「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 〔新編〕 叛逆の物語」感想
2013/10/31/Thu
Kayo
すっかりブログのほうはご無沙汰。かったるくて毎日書いていられない? それを思うと、昔の私はなんてえらいんだろう。自画自賛。
Nadja
2013年にもなって対話ブログを更新する気になるとは思わなかったけれど。はてさて。
Kayo
気合いだ! ……さておき、まどかマギカの劇場版を観たので簡単に感想を記しておきます。
そもそも、私はこの作品にさほど関心があったわけじゃなくて、スピンオフや関連作品の類はほとんどチェックしていない。皆無といっていいかも。なので、この映画の存在もtwitterで人に聞いて初めて知ったくらいで、私のまどかマギカに関する知識はテレビ版のそれしかない。しかも、一回しか観ていないので大分記憶も薄れている。
けれど、結論からいうと、非常に楽しめました。いいようのない、なんだか謎な満足感がある。これが不思議。twitterでは、レズのレズによるレズのための映画とか、クレイジーサイコレズがいかなるものか理解できてうれしいとか、わけのわかんないこと書いちゃっているけど、でもこれはある理由がある。それは何かっていうと、私はこの映画を恋愛物語だなって感じた。しかもそれは片思いの物語、強烈な片思いの苦しみをつづった作品という印象を受けたから。
Nadja
一見して物語は非常に複雑なように見える。何重にも入れ子構造を形成しているように思える。だが、それは本質ではない、と。
Kayo
そうだね。どんな世界なのか、どういった舞台なのか、とてもわかりにくい。それは登場人物も同様で、そこが序盤の物語を牽引する力になっている。やがて、ほむらとキュウベエの対話で世界観の説明がされるわけだけれど、これもものすごく理解しにくい。テレビ版でもそうだったけれど、こういった重要な話が会話で延々と語られるので、どうしても冗長になっちゃうし、少し間が抜けちゃうようにも思える。この点はまどマギで私が苦手とする点かなって思う。ただ、ある一点に気づくと、本作は世界構造が問題なのではない、少なくとも本質ではないんじゃないかなって思えてくる。それはつまり、本作は恋を描いた作品だということ。
Nadja
この作品は非常に強烈な片思いの苦しみの表現なのではないか。目まぐるしく描かれる舞台、背景、喜びと苦しみの戯画、陰画、それらの陽画としての登場人物の悲喜こもごも。そしてそれらを糧とするインキュベーターの能面。……ただ、このキュウベエの無垢な瞳はすなわち私たち視聴者の瞳でもあるのでしょうけど。
Kayo
ほむらはまどかに恋をしている。ただ、それが叶うことはない。まどかに恋い焦がれることはほむらにとっては苦しみでしかない。悲恋という、失恋という、ありふれた凡庸な物語でしかない。しかし、当人にとっては、たとえ失恋が世のなかに数えきれないくらいたくさんあるものだとしても、身を引き裂かれるような、死にたくなるような、世界を呪いたくなるような、宇宙を壊してしまいたくなるような、苦痛であり、絶望であるということは疑いえない。その意味で、この劇場版は、テレビ版のさやかの物語の変奏でしかない。ほむらの片思いの至った、正気をなくしたかのような、稚拙なあがきの表現でしかありえない。
Nadja
この映画のなかで、ほむらは何かおかしかった。……なんていうのでしょうね、考え方や行動が拙いというか、子どもっぽいというか、もちろんそれがテレビ版でも見え隠れしたほむらという人間のそもそもの性格だったのでしょうけど、この劇場版ではついに壊れてしまったようにも見える。狂ってしまったようにも思える。それはあたかも何度も時間を巻き戻した彼女のタガがついに外れてしまい、ただまどかに対する愛のほかはすべてを失くしてしまったかのように見えるほどに。
Kayo
私はこの映画を片思いに苦しんだ十代の少女のあがき、苦しみの叫びのように思う。それはなんて悲痛で、しかし悲しくなるくらいに滑稽な、狭い世界の物語なんだろう。どことなく哀れみさえ抱かせるほどに、ほむらの至った結論は、視野の狭い子どものそれでしかない。
Nadja
……コクトーの『恐るべき子どもたち』を思い出すかしら。子どもと狂気、閉じた世界、しかしそこに見えるだろう、あるいはそこであるからこそ見える美というものがある。ただ、ま、はてさて、悲しくなる話ね。滑稽さと悲痛さが入り混じっているということは、なんでこう、かわいそうに思えるのかしら。かわいそうな物語よ。
