2017/07/23/Sun
パリではモンパルナスが好きなので、パリに滞在するときは大抵モンパルナスに宿をとる。芸術家の街だから気に入っているのか?と聞かれたら、いや別にそういうわけじゃない、と答えると思う。タワーがあるのはよろしい。私は高いところが好きなんだ。墓地があるのも好ましい。ただ一番の理由はド・ゴールからバスが出ているからで、要するに慣れているからだ。といっても、決まった宿があるというわけでなし、いろんな安ホテルに泊まっている。ひどいホテルは本当にひどい。だがまあ値段相応である。その分、気楽でもある。
カフェ。私はコーヒーとコーラが好きで、毎日飲んでいるけれど、コーヒーはイタリアのほうがよかったな。イタリアのバールというもの。ちょっと立ち寄って、軽く飲み干して、出て行く。バールの人も愛想よくて、とても感じがいい。これに比べてフランスはどうだ。フランスのカフェのやつらは、実に無愛想だ。それも慣れたといえば慣れたけど。しかし、三月にモンパルナスに行ったときはアジア系の人がやっているカフェを見つけて、まあそこは味も悪くなかったし、なかなかいいところだったよ。
2017/07/18/Tue
今日は書類と論文を進めていたら、時間が過ぎてしまった。バンドリのこころと花音の話も書きたいからほんの少し書く。
音ゲーって今までぜんぜんしたことなかったけど、これは単純作業に特有のあれで、けっこう脳に来るな。ハイになる傾向がある。なるほどと思ったよ。
ネットを見ていたら、
Entretien avec Jorge Luis Borgesというのを見つけた。PDFだよ。
ついでにYou tubeの
Entretien avec Borges. これはFrance Cultureの特集だったらしい。ところで、Borgesってフランス語だとどう読むのかと思ったら、ボルジェスっていっているね。ボルジュかと思ったが、ちがうか。
2017/07/17/Mon
今年の六月に刊行されたということで、この手の一般向けの科学史・科学解説書としては最新のものにおそらく当たるのだろう。実はまだ全部読んでいないので感想を書くわけにはいかないのだけれど、百ページちょっと読んだ印象としては、おもしろい。極めて的確かつ簡潔に記述されている。註も一通りそろっている。で、その上でいうのだけれど、これは本書に対する不満ではまったくないのだが、このところ物理学・科学関連の一般向けの本を読んでいて思うのは、どれか一冊通読すれば、あとは大体内容は同じだな、ということ。もちろん、情報は更新されていくだろうし、その更新を小まめに追うことがまさしく研究なのだが、しかし、一般書としてはそこまで深入りできないし、すべきでもない。つまり、これ以上、この分野に関してしっかり知りたいのであれば、専門の勉強をしなさいよ、ということなのだろう。
で、余談なんだけど、私は高校で物理はやらなかったんだよね。化学はやった。でも化学はなんか超苦手だった。物理をやってみるべきだったのかしらん。いや、そんなこともない? 私のいとこは化学専門なんだけどな。
マルセロ・グライサー、『物理学は世界をどこまで解明できるか―真理を探究する科学全史』
2017/07/16/Sun
毎年のことだが、夏は気分が沈む。夏に遠藤周作をほぼ全部読むということをしてみたことがあるが、そのときは遠藤の欝々とした世界観と説教とちょっとのユーモアが夏の湿気と暑さと合わさって、非常に落ち込んだことを覚えている。夏より冬のほうが好きだし、私にとってフランスは冬とよく結びついている。…という話をある先生にしたら、それは秋から留学するからだよね、といわれた。正しい。欧米の学校は秋から始まる。個人的には寒いときのほうが勉強がはかどる気がするので、秋から学期が始まるのは賢明なのかもしれないとも思う。まあ個人の好みかしら。
またあるときある先生に、お前には独学者のいい面と悪い面がはっきり表れているといわれたことがある。それも正しい。私はフランス語は独学だが、いや厳密にはそうともいえなくて、というのも学部のときにフランス語初級の単位は取得しているからなんだけど、しかし一年のときに初級を落として、三年になってようやく必修のこの単位を取り直したんだよ。本当にやる気がなかった。で、いい面と悪い面というのは、つまり独学者というのは自分の好きなことしか勉強しないものなんだよ。私は、要するに、発音が下手だ。聞くのも得手ではない。ここらへんはしっかり勉強しなきゃなとは常々思ってはいる。思ってはいる。
語学は始めた当初は、なんていうかものすごく頭が重かった。勉強して唸るということはあるのだな。身体的にそれは表に出るんだな、と思った。いかにそれ以前の自分が勉強不足で怠けていたかということを思い知らされたかのように、頭が重かった。たぶん、使っていなかった脳細胞を突然使い出したからだろうか。夢でも辞書を引いていて、で、起きて、辞書を引くんだよね。なんか、朝起きて数学をしようと思って数学するんじゃダメで、常に数学していなきゃいけない、みたいな感じ? 夢の中でも語学していたようなもので、まああれはあれで初級者としてはちょっとは正しかったといえるかもしれない。はてさて。
