2012/08/31/Fri
高校の卒業式から大学の入学式までは文字どおりあっという間だった。新しい街での住居を探し、入学に必要な諸々の手続きをこなし、引越しをし、そして買出しなり荷物の整理なりをだらだらとやっていたら、もう入学式の当日だった。私の新居は学校から少しだけ遠くに位置する、閑静な住宅街に建てられたわりと新しめのマンションだった。でも値段はそんなに高くない。むしろお手ごろといってもいい。友だちは私の部屋のことを聞くとへえと驚いていた。どうやって見つけたのかと尋ねられ、私はそれに対して、お姉さんのアパートの近くの物件をいろいろ不動産屋さんに聞いていたら見つかった、掘り出し物、けっこうがんばって探したの、と返事した。すると友だちは、ふーんお姉さんの近くねえ……とにやにやと笑い、私は少しだけ恥ずかしくなって友だちから目を逸らした。意外といやらしい態度をするものだと私は思った。
入学式は近くのホールで行なうらしい。キャンパスがいくつかに分散しているから、まとめて行なうためにはそういった大規模な場所が必要なんだそうだ。遅れずに出席したけれど、でもうとうとしている間になんだか式は終わっていた。私の家族は入学式には顔を出していないので、いろいろなサークル勧誘なりなんなりを避けて、私はさっさと会場を抜け出した。そのあとオリエンテーションがあって、シラバスなりなんなりの説明がいろいろあったけれど、なんだか眠かったのでよく覚えてない。あとで友だちに聞けばいいかな、と私は思った。
――あんた、シラバスなりなんなりのことを私に聞く気じゃないでしょうね?と、夜、駅前で待ち合わせした友だちが開口一番そういった。……そのつもりだったんだけど、と私が図星をつかれた人間特有の気まずさを伴った声で答えると、友だちは、あんたと私は学部がちがうんだからあまり参考にならないでしょ、自分のことは自分でしなきゃいけないじゃない、しっかりしなさい、といった。……友だちのその言葉はまったく正論だと思ったので、私はむーっとただ友だちをうらめしい目で見るしかなかった。大学に入学したと思ったら冷たくなったね……と、私はいじわるでいってやった。友だちは、私はもともと冷たいのよ、といった。なんて言い草だろう。
私と友だちがそんなやりとりをしていると、お姉さんが待った?と朗らかにやってきた。――そう、今日はお姉さんに呼ばれたのだ。入学おめでとう!とお姉さんが私たち二人を祝すと、じゃさっそく行こうか!とお姉さんは私と友だちを促す。……お姉さんの酒癖が悪いことを、この夜、私と友だちは恐怖とともに初めて知ることになるのだった。
2012/08/30/Thu
TGVの列車にはキャリーケースや大型の荷物を置くスペースが設置されている。これがとても便利で日本の新幹線もこういったスペースを用意すればいいのにといつも思う。でもこのスペースに荷物を置いていると、だれかに盗まれるんじゃないかってちょっとだけ不安でもある。でもそれは少し心配しすぎではあるかもしれない。……いやでもフランスはスリや泥棒が多いから、心配しすぎってことでもないかもしれない。心配しすぎてちょうどいいかもしれない。
パリ・リヨン駅は、パリにある駅のなかでも特に大きなターミナルだ。列車から降りた私はなんだかトイレに行きたくなった。リヨン駅のトイレへ向かう。フランスでは、多くの場所でトイレを使うにはお金が必要だ。無料というわけにはいかない。大体、50サンチームくらい必要になる。これは日本の感覚では少し変な気もするけれど、でも冷静になって考えてみると、ただでトイレを使わせる理由なんてどこにもないのだから、ちょっとくらいお金を払ったほうが正しいのかもしれない。そのほうが気兼ねなく使えるようにも少し思う。
それから、今日泊まる予定であるところのコンコルド広場の近くにあるオーベルジュへと私は歩を進めた。交通の便からみれば、悪くない。地下鉄を乗り継いで向かう必要がある。リヨンもパリもメトロが発達していて、乗り方も特に異なる点は見当たらない。券売機ではまとめて買うのが値段の面でも効率の面でもお得だと思う。10枚セットの切符をカードで購入する。フランスはなんでもカードで買えるから現金のわずらわしさがなくていいかなって感じる。ごたっと出てきた切符をまとめて財布のなかに入れて、列車へ向かう。大量の人、雑多な風景、薄汚れた地下道。活気ある都会の奥深くに踏み入りながら、私の意識は内なる自身の記憶へと分け入っていく。それが今の私に許された、ただひとつの仕事であるというかのように……
2012/08/29/Wed
お姉さんが私のことを過大評価していたのかどうかということはわからない。それに、そんなことは問題の本質じゃない。問題とはつまり、私がお姉さんをよく理解できていなかったということ。私がお姉さんの気持ちを労わる気持ちを欠いていたということじゃなかったろうか。……でもそう考えるのも、私の傲慢なのかもしれない。お姉さん、どうなんだろう、どうすればよかったんだろう、お姉さん、お姉さん……
――うっすらと目に涙がたまっている。……いけない。泣くのが悪いとはいわないけれど、TGVのなかでなんて泣いていられない。……目元を両手でごしごしとこする。すると男の人がマダム?と声をかけてきた。なんだろう、と一瞬不思議に思ったけれど、すぐに理由に気づく。車掌さんだ。切符のチェックだ。私は慌ててチケットを取り出し、車掌の人に手渡すと、ぴっと手元の機械で照合し、すぐに返される。メルシーとあいさつされ、すぐ次の人に車掌さんは向かう。
私は、はあと息をついた。手元のコーラはもうぬるくなっている。ぬるくてしかも炭酸の抜けたコーラをぐびぐびと一息に飲み干す。――それからはしばらく昔のことを考える気力も抜けて、何も考えず、車窓の景色を眺めていた。そしてしばらくして、列車はパリへと到着する。パリ・リヨン駅が見えてくる。
2012/08/28/Tue
私はお姉さんの友だちの間で人気があったらしい。なんで? 一度も会ったことないのに?と私が不思議に思うと、お姉さんは、――がかわいいからじゃないかな、私がよく――の写真を友だちに見せていたから、といった。お姉さんの言葉に私は少し恥ずかしい気持ちになったけれど、でもお姉さんはすぐ続けて、……だから、あんまり――の話を友だちにしないようになっていったんだ。卒業式の日に――が来てくれたら、私はうれしいけど、でも私の友だちにいろいろ知られちゃう。それが嫌だったから、私は――に卒業式に来ないでってメールしたの。私は、そういう奴なんだ。
お姉さんは次にこんなことをいった。――昔、――が私みたいな年下とつきあって楽しい?って意地悪なこと聞いたことあったよね。私、あのとき本当はどきっとしたの。いろいろ自分なりにも考えた。でも……けどね……。……そこでお姉さんは言葉を詰まらせて、私をじっと見て、そして何かを躊躇した。けど、こう私にいった。
――は、私を、買いかぶっていない……?
……私はお姉さんのその言葉に驚いた。本当に驚いた。……私は、唾を飲み込んで、そして、……私、お姉さんに嫌われると思っていた。お姉さんに無理やりキスして、だから……。でもお姉さんは首を振って、……前もいったよね、私は――の気持ちに気づいていたよ。あのとき、――の振舞いにびっくりしたのは本当だけれど、でもそれ以上に……ねえ、教えて。――は、私のことが好きなの?といった。
私は、お姉さんのことが好きです、と答えた。今度ははっきりとその告白の言葉を口にしていた。自分でも驚くくらい、凛とした声だった。お姉さんは、そっかといって、――それじゃ、恋人になろうか、といって、笑顔を浮かべた。
――私は、このときのやりとりを、このあと、何度も何度も繰り返し思い描くことになる。……当時は、お姉さんと恋人という関係になれたことがうれしくて、ただその喜びでいっぱいで、私はこのときのお姉さんとの会話の意味を考えることをしなかった。でも、私はこのときのお姉さんとのやりとりの意味を、お姉さんの気持ちを、よく考えなきゃいけなかったんだ。……お姉さんは、私のことを買いかぶっていない?と、私に尋ねた。それはつまり、お姉さんはこう私に問うていた。――お姉さんは、自分が私に釣り合わないんじゃないかと、ずっと悩んでいた。お姉さんは、自分じゃ私についていけないんじゃないか、自分じゃ私の恋人にふさわしくないんじゃないかと、考えていた。……そのことに私が気づくのが遅すぎたのが、つまり、今の私の放浪の理由なんだろう。私が過去をこうして思い出し、考える原因なんだろう。つまり、報いという奴なんだ。
2012/08/27/Mon
お姉さんと待ち合わせしたのは高校から少し離れた商店街の一角にある喫茶店だった。あちこち散歩するのが趣味だった私はお姉さんのメールに書いてあったお店がどこだかすぐにわかったけれど、今までそこに入ったことはなかった。扉を開けるとからんと鈴が鳴り、お姉さんは一番奥のテーブルに座っていて、私に気づくと軽く手を振った。――お姉さんに会うのは、私がセンター試験を失敗して友だちに叱責されて謝りに行ったあの日以来だった。だからもう二ヶ月ぶりで、記憶にある冬の日のお姉さんの姿とちがって、今、目の前にいるお姉さんは春の軽やかな装いをしている。対して私は学校からまっすぐ来たから、まだ制服のままだ。お姉さんは私を見ると、開口一番、これで――の制服姿を見るのも最後だね、といった。私はそれにどう答えていいか少し迷ったけれど、お姉さんの制服姿も素敵だった、と小さな声で呟いた。するとお姉さんは意外そうな顔をして、そうかな、と首をかしげた。私は、かわいかった、と同じ言葉を続けて口にする。お姉さんは不思議そうな顔をして、でも――のほうがかわいい、制服姿、見れてよかった、といった。
この店のコーヒーはおいしいんだよ、とお姉さんがいう。たしかにおいしかった。それにカウンターにマスターとほかには端っこの席で本を読んでいる人がいるだけで、店内はいたって静かだった。ただクラシックの曲が穏やかに流れている。……若干の沈黙の間があってから、お姉さんは、卒業おめでとう、と私にいった。そして、大学合格おめでとう、と続けた。私は軽く頷き、ありがとう……と呟いた。
私は緊張していた。お姉さんになんて話しかけたらいいのか、何を話題にしたらいいのか、わからなかった。――そんな私の様子を察したのか、お姉さんがこんなことを口にする。……ねえ、私の高校の卒業式のこと覚えてる? お姉さんのその質問に、私は、お姉さんの……?と返事する。するとお姉さんは、うん、私が卒業するとき、――はお姉さんの卒業する姿、見に行ってもいい?ってメールくれたよね。それに私は、卒業式の日はいろいろ忙しいからたぶん――と一緒にいられないと思う。ごめんね。でも春休みはたくさん遊ぼうね、って、返信したよね。ねえ、覚えてる?
