「好きな作品がアニメ化されると、嬉しいですか?」に私見
2008/04/29/Tue
Half Moon Diaryさん「好きな作品がアニメ化されると、嬉しいですか?」
『1つは、原作とアニメは、まったく別の作品だということ。
原作とアニメは設定こそ一緒ですが、絵もストーリーも、何もかもが別物です(ストーリーはアウトラインは一緒かも知れませんけど、細かいところは違いますよね)。よく「原作に忠実」というほめ言葉を見かけますが、それは程度の問題でしかありません。
そしてもう1つは、アニメは原作を絶対に超えられないということ。
これは、アニメがエンターテインメントとして原作に劣っているというわけではありません。何かをアニメ化した作品で、すばらしいものはたくさんあります。「涼宮ハルヒの憂鬱」とか「CLANNAD」とか「瀬戸の花嫁」とか。
しかし、原作と同じことをやるなら、原作をやれば(読めば)十分じゃないかとも思います。かといって違うこと、違うストーリーをやってしまったら原作の意味がなくなってしまう。少なくとも「原作のストーリーが好きだからアニメを見る」という行動理由が成り立たなくなるからです。
アニメ(に限らずほかのメディアミックス作品)が原作を超えられないと思うのは、原作が一番純度が高くて、情報量も多いからです。アニメには動きと音声、漫画には絵とコマ割りという武器があり、より豊かな表現が出来るかもしれませんが、そうやって“付け加えられた表現”というのは、原作とはやっぱり別物なんですよね。少なくとも自分はそう思っている。』
「この手の話は人によって見解がそれぞれで、それだけ紛糾する話題ではあるのだけど。とりあえず私の意見をいうなら、一つ目の原作とアニメはまったくべつの作品だっていうのは同意かな。これはそう。当たり前といえば当たり前。次に二つ目のアニメは原作をぜったいに越えられないだけど、これはちょっと微妙。というのも、原作と同じことをやるなら原作をやれば十分じゃないかーってことなのだけど、その原作が何をやりたいかと、アニメが何をやりたいかは、かならずしも一致しなくて、そして一致する必要もないということ。作品をつくるうえでの作家性の発露と解釈という意味で、だからある原作がアニメ化するとこの製作者はこの作品ぜんぜん読めてないなーとか、なんでこの作品でそんなことしちゃうのかなーとか、意見が出てくる原因にもなる。ただ原作とアニメがまったく同じことをやるというのは作家がちがう以上あるていど無理があるのは自然であって、だからこの部分はしかたないものじゃないかなとは思うのだけど。」
「原作のやりたいこととアニメのやりたいことは重ならない場合も多々あり、それもまた当然だということかしらね。これは作家が作品に何を込めるかといった非常に作家論的な話かしら。ようは作品と作家の関係のスタンスの取り方の差異よ。」
『オリジナルという概念がそれだけ曖昧である以上、形の上で「オリジナル」であるか否かはそう大きな問題にはなり得ない。それよりもむしろ、その作品のなかにつくり手の見てきたものや考えてきたことがちゃんと結実して形になっているかどうかの方が、僕にとっては重要だ。つまり、なにをやりたくてやっているのかということが明快であれば、企画のスタートはなんだっていい。逆に、なんだっていいというところから新たなチャンスが生まれてくる。』
押井守「これが僕の回答である。」
「周知のように押井監督って極端にオリジナル作品が少ない人であって、さらに原作つきアニメをつくって原作者ともめたりすることがよくある監督なのだけど、ここで押井監督がいってることはとても本質的なことなんじゃないかなって思う。それはつまり原作とアニメはまったくべつの作品だということで、原作つきアニメだからって私はそのアニメを原作の付属物として見ることはなくて、それをひとつの独立した作品として受け入れることにしてる。原作を知ってる場合、もちろん原作のバイアスというのはあるわけだし、それに対する思いいれというのもあるわけだから、原作つきアニメを独立した作品と見ることはなかなかむずかしいかもだけど、それが原作者が関係してるのでないかぎり、アニメ作品はアニメスタッフの作品としてあるほかないのだから、私はアニメはアニメとして、原作を越えられるのかーとかは考えないで見てるかな。もちろんアニメ化というのはほんとにいろいろな場合があって、原作と連動してお話が展開するなんてこともあるから、一概にいい切っちゃうことはできないのだけど。」
