湖の婦人
2010/06/30/Wed
私の知っているある男の人のことを話します。その人は私がこれまで出会った人の中で一番奇妙で偏屈な人です。齢のころはまだ三十代で若く綺麗な顔と肢体を持ち、なかなかの伊達者なのですが、常に暗い表情をし、笑った姿を見た人は知る限りいません。目は足下の土くれを凝視し、黒い瞳は沼の底を窺うかのようで、何も知らない人がこの人と会おうものなら、その雰囲気に威圧されてしまうに相違ません。つまり人好きのする要素に欠けているという点では、この人に敵うことは難しいでしょう。他人とうち親しみ、眠れない夜に秘密の相談事をしたり、清らかな早朝に共に川原を散歩したりする友人を得るには、人は自分の殻を開けなければなりません。そうでなかったらどうして心と心が深い皮膚に収まれている人間同士、愛を見つけることができましょう。私の知るこの男性は、そういった方面に全く顔を背けているのです。子供っぽい意地のように思えなくもありませんでした。
月に一度、この男性はとある湖に足を運びます。そこは郊外にある人気のない静かな林道を抜けたところ、かすかな木漏れ日が慎ましく頬に当たる、春の陽気な蝶が和やかに舞う、耳を澄ますと妖精の囁きが信じられる、そんな湖の側に墓があり、男の人は死者の元に絶えることなく顔を出すのです。
大抵は手ぶらであり、墓石に刻まれた名前を一瞥し、それから湖の周りをぶらぶらと闊歩して一時間もしないで帰路に着くのです。幾十と知れず繰り返しているので、もはやわざわざ涙を落としたりするような悲しみを表す必要はないのでしょう。ただ墓地の空気に触れることのみで、快感原則と社会原則が絡み合う世に立つ生きた人がどこか遠い理想郷に赴いてしまった死の人に携わることの大まかな目的は達してしまうに相違ません。しかし私から意見を言わせてもらえるのなら、そうしてしまえるようになった人は、第三者から眺めるならばひどく悲痛なものです。
時折、この人はぼうっとします。普段はこれほどないほど冷徹に視覚に力を込め、意識の能力を使える限りにおいて行使しているような人が、一日か二日か、それとももっと多いか知りませんが、何をするのも億劫な風になるのです。背中を丸め、力なく地面を見つめます。ここだから言えますが、私はそうしたときのこの人が一番好ましいのです。
一体、過去に何があったのか。この男性はどんな悲劇的な人生を背負わされているのか。おそらく人はそうしたことに関心があるのでしょう。しかし私に言わせれば、それらは第一等に問題にすべきことではないのです。いえ、過去において論じるべきことはこの場合には何もないのです。私はこの人において既に墓参りが形式だけのものとなっているのと同様、今まで生きてきた経歴それさえも表面だけのものになっているのに相違ないのです。もはや過去はこの人の意識に昇る確信ではなく、あれほど鮮明に思えたはずのまどろみの中で出会った星の影のようなどうあっても掴めない幻影の如きものなのです。
つまりこの男の人にとって悩みの核心足るものは、思い出に縛られていることではなく、何故思い出にできないのかということなのです。人生の以前の一場面を人は思い出として綺麗な過去に成型し、それを先の長い人生の糧にする。しかし人はどこで思い出を製造するのだろうか。思い出を作る、往々にして青春の人々に老齢な人々は忠言する。それは思い出がどれだけ尊いものとなりえるか、長老はよく知っているからだ。しかし、人は思い出を思い出すときに、その思い出がいつ作られたものだか丹念に知っているかどうか。知る道理がない。何故なら思い出とは本人の知らぬ間にいつの間にか自然とあるものだからだ。だが、人の中に思い出を作る能力があるとして、それはどういった仕組みなのか、何がその原動力となっているのだろうか。墓参りに来るこの人はそんなことを考えています。なるほど、思い出は自然の産物だ。となると過去の今ではとうにいない死者をこうも忘れることのなく、現在自分が関わっている人達以上に想っているとは、私の思い出を作る自然が壊れているとでもいうのだろうか。それならそれで納得できる。時間など既に干からびている。
男性はそうしてまた湖に訪れました。私は知っています。この人の中の思い出を産み出す貴重な魔法が破壊されているのではない。故障しているのでもなく、ただ明晰な理性が稼動しているに相違ない。どういうことかと言いますと、この人はある目的を持ち、その目的を達成するまでは過去は過去ではなく、常に全人生を懸けるべき目標なのです。ですから墓に訪れる際にも手ぶらでなんら問題ないのです。自分は墓石の名に向けた目的に一歩一歩近づいている。遠い目標だが、それでも進んでいる。そう実感できるのです。なんていうことか。この人は思い出を作れないのではない、自ら思い出の設計を手掛け、その作成に精力を込めている。自然に反した血みどろの行為…!