思い出した。たしかにそんなことがあった。でも私はすっかり忘れていた。けれど、お姉さんはちがっていたみたい。――お姉さんはこう続ける。……――のこと、見られたくなかったんだ、友だちに。――は人気あったから。ほかの人に、――のことよく知られなくなかった。だから、私……
2012/08/26/Sun
TGVには一等車と二等車に分かれている。でも一等と二等で具体的にどういったちがいがあるかということを私は説明することができない。というのも、残念なことに私は二等車にしか乗ったことがないから。だって二等のほうが明らかに安いし、平日ならそんなに混んでないから困ることもないし……。……けれど、いつか一等車に乗ってみたいなと思う。飛行機もエコノミーじゃなくてビジネスやファーストに乗ってみたい。……けどファーストはたぶん一生乗ることがないんじゃないかと思う。私はきっとお金持ちになることはないんじゃないかな……。……あ、だめ……お金のことを考えると暗くなる……また暗くなる……ただでさえ高校三年生の冬といったけっこう暗かった時期を思い出していたときなのに……ますます暗くなる……だめ……何か楽しいことを考えなきゃ……!
ふだんなら私はTGVのなかではiPodを聞いている。これはどこでも変わらない。日本でも、電車や新幹線、高速バスに乗っているときはiPodを聞いて、ぼんやり景色を眺めている。だから今回もiPodをランダム再生して、気ままに何も考えないでいようと思ったんだけど、これもまた残念なことに私のiPodはフランスに着いた当初から充電が切れて、今ではただの四角い板になっている。――私は座席に深々と座って、窓の外を眺めた。広い平野が広がっている。たまに羊が見えたりする。
日本ではこんな広大な平野を見ることはまずできないだろうって思う。山の多い日本では、遥か彼方までさえぎるものが何もない平野といったものを見つけることは不可能だから。でも北海道ではそんなこともないかもしれない。やっぱり今回はフランスに来るんじゃなくて北海道に行くべきだったのかもしれない。でももう遅い。私はリヨンを去り、パリへ向かっている。パリ・リヨン間にはとりたてて何もなく、ただ平野が広がっているばかり。……私は移り行く青空を車窓から見上げ、ペットボトルのコーラを開けた。幸い、私の隣の座席にはだれも座っていない。車両全体を見ても数人ほどしかなく、閑散としている。ゆっくりと過去のことを考えるにはいい時間かもしれない、パリまでの二時間は……
2012/08/19/Sun
Entracteはフランス語で「幕間」という意味です。英語だとIntermissionですね、インターミッション。休憩時間です。
本作は引っ越したばかりで部屋でネットがつながらないときに、ちょっとした思いつきで書き始めたものです。フランスにいたときに旅行の動画などをよく眺めていたのですが、ああいった旅行記というものはおもしろそうだ、なら私も書いてみようと思い、始めてみました。20話ぐらいで終わるだろう、いや最低それくらいはボリュームがないとつまらないと思い、書いていたのですが、この見通しの甘さ、いや甘さというより勘ちがいか、なんでもいいですがとにかく、30話もすでに書いているのに一向に終わりません。いつもこうだ。なんか長くなるのです。
しかしリヨンを見て周り、高校時代まで終わりました。これで半分は終わったでしょう。次はパリです。
ここまでお付き合いくださっている皆さんには心から感謝します。感想、賛辞、激励、褒め言葉、意見、不満、文句、苦情、泣き言、批判、すべてを受けつけていますので、何かありましたらコメントでもweb拍手でもメールでもtwitterでも私にご意見ください。特に感想や賛辞や激励や褒め言葉はいいですね。非常に私が満足します。褒めてください。褒めてくださらないと、私は自画自賛を始める可能性がある。私が自画自賛をしないためにも、皆さんが積極的に私を褒める必要があるでしょう。
ではよろしければ、引き続き
Je triomphe et je survis.にお付き合いください。一週間後に再開いたします。
Je vous souhaite de suivre ce roman. À bientôt !
Mugi ISHIDA
2012/08/19/Sun
私が合格したことにお父さんは泣いて喜んだ。本当によくがんばったねとほめてくれた。お母さんは、あんたが受かると思ってなかった、奇跡ね、奇跡ってあるものなのね、としみじみといった。私のことをほめているのか、ほめてないのか、わからなかった。たぶんほめてないと思う。専門学校を卒業してこの春から社会人になるお兄ちゃんは、おれが体験しなかったキャンパスライフを堪能してくれ!と叫んだ。そのうち給料が出たらごはんをおごると約束してくれたので、そのことはちょっとうれしかった。
私が合格したことを職員室で報告すると、先生方は次々に、よくがんばったとほめてくれた。これで進学実績もなかなかのものになった、今年はすごい、やったね、と数学の先生が悪そうな笑顔でいった。担任の先生は、お前は本当にがんばっていた、いや驚いたよ、といった。私もけっこう驚いています、と、私は返事した。担任の先生は微笑して、――どうだ、高校生活は楽しかったか、早く過ぎたように感じるか、と聞いてきた。私は、いろいろありました。いろいろあったから、早いように思うけど、でも、なんだろう、いろいろありました、とよくわからない返答をした。先生はただ笑っていた。
卒業式は退屈だった。仰げば尊しを歌って、クラスで先生が最後の話をする。それから卒業証書を持って、友だちのところに行こうと席を立つと、クラスメートの人が何人か寄ってきて、写真とらない?と私に提案してきた。私はあまりクラスに馴染んでなかったと自分で思っていたので、その誘いに少し驚いたけれど、私が頷くとぱしゃぱしゃと数回、フラッシュがあたりを照らした。廊下を歩いていると、また何回か写真をとろうと誘われたので私は謹んでその誘いに応じた。そのなかの一人に演劇部の人がいた。私はその人に、二年のとき勝手な振舞いをしてごめんなさいと、あらためて謝った。すると彼は、いやもうべつにいいよ、といって、でも――さんとやったあの演劇はとても楽しかった、と笑った。私はその言葉に胸のわだかまりが解ける気がした。
けっこう人気者ね、と友だちはいった。途中、何度か私が写真に誘われているのを見ていたのだろう。下級生の子もいたじゃない、と友だちがにやにやしていう。それに対し私が、うん私も驚いている、なんで私を誘ってくれるのかな、私がかわいいからかな?と率直な疑問を口にすると、友だちはやれやれといった具合に肩をすくめた。そして、――あんたが自分で思っている以上に、あんたはけっこういい奴なんじゃないの?と、口にするのだった。……私は友だちがそんな言葉をいうとは思っていなかったので、表情には出さなかったけれど、内心、けっこう戸惑ってしまった。たぶん、それは卒業式のためかもしれない。私も実は意外と感傷的になっていたのかもしれない。
図書館で、友だちと図書委員の子と一緒に、司書の先生に花束を贈った。先生には本当にお世話になったと感じていたから。私も友だちも、トラブルがあったわけじゃないけど、でもクラスでそんなに上手くやれていた類の人間ではなかったと思う。そんな私たちが多くの時間を過ごさせてもらったのが図書館だったから、私は司書の先生に感謝していた。先生は、花束を見ると驚き、それから口元をほころばせて、卒業おめでとうといってくれた。先生は私を見ると、――さん、大学決まって本当によかったといい、それから、――-さんはおもしろい人だった。大体、その人の様子や人となりを見ていれば、その子がどんな将来に進むかわかるものなんだけど、――さんはどうなるかまったくわからなかった。がんばりなさいね。と、いった。
――図書委員の子とも写真をとった。東京に来るときは声をかけてね、一緒にまた遊ぼうねと彼女はいった。彼女の目は少し潤んでいた。友だちもちょっと泣きそうになっていた。私も少しだけ泣いてしまった。
……あんた、これからお姉さんに会うの?と、別れ際、友だちが聞く。うん、とだけ、私が答える。友だちは、そう、とだけ呟き、それじゃあねといって別れる。私も手を振る。私の高校生活はそんなふうにして、終わった。
2012/08/18/Sat
前期試験が終わった。結果を見ると、案の定、私は落ちていた。感触としては、国語と英語はよくできたと思ったけれど、数学がまったくわからなくて、それが原因だったと思う。でも試験後、友だちと自己採点してみると、数学ももちろんだめだったけれど、国語もけっこうだめだった。――あんた、なんで現代文までこんな出来なのよと、友だちが呆れた顔でいった。……自信はあったんだけど、と、私はけっこううな垂れて答えた。横にいた図書委員の子がまだ次があるよ!と励ましてくれた。私はしょんぼりした。
