「それじゃ唯とは上手くやれているのね。…ふふ、それにしてもまさか唯と澪がこんな関係になるとは思ってもみなかった。…どう? 唯の面倒見るの大変でしょう? 特にあの子朝弱いから、起こすのも一苦労なんじゃないかしら。」
「うん。…でも唯の寝顔って、その、けっこうかわいいんだよね。無邪気っていうか純真っていうか、ずっと見てても飽きないっていうか。」
「…これは澪も相当重症ね。」
「え?」
いっていること、憂ちゃんとぜんぜん変わらないわよと和は私に呆れ顔でいった。そうかなと私は疑問に思ったけど、唯の様子を思い返すとそれだけで顔がにやけてくるので、和の指摘ももしかしたらそれほど的外れでもないのかなという気がしてくる。でも唯の寝顔は今日もかわいかった。私がそのことを和に伝えると、和ははぁとため息をつくばかりだった。
夏休みだ。長い大学の休業期間、私は久しぶりに地元に戻った和と道を歩いていた。駅で待ち合わせて、昼食をとったあと、これから私の部屋に和を案内するところだ。…私の部屋ということは、当然、唯の住んでいる場所でもあるわけで、それを考えると和を案内することが少し恥ずかしいことのような気もしてくる。そう考えると、わけもなく私は頭を振るのだ。
「…唯のことだから、放っておくと部屋がひどく散らかりそうだけど、澪、しっかり監督してる?」
「――うん。昨日も大慌てで掃除させたんだ。和が来るとなると唯もだらけてばかりいられないって、本能でわかってるみたい。…ときどき唯ってよくわからない物買ってくるんだよね。軽音部にいた頃もどこから持ってきたのか見当もつかないカエルの置物を音楽室に持ち込んでたし。今、私の部屋にもいろいろ用途のわからないものが置いてあるよ。」
「わかるわ…。あの子の感性って、ちょっと、いえ、けっこうずれているのよね。」
「まあでもそういうところも唯の魅力っていうか、ほかの人にはない個性だよね。…うん、魅力だよね。」
「…ごちそうさま。――あ、この公園。」
そういうと和は足を止め、私たちの手前に位置する手狭な公園のほうを向いた。和は懐かしいのかしばし公園を見つめ、それから私を促し、再び歩を進める。
「昔、唯と一緒によく遊んだ公園よ。子どもの頃はけっこう大きなところだと思っていたけど、こうして見ると本当に小さなものよね。…笑っちゃうくらい。」
「へえ。和と唯の子ども時代か…」
「春にはこの公園に綺麗なサクラソウが咲いていたものだったけれど、もう私が高校生だった頃には見なくなっていたかしらね。…唯に似合うのよ、あの花。純真で。」
「サクラソウ…どんな花だったかな。」
「日本に広く分布する多年草のひとつよ。澪も見ればすぐわかるはず。…花言葉はたしか、Premier rêve d'amour. 今の澪には、お似合いね。」
「プ、プル…?」
「プルミエ・レーヴ・ダムール。…意味は直訳すれば「最初の愛の夢」だけど、そうね、「夢見る初恋」なんて訳すと、かわいくていいかしら。」
「Premier rêve d'amour…」
私は和から教えてもらったその花言葉を何度か口にした。綺麗な響きだと思った。
「和ちゃん、久しぶり! わぁ、大人っぽくなったねっ。やっぱり都会にいるとちがうのかなぁ。」
「そういう唯は特に変わらないわね。…あんた学校さぼってばかりだと、本当にニートになっちゃうわよ?」
「の、和ちゃん、いきなり来て私を説教!?」
唯を気遣いながらも辛らつな言葉を弄する和と、和の言葉に一々オーバーに反応する唯。この幼なじみ二人のいつもの調子のやりとりを眺めるのも久しぶりだなと私は思った。
「今日は私が夕食作るからね、和ちゃん!」
「…唯、料理できるの? 澪、大丈夫なの?」
「練習はしてるけど…うん、練習はしてるけど…」