私がこの人にしてあげられることは何なのか。つらつら考えるに、死んだ人がどうでもよくなるくらいにあの人の中の私の存在の規模を拡大すればよろしいのです。私という人間がこの上なく愛しく思えるならば、もはや亡霊に煩っている暇はないでしょう。
ですがこの意見が途方もなく困難であることは、当の私が一番承知しているのです。一月に必ず会いに行き、そして日々の意識をそのことのみに向けている人間の考えを変革することなど誰にできましょう。理性と精神がただそのことのみに専心しているのです。鎖を外すには如何な手段を取れと言うのでしょうか。私には到底、思いつきません。
私の唯一の特技たるピアノを弾きました。鍵盤を叩き、旋律を紡いでいきます。無音の部屋に名もない作曲家が記した悲しげな曲が漂い始めます。低音から高音へ。緩やかな曲です。最初は空気にふわふわとしているだけの無害な音楽ですが、その中に段々と歪みが入っていきます。まるで朝、起きて眠気覚ましに飲む水に釘が入っているかのよう。嫌でも苦さと鋭い痛覚に耳を傾けなければなりません。そうして悲痛な響きは益々高ぶり、コップに注いだ液体が溢れ出るかのよう、そして曲は終わりを迎えます。
次は穏やかな優しげな曲です。すぐに気付きます。これは愛を囁いていますが、愛ではなく悔恨だと全くまるわかりです。人はふと一見して暖かな毛布に身を包みますが、すぐさま遠くに忘れた子供の頃の夏休みの、遊んでも遊んでも終わることのない緩やかな日々、そこから追い出された自分を自覚してしまうからです。私もいつの間にか泣いていました。さめざめと、まるで胸を刺されたかのように。大切な人に刃物で傷つけられたかのように。
この曲を作ったのが実は今では湖の墓で眠る人なのです。私にとってはピアノの先生で、あの人にとっては恋人でした。数年前の話です。もう会話の話題に上ることもありません。
ですがあの人は墓地に参りに行き、彼女を失った痛手を明確な目的意識により誤魔化しています。悲劇があったとき、落ち込むことなくあの人はつまらない杖に身を任せてしまったのです。私はそれを静観するのみで、大きな苦痛、大規模な悲劇ではなく長くゆったりと進行する歪な舞台、最後に訪れる破局が現れることを予見することができなかったのです。それは悔いるべきでしょう。あの人を何とかできたのは私以外にいないのでしたから。しかしそれは罪なのでしょうか? 罪だと耳元で囁く人がいたならば、私は二もなく肯いたことでしょう。
ですから、あの人が血塗れになって帰ってきたとき、私はさほど驚きませんでした。多少、狼狽はしましたが、しかしやっぱりと思うほうが遥かに大きかったのです。いつかこうなると思っていました。
どうやらひどく出血しているようです。この外傷はナイフでしょうか。私は服を脱がせ、傷を一瞥しました。病院に連れて行こうとしましたが、自分を診てくれるはずがなかろうとこの人は言いました。確かにその通りで、今の病院が適切な処置を政府に反抗する無法者にしてくれるはずがないのです。
気が乗りませんでしたが、私が手当てをする他なかったのです。血を今まで生きてきた中で最も多く見、手はこれでもかと真っ赤に染まりました。大変痛いであろう様子は否定しようもありません。この出血のためにもしかしたらこのまま死んでしまうのでないか、そんな不吉な予感さえ出てきました。すると無性に悲しくなり咽びましたが、こともあろうにこの人は寝息を立てていたのです。
しかしそれも仮初のものであることは見るに明らかでした。激しい痛みと熱がこの人を夢の中でも襲っているのです。顔面は蒼白で巻いた包帯は血に染まっています。
