読書指南というかなんというか
2008/05/21/Wed
活字離れに終止符を打つ、楽しく本を読むための7つの方法
1.まず自分の興味のある本を読んでみる。
「それはそかもかな。ただ本を読みつづけてくときに、自分の興味外の本、あんまり読む気おきないかなーという読書の必要性が出てくることもあって、自由に好きな本が読める状態、というのはなかなか貴重ではあるのかも。つまりぜんぜん読書と無縁だったよーという人は、自分なりの読書体系をこれからつくってくことが可能で、あるていど読んじゃってる人だけど、その経験の蓄積が、本の選択を制限してるなんてことがあるかな。それは嘆いてもしかたないことではあるのだけど。」
「ま、そういう側面もあるのかしらね。思想書などを読んでいくときはそれなりの目安というものはあるものだし、逆に文学全集というと数が多すぎて初めての人は戸惑うでしょう。そういったガイドラインというものの需要はありそうだけれど、実際はなかなか見当らないかしら。」
2.自分の読解力にあった本か少し難しめの本を読む
「自分の読解力なんて何すればわかるの? という問題があって、これはうーん、けっきょく果敢に興味ある本に突撃して、そのたび撃墜されながら体得してくしかないと思う。興味出たのならどんなでも臆せず手にとってみて、それからがんばって読んでくことが大切かな。読みとおすことには忍耐が必要ということがあって、さいしょはつまんないからってかんたんに投げ出すのもいくないこと。そこらの付きあいはむずかしいかな。」
「少し難しめというのは厄介かしらね。辞書などで調べた用語は忘れやすいというけれど、忘れるたびに辞書でまた引けばいいだけのことよ。そんなに甘えられてもどうしようもないかしら。」
3.徹底的に読み込むこと。また同じ著者の本や似たようなジャンルの本も読み込むこと
「好きな本を読んでくのなら、自然とそうなるのじゃない? ということで三番目はいうことないかな。当たり前な気がするし。」
「興味ある本を読めといってるから、ま、ふつうのことでしょうね。徹底的に読める本というのはまた議論がべつに必要でしょうけど。」
4.読んでも理解できない場合は聴いてみる
「古語の練習で落語なんかきくのはいいのだよね。きく、ということは有効な語学練習で、でも朗読テープなんてある本はそんな数ないと思うけど。そこらはどなのかな。」
「難解な部分は声に出して読め、ということかしらね。ま、それには賛成よ。音読というのはあれでなかなかいい勉強法なのよね。」
5.難しいことを考えずに、感じるままに本を読む。
「抽象的なこといっちゃってー。なんだかこれだけネタ風味。素直に読めということだけは賛成なのだけど、ね。」
「自分に引きつけて読んでみろということかしらね。他人の意見に左右されたら、自由な読書は叶わない、か。」
6.理解できなくても気にしない。
「これはあんがいそう。思想書なんか意外に思われるかもだけど、とくにそう。私の習った先生のひとりに、ある思想家の全集を読みきって、ぜんぜん理解したつもりにはなれなかったけど、でもどこか世界観に変化を受けたって人がいて、私はそれは理解できる部分ある。つまり理解したぜーって思うことが、ひとつの過ちのことである危険があって、読書はあまり完全をきすものでないかなって思う。べつな言い方すれば、完全な読書の仕方なんてあるわけないし、完璧にある一冊の本を完全に会得したって思うことは、どこか怖ろしい部分があるよね。一冊読んでそれで完璧はい終り、なんて本はつまらなくて、膨大な古典の世界はそんな生半な態度が通じるものでない。それはひたすら大きくて、そして温かい精神の世界であるのだから。」
「完全な読書法なんてのは眉唾だというのはそうかしらね。ま、理解というのはなかなかむずかしい意味のある言葉よ。それは読書の仕方と個人の資質にも関係してくる問題でしょうね。」
7.とにかくたくさん本を読む。
「読解力、というのがくせもので。あんがいたくさん読んでも読書のやり方下手くそかなって思う人は、ときたま見かけるものかな。なんていっちゃう私があれれかもだけど、でもけっこうていねいに文献を読んでくということは、学問的な陶冶が求められる技術であって、読解力というのはそうした意味でむずかしい側面があるもの。そういうことからただ本を読むなら読解力なんて気にしなくていいし、気にするだけろくでもない。むしろそういった陶冶から免れた人が奇抜な感性で印象的な読書体験をしたりするものだから、ここは敷衍すべき箇所でないなって気がする。大切なのはけっきょく、その本と直接的な地平に立つこと、対等に、その本と私が向きあう誠実さを抱くことだと思う。私が気にしてるのはそのくらいで、あとは読書なんて楽しく読めたらそれでいっかな、くらいかな。あんまりふかく考えこんじゃう問題でない。読書論は、けっこう魔窟かもかな。」
「ま、読書論がえてしてつまらない空論に終るのはそこらが原因でしょうね。だれもが自分自身を通して学んでいかねばならない領域ではあるのでしょう。そういったことから読書指導というのは微妙な機微が必要でしょうし、教える人も当然限られてくる。はてさて、どんなものかしらね。果して上手い読書指導なんてありうるのかしら?」