私と和はふんすと気合を入れている唯を尻目にお互い顔を見合わせた。心配するなというほうが無理だったけど、今日ばかりは唯は自分一人で夕飯を作ることに頑固に固執するのだった。たぶん久しぶりに会った和にいいところ見せたいんだなと私は思うと、くすりと唯の気持ちに微笑せざるをえないのだった。
「――ごちそうさま。…驚いた。やるじゃない、唯。最初はただのカレーかと思ったけれど、こんなにおいしいカレーを食べたのは初めてよ。一体どうしちゃったのよ。」
「えへへ。食材を選ぶところから厳選したもんね! 憂と一緒に下ごしらえもしたし、おいしくないわけがない!」
「あら、やっぱり憂ちゃんの力を借りてたのね。…でもそれでも唯が料理上達したことに変わりはないし、見違えたわ、本当。がんばってるのね、唯。」
「ありがとう和ちゃんっ。がんばった甲斐あったよ!」
私も驚いていた。唯の作ったカレーが予想以上においしく、しかもいつものように甘すぎなかったことにだ。というのも、そもそも唯はかなりの甘党で、それはカレーを作るときにも例外でなく、大抵ひどく甘すぎるカレーを作ってしまうものだったのだけれど、今回のカレーはそれほど甘すぎず、十分適度といえる範囲に味が収まっていたのだ。私はそのことにほとんど感動を覚えていた。今までは唯には極力料理当番を任せていなかったけど(甘やかしすぎだー!と律に突っこまれた)、このカレーの出来具合なら今後は唯にどんどん料理してもらっていいじゃないかと、私は食後のお茶をいれながら感じた。…そうか、これからは唯の手料理がもっと食べられるのか。それは良い。
「唯、お茶入ったから、和に持っていってあげて。…こぼさないでね。」
「わかってるよぉ澪ちゃん。任されよっ。」
といいつつ、唯はトレイをふらつかせながら、見てるこっちが不安になってくるような危なげな動作で、ふらふらとお茶を運んでいくのだった。こういうところは高校の頃から何も変わっていないなと、私は唯の様子を見つめながら思わずにはいられない。しかし今回はなんとかこぼさずに和の前にカップを置くことに唯は成功した。ほっと私と和は安堵のため息をつく。
「…紅茶か。なんだか高校時代のあなたたちを思い出すわね。ほら、紅茶といえば軽音部のトレードマークだったじゃない。練習もしないでお茶ばかりしてた様子、今でもよく覚えているわ。」
「はは。…まだムギのように上手く紅茶をいれられないんだけどね。ムギの紅茶は本当おいしかった。」
「うんっ。でも澪ちゃんのお茶もおいしいよ~。ほらほら、和ちゃんも飲んでみてっ。」
「急かさないの、唯。…ね、そういえば今ほかの軽音部のメンバーは何しているのかしら? またバンドやったりはしないの?」
どきんと、私の胸が高鳴った。何気ない会話の流れの中、ふと和の放った質問が、私の無意識の動揺を探り当てる。
「うん。一時はまたみんなで集まってバンドやろう!って話になったんだけど、なんだかみんなの予定がなかなか合わなくてね、みんなが一度にそろうことが難しいんだぁ。」
「律も? あの子は澪と同じ学校でしょ?」
「りっちゃんはね、今、塾で働いてるんだ。先生になりたいらしくて、その下積みで塾のアルバイトをすごくがんばってるみたい。専門学校じゃなくて澪ちゃんと同じ大学に変更したのも、教師を目指したくなったからなんだって。」
「へえ、あの律がねえ…。高校のときからじゃ、なんだか考えられないけれど。」
唯のいうことは事実だった。どういう経緯かは知らないが、律は教員免許を取ろうと決意したらしく、今では毎日のように塾で講師として働いている。ムギは来年留学を考えているらしく、現在はその準備に追われているらしい。そして私たちと音楽をもう一度やりたいといってくれた梓は、三年から入部したにもかかわらず、今ではジャズ研の中心的な立場にいるらしく、最後の文化祭ライブを目指し、猛練習の毎日らしい。
「だからなかなかみんなで集まるの難しいんだ。でもみんな、それぞれの立場でがんばってるのわかるから…」
