2012/09/22/Sat
旅行に行こう!とお姉さんがいった。季節は三月、大学一年ももう終わり、学期末の試験期間も終盤に差し掛かったころ、人気の少ない学食の席、お姉さんが突然思いついたといった具合に宣言した。……旅行?と、不意をつかれた私が学食のそんなにおいしくないカツカレーを食べる手を止める。お姉さんは、そう旅行! 素敵でしょ!と元気よくいう。……一切説明をしてくれない。そんな私の不満げな顔に気づいたのか、お姉さんはこほんと咳払いをし、それから、突然思いついたわけじゃないよ? ほら、今年は私、院試に卒論があったでしょ、だからぜんぜん遊べなかったよね、――のせっかく大事な大学に入ったばかりの一年目だったのに。だからずっと申し訳ないなって思ってて、それで卒論も終わって、落ちついた春休みに旅行に行きたいなーって。と、いった。
私は、それはいい考えだと思う、と答えた。お姉さんはすかさず、だよねだよね! どこに行こうか!? あー、海とかいいよねー、去年の夏はぜんぜん海とか行けなかったもん、図書館にこもっていたし、不健康だよねー、といって笑った。私は、春の海というのはなかなか発想がロマンチックで素敵かも、と思った。
友だちとかも誘ってみる?と、ふと私は口にした。するとお姉さんは身を乗り出して、ぽかんと私の頭をチョップする。はてな?と私が不思議に思うと、お姉さんは自分の指を私の唇に当てて、――こういうのは二人きりで行くものでしょ? ね?といった。……大胆なことするんだから、と、私は少しだけ戸惑って、赤くなって、思った。……でもお姉さんのアイディアは悪くないって思った。こういうラブラブなのはいいかもしれない。……ラブラブ。ラブラブか。いいかもしれない。
いつ行く? どこに行く? どうやって行く? ――お姉さんは、私が運転して行く!といった。……私は、それはどうなんだろう、と思った。お姉さんって免許持っていたのかな。そもそも運転できるなんて話、聞いたこと、なかったし。
2012/09/21/Fri
言葉にしないと伝わらない。思いは言葉にしないと伝えたい人に伝わらない。……それはそのとおりだった。なんらかの思いがあるとしても、それは実際に行動に移さないと、現実は、世界は、私を取り巻く世界は、変化してくれない。それは実に当たり前なことだ。たとえその行動を支えるものが思いだとしても、思いは思いだけでは、どんな力も示してはくれない。
――気づくと、私の洗濯物を収めた目の前の乾燥機はすでに止まっている。コインランドリーの椅子に座って、洗濯機を見つめながら、ぼんやりと昔の記憶を思い出し、考え続けていた私の姿は、たぶんほかの人からは変なふうに見えたろう。フランスまで来て何しているんだ、この日本人は、と思ったことだろう。……いや、さすがにそこまでは思いはしないかな。そもそも私が日本人だということはわからないだろうし。中国人、韓国人、日本人の見分けなんて、ヨーロッパ人にはできないだろうし。というか、私だってできないもん。ぱっと見て、わかるものでもないし。
立ち上がり、背伸びして、固くなった身体を伸ばす。外を見ると、まだ日が高いけれど、でもなんだかもういいや、これから観光名所に足を運ぶ気にもなれない。どこかファーストフードで食事をしたら、もう今日のホテルに行って、リヨンで買った探偵小説の続きでも読もう。――そう考え、私はあくびしながら、がらがらとキャリーケースを引っ張り、夏のパリの太陽の下、歩を進めた。……だらしなく、やる気のない、怠惰な私だ。フランスに来ても、どこにいても、変わらない。中学の私も、高校の私も、大学の私も、そして今の私も、私はずっと変わらない、だめな奴だ。ただちがうのは、今の私は、ひとりきり、ということだ。私を見る人も、私の声を聞く人も、今はもうどこにもいない。そんな私は自分の記憶に沈潜するばかり。そしてその意味を問い続けるばかり。報いがあるとは、到底、思えなかったけれど。
2012/09/20/Thu
新幹線のなか、図書委員の子は、――さんは今、幸せ?と私に聞いた。私はその質問にとっさに答えられず、なんで?と尋ね返してしまった。図書委員の子は、あ、ごめんね。……別に深い意味があるんじゃないの。……ただ、なんていうのかな、――さんは、その、お姉さんと昔から友だちで、それで、ずっと好きだったんでしょ? ……それが、ようやく恋人って関係になれて、つまり思いが叶ったんだよね。……それってどういう感じなのかな、幸せなんだろうなって、思って。と、いった。
私はちょっと考えた。そして、……幸せ、なのかもしれない。普段、そんなこと考えないけど……でも、私はお姉さんが好きで、お姉さんも私のことを好きっていってくれるから……、と、返事した。……図書委員の子は私のその答えに微笑して、それから、――でも、お姉さん、――さんに嫉妬したりするんじゃないかな。――さん、もてるから、といった。私は驚いて、首を横に振った。私はもてないよ、合コン……とかにも、誘われたことないし、と私がいうと、今度は図書委員の子が驚いて、それから何かを合点したように、――さんはちょっと怖いからかも、といった。
私が怖い、なんてことあるのかな。……私が図書委員の子のその指摘にちょっと戸惑う。すると図書委員の子は、――前、高校のとき、――さんと友だちになったばかりのころも、私、――さんに同じこといった気がする。――さんのこと、ちょっと怖かったって。と、いう。私は、うん。覚えている。少しだけショックだった、と答える。図書委員の子は笑って、――さんはすごくかわいいと思う。高校のときもすごい美少女だって思っていたし、周りの子も同じこといってたよ。……でも、なんだかきれいすぎて、近寄りがたかった。いつも気難しそうにしていたし、図書館でも教室でも難しそうな本を読んでたよね。だから、かな……?と、説明してくれた。
私は、つまりそれって浮世離れているように見えるから人が寄ってこないってこと?と、聞いた。図書委員の子は、あははと笑った。……なんだかちょっと笑いごとじゃない。私が気難しそうに見えたって、たぶんそれはいつも眠かったからだと思う。高校生って朝早いもん。だから眠い。いつも眠い。それに私、難しい本なんて別に読んでない。図書委員の子の意見は、なんていうか、印象的だよ、先入観だよ、実際は、私はそんな奴じゃない。もっといい加減でだらしない。友だちなら、私が美少女だなんて意見は一笑に付すだろう。……それもちょっとむかつくけど。
けれど、図書委員の子は少し言葉を落として、――うん。そのとおりだと思う。――さんはずっと付き合いやすくて、気さくでいい人だと思う。私は、――さんと友だちになれて、それがよくわかったから。……でも、実際に言葉にして話さないと、そういうのはわからないよね。だから、変なこというかもしれないけど、私、――さんと仲よくなれて、すごくうれしかったの。今もそう。私、うれしいの。と、いった。……私は彼女の言葉に、何かを考えさせられる思いがした。
