背筋が凍てつくほどに星の光が強い夜のことだった。ようやく残暑も薄らぎ、夜には肌寒い風が感じられるようになったころ、幻想郷へ渡る準備のため、その日も私は真夜中を過ぎても、まだ薄暗い図書館の机の上に向っていた。周囲は物音ひとつせず、ただ私の動かすペンの微かな音と、大時計の針の規則正しい機械的な響きが、耳に聞こえる。そんな静寂のなか、ふと私は書き物をしていた手を止め、文字を追うのに疲れた目を指で押さえると、暗闇に覆われた柱の一角にこう言葉を投げた。
「いつまでそんなところに引っ込んでいるつもり? 用があるのなら早くして。私もあなたも、そう暇な身じゃないんでしょ?」
私の声が空ろに反響する。するとやがて図書館の四方に穿たれてある天窓から一筋の星明かりが闇を裂き、抜き身のナイフを無造作に手にした、銀色の少女を整然と照らした。彼女の両目は、人間のものとは思えないほどに、怪しく赤く染まっている。それを見て、私はゆっくりと立ち上がった。
「咲夜、あなたは何もの? ……レミィはあなたが空っぽだという。私もあなたは空虚な存在に見える。まるで何かの器のように……」
私のその指摘に咲夜がくすりと笑みを零したと思った、そのときだった。かたんとナイフの落ちる音がする。それはたしかに咲夜の握っていた銀の刃が落下し、床に突き刺さった音だった。だが、そして、なんていう知覚の不思議だろうか。ナイフが床に刺さる音を聞いたのとまったく同時に、私の背後に咲夜の息があった。驚く間もなく、彼女は私の痩せた身体に腕を絡ませ、私を抱きすくめる。身をもたせかけ、彼女の吐息と胸の鼓動が私の肌近くに迫ってくるのが感じられ、互いの衣服が擦れ合う感触がする。そのうちに、やがて、彼女の唇が私の唇に向い、寸前で、彼女はこうささやく。
「私が空虚だというなら、パチュリー様、あなたがそれを満たしてくれますか。」
――残念ね。その役目は私じゃ役不足よ。
「!?」
影が爆発した。いや、そうじゃない。咲夜が私に接吻しようとした瞬間、私の影に潜んでいたレミィが、蝙蝠の群れと化し、咲夜に襲いかかったのだ。その間に咲夜と距離を取り、すかさず魔道書を私が広げたのと同じくして、集団を成した蝙蝠は瞬く間にレミィの姿を形作る。鋭い爪を剥き出しにし、牙をきらめかせたレミィは不適に笑みを浮べ、咲夜に対峙した。
「残念だったね。――咲夜、お前の目的はパチェだったのかい? ……まあなんでもいい。いい加減、力ずくで真実を暴かせてもらうとしよう。」
「スマートなやり方じゃないけれど、ま、これも手っ取り早くていいかな。――さて、咲夜、時間を操るあなたの力、あなたはどこからそれを手に入れた? それは人間の手に負えるものではない。あなたもわかっているでしょう?」
私とレミィを前にし、しかし、咲夜は静かに微笑した。そして詩句を暗誦するかのように、こう言葉を紡ぐ。――お嬢様、パチュリー様、あなた方は思い違いをされています。
「私の能力は、時を支配することではないのです。それはこの能力の源泉の、些細な一端でしかない。」
銀色の従者がそう宣言したとき、図書館の窓という窓がすべて砕け、割れた。そしてそこから氷のように白く厳粛な星の光が幾重にも差し込み、その様はまるで光の洪水が襲い来るかのような、圧倒的な奔流だった。あまりの眩しさに、到底、私は目を開けていることができず、顔を腕で覆おうとするが、しかしその刹那、咲夜の背後に七つの真っ白に凝縮した光が集まり、それは遥か天空の星座を模したかのようだった。また彼女の立つ床には、「那丹那拉呼」の文様が浮び上がる。その文字の威力は、見過ごせるはずがなかった。
「ナタンナラフ……、――那丹那拉呼星図……!! ……信じられない……レミィ、逃げて……!!」
「なんだって!?」
「相手を……してはいけない……! なんてこと、これは、奴は、オラド、臥勒多媽媽!!」
「オラドママ……?」
「絶対に、勝てない……! ――咲夜の力の源は、臥勒多媽媽!! 天地三姉妹尊神の一人、銀河を支配する「布星女神」!!」
――すべてが遅かった。私がそう叫んだとき、真っ赤な血が私の身体に降り注いでいた。突然、雨が降ったのかと思うほどに全身をどす黒く濡らした私が横を向いたときに目撃したのは、隣に立っていたレミィの左胸が恐るべき力でもって、いつの間にか、抉り取られていた光景だった。肉を砕き、骨を無残に叩き割られて、引き裂かれたレミィの心臓は、幾片にも破かれた肉の塊として、私の足下にばらまかれている。いかな吸血鬼といえど、これでは即死だ。レミィが一言も発することなく血溜まりに沈むのを、私は呆然と横目にするほかなかった。
「――さすが、知識と日陰の魔女。私のことをよくご存知ですね。」
「……満族宇宙創世三姉妹、「布星女神」、臥勒多。なぜ、なぜ、そんな存在が私たちの前に現れるの、なぜ、なぜ……」
「私の目的、わかりませんか、パチュリー様。すべては、そう、あなたに関係していること。因業の糸を一身に受ける、わが作為の核心よ。」
力が抜け、レミィの死体の前にうずくまる私に、咲夜は悠々とした足取りで近づき、静かに身を傾けると、私の頬を繊細なその手で撫でた。そして微笑を崩さぬまま、私の顔をまっすぐに見つめ、幼子を諭すように口を開く。
「月をわが手に取り戻したいのです。」
「月……?」