「押井監督の代表作はほとんどが原作ありなのよね。オリジナルはほとんど売れない監督だし。それなのに第一級の映画監督として認知されているのだから、作品において原作つきというのはそれほど評価されるにおいて障害とはならないのでしょうね。」
「アニ横とひとひらのアニメ化はうれしかった。実際見てみて、どちらもやりたいこととして向いてる方向は原作とそれほど異なってなくて、だから原作とそれほど乖離した印象は受けなかったし、そこはよかったなって思う。スケッチブックについていえば、スケッチブックは原作とアニメがやりたいことが大きくちがってて、原作が小さな瞬間に小さく大切にしてることを、アニメはそれで一話作っちゃったりしてた。これは私はどちらもすごくおもしろかったから、よかったなってこれも思う。‥あとはとらドラについてだけど、とらドラってにぎやかな場面たくさんでアニメ映えする作品ではあるだろなって思うけど、でも微妙な性愛の機微が原作でそこかしこに展開されてて、それがアニメで十分に描かれるかなって思えば、ちょっとむずかしいかもとは思っちゃう。ただ私は、書いてきたとおり、アニメと原作のやりたいこと、向う方向がかならずしも重なる必要はないなって思うから、視聴するまで何かいうのは控えてる。ただそのやりたいことが素敵なもので、作品にきれいに結実することを願うばかり。とらドラは、素敵なアニメ作品に、なるといいな。」
「押井監督の関係でいえば、パトレイバーは作品ごとに作者のやりたいことがちがったからああも膨大な世界観を築きあげることができたのでしょうし、攻殻もまた然りでしょうね。アニメ化というのは何が幸いするかわかったものじゃないのでしょう。はてさて、果してとらドラはどうかしら。その結果がどう転ぶか、まあ楽しみね。期待をかけてみましょうか。」
押井守「これが僕の回答である。」
『1つは、原作とアニメは、まったく別の作品だということ。
原作とアニメは設定こそ一緒ですが、絵もストーリーも、何もかもが別物です(ストーリーはアウトラインは一緒かも知れませんけど、細かいところは違いますよね)。よく「原作に忠実」というほめ言葉を見かけますが、それは程度の問題でしかありません。
そしてもう1つは、アニメは原作を絶対に超えられないということ。
これは、アニメがエンターテインメントとして原作に劣っているというわけではありません。何かをアニメ化した作品で、すばらしいものはたくさんあります。「涼宮ハルヒの憂鬱」とか「CLANNAD」とか「瀬戸の花嫁」とか。
しかし、原作と同じことをやるなら、原作をやれば(読めば)十分じゃないかとも思います。かといって違うこと、違うストーリーをやってしまったら原作の意味がなくなってしまう。少なくとも「原作のストーリーが好きだからアニメを見る」という行動理由が成り立たなくなるからです。
アニメ(に限らずほかのメディアミックス作品)が原作を超えられないと思うのは、原作が一番純度が高くて、情報量も多いからです。アニメには動きと音声、漫画には絵とコマ割りという武器があり、より豊かな表現が出来るかもしれませんが、そうやって“付け加えられた表現”というのは、原作とはやっぱり別物なんですよね。少なくとも自分はそう思っている。』
「この手の話は人によって見解がそれぞれで、それだけ紛糾する話題ではあるのだけど。とりあえず私の意見をいうなら、一つ目の原作とアニメはまったくべつの作品だっていうのは同意かな。これはそう。当たり前といえば当たり前。次に二つ目のアニメは原作をぜったいに越えられないだけど、これはちょっと微妙。というのも、原作と同じことをやるなら原作をやれば十分じゃないかーってことなのだけど、その原作が何をやりたいかと、アニメが何をやりたいかは、かならずしも一致しなくて、そして一致する必要もないということ。作品をつくるうえでの作家性の発露と解釈という意味で、だからある原作がアニメ化するとこの製作者はこの作品ぜんぜん読めてないなーとか、なんでこの作品でそんなことしちゃうのかなーとか、意見が出てくる原因にもなる。ただ原作とアニメがまったく同じことをやるというのは作家がちがう以上あるていど無理があるのは自然であって、だからこの部分はしかたないものじゃないかなとは思うのだけど。」