「ま、そうね。いつまでも同じところにはいられないものでしょうし。遅かれ早かれ、みんな変わっていくものよね。」
「……」
私は和の言葉に、何か足元がぐらつくかのような感覚を感じた。いつまでも、同じところには、いられない。…律もムギも梓も、今ではそれぞれ自分のやるべきことを見つけて、今現在の自分の環境、立場で、別個に各々の日々を送っている。放課後ティータイムはもう事実上再結成するということはありえず、私たちが集まるのは、かつての軽音部のメンバーがそろうのは、もう特別な場合を除いては、望むべくもないのだろう。少なくとも、私の日常だった軽音部、あのティータイムの時間、だらけた練習の日々は、文字通り二度と戻ってくることはない。
「…澪ちゃん?」
いつかの四月末の休みの日、唯が私の部屋に遊びに来た日。唯はまた演奏したいっていってくれた。また放課後ティータイムができるのかもしれないと私は思うことができた。そう思えて、私は、本当に心の底からうれしくなったんだ。なぜかというと、それは、音楽をやることでしか満たせない何かがあったから。私の中に空隙、隙間、欠落、いいようのない焦燥があることを私は自覚していたから。そしてその焦燥の正体をおそらく私はもう知っているんだ。
「……」
サークルに入らなかったのも、実はただ新しい世界で新しい関係性を構築することを恐れていたからじゃなかったか? …音楽でしか埋められない欠落なんて、嘘っぱちだ。だって、音楽をするなら音楽をただすればいいのだから。一人でもなんでも、音楽をすることは可能なんだから。だから私が焦っていたのは、心に空虚を感じていたのは、ただ私が昔に、過去に、思い出に、未だ後ろ髪を引かれているからなんだ。――私は楽しかった高校時代を、惜しんでいるだけなんだ。
「――澪ちゃん!」
「ゆ、唯…?」
「どうしたの…? ずっと黙り込んじゃって…」
心配そうに私を覗き込む唯の顔。私はとっさにその唯の視線を逃れるかのように、顔を逸らしてしまっていた。いたたまれず、私は一刻も早くこの場から逃げ出したいがために、立ち上がる。
「澪ちゃん?」
「……ごめん。お茶が切れていたから、ちょっとコンビニで買ってくるよ。」
「そ、それなら一緒に――」
私は唯の言葉を最後まで聞かずに外へ飛び出した。ごちゃごちゃする自分の思考を、そう行動することにより、置き去りにできるとでもいうかのように。
「…澪、なんか様子がおかしかったわね。」
「――うん。…和ちゃん、私、ちょっと行ってくるよ。」
「…そう。いえ、そうね、唯、あなたに任せるべきよね。澪のこと。」
「…うん! 和ちゃん、それじゃちょっと待っててね!」
私はそういうとふんす!と澪ちゃんの後を追って走り出した。後ろで和ちゃんが「唯もすっかり澪の恋人ね。」と呟いている。て、照れる…。
お茶が切れているという澪ちゃんの言葉が嘘なのは、私にはわかっていた。だって今日の夕食当番は私だったんだから、冷蔵庫の中身はしっかり把握してるんだ。だから澪ちゃんが外に出たのはただあの場にいたくなかったということで、私としては、澪ちゃんが好きな私としては、澪ちゃんを追いかけなきゃいけないんだ。澪ちゃんがそう行動した理由が、たとえわからないとしても、澪ちゃんを一人で放っておいちゃいけないって、私は思う。
案の定、澪ちゃんに追いつくのは簡単だった。すぐ追いかけたのがよかったかな。澪ちゃんの後ろ姿に向かって、私は「澪ちゃん!」と声をかける。澪ちゃんは振り向き、一瞬戸惑いの表情を見せたものの、私から逃げることはなく、ただ申し訳なさそうな、悲しそうな、そんな表情をした。私は澪ちゃんに近寄っていく。
「――何かあったの? 澪ちゃん、どうしたの?」
「唯、別に何も…」
「いって! …ね、私にはいって。澪ちゃん。」
