東方儚月抄 第十六話「旧友の地図」
2008/11/09/Sun
「今回出てきた神さまは、天照大御神と天宇受売命、か。レミリアを破る段取りが天岩戸の故事にちなんで日神である天照を呼び寄せてるのはだれがみてもわかることだろからよろしとして、ここでちょっとふれておきたいのは天宇受売命のほうかな。天宇受売命はアメノウズメノミコトといって、岩戸にお隠れになった天照を招き出すために儀式を行なった神さまなのだけど、平安時代に成立したとされる神典「古語拾遺」では、この神さまの名前の「ウズメ」の由来を、「強悍く猛固くます」からと説明してて、ウズメの性質の本質は力による横暴や恐怖の支配に対して、笑いと和合の希望をもって克服するところにあるってしてる。だから宇受には巫女の身につけるかんざしの意が含まれてて、天宇受売命は女性的な笑いとつよさの神格化、その神聖は巫女の力の象徴たるものがあるのだよね。だから今回のお話で、恐怖と血と絶大な暴力の権化である吸血鬼のレミリアが、天宇受命の前には為す術なくやられちゃったのは道理に適ったことであって、ある意味、力を無差別にふるうしかない吸血鬼じゃどうしようもなかったかなって思っちゃう面もあるかもかな。天照を招き出せたのは、力でなくて、舞踏だったのだものね。」
「愉楽と柔和さによって現実の苦難に立ち向う神、か。それを考えれば理不尽さの代表のような永遠に幼い吸血鬼が敵うわけはなかったのでしょうね。天宇受命はここからもわかるとおり、武力ではどうしようもない局面を打破してきた特徴的な神であり、どんな猛々しい神相手にも交渉を可能としたその性質は、現実という苦しみに満ちた世界に対して一条の光明となるべし巫女の職務の本質を象徴するものとさえいえるのでしょう。巫女というのは不思議なものね。考えると、その役割というのはたしかにアメノウズメのようなものが期待されているとはいえるのかしら。」
『〈巫女〉とはなにか?
この問いにたいして、巫覡的な女性を意味するとこたえるのはおそらく本質をうがっていない。また巫覡的な能力と行事にたずさわるもののうち、女性をさすといってもこたえにはならない。
わたしのかんがえでは〈巫女〉は、共同幻想を自分の対なる幻想の対象にできるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が、巫女にとっては〈性〉的な対象なのだ。巫女にとって〈性〉行為の対象は、共同幻想が凝集された象徴物である。〈神〉でも〈ひと〉でも、〈狐〉とか〈犬〉のような動物でも、また〈仏像〉でも、ただ共同幻想の象徴という位相をもつかぎりは、巫女にとって〈性〉的な対象でありうるのだ。』
吉本隆明「共同幻想論」
「ここで「共同幻想論」をもち出しちゃうのはちょっと話の射程を伸ばしすぎかなって気がしないでないけど、ただ少し、アメノウズメノミコトについて思いを馳せたらそれはすなわち巫女という存在の行為の直截的な本質に結びつくものであるのかなって気がして、それを考えてみたい。‥東方において巫女の役割というのはけっこう基本に即したもので、それはとくに日本の神々を素材とした「風神録」以降、つよく感じられることかなって思う。諏訪子はお祭の本質を神と人がたわむれる「神遊び」にこそあるっていったけど、それは上記「共同幻想論」で吉本がいってることと微妙に接近する点があるのでないかな。もちろん「共同幻想論」の文章を解釈するってことはあまりに難易度が高いことではあるけれど、ここだけの引用に即して考えるなら、吉本はある集団内における幻想つまり「意味」を相手に性行為‥ここでいう性行為は実際的な肉体交渉ではもちろんなくて‥を行なえることが巫女の本質だって述べてて、それは人たちの共通したイマジネイションをたったひとりきりの地平において、接することができる能力がある人間ということ。東方ではこの性行為は弾幕遊びというふうにいい変えられてて、その内実としては本来の巫女の役割とそんなちがわないかなって気がする。ただ異なるのは、そう、幻想郷においてはそこで意味される現実は、つまり私たちの現実の稀薄になった意味性であるということ。だから霊夢が巫女として働くことは、「疎外されたあらゆる存在の象徴として」、機能することにあるのかもしれない。と思うと、少し辛気くさくなっちゃって、めんどかな、だけど。」
