それはすごく大問題 存在という一個の謎
2008/03/23/Sun
利口系無重力blog@北大さん「自分の価値判断はどこまで自分で考えたものか」
『多分ちょっと私の思っていることと違うと思う。
私が気になっていることは、自分が好きだと思ったとして、それはどこまで自分で考えたものなのだろうか? ということ。
知らないうちに回りの人の意見・考え方にどうしても影響されてしまう。外界からの影響がない、純粋に自分だけで考えた判断なんて、そもそもありえないんじゃないかということ、を気にしているのです。
「これは私が良いと思っている」と思っていても、無意識のうちに周りからの影響でそう刷り込まれてしまっているだけではないか。
周りから刷り込まれた意見を自分で考えた意見だと思い込んでしまって、影響を受けたことにすら気づいていない。その状態がなんか怖いのです。』
「ときおり中谷さんはどきっとするほど鋭い意見をいわれることがあって、このエントリも率直にいって、こういうことに気づける人なのかっておどろいた。それで、こういった中谷さんの不安というのは、わかる。純粋意志、だれにも影響されてない真っ白な私の原体験というのは果してありうるのかな?という問題で、これが哲学史上の大問題であるのは私がいうのも今さら。ひどくふかく、そして今に至るまで呪いのように実存意識にまとわりつく問題かなって思う。ある意味カミュ的な不安っていうのかな。カミュの小説「異邦人」はまったく自己というのにこだわりないその日その日を字義的な意味でただ生きてる、ただ死なないから生きてる人間の姿を描いてて、その虚無性の追求は人を戦慄せしめるものがあるものだったでした。自分は果して私が信じてるような自分であるのかな。私がしてることはほんとに私が決めてることなのかな。それは、ほんとに私のための私であるのかな‥という不安。救えないね。」
「救えない、という言い方はまた妙かしらね。カミュの「異邦人」が卓抜だったのはなぜ人間であるはずの主人公がそこまで自分の運命に無関心でありうるのか、ということでしょ。ただ本来の人間はそこまで達観した態度をとれない。だからこそ純粋意志や純粋経験などといったものを考えてしまうのでしょう。」
「中谷さんはこれは私がよいと思ったものでも、ほんとはそれは私の意志でなくて、周りの人からの刷りこみでないかなって疑ってる。そう、あらゆるものは疑える。でも疑えないものもあるはずだ。そういったのが、デカルトでした。中谷さんが至った疑惑はデカルトが抱いたものと同じで、それに対する回答はいわずもがなの例のコギト。考える。だから私在るのだ。というのだね。中谷さんに当てはめていうならば、中谷さんがそうやって違和感を感じてることこそが、中谷さんの存在の自明性にほかならないって、デカルトは述べてる。思惟する自我こそが、私という存在のぜったいの根拠ということだね。それで、デカルトのこういった存在への問いはのちにハイデガーによってさらに展開されることになって、バタイユやレヴィナスといった晦渋きわまる人たちによってもふかくふかく問われつづけてることなのだけど。‥そこまでここで私なりに解説するのはたいへんだし、あまりに歯ごたえある問題だから、先は各自でいろいろやってみるのがいいのでないかなって思う。私もいろいろやってみるから。」
「あら。逃げたかしら? ま、レヴィナスとか持ち出さざるをえない問題でしょうから、仕方ないともいえるけど。」
「うー。しかたないじゃないかー。お姉ちゃんそういうのいうのいじわる。」
「ま、難解すぎるというのは本当でしょう。それを自分なりにまとめるだけで一生ものの仕事よ。」
「ふん。いいもん。そのうちエントリ書くもん。今までも折にふれてやってきたもん。」
「ま、そこはこれからの課題ね。‥あとは、そうね。周りから意見を刷り込まれた意見でない純粋な経験というと、西田幾多郎がそういうこといってたかしらね。「善の研究」で。」
「たしか思惟によって加工される前の純粋な経験の形を、純粋経験と呼んだんだよね。たとえば音楽をきいたり、画をみたりして判断をくだす以前、その瞬間そのものの経験が純粋経験といわれうるもの。言葉が立ちあらわれる以前の、時間にしてみればほんの一瞬と呼ぶほかない瞬間に、西田は真の実在、ほんとの自分があるって考えた。‥中谷さんのエントリ読んで思ったのはこんなとこ。ほんとはもうちょっとたくさん思いあたる人なり思想なりはあるのだけど、あんまり引用してもあれだから、ね。ここはほんとにむずかしくて、ただでない大問題だけど、中谷さんが感じたという違和感を、私は大切にしたい。そしてそういった違和感がもち来す問題から少しでも逃げず、自分なりに考えてけたらなって、私は思う。‥むずかしくてやになるけど、楽しいことでもあるのだから、ね。ささやかなりに、がんばろう。」
「一朝一夕で解けるはずもない問い、か。はてさてね。この問題に直面した人は、過去にも数知れず。真摯で誠実な問いね。存在とは一個の謎よ。」
→デカルト「方法序説」について
→断絶されてる私、というような話
→私は明日死ぬということの意味性というか
→サルトル「水いらず」について
→徒然じつぞん
→非意味への道程を
→私の世界とあなたと言葉と