友だちは前期試験で合格していた。ものすごく喜んでいた。横に不合格になった私がいるというのに、超喜んでいた。私に見せつけるかのように喜んでいた。今まで生きてきてこんなにうれしいことはないと、落ちた私に向かって、わざわざいった。誇らしげに胸を張って、これも普段の行いのちがいね、怠け者でふしだらなあんたと私の差が出たってわけね、と、不合格の私に散々自慢した。傷口に塩を塗るというのは、こういうことなのだろうと思った。私は友だちを一発叩きたかったけれど、また合気道だか柔道で投げ飛ばされたらかなわないと思ったので、無感動におめでとうとだけいった。その私の心のまったく一欠けらもこもっていない言葉に、友だちは、ありがとう!と満面の笑みで答えた。
図書委員の子も合格した。東京の私立大に合格したらしい。一番の志望校に合格して、すごくうれしそうだった。でも少し私に気兼ねするようだったけれど、私は、……気にしないでいいよ。私は後期で受かるから、といって、図書委員の子を心から祝福した。図書委員の子は、――さんなら絶対に大丈夫!と励ましてくれた。友だちは、まあだめだったらまた一年がんばんなさい、はは、といった。ひどい言い草だと私は思った。ひどい。
私は滑り止めにお姉さんの大学以外をひとつも受験していなかった。今、思うと、けっこうリスクがあったと思うけれど、当時の私はお姉さんの大学以外にまったく興味がなかったし、それに最終的に後期試験で合格することができたので、結果的にもよかったと思う。――後期試験の合格通知を手にして、私はしみじみ、受験というのは嫌なものなんだね、と嘆息した。でも合格することができた。これでまた前へ進むことができる。その事実に、私はゆっくりと喜びを感じ始めた。
2012/08/17/Fri
ぐじぐじ逃げていても、何も解決しない。……それはそうだった。友だちのいうことは正しかった。お姉さんと会って、ふられるにしろ嫌われるにしろ拒絶されるにしろ、そしてそのことで私がどんなにダメージを負うとしても苦しむとしても、私は何よりもまず、お姉さんに謝らなきゃいけなかったんだ。そのことに私は気づいた。もし私が本当にお姉さんのことを好きだっていうなら、私はお姉さんに謝らなきゃいけない。そしてその上でどんなに嫌われようとも、それはもうしかたがない。だって、私が悪いんだから。
嫌な目に遭いたくない。傷つきたくない。やるべきことを先延ばしにしたい。……そんな感情と予想されるお姉さんの反応をあれこれ思って、暗く神経が張り詰め、喉がからからに渇いて、でも微動だにすることなく高速バスの座席に座り、そして機械的に歩を進めて、私はついにお姉さんのアパートの前までたどり着いていた。一時間前に、これから会いたいですとメールを打つと、お姉さんから、部屋にいますと簡潔な返事が届いていた。私はその短い一文からお姉さんの様子を推察できないかと思ったけれど、いくらそんなことを思案しても無駄だった。……階段を上り、扉の前で、チャイムを鳴らす。――お姉さんは私になんていうだろうか。……瞬間、逃げ出したい衝動に駆られたけれど、私が背を向ける前に扉が開いた。お姉さんは、入って、と私を促した。お姉さんの様子は静かだった。
カーペットの上に正座してお姉さんと向かい合う。お姉さんは目線を下げている。私も正面からお姉さんを見ることができない。頭を垂れて、あちこちに視線を曖昧にさまよわせている。手をぎゅっと握りしめられていて、爪が深く手のひらに食い込んでいる。背に嫌な汗の感触がある。喉の奥は痛いほどに乾いていて、頭は重く、けれど鼓動は早く、胸の奥に重い暗い固まりがあった。――お姉さん、私……、と、私は小さな小さな声で呟いた。聞き取れなかったお姉さんは、え?とだけ、返事する。私はついに意を決し、目をつぶって、――私、お姉さんに謝らなきゃと思って……と、声を振り絞る。……私、この前、私……お姉さんに――
どうしてキスしたの?と、お姉さんが聞いた。その声は無機質で乾いていた。――私はびくっとした。……理由、なんでお姉さんにあんなことをしたのか。それは私がお姉さんを好きだからだ。……好き、好きだから、お姉さんのことが好きです。
いえなかった。私は泣いていた。どこまでも私はだめな奴だった。臆病で卑怯だった。私は本当に自分がだめなんだとそのとき思った。ぽろぽろ泣いて、お姉さんが好きですと、私は呟いた。なんて情けない。こんな情けない告白なんてしたくなかった。今まで何回もお姉さんに告白する光景を思い描いてきたのに。何度もお姉さんに好きだと伝えるところを想像してきたのに。それはこんなにだめなものじゃなかったはずなのに。
泣いちゃだめだよ、と、お姉さんがいった。――そして、ここから先はよく覚えている。……お姉さんが私の唇にキスしていた。軽く触れる程度のキス。私はそのお姉さんの行動に驚いて、泣き濡れた目でお姉さんのちょっと困ったような、赤くなった顔を見つめた。……これでおあいこだよ、私も無理やり――ちゃんにキスしたから、とお姉さんはごにょごにょといった。そしてお姉さんは、――知っていたよ、――ちゃんの気持ち。もう何年も一緒にいるんだから。だから、知っていたよ。
お姉さんが好き、と、私はいった。お姉さんはこくんと頷いた。――でも今は返事しない。もし――ちゃんが大学に受かったら、返事するから、と、お姉さんはそっぽを向いて、いった。私はまた泣きそうになったけれど、今、泣いたらいけないと思ったので、がまんした。立ち上がる。帰って勉強する、とお姉さんにいう。明後日の方向を向いたまま、お姉さんは手をひらひらと振る。私は涙を手でごしごしふいて、お姉さんの部屋を出る。空から細かな雪がちらほらと降っていた。
2012/08/16/Thu
案の定、私はセンター試験に失敗した。でもそれは当たり前かもしれない。大晦日の夜から、私はぜんぜん勉強していなかったし、センター試験の本番の最中も、とても集中していたとはいえない状態だったのだから。――怒ったのは友だちだった。どういうことなの!と大きな声を出した。……場所は図書館準備室。いつもは司書の先生や図書委員の人がいるけれど、今は気を回してくれたのか、私と友だちといつも私たちと一緒に勉強していた図書委員の子しかいない。……友だちは私の結果を見て、怒っていた。こんなに本気で怒った友だちを見たのは初めてだった。
――で、でも、この点数なら二次で挽回ができないってわけじゃないんだから……と、図書委員の子が取り繕うように恐る恐るといった様子で口を挟んだ。そしてその指摘は妥当だった。でも私の実力を考えると、二次でセンターの穴埋めを狙うのはどのみちきびしいといわざるをえないのが妥当かもしれない。けれど可能性がまだ残されているのはたしかだった。……でも友だちは怒っていた。そしてどうして怒っているのか、その理由は私にはよくわかっていた。私が本当はもっとがんばれたのに、がんばらなかったからだ。試験にやる気を欠いていたからだ。今まであんなに勉強してきたのに、それを裏切ったから、友だちは怒っているのだ。
友だちは、あんたならもっとがんばれるはずでしょ、一体、何があったのよ……と、しばらしくて意気消沈した声で私に呟いた。……私は友だちのその小さくなった声に、怒った声以上に、悲しさと申し訳なさを感じた。――私は、友だちに私がこんな状態になった理由を説明しなきゃいけない。今、友だちに説明しなきゃ、たぶん私はもう友だちでいられない。……そのことがすぐわかった。でも、勇気がなかった。怖かった。けれど、話さなくちゃいけない。私は決意した。
私の様子に気づいた友だちは、図書委員の子に、少し席をはずして、とお願いした。図書委員の子は頷いた。――私は、――さん、ごめん。いつか話すから、――さんにも、私、ごめん、だめで、ごめんなさい……と、図書委員の子に震える声でいった。図書委員の子は微笑んで、うん、と返事をしてくれた。私は彼女のやさしさに強く感謝した。
――事情を話し終えたとき、友だちは、そう、とだけ呟き、それから私を廊下に出るように促した。なんだろう、と思って困惑しながらあとをついていく。腕出して、といわれる。はてなと思いつつも、いわれたままに腕を出す。そして友だちが私の腕をつかんだと思った瞬間、私の視界はぐるっと一回転し、何ごとか、床に叩きつけられていたのだった。
一本背負いだ! ……学校の廊下でなんてことするんだろう。信じられない。とっさに私が受け身をとらなかったら怪我してもおかしくない。いや受け身をとっても、痛い。床に当たった背中が痛い。肩も痛い。というか冷たい。床が冷たい。だって冬だもん。いやそれよりも痛い。後頭部もがつんっていった。痛い。痛いよ、痛いよ!!
