武者小路実篤「友情」
2011/03/31/Thu
「大正九年に完成された武者小路実篤の代表作として、また日本近代文学における青春文学の傑作として名高い「友情」は、主人公野島の視点から語られる上篇と、彼、野島の親友の大宮とヒロイン杉子の書籍から成る下篇とによって構成される。本作はいわゆる三角関係を扱ったもので、駆け出しの脚本家の野島はすでに世間から大きく期待されている大宮に対し、少しの羨望と嫉妬を覚えながらも、でもそれらを上回る確固とした友情によって結ばれている。そんななか、友人の妹である杉子に野島はいってみれば一目惚れして、激しく彼女を思い慕うわけなんだけど、本作を見て感じずにはいられないのは、この野島の恋情が徹頭徹尾、一人相撲になっちゃってるところを措いてほかにないのでないかなって私は思う。というのも、この小説はその大部分が野島の恋愛の葛藤に割かれているんだけれど、彼は積極的に彼女にアピールするといった類の人じゃなくて、その恋慕の様はじっと心の奥底に秘められるといった、沈潜の形をとるから。だから彼の熱愛の対象である杉子は野島の感情をそれほど察してなかったし、それに気づいたあとは生理的な嫌悪さえ覚えている。その様子はいってみれば失恋の生々しい残酷ささえ表している。」
「よくいえばプラトニックというところなんでしょうけど、実際には野島は一人で燃え上がって、勝手にふられてしまうといった、どこか利己的な側面も彼にはうかがえるといわざるをえないのでしょうね。もちろん本作の時代背景を考えれば、野島の態度をエゴイスティックと切り捨てるのは乱暴なのかもしれない。なぜなら結構というものに対する価値観を彼は信奉しているからであり、その様子はある価値観念に殉教するといった神聖さまでうかがわれるから。これはおそらく武者小路実篤がキリスト教に深く関心を持っていたということも影響しているのでしょう。作中、野島が神について激しく語る場面もあり、野島は俗離れした、高潔な人間像として描かれている。」
「それに対して、大宮は親友の気持を知りながらも、最終的に杉子と相思相愛になり、結ばれる。ただだからといって大宮が悪く描かれているというと、そうでもない。これがこの作品の不思議でそしておもしろい点かなって思うんだけど、この物語は恋愛に挫折し、辛い目にあった野島の哀切とやりきれなさと憎悪とそこからいずれ立ち直るだろう未来を賛美していると同時に、また自己の感情を認め、友を裏切ることになりながらも、愛を選択し、今後の叱責と良心の呵責を覚悟し、それでも前に進もうと決断する大宮の姿もあわせて肯定しているように、私には思われる。その意味で血と肉にまみれた西洋的な恋愛の悲惨と本作は無縁であり、この作品はどこまでいっても清冽で、美しい精神性をこそ称揚している。それは文体にも表れ、本作の文章は簡潔で余計なところがなく、全体から受ける印象は非常に美しい。大正という時代に置かれた日本の思想的背景も見え、この小説は読んでいてとても楽しかった。エントリとしての一応の結論をつけると、本作は日本的精神が目指す青春の、ある結末といえるんじゃないかなって、私は思う。」
「肉欲のどろどろとした部分を削った精神の交流を理想化したものと、本作を指して、果していえるかしれないかしらね。‥ただもちろんそうはいっても、性欲というものから人は抜け出ることはかなわない。その意味ではヒロインである杉子が、そういった部分における性欲、肉体の影響というものを露骨に感じさせる描写が為されていて、興味深かったかしら。というのも、人は精神的な高潔さだけで完結することはありえないのだから。常に性は絡むのだから。どのような関係性にも、性の隠微な力は、働かざるをえないのだから。」
『ともかく恋は馬鹿にしないがいい。人間に恋と云う特別のものが与えられている以上、それを馬鹿にする権利は我々にはない。それはどうしても駄目な時は仕方がない。しかし駄目になる処までは進むべきだ。恋があって相手の運命が気になり、相手の運命を自分の運命とむすびつけたくなるのだ。それでこそ家庭と云うものが自然になるのだ。恋を馬鹿にするから、結婚が賤しくなり、男女の関係が歪になるのだ。本当の恋と云うものを知らない人が多いので、純金を知らないものが、鍍金をつかまえるのだ』
武者小路実篤「友情」
武者小路実篤「友情」
「よくいえばプラトニックというところなんでしょうけど、実際には野島は一人で燃え上がって、勝手にふられてしまうといった、どこか利己的な側面も彼にはうかがえるといわざるをえないのでしょうね。もちろん本作の時代背景を考えれば、野島の態度をエゴイスティックと切り捨てるのは乱暴なのかもしれない。なぜなら結構というものに対する価値観を彼は信奉しているからであり、その様子はある価値観念に殉教するといった神聖さまでうかがわれるから。これはおそらく武者小路実篤がキリスト教に深く関心を持っていたということも影響しているのでしょう。作中、野島が神について激しく語る場面もあり、野島は俗離れした、高潔な人間像として描かれている。」
「それに対して、大宮は親友の気持を知りながらも、最終的に杉子と相思相愛になり、結ばれる。ただだからといって大宮が悪く描かれているというと、そうでもない。これがこの作品の不思議でそしておもしろい点かなって思うんだけど、この物語は恋愛に挫折し、辛い目にあった野島の哀切とやりきれなさと憎悪とそこからいずれ立ち直るだろう未来を賛美していると同時に、また自己の感情を認め、友を裏切ることになりながらも、愛を選択し、今後の叱責と良心の呵責を覚悟し、それでも前に進もうと決断する大宮の姿もあわせて肯定しているように、私には思われる。その意味で血と肉にまみれた西洋的な恋愛の悲惨と本作は無縁であり、この作品はどこまでいっても清冽で、美しい精神性をこそ称揚している。それは文体にも表れ、本作の文章は簡潔で余計なところがなく、全体から受ける印象は非常に美しい。大正という時代に置かれた日本の思想的背景も見え、この小説は読んでいてとても楽しかった。エントリとしての一応の結論をつけると、本作は日本的精神が目指す青春の、ある結末といえるんじゃないかなって、私は思う。」
「肉欲のどろどろとした部分を削った精神の交流を理想化したものと、本作を指して、果していえるかしれないかしらね。‥ただもちろんそうはいっても、性欲というものから人は抜け出ることはかなわない。その意味ではヒロインである杉子が、そういった部分における性欲、肉体の影響というものを露骨に感じさせる描写が為されていて、興味深かったかしら。というのも、人は精神的な高潔さだけで完結することはありえないのだから。常に性は絡むのだから。どのような関係性にも、性の隠微な力は、働かざるをえないのだから。」
『ともかく恋は馬鹿にしないがいい。人間に恋と云う特別のものが与えられている以上、それを馬鹿にする権利は我々にはない。それはどうしても駄目な時は仕方がない。しかし駄目になる処までは進むべきだ。恋があって相手の運命が気になり、相手の運命を自分の運命とむすびつけたくなるのだ。それでこそ家庭と云うものが自然になるのだ。恋を馬鹿にするから、結婚が賤しくなり、男女の関係が歪になるのだ。本当の恋と云うものを知らない人が多いので、純金を知らないものが、鍍金をつかまえるのだ』
武者小路実篤「友情」
武者小路実篤「友情」