遠藤周作「火山」
2008/11/09/Sun
「善意がかならずしもよい事態をもたらすとは限らないということは、あらたまっていうまでもないことではあるけれど、でも基本として人には自分は善人だと思われたいな、私はわるいことしてなくて後ろ指指されるはずもない人間であるよねって、そんなふうな同意を得たいっていう、自分を善性の人だって信じてたいって心性が、備わってるかなって気はするかな。それは一般には世間体を気にするとか、夕食の時間にちょっと小言をいってみたりするお父さんの姿とか、道徳の時間に神妙な面持で訓示を垂れる先生とか、たまにある飲み会で赤い顔して経験に裏打ちされた人生論を語る先輩の顔とか、そういったふうな側面においてあらわれるものだっていっちゃったなら、これは少しニヒリスティックにすぎちゃうかなって気はするけれど。‥もちろん、人が他者によく思われたいってそういった類の欲求は、基盤においては社会を円滑にこなす仕組みの一翼を担ってるってことは疑えないことだけど、でも本書「火山」はそんな善性がかならずしもよい結果を招来しないこと、また人が善意のもとで悪を為しうることが危険として厳然とあるのに、それに目をつむる心の働きが隠然として人間にはあるということを、遠藤周作はもち前のキリスト教的モチーフを巧みにレトリックとして用いながら、表現してみせてるって、私は思う。この作は、ほかの遠藤の作品群と同様、堪える人にはすごく堪えちゃう作品かな。この作品の圧倒的な暗さ‥無縁でない人はたちどころに理解できる類の暗さ‥によって示される善意の刃物は、まちがいなくある読者の一群の心を、突き刺しちゃう。その意味で本書の与える読書体験は、いい難い一面が含まれることになるのかな。」
「物語は、小心翼翼として事なかれ主義を貫くよくある日本人の生き方の一典型である須田仁平と、遠藤の作品において何度か用いられる型の人間像である棄教した老神父のデュランの、二人の人物の人生の終焉をそれぞれ描写しながら進行するのよね。定年した須田は、生涯を賭けた火山研究の成果を出版する作業に取り組もうとするのだけれど、その矢先、病を発症して入院してしまう。だれかをつよく愛することもなく、家庭には無関心にただ仕事に務めてきた彼には、家族の者が自分に冷ややかな視線を投げかけているのには死の寸前まで気づくことはなかった。いや、死の寸前に気づいてしまったのが、須田という男の最大の不幸だったのでしょうね。須田が疎まれ、息子夫婦が彼の入院資金で愚痴をいっているのを立ち聞きしてしまうシーンは、たいていの人は目を背けたくなるのでないかしら。これに類似する場面に、この世間、事欠きはしないでしょうからね。」
「家族は諸悪の根源‥といったとて、何が解決するはずのものではないけれど、ね。‥平凡がいちばんの幸福とか、家族の愛情が最終的な拠り所となるとか、そういった言葉がもつ真実性を私はべつに疑うとこでないけれど、でもただ、世にあるどれだけの人が家族の悲惨さを、表立って語ることのできない苦渋さを胸に秘めてるかは、文学のほか、なかなか語れるものではないのでないかな。‥遠藤はこの作品で、ただ荒波立てないことを第一に専心して、とくに妻を愛するでもなければ、子どもを気にかけることもなくて、そしてそういった自分になんらの痛痒も感じなかった須田って男を描写してみせているけど、でもそういったまじめに人と向いあってこなかった人間はだめなのだー!って、そういった調子で須田が表現されてるわけでないことは、この作品を読むだれもが、察知するとこではあるのだよね。‥何を愛し、何からも愛されなかった人間が、だれからも真から悲しまれることなくて、死んでく。その事実に気づいたとき、須田は人生をやり直したいって絶叫するけど、その咆哮は、死の意識の途絶によって、無情に切り裂かれる。‥遠藤文学の全体において注目するなら、この須田って男は、べつに悪人ではぜんぜんなかったんだよね。かといってとりたてて善人でもなかったけど、でも地獄に責め苛まれるよな、悪業を犯した人間であるわけなかった。ただ何もしなかった人間だった。そして何もしない人間とは、私たちの大多数の人間の、現況でさえ、あるのだよね。ここに、この小説のぞっとする部分がある。怖ろしい、指摘がある。」
