サディズムとマゾヒズムの基本的な概括の話
2008/04/18/Fri
>普通に思ったのですが、サディズムとマゾヒズムって対極にあるものなんですかね。対を成すようにいろんな場面でSだのMだのと使われてますが、個人的にはそうゆう概念だとは思えないのです。
つまり直線状で語れる概念ではなくて、性癖的なカテゴリーの中では枝分かれ的に様々なタイプが存在していて、そのなかの2種がSとMじゃないかなどと考えてしまうのであります。
いかがでしょう
「上記のコメントを受けて、あれれ、サディズムとマゾヒズムの成り立ちってあんまり知られてないことなのかなって思った。でもそういわれれば、それもそっか。学校で教えてくれることでもないものね。ということで、サディズムとマゾヒズムのかんたんな概説。まずサディズムの語源となったのは十八世紀フランス大革命時代の作家ドナティアン=アルフォンス=フランソワ・ド・サド。通称サド侯爵。対してマゾヒズムの語源となったのは十九世紀末オーストリア・ハンガリー帝国の作家レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ。二人は生まれた時代も土地も、小説としてのスタイルも思想も、身分も言語も大きく異なった二人であって、両者を結びつける線というのは一見して見出せない。だけどこの二人を比較して論じた人がいて、それはウィーンの性病理学者であるクラフト=エビング。エビングはその名高い主著「性の精神病理学」で対になる医学上の専門用語として、サディズム、マゾヒズムを提唱した。つまりそもそもが医学用語。それもある個人が恣意的な判断で用いたのがさいしょで、それが世界的に広まっちゃったって話。現在SMの二文字がこんなに有名になっちゃったってことは、サドにもマゾッホにも、そしてたぶんエビングにも、予想できるはずないことなのでした。」
「病名のないところに病気はない、とでもいうことかしらね。エビングの主著があまりに有名になりすぎたために、サディズムとマゾヒズムの言葉がその元となった作家たちよりも有名になっている。そして作家たちの名は本人たちにはまるで無関係な医学用語のしたに隠れてしまった、か。なんともいいようない事実ね。」
「エビングの命名は、作家としてのサドやマゾッホの名を葬り去ったっていっても過言でないもしれない。でもただサディズムマゾヒズムの名がいまだに世界中でつかわれてるからこそ、サドやマゾッホもやっぱり死地にばかりいるわけでなくて、二人の作品は今でも多くの人が愛読してる。そういう事情を考えると、エビングの仕業は一概に作家としてのサドやマゾッホを毀損したともいえなくて、ただ運命の悪戯としかいいようないことなのでないかな。そしてサドの作品とマゾッホの作品に、ある著しい対照があるのは確実であって、そのことにいち早く注目したエビングの碧眼は、やっぱりただ事でないかなとは思う。だからこそサディズムとマゾヒズムはこれだけ世に広まったのだとも思えるし。」
「サディズムとマゾヒズムの対照点ね。さてサディズムとマゾヒズムが反対概念であることは多くの世上の意見と一致することでしょうけど、そのちがいは何か明確に述べられるのかといえば、これは難事ね。そう上手く答えられる人は少ないでしょう。」
「まずさいしょに確認しておきたいことは、マゾヒストは苦痛を快楽に変化させてるわけでないということ。このことはけっこう見落とされがちなことかな。苦痛が快楽に変わるわけじゃなくて、マゾヒストにとって苦痛とは、あくまで性的快感に到達するために必要な催淫効果を生む可能性のある一要素にすぎないということ。苦痛が快楽に変わるわけないよね。小指をタンスの角にぶつけたら、どんな人でも痛がるのが当然で、マゾヒストがそうじゃないなんてことない。喜びは苦痛そのものにあるのじゃなくて、苦痛が生みだす性的衝動にこそある。ここをまず勘ちがいしないこと。マゾッホの小説を読めば一目瞭然で、彼の小説の主人公は自身をひどい目にわざとあわせて、そして本気で苦しんでる。その苦痛が快楽として描かれてるわけでけしてなくて、その苦痛がもたらす性的快感こそが目標なのだ。」
