2016/08/22/Mon
板書が苦手で、というのも私は字を書くのが下手だからなんだが、できる限り、板書を減らしたいと、二年前は思っていた。腕が疲れるから。同様の理由で、ライブでサイリウムを振るのも嫌いだ。といいたいところだけれど、振ったことなんてないに等しい。そもそもライブに行かないし。
しかし、今は普通に板書をしている。仮に板書を減らすなら、プリントを作ったり、口頭の説明を工夫しなきゃいけないが、だったら板書のほうがまだしもかと、考えが変わった。ただ、黒板にチョークはいいんだけれど、ホワイトボードにペンで書くと、そもそも下手な字がさらに目も当てられないことになる。ホワイトボードに上手く字を書くためにはどうしたらいいんだろうか。知り合いにこのことを話すと、黒板よりホワイトボードのほうが書きやすいといわれた。へー、人によるのか、と感心した。
塾でバイトをしていたとき、きれいな板書ができるようになるために、小さな黒板を買って、家で練習していた人がいたという話を聞いたことがある。そこまでするのかと驚いた記憶がある。塾などに比べて、大学の先生方の黒板の使い方がいかにでたらめなことか! 私はそれに比べるとまだマシだ。と、思うよ。
森博嗣の小説のキャラクターの犀川が、一切板書やプリントを使わず、ただ話すだけの講義をするから有名って設定があったけれど、しかし、ヨーロッパの伝統的な教育では、そんな先生ばかりだな、と思う。学生のほうもそういうスタイル、先生が一方的に話すって講義に慣れているから、各々、ノートをとるテクニックが身についている。ソシュールの『一般言語学講義』も、あれは学生のノートから作られているんだから、推して知るべしだろう。日本から留学して、いきなりあのスタイルに当たると、これはいうまでもなく大変だ。
板書をしていると服も手も汚れる。ホワイトボードなら汚れないかと思ったが、実際は汚れる。まあ、どうでもいいけど。
2016/08/21/Sun
採点をして、腕が痛い。こんな程度で筋肉痛になるのは運動不足だからだろうか。いや、採点に使う筋肉は普段使っていないところだから余計に疲労を感じるのか?
昔、塾でバイトをしていたことがある。いろいろなバイトをしたが、塾の講師が一番長く続いた。模試なんかがあると採点もしなきゃいけないわけだが、そこは私のほかにも多くの講師がいるわけだから、さほど時間はかからず終わったものだ。しかし、今は採点をするのも一人だし、そもそもテストだって私が作っている。良かれ悪しかれ、一人ですべてやればいいというのは、気楽ではあるし、責任をほんの多少は感じもする。いや、責任感にはもっと意識的になったほうがいいのかもしれない、私の場合。
以前、何かの雑誌だったかで、パリに住む教師のインタビュー記事を読んだことがある。中学校か、高校の先生だ。教師という仕事は自分でオーガナイズする自由さと楽しみがあるから好きだと答えていた。このインタビューは、アメリカ的な、といってはあまりに典型的で表層的な見方だが、まあアメリカ的な物質主義、こういってよければお金がたくさんあればクールだぜ、みたいな価値観に反対する主旨で書かれたものだった。フランス人はあまり服を持っていないなんて本も出ていたように記憶している。まあ、なんていうか、フランス人の大多数は実際そんなにお洒落じゃなかろう。風呂、入らないし。
フランスで高校の教師というのはエリートだ。日本とはここはかなり意識がちがうと思う。大学でポストを得られない人が高校で教師をしているというケースも多い。そのうち大学の先生になったりする。ただ、La Magazine littéraireのエントリで触れたように、フランスもまた教育改革とは無縁ではない。今後どうなっていくか…と、そんなことをブログでまじめに考えてもしかたがない。
2016/08/20/Sat
La Magazine littéraireの2016年7月・8月号では、ラテン語・ギリシア語の特集をしている。いうまでもなく、ヨーロッパの教育では基本となる二つの古典語なのだが、フランスの教育改革によって、ラテン語と古典ギリシア語の学習が岐路に立たされているらしい。日本でも最近は大学教育についてかまびすしいわけだが、フランスなんかもそれは同様であるという好例である。いや、別に「好」例というわけではぜんぜんないか。