2012/09/19/Wed
いつもより売れているかも。売り子の――さんが美少女だからかな、と、図書委員の子が満足気に私にいった。私は、そんなことないよ、――さんの漫画がおもしろいからだよ、と返事する。それはけっこう本心だった。図書委員の子は私の言葉に微笑して、スペースには私がいるから、――さん、少し見て回ってみるといいよ。もしかしたら、――さんの興味を引くものもあるかもしれないから、といった。
その言葉に甘えて、私はふらふらと大きな会場をさまよってみた。東京に来る前、インターネットでコミケのことを少し調べていたので、本当はけっこう興味があったのだ。でも予想した以上に寒くて眠くて初めのやる気はもうどこかに消えていたけれど、でもこうして活気のある空間を確固とした目的がないとはいえ見て回るのは、相応の楽しみがあるものかなと私は思った。途中、近所の野良猫を擬人化した小説と、全国津々浦々の宇宙ロケットの発射基地を見聞した体験記を買った。この二冊は今でも手元に置いておくくらいおもしろい本だったので、なんでも億劫がらず体験してみるものかなと、私は思った。……でも実は私がコミケに足を運ぶのはこれが最初で最後になったのだけど、今のところ。やっぱり根がだらしない私にコミケのような過酷な早起きと寒さあるいは暑さはなかなかきびしいものかもしれなかった。
そうして、私と図書委員の子は帰路についた。くたくたに疲れていた私とちがって図書委員の子は、今回は本当にたくさん本が売れたよ、と、余った本を抱えながらも、まだまだなんだか元気そうだった。私は高校時代には知らなかった彼女の一面を知らされ、いろいろ実りある一日だったかもと、今日一日を振り返って思った。そうして図書委員の子の部屋で十時間以上眠り込んで、翌日、寝すぎてくらくらした私は図書委員の子に手を引っ張られて、駅へ向かった。もう年の瀬。帰省しなきゃいけなかった。
2012/09/18/Tue
コミケというのは図書委員の子のメールで初めて知った。友だちに聞いてみると、何それ知らないと一蹴され、お姉さんに聞くと、ああそれ知ってる。行ったことないけど、なんだか賑やかで楽しそうだよね。おみやげお願いね!といわれた。……おみやげ、おみやげなんてなんかあるのかな。わからない。謎、かも。
朝早いと聞いていたけれど、本当に朝早かった。……こんなに早起きする必要があるの?と、眠い目を擦りながら、ものすごく寒い早朝の道を、図書委員の子に手を引っ張られながら、進む。図書委員の子は、私のそんなぼやきに対し、はい、おにぎり買っておいたからしっかり食べてね。ちゃんと食べておかないと倒れちゃうからね。本当に倒れちゃうからね、と、なんだか笑顔で私を脅すのだ。――気合が大事だからね!と、図書委員の子が私ににっこりという。
電車を乗り継ぎ、だんだんとものすごい人混みにまみれて、ついにようやく目的地へと到着した。――コミケというのはこういうものなのかと驚くことが多かったけれど、朝早くから歩かされ並ばされ、おまけにすごく眠くて、もう細かいディテールは私はさっぱり覚えてない。……スペースに着くと、図書委員の子がてきばきと作業を始めて、パイプ椅子に座ってぐったりとした私に、これが今回作った本だよ、と、図書委員の子が薄い本を渡した。印刷所にお願いしたという本は予想していたより立派で、私はちょっと驚いた。――さんの感想聞きたいな、と図書委員の子がいう。短い漫画だったのですぐ読めた。……それは、メイドとお嬢様の身分を越えたしっとりした百合漫画だった。
――さん、こういうの好きでしょ?と、図書委員の子が笑顔で私を見る。……私は自分の鼓動が早くなるのを感じた。……いや、動揺する理由なんか別にないんだけど。私、お姉さんが好きで付き合っているってもう図書委員の子にいわれているし。……でも女の人と付き合っているからといって、そのことと私が百合漫画が好きということとイコールにはならないんじゃないだろうか。つまり……ええと……図書委員の子は私が百合漫画が好きということを知っていたんだろうか。……実は私は自分が百合漫画が好きということがなんだか恥ずかしくて、お姉さんにも黙ってこっそり読んでいる。押入れの置に隠しているけれど、実はお姉さんにばれているかもしれないけれど、隠している。……高校のとき、受験勉強に疲れたとき、散歩するのが気晴らしだったけれど、実は散歩の折に本屋にこっそり寄って百合漫画を買うのが私のささやかな趣味だったんだけれど、もしかしてどこかの本屋で私が百合漫画を買う姿を図書委員の子に目撃されていたんじゃないだろうか。そうじゃなきゃ、図書委員の子が私に対してあんなに堂々と確信をもって、こういう漫画好きだよね?とはいえないんじゃないだろうか。
……図書委員の子は、私がそんな埒の明かないことを延々と考えているとも知らず、ついに私ににっこり笑顔を浮かべて、――さん、よく百合漫画を本屋で買っていたよね!と、すごく明るい声でいった。――見られていた! だったら教えてくれてもよかったのに! ……私はなんか恥ずかしくて、眠くて、寒くて、頭を抱えた。
2012/09/17/Mon
……図書委員の子と会うのは卒業式以来だった。上野駅の中央口で待ち合わせ、久しぶりに会った図書委員の子は、髪が以前より伸びて大人っぽくなった気がした。――以前、お姉さんが、大学生になると女の子は変わっちゃうんだよねとこの前、しみじみといっていたけれど、たしかに何か変わるものなのかもしれない。そんなことを考えながら、図書委員の子に、きれいになったね!というと、図書委員の子は、――さんはぜんぜん変わらないね! うれしい!といわれた。……ちょっと微妙な気持ちになった。
わざわざ東京まで呼んでごめんね、大丈夫?と、図書委員の子が不安そうにいう。私は、ううん。ぜんぜんいいの。私も東京に遊びに来たかったし、それに――さんに会いたかったから、と、図書委員の子にいう。図書委員の子はにっこり笑って、――さんの話を聞かせて。メールでもいろいろ教えてもらったけど、私、今日、――さんと会えるのすごく楽しみだったの! 例のお姉さんと付き合ってるんだよね! もう素敵! すごく素敵! さあ早く行こう!と、やたら調子よく図書委員の子にぐいぐい腕を引っ張られて、私は近くの喫茶店に連れて行かれた。そこで二時間ばかり、だらだらと私は適当に近況を報告したけれど、図書委員の子はそんな私のあまりきっちりとしていない話にも、ものすごく関心を寄せて、聞いてくれた。
――さんは最近はどうなの?と、図書委員の子に話を振ると、彼女は、最近は原稿で忙しかったけど……と、ちょっと視線をあらぬ方向にさまよわせて、いった。私は、そうそう。明日は私が何かを手伝うんだよね? 売り子やるんだよね、私。大丈夫、任せて。私、いろいろバイト経験したから!と、私が胸を張っていうと、図書委員の子は、……大変だと思うけど……ううん、今のうちに謝っておく! ……ごめんなさい、と、なぜか頭を下げた。なぜだろう?