なんで投げるの!?と、私は涙目で叫んでいた。痛い、ほら涙出てる、なんか後頭部腫れてるっぽい、たんこぶかも、ひどいひどいよ!と、私は叫んでいた。すると友だちが、ほら、私、いろいろ習い事してるでしょ、合気道や柔道もやっていたんだけれど、一度実践してみたかったのよ、あんたよく受け身とれたもんね、と、素知らぬ顔でいけしゃあしゃあというのだった。……まったくそんなこと聞いてない、本当に聞いてない、と私は思いながらも、友だちははあとため息をついて、やれやれと肩をすくめた。
――あんたのお姉さんが最近私によくメールするのもそれが原因だったのね。もうさっさと行きなさい、と友だちは呆れた声を出した。その言葉に私はとっさに事情が理解できない。お姉さんがメール? 行くってどこへ? ……でも友だちはさあさあと私を促し、カバンを持たせ、こう言葉をかける。――お姉さんに会いに行きなさい。逃げないで会って話してきなさい。とっとと問題にけりをつけてきなさい。勉強しなきゃいけないんだから、私たちは。……友だちのいうことは、もっともだった。これ以上ぐじぐじしていると、また投げ飛ばすからと、友だちは私の背中にいった。それはやだなと私は思った。
2012/08/15/Wed
何か嫌なことがあったり、失敗したとき、もし時間を巻き戻せたらと、よく想像する。もしあのとき、こうなることがわかっていたらああしたのにと、私はひどいことが起きたときそんなふうに考えることで、後悔という行き場のない思いが消え去るのを辛抱強く待つのが常だった。でも、だけれど、高校三年の大晦日の夜、私がしたことは、私のそれまでの人生のなかで経験したことがない衝撃を私に与え、その名残はいつまでもいつまでも私から離れることがないんじゃないかって感じられた。
ただぼーっと寝て過ごし、何も考えたくないから何もせず横になって、天井や壁を眺めながら時計の針の音だけを聞く。そんなふうに朝から夜まで過ごすのを何回か繰り返すと、もう冬休みは終わり学校が始まり、そしてあっという間にセンター試験の日がやってきたのだった。当日の朝、わざわざ友だちが私の家まで迎えに来てくれた。夏祭りのときに乗せてもらった見覚えのある車で、友だちのお母さんが試験会場の大学まで連れて行ってくれるという。わざわざそんなことを友だちが提案してくれたのは、年明けから私の様子が尋常じゃなく暗かったからだと思う。でも私はそんな友だちが何度も事情を聞いてくれるにもかかわらず、いまだ何も打ち明けられずにいた。……というか、お姉さんに無理やりキスして嫌われたとか、さすがにいえない。……もし、友だちにあのことを話したら、友だちも私のことを嫌うにちがいない。……ううん、嫌うに決まっている。軽蔑するに決まっている。……いやだ。そんなのいやだ。友だちにまで嫌われたくない……友だちにまで嫌われたら、友だちにまで見捨てられたら、私はもうずっとひとりだ……だめ、だから何もいえない、説明できないし相談できない……。
――TGVの出発時刻まで三十分を切ると、電光掲示板にようやく私の乗る予定の列車の到着ターミナルが表示された。慌てて向かう必要はないけれど、さりとて駅の壁にいつまでももたれかかっているのも退屈にはちがいない。私はキャリーケースを引っ張り、ホームへ向かって歩き出した。長時間、同じ姿勢で突っ立っていたからか、肩と背中が固くなって、ちょっと痛かった。
……あのセンター試験までの日々は、本当につらかった。でもつらかったといってもぜんぶ自業自得なんだから、どんな言い訳もできるものじゃない。けれど、今こうして振り返って強く感じるのは、やっぱり私は身勝手だという事実だった。……私は何かしらの衝動に簡単に流されてしまう性質なのかもしれないと、飛行機のなかでも思ったけれど、たぶんそれは当たっている。衝動的にお姉さんを無理やり抱きしめ、そして衝動的に海外にまでこうして逃げてきている。私はぜんぜん変わっていない。何も進歩していない。そしてまた、私はひどくエゴイスティックだ。お姉さんとの一件があって、暗くなっていた私を心配してくれた友だちに対して、私は何も打ち明けることができなかった。それは友だちに嫌われたくないというひどく自己中心的な考えがあったからだ。そして友だちに何もいえなかったということは、また私が友だちを信頼していなかったということでもある。友だちを信じていたなら、こんな私の友だちでいてくれる――になら、私は私の犯したまちがいをむしろ積極的に打ち明けて、そして相談すべきだったんだ。……つまり、私は臆病だ。ひどく臆病だ。今もこうして臆病だ。たぶん……あるいはもしかしたら……今の私のほうが臆病なのかもしれない。何もかも投げ出して逃げ出した、今の私の姿のほうが、あの高校三年の冬の暗い私の姿よりも。
2012/08/14/Tue
お姉さんに帰ってほしくない。お姉さんと一緒にいたい。――また明日から受験勉強で、お姉さんと会えない毎日が始まるからだろうか。それとも久しぶりにお姉さんと過ごした時間が楽しかったからだろうか。いや、もしかしたら私のその突然の行動の理由は、夏祭りのときにお姉さんに告白できなかったことを、お姉さんに自分の気持ちを伝える勇気のなかったことを、ずっと引きずっていたからかもしれない。……ちがう。ちがう、ちがう、ちがう。自分が嫌になる……。そういうことじゃない。私があんなことをしたのはそんな大した理由じゃない。……私は、いつも私はそういうことを望んでいたからだ。私はお姉さんのことをそういう目で見ていたからだ。私はお姉さんが好きで、お姉さんにそういうことがしたいって、常に望んでいたからだ。ただ私の理性が、そういった欲望の前に、屈したからに過ぎない。私はなんて弱い奴なんだろう……
お姉さんにキスして、私はすかさずお姉さんに抱きついた。……お姉さんが戸惑った声で私の名前を口にする。――?と。でも私はすぐには何も答えない。ただ黙ってお姉さんを抱きしめる。突然の私の行動にお姉さんはどう反応したらいいのかわからない様子だった。――嫌、お姉さん、帰らないで、私と一緒にいて。――自分でも驚くくらいに、それははっきりした声だった。え、と事態が理解できずに混乱するお姉さんの唇に私はまた自分のそれを重ね、そしてお姉さんの背中に回した腕に力を込め、お姉さんの身体を引き寄せ、手でお姉さんの肩や背筋、そして腰のあたりまで撫でる。……私は自分のそんな行いに、興奮していた。――お姉さんの胸に自身の顔を当てて、――お姉さん、私、お姉さんが……
どんと音がした。私はよろけていた。お姉さんは私の肩を押していた。
お姉さんの表情は、怯えていた。……ゆっくりと私の頭は冷えていく。暴走した感情で動いていた私の身体は力を失い、ただ目の前の暗く目を伏したお姉さんの姿が、私にどうしようもない今の状況の意味を知らせてくる。私は何かいおう、口にしようと思いつつも、どんな言葉を発していいかわからず、声にならない声を呟くばかり。
ただ、お姉さんが、――ちゃんは、そうなの……?とだけ消えそうな声で呟く。そして背を向け、お姉さんは私の部屋から出て行く。それに対し、私は何もできないし、どんな言葉も口にすることができないし、何を考えることも、かなわない。頭のなかは真っ白で、ただもうどうしようもないという考えだけが浮かび、その場に崩れ折れて、それから黒く混乱した、自分自身に対する後悔と怒りと憎しみと恨みと、それにお姉さんに対する申し訳なさと、そして自分の持つお姉さんに対する好きという思いを裏切った自分への悲しみが、私をひたすら打ちのめす。
2012/08/13/Mon
――の部屋に来るの、すごく久しぶりだね、とお姉さんはいった。それは本当にそうだった。お姉さんは私が中学校を卒業するころにはもう地元を離れていたし、それにほとんどいつも私がお姉さんのところに遊びに行く習慣になっていたから。だからお姉さんが私の部屋に来たのは、私が中学生だったとき、ほんの数回のことに過ぎなかった。――お姉さんは珍しそうに、興味の目をもって私の部屋を見回す。意外ときれいにしてるんだとお姉さんがいって、私は、ほとんどお母さんが掃除してると素直に返事する。するとお姉さんは笑って、一人暮らしを始めたらすごく散らかりそうだね、――は。でもそのときは私もお掃除手伝ってあげる、という。私はそんなお姉さんの言葉の一つひとつにどぎまぎさせられる。
お父さんは酔いつぶれてもう眠っている。お母さんは一階の居間でテレビをつまらなそうに見ている。お兄ちゃんは友だちの家に遊びに行っている。――私は台所でハーブティーをいれた。このお茶は夜に飲むと気持ちよく眠れるらしいって、お母さんがどこから買ってきたものだ。私はその効果のほどは怪しいって疑っているけど、でも香りが嫌いじゃないので、近ごろは寝る前にいつも飲んでいた。……お茶とお菓子を用意して、二階の奥の私の部屋へと持っていく。中に入ると、お姉さんは私の本棚を眺めていた。――はいろいろな本を読んでいるんだねと、お姉さんが感心したようにいう。私はうんと頷き、でも最近は受験勉強であまり読んでないと返事した。お姉さんは私の本棚から目を離し、私を見つめて、大学に入ったら、――は何を勉強したいの?と尋ねた。私はちょっと考えてから、まだよくわかんない。でも文学とか哲学とか、そういうものが、おもしろいと思う、かも、私……と、曖昧に口を濁した。お姉さんはそんな私に頷いて、――は頭がいいから、といった。その言葉に、私は頭を横に振った。頭がいいというのはほめ言葉じゃないと思う。そう私は答えた。お姉さんは私の言葉にちょっと驚き、そして苦笑してから、私の頭をぽんぽんと叩いて、そうだね、そうかもしれないね、――はもっと素敵だもんね、と笑っていった。