医者でもない私には立派な傷の治療などできるはずがないのです。この人の苦しみを和らげる手段など、元から欠けている身であるのは明らかで、苦しむ彼は何事か上の空に呟いています。
水が欲しいのかと耳を近づけると、それは遥かに死んだこの人の恋人の名前でした。
いけない、と私は叫びました。今、この期に及んで死者を持ち出すとは。もはや自分の命の先のないことを知っているから出たことなのか、それとも助けを求めるのはやはり一番愛しい人なのか。
私は無性に悔しくなったのです。湖の人がまだこれほど巨大なのか。あの人が世界から消えて、それからずっと一緒にいた私よりも今わの際には昔の恋人を、この世のものでないものに救いを求めるのか。傷を手当てしたのは私なのに、やるせなく私は思うがままに泣き明かしたくなりました。
死んだ恋人の復讐のために、一人の人間が使える限りの能力を駆使してきた人でした。だからもうあらゆる力を失った現在、人生の最も関わった人を求めるのは至極当然です。しかしそれは私に納得させるに足りるものではないのです。どうにか鎖を外し、亡霊を払いたいと考えてきた私ですが、それがただ嫉妬の念から起こったものでないと、誰に証言できましょう? 思えば、先生が生きていた頃からその萌芽はあったのだと、悔しさに身が裂かれる思いの私は突きつけられます。
私の醜さが、そこで唐突に意識されたのです。あの人が生死の境を彷徨っているとき、あの人がその愛の限りを尽くしている人を口にしたとき、それが自分でないことにとうに自分は知っているのに、そこに一抹の希望を夢を私は抱いていたのです。もしものときに、あの人が頼るのはずっと恋人が湖に行ってしまったときから、いやそれ以前からずっと側にいたこの私に相違ないと。どこにもそんな根拠はないのに、私は半ば確信していたのです。
そして結末は私の立場はあの人のどこにもあるべき場所を見出せず、ふられた寂しさにどうしようもなく泣いているのが私なのでした。ここであの人を死なせてしまおうか。ふとそんな悪魔の囁きが私に届きました。何を馬鹿な。しかしそれは魅惑的でもありました。そうすればあの人の本心の望みが叶えられるような気もしましたし、苦しむだけの現世に留まることに何ら利益はないのではとそのときの私には思えたのです。
ふらふらと、私はナイフを探しました。料理をする際に使う刃物がありました。これなら私は毎日のように使っているので、手に馴染んだものです。ベッドの上で苦しげにうめいているあの人の側に、息を潜んで近づいていきます。
刃は金属質な光を反射し、彼の苦しむ姿を眩く呪詛的に映しています。…ああ、取り替えたばかりの包帯は既にくしゃくしゃで、球のような汗が額から零れ落ち、傷口からはまだ赤い染みができます。
うわ言をぶつぶつと、きっと夢の中のことなのでしょう、この人は誰かをしきりに呼び求めています。そうでしょう。人は苦しみの中にあれば、神であれ、親であれ、友であれ、何かしらに心から救いを求めます。人付き合いの滅多にない、孤独なこの人が頼るべきものは、ずっと一緒にいた私か、亡き恋人か、それぐらいしかない広い世界で寂しく生きている人なのです。だから恋人の名を呼ぶのは不思議でありません。それと同じくらいに、どうして私を呼ばないのか…! 私を愛していないのか、そうなのか。
悩むことはもうありません。殺してあげよう。そうすればきっとこの人は恋人と再会できます。それが優しさでなくて何であろう。私の愛でなくて何であろう?