2017/07/15/Sat
この前、サクラノ詩をクリアした。この手のゲームを遊ぶのは本当に久しぶりだったのだけれど、はてさて、なぜこの作品を遊ぼうと思ったのかしら。理由を覚えていない。気まぐれからだろうか。いや、私は以前からこのゲームとこのゲームの製作者については興味を持っていた。大体、けっこう昔にサクラノ詩のコミックスを読んだ記憶があるし。
感想をいうと非常に楽しいゲームだったで終わるのだけれど、思うことはいろいろある。第一に本作が非常にペダンティックな構成で、芸術論が多い…というか、芸術論を真正面から扱った作品であることに興味を引かれる。ここまでまっすぐに芸術の問題、特に美術、本質的にはまさしく美少女ゲームを論じようとした作品は珍しいだろう。その意味ではメタ美少女ゲームであり、この作品が完成するのに時間がかかったこともそういった点から理解できるようにも思う。ただ、本作が、そういった性質のために、美少女ゲームらしい美少女ゲームではないこと、つまり単純に女の子と仲よくなって終わるゲームとはなっていない点をどう評価するかは意見が分かれるところだろう。何せ本作のラストは、女の子と仲よくなって終わるというタイプのものとは正反対ともいえる結末なのだから。
製作者の芸術・哲学・文学・音楽への興味・関心には総じて共感を覚えるよ、私は。本作で描かれたような問題意識はよくわかる。特に、美となんなのか?という問いはおもしろい。絶対的な美が存在するのか、それとも美とは他者との交流の上にこそ成り立つのか。いいかえれば、この問題意識は、作品とは受け取り手が存在しなくとも作品たりえるのかと問うのと似ている。人間の知覚の限界を知るプラトンならば、私たちが知る美とは仮初めのものであって、それゆえにこそイデアとしての美を指示するのだろうか。だが、たとえばこの前『図書館の魔女』を読んだのだけど、そこでは書物というのは読み解かれて初めて価値を持つという一節がある。私としても、同感だ。だから、絶対的な美というものが存在したとしても、絶対的な作品というものは存在しえないだろう。と、私は思うよ。ただまあこれは趣味の問題かな。つきつめていえば。
本作では、エロゲ伝統といっていいのかどうかはわからないけれど、十年ちょっと前のエロゲによく描かれた擬古典や奇跡もあつかわれている。興味深いのは本作では奇跡が明確に否定されている点で、奇跡でだれかが救われるということはない。また、本作の主人公は例によって個別のヒロインルートに入るとそれぞれのヒロインを救うわけだけれど、それじゃ救われなかったヒロインはどうなるのか、主人公の力がなかったら選ばれなかったヒロインは不可避的に不幸に陥るのでないかという、これまた伝統的問題があるわけだが、本作はこれにも一定の答えを与えている。ヒロインのだれとも密接な関係にならないメインルートに入ると、ヒロインは皆自力で息抜き、そして自力で立ち直ろうとした主人公に悲劇が襲い、彼は孤独になる。
この点が最も本作がメタ美少女ゲーム的なところで、というのも、これは、ハッピーエンドとは何か、私たちがハッピーエンドだと思っていたものとは何かという問いかけであるからだ。だから、本作のテーマのひとつが「幸福の先」なわけだ。
サクラノ詩は非常に思弁的な作品だと感じる。またその一方で、自己言及的かつ自己批判的でもある。なぜなら、奇跡や救われなかったヒロインの問題は、十年ちょっと前の、ナイーブさを反映しているように思えるから。たとえば、最近のラノベ原作のアニメの「冴えない彼女の育てかた」や「エロマンガ先生」あたりになると、選ばれなかったヒロインがどうなるかなんてナイーブな問題をそこまで根を詰めて考えているようにはどうしても思われないから。おそらく考える必要も意義も認めていないし、そういったことを考えることは失礼なのでないかという反省もおそらくはあったろう。その類の問題は、たぶん美少女ゲームにどうしてもまとわりつく宿痾であったようにも感じる。なぜかというと、そのような問題意識は反省的なものであるから。要するに美少女ゲームの主人公の自己批判の反映であったのだろう。なぜそのような反映が必要だったのかというと、美少女ゲームがコミュニケーションの芸術だからだろう。かわいい女の子と仲よくなるという、人間関係の芸術であるからだろう。
コミュニケーションを必ず必要とするのが美少女ゲームであり、文学も音楽も絵画も、人間関係を必ずしも必要とはしない。ラノベやアニメも実はそうだろう。奇跡や救いというものは、人間関係の最も明瞭かつ深甚な表現であったことも明らかなように思える。
で、話は変わって、サクラノ詩で評価しにくい点もあり、それはたとえば悪役の描き方が表層的でつまらないとか、メインヒロインたちよりも最終章のヒロインたちのほうが完成度が高く魅力的に個人的に思えてしまうのもどうだろうと感じる点ではある。でもこれは製作期間が長かった弊害だとも思う。
