「判る」と「解る」のちがい ベルクソンを参考として
2011/01/30/Sun
「ブログは基本的にアニメや漫画って無体な話題をする場所って心がけているのだけど、今朝方、twitterで「判る」と「解る」のちがいについて少し雑談し、聞いてみるとそれはベルクソンの『思想と動くもの』によった考え方らしい。となると、やたら気になってくる。白状すると、私は哲学は苦手で、ベルクソンは邦訳を少し読むだけ読んで、ああわからない、わからないのは私が悪いんじゃなくてきっとほかの誰かが悪いんだ、許せない、とか思うくらい。なので、このエントリも誤りがあるにちがいなく、読む方々のご教示をいただきたいんだけど、でもとりあえず、思ったことは書いておく。」
「原文はネットで見られるのよね。こういうふうに歴史的な書物をきちんと電子化しているのはすばらしいことと感嘆するほかないでしょう。なんて便利な世のなかかしら。」
「まずベルクソンは「哲学入門」の冒頭で、認識には二つの仕方があるという。一つは「相対」であり、もう一つは「絶対」。人はsigne「記号」symbole「象徴」によって、いろいろなものの描写を行なうけど、記号による限り、それは相対に留まり、そして相対は絶対には至らない。どんなに正確になされた翻訳も、原文には決して到達しない。」
「部分を積み重ねても、人は絶対へとは至らない。「相対」による認識は、「絶対」による認識へとは決して至らない。」「ベルクソンはいろいろな例を示しながら、そのことを提示しているのでしょう。」
「intuition「直観」というタームが現れる。ベルクソンは「直観」により、絶対を獲得することができるといっている。でもだけど‥」
「「直観」ってちょっと難しすぎるのよね。ベルクソンの「直観」とは何かなんて問題は、正直、お手上げよ。」
「難しい。なんか、これ、片手間にやるものじゃなかったかな。ブログは息抜きの場じゃなかったかー。」
「はてさてね。」
「あー‥そうだな、分析するということが対象そのものを理解する「絶対」的な方法といかに隔たっているかがここでは説明されている、と思う。たぶん。」
「難しい、これは本当に。」
「難しい! こんな難しいことブログで、しかもせっかくの日曜にやるもんじゃなかった! ‥でもいいや。とりあえず、ここまでベルクソンのテクストに触れて、「判る」と「解る」のちがいがなんとなくわかった気がする。つまり、「判る」が相対的な理解であり、ベルクソンのいうところの科学的な見方で、「解る」が絶対的な認識、ベルクソンのいう「直観」を用いた完全な理解なんだ。それは私が私が知りたいと願う対象のなかに没入することである。おしまい。」
「これ、焦ってやったからいい加減な訳になってるでしょうね。そこは平にご勘弁といったところかしら。ただ翻訳だけ読んでわからないところは原文に当ったほうがいいというのは事実だから、なんともしがたいところね。はてさてよ。」
アンリ・ベルクソン「思想と動くもの」
「原文はネットで見られるのよね。こういうふうに歴史的な書物をきちんと電子化しているのはすばらしいことと感嘆するほかないでしょう。なんて便利な世のなかかしら。」
Une représentation prise d'un certain point de vue, une traduction faite avec certains symboles, restent toujours imparfaites en comparaison de l'objet sur lequel la vue a été prise ou que les symboles cherchent à exprimer. Mais l'absolu est parfait en ce qu'il est parfaitement ce qu'il est.