そのとき、正に私が刃を突き立てようとしたとき、目に閃いたのはこの人が葬られるべき墓、きっとこの人の遺体は湖の婦人の元に、一緒にいられるようにと葬られることでしょう。そして私は二人が仲睦まじく天国のような湖の墓地でいるのを見なくてはならないでしょう。
「そんなのは耐えられない…」
私は呟きました。ナイフは手から滑り落ち、力なく床に落ちました。
それから私は彼の汗を丹念に拭き、汚れた包帯を丁寧に替えてやりました。この人は生きなくてはならない。生きて私と一緒にいなければならない。私は俄然、そう思いました。生きて、私と一緒にいれば、今までずっと一緒にいることができたのだから、私の愛は諦めることはないに相違ない。私は彼の言葉が聞こえないように、その口に接吻しました。
・あとがき
四年五ヶ月前に書いた作品です。じめじめしてブログを書く気がしませんので、代わりに置いておきます。
月に一度、この男性はとある湖に足を運びます。そこは郊外にある人気のない静かな林道を抜けたところ、かすかな木漏れ日が慎ましく頬に当たる、春の陽気な蝶が和やかに舞う、耳を澄ますと妖精の囁きが信じられる、そんな湖の側に墓があり、男の人は死者の元に絶えることなく顔を出すのです。
大抵は手ぶらであり、墓石に刻まれた名前を一瞥し、それから湖の周りをぶらぶらと闊歩して一時間もしないで帰路に着くのです。幾十と知れず繰り返しているので、もはやわざわざ涙を落としたりするような悲しみを表す必要はないのでしょう。ただ墓地の空気に触れることのみで、快感原則と社会原則が絡み合う世に立つ生きた人がどこか遠い理想郷に赴いてしまった死の人に携わることの大まかな目的は達してしまうに相違ません。しかし私から意見を言わせてもらえるのなら、そうしてしまえるようになった人は、第三者から眺めるならばひどく悲痛なものです。
時折、この人はぼうっとします。普段はこれほどないほど冷徹に視覚に力を込め、意識の能力を使える限りにおいて行使しているような人が、一日か二日か、それとももっと多いか知りませんが、何をするのも億劫な風になるのです。背中を丸め、力なく地面を見つめます。ここだから言えますが、私はそうしたときのこの人が一番好ましいのです。
一体、過去に何があったのか。この男性はどんな悲劇的な人生を背負わされているのか。おそらく人はそうしたことに関心があるのでしょう。しかし私に言わせれば、それらは第一等に問題にすべきことではないのです。いえ、過去において論じるべきことはこの場合には何もないのです。私はこの人において既に墓参りが形式だけのものとなっているのと同様、今まで生きてきた経歴それさえも表面だけのものになっているのに相違ないのです。もはや過去はこの人の意識に昇る確信ではなく、あれほど鮮明に思えたはずのまどろみの中で出会った星の影のようなどうあっても掴めない幻影の如きものなのです。
つまりこの男の人にとって悩みの核心足るものは、思い出に縛られていることではなく、何故思い出にできないのかということなのです。人生の以前の一場面を人は思い出として綺麗な過去に成型し、それを先の長い人生の糧にする。しかし人はどこで思い出を製造するのだろうか。思い出を作る、往々にして青春の人々に老齢な人々は忠言する。それは思い出がどれだけ尊いものとなりえるか、長老はよく知っているからだ。しかし、人は思い出を思い出すときに、その思い出がいつ作られたものだか丹念に知っているかどうか。知る道理がない。何故なら思い出とは本人の知らぬ間にいつの間にか自然とあるものだからだ。だが、人の中に思い出を作る能力があるとして、それはどういった仕組みなのか、何がその原動力となっているのだろうか。墓参りに来るこの人はそんなことを考えています。なるほど、思い出は自然の産物だ。となると過去の今ではとうにいない死者をこうも忘れることのなく、現在自分が関わっている人達以上に想っているとは、私の思い出を作る自然が壊れているとでもいうのだろうか。それならそれで納得できる。時間など既に干からびている。
男性はそうしてまた湖に訪れました。私は知っています。この人の中の思い出を産み出す貴重な魔法が破壊されているのではない。故障しているのでもなく、ただ明晰な理性が稼動しているに相違ない。どういうことかと言いますと、この人はある目的を持ち、その目的を達成するまでは過去は過去ではなく、常に全人生を懸けるべき目標なのです。ですから墓に訪れる際にも手ぶらでなんら問題ないのです。自分は墓石の名に向けた目的に一歩一歩近づいている。遠い目標だが、それでも進んでいる。そう実感できるのです。なんていうことか。この人は思い出を作れないのではない、自ら思い出の設計を手掛け、その作成に精力を込めている。自然に反した血みどろの行為…!
