小林秀雄『ドストエフスキイの生活』
2013/01/03/Thu
Kayo
相も変わらず、『悪霊』を読んでいるのだけど、それに関連して、ふと小林秀雄のドストエフスキー論を読み返したくなった。ぱらぱらと目に入った箇所を読んだだけだから、このエントリもほんの備忘のような内容になるんだけど、まず思ったのは、小林秀雄の文章というのはヴァレリーのよう、というもの。これは私にヴァレリーをほんの少し、フランス語で読んだ経験ができたからなのかもしれないけれど、今の私には小林秀雄の書き方はなんとなくヴァレリーを想起させる。もちろん、どこがどうと指摘できるものでなくて、本当に感覚的にそう感じただけなのだけど、なんでかな、これは。ただ、そうはいっても、ちがいというものは厳然としてあるわけだけど……
Nadja
小林秀雄が取り上げているような問題をヴァレリーは取り上げない。というのも、おそらく、ヴァレリーは詩人であるからでしょうね。職人といってもいいかもしれないけれど、小林秀雄の扱う領域に、ヴァレリーは決して進まないでしょう。それはつまりドストエフスキー論のような世界には。
Kayo
閑話休題。さて、それで、この『ドストエフスキイの生活』で気になった箇所のひとつは、カラマーゾフ論のところ。特にフョードルに関するところかな。小林はこういう、
「ドストエフスキイは、これまでに滑稽な様な無気味な様な、単純な様で複雑な様な、正直でもあり狡猾でもあるような、例えば、「白痴」のレエベヂェフとか「永遠の良人」のトゥルソツキイとか、一種名状し難い無慙な酔漢を幾人も描いて来たが、作者自身の言葉に従えば、この「独特な国民的な、要するに何んといっていいか訳のわからない」人間のタイプは、フョオドルに至って極まったと言っていい。獏としている様で実はまことに細心な作者の描写力に捕えられ、読者はいつの間にか、この醜悪な道化の動かし難い力の前につれて来られている。カラマアゾフ一家は、ロシヤの大地に深く根を下している。その確乎たる感じは、ロシヤを知らぬ僕等の心にも自ら伝わる。大芸術の持つ不思議である」
小林秀雄『ドストエフスキイの生活』
たしかにフョードルのような人間がどうして生まれるのか、どうやってこういった人間を考えられるのか、あるいは出会えるのか、よくわからない。ただ、フョードルにある人間の頑丈さといったものには何か圧倒される感覚を覚えるし、イヴァンもまた、どうしようもなく生活したいっていう欲求をアリョーシャに告白している。ひどく興味を引かれるところかな、ここは。
Nadja
古いロシア文学の入門書も少し覗いてみたけれど、ドストエフスキーについての欄では、ドストエフスキーの登場人物たちは皆、観念の具象化である、と書いてあったように記憶している。しかし、ドストエフスキーの作品が極めて観念的であることは疑いえないことなのでしょうけど、ただ何か引っかかるというか、単純に観念的といって済ませていいのかどうか、はてさて、何か考えてしまう。なぜかしら。
小林秀雄『ドストエフスキイの生活』
相も変わらず、『悪霊』を読んでいるのだけど、それに関連して、ふと小林秀雄のドストエフスキー論を読み返したくなった。ぱらぱらと目に入った箇所を読んだだけだから、このエントリもほんの備忘のような内容になるんだけど、まず思ったのは、小林秀雄の文章というのはヴァレリーのよう、というもの。これは私にヴァレリーをほんの少し、フランス語で読んだ経験ができたからなのかもしれないけれど、今の私には小林秀雄の書き方はなんとなくヴァレリーを想起させる。もちろん、どこがどうと指摘できるものでなくて、本当に感覚的にそう感じただけなのだけど、なんでかな、これは。ただ、そうはいっても、ちがいというものは厳然としてあるわけだけど……
Nadja
小林秀雄が取り上げているような問題をヴァレリーは取り上げない。というのも、おそらく、ヴァレリーは詩人であるからでしょうね。職人といってもいいかもしれないけれど、小林秀雄の扱う領域に、ヴァレリーは決して進まないでしょう。それはつまりドストエフスキー論のような世界には。
Kayo
閑話休題。さて、それで、この『ドストエフスキイの生活』で気になった箇所のひとつは、カラマーゾフ論のところ。特にフョードルに関するところかな。小林はこういう、
「ドストエフスキイは、これまでに滑稽な様な無気味な様な、単純な様で複雑な様な、正直でもあり狡猾でもあるような、例えば、「白痴」のレエベヂェフとか「永遠の良人」のトゥルソツキイとか、一種名状し難い無慙な酔漢を幾人も描いて来たが、作者自身の言葉に従えば、この「独特な国民的な、要するに何んといっていいか訳のわからない」人間のタイプは、フョオドルに至って極まったと言っていい。獏としている様で実はまことに細心な作者の描写力に捕えられ、読者はいつの間にか、この醜悪な道化の動かし難い力の前につれて来られている。カラマアゾフ一家は、ロシヤの大地に深く根を下している。その確乎たる感じは、ロシヤを知らぬ僕等の心にも自ら伝わる。大芸術の持つ不思議である」
小林秀雄『ドストエフスキイの生活』
たしかにフョードルのような人間がどうして生まれるのか、どうやってこういった人間を考えられるのか、あるいは出会えるのか、よくわからない。ただ、フョードルにある人間の頑丈さといったものには何か圧倒される感覚を覚えるし、イヴァンもまた、どうしようもなく生活したいっていう欲求をアリョーシャに告白している。ひどく興味を引かれるところかな、ここは。
Nadja
古いロシア文学の入門書も少し覗いてみたけれど、ドストエフスキーについての欄では、ドストエフスキーの登場人物たちは皆、観念の具象化である、と書いてあったように記憶している。しかし、ドストエフスキーの作品が極めて観念的であることは疑いえないことなのでしょうけど、ただ何か引っかかるというか、単純に観念的といって済ませていいのかどうか、はてさて、何か考えてしまう。なぜかしら。
小林秀雄『ドストエフスキイの生活』