――このときのことは今でもよく思い出すし、今でもよく考える。何度も何度も私は自分が不思議だった。どうして自分にあんなことができたんだろうって奇妙に思う。そして恥ずかしくて、またそれ以上に何より、自己嫌悪を伴って、私はこのときのことをあとで何度も回想することになった。……もちろん、フランスのリヨンでTGVを待っている今の私は、当時ほどの自己嫌悪をもう感じずに済む。あれからそれなりの時間が過ぎたし、お姉さんともいろいろあったから。でもこの夜からしばらくの間、数ヶ月、私はひどい自己嫌悪で参ることになったし、それからしばらくはこの夜の記憶に苦しめられることになった。……どうしてあんなことをしたんだろう。いや、どうしてあんなことが私にできたんだろう。私はお姉さんに告白もできないくらいのへたれだったはずなのに。
――私はお姉さんにキスしていた。……あれは、そう、お茶を飲み終えて、お菓子も食べて、それからいろいろなことを話して、二人で笑って、もう時計の針が一時を回っていて……お姉さんがもう帰らないと、――も明日からまた勉強しないといけないんだから、といって、帰ろうと立ち上がった、そのときだった。私もお姉さんを見送ろうと部屋のドアの側まで来たんだけれど、それじゃといってコートを手にしたお姉さんの背中を見たとき、私は猛烈にお姉さんに帰ってほしくない気持ちに襲われた。それはまるで子どもの癇癪のように、突然の感情の発露だった。
2012/08/12/Sun
私とお姉さんは近所の小さな神社へと足を運んだ。本当はもっと大きなところへ行ってもいいんだけれど、あまり人がたさくんいると疲れるだろうからって、お姉さんが心配したらしい。そんなに気を遣ってもらわなくてもいいんだけれどと私は思ったけれど、でも最近は家族のみんなも私にやさしい気がする。受験生だからだろうか。そういえば、友だちも近ごろは家族のほうが受験間近で心配性になっちゃって困っているとかなんとかいっていたことを、私は思い出した。
神社に行くと、もうすでに多くの人が境内を埋めていた。轟々とした大きな火が燃えており、それを中心に人の輪ができていて、お茶やお酒を飲みながら、四方山話に花を咲かせている。小さな神社なので売店もない。本当に近所の人たちが集まって、新年を迎えるといった、ごく私的な空間がそこには広がっていた。
私とお姉さんが火の側に近づくと、そこで周囲の人たちのお世話をしていたおばさんが、すぐお姉さんの存在に気づき、話しかけてくる。あら、――さんのところの……とお姉さんの名前を口にして、それからいつごろに帰っていたのかとか、今日は冷えるねとか、今年も早かったとか、そういった話題が続く。そして会話が一段落してから、お姉さんが私を紹介し、今年、受験なんですと説明する。すると、わいわいがやがやと周りで話が盛り上がり、私はがんばりますとか、精一杯やりますとか、口にしながら、ぺこぺこ頭を下げた。
そんなふうに過ごしていると、あっという間に時間が経って、もうわずかで新年という頃合になった。ごーんごーんと遠くで鐘の音が聞こえてくる。すると、お姉さんはおばさんたちに一礼してから、私の手を引いて、大勢の大人たちの集団から距離をとる。ちょっと疲れるねとお姉さんが苦笑していう。私もこくんと頷いた。
それからお参りをして、神社をあとにする。地方の町だから外灯の数も少なくて、私とお姉さんが行く道は暗い。冬の冷たい風。お姉さんのいるところと比べると、やっぱり少し暗くて寂しいと私がいうと、お姉さんは、――も合格したら引っ越すでしょ。そしたらたくさん遊ぼうね、という。お姉さんのその言葉に私はうれしくなる。――そして、私の家の前まで来て、それじゃと帰ろうとするお姉さんの手を、私はつかむ。お姉さん、少し……少しだけ、お茶でも飲んでって、まだ……私、お姉さんと一緒にいたい、と、私はお姉さんを引き止める。お姉さんをつかむ私の手は、軽く、震えている。
2012/08/11/Sat
苦い苦いエスプレッソは、今、私が思い出そうとしている記憶にふさわしいように思える。クロワッサンをもしゃもしゃと食べ、飲みきった紙コップをゴミ箱に捨ててから、私はまた電光掲示板に視線を向ける。けれど、まだ私の乗るTGVのやってくるホームは判然としない。ただぼーっと突っ立って待っているのも芸がないので、私はキャリーケースをがらがらと引きながら、駅の周りをうろつくことにした。すると銃を持った軍人の人が三人連れで横を通り過ぎていく。日本では警備のためとはいえ、実銃を持った人が駅にいることはまずない……というか、ありえないので、こういう光景を見たとき、外国にいるんだなとふと気づかされる。
売店で水とチョコレートを買う。……そう、水のこと。私はとりたてて水についてくわしくないけど、フランスの水道は硬水といって……なんだっけ、ええと、日本の水と比べて、石灰質が多いらしい。なので味もけっこうちがっている。フランス人がミネラルウォーターを好むというのも、水道の味がよくないからなんだろう。でもそれは日本でも都市部なら事情は同じかなと思う。こういう私はフランスで生活していたころは、特にフランスの水道水でも問題なかったので、ガラスの瓶に水道水を入れて、飲んでいた。冷蔵庫にいれて冷やしておくだけで、そう悪くないものになるし、またガラスの瓶にいれておくことは視覚的にもきれいで、ただ蛇口から水を飲むよりか、よっぽど楽しいことだって私は感じた。
私が好んで飲むミネラルウォーターのEvianを口に含む。さっき飲んだエスプレッソの苦味が中和されていく。そうして一息ついて、また適当な壁にもたれかかって、私は昔を思い出していく。ところどころ記憶が曖昧なところはもちろんあるけれど、しかし強烈な印象を私に与えた過去は、くっきりと、まるでナイフか何かで刻み込んだかのように、私の頭に刻印されている。そしてそれは私の心を今でも時折、揺さぶり、乱す。
――大晦日の夜11時、コンビニの前でお姉さんと待ち合わせた。久しぶりに会うお姉さんは茶色のコートと手袋、そしてマフラーを首に回して、なんだかもこもこした暖かそうな格好をしていて、かわいかった。お姉さんは私が手袋もしていないのを発見すると、寒くないの?と少し驚いたような顔をした。私は昔から寒さに強いから、と私が説明すると、お姉さんは、でも受験生なんだから気をつけないとだめだよ、ほら今夜は冷えるし……といって、自分のマフラーを解き、私の首にかけてくれた。そんなお姉さんの予期せぬ振舞いに私はどぎまぎさせられる。……お姉さんは私よりちょっとだけ背が低くて、軽く背伸びして私にマフラーを巻いていく。お姉さんの顔が近くて、私はほんの少しだけ困った。お姉さんはそんな私の様子を見て、ほら、顔赤いよ、やっぱり寒いんだ、といって、笑った。私はそんなお姉さんの振舞いが少しだけうらめしかった。
2012/08/10/Fri
高校三年の夏休みが終わり、二学期に入り、季節は夏から秋へと移ろいでいく。授業と講習、そしてテストが続き、その結果に一喜一憂しながら、冬の香りを感じ始める。
私の成績は夏の終わりごろから伸び始め、12月初めの模試ではお姉さんの大学の合格圏内へと入っていた。友だちは私以上によい点数をとっていたけれど、私の結果を見て、まあまあねと喜んでくれて、東京の私大を受験する予定の図書委員の子も順調に成績を伸ばしていて、私と一緒に模試の結果を喜びあった。三者面談では、担任の先生が、お前のがんばりには驚いている、最初からこれくらい勉強にがんばってくれていればもっとよかった、おれが苦労せず済んだのにといって、私のことを一応ほめてくれて、面談で一緒だった私のお母さんは、きっとまぐれでしょ、本番でたぶん失敗しますよ、この子、といって、まったく私のことを信用していない様子だった。そして、お母さんのこの予想が結果として的中したのだった。
冬休みに入った。冬期講習は年末遅くまであり、それが終わっても、年明けにすぐセンター試験を控えているので、私は予断なく勉強を続けた。自分でもこんなに勉強が続くとは思ってなかったけど、でもお姉さんと同じ学校に通うという決意は、今でも弱まることなく私にモチヴェーションを与えてくれていた。それだけでなく、勉強自体もそんなに苦痛じゃなかった。国語や英語はとくに好きで、英文法はちょっと苦手意識があったけれど、英文を静かに読みふけるのはどうやら私の性に合っていたらしい。でも数学は依然、苦手で、できることなら数学の問題は解きたくなかったけれど、友だちに数学とか英語は毎日勉強しないとすぐだめになると脅されていたので、いやいや毎日問題集をやっていた。