「何もしない、だれも愛さなかったことが罪‥というわけではないのでしょうね。罪や悪といった、大仰な言葉は須田のような、日本人的な生き方にはそぐわない。ここで問われているものは、もっとべつの側面のもの。和やかな激しさのない、何もトラブルがなければそれでいいといった、絶対的な価値観や信念において生きるのでなく、「空気」によってのんびりとした善意に即して生きることを尊ぶといった、日本人のしずかな小心さこそが、この小説の主題であったのかしれないかしらね。それは一欠けらの善意識、か。」
「そこでいわれる善も、激しい意味での善でないのだよね。悪を糾弾するとかいうのでなくて、ただ私はよい人って思われてたいな、くらいの意味での、善意。‥これは余談だけど、私は性善説と性悪説では、まったく性善説が正しいなって思ってる。でも結果としてあらわれる世界が、善でないだけかなって気がしてる。人は、その性質は、紛うことなく善なんだ。でも、だからこそ、その結果としての社会は、個人の生活は、幸福にならないのかもしれない。遠藤の中期の作品である本書は、その間の苦しみを、筆致によくあらわし出してる。その懊悩は、今でもこの書に燻りつづけてる。私はそれを、読後感として感じたかな。どうすることもできない悪の顕現として、善意は人を盲目にする。エゴイズムと善意は、だって、手を結ぶものであるのだから。」
「人に尽くそうとする際に、どこまでそこに自分の支配欲が善意に紛れこんであるか知れたものではない、か。ただ利口者は、そういった苦しみを見て、何もできない小心者の言い訳と見なすでしょうね。それは一面真実よ。みずから善意を行なえない者にはまちがいなく負い目は生まれる。しかしやみくもな善意は結果としての悪をさえ招来する。ま、善を為すとは何かとか悪を為すとは何かとか、そういった問題は面倒よね。深い疲労が感じられるだけではある、か。はてさてよ。」
『「学校はどげんか。成績は良うのうてもいいから人から後指をさされん人間になんなさい」
食事のたびごと、一合の酒を舐めながら一種の処世訓めいたものを息子にのべるのが病気前の彼の習慣だった。今は酒は禁じられているので仁平は箸を動かしながら二ヶ月前と同じように中学生に説教をしはじめた。しかし謙次郎は返事もせず茶碗を顔に押しあてて旺盛な食慾をみせているだけだった。
「なあ……人間たあ、平凡が一番、幸福じゃけんあ」
彼は誰に言うともなしに感慨ぶかく呟いてみせた。その時、彼はふとその次男の横で黙ってうつむいていた咲子が、不意にこちらに顔をあげたのに気がついた。瞬間ではあったがその嫁の頬に仁平を蔑むような冷笑が走り、唇が皮肉に歪むのを彼は認めた。』
遠藤周作「火山」
遠藤周作「火山」
「物語は、小心翼翼として事なかれ主義を貫くよくある日本人の生き方の一典型である須田仁平と、遠藤の作品において何度か用いられる型の人間像である棄教した老神父のデュランの、二人の人物の人生の終焉をそれぞれ描写しながら進行するのよね。定年した須田は、生涯を賭けた火山研究の成果を出版する作業に取り組もうとするのだけれど、その矢先、病を発症して入院してしまう。だれかをつよく愛することもなく、家庭には無関心にただ仕事に務めてきた彼には、家族の者が自分に冷ややかな視線を投げかけているのには死の寸前まで気づくことはなかった。いや、死の寸前に気づいてしまったのが、須田という男の最大の不幸だったのでしょうね。須田が疎まれ、息子夫婦が彼の入院資金で愚痴をいっているのを立ち聞きしてしまうシーンは、たいていの人は目を背けたくなるのでないかしら。これに類似する場面に、この世間、事欠きはしないでしょうからね。」