ある観点からなされた表現、ある象徴を用いてなされた翻訳は、視線が向けられたところの対象、象徴が表現しようと努めているところの対象と比較して、常に不完全のままに留まる。しかし、絶対は完全にそうであるものであるという意味において完全である。
ある観点からなされた表現、ある象徴を用いてなされた翻訳は、視線が向けられたところの対象、象徴が表現しようと努めているところの対象と比較して、常に不完全のままに留まる。しかし、絶対は完全にそうであるものであるという意味において完全である。
「まずベルクソンは「哲学入門」の冒頭で、認識には二つの仕方があるという。一つは「相対」であり、もう一つは「絶対」。人はsigne「記号」symbole「象徴」によって、いろいろなものの描写を行なうけど、記号による限り、それは相対に留まり、そして相対は絶対には至らない。どんなに正確になされた翻訳も、原文には決して到達しない。」
「ただそのものとの一致のみが絶対を与えうる。この認識の二つの相、「相対」と「絶対」の区別が示され、また強調されているのでしょう。」
C'est pour la même raison, sans doute, qu'on a souvent identifié ensemble l'absolu et l'infini. Si je veux communiquer à celui qui ne sait pas le grec l'impression simple que me laisse un vers d'Homère, je donnerai la traduction du vers, puis je commenterai ma traduction, puis je développerai mon commentaire, et d'explication en explication je me rapprocherai de plus en plus de ce que je veux exprimer ; mais je n'y arriverai jamais.
人が「絶対」と「無限」をよく同一視するのも、おそらく、同じ理由のためである。もし私がホメロスの詩が私に残す単純な印象をギリシア語を知らない人に伝えようとするならば、私は詩の翻訳を示し、次に自分の翻訳に注釈をし、さらに次にはその注釈を発展させ、説明に説明を続け、私は次第に私が表現したいところのものへと近づいていくことだろう。が、私はそこへは決して到達はしないだろう。
人が「絶対」と「無限」をよく同一視するのも、おそらく、同じ理由のためである。もし私がホメロスの詩が私に残す単純な印象をギリシア語を知らない人に伝えようとするならば、私は詩の翻訳を示し、次に自分の翻訳に注釈をし、さらに次にはその注釈を発展させ、説明に説明を続け、私は次第に私が表現したいところのものへと近づいていくことだろう。が、私はそこへは決して到達はしないだろう。
「部分を積み重ねても、人は絶対へとは至らない。「相対」による認識は、「絶対」による認識へとは決して至らない。」
Il suit de là qu'un absolu ne saurait être donné que dans une intuition, tandis que tout le reste relève de l'analyse. Nous appelons ici intuition la sympathie par laquelle on se transporte à l'intérieur d'un objet pour coïncider avec ce qu'il a d'unique et par conséquent d'inexprimable.
そのことから次のことが起る。絶対は「直観」のなかにのみ与えられ、一方、そのほかのすべては「分析」に属するのだ。私たちはここで直観を共感と呼ぶ。人はそれによって対象の内部に入るのであり、そして独特で、その結果、表現することができないものと一致するのである。
そのことから次のことが起る。絶対は「直観」のなかにのみ与えられ、一方、そのほかのすべては「分析」に属するのだ。私たちはここで直観を共感と呼ぶ。人はそれによって対象の内部に入るのであり、そして独特で、その結果、表現することができないものと一致するのである。
「intuition「直観」というタームが現れる。ベルクソンは「直観」により、絶対を獲得することができるといっている。でもだけど‥」
「「直観」ってちょっと難しすぎるのよね。ベルクソンの「直観」とは何かなんて問題は、正直、お手上げよ。」
Au contraire, l'analyse est l'opération qui ramène l'objet à des éléments déjà connus, c'est-à-dire communs à cet objet et à d'autres. Analyser consiste donc à exprimer une chose en fonction de ce qui n'est pas elle. Toute analyse est ainsi une traduction, un développement en symboles, une représentation prise de points de vue successifs d'où l'on note autant de contacts entre l'objet nouveau, qu'on étudie, et d'autres, que l'on croit déjà connaître.