夜は図書委員の子の部屋に泊めてもらうことになっていた。……明日は朝早いから早めに寝ようねと、図書委員の子がいう。けれど、ベッドはひとつしかない。……図書委員の子は、私をじっと見つめて、それから何ごとか意を決したかのように、――さん! 一緒のベッドで寝よう!と、叫んだ。……それに対し、私は、せ、狭くないかな……? 毛布を貸してもらえれば、私、どこでも寝られるけど……と、返事すると、図書委員の子は、だめ! 風邪ひいちゃう! 一緒に寝よう! 大丈夫! お姉さんと――さんには黙っていてあげるから!と私の手を握っていった。……お姉さんはともかく、なんで友だちの名前まで出てくるんだろう。……だって、高校でいつも一緒だったでしょ。それに――さんはほかの人には冷たかった……というか、そっけない人でちょっと付き合いづらい怖い人かなって思っていたけど……でも実際はそうじゃなくて……と、図書委員の子は、友だちが私と一緒のときは気さくでいい人ですごく感動して、友だちと私の関係性っていいな、でもそこにお姉さんの存在が加わるんだよね、なんだか複雑で深みのある関係性になるね、それって素敵、ああ私もお姉さんに会ってみたい、ねえいいよね――さん、私のこともお姉さんに紹介してね、と、なんだか図書委員の子は絶好調だった。
……結局、私と図書委員の子は同じ布団のなかで一晩過ごした。……と、書くと、なんだかすごい感じ。ちなみに図書委員の子は、私より背も高くて胸も大きくて、なんだかものすごく抱きしめられてしまった。冬だというのに暑かった。
2012/09/16/Sun
なんで――さん、そんな変なことしているのよ、と、私の話を聞いた友だちが怪訝な顔で聞いた。その質問に私は、お姉さん、その日、研究会で発表があったんだって、と返事する。友だちは、ああ、そうなのといい、私は、ちょっと失敗しちゃったんだって。落ち込んでいた、と答えた。友だちは、卒論の関係でしょ。大変よね、という。
でもあんたにそんなふうに甘えるなんて、かわいらしいじゃない、と友だちがいう。友だちのそんな言葉に私は少しだけまごついて、……お姉さんと恋人らしく見えるかな、と小声で友だちに尋ねた。すると友だちはふと真顔になって、――恋愛関係というのは三日続くか、三ヶ月続くか、あるいは三年続くかが分かれ目だっていうけれど、あんたとお姉さんの付き合いはもっと長いでしょう?と、いう。私は、うん。六年くらいになるかも……お姉さんとは私が中一のときに知り合ったから……でもだから……と、おずおずと呟く。友だちは微笑して、なまじ付き合いが長いから、しっかりと恋愛関係をやれているか、不安になっているわけ?と、口にする。その言葉に私は思わず、不安じゃないよ!と、大きな声で答えていた。……すると友だちは神妙な顔をして、わかってるってば。……お姉さんのことになるとまじめになっちゃうんだから。まったく、と、どこかつまらなさそうにいって、そっぽを向いた。
話題を変えようと思って私は友だちに、年末はどうするの? またバイトするの?と聞いてみる。友だちは、……バイトはしない。年末年始は忙しいから。実家に帰って手伝わないと、と返事する。私は、そっか。お嬢様だもんね、という。友だちは、そんな立派なものじゃないってば、と苦笑する。
お姉さんは卒論があるので、年の瀬まで学校で勉強するといっていた。友だちも早々に帰省するという。夏のように何かバイトをする気もあまり起きなくて、どうやって年末を過ごそうかなと考えていた私に、折りよく、図書委員の子からメールが届いていた。よかったら年末に会えませんか、と。
2012/09/15/Sat
そんな行政法の読書会のあと、いつものように友だちとファミレスで食事をして雑談をしてから部屋に帰った木曜の夜、なかなか忘れられない出来事が起こった。――そのころはもう11月も下旬に入り、めっきりと寒くなった頃合だった。私は帰るなり、お風呂に入り、身支度をさっさと整えて、ベッドに入った。というのも、読書会で疲れていたし、部屋が寒くて冷えていて起きていたくなかったから。……暖房がエアコンだけというのはいけない。効率が悪いし電気代も心配だし、今度、こたつでも買おう。そう私は思いながら、あっという間に眠った。……そうして、たぶん一時間ぐらい経ったころだと思う。がちゃっとドアが開いた音がした。
当時すでに、私とお姉さんはそれぞれお互いの部屋の合鍵を持っているだけじゃなく、お互いの部屋にそれぞれ自分の荷物もけっこう置きっぱなしになっていた。私もお姉さんもお互いの部屋に泊まることが多かったし、またお姉さんは私の部屋でもよく料理していたので、私の家の冷蔵庫の中身はほとんどお姉さんが管理していたようなものだった。部屋が二つに増えたようで便利でいいよねとお姉さんは上機嫌だった。たぶん、私の部屋がそれほど散らからなかったのもお姉さんがいたからだと思う。私とお姉さんはそれほどお互いの部屋をよく行き来していた。
けれど木曜日の読書会が始まってから、木曜は午後から夜まで用事がつまっていたので、お姉さんと会う機会はなくなっていた。時期的にも卒論の執筆がピークというころだったので、お姉さんはそうとう忙しかった。
――ドアが開く音がした。でもやっぱり私はそれくらいじゃ目覚めない。何か変な気配があったかなと思っても、一度眠った私は簡単に起きない。がちゃがちゃと物音がする。明かりをつけないから壁を手探りで進んでいる様子。何かにつまづいた。……そうこうして、ようやく私の寝ているベッドにたどり着く。ごそごそと毛布に進入してくる。……事ここに至って、私も薄目を開けて事態に気づく。こんなことする人はひとりしかいない。というか、戸締りをしたはずの扉を開けてやって来れるのはお姉さんしかいない。また酔っ払っているのかなと眠気で混沌としている頭で考える。……けれど、聞こえてくるのはぐすっという涙の声。寂しいよーとお姉さんが布団のなか、私に抱きついてきた。……お酒くさくない。ということは、酔ってないのかな。……でも酔ってないのにこの事態は、面倒くさい、かも。
ぐずついているお姉さん。けれど嗚咽しながらも私を抱きしめ、あろうことかキスしてくる。……ふだんならうれしいけど、でも今は眠い。すごく眠い。眠くてつらい。寝たい。眠いよう……お姉さん、眠いから嫌……。私はそういってお姉さんの頭をぺたんと叩いた。するとお姉さんは私の頭をばしんと叩いて、――ちゃんは無理やり私にキスしたじゃない!!と、夜中なのに真っ暗なのに私の耳元で叫ぶのだ。……ひどい、今そんなことを持ち出すなんてひどい。――眠気に参りつつも、私はお姉さんの不条理を感じた。お姉さんは、慰めてよー寂しいよーといって、私の胸に顔を埋めて、ぐずつく。……お姉さん、本当に酔ってないのかな。素面でこれなら、なんかすごく面倒くさい……。――さすがに目が冴えてきた私は、げんなりした気持ちを感じたのだった。
――翌朝。寝不足でふらふらと目覚めた私を、昨夜はごめん!と深々と頭を下げたお姉さんの姿が迎えた。よく見ると、机の上にごはんとみそ汁の用意ができている。たまご焼きも作ったよ! おみそ汁は熱々だよ!と、お姉さんが大きな声で付け加えた。……昨日の夜のお詫びのつもりなのかな、と、私は疲労でがんがんいう頭で思った。お姉さんは、気まずそうな顔で、何か食べたいものほかにあるかな、なんでも作るよ!と、いう。私は、紅茶が飲みたい、と口にする。こ、紅茶……? それはちょっと面倒かも……と、お姉さんが視線を明後日の方向に漂わす。私は、紅茶が飲みたい。お姉さんの紅茶。と、じーっとお姉さんを見つめる。お姉さんは、わ、わかったよー。用意するよー。と、いう。その言葉に、私はやっと笑顔を作る。お姉さんの紅茶。それでお姉さんのことは許しちゃう。私はお姉さんの紅茶が、大好きだから。
2012/09/14/Fri