「そう。現在、月は后羿の妻であり、裏切りの神、蓬莱の住人であり、不死の月精たる、嫦娥の手中にあります。数ある星々のなかで、人類にとって特に意義深い月が、我々、天地三姉妹尊神の支配の下にないという現状が嘆かわしいのです。だから、月を私は奪還したいのです。銀河を統べるこの身のもとへ。」
「……それがどうして私に関係あるの。私は見てのとおり、何ものでもない、無力な存在に過ぎない。月をどうにかできるわけがない。どうにかしたいなら、銀河を支配する能力を秘める、あなたが直接、動けばいい。」
「もちろん、私が力で月を奪い返すということは不可能ではありません。しかし銀河を自由にする私の能力も、嫦娥が支配する月には例外的に及ばない。いかなオラドといえど、数ある神話のなかで、もっとも高名な月精「嫦娥」には間接的には干渉できないのです。ならば直接的な力でもって攻め込むというのも一興でしょうけど、嫦娥の背後には日本の神々が控えている。それらを一々相手にするというのは愚策です。なぜなら、嫦娥さえ消えれば、あとは私の力で月はわがものと化するのですから。」
「だからそれが私と一体どういう――」
「パチュリー様。あなたはまだ自覚されていない。ですが、いずれ目覚める。――あなたこそが嫦娥を滅ぼす可能性を秘めた、この宇宙唯一の存在なのです。」
咲夜はそういって、私に口づけをした。それは私の疑問の言葉をふさぐ意味もあったろう。深く舌を絡ませ、お互いの唾液が跡を引き、咲夜は妖艶に笑った。
「……もちろん、未来というものは、私にとってさえ、未知なるもの。しかし、パチュリー様、あなたの存在は、嫦娥を打ち倒すという結果に至りつく、無数の可能世界線のただ一つに、架かっている。星々をわがものとするこのオラドの目には、天に通じる蜘蛛の糸より細く複雑に構成される世界の因果と宿業の網の目が、しかと見えている。パチュリー様、あなたはこの迷宮を抜け、嫦娥を滅ぼさねばなりません。あなたにしか、それはできないのですから。」
「もし、私が嫦娥を倒す結果に至らなかったら……?」
「そのときは何度でもやり直せばいいでしょう。銀河を回し、時を欺く。人々はわが銀河の上で揺れるだけの存在。作為をいくつも積み重ね、嫦娥を殺す未来へつながるまで、幾度も人生を生き直しましょう。哀れな人の子よ、オラドの力はそれを可能にするのです。」
そういい、咲夜は私の隣に伏しているレミィに目を向ける。
「……ご理解されましたか。なら、時間をいくらか巻き戻しましょう。お嬢様の力もパチュリー様が嫦娥を滅ぼす上では必要になるでしょうから。お嬢様がお目覚めになられたときは、そこはもう幻想郷です。パチュリー様も、私も、なんの疑問なく、一緒にいることでしょう。」
咲夜の言葉は、明らかに常軌を逸したものだったが、しかし信じられないことの連続でもはやまともに現実を捉えることが不可能になっていた私は、何も反論することなどできなかった。だが、そんな意識の曖昧となった状態でありながら、私は最後の気力を振り絞り、咲夜に次の疑問を投げかけた。……いや、咲夜にではない。臥勒多媽媽に対してだ。
「……一つだけ、教えて。咲夜という人間は、実在するの。つまり、あなたの今のその姿、その人間は……」
「この人間、あなたたちが咲夜と名づけた人間は、ただ私が地上に降りるための依代です。その正体は――あなたたちが空虚な器と呼んだのもむべなるかな――この村に捨てられた哀れな孤児。身よりもなく、心も意思も弱いただ死に行く命だったこの人間を、私が拾い、わが依代とし、ここまで生かしてきたのです。この人間は今後も、あなたたちとわがオラドの意志をつなぐ代弁者として、生きることになるでしょう。これもまた慈悲の一つの形といえましょう。」
「そう……咲夜は生きた一人の人間なのね……。それがわかれば十分よ……。……ただ、臥勒多媽媽、よりにもよって、慈悲ですって……そんなものは……」
糞くらえよ。
「――ではパチュリー様、あなたが嫦娥を滅するそのときまで、あなたの魂は何千年もの間、因業の網を彷徨することになるでしょう。しかし、それは神の目からは、千分の一秒にも満たない一瞬と変わりません。それはあなたの主観でもそうでしょう。――時のまやかし、神の作為とはそういうもの。……それじゃ、パチュリー様、またすぐに。」
――やっと、たどり着きましたね、この場所に。
……咲夜の声がする。川のせせらぎ。夏の太陽の日差し。木々のこずえ。――私はすべてを思い出していた。
「オラドママ……! 咲夜……!!」
「ありがとう、パチュリー様。でも、もう、お別れです。」
咲夜を捕まえようと私は手を伸ばす。でも、やっぱり、届かない。視界が暗転する。知覚と、周囲の状況が、一致しない。そのことに戸惑いも覚えられない刹那、何もなかったはずの空間から、何本ものナイフがきらめき、それらは咲夜に向け差し出した私の手を掠め、ことごとく私の身体を貫いていった。
――いつも、こうだ、私は。いつも、負ける。私はいつもこうなんだ……
大切なものに、いつも、手が届かない。
胸や腿に容赦なく突き立てられた無骨な金属。力なく崩れる私の視界には、そんな私の様子を見つめる咲夜の顔がよぎった。……しかし、ああ、これも私の錯覚なのかな。咲夜が泣いているように見えた。涙を流しているように見えた。咲夜、あなたも神の作為の駒。運命が、私たちを、ここまでして、駆り立ててきた。でも、もう終る。すべてが流星のように消えて行く……