そんな年末の日、たしか30日の夜、お姉さんからメールがあった。お姉さんもこの時期は実家に帰省していることはわかっていたので、私はちょっとそわそわした落ちつかない気分で机に向かっていたのだ。お姉さんのメールの内容は、合格祈願に初詣に行きませんか、というものだった。もちろん、私は一も二もなくお姉さんの誘いを受けた。夏と同じく、友だちと図書委員の子にも声をかけたけど、図書委員の子は家族と過ごすから無理らしく、また友だちも、今回はがんばりなさいとだけ返信が来ただけだった。がんばるって何をがんばれというのだろうか。もう試験本番が近いんだからと私は頭を振った。
大晦日の夜、お姉さんと会える。そしてお姉さんと新年を迎えられる。もし上手くいけば、お姉さんと同じ学校に通うことになる一年の始まりだ。そう考えると、私の胸は高鳴った。これから先起こることが私にどんな動揺をもたらすかということを知らずに。
2012/08/09/Thu
結局、私はお姉さんに告白できなかった。夏の夜の公園、お祭りの喧騒を遠くにし、二人きり、お姉さんの存在をすごく身近に感じながらも、私はあと一歩のところで勇気が出せなかった。――そのあと、友だちの部屋に泊めてもらえることになった私は、友だちの隣に布団を敷いて、彼女にやたらめったらに私の根性のなさを責められることになった。――ばか、ぐず、のろま、臆病、へたれ。あんたがこんなに勇気がなかったとは思わなかった。せっかく気を利かしてあげたのにまったく……等々、云々かんぬん。……友だちはここぞとばかりに私に悪口を浴びせるのだった。でもその夜は私もけっこう自分の意気地のなさに落ち込む気持ちがあったので、ただはあとため息をついて、友だちの罵倒の雨あられを黙って受けるばかりだった。
――ま、でも、あんたも意外とかわいらしいところあるのね。あのお姉さんの前だと、そんなしおらしくなっちゃって。……悪口をいいつくしたのか、それともしょんぼりする私の姿に満足したのか、友だちはそんな慰めの言葉をかけてくれた。私は、お姉さんとも長い付き合いだからためらっちゃうのかな……と呟いた。
今の関係が壊れるのが怖いの?と友だちはいって、それから神妙な声で、――でもね、私はだれかを好きになることはいいことだと思う。たとえそれが同性でも。そしてどういった事情があれど、だれかに好きだと伝えることは、だれかを好きでいる以上に素敵なことだと思う。好きと伝えることは、勇気があるってことだから。
私は友だちの言葉に頷いた。彼女のいっていることは正しいと思ったから。……それから私はお友だちに小声で、ありがとう、といった。友だちは、勉強がんばりましょうねといって、しばらくして眠りについた。けれど、私はまだそれからしばらく眠れそうになくて、暗い天井を見つめながら、お姉さんのこと、そして自分のことを考えた。――私は何をつかめるのだろう。私はどこへ行けるのだろう。私は何を得られるのだろう。……そんなことを、考えた。
2012/08/08/Wed
パリ行きのTGVに乗るために、私はまたPart Dieuへと戻ってきた。チケットはすでにネット上で予約している。TGVのチケットを取得する方法はいくつかあるけれど、今回、私は駅にある券売機から発行する方法を選んだ。お金はクレジットカードからすでに引き落としされていて、あとは券売機に切符を購入するときに使ったカードを差し込み、暗証番号を入力するだけ。……でも、あれ、なぜか発券できない。画面を見ると、このチケットは存在しませんとか、そんなことが表示されている。おかしい。何かのミスだろうか。でもこういうときは慌てちゃいけない。というのも、ここはフランスだから。何か不具合があっても、最初に自分の責任と思っちゃいけない。私には責任はない。そしてこんなことは大したことじゃないと考える。C'est pas grave. フランス人のよく口にする「大したことじゃない」という言葉。私は好きだな。
そんなことを考えながら受付に行く。駅にある窓口、日本でいうところの「緑の窓口」のようなところに向かい、駅員の人に、このカードで予約した切符くださいとお願いする。するとなんのトラブルもなく駅員さんはチケットを発券してくれた。実に簡単。セ・パ・グラーヴ。こんなことは本当にまったく大したことじゃない。
こうして発券された切符だけれど、このままTGVに乗り込んじゃいけない。列車に入る前に、composteurという装置に切符を挿入して、日付のスタンプを押す必要がある。フランスの駅にはどこにでもあって、これでスタンプさえすれば、あとは問題なく列車に乗れる。C'est facile. 簡単だ。
だけど問題があるとすれば、フランスの電車は発射時刻寸前になるまで、ホームの何番線に目当ての電車がやってくるか、わからないこと。……これはいつもなんでだろうって思う。電光掲示板にはずらーっと電車の名前と番号と時刻が表示されているけれど、どのホームに入ってくるかは直前になるまでわからない。日本ではもちろんそんなことはないし、以前遊びに行ったロンドンでもフランスのようなことはなかった。風のうわさによるとドイツでもこんなことはないらしい。フランスだけなのかな? なんでだろう。なんで事前に列車が入場するホームがわからないんだろう。……いろいろ事情があるのかもしれないと私は思う。
まだ私のパリ行きのTGVまで時間があった。当然、何番ホームに列車が来るかはまだわからない。こういうときは駅にあるカフェでお茶でもしてよう。……コーヒーとクロワッサンを購入し、待合室は人でいっぱいだったので、壁にもたれかかって、コーヒーを飲んだ。真っ黒なエスプレッソの苦味が、私の高校時代の記憶を、頭の底から深く濃く、抉り出していく……
2012/08/07/Tue
そんなふうに友だちとお姉さんは進路の話をして、話題は学校の話、そして就職の話へと移っていった。……でも、私はその話によくついていけなかった。私はよくわからなかったから。……大学受験をすること、学部を選択すること、そこで勉強すること、将来、何か職業につくこと。そのときの私はまったくそういったことまで意識が回らなかったし、まじめに考えたことさえなかったといえるかもしれない。今は受験勉強を一応しているけれど、でもそれは、友だちやお姉さんと一緒の学校に行けたら楽しいだろうという程度の理由であって、それより深い動機というものは私にはない。けれど、私が今、勉強していることは、そういった未来に関係していることなのだろうと、そのとき、私は気づいた。そしてそれは高校受験のとき以上に明確な人生の選択肢なんだろうと思った。許された選択肢、人生の可能性としての岐路という意味。
そんなことを考えながらぼんやり歩いてると、案の定、私は迷子になっている自分に気づいた。さっきまで私の前を歩いていたお姉さんと友だちの姿がどこにも見えない。通りを埋め尽くす人の波にもまれて、私はお姉さんたちを見失っていた。
どうしよう。そう思って不安になった次の瞬間、ぽんと肩を叩かれた。はっとして横を振り向くと、そこにお姉さんの顔がある。どうしたの、ぼーっとして?とお姉さんは微笑んでいう。私がすぐに答えられず、口ごもっていると、お姉さんはくすっと笑って、――がぼんやりしているのはいつものことだね、という。そして私の手を握って、少し疲れたから向こうで休もうと私を引っ張る。私はお姉さんの手の温かさと、私を導くお姉さんの背中と、そして風に揺れるお姉さんの髪と浴衣に、ただ心を奪われる。
――さんは疲れたから先に戻っているって、と、お姉さんは友だちの名前をいって、私に出店で買ったコーラを差し出した。――はコーラ好きだよね、とお姉さんが聞く。私はこくんと頷く。コーヒーも好き、とお姉さんが続けていう。……紅茶も好きだよ、と、私は小さく呟いた。自分でも意識しないほど小さな声だった。お姉さんはでもそれをちゃんと聞いていて、――そっか。そうだったね、といった。
お祭りの喧騒に満ちた通りから外れた公園。ここから大きな川が見えるんだよとお姉さんは教えてくれた。木々がざわめき、祭囃子が遠くに聞こえる、街灯の弱い光がほのかに差すベンチで、私はお姉さんのくれたコーラを一口飲んだ。お姉さんはラムネを飲んでいた。
静かな空間、暗い、人気の少ない公園。ゆっくりと流れる時間のなか、お姉さんは私に、――受験勉強は大変?と聞いた。私は、大変だけれど、でも、楽しい。……友だちや、それに……それに、お姉さんと一緒の学校になれたらって思うと、私、がんばれるから……と、擦れるような声で、呟く。お姉さんは、――は、私と同じ高校に来たいっていって、それで本当に合格しちゃったもんね、今回も、だから、きっと大丈夫だよ、と、私の手を握って、いう。――お姉さんの顔が近くにある。……私は緊張して、微かに震えて、でも勇気を出して、お姉さんに向かい、――私はお姉さんと一緒の学校に行きたい……それは、私がお姉さんを……その……
お姉さんが私の言葉を待つ。私はそんなお姉さんの吸い込まれるみたいに大きな、魅力的な瞳の光を近くにして、恥ずかしさと緊張で、口ごもる。ぎゅっと目をつぶる。すると、遠くで花火の音がする。空に光の花が咲く。
2012/08/06/Mon
友だちとお姉さんはもちろん面識はあるけれど、でもこんなふうに三人でゆっくり過ごすということはこれまでなかった。お姉さんの話を友だちに私がし、そして友だちの話を私がお姉さんにする。だから二人は私を通してしかお互いのことをろくに知らなかったわけだけれど、でも今日をきっかけに二人が仲よくなってくれればいいなと私は思った。お姉さんも友だちも、私にとってかけがえのない、本当に大切な人たちだったから。