パリの街を当て所なくさまよっていた私だったけれど、ふと洗濯をしなきゃいけない、と気づいた。日本を発ってからまったく洗濯をしていないから、洗い物がだいぶたまっている。石畳の道をキャリーケースをがたがたと引っ張りながら、私は適当なコインランドリーがないかなと辺りを見渡した。
リヨンに留学していたときも、洗濯物はコインランドリーを使っていた。洗濯機は2ユーロ50サンチーム、乾燥機は30分使うためには2ユーロ必要だ。こういうときのために小銭は用意してあるので、問題なく洗濯機を動かすことができた。というのも、フランスのこの手の機械や自動販売機は基本的にお札が使えないことが多いから。だからスーパーや何かで買い物をするときは小銭ができるように工夫しなくちゃいけないんだよね。……でも、円に両替するときは小銭を扱ってもらえないことが多いから、あまり小銭ばかりためこんでも面倒なことになるかもしれない。現に私はロンドン旅行のとき、使い切れなかったポンドやペンスの小銭が机のなかでじゃらじゃらたくさん置きっぱなしになっているのだ。いつかまたロンドンに行ったときにでも使い切らなきゃいけないって思う。
がたんがたんと洗濯機がうなる。私は椅子に座ってその様子を眺めながら、さっきまで考えていた大学一年の秋から始めた読書会のことに再び、思いを馳せる。――あの読書会は結局、学期の最後まで行い、私と友だちは休むことなく参加し続けた。英語の勉強に最適だったし、それに何より、今まで学んだことのなかった行政法の勉強は新鮮で楽しかった。友だちと一緒に授業を受ける機会も、大学に入ってから学部がちがっていたために、まずなかったから、あの講読会は楽しく感じられたのだと思う。木曜日の昼は、友だちと約束して、いつもその夜にやる読書会のテキストの訳の確認をした。そして授業に出て、そのあとは友だちとどこかで食事してから別れるのがパターンになった。
2012/09/13/Thu
後期の学期が始まって間もなく、友だちから連絡があった。話を聞くと、英語の文献の講読に参加しない?という誘いだった。なんでも大学院の授業である論文を読みたいらしいんだけど、人が集まらないらしい。でもそれって一年生の私たちでも大丈夫なのだろうか。そのことを聞くと友だちも少し不安そうな顔をしたけれど、とにかく人手が集まればあとはなんとかやるということらしい。友だちから何かをお願いされるということは珍しかったし、また英語の勉強もしたかったので、私はその読書会に参加することに決めた。
木曜日の夜、講読の行なわれる教室に友だちと連れ立っていくと、初めて会う先生が、これからよろしくと微笑して答えた。その先生は、友だちの説明によると、ロシア法の専門家で、若いころはモスクワに留学していたこともあったらしい。今回、読むのはコロンビア大学のなんとかいう先生の論文で、日本の行政法に関する内容をていねいに追っていきます、と、先生が説明する。行政法? 経済じゃないの?と、私が友だちに怪訝な視線を向ける。友だちは経済学部だったので、この読書会も経済学に関するものだとばかり、私は思っていたのだ。
すると友だちは、私も誘われた立場なのよ、――さんに。と、ばつの悪そうな顔で答えた。――さんというのはこの読書会に参加する唯一の院生の名前だった。彼女と友だちがどういう関係なのかと私は首をひねったけれど、夏休みに友だちがバイトしたお店の先輩だということを聞くに及んで、私はこの奇妙な講読会の成立の背景を理解した。友だちはたぶん無理やり参加させられて、そして人数あわせということで、友だちは私を誘ったというところなんだろう。
そうこうするうちに出席者が出揃い、先生が、学部生には単位をあげられなくて申し訳ないんだけどと、私と友だちを見て、断りを入れた。そしてさっそくテキストが配られた。各人がきりのいいところまで読んで、訳していくという形式で、私は院の授業についていけるのかなと少しだけ心配だったけれど、でも院生の――さんが実は大の英語が苦手だということがすぐに判明したので、私と友だちは思った以上に気を楽にして読書会に参加することができた。第一回目ということで先生がほとんど訳し、説明するという内容になったことも影響していたと思う。行政法にまったく無知な私と友だちは、先生と院生の人の会話をおもしろく聞いていた。
二週間に一度のペースで行なうから、無理のない範囲で参加してくださいと、授業の終わり、先生が私と友だちにいった。私は、英語の勉強になりますからがんばってみますと返事すると、先生は、よろしくお願いしますねと微笑み、友だちも安心したようにほっと息をついた。……今となっては、この論文で覚えたはずの法律関係の英単語はほとんど忘れちゃったけれど、この読書会は私が初めて参加した本格的な読書会だったから、今でもよく記憶に残っている。楽しい体験だった。
2012/09/12/Wed
カレー、カレー、セ・ラ・グルマンディーズ! ――細かなバイトをこなし、その合間にお姉さんと一緒に図書館で勉強をして過ごし、やがて秋の気配が近づいたころ、お姉さんの大学院の合格通知が届いていた。喜びに湧いたお姉さん。……そんなお姉さんに連れられて、今日はお姉さんおすすめのすごくおいしいカレー屋さんで食事をする予定だった。前を歩くお姉さんは、苦しみのひとつからようやく解放されたといわんばかりに陽気にセ・ラ・グルマンディーズ!と口ずさんでいた。それってフランス語?と私が聞くと、お姉さんは、うん、そうだよ。あれ、いってなかった? 私もフランス語は一年のとき習ったの。でも初級だけだから、――のほうができるよね。と、いった。
今から行くお店はおいしいからね!とお姉さんが明るく笑う。私はちょっとはにかんで、お姉さんのカレーもすごくおいしいと思うけど、と答えた。するとお姉さんはくるりと振り返り、たまには外食も大切なんだよ。味覚の勉強になるからね。と、いった。私はそんなものなの?と不思議に思った。お姉さんはそうなのです!と胸を張った。
院試も終わったからどこかに遊びに行こうか? 今年の夏はどこにも遊びに行けなかったもんね。――にも悪いことしちゃったね。せっかくの夏休みだったのに……と、お姉さんがいい、それから、――海に行こうか、あ、でももう秋だね、海はないね、山とか? もう紅葉は始まっているのかなぁ……温泉とかもいいよね! ……いいね、温泉、素敵……と、お姉さんはひとりうっとりしている。……でも、私がお姉さんにいう言葉は決まっていた。お姉さん、卒論、あるでしょ。
……――ちゃん、ちょっと意地悪だね、とお姉さんはじとーっとした視線をうらめしそうに向けてきた。……でも私は負けない。――お姉さん、がんばって卒論やらなきゃ、だから……と、私がいうと、お姉さんは私の頭をぽんと叩いて、わかっている。……――ちゃんに応援されるんだから、がんばんなきゃね。といって、にこっと笑った。……お姉さんのこういうところ、私はずるいと思う。お姉さんはかわいかった。
そういえば、――さんは夏休みどうしてたの?と、お姉さんが友だちの名前をいった。私は、友だちはいろいろバイトをがんばっていたみたい、今はビアガーデンで働いているって、と説明した。お姉さんは、――さんはお父さんとマンションに住んでいるんだよね。たくさんお金が必要……ってわけでもないよね、と、首をかしげた。それに対し、友だちはけっこうお嬢様だからお金が急に入用だということはないと思う。なんだか社会勉強のつもりでいろいろなバイトをしているんだって、と、私は返事した。お姉さんは、へえすごいね、と感心したようだった。
……カレー、カレー、セ・ラ・グルマンディーズ! カレーを食べたあとはカフェでお茶しよう。それから私の部屋に行って、お酒を飲もう。合格祝いにちょっと高いワインを買ったんだ。――あ、でも――はまだお酒飲めないね。どうしようか? ……お姉さんのその質問に、私は、紅茶がいい、と答えた。――紅茶、紅茶……それもいいね、とお姉さんは微笑した。......C'est la gourmandise. Je suis contente. C'est mon bonheur...