このブログではあまりまじめな話はしたくないので、いや私は非常にまじめな人間だけれど、大学教育や古典語教育に関してあれこれ私見をいうつもりはまったくない。私個人はフランス語を専門に何年も勉強しているわけだが、フランス語学習において、最も重用なのはラテン語の学習であるとされる。たとえば、カミュの『ペスト』でも、ラテン語の勉強はフランス語を理解する上で役に立つからな、といったセリフがある。フランス十八世紀は、さまざまな改革が構想された時代だが、ルソーなんかをはじめとして、言語改革論もいくつも世に出た。そこでも、古典語の学習は不要だ派と必要だ派の論争があったりする。また、フランス語が偉大な言語なのは、ラテン語に最も近い言葉だからだといった主張も見られる。ヨーロッパの歴史において、ラテン語の占めた地位と栄誉はかくも大きく、計り知れない。
はてさて、現代日本ではどうかというと、まあ、ラテン語も古典ギリシア語も勉強しようとするにはあまりに困難だ。これは本当に大変だ。私はラテン語が本当に苦手だ。不勉強を反省しなければならない。古典ギリシア語は、勉強を続けようとは思っているんだけれど、なかなか上手くいかない。とある大学のフランス文学専攻では、ラテン語の講義も必修にしていたという話を聞いたことがあるが、立派だといわざるをえない。すごい。すごすぎる。ラテン語はつらい。つらすぎる。
フランス人に、日本の高校で使うような英語の文法問題集を見せたとき、すごくいいテキストだ、これで英語やラテン語を私も勉強したよ、みたいな反応をもらったことがある。私もフランスの大学に通ったことがあるけれど、詩学や歴史の講義なんかで、先生がガンガンラテン語を使うので難儀した記憶がある。講義中、私は自分の仏和辞書をよく見ながら聞いているんだけれど、あるとき、先生に、今の言葉はラテン語だからあなたの辞書で調べてもきっとわからないよ、といわれたことがある。まあそれはそうなんだけれど。でも仏和辞書はよくできているから、使用頻度の高いラテン語は載っていたりするんですよ。
まあ、何はともあれ、英語だ。もうちょっと英語を勉強しておいたほうがきっといいんだろう。しかし、ああ、英語は苦手。いや、苦手というのは不勉強の言い訳に如かず、かな。はてさてだ。
2016/08/19/Fri
安ホテルで思い出したけれど、モンパルナスのあるホテルは、まさに安ホテルなのだが、今まで泊まったなかでも微妙なホテルだった。というのも、パリにしては比較的安いホテルなのだが(しかし今になって考えるとそれでもそれほど安くはない)、受付で早々お金を清算してくれといわれる。それは普通のことなんだけれど、普通じゃないのは現金じゃないとダメだといわれたところだ。普通、カードでいいじゃないか、と思う。最初は何を要求されているのかわからなかったくらいだ。現金を持ち歩いてはいないので、なぜならフランスというのは基本的にカード社会で多額の現金を持ち歩くことはまずないからなのだが、私はホテル近くのマシンで金をおろす羽目になった。また、そのホテルはシャワー・トイレ共同で、まあそれはよろしいのだけれど、シャワールームは鍵がかかっており、入るには受付で鍵を借りにいかなければならない。店員によってはここでも追加料金をとられる場合もある。とられない場合もある。どちらかは運次第だ。なんて連中だ。宿泊した時期は夏で、昨今のパリは猛暑が続くから、非常に過ごしにくいホテルだった。フランスのホテルにはエアコンなんてものは基本的にない。
ユースホテルに泊まったほうがよかったかな、と若干後悔するくらいのホテルで、あとでBooking.comにでも文句を書いてやると思うくらいだったのだけれど、このホテル、家族経営で、子どもらも手伝っている。なので、こうなんていうか、悪口を書きづらいし、文句も表立ってはいいづらい雰囲気が湧いてくる。あとで人に話すと、それがそのホテルの戦略なのだと返された。まあ、そうかもしれない。
2016/08/18/Thu