そんなことを考えているうちに、浴衣の着付けが完了する。鏡に映った浴衣姿の私は新鮮でおもしろかった。友だちのお母さんが私を上から下まで眺めて満足し、私にこっそり、あの子の友だちでいてくれてありがとね、と呟く。私は、そんなことないですと頭を横に振る。私のほうが本当にお世話になってますから、と私はいう。友だちのお母さんは、でもあの子、友だち少ないでしょ?と私に尋ねる。それに私は、大丈夫です、私も本当に友だちいないですと答える。すると、友だちのお母さんは大笑いした。
お姉さんと友だちの着付けも終わった。お姉さんが、どうかな、と私に声をかける。それに対して、私は……なんだろう、こういうことをいうのはすごく恥ずかしい気がするけれど、なんだかとても動揺してしまった。それは、お姉さんがとてもきれいだったから。浴衣姿のお姉さん。少し恥ずかしそうに私の様子をうかがうお姉さん。……私はゆっくりお姉さんを眺めていたいなと思った。でもそんなことを考えている自分が非常に恥ずかしく感じられてしまって、お姉さんを前に、私は口ごもってしまった。
沈黙する私に、あ、やっぱり変?と、お姉さんは不安そうな声を出す。思わず私は、そんなことない!と大声で答えた。お姉さんはびっくりする。私はますます混乱してきちゃって、ますます慌てる。そこへ友だちが現れて、よしなに仲裁する。お姉さんが、――はやっぱり浴衣も似合うね、かわいいから、と私をほめる。私はうれしくて友だちにも意見を求めると、友だちは馬子にも衣装とかなんとかいって、私の持っている着物が素敵なのよ、と、冷たいことをいった。なんて言い草だろうか。友だちの浴衣姿もかわいいと思ったのに、私はもうそのことを伝えてやらないと心のなかで思った。
そうして、夜が来る。私たち三人はお姉さんの案内で、夏の夜の祭りを行く。他所の土地のお祭りはどこか疎外感のようなものを覚えると、ある作家が書いていたことを私は思い出す。でもその日の私は、友だちとお姉さんと一緒で、すごく浮かれて、はしゃいでいた。来年、こんなふうに三人で大学で過ごせたらきっと楽しいだろうなって思った。私がそんなことを考えているとき、友だちは、――さんは将来はどうされるんですか?とお姉さんに尋ねていた。お姉さんは、まだよくわかんないけど、とりあえず院に進学しようかなって、そして教職に進めたら、と答えていた。それに対して、友だちは、そうなんですか。なら、もし私たちが来年合格したら、最低三年間は同じ学校に通えるかもしれないんですねといった。
その言葉に、私は心が高鳴るのを覚えた。お姉さんが友だちに、――さんは何学部志望なの?と尋ねると、友だちは、今のところ、経済です、と答える。お姉さんが私を振り向いて、――は文学部だよね、と笑顔でいう。私はこくんと頷いた。友だちが、まああんたはけっこう読書好きだしね、という。
2012/08/05/Sun
――受験生を誘うのは悪いかもしれないけどと、お姉さんはいった。でもちょうど講習の休みの期間に入って、息抜きをするのにちょうどいい頃合でもあり、また最近会っていないお姉さんと久しぶりに遊べるというのだから、私はなんの迷いもなく、お姉さんの誘いを受けた。だれか友だちと一緒でもいいよということだったので、私は友だちと図書委員の子にメールした。けれど残念なことに、図書委員の子は家族と母方の実家に帰省するから行けないという返事が来て、一方、友だちからは、私がついていってもいいの? 邪魔じゃない?という返信が来た。友だちのその言葉に私は一瞬はてなと思ったけれど、すぐに、友だちは気を使ってくれているのかもしれないと思い当たった。私は、友だちと一緒だとうれしい、きっと楽しいと思う、とメールした。
翌日、私に会うなり友だちは開口一番、……私は野暮じゃないの、気の回らないあんたとちがって、といって、また少しそっぽを向いてから、それに……それに私はあんたのこと、応援しているのよ、友だちだからね、と付け足した。私は少し赤くなった友だちに、私も――のこと好き、といった。友だちはそれを聞いて、何ばかなこといってんの!とますます赤くなるのだった。
夏祭りはお姉さんの住んでいる街で行なわれる。私は、どうしよう、高速バスで行こうか?と友だちに提案すると、友だちは、お母さんが車を出してくれるっていうから、それで向かいましょう、といった。続けて、あんた、浴衣持ってる? なんなら貸しましょうか? ああ、よかったら、あんたのお姉さんにもどうかしら。着物はたくさんあるんだけれど、なかなか着る機会がないからもったいないのよ、といった。
――そうして夏祭りの当日の日。私の家まで迎えに来てくれた友だちのお母さんの車は、車にまったく関心がない私の目から見ても、そうとう立派な車だった。乗り心地も普段使っている高速バスよりずっと快適に感じる。でも私は車の知識がぜんぜんないので、友だちのお母さんの車がどれだけすばらしいかを上手く説明することができない。それはちょっと残念かも。
高速道路を抜けて、市街地に入り、途中でお姉さんと合流して、私たちは友だちのご両親のマンションへと向かった。友だちの実家は私の住んでいる町にあるんだけれど、お姉さんの住んでいる街のマンションは、友だちのお父さんが平日は使っているらしい。なんでも友だちのお父さんはこの街で働いてて、平日はそこのマンションで暮らしているらしい。この日は、友だちのお母さんが家事をする用事で来たそうだ。
私と友だちとお姉さんは、さっそく着物の着付けをする。浴衣を着た経験がない私は友だちのお母さんに手伝ってもらった。友だちとお姉さんは奥の部屋で着付けをしている。そういえば、友だちとお姉さんがこんなふうに話しているのを見るのは初めてかもしれないと、私は思った。
2012/08/04/Sat
Part Dieuから地下鉄に乗って、私はJean Macé駅に足を運んだ。このあたりはもう観光地といった雰囲気じゃない。民家やアパルトマンが多く立ち並んでいて、人々がそれぞれの生活を日々営んでいるところだ。駅から出た私はソーヌ川方面へと向かう。そこには大きく立派でクラシカルな建物がそびえている。それはリヨン第二大学だ。私がリヨンに来たのは、この学校をもう一度見ることも理由のひとつだった。
私は以前、この大学で語学研修を受けた。半年に満たない短い間だったけれど、私はこの学校でいろいろな国の人と知り合い、見聞を広めることができた。語学学校にはドイツ人と中国人が多く、イタリア人やイギリス人、ブラジル人もいた。日本人も私を含めて数人いて、私は寮で暮らしながら、異国の生活を楽しんだ。
そんな語学留学のある日、中国人の知り合いの女性がお手製の中華料理を振舞ってくれると話を聞いた。麻婆豆腐やチャーハンが好きな私は喜んでその誘いを受けた。でもただごちそうになるのも悪い気がしたので、ワインを買い、ついでにおにぎりも作って持っていくことにした。でも私は炊飯器を持っていない。なので鍋でごはんを炊いてみることにした。何ごともやってみなきゃわからない。けれど初めての挑戦だったので、できあがったごはんは水気が多すぎて、ぐちゃぐちゃだった。どうしたものだろうと私は途方にくれたけど、がんばって海苔で巻いて固めてみた。具はきゅうりとたまごやきと鮭とツナだ。おにぎりというより、手巻き寿司のような格好になった。中国人やフランス人の友だちに見せたら、みんなけっこう喜んでくれた。今度、ラーメンを作ってくれないか?とフランス人にいわれる。無茶いうものだと私は思った。いくらラーメンが世界的な日本料理といったって、素人が簡単に作れるものじゃないと思う。
中国人の作る中華料理は、日本で食べる中華料理とけっこうちがった。なんていうか、とにかく刺激的だった。麻婆豆腐も日本で食べるようなものじゃなくて、すごく辛かった。辛くてびっくりした。でもおいしかったので私は麻婆豆腐の辛さに感動した旨を中国人に伝えた。それに気をよくした彼女は、チョードーフなるものを特別に出してくれた。チョードーフ? 何それ?と私が訪ねると、中国人は「腐豆腐」と銘打たれたビンを見せる。「腐豆腐」でチョードーフと読むのかと私は理解した。中国人がそして蓋を開ける。途端にものすごい臭いが鼻をつく。……これがものすごい。本当にすごい。言葉じゃ説明できないくらい。だって腐った豆腐だもん。緑色でぐちゃぐちゃしている。異臭を放っている。スプーンでほんのちょびっと、本当にほんの少しだけ、食べるのだと教えてくれた。チーズのようなものだと彼女は説明する。そういうものかとフランス人は納得している。けれど、この臭いはものすごい。中国人は嬉々として食べて食べてと勧めてくる。ついに私は意を決して腐豆腐を口にする。……それは、もう、すごい。ほんの一つまみで、喉の奥までその臭いに占領された。翌朝、起きても、その臭いはとれず、胃がむかむかするほどだった。
――チョードーフのことを思い出して、私は実に微妙な気持ちになった。リヨン大学の周辺のベンチに腰かけ、はあとため息をつく。思い出すんじゃなかった、腐豆腐のことなんて。あれ以来、普通の豆腐もなんか変な目で見ちゃうし。……こういうときは別のことを考えよう。私はまた過去のことを考え始めた。