2012/09/11/Tue
目が覚めると、もう10時を過ぎていた。ひどい寝坊。……いや、いつもの私のだらしなさを考えれば、10時過ぎに目覚めることもそうおかしなことじゃないかもしれない。でも旅行中で、しかも昨夜は21時にはベッドでごろごろしていたんだから、いくら私でも寝すぎというものだ。……疲れていたのかな、と思った。旅行というのは疲れるもの。列車での移動も重なって疲労が濃かったのかもしれない。
簡単に身支度を済ませて、階下へ降りる。当然、すでに朝食は終わっている。パンとお茶だけの朝食だろうけど、やっぱりいくらか損した気分になる。自動販売機でコーヒーを買って、それを片手に椅子に座る。……今日はどうしよう。どこに行こう。
もともと目的のない旅だ。私はただ逃げ出したいから日本を飛び出したんだ。考え事がしたいから、放浪しているだけなんだ。考えることは過去のこと。今の私を形づくった私の記憶を、私の思い出を、私は見つめなおしたいから、旅行している。フランスに来たのはただその口実を得るだけだったのかもしれない。
なら、どこに行ってもいい。――オーベルジュをチェックアウトした私は、とりあえず果物屋でりんごを買った。りんごの表面を裾でぬぐって、そのままかじる。――留学して以来、大抵の果物は皮ごと食べるように変わった。それがいいことかどうかはわからない。よくもわるくもないことだろうって思う。ただりんごのみずみずしい食感と酸味が、私の気持ちを和らげてくれる。そしておぼろげな過去の光景へと、私の意識を集中させていく……
2012/09/10/Mon
今までバイトをしたことがなかった私に旅館はなかなか大変なお仕事だった。……洗い物が終わると夕食の支度が始まる。でももちろん私に調理の手伝いなんてできるはずがなく、盛り付けの仕方を習い、そのとおりになんとかきれいに食器を並べようと奮闘する。そのあとは料理の盛ったお膳を持って、お部屋に運ぶよういわれる。けれど、三段も四段も重ねたお膳を持つなんていうのは初めての経験だ。もし転んだりしたら目も当てられない悲惨なことになって、お金をもらえないなんてことになるかもしれない。そうなったら惨事だ。慎重に運ぼう。……でも、なんか、重い。重い。ふらつくかもしれない。いけない。私も腕力を鍛えなきゃ……階段が狭い、きつい、傾斜がきつい……転びそう……転んじゃだめ……やばい、かも……。
……なんとかお膳を運び終えると、お客様のお部屋に行って、布団をしかなきゃいけない。私はこのバイトでひとりでもお布団のシーツをぴしっときれいに敷く方法をマスターした。その方法は大したものじゃないけど、言葉で説明するのは難しいのでここでは詳しく説明しない。でもそれでいいよね。大したことじゃないし。ほんとに。
夕食の片付けもある。洗い物を私はまたお願いされた。任された。……そしてすべてが終わり、温泉に入る。温泉に入れるというのがこのバイトの役得だ。私と一緒でバイトで来たという人と一緒に温泉に浸かった。大変なバイトですね、といってお互いに笑った。
夜は従業員の休憩室に布団を敷いて眠るよういわれた。休憩室には古い漫画と、なんだかよくわからない……名前を知らない、なんだろう? ゲーム機かな、四角い携帯ゲームがあって、正直もうやれることはなかったので、早く寝たかった。明日の朝も早い。……つらい、と思った。……逃げちゃおうかな。怠惰な自分との決別、普段の自分のイメージとはちがうことをしてみよう!と思ったはいいけれど、思った以上に大変だった。もういいや、逃げよう、友だちもたぶん今ごろ後悔しているはず……と、私は考え、逃げるために窓を開けた。すると硫黄の香りが漂ってくる。けれど、それ以上に私を驚かせたのは、窓から見える景色の暗黒さだった。……それはそうだ。ここは山のなかだ。外灯なんて十分にあるわけない。真っ暗闇だ。そして辺りは岩肌だ。もし迷ったりしたら固い岩肌で転んだりして全身ぼろぼろになって、硫黄の煙に巻かれるかもしれない。いやきっとそうなると思う。大体、バスだってもう出ているわけない。するともし逃げたりしたら、私は岩にぶつかって、硫黄の煙で死ぬかもしれない。なんてことだろう。死にたくない。温泉旅館で死んじゃうなんて、すごく悲惨だ。……私は逃走をあきらめて、布団に包まって、寝た。
二日後、私はくたくたになって帰路についた。目に隈ができて、髪もなんだかぼさぼさだった。友だちもなんか似たような状態だった。お姉さんはそんな私と友だちの姿を見ると、大笑いした。私はちょっと憤懣やるかたなかった。
2012/09/09/Sun
どこでバイトするの?と友だちに聞くと、焼肉屋、と友だちが答えた。私は、もしかして飲食業?と驚きの声を出した。本当に驚いた。お嬢様で、私より頭ひとつ分小さくて、高校時代もいろいろな習い事で忙しかった友だちが、飲食業なんて、なんか似合わない。……でも柔道だか合気道だかで鍛えた腕力は私以上なんだから、あれ? 意外と向いていないってこともないかもしれない。いや、どうなんだろう……?
あんたなんか失礼なこと考えてんじゃないでしょうね、と、沈黙した私に友だちがじとっとした視線を向けた。慌てて私は、そんなことないよ。でもなんで焼肉屋さん? なんかイメージ湧かないけど……というと、それよ。と、友だちが頷いた。飲食店で接客業をするって、私の今までのイメージじゃないじゃない? だからあえてするのよ!と、いった。
私は何がなんだかよくわからなかったけど、たぶん友だちは大学に入ったので、新しい世界に挑戦したい気持ちになったんじゃないかって推理した。それじゃ、私も友だちの真似をして、今までのイメージから脱却を図るためにも、バイトしてみよう!と、思った。怠惰な私からの脱出、進化を目指してみよう。とりあえず、旅館で働いてみよう。私、温泉好きだし、たぶん楽しいかも。
――そう考えたのが失敗だった! すごく失敗だった! 過ち、まちがいだった! ……バスを乗り継いで、山の奥まで来ると、そこは硫黄の香りがする温泉街だった。旅館がちらほらと建っている。私が働く旅館はバスから降りて十五分ほど歩いたところにあり、さっそく向かうと、開口一番、それじゃこの服に着替えてねと、着物を渡され、いそいそと身支度をする。こういった和服を身につけるのも久しぶりかな、なんだか去年の夏祭りを思い出すかも……とわくわくした気分になっていると、厨房に連れて行かれ、じゃさっそく洗い物お願いねと、目の前には大量の洗い物があった。……バイトだ、さあがんばろう!