「ま、苦痛と快楽がいかに結びつくかというのは心理学的に見ても一筋縄で行かないものなのよね。だからここは数ある説のひとつと見るべきで、実際以上に複雑なのがマゾヒズムだと考えておくのがよいかしら。ただ苦痛が快楽じゃないというのは、これは確実といっていいでしょうね。苦痛が気持いいというのは、それは神経がおかしいのよ。」
「フロイト、ジャン・ポーラン、ジル・ドゥルーズ、ハヴェロック・エリスにジョルジュ・バタイユ。マゾヒズムの謎にとりくんだ人たちは過去にいくらもいて、その複雑で難解な性の理論の世界は、覗きこめば果てないくらい。それをぜんぶ含めて話すなんて、とても私の役目じゃないし、それにめんどくさいから、私なりにマゾヒズムについての所論を述べるなら、マゾヒズムとは徹頭徹尾観念的な快楽なのじゃないかなって。つまりさっきいったように、マゾヒストは苦痛を快楽に感じてるわけでなくて、苦痛はただ最終的な快楽のための要素にすぎない。ここで最終的な快楽とは何かなといえば、その快楽とは苦痛を受けるマゾヒストが思念して構成した複雑な幻想にほかならなくて、ただ苦痛を望むのは、苦痛が彼の幻想の成就にとって不可欠だからにちがいないのじゃないかな。‥宗教的聖人は、十字架にかけられることで、彼の願いを完遂する。童話世界のお姫さまは、王子さまに助けられるにはかならず何かに苦しんでなくちゃいけない。塔に幽閉されてるとか、いじわるな継母にいじめられてるとか、毒りんご食べちゃって横たわってるとか。マゾヒストの願いとは、そういった幻想による自己陶酔を可能とすることであって、ジル・ドゥルーズがかつて明確に述べたように、「へつらうことで傲慢な者となり、服従することで反抗的な者となる」のが、マゾヒストの真実にほかならない。苦痛を自己自身に引き受けるマゾヒストは、だからサディストと比べてより身体的であって、より根源的に存在しうる。それは華麗な精神世界の住人、美しい幻想による、完全な自己陶酔を必要とするのだから。」
「マゾヒストはその基本としてナルシストでもある、か。ま、そうかしらね。マゾヒズムに比べるとサディズムがいたって単純な心理の表明にほかならないことは、もういうまでもないことかしら。他者を破壊することによって攻撃衝動を満足せしめることは、これは子どもでもやっていることでしょうからね。」
「うん。サディズムはだから機械的で、マゾヒズムに比べると単調なふうになっちゃうのはしかたないことかなって思う。それはサドとマゾッホの作品を読み比べてみればたぶんすぐわかること。どちらがより楽しく読めるかで、あなたの好みは判断できるかな。ただなかにはサディズムもマゾヒズムも、どちらもそれなり気になるのだけど、なんて人がいて、それはあなた、サディストが同時にマゾヒストであり、マゾヒストが同時にサディストであることは、実はきわめてたくさんなのですよって伝えちゃう。このサディストでありながらなおかつマゾヒスト、逆もまた真なりが、サディズムマゾヒズムのさらなる問題で、エロティシズムを複雑にしちゃってることのひとつなのだけど、とりあえずこのエントリはここでおしまい。サディズムマゾヒズムは、思ってるより複雑で、そしてふかい空のように尽き果てぬ興味を抱かせてくれる関心事ということが、少しでも伝わったら幸いかな。エロティシズムは、だからとても、おもしろいね。それは人間の存在の暗闇として、いつまでも知性に突きつけられてる課題なのだから。」
「エロティシズムは人間存在にとって避けえぬ事柄、か。はてさてね。気軽に用いられているSMという言葉だけでも、これだけの歴史性があるのだから、エロティシズム全般の話をしようと思ったらその労力はたいへんなものでしょうね。ま、資料には事欠かない分野でしょうし、多くの人にとって無視できぬ話題であることもまたたしかかしら。それは人間の本質としての暗闇である、か。本当、尽き果てぬ暗闇ね、これは。」