「家族は諸悪の根源‥といったとて、何が解決するはずのものではないけれど、ね。‥平凡がいちばんの幸福とか、家族の愛情が最終的な拠り所となるとか、そういった言葉がもつ真実性を私はべつに疑うとこでないけれど、でもただ、世にあるどれだけの人が家族の悲惨さを、表立って語ることのできない苦渋さを胸に秘めてるかは、文学のほか、なかなか語れるものではないのでないかな。‥遠藤はこの作品で、ただ荒波立てないことを第一に専心して、とくに妻を愛するでもなければ、子どもを気にかけることもなくて、そしてそういった自分になんらの痛痒も感じなかった須田って男を描写してみせているけど、でもそういったまじめに人と向いあってこなかった人間はだめなのだー!って、そういった調子で須田が表現されてるわけでないことは、この作品を読むだれもが、察知するとこではあるのだよね。‥何を愛し、何からも愛されなかった人間が、だれからも真から悲しまれることなくて、死んでく。その事実に気づいたとき、須田は人生をやり直したいって絶叫するけど、その咆哮は、死の意識の途絶によって、無情に切り裂かれる。‥遠藤文学の全体において注目するなら、この須田って男は、べつに悪人ではぜんぜんなかったんだよね。かといってとりたてて善人でもなかったけど、でも地獄に責め苛まれるよな、悪業を犯した人間であるわけなかった。ただ何もしなかった人間だった。そして何もしない人間とは、私たちの大多数の人間の、現況でさえ、あるのだよね。ここに、この小説のぞっとする部分がある。怖ろしい、指摘がある。」
「何もしない、だれも愛さなかったことが罪‥というわけではないのでしょうね。罪や悪といった、大仰な言葉は須田のような、日本人的な生き方にはそぐわない。ここで問われているものは、もっとべつの側面のもの。和やかな激しさのない、何もトラブルがなければそれでいいといった、絶対的な価値観や信念において生きるのでなく、「空気」によってのんびりとした善意に即して生きることを尊ぶといった、日本人のしずかな小心さこそが、この小説の主題であったのかしれないかしらね。それは一欠けらの善意識、か。」
「そこでいわれる善も、激しい意味での善でないのだよね。悪を糾弾するとかいうのでなくて、ただ私はよい人って思われてたいな、くらいの意味での、善意。‥これは余談だけど、私は性善説と性悪説では、まったく性善説が正しいなって思ってる。でも結果としてあらわれる世界が、善でないだけかなって気がしてる。人は、その性質は、紛うことなく善なんだ。でも、だからこそ、その結果としての社会は、個人の生活は、幸福にならないのかもしれない。遠藤の中期の作品である本書は、その間の苦しみを、筆致によくあらわし出してる。その懊悩は、今でもこの書に燻りつづけてる。私はそれを、読後感として感じたかな。どうすることもできない悪の顕現として、善意は人を盲目にする。エゴイズムと善意は、だって、手を結ぶものであるのだから。」
「人に尽くそうとする際に、どこまでそこに自分の支配欲が善意に紛れこんであるか知れたものではない、か。ただ利口者は、そういった苦しみを見て、何もできない小心者の言い訳と見なすでしょうね。それは一面真実よ。みずから善意を行なえない者にはまちがいなく負い目は生まれる。しかしやみくもな善意は結果としての悪をさえ招来する。ま、善を為すとは何かとか悪を為すとは何かとか、そういった問題は面倒よね。深い疲労が感じられるだけではある、か。はてさてよ。」
『「学校はどげんか。成績は良うのうてもいいから人から後指をさされん人間になんなさい」
食事のたびごと、一合の酒を舐めながら一種の処世訓めいたものを息子にのべるのが病気前の彼の習慣だった。今は酒は禁じられているので仁平は箸を動かしながら二ヶ月前と同じように中学生に説教をしはじめた。しかし謙次郎は返事もせず茶碗を顔に押しあてて旺盛な食慾をみせているだけだった。
「なあ……人間たあ、平凡が一番、幸福じゃけんあ」
彼は誰に言うともなしに感慨ぶかく呟いてみせた。その時、彼はふとその次男の横で黙ってうつむいていた咲子が、不意にこちらに顔をあげたのに気がついた。瞬間ではあったがその嫁の頬に仁平を蔑むような冷笑が走り、唇が皮肉に歪むのを彼は認めた。』
遠藤周作「火山」
遠藤周作「火山」