反対に、分析とは対象を既知の諸要素、すなわちある対象と他の対象に共通なものへと還元する作業である。故に分析するとはある事物をそうでないものの関数として表現するということである。そうすると、あらゆる分析はある翻訳、象徴によるある敷衍、連続的な観点によるある表現であり、そこから、研究している新しい対象と既に知っていると思っている他の対象の間の接触を書き留めるのである。
反対に、分析とは対象を既知の諸要素、すなわちある対象と他の対象に共通なものへと還元する作業である。故に分析するとはある事物をそうでないものの関数として表現するということである。そうすると、あらゆる分析はある翻訳、象徴によるある敷衍、連続的な観点によるある表現であり、そこから、研究している新しい対象と既に知っていると思っている他の対象の間の接触を書き留めるのである。
「難しい。なんか、これ、片手間にやるものじゃなかったかな。ブログは息抜きの場じゃなかったかー。」
「はてさてね。」
「あー‥そうだな、分析するということが対象そのものを理解する「絶対」的な方法といかに隔たっているかがここでは説明されている、と思う。たぶん。」
「難しい、これは本当に。」
Ceci posé, on verrait sans peine que la science positive a pour fonction habituelle d'analyser. Elle travaille donc avant tout sur des symboles. Même les plus concrètes des sciences de la nature, les sciences de la vie, s'en tiennent à la forme visible des êtres vivants, de leurs organes, de leurs éléments anatomiques. Elles comparent les formes les unes aux autres, elles ramènent les plus complexes aux plus simples, enfin elles étudient le fonctionnement de la vie dans ce qui en est, pour ainsi dire, le symbole visuel. S'il existe un moyen de posséder une réalité absolument au lieu de la connaître relativement, de se placer en elle au lieu d'adopter des points de vue sur elle, d'en avoir l'intuition au lieu d'en faire l'analyse, enfin de la saisir en dehors de toute expression, traduction ou représentation symbolique, la métaphysique est cela même. La métaphysique est donc la science qui prétend se passer de symboles.
提起されたこれらのことから、次のことが苦労せずわかる。すなわち、実証科学は分析することを習慣的な機能とする。科学はそのため何よりもまず象徴の上で働く。自然科学の最も具体的な生命科学でさえ、生物、諸器官、解剖学的要素という目に見える形で満足している。科学は形態をそれぞれ比較し、最も複雑なものを最も単純なものへと還元し、ついには生命の機能をそれらがあるところ、可視的な象徴のもとで研究する。もし絶対的な現実をそれを相対的に知ることなしに所持する、それについての観点を採用することなしにそのなかに入る、分析をせずにそれについての直観を持つ、そしてあらゆる表現、翻訳、象徴的表象の外でそれを把持する方法があるとすれば、形而上学こそがそれなのである。「形而上学はそれ故に象徴なしに済ますことを望む科学なのだ。」
提起されたこれらのことから、次のことが苦労せずわかる。すなわち、実証科学は分析することを習慣的な機能とする。科学はそのため何よりもまず象徴の上で働く。自然科学の最も具体的な生命科学でさえ、生物、諸器官、解剖学的要素という目に見える形で満足している。科学は形態をそれぞれ比較し、最も複雑なものを最も単純なものへと還元し、ついには生命の機能をそれらがあるところ、可視的な象徴のもとで研究する。もし絶対的な現実をそれを相対的に知ることなしに所持する、それについての観点を採用することなしにそのなかに入る、分析をせずにそれについての直観を持つ、そしてあらゆる表現、翻訳、象徴的表象の外でそれを把持する方法があるとすれば、形而上学こそがそれなのである。「形而上学はそれ故に象徴なしに済ますことを望む科学なのだ。」
「難しい! こんな難しいことブログで、しかもせっかくの日曜にやるもんじゃなかった! ‥でもいいや。とりあえず、ここまでベルクソンのテクストに触れて、「判る」と「解る」のちがいがなんとなくわかった気がする。つまり、「判る」が相対的な理解であり、ベルクソンのいうところの科学的な見方で、「解る」が絶対的な認識、ベルクソンのいう「直観」を用いた完全な理解なんだ。それは私が私が知りたいと願う対象のなかに没入することである。おしまい。」
「これ、焦ってやったからいい加減な訳になってるでしょうね。そこは平にご勘弁といったところかしら。ただ翻訳だけ読んでわからないところは原文に当ったほうがいいというのは事実だから、なんともしがたいところね。はてさてよ。」
Mais l'intuition, si elle est possible, est un acte simple.
しかし直観とは、もしそれが可能であるならば、単純な行為である。
しかし直観とは、もしそれが可能であるならば、単純な行為である。
アンリ・ベルクソン「思想と動くもの」