくてはならないのでしょうし、そういった考え方に落ち着くまでには、ま、やみくもに荒れたり反抗したり、あるいは従順に大人の言い分に従ったり、人によってさまざまなことがあるのでしょうけどね。」
「大人は汚いといって済ますことはかんたんだけど、ただ汚いことを責めるのは私は逆に罪にすぎないようにも思う。というのも、たとえば偽善という言葉が日本においてマイナスイメージの言葉と認識されてるのは、その反対の状態、つまり心が純真で嘘偽りのないことが良いことであるって認識されてるからだと思うのだけど、でもその純真さというのは、いってみれば混じり気のないということであり、それは可塑性や柔軟さがないということでもある。要するに、多様性を認める余地がないということ。そして純真を求める心理が、つまり汚さを排除しようとする思考が、ある種の原理主義を生むもとであることを、あるいは私たちは知らなきゃいけないのじゃないかなとも思うかな。」
「偽善に塗れるのが人間であると、ま、格好つけていうつもりはさらさらないけれど、しかし「偽善者」というのは単なるラベリングに過ぎないのよね。それで、そういったラベリングで、つまり一言の言葉でもって人を判断するのは軽率なのじゃないかしら。人間というのは、そう単純に割り切れるものじゃないのよ。みんないろいろなものを抱えて生きているものよ。偽善のある人のなかに、美があることもあるのよ。そしてその美は、もしかしたら真っ白な純真な人には、見当らないものかもしれない。‥ま、はてさてね。」
2010/03/17/Wed
「基本的に私は生活に対して保守的で、個人的な余暇の時間の使い方はほとんど変化しないのだけど‥たとえばテレビ見ないし、さいきんはアニメもほとんど見てないし、新聞もネットで気になった記事をチョイスするだけで、なんだか漫画さえもあまり目を通さなくなってきた。なんか、わがことながら、やばい‥それじゃ以前までブログを書くのに費やしてた時間はどうしてるのかーってきかれると、たいてい本読んでるか音楽きいてる。となると、じゃただ何かしらの感想を文章にまとめるのが億劫になっただけかなって結論できるのかも。もともと、他者にそういいたいこともないし。個々人が勝手に生きればよろし。」
「タイピングするのが面倒に感じられるというのも、少々怠惰に思われるけれど、はてさてね。興味の向く方向、関心のあり方が変化するというのは、ま、生きている限り、あって当然のことなのでしょうけど。」
「いいたいことはいろいろあるけれど、かな。でもネットにあげるのでなくて、実際に他者と対話するか、あるいは別方向の媒体と場で書くべき事柄が、今現在の私のとりくんでる物事というふうに述べるのが適切のように思う。‥その意味では私自身は変化してなくて、ただコンテンツ志向のブログにはふさわしくない関心に現在の私が占められているというだけかも。‥あるていどブログは特化した話題を集約させたかったけど、それも今となっては無意味かな。」
「ぐちゃぐちゃな個人の表現というか、発露の集積とブログは捉えたほうが今後はやりやすいのかしれないかしらね。‥ま、昔から抱いている思いのひとつに、ネットが「個々人の多様性の開花する場」であればよいというのがあるのだけれど、そういう方向にこのブログは向えるのかしら? はてさてといったところでしょうね、今の段階は。」
2010/03/01/Mon
「おもしろかった。こんなおもしろいアニメがかつてあったかなって思っちゃうくらいに楽しかった。浮気を主題にした作品ということで、作中、主人公の冬弥が容赦なく、そして間断なくさまざまな女性と関係を築いていくさまはスリリングであったし、また彼の接する女性たちのキャラクターがそれぞれ千差万別であり、その点でも個々の状況に独特の雰囲気がかもし出され、視聴を飽きることなくつづけられた大きな要因だったと思う。‥途中で私が本作の一話ずつの感想を止めたのは、この作品はさいごにまとめて一気に観たほうがずっと楽しめるだろうなって予感したからであって、その考えはまちがってなかったって今の私は思うのだけど、ただ複雑に入り組んだ群像劇である本作は、一見した限りではとうていその全容をつかめるものではなくて、その意味では難解かなとも思うかな。一人ひとりの女性のエピソードはもっとより深めて描くことは可能だったにちがいない。ただそうさせなかったところが、本作のまたすばらしい点であるにちがいないとはいえるけど。」
「それぞれ登場人物が、自分の性格と能力が及ぶ範囲で悩み、行動し、そして挫折する物語であったともいえるのかしらね。‥この作品の人間たちはだれもが弱さを抱えており、その弱さを完全に克服することはできず、弱さに呑みこまれ消えていってしまっている。そういった意味では本作の登場人物は特別でもなんでもない現実の私たちの有様そのままであったろうともいえるでしょうし、敗北に敗北を怠惰に重ねていく姿は、凡庸な我々自身の愚かな反映でもあり、そして逆にいうなら、そういった泥濘のなかに見えるあるすばらしさ、輝きを摘出したものともいいうるのでないかしら。‥どうにも美しかったのよね。醜く弱さに蠢く人間は、なぜこうも美しいのかしら。」
「単純に理解できないその心理、本作の登場人物たち‥なかでも冬弥その人は、私たち視聴者にとってなんてわからない人だったかなって嘆息する。そう、冬弥という人のわからなさが本作の原動力であり、そのときに理解を逸した行動を起す心理への興味こそが、私をして、本作を視聴させつづけた決定的な理由であったかもしれない。そしてまた彼の行動原理に明確な答えを用意せしめた本作は、その点でも感動せざるをえない出来映えだったって思うかな。‥ほんとによかった。とくにめのうさんのキャラクターは秀逸だった。ああいう人も、おもしろい。‥ゲームのwhite album2は買っちゃおうかな。ほしくなった。私。」
「ま、それもおもしろいかもしれないかしらね。正直ここまで長く濃厚におもしろい人間ドラマは、アニメという媒体に限っていえば、久しく見てなかったように思うかしら。これほど軽くない他者の蠢きを見られたことは、歓喜の限りよ。なぜなら人間の心が、何よりおもしろいものだから。」