つまり直線状で語れる概念ではなくて、性癖的なカテゴリーの中では枝分かれ的に様々なタイプが存在していて、そのなかの2種がSとMじゃないかなどと考えてしまうのであります。
いかがでしょう
「上記のコメントを受けて、あれれ、サディズムとマゾヒズムの成り立ちってあんまり知られてないことなのかなって思った。でもそういわれれば、それもそっか。学校で教えてくれることでもないものね。ということで、サディズムとマゾヒズムのかんたんな概説。まずサディズムの語源となったのは十八世紀フランス大革命時代の作家ドナティアン=アルフォンス=フランソワ・ド・サド。通称サド侯爵。対してマゾヒズムの語源となったのは十九世紀末オーストリア・ハンガリー帝国の作家レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ。二人は生まれた時代も土地も、小説としてのスタイルも思想も、身分も言語も大きく異なった二人であって、両者を結びつける線というのは一見して見出せない。だけどこの二人を比較して論じた人がいて、それはウィーンの性病理学者であるクラフト=エビング。エビングはその名高い主著「性の精神病理学」で対になる医学上の専門用語として、サディズム、マゾヒズムを提唱した。つまりそもそもが医学用語。それもある個人が恣意的な判断で用いたのがさいしょで、それが世界的に広まっちゃったって話。現在SMの二文字がこんなに有名になっちゃったってことは、サドにもマゾッホにも、そしてたぶんエビングにも、予想できるはずないことなのでした。」
「病名のないところに病気はない、とでもいうことかしらね。エビングの主著があまりに有名になりすぎたために、サディズムとマゾヒズムの言葉がその元となった作家たちよりも有名になっている。そして作家たちの名は本人たちにはまるで無関係な医学用語のしたに隠れてしまった、か。なんともいいようない事実ね。」
「エビングの命名は、作家としてのサドやマゾッホの名を葬り去ったっていっても過言でないもしれない。でもただサディズムマゾヒズムの名がいまだに世界中でつかわれてるからこそ、サドやマゾッホもやっぱり死地にばかりいるわけでなくて、二人の作品は今でも多くの人が愛読してる。そういう事情を考えると、エビングの仕業は一概に作家としてのサドやマゾッホを毀損したともいえなくて、ただ運命の悪戯としかいいようないことなのでないかな。そしてサドの作品とマゾッホの作品に、ある著しい対照があるのは確実であって、そのことにいち早く注目したエビングの碧眼は、やっぱりただ事でないかなとは思う。だからこそサディズムとマゾヒズムはこれだけ世に広まったのだとも思えるし。」
「サディズムとマゾヒズムの対照点ね。さてサディズムとマゾヒズムが反対概念であることは多くの世上の意見と一致することでしょうけど、そのちがいは何か明確に述べられるのかといえば、これは難事ね。そう上手く答えられる人は少ないでしょう。」
「まずさいしょに確認しておきたいことは、マゾヒストは苦痛を快楽に変化させてるわけでないということ。このことはけっこう見落とされがちなことかな。苦痛が快楽に変わるわけじゃなくて、マゾヒストにとって苦痛とは、あくまで性的快感に到達するために必要な催淫効果を生む可能性のある一要素にすぎないということ。苦痛が快楽に変わるわけないよね。小指をタンスの角にぶつけたら、どんな人でも痛がるのが当然で、マゾヒストがそうじゃないなんてことない。喜びは苦痛そのものにあるのじゃなくて、苦痛が生みだす性的衝動にこそある。ここをまず勘ちがいしないこと。マゾッホの小説を読めば一目瞭然で、彼の小説の主人公は自身をひどい目にわざとあわせて、そして本気で苦しんでる。その苦痛が快楽として描かれてるわけでけしてなくて、その苦痛がもたらす性的快感こそが目標なのだ。」