「原作のやりたいこととアニメのやりたいことは重ならない場合も多々あり、それもまた当然だということかしらね。これは作家が作品に何を込めるかといった非常に作家論的な話かしら。ようは作品と作家の関係のスタンスの取り方の差異よ。」
『オリジナルという概念がそれだけ曖昧である以上、形の上で「オリジナル」であるか否かはそう大きな問題にはなり得ない。それよりもむしろ、その作品のなかにつくり手の見てきたものや考えてきたことがちゃんと結実して形になっているかどうかの方が、僕にとっては重要だ。つまり、なにをやりたくてやっているのかということが明快であれば、企画のスタートはなんだっていい。逆に、なんだっていいというところから新たなチャンスが生まれてくる。』
押井守「これが僕の回答である。」
「周知のように押井監督って極端にオリジナル作品が少ない人であって、さらに原作つきアニメをつくって原作者ともめたりすることがよくある監督なのだけど、ここで押井監督がいってることはとても本質的なことなんじゃないかなって思う。それはつまり原作とアニメはまったくべつの作品だということで、原作つきアニメだからって私はそのアニメを原作の付属物として見ることはなくて、それをひとつの独立した作品として受け入れることにしてる。原作を知ってる場合、もちろん原作のバイアスというのはあるわけだし、それに対する思いいれというのもあるわけだから、原作つきアニメを独立した作品と見ることはなかなかむずかしいかもだけど、それが原作者が関係してるのでないかぎり、アニメ作品はアニメスタッフの作品としてあるほかないのだから、私はアニメはアニメとして、原作を越えられるのかーとかは考えないで見てるかな。もちろんアニメ化というのはほんとにいろいろな場合があって、原作と連動してお話が展開するなんてこともあるから、一概にいい切っちゃうことはできないのだけど。」
「押井監督の代表作はほとんどが原作ありなのよね。オリジナルはほとんど売れない監督だし。それなのに第一級の映画監督として認知されているのだから、作品において原作つきというのはそれほど評価されるにおいて障害とはならないのでしょうね。」
「アニ横とひとひらのアニメ化はうれしかった。実際見てみて、どちらもやりたいこととして向いてる方向は原作とそれほど異なってなくて、だから原作とそれほど乖離した印象は受けなかったし、そこはよかったなって思う。スケッチブックについていえば、スケッチブックは原作とアニメがやりたいことが大きくちがってて、原作が小さな瞬間に小さく大切にしてることを、アニメはそれで一話作っちゃったりしてた。これは私はどちらもすごくおもしろかったから、よかったなってこれも思う。‥あとはとらドラについてだけど、とらドラってにぎやかな場面たくさんでアニメ映えする作品ではあるだろなって思うけど、でも微妙な性愛の機微が原作でそこかしこに展開されてて、それがアニメで十分に描かれるかなって思えば、ちょっとむずかしいかもとは思っちゃう。ただ私は、書いてきたとおり、アニメと原作のやりたいこと、向う方向がかならずしも重なる必要はないなって思うから、視聴するまで何かいうのは控えてる。ただそのやりたいことが素敵なもので、作品にきれいに結実することを願うばかり。とらドラは、素敵なアニメ作品に、なるといいな。」
「押井監督の関係でいえば、パトレイバーは作品ごとに作者のやりたいことがちがったからああも膨大な世界観を築きあげることができたのでしょうし、攻殻もまた然りでしょうね。アニメ化というのは何が幸いするかわかったものじゃないのでしょう。はてさて、果してとらドラはどうかしら。その結果がどう転ぶか、まあ楽しみね。期待をかけてみましょうか。」
押井守「これが僕の回答である。」