→原子はなんでそこに原子としてあるのかな、という話
→西田幾多郎「善の研究」
『多分ちょっと私の思っていることと違うと思う。
私が気になっていることは、自分が好きだと思ったとして、それはどこまで自分で考えたものなのだろうか? ということ。
知らないうちに回りの人の意見・考え方にどうしても影響されてしまう。外界からの影響がない、純粋に自分だけで考えた判断なんて、そもそもありえないんじゃないかということ、を気にしているのです。
「これは私が良いと思っている」と思っていても、無意識のうちに周りからの影響でそう刷り込まれてしまっているだけではないか。
周りから刷り込まれた意見を自分で考えた意見だと思い込んでしまって、影響を受けたことにすら気づいていない。その状態がなんか怖いのです。』
「ときおり中谷さんはどきっとするほど鋭い意見をいわれることがあって、このエントリも率直にいって、こういうことに気づける人なのかっておどろいた。それで、こういった中谷さんの不安というのは、わかる。純粋意志、だれにも影響されてない真っ白な私の原体験というのは果してありうるのかな?という問題で、これが哲学史上の大問題であるのは私がいうのも今さら。ひどくふかく、そして今に至るまで呪いのように実存意識にまとわりつく問題かなって思う。ある意味カミュ的な不安っていうのかな。カミュの小説「異邦人」はまったく自己というのにこだわりないその日その日を字義的な意味でただ生きてる、ただ死なないから生きてる人間の姿を描いてて、その虚無性の追求は人を戦慄せしめるものがあるものだったでした。自分は果して私が信じてるような自分であるのかな。私がしてることはほんとに私が決めてることなのかな。それは、ほんとに私のための私であるのかな‥という不安。救えないね。」
「救えない、という言い方はまた妙かしらね。カミュの「異邦人」が卓抜だったのはなぜ人間であるはずの主人公がそこまで自分の運命に無関心でありうるのか、ということでしょ。ただ本来の人間はそこまで達観した態度をとれない。だからこそ純粋意志や純粋経験などといったものを考えてしまうのでしょう。」
「中谷さんはこれは私がよいと思ったものでも、ほんとはそれは私の意志でなくて、周りの人からの刷りこみでないかなって疑ってる。そう、あらゆるものは疑える。でも疑えないものもあるはずだ。そういったのが、デカルトでした。中谷さんが至った疑惑はデカルトが抱いたものと同じで、それに対する回答はいわずもがなの例のコギト。考える。だから私在るのだ。というのだね。中谷さんに当てはめていうならば、中谷さんがそうやって違和感を感じてることこそが、中谷さんの存在の自明性にほかならないって、デカルトは述べてる。思惟する自我こそが、私という存在のぜったいの根拠ということだね。それで、デカルトのこういった存在への問いはのちにハイデガーによってさらに展開されることになって、バタイユやレヴィナスといった晦渋きわまる人たちによってもふかくふかく問われつづけてることなのだけど。‥そこまでここで私なりに解説するのはたいへんだし、あまりに歯ごたえある問題だから、先は各自でいろいろやってみるのがいいのでないかなって思う。私もいろいろやってみるから。」
「あら。逃げたかしら? ま、レヴィナスとか持ち出さざるをえない問題でしょうから、仕方ないともいえるけど。」
「うー。しかたないじゃないかー。お姉ちゃんそういうのいうのいじわる。」
「ま、難解すぎるというのは本当でしょう。それを自分なりにまとめるだけで一生ものの仕事よ。」
「ふん。いいもん。そのうちエントリ書くもん。今までも折にふれてやってきたもん。」
「ま、そこはこれからの課題ね。‥あとは、そうね。周りから意見を刷り込まれた意見でない純粋な経験というと、西田幾多郎がそういうこといってたかしらね。「善の研究」で。」
「たしか思惟によって加工される前の純粋な経験の形を、純粋経験と呼んだんだよね。たとえば音楽をきいたり、画をみたりして判断をくだす以前、その瞬間そのものの経験が純粋経験といわれうるもの。言葉が立ちあらわれる以前の、時間にしてみればほんの一瞬と呼ぶほかない瞬間に、西田は真の実在、ほんとの自分があるって考えた。‥中谷さんのエントリ読んで思ったのはこんなとこ。ほんとはもうちょっとたくさん思いあたる人なり思想なりはあるのだけど、あんまり引用してもあれだから、ね。ここはほんとにむずかしくて、ただでない大問題だけど、中谷さんが感じたという違和感を、私は大切にしたい。そしてそういった違和感がもち来す問題から少しでも逃げず、自分なりに考えてけたらなって、私は思う。‥むずかしくてやになるけど、楽しいことでもあるのだから、ね。ささやかなりに、がんばろう。」
「一朝一夕で解けるはずもない問い、か。はてさてね。この問題に直面した人は、過去にも数知れず。真摯で誠実な問いね。存在とは一個の謎よ。」
→デカルト「方法序説」について
→断絶されてる私、というような話
→私は明日死ぬということの意味性というか
→サルトル「水いらず」について
→徒然じつぞん
→非意味への道程を
→私の世界とあなたと言葉と
→原子はなんでそこに原子としてあるのかな、という話
→西田幾多郎「善の研究」