2012/09/08/Sat
――一途過ぎて、不安になる、と、友だちは私にいった。……友だちのその言葉は、果たして、的外れなものだったろうか。――オーベルジュのベッドに横になって、薄汚れた壁を眺めながら、私は考えた。今回は六人部屋に泊まることにしたんだけれど、幸いなことに今の時間は私のほかにだれもいない。薄い壁を挟んだ向かい側の部屋からは、賑やかな声が聞こえてくる。たぶん、さっきキッチンで見た旅行客の集団の会話の声かなと思う。……まだ寝るには早い。けれど、列車の移動の疲れもあってか、これからまた何かをする気力はなかった。ごろごろとシーツに包まり、私は目を瞑る。そして大学一年の夏を思い出す……
――夏休み。院試が近いお姉さんは毎日のように図書館で勉強をしていた。お姉さんの専門は教育学で特に英語を専攻していた。でも、お姉さんが英語が得意だったかというと特にそれほど英語に自信があったというわけでもなかったみたい。院試は専門科目ではそれほど差がつかなくて、語学が鍵だからといって、お姉さんは英語の論文の読解をがんばっていた。大学生になったばかりの私は当然、大学院に入るための試験がどういったものかをよく理解していなかったから、そういうものなのかと思って、ただお姉さんの説明や勉強の話を頷いて聞くばかりだった。
友だちはバイトでしばらく忙しい。私も友だちに教えてもらって、短期のバイトをいろいろやってみることにした。そしてバイトのない日はお姉さんと一緒に図書館で勉強することが多かった。――ごめんね。せっかくの夏休みなのにあんまり遊べなくて……と、図書館で隣に座ったお姉さんが小声で私に申し訳なさそうにいった。それに対して、私は首を横に振り、お姉さんと勉強するのも楽しいから、と返事した。受験が終わったばかりなのに?とお姉さんが不思議そうに聞く。私は、うん、と答え、お姉さんは、何を勉強しているの?と尋ねる。私は、フランス語と返事する。お姉さんは、そういえば、外国語はフランス語にしたっていってたね。なんで? 理由あるの?と聞く。私は、あみだで決めた、と答える。お姉さんは、あみだ?と怪訝な顔をする。うん、あみだ。
あみだで選んだというと大抵の人は怪訝な顔をする。でも私にしてみれば、そんなに理由のない不思議な話じゃない。私は昔から読書がそこそこ趣味で、特にヨーロッパの翻訳小説をよく読んでいた。その影響でなんとなくドイツ語かフランス語を勉強したいなって考えていた。それで、ドイツ語かフランス語のどちらかを選ぼうと思ったとき、どちらでもいいかな、と思った。だからあみだで決めた。たったこれだけの理由。実に合理的。
お姉さんが英語の論文に涙目になっている横で、私はフランス語の初級の文法書を黙々と進めた。とりあえず、わからない単語を全部辞書で引いて、スペルと訳をノートに書いていった。そんな私の様子をちらちら見ていたお姉さんが、明日から――はいないんだよね?と尋ねる。うん、と私が答える。しばらくバイトで温泉旅館に行くことになっていた。
2012/09/07/Fri
寝坊や遅刻は多かったけれど、大学一年のとき、私はけっこうまじめに学生をやっていたんじゃないかって思う。前学期が終わったとき、私は試験をそれなりの調子で乗り越え、課題のレポートも過不足なく提出し終わっていた。たぶん単位も問題なくもらえるはず。友だちも私のその様子に驚いていた。私自身も驚いていた。怠惰なあんたなことだから、きっと悲惨なことになると思っていたんだけど、と、喫茶店で私と向き合った友だちはどこか残念そうにそんなことをいった。ひどい言い草だと私は思ったけれど、でもこれはたぶん、お姉さんの存在が大きいと思うと、私は答えた。お姉さんとごはんを一緒に食べることが多いから、自然に規則正しい生活になるんだと思う、と私は続けた。
お姉さんの部屋にいることが多いの?と友だちが尋ねる。私は、最近はお姉さんが私の部屋にいることが多いかも、と答えた。お姉さんは今、四年で、授業はほとんどないらしい。お姉さんは院に進学するから研究室にはよく顔を出しているけれど、お姉さんと同期の人はもうあまり学校に来なくて、お姉さんはけっこう寂しいらしい。お姉さんはよく図書館で勉強しているって、と、私は友だちにそんなことを説明した。
卒論もあるし大変でしょうね、院試は夏だっけ? もうすぐね、と、友だちがいう。私はうんと頷いた。
みーんみーんとセミが鳴いている。私は友だちに、夏休みはどう過ごすの?と聞く。友だちは、ちょっとバイトをやってみようかと思って……と答え、それから、……でも、あんたやお姉さんともいろいろ遊べたらいいでしょうね、といった。すかさず私は、お姉さん、週末にでもお酒を飲みに行こうっていってたよ、と友だちに教えた。友だちは、いやあの人とお酒はね、大変だから……と、ごにょごにょと言葉を濁した。私はにやにやした。
はあとため息をつき、友だちは、それからどこかしんみりした口調で、こんなことをいった。――けれど、あんたとお姉さんが上手くいっているようで、よかった。……本心よ? ……ほら、あんたを見ていると、一途すぎて、どこか不安になることがあったから。……いや、昔の話ね、もう。あんたとお姉さんはもう恋人同士なんだから。変なこと、いっちゃった。……ごめんね、今の私の言葉は忘れて。大した意味もないから。
2012/09/06/Thu
キスしないの?と、私の手に自身の手を重ねて、お姉さんが私にささやいた。――お姉さんの部屋、食事のあと、私が用意したハーブティーを飲みながら会話に興じて30分も過ぎたとき、お姉さんが不意に、けれどさり気なく、私に身を寄せた。……この前は――からしてくれたのに、無理やり。と、お姉さんの大きな瞳が私を射抜く。――私はお姉さんから目を逸らした。するとお姉さんは慌てて、あ、怒った? ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど……と、声を落とした。それに対し、私は、ううん。そんなじゃないの。と、言葉を返す。……もちろん、私はお姉さんが冗談でいっていることはよくわかっていたんだけれど、ただそのときにおいても、私はお姉さんに強引に迫ったあの高校三年の冬の日のことをなかなか割り切れないでいた。……対照的に、お姉さんはそのときのことをほとんど気にも留めていないようだった。――お姉さんが私を背中から抱きしめる。お姉さんの重みが肩に感じられる。
私は、お姉さんは、恋人とか、いた……?と、お姉さんの存在をごく身近に感じながら、無意識のうちに尋ねていた。お姉さんはその私の質問に、……高一と、大学に入ってから、二年のとき、かな。でもすぐに別れちゃった。……何もいわなかったの、怒っている?と、答えた。――私はお姉さんに恋人がいたことを知らなかった。いや、あえて聞こうとしなかっただけかもしれない。私は臆病だから。……――はどうなの? ……――はかわいいから、もてるでしょ、と、お姉さんは私に聞いた。……私はただ首を横に振る。
