林のなかの象のようには、生きられない
2008/07/31/Thu
まぬけづらさん
『変なことを言うのかもしれないけれど、僕は、ここで必要になるのがハードボイルドだと思いますね。』
「反論、というほどのものでもないけど。なんていうのかな、人が何かを失っちゃって、そこで硬派に徹するというのも選択肢のひとつではあるのだけど、ハードボイルドに生きられないなって認めたのが、認めてしまったのが、「イノセンス」だったんですよ。「イノセンス」でバトーは犬を飼ってるけど、あれは素子を失ったバトーが‥最愛の、自分のぜんぶを懸けてもいいって思えるくらいの恋焦がれる人を失くしてしまった少年の心性をもつ中年男が、自分ひとりだけでは生きられないなって気づいたから、仕事の邪魔になるのはわかってたけど、めんどなバセットハウンドといっしょに暮すんだよ。バトーには、犬が必要だった。孤独に徹することはできなかった。そこにイノセンスって作品の、ある白眉な一点があって、それは人は弱い存在だって明確に認めてること。私は大好きな人を失くしちゃって、悲しいよ。その悲しさを埋めるために、私は犬といっしょにいることが必要なんだよ。そう明確に、タフさの見本みたいなバトーがいい切っちゃってること。孤独に負けた男が、犬に慰められながら、その日その日を自堕落に生きてるということ。この点に、イノセンスのたしかな現実認識がある。中年なんてこんなものなんだって、押井監督の、ある確信がある。」
「素子は身体を喪ってゴーストだけを連れて、ある別世界へと旅立った。バトーにも、理屈からいえば、その跡を追うことはできるのよね。しかしバトーはそれができなかった。彼はあくまで現世に執着しながら、しかし満たされない空白の身体を引きずって、犬と暗闇の世界にいる。そう犬が、彼の本当の身体の役割を果しているともいえるのよね。孤独な人間は、どこかべつなところに己の拠点を見出さざるをえない、か。」
「素子にもなれない。犬にもなれない。そんな絶望に似た諦観を抱いたバトーが素子って精霊の遺す道筋をたどりながら、彼女の記憶を追体験していき、彼女の面影を随所に認めながら、最終的に、地獄の煮え立つ釜の底で、彼は愛する女性と再会する。‥イノセンスという作品は、そういった意味で、とてもシンプルな構成をしてるし、無駄があんまりなさすぎで、そこはちょっとおもしろみに欠けるかなって気もしないでないかな。ただ、いわんとしてるメッセージのひとつにはまちがいなく家族の暗喩があって、それは素子のように空白を抱えながらひとりきりで生きる人もいて、トグサのように娘を抱いて生きる人もいて、バトーのように犬を抱かなきゃ生きられない人もいて、そしてキムのように人形に見つめられながらでなければ己の存在を保てないで失っちゃう人もいる。‥ハードボイルドは、弱い中年のバトーには無理だったんじゃないかな。そこには弱い自分をもてあましながら、ふてくされてる人間がいるだけ。つよくなく弱くあって、ただ傍らに犬がいる。でもその犬さえいつか失っちゃう。そんな予感に満ちた人に、つよくあれというのは、無理じゃないのかな。そしてバトーは、ひとりきりでられない私たちの心のあり方の明瞭な影像である。幸福でも不幸でもない、ただ孤独であるだけの人の象徴である。それが、あの映画の結論だった。」
「娘を抱いた親は娘を見、人形を抱いた娘は人形を見、犬を抱いた男は人形に見つめられた、か。あの三すくみのイノセンスのラストシーンは、台詞で語る以上に雄弁だったかしらね。あんな簡単な象徴的な描写もまたないかしら。はてさて、私たちは何を抱いて何を見つめて、何に見つめられているのかしらね。それは各個人が思い返せば、事足りることではあるのでしょうけど。」
『幸せかどうか自問自答するのは人間だけ。犬や猫は絶対そんなことは考えない。どんな動物だって、今の自分の体と、今の自分の置かれた状況に十分満足している。それは彼らが身体=自分だから。でも、人間はそうはいかない。可能性としての身体とか、可能性としての人生とか、余計なものを抱え込んでしまう。それが人間の存在ではないかということ。それこそ、本当は「林のなかの象のように佇んでいればいい。何も望まず、たったひとりで」というお釈迦さまの言葉のようにひとりでいいんだと。』
押井守「ロマンアルバム イノセンス」
