ef - a tale of melodies. 第4話「turn」
2008/10/29/Wed
「生き方の清算をつけてるって語る久瀬さんの言葉は、私にはどこか彼のかっこつけのように思えちゃうかな。とくに愛してたフィアンセがいたけど悲しませないために別れたって告げる場面は、もし私がそこにいたなら笑っちゃったかも。といって、たぶんほんとにそういうこという人が目の前にいたなら、笑えないけど、ね。あとでこっそり笑うくらい。でも笑っちゃだめなのかな。私は、久瀬さんの態度は笑うべきものだと思うけど。」
「ま、実際のところこういったふうにきちんと整理をしてから死ぬということは、人はふつうできないものでしょうからね。この久瀬の、自分は死の段取りをしているという態度は、なんというか極めて日本人的な死生観とも思えるかしら。きれいに死にたいと願うのは、突き詰めれば切腹に代表されるような様式美であり、そこに見出されるのはある種の自己満足の変形でしかないのよね。ま、それがわるいとはいわないけれど。」
「でもあえてわるいといっちゃおかな。久瀬さんは、きっとそのかつていたっていうフィアンセのもとで死ぬべきだったんだと、私は思うよ。人の死というのは、それはだれにとっても人生の重労働という側面で接せざるえない出来事だと思うけど、でも近親の人や愛する人の死というのは、やっぱり身近にいた人がその後始末なり整理をすべき事柄であって、悲しませたくないからって理由でひとり孤独に死のうとするのは、なんていえばいいのかわかんないけど、たぶん、それはただの悪しき中二病じゃないのかな。もちろん自分の好きな人を泣かせたくないっていうのはわかるけど、でもそれを愛する人に質してのうえでのことでなくて、久瀬さんは、たぶん何もいわずに別れちゃったのでしょ。それは、きっと、捨てられた人にとっては残酷なことでしかないんじゃないかなって、私は思う。久瀬さんは、たぶん感傷的になりすぎなのじゃ、ないのかな。」
「純真な人なのでしょうね、おそらく。だから自分の死にもある程度の潔癖感をもってしまうのでしょうけど、しかしそれは死んだあとは立派な墓を建ててくれとか、火葬にした灰は海に捨ててくれとか、そういった種類のわがままにおいて発揮すべきことであって、自分の生きた証をことごとく抹消することは、いってよければちょっと我が強すぎるのでないかしら。久瀬はおそらく自分のやってきたことをあまりに過大評価しすぎているのよ。人間、たいていは大したことないということを失念してしまってるのでしょう。」
「この類の美意識はあるていどはしかたないことだけど、かな。度をすぎると、嫌味になっちゃう。たとえばこれはこの手の話(→遠藤周作「砂の城」)に通じる問題であって、人は他者のようには生きられなくてただ自分の生き方しか私にはできないなってある了解がそこではなされるだけじゃ、ないのかな。それは久瀬さんが生き方の清算をつけようとしてるのは、自分の死後の他者に残る自分の記憶を問題にしてるからであると思えるからで、そうでなかったら友だちとか縁者からこんなに久瀬さんが逃げ回ってる理由はないものね。でも、私にはそれは久瀬さんの知的な逃避にすぎないように思える。そんなことしたって、意味ないよって、思う。だって、死ぬのはあなただけでないでない。」
「人はいずれ皆死ぬ、か。はてさてね。久瀬のやってることを肯定すれば、久瀬の目の前でミズキが死んでも、けっこう平気ということにはなりうるのよね。ま、こういう問題は人それぞれでしょうし、久瀬のやってることを非難することも究極的には必要ないのでしょう。ただ、もし私たちが久瀬の友人だったらと考えると、久瀬を殴りたくはなるでしょうね。べつに友だちでないただのアニメ作品だから、ま、べつにといって見ていられるけれど。はてさてね。」
「ま、実際のところこういったふうにきちんと整理をしてから死ぬということは、人はふつうできないものでしょうからね。この久瀬の、自分は死の段取りをしているという態度は、なんというか極めて日本人的な死生観とも思えるかしら。きれいに死にたいと願うのは、突き詰めれば切腹に代表されるような様式美であり、そこに見出されるのはある種の自己満足の変形でしかないのよね。ま、それがわるいとはいわないけれど。」
「でもあえてわるいといっちゃおかな。久瀬さんは、きっとそのかつていたっていうフィアンセのもとで死ぬべきだったんだと、私は思うよ。人の死というのは、それはだれにとっても人生の重労働という側面で接せざるえない出来事だと思うけど、でも近親の人や愛する人の死というのは、やっぱり身近にいた人がその後始末なり整理をすべき事柄であって、悲しませたくないからって理由でひとり孤独に死のうとするのは、なんていえばいいのかわかんないけど、たぶん、それはただの悪しき中二病じゃないのかな。もちろん自分の好きな人を泣かせたくないっていうのはわかるけど、でもそれを愛する人に質してのうえでのことでなくて、久瀬さんは、たぶん何もいわずに別れちゃったのでしょ。それは、きっと、捨てられた人にとっては残酷なことでしかないんじゃないかなって、私は思う。久瀬さんは、たぶん感傷的になりすぎなのじゃ、ないのかな。」
「純真な人なのでしょうね、おそらく。だから自分の死にもある程度の潔癖感をもってしまうのでしょうけど、しかしそれは死んだあとは立派な墓を建ててくれとか、火葬にした灰は海に捨ててくれとか、そういった種類のわがままにおいて発揮すべきことであって、自分の生きた証をことごとく抹消することは、いってよければちょっと我が強すぎるのでないかしら。久瀬はおそらく自分のやってきたことをあまりに過大評価しすぎているのよ。人間、たいていは大したことないということを失念してしまってるのでしょう。」
「この類の美意識はあるていどはしかたないことだけど、かな。度をすぎると、嫌味になっちゃう。たとえばこれはこの手の話(→遠藤周作「砂の城」)に通じる問題であって、人は他者のようには生きられなくてただ自分の生き方しか私にはできないなってある了解がそこではなされるだけじゃ、ないのかな。それは久瀬さんが生き方の清算をつけようとしてるのは、自分の死後の他者に残る自分の記憶を問題にしてるからであると思えるからで、そうでなかったら友だちとか縁者からこんなに久瀬さんが逃げ回ってる理由はないものね。でも、私にはそれは久瀬さんの知的な逃避にすぎないように思える。そんなことしたって、意味ないよって、思う。だって、死ぬのはあなただけでないでない。」
「人はいずれ皆死ぬ、か。はてさてね。久瀬のやってることを肯定すれば、久瀬の目の前でミズキが死んでも、けっこう平気ということにはなりうるのよね。ま、こういう問題は人それぞれでしょうし、久瀬のやってることを非難することも究極的には必要ないのでしょう。ただ、もし私たちが久瀬の友人だったらと考えると、久瀬を殴りたくはなるでしょうね。べつに友だちでないただのアニメ作品だから、ま、べつにといって見ていられるけれど。はてさてね。」