すっかりブログのほうはご無沙汰。かったるくて毎日書いていられない? それを思うと、昔の私はなんてえらいんだろう。自画自賛。
Nadja
2013年にもなって対話ブログを更新する気になるとは思わなかったけれど。はてさて。
Kayo
気合いだ! ……さておき、まどかマギカの劇場版を観たので簡単に感想を記しておきます。
そもそも、私はこの作品にさほど関心があったわけじゃなくて、スピンオフや関連作品の類はほとんどチェックしていない。皆無といっていいかも。なので、この映画の存在もtwitterで人に聞いて初めて知ったくらいで、私のまどかマギカに関する知識はテレビ版のそれしかない。しかも、一回しか観ていないので大分記憶も薄れている。
けれど、結論からいうと、非常に楽しめました。いいようのない、なんだか謎な満足感がある。これが不思議。twitterでは、レズのレズによるレズのための映画とか、クレイジーサイコレズがいかなるものか理解できてうれしいとか、わけのわかんないこと書いちゃっているけど、でもこれはある理由がある。それは何かっていうと、私はこの映画を恋愛物語だなって感じた。しかもそれは片思いの物語、強烈な片思いの苦しみをつづった作品という印象を受けたから。
Nadja
一見して物語は非常に複雑なように見える。何重にも入れ子構造を形成しているように思える。だが、それは本質ではない、と。
Kayo
そうだね。どんな世界なのか、どういった舞台なのか、とてもわかりにくい。それは登場人物も同様で、そこが序盤の物語を牽引する力になっている。やがて、ほむらとキュウベエの対話で世界観の説明がされるわけだけれど、これもものすごく理解しにくい。テレビ版でもそうだったけれど、こういった重要な話が会話で延々と語られるので、どうしても冗長になっちゃうし、少し間が抜けちゃうようにも思える。この点はまどマギで私が苦手とする点かなって思う。ただ、ある一点に気づくと、本作は世界構造が問題なのではない、少なくとも本質ではないんじゃないかなって思えてくる。それはつまり、本作は恋を描いた作品だということ。
Nadja
この作品は非常に強烈な片思いの苦しみの表現なのではないか。目まぐるしく描かれる舞台、背景、喜びと苦しみの戯画、陰画、それらの陽画としての登場人物の悲喜こもごも。そしてそれらを糧とするインキュベーターの能面。……ただ、このキュウベエの無垢な瞳はすなわち私たち視聴者の瞳でもあるのでしょうけど。
Kayo
ほむらはまどかに恋をしている。ただ、それが叶うことはない。まどかに恋い焦がれることはほむらにとっては苦しみでしかない。悲恋という、失恋という、ありふれた凡庸な物語でしかない。しかし、当人にとっては、たとえ失恋が世のなかに数えきれないくらいたくさんあるものだとしても、身を引き裂かれるような、死にたくなるような、世界を呪いたくなるような、宇宙を壊してしまいたくなるような、苦痛であり、絶望であるということは疑いえない。その意味で、この劇場版は、テレビ版のさやかの物語の変奏でしかない。ほむらの片思いの至った、正気をなくしたかのような、稚拙なあがきの表現でしかありえない。
Nadja
この映画のなかで、ほむらは何かおかしかった。……なんていうのでしょうね、考え方や行動が拙いというか、子どもっぽいというか、もちろんそれがテレビ版でも見え隠れしたほむらという人間のそもそもの性格だったのでしょうけど、この劇場版ではついに壊れてしまったようにも見える。狂ってしまったようにも思える。それはあたかも何度も時間を巻き戻した彼女のタガがついに外れてしまい、ただまどかに対する愛のほかはすべてを失くしてしまったかのように見えるほどに。
Kayo
私はこの映画を片思いに苦しんだ十代の少女のあがき、苦しみの叫びのように思う。それはなんて悲痛で、しかし悲しくなるくらいに滑稽な、狭い世界の物語なんだろう。どことなく哀れみさえ抱かせるほどに、ほむらの至った結論は、視野の狭い子どものそれでしかない。
Nadja
……コクトーの『恐るべき子どもたち』を思い出すかしら。子どもと狂気、閉じた世界、しかしそこに見えるだろう、あるいはそこであるからこそ見える美というものがある。ただ、ま、はてさて、悲しくなる話ね。滑稽さと悲痛さが入り混じっているということは、なんでこう、かわいそうに思えるのかしら。かわいそうな物語よ。