2012/08/03/Fri
まともに勉強をするのは高校受験以来だった。それまで私は学校の定期テストを実に適当に受けていた。ほとんど勉強せずテストの問題を解いていた。そして結果はもちろん悪かった。赤点も多かったし、補習も何度も受けた。私はそうとうだめだめな生徒だったろうと思う。
そんな私が勉強を始めた。これまで図書館で勉強したことは一度もなかった。図書館では私はいつも本を読んだり、居眠りしたりしているだけで、図書館の机で問題集を解いている人を横目にしているばかりだったけど、そのときから私は図書館であまり本を読まなくなった。現代文や古典、漢文の勉強で、何かしらの読書は続けていたけど、苦手な数学や現代社会の問題集は、私にゆっくり本を読む精神的余裕を奪っていた。でも生物はそれなりに好きだった。資料集に載っている細胞分裂のカラー写真なんかをぼーっと眺めたりしていた。
こんなにたくさんの教科を勉強しなちゃいけないの?と友だちに聞くと、友だちは、センター必須なんだからしかたないでしょ、といった。私が、センターって何?って聞くと、友だちは実にがっかりしたようなうんざりしたような、一言でいえば、つまり、私のことを相手するのが嫌でたまらないといったような顔をした。そんな私と友だちのやりとりを見て、私たちと一緒に勉強していた図書委員の子が微笑んでいた。
私と友だちと図書委員の子はよく一緒に図書館で勉強した。平日の放課後はいつも三人でそんなふうに勉強して、土日は私は部屋で朝から机に向かった。そんなふうに勉強していると身体が固くなる気がしたので、よく散歩するようにもなった。――散歩が趣味になったのはそのころからだったかなと私は思う。iPodを聞いたり、缶コーヒーを買ったり、本屋に寄って漫画を立ち読みしたり、カフェでケーキを食べたり、そんなことをしながら、私は飽きることなく散歩した。それから家に帰って勉強する。でも私の本性である怠惰さが抜け切ることなんてありえず、眠くなったらすぐ寝た。学校の授業中でも居眠りする癖は結局、最後まで直らなかったのだから、なんだかひどいと、私はしみじみ思う。
私が通っていた高校はその地域で二番目くらいに難しい学校で、そして一応進学校らしくて、講習やテストの機会も三年生になってから増えていった。春が過ぎ、一学期が終わって、夏がやってくる。そして夏期講習が半ばも過ぎたある日の夜、お姉さんからメールが来ていた。夏祭りがあるから一緒に行きませんかという内容だった。
2012/08/02/Thu
Part Dieu駅の隣には商業ビルが隣接していて、そこはリヨンで最大級のショッピングモールだ。週末ともなれば、多くの人が買い物に集まって、歩くことさえ難しくなるほど繁盛する。ただ難点をいえば、敷地があまりに広大なため、すぐどこを歩いているのかわからなくなることだ。目的の店にたどり着くのも困難なことが多い。
私はそこに暇つぶしになるような本を買いに来たのだった。頼みのiPodの充電が切れていたし、かといってわざわざiPod用の充電器を買うのもなんだかばからしかった。とりあえず手ごろなfnacを覗いてみる。fnacはフランスに存在するチェーン店で、本やCD、DVD、ゲームや家電の多くをそろえている。フランスのたいていの街には存在しているので、ちょっとした買い物にはとても便利。でも昔、フランスの友だちに、fnacは書籍が充実してないからあまり好きじゃないといわれたことがある。それはある面、納得できる意見かなと思う。でも日本でいうところのツタヤのようなお店であるfnacに、充実した書籍の用意を期待するのがそもそもおかしいのかもしれない。
難しい本を買う気はなかった。というのも、ろくな辞書を持ってきていなかったし、それに電車やバスのなかでわざわざ辞書を引かなくてはほとんど理解できないような本を読むのは負担でしかないから。なので翻訳で読んだことのある探偵小説を購入する。これならそんなに意味のわからない単語はないだろうって思うけど、でもこの手の大衆小説に限って、外国人には不慣れな表現が出てくるものなんだよね。
カフェに入って、さっそくぱらぱらとページをめくる。数ページは特に引っかかる部分もなく読めたけれど、途中、意味のあいまいな語句にぶつかった。ボールペンでそこをマークしておく。あとでホテルに戻ったときにでも、辞書でチェックしようと私は思う。そしてコーヒーを一口飲んで、またページの上の字面を追っていくうちに、推理小説の筋じゃなく、私の頭のなかに収められていた過去の想念へと、私の注意は移ろうていく。あれは高校二年の三学期が始まって間もないころだった……
――私に受験勉強のきっかけをくれたのは何気ない友だちの一言だった。……あんたのいうお姉さんって、今、大学二年なんでしょ? なら、あんたが現役で受かれば、お姉さんと一緒の大学に通えることになるんじゃない?
われながら現金なものだと思う。今まで受験とか進路とかにまったく疎くて、進路調査用紙も机のなかでくちゃくちゃになっていた私が、友だちのその言葉で目が覚めたような気がしたのだ。それまで私はお姉さんと一緒の学校に通うなんて発想はまるでなかった。友だちの指摘は青天の霹靂のようだった。
お姉さんの大学ってどこなの?と友だちが聞く。私は覚えていた名前を答える。すると友だちは、げ、という声を出して、それってそうとう難関じゃない、という。そしてぼそっと、私もそこを受験するつもりなんだけど……と、付け加える。
私は鼓動が高鳴るのを覚えた。……もしかしたら、友だちとお姉さんと一緒の学校に通えるかもしれない。それはつまり、友だちとお姉さんと一緒に勉強したり、遊べたりするってことなのかもしれない。……それはすごく楽しそうに思えた。とても魅力的な想像だった。
でもあんたの成績、下から数えたほうが早いんでしょ?と友だちが冷たくいう。私はがたっと立ち上がった。慌てて友だちが、ちょっとどうしたのよ、と私に聞く。私は、勉強する、とだけいって、カバンを手にとった。勉強しよう。とにかく勉強を始めよう。もしかしたら合格するかもしれない。そしたら、もしかしたら……
2012/08/01/Wed
高校二年のことに関しては、もうそれほど考えることはない。ただよく記憶に残っているのは、もうすっかり寒くなった十二月のある日のこと、そのころ私はまた怠惰な帰宅部に戻っていて、日々を以前以上にだらだらと過ごしていた。そんな毎日のある放課後、友だちが私のクラスに顔を出した。一緒に帰らない?と誘ってくる。私はすぐにいいよと了承した。そして二人で連れ立ってぶらぶらと帰路を行く。
最近、友だちはよく放課後に私を誘いに来る。たぶん私のことを気遣っているんだと思う。私は友だちにだけ、自分がお姉さんが好きなこと、そして告白できなかったことを打ち明けていた。友だちは最初ひどく驚いていたようだけれど、でもすぐに、ま、あんたは変な奴だからねといって納得してくれた。けれど、変な奴というのはずいぶんな言い草だと私はこっそり思った。
でも友だちが私のことを心配してくれているのはとてもうれしかった。というのも、演劇部をやめて以来、私は少し気持ちが沈んでいたから。そしてもともと友だちがほとんどいなかったのに、演劇部を自分勝手に退部した事実とそして私がある男子生徒をふったという噂は、私をますます孤立させるのに貢献していたから。私はぜんぜん知らなかったけれど、私に告白してくれた人はけっこう人気があったみたいで、そのことも少なからず影響したのだと思う。……もちろん、私はずっと友だちが少なかったから、今さら交友関係がいくらか狭まったところで、私の生活に大した影響はない。けれど、お姉さんとの一件が尾を引いて、私は憂鬱な気持ちから抜け出せないまま、だらだらと過ごしていた。
図書館に寄っていいかな、と私が友だちに尋ねる。もちろんよ、と友だちが屈託なく答える。――演劇部をやめて暗くなっていた私にとって、図書館は学校のなかで数少ない居心地のいい場所だった。司書の先生は私のことをいろいろと気にかけてくれたし、また図書委員の子ともだんだんと仲よくなってきていた。――私が本を返却すると司書の先生が、どう? この本はおもしろかった?と聞いてくる。私は、読んでいるとどんどん気持ちが暗くなってきて興味深かったですと返事する。それなんの本よと友だちが口を挟む。私は、これは遠藤周作の小説、男の人が女の人をもてあそぶ話、と説明する。友だちが、はあと頷く。図書委員の子はそんなやりとりを見て、くすくすと笑っている。
学校の外に出ると北風が強くてすごく寒かった。身にまとったコートがばさばさと強風で揺れる。自動販売機でコーヒーを買う。友だちは紅茶を買う。それを飲み飲み、歩きながら、友だちは、あんた、進路調査の紙、もう出した?と聞いてくる。私はなんのことかわからなくて、はてなと思う。呆れた顔をした友だちは、進路よ進路、私たちもう三年になるのよ、あんた、どうするのよ、将来は、と、私に聞いてくる。私は沈黙する。
……あんた、何かなりたいものないの?と友だちが聞く。私は、お姉さんのお嫁さん、と答える。友だちは、馬鹿、とだけ、口にした。
友だちのその言葉に私はけっこう傷ついた。私は本当にお姉さんのお嫁さんになりたかったから。