私がこの人にしてあげられることは何なのか。つらつら考えるに、死んだ人がどうでもよくなるくらいにあの人の中の私の存在の規模を拡大すればよろしいのです。私という人間がこの上なく愛しく思えるならば、もはや亡霊に煩っている暇はないでしょう。
ですがこの意見が途方もなく困難であることは、当の私が一番承知しているのです。一月に必ず会いに行き、そして日々の意識をそのことのみに向けている人間の考えを変革することなど誰にできましょう。理性と精神がただそのことのみに専心しているのです。鎖を外すには如何な手段を取れと言うのでしょうか。私には到底、思いつきません。
私の唯一の特技たるピアノを弾きました。鍵盤を叩き、旋律を紡いでいきます。無音の部屋に名もない作曲家が記した悲しげな曲が漂い始めます。低音から高音へ。緩やかな曲です。最初は空気にふわふわとしているだけの無害な音楽ですが、その中に段々と歪みが入っていきます。まるで朝、起きて眠気覚ましに飲む水に釘が入っているかのよう。嫌でも苦さと鋭い痛覚に耳を傾けなければなりません。そうして悲痛な響きは益々高ぶり、コップに注いだ液体が溢れ出るかのよう、そして曲は終わりを迎えます。
次は穏やかな優しげな曲です。すぐに気付きます。これは愛を囁いていますが、愛ではなく悔恨だと全くまるわかりです。人はふと一見して暖かな毛布に身を包みますが、すぐさま遠くに忘れた子供の頃の夏休みの、遊んでも遊んでも終わることのない緩やかな日々、そこから追い出された自分を自覚してしまうからです。私もいつの間にか泣いていました。さめざめと、まるで胸を刺されたかのように。大切な人に刃物で傷つけられたかのように。
この曲を作ったのが実は今では湖の墓で眠る人なのです。私にとってはピアノの先生で、あの人にとっては恋人でした。数年前の話です。もう会話の話題に上ることもありません。
ですがあの人は墓地に参りに行き、彼女を失った痛手を明確な目的意識により誤魔化しています。悲劇があったとき、落ち込むことなくあの人はつまらない杖に身を任せてしまったのです。私はそれを静観するのみで、大きな苦痛、大規模な悲劇ではなく長くゆったりと進行する歪な舞台、最後に訪れる破局が現れることを予見することができなかったのです。それは悔いるべきでしょう。あの人を何とかできたのは私以外にいないのでしたから。しかしそれは罪なのでしょうか? 罪だと耳元で囁く人がいたならば、私は二もなく肯いたことでしょう。
ですから、あの人が血塗れになって帰ってきたとき、私はさほど驚きませんでした。多少、狼狽はしましたが、しかしやっぱりと思うほうが遥かに大きかったのです。いつかこうなると思っていました。
どうやらひどく出血しているようです。この外傷はナイフでしょうか。私は服を脱がせ、傷を一瞥しました。病院に連れて行こうとしましたが、自分を診てくれるはずがなかろうとこの人は言いました。確かにその通りで、今の病院が適切な処置を政府に反抗する無法者にしてくれるはずがないのです。
気が乗りませんでしたが、私が手当てをする他なかったのです。血を今まで生きてきた中で最も多く見、手はこれでもかと真っ赤に染まりました。大変痛いであろう様子は否定しようもありません。この出血のためにもしかしたらこのまま死んでしまうのでないか、そんな不吉な予感さえ出てきました。すると無性に悲しくなり咽びましたが、こともあろうにこの人は寝息を立てていたのです。
しかしそれも仮初のものであることは見るに明らかでした。激しい痛みと熱がこの人を夢の中でも襲っているのです。顔面は蒼白で巻いた包帯は血に染まっています。
医者でもない私には立派な傷の治療などできるはずがないのです。この人の苦しみを和らげる手段など、元から欠けている身であるのは明らかで、苦しむ彼は何事か上の空に呟いています。
水が欲しいのかと耳を近づけると、それは遥かに死んだこの人の恋人の名前でした。