私は澪ちゃんの手をぎゅっと握る。澪ちゃんはとっさのことで真っ赤になったけど、私の手を振り払うということはなかった。私はゆっくりと、澪ちゃんの手を温め続ける。私の体温と澪ちゃんの体温が静かに重なって、こわばっていた澪ちゃんの手が柔らかくなってくる。…私はもう一度、澪ちゃんと声をかけた。それから、澪ちゃんはぽつりぽつりと言葉をもらす。
「……怖いんだ。」
「…何が?」
「…また軽音部ができると思ったけど、やっぱり無理で、それで、このままみんなばらばらになっちゃうのかなって思ったら、怖いんだ。…今の私には何もない。みんなにはそれぞれ大切なこと、がんばってることがあるけど、私には何かできること、やるべきことがないって思っちゃって、それが、すごく不安になって…。私だけが置いていかれるっていうか、なんだか寂しくて、自分が情けなくて…」
「…」
「…唯、ごめん。せっかく和に来てもらってるのに。こんなこと、私しちゃって…」
「……澪ちゃん!」
唯が私の名前を叫んだかと思うと、唯は早く!といいながら私の手を引いて、マンションまで大急ぎで走り出した。なんのことか私はわからず、ただ唯に導かれるがまま、息を切らせながら、唯のあとに続いていく。部屋に着くと和が、あら仲直りしたの?と聞いてくる。別にけんかしてたわけじゃないけどといおうとすると、私が口を開かないうちに「ほらほら! 和ちゃんも一緒に行こう! あれ、ギー太どこに置いたっけ。あ、あったよ澪ちゃん!」と大騒ぎする唯に手を引かれる。――唯は一体何をしようとしているんだろう?
「出番だよ、ギー太!」
……そして唯に連れて来られたのが、駅前の路上。人通りはあまり多くはなかったけれど、それでもまださまざまな人が往来する中で、唯はギターを取り出し、ふんすと気合を入れていた。唯の隣に私が立ち、少し離れた位置に私と唯に向かい合って和がいる。和はどことなく楽しそうに私たち二人の様子を見守っている。
「あれから私もいろいろ考えていたんだ。」
「…唯?」
「放課後ティータイムのみんなが集まるのは難しくなっちゃったし、かといって今さらサークルにも入れないし、だから何かほかのところで音楽やる機会ないかなーってずっと考えてたんだけど、ある日テレビでストリートライブっていうのやっててね、それだと路上でいきなり演奏始めていいみたいで、これならお手軽でいいね!って、私、思ったんだ。だって、これなら澪ちゃんと私の二人だけでもできるよね。」
ジャラーンと唯がギターを鳴らす。…え、つまりこれって、ストリートライブなの? …それで唯がギターで私がその横に立っているということは、え、歌うの、私? ぶっつけ本番で?
「ゆ、ゆいぃ…はは、まさかいきなり演奏するなんてこと、いわない、よな……?」
顔面の血の気が引いていくのがわかる。…な、なんでこんなことに? 気を失いかけていると、唯は「澪ちゃん!」と大きな声を出した。…唯の強い瞳が、私を射抜く。
「未来を怖がることなんて、何もないよ! …そりゃもう軽音部でみんなでお茶飲んだりお菓子食べたりだらけたりすることはないかもしれないけど、でも楽しいことは、今をもっと楽しくすることは絶対に出来るはずなんだから、未来はきっとずっともっと楽しく変わっていく!」
「唯…」
「澪ちゃん、笑って!!」
唯のギターが唸りを上げる。それを合図に世界が変わる。――心臓がどきんどきんと高鳴っていく。緊張のため? いや、それだけじゃない。私の足は小刻みに震えているけれど、でもただ緊張で、歌うのが怖くて恥ずかしいだけで、私は震えているのじゃない。…唯のギターが、唯の笑顔が、私を高揚させている。――歌おう。悩む前に、歌うんだ…! 私はもっと素敵に、今をもっと素敵にできるはず! ――そう感じた瞬間、私は大きく息を吸った。真っ白な未来が、私の歌で染め上がるのを予感して。
Fin!