CLANNAD ~AFTER STORY~ 第2話「いつわりの愛をさがして」
2008/10/11/Sat
「今回は早苗さんかわいくてよかった、というくらいの話かな。こういう人畜無害なお話は、みてるぶんには楽しくて好きなのだけど‥早苗さんのメイド姿よかったよねー。メイドはやっぱりよろしかな‥エントリひとつ書くとなると、少し内容にこまっちゃうかなって気がしないでない。というか、クラナドって一話一話はたいがいそんなので、作品自体が全体を総括してはじめてテーマなり細部なりに切りこめる作り方をしてるから、各エピソードごとに感想をつけるというのは、そもそも不適な作品なのかも。‥ということで、また気ままに雑談ていどのエントリになるかな。このまえもいったけど、この作品で母性は基本的に過不足なくて、メインに来るのはあくまで父性だというのは、いったいどんな理由があるのかなって疑問を、少し煮詰めておきたい。これはけっこう、keyの作品の系譜から考えるのが適当かなって気がする。」
「kanonもAirも、突き詰めれば母と子の物語だとはいえるのよね。Airはまさにそれを中心に描いたのであって、恋人としての、つまり性的関係におかれた父性としての往人は作中なんと疎外させられる結果となってしまった。あれは今に至るに衝撃があるのよね。恋人を追放し、母性的な愛情への安住を最終的な結論としたAirのエンディングは、やはり歪なほどに畸形的なのでしょう。そしてそのあとの作品であるクラナドにおいては、その畸形をどこかでバランスに戻す必要があった。しかしクラナドの物語は今度は逆に一見すれば父性だけを取り上げているように思える、と。」
「自己を支える母性的な愛情を、朋也は物語の初期の段階で渚って形において充足しちゃうから、かな。朋也は基本的に自分の基盤たりうる愛情の確保には、作中、一貫して欠けるってことはなかったように思える。それは渚がいなくなったあとも、早苗さんはいたのであり、そして古河家といった彼にとっての家庭の理想はすぐそこにあったからかなって思うかな。‥そこで問題となるのが父性だけれど、まず父性に踏みこむまえに、クラナドって作品世界にあらわれてる‥もうちょっといえば、kanonやAirにもあらわれてる‥狭く閉じた母子関係をもう少し鮮明にしておきたい。彼らが自分たちの基本にして、最終的な拠り所としてる、そして登場人物たちの行動特性にふかく影響もしてる母性関係は、もしかしたら彼らがことごとく兄弟がいないって事実に根ざしたために派生した結果なのじゃないかなって、私は気がする。つまり話し相手や遊び相手、対象を「母」のほかに向けえる同一地平に存在する「他者」たる兄弟がいれば、kanonもAirも、そしてクラナドも、ああまで歪な方向に進むことはなかったのじゃないかな。‥それは各作品の兄弟姉妹の描かれ方を瞥見すれば理解できることで、kanonの美坂姉妹やAirの霧島姉妹、そしてクラナドの杏と椋は、いずれも母と子の関係に執着しすぎな主人公とメインヒロインの蒙る母子関係の‥家族という桎梏から、あるていど解放されている。そう、兄弟がいないということが、keyの諸作品の理解については、意外と肝心な部分になることでないかな。ただリトバスの恭介と鈴にまでなると、事態はまた微妙なことになっちゃうのだけど‥」
「恭介は鈴にとっての事実上の父親であるからでしょうね。棗兄妹を単純な兄妹という構図で見るのは誤りなのでしょう。しかし、ま、昨今のオタク的作品が兄弟の不在という前提で成り立っているものが多いというのは少し興味深いことかしら。「とらドラ!」なんかも、竜児や大河に兄妹がいれば、彼らの人生は大分ちがったものになったでしょう。ま、妹萌えとかいうのはまたべつな構図でしょうがね。そこらはお笑い種というものよ。はてさてと、いうものよ。」
→リトバスの描く家族関係は、ある意味つらい
「kanonもAirも、突き詰めれば母と子の物語だとはいえるのよね。Airはまさにそれを中心に描いたのであって、恋人としての、つまり性的関係におかれた父性としての往人は作中なんと疎外させられる結果となってしまった。あれは今に至るに衝撃があるのよね。恋人を追放し、母性的な愛情への安住を最終的な結論としたAirのエンディングは、やはり歪なほどに畸形的なのでしょう。そしてそのあとの作品であるクラナドにおいては、その畸形をどこかでバランスに戻す必要があった。しかしクラナドの物語は今度は逆に一見すれば父性だけを取り上げているように思える、と。」
「自己を支える母性的な愛情を、朋也は物語の初期の段階で渚って形において充足しちゃうから、かな。朋也は基本的に自分の基盤たりうる愛情の確保には、作中、一貫して欠けるってことはなかったように思える。それは渚がいなくなったあとも、早苗さんはいたのであり、そして古河家といった彼にとっての家庭の理想はすぐそこにあったからかなって思うかな。‥そこで問題となるのが父性だけれど、まず父性に踏みこむまえに、クラナドって作品世界にあらわれてる‥もうちょっといえば、kanonやAirにもあらわれてる‥狭く閉じた母子関係をもう少し鮮明にしておきたい。彼らが自分たちの基本にして、最終的な拠り所としてる、そして登場人物たちの行動特性にふかく影響もしてる母性関係は、もしかしたら彼らがことごとく兄弟がいないって事実に根ざしたために派生した結果なのじゃないかなって、私は気がする。つまり話し相手や遊び相手、対象を「母」のほかに向けえる同一地平に存在する「他者」たる兄弟がいれば、kanonもAirも、そしてクラナドも、ああまで歪な方向に進むことはなかったのじゃないかな。‥それは各作品の兄弟姉妹の描かれ方を瞥見すれば理解できることで、kanonの美坂姉妹やAirの霧島姉妹、そしてクラナドの杏と椋は、いずれも母と子の関係に執着しすぎな主人公とメインヒロインの蒙る母子関係の‥家族という桎梏から、あるていど解放されている。そう、兄弟がいないということが、keyの諸作品の理解については、意外と肝心な部分になることでないかな。ただリトバスの恭介と鈴にまでなると、事態はまた微妙なことになっちゃうのだけど‥」
「恭介は鈴にとっての事実上の父親であるからでしょうね。棗兄妹を単純な兄妹という構図で見るのは誤りなのでしょう。しかし、ま、昨今のオタク的作品が兄弟の不在という前提で成り立っているものが多いというのは少し興味深いことかしら。「とらドラ!」なんかも、竜児や大河に兄妹がいれば、彼らの人生は大分ちがったものになったでしょう。ま、妹萌えとかいうのはまたべつな構図でしょうがね。そこらはお笑い種というものよ。はてさてと、いうものよ。」
→リトバスの描く家族関係は、ある意味つらい