まだいろいろ考えていることはあるんだけど、とりあえず備忘ということで、思いついたままの文章を上記のようにあげておく。
「サクラノ詩―櫻の森の上を舞う―」
2017/07/14/Fri
先日、急にボルヘスが読みたくなったので図書館から仏訳のものを借りてきた。仏訳の、しかもプレイヤード版があるとは知らなかった。それは私がボルヘスの来歴に詳しくなかったからなんだけど。つまり、ボルヘスはフランスの文壇とは非常に近しかった。ゆえにプレイヤードにボルヘスがあるのもなにをかいわんや。
とりあえず『伝記集』が読みたかったのだ。で、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」に目を通していると、超おもしろい。が、はてさて、世界を変える一冊の本という印象深く忘れがたい一節が現れた。明らかにマラルメ的な…と思うところだけれど、私はマラルメについては門外漢だし、なんとなくマラルメとは異なる気がする、ボルヘスは。というか、フランス文学の潮流とはちがう気がする。どうちがうかは上手く言葉にできないのだが。
「トレーン…」にはこうある。一冊の本は現実を変えるし、過去をも変える。それは事実そうなのだ。なぜなら、かくいう私たち自身が聖書やプラトン対話篇の所産のようなものではないか。
正確な翻訳はやる気がないのでしないけど、大体上記のようなことが、注に書いてあった。現実が変えられるなら、過去も変えられるというのはまさしくそうなのだろうし、また現代のわれわれが歴史的所産であることは疑いえない。が、それは欧米人たちのアイデンティティによるのではないか? 日本人たる私はまたちがうのでないか? しかし、そういう私自身がまさしくボルヘスのいうところが正しいことを証明しているようにも思える。スペイン語の小説をフランス語訳したものを読んで日本語で思索している当の私が。
J'ai écrit ce conte à Adrogué, à l'hôtel Les Délices, d'Adrogué. C'est peut-être le plus ambitieux de mes contes. C'est l'idée de la réalité transformée par un livre. Mais après avoir écrit ce conte je me suis senti très vaniteux. C'est l'idée d'un livre qui transforme la réalité et qui transforme le passé. Je me suis rendu compte que cela se passait toujours ainsi. Parce qu'au fond de nous-mêmes, nous sommes l'œuvre de la Bible et des Dialogues platoniciens.
(Borges, Œuvres complètes, Paris, Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade, t. I, p. 1565)
2017/07/13/Thu
最近は、私としては非常に珍しいことに物理学関連の本を読んでいる。といっても、専門書に当たる能力も時間もないから、一般向けの解説書しか見ていない。なぜ物理学に興味を持ったのかと聞かれたら、それも私の個人的な文学研究に関連があるのだが、それは、なんていうか、つまり、私はécritureにおける想起や時間意識、意識の流れの問題をここしばらく考えていて、言語学、特にバンヴェニストや、哲学でいえばマクダガートを読んでいて、で、その延長線上で、物理学にも手を出してみたというわけだ。いや、ふだんまったく触れていない分野だったので、かなりおもしろく読んでいるし、何冊か高い本を買い込んでしまった。しかし、現時点での印象をいうと、物理学を勉強しても特に文学研究に役立ちそうなものはなさそう。いや、まだわからない。
フランスにおける自伝研究の古典といっていいPhilippe Lejeuneの『自伝契約』だけれど、Lejeuneは『自伝契約2』なるものも書いている。内容には特に触れないけれど、ルジュヌは自分は長い文章を書くのは苦手で、出版するのは全部、断章の寄せ集め、パッチワークだと述べている。いわれてみればたしかにそのとおりで、『自伝契約』にしてからがそうだ。ここらへん、文筆の才能の型の表れという気がして少しおもしろい。
マリオ・リヴィオ『偉大なる失敗―天才科学者たちはどう間違えたか』 Philippe Lejeune, Signes de vie. Le pacte autobiographique 2.