本当に?とお姉さんが意表をつかれたような声を出す。……私はもてないよ、と、私は小さな声で答えた。するとお姉さんが私の頭をぽんぽんと叩く。そんなことない、――ちゃんが人気ないなんてことあるわけないじゃない、とお姉さんはいう。私は、……ちゃんづけはやめてっていっているのに、と、お姉さんに不満の声を洩らした。すると、お姉さんはくすっと笑って、私をぎゅっと抱きしめる。――私が恋人と長続きした試しがないのは、――ちゃんのことがいつも頭にあったからかもしれないよ?と、お姉さんは掠れるような声で、ささやいた。
――長いキスをして、抱き合う。それから、初めてのセックスをした。……事の最中、私は、お姉さんが私のことをちゃんづけする理由を考えていた。私がお姉さんに、ちゃんづけはやめて、と初めていったのは、私がまだ中学生のときだ。たぶん、私は年上のお姉さんに子ども扱いされるのが嫌で、そんなことをいったんだと思う。それからお姉さんは私のことをちゃんづけすることはなくなったんだけど、ふと気を抜くと、お姉さんは私を――ちゃんと呼ぶ。お姉さんが甘えたいときや寂しいとき、そして、たぶん、何か大切なとき、お姉さんは私のことを――ちゃんと呼んだ。だから、私の頭に浮かぶお姉さんは、今このときも、私がお姉さんとの記憶を思い起こしているこのときも、――ちゃんと、私を呼んでいる。
……セックスのあと、お姉さんは私に抱きしめてほしいといった。私はお姉さんを両腕で抱き、お姉さんが眠りにつくまで、お姉さんの横顔を眺めていた。お姉さんは私に抱きしめてもらいたがった。お姉さんは、どこか寂しそうに、私には見えた。
2012/09/05/Wed
お姉さんは料理が趣味だった。気晴らしになるから好き、とお姉さんはよくいった。眠れない夜、たまにお姉さんはかちゃかちゃとキッチンでお菓子作りをすることがあった。料理するのが気晴らしになるの? 面倒くさくない?と、私がお姉さんに質問すると、お姉さんは朗らかに、料理している間は何も考えないでいいから、と答えるのだ。お酒もそう?と私が続けて聞くと、お姉さんはうーんとしばらく考えてから、そうかもしれない……うん、たぶんきっとそうだね、と、苦笑して返事した。
そんなお姉さんの料理のご相伴に与るのが私の常だった。もちろん悪い気はしない。むしろすごくうれしいかも。お姉さんも自分の作った料理を食べてくれる人がいるのはうれしいといった。その言葉はなんだかすごい殺し文句だったんじゃないかなって私は思うんだけど、でもお姉さんはごく自然にそんなことを口にするのだ。お姉さんにはどこかそんな無邪気なところがあった。
――も料理上手いよね、とお姉さんは私にいう。私は、レシピどおりにやればそれなりにおいしいものできるけど、でもそれは料理が上手いってことになるのかな、と呟いた。そんな私の疑問にお姉さんは、そんなことないよ、レシピどおりに作れるってことは料理ができるってことだよ、といった。……でもせっかくお姉さんがそんなふうに私をほめてくれても、元来、怠け癖のある私はあまり凝った料理をしなかった。面倒くさくてパスタや缶詰で簡単に済ますことが多かった。フランスに来てもそうだった。自分の料理より、お姉さんの料理を食べることのほうがずっと多かったかもしれない。
料理が気晴らしなお姉さんは、私の部屋でもよく料理をすることが多かった。私の部屋の冷蔵庫にお姉さんが買った食材がいろいろ入っていた。そのうち、自然にお姉さんは私の部屋の合鍵を持っていたし、私もお姉さんの部屋の鍵をひとつ持っていた。それは意識してのことというより、自然の成行のようだった。友だちはそんな私たちの付き合いを、半ば呆れて、半ば感心して、眺めているようだった。
2012/09/04/Tue
フランスのスーパーではいろいろな缶詰が売っている。シチューやパスタなんかを詰めたものもあれば、兎の肉の缶詰もある。――その夜、私は兎肉のシチューの缶詰を買ってきた。フランスで暮らしていたときも料理が面倒なときは調理が簡単な缶詰をよく食べていた。鍋で温めるだけなので何も考えずにできる。味もそこそこおいしい。兎のシチューはとりわけ味がいいので好んで食べていた。……兎のシチューだと、フランスの友だちのこんな言葉を思い出す。曰く、兎はかわいくておいしいから大好き、というもの。……かわいくて、おいしい。まったくそのとおり。でも残酷。けどそれを残酷というのも人間の傲慢というものかもしれない。……友だちのその言葉に、私は、人間の矛盾というものだねといって、笑った。C'est une énigme ! ――でも、実際はそんなのは矛盾でも謎でもなんでもないのかもしれない。かわいくて、おいしい。まさしくそのとおりだ。普通の感性だ。
シチューとバゲット、そしてパックの野菜サラダを買ってきた。席に座って、ぱくぱくと食べる。奥の席ではアメリカ人と思しい若い男性の二人連れが大鍋で作った大盛のパスタを豪快に食べている。その隣のテーブルでは男女四人組がポテトチップをつまみながら、ビールを飲み飲み、何やら大声で談笑している。英語だ。これもアメリカ人っぽい。……その手前の席ではブロンドの女性がひとり、ノートパソコンを開いている。ちらっと見るとtwitterの画面だった。……そして私の向かいの席では、年配の男性が、パンをナイフで切って、そこにハムや野菜をはさみ、もぐもぐと食べていた。それからその紳士は赤ワインを買い物袋から取り出すけれど、どうやらコルク抜きが見当たらない様子。すると、ふと私の視線に気づいたのか、コルク抜きを知りませんかと私に質問された。フランス語だ。英語でない。地方から来た人かな、と私は思いながら、コルク抜きがないかキッチンのなかをあれこれ見渡す。でも見つからない。するとオーベルジュの受付の人が、コルク抜きは受付で貸し出しているんですよと声をかけてきた。紳士はその人からコルク抜きを受け取り、ありがとうという。私に対しても、丁寧に礼をいってくれた。
赤ワイン……、赤ワインか……。……お姉さんはワインが好きだった。赤は男性が好んで、白は女性が好むんだってと、お姉さんはいつかそんなことをどこかのバーでグラスを揺らしながら、上機嫌に説明した。本当かな、と私が疑う。ふふ、どうでしょう?とお姉さんが微笑する。……お姉さんとは入学式の夜から、何回も何回も飲みに行った。無理やり連れて行かれたことのほうが多かったと思う。お姉さんはいつもひとりで盛り上がって、そしていつもひとりで悲しくなって泣き始めて、ついにはダウンして、そんなお姉さんを私が抱えて帰るのが、本当に、いつものパターンだった。――お姉さんはお酒が好きだったのかな、と私は少し疑問に思う。お姉さんは明るい人だった。強い人だった。……だから、もしかしたら、お酒を飲まなきゃ弱くなれなかったのかもしれない。愚痴をいったり、弱音を吐くために、お姉さんにはなんらかの助けが必要だったのかもしれない。私はそのことに気づけていただろうか。私はどうすべきだったんだろう。お姉さん、ねえ、お姉さん……
2012/09/03/Mon