「ロマンアルバム イノセンス」
『変なことを言うのかもしれないけれど、僕は、ここで必要になるのがハードボイルドだと思いますね。』
「反論、というほどのものでもないけど。なんていうのかな、人が何かを失っちゃって、そこで硬派に徹するというのも選択肢のひとつではあるのだけど、ハードボイルドに生きられないなって認めたのが、認めてしまったのが、「イノセンス」だったんですよ。「イノセンス」でバトーは犬を飼ってるけど、あれは素子を失ったバトーが‥最愛の、自分のぜんぶを懸けてもいいって思えるくらいの恋焦がれる人を失くしてしまった少年の心性をもつ中年男が、自分ひとりだけでは生きられないなって気づいたから、仕事の邪魔になるのはわかってたけど、めんどなバセットハウンドといっしょに暮すんだよ。バトーには、犬が必要だった。孤独に徹することはできなかった。そこにイノセンスって作品の、ある白眉な一点があって、それは人は弱い存在だって明確に認めてること。私は大好きな人を失くしちゃって、悲しいよ。その悲しさを埋めるために、私は犬といっしょにいることが必要なんだよ。そう明確に、タフさの見本みたいなバトーがいい切っちゃってること。孤独に負けた男が、犬に慰められながら、その日その日を自堕落に生きてるということ。この点に、イノセンスのたしかな現実認識がある。中年なんてこんなものなんだって、押井監督の、ある確信がある。」
「素子は身体を喪ってゴーストだけを連れて、ある別世界へと旅立った。バトーにも、理屈からいえば、その跡を追うことはできるのよね。しかしバトーはそれができなかった。彼はあくまで現世に執着しながら、しかし満たされない空白の身体を引きずって、犬と暗闇の世界にいる。そう犬が、彼の本当の身体の役割を果しているともいえるのよね。孤独な人間は、どこかべつなところに己の拠点を見出さざるをえない、か。」
「素子にもなれない。犬にもなれない。そんな絶望に似た諦観を抱いたバトーが素子って精霊の遺す道筋をたどりながら、彼女の記憶を追体験していき、彼女の面影を随所に認めながら、最終的に、地獄の煮え立つ釜の底で、彼は愛する女性と再会する。‥イノセンスという作品は、そういった意味で、とてもシンプルな構成をしてるし、無駄があんまりなさすぎで、そこはちょっとおもしろみに欠けるかなって気もしないでないかな。ただ、いわんとしてるメッセージのひとつにはまちがいなく家族の暗喩があって、それは素子のように空白を抱えながらひとりきりで生きる人もいて、トグサのように娘を抱いて生きる人もいて、バトーのように犬を抱かなきゃ生きられない人もいて、そしてキムのように人形に見つめられながらでなければ己の存在を保てないで失っちゃう人もいる。‥ハードボイルドは、弱い中年のバトーには無理だったんじゃないかな。そこには弱い自分をもてあましながら、ふてくされてる人間がいるだけ。つよくなく弱くあって、ただ傍らに犬がいる。でもその犬さえいつか失っちゃう。そんな予感に満ちた人に、つよくあれというのは、無理じゃないのかな。そしてバトーは、ひとりきりでられない私たちの心のあり方の明瞭な影像である。幸福でも不幸でもない、ただ孤独であるだけの人の象徴である。それが、あの映画の結論だった。」
「娘を抱いた親は娘を見、人形を抱いた娘は人形を見、犬を抱いた男は人形に見つめられた、か。あの三すくみのイノセンスのラストシーンは、台詞で語る以上に雄弁だったかしらね。あんな簡単な象徴的な描写もまたないかしら。はてさて、私たちは何を抱いて何を見つめて、何に見つめられているのかしらね。それは各個人が思い返せば、事足りることではあるのでしょうけど。」
『幸せかどうか自問自答するのは人間だけ。犬や猫は絶対そんなことは考えない。どんな動物だって、今の自分の体と、今の自分の置かれた状況に十分満足している。それは彼らが身体=自分だから。でも、人間はそうはいかない。可能性としての身体とか、可能性としての人生とか、余計なものを抱え込んでしまう。それが人間の存在ではないかということ。それこそ、本当は「林のなかの象のように佇んでいればいい。何も望まず、たったひとりで」というお釈迦さまの言葉のようにひとりでいいんだと。』
押井守「ロマンアルバム イノセンス」
「ロマンアルバム イノセンス」