2014年の冬に、気晴らしで推理小説を読み始めたが、その趣味が今も続いている。最近はよく有栖川有栖を読んでいる。ドラマにもなったらしいけれど、そちらは一秒も見ていない。
さて、有栖川有栖の数多い短篇のひとつに、「悲劇的」というのがある。これは、ミステリというほどのものではない。火村先生の講義の課題に、変なレポートを出してきた学生がいて、そのレポートの内容に焦点が当たる。それは、世のなかには悲劇や不条理が数多くあり、この世界をつくった神様とは一体なんなのか、と問うものだ。まあ、問うという大げさな言い回しはふさわしくないかもしれない。悲痛な叫びといったところか。
このテーマは古典的であり、そして、矛盾した言い方が許されるなら、常に現代的でもある。ヨブ記やハロルド・クシュナーをただちに想起される方もいるだろう。
で、こういった大きな、本質的な問題について、ブログで何かいいたいわけじゃない。ただ、さっき、ソースカツ丼を食べたチェーン店で、研究ノートを見たら、P. Pの作品(これがだれかは教えてあげない。今の私の仕事の中心的な要素のひとつなのです。秘密主義!)のメモをしていた個所の欄外に、「神は形であり、心がない」と書かれてあった。
はてさて、これはなんだ。まちがいなく、書いたのは私だが、この作品から抜き出した文句かどうかわからない。しかし、ふと思いつく類のフレーズでもないような気がする。ただ、この言葉は、「悲劇的」に対する答えのひとつにはなりうるかもしれない。まあ、単純すぎるかな。
有栖川有栖『ペルシャ猫の謎』
2016/08/17/Wed
五年という年月は、何ごとかをなすには不十分だが、決して短いわけじゃない。私が最後にコミケに行ったのは、2011年の夏のはずだから、実に五年ぶりにコミケに顔を出したことになる。もちろん、コミケに行くも行かぬも気分次第だから、この五年間、コミケに参加しなかったことにはとりたてていうほどの理由はない。しいていえば、フランスに行ったり来たりを繰り返していたから、積極的にコミケに行く動機に乏しかったのかもしれない。それに、やっぱり、夏は暑いし。いや、今年は十分に過ごしやすかったけれど。
2010年の夏だったと思うけれど、コミケに行って、友人と会って、食事して、カラオケして、徹夜して、そして街をフラフラ歩いていたことがあったのだけれど、そのときはあまりに眠くて、非常に眠くて、かといってベンチで寝るのは不用心だし、何より暑くてとても屋外で眠れたものじゃないし、ということで、悩んだ末に、私はガソリンスタンドに付属しているカフェで居眠りをしたことがある。スタンドにまったく用がないのにスタンドのカフェでウトウトしていたから、店員の人に怪訝な顔をされたことを今でもよく覚えている。
コミケで並んでいるときは暇である。これはプレイヤードの分厚い本を読んでいるときと似ている。一ページ、一ページ、一段落、一段落、一行、一行と読み進めていくほかないのである。読み続けてさえいれば、いつかは終わる。……ということを知り合いに話したら、悟りみたいですね、といわれた。
で、並んでいるときだけれど、ふとアイカツのことを考え、もしかしたら、蘭はユリカに劣等感を抱いていたのではないか、と思った。しかし、これは、ないね。ないない。ありえない。人と話しても、まあ、ないよね、で終わった。だけど、なんていうか、蘭というキャラは便利な立ち位置にいて、だれも真剣に蘭という人間について考えていないのかもしれない、とはふと思った。私も、以前、おと蘭の話を書いたけれど、あれもおとめちゃんが書きたいのであって、蘭のことをまじめに考えていたかというと、答えに窮するところがある。
このコミケの間は、ある安ホテルに泊まっていたのだけれど、そこで、学会前日なのに一行も発表原稿を書いていないという夢を見た。絶望した私は、もうこうなったらアイマスの話をするしかないと考え、L'histoire de Chihaya renforce notre hypothèse.(千早の物語は私たちの仮定を裏づける)とか、ノートにシャーペンで泣きながら急いで書きつけるという夢なんだけれど、諸君、これこそ悪夢でないか。