いえば当り前のことではあるけれど
2008/11/13/Thu
「おもしろいということは個人の主観に属すること。人気があるということは集約的な評価に属すること。人気がある作品が、イコール自分にとっておもしろい作品にならないということは当り前のことで、これが反対にならないのもまた自然なこと。だけれど往々にして人気があるからおもしろいはずだー!とか、この作品私とても好きなのになんで評価されてないのかーとか、そういった思いに人は囚われちゃうもので、でも人気があるっていうのは客観的な指標に基づき精査される事実であって、逆にいえばそれだけのことしか「人気がある」という評価にはついて回らない。そしてそのことに気づけたなら、他者の意見つまり人気に、自分の主観を従属させることが愚かであることには気づくよね。事実と主観は異なること。でもただ、それを見失わせちゃうのが世間の潮流であって、そして場の雰囲気、つまり空気であることはしかたないとは思うけど、かな。」
「ま、あえていうほどのことでは無論ぜんぜんないのでしょうがね。おもしろさというのは、どこまで行っても個人の枠内を脱け出ることはありえないということは、しかし意外と人の意識の盲点ではあるのでしょう。世間が人気があるだのこれはつまらないだの見る価値がないだのという言説を流布させるといっても、それに介在しなければ、ま、それは自分とは関係ない宇宙の果ての出来事であり、それに無理やり自分の考えを矯正することのほうがよほど不自然ではあるということかしら。ま、集団の和を尊ぶとかいった言説に幼少期から慣れ親しんでいれば、そうもいってられないでしょうがね。」
「でも自分の価値観を大切にする、それがほんとの意味での個性化でないかなとは思うかな。‥自分の主観的な評価を大切にするということは、転じてみれば他者の主観的な評価を許容するということでもあって、それはたぶん公平な議論への橋渡しとなる可能性がもてる。それに、何より楽しみというのは自分がまず尊重されてなくては、楽しめないことじゃないかなって、私は思うかな。自分の趣味をまず把握して、それをよく馴染ませる。それはあたかもサド侯爵が標榜したような、貴族的な趣味人の基本でさえあったのでないかなって、私は思う。あんまりほかの人の関心に、自分の興味を適合すべきでないのじゃないかな。それはいえば自分を殺すことの、ありがちな表現であるのだから。」
「個性化というとすぐ他者と異なった特徴だの才能だのに目が行くでしょうけど、基本は自分が何かをどう思うかということをありのままに発揮できるという部分にこそ、あらわされることではあるのでしょう。先生がいったとか、友だちがいったとか、評論家がいったとか、どこかのブログがエントリに書いてたとか、そういうことで自分の趣味を規定するのはつまらないことよ。百人がつまらないといっても自分ひとりが評価していれば、その趣味は趣味として成り立つのよ。それを孤独で嫌だというなら、ま、それは仕方ないことでしょうけど。孤独は究極的にはどうしようもないことよ。」
『「酔いたまえ」
常に酔っていなければならぬ。それがすべてだ、問題はそれしかない。君の肩を押しひしぎ、君を地べたにかがませる「時間」の恐るべき重荷を感じたくなかったら、休むひまなく酔い続けなければならぬ。
しかし、何に? 酒にでも、詩にでも美徳にでも、お好きなように。だがとにかく酔いたまえ。
そしてもしもときたま、宮殿の石段の上で、掘割の緑の草の上で、君の部屋の陰鬱な孤独の中で、君が目を覚まし、酔いがすでに薄れたり消えたりしていたら、訪ねるがいい、風に、波に、星に、鳥に、時計に、およそ移ろうもの、およそ呻くもの、およそめぐるもの、およそ歌うもの、およそ語るもののすべてに、訊ねるがいい、いまは何時かと。すると、風も、波も、星も、鳥も、時計も、君に答えるだろう、《いまは酔うべき時! 「時間」の奴隷として虐げられたくなかったら、酔いたまえ、絶えず酔いたまえ! 酒にでも、詩にでも美徳にでも、お好きなように》と。』
シャルル・ボードレール「パリの憂鬱」
「ま、あえていうほどのことでは無論ぜんぜんないのでしょうがね。おもしろさというのは、どこまで行っても個人の枠内を脱け出ることはありえないということは、しかし意外と人の意識の盲点ではあるのでしょう。世間が人気があるだのこれはつまらないだの見る価値がないだのという言説を流布させるといっても、それに介在しなければ、ま、それは自分とは関係ない宇宙の果ての出来事であり、それに無理やり自分の考えを矯正することのほうがよほど不自然ではあるということかしら。ま、集団の和を尊ぶとかいった言説に幼少期から慣れ親しんでいれば、そうもいってられないでしょうがね。」
「でも自分の価値観を大切にする、それがほんとの意味での個性化でないかなとは思うかな。‥自分の主観的な評価を大切にするということは、転じてみれば他者の主観的な評価を許容するということでもあって、それはたぶん公平な議論への橋渡しとなる可能性がもてる。それに、何より楽しみというのは自分がまず尊重されてなくては、楽しめないことじゃないかなって、私は思うかな。自分の趣味をまず把握して、それをよく馴染ませる。それはあたかもサド侯爵が標榜したような、貴族的な趣味人の基本でさえあったのでないかなって、私は思う。あんまりほかの人の関心に、自分の興味を適合すべきでないのじゃないかな。それはいえば自分を殺すことの、ありがちな表現であるのだから。」
「個性化というとすぐ他者と異なった特徴だの才能だのに目が行くでしょうけど、基本は自分が何かをどう思うかということをありのままに発揮できるという部分にこそ、あらわされることではあるのでしょう。先生がいったとか、友だちがいったとか、評論家がいったとか、どこかのブログがエントリに書いてたとか、そういうことで自分の趣味を規定するのはつまらないことよ。百人がつまらないといっても自分ひとりが評価していれば、その趣味は趣味として成り立つのよ。それを孤独で嫌だというなら、ま、それは仕方ないことでしょうけど。孤独は究極的にはどうしようもないことよ。」
『「酔いたまえ」
常に酔っていなければならぬ。それがすべてだ、問題はそれしかない。君の肩を押しひしぎ、君を地べたにかがませる「時間」の恐るべき重荷を感じたくなかったら、休むひまなく酔い続けなければならぬ。
しかし、何に? 酒にでも、詩にでも美徳にでも、お好きなように。だがとにかく酔いたまえ。
そしてもしもときたま、宮殿の石段の上で、掘割の緑の草の上で、君の部屋の陰鬱な孤独の中で、君が目を覚まし、酔いがすでに薄れたり消えたりしていたら、訪ねるがいい、風に、波に、星に、鳥に、時計に、およそ移ろうもの、およそ呻くもの、およそめぐるもの、およそ歌うもの、およそ語るもののすべてに、訊ねるがいい、いまは何時かと。すると、風も、波も、星も、鳥も、時計も、君に答えるだろう、《いまは酔うべき時! 「時間」の奴隷として虐げられたくなかったら、酔いたまえ、絶えず酔いたまえ! 酒にでも、詩にでも美徳にでも、お好きなように》と。』
シャルル・ボードレール「パリの憂鬱」
