森博嗣作品を考える上での三要素
2015/02/12/Thu
森博嗣を読んで気になったというか不思議に思ったのは次の三点。
1.素朴な天才論(天才ってタームが絡むと言説が変な方向に行く)
2.女性の趣味・表象(まったく理解できない)
3.心理的な動機・背景への固執(動機を探ることは無意味という主張にこだわりすぎ)
日本の現代作家について何か本格的に論じたり言及したりする機会はおそらく私にはないだろうけれど(せいぜいこんなふうにブログで雑談をするくらいか)、もし森博嗣で何か考えるとしたらこの三要素からだとぼんやりと思う。これら三つは相互に連関していて、たぶん大きなテーマとしてはコミュニケーションの問題があるんだろう、と思う。
もう少し詳しく書くと、一点目の天才論と二点目の女性の表象はいうまでもなく真賀田四季の造形に関係している。西之園萌絵も若干はそうか。ただ私はこの二人を天才だとはまるで思わない。天才をどのように創造するか、描写するかというのは、ある種の芸術上の課題という気もするが、私はあまり興味はない。天才論ということでぱっと思いつくのはヴァレリーやフロイトだろうか。この二人が関心を抱いた対象はいうまでもなくレオナルドダヴィンチだ。
三点目の心理的な動機・背景への固執は、おそらく森作品を考える上での一つの大きな鍵になるだろうとは思う。「なぜ人は行動するのか?」あるいは、「なぜこのような行為が為されたのか?」というような問いかけに、森作品は、「そのような問いかけは無意味だ、なぜなら他者の行為の原因を理解することは不可能だから」と答え、そして「他者の動機を忖度するのはただ単に安心を得たいがためだ」と説明づける。しかし、ここで一つの疑問が生まれる。それは他者の動機を探ることとは対照的にあるいは必然的に提起されるだろう、「なぜ私はこれをしたのか?」や「なぜ私はこれを欲するのか?」というような、他者の動機ではなく、自己の心を対象にする問題だ。より突き進めれば、「なぜ私は生きているのか?」とでもなるだろうか。はてさて、だがこれは少し行き過ぎかもしれない。
他者の動機を理解することは不可能だという問いは、他者の心を知ることは無意味だというある種の諦念に行き着く。そしてそのような諦念の究極の形として天才が創造あるいは想像される。天才と自己の中間の他者として、西之園のような女性が描写される。これら三要素を結びつけるのはコミュニケーションの問題である。ここでいうコミュニケーションとは自己対他者という構図のものばかりではなく、自己のなかにある複数の自己間のコミュニケーションも存在する。そのような問題意識はたとえば犀川の分裂的自我として表象される。
……と、おそらくこんな具合に論を展開することができる。ところで、これもまたいうまでもなく、私は西之園萌絵も真賀田四季も控え目にいって大嫌いだ。
1.素朴な天才論(天才ってタームが絡むと言説が変な方向に行く)
2.女性の趣味・表象(まったく理解できない)
3.心理的な動機・背景への固執(動機を探ることは無意味という主張にこだわりすぎ)
日本の現代作家について何か本格的に論じたり言及したりする機会はおそらく私にはないだろうけれど(せいぜいこんなふうにブログで雑談をするくらいか)、もし森博嗣で何か考えるとしたらこの三要素からだとぼんやりと思う。これら三つは相互に連関していて、たぶん大きなテーマとしてはコミュニケーションの問題があるんだろう、と思う。
もう少し詳しく書くと、一点目の天才論と二点目の女性の表象はいうまでもなく真賀田四季の造形に関係している。西之園萌絵も若干はそうか。ただ私はこの二人を天才だとはまるで思わない。天才をどのように創造するか、描写するかというのは、ある種の芸術上の課題という気もするが、私はあまり興味はない。天才論ということでぱっと思いつくのはヴァレリーやフロイトだろうか。この二人が関心を抱いた対象はいうまでもなくレオナルドダヴィンチだ。
三点目の心理的な動機・背景への固執は、おそらく森作品を考える上での一つの大きな鍵になるだろうとは思う。「なぜ人は行動するのか?」あるいは、「なぜこのような行為が為されたのか?」というような問いかけに、森作品は、「そのような問いかけは無意味だ、なぜなら他者の行為の原因を理解することは不可能だから」と答え、そして「他者の動機を忖度するのはただ単に安心を得たいがためだ」と説明づける。しかし、ここで一つの疑問が生まれる。それは他者の動機を探ることとは対照的にあるいは必然的に提起されるだろう、「なぜ私はこれをしたのか?」や「なぜ私はこれを欲するのか?」というような、他者の動機ではなく、自己の心を対象にする問題だ。より突き進めれば、「なぜ私は生きているのか?」とでもなるだろうか。はてさて、だがこれは少し行き過ぎかもしれない。
他者の動機を理解することは不可能だという問いは、他者の心を知ることは無意味だというある種の諦念に行き着く。そしてそのような諦念の究極の形として天才が創造あるいは想像される。天才と自己の中間の他者として、西之園のような女性が描写される。これら三要素を結びつけるのはコミュニケーションの問題である。ここでいうコミュニケーションとは自己対他者という構図のものばかりではなく、自己のなかにある複数の自己間のコミュニケーションも存在する。そのような問題意識はたとえば犀川の分裂的自我として表象される。
……と、おそらくこんな具合に論を展開することができる。ところで、これもまたいうまでもなく、私は西之園萌絵も真賀田四季も控え目にいって大嫌いだ。