あの夜のことは今でも鮮明に覚えている。……入学式の夜から新入生二人を明け方まで連れまわしたお姉さん。けっこう滅茶苦茶。そして別れ際、飲みすぎて気持ちわるくて前後不覚になっている状態なのに、泊まっていかないの?と私を誘ったお姉さん。たぶん、お姉さんはずっと前から私をその夜、部屋に招待するつもりだったんだろうな。でもだったらあんなふうにひとりで飲みつぶれちゃいけない。けれど、お姉さんはそういう人だった。なんていうか、お姉さんはけっこうだめな部分のある人だった。……いや、ちがうかな。お姉さんは私や友だちの前ではだめな部分を隠そうとはしなかった。私はそれがうれしかったし、またちょっと困ったりもした。それは友だちも同じだったろうと思う。
――Aubergeというのは「宿屋」とでも訳せばいいのだろうか。でもユースホテルというのがわかりやすくていいと思う。とても安い値段で泊まることのできる場所だけど、ホテル並みのサービスはなく、集団部屋でベッドだけを割り振られる。もちろんシャワー・トイレは共有。でもそれで問題ない。ここはフランス。そんなのは慣れている。
でも初めてオーベルジュに泊まったとき、驚いたのは、集団部屋で男女の差が考慮されていないってところだったろうか。日本の感覚だと、五、六人泊まる集団部屋は普通男女別になっているんじゃないかって考えるかもしれないけれど、オーベルジュではそういったことは特に意識されてない。だから何も知らないでいると、けっこう戸惑うことがあるんじゃないかなって思う。
サービスや質は期待しちゃいけない。朝食は出るらしいけど、それも別に期待してない。夕食はどこかで食べてくるか、自分で作らなきゃいけない。共同のキッチンが用意されている。――レストランで食べてもよかったけれど、その夜、私は自炊することにした。すでにフロアには数人の人が食事している。いそいそと私は鍋を見つけ出し、買ってきた缶詰を温め始める。
2012/09/02/Sun
三軒目のジャズバーでお姉さんは泣き出した。……先生がね、君の発表は散漫だっていって、もっとテーマを絞り込まなきゃいけないっていって……でも私はがんばったんだけど……やっぱり私、英語が苦手で文献読むのが遅くて……うう……といって、店内を流れるジャズの響きにお姉さんのすすり泣きが混じって、異様な雰囲気になっていた。お姉さんは涙を流し、嗚咽しながらも、その間にグラスワインを一杯、二杯と立て続けに空にして、一方、私と友だちはそんなお姉さんを前にしながらもすでに疲労は頂点に達し、また大音量で流れるジャズの演奏が私たちの脳みそをぐちゃぐちゃにかき乱していたのだった。
……もう私帰る……二時を過ぎているじゃない……眠い……帰る……つらい、つらいから……と、友だちがふらふらと席を立つ。……待って、私を置いていかないで、と、危機感にとらわれた私が友だちに手を伸ばす。でも友だちは無慈悲にも私の手を振り払い、あんたのお姉さんなんでしょ……! 恋人だってなら最後まで責任持ちなさい……!と私を突き放した。……ひどい、ひどすぎる。私だって、お酒を飲むとお姉さんがこんなに面倒くさい人になるなんて知らなかったんだから。お姉さんを見捨てることはそれはできないけど、でも私も今日は朝から入学式で気が張り詰めていたし、もう疲れてくたくただった。ここで友だちに帰られたら、私はどうなるっていうんだろう。帰っちゃだめ! ――私は友だちによりすがった。しかし友だちは無情だった。五千円札を私に握らせ、お釣りは返しなさいよ!と叫んで、友だちはふらふらと壁にぶつかりながら店を出て行った。薄情者! 私は声にならない声で叫んでいた。
ひとりで盛り上がって、ひとりで泣いて、そしてひとりで酔いつぶれたお姉さんを肩に支えて、私は夜の通りを歩いた。もう三時を過ぎているから、夜というより明け方かもしれない。入学初日から朝方までお酒を飲むなんて、これが大学生というものなんだろうか。でも私は一滴もアルコールを飲んでないけど。――お姉さん、しっかりして……。でもお姉さんは青白い顔をしたまま微動だにしない。……ここからならお姉さんのアパートのほうが近い。そう思った私はお姉さんを引きずり、お姉さんの部屋へ向かった。
意外と重いお姉さん。あとでしらふのときにお姉さんに文句いってやろう。……部屋の前までたどり着くと、お姉さんはうめき声をあげながら、鍵を取り出し、扉を開けた。――それじゃ私帰るね、と私はお姉さんに向かっていう。するとお姉さんは真っ青な顔をしながらも、泊まっていかないの……?と意外そうな声を出した。私はその言葉に不意をつかれた思いがしたけれど、でもさすがにこんな状態のお姉さんの部屋にお世話になるわけにもいかない。私はお姉さんを部屋に押し込んで、帰路についた。朝の空気のにおいがした。
2012/09/01/Sat
お姉さんが予約したというお店は南欧系の料理を振舞ってくれるというアーケード街に位置するお洒落なお店だった。飲み放題を三人予約してあるからね!とお姉さんは明るくいった。でも今日は二人の入学祝だから一軒目は私がおごったげる!とお姉さんは胸を張っていった。……一軒目?と友だちが首をひねった。私も心のなかで不思議に思った。いろいろなお店に行くつもりなのだろうか、お姉さんは。
それに飲み放題といっても私と友だちはどうみてもまだ未成年だ。大丈夫だよ!とお姉さんがいう。友だちが、いやどう考えてもだめです、と冷静に返事する。するとお姉さんは、そうだね、それじゃ私だけ飲むね、ごめんなさい、といって、ビールを頼んだ。一杯目をお姉さんは二十秒で飲み干した。私と友だちはお姉さんが三杯目を飲み終えるときにようやく一杯目のウーロン茶を飲み干した。
――さんはどこに住んでいるの?とお姉さんが友だちに尋ねる。友だちは、お父さんの使っているマンションの部屋を使うことになりました。もともと部屋が余っていてもったいなかったし……と、答える。お姉さんは、それじゃお父さんと二人暮らしなんだ、という。友だちは、でも父は仕事でよく外に出ているし、週末には母も顔を出すっていっていますから、あまり生活環境が変わったって実感はないですね、と返事する。
――の部屋は私のアパートの近くなんだよね、いっぱい遊べるね!とお姉さんが赤ワインを片手に元気にいう。私は、うん、いっぱいお姉さんと遊びたいとうれしくなって笑顔でいう。あははと笑って、お姉さんはカシスなんとかというお酒を新たに注文していた。友だちがその様子を見て、――さんはお酒に強いのねとぼそりといった。私もお酒好きなお姉さんというのは想像したことがなかったので、ちょっと驚いていた。でも友だちやお姉さんとこんなふうに夜、お店で食事をしているというのは、今までにない体験で、それは私に大学生になったということと、これからはこんなふうにお姉さんや友だちと一緒に遊べるんだという思いを与えてくれて、すごくうれしかった。
それじゃ次のお店に行こう!と、お姉さんは高らかに宣言した。……明日、学校はあるの?と私が友だちに聞くと、オリエンテーションかなんかがあったはずと友だちが小声で答える。けれどお姉さんは私と友だちの手を引っ張り、さあさあとこの上なく陽気に夜の街を闊歩する。