→ドストエフスキーは何から読めばいいのか、という問題
1.まず自分の興味のある本を読んでみる。
「それはそかもかな。ただ本を読みつづけてくときに、自分の興味外の本、あんまり読む気おきないかなーという読書の必要性が出てくることもあって、自由に好きな本が読める状態、というのはなかなか貴重ではあるのかも。つまりぜんぜん読書と無縁だったよーという人は、自分なりの読書体系をこれからつくってくことが可能で、あるていど読んじゃってる人だけど、その経験の蓄積が、本の選択を制限してるなんてことがあるかな。それは嘆いてもしかたないことではあるのだけど。」
「ま、そういう側面もあるのかしらね。思想書などを読んでいくときはそれなりの目安というものはあるものだし、逆に文学全集というと数が多すぎて初めての人は戸惑うでしょう。そういったガイドラインというものの需要はありそうだけれど、実際はなかなか見当らないかしら。」
2.自分の読解力にあった本か少し難しめの本を読む
「自分の読解力なんて何すればわかるの? という問題があって、これはうーん、けっきょく果敢に興味ある本に突撃して、そのたび撃墜されながら体得してくしかないと思う。興味出たのならどんなでも臆せず手にとってみて、それからがんばって読んでくことが大切かな。読みとおすことには忍耐が必要ということがあって、さいしょはつまんないからってかんたんに投げ出すのもいくないこと。そこらの付きあいはむずかしいかな。」
「少し難しめというのは厄介かしらね。辞書などで調べた用語は忘れやすいというけれど、忘れるたびに辞書でまた引けばいいだけのことよ。そんなに甘えられてもどうしようもないかしら。」
3.徹底的に読み込むこと。また同じ著者の本や似たようなジャンルの本も読み込むこと
「好きな本を読んでくのなら、自然とそうなるのじゃない? ということで三番目はいうことないかな。当たり前な気がするし。」
「興味ある本を読めといってるから、ま、ふつうのことでしょうね。徹底的に読める本というのはまた議論がべつに必要でしょうけど。」
4.読んでも理解できない場合は聴いてみる
「古語の練習で落語なんかきくのはいいのだよね。きく、ということは有効な語学練習で、でも朗読テープなんてある本はそんな数ないと思うけど。そこらはどなのかな。」
「難解な部分は声に出して読め、ということかしらね。ま、それには賛成よ。音読というのはあれでなかなかいい勉強法なのよね。」
5.難しいことを考えずに、感じるままに本を読む。
「抽象的なこといっちゃってー。なんだかこれだけネタ風味。素直に読めということだけは賛成なのだけど、ね。」
「自分に引きつけて読んでみろということかしらね。他人の意見に左右されたら、自由な読書は叶わない、か。」
6.理解できなくても気にしない。
「これはあんがいそう。思想書なんか意外に思われるかもだけど、とくにそう。私の習った先生のひとりに、ある思想家の全集を読みきって、ぜんぜん理解したつもりにはなれなかったけど、でもどこか世界観に変化を受けたって人がいて、私はそれは理解できる部分ある。つまり理解したぜーって思うことが、ひとつの過ちのことである危険があって、読書はあまり完全をきすものでないかなって思う。べつな言い方すれば、完全な読書の仕方なんてあるわけないし、完璧にある一冊の本を完全に会得したって思うことは、どこか怖ろしい部分があるよね。一冊読んでそれで完璧はい終り、なんて本はつまらなくて、膨大な古典の世界はそんな生半な態度が通じるものでない。それはひたすら大きくて、そして温かい精神の世界であるのだから。」
「完全な読書法なんてのは眉唾だというのはそうかしらね。ま、理解というのはなかなかむずかしい意味のある言葉よ。それは読書の仕方と個人の資質にも関係してくる問題でしょうね。」
7.とにかくたくさん本を読む。
「読解力、というのがくせもので。あんがいたくさん読んでも読書のやり方下手くそかなって思う人は、ときたま見かけるものかな。なんていっちゃう私があれれかもだけど、でもけっこうていねいに文献を読んでくということは、学問的な陶冶が求められる技術であって、読解力というのはそうした意味でむずかしい側面があるもの。そういうことからただ本を読むなら読解力なんて気にしなくていいし、気にするだけろくでもない。むしろそういった陶冶から免れた人が奇抜な感性で印象的な読書体験をしたりするものだから、ここは敷衍すべき箇所でないなって気がする。大切なのはけっきょく、その本と直接的な地平に立つこと、対等に、その本と私が向きあう誠実さを抱くことだと思う。私が気にしてるのはそのくらいで、あとは読書なんて楽しく読めたらそれでいっかな、くらいかな。あんまりふかく考えこんじゃう問題でない。読書論は、けっこう魔窟かもかな。」
「ま、読書論がえてしてつまらない空論に終るのはそこらが原因でしょうね。だれもが自分自身を通して学んでいかねばならない領域ではあるのでしょう。そういったことから読書指導というのは微妙な機微が必要でしょうし、教える人も当然限られてくる。はてさて、どんなものかしらね。果して上手い読書指導なんてありうるのかしら?」
→ドストエフスキーは何から読めばいいのか、という問題