「煌びやかな月の巫女である依姫と、ま、いってはなんでしょうけど村落的であまり華やかには扱われてないだろう霊夢の、二人の巫女の対照は、なかなかおもしろい部分があるのかしらね。‥「風神録」でわかるとおり、幻想郷にいる神々はもはや共同幻想ではなくなった神々なのよね。それは即ち巫女を相手の対幻想としての存在でしか、いられなくなった神々ということかしら。そう考えると幻想郷入りするということは、なんとも歪な観念のようにも思えるけれど、ま、どうでもいいことではあるでしょう。楽しく弾幕やってくれてれば、べつによいでしょう。」
「愉楽と柔和さによって現実の苦難に立ち向う神、か。それを考えれば理不尽さの代表のような永遠に幼い吸血鬼が敵うわけはなかったのでしょうね。天宇受命はここからもわかるとおり、武力ではどうしようもない局面を打破してきた特徴的な神であり、どんな猛々しい神相手にも交渉を可能としたその性質は、現実という苦しみに満ちた世界に対して一条の光明となるべし巫女の職務の本質を象徴するものとさえいえるのでしょう。巫女というのは不思議なものね。考えると、その役割というのはたしかにアメノウズメのようなものが期待されているとはいえるのかしら。」
『〈巫女〉とはなにか?
この問いにたいして、巫覡的な女性を意味するとこたえるのはおそらく本質をうがっていない。また巫覡的な能力と行事にたずさわるもののうち、女性をさすといってもこたえにはならない。
わたしのかんがえでは〈巫女〉は、共同幻想を自分の対なる幻想の対象にできるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が、巫女にとっては〈性〉的な対象なのだ。巫女にとって〈性〉行為の対象は、共同幻想が凝集された象徴物である。〈神〉でも〈ひと〉でも、〈狐〉とか〈犬〉のような動物でも、また〈仏像〉でも、ただ共同幻想の象徴という位相をもつかぎりは、巫女にとって〈性〉的な対象でありうるのだ。』
吉本隆明「共同幻想論」
「ここで「共同幻想論」をもち出しちゃうのはちょっと話の射程を伸ばしすぎかなって気がしないでないけど、ただ少し、アメノウズメノミコトについて思いを馳せたらそれはすなわち巫女という存在の行為の直截的な本質に結びつくものであるのかなって気がして、それを考えてみたい。‥東方において巫女の役割というのはけっこう基本に即したもので、それはとくに日本の神々を素材とした「風神録」以降、つよく感じられることかなって思う。諏訪子はお祭の本質を神と人がたわむれる「神遊び」にこそあるっていったけど、それは上記「共同幻想論」で吉本がいってることと微妙に接近する点があるのでないかな。もちろん「共同幻想論」の文章を解釈するってことはあまりに難易度が高いことではあるけれど、ここだけの引用に即して考えるなら、吉本はある集団内における幻想つまり「意味」を相手に性行為‥ここでいう性行為は実際的な肉体交渉ではもちろんなくて‥を行なえることが巫女の本質だって述べてて、それは人たちの共通したイマジネイションをたったひとりきりの地平において、接することができる能力がある人間ということ。東方ではこの性行為は弾幕遊びというふうにいい変えられてて、その内実としては本来の巫女の役割とそんなちがわないかなって気がする。ただ異なるのは、そう、幻想郷においてはそこで意味される現実は、つまり私たちの現実の稀薄になった意味性であるということ。だから霊夢が巫女として働くことは、「疎外されたあらゆる存在の象徴として」、機能することにあるのかもしれない。と思うと、少し辛気くさくなっちゃって、めんどかな、だけど。」
「煌びやかな月の巫女である依姫と、ま、いってはなんでしょうけど村落的であまり華やかには扱われてないだろう霊夢の、二人の巫女の対照は、なかなかおもしろい部分があるのかしらね。‥「風神録」でわかるとおり、幻想郷にいる神々はもはや共同幻想ではなくなった神々なのよね。それは即ち巫女を相手の対幻想としての存在でしか、いられなくなった神々ということかしら。そう考えると幻想郷入りするということは、なんとも歪な観念のようにも思えるけれど、ま、どうでもいいことではあるでしょう。楽しく弾幕やってくれてれば、べつによいでしょう。」