いけない、と私は叫びました。今、この期に及んで死者を持ち出すとは。もはや自分の命の先のないことを知っているから出たことなのか、それとも助けを求めるのはやはり一番愛しい人なのか。
私は無性に悔しくなったのです。湖の人がまだこれほど巨大なのか。あの人が世界から消えて、それからずっと一緒にいた私よりも今わの際には昔の恋人を、この世のものでないものに救いを求めるのか。傷を手当てしたのは私なのに、やるせなく私は思うがままに泣き明かしたくなりました。
死んだ恋人の復讐のために、一人の人間が使える限りの能力を駆使してきた人でした。だからもうあらゆる力を失った現在、人生の最も関わった人を求めるのは至極当然です。しかしそれは私に納得させるに足りるものではないのです。どうにか鎖を外し、亡霊を払いたいと考えてきた私ですが、それがただ嫉妬の念から起こったものでないと、誰に証言できましょう? 思えば、先生が生きていた頃からその萌芽はあったのだと、悔しさに身が裂かれる思いの私は突きつけられます。
私の醜さが、そこで唐突に意識されたのです。あの人が生死の境を彷徨っているとき、あの人がその愛の限りを尽くしている人を口にしたとき、それが自分でないことにとうに自分は知っているのに、そこに一抹の希望を夢を私は抱いていたのです。もしものときに、あの人が頼るのはずっと恋人が湖に行ってしまったときから、いやそれ以前からずっと側にいたこの私に相違ないと。どこにもそんな根拠はないのに、私は半ば確信していたのです。
そして結末は私の立場はあの人のどこにもあるべき場所を見出せず、ふられた寂しさにどうしようもなく泣いているのが私なのでした。ここであの人を死なせてしまおうか。ふとそんな悪魔の囁きが私に届きました。何を馬鹿な。しかしそれは魅惑的でもありました。そうすればあの人の本心の望みが叶えられるような気もしましたし、苦しむだけの現世に留まることに何ら利益はないのではとそのときの私には思えたのです。
ふらふらと、私はナイフを探しました。料理をする際に使う刃物がありました。これなら私は毎日のように使っているので、手に馴染んだものです。ベッドの上で苦しげにうめいているあの人の側に、息を潜んで近づいていきます。
刃は金属質な光を反射し、彼の苦しむ姿を眩く呪詛的に映しています。…ああ、取り替えたばかりの包帯は既にくしゃくしゃで、球のような汗が額から零れ落ち、傷口からはまだ赤い染みができます。
うわ言をぶつぶつと、きっと夢の中のことなのでしょう、この人は誰かをしきりに呼び求めています。そうでしょう。人は苦しみの中にあれば、神であれ、親であれ、友であれ、何かしらに心から救いを求めます。人付き合いの滅多にない、孤独なこの人が頼るべきものは、ずっと一緒にいた私か、亡き恋人か、それぐらいしかない広い世界で寂しく生きている人なのです。だから恋人の名を呼ぶのは不思議でありません。それと同じくらいに、どうして私を呼ばないのか…! 私を愛していないのか、そうなのか。
悩むことはもうありません。殺してあげよう。そうすればきっとこの人は恋人と再会できます。それが優しさでなくて何であろう。私の愛でなくて何であろう?
そのとき、正に私が刃を突き立てようとしたとき、目に閃いたのはこの人が葬られるべき墓、きっとこの人の遺体は湖の婦人の元に、一緒にいられるようにと葬られることでしょう。そして私は二人が仲睦まじく天国のような湖の墓地でいるのを見なくてはならないでしょう。
「そんなのは耐えられない…」
私は呟きました。ナイフは手から滑り落ち、力なく床に落ちました。
それから私は彼の汗を丹念に拭き、汚れた包帯を丁寧に替えてやりました。この人は生きなくてはならない。生きて私と一緒にいなければならない。私は俄然、そう思いました。生きて、私と一緒にいれば、今までずっと一緒にいることができたのだから、私の愛は諦めることはないに相違ない。私は彼の言葉が聞こえないように、その口に接吻しました。
・あとがき
四年五ヶ月前に書いた作品です。じめじめしてブログを書く気がしませんので、代わりに置いておきます。