「ま、苦痛と快楽がいかに結びつくかというのは心理学的に見ても一筋縄で行かないものなのよね。だからここは数ある説のひとつと見るべきで、実際以上に複雑なのがマゾヒズムだと考えておくのがよいかしら。ただ苦痛が快楽じゃないというのは、これは確実といっていいでしょうね。苦痛が気持いいというのは、それは神経がおかしいのよ。」
「フロイト、ジャン・ポーラン、ジル・ドゥルーズ、ハヴェロック・エリスにジョルジュ・バタイユ。マゾヒズムの謎にとりくんだ人たちは過去にいくらもいて、その複雑で難解な性の理論の世界は、覗きこめば果てないくらい。それをぜんぶ含めて話すなんて、とても私の役目じゃないし、それにめんどくさいから、私なりにマゾヒズムについての所論を述べるなら、マゾヒズムとは徹頭徹尾観念的な快楽なのじゃないかなって。つまりさっきいったように、マゾヒストは苦痛を快楽に感じてるわけでなくて、苦痛はただ最終的な快楽のための要素にすぎない。ここで最終的な快楽とは何かなといえば、その快楽とは苦痛を受けるマゾヒストが思念して構成した複雑な幻想にほかならなくて、ただ苦痛を望むのは、苦痛が彼の幻想の成就にとって不可欠だからにちがいないのじゃないかな。‥宗教的聖人は、十字架にかけられることで、彼の願いを完遂する。童話世界のお姫さまは、王子さまに助けられるにはかならず何かに苦しんでなくちゃいけない。塔に幽閉されてるとか、いじわるな継母にいじめられてるとか、毒りんご食べちゃって横たわってるとか。マゾヒストの願いとは、そういった幻想による自己陶酔を可能とすることであって、ジル・ドゥルーズがかつて明確に述べたように、「へつらうことで傲慢な者となり、服従することで反抗的な者となる」のが、マゾヒストの真実にほかならない。苦痛を自己自身に引き受けるマゾヒストは、だからサディストと比べてより身体的であって、より根源的に存在しうる。それは華麗な精神世界の住人、美しい幻想による、完全な自己陶酔を必要とするのだから。」
「マゾヒストはその基本としてナルシストでもある、か。ま、そうかしらね。マゾヒズムに比べるとサディズムがいたって単純な心理の表明にほかならないことは、もういうまでもないことかしら。他者を破壊することによって攻撃衝動を満足せしめることは、これは子どもでもやっていることでしょうからね。」
「うん。サディズムはだから機械的で、マゾヒズムに比べると単調なふうになっちゃうのはしかたないことかなって思う。それはサドとマゾッホの作品を読み比べてみればたぶんすぐわかること。どちらがより楽しく読めるかで、あなたの好みは判断できるかな。ただなかにはサディズムもマゾヒズムも、どちらもそれなり気になるのだけど、なんて人がいて、それはあなた、サディストが同時にマゾヒストであり、マゾヒストが同時にサディストであることは、実はきわめてたくさんなのですよって伝えちゃう。このサディストでありながらなおかつマゾヒスト、逆もまた真なりが、サディズムマゾヒズムのさらなる問題で、エロティシズムを複雑にしちゃってることのひとつなのだけど、とりあえずこのエントリはここでおしまい。サディズムマゾヒズムは、思ってるより複雑で、そしてふかい空のように尽き果てぬ興味を抱かせてくれる関心事ということが、少しでも伝わったら幸いかな。エロティシズムは、だからとても、おもしろいね。それは人間の存在の暗闇として、いつまでも知性に突きつけられてる課題なのだから。」
「エロティシズムは人間存在にとって避けえぬ事柄、か。はてさてね。気軽に用いられているSMという言葉だけでも、これだけの歴史性があるのだから、エロティシズム全般の話をしようと思ったらその労力はたいへんなものでしょうね。ま、資料には事欠かない分野でしょうし、多くの人にとって無視できぬ話題であることもまたたしかかしら。それは人間の本質としての暗闇である、か。本当、尽き果てぬ暗闇ね、これは。」
